政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。
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「ねじれ」とは何か
「ねじれ国会」とか「国会のねじれ現象」などという言葉がすっかり定着してきた。衆議院では与党の自民党・公明党が圧倒的多数を占めるが、参議院では民主党が第1党になって与党側が過半数割れしているなどという「2007年参院選後の国会の状況」が「ねじれ」という言葉で表現されている。ちなみに「衆参の第1党が違うから『ねじれ』なのだろう」などという程度で思考停止せず、「ねじれ」という言葉についてさらに一歩踏み込んで考えていくと様々なことが見えてくるのである。
さて、話はほんの少し変わる。今年も受験シーズンがやってきた。この文章でも「受験」を少し意識した説明をしてみることにする。多くの賢明な読者は中学校の数学で「ねじれの位置」というものが出てきたことをまだきっと覚えていることだろう。
当たり前と言えば当たり前の話だが、同一平面上にある2つの直線は交わるか平行かのどちらかしかない。ところが空間の中で直線の位置関係を考えると、2つの直線が平行ではないのに交わらない場合がある。言い換えれば、2直線が同じ平面の上にないから平行でなくても交わらないのである。このとき2直線は「ねじれの位置」にあると言う。
もしも「ねじれの位置」が上手く実感できないのならば、ページをめくることができるノートや手帳などを用意するといいと思う。(1)まずノートや手帳をめくって1ページ目を開き、ページがちょうど半分になるように直線を上から下へと縦に引いてみる。(2)そしてそのまま普通にページを何枚かめくっていってどこか後ろの方のページを開き、そこで今度は左から右へとページがちょうど半分になるように横に直線を引いてみる。(3)それぞれの直線を引いた後にノートや手帳を閉じた状態にすれば、同じページ内ならば「+」になって交わるはずの2直線が別々のページ(→別々の平面)にあるので、2直線は「ねじれの位置」にあることになる。
ちなみに1ページ目で2つの等しい長方形をつくってちょうどページが半分になるように上から下へと縦に垂直に直線を引いてから、そのまま普通にページをめくっていって、後ろの方のページでも同じように2つの等しい長方形をつくるように上から下へと縦に垂直に直線を引き、ノートや手帳を閉じれば今度は2直線は「平行」になる。ここであえて注目しなければならないのは2直線が「平行」ならばそれらの2直線を共に含む「新しい平面」を考えることができるということである。ノートや手帳で考えた場合には、上から下へと縦に引いた直線でノートを半分に切ってみると2つの直線は共にその切り口の平面上にあるということになるわけである。
ここまでで話が終わるのならば「ねじれ」という言葉についての単なる「うんちく」になってしまうが、実はここからが本題なのである。
「立憲主義」は「ねじれ」をつくり出す「道具」
「(前略)…人間らしい生活を送るためには、各自が大切だと思う価値観・世界観の相違にもかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そうした枠組みが必要である。立憲主義は、こうした社会生活の枠組みとして、近代のヨーロッパに生れた。 そのために立憲主義がまず用意する手立ては、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域とに区分することである。私的な生活領域では、各自がそれぞれの信奉する価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される。他方、公的な領域では、そうした考え方の違いにかかわらず、社会のすべてのメンバーに共通する利益を発見し、それを実現する方途を冷静に話し合い、決定することが必要となる…(後略)」(長谷部恭男著、「憲法とは何か」、岩波新書(新赤版1002)、2006年4月、p9-10から)
「(前略)…長谷部 たとえば、宗教は、それを信じる人にとっては、とてもとても大事なものですね。人生の意味を与えてくれるし、なぜこの宇宙が存在するのかも教えてくれる。だから自分にとって大事な宗教は、きっと他の人にとっても正しい宗教のはずだ……。そうやって、自分の正しいと思う宗教をあらゆる人に押し広めたくなるのが人の自然の情というものです。ところが、宗教は、ただ一つではないですから、異なる宗教を奉ずる人の間で『一体何が正しい宗教か』をめぐって、血みどろの争いが始まってしまいます。 それを防ぐには、あえて人の自然な情に反してでも、人の生活領域を公的な部分と私的な部分に分けなくてはいけません。私的な場では、各自が『これが正しい』と信じるものに従って自由に生きる権利が保障されなくてはいけない。これに対して、公的な領域は、どんな価値観、世界観の持ち主でも、すべての人びとに共通する社会全体の利益、つまり公益の実現について考え、決める場です。そこに自分が信じる私的な価値観や世界観をそのまま『直輸入』すると、困ったことになりますので、そういうものは私的な領域に置いといてもらって、公の場に出てきた以上は、だれもが納得いく議論を展開してもらう必要があると思います…(後略)」(長谷部恭男・杉田敦共著、「これが憲法だ!」、朝日新書014(朝日新聞社)、2006年11月、p14-15から)
昨年の今頃に公開した「立憲主義」(2007/2/6号(http://www.jchiba.net/message/070206-1.htm))も「ねじれ」をつくり出すための「道具」と考えることができる。多少の誤解を恐れずに言うならば「公的領域」では許されないものを「私的領域」の中に「ねじれ」という形で共存させるための「仕組み」を支えているのが立憲主義という考え方である。そして「公的領域」と「私的領域」の具体的な境界線は憲法や法律などによって決まるのである。
先程のノートや手帳を例にして説明すれば、「公的領域」はノートや手帳の表紙とバインダー(留具)の部分に相当し、「私的領域」はノートや手帳のそれぞれのページに相当する。そして他者の人権の尊重や公共の福祉などのような「公的領域」に属するものについては「ねじれ」は一切認められない。一方、各個人の内面の精神的な部分のような「私的領域」については、「公的領域」にはみ出さない限り、いくらでも「ねじれ」は許されるのである。
ノートや手帳の例を使ってもう少し分かりやすく説明することにする。例えば、どんな本やどんな映画が好きかとか、お菓子が好きか嫌いかなどといったようなことは完全に「私的領域」の話だから、各個人がそれぞれのページの中で自由に線を引いた場合でも全く何の問題にもならない。「私的領域」については、例えば、バインダーで留められなくなるから、そこに線を引いてはいけないなどと言われることはないのである。しかし、これとは正反対に、一見、「私的領域」のように見えるかもしれない家庭内や組織内でも「児童虐待」や「ドメスティックバイオレンス(DV)」、「セクハラ」、「パワハラ」などの人権を侵害するようなものについては、たとえそれぞれのページの中であっても「公的領域」のバインダーで上手く留めることができなくなるから自由に線を引くようなことは許されないのである。
もちろん立憲主義に基づいた「仕組み」や「制度」を利用しなくても、「公的領域」と「私的領域」を区別し、「公的領域」では一切認められない「ねじれ」を「私的領域」の中で認めるようなことは不可能ではない。名君や賢帝の良い統治とか、一人ひとりの個人の良識や意識にゆだねてもそういうことが全く実現できないわけではない。だが、制度をつくった方が「公的領域」には一切認めない「ねじれ」を「私的領域」の中ではしっかりと認めていくというような不安定な状態を長期間に渡って安定的に維持していくことができるのである。そしてそうした制度を発展させてきたのが人類の歴史の自然な流れである。
個人の「私的領域」の話だから例としては必ずしも適切ではないが、例えば、「ダイエット」でも「トレーニング」でも、あるいは「勉強」でも、最初にどんなに固く決意したとしても、時間が経つにつれてその決意が薄らいでくることもある。もちろん途中で挫折しないようにするために「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」などの「精神論」で乗り切ることも全く不可能な話ではない。だが、やはり、たとえ最初の決意が薄らいだとしても変わらずに努力を継続していくことができるようにするための「仕組み」や「制度」をつくった方が目的を達成できる可能性が高くなるだろう。
世の中には様々な人たちがいる。周囲から何と言われようとも自らの野望を達成するためならば主張も人格も容貌も「出世魚」のようにコロコロと変えていくことができる人間たちもいる。逆に周囲から何かを言われる前から周囲を気にして最初から自分の理想を諦めてしまう人たちもいる。あるいは、どんなに環境が劇的に変化しても、自分らしさを全く変えずに守り続けることができる芯の強い人たちもいる。
努力を継続することができるようにするための単なる「精神論」とは別物の「仕組み」や「制度」をつくることができれば確実に時間を味方にすることができるようになる。昨日よりも今日、今日よりも明日の方が確実に目標に近づくことになる。もしも最初の決意を忘れてしまいそうになっても、決意から生み出された「仕組み」や「制度」を見れば最初の決意が蘇ってくるのかもしれない。そういう時間を味方にした「仕組み」や「制度」をつくっておけば、単なる「精神論」とは別物の「臥薪嘗胆」ができるだろう。
そしてさらに言えば、そうした時間を味方にした「環境」をつくる過程と密接に関連しているのが政治なのである。
政治とは「芸」でもある
筆者は以前(2007/9/16号(http://www.jchiba.net/message/070916-4.htm))、政治をあえて漢字二文字で表現しなければならないとすれば「政治とは『環境』である」と書いたことがある。立憲主義と関連付けて補足説明をするならば、政治とは、「ねじれ」が許されるものと許されないものとを上手く同居させるための「環境」であるということになるのかもしれない。そしてさらに言うならば、政治とはそういう「環境」を創造するための「芸」でもあると筆者は考えている。
あくまでも念のために言っておくが、「芸」とは何が面白いのかもよく分からない「三流のお笑い」などとは似ても似つかないものである。ここで筆者が言っている「芸」とは、種も仕掛けもない「職人芸」のような本物の「芸」のことを意味している。「芸」を英語で言えば「art」(=the
ability or skill involved in doing or making something(ロングマン現代アメリカ英語辞典より))ということになるのかもしれない。
「抑モ政治ナル者ハ術(アート)ナリ、学(サイエンス)ニアラズ。故ニ政治ヲ行フノ人ニ巧拙(スキール)ノ別アリ。巧ミニ政治ヲ行ヒ、巧ミニ人心ヲ収攬スルハ、即チ、実学実才アリテ広ク世勢ニ練熟スル人ニ存シ、決シテ白面書生机上ノ談ノ比ニアラザルベシ。亦タ立憲政治ハ専制政治ノ如ク簡易ナル能ハズ…(後略)」(陸奥宗光。出典:明治22年3月2日、井上馨宛の手紙(国立国会図書館所蔵)。NHK「その時歴史が動いた」(「第71回 不平等条約を改正せよ 〜陸奥宗光〜」、2001/10/10放送)のホームページ(http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2001_10.html)から引用)。
ちなみにかつて「芸」には種も仕掛けもなくてそこが「見世物」との大きな違いだと言った有名な歌舞伎役者がいたらしい。やはり本物の「芸」というものは「見世物」とは似て非なるものなのだろう。
多少の誤解を恐れずに言えば、「芸」というものは「つくる側」と「伝える側」と「受け取る側」が上手く一本の線で結ばれたときに初めて生み出されるものではないかと筆者は考えている。例えば、いくら「つくる側」に「芸」があったとしても「伝える側」が「芸」を伝えなければ「受け取る側」には伝わらない。また「伝える側」が「受け取る側」に「芸」を伝えたとしても「受け取る側」の準備が整っていなければ「芸」として認識されることはない。そしていくら「伝える側」が「芸」を伝えたいと思っていたとしても「つくる側」に伝えるべき「芸」がなければどうすることもできないのである。またいくら「受け取る側」が「芸」を見たいと思っても最初から「芸」がなかったり途中で止まったりして伝わってこなければどうすることもできない場合も多いのである。そのように考えていくと、やはり「芸」というものは「つくる側」と「伝える側」と「受け取る側」が上手く一本の線で結ばれたときに初めて生み出されるものなのではないかと考えられるのである。
永田町周辺では勘違いした「劇場政治」と「頭脳崩壊」が続いている。筆者の言う勘違いした「劇場政治」とは、「猿芝居」も満足にできないような「大根役者」たちが繰り広げる「得体の知れない見世物」のことである。そして筆者の言う「頭脳崩壊」とは、「見世物」と「芸」を区別できない人間たちが「得体の知れない見世物」をチヤホヤするような状態のことを意味している。
もしかすると本物の「芸」を心から見せたいと思うような相手に今までにただの一度も出会わなかった人間たちにとっては本物の「芸」というものがどういうものなのかを想像することも難しいのかもしれない。あるいは国民や読者や視聴者を「票やカネを引き出すための存在」としか考えられない人間たちにとっては国民や読者や視聴者に「得体の知れない見世物」を見せるのはむしろ当然のことだと思っているのかもしれない。今現在は永田町周辺の政治家たちの中には「芸のある役者」がほとんどいないし、永田町周辺の記者たちの中には「芸の分かる人間」が非常に少ないのである。残念ながらまだしばらくの間は勘違いした「劇場政治」と「頭脳崩壊」がどうしても続くことになってしまうのだろう。
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