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受験生注目!? 「入試」関係 (2008/3/1更新)

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 政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。

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受験生注目!? 「入試」関係(2007年まで)

○「かつての自分」と「今の自分」と「将来の自分」(2008/3/1)

 受験シーズンもそろそろ終わりです。
 
 第一志望の学校に合格することができた受験生の皆さん、おめでとうございます。勉強ばかりの退屈で単調な毎日を送っていた「かつての自分」を今ならば懐かしく思い出すことができるのかもしれません。また合格した今は「将来の自分」が別の新しい夢を実現することを簡単にイメージできるようになっているのかもしれません。でも、せっかく憧れの学校に入学することができたとしても、おそらくまた新しい単調な毎日が始まるだけなのかもしれません。もしそうだったとしてもあまりガッカリしないでください。生きるということは基本的には単調な毎日を繰り返していくことではないかと思います。もちろん単調な毎日の中にも様々な事件があるわけですが…。
 
 一方、残念ながら第一志望の学校に合格することができなかった受験生の皆さん、こんなときだからこそ、「何のために勉強するのか」ということをあえて考えてみるといいのではないかと思います。合格することができなかった今になってみると、「かつての自分」が送っていた勉強ばかりの退屈で単調な毎日は全く無意味な日々に思えるのかもしれません。でも、決してそんなことはないはずです。
 
「知識と知識の間をつなぐもの」
 
 いくらたくさんの「知識」を暗記して入試を突破したとしても、「知識と知識の間をつなぐもの」を見落としたままでは費やした時間の多くは結局は無駄になってしまうと思います。確かに「知識」は重要です。でも、「知識」だけでは足りません。そして「知識」は使わなければ忘れていきますが、「知識と知識の間をつなぐもの」は「知識」よりもずっと長持ちします。やはり「知識と知識の間をつなぐもの」は重要です(→参考:http://www.jchiba.net/message/0711-sch2.htm(「インド式」と「日本式」をつなぐもの))。
 
 「何のために勉強するのか」ということをあえて考えてみれば、「かつての自分」が単調な毎日の中で「知識と知識の間をつなぐもの」をいかに多く積み重ねてきたのかということに気づくのではないかと思います。
 
 「(前略)…ちょうど波が寄せてはかえす接線ぎりぎりの位置に、砂で作られた、緻密な構造を持つその城はある。ときに波は、深く掌を伸ばして城壁の足元に達し、石組みを模した砂粒を奪い去る。吹きつける海風は、城の望楼の表面の乾いた砂を、薄く、しかし絶え間なく削り取っていく。ところが奇妙なことに、時間が経過しても城は姿を変えてはいない。同じ形を保ったままじっとそこにある。いや、正確にいえば、姿を変えていないように見えるだけなのだ。 砂の城がその形を保っていることには理由がある。眼には見えない小さな海の精霊たちが、たゆまずそして休むことなく、削れた壁に新しい砂を積み、開いた穴を埋め、崩れた場所を直しているのである。それだけではない。海の精霊たちは、むしろ波や風の先回りをして、壊れそうな場所をあえて壊し、修復と補強を率先して行っている。それゆえに、数時間後、砂の城は同じ形を保ったままそこにある。おそらく何日かあとでもなお城はここに存在していることだろう。 しかし、重要なことがある。今、この城の内部には、数日前、同じ城を形作っていた砂粒はたった一つとして留まっていないという事実である。かつてそこに積まれていた砂粒はすべて波と風が奪い去って海と地にもどし、現在、この城を形作っている砂粒は新たにここに盛られたものである。つまり砂粒はすっかり入れ替わっている。そして砂粒の流れは今も動き続けている。にもかかわらず楼閣は確かに存在している。つまり、ここにあるのは実体としての城ではなく、流れが作り出した『効果』としてそこにあるように見えているだけの動的な何かなのだ…(後略)」(p152-153)
 「むろん、これは比喩である。しかし、砂粒を、自然界を大循環する水素、炭素、酸素、窒素などの主要元素と読みかえさえすれば、そして海の精霊を、生体反応をつかさどる酵素や基質に置き換えさえすれば、砂の城は生命というもののありようを正確に記述していることになる。生命とは要素が集合してできた構成物ではなく、要素の流れがもたらすところの効果なのである…(後略)」(p154)
(以上、福岡伸一著、「生物と無生物のあいだ」、講談社現代新書1891、2007年から)
 
 分子・原子レベルで考えても、生きるということは基本的には単調な毎日を繰り返していくことなのかもしれません。ちなみに「生物と無生物のあいだ」には「ピンクのサンゴの微粒子」の比喩(p155-156参照)も出てきます。実は生物が死ぬと「砂粒」の流れが止まり、「同位体」である「ピンクのサンゴの微粒子」だけが壊れて減っていくことを利用するのが考古学で使われている「炭素14年代測定法」なのです。そういうことにも興味を持ってもらえれば「知識と知識の間をつなぐもの」が重要だということをよりよく実感してもらえるようになるのかもしれません。
 
 生きるということはそれぞれの人たちがそれぞれの人たち自身の道を歩いていくようなものなのかもしれないと思います。そして「文化」や「人類共通の知的資産」などというものはそれぞれの人たちが確かな道を歩いていくために必要なものだと思います(→参考:http://www.jchiba.net/message/061130-1.htm(「確かな道」))。
 
自分と誰かを結び付けるための「道具」
 
 自分が全く知らないところで「誰か」が自分のためになることをやってくれているようなこともあります。もちろん「誰か」が自分のためになることをわざわざ考えてやってくれていることもあります。でも、「誰か」の単調な毎日の積み重ねの成果がたまたま全く無関係の別の「誰か」のためになっているようなこともあります(→参考:http://www.jchiba.net/message/070125-1.htm(柿本人麻呂の「東(ひんがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」と天文学との結び付きの例)など)。
 
 「文化」や「人類共通の知的資産」などというものは、自分と「誰か」を時間や空間を超えて結び付けるための「道具」になるのではないかと筆者は考えています。「何のために勉強するのか」ということの答えの一つがここにあると思います。そして「文化」などの存在を意識すれば、「誰か」が自分のためになることをしてくれた「お返し」のために、とりあえず「今の自分」も単調な毎日を積み重ねていくなどと考えてみてもいいのではないかと思います。
 
▽平田オリザ編著、「16歳 親と子のあいだには」(ISBN 978-4-00-500567-3)、岩波ジュニア新書567、2007年。
▽立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ共著、「二十歳のころ T(1937−1958)」(ISBN 978-4-270-10154-4)、「二十歳のころ U(1960−2001)」(ISBN 978-4-270-10155-1)、ランダムハウス講談社文庫(た3-1、た3-2)、2008年。

 
 当たり前と言えば当たり前の話ですが、小学生や中学生にとっては「16歳の自分」も「20歳の自分」も共に「将来の自分」です。そして高校生や浪人生などにとっても「20歳の自分」は「将来の自分」です。様々な人たちが「今の自分」から「かつての自分」を振り返っている文章を読みながら「将来の自分」を考えてみれば、「今の自分」の単調な毎日の積み重ねの意味が見えやすくなるかもしれないと思います。もしかすると「今の自分」の単調な毎日の積み重ねが予想外の形でどこかの「誰か」の役に立つこともあるのかもしれません。
 
「何のために勉強するのか」
 
 さて、そういう「偉そうなことを書いているお前はいったいどうだったんだ?」などという声がそろそろ聞こえてきそうです。何かの参考にするようなこともほぼできないかもしれないとても変わった事例ですが、最後に筆者の場合についても簡単に触れておくことにします。
 
 一昔前の地方都市出身の筆者には「中学受験」の経験はありません。また当時は「中学受験」をするような同級生もあまりいませんでした。
 
 公立中学校から公立高校に進学するときには入学試験を受験して第一志望の高校に合格しました。15歳の中3当時はそこそこの精神的な負担を感じていました。でも、大した苦労をしたわけでもなければそれほど競争が激しかったわけでもない「とても楽な入試」でした。
 
 大学受験はややこしくて長い道のりでした。「理系」から「文系兼理系」に転換し、さらに「理系兼文系」から再び「理系」に戻るというような多くの人たちとは違った長く複雑な軌跡を辿り、「20歳のころ」を通り抜けながら、結局は第一志望ではない大学に入学しました。
 
 そして今現在は卒業した大学・学部で勉強したこととはほとんど無関係なことをやっていますし、今後もますます無関係なことをやり続けていくつもりです。要するに、筆者にとっての「学歴」というものはその程度のものにすぎないのです。今から振り返ってみれば、筆者の少年時代は「何のために勉強するのか」などということをときどき考えながら過ごした退屈で単調な毎日だったのかもしれません。
 
 今現在、まさに少年・少女時代を過ごしている皆さんは、もうすぐ「古い単調な毎日」が終わり、また「新しい単調な毎日」が始まることになるのでしょう。皆さんは「何のために勉強するのか」ということがどのくらい気になっているのでしょうか? 

 以上。

                              千葉 潤


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