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 真贋のプリズム-第2回-(2007/2/6)

 (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信予定)

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 政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。

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<2007年> 真贋のプリズム(2007年) (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信予定)


真贋のプリズム −第2回−「立憲主義」(2007/2/6)

 安倍晋三首相の初の施政方針演説など(2007/1/26)が行われ、衆院本会議などでの代表質問(2007/1/29-31)も終わった。柳沢伯夫厚生労働相の「産む機械」発言などで大きな波紋が広がっている。そして発言に反発した野党側が欠席したまま2006年度補正予算案が衆院を通過し(2007/2/2)、そして成立した(2007/2/6)。ちなみに「政治とカネ」の問題で参院副議長が辞職している(→2007/1/26に辞表提出、1/30に辞職・新議長選出)。どうやらしばらくの間は永田町周辺ではかみ合わない議論が続きそうである。
 
 今度は「あるある」などというテレビ番組で捏造による「偽科学」を放送した疑惑が明らかになって番組が打ち切られた。新聞などでも記事盗用などの不祥事が相次いでいる。相変わらず永田町周辺でもそれ以外の場所でも「本物」がどこかに消えて「偽物」ばかりがはびこっている。やはり日本にはほとんど何の教訓も残さずに様々な「周期」で「不祥事」や「茶番劇」を繰り返していく悪しき慣習があるようである。そして日本は最低最悪の「お任せ民主主義」を繰り返している(→参考:第1回(2007/1/25号))。
 
 ちなみに永田町周辺でかみ合わない議論がしばらく続くことになるだろうということは、代表質問をほんの少し聞いてみただけでも簡単に予想することができるのかもしれない。
 
 例えば、民主党の小沢一郎代表の「安倍総理は憲法改正こそが今年の参議院選挙の争点であると強調されております。また総理在任中に何としても憲法改正を実現すると再三発言しておられます。もちろん憲法は国の最高法規ですから大事な課題ではありますが、『民(たみ)の竈(かまど)』、つまり国民生活の現状を直視するならば、国民の生活を建て直し、一新する『生活維新』こそがいま全力で取り組むべき最重要の政治課題であります。いま政治がなすべきことは、『憲法改正』なのか、『生活維新』なのか、この国会で徹底的に論議した上、参議院選挙で国民の審判を仰ぐべきであります」などに対し、
 安倍晋三首相は「(前略)…私は、施政方針演説で明確に述べた通り、国民の働き方、暮らしの向上、教育の再生、そして憲法を頂点とする戦後レジームの大胆な見直し…、いずれの課題に対しても正面から全力で取り組んでまいります。二者択一ではないと思います。政府は、成長力を強化し、その実感を国民が肌で感じることができるようにするための様々な具体的方策を提案をいたします。今国会で徹底的に議論を尽くしていただくことを期待いたします。私も論戦を正面から受けて立つ覚悟でございます」などと答弁していた(以上、2007/1/29の衆院本会議での安倍首相の施政方針演説などに対する民主党の小沢代表による代表質問と安倍首相の答弁から)。
 
 もちろん安倍首相も小沢代表もどちらも間違ったことを言っているわけではない。だが、実は「憲法」も「生活」もどちらも重要なのである。そして「憲法」と「生活」のどちらかをあえて強調するようなことも必ずしも間違いというわけではないのだろう。だが、議会制民主主義国家では、「憲法」と「生活」は実は密接不可分の関係、あえて言い換えれば、表と裏の関係にあるのである。従って、どちらか一方を強調する場合であっても、両方とも重要であると主張する場合であっても、「政治指導者」としては「憲法」と「生活」が密接不可分の関係、表と裏の関係にあるということを国民に分かりやすく説得力のある形で説明する必要があると筆者は考えている。そういう意味では安倍首相も小沢代表もあまりにも説明不足であった。従って「政治指導者」の主張として採点した場合には、安倍首相の主張も小沢代表の主張も共に「合格点」を与えることはできないということになる。ただし、あえて今「憲法」の議論を持ち出した安倍首相の側により大きな説明責任があるということを強調しておく必要があるだろう。
 
 「新しい国創りに向け、国の姿、かたちを語る憲法の改正についての議論を深めるべきです。『日本国憲法の改正手続に関する法律案』の今国会での成立を強く期待します」(2007/1/26の安倍首相の施政方針演説から。参照(首相官邸のホームページ):http://www.kantei.go.jp/jp/abespeech/2007/01/26sisei.html)
 
 そういうことならば、むしろ安倍首相は「憲法の議論はあらゆる改革につながる」などというようなどこかで聞いたようなセリフをあえて使ってみた方が良かったのかもしれない。いずれにしてもまだしばらくの間は永田町周辺ではかみ合わない議論が続きそうである。
 
「産む機械」発言はなぜ不適切なのか
 
 さて、柳沢厚生労働相の「産む機械」発言についても簡単に触れておくことにする。確かに女性を「産む機械」などに例えた発言は不適切である。だが、「産む機械」などという言葉はどこにも使われていなくても、厚生労働相の「産む機械」発言と同じかそれ以上の少子化・子育てをめぐる問題発言ならば永田町周辺にはありふれている。比較的分かりやすい具体例を挙げれば、
 
 「(前略)…先ほど申し上げたのは、どちらかと言えば子どもが生まれた後のことが中心になっているわけでありまして…、生まれる前、あるいは結婚しやすい条件…。まあ、例えば、若い人が結婚したときに公営住宅は、格安で入れるとかですね。また、直接、国が見合いをしろとは言いませんが、少なくとも10組ぐらいまとめた人には銅メダルと。50組ぐらいまとめた方には銀メダルと。100組以上まとめた方には金メダルと。まあ、ノグチユキオ賞(→筆者注:議事録では「野口英世賞」に修正済)もいいんですけども…、そういうあの、そういうことが本当にですね、社会の役に立っているんだと。どちらかというと、ある時期、そういうおせっかいすることはなんかこう…、悪いことだというような感じもありましたので、まあ、そういうこともですね、まあ、ひとつ念頭に入れていただきたいということを申し上げてちょっと次に、あの…、移りたいと思います…(後略)」(2006/6/12の衆院決算行政監視委における民主党の菅直人代表代行の質疑(ちなみに2006/8/22号(http://www.jchiba.net/message/060822-1.htm)でも引用)から)。
 
 引用した野党元代表の国会質問の中では「産む機械」などという言葉はどこにも使われていない。そしておそらく「産む機械」だけに責任を押し付けるのではなく、「産む機械」と「産ませる機械」をセットにした連帯責任を考えるということなのだろう。だが、子どもを「工場」で生産される「製品」や「商品」のようなものとして捉えた「問題発言」であると筆者は以前から受け止めている(→参考:2006/8/22号)。
 
 このような「問題発言」をしている政党・政治家側が「産む機械」発言をあえて厳しく批判する場合には、最低でも自分自身の発言と比較しながら「産む機械」発言のどこがいけなかったのかを明確に説明する必要がある。「機械」とか「装置」という言葉を使ったから「産む機械」発言は不適切だったが、自分の発言はそのような言葉を一つも使っていないから全く問題はないというのか。あるいは、自分の発言は「産む機械」と「産ませる機械」をセットで考えているから問題はないが、「産む機械」発言は「産む機械」だけを問題にしたから不適切だったというのか。民主党側には様々な「説明責任」が問われていると筆者は考えている。あえて念のために言っておくが、どんな種類の「アカウンタビリティ」や「説明責任」でも説明すればそれでいいというものではないのである。
 
 いずれにしてもしばらくの間は永田町周辺でかみ合わない議論が続くことになりそうである。もしかすると政党・政治家側は意図的にかみ合わない議論を続けたままで参院選に突入しようとしているのかもしれない。そして既存のマスコミはそうしたかみ合わない議論を続けるだけの愚かな流れを断ち切るために必要となる最低限の問題意識と能力を共に持ち合わせていない可能性が非常に高いのである。最悪の場合には少なくとも参院選後までは議論がかみ合うことはなくなってしまうのかもしれない。
 
郵政民営化からすべての改革を進める?
 
 「自民党からの120の約束 郵政民営化からすべての改革を進め、この国が抱えているさまざまな問題を解決していくために、私たち自民党は数多くの政策を立案・実行していきます…(中略)…政治、経済、社会のあらゆる場面で、日本は今、さまざまな『改革』の実現を迫られています。それは日本が、さらなる飛躍を遂げていくために、避けては通れない道筋なのです。自民党は、『郵政民営化』をその突破口として、『日本の改革』をさらに加速させていきます。 『郵政民営化』をかならず実現する。 001. 郵政民営化に再挑戦…(後略)」(「自民党政権公約2005」、p6-7から)
 
 「(自民党政権公約の説明不足の郵政民営化の図について。民主党の岡田克也代表(当時)の郵政民営化がなぜ外交などにつながるのか、などに)これは(郵政民営化が)あらゆる改革の基本だということを言っているんです。まず経済を活性化しないと、この今言ったいろいろなことというものは展開できなくなる。社会保障についてもそうですね。経済の活性化を果たさないと税負担が重くなると。外交についても日本の経済がよくならないと外交活動も展開できなくなると。いわゆる郵政の改革なくしていったいどういう改革ができるのかと。その基本を分かり易く述べているということです」(小泉純一郎首相(当時)が2005/9/4放送のフジテレビ「報道2001」で。2005/10/18(3/8)号でも引用)。
 
 「当たり前と言えば当たり前の話だが、民主主義社会では『正解』はたった一つしか存在しないとは限らないのである。自分たちの行動とそこから生じたすべての結果に責任を持つのならば、『正解』はそうした責任を持った賢明な人たちの数だけ存在すると言ってもいいのである。そして多くの人たちが実際には『理想的な方法』ではなくそれぞれ違った『自分なりの確実な方法』を用いてそれぞれの『正解』を出したのだろう。だが、その多くの人たちが用いている『自分なりの確実な方法』はどんな場合でも自分にとって正しい答えを導き出すとは限らないのである。ある問題を判断するための正しい方法を用いた場合でも何かを誤解したために間違った答えを出してしまうこともあるだろうし、逆に判断する方法は完全に間違っていたとしても、たまたま正しい答えにたどりつくようなこともあるだろう。賢明な有権者が『自分なりの確実な方法』によって自分にとって本当に正しい選択をしたのかどうかを自分自身で検証することができる『道具』を提供することも政治ジャーナリズムの一つの重要な責任であると筆者は考えている。そして多くの賢明な有権者が導き出した『正解』が少なくとも今後も『正解』であり続けることを保証しようとする責任があるはずだと筆者は考えている」(2005/10/18(1/8)号から)
 
 実はあの郵政民営化解散からまだ2年が経過していないのである。読者はほとんどの自民党の候補者が「郵政民営化賛成」などと唱えていたことをまだ覚えていることだろう。そしてそろそろ「改革」に非常に消極的だったにもかかわらず、選挙のために心にもない「改革」を唱えて当選してきた「よこしまな政治家たち」の化けの皮もはがれてきた頃なのかもしれない。
 
 そしていつの間にかその2005年総選挙で小泉純一郎前首相が「郵政民営化だけ」を公約して圧勝したなどという「悪質なデマ」が流されてもほとんど誰も反応しなくなってきている。だが、2005年総選挙では「郵政民営化だけ」を公約したのではなく、郵政民営化からすべての改革を進めていくことを公約したというのが正しい事実関係なのである。さらにあえて念のために言っておけば、現在の安倍内閣も「郵政民営化からすべての改革を進め」るなどという2005年総選挙時の政権公約に拘束されているのである。
 
 筆者は賢明な有権者が2005年総選挙で選択した結果が本当に「正解」だったのかどうかということを自分自身で検証するために様々な「道具」を提供し続けている。もちろん「お任せ民主主義」の批判的検証も、賢明な有権者が自分自身で「自分なりの確実な方法」が本当に正しい方法だったのかということやそのとき導き出した「正解」が本当に「正解」だったのかということなどを判断する場合にも大いに役立つと考えている。
 
 さて、ここからいよいよ今回の文章の本題に入っていく。筆者が今回の文章で用いる「プリズムのようなもの」は今まで何度も繰り返し取り上げてきた「立憲主義」という考え方である。「お任せ民主主義」を厳しく批判している筆者としては、「立憲主義」という考え方を1つ目の「真贋のプリズム」として使用しながら今の日本の民主主義の問題点などを分析していくことにする。
 
 そして自らに十分な時間的・資金的な余裕が残されていない筆者としては、様々な「不自然で不可解な動き」に巻き込まれないように注意しながら、場合によっては他者の組織力や資金力を直接・間接的に利用してでも、日本社会の悪しき流れを断ち切ることを最優先で考えることになるのだろう。当たり前と言えば当たり前の話ではあるが、「立憲主義」という基本的な考え方にあえて立ち戻って各政党・各政治家の主張を分析していけば、たとえ政党・政治家側がどんなに逃れようとしてごまかしたとしても、やがて嫌でも議論をかみ合わせなければならない状態に追い込むことができるはずである。何とかして安倍首相に「憲法の議論はあらゆる改革につながる」などというセリフを使わせてみたいものである。
 
「立憲主義」とは何か
 
 「『憲法』という言葉には『法』という字が語尾にきます。そうすると、どうしても人々は書いたものを思い出す、あるいは条文を考える。日本の中学、高校レベルで憲法を教えるときにも、どうも煩瑣(はんさ)な条文の話になっているらしい。 そういう誤解を初めから防ぐために『立憲主義(コンスティチューショナリズム constitutionalism)』という言葉の方がいいと思う。一つのイズムですから、世の中の組み立てについての一つの考え方です。 コンスティチューショナリズムは、要するに権力に勝手なことをさせないという、非常にわかりやすくいえばその一語に尽きると言っていい。 そういう意味で『デモクラシー democracy』という言葉と対照してみるとわかりやすいでしょう。こちらはもともと言葉の語源としては、ギリシャ語のデモス(民衆)と、クラチア(支配)です。つまり民衆の支配です。実際は、民衆の名のもとにだれかの支配になるわけです。『民主主義』という言葉は、対抗するものが立ちはだかっているときには、専らそれを否定するという意味で積極的な意味を持っていた。立ちはだかるのは民衆の反対の君主で、君主の背後には神様がいました。西洋流に言えば王権神授説です。神が君主に権力を授けた。だから、君主は神の権威でもって人民を支配するのは当然だということになります。そういう王権神授説的な君主の支配をひっくり返すことが、まさに『民主』だったわけです…(後略)」(樋口陽一著、「個人と国家 ――今なぜ立憲主義か」、集英社新書(0067A)、2000年11月、p84-85)
 
 「立憲主義ということばには、広狭二通りの意味がある。本書で『立憲主義』ということばが使われるときに言及されているのは、このうち狭い意味の立憲主義である。広義の立憲主義とは、政治権力あるいは国家権力を制限する思想あるいは仕組みを一般的に指す。『人の支配』ではなく『法の支配』という考え方は広義の立憲主義に含まれる。古代ギリシャや中世ヨーロッパにも立憲主義があったといわれる際に言及されているのも広義の立憲主義である。 他方、狭義では、立憲主義は、近代国家の権力を制約する思想あるいは仕組みを指す。この意味の立憲主義は近代立憲主義ともいわれ、私的・社会的領域と公的・政治的領域との区分を前提として、個人の自由と公共的な政治の審議と決定とを両立させようとする考え方と密接に結びつく。二つの領域の区分は、古代や中世のヨーロッパでは知られていなかったものである…(後略)」(p68-69)
 「(前略)…人間らしい生活を送るためには、各自が大切だと思う価値観・世界観の相違にもかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そうした枠組みが必要である。立憲主義は、こうした社会生活の枠組みとして、近代のヨーロッパに生れた。 そのために立憲主義がまず用意する手立ては、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域とに区分することである。私的な生活領域では、各自がそれぞれの信奉する価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される。他方、公的な領域では、そうした考え方の違いにかかわらず、社会のすべてのメンバーに共通する利益を発見し、それを実現する方途を冷静に話し合い、決定することが必要となる…(後略)」(p9-10)
 「(前略)…日本国憲法をはじめとする現代諸国の憲法は、思想の自由、信条の自由、プライバシー等の個人の権利を保障する。また、政治と宗教との分離を定める憲法も少なからずある。これらの規定は、私的な生活領域と公的な生活領域とを区分する境界線を定める規定である。 他方で、政治のプロセスがその役割を適正に果たすことを狙いとする仕組みは、公と私の仕切りの他にも、さまざまな形で存在する。たとえば、マスメディアの表現の自由の保障がそうである。マスメディアは、法人であって生身の個人ではない。自分のいいたいことをいう自由は、個人には保障する必要があるであろうが、マスメディアには、『生まれながらにして』保障されているわけではない。しかし、マスメディアに報道の自由、批判の自由が保障されているおかげで、世の中には豊かで多様な情報が行き渡り、政策論争も活発となり、政治のプロセスがその役割をよりよく果たす助けとなる…(後略)」(p11-12。以上、長谷部恭男著、「憲法とは何か」、岩波新書(新赤版1002)、2006年4月)
 
 今まで何度も「立憲主義」という考え方を取り上げてきたから、多くの賢明な読者にはあえて繰り返し説明する必要はないのかもしれない。だが、今回の文章をよりよく理解してもらうためには「立憲主義」という考え方の正確な理解が必要不可欠になる。よって憲法学の本物の専門家たちが一般人向けに書いた分かりやすい説明をあえて念のために引用しておいた。
 
 ちなみにことわっておくが、筆者は憲法や憲法学には「しがらみのない素人」である。そういう憲法や憲法学には「しがらみのない素人」である筆者が「立憲主義」という考え方を「プリズムのようなもの」として利用して現在の日本の政治にはびこる「お任せ民主主義」を批判的に検証していくことになるわけである。
 
 そして憲法や憲法学には「しがらみのない素人」である筆者としては、今こそ日本社会の中で「頭の中の憲法」を「改正」する作業を始める必要があるということをあえて強調しておくことにする。「立憲主義」のような考え方を正しく理解した上で憲法の議論をしていけば、憲法のどこをどのように改正すべきかということが自然に明確になっていくだけではなく、同時に憲法のどこを改正することはできないのかということについても自然に理解が深まっていくことだろう。 


「お任せ民主主義」の核心部分は「一夜漬選挙」
 
 相変わらず永田町周辺やテレビの世界にはチヤホヤされるものばかりにすぐに擦り寄っていく人間たちがあふれている。チヤホヤされるものの近くに行けば自分もチヤホヤされているような気分になってくるのかどうかはよく分からないが、やはり「偽物」ほど「偽物」に強く引き付けられていくものなのかもしれない。そして不思議なことに、おだてられても、脅かされても、あるいは、黙って放っておかれたとしても、どういうわけか「偽物」は自然に「高いところ」へ「高いところ」へと向かっていく。ちなみに「高いところ」に行けば行くほど落ちたときの被害が大きくなるということは最低限の科学の基礎知識を持っている人たちにとっては当たり前すぎるくらい当たり前の話である。筆者は世の中にあふれた「偽物」を「本物」で置き換えて排除しなければ日本の「お任せ民主主義」はなくならないと考えている。そしてその「お任せ民主主義」の核心部分は「一夜漬選挙」であると筆者は考えているのである。
 
 筆者の言う「一夜漬選挙」は、試験などでの「一夜漬」を思い浮かべてみれば分かりやすくなるだろう。ほとんどの「選挙」では、何が何でも特定政党・特定候補者に投票するというような人たちを除けば、実際にはかなり多くの人たちが「選挙」が非常に近くなってから初めて「その選挙」で問われる種類の「政治」のことを慌てて考え始めるということになるのかもしれない。もちろん自分自身の頭脳をフル回転させればたとえ限定された非常に短い時間の中であったとしても間違いなく正しく判断することができるという人たちもいるのだろう。だが、実際にはかなり多くの人たちが様々な「自分なりの確実な方法」で手っ取り早く「正解」を見つけ出そうとしているのかもしれない。様々な「自分なりの確実な方法」で手っ取り早く見つけた「正解」が間違いなく「本物の正解」であればそれでいいのだが、実際には「正解」ではないこともかなりあるはずである。
 
 いくら既存の政治家や役人の不祥事が続発したり、政党・政治家不信が高まっていたりする場合であっても、「政治家」や「役人」などの「肩書き」が付いていれば絶対に「正解」ではなく、逆に「しがらみのない素人」ならば必ず「正解」だということにはさすがにならないはずである。政府・与党側にいくら不祥事が続発したとしても、だからと言ってそれだけで野党側がすべて良いということにはならないのと全く同じ話である。そういうことは「ベン図の話」を思い出してみなくても賢明な読者にはすぐに分かることだろう。
 
 また、いくらテレビでもっともらしいことを言って一方的に相手をやっつけていたり、あるいは、いくら「改革」を実現してくれそうな「イメージ」を演出していたりしたとしても、それでもやはり「現実」と「イメージ」は違うはずである。もちろんそういうことも賢明な読者にとっては当たり前すぎるくらい当たり前の話なのかもしれない。賢明な読者にとっては、少し前に「本物の政治学」を考えたときに具体例として取り上げた「社長は有能か無能か」(→参考:2006/11/30号(http://www.jchiba.net/message/061130-1.htm))という話をあえて思い出してみるまでもなく、そういうことは当たり前すぎるくらい当たり前の話なのかもしれない。
 
 あくまでも念のために言っておけば、あらゆる「現場」に素早く駆けつけたとか駆けつけなかったとか、「テレビカメラ」を多く集めて「広告効果」がいくらあったとかなかったとか、「作業着」を着てみたとか着てみなかったとか、立派な机とイスを使うのをやめたとかやめなかったなどということと、「社長が有能か無能か」ということとは全く無関係である。たとえどんなに忙しそうに社長が決裁書類に決裁印を押していたとしても、決裁書類の内容やその企業の現状から総合的に判断していく賢明な人たちには、実は「社長」がただ単に「空回り」しているだけということがすぐに見抜かれてしまうこともあるはずである。
 
 読者の中には、試験前日に様々な「自分なりの確実な方法」で見つけた「試験に出そうなところ」(→正解?)を「丸暗記」したり、試験時間中に様々な「自分なりの確実な方法」で「正解(?)」の選択肢を選び出したりしたという経験を持っている人たちも少なくはないだろう。多くの「選挙」もそういう試験での「一夜漬」などと同じようなものになってしまっているのである。そういう意味で「一夜漬選挙」になっていると筆者は考えているのである。
 
「選挙活動」と「政治運動」
 
 そして意識的なのか無意識的なのかはともかくとしても、政党・政治家側も「一夜漬選挙」を強力に推し進めているのである。「現職」が続投に意欲を示している場合、あるいは、「鞍替え」に意欲を示している政治家がいるような場合を除き、選挙直前になるまで大多数の有権者には「政策」だけではなく誰が立候補するのかすらもよく分からないことが非常に多いのである。確かに様々な制約のために選挙直前まで「候補者」などが分からない状態が続くのはやむを得ないことなのかもしれない。だが、このままの状態では結果的に多くの有権者が「一夜漬選挙」に追い込まれている現状を変えることはかなり難しくなってしまう。「お任せ民主主義」や「一夜漬選挙」という最悪の状況から脱却するためには、有権者の政治不信を高めないような形で地道な「政治活動」を行う「本物の政治家」が必要不可欠であると筆者は考えている。
 
 あくまでも念のために言っておくが、「政治家になりたいだけの人間たち」や「政治家であり続けたいだけの人間たち」が繰り返している勘違いした「日常活動」は「本物の政治活動」ではないと筆者は考えている。そういう勘違いした「日常活動」のほとんどは、自分たちが「正義の味方」や「弱者の味方」であると偽装するための「政治運動」か、あるいは、そう遠くないうちに行われる選挙のための「選挙活動」のどちらかでしかないのである。言うまでもなく「政治家になりたいだけの人間たち」や「政治家であり続けたいだけの人間たち」の「政治運動」や「選挙活動」は「お任せ民主主義」や「一夜漬選挙」を加速することになる。繰り返すが、「お任せ民主主義」や「一夜漬選挙」という最悪の状況から脱却するためには、有権者の政治不信を高めないような形で地道な「政治活動」を行う「本物の政治家」が必要不可欠であると筆者は考えている。
 
 それにしても永田町周辺には選挙を「世論調査」か何かと自己中心的に勘違いしている政治家たちがあまりにも多すぎる。選挙はあくまでも自分たちの「代表」などを選ぶものであり、やはり「世論調査」とは異なると筆者は考えている。あたかも国民の国政に対する不満などを地方選挙という形の「世論調査」によって調査することができるかのように強く思い込んでいる今の永田町周辺の風潮も日本の民主主義を「お任せ民主主義」に堕落させている主な原因の一つであると筆者は考えている。今改めて「選挙とは何か」ということが問われていると筆者は考えている。
 
国家とは何か
 
 多くの読者は「立憲主義」の話はいったいどこに行ってしまったのかなどと思っているのかもしれない。いよいよここから少しずつ「お任せ民主主義」と「立憲主義」という考え方の関係が明らかになっていくことになるのである。
 
 ところで読者は「国家とは何か」と質問されたらいったい何と答えるだろうか。ちなみに筆者は「国家観」などと呼べるような「高等なもの」を要求しているのではない。あくまでも子どもたちにも分かりやすく、しかも大人の世界でも十分に通用するような「ウソではない分かりやすい説明」を求めているのである。「国家とは何か」をウソではなく分かりやすく説明することは実はなかなか難しいのだが、筆者としては「国家とは、自分たちの選んだ『代表』が操縦する航空機に自分自身も乗っているような状態」とあえて答えておくことにしようと思っている。
 
 ちなみに「地方自治体」の場合には、もしかしたら「財政破綻」などの非常事態から自分一人だけ「パラシュート」か何かで脱出するようなことがやりやすくなるのかもしれない。だが、基本的には「地方自治体」の場合も「国家」と同じように「自分たちの選んだ『代表』が操縦する航空機に自分自身も乗っているような状態」であると筆者は考えている。
 
 そんな筆者から見れば、「お任せ民主主義」や「一夜漬選挙」にほとんど疑問も持たないような人たちは「国家」や「地方自治体」を「ゆっくり自宅でくつろぎながら面白そうなテレビ番組をリモコンで探しているような状態」などと勘違いしているのではないかと疑いたくなってしまうのである。もしかしたらテレビの世界の中では、どんな不幸な出来事が起こったとしてもチャンネルを変えたり電源スイッチを切ったりすればそれですべての問題が完全に消えてなくなってしまうのかもしれない。あるいは、面白くなければチャンネルを変えればそれで済むのかもしれない。しかし、当たり前といえば当たり前の話なのだが、テレビの世界と現実の世界は全く違うのである(→参考:2006/4/17号etc.)。
 
 「(前略)…長谷部 大きなお題をいただきましたけれども(笑)、私は主権という概念をあまり自己目的化すべきでないと考えています。 そもそも私は、国家とは、ある目的のもとに、国民に福祉の向上や治安の維持といったサービスを供給するために運営・支持されている、一種の法人だと考えていますので、主権の概念も、国家のサービスをよりよく説明する概念としてどこまで有用か、という程度のものだと思いますね。その財源を調達する際には、犯罪の取締りとか税金の取立てのような、強制的な力を発揮しますので、詰めていくと、『国民がそれを支持している』という正当性の根拠と、国民に対するアカウンタビリティー、説明責任がないといけない。国民主権には、そのかぎりでの意味があるんだと思いますね。『主権者だから他者からの制限は一切受けない』だとか、あるいは『国家の権力である以上は最高で独立だ』とか、その種の神学的な議論には、あまり関与しないほうがいいと私は思います。 杉田 これまでは、国家と国民を対置させて、『国家とは非常に危険なものだから、国民が憲法で国家を縛るんだ』というふうに、学校の社会科の授業などでは説明されてきたと思うんです。ここで国家を縛るというとき、『自分たちが、この国家という制度をつくり維持している』という意識じゃなくて、『自分たちは国家に一方的に何か被害を受けている』という考え方になりがちです。しかし、曲がりなりにもデモクラシーであれば、国家がやっていることの責任は一定程度、私たち一人一人にもあるはずです…(後略)」(長谷部恭男・杉田敦共著、「これが憲法だ!」、朝日新書014(朝日新聞社)、2006年11月。p43-44)
 
 専門家たちの議論を読んでもらえば、「国家」を「自分たちの選んだ『代表』が操縦する航空機に自分自身も乗っているような状態」だという筆者の考え方が少なくとも的外れではないということがきっと多くの読者にも分かってもらえることだろう。
 
「格差」とはいったい何か
 
 さて、話は少し変わる。最近は世の中に「格差」という言葉があふれている。そしてどうやらその「格差」という言葉がやや独り歩きを始めているようである。ちなみに民主党などは「格差是正国会」などと唱えているようだが、「格差」という言葉を独り歩きさせたままでは意味のある議論にはならないだろう。実は「多数決の適用から除外される一人ひとりの生命などを含む基本的人権などの部分」と「基本的には多数決によって決められるそれ以外の部分」を明確に区別するという「立憲主義」のような考え方は、「格差」の問題を考えるときに大いに役立つのである。「格差」の問題でも「一人ひとりの生命などの基本的人権と直接的に結びついている部分」と「市場原理のようなある意味での多数決にゆだねるべき部分」とを明確に区別して議論をする必要があると筆者は考えている。
 
 筆者としては「格差」の問題でも読者が本質を見抜くために役立つ「プリズムのようなもの」を提供しておくことにする。もちろん「立憲主義」のような考え方そのものも「プリズムのようなもの」として利用することは十分に可能であるが、ここではもう少し多くの人たちに使いやすい「プリズムのようなもの」を提供しておくことにしよう。それは何かと言うと、「『格差』の反対語とはいったい何か」ということを考えてみることである。現時点であえて「格差」の問題を考えるという場合には事前に「頭の体操」が必要になってくるのかもしれないのである。
 
 「格差」の反対語とはいったい何か。「公正」なのだろうか、「平等」なのだろうか。それとも「公正」と「平等」を適切な形で融合させた状態なのだろうか。もしそうだとしたら「公正」と「平等」を適切に融合させるためにはいったい何が必要になってくるのだろうか。言うまでもなく実際に「公正」と「平等」を適切に融合させていく場合には、「立憲主義」のような考え方、憲法や法律の具体的な規定などが「指針」になるということは間違いない。だが、「正解」はたった一つとは限らないのである。
 
 そして日本のような議会制民主主義の下では、一人ひとりの有権者が「全国民の代表」を通じて「正解」を決めていくということになるわけである。従って「代表」を選ぶ選挙は社会の中で何を「正解」に選ぶのかという意味でも非常に重要になってくるのである。筆者が「お任せ民主主義」やそれを支える「一夜漬選挙」を厳しく批判している意味が少しずつ多くの読者に分かってもらえてきているだろうか。
 
 さらにもう少し「頭の体操」を続けることにしよう。例えば、自営業者の場合には、働く時間をいくら増やしたとしても実際に利益が増えなければ「残業代」などをもらうことはできないのである。これは「サービス残業」なのだろうか。またそれは良いことなのか、悪いことなのか、あるいは、仕方がないことなのか。さらにそれぞれの場合の理由はいったい何なのか。
 
 確かに非正規雇用を正規雇用にしていくなどということも間違った方向ではないと思う。だが、もっとずっと重要なことは、「同一労働同一賃金」という形で「不公正」な状態を解消して「公正」な状態を実現していくことではないかと筆者は考えている。
 
 ちなみに「格差」の問題を考える場合にも例の「対照実験」(→参考:2006/2/8号etc.)の話は役立つのである。例えば、「ある人」が「ある仕事」をした報酬として1万円もらったのに、「別の人」が同じ「ある仕事」をした場合には5000円しかもらえなかったとしよう。「ある仕事」に例えば1日という制限時間が付いていたのであれば、「ある人」と「別の人」の能力の差が報酬の差として表れただけであるから「不公正」ではないということになる。ところが「ある人」も「別の人」も全く同じ量同じ質の「ある仕事」をしたのにもかかわらず、「ある人」には1万円、「別の人」には5000円ということになると、「不公正」ということになるのである。「ある人」と「別の人」との間にある男女の差、国籍や人種の差、そして「能力の差」として表れる部分以外の学歴や年齢などの違いによって報酬に差を付けるのは明らかに「不公正」ということになるのである。民主主義国家では当たり前になっている「立憲主義」のような考え方では「不公正」は絶対に許されないから、「不公正」が原因で生じた「格差」は最優先で是正されなければならないはずである。
 
「煽動政治」は必要悪なのか
 
 「辻元 政治家へのスタートは。 村山 大分の市会議員選挙が僕自身の最初の選挙。当時社会党には、右派、左派があった…(後略)」(p22)、「辻元 そのころの市会議員に出るまでの青年部の活動というのは、具体的にはどういうことをされてましたか。 村山 当時は農地解放があった。だから、農地解放の応援にまわったり。それから、労働組合が結成当時だったな。組合の結成や労働争議の応援などにかけずり回っていた…(後略)」(p23)
 「(筆者注:村山富市元首相の発言部分)(前略)…それで、組合の役員会に出さしてくれといって出席して話した。『みずから闘う気持ちがなければ、あっさり降参してやめたほうがいい。やるか、このまま引き下がるかどっちかですよ』と言った。やると決めれば、それはやりようがある。僕は『やる限りにおいては、この問題が解決するまで大分には帰らん。いっしょになってやる』といろいろ話をした。やっぱりそれはやることになるわな。 それこそ製材所に火をつけて歩くんだ、ぱっぱっと。みんな一生懸命働いている。それで月に石けんを何個使うとか、何を食べたとか、そんな調査をさせたんじゃ、生活の実態をお互いに。それに比べると、経営者はシェパードを飼ってた。それが肉を食ってる。毎日肉を食べている。おいしいものを食べている。そこで言うてまわったんじゃ。『経営者が飼っている犬が食っている肉は、みんながつくり出した儲けで食べているのだ。それなのに、みんなは肉も食えない、石けんもあんまり使えない、そんなばかなことがあるか』とぽんぽん言うて歩いて、火をつけるわけだ。 辻元 なるほど。 村山 それはそうじゃ、そうじゃ、となった。そして、みんなやる気になった。駅前に座り込みをしてだな、観光地じゃからな、市民や観光客に訴えてみたり。そして、ストライキに入った。全部いっぺんにストライキに入ったら、それはもたんからな。部分的に四つの工場の最も悪そうな経営者を対象にしてストライキをやる。それをみんながカバーして助けた。どうせにわかじこみの組合だから長くはもたない。適当なヤマ場を見て、大分県の地方労働委員会、地労委のあっせんに持ち込んだ。それなりの説得力もある。それで、地労委のあっせんを受けて妥結した。僕にとってもいい勉強になった…(後略)」(p24-25)
(以上、村山富市著(辻元清美インタビュー)、「そうじゃのう…」、第三書館、1998年)
 
 もちろん「格差」の問題を考える場合にも「過去」から「未来」へと続く時間の流れを意識してあえて「過去」を振り返ってみるということも大いに役立つのである。確かに終戦直後の日本にはまだ部分的には「理不尽な状況」がいくつも残されていたのだろう。もしかすると終戦直後にはある程度の「煽動政治」も必要悪だったのかもしれない。だが、たとえどんなに同じように見えたとしても、終戦直後の「格差」と今現在の「格差」は実はかなり性質が違っているということを見失ってはならないのである。批判を覚悟の上であえて言わせてもらえば、今現在の「格差」には「年功序列」などのような時代に合わなくなってきた制度によって生み出された新しい「格差」も含まれているはずである。「終身雇用」という日本型の制度が今の時代に合わなくなってきているとは限らない。そして一般に労働者の能力は経験を積み重ねれば積み重ねるほど高くなっていくのかもしれない。だから「同一労働同一賃金」と「年功序列」は必ずしも両立しないとは限らないのかもしれない。だが、現実には両立しない場合もかなり多いはずである。つまり「同一労働同一賃金」という「公正」な制度を完全に実現する場合には「年功序列」の見直しは避けられなくなっているのである。
 
 さらに別の種類の「頭の体操」をしてみることによう。例えば、どこかの国で「王様」は連日宴会で大騒ぎしているだけでも莫大な利益が得られるが、「農民」は朝から晩までほぼ休みなく働いてもその日に食べるものにも困っているような状態だったとしよう。これは良いことなのか、悪いことなのか、あるいは、仕方がないことなのか。そして仮にどこかの国の中にその日に食べるものに困っている人たちがいなくなれば何も問題はなくなるのだろうか。どこかの国のすべての人たちが食べるものにはなんとか困らなくなったとしても苦しい生活から抜け出すことができる可能性がゼロのままならばやはり「公正」な状態とは言えないだろう。それならば、たとえ「自由」が全くなくなったとしても、どこかの国の中のすべての人たちが「王様」と同じような裕福な生活をすることができれば、全く何も問題はないのだろうか。そもそもすべての人たちが「王様」と同じような裕福な生活をするようなことは本当に可能なのだろうか。そろそろ賢明な読者には分かってもらえてきているとは思うが、「政治とは生活」「格差是正」などと唱えながら説明不足になってしまう場合には非常に大きな誤解を招く危険性もあるわけである。能セw8 2、
 
 確かに大昔には「王様」と「農民」の格差と似たような「理不尽な状況」は地球上のどこに行っても特に珍しいことではなかったのだろう。そして今の地球上でそのような「理不尽な状況」が固定化しているのは「極東の非人道的独裁国家」などのごく一部の特殊な地域だけになっているのかもしれない。だが、たとえどんなに「理不尽な状況」が特殊なものになったとしても、やはりそういう「理不尽な状況」を見過ごすことと「立憲主義」のような考え方が両立しないということはいつまでも変わらないはずである。
 
 そのように考えていけば、「極東の非人道的独裁国家」にいる末端の一人ひとりの生命すらも満足に保障されていない状態のままであっても国交正常化をしようと画策するような「よこしまな政治家たち」がいかに現在の普通の民主主義国家では当たり前になっている「立憲主義」のような考え方の核心部分ですらも理解していないかということがよく分かるであろう。本当に「立憲主義」のような考え方を正しく理解しているのならば、「極東の非人道的独裁国家」にいる末端の一人ひとりの生命などを含めた最低限の基本的人権が保障されていない状態で国交を正常化できるわけがないのである。そして「極東の非人道的独裁国家」にいる末端の一人ひとりの生命などを含めた最低限の基本的人権が保障されていない状態であえて国交を正常化するということは、「極東の非人道的独裁国家」にいる末端の一人ひとりに対する人権蹂躙などを黙認するということを意味することになるはずである。もしかしたら「極東の非人道的独裁国家」にいる末端の一人ひとりは国交正常化の機会を逃してしまったら最悪の場合には人権蹂躙などから永久に逃れることはできなくなってしまうかもしれないのである。
 
 このように「多数決の適用から除外される一人ひとりの生命などを含む基本的人権などの部分」と「基本的には多数決によって決められるそれ以外の部分」を明確に区別するという「立憲主義」のような考え方は、「格差」の問題を考える場合にも非常に役立つのである。そして「格差」の問題を考えることは「極東の非人道的独裁国家」にいる末端の一人ひとりの人権や生活を考えることへとつながっていくのである。
 
 ちなみに念のために言っておくが、筆者は明らかに「正解ではないもの」が何かについては読者に分かりやすく示すことができるのかもしれない。だが、筆者が読者に唯一の「正解」を分かりやすく示すようなことはできないのである。言うまでもなく「正解」はたった一つとは限らないからである。やはり「正解」が何かということは一人ひとりが自分自身で責任を持って判断していくしかないのである。


憲法の議論は国際社会を考えることにもつながる
 
 「(前略)…杉田 そうすると、政治家たちが『憲法は行為規範だ』と言っていることをどう考えますか。立憲主義理解のかなり根幹にかかわると思うんですが。 長谷部 どうお答えすればよいのかが、よくわからないんですけれども、さきほどの話に戻りますと、プロイセンが新しい方法で戦争を始めて、一般大衆が政治の場に登場してきて、いろんな国々が、どういう民主主義をつくろうかという岐路に立たされたとき、ファシズムはファシズムなりの民主主義のつくり方があったんですね。つまり、民族を基準に社会を同質化して、社会と、政治権力を実際に行使する人間との間の同質性を確保する、それが民主主義だという。一方、共産主義の場合は、階級を基準に同質性を確保するわけですが、それとも違う、リベラル・デモクラシーの立場をとった国々の基本的な考え方は、『社会の同質性は達成できないものである』ということなんです。人びとにはいろんな価値観があるし、利害も多様だし、これを無理やり同質化しようとしても、できない相談です。だとすると、長期的な時間枠を考えて、政治プロセスのなかで多数派、少数派の離合集散が起きることで、ある問題については多数派だけど、他の問題については少数派になるかもしれない。問題ごとの多数派、少数派の交代もありうるし、政権交代もある。そうした長期的なプロセスのなかで、利害の対立、価値観の対立を収拾していこう、というのが議会制民主主義の立場だったわけですね。 これが、ファシズムであれば、利害の対立が生じた場合には、社会のなかの異分子、あるいは外国人を排除すればいいし、共産主義の場合は階級の敵をスケープゴートにすればいい。だけど、リベラル・デモクラシーは異分子を排除せず、利害対立を中に含み込んだ上で、なんとかやっていこうというシステムだったはずです。 そのためには、最後の出口である、公権力の行使に縛りをかけるのもそのとおりですけれども、入口にあたる政治プロセスにおける意思決定のところも、やはり縛りはかかっていないといけないわけで、民主主義のプロセスに関する違憲立法審査権などを含めて、プロセスのコントロールも当然、立憲主義の視野には入っている、という答えでいかがですか」(長谷部恭男・杉田敦共著、「これが憲法だ!」、朝日新書014(朝日新聞社)、2006年11月、 p46-47)
 
 「(前略)…大きくいって、今や民主の対抗物はなくなった。逆に現代の独裁政治、一党支配は決して民主を否定しなかった。スターリンは人民の名において人民の敵を粛清したわけですし、ヒトラーの率いるナチスは名前からして民族社会主義ドイツ労働者党ですから、やっぱり人民です。現実に彼は人民の選挙で第一党となって、ワイマール憲法を実質上ひっくり返してしまった。 それから時代はずうっと下って、ユーゴスラビアのミロシェヴィッチも選挙でその地位についていましたし、それどころか、二〇〇〇年七月には大統領を直接選挙で選ぶ制度に変えて国内の基盤を一層固めようとしました。イラクのサダム・フセインは選挙ではないにしても、国民投票をやると九十何パーセントが彼を支持している。これも人民の名のもとの統治です。最終的な局面で独裁者たちに引導を渡すのも、おそらく人民自身だとしてもです。 日常場面では『民主』という言葉は実は何事も語っていない。ごくわずかな例外を除いて、あらゆる政治体制が民主の名において説明されているからです。そうなってくると民主を名乗る政治権力も制限されなければいけないという『立憲主義』が、一番のキーポイントになる。 実はそのことが、少なくとも世界の先進国レベルで共通認識になったのは比較的最近なのです。というのは、かつては民主の旗によって世の中が進歩していくことへの幻想があった。だから、民主を推し進めれば進めるほどまっとうな世の中になっていくという期待があったのです。ところがいろいろな『民主』をやってみたけれども、しばしばそれは惨憺(さんたん)たる結果をもたらしてきた。 そこで『立憲主義』という言葉が思い出されてきた。なぜ『思い出されてきた』と言うのかというと、立憲主義という言葉は中世にさかのぼる古い歴史的過去を背負っているからです。とりわけ一九世紀のドイツではこの言葉がキーワードとなりました。一九世紀のドイツはどういう立場にあったのか。お隣のフランス、さらにその向こう側のイギリスは、私の言う『四つの八九年』の、一六八九年と一七八九年に、『権利章典』と『人権宣言』という歴史的文書をのこし、いち早く近代国民国家をつくってそっちの方にどんどん進んで行っている…(後略)」(p85-87)
 「(前略)…『民主』だけだと、民主の名における独裁になっていく危険がある。だから、民主よりも立憲主義、それも単なる建前だけではなくて、裁判所による違憲審査を伴うものになります。多数者支配は当然、法律という形であらわれますから、法律を違憲無効にできる制度をつくる。これが今の段階の立憲主義です。ところがこの感覚が、戦後の日本に根付いているとはいえないようです。 繰り返しますけれども、帝国憲法をつくったころは天皇主権を前提としながらも――前提としていたからこそという面もありますが――権力は制限されていなくてはいけない、という『立憲主義』の大事さを政治家たちは認識していました。当時の政党の名前で『立憲』という言葉がよく出てきますが、偶然かどうか戦後はそういう政党名はない。 ところが『国民主権』になってくると、『民主』ですべていいのだ、とにかく選挙で選ばれた国会なのだ、それに裁判所はいちゃもんをつけてはいけない、という感覚の方が強いようです。しかしこの際、『民主主義』と『立憲主義』の関係をきちんと整理して議論のレールに乗せることが大事でしょう。憲法とか法律をやっている専門の狭いサークルでは常識化しているのですけれども、それをもっと政治の場面できちんと位置づけ直して議論を始めることが大切だと思うのです」(p93)
 (以上、樋口陽一著、「個人と国家――今なぜ立憲主義か」、集英社新書(0067A)、2000年11月)
 
 ちなみに旧ユーゴスラビア紛争での集団虐殺などで人道に対する罪などに問われた元ユーゴ大統領のミロシェビッチ被告は旧ユーゴ戦犯国際法廷で公判中にオランダ・ハーグの独房で死亡した(2006/3/11)。またシーア派住民虐殺事件で人道に対する罪に問われて死刑判決を受けたイラクのフセイン元大統領の死刑が執行された(→2006/12/30。ちなみに死刑確定は12/26)。そして相変わらず極東には「民主主義人民共和国」という名称の「非人道的独裁国家」が残されたままである。
 
 実は憲法の議論は国際社会を考えることにもつながっていくのである。そして「多数決の適用から除外される一人ひとりの生命などを含む基本的人権などの部分」と「基本的には多数決によって決められるそれ以外の部分」を明確に区別するという「立憲主義」のような考え方は、国際社会の問題を考えるときにも大いに役立つのである。
 
 米国のブッシュ大統領が新しいイラク政策を発表した(→2007/1/10(日本時間1/11午前)。大統領は自らのイラク政策の失敗を認めた上で、治安確保のために駐留米軍を約2万人増派するなどの方針を示す)。米軍増派によってイラクの現状がどれだけ変化するのかはよく分からない。だが、いずれにしてもイラクに「力」の空白を作り出すわけにはいかないのである。今の「内戦状態」のイラクには「立憲主義」のような考え方を正しく理解して他人の生命・財産などを含む基本的人権を尊重する人たちがほとんどいない状態なのかもしれない。そしてイラクにいる一人ひとりの生命・財産などを守るために自らの生命を賭けるような正しい使命感を持った公務員や「イラクという国と郷土を愛する人たち」があまりにも少ないということが最も深刻な問題なのかもしれない。どうすればイラクで正しい使命感を持った優秀な公務員や健全な「愛国心」を持った人たちの数を増やすことができるのかということを真剣に考える必要がある。
 
 この文章の最初の方で筆者は「国家とは、自分たちの選んだ『代表』が操縦する航空機に自分自身も乗っているような状態」であると書いた。憲法や法律などのルールがいくら立派でも、「航空機」の中の人たちが誰もルールを守らなければそうしたルールは全く無意味なものになってしまう。多くの人たちが互いに暴力で問題を解決しようとして激しく争えば、どんなに「操縦士」が優秀であっても「航空機」は「墜落」か「空中分解」してしまうだろう。よって「航空機」の中の人たちにルールを守らせるためには軍事力や警察力のようなむき出しの「力」を含めた何らかの強制力が必要になってくることになる。だが、あまりにむき出しの「力」ばかりに頼らざるを得ない状態が長く続くとやがて「航空機」自体が完全に壊れてしまうのかもしれない。
 
 イラクのようにイスラム教スンニ派とシーア派による宗教対立が殺し合いや自爆テロにまでエスカレートしていく場所を見れば見るほど、「多数決の適用から除外される一人ひとりの生命などを含む基本的人権などの部分」と「基本的には多数決によって決められるそれ以外の部分」を明確に区別するという「立憲主義」のような考え方の重要性がさらによく分かってもらえるのではないかと思う。
 
 「私は、日本を、21世紀の国際社会において新たな模範となる国にしたい、と考えます。 そのためには、終戦後の焼け跡から出発して、先輩方が築き上げてきた、輝かしい戦後の日本の成功モデルに安住してはなりません。憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的枠組みの多くが、21世紀の時代の大きな変化についていけなくなっていることは、もはや明らかです。我々が直面している様々な変化は、私が生まれ育った時代、すなわち、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器ともてはやされていた時代にはおよそ想像もつかなかったものばかりです。今こそ、これらの戦後レジームを、原点にさかのぼって大胆に見直し、新たな船出をすべきときが来ています。『美しい国、日本』の実現に向けて、次の50年、100年の時代の荒波に耐えうる新たな国家像を描いていくことこそが私の使命であります…(後略)」(2007/1/26の安倍首相の施政方針演説から)
 
 「戦後レジーム」を見直していく場合には、「立憲主義」という考え方を導入し始めた明治以降の戦前、戦中、そして戦後の日本の歴史を振り返りながら、「立憲主義」などの考え方を正しく踏まえた議論をしていく必要があると筆者は考えている。そうすれば国際社会の現状とその中での日本の役割が比較的簡単に見えてくるのかもしれない。地球上にはイラクのように「内戦状態」のために一人ひとりの生命すらも保障されていない場所もまだまだ多く残されている。また例えば、北朝鮮のように、生命や財産などの最低限の基本的人権すらも国家によって保障されていない場所もまだまだ多く残されている。さらには例えば、アフガニスタン、東ティモール、カンボジアやその他の場所のように、「内戦」のような大きな混乱はなくなっても経済などの発展が軌道に乗ったのかどうかまだハッキリしていない場所も多く残されている。「立憲主義」などの考え方を正しく踏まえた議論をすれば、かなり自然な形で憲法の議論は外交や安全保障の話にもつながっていくのである。
 
 くどいようだが、何とかして安倍首相にも「憲法の議論はあらゆる改革につながる」などというセリフを言わせてみたいものである。そうすれば日本社会の中で「頭の中の憲法」の「改正」がさらに進むことになるのではないかと筆者は大いに期待している。
 
簡単な「頭の体操」
 
 さてこの辺で簡単な「頭の体操」をしておくことにしよう。
 
 「憲法とは何か。民主主義国家にとって憲法なる文書を起草し、それを政治の中心に据えることには、どのような意味があるのか。 憲法を、選挙や立法といった通常の民主主義プロセスを超越するものとして捉える考え方は、『憲法主義(constitutionalism)』と呼ばれる。憲法主義は、民主主義がそうであるように、近代以降に確立されたひとつの政治理念である。しかし、それはまた、多数決を意思決定の基本とする民主主義と対立するイデオロギーでもある。 不幸なことに、このことは、今日の日本において正しく理解されているとはいえない。われわれは、戦後の劣悪な社会科教育の中で、小学校から一貫して、日本国憲法は『民主主義憲法』であると教えられる。ゆえに、民主主義国家が憲法をもつことを当然だと考えたり、憲法こそが民主主義という政治体制を保障するものだと思い込んでいる人が多い。しかし、これらは誤った認識である…(後略)」(p162)、「註:本稿を作成するにあたり、早稲田大学21世紀COE『開かれた政治経済制度の構築』プログラムから研究支援を受けたことに謝意を表する。日本ではconstitutionalismの訳語として『立憲主義』が定着しているが、『立憲民主主義』などという言葉が安易に使われるように、それでは民主主義と対立する政治理念であることを際立たせることができないので、本稿ではあえて耳慣れない(またよりストレートな訳語である)『憲法主義』という言葉を使った…(後略)」(p175。以上、中央公論2005年5月号(「なぜ、憲法か ――憲法主義の擁護のために」(河野勝著))から)
 
 「頭の体操」をしてみた感想はどうだろうか。ここまで長々と「立憲主義(constitutionalism)」の話をずっと読んできてもらった賢明な読者のほとんどは非常に驚いたことだろう。あるいは、少し読んですぐに無意味な情報と見なして読むのを省略した人たちもいたのかもしれない。もちろん引用したこの文章は筆者の「捏造」でも何でもないのである。
 
 言うまでもなく、現代の「立憲主義」は、一人ひとりの基本的人権などの保障を大前提とし、その大前提を除外した部分については「多数決を意思決定の基本とする民主主義」と対立するような「イデオロギー」では全くあり得ないのである。そして現代における普通の意味での民主主義という制度は、一人ひとりの権利の保障と権力の分立が定められた憲法によって保障されているということは言うまでもないことである。ちなみに憲法学の本物の専門家の間では、「立憲主義」の考え方は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」(「人および市民の権利宣言」(フランス人権宣言、1789年)第16条)という簡潔な形で「要約」されることもある(→参考:2006/2/8号)。
 
 筆者はあくまでも憲法や憲法学には「しがらみのない素人」であるから、ここではあえて「珍妙な内容」をもっともらしく解説するようなことはしないことにしておく。もしかしたら「学位」などを与えた「親の顔」が見てみたくなるなどという人たちも出てくるのかもしれないが、基本的には10年、20年ぐらい前の大学・大学院教育の責任はもはや「時効」と考えておくべきである。しかし、2年ぐらい前に「研究」を行ったり支援したりした「大学側」の学生や社会などに対する一層の「情報公開」と「説明責任」、また「公的支援をした側」の国民などに対する一層の「情報公開」と「説明責任」などはやはり問われることになると筆者は考えている。そしてやはりどんな珍妙な種類の「アカウンタビリティ(accountability)」であっても説明すればそれでお終いというわけではないのだろう。
 
 「第2問 次の文章を読み、下の問い(問1〜7)に答えよ。(配点 19) 市民革命を通じて確立されてきた立憲主義思想は、今日では世界の多くの国々で受容されている。 そもそも、憲法は国家の統治の基本を定めた法であり、そこには制定者の意思が反映される。しかし立憲主義の考え方によれば、制定者といえども自由に憲法の内容を定めうるのではない。人権の一部は自然権ととらえられ、それを前提として国家の統治組織が組み立てられなければならない。さらにまた、制定された憲法の内容は、主権者をも拘束するものととらえられる。こうした思想は、人の恣意的支配を排除する法の支配の原理につながるものでもある。 立憲主義思想に基づく憲法は、一般に国家の中の最高規範であると位置付けられている。このことは民主主義国家における個人の権利保障にとって重要である。すなわち、個人の自由な政治参加に基づいて意思決定が行われる民主主義においては、多数決による決定が、ときに個人の人権を侵害することがありうる。こうした弊害から個人を守るために、今日では、多くの諸国で違憲審査の制度が導入され、裁判所の機能が重視されている。これは立憲主義の観点から、少数者にも配慮した民主主義の適切な運営を確保しようとするものとみることができる。 多様な人々の共存する現代国家においては、少数者の権利への国家的配慮はますます必要となりつつある。この点で、立憲主義は重要な今日的意義を有しているといえよう…(後略)」(2007年大学入試センター試験(政治・経済、本試験(2007/1/20実施))から(注:下線部などは省略))
 
 前回(→2007/1/25号)少し触れた2007年大学入試センター試験の「政治・経済」の試験問題からの引用である。多くの読者はここまでの「立憲主義」の説明が引用した問題文と非常に密接な関係にあるということに気づいていることだろう。昨年(→2006/11/30号)の繰り返しになるが、英国の名誉革命における権利章典(1689)、アメリカ独立戦争時の独立宣言(1776)、フランス革命におけるいわゆる「人権宣言」(1789)、さらに日本ならば大日本帝国憲法(1889)、そして現在の日本国憲法(1946公布、1947施行)へなどという歴史的文脈を踏まえて考えれば「立憲主義(constitutionalism)」という考え方が大学受験生以下の若い人たちにもよりよく理解しやすくなるのかもしれない。
 
 そろそろ多くの読者にも憲法の議論が国際社会を考えることにつながっていくということや、日本社会の中で「頭の中の憲法」の「改正」作業を進めていくことの重要性を理解してもらえてきている頃なのかもしれない。


「永田町周辺」と「立憲主義」
 
 さて、そろそろ永田町周辺に戻って実際に「立憲主義」という考え方を「プリズムのようなもの」として利用しながら日本の政治を分析してみることにしたいと思う。
 
 「自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値を共有する国々との連携の強化、オープンでイノベーションに富むアジアの構築、世界の平和と安定への貢献を3本の柱とし、真にアジアと世界の平和に貢献する『主張する外交』を更に推し進めてまいります。 『世界とアジアのための日米同盟』は、我が国外交の要であります。日本を巡る安全保障の環境は、大量破壊兵器やミサイルの拡散、テロとの闘い、地域紛争の多発など、大きく変化しています。こうした中で、日本の平和と独立、自由と民主主義を守り、そして日本人の命を守るために、日米同盟を一層強化していく必要があります。米国と連携して、弾道ミサイルから我が国を防衛するシステムの早急な整備に努めます…(後略)」(2007/1/26の安倍首相の施政方針演説から。参照(首相官邸のホームページ):http://www.kantei.go.jp/jp/abespeech/2007/01/26sisei.html)
 
 「(前略)…冷戦終結以来10有余年。今ユーラシア大陸の外周で弧をなす一帯に、自由と民主主義に基づく道を歩むか、今しも歩みだそうとする諸国が点在しています。ここにおいて我が国は、自由の輪を拡げたい。民主主義、基本的人権、市場経済、法の支配といった普遍的価値を基礎とする、豊かで安定した地域を作っていきたいと思います。 いま重んじようとする価値とは、どこか異国の産物ではありません。我が国は、浮き沈みがあったとは申せ、近現代史を通じ、これらの価値を自分の物にしてまいりました。人類社会に普遍の価値は、我が国自身の価値でもあります。 いまや価値の外交の実践は、先進民主主義国として、我が国の責務であると考えます。我が国が主張してきた『人間の安全保障』実現にも資するものです。 『自由と繁栄の弧』の上で、民主化への長い道のりを走り出したか、走り出そうとしている諸国と我が国は相並び、共に駆けるランナーになりたいものです。しかもその営みを、価値観と志を共にする、米国、豪州、インド、英仏独など欧州各国、国連や国際諸機関と、手を携えて進めてまいります。先般、わたくしが、中・東欧諸国を訪問したのも、まさにそうした考えに基づくものであります…(後略)」(2007/1/26の衆院本会議などでの麻生太郎外相の外交演説から。参照(外務省ホームページ):http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/19/easo_0126.html)
 
 麻生太郎外相の東欧諸国訪問(→2007/1/9-15。ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキア)や「外交演説」などでは「自由と繁栄の弧」(→参照:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/free_pros/index.html)という聞いたことのない言葉が繰り返し使われていた。あえてくどく説明しなくても、賢明な読者には「立憲主義」という考え方は安倍首相や麻生外相の演説の中で取り上げられていた「民主主義、基本的人権、市場経済、法の支配」などと密接不可分の関係にあるということがすぐに分かるはずである。くどいようだが、憲法の議論は国際社会を考えることにもつながっていくのである。
 
憲法の議論は教育にもつながる
 
 「教育再生は内閣の最重要課題です。現在、いじめや子どもの自殺を始めとして、子どもたちのモラルや学ぶ意欲の低下、家庭や地域の教育力の低下といった問題が指摘されています。公共の精神や自律の精神、自分たちが生まれ育った地域や国に対する愛着愛情、道徳心、そういった価値観を今までおろそかにしてきたのではないでしょうか。こうした価値観を、しっかりと子どもたちに教えていくことこそ、日本の将来にとって極めて重要であると考えます。教育再生会議における議論を深め、社会総がかりで、教育の基本にさかのぼった改革を推進し、『教育新時代』を開いてまいります…(後略)」(2007/1/26の安倍首相の施政方針演説から)
 
 安倍首相は教育再生を最重要課題に掲げている。そして教育再生会議が第1次報告を安倍首相に提出した(2007/1/24)。実は憲法の議論は教育にもつながっていくのである。日本が議会制民主主義国家であるという現状を踏まえてより正確に言い換えるならば、憲法と教育は非常に密接な関係、あるいは、表と裏の関係にあるのである。そのことは例えば、新旧両方の教育基本法の規定を読んでもよく分かることだろう。
 
 「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する」(教育基本法(2006/12/22公布・施行)の前文)
 「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(教育基本法(2006/12/22公布・施行)第1条(教育の目的))
 
 「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」(旧教育基本法の前文)
 「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(旧教育基本法第1条(教育の目的))
 
 教育の基本方針の重要な柱の1つを非常に大雑把に表現してしまえば、基本的人権の尊重などを含む日本国憲法の精神とその重要性を正しく理解した国民を育てるということになるのである。そしてそういう教育の基本方針の重要な柱の部分については、昨年2005年の教育基本法改正においても変更はされていないのである。読者にとっては意外なことなのか、当たり前すぎるくらい当たり前のことなのかはともかくとしても、やはり憲法と教育は非常に密接な関係、あるいは、表と裏の関係にあるということになるのである。
 
 ちなみに改正時に国会審議や報道などで大きな問題になっていたいわゆる「愛国心」については「(前略)…五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」(教育基本法(2006/12/22公布・施行)第2条(教育の目標))という表現になっている。実は「愛国心」という言葉は使われていないのである。
 
 このように憲法の議論は教育にもつながっていくのである。多くの読者にも「立憲主義」の考え方を正しく踏まえた上での憲法の議論はあらゆる改革につながるなどと筆者が主張する意味をよりよく分かってもらえてきているのかもしれない。
 
永田町における憲法の議論
 
 最後に永田町における憲法の議論についてもほんの少しだけ触れておくことにしよう。参考までに永田町の「最前線」における憲法の理解度を示した具体例を挙げておくことにする。読者にとっては「頭の体操」になるのかもしれないし、「正解」を導き出す際のヒントになるのかもしれない。
 
 社民党の辻元清美代議士の「(前略)…まず憲法とは何かということを提出者の皆さんに改めて問いたいと思います。憲法というのは、よく憲法は国民が守らなければならないきまりだと誤解されている方がいらっしゃいます。そうではなくて、憲法というのは、国民の権利を守る、そのために、政府が、国家機関ですね、その権力の行使の枠を決める、制限をするというのが憲法の持つ意味だと思います。これは皆さん変わりがないと思いますが、民主、公明、自民のそれぞれ、自民党はぜひ大先輩の保岡委員にお伺いしたいと思います」などという質問に対して、
 民主党の枝野幸男代議士は「憲法は、主権者が為政者、政をなす者に対して発する命令である。これは、いい悪いじゃなくて、定義でありますので、為政者が国民に対して発する命令は憲法ではありません。これは定義の問題ですので、ほかの御意見があることがおかしいと思っています。あえて言いますと、大日本帝国憲法も当時の主権者である天皇から為政者に対する命令でありましたし、現行憲法は主権者は国民でありますので、主権者国民から為政者である我々国会や内閣などに対する命令です。ちなみに、十七条憲法も、主権者の代行であった聖徳太子、摂政から当時の為政者に対する命令でありまして、これは国内的にも一貫している定義でありますし、国際的には、当然のことながら国民に対する命令が憲法だなんと言ったら国際的にばかにされる、こういう話であります」と、
 公明党の斉藤鉄夫代議士は「憲法は、国民が権力者に対してこうしなければならない、規制をするというのが基本的な考え方であると思います。それに加えてやはり憲法というのは普通の法律の上に立つものとして、ある意味で国のあり方というものを、我々の理想を目指す、こういう国をつくるということも含まれてしかるべきというふうに考えております」と、
 自民党の保岡興治代議士は「憲法の国民主権主義という点からいえば、国民の最高規範でございますから、権力行使の制限規範という、先ほど来の近代憲法の原則というのは当然あると思います。ただ、最近の憲法は多様な機能を持っておると私は思っております。それは、一つには、国家機関を定め、そしてそれに授権する、行政、立法、司法と。それぞれ裁判所、政府のいろいろなお役所、それからまた国会、そういった組織について授権する。こういう機能も持っておれば、また、さらに進んで、国民と国家は単に対立するものではなくて、協働関係に立つものであるという観点から、国家の目標を設定したり、あるいは国民の行為規範という側面もあるかと思います。例えば、この憲法においても、納税の義務、教育を保護する子女に受けさせる義務、あるいは勤労の義務、国家がしかるべき正しい権力行使をするような命令に服すると同時に、国民もまたそれに協力して一定の義務を負うことを国民みずから憲法の中に定めている要素がある。そういった意味では、生存権など、これも一つのそういう国民の責任において自分たちが受ける権利というものを政府に求めているという点もありますし、また一方、公共の福祉の原理という点で権利と義務、責任というもののバランスをとろうとしていることも、この憲法に権利制限の公共福祉の原理の中にそれがあらわれていると思います」とそれぞれ答弁していた(以上、2006/10/26の衆院憲法調査特別委(国会会議録(http://kokkai.ndl.go.jp/))から)。
 
 繰り返しになるが、筆者は「国家とは、自分たちの選んだ『代表』が操縦する航空機に自分自身も乗っているような状態」であると考えている。あえて「命令」という言葉を使う場合には、その「命令」は権力を制限すると同時に、最終的には自分自身にも跳ね返ってくるということを絶対に見失ってはならないはずである。筆者としてはこれ以上の個別具体的なコメントや解説はしない。
 
 くどいようだが、筆者は明らかに「正解ではないもの」が何かについては読者に分かりやすく示すことができるのかもしれない。だが、筆者が読者に唯一の「正解」を分かりやすく示すようなことはできないのである。言うまでもなく「正解」はたった一つとは限らないからである。やはり「正解」が何かということは一人ひとりが自分自身で責任を持って判断していくしかないのである。
 
 ちなみに永田町の「最前線」はトップレベルでも平均レベルでもないのである。永田町周辺には「頭の中の憲法」を急いで「改正」しなければならない非常に低レベルの理解度から、憲法学の本物の専門家と同じような非常に高いレベルまで実に様々なレベルの理解度の政治家たちが混在しているのである。いずれにしても一人ひとりの読者が「自分なりの確実な方法」を使用することも含めてそれぞれ自由に、そして自分自身の判断に責任を持って何が「正解」かということを導き出して判断してもらいたいと筆者は考えている。あくまでも参考までにもう少しヒントになりそうな議論を読者に提供しておくことにしよう。
 
 「(前略)…杉田 なるほど。そこで私が疑問に思うのは、そうしたいくつかの性格の異なるものが、憲法典という一つのテキストにまとめられていることが妥当かどうかなんです。政府のいわば『定款』とも言える統治機構についての規定と、私たちが本来持っている権利を確認する宣言とが、同じ一つの文書になっている。そのことが、まるで私たちを、国家によってはじめて権利の主体にしてもらっているような、自分たちが主人公ではないかのような誤解に導いている面はないのでしょうか。 だから、権利についても、自分たちはただ要求していればよい、という考えになりやすい。しかし、さきほども言ったように、とりわけ積極的な権利、社会権は、自分たちがどのくらい税金を払うつもりがあるのか、どのくらいの負担をするつもりなのか、ということと切り離しては考えられません。また、憲法に書くかどうかは別にして、環境権なんかも、一方的に政府に要求するものとは思えない。政治家や高級官僚だけが環境を汚しているのならそうなるでしょうが、実際には私たち自身も汚しているわけで、環境権は私たちが自らに課す義務的な側面をも含むはずです。 よく保守的な政治家が、『憲法には権利ばっかり書いてあって、責務や義務が書いてない』とか言っている話は、おそらく、憲法を『おふれ』みたいにとらえて、国民に禁令を出してやろう、と思っているのでしょうから、それ自体はダメな話です。しかし、他方で、そこには、いわば一片の真実が含まれているのではないか。 われわれ自身が自分のことを『一方的に要求する主体』ととらえていて、いいのかどうか…(後略)」(p51-53)
 「長谷部 『なるほどそのとおり』と言っちゃいけないので別の議論をしなきゃいけないんですが(笑)。多くの人びとが日常的には自分の主体的な政治へのかかわりをあまり意識しないで、いかに国家のサービスの利益を享受しようかと考え、そちらにばかり興味や関心が向いているのは、おっしゃるとおりだと思います。 でも、私が思うに、人間とはもともと、そういうものだと思うんですね。さきほどのアッカーマンもそうですが、やはり人間は、自分自身の利益とか、自分の身近なごく少数の人びとの利益をまず考えて生きていて、社会全体の利益とか、あるいは自分が見たことも会ったこともない人や自分から何世代もあとの人たちがどういう暮らしをするかなんて、あまり関心ないのだと思います。これは、憲法がどうのとは関係のない、人間の本性だと思いますから、憲法を変えたからといって、一部の政治家が期待するようにここのところが変わるかどうかは、よくわかりません。 それからもう一つ、民主主義の現状がどうなっているのか、という問題があると思います。普通の市民は民主主義といっても、普段、テレビか新聞か何かで政治について知って、選挙の日には投票に行くという、ただそれだけの話です。他方、為政者のいわゆる『エリート』の人たちはどうしているかというと、市民がよくものごとを考える前の、直感的なものの感じ方を世論調査などを通じて集めようとしますね。しかも、それを活用した宣伝活動をして、人びとの抱くイメージをどう自分たちに都合のいいように変えるか、そればかりに関心がいっていますから、そんなことでは普通の人びとが当事者感覚を持とうにも、なかなか持てないと思うんです。たとえば二〇〇五年九月の衆院選で、各党がPR会社を使って、世論調査や意識調査を分析して、それをもとに国民世論をある方向へ誘導しようとイメージ宣伝を繰り広げたのは、その典型例ですね。私はこれは、民主主義の危機だと考えています…(後略)」(p53-54)
 (以上、長谷部恭男・杉田敦共著、「これが憲法だ!」、朝日新書014(朝日新聞社)、2006年11月)
 
 相変わらず永田町周辺の人間たちは「意味のない情報」に振り回されている。どうやら永田町周辺の人間たちは、何をどこまで正確に把握しているのか把握していないのかすらも明確ではない「世論調査」の結果を「正解」だと強く思い込み、そして何がどこまで効果があったのかなかったのかも実は定かではない「広報戦略」なるものの効果を無条件に信じ込んでいるようである。もちろん民主主義国家の日本では無意味なものに多くの時間や資金を投入する自由も認められているわけだが、このような永田町周辺の現状は筆者の言う「お任せ民主主義」、そしてそれを支える「一夜漬選挙」をますます加速することになってしまうのである。
 
 今回の文章を通じて筆者が「お任せ民主主義」、そしてそれを支える「一夜漬選挙」を厳しく批判している理由をほとんどの読者によりよく理解してもらうことができただろうか。筆者に言わせれば、憲法の議論はあらゆる改革につながっていくのである。くどいようだが、何とかして安倍首相に「憲法の議論はあらゆる改革につながる」などというセリフを使わせてみたいものである。
 
 さて、どうやら野党側は2007年度予算案の審議から「審議拒否」をやめるらしい(→2/7の衆院予算委での少子化対策などの集中審議から)。野党側の「審議拒否」戦術についてはあえてコメントしないことにしておく。いずれにしてもまだしばらくの間は永田町周辺ではかみ合わない議論が続きそうである。
 
 言うまでもなく議論をかみ合わせるためには「質問」の中身を大いに工夫しなければならないはずである。そして実は「質問」というものは、答える側の能力や見識を明らかにするためだけの一方的なものではないのである。「質問」というものは、答える側だけではなく、質問する側の能力や見識も同時に問われることになるという意味で双方向の情報のやりとりになるのである。もちろんそのことは政党・政治家の議論や国会での質問に限らない。社会の様々な場面で、質問する側がどのような文脈の中でいつ誰にどのような質問をし、それに対して答える側が何をどのように答えるのか答えないのかなどという情報のすべては物事の本質を見極める場合に大いに役立つことになるということを最後にあえて強調しておくことにする。
 
 おそらく次回も多くの読者にとっては意外なものを「プリズムのようなもの」として利用しながら日本の民主主義の本質的な問題点を浮かび上がらせた上で分析していくことになるのだろう。


<2007年> 真贋のプリズム(2007年) (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信予定)

<2006年以前>

   正しい「要約」と正しい「比較」のススメ(→2006年以前へ) (ほぼ同一内容をメールマガジン版「永田町ワイドショー」として配信済)


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