メッセージ

 真贋のプリズム-第3回-(2007/2/20)

 (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信予定)

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 政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。

 基本方針

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<2007年> 真贋のプリズム(2007年) (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信予定)


真贋のプリズム −第3回−「問題と解答」(2007/2/20)

 衆院予算委で2007年度予算案の審議が行われている(2007/2/9-)。また民主党の小沢一郎代表が資金管理団体の事務所費の詳細を公表した(2007/2/20)。やはり政府・与党側と野党側の議論は上手くかみ合っていない。もちろん個別具体的なケースによって責任の重さは変わってくるわけだが、筆者は基本的には質問する側と答弁する側の双方に責任があると考えている。やはり「質問」というものは、答弁する側だけではなく、質問する側の能力や見識も同時に問われる双方向の情報のやりとりであると筆者は考えている。
 
 今度は「リ」から始まるガス器具メーカー製のガス湯沸かし器で一酸化炭素(CO)中毒による死亡事故などが明らかになって波紋が広がった。相変わらず永田町周辺でもそれ以外の場所でも「本物」がどこかに消えて「偽物」ばかりがはびこっている。そして少し時間が経つとどこかで聞いたような話ばかりがまたまた出てくる。やはり日本にはほとんど何の教訓も残さずに様々な「周期」で「不祥事」や「茶番劇」を繰り返していく悪しき慣習があるようである。そして本当に日本はこのまま最低最悪の「お任せ民主主義」をいつまでも繰り返していくのだろうか。
 
 さて、今回は国会質問と国会答弁のような「問題と解答」を「プリズムのようなもの」として用いながら日本の政治を分析していくことにする。ただし、前回(2006/2/6号)の「立憲主義」を使用して分析することが適切な北朝鮮問題で大きな動きがあったのでまずはこの問題に触れておくことにする。
 
合意が完全に履行されるのならば…
 
 約1カ月半ぶりに中国・北京で再開された北朝鮮の核問題などをめぐる6カ国協議は北朝鮮の核放棄に向けた「初期段階措置」などを定めた合意文書を採択して閉幕した(2007/2/8-13。なお前回は2006/12/22休会。なお2007/1/16-18にはドイツ・ベルリンで米朝協議、1/30-31には北京で米朝金融協議)。
 
 合意文書には、2005/9/19に採択された共同声明の実現に向けた「初期段階措置」として、(1)北朝鮮は再処理施設を含む寧辺の核施設を停止・封印し、国際原子力機関(IAEA)査察官を復帰させる(今後60日以内)、(2)北朝鮮は抽出されたプルトニウムを含むすべての核計画の一覧表について他の5カ国と協議(60日以内)、(3)米国は対北朝鮮のテロ支援国家指定解除作業を開始、国交正常化のための二国間協議を開始、(4)日本と北朝鮮は「不幸な過去を清算し懸案事項を解決することを基礎」として国交正常化のための協議を開始、(5)他の5カ国は北朝鮮に重油5万トン相当のエネルギー支援を実施(今後60日以内に輸送開始。(1)-(5)までの「初期段階措置」は今後60日以内)、さらに(6)初期段階措置の実施と共同声明の完全実施のために「朝鮮半島の非核化」「米朝国交正常化」「日朝国交正常化」「経済及びエネルギー支援」「北東アジアの平和及び安全のメカニズム」の5作業部会の設置(すべての作業部会は今後30日以内に開催)、(7)「初期段階」と北朝鮮がすべての核計画を完全に申告してすべての既存の核施設を無能力化する「次の段階」の期間中、「初期段階」の5万トン分を含め、計100万トンの重油に相当する規模を限度とする支援を実施(→具体的には作業部会で)などという内容になった(→参照:(外務省ホームページ)http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/6kaigo/6kaigo5_3ks.html なお次回の6カ国協議は3/19に。初期段階の措置の実施後に閣僚会議を開催。ただし日本は拉致問題で具体的進展がない限り、支援を実施しないことを表明)。
 
 合意文書はやはり現時点では「画餅」に過ぎない。だが、核施設の停止・封印・IAEA査察などという「初期段階」までの合意が完全に履行されるのならば、何歩も後ろ向きに進んだ北朝鮮がようやく前向きに一歩前進することになるのだろう。またもしも合意文書に「核施設」や「核計画」だけではなく「核兵器」なども明記されていたのならば、合意が完全に履行された場合にはさらに前進することになっていたのだろう。国際社会にとっては、北朝鮮に「初期段階」の合意を完全に履行させることができるかどうかが最初の「正念場」になると筆者は考えている。
 
 一般に人間というものは、まだ目に見えない遠い将来の利益を得るためにはなかなか熱心に行動することができないものである。しかし、目に見える具体的な利益を失いそうになったときには、その利益を失わないようにするために驚くほど熱心に行動することができるものである。ちなみにそういうことは政治の世界では常識になっている。例えば、何らかの改革を進めようとすると、改革によって失われる既得権益を守ろうとする人たちは猛烈に反対する。だが、改革が実現すれば新たに利益を得られる人たちの方は自分たちが得る利益がまだ目に見えないので行動は鈍くなりがちである。よって一般に改革というものはなかなか進まない傾向があるのである。そういう政治の世界では実にありふれた具体例を思い出してみれば、今回の合意文書の持つ意味がよりよく分かるのかもしれない。
 
 おそらく北朝鮮にとっては合意文書は「画餅」であっても目に見える形の利益なのかもしれない。そして北朝鮮が「初期段階」の合意を完全に履行すれば、おそらく韓国から重油5万トン分が得られることになるから、合意文書はよりハッキリとした目に見える形での利益になっていくはずである。そう考えれば「画餅」をよりハッキリとした目に見える形での利益にしていく「初期段階」をクリアするまでが「正念場」になるということがよく分かるのかもしれない。そしてあくまでも念のために言っておけば、合意が履行されてもされなくても、目に見える形での利益は圧力や制裁によっても失われることになるということは全く何も変わらないのである。
 
基本的人権の保障は人類共通の利益
 
 「北朝鮮の核開発は、我が国として断じて認めることはできません。六者会合において解決を図るべく、『対話と圧力』という一貫した考え方の下、関係各国と連携を強化し、北朝鮮の具体的な対応を求めます。拉致問題の解決なくして、日朝国交正常化はありえません。拉致問題に対する国際社会の理解は進み、国際的な圧力が高まっています。北朝鮮に対し、すべての拉致被害者の安全確保と速やかな帰国を強く求めていきます。新たに拉致被害者に向け、政府のメッセージを放送するなど、引き続き、政府一体となって総合的な対策に取り組みます」(2007/1/26の安倍晋三首相の施政方針演説から。参照(首相官邸のホームページ):http://www.kantei.go.jp/jp/abespeech/2007/01/26sisei.html)
 
 日本政府は拉致問題で具体的進展がない限り、6カ国協議の合意履行後に北朝鮮に提供されることになる支援の経費負担はしない方針である。日本としては「初期段階」に到達してからが「勝負」になる。それまではしっかりと従来の方針を堅持することができるかどうかの「正念場」ということになるのだろう。間違っても「よこしまな人間たち」に「北朝鮮にいる末端の一人ひとりの人権蹂躙を容認するツアーのバス」に乗せられてしまわないようによくよく注意をする必要がある。ちなみに地球上のどこに行っても「バス」に乗ろうとするときには「目的地」ぐらいは誰でも確認するものである。くどいようだが、北朝鮮にいる末端の一人ひとりの生命・財産などを含む基本的人権の保障は人類共通の利益にかかわる重要な問題であるということを絶対に見失ってはならないのである。
 
 確かに今回の合意文書は、合意が完全に履行されるのならば、日本にも利益になることは間違いない。だが、日本政府は北朝鮮による日本人拉致問題で進展がない限り支援の経費負担は行わないという方針を見直す必要はないと筆者は考えている。もちろん日本は拉致問題が解決すれば合意文書に示された支援の経費を負担するということを国際社会に明確な形で約束することは必要になってくるだろう。だが、合意が完全に履行されるかどうか定かではない現時点では「拉致問題が解決すれば」などという条件付の約束以上のものは特に必要ないと筆者は考えている。
 
 国際社会の中での日本の経済的な信用はかなり高いはずである。いくら膨大な国債や借入金を抱えていたとしても、重油数十万トン程度の資金ならば、日本はいつでも確実に支払う能力がある。また約束した国際機関への分担金の拠出などを日本が拒否したという話も聞いたことはないから、国際社会は日本が約束しさえすれば間違いなく約束を守って支払うことになると受け止めることだろう。もちろん日本は必要ならば、将来負担することになるであろう経費を事前に国際機関などに「供託」や「寄託」して管理してもらうということも不可能ではない。だが、現時点では「拉致問題が解決すれば」などという条件付の約束以上のものは特に必要ないと筆者は考えている。
 
拉致問題の「解決」や「進展」とは何か
 
 まず現時点で日本政府が最優先でやらなければならないことは、「拉致問題の解決とは何か」「拉致問題の進展とは何か」ということを改めて確認しておくことである。そして拉致被害者がいったい全部で何人いるのかも分からず、しかも北朝鮮が「拉致問題は解決済み」などと言い張っているような現状では、拉致問題を解決していく過程における何らかの対策も必要になってくると筆者は考えている。
 
 筆者は、北朝鮮にいる末端の一人ひとりの生命・財産などを含む基本的人権が保障されていることが確認された段階で拉致問題の「前進」や「進展」と見なすべきであると考えている。あえてベン図を使って説明するまでもなく、「北朝鮮にいる末端の一人ひとり」の生命などが保障されるのならば、必然的に「北朝鮮にいるすべての拉致被害者」の生命なども保障されることになる。問題になるのは、北朝鮮にいる末端の一人ひとりの生命・財産などを含む基本的人権の保障を実際にどのように確認・確保するかということである。
 
 筆者は、北朝鮮が(1)国連人権理事会(2006/3/15設置。参考:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinken_r/index.html)による自由かつ完全な形での人権状況の調査と数十カ所の調査拠点の設置、さらに(2)日本側による拉致被害者を含む日本人らの調査のための連絡事務所の設置とその調査への完全な協力を何らかの担保付で受け入れた場合には、拉致問題の「前進」や「進展」とみなすことができると考えている。そして拉致問題が解決したときに日本が実際に負担することになる経費は、国連人権理事会などに「供託」や「寄託」しておき、国連人権理事会で北朝鮮にいる末端の一人ひとりの基本的人権が確実に保障されていると確認されるまではその管理下に置くようにすべきであると考えている。そして当然のことながら北朝鮮にいる末端の一人ひとりの人権状況がいつまでも国際社会が許容できる最低限のレベル以下の状態であり続けるのならば、日本の経費負担予定分の資金は国連人権理事会による調査などに必要な経費という形ですべて消えてしまうことになるわけである。
 
 もちろん日本が北朝鮮にいる末端の一人ひとりの生命・財産などを含む基本的人権の保障を強く訴えるのは、国際社会から拉致問題の解決を求める日本の主張に対する支持が得やすくなるからということもある。だが、それだけが理由ではないのである。北朝鮮にいる末端の一人ひとりの生命・財産などを含む基本的人権の保障を強く訴えるということは、実は日本の「歴史認識」の問題とも密接に関連しているのである。以前に何度か説明したことがあるが、筆者は過去の日本の侵略や植民地支配は、多くの人たちの人権を蹂躙したり、生命・財産を奪ったりしたことが「人類の共存・協力のために必要な最低限のルール」を破ることになるために悪かったなどと考えている(→参考:2006/2/21号、2006/5/12号、2005/5/11号etc.)。つまり、日本は過去の歴史を直視すればするほど、北朝鮮にいる末端の一人ひとりの生命・財産などを含む基本的人権の問題に敏感にならざるを得なくなるのである。
 
 繰り返しになるが、北朝鮮問題は、前回取り上げた「立憲主義」を「プリズムのようなもの」として利用すると、本質が見えやすくなる典型的な例の一つである。以前から何度も繰り返しているが、北朝鮮には末端の一人ひとりの生命・財産などすらも保障されていないという見過ごすことのできない人類共通の重大な問題がほぼ手つかずのまま残されているのである。もちろん北朝鮮の核兵器やミサイルの問題、偽札や麻薬などの不法行為の問題も重要であるということは言うまでもないことである。だが、それらのすべての問題と実は本質的な部分でつながっている北朝鮮にいる末端の一人ひとりの生命・財産などを含む基本的人権の保障をどのように確保していくかという問題が置き去りにされたり、後回しにされたりするようなことはあってはならないのである。
 
 改めて前回までの説明を繰り返すが、人類が長い歴史の中で多大な犠牲を払いながら一人ひとりの生命・財産などを含む基本的人権を保障するためにようやくたどり着いたのが「立憲主義」という考え方なのである。したがって北朝鮮にいる末端の一人ひとりの生命・財産などを含む基本的人権の保障の問題を置き去りにしたり後回しにしたりするなどということは、それぞれの国の国益に反するとか反しないとかというレベルを超えて、人類共通の利益に対する重大な挑戦と見なすべきであると筆者は考えている。
 
 以上のようなことから、日本も、国際社会も、北朝鮮問題を解決していく場合には、人類共通の利益であるはずの「立憲主義」という考え方に矛盾する行動を取ることだけは絶対に許されないということを改めてしっかりと確認しておく必要があるのである。 


「一夜漬選挙」(再論)
 
 さて、ようやくここから今回の文章の本題に入っていくことになる。繰り返すが、今回は「問題と解答」を「プリズムのようなもの」として使用しながら日本の政治を分析していくことになる。まずは前回(第2回(2007/2/6号))取り上げた「お任せ民主主義」、そしてそれを支える「一夜漬選挙」について「問題と解答」を「プリズムのようなもの」として使用しながら再び考えてみることにする。
 
 繰り返しになるが、何が何でも特定政党・特定候補者に投票するというような人たちを除けば、実際にはかなり多くの人たちは「選挙」が非常に近くなってから初めて「その選挙」で問われる種類の「政治」を慌てて考え始めることになるのかもしれない。筆者の言う「一夜漬選挙」とは、試験などでの「一夜漬」と同じような状態で自分が投票する政党や候補者を決めることを意味している。多くの「選挙」も試験での「一夜漬」などと同じようなものになってしまっているのである。
 
 実際に有権者が「一夜漬」の状態で投票する政党や候補者を決める過程を試験問題の話と比較しながら考えてみることにする。もしも「選挙」が「記述式の試験問題」のようなものだったとしたら投票日前日に「一夜漬」に追い込まれてしまった有権者はどうするだろうか。例えば、もしも選挙が「議員や首長にはこの選挙区内で誰が一番ふさわしいのか。そのように考えた理由を示しながら分かりやすく説明してください」などという「記述式の試験問題」のようなものだったとしたら、「一夜漬」に追い込まれなかった有権者を含めたかなり多くの有権者が「白紙かそれに近い答案」を提出せざるを得なくなってしまうだろう。もちろん試験とは違って「選挙」は欠席(棄権)しても少なくとも当面は大きな問題が発生するようなことはない。だったら棄権すればいいということになってしまうことも実際には少なくはないのかもしれない。だが、幸いなことに「選挙」は「記述式の試験問題」のようなものではなく、どちらかと言えば「選択肢を選ぶ試験問題」に近いのである。よって「一夜漬」でも十分になんとかなりそうなのである。
 
 読者の中には、試験前日までに様々な「自分なりの確実な方法」で見つけた「試験に出そうなところ」(→正解?)を「丸暗記」したり、試験時間中に様々な「自分なりの確実な方法」で「正解(?)」の選択肢を選び出したりしたという経験を持っている人たちも少なくはないだろう。「選挙」を「選択肢を選ぶ試験問題」と同じようなものだと考えるのならば、試験での「一夜漬」のノウハウは「選挙」の場合にも十分に活かすことができることになるのである。
 
 当たり前と言えば当たり前の話だが、「選挙」では投票用紙に名前を書く候補者を決めることができれば、それでとりあえずは「正解」に限りなく近い状態になるのである。なぜなら、とりあえずは何が「正解」なのかが誰にもよく分からないから、あるいは、「正解」はたった1つだけとは限らないからである。よって有権者は自分が「正解」だと思う候補者を決めれば「一夜漬」の対策は完了するのである。つまり、支持する政党や候補者が決まっていなくても、何らかの「自分なりの基準」があれば「一夜漬」の対策はあっと言う間に完了してしまうのである。
 
 そして実は明確な「自分なりの基準」を持っていない場合であっても、「一夜漬」の対策はそれほど時間がかからずに完了してしまうのである。この政党やこの候補者は不祥事などがあったから信用できないとか、この政党やこの候補者の方が別の政党や候補者よりもまだましだとか、ベテラン政治家よりもしがらみのない素人の方が改革が進みそうだとか、実際には様々な形の「消去法」で投票する候補者や政党を決めることができるのである。そして極端な場合には根拠のない空虚なイメージだけで投票したくない候補者や投票したい候補者を決めてしまうこともできるのである。
 
 前者の「自分なりの基準」があるときは、試験で「正解」が何かを知っているときに「正解」の選択肢を探して解答するような場合、後者の「自分なりの基準」が明確ではないときは、試験で「正解」をなんとなくしか覚えていないときに消去法で「正解」の選択肢を探して解答するような場合と同じような状態であると考えると分かりやすくなるのかもしれない。
 
 やはり選挙の事務処理を考えれば、有権者にとっての選挙が「選択肢を選ぶ試験問題」のようになるのはやむを得ないことなのかもしれない。だが、有権者が「正解」を選びさえすればそれでいいというものでもないはずである。例えば、いいかげんに選んで偶然「正解」になった人たちと真面目に考えてなんとか「正解」にたどり着いた人たちを全く区別しなくてもいいのか、「正解」が導き出されるまでの過程などは全く問題にされなくてもいいのか、などという疑問はやはり残るのである。確かに選挙の事務処理を考えれば、選挙が与えられた候補者名や政党名を選ぶという形の「選択肢を選ぶ試験問題」のようなものになるのはやむを得ないことなのだろう。しかし、その「選択肢を選ぶ試験問題」はいったい誰が作るのかということだけはどうしても問題にしておかなければならないのである。
 
 実際にかなり多くの選挙では、立候補者の顔ぶれなどの「選択肢」の内容は政党・政治家側が一方的に決めている。だが、有権者の側もその気になりさえすれば、候補者選びに参加したり自分自身が立候補したりするなどという形で「選択肢」の一部を作ることもできるはずである。そして「選択肢」作りに全く参加しなかったとしても、「選択肢を選ぶ試験問題」の「問題文」の内容をどうするかや、どの「選択肢」を「正解」にするのかなどということはそれぞれの有権者が自由に決めることができるのである。どんなに少なくとも「問題文」の内容や何を「正解」にするのかなどということはそれぞれの有権者が自由に決めることができるということだけは絶対に見失ってはならないはずである。
 
 ところが現実はいったいどうなっているのだろうか。テレビをはじめとする既存のマスコミの中の知的レベルの低い人間たち、勘違いした偽物の専門家や政治家たちが作った「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」をそのまま素直に受け入れ、せっせと「一夜漬」を繰り返している人たちも少なくはないのである。言うまでもなくテレビをはじめとする既存のマスコミの中の知的レベルの低い人間たち、勘違いした偽物の専門家や政治家たちは、彼・彼女ら自身の利益や知的レベルの壁にとらわれて「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」を作っているのである。最も極端な例を1つ挙げると、例えば「このままおとなしく持っているカネを全部渡すのか」、それとも「痛い目に遭ったり命を奪われてからすべてを奪われるのか」などという「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」に本当に「正解」の「選択肢」が存在するのだろうか。この具体例ほどひどいものではなかったとしても「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」を自分自身の問題として「修正」するようなこともなくそのまま受け入れるのはあまりにも愚かな行動である。筆者が「お任せ民主主義」、そしてそれを支える「一夜漬選挙」を厳しく批判する理由が多くの読者に理解してもらえただろうか。
 
政党・政治家側の視点からの「一夜漬選挙」
 
 さて、今度は逆に政党・政治家側の視点から「一夜漬選挙」を考えてみることにする。そもそも本物の政党・政治家というものは、自分たちの政策や目指す社会を実現するために政党・政治家として存在しているはずである。従って政党・政治家というものは理想的には自分たちの政策や目指す社会を実現するための「政治活動」を熱心に行うはずである。ところが現実には選挙で当選することが政策実現よりもずっと重要だと考えている政党・政治家がかなり多いのである。当選することが何よりも重要であるということになると、最悪の場合にはとにかく自分たちに投票してもらえばどうでもいいというような安易な発想に流れていくのかもしれない。だからこそそう遠くないうちに行われるであろう選挙のための「選挙活動」や、自分たちが「正義の味方」や「弱者の味方」であるかのように偽装するための「政治運動」を繰り返していくことになるのだろう。
 
 とにかく自分たちに投票してもらえばどうでもいいというような安易な発想に流れる政党・政治家は、連日早朝から駅前などで「政党名」や「名前」の書かれたノボリやポスターなどを掲げながら「おはようございます」などと繰り返し頭を下げてみたり、「日本をどうにかしないといけない!」「変わらないといけない!」「改革が必要です!」などと「壊れたテープレコーダー」のように中身のない「演説のようなもの」を繰り返しながら「政党名」や「名前」を連呼したりする「選挙活動」を繰り返すことになるのだろう。
 
 そしてとにかく自分に投票してもらえばどうでもいいというような安易な発想に流れる政党・政治家は、事情がよく分からない人たちにとっては、あたかも自分たちが本物の「正義の味方」や「弱者の味方」であるかのように見える様々な「偽装工作」を行うようになっていくのかもしれない。もちろん政党・政治家側の「偽装工作」はそれほど高等なものではない。例えば、テレビドラマや映画の中では格好良く登場した「少年」が「仲間が演じる不良」をやっつけて「憧れの彼女」を守るとか救い出すなどという場面がよく出てくる。あるいは、様々な店でサボっていると思われたくない店員が、わざとらしく商品を並べ直したり、そうじをしてみたりするようなこともよく見かけることだろう。そういう類のことをイメージすると政党・政治家側の「偽装工作」が少し分かりやすくなってくるのかもしれない。
 
 さすがに最近の永田町周辺では「マッチポンプ」(→「(和製語。マッチで火を付ける一方、ポンプで消火する意)意図的に自分で問題を起しておいて自分でもみ消すこと。また、そうして不当な利益を得る人…(後略)」(広辞苑(第五版)、岩波書店))のような「本格的な偽装工作」はそれほど多くはないのかもしれない。だが、それでもやはり「正義の味方」や「弱者の味方」を装うためのちょっとした「偽装工作」ならばかなり多く見られるのである。いくつか具体例を挙げておこう。例えば、約1年前に「よこしまな政治家たち」が引き起こしていた「靖国問題の争点化」などというよこしまな動き、また最近の「産む機械」発言批判の中に紛れ込んでいる一部の自己中心的な動き、などは比較的分かりやすい「偽装工作」の具体例である。確かにあれだけ靖国参拝が波紋を広げていたときに「靖国問題の争点化」などを唱えればそれなりにもっともらしく聞こえたのかもしれない。そしてこれだけ「産む機械」発言の波紋が広がっているときに「産む機械」発言を厳しく批判すれば実にもっともらしく聞こえるのかもしれない。だが、ほとんどの人たちが何が「正解」かをよく知っている状態でもっともらしく「正解」を唱えている政治家たちがいる場合には、そういう政治家たちの「本音」や「動機」にはよくよく注意をする必要があるのである。
 
「選択肢を選ぶ問題」と「記述式の問題」
 
 ここでとにかく自分たちに投票してもらえばどうでもいいというような安易な発想に流れる政党・政治家側の行動を試験問題の話と比較しながら考えてみることにする。少し前に触れたように、有権者から見れば選挙は「選択肢を選ぶ試験問題」と同じようなものだと考えることができる。従って有権者に選挙で投票してもらうためには、何とかして政党・政治家側が有権者が解く「選択肢を選ぶ試験問題」で「正解の選択肢」になればいいということになるのである。そして自分たちが「正解の選択肢」になるためには、有権者に自分たちが政治家として有能だとか政権担当能力があるなどと思ってもらうことができさえすればいいということになる。そのような事情から安易な方向に流される政党・政治家側は様々な「偽装工作」を行うようになっていくのだろう。
 
 例えば、テレビ討論や国会質問などで相手を一方的にやっつけて自分が政治家として有能であるかのようなイメージを国民に与えることができれば、選挙でその政治家を「正解の選択肢」として選ぶ有権者が増えることもあるのかもしれない。あるいは、多くの国民が選ぶ「正解」が予想できるような場合には、自分たちが「正解の選択肢」になり、その他の政党・政治家はすべて「不正解の選択肢」にしてしまうような「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」を無理矢理作り出して選挙の「争点」にしようとするようなこともあるのである。
 
 最近の事例を用いて政党・政治家側の「偽装工作」をもう少し具体的に説明することにしよう。今ならば日本のほとんどすべての人たちが「産む機械」発言は不適切という「正解」をよく知っているはずである。そして今ならばまだあちこちで多くの人たちが「産む機械」発言を厳しく批判していることだろう。よって「産む機械」発言はなぜ不適切なのかという「理由」が全く分からない人間であっても、その気になりさえすれば「正解」とその「理由」を簡単に入手することができてしまうことになるのである。要するに、今ならばたとえどんなに女性を差別するような不適切な考えを持った人間たちであっても、女性は人口政策の対象ではないとか、産むかどうかを決めるのは女性だとか、産みたくても産めない女性もいるとか、もちろん女性を機械や装置に例えたことも悪いなどと、さももっともらしく「理由」を挙げながら「産む機械」発言を厳しく批判することは簡単にできるのである。
 
 そのように考えていけば、政治家の場合には、「正解」の選択肢を選んだかどうかを確認するだけでも、「正解」と「理由」が共に正しいかを確認するだけでも、まだまだ不十分だということが多くの読者にもよく分かってもらえることだろう。やはり少なくとも政治家の場合には、「正解」を導き出した過程、「正解」と「理由」の間の説明も問う必要があるのである。要するに、政治家には、可能な限りすべての場合に「選択肢を選ぶ試験問題」ではなく、ある程度工夫をした「記述式の試験問題」を出題して採点しなければとんでもないことになるということである。
 
 繰り返しになるが、確かに選挙の事務処理を考えれば、有権者にとっての選挙が「選択肢を選ぶ試験問題」のようなものになることはやむを得ないことなのだろう。だが、どんなに少なくとも有権者は、テレビをはじめとする既存のマスコミの中の知的レベルの低い人間たち、勘違いした偽物の専門家や政治家たちがつくった「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」を不適切な問題だと見抜くことができなくてはならないのである。さもないと、知的レベルの低い人間たちや偽者の専門家、選挙で当選することが何よりも大事な政治家たちに簡単に騙されてしまうことになってしまう。もちろんできることならば有権者の側も「正解」を導き出した過程をきちんと説明できるようにし、場合によっては「記述式の試験問題」にも対応できるようにしておいた方がいいのかもしれない。
 
 それにしても有権者の日常には「選択肢を選ぶ試験問題」のようなものがあまりにも多くあふれている。世論調査などでも、○○には賛成か反対か、○○を支持しますか支持しませんか、どの政党を支持していますか、などという「選択肢を選ぶ試験問題」のようなものがほとんどである。最悪の場合には、どこかで聞いたような「理由」を借用して「正解」を探す「一夜漬選挙」のリハーサルを繰り返していくことになるのかもしれない。そしてあまりにも「選択肢を選ぶ試験問題」ばかりがおなじみになってくると、「あなたは今の日本の政治をどう考えますか。そう考えた理由を具体例を挙げながら分かりやすく説明してください」などという「記述式の試験問題」には全く歯が立たなくなってしまう人たちが多くなっていくのかもしれない。
 
 政治家の側にいくら「記述式の試験問題」を出題したとしても、有権者が「正解」とその「理由」の部分にしか興味を示さなければ全く意味はなくなってしまう。そしてテレビをはじめとする既存のマスコミの中の知的レベルの低い人間たち、勘違いした偽物の専門家や政治家たちが作った「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」の中で無理矢理「正解」を探すことに全く何の疑問も感じないような有権者の数が増えていけば、「お任せ民主主義」も末期状態になってしまうのかもしれない。確かに選挙の事務処理を考えれば、有権者にとっての選挙が「選択肢を選ぶ試験問題」のようなものになることはやむを得ないことなのかもしれない。だが、有権者はどんなに少なくとも「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」を不適切な問題だと見抜くことができなくてはならないのである。そして有権者は「問題文」の内容や何を「正解」にするのかなどということは自分自身で考えて決めなくてはならないということをあえて強調しておくことにする。


あえて本物の入学試験問題の話
 
 繰り返しになるが、確かに選挙の事務処理を考えれば、有権者にとっての選挙が「選択肢を選ぶ試験問題」のようなものになることはやむを得ないことなのかもしれない。だが、「お任せ民主主義」とそれを支える「一夜漬選挙」から脱却するためには、有権者はどんなに少なくとも「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」を不適切な問題だと見抜き、「問題文」の内容や何を「正解」にするのかなどということは自分自身で考えて決めなくてはならないのである。「お任せ民主主義」とそれを支える「一夜漬選挙」から脱却する効果的な方法を模索するために、あえて本物の入学試験問題を参考にしてみることにする。
 
 「(1) 一般角θに対してsinθ、cosθの定義を述べよ。 (2) (1)で述べた定義にもとづき、一般角α、βに対して sin(α+β)=sinαcosβ+cosαsinβ、cos(α+β)=cosαcosβ−sinαsinβ を証明せよ」(1999年前期の東京大学入学試験問題・数学(第1問、文系・理系共通))
 
 ここからしばらくの間は数学が苦手な人たちにはつまらない話が続くことになる。引用したのは、知る人ぞ知る「受験産業」に「出題者の意図」をめぐって波紋を広げたという有名な東京大学の入学試験問題である。確かにこの問題に「正解」するために必要なすべての知識はどの教科書にもそのままの形で掲載されている。つまり誰でも教科書に掲載されている「正解」と「理由」を記憶していれば何とかなりそうな入試問題だったのである。確かにそういう意味では「教科書レベル」の入試問題ということになるのだろうし、「定義や公式の意味をしっかりと理解している受験生」と「定義や公式の意味を曖昧なままにしたり丸暗記でごまかしたりしていた受験生」の間で差が付いたということも間違いないと思う。だが、筆者は本当にそれだけでしか差が付かなかったのかと疑問に思っている。
 
 高校数学の三角関数の分野には「加法定理」(→上の(2)の式)以外にも非常に多くの「公式」があるが、それらのすべての公式を暗記しようとするような人たちはまずいないことだろう。「単位円」と「動径」の交点の座標を(cosθ, sinθ)と定義すれば、「単位円」とそれに内接する「三角形」をいくつか組み合わせることによって「加法定理」を導き出すことができ、その「加法定理」から「積と和の交換公式」や「2倍角の公式」などのほとんどの「公式」を導き出すことができるということを知っている読者も少なくはないだろう。そういうことはいわゆる理科系の出身者だけではなく、文科系の出身者でもそれなりに数学を真面目に勉強したことのある人たちならば誰でも知っている「常識」である。
 
 筆者が何を言いたいのかと言うと、「sinθ、cosθの定義」とそこから「加法定理」を導き出していく過程をチェックすれば、その受験生が「三角関数」の分野の基礎知識をどのように整理して理解・記憶しているのかがかなり正確に分かる可能性が高いということなのである。さらに言えば、その受験生がその他の分野や科目についても解法などの丸暗記をせずにきちんと自分なりに整理して理解・記憶しているのかどうかも推測することができるということなのである。もしかするとこの問題で求められているのが「単なる知識以上のもの」だとすぐに気づいた受験生は「単なる知識以上のもの」をどう表現するかということを意識して解答したのかもしれない。つまり、この問題は数学の教科書レベルの基礎知識の持つ意味をきちんと理解しているかどうかだけではなく、知識の整理方法の適切さなどを同時に問うことも不可能ではなかったと考えられるのである。
 
 ここから先はあくまでも「出題者の意図」とは全く無関係な「頭の体操」になるが、受験生たちが統計的に一定以上の高いレベルにある場合には知識の整理・理解方法などにも様々な差が出てくるであろう。そして出題した側が実際にそのような様々な差を問題にする必要がある場合には目的に応じた様々な基準によってそれらを評価することも不可能ではないということになるのだろう。「三角関数」の「要点」をあえて出題したこの入試問題は「正解」になった受験生たちをさらに様々な基準で再分類することも可能にする「プリズムのようなもの」になったのではないかと筆者は考えている。
 
 もしもこういう「プリズムのようなもの」になる「記述式の試験問題」を政治家たちに出題し、「正解」と「理由」だけではなく、情報の持つ意味の理解や知識の整理の仕方なども含めて「正解」を導き出す過程をチェックすることができるのならば、それぞれの政治家の能力をかなり正確に有権者に示すことができるかもしれないと筆者は考えている。そしてそのような「記述式の試験問題」を出題するのは本物の政治家と政治ジャーナリズムの責任であると筆者は考えている。
 
「教育」から「政治」も変化するのか
 
 「(前略)…入試問題の中身こそが、かくも重要な役割を持っているということに気づき、採点がしやすく、答えがはっきりしている問題づくりからあえて脱却して、場合によっては採点も大変だが、本質に目を向けて学習してきた、研究者の素質を持った学生を採れるような問題を、努力してつくる姿勢を持った大学だけが生き残っていくのだ。 おそらく各大学は二〇〇六年、つまり『さらなるゆとりの教育課程』で学習してきた学生が入学してくる年に焦点を当てて準備しているはずだ。 さて、このように大学入試問題の中身が変わることにより、中等教育も変わっていくだろうことは想像に難くない。いままでのように記憶、ドリル型の生徒を製造していたのでは、研究者、高級技術者養成大学の入試に敗北してしまうからである。難関大学に生徒を送り出せないのである。当然、高等学校や中学校では学習指導の方向が変わってくるはずだ…(後略)」(丹羽健夫著、「予備校が教育を救う」、文春新書411(文藝春秋)、2004年、p172-173)
 
 「(前略)…(筆者注:東大後期試験では)たしかに、試験科目名も[外国語]ではなく[論文]となっている。 ところで、文系の後期には数学の普通の問題を課す、といったような改革を行う時期にきているのではないかと強く感じる。建て前だけでも数学を入試科目に入れること。そのことによる社会的な効果は、現状の制度よりもはるかに大きいはずだと予見できるだろう。また受験生の側にもそのことに異論はないはずだし、それは、結局は若い受験生のためになることなのだと強く感じる…(後略)」(鬼塚幹彦・T.D.ミルトン著、「『東大』英語のすべて(上)」、研究社出版、1999年、p18)
 
 ほとんどの読者は2006年秋に大きな波紋が広がった高校などにおける「未履修」問題をまだ覚えていることだろう(→参考:2006/11/30号)。「未履修」問題は大学入試が高校などに与えた悪影響の典型例である。そして発想を転換すれば、大学入試制度を上手く設計すれば高校以下の学校教育に良い影響を与えることも不可能ではないということに気づくことになるのだろう。筆者が長期的な観点から学校教育、そして日本社会に良い影響を与える可能性がある動きとして注目しているのは、いくつかの「記述式の試験問題」関連の入試改革である。
 
 例えば、東京大学は2008年から文科系・理科系共通の新しい後期試験を導入する。「理科三類を除く、全科類を一本化して募集する。なお、入学手続きの際に進学科類を登録する(理科三類を除く全ての科類に進むことが可能である。)」「合格者の判定は、第2次学力試験の結果に基づいて行う。 ただし、判定に必要のある場合は、大学入試センター試験の総得点や調査書を考慮することがある」などという選抜方法、そして「英語の読解力と記述力を見る。(英語読解・記述を通して、表現力、構成力などを審査する。)」「事象の解析への数学の応用力を見る。(自然や社会のさまざまな事象を数学的に解析することを問う…(後略))」、「文化、社会、科学等に関する問題について論述させ、理解力・思考力・表現力を見る」という3種類の「総合科目」(配点各100点)による試験になる(以上、東京大学のホームページ上の「平成20年度東京大学入学者選抜後期日程試験の実施教科・科目及び配点等について(予告)」から。参照:http://www.u-tokyo.ac.jp/stu03/e01_010_j.html)。
 
 もちろん導入後何年か経過してみなければ効果などはよく分からないわけだが、東京大学の新しい後期試験は、少し前に取り上げた「三角関数」の入試問題と同じかそれ以上に、その気があれば受験生の持っている「単なる知識以上のもの」を見極めることができる可能性が高いと筆者は考えている。ちなみに最近話題の公立中高一貫校の「適性検査」問題などでも「記述式の試験問題」が導入されてきている。東京大学のような論述型の文科系・理科系共通入試が一定の成果を上げて導入が広がっていけば、大学受験の現状や高校以下の学校教育などに大きな影響を与えることになるのかもしれない。いずれにしても「受験産業」が「受験対策」の商業的成功をそう簡単に期待することができなくなるような非常にレベルの高い「記述式の試験問題」を継続的に作成し続けることができるかどうかが成功の鍵になるのだろう。
 
 日本社会を変化させるためには、日本社会の大多数の人たちが、大学入試でも、高校入試でも、そしてまた中学入試でも、いくら多くの知識を丸暗記したり様々な受験テクニックを習得したりしたとしても、それだけでは合格が約束されないという当たり前のことをまず確実に理解する必要があると筆者は考えている。大多数の人たちが今以上に「単なる知識以上のもの」を重視するようになるのならば、やがて根拠のない「学歴神話」の崩壊にもつながっていくだろうと筆者は考えている。
 
 ちなみに筆者に言わせれば、根拠のない「学歴神話」を崩壊させることや「受験」改革も長期的見れば「少子化対策」につながっていくのである(→参考:2006/8/22号etc.)。さらに言えば、「単なる知識以上のもの」を重視する教育や受験勉強を経験した人たちの数が増えていけば、偽物の専門家や政治家たちが出題する「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」をすぐに見抜くことができる有権者の数も増えることになり、長期的な観点から捉えれば「お任せ民主主義」とそれを支える「一夜漬選挙」からの脱却にもつながっていくのかもしれない。多くの読者に「教育」から「政治」を考えていくことの有効性を実感してもらえてきているだろうか。
 
「珍問」などの不適切な出題
 
 「(前略)…入試事務局や広報担当の人たちは学生募集に日夜骨身を削っているのだ。これらの人たちは学生募集にあたって入試問題が、きらびやかなパンフレットや見てくれのキャンパスのリフォームより、はるかに重要であることを知っている。 受験生は受験出願直前に、幾つかの候補大学の中から最終的に受験する大学を決定する。その決定の際に、最も大きな影響をあたえるのが入試問題である。受験生は過去何年かのその大学の問題、いわゆる『過去問』をやってみて相性を推し量るのだ。過去問の中で教科の内容とは関係のない問題に出会ったら、それだけで多くの受験生はその大学に見切りをつけるであろう…(筆者注:データ表部分は中略)…一部の大学の事務系の人々が自分の大学の出題に批判をもちながら、教授系の人たちに対して立場上なかなか発言できないもどかしさを、胸のうちに押し殺している事実をヒシヒシと感じる。 また、これらの大学関係者からは、近年大学入試問題が粗悪化した理由について重大な情報を提供してもらった。 その一つは、九一年の大学審議会の答申により、ほとんどの大学から教養部が徐々に姿を消していったことである…(後略)」(p67-70)、「入試問題粗悪化のいま一つの理由は、私立大学の入試の多様化・複線化である。 ワンパターンでないさまざまな能力をもった学生を入学させるためと、少子化による大学冬の時代に備えての志願者確保のため、お客様(受験生)に可能な限り受験しやすい状況を作るため、私立大入試はいまやなんでもありなのである…(中略)…このため、方式の異なる試験ごとに、また日程の異なるごとに別の試験問題を作らねばならず、作題量は累増した…(後略)」(p71-72)
 「(前略)…言うまでもないことだが、入試問題というものは中等教育に絶大な影響力をもっている。 もちろん中等教育の目標は、ただ単に大学入試突破にあるのではない。しかしながら多くの生徒および教師にとって、現実には大学入試が中等教育の総決算であるという意識が強く根づいているのも確かである。言い換えれば大学入試の問題の中身が、中等教育の現場の教育に決定的な影響力をもっている、と言っても過言ではないであろう。 大学入試問題が断片的な知識のみを要求したとするならば、日本中の教育現場は知識詰め込み道場と化すであろう。逆に思考力、創造力を求める問題が多く出るならば、現場の教育はそれに対応するであろう。また教育課程を無視した問題が出されるならば、教師は混乱し、生徒は学校の授業を信頼しなくなるであろう。 それよりも何よりも、悪問はちゃんと勉強した生徒に対して失礼であろう…(後略)」(p96)
 (以上、丹羽健夫著、「悪問だらけの大学入試」、集英社新書(0071E)、2000年)
 
 「本年2月20日に実施いたしました2006年度政治経済学部一般入学試験『世界史』の問題のうち、V-A-4(5頁)に対する選択肢に正解として扱うことのできるものが二つありました。 本学部といたしましては、受験者の方々に不利益が生じないように適切に対応するため、いずれを選択した場合も配点することにいたしました。 受験者の皆様にはご迷惑をお掛けしましたことをお詫び申し上げます なお、上記の取り扱いについては、当該科目受験者全員に郵便にても通知いたします」(2006/2/22付の早稲田大学政治経済学部ホームページ上でのお知らせ。参照:http://www.waseda.jp/seikei/seikei/files/2006_sekaishi.html)
 「下線部f (筆者注:西ゴート族) の王国は現在の地域名から言ってどこに建設されたか。 ア アフリカ北岸 ロ 北イタリア ハ スイス ニ 南フランス ホ イベリア半島」(2006年の早稲田大学政治経済学部入学試験問題(世界史、V-A-4)から。ちなみに「正解」として扱うことができるのは「ニ」と「ホ」)
 
 ここで再び大学入試の悪影響を取り上げることにする。大学入試の悪影響は、高校以下の学校教育だけに及ぶのではなく、実は大学側にも跳ね返って戻ってくるのである。貴重な試験時間中に無駄な時間を浪費させられる危険性を重視する受験生にとっては、自分が受験する大学の入学試験で「珍問」などの不適切な出題が繰り返される傾向があるのかどうかということも非常に重要な情報になってくるのだろう。そして言うまでもなく不適切な出題は、その大学・学部に対する受験生のイメージを悪化させるだけではなく、その大学・学部の教員の質の低さをアピールしていることにもなるのである(→参考:2006/2/8号etc.)。ちなみに不適切な出題をした善後策として全員に得点を与えた場合であっても不利益は不十分にしか解消されないのである。「珍問」のために一度浪費させられた貴重な試験時間は決して戻ってこないからである。
 
 言うまでもなく大学側にとっても受験生にとっても「珍問」などの不適切な出題がない方がいいに決まっている。だが、既に出題してしまった不適切な試験問題はいくらごまかしたとしても消えてなくなることだけは絶対にないのである。従って各方面への「被害」を最小限に食い止めるためにも、大学側は一刻も早く不適切な出題を明確に認めてお詫びし、その事実を広く公表する必要があるということになるわけである。入学試験で不適切な出題をしてしまった大学側に求められる対応は、基本的には「欠陥商品」を販売してしまった企業などに求められる対応と何も変わらないはずである。もちろん一般に不祥事などは公表が遅れれば遅れるほど、また隠そうとすれば隠そうとするほど、かえってダメージが大きくなるものである。
 
 最近は一昔前と違って大学側も不適切な出題を明確に認めてお詫びすることが多くなってきている。だが、それでもやはり、問題文の表現が明らかに不適切であるとか、あるいは、正解が存在しないとか、その選択肢が正解になる根拠が不明などというような「珍問」のすべてを大学側がお詫びして公表しているというわけではないのである。そして大学側が不適切な出題を認めてお詫びした場合であっても、翌年以降の受験生たちに対して積極的に情報提供を行うようなことはほとんどないのである。また、どういうわけか一部の「受験産業」も不適切な入試問題には非常に鈍感である。
 
 2007年入試でも既にいくつも出題ミスなどが明らかになっている。学校選びの際に入試問題を大いに参考にするという人たちは、既存のマスコミや「受験産業」の出題ミス関連の情報が入手しにくくなってしまう前の今の時期からよく注意をしておく必要があるのかもしれない(→参考(大学入試解答速報):例えば、駿台予備学校http://www.sundai.ac.jp/yobi/sokuhou2007/index.htm、河合塾http://hiw.oo.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/07/ etc.)。
 
 ちなみに念のために言っておくが、入試問題に不適切な出題が見られない大学の方が「珍問」などの不適切な出題を繰り返す大学よりも教員の「質」が高いとは限らないのである。今もほとんどの場合には入試問題を実際に作成しているのは大学の教員だと考えられる。だが、仮にそれぞれの大学の教員の「質」が全く同じだとしても、出題担当者は全部で何人いるのか、また全学部の中から選ばれるのか、それともそれぞれの学部の中から選ばれるのか、そして入試問題を何種類作成するのか、などという条件が違っていれば入試問題の「質」も違ってくるはずである。賢明な読者は「対照実験」の話を思い出してみるまでもなくそういうことには既に気づいていることだろう。
 
 当たり前と言えば当たり前の話だが、大学入試センター試験のように問題作成にかなりの労力を費やすような場合であっても完璧な「選択肢を選ぶ試験問題」を出題することができるとは限らないのである。そういう意味では受験生にも「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」を不適切な問題だと見抜く能力が重要になってくるのかもしれない。
 
 本物の入試問題を具体例に用いて考えていけば、テレビをはじめとする既存のマスコミの中の知的レベルの低い人間たち、勘違いした偽物の専門家や政治家たちが作った「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」の中で無理矢理「正解」を探すようなことが実に愚かな行動だということを多くの読者によりよく理解してもらえるのかもしれない。くどいようだが、有権者はどんなに少なくとも「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」を不適切な問題だと見抜くことができなくてはならないのである。そして有権者は「問題文」の内容や何を「正解」にするのかなどということは自分自身で考えて決めなくてはならないはずなのである。


 最後に永田町周辺に戻って「問題と解答」を「プリズムのようなもの」として使用しながら日本の政治を分析してみることにする。ちなみに筆者は、一般に国会質問や答弁では、特定のイメージを演出して逃げ切りたい側は、何とかして議論を「記述式の試験問題」のようなものではなく「選択肢を選ぶ試験問題」のようなものに変えようとする傾向があると捉えている。
 
「不正解」の選択肢を無理矢理選ばせるような国会質問
 
 民主党の菅直人代表代行の「(前略)…格差は拡大していないという見方もある。こう答えられてますね。今でもそういう認識をされているんですか。それともその後の議論を経て、やっぱり格差は拡大していた、なんとかしなきゃいけない、そういうふうに考え方を変えられたんでしょうか。いずれでしょうか」に、
 安倍首相は「まず…、菅委員がですね、私が格差から逃げている…、そういう指摘がございましたが、それはまず全く当たらないということは申し上げておきたい、このように思います。まずは、格差は…、格差は何か。格差は何かということをハッキリとさせる必要があるであろうと、このように思うわけであります。一生懸命頑張った人、汗を流した人と、まあ、そうでもない人がある程度の差が付く…。これは、ある意味では、みんな当然のことだろうと、こう思っているんだろうと思います。しかし、その結果が、不公平や、不公正な競争の結果であってはならない。あるいはまた、これはもう…、日本の社会では許容できないような差があると。ということであれば、それはやはり問題であろうと、このように私は考えているわけでありまして、ですからその中で、何度でもチャンスのある社会をつくらなければいけない、という中で、再チャレンジ可能なチャンスにあふれた社会をつくるための、我々は政策を推進をしてまいります。さらにはやはり、成長の…、下支えをしている基盤を強化していくことによってですね、経済全体が下からも、どーっとこう…、成長していくような、そういう社会をつくっていくための成長力の底上げ戦略も進めていかなければならないと、こう考えているところであります…(中略)…生活をしていく上において、どうしても必要な生活必需品を獲得できない、取得できない人たちの割合…、この人たちがいわば、絶対貧困と言われる方々であって、その比率がどうなっているかと言えば、日本は…、世界…、先進国の中では、最も、その絶対貧困と言われている方々の比率は低い水準にあるということでございまして、そういう状況もご理解をいただきたい。そこで…、しかしそこが大切なところであるわけであります。その上で、その上で…、相対的な、相対的な貧困率ということになりますと、日本はOECDで…、ま、5番目という、まあ、そういう指摘もあるわけでありますが、別の基礎統計を使うとですね、OECDの平均を下回るという数値もあるわけでございます。しかし、まあ、そうした分析とは別に、やはり格差があると感じている人たちがいるのであれば、また、そういう地域があるのであればですね。一生懸命頑張っているけれども、なかなか生活が向上していないという地域があるのであれば、そういう地域にも光を当てていくというのが、安倍政権の一つの柱でございます。そのための地域活性化をはじめ、頑張る地方を応援をしていく政策を推進をしていく考えであります」などと答弁し、
 それに対して菅氏は「今の、あの…、答弁を国民の皆さん聞かれてどうでしょうか。格差を感じてきている人があるのであれば、また、格差が…、地域的な格差があるのであれば…。『あるのであれば』ということを二度言われましたね…(中略)…格差が存在することは紛れもない事実であると考えますと。私が言っていることと同じことをアベミキオさんは言われてますね。(場内からの『青木幹雄さん』に)ああ…、青木幹雄さん(筆者注:自民党参院議員会長)が言われていますね。こういった意味でですね、結局のところは…、結局のところはですね、安倍総理がいかにこの格差という問題の認識が甘いか。『あるのであれば』ではなくて、あるんですよ。多くの皆さんがそれをですね、痛感している。その具体的な数字を先ほど述べました。絶対貧困率のことも言われました。まあ、いろいろと勉強されたんでしょう。しかし、格差という言葉は差を表しているんですよ。ですから、格差という問題は差がどれだけ広がっているかなんです…(後略)」などと述べていた(以上、2007/2/13の衆院予算委における民主党の菅代表代行の質疑から)。
 
 もしもこの国会質問を読んだだけで安倍首相が「格差」から逃げていることがよく分かったとか、格差是正に消極的だということがよく分かったなどというイメージを少しでも抱いてしまった読者がいるのならば、そういう読者は要注意である。そして、もしもこのような質問をする政治家を「論客」などと評価する自称・政治記者や政治家たちがいるのならば、そういう人間たちは猛烈なスピードで決裁書類に印鑑を押している「社長」を見るとそれだけで「有能な社長」だとチヤホヤすることになるのだろう(→参考:2006/11/30号)。賢明な読者は、この質問が「格差という問題は差がどれだけ広がっているか」などという非常に狭い視野で捉えて相手を何が何でも「不正解」にしようとするような「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」のようなものだということにすぐに気づいたことだろう。
 
 政府・与党に無理矢理「格差から逃げている」などという「不正解」の選択肢を選ばせた上で、一方の自分たちは格差是正に熱心に取り組んでいるなどというイメージを演出しようとするような自己中心的な質問で本当に格差問題の議論が深まるのだろうか。
 
 また、国会質問では、たとえどんなに不適切な選択肢だらけの「珍問」を出題されたとしても、答弁するときには「記述式の試験問題」に変えることができるはずである。安倍首相は、格差とは何と何の間に何のために生まれたものなのかなどということを明らかにした上で、どのような格差をどのような理由からどのような手段によって解消していくつもりなのかなどということを分かりやすく国民に説明していたのだろうか。
 
 そのようなことを一人ひとりが判断していく必要があると筆者は考えている。そして一人ひとりが判断していく場合には、「正解」とその「理由」だけではなく、「正解」を導き出すまでの過程、「正解」と「理由」の間の説明などを正しく評価していくことが必要になるのである。政治家としての能力は「記述式の試験問題」のようなものによって判断されるべきだということが多くの読者によりよく分かってもらえただろうか。
 
「記述式の試験問題」のような国会質問
 
 今度は比較的議論がかみ合った「記述式の試験問題」のような国会質問とはどういうものかということを示す具体例を挙げることにする。最近の事例の中から比較的分かりやすい具体例を1つ挙げると、
 
 民主党の岡田克也元代表の「(前略)…アメリカとインドの間の、米印の原子力協定ですね。ま、これについて、記者会見で問われて、総理はまだ日本政府の態度は決まっていないと、こう言われました。ま、私はこれは絶対に簡単に認めてはならない話だと。ま、こういうふうに思っているんです。つまり、これは、結局…、今までの国際的なルールに反して核を持ったインド…、もちろんパキスタンもそうですけれども、そこに対してそれを是として認めて、そして一定の核燃料を供給していくということです。今でもインドは、ま、50発、60発ぐらいの核を持っているのではないかという話もありますが、そういう形で、アメリカが核燃料を、一定の…、民間の原子力発電に供給することで、インド自身が自家生産する核燃料…、それを核兵器の生産に当てることができる。おそらくインドが100発、200発の核兵器を持つのは時間の問題になってしまうだろうと。こういう議論もあるんです。つまり今までの5つの国が核を持ってきた時代から、インドを含めた大きな6つの核大国が出てくる。そういう瀬戸際に今あるんだという基本認識…、総理、お持ちですか」に、
 安倍首相は「日本が今まで、核の不拡散、また、核の不拡散体制のですね…、維持・強化に力を注いできたのは、これは委員もご承知の通りであろうと、このように思います。インドにつきましてはですね、インドの戦略的な重要性…、同国において…、増大するエネルギー需要を、手当てをする必要性ということについては、私も…、理解しているわけでありますが、同時に、NPT(筆者注:核不拡散条約)に加入していないインドへの原子力協力については、国際的な核軍縮、不拡散体制への影響等を注意深く検討する必要があると、このように思います。以上の点を考慮しながら、今後ともですね…、本件に関する国際的な場での議論をせっ…、国際的な議論の場に積極的に参加をしていく考えであります」などと答弁し、
 さらに岡田元代表の「総理のご発言で、あの、何回も、私、気になっているんですが、インドの戦略的な重要性っていうのは、具体的に、どういったことなんでしょうか。よく言われているのはこういうことですよ。一つは…、アジアに核大国は、一つより二つの方がいいと。戦略バランスから考えて、その方がいい。アメリカの中にはそういう声はある。しかし、それは日本にとっては、今までの政策とは全く違う政策ですね。もう一つは経済的にインドは大事だと。それは分かります。だけど…。じゃあ、経済、大事だったら核を持っていいのかと。じゃあ、北朝鮮やイランに対して日本はノーと言えるのか。そういったことに対してきちんと説明できる、そういう答弁を求めたいと思います。いかがですか」などに、
 安倍首相は「まず日本とインドでありますが…、お互い、日本とインドは価値を共有していると思います。自由や民主主義、基本的な人権、法律の支配といった価値を共有している、これは間違いないことだろうと思います。そしてインドは極めて親日的な国である。これも間違いのないことではないか。こう思います。そして今後、インドはさらに発展をしていく国であります。人口も増えていきますし…、目覚しい台頭が期待されるであろうと。我々はこのチャンスを、ま、生かしていかなければならないと、こう考えています。そしてまた、インドは、いわば、安全保障上においても、極めて重要な位置がある…。すみません、少し、筆頭理事、静かにしていただけますか。しゃべりにくいんで。極めて重要な位置を、ま、占めているわけでございます。そういう意味において、戦略的な重要性、それは私は否定する人はいないのではないかと、こう思うわけであります。原子力の供給グループ(筆者注:NSG、参照:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/nsg/index.html)において議論がなされるわけでありまして、その中において日本もしっかりと他の国々と共に議論をしていかなければならないと考えております」などと答弁していた。
(以上、2007/2/13の衆院予算委における民主党の岡田克也元代表の質疑から)
 
 もちろん格差とは違って核問題は与野党間でも議論が比較的かみ合いやすい問題ではある。しかし、それでもやはり議論が深まっているという点についてはあえて注目する必要があるのである。質問する側は、おそらく答弁する側も「正解」とその「理由」については正しく答えることはできるであろうと予想した上で、「正解」と「理由」の間をつなぐ「説明」の部分を標的にしているのである。そして質問ではいくつかの問題点を列挙し、さらに「戦略的重要性」とは何かということを踏まえた上での「説明」を求めているのである。こういう形で質問をされてしまうと、答弁する側がいくら「正解」と「理由」だけを覚えたり文書を朗読したりして「選択肢を選ぶ試験問題」で「正解」の選択肢を選ぶような方向に逃げようとしても、なかなかもっともらしく答弁することは難しくなってしまうのである。そして仮に答弁する側が上手く逃げ切ったとしても、列挙した問題点に十分に答えていなければ、答弁を聞いていた賢明な国民には不満足感が残ることもあるのである。賢明な読者にとっては、相手に「不正解」の選択肢を無理矢理選ばせるように自己中心的に「細工」した「不適切な選択肢を選ぶ試験問題」のような質問と、ここで具体例として挙げた「記述式の試験問題」のような質問を比べた場合には、どちらの方により大きな説得力を感じるだろうか。
 
時間軸の重要性
 
 ここで改めて賢明な読者に様々な「偽装工作」を見抜くための「道具」を1つ提供しておくことにする。もっとも「道具」と言っても特別なものではない。例の「過去」から「現在」、そして「未来」へと続く時間軸のことである。国会質問でいくら特定のイメージを演出して逃げ切ろうとし続けても、やはり「時間」からは絶対に逃れることはできないということを示す比較的分かりやすい具体例を示しておくことにする。
 
 「(前略)…直接、国が見合いをしろとは言いませんが、少なくとも10組ぐらいまとめた人には銅メダルと。50組ぐらいまとめた方には銀メダルと。100組以上まとめた方には金メダルと。まあ、ノグチユキオ賞(→筆者注:議事録では「野口英世賞」に修正済)もいいんですけども…(後略)」(2006/6/12の衆院決算行政監視委における民主党の菅代表代行の質疑から)。
 「(前略)…私は今、東京選出の国会議員ではありますけれども、東京が最も生産性が高いとは思っておりません。なぜか。それは、子供の生まれる出生率が最も低いところが社会として生産性が高いと言えないと私は確信するからであります…(後略)」(2006/12/15の衆院本会議における民主党の菅直人代表代行の安倍内閣不信任決議案の提案理由などの説明から)」
 「(前略)…つまり…、ちょっと待ってください。つまりですね、不二家の例とか、このパロマの例とか、リンナイの例で、もしこんな言い方を社長がしたらどう言います? つまり、自分の会社の中で、不祥事があったと少なくとも公取委が言われていて、いや、もしあったとしたら、逮捕者が出たら…。そういう言い方で済むんですか。民間だったら逮捕者が出るどころか、その前からですね…、大変なことになりますよ…(中略)…先ほどの答弁を聞いていると、いや、まだ逮捕者が出てないので、私の方はそうなったらいかんです…。これがですね、民間の企業の社長であれば、私はそのこと自体がですね、その発言自体を…、責任を取らされる発言ですよ。ちゃんと国民の前に、ちゃんと国民の前にですね…。ちゃんと国民の前に、税金の使い方について…、背任的なやり方があったということについて…、謝罪をすべきじゃないですか。責任者として」(2007/2/13の衆院予算委における民主党の菅代表代行の質疑から)
 
 多くの賢明な読者は「過去」から「現在」、そして「未来」へと続く時間軸の重要性を改めて実感していることだろう。時間軸を利用して情報を整理すると、それぞれの国会発言を別々に見ているだけではなかなか見えてこなかった新たな情報が得られることもあるのである。ちなみに辞書を引いてみても、せいぜい「生産」には「出産」の意味もあるという情報が新たに分かる程度のことである。
 
 ほんの少し前まで野党側が「産む機械」発言を厳しく批判して大臣の辞任や罷免を強く求めていたばかりだから、自分たちの組織、ましてや自分自身の中に「産む機械的」な発言があった場合にどのような行動を取ることが国民にとって望ましいものになるのかということについてはあえてくどく説明しないでおくことにする。
 
いわゆる「無党派層」とは何か
 
 さて、話は少し変わる。永田町周辺ではいわゆる「無党派層」という言葉がよく使われている。いわゆる「無党派層」の動向は、様々な「風」や「現象」、あるいは、いわゆる「小泉政治」などを分析する場合の鍵になっている。しかし、それにもかかわらず、そのいわゆる「無党派層」とは何かということが実はよく分かっていないのである。特に「いま、どの政党を支持していますか」という質問によって、「支持政党なし」に分類される有権者、いわゆる「無党派層」として分類される有権者の中には、少なくとも「実際にはどこかの政党を支持しているにもかかわらず、そのことを自覚していないだけの有権者」と「本当にどの政党も支持しておらず、しかもそのことを明確に意識している有権者」が混在している可能性が非常に高いのである。恋愛などでもある人を実は愛していたなどという自分の気持ちになかなか気づかないということもよくある。そういうことと似たようなことなのかもしれない。
 
 実はこの両者を区別しようとする場合にも、「過去」から「現在」、そして「未来」へと続く時間軸を利用して分析する方法が有効になってくるのである。例えば、同じいわゆる「無党派層」として分類される有権者の中にも、自分は無党派だと思っているが実は選挙では今回も前回も前々回も野党第一党に投票したという有権者もいるだろう。あるいは、今まで自分はずっと与党に投票してきたが今回は棄権したとか、今回だけは野党に投票したなどという有権者もいることだろう。一昔前からずっと指摘され続けているが、いくら何でもいわゆる「無党派層」をもう少し詳細に分類しようとしなければ、本当の意味での投票行動などを正確に分析することはできないはずである。
 
 いわゆる「無党派層」を詳細に分類しない限り、「『無党派層』は野党第一党に投票する傾向がある」などという「俗説」で思考停止する勘違いした政治家や偽物の専門家がいつまでもはびこり続けることになる。賢明な読者は気づいているかもしれないが、「『無党派層』は野党第一党に投票する傾向がある」などという「俗説」は、実は野党第一党を支持しているという自覚を持たずに選挙ではほぼ毎回野党第一党に投票しているという「事実上の野党第一党支持者」がいわゆる「無党派層」に多く含まれている可能性が高いということも同時に示しているのである。
 
 約1カ月間に渡って集中的に投入してきた一連の「真贋のプリズム」は無事に「タイムリミット」を迎えることができた。筆者にとっては「多額の資金と膨大な時間」を先行投資した第1シリーズは今回で終了ということになる。2007年は統一地方選や参院選などの選挙の多い一年になる。選挙が近づいてくると「政治家になりたいだけの人間たち」や「政治家であり続けたいだけの人間たち」が活発に選挙のための「選挙活動」や、自分たちが「正義の味方」や「弱者の味方」であるかのように偽装するための「政治運動」を繰り返すことになる。もちろん「本物」と「偽物」の違いはある程度時間が経てば自然に誰の目にも明らかになってくる。だが、選挙で投票する前に「本物」と「偽物」を区別することができなければほとんど意味はないだろう。
 
 筆者としては賢明な読者が「本物」と「偽物」を正確に見分けるために「真贋のプリズム」を大いに役立ててくれることを心から願っている。そして多くの人たちを欺こうとする偽者の専門家や政治家たちにとどめを刺すための「道具」を最低でも2つ温存しながらこれからしばらくの間はあえて沈黙を守ることにする。


<2007年> 真贋のプリズム(2007年) (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信予定)

<2006年以前>

   正しい「要約」と正しい「比較」のススメ(→2006年以前へ) (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信済)


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