政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。
当ホームページ上のすべての記事は無料ではなく「シェアウェア」です。著作権の侵害とそれに類する一切の不適切な使用、及び不正行為は固くお断りします。また不正行為等の防止のためにやむを得ないと判断する場合には事前の警告なしに報復措置を含めたすべての必要な手段を講じます。
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購読料について(2006年版) (2006/12/28更新)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)
○「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)
○「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)
○「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)
○サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)
2006年も残りわずかとなった。もうすぐ2007年になる。「タイトル」がそのまーんまになっているのを見て「またか…」と呆れている読者もいるかもしれない。別に「特別号」(2006/11/30)の復党が無事に認められたから、次は「小選挙区支部」への衣替えの可能性を残しながら「県衆院支部」などを駆け込みで年内に設立してみたというわけではない。できることならば去り行く2006年を「自己中心的」に振り返り、「ご都合主義的」に来るべき2007年を良い年にしてみたいと思っている。今回は「ゆく年くる年特集号」である。
さて、「ゆく年くる年特集号」と言えば、年末年始。そして年末年始と言えば、忘年会、正月、新年会。さらに忘年会、正月、新年会と言えば、やはり「隠し芸」。最初からかなりの「自己中心的」「ご都合主義的」な展開になっているが、今回の「ゆく年くる年特集号」では、筆者の政治記者の「芸」とは別種類のとっておきの「隠し芸」、賢明な読者にしか分からない「隠し芸」も併せて披露することにしたい。そして「ゆく年くる年特集号」の具体的にどの部分が「隠し芸」になっているのかいないのか、また仮にある部分が「隠し芸」になっていたとしてもその「隠し芸」がどのような意味を持つのかなどについては一切宣明しないことにしておく。
あくまでも念のために言っておくが、筆者の「隠し芸」は「愚か者には分からない『隠し芸』」ではなく「賢明な読者にしか分からない『隠し芸』」である。どちらも似たようなものではないかと思うかもしれないが実はこれが大違いなのである。「愚か者には分からない『隠し芸』」の場合には、誰でも「正解」は知っているからあたかも分かっているかのような「演技」は誰でもすることができるのかもしれない。だが、「賢明な読者にしか分からない『隠し芸』」の場合には、具体的にどこがどんな「隠し芸」になっているのかは「賢明な読者」にしか分からないのである。だから何が「正解」かを全く公表しなければ「賢明な読者」以外の人たちがすぐにはバレない「演技」をして「賢明な読者」役を演じることはできなくなってしまうのである。要するに、「賢明な読者にしか分からない『隠し芸』」の方には「賢明な読者」とそれ以外の人たちの間に、それを何と呼ぶかはともかくとしても、非常に高くて厚い「壁」があるわけである。
それではさっそく去り行く2006年を「自己中心的」に振り返りながら「ご都合主義的」に来るべき2007年を良い年にしてみたいと思う。
不祥事はそのまーんま続く?
2006年は実に様々な種類の不祥事が相次いで発覚した。ちょうど1年前の年末年始は、耐震強度偽装事件で大騒ぎになっていたし、「ナ」から始まる大手家電メーカーが石油温風機などについての「大切なお知らせとお願い」を繰り返していた(→参考:第1回(2006/2/1))。また今年の夏には屋内設置型湯沸器の事故発生が相次いで明らかになった「パ」から始まるガス器具メーカーも「ナ」と非常に「そっくり」なCMを流していたし、冬には報告書が提出されたりして再び波紋が広がった。
早稲田大学における公的研究費不正での処分は繰り返された(→参考:第6回(2006/8/22)etc.。参照:http://www.waseda.jp/jp/news06/061006_1.html、http://www.meti.go.jp/press/20061222005/20061222005.html、http://www.waseda.jp/jp/news06/061219_m2.html)。
また大阪大学は論文データのねつ造で大学院生命機能研究科の教授を懲戒解雇した(→2006/12/20。参照:http://www.osaka-u.ac.jp/jp/saishin/kenkai_h181221.pdf)。
さらに東京大学は遺伝子研究論文のねつ造疑惑で大学院工学系研究科の教授と助手を懲戒解雇した(→2006/12/27。参照:http://www.t.u-tokyo.ac.jp/public/info/archives/2006/1227.html)。
昨年の冬までは「インフルエンザ」などの被害が深刻だったような記憶が残っている。そして今年の冬は「ノロウイルス」が猛威を振るっているようである。「インフルエンザ」であっても「ノロウイルス」であっても、あるいはそれ以外の何かであっても、科学的手法を採用する筆者としては、すべての「感染ルート」などを特定し、それらを一つずつさかのぼり、いかなるコストを費やしてあらゆる手段を駆使してでも「汚染源」や「原因物質」などを徹底的に除去していくことになるのだろう。そしてあくまでも念のために言っておくが、筆者は「ウイルス」や「原因物質」などと「交渉」したり「妥協」したりようなバカなことは一切しない。科学的に考えた場合に必要となるすべての手段を駆使して「ウイルス」や「原因物質」などを完全かつ確実に除去するまでの話である。もちろんそういうことは科学というものを少しでも分かっている人たちにとっては当たり前すぎるくらい当たり前のことである。
いずれにしても2007年も様々な種類の不祥事がそのまーんま繰り返されることになるのだろうか。
「人脈」や「コネ」はそのまーんま「しがらみ」に
2006年は大きなスポーツイベントが多かった。トリノ冬季五輪、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)、サッカー・ワールドカップ(W杯)ドイツ大会などがあった。そしてサッカーでは中田英寿選手が現役から引退した(→参考:第6回(2006/8/22))。また松坂大輔投手は来季から大リーグのボストン・レッドソックスでプレーすることになった
(2006/12/15)。なお荒川静香選手の「イナバウアー」が2006年の新語・流行語大賞に選ばれた(→2006/12/1。参照:http://www.jiyu.co.jp/singo/)。
筆者に言わせれば、「あの人のあの言葉」が一緒に「流行語大賞」に選ばれなかったのはとても不思議である。ちなみに「あの人のあの言葉」とあえて曖昧にしたことに何らかの意味があるのかないのか、また仮に曖昧にしたことに何らかの意味がある場合でもどのような意味があるのかについては宣明しないことにしておく。
いずれにしても2006年もスポーツは多くの人たちを感動させた。だが、ほぼ同じ時期に多くの人たちを大きく失望させていた「ラ」から始まる事件(→参考:第1回(2006/2/1)etc.)、「メール問題」(→参考:第3回(2006/2/21))、「や」から始まる問題(→参考:第4回(2006/4/17)、第6回(2006/8/22)etc.)などについては今回は「ご都合主義的」に一切触れないことにする。
ところで約1年前に「ラ」の元社長の「想定内(外)」が新語・流行語大賞になったことをまだ覚えている読者はいったいどれだけいるだろうか。その一方で元社長が幅広い「人脈」や「コネ」などというものを利用し、自分自身で「セールスマン」や「広告塔」になって株式の時価総額の「発展」に貢献していたことを覚えている読者はきっと多いことだろう。そしておそらく元社長が持っていたらしい幅広い「人脈」や「コネ」などというものの多くはそのまーんま「しがらみ」に変わってしまったのだろう。「人脈」や「コネ」などというものはあっと言う間に「しがらみ」に変化することもあるのである。それにしても時間の流れは早いものである。
そもそも「人脈」や「コネ」などというものは「しがらみ」と表と裏の関係にあると考えておくべきである。社会の中では自分から見れば「人脈」や「コネ」などであったとしても、相手から見れば単なる「しがらみ」にすぎないということも実は少なくないはずである。例えば、自分の学校関係のことを考えてみればいい。同窓会、ゼミ、サークルなどは「人脈」や「コネ」になることもあるが、単なる「しがらみ」でしかない場合もあるだろう。確かに「コネ」というものは作るものなのかもしれない。だが、「人脈」は作ろうと思ってもすぐに作ることができるような性質のものではないし、ただ単に学校やゼミに入ったりするだけで簡単にできるような性質のものではないはずである。むしろ「人脈」は作るものというよりも信頼を積み重ねていくうちに自然にできるものではないかと筆者は考えている。もっとずっと多くの人たちが「人脈」というものは、学校の中であっても社会の中であっても、それなりに長い時間をかけて信頼を積み重ねていくうちに自然にできるものであると考えるようになるのならば、学歴やゼミなどの「ブランド」に依存しない人たちの数も増えていくのかもしれない。本当に「人脈」という言葉が単なる軽薄短小な人間関係を意味する言葉になってしまったのかどうかはよく分からないが、いずれにしても「人脈」や「コネ」などというものはあっと言う間に「しがらみ」に変化することもあるのである。
「人脈」や「しがらみ」という意味でも「学校選び」は重要になってくる。たとえ自分がどんなに努力したとしても、何年かすると恥ずかしい学校にされてしまう危険性が高いところはやはり避けるべきだろう。また「名門校のブランド」の価値を利用するためだけに多くの人間たちが集まってくるような学校も危険性が非常に高いだろう。当たり前と言えば当たり前の話だが、先輩たちが長年積み重ねてきた実績が「名門校のブランド」をつくったのである。「名門校のブランド」の価値を食べるだけ食べておいて意味のある新しい価値を何も作り出せない人間たちばかりが集まってきたらその「ブランド」の価値は簡単に地に落ちてしまうのである。そういう意味ではやはり「学校選び」は重要になってくる。
事実上の「学位工場(diploma mill)」
筆者が「欠陥商品」を製造・販売した大学側の責任を本格的に問題にし始めたのは約1年前の冬であった(→参考:第2回(2006/2/8)etc.)。もちろん教育は製造物責任(PL)法の適用対象ではない。だが、基本的には教育でも「欠陥商品」を製造・販売した場合にはその責任が厳しく問われなければならないはずである。例えば、「○○○大学から大切なお知らせとお願いです。○○○大学では2005年頃にいわゆる『政治学』の単位を取得した方を探しています。事故に至る危険性がありますから、ただちに使用を中止して○○○大学までご連絡ください。最悪の場合には履修された方の能力や卒業証書の効力が疑われる恐れもあります。四者択一の試験問題、極端に枚数が短く制限されたレポートなどが対象となる単位の目印です」などという「お知らせとお願い」を何度も何度も繰り返し、責任を持って最後の一人まで徹底的に探し出さなくてはならなくなるはずである。そして困ったことに、教育による悪影響が目に見える形で表れてくるまでには長い年月がかかり、そのために被害が拡大して非常に深刻な事態に陥ってしまうのである。
またグローバリゼーションが進展している現在においては、教育による悪影響は、以前とは比較にならないほど簡単に国境を越えて大きな広がりを見せることになる。最悪の場合には人間性や能力に問題のある教員の「バカの壁」を鋳型にして世界中の前途有望な学生たちの将来が台無しにされてしまうこともあるのである。世界中に多くの研究者や大学教員を「供給」しているいわゆる有名大学・大学院の責任は以前よりもはるかに重いものになっているのである。そしてグローバリゼーションの時代には、教育による悪影響はまず地球規模で広がった後に最終的には「欠陥商品」を製造・販売した側に「ブランド価値の喪失」という形で跳ね返って戻ってくることになる。
外国留学自体が非常に珍しかった一昔前の日本では「留学経験」がありさえすれば大した実力がなくても「化けの皮」がはがれることなしに定年まで無事に大学の教員を務めることができたのかもしれない。だが、グローバリゼーションの時代には教員の実力がグローバルスタンダードで客観的に評価されやすくなるし、代わりの人材も一昔前よりもずっと速く簡単に見つけることができるようになっている。かつては一生はがれることがなかった実力のない教員の「化けの皮」も、グローバリゼーションの進展によって20年、10年、5年、1年と「化けの皮」がはがれるまでの時間がどんどん短くなっていくのだろう。そしてひとたび「化けの皮」がはがれると、そういうお粗末な「自称・専門家」にどういうわけか「卒業証書」や「修士号」や「博士号」を与えてしまった有名大学・大学院の「ブランド価値の喪失」につながっていくことになるわけである。
もちろん日本の大学・大学院も「欠陥商品」を製造・販売することはある。またもちろん欧米の有名大学・大学院の「卒業証書」や「修士号」や「博士号」を持った多くの本物の専門家たちが日本でも活躍している。だが、本物の専門家の数と同じかそれ以上の数の欧米の有名大学・大学院の「卒業証書」や「修士号」や「博士号」をぶら下げた「偽者の専門家」たちのために日本の大学・大学院や永田町周辺では深刻な汚染が広がっているのである。あえて個別具体的な事例は挙げないが、お粗末な「自称・専門家」にどういうわけか「卒業証書」や「修士号」や「博士号」を与えてしまって「ブランド価値の喪失」を招いた有名大学・大学院が信頼を回復するためには「汚染者負担の原則」(PPP=Polluter
pays principle 経済協力開発機構(OECD)、1972年)のような考え方が必要になると筆者は考えている。
筆者に言わせれば「親の顔を見てみたい」などと言われるべきなのは、幼い子どもではなく、実はいい歳をした「大人」なのである。「子は親の鏡」などとよく言うが、「能力」だけではなく「肩書き」もよくよく注意して見ていなければ誰もが「学位工場(diploma
mill)」出身者と間違ってしまうような「専門家」や「研究者」や「教員」を見るたびに、「躾(しつけ)」をしたはずの「親」の顔が見てみたくなってくる。そしてそのようなお粗末な人間たちをあえて「専門家」や「研究者」や「教員」にした「親」の顔も見てみたくなってくる。筆者に言わせれば、様々な「躾(しつけ)ができていない大人」に向かって言う台詞が「親の顔を見てみたい」である。グローバリゼーションの時代には、一昔前のように帰国後に仕事に困らないように「おみやげ」として温情で「博士号」をプレゼントするというようなことをしてしまうと、地球規模で大きな悪影響が広がった後に最終的に「ブランド価値の喪失」という形で自分たちにも跳ね返って戻ってくることになるはずである。被害が拡大する前に責任を持って「欠陥商品」を「リコール」や「回収」してもらいたいものである。
政治家になるためには
来年2007年は統一地方選や参院選などの選挙の多い一年になる。選挙が近づいてくると「政治家になりたいだけの人間たち」や「政治家であり続けたいだけの人間たち」が必ずと言っていいほど「選挙のためのよこしまな空騒ぎ」を引き起こす。そして不祥事などで政治不信が高まってきても、やはり「実体のない空虚なイメージ」を売り物にした「選挙のためのよこしまな空騒ぎ」を繰り返す。ひどい場合には「ご近所」「友人」「先輩」「後輩」「同級生」などの「しがらみ」を悪用する「選挙活動目的のストーカー」までもが自宅周辺にはびこり出す。「選挙のない国家に逃げたい」とは間違っても言うつもりはない。だが、「政治家になりたいだけの人間たち」や「政治家であり続けたいだけの人間たち」が「選挙のためのよこしまな空騒ぎ」を何度でも繰り返す場所からはどうにかして脱出したいものである。
もしかしたら選挙が近づいてくるにつれて中学生向けの職業紹介本のような「政治家になるためには」というタイトルの本を出版すればベストセラーになる可能性も高くなっていくのかもしれない。もちろん「政治家になるために」いくら「もっともらしい本」や「難しそうな本」の「字面」だけを読んで「勉強」しても全く無駄である。やはりそれでは政治家にはなれないのである。それなら「政治家になるためには」いったいどうしたらいいのか。いわゆる「政治学(political
pseudoscience(偽科学))」ではない「本物の政治学(political science)」の「大学院」に行ってみたとしてもほとんど意味はないだろう。言うまでもなく「大学」に入学しただけでは全く話にもならない。やはりそれでは政治家にはなれないのである。それでも「政治家になるためには」どうすればいいのか。筆者がそんな質問をされたときには必ずこう答えるようにしている。候補者を「政治家にふさわしい人物」と交代させればいい。要するに、「政治家になるためならば何でもやる」という私利私欲にとらわれて勘違いした人間たちには政治家は無理だということである。
「放送作家知事」兼「タレント知事」と「芸人知事」
元参議院議員・元東京都知事の青島幸男氏が死去した(→2006/12/20。74歳)。本物の放送作家であると同時に本物のタレントでもあり、そしてやはり本物の政治家だったのだろう。もう約12年も昔になってしまうが、「放送作家議員」兼「タレント議員」から「放送作家知事」兼「タレント知事」に「くら替え」した時のことを思い出す。その「放送作家知事」兼「タレント知事」は1995年の当選直後に公約通りに世界都市博を中止した。そして公約の持つ意味やその重要性を多くの人たちに再認識させたが、その後はどんどん存在感が希薄になっていった。
ちなみに約12年前はいわゆる「無党派ブーム」で東京では「放送作家知事」兼「タレント知事」、大阪では「芸人知事」が誕生した。もう一方の「芸人知事」の方は本物の芸人であり、そして政治家としての実績もそれなりにあったのだろうが、「前代未聞の破廉恥事件」を引き起こして失脚した。「放送作家知事」兼「タレント知事」も、「芸人知事」も、理由や程度は全く違うが、自分たちを支持したいわゆる「無党派」を失望させたという点では共通している。今、あえて約12年前のいわゆる「無党派ブーム」を振り返ってみる必要があるのかもしれない。
繰り返しになるが、来年2007年は12年に一度やってくる参院選と統一地方選が同時に行われる年である。あえて今、いわゆる「無党派ブーム」を思い出し、「放送作家知事」兼「タレント知事」や「芸人知事」の功罪、「タレント議員」や「芸人議員」などからの「くら替え」についてじっくりと自分自身の頭を使って考えてみる必要がある。たとえ本物のタレントや本物の芸人であったとしても、さらには政治家としての経験をそれなりに持っていたとしても、やはり「手心」を加えて良い理由にはならないはずである。
いくらテレビなどに出ていて好感度が高かったとしても政治家としてふさわしい人物だとは限らないのである。そして「テレビに出ているだけの人間」の「実体のない空虚なイメージ」にそのまーんま騙されてしまうほど、いわゆる「無党派層」を含めた有権者の「知的レベル」は低くはないはずである。またたとえどんなに「しがらみ」がなかったとしても、政治家として十分な能力がない「しがらみのない素人」ではやがて「不祥事」がそのまーんま繰り返されてしまうことになるかもしれないのである。一般的に「知的レベルの低い人間たち」に騙されるのはそれよりも「もっと知的レベルの低い人間たち」である。
「マニフェストと称するもの」に逃げ込ませない
たとえどんなに立派な公約や「マニフェストと称するもの」を掲げていたとしても政治家としてふさわしい人物だとは限らないのである。だいたいどんなに立派な公約などを掲げていたとしても公約などが確実に守られなければほとんど意味はなくなるはずである。またいくら候補者が公約などを一生懸命守ろうと努力しても議会の中で過半数の賛成を得ることができなければ民主主義国家の日本で公約を実現することはできないはずである。もちろん言うまでもなく候補者本人がどういうわけか自分自身が掲げている公約の意味を十分に理解していなかったり、最初から実現不可能なことを公約として掲げていたりするような場合には全く話にもならないのである。いずれにしても有権者が「政治家になりたいだけの人間たち」や「政治家であり続けたいだけの人間たち」に欺かれないようにするためには、候補者が過去の自分の公約などから逃げ出したり、あるいは、もっともらしい公約や「マニフェストと称したもの」にそのまーんま逃げ込ませたりしないようにすることが重要である。
「(前略)…今までの選挙公約とはどちらかというと有権者は政治家に白紙一任でみんな信用していませんでした。それは期限とか財源とか何もつかずに『耳障りのいいこと』だけをスローガンに書いていたからです。糸の切れた凧みたいな公約ですから、当然ばらまき型の無制限にあれもしますこれもします、公共事業もやります教育もやりますという内容になります。その結果、放漫な運営がされ、700兆円を超える借金ができたのです…(中略)…今までは歳入のことは考えずに歳出だけ約束してきましたが、マニフェストは数値目標、期限、財源、工程表などをきちんと約束するものです。いわゆる体系だった政策で約束をするということになります。例えば、『学校を建てます』と言ったときには、『この道路はあきらめて学校建てます』とか、『こういう予算の枠組み変更をします』など、きちんと体系だてる必要があります。 今までの公約は『口約束』でしかありませんでした。つまり、事後検証できない口約ですから、公約の担保がないのです。だから、数字や金額を文字できちんと書いて、きちんと約束すると、選挙が終わって1年経つと、『あなたの約束したことは、これとこれとこれでしたね』という具合に検証が可能になります。また、2年目はこうでということになり、4年経つと、『あなたは4年間知事でしたが、約束を守ってないじゃないですか』、だから次は落選ですねということになるのです。 事後検証可能な公約、『政権公約』のことをマニフェストといいます。事後検証不可能なばらまき型のことを公約といいます…(後略)」(「マニフェストとは?」、早稲田大学マニフェスト研究所(所長:北川正恭・早稲田大学大学院公共経営研究科教授(元三重県知事、元代議士))のホームページから。参照:http://www.waseda.jp/prj-manifesto/index.htm(注:2006/12/28時点では「工事中」に))
今後の選挙では勘違いした政治団体や政治家たちが「マニフェストと称するもの」を公表し、さももっともらしいことを唱えるようなことも多くなるのかもしれない。だが、本物の「政権公約」や「マニフェスト」では、候補者の「思い」や「強い思い込み」などの単なる「精神論」がそのまーんま大きな割合を占めることはあり得ないのである。また本物の「政権公約」や「マニフェスト」では、数値や期限などはおろか、検証可能な「因果関係」すらもほとんど示されずにそのまーんま個別政策が羅列されているだけということもまずあり得ないのである。少なくとも日本の政治現場や専門家の間では「マニフェスト」とは基本的にはこのようなものだと広く認識されているのである。何にしても賢明な読者にはあえて説明するまでもないことばかりである。
何のために大学に入学するのか
「人はみんな自信をつけるために、さまざまな努力をしています。持って生まれた能力は、努力でどうにかできる部分もある。だから、勉強して、いい学校、いい会社を目指す人もいるわけです。 この学歴社会の中で、女性も有名大学を目指したり、卒業している人もかなりいるでしょう。いっぽうで、高卒だとか大学名で、学歴にコンプレックスを持っている人もいるのではないでしょうか。 学歴というのは難しいもので、これを自信にしたい人は、もちろん自信になりうると思います。 だけど、学歴が必ずしも人間を幸せにするかどうかはわからない。 さらに、学歴が高いことが、社会の中で有利かどうかは、やはり仕事の内容によるのではないかと思います。 例えば、僕らの仕事は、たしかに学歴は必要ありません。 ただし、僕が見ていると、ちゃんと勉強してきた人間はいわゆる方法論ができています。つまり、テレビの企画書を書くにしても、相手に伝えるための文章を書ける。アイディアが優れているかどうかは別として、企画書を書く方法は身につけているわけですね。 ところが、高校中退とか、大学中退とか、フリーターを何年もやっていた人間は、企画書が往々にして書けないわけです。話を聞いていると、アイディアは面白くて、才能があるなと感心する。 でも、そのアイディアを企画として文章にすると、何を伝えたいのかよくわからないものになってしまう。文章の表現能力や構成能力がなく、相手にきちんと伝わらないのです。 僕らのような仕事でさえ、やはり勉強の基礎は必要です。そういう意味では、いわゆるいい大学を出ていれば、テクニックは間違いなく学んでいる。 だから、僕はどちらかというと、大学へは行って、しっかり勉強をしたほうがいいと思うわけです。 しかし、仕事というのは、当然ながらテクニックを知っていればいいというものでもありません。技術があっても才能がなければ、そこから先に伸びていきません。だとしたら、才能や能力や行動力があれば、学歴がなくても技術は後から学んでいけばいいのです…(中略)…いずれにせよ、どんな仕事にしても、方法論や技術はどこかで勉強しなくてはなりません。だとしたら、やはり大学で学ぶのが、効率のいい道ということは言えます。またそれなりの大学でちゃんと勉強すれば、仕事をするための土台はかなり築けると思います。 だから、もしも学歴にコンプレックスがあって自信がない人がいたら、頑張ってこれから勉強していけばいいのです。 大学は何歳でも入れるわけだから、受験をして入学してもいい。仕事をしながら、現場で技術を身につけていってもいい。自信をつけるための方法は、いろいろなやり方が考えられるはずです。 学歴というのは、つまりは勉強してきた証しです。自分が学んできたこと、身につけてきたことが自信につながるのです」(秋元康著、「幸せになるにはルールがある」、講談社+α文庫、2002年、p254-258から)
ある意味では「マニフェスト」は「企画書」としての性質も持っていると考えることができる。従ってどこかで聞いたことがあるようなパッとしない政策ばかりがそのまーんま並んでおり、空虚な「精神論」がダラダラと述べられているだけで要するに何を言いたいのかがよく分からない「マニフェストと称するもの」は、アイディアもテクニックもない企画書と同じようなものだと考えることができるのかもしれない。いくら「学歴」という「ブランド」を手に入れても、それだけではアイディアもテクニックも身に付けることはできないのである。受験生に限らず、大学・大学院などに入学するのは何のためか、何のために勉強するのかということを改めて考えてみる必要があると筆者は考えている。もしかするとそういうことを考えていくうちに「副産物」として日本の政治がよく見えてくることもあるのかもしれない。
たとえ「トーダイ」の卒業証書を持っていたとしても政治家として有能な人物だとは限らないのである。もちろん「修士号」や「博士号」を持っていたとしても政治家として有能な人物だとは限らないのである。ましてや「トーダイ」や「大学院」に入っただけで卒業・修了していないのならば、政治家として有能な人物だと推測することもほとんどできないことだろう。もちろん言うまでもなく「トーダイ」「修士号」「博士号」などの「ブランド」をいくらたくさん手に入れたとしても、「ブランド」を身にまとっただけでは本人の「知的レベル」はそのまーんま何も変わらないのである。「トーダイ」の卒業証書、ましてや「トーダイ」や「大学院」の学生証をちらつかせる「知的レベル」の低い人間たちにそのまーんま簡単に騙されてしまうほど、いわゆる「無党派層」を含めた有権者の「知的レベル」は低くはないはずである。
ちなみにあくまでも念のために言っておくが、どうして自分は「博士号」を持っているのに大臣にはなれないのかとか、どうして同じ当選回数なのに自分には良い役職が回ってこないのかなどという話と「格差是正」の問題とは全く無関係である。また「子育て支援」と「非常に粘着性の高いチルドレン」に「肩書きだけの微妙な役職」を与えることとは全く無関係であるはずである。さらに言えば、いじめ問題を受けて増員するらしい「カウンセラー」の仕事は、次期総選挙の公認問題などで相談に乗るようなこととは全く無関係であるはずである。どうやらごく一部にひどい勘違いがわずかに残っているようなのであくまでも念のために言っておくことにする。
「(前略)…私が教養学部ではじめた授業の最初の時間に強くいったことは、『大学というのは、先生が何かを教えて、生徒はそれを覚えるというところではない。大学生が何より身につけなければならないのは、自分で学ぶ能力だ。先生が教えるという形で学生に伝えることができる知識の量はきわめて限られたものでしかない。その何層倍もの知識を、学生はこれから自分で学んでいかなければならない。その能力さえ身につけたら、先生のやる授業なんかいちいち出る必要はない』ということだった。 後で学生に授業の感想を書かせたときに、この言葉にショックを受けたと書いた学生が何人かいたので、逆に私はショックを受けた。そんなこと当り前ではないかと思っていたのだが、平均的東大生には当り前ではないのである…(後略)」(p140)
「(前略)…教師が教壇から、ある設定された枠組の知識を与え、これを覚えろ、これを学べといい、学生はその通りに勉強していればいい成績を挙げられるというのは、高校か予備校の教育システムであって、大学はそういうお仕着せの教育をするところではない。先生方の中には、そういう高校・予備校タイプの授業をする人もいるにはいるが、大学教育というのは、本来そういうものではない。 では、大学というのは、何を学ぶところかといえば、一口でいえば、学び方を学ぶところである。自立した学習者になることを学習するところである。 現代社会は、知識共同体として構成されている。将来、社会のどの部門に入っていき、どういう役割をになうにせよ、大学で得た知識などものの数ではない、質量ともに大変な知識が必要になってくる。知的労働を求めるなら、大学で得た知識だけで、社会ですぐ一人立ちできるような部門は実社会にはほとんどない。大学を出てからも学習に次ぐ学習が必要である。最初に必要な知識は、それぞれの現場の先輩から、OJT(on
the job training 現場教育)で与えられる。大学教育で与えられるのは、その一歩手前までの汎用性のある知的トレーニングである。いますぐは使いものにならないが、ちょっとしたOJTですぐに仕事ができるようになるというレベルまでの基礎教育である。 OJTを終えて、各自が一人で社会のその領域でのアクティビティの最前線に出るようになると、今度は、誰もまとめた知識を与えて教育してくれるわけではないから、日々に自己学習を重ねながら、自分の問題を自分で解決していかねばならない。 大学時代に一番身につけなければならないのは、この自己学習能力である。ベーシックな自己学習能力は人間みな持っているが、それを高次のレベルに引きあげ、みがくことが必要である。 常に変容をつづけている現代知識社会の前線で生きていこうと思う人は、絶えず自己学習を続けていかなければならない…(中略)…どうすれば、そういった自己学習能力が身につくのだろうか。自己学習能力養成講座というようなものがどこかにあるわけではないし、またあったとしてもそんなもので身につくわけではない。大学に通って授業に真面目に出て先生に指導されるまま真面目に勉強していれば身につくというものでもない。これまた自己学習によって身につけなければならないのである」(p208-210)
(以上、立花隆著、東大生はバカになったか、文芸春秋(文春文庫)、2004年)
もしかすると「ジーコ型」と「トルシエ型」の違いの話(→参考:第6回(2006/8/22))を思い出してくれている読者もいるのかもしれない。何のために大学に入学して勉強するのか。確かに「自己学習能力」を身に付けるためということも「正解」の一つにはなるだろう。やはり大学・大学院などに入学するのは何のためかということを実際に入学する前に一度ぐらいは改めて自分なりに考え直してみる必要があるのかもしれない。
繰り返しになるが(→参考:特別号(2006/11/30))、残念ながら「何のために勉強するのか」以前の「勉強とは何か」というかなり低いレベルで目には見えない高くて厚い壁にぶち当たっていることにも全く気づかず、「勉強とは知識を吸収することである」などという大きな勘違いしたまま大人になってしまった人間たちも少なくはないのである。たとえどんなに昔からどんなに多くの「立派な本」を読んできたなどと自慢げに言い張ったとしても、良くても「字面」だけの表面的な理解にとどまっており、一歩踏み込んで「事実の持つ意味」を理解する能力に欠ける人間たちが実はかなり多いのである。
「大教室」と「少人数教育」のメリットとデメリット
「(前略)…初等中等教育は少人数教育でやる必要があるが、大学は大人数でよいということはありません。大学でも少人数でやるのがいちばんです。僕は、大学時代留年したり、いちど社会人になってからまた大学に戻って再入学したりしたので、いろんな講義を沢山聞いており、大教室のマンモス講義から、ほんの四、五人の授業(沢山取ってます)まで、あらゆる種類の講義を受けた経験があります。その経験からいって、大学でも少人数教育がいちばんです。数百人規模のマンモス講義が最悪で、あんなものは聞く意味がほとんどありません。あんなもの聞くくらいなら、家に帰って本を読んだほうがましです。教室で講義を聞いているときに、自分が教師の眼の中に存在感をもって存在しているのがわかり、それ故にイスに座ってただ聞いているだけでも緊張していなければならないという意識になれるのは、二、三十人のクラスくらいまでではないでしょうか。五十人のクラスになると、緊張感はほとんど失せ、百人を超えたら、大衆の中に埋没してしまって、緊張感なんて全くなくなります。東大の中でも文科一類・法学部の教育が最悪だというのは、そこではマンモス講義がもっぱらだからです…(後略)」(立花隆著、東大生はバカになったか、文芸春秋(文春文庫)、2004年、p324)
せっかくだから「学校選び」周辺でもう少し「寄り道」をしておくことにする。実際に大学などに入学した後には、講義内容はもちろん、講義の形式も大いに問題になってくる。筆者に言わせれば、「大教室」にもいくつかメリットはあるし、「少人数教育」にもいくつかデメリットがあるということになる。
実は「大教室」にもいくつかメリットはあるのである。例えば、「大教室」では全く同じ講義を登録していても、実に様々な人たちが様々な理由で出席しているということが一目で分かる。どんなに内容のない詰まらない講義であったとしても、それでも熱心に聴いている学生たちが何人かはいるものである。逆にどんなに知的好奇心を満足させるような魅力的な講義であったとしても、最初から全く聞こうともしない学生たちはやはり何人かは必ずいるものである。
そして「大教室」の場合には、もしも教員が行っている講義の学問的価値をそれなりに正しく評価することができる程度の専門知識を持った人間が「大教室」の後ろから講義を「観察」したとすると、「現在の日本の大学教育の一部分」における教員と学生の「知的レベル」を大雑把に手っ取り早く把握することができるのかもしれない。さらにもしも「観察」している人間が過去に非常によく似た光景を同じような場所から「観察」した経験を持っており、適切な「補正」を加えることができる場合には、「日本の大学教育の一部分」の「過去」と「現在」の間の大きな変化には気づくことができるのかもしれない。例の「対照実験」と似たような手法になるわけである(→参考:第2回(2006/2/8)etc.)。いずれにしても筆者に言わせれば、「大教室」にもいくつかのメリットがあるということになる。
もちろん「少人数教育」にもデメリットがある。言うまでもなく「有能な研究者かつ素晴らしい教員」から「個別指導」を受けることができるというような「究極の少人数教育」にまで少人数化するのならばデメリットを探すことは非常に難しくなるのかもしれない。だが、普通の「少人数教育」にはすぐにいくつもデメリットを見つけることができるのである。例えば、いくら少人数にしても、「珍妙な内容」の著書を国会答弁のように一方的に「棒読み」しているだけならば「少人数教育」にも「大教室」のデメリットがそのまーんまの形で持ち込まれることになるだけである。
実は「棒読み」だけならばまだましなのかもしれない。勘違いした「知的レベル」の低い教員ならば教室内の少人数の学生のすべてを「珍妙な内容」で「洗脳」しようとする危険性もあるのである。いわゆる「ゼミ」を含めた「少人数教育」で間違った選択をしてしまうと人間性や能力に問題のある教員の「バカの壁」をそのまーんま鋳型にして前途有望な将来を台無しにされてしまう危険性が「大教室」よりもずっと高くなってしまうのである。そんな「最低最悪の少人数教育」のデメリットの中にもあえて無理矢理メリットを探すとするならば、例えば、政治学も英語もどちらも満足に理解できない人間に「政治学英語文献研究」などの講義を担当させることにはあまりにも無理があるということを広く知らしめることができることぐらいだろう。
さらに別の意味でも「大教室」と「少人数教育」にはメリットとデメリットがある。例えば、「少人数教育」では、いくら本人が出席していると強く言い張ったとしても、本人が実際に出席していなければ出席した人たちの「証言」ですぐにウソはバレてしまう。万一「影武者」を送り込んだり、あるいは、何人かの教職員らを「共犯」にしたりすることに成功したとしても、そう遠くないうちにウソがバレてしまう危険性はかなり高いだろう。
一方、「大教室」では、初回から最終回まで一度も出席確認をしない講義も実はかなり多いのである。たとえ「大教室」で出席確認をする場合であっても、氏名と学籍番号を記入した「出席カード」を提出しさえすれば、ひどい場合には本人が実際にはただの一度も出席していなかったとしてもすべて出席したと見なされる可能性もあるのである。よって「大教室」では、「影武者」や「共犯の教職員ら」が全くいなかったとしても、あるいは、「チーム」のように行動する取り巻きたちが「悪質なデマの流布」や「偽装工作」を繰り返さなかったとしても、本人が出席したと強く言い張ればウソがバレる危険性はかなり低くなってしまうのである。ましてやそれなりに人気があって学生の出席率が非常に高い講義の場合には、数百人中の特定の一人が出席していなかったことを「証言」できる人たちの数も極めて少なくなるわけだから、本人が出席したと強く言い張れば言い張るほどウソがバレる危険性はどんどん低くなってしまうのである。
もしもこのような大学における講義の実情を正しく踏まえ、大学生時代に真面目に勉強していたということを社会の中である程度客観的な形で示したいと考えるのならば、普通は「卒業証書」(→「学位記」)や「成績証明書」で示そうとするはずである。そしてどんなに少なくとも最低限の社会常識を持った人間ならば「証拠写真」を大学前で撮影して「トンデモ本」を出版するなどというようなことだけは間違ってもしないはずである。もしもそんなことをしてしまったら、例えば、実際に被災地にボランティアとして駆けつけた「証拠写真」にピースサインで写っている勘違いした人間たちと全く同じになってしまうからである。いずれにしても大学生時代に真面目に勉強していたかどうかということと、その人が何らかの職業で求められる十分な能力を実際に持っているかどうかということとは全く別の話であるということは言うまでもないことである。
「AO入試」「社会人入試」と「学士入学」
そう言えば一昔前の大学受験では、試験と言えば「一般入学試験」、推薦入学と言えば「付属・系列校などからの推薦」や「指定校推薦」ぐらいしかなかったということを今思い出した。最近「AO入試」や「社会人入試」などという言葉をよく聞くが、それらはいったいどんな入試なのか全く知らないという読者のためにも「学校選び」周辺でもう少しだけ「寄り道」をしておくことにする。
「政治経済学部[社会人入学試験] 1992年度から始めた制度で、大学の社会への開放という時代の要請に沿い、政治経済学部に入学を希望する勉学意欲旺盛な社会人を対象とした入学試験です。一般入試により入学した学生と同じく、1年度生としてスタートをきり、学部の全課程を学習することになります…(後略)」「政治経済学部[総合選抜入学試験] 2000年度より政治経済学部ではじまったアドミッションズ・オフィス方式(筆者注(以下( )内同):AO入試)の試験です。提出書類・論文・面接による総合的な審査を通じて、分析力、表現力や熱意を問う新しい入試制度です」「学士入学制度は、四年制大学卒業者を対象とし、三年次に入学する制度です。政治経済学部、法学部、教育学部、商学部、理工学部、社会科学部、人間科学部、スポーツ科学部で実施しています…(後略)」(以上、早稲田大学のホームページから。参照:http://www.waseda.jp/nyusi/gakubu/index.html)
「[学士入学制度について] 修業年限4年以上の大学の学部を卒業した者に対し、各学部で選考の上、後期課程(→前期課程は通常2年、教養学部に所属。つまり第3学年。専門学部)への入学を許可することができることとなっております。ただし、学部によっては、他大学卒業者の入学を認めていないところもあります」(東京大学のホームページから。参照:http://www.u-tokyo.ac.jp/stu04/e06_j.html)
もしかすると一昔前に大学生だった経験のある読者の中には、「学士入学」と「社会人入学」を混同している人たちもいるのかもしれない。だが、「学士入学」と「社会人入学」の間には非常に大きな違いがあるのである。簡単に言えば、「学士入学」は第3学年に編入されるためにすべての「専門科目」の履修が入学直後からすぐに認められているのである。これに対して「社会人入学」の方は、普通に第1学年に入学することになるから最低でも2年待って第3学年になるまでの間は「専門基礎科目」やごく一部の「専門科目」ぐらいしか履修することが認められていないのである。「再チャレンジ」などで年配の大学生になろうと考えている人たちはよくよく注意をする必要がある。もっとも大学卒業後に何らかの専門分野を深く勉強したいと思っている人たちのほとんどは、自分自身の能力不足をよくよく自覚していたり、あるいは、何らかの特別な事情があったりしなければ、普通は大学院入学を目指すと思われるから、「学士入学」と「社会人入学」の違いを全く知らなくても実害はないのかもしれない。だが、あえて念のために指摘しておくことにする。
なぜ「学士入学」だけが第3学年編入なのかということについては、むしろ今の20歳ぐらいの学生の方に簡単に説明しておく必要があるのかもしれない。一昔前の大学では、どの大学のどの学部でも必修だった「一般教育(一般教養)」は第2学年までに履修し終えるのが普通だったのである。そして大学卒業後に異分野の専門分野を基礎から手っ取り早く勉強したいと思っている人たちにとっては第3学年に編入すればちょうど専門科目だけを履修することができるという事情もあったのである。
「再入学」とは
「(前略)…私が書いたり、話したりしていることのほとんどが、独学の産物である。私の学歴は、仏文科卒、哲学科中退である。学歴を問われて正直に答えると、たいてい妙な顔付きをされる。 しかし、私にいわせれば、そこで妙な顔付きをするほうがおかしい。大学教育を受けた人ならたいてい覚えがあるはずだが、授業で得た知識より、自分で本を読んで得た知識のほうがはるかに大きいものだ。私の記憶によれば、大学ではよき教師ほど、自分の授業に学生を拘束しようとはせず、むしろ授業を通して独学の仕方を教えようとする。 ある程度の方法論さえ身につけてしまえば、たいていの学問は独学可能である。人によってさまざまの方法があろう。方法には相性というものがある…(後略)」(p58-59)
「――ところで、『週刊文春』に二年半いた後、会社を辞めて大学に入り直す。 立花 いろんな意味で仕事が嫌になった。ひとつは、忙しすぎた。読みたい本もろくに読めない。このままいくと、自分がどんどんバカになるような気がして……。初めは取材してものを書くことが楽しかったけど、自分が興味を持てるテーマはともかく、何の興味もないテーマでも、命令となればやらなければならない。そういうのがたまらなかったんですね(一六三ページ参照)。 ――東大の哲学科に学士入学するわけですが、何で哲学科だったんですか。 立花 ぼくは基本的に哲学的人間なんです。人間とは何か、世界とは何か、存在とは何か、いかに生きるべきか。昔からいつでもそういう哲学的な基本命題のまわりをグルグルまわりながら考えていた。二年半の週刊誌記者生活の中で世俗的なことに首を突っこみすぎたから、少し形而上的なことを考えたくなったということですね…(後略)」(p123-124)
「――哲学科では、かなり新しいところもおやりになったんでしょう? 立花 そう。最初は、中世とか古代とか、古いものへの興味が中心だったんだけど、実際に授業を聞いているうちに、現代哲学のほうが面白くなってきた。ヴィトゲンシュタインとか記号論理学とか、分析哲学、数学基礎論、言語論といった方に興味がうつっていったんです。 ただ、その頃は東大闘争華やかなりし頃で、一年半ぐらいでストライキがはじまり、授業がなくなっちゃった。そのうちに、文春から、『ヒマなら何か書かないか』という話があって、東大全共闘の話などを書いてるうちに、何となく物書きになってしまったんですね。それからは、仕事中心の読書が多くなります…(後略)」(p125)
(以上、立花隆著、「ぼくはこんな本を読んできた」、文芸春秋、1995年。なお文庫版(文春文庫、1999年)も)
「(前略)…そんなふうになったのは、いっぽうで大学の先生になるのは、これはたまらんという気持があったね。それは意味がふたつあって、東大のストで教師たちが示した不様な姿というのがある。それがひとつ。もうひとつは、学者になるっていうのは、けっこう大変なんですよ。 僕はいちおう学士入学して、哲学科を出て、そのまま大学院に行くつもりだったんだけれど、大学院の授業に出てみたりすると、やっぱりつきあいきれないという感じになった。こういう世界で一生すごすのはつまらないし、たまらないと思った。日本の学界では、ボス的な東大教授が若い学者の人事を動かしていて、ボスといい関係にならないといい大学に行けない。これはやってられないという感じになった…(後略)」
(立花隆のすべて、文藝春秋1996年11月臨時増刊号、p48。文春文庫(上下、2001年)も)
ちなみに一度大学を卒業した後にまた大学に入学するという意味で「再入学」という言葉が使われることもある。だが、そういう意味で「再入学」という言葉を使うのは大きな誤解を招く可能性もあるのである。実は「再入学」という言葉には、「一身上の都合」などの「正当な理由」で退学した学生が再び入学を認められるという別の重要な意味がある。せっかくだからもう少しだけ具体例を挙げて「寄り道」をしておくことにする。
「正当な理由で退学した者が再入学を志願したときは、詮衡(→選考)の上これを許可することがある。この場合には、既習の科目の全部または一部を再び履修することがある」(早稲田大学学則第45条)、「次の各号の一に該当するものは、退学処分に付する。 一 性行不良で改善の見込みがないと認められる者 二 学業を怠り成業の見込みがないと認められる者 三 正当の理由がなくて出席常でない者 四 本大学の秩序を乱し、その他学生としての本分に著しく反した者」(同47条)
各大学によって「正当な理由」の具体的内容は少しずつ異なるのかもしれない。さすがに「退学処分」になった学生の「再入学」が「誓約書」の提出だけで簡単に認められるようなことはないのかもしれないが、「退学処分」以外のすべてのケースがそのまーんま「正当な理由」として認められることになるのかどうかは定かではないのである。多くの20歳ぐらいの普通の大学生や受験生たちは「再入学」にはあまり関心を持っていないと思われる。だが、20歳ぐらいの普通の大学生や受験生たちの中にも様々な意味で「再入学」を非常に切実な問題として受け止めている人たちも少なくはないのである。大学側の一層の「情報公開」が求められていると筆者は考えている。
例えば、卒業直後という限定条件付でならば、「卒業」でさえも別のすべての学部・学科で自動的に退学の「正当な理由」として認められるようなこともあるのだろうか。仮に認められるとしたら、実質的な「選考」をしたのかしないのか、そして実質的な「選考」が行われた場合であっても具体的にどのような「選考」が行われたのかなどについては一切明らかにされることはないのだろうか。また退学後に「退学処分」に相当するような言動をいくら繰り返したとしても、一度「正当な理由」で退学していさえすれば全く無関係にそのまーんま「再入学」が認められることになってしまうのだろうか。さらには、退学後に「退学処分」に相当するような在学中の言動が明らかになった場合であっても、それでもやはり退学後7年ぐらいの間はそのまーんま映画の「ゾンビ」のように「復活」して「再入学」することが認められることになってしまうのだろうか。あるいは、どんな場合でも「誓約書」を提出しさえすればそのまーんま「再入学」が簡単に認められてしまうのだろうか。繰り返すが、20歳ぐらいの普通の大学生や受験生たちの中にも様々な意味で「再入学」を非常に切実な問題として受け止めている人たちも少なくはないのである。大学側の一層の「情報公開」が求められていると筆者は考えている。
ちなみに大学を同じ「一身上の都合」などで退学する場合であっても様々なケースが考えられる。一昔前には「放送作家学生」が事務所に呼び出されて「本当に授業に出ているんですか」「本当にあなた自身が試験を受けたんですか」などとしつこく言われ、「そんなに疑うのだったら、じゃあいいです」と言ってそのまま退学してしまったという「噂」があった。また、さらにもう一昔前には「記者学生」がこれまた事務所に呼び出され、その大学ではその年にほとんど講義が行われていなかったにもかかわらず、授業料を全額払うように繰り返し求められたという。そしてどうしても授業料を払うことが納得できなかったのでそのまま退学してしまったという。おそらく筆者ならば、自分の授業料などから「知的レベル」の低い教職員らやブランド価値を食いつぶす人間たちの利益のために1円でも使われる可能性がほんの少し残されているだけであっても「一身上の都合」で退学してしまうことだろう。いずれにしても、いつの時代にも事務所には何をどう勘違いしたのかよく分からない教職員らが集まってくるものである。
努力は報われるのか
「僕は、あの、もともと『夢』という言葉は…、好きではないです。ま、それは、あの…。ま、見ることはできても叶わないものが『夢』だと思っているので…。僕は、あの、ずっと、ここで投げ(ら)れると信じて、目標にして…。やってきて……。ま、ずっとそれを信じてやってきたから今ここにいるのだと思います」(2006/12/15朝(日本時間)の松坂大輔投手のボストン・レッドソックス入団発表記者会見から)
「(前略)…『器用さではほとんど勝てなかった』とたけしが語る深見(千三郎)の芸には投げ銭が飛んだほど。 『笑われるのではなく、笑わせるんだぞ』と深見はよく話した。見かけではなく芸が大切といいたかったのだろう。73年にフランス座の照明係になった作家の井上雅義(58)は、たけしが深見をいびる『乞食のコント』を覚えている。いじめ方が真に迫っていて、客が怒り出した。 ショーがはねると、たけしは井上と連れだって居酒屋に行った。『数少ないファンがいて、『一杯、飲ましてやって』と店のおやじに言ってくれる。芸のあるホームレスみたいだった』 フランス座を離れ、近くの松竹演芸場に移った後、たけしはツービートとしてブレークした。世間の常識の中にある、まやかしを過激な言葉で暴いた。『インチキくさい、『暴力追放の町、町をきれいにしましょう』なんていうのをちゃかしたんですよ』 『とんでもないコンビが現れた』という評判がたった。楽屋の芸人も見に来て、『おもしれえな』とつぶやいた。週刊誌の記者になっていた井上は、『新しい笑いが出てきた』と感じ、『クソミソ、ボロクソ、ナマイキ、メチャクチャなどなど、世の悪評という悪評を逆手にとって、暴れまくり』と78年に書いた…(後略)」(2006/12/12付朝日新聞朝刊(東京版)、「浅草の灯よ 六区の芸人 その1 ビートたけし」から)
もしかしたら松坂投手には「夢」以外に少なくとももう一つあまり好きではない言葉があるのかもしれない。デビュー前から多くの人たちが大リーグで活躍する日が必ずやってくると信じていた松坂投手でさえもいつも良い結果を出していたわけではないし、報われない努力も数多くあったはずである。やはり努力は報われないものだと考えておいた方がいいのだろう。しかし、努力することを完全にやめてしまったら成功する確率はほぼゼロになってしまうのである。もしかするとサッカーW杯ブラジル戦での中田英寿選手を思い出している読者も少なくはないのかもしれない(→参考:第6回(2006/8/22))。いずれにしてもスポーツの世界では、たとえ間違った方法や致命的な勘違いに基づいた無駄な努力をしていなかったとしても、やはり努力は報われないものなのだろう。
そして今では誰もがその才能を認めるような「超大物芸人映画監督」でさえも最初から世の中の多くの人たちに認められていたというわけではないのである。今までの常識を打ち破った「本物の芸」が世の中で広く認められるようになるまでには、報われなかった努力や苦労が相当あったはずだと筆者は思っている。「本物の芸人」の世界でも、たとえ間違った方法や致命的な勘違いに基づいた無駄な努力をしていなかったとしても、やはり努力は報われないものなのだろう。
繰り返しになるが、もう受験シーズンである。もうすぐ多くの受験生たちが合格を目指して一般入学試験を受験することになる。受験直前には「努力は必ず報われるから頑張れ」などと受験生たちを励ますのが一般的なのかもしれない。だが、筆者にはとてもそんな無責任なことは言えそうにもない。むしろ受験勉強でも努力は報われないものだと考えておいた方がいいと思う。しかし、それでもやはり努力し続けることを途中でやめてしまったら成功する確率は限りなくゼロに近くなってしまうのである。
賢明な読者にしか分からない「隠し芸」
かなりくどくなってきているが、それでもあえて再び「学校選び」周辺を「寄り道」してしまうことになる。しかし、ここまでくどくなっていても政権交代と後輩政治家たちにとっては「開かずの踏切」のように強力に立ちはだかる「デマゴーグ」(→参考:第7回(2006/10/2)、特別号(2006/11/30)etc.)ほどにはまだしつこくはなっていないのかもしれない。
さて、「寄り道」は「自己中心的」「ご都合主義的」にどんどん続いていく。大学全入時代の到来によってこれからも様々な軽薄短小な動きが出てくることになるのかもしれない。もしかするとそのうち「副専攻」などと称して「お笑い地方自治論」とか「私の海外留学体験論」とか「なんとかジャーナリスト養成プログラム」のような意味不明の記述までもが卒業証書などに書き加えられるような時代がやってくることになるのかもしれない。やれ、海外の大学では「副専攻」などが一般化しているなどといくらもっともらしく言われたとしても、例えば、「テーマスタディ(全学共通副専攻)」のようなものが一般社会の中で実際にどのような価値を持つのか持たないのか、また仮に「テーマスタディ(全学共通副専攻)」のようなものに何らかの価値がある場合であったとしても、そのようなものを履修したことになっている学生に一般社会の中で通用する能力が実際にどれだけあるのかなどということを客観的な形で示すことができないのならば、そのような「副専攻」は一般社会の中ではほとんど意味を持たないことだろう。
さて、話は唐突に「ご都合主義的」に変わる。特別号(2006/11/30)の「学ぶのならば『本物の政治学』を学ぼう」が個別具体的な何かと関係があるのかなどという質問等がごく一部にはあった。だが、個別具体的な何かと関係があるのかないのか、また仮に関係がある場合であっても、いかなる意味を持つのかなどということについてはここでは一切コメントしないことにする。そういうことは賢明な読者ならば自分自身の頭をほんの少し回転させればすぐに分かることである(→参考:http://taiken.wls.co.jp/gakumon/index.html(最終アクセス:2006/12/28))。そんなことよりも米国の大学・大学院教育で憲法学の基礎知識がいったいどのように扱われているのかなどということに注目した方がずっと前向きだと筆者は考えている(→参考:第2回(2006/2/8号)etc.)。いずれにしても「政治学(political
pseudoscience(偽科学))」の世界では、「本物の政治学(political science)」の当たり前すぎるくらい当たり前の「基礎知識」が強力な「拒否権プレーヤー」としての役割を演じている。まさに「バック・トゥ・ザ・ベイシック」。ごくごく当たり前の基礎知識に立ち戻ってゼロからやり直せということになる。
そして「自己中心的」「ご都合主義的」に「寄り道」は再び「学校選び」に戻っていく。筆者としては今後も「学校選び」のために役立つ追加情報を可能な限り提供していくようにしたいと思っている。そしてその「学校選び」のために役立つ追加情報を、多くの受験生が出願先を最終的に決める正月休み明けからセンター試験(2007/1/20-21)ぐらいまでの間のいつかに何回提供するのかしないのか、あるいは、少なくとも一度納入した授業料の全額が戻ってくる期限までの間のいつかに何回提供するのかしないのかなどということについては宣明しないことにしておく。ちなみに約3カ月ぐらい前までは「状況を見て決める」の一言で終わりにできたのかもしれないが、最近はそういうわけにはいかなくなっている。
さて、今回の「ゆく年くる年特集号」の冒頭からここまでの中に「賢明な読者にしか分からない『隠し芸』」がいくつも隠されていたのだが、読者はいくつ気づくことができただろうか。そして読者は筆者によるとっておきの「隠し芸」が「一芸入試」を問題なく突破できるレベルだと高く評価してくれるだろうか。ちなみに筆者は、どこかの泡沫候補の事務所の前などでわざわざ記念撮影して「隠し芸人政治記者」などという本を出版してみるような最悪の趣味だけは持っていないということをあくまでも念のためにあえて付け加えておくことにする。
いずれにしても後悔しない「学校選び」をするためには、名門校・有名校などという「学歴ブランド」の漠然としたイメージとか、どこまで「入学者」の実態を正確に反映しているのかも実は定かではない「入試ランキング表の高い偏差値」などとは全く別のもっと明確な強い動機が必要になってくるのかもしれない。
「自己中心的」「ご都合主義的」な北朝鮮
最初はほんの少しだけ「寄り道」するつもりだったのだが、予想外に「学校選び」周辺での「寄り道」が長くなってしまった。いつの間にか「ゆく年くる年特集号」も残りが少なくなってきた。くどいようだが、あくまでも去り行く2006年を「自己中心的」に振り返り、「ご都合主義的」に来るべき2007年を良い年にしてみたいものである。しかし、北朝鮮のようなもっとずっと強力に「自己中心的」「ご都合主義的」なものが目に入ってしまうと、いくら残りが少なくなっていてもやはり「寄り道」をせざるを得なくなってしまう。それにしても2006年は「自己中心的」「ご都合主義的」な北朝鮮の行動に国際社会はずいぶんと振り回されたものである。
北朝鮮問題では前回(2006/11/30)からいくつか動きはあったが成果は全くなかった。約13カ月ぶりに中国・北京で再開された北朝鮮の核問題などを協議する6カ国協議(2006/12/18-22)は、米国などによる「金融制裁」解除に異常に固執する北朝鮮の「強硬姿勢」のために具体的な成果もなく次回の日程も決められずに「休会」した。ただし米国と北朝鮮の金融担当者間の協議は2007年1月にも再び行われる見通しだと伝えられている。なおどちらのペースかを判断する際に「空回り」も含めて考えるのならば間違いなく「終始、北朝鮮のペースだった」ということになるのだろう。
いくら努力は報われないものだと考えておいた方がいいし、努力することを完全にやめてしまったら成功する確率はほぼゼロになってしまうと繰り返し自分に言い聞かせてみても、一連の北朝鮮問題はそろそろ忍耐の限界に近づきつつあるのかもしれない。だが、それでもやはり国際社会は一致結束して「犯罪組織国家」に対して「悪いことは悪い」「ダメなものはダメ」ということを一切の誤解の余地のない形で繰り返し説明していくしかないのだろう。そして「悪いことは悪い」「ダメなものはダメ」ということを説明している間は、もちろん制裁は続き、そして時間が経てば経つほど少しずつ制裁は強化されていくことになる。国際社会は北朝鮮に対してわずかの猶予期間を与えた後、制裁措置をもう一段階強化する必要がある。
繰り返しになるが、北朝鮮は核兵器を保有しても絶対に安全は約束されないのである。むしろ逆にすべての核兵器や核開発計画を完全に放棄することが北朝鮮の安全を保証することになるし、そう遠くない将来の国連安保理決議に基づく経済制裁などの緩和にもつながるのである。そして北朝鮮が偽ドル製造などの不法行為を行っているから米国などが金融制裁を実施しているのである。従って北朝鮮が金融制裁の緩和などを望むのならば、北朝鮮がすべての不法行為から完全に手を引かなければならないはずである。もちろん国際社会に対して透明性を確保した上ですべての実行犯や責任者を厳しく処罰することも必要不可欠である。因果関係は正確に理解する必要がある。
そしてあくまでも念のために言っておくが、「悪いことは悪い」「ダメなものはダメ」ということも理解できない「犯罪組織国家」には間違っても何の「見返り」なども与えるべきではない。国際社会でも今は「冬」である。「裸の王様」は「愚か者には見えない服」をたくさん着込んで暖かそうにしているが、そのうち何度も「北風」が吹いてくるはずである。さらに念のために言っておくが、「愚か者には見えない毛布」を頭からすっぽりかぶったり、あるいは、誰かにかぶせたりしてもそれでもやはり「北風」の厳しさは変わらないのである。そして言うまでもなく季節外れの「太陽」が強く照らすことは逆効果である。やはり今現在は「圧力が説得よりも有効」ということなのである(→参考:特別号(2006/11/30))。
今こそ「正当防衛論」「邦人保護策」を
北朝鮮が6カ国協議で具体的な形で核兵器と核開発を放棄する意思を全く示さなかったことを受け、日本政府は日本の国土と日本国民の生命・財産などを守るために「新たな重大な決断」を迫られていると筆者は考えている。日本政府は北朝鮮の核兵器保有や「完全廃棄までの間の事実上の保有」も断じて認めるべきではないと筆者は考えている。国際社会と連携して制裁措置をもう一段階強化したり、日本独自の制裁措置を強化したりするようなことを適切なタイミングで実施するのは当然のことである。だが、それ以外にも日本政府は「新たな重大な決断」を迫られていると筆者は考えているのである。日本政府は今こそ「正当防衛」と「邦人保護」を確実に実行するために必要不可欠となる具体的行動に踏み出すことを真剣に検討するべきである。
北朝鮮には、確実に爆発する「核兵器」が存在する可能性が高く、しかも日本全土を射程圏内にした実戦で使用可能な「ミサイル」も確実に存在する。そしてその「ミサイル」の射程圏内には、北朝鮮から見た「同盟国」と「友好国」、「同じ民族」以外には、日本しか存在しないのである。確かに現時点では北朝鮮には「核兵器」と「ミサイル」を結び付ける「技術」の存在は確認されていないのだろう。だが、「核兵器」と「ミサイル」が共に存在する可能性が非常に高く、また「核兵器」の開発や「核兵器」と「ミサイル」を結び付ける「技術」の開発が現時点でも進行していると見られるのである。国際社会の中では少なくとも日本政府が日本の国土と日本国民の生命・財産などを守る「正当防衛」のために必要不可欠となる具体的行動に踏み出すことを真剣に検討するようなことは十分に理解される可能性があるはずである。
そして実際に北朝鮮に「核ミサイル」が存在する可能性が高くなった場合には、日本政府は日本の国土と日本国民の生命・財産などを守るために「核ミサイル」を発射直前か発射直後に破壊する「正当防衛」に追い込まれる可能性も真剣に検討せざるを得なくなる。そして「核兵器」の非常に強力な破壊力を考え合わせるのならば、人類全体にとっても発射直前か発射直後にピンポイント攻撃によって正確に破壊することが「正当防衛」となる可能性が高くなるはずである。「核ミサイル」発射という急迫不正の侵害があり、これを排除するために他に防衛の手段が全くない場合に「必要最小限度の具体的措置」を実行することは、少なくとも理論上は「正当防衛」以外の何物でもないのである。だが、現実の世界で間違いなく確実に「正当防衛」を実行することは非常に困難であるし、また「正当防衛」は政治指導者に非常に厳しく重い決断を迫るものになるだろう。よって今こそ日本政府は日本の国土と日本国民の生命・財産などを守るために必要不可欠となる「正確な情報収集」と「確実で正確な打撃力」を強化するために同盟国・米国との協議を含めた真剣な検討を始めるべきであると筆者は考えている。
さらに日本政府は大至急効果的な「邦人保護策」を検討・実施する必要があると筆者は考えている。もちろん「人道的介入(humanitarian
intervention)」という事態の発生や「自然崩壊」の可能性が高くても高くなくても、混乱状態の中でも確実に日本人や日本にゆかりのある人たちを救出する「作戦」と「能力」を大至急整備する必要がある。筆者ならば、まず中国との間で「犯罪容疑者引渡しのための暫定特別協定」の交渉を開始してその締結を急ぐだろう。そして中国との交渉を開始した時点で「おそらく今後は中国国内で不法入国のような比較的軽微な犯罪の容疑者となった日本人とその家族は日本国内で取り調べを受けることになる」などという対外的なメッセージを繰り返し発信することになるだろう。
そしてここから先はあくまでも「頭の体操」だが、場合によっては、例えば、北朝鮮国内の末端の人たちの間で日本人が「超人気者」になって非常に大事にされる可能性が高くなるのかもしれない。あるいは、場合によっては、北朝鮮との国交正常化後に実施する可能性もあった「経済協力」の日本側の財政負担を「転用」して「朝鮮半島の統一コスト」を効果的に削減させる具体的な可能性について韓国の中の適切な人たちと様々な角度から一緒に考えていくことになるのかもしれない。
筆者は国際社会や日本国内の多くの人たちよりも現状をずっと危機的に捉えている。そしていくら非常に厳しい現実であったとしても現実はやはりあるがままに正確に受け止めなければならないと考えている。ある程度の批判を覚悟の上で筆者はあえて「正当防衛論」と「邦人保護策」を展開することにする。
さて、せっかくだから「寄り道」したついでに北朝鮮問題以外のいくつかの国際社会の中の新しい動きについてもコメントなしで簡単に触れておくことにしよう。
米連邦議会の超党派の有識者らによる「イラク研究グループ」がブッシュ米大統領にイラク政策の見直しに関する報告書を提出した(→2006/12/6。ベーカー元国務長官ら。イラク情勢は深刻で悪化、戦闘主体をイラク軍に移譲して米軍の主な任務をイラク軍の支援に変更、イランとシリアとの外交交渉の必要性を指摘、2008年春までに大幅な米軍の撤退が可能など79項目の内容)。
また国連安保理は国際社会の中止要求を無視してウラン濃縮などの核開発を続けるイランに対する制裁決議を全会一致で採択した(→2006/12/23(日本時間12/24未明)。全加盟国に拘束力のある国連憲章第7章41条に基づく。イランにウラン濃縮などの活動の全面停止、加盟国にイランへの核・ミサイル関連物資・技術の移転禁止を求めるなどの内容。60日以内にイランが従わなければ追加措置も。中ロ両国によって欧米諸国は度重なる譲歩を迫られた)。
「ゆく年くる年特集号」の「取り」
いよいよ今回の「ゆく年くる年特集号」も本当に残りわずかになってきた。そして「ゆく年くる年特集号」の「取り」は、もちろん2006年の主役として大活躍した「この親子」、いや、「この人」に務めてもらうことになる。
「本日、(筆者注(以下( )内同):第165)臨時国会が終了いたしました。この臨時国会は、私が総理として初めて臨んだ国会でありました。この国会において、私は所信表明演説におきまして、国民の皆さまと共に、『美しい国、日本。』をつくっていくために、全力を尽くしていく、そう申し上げました。そして『美しい国、日本。』をつくっていくためには、教育の改革、再生が必要であり、これを私の内閣の最重要課題にしていく。そしてまずは教育基本法の改正(案)を臨時国会において成立をさせたい。ま、このように申し上げたわけであります。この臨時国会におきましては、その改正…、教育基本法と共に、地方分権改革推進法等、政府が提出をいたしましたすべての法律が成立をいたしました。そしてまた防衛庁の省昇格等、重要な法案もすべて成立をいたしたわけであります。ま、こうした法律は、私が所信表明で述べたように、戦後レジームから脱却して、新たな国づくりを行っていくための基礎となる、礎となるものであります。その意味でこの国会においてこうした成立をみたことは、私は、大きな第一歩を記すことになったと、このように考えております」(2006/12/19の第165臨時国会閉幕を受けた安倍晋三首相の記者会見から)
安倍内閣発足から3カ月が経過した(2006/12/26)。そう言えば「美しい国」という言葉を聞くのはずいぶんと久しぶりのような気がする。そして安倍首相の冗舌な説明を論評するときには「ワンフレーズの短い言葉」が非常によく似合う。ちなみに活字メディアという性質上、ここで安倍首相の「顔」が見えてこなくても全く何の心配もいらない。あくまでも念のために言っておく。
「(前略)…この5年間のタウンミーティングの運営について議論がなされました。あらかじめ質問をお願いをするなど、大変遺憾な運営がありました。また運営において、無駄遣いがあったのも事実であります。私は、関係者の処分を行い、また私自身も、当時、官房長官として政治的な責任がありました。私の総理としての給与を3カ月分、国庫に返納することでけじめをつけさせていただきました。今後はこのようなことが決して起こらぬように…、そして真の意味で国民の皆さまとの双方向の対話となるタウンミーティングをスタートさせていくことで責任を果たしていきたい、このように考えております」(前述の安倍首相の記者会見から)
不祥事のけじめには「給料の3カ月分が目安」ということなのだろうか。タウンミーティング(内閣府主催)における「やらせ質問」などの調査委員会の最終報告書を受けて安倍首相は自らの処分として首相報酬の約3カ月分を返納する考えを示した(→2006/12/13。計約100万円(月約34万円)。ちなみに首相就任時に財政再建のために首相報酬(月額約104万円)の残りの月額70万円は返納中。議員報酬分の月130万円だけ。なお安倍首相は小泉内閣時に官房副長官、官房長官を務めていた)。もしも筆者が「連帯責任」を追及されたとしても、せいぜい「郵便」ではなく「着払いの宅配便」で「過去のしがらみ」をまとめて送り返すことぐらいしかできない。だから筆者は安倍首相の「給与返上」というけじめのつけ方は実に立派なけじめのつけ方だと思う。だが、多くの国民が実際にどのように受け止めたのかなどについては一切宣明しないことにしておく。
また政府税制調査会の本間正明会長(大阪大大学院教授)が「一身上の都合」で辞任した(→2006/12/21。後任に香西泰氏を充てることを安倍首相が12/26に発表)。さらに佐田玄一郎行革担当相が自らの政治団体の不適切な会計処理が明らかになったことを受けて辞任表明し(2006/12/27)、後任には渡辺喜美内閣府副大臣(自民党代議士)が起用された(2006/12/28)。安倍首相にとっては「一難去ってまた一難」なのかどうかはよく分からないし、2007年になってもそのまーんま不祥事や辞任劇が繰り返されるのかどうかも現時点(12/28)ではよく分からない。いずれにしても安倍首相には返納できる給料はもう残っていないようである。
「この国会中に…、昨年の総選挙において…、自由民主党を離れた方々の復党を認める決断を自由民主党の総裁として私の責任において行ったわけでございます。私は、新しい国づくりを行っていく上において、私と同じ方向を見て、そして新しい国づくりの理念を共有する人たちに、一人でも多く、この国づくりに加わってほしいと、そう考えてきました。それは総裁選挙のときから申し上げてきた通りであります。今回…、(無所属の郵政民営化造反代議士)11名の方々が私をこれからも支持をしていく。私の所信と全く同じ考えを持っているということを表明され、復党していただきました。もちろんこの復党によって私が改革を進めていく、この姿勢にも…。また、国づくりを行っていく、その中身についても、全くの揺らぎはないということはハッキリと申し上げておきたいと思います。むしろ私は新しい国づくり、『美しい国』づくりを進めていく上において、新しい力が加わり、より強化された…、力をより強化されたと、このように考えています」「(前略)…私や私の内閣に対するご批判には謙虚に耳を傾けてまいりたい。その上で…、結果を出していくことによって国民の皆さまの信頼を得たいと、このように考えています。今後とも『美しい国』づくりに向けて、全力を挙げて…、仕事をしてまいる決意でございます」(前述の安倍首相の記者会見から)
郵政民営化法案に反対した直後の2005年総選挙に無所属で小選挙区から立候補して当選した堀内光雄代議士、野田聖子代議士ら無所属11代議士が自民党に復党した(2006/12/4)。ちなみにタウンミーティングでの「やらせ質問」問題や郵政造反組復党の過程で各社の安倍内閣支持率が大きく低下したなどと報道されている。現時点では「美しい国」づくりのための復党だということがよく分かったのかどうかについてはあえて宣明するつもりはないとだけコメントしておくことにする。そしてこれから安倍内閣が「結果」を出していくことができるかどうかにあえて注目することにする。
ちなみに郵政造反組の自民復党によって自民党・公明党に対抗するためだけの「野党共闘と称するもの」は「当たりくじのない宝くじ」のような状態になってしまった。従っていくら「戦う国対」などと対決姿勢を強調して「空回り」を繰り返してみたとしても「野党共闘と称するもの」の求心力は維持できないだろう。そして言うまでもなく「空回り」を繰り返していても「はずれくじ」を「当たりくじ」に変えることができるわけはないのである。いくら何でもそろそろ「野党共闘と称するもの」や対決姿勢を強調した「空回り」の無意味さに気づいてもいい頃である。民主党などの野党側は戦略の根本的な見直しが必要である。
さて、復党直後に政府は「道路特定財源の見直しに関する具体策」を閣議決定した(→2006/12/8。(1)2008年度以降も揮発油(ガソリン)税の税率を現行のまま維持、(2)2007年に中期的な道路整備計画の策定、(3)2008年通常国会で道路歳出を上回る税収を一般財源化するための関連法改正など。政府・与党の道路特定財源の見直し合意を受けて)。道路特定財源の一般財源化は「予告編」か「事実上の結論先送り」。確かに一般財源化はするのだろうし、確かに必要な道路も作るのだろう。どうやら2007年度以降になってみないと改革が後退したのかどうかもよく分からないようである。
ちなみに安倍首相は所信表明演説(2006/9/29)で「特別会計の大幅な見直しを実行に移すとともに、道路特定財源については、現行の税率を維持しつつ、一般財源化を前提に見直しを行い、納税者の理解を得ながら、年内に具体案を取りまとめます」と述べていた(→参照:http://www.kantei.go.jp/jp/abespeech/2006/09/29syosin.html)。また2005年総選挙時の「自民党政権公約2005」には「『財政構造改革』で国の財政を黒字に転換します。 009.
歳出・歳入一体の財政構造改革を実現…(中略)…B特別会計・特定財源制度の見直し 非効率な特別会計や特定財源制度について、事業のあり方や経営形態の観点も踏まえ、聖域なく抜本的に見直すこととし、早期に『特別会計整理合理化計画』を策定する…(後略)」などとも書かれていたはずである。そして復党を認められた代議士たちが提出した「誓約書」には「一 安倍晋三総理の所信表明を全面支持するとともに、国民に約束し国会で成立した郵政民営化を含む第44回衆議院総選挙の政権公約2005の実現に邁進し、国民の真の期待に応えるべく努力すること」などと書かれていたはずである。
現時点では2007年度以降に道路特定財源の見直し問題がどうなるのかなどについてはあえてコメントしないでおくことにする。
「(前略)…改正教育基本法が成立をいたしました。59年ぶりの改正となりました…(中略)…この教育基本法の改正をスタートラインとして、私は教育の再生に取り組んでいきたい。そして具体的な政策を実行していくために法律の改正等、予算の措置等を行っていく考えであります。また、防衛庁の省昇格。これも国の安全保障を担う役所である防衛庁を省に昇格をしていく、極めて私は意義深いものであると、このように考えています…(中略)…このたび…、ま、池田内閣で閣議決定して以来でありますが、こうした法案が成立をしたということは、日本の民主主義の成熟、そしてシビリアンコントロールへの自信を、私は内外へ示すこととなった…。そして国際貢献についても責任を持って日本はその役割を担っていくという意思を示すことにもなったのではないかと、このように思います」
「道路財源につきましては、ま、昭和29年ですから私が生まれた年…、ですからもうこれは52年経つわけでありますが、以来の大改革になったわけでございます。特定の税収が自動的にすべて道路のために使われる…、道路整備に充てられるという仕組みを変えました。真に必要な道路の予算を超える額については、揮発油税を含めて一般財源化をする。つまり基本的には根っこから…、これは一般財源化をするわけでありますが、もちろん必要な道路…、これはつくっていくというのは当然であります。その上において…、厳しい査定の上において…、それ以外の予算については、まさに一般財源として使っていくということになります。必要な法制度改革は平成20年の通常国会では必ず行っていくということはお約束を申し上げます…(後略)」
「(前略)…(2005年の自民党)結党50年のときに(憲法改正)草案が出来上がったわけであります。あの草案については、いろいろな議論があった後に、自由民主党として取りまとめたものであって、私ももちろん…、個人的にはいろんな議論があるわけでありますが、私も取りまとめに当たった責任者として、この案が自由民主党としてはベストの案である、そして皆さんのコンセンサスを得た案である、という中で国民の皆さまにお示しをいたしました。しかし憲法の改正は2/3を超える国会議員の発議が必要であります。これを基に与党で、そして野党の方々ともですね、成案を得るべく努力をしていきたいと思います。ですから、第2次案をですね、自由民主党として出すということは、今の段階で考えていません。しかし、与党、あるいは、野党の方々との交渉の上において、どういう案になっていくか、それは政党間で議論をしていかなければいけない。そしてまた国民的な議論をぜひ私は巻き起こしていきたいと思っています。そういう中で国民の声にも耳を傾けながら、最終的な成案を政党間で話し合いをしながら…、得なければならない。ま、スケジュールについては、私の在任中に…、これは大変な大作業であります。歴史的な大作業でありますが、私の在任中になんとか成し遂げたい。憲法の改正を成し遂げたいと考えております。まずは改正手続法である国民投票法案を…、来年の通常国会において成立をさせたいと思います」
(以上、2006/12/19の第165臨時国会閉幕を受けた安倍晋三首相の記者会見から。参考:http://www.kantei.go.jp/jp/abespeech/2006/12/19kaiken.html(全文))
教育基本法は「59年ぶりの改正」、防衛庁の省昇格は「初」、道路特定財源は「52年ぶりの大改革」、そして憲法改正は実現すればもちろん「初」になる。また安倍内閣では「初」の予算案となる2007年度予算案が閣議決定された(2006/12/24)。税収が大幅に増加したために新規国債発行額は「過去最大」の削減幅となったらしい。そう言えば安倍首相は「初の戦後生まれ」「戦後最年少」の首相だったということも思い出した。これ以上「○○以来初」「○年ぶり」などという類の「実績」が続くと「ブランド依存症」になってしまいそうである。
電撃的な約1年半ぶりの日中首脳会談(2006/10/8)の実現などで「ロケットスタート」に成功した「外遊」や「外交」も続いている。「台風」のためにASEAN首脳会議や東アジアサミットなどが中止になったために安倍首相のフィリピン訪問(2006/12/8-10)はアロヨ大統領との首脳会談(12/9)だけになった。また安倍首相は来日したインドのシン首相(→2006/12/15。日印経済連携協定(EPA)交渉の2007年1月開始、両国首脳の毎年の相互訪問などで合意。なお安倍首相は米国による核不拡散条約(NPT)未加盟のインドに対する民生用原子力協力についての評価は検討中と)、ヨルダンのアブドラ国王(2006/12/22)らとも会談した。そして「外遊」は2007年も続く。安倍首相はイギリス、ドイツ、ベルギー、フランスを訪問(→2007/1/9-13の予定)、そして12月に中止になった東アジアサミットなどに出席するために再度フィリピンを訪問(→2007/1/14-15の予定)する方向だという。だが、現時点では再度の「ロケットスタート」はとても期待できそうにない。
いずれにしてもこれでようやく安倍首相は初めての臨時国会(2006/12/19閉会)だけではなく、初めての内閣不信任決議案否決(12/15)も、自ら任命した閣僚らの不祥事による辞任劇も一通り経験したことになるわけである。いよいよ2007年度予算案などを国会に提出し、施政方針演説や代表質問などを済ませたら、後は経験していないのは解散・総選挙ぐらいになるのだろう。どうやら通常国会は2007/1/25に召集される見通しになっているようである。そろそろ「ポスト小泉」も名実共に一人前にならなくてはならない。
ついにこの「ゆく年くる年特集号」も残りが本当にごくわずかになってきた。読者にとって2006年はいったいどんな1年だったのだろうか。そして2007年はいったいどんな1年になるのだろうか。地球上の様々な場所にいる「裸の王様たち」にとっては2007年が「非常に厳しい冬」からスタートすることだけは間違いない。言うまでもなく「愚か者には見えない毛布」を寒そうな頭からすっぽりかぶったり誰かにかぶせたりしてみたとしても、あるいは「愚か者には見えない『専門家という肩書き』」をいくら着込んでみたりしても厳しい「北風」が吹いてくれば嫌でも現実が分かるはずである。
もちろん「ゆく年くる年特集号」を締めくくるのにふさわしい言葉はこの言葉しかないだろう。次号が発行されるのかされないのか、また仮に発行される場合であっても具体的にいつ、どのような形で、どのような内容のものが発行されることになるのかなどについては一切宣明するつもりはない。
<< 完 >>
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)
○「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)
○「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)
○「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)
○サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)
○事実はテレビや新聞よりも奇なり -「小泉新党」から政局が見えてくる- (2005/10/18)
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (2/8) 「ルール」はかなり以前から変わっていた
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事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (8/8) 「自動安定化装置」としての「大連立」構想
○この選挙はどのような意味を持つことになるのか(2005/8/26)
○日本は「民主主義立国」になることができるのか(2005/6/27)
○「カルトからの自由」の実現に必要不可欠な挙証責任(2005/2/9)
(参考)前回からの動き(2004/12/25-2005/2/9)
○複数の視点は「連鎖」の理解にも必要不可欠(2004/12/25)
(参考)主な動き(2004/9/21-2004/12/24)
○現実政治の問題解決に必要不可欠な複数の視点(2004/9/21)
○永田町も国際社会も相変わらず「異常なし」(2004/6/22)
○正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23)
○「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (補足(2004/1/12))
○「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5)
(参考) 2003年後半の海外の動き
▽参考:日本の政治。
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