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 「止める政治」と「つくる政治」(2007/9/16) (4/8)

  −「不都合な真実」−

 (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信予定)

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 政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。

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<2007年> 最近の日本の政治情勢(2007年)について(2007/9/16更新) (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信予定)


「止める政治」と「つくる政治」(2007/9/16) (4/8) −「不都合な真実」−

  
<「懐かしい古い自民党」>
 
 繰り返しになるが、筆者は今回の参院選を、民主党の小沢一郎代表らが「地方」を中心に「懐かしい古い自民党」をせっせとつくり、また年金記録問題、相次ぐ閣僚の「政治とカネ」の問題や不適切な発言などで政府・与党に対する「逆風」がいつまでも続く中、小泉純一郎前首相時代の「新しい自民党」が懐かしくなってきた「本家・自民党」が大敗したような選挙結果だったと考えている。
 
 約2年前まではあれほど日本中にあふれていた小泉前首相の「自民党を変える」「(変わらなかったら)自民党をぶっ壊す」などというあのセリフが今ではとても懐かしくなっている。「自民党をぶっ壊す」などというあのセリフを初めて聞いてからもう6年以上が経過しているが、「新しい自民党」の具体的なイメージがいつまで経っても浮かんでこないような状態が続いている。筆者に言わせれば、「新しい自民党」については筆者の言う「つくる政治」にはならない状態が続いているのである。
 
 そしてやはり「懐かしい古い自民党」と言えば、なんと言っても水面下で互いに足を引っ張ったり引っ張らせたりする激しい「派閥抗争」、「数の論理」を背景にした「派閥均衡」型の政治ということになるのかもしれない。筆者に言わせれば、「懐かしい古い自民党」は筆者の言う「止める政治」の具体例の宝庫である。
 
 日常的に党内や業界などの利害関係者の「空気」を読みながら物事が決められていき、誰かがどこかで「空気」を読み間違えるとそれに反応してどこかで「票」や「利益」の流れが滞る「止める政治」が出てくることもある。「票」の行き先は自分たち以外にはあり得ないから「利益」を止めれば「票」が流れ込んでくる。逆に「票」が止められたときには急いですぐに「利益」を流し込めば「票」は「ライバル」に流れる前に戻ってくる。「懐かしい古い自民党」では、利害関係の異なる人たちの間で最も多くの「利益」と「票」が上手く流れる「落としどころ」を探るための「調整」が政策決定システムだったのかもしれない。そしてその「懐かしい古い自民党」の政策決定システムと密接不可分の関係にあったのが「中選挙区制度」である。「中選挙区制度」が自民党を「万年与党」にして「止める政治」を可能にする政治状況を生み出していたのである。
 
 一方、政治家にとっては「中選挙区制度」の下での「派閥」は「居心地の良い安全地帯」であったのだろう。最もひどい場合には、「派閥の領袖」である「親分」が右と言えば右、左と言えば左に進んでいれば、たとえ政治家になって実現したい政策らしい政策が何一つないようなお粗末な人間たちでも立派に「政治活動」を続けていくことができたのかもしれない。まさに「思考を止める政治」である。そして「親分」の言いつけをきちんと守って地元の選挙区で「日常活動」を続けていれば、事実上「派閥」が自分の「議員バッチの安全」も「大臣のイス」も保障してくれたのかもしれない。
 
 ちなみに「懐かしい古い自民党」が過去に何度も繰り返してきた「振り子の理論などと称するもの」、つまり「ある評判の悪い内閣」を退陣させて「その内閣とは正反対の印象を与える内閣」を同じ自民党内から誕生させるという「古いタイプの劇場政治」とでも呼ぶべき「擬似政権交代劇」を根底で支えてきたのもやはり同じ「中選挙区制度」である。「擬似政権交代劇」は、同じ政党の「ライバル」が持っていないものを持っていなければなかなか生き残れないという「中選挙区制度」の副産物であったと考えることができる。
 
<「不都合な真実」>
 
 ところが、かつてそんな自民党内の「空気」を全く読まずに「55年体制下の自民党をぶっ壊した男」がいた。男の名前は「小沢一郎」。そして「空気」を全く読まかったせいなのかどうかはよく分からないが、やがて男は一部の政治家たちから「悪魔」と呼ばれることになる。
 
 「私はかつて、自民党の代議士だった。1969年(昭和44年)、27歳で初当選して以来、24年間、自民党に所属してきた。その間、党幹事長を3期務めた。大臣にもなった。だが、経験を積めば積むほど、日本の政治のあり方に危機感を覚えるようになった。米ソの冷戦が終わり、世界は大きく動き始めたというのに、永田町には変革の気配すらなく、旧態依然の政治が行われていた。このままではやがて、日本は立ちゆかなくなる。そう思った私は、まず小選挙区制の導入を柱とする政治改革を行おうとした。だが、そんな私を迎えたのは、身内、つまり自民党内からの猛烈な抵抗だった。その状況を見て、私は決意を固めた。これからの日本のためには、二大政党制をつくり上げるしかない――。あまりにも長く同じ勢力が権力を握れば、必ずその国の政治は駄目になる。それが歴史の鉄則だ。自民党はあまりに長く政権の座にありすぎた。本格的な政権交代を実現しない限り、この国の将来は危うい。そう確信した私は、自民党を離れたのだった。1993年(平成5年)5月のことだった…(後略)」(p2)
 「1993年5月 自民党を離党。『日本改造計画』を出版 年間72万5000部、政治家本として異例のベストセラーに。地方分権、小選挙区制、規制撤廃など、その後のあらゆる『改革』の原型になる。 (筆者注:1993年)6月 新生党を結成、代表幹事就任 (1993年)8月 細川連立内閣誕生 38年間続いた自民党政権に代わる初めての非自民政権を樹立。 1994年 小選挙区・比例代表制導入 日本の選挙制度を根本から変え、二大政党時代を切り開く (筆者注:1994年)12月 新進党を結成。幹事長就任(のち党首) 1998年 自由党を結成。党首就任 1999年 自自連立政権に参加 政府委員制度の廃止、党首討論の開設、国会議員の定数削減など、国会改革を実現する。 2003年 民主党と自由党が合併。代表代行就任 2006年 民主党代表に就任」(p7(政治家・小沢一郎の歴史 2 二大政党制の時代へ))
(以上、「民主党 政権公約 MANIFESTO(マニフェスト)」、2007/7/9発行から)
 
 民主党の参院選マニフェストを見れば、小沢一郎代表が「二大政党制」や「政権交代」の実現に向けて努力し続けてきたことが1993年当時の「時代の空気」を全く知らない若い人たちにもよく分かると思う。しかし、なぜか触れられていない「不都合な真実」にもよく注意をする必要があるのである。やはり最低でも以下の2つの「不都合な真実」についてはあえて指摘をしておく必要があるのだろう。
 
 1つ目の「不都合な真実」は、「二大政党制」の実現を強く訴えてきた小沢代表自身がその「二大政党制」の成立を阻んだ過去があるということである。民主党の参院選マニフェストには「12月 新進党を結成。幹事長就任(のち党首)」と「1998年 自由党を結成。党首就任」の間に「1997年12月 党首に再選直後、新進党を解党」などという記述を補う必要がある。新進党党首選で小沢一郎氏が再選(1997/12/18)された直後、両院議員総会で新進党の「解党」が決定(1997/12/27)されたという歴史的事実をやはり指摘しないわけにはいかないのである。
 
 そして2つ目の「不都合な真実」は、小沢代表が旧自由党時代に自民党と連立してまで実現させた政策をなぜか今ではあまり重視しなくなっているということである。小沢代表が民主党代表に就任(2006/4/7)してから現時点までに国会で発言したのは、党首討論5回(2006/5/17、2006/10/18、2006/11/8、2007/5/16、2006/5/30)、そして衆院本会議での代表質問1回(2007/1/29)の合計6回である。特に今年の第166通常国会(→2007/1/25召集。会期は当初6/23までの150日間だったが、7/5まで12日間延長された)では会期が残り約1カ月になるまで党首討論は一度も行われなかったことになる。小沢代表が自民党と連立してまで実現させた「国会改革」をどれだけ重視してきたのかということが多くの人たちにもよく分かることだろう。これでは「1999年 自自連立政権に参加」したのは与党になることが「本音」であり、「政府委員制度の廃止、党首討論の開設、国会議員の定数削減など、国会改革を実現」は単なる「建前」に過ぎなかったなどという批判を受けても反論することがとても難しくなってしまうだろう。
 
 「(前略)…国会は国権の最高機関である。そこでの発言は最も正式な発言として重い意味を持つ。したがって、責任ある政治家が世界に対し意思表明をする場として、あるいは国民に対して各政党の立場を知らせ、啓蒙する場として活用するには、最適の場である。 国会議員がそのことをよく認識して積極的に発言すれば、国会審議はもっと国民にわかりやすくなる。与野党の考え方がきちんと国民に伝わって、選挙にも反映する。国会対策委員による取り引きで法案を潰したり通したりするのでは、政治過程が不透明で、国民の欲求不満はつのるばかりであろう。それが政治的無関心を呼び、民主主義を形骸化する。 政治は国民のものである。それが民主主義の基本的な条件だ。本当の意味で民主主義を日本社会に定着させるためにも、国会議員は国会に戻り、国会での議論を通して不断に国民に訴え、国民の審判を仰がなければならない。選挙制度の改革と国会改革が必要な根本的な理由は、ここにある」(小沢一郎著、「日本改造計画」、講談社、1993年、p79-80)
 
 どんなことがあったとしても党首討論は毎週1回必ず行わなければならないとか、あるいは、勘違いしたどこかの元野党党首の真似をしてテレビ中継されるほぼすべての委員会で質問のトップバッターとして何時間もしつこく質問をしなければ国会審議を軽視していることになるなどとはさすがに誰も決めつけたりはしないはずである。しかし、やはり衆院本会議での代表質問ぐらいは毎回質問に立つするように方針を改めるべきである。また内閣不信任決議案や重要法案などが「記名投票」で採決されるたびに「投票漏れはありませんか」などという議長の声に「オザワイチロー!」などという「不規則発言」が繰り返されるような状態も少なくとも解消する必要があるだろう。
 
 「九三年六月二十三日、自民党を離党した羽田派は新しい政党を作り、新生党と名乗った。三十八年ぶりの保守大分裂ということで、マスコミは一斉に新生党をもてはやした。ほとんどお祭り騒ぎだったといってよい。私は、これはおかしいと思った。そこで、『朝日新聞』から感想を求められたのを幸い、『新生党に問う』と題して、翌二十四日、次の一文を寄稿した。 『羽田新党とは何か。あなた方は、要するに経世会の分裂した片割れではないか。経世会とは何か。要するに旧田中派ではないか。田中派とは何か。五億円収賄犯・田中角栄をかついで、日本の政治を十年余りにわたって目茶苦茶にしてきた徒党ではないか。党外の刑事被告人を領袖とあおぎ、天才政治家とあがめ、田中が右といえば右、左といえば左に動いて、日本の総理大臣の首を次々にすげかえ、数の力であらゆる道理を踏みにじってきた、政治腐敗の元凶のような集団ではないか。あなた方はその中核だったではないか。 田中が病気に倒れると、看板を経世会とかけかえただけで、田中派時代と全く同じように、金の力と数の力で政治を支配し、権力のうま味を思う存分吸い取ってきたのが、あなた方ではなかったか。 あなた方のつくったそうした政治構造が、リクルート事件を生み、佐川事件を生み、金丸事件を生んだのではなかったか。いまや政治腐敗の代名詞となった竹下・金丸は、あなた方の大親分ではなかったか。ついこの間まで大親分の集めた黒い金を喜んでもらっていたのは誰なのか。 政治改革という錦の御旗を振り回していれば、そういう恥ずべき過去をみんな忘れてくれるとでも思っているのだろうか。 いま必要なのは、政治改革よりあなた方の人間性の改革だろう。その第一歩は、日本の政治を破壊し腐敗させてきたのは自分たちであると正直に認め、懺悔し、反省することである。 自分たちの過去にけじめもつけずに、何が新生だ。ちゃんちゃらおかしい』 この一文は大反響を呼んだ。私がこれまで書いた文章の中で、最も大きな反響を呼んだものの一つといってよい。すぐその日から、電話、手紙などで、『よくぞいってくれた』という声があいついだ…(後略)」(立花隆著、「巨悪VS言論」(下)、文春文庫、2003年、p600-601から)
 
 「東京再起動宣言」をして東京都知事選(2007/4/8)で3選された石原慎太郎東京都知事が参院選の選挙戦最終日(2007/7/28)の自民党の街頭演説会で「朗読」していた「あの文章」だと言ったら思い出す人たちも少なくはないのかもしれない。石原都知事がコピーを取り出して「朗読」している姿はなかなか印象的だった。
 
 いずれにしても今と同じように当時も既存のマスコミは小沢一郎氏とその仲間たちをもてはやしていたのである。筆者は当時の「時代の空気」を今も鮮明に覚えている。自民党が野党に転落したばかりの1993年総選挙後の政治状況では「自民VS非自民」が最優先課題とされていた。だから「違う政治家たち」が多少紛れ込んでいるのもやむを得ないという「空気」もそれなりにあったのかもしれない。そして「非自民」の内部で本当のところ何が起こったのかは当事者たちにしか分からないことなのだろう。だが、1993年総選挙で示された「非自民」という民意を覆す「クーデター」のような形で自社さ政権が発足(1994/6/30)することになるのである。
 
 今こそあえて1993年の政治状況を思い出してみる必要があるのかもしれない。自民党にずっと長くいて「少し前」に飛び出してきた政治家たちや、「ほんの少し前」まで自民党と連立政権を組んでいた政治家たちが「日本で政権交代が起こらないのは異常だ」などともっともらしく唱えるときの「政権交代」とはいったい何か。「少し前」に「非自民」という民意を覆す「クーデター」のような形で自社さ政権をつくった政治家たちがもっともらしく唱える「議会制民主主義」とは何か。そうしたすべての政治家たちが過去を総括せずに唱える「二大政党制」とはいったい何か。今はそういうことがあえて問われなければならないはずである。
 
 さすがに「政権交代」「二大政党制」「議会制民主主義」などという「錦の御旗」を振り回していれば、国民はそういう政治家たちの「過去」をすべて忘れてくれるというわけではないのだろう。だが、自分たちの「過去」にけじめもつけずに何が「政権交代」「二大政党制」「議会制民主主義」なのか、「ちゃんちゃらおかしい」などという批判はなぜかどこからも聞こえてはこないのである。これもまた日本社会特有の「空気」なのかもしれない。
 
 「(前略)…断っておくが、私は、規制を求める社会が間違っている、というのではない。社会のあり方の問題としては、正しいとか間違いとかいうものはない。日本には日本の歴史と伝統に基づく社会のあり方がある。日本人が規制を求めるのは、日本社会の特性に原因がある。 日本の社会は、多数決ではなく全会一致を尊ぶ社会である。全員が賛成して事が決まる。逆にいえば、一人でも反対があれば、事が決まらない。 こういう社会であくまでも自分の意見を主張するとどうなるか。事が決められず、社会は混乱してしまう。社会の混乱を防ぐには、個人の意見は差し控え、全体の空気に同調しなければならない。同調しない者は村八分にして抑えつけられる。その代わり、個人の生活や安全はムラ全体が保障する。社会は個人を規制し、規制に従う個人は生活と安全が保証される、という関係だった。 個人は、集団への自己埋没の代償として、生活と安全を集団から保証されてきたといえる。それが、いわば、日本型民主主義の社会なのである。そこには、自己責任の考え方は成立する余地がなかった。日本で社会と個人のこういう関係が成り立ってきたのは、一部の例外を除いて外部との交渉の歴史を持たない同質社会だったからだ…(後略)」(小沢一郎著、「日本改造計画」、講談社、1993年、p3)
 
 確かに日本社会には世間の「空気」に同調しない者たちを押さえつけるような風潮があるのかもしれない。だが、そんな「空気」に同調しない人間たちも「別の場所」に行けばそこでの「空気」に同調しない者たちを徹底的に押さえつける側になることもあるのかもしれない。何かと言うとFAXやメールなどですぐにテレビ出演の自粛を求めてくるなどというのはまだましな方なのかもしれない。もっとも「空気」に同調した場合であっても「生活が第一」などと「生活と安全を集団から保証」されるようになるかどうかは定かではない。なるほど目には見えない「空気」というものは実にやっかいなものである。
 
<「生活」とは「カネ」である?>
 
 日本は言論の自由が保障された民主主義国家だから、民主党の参院選マニフェストやCMなどについての筆者の感想もズバリ言わせてもらうことにしよう。
 
 確かに今回の参院選では「生活が、第一。」「政治とは生活である。」などという言葉にそれなりに説得力を感じた人たちも多かったのかもしれない。だが、筆者は「生活が、第一。」「政治とは生活である。」などという言葉を初めて聞いたときから「おぞましい響き」を感じている。なぜ「おぞましい響き」を感じたのかが筆者にもしばらく分からなかったのだが、「生活」とは何かということを一歩踏み込んで考えてみたら理由が分かったのである。
 
 民主党の言う「生活」とは何か。もちろん参院選マニフェストには「国民の生活が第一。」と書いてあるから「政治家の生活」ではないことはすぐに分かる。民主党の言う「生活」とは何か。一歩踏み込んで考えてみると、それは「カネで買える物」とほとんど同じものではないかということに気づくことになる。
 
 「『国民の生活が第一』を実現する民主党 3つの約束・7つの提言 約束1 『年金通帳』で消えない年金。国が責任を持って全額支払います。 約束2 安心して子育てできる社会。1人月額2万6000円の『子ども手当』を支給します。 約束3 農業の元気で、地域を再生。農業の『戸別所得補償制度』を創設します。 提言1 雇用を守り、格差を正す。 提言2 医師不足を解消して、安心の医療をつくる。 提言3 行政のムダを徹底的になくす。 提言4 地域のことは地域で決める『分権国家』を実現する。 提言5 中小企業を元気にして、日本経済を生き返らせる。 提言6 地球環境で世界をリードする。 提言7 主体的な外交を確立する」(「民主党 政権公約 MANIFESTO(マニフェスト)」、2007/7/9発行、p8-9から)
 
 民主党の言う「生活」とは何か。参院選で民主党が重点的に掲げた合計10項目の中で「カネで買える物以外の物」はどれだけあるのかと探してみることにしよう。すると「カネで買える物以外の物」はどうやら「分権国家」「地球環境」「主体的な外交」ぐらいで残りの7個は「カネで買えそうな物」か「カネそのもの」の話になっているようである。民主党の言う「生活」とは何か。民主党の言う「生活」とは「カネで買える物」とほとんど同じものではないのか。そして「生活が、第一。」「政治とは生活である。」などという表現は本当に適切なのだろうか。
 
 「今こそ、まともな政治を。 政治とは何か−。 その答えは一つしかない。国民が安心して暮らせるようにすること。それこそが政治の役割であり、それを実現することが政治家の使命である。 では、今の日本に『政治』はあるか? 自由競争と改革という美名のもと、国民は一方的に重い負担を強いられ、様々な格差が社会を壊そうとしている。国と国民との契約である年金、医療、介護さえ信じられない。 国民の生活が第一。 今こそ、日本に『まともな政治』を取り戻そう。国民が安心して生活を送れる国にしよう。 この国を立て直すチャンスは、今しかない。国民の利益を守り、日本の将来を守るため、私は38年間の政治生活のすべてをかける。 『国民の生活が第一』を実現する− 私は必ずやります。 私は必ず実行します。 民主党代表 小沢一郎」(p1)
 「(前略)…本来、政治とは国民一人ひとりの財産や安全を守るためにある。どんなに立派な主義・主張を掲げようとも、国民の生活を守れなければ何の意味もないし、価値もない。そもそも、政治家は国民から選ばれた代表なのだから、その国民の生活と安全を第一に考え、行動していくのが、民主主義の大原則、常識というものだ。だが、この日本ではその『常識』がずっと踏みにじられてきた。そして、それはますますひどくなっている」(p2。以上、「民主党 政権公約 MANIFESTO(マニフェスト)」、2007/7/9発行から)
 
 確かに政治の主要な目的は一人ひとりの生命・財産などを守ることである。その意味では民主党の参院選マニフェストに書かれていることは正しい。しかし、国民が「一方的に重い負担を強いられ」、「様々な格差が社会を壊そうとし」、「年金、医療、介護さえ信じられない」とすぐに「では、今の日本に『政治』はあるか?」という話になってしまうのならば、あまりにも短絡的でメチャクチャな話であると言わざるを得ないことになる。さらに言えば、「国民の生活を守れなければ何の意味もないし、価値もない」ということになってしまうのならば、それもまたあまりにも乱暴でメチャクチャな話であると言わざるを得なくなるのである。これらがメチャクチャな話であるということは、言われている状態と正反対の状態がどういう状態なのかということを想像してみれば誰でもすぐに気づくことができるかもしれない。「生活」が守られてさえいれば本当に「政治」があることになるのだろうか。「生活」が守られてさえいれば本当に「政治」に意味や価値が生まれるのだろうか。
 
 例えば、国がすべての国民に「なんとかヒルズ」の部屋をプレゼントして豪華で安全な生活を保障してくれるような状態を想像してみればいい。「なんとかヒルズ」の部屋ならば防犯対策も万全だから安全な生活が送れるのかもしれない。そして「なんとかヒルズ」の中にはショッピングセンターやレストランなど必要なものは何でもそろっていて住人ならば誰でも自由かつ平等に利用できるのかもしれない。希望すればルームサービスもやってくれるのかもしれない。「なんとかヒルズ」の外には一歩も出なくても安全で安心な生活が送れるのかもしれない。しかし、それでもほとんどの人たちは「なんとかヒルズ」の生活では満足することはできないはずである。「人はパンのみにて生くる者に非ず」とか「武士は食わねど高楊枝」などということをあえて言わなくても、多くの賢明な読者はそんな「なんとかヒルズ」の薄っぺらな生活で満足できる人たちがほとんどいないということにすぐに気づくことだろう。
 
 もしもそんな「なんとかヒルズ」の薄っぺらな生活で十分に満足できる人間たちがいるとしたら、「カネで買えないものは何もない」などと本気で思い込んでいる愚かな人間たちとか、自分が愛する人たちの心をつかめなくても全く何にも感じないような人間たちぐらいだろう。そしてもしも世の中が「なんとかヒルズ」の薄っぺらな生活で満足できる人たちばかりだったとしたら、「バブル紳士」のようにカネをジャンジャンばらまくことができる人間だけが「理想の政治家」ということになってしまうはずである。
 
 もちろん言うまでもなく、そもそも国がすべての国民に「なんとかヒルズ」の部屋をプレゼントして豪華で安全な生活を保障してくれるような状態が実現するわけがないのである。すべての国民が「なんとかエモン」になれるわけがないということは、冷静になって少し考えてみれば誰にでもすぐ分かることだろう。
 
<政治とは「環境」である>
 
 確かに資本主義社会ではカネさえあればほとんどすべての物を基本的に自由に買うことができる。だが、カネで買うことができない物はいくらでもあるのである。いくら多くのカネを出したとしても売っていない物はまず買うことができない。もちろん大金を出せば特別に買えるようになる物もあるのかもしれない。だが、例えば「永遠の命」のようなものは現時点ではいくら大金を出しても絶対に買うことができないはずである。その他にも、例えば、人の心がある。ごく一部にはカネで買えるような種類の「心」もあるのかもしれないが、どれだけ大金を積んでも絶対に買うことができないような「心」もある。確かに今の世の中ではカネはとても重要である。でも、「世の中はカネ」ではないし、「人生はカネ」でもないのである。世の中も人生もカネさえあればそれでいいというわけではないのである。カネで買うことができない物はいくらでもある。これは賢明な読者にとっては当たり前すぎるくらい当たり前のことである。
 
 また言うまでもなく民主主義は基本的に最も多くの人たちの意見によって物事が決められていく制度である。だが、民主主義には絶対に多数決では決められないことがある。例えば、いくら多数であったとしても、ある個人の基本的人権を完全に否定するようなことは絶対に多数決で決めることはできないのである。そうした世界に通用する民主主義の根底にある考え方が「立憲主義」である(→参考:2007/2/20号etc.)。確かに民主主義では数は重要である。だが、「民主主義は数」ではないのである。民主主義は数さえあればそれでいいというわけではないのである。これもまた賢明な読者にとっては当たり前すぎるくらい当たり前のことである。
 
 「(前略)…田中(筆者注:角栄元首相)型政治のもう一つの特徴は、力の論理で押しまくることである。政治の世界においては力は正義であり、数が力である。『民主主義は数だ』というのが田中の口ぐせだった。相異なる政治的見解の対立は、最終的に投票による多数決で決着をつけるというのが、民主主義の基本だから、民主主義は数だという認識それ自体は正しい。だが、それでは、多数が無限定にすべてに優越するとする絶対的数の論理が、民主主義の原理かというとそうではない。民主主義の基本原理には、数の論理とならぶ基本的なルールが幾つかある。適正手続のルールもそうなら、議論をつくすというルールもそうである。法を守るというルール、基本的人権を守るというルール、正義を守るというルールもある。数の論理はこれらの基本ルールと並列にならぶルールであって、他のルールに優越するルールではない。数の論理が他の基本ルールをオーバールールすることは許されないのである。 ところが、田中の民主主義は、数の論理一本なのである。数さえ握れば、いかなる道理も引っ込めさせて、どんな無理でも押し通せるというのが、田中の民主主義論だった…(後略)」(立花隆著、「巨悪VS言論」(上)、文春文庫、2003年、p10-11から)
 
 あくまでも念のために言っておくが、民主党の参院選マニフェストには「カネが第一。」とか「政治とはカネである」、ましてや「カネで買えないものは何もない」などとはどこにも書かれてもいない。また筆者の知る限り、民主党の政治家たちの誰もそんなことは言っていない。そして民主党の参院選マニフェストには「国民が安心して暮らせるようにすること。それこそが政治の役割であり、それを実現することが政治家の使命である」とか「政治とは国民一人ひとりの財産や安全を守るためにある」などと間違いなく書かれている。しかし、それにもかかわらず、「生活」という言葉は、「第一」とか「政治」という言葉と結びついた場合には「NGワード」になる危険性が大いにあるということなのである。字面だけを見ていれば「政治とは生活」と「政治とは生活を守るため」の間には微妙な違いしかないように思うかもしれないが、一歩踏み込んで深く考えてみれば根底には絶対に無視することができない決定的に大きな違いがあるということに気づくことになるのである。「政治とは生活」と「政治とは生活を守るため」は似て非なる全くの別物なのである。
 
 確かに「生活」という言葉はほとんど誰の耳にもそれなりに良く響く言葉なのかもしれない。そして多くの人たちが「生活」という言葉にそれなりに心地よさを感じているときにわざわざその「空気」をかき乱すようなことはなかなかできないのかもしれない。与党の政治家たちも「生活を重視」などと唱えていれば民主党の攻勢を防ぎながら「居心地の良い安全地帯」に逃げ込めるのかもしれない。だが、民主党の言う「生活」とは何か。民主党の言う「生活」とは「カネで買える物」とほとんど同じものではないのか。いずれにしてもこれからの小沢一郎代表を含めた民主党の一人ひとりの政治家たちの具体的な政治行動によって民主党の言う「生活」とはいったい何かということが少しずつ国民の目にも明らかになっていくのだろう。
 
 「いわゆる民本主義とは、法律の理論上主権の何人に在りやということは措(お)いてこれを問わず、ただその主権を行用するに当って、主権者は須(すべか)らく一般民衆の利福並びに意嚮(いこう)を重んずるを方針とす可しという主義である。即ち国権の運用に関してその指導的標準となるべき政治主義であって、主権の君主に存りや人民に存りやはこれを問うところでない。もちろんこの主義が、ヨリ能く且つヨリ適切に民主国に行われ得るは言うを俟(ま)たない。しかしながら君主国に在ってもこの主義が、君主制と毫末も矛盾せずに行われ得ることまた疑いない。何となれば、主権が法律上君主御一人の掌握に帰して居るということと、君主がその主権を行用するに当って専ら人民の利福及び意嚮を重んずるということとは完全に両立し得るからである。しかるに世間には、民本主義と君主制とをいかにも両立せざるものなるかの如く考えて居る人が少なくない。これは大なる誤解といわなければならぬ…(後略)」(吉野作造著、「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」(「中央公論」1916(大正5)年1月号初出、「吉野作造評論集」(岡義武編、岩波文庫(青131-1))、p45-46より))。
 
 政治とは何か。民主主義とは何か。中学校の社会にも出てくる吉野作造の「民本主義」は大正デモクラシーの時代の日本におけるその一つの答えである。そして日本は戦後も55年体制成立前後の時代からより良い答えを探し求めて試行錯誤を続けているのかもしれない。
 
 政治とは何か。政治家ではない筆者に言わせれば、政治とは「一人ひとりがそれぞれの夢を自由に追い求めながら(→共存)、それでもみんなで一緒に何かを作り上げようと努力し続けること(→協力)」ということになるだろう。そしてその共存・協力のための最低限の条件が「将来の世代を含む一人ひとりの生命などを守ること」になると筆者は考えている。
 
 政治とは何か。あえて漢字二文字で表現しなければならないとすれば、筆者ならば「政治とは『環境』である」と答える。「一人ひとりがそれぞれの夢を自由に追い求めながら(→共存)、それでもみんなで一緒に何かを作り上げようと努力し続ける(→協力)」ための「環境」、「将来の世代を含む一人ひとりの生命などを守る」ための「環境」こそが政治そのものであると筆者は考えている。
 
 くどいようだが、日本は言論の自由が保障された民主主義国家である。「政治とは『環境』である」などと考えている筆者から見れば、「生活が、第一。」「政治とは生活である。」などという言葉はやはり「おぞましい響き」を持った言葉であり続けているのである。
 
 本当にくどいようだが、日本は言論の自由が保障された民主主義国家である。だからこそ「よどんだ空気」をあえて読まずに強調しておくことにする。筆者から見れば、「生活が、第一。」「政治とは生活である。」などという「おぞましい響き」を持った言葉を一歩踏み込んで深く考えてみることもなしに繰り返し唱えているような政治家たちはあまりにも愚かな人間たちにしか見えないのである。


<2007年> 最近の日本の政治情勢(2007年)について(2007/9/16更新) (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信予定)

<2006年以前>

   正しい「要約」と正しい「比較」のススメ(→2006年以前へ) (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信済)


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