政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。
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<民主主義を維持管理するのは誰か>
「(前略)…国正 宮澤さんは、『権力の行使はあくまで慎重に行うべきだ』という、権力そのものへの懐疑的な見方をお持ちだと思います。 宮澤 選挙も権力行使の行為ですが、『選挙に勝たなくてはいけない』と言って、そのために徹底的に権力を行使するのは、権力を行使する側の心構えとして私は感心しません。 国正 宮澤さんは以前、私のインタビューに答えて、こうもおっしゃっています。『幸いにして戦争とか大きな飢餓がないから、国民の欲望はだんだんわがままに、ぜいたくになってきた。そういう中での指導者というのは、きっと白馬に乗って『進め』『進め』という騎士みたいな姿ではありえないんでしょうね。私はよくタンカーの船長だなんて言ってましたけど、極端に言えば、山手線が毎日ちゃんと動いている限り、誰が運転していたって構わないわけですよ、乗客にとっては』(九三年八月一三日、細川護煕首相の所信表明演説の直後)。小泉(筆者注:純一郎前首相)さんの行き方は、これとはまったく逆ですよね。 宮澤 小泉さんにしてみれば、私の言ってることがあまりに暢気すぎるのかもしれません。政治の頂点にあって、『内外に危機はたくさんある。一刻もゆるがせにできない』と考えておられるのかもしれない。しかし私自身は、デモクラシーが円熟してくると、『山手線の運転士が誰であっても構わない。要はきちんと仕事をすることが大切なのだ』という状態になっていくのが大事なことではないかと思います…(後略)」(〈インタビュー〉熱狂の上に民主主義は成り立たない 宮澤喜一、聞き手=国正武重、「世界」2006年2月号、p42から)
宮沢元首相の「タンカーの船長」とか「山手線の運転士」という指導者の例えも筆者は実に興味深いと思っている。「山手線」や「地下鉄」などに限らず、「交通網」が発達して複雑になってくると、移動手段が「徒歩」や「馬」や「人力車」ぐらいしかなかった時代には誰にでもハッキリと見えていた様々な重要なことが見えにくくなってしまうのかもしれない。その見えにくくなることの中で最も大事なものの一つが維持管理の部分である。
「徒歩」や「馬」や「人力車」の場合には長く歩けば必ずくたびれるし、急に体調が悪くなったりけがをしたりして普段通りには歩けなくなることもある。きょう一日かなり無理をすれば、あした以降は全く動けなくなってしまうようなこともあるかもしれない。ところがほとんどの乗客はどんなときでも「山手線」や「地下鉄」などが正常に運転されているのが当たり前だとついつい思い込んでしまうのである。だが、「徒歩」や「馬」や「人力車」などと同じように、高度で複雑になった「山手線」などもやはり維持管理が必要不可欠であるということは全く何も変わっていないのである。大昔には誰の目にもハッキリと見えていたものでも、長い時間が経過して「交通網」が発達して複雑になってくると大事なことも見えにくくなってしまうのかもしれない。
実は民主主義も基本的には「交通網」と同じである。大昔ならば何百年に一人登場するかしないかというような「聖人君子」や「賢帝」でなければ「乗客」に大きな不安を与えない「立派な運転士」にはなれなかったのかもしれない。だが、今では「技術」が発達したおかげで「それほど優秀ではない人物」でも「乗客」に大きな不安を与えずに「運転士」を務めることができるようになっている。そういう意味では確かに「山手線」などが正常に運転されているのは当たり前になっている。だが、同じように民主主義社会の様々な制度も導入されてからそれなりに長い時間が経過して発達して複雑になってくると、何のために何をやっているのかということすらも分かりにくくなってしまうのかもしれない。だからこそ民主主義や民主主義社会の諸制度はそもそも何のためにあるのかなどという「原点」を様々な機会を利用して改めて確認することがとても重要になってくるのである。
確かに民主主義社会の諸制度の維持管理を日常的に行う責任があるのは公務員である。だが、民主主義を最終的に維持管理する責任があるのは、民主主義社会を構成する一人ひとりであるということを絶対に忘れてはならないはずである。たとえ制度が問題なく機能しているように見える場合であっても危機が分かりにくい形ですぐそこにまで迫ってきているようなこともあるのである。たとえ「生活」には全く何の支障もなかったとしても、様々な形である日突然危機がやってくることもあるはずである。「空気」の中の「酸素」の量は努力して知ろうとしなければなかなか分からないのである。だからこそ今あえて民主主義や政治といったものの「原点」を見つめ直す必要があると筆者は考えている。
<「日常生活」の具体例>
民主主義の「原点」を見つめ直すためには普通の社会人にとっての「日常生活」を具体例に用いて考えてみると分かりやすくなるかもしれない。例えば、料理や洗濯や掃除などの家事を例にして考えてみることにする。当たり前と言えば当たり前の話だが、日常生活が滞りなく送ることができるようなときには、たとえどんなに目立たなかったとしても料理や洗濯や掃除などをやっている人たちが必ずいるのである。言うまでもなく「ラーララッラー! ラーララッラー!」などと鼻歌を歌いながらテーブルや机をドンドンとたたいているだけでは、おいしい料理が出てきたり、脱ぎっぱなしの洗濯物がきれいに洗濯されてアイロンもかけられた上にたたまれて出てきたり、家中がピカピカに掃除されたりするようなことがあるわけがないのである。だから誰かが料理や洗濯や掃除をしてくれないのならば自分で何とかするしかないのである。そして料理や洗濯や掃除が大きな負担になっていたとしても財布の中身などと相談しながら自分自身で工夫して楽に済ます方法を考えるしかないのである。これらはすべて最低限の常識を持っている普通の社会人にとっては当たり前すぎるくらい当たり前の話である。
もちろん料理がまずいときにまずいと言うことは基本的に自由だし、「まずい料理」を食べないこともその人の自由である。だが、どのタイミングで「ちゃぶ台」やテーブルをひっくり返したら料理のまずさを多くの人たちにアピールすることができるかなどと考えたり、あるいは、カメラの前でどんな表情でテーブルをたたくと格好良く見えるかなどということばかりを気にしていても「おいしい料理」が早く出てくるようになるわけではないはずである。
また実際に料理をひっくり返そうと思うときには、ひっくり返した後のその日の食事をどうするのかということも考えなくてはならないはずである。特に家族がいる場合にはその日の食事をどうするかということを考えないわけにはいかなくなるはずである。「まずい料理」をひっくり返す場合には「対案」が必要になってくるのである。1食や2食くらいなら空腹を我慢していればなんとかごまかせるのかもしれないが、1週間も2週間もテーブルをドンドンとたたき続けながら「おいしい料理」が出てくるのを待っていられる人たちはまずいないことだろう。そのことは「対案」として「おいしそうな料理の写真」や「レシピ」を用意しても全く何も変わらないはずである。もしもすぐに「対案」の食事を用意することができないのならば、とりあえずその準備ができるまでは「まずい料理」で我慢するなどという妥協案も考えなくてはいけないはずである。
確かにまだ誰も気づいていなかったときから「どれだけ料理がまずいか」や「どうしてそこまで料理がまずくなるのか」や「あまりにもひどい食費の無駄遣いや流用の実態」などをたった一人で追及してきたような評論家がいるのならば、その評論家は確かに立派な評論家ではあるのだろう。だが、その追及の実績とその評論家が実際に「おいしい料理」をつくれるかどうかということは基本的には全く別の話であるはずである。
また確かに「いかにも料理人というタイプの料理人」ばかりだった一昔前には、「若い料理人」や「女性料理人」や「テレビによく出ている料理人」というだけで世の中からチヤホヤされたのかもしれない。ところが「若い料理人」や「女性料理人」や「テレビによく出ている料理人」ならいくらでもいるという状況になってくると、ただ若いだけ、ただ女性であるだけ、ただテレビに出ているだけでは全くチヤホヤされなくなってしまうのである。これは、ある場所の近所に「その店」しかなかった頃は「まずい料理」を出していてもなんとかやっていけたが、近所に「評判の良い店」ができてからは客が全く来なくなったなどという話と基本的には同じことである。そしてもちろん言うまでもなく「評判の良い店」の評判が地に堕ちるようなスキャンダルなどをいくつか暴露すれば「その店」に以前のように客が戻ってくるとは限らないのである。
あまり良い例ではないが、あえて料理が安全ではない場合を考えてみることにする。何らかの原因できょうの夕食の料理に「毒」が入っている可能性が高いと分かったときには、「まずい料理」の場合とは全く違ってとにかくその料理を食べてはいけないということになるのだろう。だが、毎日朝食で食べ続けている料理の中に「もっと強力な毒」が入っているかもしれないと分かっているのに、きょうの夕食の料理は食べるのをやめたが、明日の朝はまたいつもと同じように「もっと強力な毒」が入っているかもしれない料理を食べるというのは明らかにおかしな行動ということになる。
だいたいもしも本気で「おいしい料理」が食べたいのならば自分自身でもできることがたくさんあるはずである。そして自分でできることを考えてどんどん実行していった方が「おいしい料理」にありつける可能性が高くなるはずである。高級食材がなければ絶対に「おいしい料理」をつくることができないというわけでもないだろう。食材が不足していてもありあわせのものだけでなんとか工夫して「おいしい料理」をつくることも不可能ではないのだろう。場合によっては「料理人」の腕があまりにも悪くて自分で料理した方がましということもあるのかもしれない。いずれにしても「おいしい料理」に早くありつくためには、思いついたアイディアを片っぱしから試してみた方がいいはずである。そして自分でできることをすべてやった後になっても、いいかげんな人間たちに文句を言ったり辞めさせたり告発したりすることはいくらでもできるはずである。これらのことも普通の社会人にとっては当たり前すぎるくらい当たり前のことである。
さらに言えば、いつまでも「きょうの夕食」のことばかりを考えていられるわけがないのである。ほとんどの人たちは「あすの朝食」のことも「あさっての夕食」のことも考えなければならないし、それらの食材を買うカネをどうするかということも考えなければならないはずである。洗濯もしなければいけないし、掃除もしなければいけない。そしてあすもまた仕事に行かなければいけないのかもしれない。いつまでも「きょうの夕食」のことばかりを考えてはいられないということも普通の社会人にとっては当たり前すぎるくらい当たり前のことである。
<「主人公」と「王様」の区別>
民主主義国家では一人ひとりの国民が「主人公」ではあることは間違いない。だが、一人ひとりの国民は間違っても「王様」ではないのである。「主人公」と「王様」とでは大違いである。「主人公」と「王様」の区別もできないような致命的な勘違いをした人間たちが民主主義を最低最悪の「お任せ民主主義」にまで堕落させていくのではないかと筆者は考えている。くどいようだが、民主主義を最終的に維持管理する責任があるのは、民主主義社会を構成する一人ひとりである。
たとえ平和な民主主義国家であっても、自分の生命の安全が脅かされた場合には自分で自分の身を守らなければいけない場面が出てくるかもしれないのである。もちろん国も一人ひとりの安全を保障しようと努力はするだろうが、やはり国の保障は完璧ではないはずである。だから場合によっては自分で自分の身を守らなければいけない場面も出てくるかもしれないのである。
確かに平和な民主主義国家では生命の危険を感じるようなことはそれほど多くはないのかもしれない。だが、自分が大切にしている人たちや自分が大切にしている様々な物事を他人にメチャクチャにされようとしているような場合には、自分が大切にしている人たちや自分が大切にしている様々な物事を守るために民主主義国家のルールの枠内でおかしな人間たちや勘違いした集団と命懸けで戦わなくてはならないことは残念ながら少なくはないのかもしれない。このことは普通の社会人にとっては当たり前すぎるくらい当たり前のことである。そしてこれはいわゆる「自己責任」と似て見えるのかもしれないが、実は全くの別物である。くどいようだが、やはり「ラーララッラー! ラーララッラー!」などと鼻歌を歌いながらテーブルや机をドンドンとたたいているだけでは自分自身の「生活」も自分が大切にしている人たちや自分が大切にしている様々な物事も共に守ることはできないのである。
繰り返すが、民主主義を最終的に維持管理する責任があるのは、民主主義社会を構成する一人ひとりなのである。そして民主主義を最低最悪の「お任せ民主主義」にまで堕落させていった場合に最終的に最悪の被害を受けることになるのは他ならぬ民主主義社会を構成する一人ひとりであるということを絶対に忘れてはならないのである。
<「無意味な映像付のゴミ情報」>
確かに一般的に物事の本質を把握するためには情報量は多い方がいい。だが、皮肉なことにメディアが発達して情報量が増えるにつれてますます民主主義の本質が見えにくくなっているのである。言うまでもなく民主主義国家の指導者としての「山手線の運転士」はただ単にぐるぐる回っていれば何でもいいというわけではないのである。ところがどういうわけかテレビの世界の勘違いした人間たちは、「遊園地のジェットコースターや観覧車」の一番前の目立つ席に座っている「芸のないのっぺらぼうの笑顔」の「自称・運転手」と民主主義国家の指導者にもなり得るような「山手線の運転士」候補を見分けることができないのである。ひどいのになると、とにかくいち早く現場に駆けつけようとして「ブタ小屋とトリ小屋の間」で空回りを続ける「自称・運転手」と一緒に走り回り、鳥インフルエンザなどの感染リスクと「ゴミ情報」の占有率を共に高めるというようなことを平気でしでかしてしまうようになってしまうのである。こんなお粗末な状態では、例えば「超大物政治家の名物秘書」が新規参入しただけでほとんどすべての「偽物の政治の専門家」は簡単に吹き飛ばされてしまうことだろう。
確かに朝からズバリと肝心な部分ばかりを切り捨てていけばやがて廃業してもらいたいものの再開までもがうれしくなってしまうのだろう。そして午前中から午後にかけてはせっせと朝刊やスポーツ紙の「リユース(再利用)」を繰り返し、夕方から夜にかけては話題の場所やおいしそうな料理を見ながらスーパーフールな「ゴミ情報」にプレミアを付けてニュースとしてでっち上げ、残った「ゴミ情報」を「エコバック」に入れて持ち帰れば、夜寝る前にきょうもゴミゼロの「エコな一日」だったと自己満足できるようになるのかもしれない。だが、例えば、テレビなどでおなじみの「エコバック」を買ってみただけでは地球環境の悪化にほんの少し貢献できるだけであるということにもそろそろ気づかなくてはならないはずである。
相変わらずテレビの世界の勘違いした人間たちは楽して儲かる「無意味な映像付のゴミ情報」を次から次へと作り出している。能力不足でまともな質問もできないような「イエスマン(あるいはイエスウーマン)」と「カメラ」をぞろぞろと引き連れていけば何でも「ニュース」としてでっち上げることができるかのようなお粗末な状態だけはなんとか解消しなければならない。そろそろこの辺で「ゴミ情報」の発生自体を抑制して正常に運行されている「山手線」を維持管理しているのは誰なのかとか、そもそも何のための「山手線」なのかなどといった民主主義の「原点」をあえて見つめ直さなければ大変なことになってしまうと筆者は考えている。
最近のテレビの世界は新たに参院選関連の「ゴミ情報」も加わって「サッチー・ミッチー騒動」の末期のような状態になっている。相変わらず「いったい誰がこんな人間たちを国会議員にしたのだろうか?」と叫びたくなるようなどうしようもない政治家たちがまたテレビの周辺に群がってきている。ひどいのになると「ママと男友達(あるいはパパと女友達)らとのドタバタ劇」とか「王子(あるいは姫)の不倫報道退治」のようなバカバカしいものまで飛び出してくる。どうやら致命的な勘違いをしている政治家たちがさらにひどく勘違いをした人間たちを新しく政治家にしていくという「負の連鎖」も生まれているようである。政界の人材不足はかなり深刻な状態である。
そしてテレビの世界の中でも「一票の格差」の問題は非常に深刻である。実に不思議なことに、テレビの世界の中では、例えば、約22万票や約45万票の重みの方が約69万票や約110万票の重みなんかよりもずっと重くなってしまうらしい。こういう状況があまりにも長く続くのならば、特定地域でもそれなりにまとまった組織票を動かすことができる利権集団やカルト集団は、人口の少ない地方に行けば行くほどますます大きな影響力を持つことができるから、勘違いしたテレビ番組などと「タイアップ」してあちこちの地方で偽物の政治家たちを次々とでっち上げることができるようになってしまうのかもしれない。くどいようだが、そろそろこの辺で「ゴミ情報」の発生自体を抑制して民主主義の「原点」をあえて見つめ直さなければ大変なことになってしまうと筆者は考えている。
「(前略)…社会全体としては、デモクラシーが成長しつつあると申してもいいだろうと思うのですが、一人ひとりの個人としては、ある意味での個性の欠如と言いますか、ともすれば付和雷同する、そういう社会の特性が問題点だろうと思います。 これは国民性かもしれませんから、必ず変わるべきだと言っているのではないですが、西欧民主主義からいえば、もう少し個性的であってもいいという感じがします。いろいろな意味で和が大切だと言い、そのことは社会の一体性からいえば大切なことですが、和の名の下に、十分な競争や十分な議論が必ずしも行なわれない場合がある。そういう社会の特性が、やはりあるという気がします…(後略)」(宮沢喜一元首相の発言。御厨貴・中村隆英編、「聞き書 宮澤喜一回顧録」、岩波書店、2005年、p338から)
付和雷同するような傾向が日本社会特有の「空気」かどうかはよく分からない。だが、みんながチヤホヤしているものを簡単にありがたがる風潮は非常に危険である。特に政治の世界においては「流行」に迎合したり悪乗りしたりすることはあまりにも危険である。多くの国民が政治においても「赤信号みんなで渡れば怖くない」などというように考え始めたらそれこそ「いつか来た道」に簡単に逆戻りすることになってしまうかもしれない。繰り返すが、今あえて民主主義の「原点」を見つめ直さなければ大変なことになってしまうと筆者は考えている。
正しい「要約」と正しい「比較」のススメ(→2006年以前へ) (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信済)
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