メッセージ

 最近の日本の政治情勢について(2006/11/30更新)

 トップページ

 政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。

 基本方針  問い合わせについて  

 当ホームページ上のすべての記事は無料ではなく「シェアウェア」です。著作権の侵害とそれに類する一切の不適切な使用、及び不正行為は固くお断りします。また不正行為等の防止のためにやむを得ないと判断する場合には事前の警告なしに報復措置を含めたすべての必要な手段を講じます。


編集・発行:http://www.jchiba.net/、筆者:千葉 潤、ご意見など:jchiba@tokyo.email.ne.jp


 購読料について(2006年版) (2006/12/28更新)


正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)

「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)

「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)

「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)


サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)


正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- -(2006/11/30)

 前回(2006/10/2)から実に様々な出来事があった。「まだ最終回じゃなかったのか」などと今回の文章の「タイトル」に驚いている読者も多いのかもしれない。「タイトル」が昔のままになっているのは、断じて「造反」から約1年で「復党」が認められたからでも、「誓約書」の提出を拒んで無所属で頑張り続けているからでもない。「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」などというセリフで有名な「踊る大捜査線」(ドラマ:フジテレビ系列、映画:東宝)には「容疑者」「交渉人」などの「スピンオフ」が出ているが、今回の文章もとりあえずそういう「続編」とか「特別号」だと考えておいてもらいたい。
 
 今回は「教育問題」だけにスポットライトを当てた「スピンオフ(spin-off)」ということになる。ちなみにどこかが公表した「緊急提言」と何らかの関係があるのか、それとも何も関係はないのか、また仮に「緊急提言」と何らかの関係がある場合であっても、それを肯定的に捉えているのか否定的に捉えているのかなどについては一切触れないでおくことにする。
 
いわゆる「いじめ」という古くて新しい深刻な問題
 
 いわゆる「いじめ」という古くて新しい深刻な問題の波紋が広がっている。政府の教育再生会議が「いじめ問題への緊急提言」を公表(2006/11/29)した。そして深刻な悩みを抱え持った子どもたちが自殺に追い込まれないようにするために様々な人たちが「相談」などを呼びかけている。確かに両親や信頼できる教師や大人たちに「相談」することは「いじめ」や悩みを解決するための一つの有効な方法ではある。だが、「相談」してもすべての問題を解決できるわけでもない。そして何よりも「相談」ではあくまでも独力で問題を解決しようとするタイプの子どもたちを救うことができないのである。そういう重要な点が完全に見落とされていることが非常に気がかりである。
 
 他人に「相談」しても結局は問題を解決することができないと考えている人たちならば最初から最後までなんとか独力で解決しようとするだろうし、真面目で責任感の強い人ほど悩みを抱え持ったまま他人に迷惑をかけずに独力で解決しようとするだろう。そしておそらくそういう「あくまでも独力で問題を解決しようとする人たち」は他者からの「支援」をなかなか受け入れようとはしないはずである。
 
 説明を後回しにして重要な結論から先に書いておくが、信頼できる誰かに相談する人たちも、あくまでも独力で問題を解決しようとする人たちも、最初に絶対にしなければならないことは、(1)目の前にある深刻な問題の解決よりも先に「全体像」を考えることである。「全体像」が分かれば、自分ができることや優先的にやらなければならないことが見えやすくなるからである。
 
 そして次に(2)自分が嫌だと思っていることについて「嫌だからやめろ」などとハッキリと主張することである。「嫌だからやめろ」などとハッキリと主張したその瞬間からそれぞれの人たちの問題が最悪の状態に陥る危険性を大きく低下させることができるからである。問題解決は「嫌だからやめろ」などという一言から始まると言っても良いのである。
 
 さらにできることならば(3)自分が嫌だと思っていることと同じことを他人がされている場面に直面したら「やめろ」などと主張することができるようになると良いと思う。自分のことだけではなく他人の場合にも「やめろ」などと主張し続ければし続けるほど、それぞれの人たちの個人の問題はやがて全体の問題になっていく可能性が高くなるからである。権利と義務は表裏一体であるということや「情けは人の為ならず」ということをすぐに思い起こすことができると良いと思う。いずれにしても目の前にある問題がいくら深刻な問題であったとしても決して「全体像」を見失うことだけはあってはならないと筆者は考えている。
 
 筆者には日本の政治を中心に分析してきた「副産物(スピンオフ)」として得られた「独力で問題を解決しようとする人たち」にも役立つ「道具」がある。今回はそれぞれの個人の問題解決に使用しやすい形で「道具」とその「基本的な使用方法」をセットにして提供することが最大の目的である。そして日本の政治を中心に分析し続けることによってそれらの「道具」がどのくらい広範囲かつ長期間に渡って役立つものなのかということを判断するための実例を増やすことも同時に目的にしている。
 
 筆者の言う「道具」とは、要するに、今まで何度も繰り返し使ってきた例の「ベン図の話」や「心理学的アプローチ」のことである。そして「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点で相対化するために「ベン図の話」や「心理学的アプローチ」を使うことによってそれぞれの個人の目の前にある深刻な問題を解決する場合にも大きな成果を期待することができるようになると筆者は考えている。これから例の「ベン図の話」や「心理学的アプローチ」をそれぞれの個人がいわゆる「いじめ」問題などの解決に利用しやすい形に微修正しながら「基本的な使用方法」と併せて改めて説明することにしようと思う。
 
「心理学的アプローチ」(修正版)
 
 以前から何度も取り上げているように、ある個人がいわゆる「いじめ」問題などの差し迫った重要な問題で全体像を見失わずに正しく判断しようとする場合にも「心理学的アプローチ」(→参考:http://www.jchiba.net/message/0508-psy.htm)が大いに役立つと筆者は考えている。筆者の言う「心理学的アプローチ」を簡単に説明すれば以下のようになる。
 
 「ある個人」がいわゆる「いじめ」問題などの差し迫った重要な問題の解決を迫られたときには「解決できる場合」と「すぐには解決できない場合」があるだろう。そして問題を解決できる場合には「ルール」に従って(1)独力で問題を解決するか、それとも(2)他人の力を借りて問題を解決するか、という大別して2種類の「出口」がある。
 
 そして独力でも他人の力を借りても問題を解決することに失敗した「ある個人」は、様々な精神的プレッシャーを感じることになり、そのままでは「欲求不満(frustration)」の状態になることも多い。よって何らかの「はけ口」を求めようとするようなものを含めて新たに何らかの行動を迫られることになる。もちろん方法も目的も変えずにそのまま再び「ルール」に従って(1)(2)の「出口」を目指すような場合もある。だが、方法や目的を大きく変える場合には(3)「『ルール』を破ってでも何とかしようとする場合」と(4)「あくまでも『ルール』を守って何とかしようとする場合」に分けて考える必要がある。
 
 (3)のような心理学などで「問題行動」や「逸脱」などと呼ばれる「『ルール』を破ってでも何とかしようとする場合」は社会からなかなか受け入れられないことが多い。だが、その「ルール」が「慣習」や「社会常識」などにすぎないのならば、最初は厳しい批判を受けるかもしれないが、最終的には「出口」として認められる可能性が高いのである。そしてもちろん「ルール」が「法律」のようにその社会や国家の中で強制力を持つものならば、少なくともその社会や国家の中では「出口」として認められることはないのである。もしも間違って一時的に「出口のようなもの」ができてしまうことがあったとしても最終的には国家などの強力な強制力によって修正されることになる。
 
 (4)のような心理学などで出てくる「防衛機制」などを含む「あくまでも『ルール』を守って何とかしようとする場合」は多くの人たちから簡単に受け入れられることになるのだろう。例えば誰かに悩みを相談するだけでも楽になるなどという場合には多くの人たちから支持される(4)の「出口」ということになる。実は「あくまでも『ルール』を守って何とかしようとする場合」であってもすべての場合に多くの人たちから支持されるとは限らないのである。
 
 確かに「ずっと簡単な別の問題」の解決に目的を変えたり、あるいは自分自身が納得できる失敗の言い訳を見つけたりして「ある個人」が「妥協」する形で新しく「出口」を作り出したとしても他人には全く悪影響はないのかもしれない。だが、もしもその「出口」が自分自身の生命などの基本的人権を他人に奪われることを容認するようなことを含む場合にはいくら本人が抵抗していなかったとしても近代文明社会では絶対に認められないものになる。ちなみに自分自身の生命などを守るためであり、しかも急迫不正で他に手段がないときには「正当防衛」などという形で「法律」のような「ルール」を破ってでも自分自身の生命などを守ることが認められる場合もある。
 
 さて、ひたすら様々な精神的プレッシャーに耐え続け、いつまでも「欲求不満」の状態を解消しなければ、「ある個人」はどんどんストレスをためこむことになる。そしてストレスが限度を超えると問題の解決を目指すこととは全く無関係に(3)の「問題行動」や「逸脱」などが発生し、いわゆる「キレ」た状態になることもある。またそのまま「キレ」ることもなく内部にストレスをため続けて「異常行動」を示し、やがて自殺などの「破滅」という(5)最悪の形で「出口」にたどり着いてしまうこともある。
 
 特に(5)のような最悪の「出口」を選ぶ前になんとか問題解決過程の「全体像」を思い浮かべてもらいたいものである。また誰の目にも明らかな「いじめ」を見なかったことにしてごまかす前にぜひ(3)(4)(5)のような「出口」の話を思い出してもらいたいものである。そして見なかったことにしてごまかさないようにするための方法ならば頭を回転させればいくらでも見つけることができる。
 
 ちなみに「心理学的アプローチ」を使って「頭の体操」をすれば、いわゆる「いじめ」をする側の「いじめ」という行動は(3)の「問題行動」などになる。そしてその「いじめ」をする側の「問題行動」にもやはり「原因」があるということにもすぐに気づくことになるのだろう。いくら「いじめ」をする側に「いじめ」は悪いことだとか恥ずかしいことだと繰り返し「指導」したとしても、あるいは、「いじめ」をする側に何らかの厳しい「処罰」をしたとしても、やはりそれだけでは限界があり、問題の根本的な解決にはつながらないということを見失うべきではないのである。
 
「ベン図の話」(修正版)
 
 次は、例の「ベン図の話」(→参考:http://www.jchiba.net/message/0510venn.htm)についても改めて説明しておくことにしたい。
 
 (1)Aグループの大きな円(→例えば、「すべてのパン」)の中にBグループの小さな円(→例えば、「トースト」や「フランスパン」など)が完全に入ってしまうような「パターン1」。今回も「パン(Aの円)とフランスパン(Bの円)の関係」と呼ぶことにする。
 
 (2)Aグループの円(→例えば、「コンビニエンスストア(以下、コンビニと省略)」)とBグループの円(→例えば、「スーパー」や「携帯電話ショップ」)のように2つの円が交わっていて、2つの円に共通する部分(→AでもBでも売っている商品)と、共通していない部分(→AかBのどちらかでしか売っていない商品)に分かれているような「パターン2」。今回は共通部分が大きい方を「コンビニ(Aの円)とスーパー(Bの円)の商品の関係」、そして共通部分があまりない方を「ナローパス(narrow path、細い道)の関係」や「コンビニ(Aの円)と携帯電話ショップ(Bの円)の商品の関係」とそれぞれ呼ぶことにする。
 
 (3)AグループとBグループの2つの円が全く交わらない「パターン3」。これには細かく分類すればAとB以外のものは存在しない「20歳未満(Aの円)と20歳以上(Bの円)の関係」、AとB以外のものも考えられる「A学校の生徒(Aの円) とB学校の生徒(Bの円)の関係」(→C学校の生徒(Cの円)、D学校の生徒(Dの円)なども)がある。今回はあえて「20歳未満(Aの円)と20歳以上(Bの円)の関係を「トレードオフ(trade-off)の関係」や「矛盾の関係」(→同時には成立しない関係。例えば、ある人が20歳未満であると同時に20歳以上であるようなことはないはず)とも呼ぶことにする。
 
 (4)「2の倍数」(Aの円)と「偶数」(Bの円)のように実は全く同じものである「パターン4」もある。そのまま「2の倍数 (Aの円)と偶数の数字(Bの円)の関係」と呼ぶことにする。
 
 これらのうち実際によく用いることになるのは「パン(Aの円)とフランスパン(Bの円)の関係」(パターン1)、「コンビニ(Aの円)とスーパー(Bの円)の商品の関係」と「ナローパス(narrow path、細い道)の関係」(それぞれパターン2)、「トレードオフ(trade-off)の関係」や「矛盾の関係」(パターン3)の4種類である。
 
 そして実はこれらの「ベン図の話」は「心理学的アプローチ」の方法も目的も変えずにそのまま再び「ルール」に従って(1)(2)の「出口」を目指す場合に「作戦」を考えるときにも大いに役立つことになる。また(3)「『ルール』を破ってでも何とかしようとする場合」と(4)「あくまでも『ルール』を守って何とかしようとする場合」で多くの人たちから認められる「出口」を見つけ出したり、正しい「出口」にたどり着くための「作戦」を考えたりする場合にも大いに役立つことになるのである。
 
「ルール」と「ベン図」の関係
 
 さらに詳しく「ルール」と「ベン図」の関係について説明することにする。言うまでもなく、世の中で何が認められて何が認められないかを判断する基準は「法律」や「慣習」や「社会常識」などのような「ルール」である。そして「ルール」は地球上のそれぞれの国家・地域で異なる。特に「慣習」や「社会常識」は国や地域や民族などが異なれば劇的に変わる。もちろん「法律」はある国家内にいるすべての人たちに強制的に適用されて守らなかった場合には処罰されることになる。そして「慣習」や「社会常識」は守らない人たちが必ずしも間違っているとは言えないところが非常に複雑なのである。これ以上の説明をするとますます複雑になるだけなので今回はあえて踏み込まない。だが、「慣習」や「社会常識」はある意味で「グレーゾーン」の領域であり、そういう「グレーゾーン」の領域では基本的には一人ひとりが他者の権利を尊重するという義務を意識しながら話し合いによって問題を解決していかなければならないということだけはあえて指摘しておくことにする。
 
 「ルール」を考える場合には、あえて確認しておかなければならないことがいくつかある。まず、世の中では、自分の頭の中でどんなことを考えても構わないということをしっかりと確認しておく必要がある。例えば、「王様」になって地球上に君臨するために核兵器を保有したり核保有の議論をしたりしたとしても、あるいは、すべての人たちに「王様」と呼ばせて跪かせたり、いつも美女たちを躍らせたりはべらせたりしても、さらには、自分の気に入らない人たちを片っ端から抹殺したとしても、自分の頭の中で考えているだけならば誰からも処罰されることはないのである。
 
 そして確かに頭の中ではどんなことを考えることも完全に自由だが、その考えていることを頭の外に出す場合には注意が必要になってくるのである。頭の中で考えていることが、口から言葉になって出るとき、文字になるとき、映像やその他の表現行為になるときであってしかも他人に認識される可能性がある場合には、世の中で認められるものと認められないものとを意識して明確に区別する必要があるのである。例えば、他人の名誉や権利を侵害するようなものは世の中では認められないし、仮にそうした認められないことをすれば様々な形で責任を問われることになるのである。
 
 言うまでもなく、自分の頭の中で考えていることを行動などの形で実際に行う場合にはさらに多くの注意が必要になってくる。例えば、「地球全体に君臨する『王様』になってやる」などと頭の中だけで繰り返し強く思ったとしても、そういうことを繰り返し口に出して言ったとしても、日本のような思想の自由や言論の自由が保障されている民主主義国家ではそれだけで処罰されるようなことはない。ところが「地球全体に君臨する『王様』」になるために具体的な行動に着手した場合には、地球上のどこにいても様々な形で処罰される可能性が非常に高くなるのである。もちろん同じ「地球全体に君臨する『王様』」になろうとする場合であっても、どの国家で具体的にどのような行動を行うかによって処罰されるか、まだ処罰されないのか、そして処罰される場合であっても具体的にどのような内容の処罰が下されることになるのかは違ってくることになる。


無理に逃げなくてもいい
 
 自分にとって「心理学的アプローチ」や「ベン図の話」のような「道具」が役立つと思う人たちは自由に使えば良い。そして実際に「道具」とその「基本的な使用方法」を採用することになる人たちはそれらの「道具」を使えば使うほど自分たちの周囲に「味方」が増えていることやその理由にも気づくことになるだろう。自分にとって「道具」が役立つとは思わない人たちはそれぞれのやり方で問題解決を目指せばいい。だが、目の前にある問題がいくら深刻な問題であったとしても、決して「全体像」を見失うことだけはあってはならないと筆者は考えている。
 
 もちろん死を選ぶくらいならば逃げた方がいいと思う。あるいは「いじめ」の加害者を「抹殺」するという形で無理に「出口」を作り出そうとするくらいならばやはり逃げた方がいいと思う。だが、世の中にはどうしても逃げたくないと思っている人たちもきっといることだろう。いくら「逃げてもいいよ」「逃げて」などと多くの人たちが優しく言ったとしても「どうしても逃げたくないと思っている人たち」はおそらく逃げないことだろう。そしてそういうことになると、「どうしても逃げたくないと思っている人たち」は救われない可能性が高くなってしまう。
 
 筆者は逃げたくないのならば無理に逃げる必要はないと思う。もちろんストレスをため続けることは危険である。だからストレスがたまってきて耐えるのが辛くなってきたときには、将来の問題解決のために力を温存したり蓄えたりすることを最優先に考えて「転進」をすればいいのである。そして「転進」先と「転進」の方法を考える場合には「ベン図」が大いに役立つのである。
 
 例えば、「ある個人(生徒)」「クラス(学級、教室)」「学校」「社会」などの関係を「ベン図」を使って表現すると、「社会」と「学校」、「学校」と「クラス(学級、教室)」、「クラス(学級、教室)」と「ある個人(生徒)」はそれぞれ「パン(Aの円)とフランスパン(Bの円)の関係」にあることになる。実際に集合の「円」を書いてみると油断すると目が回りそうな「四重丸」の状態になるわけである。よって「クラス(学級、教室)」に行くことが精神的に耐えられなくなった場合であっても、必ずしも「学校」から逃げ出さなくても上手く「転進」する方法があるということに簡単に気づくことになるだろう。
 
 言うまでもなく「学校」には「クラス(学級、教室)」しか存在しないわけではない。「ベン図」の「学校の円」と「クラス(学級、教室)の円」の間の部分には、例えば、他のクラス(学級・教室)も、体育館も、図書室も、保健室も、職員室も、校長室などもあるはずである。もちろん学校に行っても教室には行かずに保健室に行くという「保健室登校」などは学校から逃げ出すこととは別の「選択肢」の一つである。
 
 「保健室登校」でもまだ何か逃げているような気がするという人ならば、学校関係者にしか理解できない「雑務」に忙しい副校長(教頭)らの目の前で担任教師の机に座って自習する「職員室登校」とか、校長の許可をもらって校長室のソファーに座って自習するという「校長室登校」などという「選択肢」を考えてみてもいいだろう。いずれにしても「保健室登校」や「職員室登校」や「校長室登校」を何度か試みたり繰り返しても、それでも日常に目立った明るい変化がないのならば、学校関係者の「心の問題」が深刻だという証拠になるから「社会の円」と「学校の円」の間の部分に「転進」先を探し始めた方がいいだろう。世の中にはいくら真剣かつ丁寧に繰り返し説明したとしても、訳の分からない強い思い込みをしていたり、そもそも最初から何も聞く耳を持っていなかったりする人間たちがいるものなのである。無駄な努力をしても無駄にストレスをためるだけだから、そういう場合には「転進」先を変えて次の新しい「作戦」を考えたり、「援軍」を待ったりするべきである。
 
 あえて批判を覚悟で言うならば、社会に絶望して完全に諦めてしまうのは社会が完全に腐りきったところなのかどうかということを確かめてからでも決して遅くはないはずである。社会に絶望して諦めてしまうようなことはいつでもすぐにできる。そしてもしも不幸にも社会が完全に腐りきった場所だということに気づいてしまった場合であっても、あるいは完全に腐りきった場所だと分かったからこそ、何としてでも生き抜いてそんな腐りきった場所を少しでも良い場所にしたいとか、あるいは、そんな腐りきった場所に完全に失望して死を選ぶような人たちを一人でも多く救いたいなどという新たな目的や強い欲求が生まれることもあるのかもしれない。繰り返すが、逃げたくないのならば無理に逃げる必要はないと思う。ただし「転進」先は真剣に考える必要はあるだろう。
 
無理に「相談」しなくてもいい
 
 繰り返しになるが、様々な人たちが「相談」などを呼びかけている。確かに両親や信頼できる教師や大人たちに「相談」することは「いじめ」や悩みを解決するための一つの有効な方法ではある。だが、「相談」してもすべての問題を解決できるわけではないはずである。そして何よりも「相談」ではあくまでも独力で問題を解決しようとするタイプの子どもたちを救うことができないということが見落とされている。
 
 他人に「相談」しても結局は問題を解決することなどできないと考えている子どもたちは最初から最後まであくまでも独力で解決しようとするかもしれない。また真面目で責任感の強い子どもたちほど悩みを抱え持ったまま他人に迷惑をかけずにあくまでも独力で解決しようとするかもしれない。繰り返しになるが、そういう子どもたちは他者からの「支援」をなかなか受け入れようとはしないはずである。ちなみに筆者は無理に「相談」しなくてもいいと考えている。だいたい大人に「相談」しなければ絶対に子どもが問題を解決できないというわけでもないはずである。実はいわゆる「いじめ」問題では大人の側のいくつかの「強い思い込み」も大きな障害になっているのである。現実をありのままに受け止めるということが必要不可欠なのである。あえて繰り返すが、筆者は無理に「相談」しなくてもいいと考えている。
 
 もしも大人の側に「認識していることだけが事実」であるという強い思い込みがあるのならば、実際にいわゆる「いじめ」問題を解決しようとするときには大きな障害になることが非常に多いのである。何か事件が起きる度に繰り返される「明るくて真面目な良い子だったし、学校にも毎日行っていたのになぜ…」などという類のコメントは大人の側が認識していることだけが事実ではないということを最も分かりやすい形で示している悲しい実例なのかもしれない。たとえどんなに注意深く子どもたちの様子を観察していたとしても、子どもたちが抱え持った悩みやその兆候がいつも必ず見えるとは限らないはずである。
 
 またもしも大人の側に「相談してくれれば問題を解決することができる」などという強い思い込みがあるのならば、場合によっては大きな障害になることもある。もちろん親や担任教師のような大人たちが「相談してくれれば問題を解決することができる」などという熱意を持って親身になって相談に乗ることは決して悪いことではない。だが、「相談」しても必ず解決できる問題ばかりではないはずである。例えば、両親の離婚などのような家庭の事情は相談してもどうすることもできない場合も多いことだろう。もちろん相談するだけでも精神的に楽になるということも実際にはあるのだろう。だが、それとは正反対に相談すると様々な意味で絶望感を深めるだけの結果に終わってしまうということもあるはずである。
 
 さらにもっと深刻なのは、大人の側に「『いじめ』かどうか」という強い思い込みがある場合である。言うまでもなく「いじめ」は絶対に許されることではない。「いじめ」が許されることではないということはほとんど誰にでもすぐに分かることである。だが、「いじめ」かどうかに強くこだわると弊害も大きくなるのである。多くの人たちが真っ先に気づくであろう「いじめ」に強くこだわる問題点は、本当に「いじめ」がなければ、あるいは、「いじめ」でなければ問題はないのかということである。
 
本当に「いじめ」に強くこだわる必要はあるのか
 
 例えば、「いじめ」と「ある人が嫌なこと」と「人権侵害」や「犯罪」などとの基本的な関係はどうなっているのだろうか。「犯罪」とそれ以外のことを分けるのが「法律」などである。また「人権侵害」かどうかは法律よりももう少し曖昧なものも含む「ルール」によって判断されることになるのだろうし、「ある人が嫌なこと」はある人が本音として嫌だと思っているかどうかで判断されるのである。
 
 そして「いじめ」には実に様々な定義があるらしいが、いずれにしても「ある人が嫌なこと」から「人権侵害」や「犯罪」までの実に幅広い内容を含んでいることだけは間違いないようである。実際問題としては「いじめ」であるのならばとりあえずそれだけですべてが問題だと考えておけばいいことになるのだろう。だが、あえて「ベン図の話」を持ち出さなくても、逆のケース、つまり「いじめ」ではないというケースであるのならば、それだけで必ずしもすべてが問題ではないと判断することはできないということにすぐに気づくことになるだろう。「いじめ」の事実があってもなくても、子どもたちが深刻な悩みを抱えている場合があるはずである。また「いじめ」であってもなくても、「ある人が嫌なこと」は「嫌なこと」のままであるはずである。そして「いじめ」であってもなくても、「人権侵害」や「犯罪」は「人権侵害」や「犯罪」のまま変わらないはずである。それにもかかわらず、どうして「いじめ」に強くこだわる必要があるというのだろうか。「いじめ」に強くこだわることによって生じる弊害は実はかなり大きいのである。
 
 学校関係者が組織の中で責任を問われるかどうかが問題になる場合はともかくとしても、少なくとも子どもたちの深刻な悩みを解消することを考える場合には「『いじめ』かどうか」などということは完全にどうでもいい話になるのである。あえて「ベン図」を使って説明しなくても「『いじめ』かどうか」という強い思い込みによって大きな弊害が生じることもあるということが賢明な読者にはよく分かってもらえることだろう。そして筆者が少し前に問題解決は「嫌だからやめろ」などという一言から始まると言ったことの持つ意味にも気づいてもらえることだろう。
 
 もちろん「嫌だからやめろ」などという言葉がなくても、「『いじめ』かどうか」を判断するまでもなく、誰の目にも明らかな「いじめ」の状態もある。だが、たとえ誰の目にも明らかな「いじめ」の状態であったとしても、冷静になって考えてみれば、実は学校などという場所だとか、子どもたちがやっているなどという様々な前提条件があるからこそ誰の目にも明らかな「いじめ」の状態だと判断することができるということに気づくことだろう。どういうわけか根拠のないおかしな強い思い込みに基づいて現実をあるがままに捉えようともしなければ、誰の目にも明らかな「いじめ」の状態をそうではないと言い張ることになってしまうということによくよく注意をする必要があるのである。
 
正しい「文脈」の中で現実をありのままに捉えることが必要不可欠
 
 実は学校の中では誰の目にも明らかな「いじめ」の状態であったとしても、別の人間たちが別の場所でやると「いじめ」ではなくなる場合もあるのである。例えば、約10年前に「ある政治家」が「ある会合」で「焼き魚は頭の部分も残さずに食え!」「どうした早く食え! 食え!」などと自分の秘書に繰り返し「強要」する現場が他の政治家たちに目撃されたという「噂」があった。さて、「ある政治家」は実際に秘書を「いじめ」ていたのだろうか。「ある政治家」による「いじめ」があったかどうかを明らかにするためには、「ある政治家」や「ある会合」や「焼き魚の頭」などという「文脈」の中で現実をありのままに捉えて自分自身の頭を使って考える必要があるのである。鋭い人たちならば「ある政治家」は少なくとも自分の秘書を「いじめ」ていたわけではないということにすぐに気づくことになるだろう。たとえどんなに秘書が泣きそうな顔をして周囲に助けを求めていたとしてもそれは「名演技」である可能性の方がはるかに高いのである。役人が考えたらしい「いじめ」の定義や「理論のようなもの」はこの場合も全く役に立たないのである。やはり正しい「文脈」の中で現実をありのままに捉えて自分自身の頭を使って考えることが必要不可欠なのである。あえて「テレビの世界」を意識した説明をすれば「正解は『理論のようなもの』の中にあるのではない。現実の中にあるんだ!」ということになるのかもしれない。
 
 言うまでもなく学校の給食の時間に「魚の頭の部分も残さずに食え!」「どうした早く食え! 食え!」などと無理強いしている場面を目撃したときにはほぼ100%「いじめ」と判断してすぐに止めさせるべきである。もっとも最近の給食で頭付きの焼き魚が出てくるのかどうかはよく知らないが、いずれにしても学校などの場所や子どもたちがやっているなどいう様々な前提条件とか「文脈」があるからこそ誰の目にも明らかな「いじめ」の状態だと判断することができるのである。
 
 誰の目にも明らかな「いじめ」であるにもかかわらず、学校関係者だけが根拠のないおかしな強い思い込みに基づいて「いじめ」かどうかはよく分からないとか「いじめ」ではないなどと言い張るケースもあるのである。確かに「いじめ」が原因だった可能性は高いが、詳しく調査をしてみると「いじめ」以外のことが原因である可能性も残っているから断定はできないなどという主張は「ベン図の話」が理解できる人たちにとってはほとんど何も説得力を持たないのである。そして「ベン図の話」が理解できれば、確かに「いじめ」以外のことが原因である可能性も残っているが、「いじめ」が原因だった可能性が高いなどと即座に言い換えることもできるだろう。「いじめ」が原因の中でどれだけの比重を占めていたのかということも確かに重要だが、何よりも重要なことは現実をありのままに受け止めているかということのはずである。
 
 さらにひどいのになると、あれは「いじめ」ではなくてテレビの世界の「いじられキャラ」みたいなことをやってふざけているだけだなどと強く思い込むような学校関係者までいるらしい。テレビの世界と現実の世界を区別することができない人間たちには本当に困ったものである。いったいいつから学校の中に「芸人学生」がいても許されるようになったのだろうか。
 
 だいたい「いじられキャラ」などというものは少なくとも「本物の芸」ではないのである。また「ボケ」と「ツッコミ」の「ボケ」のようなものだったとしても、黙ってポッカーンとだらしなく口を開けて「アホづら」になる程度のものならばそれも当然ながら「本物の芸」ではないのである。そして「本物の芸」であってもなくても、学校の中に「芸人学生」がいると強く思い込んでいること自体がテレビの世界と現実の世界を区別することができないという何よりの証拠である。仮に「いじられキャラ」などというものを「理論のようなもの」だと強く言い張ったとしても、そういう類の根拠のない強い思い込みやテレビの世界と現実の世界を区別することができない人間たちの存在がいわゆる「いじめ」問題を必要以上に複雑で深刻なものにしてしまうということは何も変わらないのである。くどいようだが、そろそろ多くの読者にも自分が嫌だと思っていることについて「嫌だからやめろ」などとハッキリと主張することの重要性が分かってもらえたことだろう。
 
何が「頭の中」の話で何が「頭の外」の出来事なのか
 
 「(前略)…さてと。今日も俺をつくっていかなくては。 俺は超高速でシャワーを浴びて体をキレイにすると、薄く生えたヒゲを丁寧に剃ってさわやか感を取り戻した。それから髪をドライヤーで乾かし、ワックスをつけてセット、パジャマを脱いで昨日アイロンをあてておいたカッターシャツを纏(まと)うと、素早く二階に上がって残りの制服を着、マフラーを適当にくるくる巻いて鏡の前に立った。出来上がり。これで誰がどう見てもいつもの桐谷修二の完成だ…(後略)」(p5-6)
 「(前略)…どんなにつまらない教師が授業をしていても、俺たちの親は安心を手に入れるために高い学費を学校に払い、学校は『教えています』と無責任な教育を俺たちに押しつける。それとも実は、こいつら教師は全員反面教師で『こんな大人になるな』と教えているのなら、こんなに効果のある教育はない。そうだとしたら先生、ありがとう。自分の人生を棒に振って、身をもって教えてくれているなんて頭が下がります…(中略)…誰が何を考えていようと、社会の中でそれぞれが決められた役割を演じれば、何事もなく一日は過ぎていく。俺たちは生徒として席に着き、おっさんは教師として教壇に立つ。誰がどう見ても授業をしていることが分かれば、世の中は安心し、一日が成り立つ。大事なのは見テクレというヤツだ…(後略)」(p17-18)
 「(前略)…こうやってマリ子が俺の分の弁当を作ってきてくれる生活も早、三ヶ月が過ぎようとしている。もともとマリ子とはメールをする程度だったのだが、いつのまにやら二人で弁当をつつきあう仲にまでなった。俺は学生食堂のパンが好きで、わざわざ買って食べていたのに、母親が弁当を作ってくれないかわいそうな人だと思われたのか、ある日『お弁当分けてあげよっか?』の一言に始まり、そのうち分けてもらっていたのが別の小さな弁当箱に分化すると、それが今度はどんどん巨大化して男一人が食って丁度良い代物になった。俺としては昼飯代が浮くのでとても助かる。だからと言ってマリ子が好きだとかそういう気持ちはない。弁当を頂く以外は他のクラスの奴らと同じ、マリ子も俺の着ぐるみショーのお客様なのだ。コイツも俺が着ぐるみ被っておちゃらけていることを知らない、そう、ウルトラマンの中に汗臭いオッサンが入っていることを知らない無垢なお子様なのだ…(後略)」(p22-23)
 「(前略)…今日で野ブタが我がクラスの一員となってから早一週間になるが、未だに野ブタに話しかける勇気ある若者はこないだの俺以外に確認されていなかった。いい加減誰か話しかけてやれよ、と僕は思っていたが、クラスの奴らはすっかり野ブタの存在を無視して、前と変わらぬ人間関係の中で生きている。ごくたまに野ブタのことが話題に上ることもあったが、相変わらず遠めからの言葉イジメばかりだ…(中略)…二週目に入ると、野ブタはクラスの真中と武山というなんちゃって不良くんたちに本格的なイジメにあい始めた。堀内の話によると二人におこづかいをせがまれているらしい。最初に話し掛けてきた奴がカツアゲ目的だったとは野ブタもつくづく運がない。日が経つにつれイジメはエスカレートしているらしく、野ブタは休み時間が終わると唇を切っていたり制服が所々汚れていたりするようになった。こうなったらいよいよ誰も野ブタに関わろうとしない。かわいそうだとか、自分はああなりたくないと思う傍観者にすらならない。全員シカトの完璧無視。ものの一ヶ月で哀れ野ブタの存在は完全にクラスから消滅した…(後略)」(p57-58)
 「(前略)…よろよろと男子トイレの前を通りかかると中からなにやら悲鳴が聞こえた。首だけふらっと覗いてみると、ズボンをずらしにずらした悪そーな男がポケットに手を突っ込みながら誰かに罵声を浴びせている。 あのツンツン頭は……確か三組の前田君。罵声を浴びせられているのは……おやおやあれは我がクラスの野ブタ君ではありませんか。欠席かと思ったらイジメにあってたのか。それよりあいつ、もう他のクラスの奴にもいじめられてるのか。……あらあら鼻血も出しちゃって。前田君何発かやっちゃったんだな。 そんなことを考えているうちにまた頭が痛くなってきて、何だかトイレの薄い青のタイルの線が消えてのっぺりした壁に見えてきた。これはもう間違いなくヒドイ風邪というヤツだ。帰ろう。野ブタには悪いが、俺も死にそうなんだ。 俺はフラフラと便所を通り過ぎていった。また野ブタが悲鳴を上げる。……うるさい、ブーブー鳴くな! 見殺しにはしてみたものの、結局俺は一階に下りる階段で足を止めてトイレに引き返した…(中略)…前田君が野ブタを殴ろうと振りかぶった。そのコブシ待て待て! 『ああ、そういやさぁ』俺の声に前田君のコブシがどうにか止まった。前田君がどんな表情かはちょっともうわからないが、とにかくこっちを見ている。チャックを上げて俺は続けた。 『さっきここに入ってくるときに、女が二人立ち止まって覗いてたよ。その後二人で走ってったからチクリに行ったのかも』 『マジかよ? くそっ。どこの女だ、そいつらぁ』 『二年じゃなかったなぁ。見たことない顔だったし。……それより早く逃げた方が良くない?』 『でもよ、コイツ…』 『そいつ俺のクラスの奴なんだ。俺からちゃんと言っとくから。今度からは廊下に誰もいなくなったときだけ歩けって。床に垂れてる鼻血も何とかしとく。うまく言いくるめるよ、任せとけって。ほら、逃げた逃げた』 『そっか? 悪いな、修二』…(後略)」(p61-63)
 「(前略)…『修二さん!』 野ブタが急に立ち上がって大声を出したので、俺の頭が悲鳴を上げた。 『俺を……俺を弟子にしてください!』 『はぁ? ……弟子? バカかおまえ』 俺は本当に心の底からそう思った。 『お願いします! 俺を助けてください!』 深く深く、何度も頭を下げる野ブタ。必死だ、コイツ。 『今……、助けたろ……』 野ブタのデカイ声は俺の頭を何度も揺さぶって、俺は頭を抱えた。 『お願いします! 修二さんのようになりたいんス! お願いします!』 『分かったうるせえぇぇ! 分かったから黙れ……って』 『ほんとに!? ほんとですね!? 約束ッスよ!』 野ブタは満面の笑みで俺に何度も頭を下げると、トイレットペーパーを千切って鼻にねじ込み、走り去っていった。 あのブタ……なぜ俺を助けない!…(後略)」(p64-65)
 「(前略)…『弟子は断る』 『へぇ……そんなぁ……』 一生懸命走ってきたのに、とも聞こえるガッカリを見せる野ブタに俺は前代未聞の提案を投げ掛けてみた。 『いや、弟子じゃなくてさ……弟子って何て言うか、付き人と同じだろ? 俺はおまえに付き人になってほしくないのよ。暑苦しいし。でな、弟子なんかよりな、時代はその……プロデュース、なんだよ、分かるか? つんくとかな。それでも良かったらやってもいいよ』 『プ、プロデュースっスか?』 ブタにも英語は分かるらしい…(後略)」(p75)
(以上、「野ブタ。をプロデュース」、白岩玄著、河出書房新社、2004年から)
 
 昨年のちょうど今頃に放送していたテレビドラマの「原作」からの引用である。ドラマでは主人公が少女だったのに、実は「原作」では「小谷信太」という少年だったということ以外にもぜひ気づいてもらいたい重要なことがいくつもある。何が「頭の中」の話で何が「頭の外」の出来事なのかにあえて注目してみるだけでもいくつかの重要なことにすぐに気づくことができるのかもしれない。あえて「正解」を明らかにせずにヒントだけを示しておくことにする。
 
 念のために言っておくが、少なくともすべての学校の先生が「正解」が分かるとは限らないから、学校の先生に「相談」して教えてもらおうと思ってもおそらく無駄である。最初から自分自身の頭を使ってなんとか自力で「正解」を導き出そうと努力した方が結局は「正解」への近道になるのかもしれない。
 
 いずれにしても、現実をあるがままに受け止めようともしない学校関係者は、例えば、Mr.Childrenの「しるし」が流れる「生命を真面目に考える14歳の妊娠した女の子が主人公のドラマ」を道徳などの授業の素材として使いこなすような能力はおそらく持ち合わせてはいないことだろう。そして一般社会と同じように学校教育現場でも真面目に現実を直視しようとする人たちほどより多くの深刻な課題を抱え持ちながらより深く絶望していくという状況が見られるはずである。
 
 あえてまた繰り返すが、信頼できる誰かに相談する人たちも、あくまでも独力で問題を解決しようとする人たちも、最初に絶対にしなければならないことは、(1)目の前にある深刻な問題の解決よりも先に「全体像」を考えることである。なぜなら「全体像」が分かれば、自分ができることや優先的にやらなければならないことが見えやすくなるからである。
 
 そして次に(2)自分が嫌だと思っていることについて「嫌だからやめろ」などとハッキリと主張することである。「嫌だからやめろ」などとハッキリと主張したその瞬間からそれぞれの人たちの問題が最悪の状態に陥る危険性を大きく低下させることができるからである。問題解決は「嫌だからやめろ」などという一言から始まると言っても良いのである。
 
 さらにできることならば(3)自分が嫌だと思っていることと同じことを他人がされている場面に直面したら「やめろ」などと主張することができるようになると良いと思う。自分のことだけではなく他人の場合にも「やめろ」などと主張し続ければし続けるほど、それぞれの人たちの個人の問題はやがて全体の問題になっていく可能性が高くなるからである。権利と義務は表裏一体であるということや「情けは人の為ならず」ということをすぐに思い起こすことができると良いと思う。
 
 まさか間違っても筆者に「相談」のメールなどを送ってくる人たちはいないとは思うが、あくまでも念のためにハッキリと書いておくことにする。筆者は他の人間たちと全く同じように体は1つしか持っていないし、時間も24時間しかないし、金銭的な余裕も全くない。だからいくら助けを求められてもおそらく何もすることはできないだろう。筆者は守れない約束は最初からしない主義である。その上で、筆者にできることがあるとしたら、問題解決に役立つ「道具」とその「基本的な使用方法」をセットにして提供することぐらいである。そして日本の政治を中心に分析し続けることによってそれらの「道具」がどのくらい広範囲かつ長期間に渡って役立つものなのかということを判断するための実例を増やすことぐらいである。


 「(前略)…ぺてん師どもは、このときとばかり、いっしょうけんめいに、でも一すじのたて糸も、よこ糸もなしに、織っていました。 『まことに、豪華なものではございませんか。』と、ふたりのお人よしの役人はいいました。『陛下、どうぞごらんください、なんというがらでございましょう。なんという色あいでございましょう。』 こういいながら、からのはたを指さしました。なぜなら、ほかの人たちには、この織り物がきっと見えるにちがいないと信じていたからです。 『やや! これはどうしたことじゃ! わしにはなにも見えんぞ。おそろしいことじゃ。わしは、おろか者なのか? わしは皇帝の役目には向いておらんのか? わしの身にふりかかる、これ以上のおそろしいことはないぞ。』皇帝は、心の中でこう思いましたが、口にだしては、こうおっしゃいました。 『なるほど、たいへん美しいのう。大いに気にいったぞよ!』 そして、まんぞくそうにうなずきながら、からのはたをよくごらんになりました。なにも見えないぞと、おっしゃりたくなかったからです。おともの人たちもみんな、うの目たかの目で見ましたが、だれひとり見えようはずはありません。けれども、みんな、皇帝のまねをして、『なるほど、たいへん美しゅうございます。』と、いいました。そして、このすばらしい新しい織り物をお召し物におつくりになって、近くおこなわれる大きな行列のときに、お着ぞめなさるように、とすすめました」(p60-61)
 「(前略)…こうして、皇帝は、りっぱな天蓋の下を、行列をしたがえて、おあるきになりました。通りの人も、窓にいる人も、みんな口をそろえていいました。 『これは、これは! 皇帝の新しい着物は、まったく申しぶんがないぞ。お服についているもすその、なんとりっぱなこと! なんとぴったりじゃないか。』 だれひとり、なにも見えないなどと、ひとに気づかれたくありませんでした。さもないと、その人は、じぶんの役目に向いていないか、または、おろか者だということになりますから。皇帝の数多い着物のうちで、これほど評判のよいものはありませんでした。 『だけど、なんにも着てやしないじゃないの。』と、そのとき、ひとりの小さな子どもがいいました。 『これは、これは! 罪のない子どものいうことだよ。』と、その子の父親がいいました。それでも子どものいったことばが、それからそれへとひそひそ伝わっていきました。 『なんにも着ていらっしゃらないんだ。小さな子どもがなんにも着ていないっていってるよ。』 『なんにも着ていらっしゃらないんだ。』とうとうしまいに、みんながこうさけびました。そのさけびは、皇帝の心の中にもしのびこんできました。なぜなら、みんなのいうほうがほんとうのように思われたからです。けれども、『行列は、やめるわけにはいかない』と、考えなおされました。そして、いっそう、威厳をはりました。そして、侍従たちは、ありもしない着物のもすそをささげてすすみましたとさ」(p64-65)
 (以上、「皇帝の新しい着物」。アンデルセン童話集1、H.C.アンデルセン著、大畑末吉訳、岩波少年文庫、1986年から。なお2000年に新版。岩波少年文庫5)
 
 おそらく誰でも知っているアンデルセンの童話からの引用である。現実の世界の中で「偽者の専門家」や「デマゴーク(→煽動政治家,demagog)」を正確に見分ける場合には知識的には「裸の王様」の話だけで十分におつりが返ってくるはずである。たとえ多くの人たちが思わず辞書を引いてしまうような「人口に膾炙(かいしゃ)する」(→広く人々の口の端にのぼってもてはやされる(広辞苑(第5版))などという難解な言葉やその意味を数多く覚えたとしても、あるいは「ソフィスト」(→参考:第1回(2006/2/1号))や「デマゴーク」(→参考:第7回(2006/10/2号)etc.)という言葉の意味やその歴史的事例を暗記したとしても、現実の世界の中で実際に「偽者の専門家」や「デマゴーク」などを見分けることができないのならば、「裸の王様」ぐらいしか知らなくても正確に「デマゴーク」などを見分ける子どもたちには遠く及ばないのである。
 
 残念ながら「何のために勉強するのか」以前の「勉強とは何か」というかなり低いレベルで目には見えない高くて厚い壁にぶち当たっていることにも全く気づかず、「勉強とは知識を吸収することである」などという大きな勘違いしたまま大人になってしまった人間たちも少なくはないのである。たとえどんなに昔からどんなに多くの「立派な本」を読んできたなどと自慢げに言い張ったとしても、良くても「字面」だけの表面的な理解にとどまっており、一歩踏み込んで「事実の持つ意味」を理解する能力に欠ける人間たちが実はかなり多いのである。
 
 読者が「勉強とは何か」を誤解していないかどうかを自己診断するためにも役立つ「頭の体操」をしておくことにしよう。もしも読者の目の前に「裸の王様」がいて、その「裸の王様」が周囲のほぼすべての人たちからチヤホヤされていたとしよう。そして読者は王様が裸だと気づいている。そのとき読者は罪のない子どものように「だけど、なんにも着てやしないじゃないの」などと言えるだろうか、やはり言えないのだろうか。もしもそう言えない場合には読者も周囲のほぼ全ての人たちと同じように「裸の王様」をチヤホヤするのだろうか。周囲と同じようにチヤホヤするのならばそれはそれで個人の自由だが、チヤホヤした結果生じた全ての責任を読者も共に負わなくてはならなくなるということを絶対に忘れてはならないはずである。
 
 もしも読者が「だけど、なんにも着てやしないじゃないの」などと言っても全く誰からも相手にされなかったり、あるいは厳しく批判されたりしたとしたら、それだけでもう完全に諦めておとなしくなってしまうのだろうか。あるいは、別の方法で「裸の王様」や彼をチヤホヤする周囲の人たちを説得しようとするのだろうか。それとも何らかの「力」を使って強制的に「裸」であるということを気づかせようとするのだろうか。「北風」を吹かせることができる能力を持っているのならば、比較的簡単に「裸」だと気づかせることができるだろう。仮にいつまでも「裸の王様」が自分自身が「裸」だということになぜか気づこうとしなかったとしても最終的には風邪を引いたり凍死することになってそれでお終いになるのだろう。
 
 全く別の方法で「裸の王様」に自分自身が「裸」だということを気づかせようとする場合にはどのような方法が考えられるだろうか。例えば、もしも「裸の王様」が現代にいるのならば、携帯電話のカメラなどで「裸の王様の現在の姿」と「別のお気に入りの服に着替えてもらった王様の姿」を撮影し、「このカメラが間違いなくその役目を果たして現実をありのままに写すという事実」と「王様が裸であるという事実」を同時に気づかせようとする方法がおそらく最も効果的な方法になるのだろう。
 
 このカメラの話を読みながらすぐに「矛盾」の話と基本的には同じだと気づいた読者は「勉強とは何か」を誤解している可能性はまずないだろう。さらに少し前の「ベン図の話」の「トレードオフ」の関係を利用したということに即座に気づいたり、あるいは、数学の「背理法」を利用したのかもしれないなどと思った読者はかなり優秀であるから誤解している可能性はほぼゼロだと考えられる。そしてそういうことにすぐには気づかなかったが、なんとなく「裸の王様」の話は「いじめ」の話と似ているなあなどと思っていたという読者も「勉強とは何か」ということを誤解している可能性はやはり低いと考えられる。
 
理想と現実のギャップ
 
 この辺で「ミクロ」から「マクロ」の方向に向かって少しだけ視野を拡大してみることにしよう。そして対象レベルを永田町周辺にまで拡大して「ベン図の話」や「心理学的アプローチ」の有効性をさらに説明してみることにする。
 
 あえて当たり前すぎるくらい当たり前のことから説明することにしようと思う。例の「ベン図の話」を使って説明するならば、「専門家の肩書き」と「最低水準以下の専門能力」はどんな場合にも必ず「トレードオフ」の関係になるはずである。なぜならば「専門家」とは「最低水準以上の専門能力を持った人間」などと「定義」しているはずだからである。「定義」がそうなっているのならば理論的には「専門家の肩書き」と「最低水準以下の専門能力」とは「トレードオフ」の関係以外の関係には絶対にならないのである。
 
 ところが現実の世界の実態は少し違っている。現実の世界では「専門家の肩書き」を持つ人間がどういうわけか「最低水準以下の専門能力」しか持っていないということもそれほど珍しいことではなくなっている。確かに理論的には、あるいは理想状態では、「専門家の肩書き」と「最低水準以下の専門能力」の関係は「トレードオフ」の関係にあると考えられるのだが、現実の世界では必ずしも理論通りの状態になっているとは限らないのである。たとえ理論がどんなに正しいものであったとしても、それでもやはり理論から予想される状態だけを考えても現実の状態は正確には分からないのである。やはり実際に確認してみなければ現実の状態は正確には分からないということなのである。あえてくどく説明をしなくても、賢明な読者は、理論から予想される状態と現実の状態との違い、あるいは、理想と現実のギャップというものをよく分かっているのかもしれない。だが、この理想と現実のギャップを見失うととんでもないことになるのであえて強調しておくことにする。
 
 全く同じように「ベン図の話」を使うと、例えば「良き父親・母親であること」と「ある職業の本物の専門家であること」とは「ナローパス」の関係にあると説明することができる。もちろん「定義」によって微妙な違いは出てくるのだろうが、少なくとも理論的には「良き父親・母親であること」と「ある職業の本物の専門家であること」はどんな場合にも同時に成立しないような関係ではない。そして実際に現実の世界を見ても「良き父親・母親であること」と「ある職業の本物の専門家であること」を両立させている実例はいくつも存在する。でも、だからと言って現実の世界では「良き父親・母親であること」と「ある職業の本物の専門家であること」が「ナローパス」の関係になっているとは限らないのである。言うまでもなく「良き父親・母親」が必ず「ある職業の本物の専門家」であるとは限らないし、逆に「ある職業の本物の専門家」が必ず「良き父親・母親」であるとも限らない。現実の世界で「良き父親・母親であること」と「ある職業の本物の専門家であること」が「ナローパス」の関係にあるのかどうかということはあくまでも個別具体的な事実を実際に確認することによって判断するしかないのである。
 
 ちなみに現実を全く見ないうちにすぐに「良き父親・母親であること」と「ある職業の本物の専門家であること」が「ナローパス」の関係にあるのかどうかを判断することができるとしたら、それは、その人が明らかに「良き父親・母親」でも「ある職業の本物の専門家」でもないということが最初から分かっている場合だけである。「ゼロ」と「ゼロ」を足した場合には明らかに「ゼロ」でそれ以外のものになるわけがないのである。
 
 おそらく永田町周辺を見ると「デマゴーク」と「議員バッチ」、あるいは「無能な政治家」と「議員バッチ」や「当選証書」はそれぞれ「ナローパス」の関係にあるように見えるのかもしれない。だが、それでもやはり理想状態では「デマゴーク」と「議員バッチ」、あるいは「無能な政治家」と「議員バッチ」や「当選証書」はそれぞれ「トレードオフ」の関係にあるということは全く変わらないのである。そして現実の世界の中で「デマゴーク」と「議員バッチ」、あるいは「無能な政治家」と「議員バッチ」や「当選証書」の関係を実際に決めているのは他ならぬ有権者ということになるのである。
 
「ゼロ」と「ゼロ」を足してもやはり「ゼロ」
 
 言うまでもなく政治家を研究するということ、つまり「政治家」と「研究」とは理論上は「ナローパス」の関係にある。だが、例えば、その「政治家」のことを十分に理解しておらず、さらに「研究」というものの基本的なやり方も十分に理解していないような場合には、「政治家名」と「研究」を結び付けてみても意味のあるものは全く何も生み出されないのである。やはり「ゼロ」と「ゼロ」を足しても「ゼロ」にしかならないのである。そしてこの場合には2つの言葉を結び付けるだけで「政治家本人」と「本物の研究」をやっている人たちの両方を大いに侮辱する言葉になってしまうかもしれないのである。
 
 例えば、「安倍晋三」の「安倍」を「阿部」や「安部」と書いてしまえば無礼になることはあるのだろうが、「安倍晋三」と書くだけならば誰に対しても無礼にはならないはずである。また「研究」という言葉は誰でも自由に使うことができるし、もちろん「研究」と書いたりするだけならば基本的には誰に対しても無礼にはならないだろう。ところが、あまりにもお粗末な内容のままで「政治家名」と「研究」という言葉を結び付けてしまった場合には「政治家本人」と「本物の研究」をやっている人たちの両方を大いに侮辱する言葉になってしまうかもしれないのである。
 
 さらに以前(→参考:第1回(2006/2/1号)etc.)取り上げた永田町周辺の具体例で説明すれば、例えば「一生懸命前に歩いている、歩いているといっても、地球の回転よりも遅いスピードで歩いていれば、結局は、トータルとしては、総体的には後退しているということなんですよ」(1998/5/14の衆院緊急経済対策特別委から)などというように仮に事実だとすると動く歩道にも乗れなくなってしまうような反科学的なことを平気で言う理科系の「学士」と「議員バッチ」を結び付けただけでなぜか「科学技術と政治」などについてもっともらしいことを語ってしまう事例がかつて存在した。この場合には「科学技術と政治」という言葉は、「科学」にも「技術」にも「政治」にも、そしてそれぞれの分野で真面目に取り組んでいるすべての人たちにとっても無礼極まりない表現になってしまうのである。やはり「ゼロ」と「ゼロ」を足しても「ゼロ」にしかならないのである。
 
 全く同じように、例えば「芸人」と「学生」という言葉には本来はどちらにも他人を侮辱する意味は少しもないが、どういうわけか2つの言葉をお粗末な中身のままで結び付けてしまった場合には、「本物の芸人」と「本物の学生」を同時に侮辱する最低最悪の表現になってしまうのである。くどいようだが、やはり「ゼロ」と「ゼロ」を足しても「ゼロ」にしかならないのである。
 
 もちろん「セーラー服と機関銃」(原作:赤川次郎著(角川文庫)。TBS系列ドラマ(2006/11/24最終回(放送終了))など)という本やドラマや映画などの人気がいくらあったとしても、「セーラー服」と「機関銃」、あるいは「女子高生」と「ヤクザの組長」も基本的には「トレードオフ」の関係のまま変わらないのである。「セーラー服」と「機関銃」、あるいは「女子高生」と「ヤクザの組長」が「ナローパス」の関係に見えるようなことがあったとしてもそれはあくまでも「テレビの世界」の中だけの話である。もっとも多くの賢明な読者にはこんなことを説明する必要はないとは思うが、「テレビの世界」と「現実の世界」を区別できない「知的レベル」の低い人間たちが世の中に増えているのであえて念のために強調しておくことにする。
 
誰が「デマゴーグ」なのか
 
 最近の永田町周辺の事例を使って「心理学的アプローチ」の有効性についても説明しておくことにしよう。
 
 例えば、安倍首相から「(著書「美しい国へ」に書いた「政経分離」の意味を問われて)私の本をよく読んでいただきたいと思います。まず、(筆者注(以下( )内同):日中間で)経済は良くて、政治は冷たくていいとは一言もまず書いていない。まるでそう書いてあったかのごとく言うのはですね、それは、まるで『デマゴーグ』(→煽動政治家(demagog))と言われてもしょうがないと思いますよ。それはおかしいですよ。私は一言も言ってないじゃないですか。また、私が今、ここで申し上げたことは何と言ったかと…。私が申し上げたことをよく聞いていただければよく分かっていただけると思いますよ。いいですか。私が言ってないことは、言ったというふうに言っていただきたくない。言っていないことを、私が言ったとは言っていただきたくない。ですから、私が『政経分離』と申し上げましたのは…(後略)」(2006/10/5の衆院予算委)などと答弁されてしまった「野党の元代表」がいる。
 
 そして同じ「野党の元代表」はその翌日に「(前略)…あたかも自民党がそれを取り組んだかのごとき、こういうのをデマゴーグというんじゃないですか。総理はよくデマゴーグという言葉を使われますが、あたかも自分たちが指摘したかのようなことを言われて、そしてこういうパンフレットをつくり、また、解体するかのようなものをつくって実は解体的見直しであったりする。全面的にこれを変更するなり削除して法案を出し直す気があるならちゃんと出し直してから、まさに顔を洗って出直してもらいたいということを申し上げて質疑を終わります」(2006/10/6の衆院予算委)などと一方的に述べていたのである。この最近の事例の意味を「心理学的アプローチ」を使って考えてみることにする。
 
 結論から言えば、「心理学的アプローチ」では「野党の元代表」の行動は受け入れらない現実や感情を(4)の「防衛機制」によって何とか処理しようとする場合と説明することができるのである。安倍首相から「デマゴーグ」と言われたすぐ翌日に「デマゴーグ」と言い返せるような部分を相手側の中にわざわざ探し出して「デマゴーグ」などと厳しく非難するような行動は、心理学の専門用語で言えば「投射(projection)」(→自分の心の中にあることに気づかなかったり拒否したりする感情・性格などを他者の中に見出そうとすること。防衛機制の一種(広辞苑(第5版)))の具体例ということになるのかもしれない。ちなみに安倍首相が「デマゴーグ」という言葉を使ったのはその時点ではたった一人の政治家に対してたった一回だけであったということもあえて付け加えておくことにする。
 
 どうだろうか。より多くの読者に「心理学的アプローチ」の有効性をさらに実感してもらうことができただろうか。


  
学校関係者の規範意識と能力の問題
 
 今年の秋に唐突に大きな波紋が広がった高校などにおける「未履修」問題は、学校関係者の規範意識の問題であると筆者は考えている。それと同時に目的と手段の関係を見失ったという意味で学校関係者の「能力」の問題でもある。言い換えれば、学校関係者の「心の問題」と「知的レベルの低さの問題」ということになる。いずれにしても生徒側はたまったものではない。
 
 授業時間が足りなければ何をやってもいいのだろうか。そもそも何のための高校、何のための学校教育なのだろうか。大学に合格するためには何をやってもいいとでも言うのだろうか。もしも「ルール」を破ったり「偽装」をしてもバレなければ何も問題がないということになってしまうのならば、「不祥事を繰り返す集団」や「犯罪を繰り返す集団」と何も変わらなくなってしまう。そもそも本当に大学に合格すればそれでいいのだろうか。確かに大学合格は「目的」でもあるのだろうが、「もっとずっと大きな目的を達成するための手段」でもあるということを忘れてはならないはずである。
 
 だんだんコメントするのもバカバカしくなってきたところに文部科学省が「未履修」問題で「救済策」を発表した(→2006/11/2。補習授業の上限を70コマ(2単位)に設定。(1)70コマ以上補習が必要な場合には授業70コマとレポートなどに、(2)70コマ以下の場合には50コマ程度への軽減も認める(→出席2/3以上と判断)、などの内容。参照:http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/11/06110220.htm)。一時はコメントする気力を完全に失いかけたが、なんとか「KO」寸前で立ち上がることができた。
 
 同じ50コマ程度に軽減する場合であっても、例えば、2単位70コマ(→1コマ=50分授業1回)に達していなくても、50コマ以上の授業を受けた段階で、定められたすべての「内容」の学習を終え、しかも「目標」や学習する「目的」を達成したと十分に判断できる状態になっている場合には、その科目を履修したと認定することができるなどという弾力的な運用を認めれば生徒たちのやる気・インセンティブを高めることができるのかもしれない。詰まらない授業をダラダラやって70コマ我慢するぐらいならば、集中して50コマ程度の密度の高い時間にした方がいいと考える生徒・教員の方がずっと多いことだろう。
 
何のために勉強するのか
 
 大学に進学する高校生たちの中には受験に無関係な科目を勉強する意味が分からないとか、仮に勉強する意味があったとしても大学入学後に勉強すればいいなどと考えている人たちも少なくはないのかもしれない。しかし、筆者は文部科学省とは少し違う理由から、どんなに少なくともいくつかの科目はそれでもやはり高校時代に勉強しておく必要があると考えているのである。ここから先は歴史的文脈や時間軸を意識してほんの少しだけ「現在」から「未来」の方に視点を移動させた説明をしていくことになる。
 
 高校必修の「世界史」をそれなりに勉強していれば、例えば「立憲主義(constitutionalism)」という考え方や基本的人権が現代までにどのように発展してきたのかという大まかな歴史的文脈を正しく理解することができると期待することができるようになるのである。英国の名誉革命における権利章典(1689)、アメリカ独立戦争時の独立宣言(1776)、フランス革命におけるいわゆる「人権宣言」(1789)、さらに日本ならば大日本帝国憲法(1889)、そして現在の日本国憲法(1946公布、1947施行)へなどと、参考資料をその気になって調べればいくつかの重要な歴史的標石を挙げながら歴史の流れを独力でたどることもそれほど難しいことではなくなっているはずである。漠然とした世界史の知識がありさえすれば、いくら圧倒的多数の人たちが決めたとしても多数決だけを理由にしてある個人の生命のような基本的人権を奪い取ることは絶対に許されないということぐらいはすぐに理解することができるだろう。つまり、たとえ「政治・経済」を勉強していなかったとしても、漠然とした世界史の知識を活用するだけでも、大学入学直後に、例えば「いわゆる『政治学(political pseudoscience(偽科学))』を学ぼう」などと叫んでいる「偽者の専門家」や「学位工場(diploma mill)」出身者などに簡単に欺かれてしまう危険性を大きく低下させることができるのである(→参考:第2回(2006/2/8号)etc.)。
 
 また物理でも化学でも生物でも理科総合でも、とにかくそれなりに高校でも理科を勉強していれば、人類が長い歴史の中で少しずつ積み重ねてきた知的資産の体系の中に矛盾なく位置付けられるものが「本物の理論」であるということはすぐに理解できるだろう。またその「理論」というものが「事実」とどれだけ密接に結び付いているものなのかということもすぐに理解することができるだろう。科学の世界では、人類共通の知的資産の体系と明らかに矛盾する「理論と称するもの」は最初から誰も認めないし、また「新しい事実」によって否定された「理論」は修正もしくは放棄されることになるのである。要するに、どんな物の見方や考え方でも許されるわけではないが、人類共通の知的資産の体系の中に位置付けられる「事実」に基づいた物の見方や考え方ならばほぼすべてが「本物の理論」であると考えておけばそれほど難しく考えなくてもいいのである。
 
 高校では「数学A」を履修しないときちんとした形では集合を勉強しないのかもしれないが、例の「ベン図の話」程度の内容ならば、高校でもそれなりに数学を勉強していた人たちなら理解できないわけはないだろう。特に経済学・商学系以外の私立文系で受験科目の英語、国語、社会しか勉強しなくてもいいと考えているような大学受験生たちは、どんなに少なくとも「対照実験」や「ベン図」のような基礎知識を自分自身で再確認する自衛策を講じておく必要がある。もしも何も自衛策を講じておかなければ「カルト」や「偽者の専門家」にターゲットにされた場合には非常に危険であると警告しておくことにする。なおここでの「カルト」とは「事実との真正の結合とは全く無関係な強い思い込み」またはそういう強い思い込みをする人間たちのことである。
 
学ぶのならば「本物の政治学」を学ぼう
 
 ここで根拠のない強い思い込みや「理論と称するもの」にこだわる愚かさを具体例を用いて説明することにしよう。例えば、目の前に山のように積まれた決裁書類に猛烈なスピードで決裁印を押している社長がいたとしよう。そしてその社長が人並みはずれた非常に高い能力を持っている「有能な社長」なのか、それとも後先のことを考えずにとにかく決裁印を押して目先の仕事を片付けることしか考えていない「無能な社長」なのかを判断しなければならないとしよう。その場合に読者はどのような手法を用いるだろうか。たとえ「トーダイ卒ならば有能な社長」とか「米国留学経験があるのならば有能な社長」などという「理論と称するもの」があるなどといくらもっともらしく言われたとしても、多くの賢明な読者は真っ先に社長が決裁印を押している決裁書類の内容やその企業の置かれた現状を確認しようとするはずである。そして可能な限り複数の視点から多角的に社長の決断を評価しようとすることだろう。
 
 例えば、企業買収の決裁書類の場合には、優れた技術を持たない上に自分たちとほとんど同じ場所に古い店舗や古い工場を持っているだけの同業企業の買収案件ならば、普通は買収するメリットは全くない。ところが、もしもライバル企業がその企業を買収してしまうと自分たちが圧倒的に競争で不利になって売り上げが大きく減少してしまうという場合には、その企業を買収するメリットはほとんどなくてもあえて買収することが正しい決断になることもあるのである。
 
 もしも「社長が有能か無能か」を判断することができる「本物の理論」が存在したとしても、それでもやはり、その企業が置かれている現状を無視して「社長が有能か無能か」を正しく判断することはできないはずである。「理論」を使うか使わないかは別にしても、「社長が有能か無能か」を正しく判断するためには、決裁書類の内容やその企業の現状を確認しなければならないはずである。「理論と称するもの」は論外だが、たとえ「本物の理論」であったとしても、少なくともそれだけでは「社長が有能か無能か」を正しく判断することはできないはずである。正しく判断するためには現実をありのままに捉えることが必要不可欠なのである。
 
 もしかしたら最低レベルの専門能力も持たない「自称専門家」や自分の頭をほんの少しも回転させることができない「知的レベル」の人間たちの場合には、現実の世界をいくら注意深く観察しても「理論と称するもの」がないと意味のある解釈や説明をすることが全くできないのかもしれない。しかし、ここで重要なのは、「本物の専門家」や「本物の研究者」ならば、最も極端な場合には適用可能な「理論」が全く存在しなかったとしても、観察している事実と人類共通の体系化された知的資産だけから自分自身の頭脳を使って意味のある解釈や説明をしたり、さらには新しく「本物の理論」を導き出すこともできるということなのである。どこかで聞いたようなセリフをあえて使えば「社長が有能か無能かを決めるのは理論ではない。社長が有能か無能かを決めるのは事実だ!」とか「理論は『偽者の専門家』の頭の中にあるのではない。理論は現実の中にあるのだ!」ということになるのだろう。いずれにしても高校でも理科をそれなりに勉強していさえすれば、無意味な「異なるインプリケーション」を一気に飛び越えて人類共通の知的資産の体系に基づいた正しい結論を導き出すことも不可能ではないのである。
 
 さて、あまりにも唐突にガラッと話は変わってしまうが、最近はどういうわけかテレビの世界と現実の世界の区別ができない人間たちの数が増えている。そういう人間たちの数があまりにも多くなってくると「芸人教員」と「芸人学生」ばかりの「学校」も増えてくるのかもしれない。例えば、教室内で「芸人教員」が「お前は本当に試験を受けて入ったのか」などとツッこむと、ボケ役の「芸人学生」がポッカーンとだらしなく口を開けたまま「アホづら」になる。そこに第三者が「芸人教員」に向かって「そういうあんたは事実上の『学位工場』出身者か!」などと叫びながら乱入してくるというような「笑うに笑えない光景」があちこちで繰り返されるようになってしまうのかもしれない。そんな「笑うに笑えない光景」があらゆる教室で毎日のように繰り返される「学校」に間違って入学してしまったら「カネ返せ!」などといくら強く叫んでももはや手遅れである。
 
 もしかしたら世の中には「知的なイメージ」に触れているだけでも強い快感をもたらす物質が脳内に自然に分泌されてきてそれだけで十分に満足できる状態になる特殊な体質の人間たちもいるのかもしれない。だが、高い学費と貴重な時間を費やして本気で学ぼうと思っている多くの本物の学生たちや「芸人教員」などには全くなるつもりがない本物の教員たちにとっては「学校」がそんな「三流お笑い番組」のような場所になってしまったらたまったものではないだろう。
 
 いわゆる「政治学(political pseudoscience(偽科学))」ではなく本物の政治学(political science)を学びたいという感想を持っている人たち、あるいは、政治を良くしたいとか世界を平和にしたいと本気で考えている人たちこそ、政治や世界がどんなメカニズムで動いているかを正確に知るために「理論と称するもの」や根拠のない強い思い込みを完全に捨て去り、その上で「政治過程」や「現実の世界」を注意深く観察して現実をあるがままに捉えることが必要だと筆者は考えている。
 
「合理的説明」と称するもの
 
 もう一つ具体例を挙げて説明しておくことにしよう。今度は根拠のない強い思い込みや「理論と称するもの」にこだわる愚かさを永田町で実際に起こった歴史的事実に基づいて説明することにする。今から約6年前に野党が提出した森喜朗内閣不信任決議案に自民党の加藤紘一代議士らが一時賛成する方針を示したものの結局は衆院本会議を欠席するだけで終わった「加藤の乱(加藤政局)」(2000/11/21未明)という事件があった。自民党執行部からの激しい切り崩し工作ももちろんあったわけだが、むしろ宮沢喜一元首相(当時は蔵相)らベテラン議員たちが不信任案賛成に反対して「加藤派(宏池会)」が事実上分裂(2000/11/20)したことが決定的要因となって挫折に追い込まれたというのが基本的な事実関係である。
 
 さて、いわゆる「政治学」の世界では「昇進モチベーション(動機)」とか「再選モチベーション」などという「理論と称するもの」を使うと「合理的説明」がどういうわけか可能になるらしいのである。それによると、ベテランの加藤代議士は落選の心配は少なくて「再選モチベーション」は低いが、自民党内で総裁になって首相に選ばれることをめざしていたから「昇進モチベーション」は高いのだという。そして逆に「加藤派」の当選1・2回の選挙に強くない代議士たちは再選されることが第一目標だから「再選モチベーション」が高く、加藤代議士が自民党を離党して新党を作ればその斬新なイメージで再選されると期待していたはずだという。だから加藤代議士が自己の「昇進モチベーション」のために自民党にとどまって新党を作らないのならば、何としてでも公認をもらうために執行部の言いなりになって加藤代議士を裏切るしか道はなくなったなどという「合理的説明」ができるということらしい。
 
 だが、現実の世界ではそういう解釈が本当に許されるのだろうか。中学理科でやった「対照実験」のような考え方(→参考:第2回(2006/2/8号)etc.)を少し意識するだけでもこういう類の「合理的説明」は問題点だらけであり、都合の良い部分だけを「合理的」に選んで自己中心的な比較をしているに過ぎないということにすぐに気づくはずである。
 
 まず宮沢元首相らベテラン議員の行動を「再選モチベーション」とか「昇進モチベーション」を使ってどう説明するのかということを最大の問題点として指摘することができる。特に宮沢元首相にはいったいどんな「昇進モチベーション」があったというのだろうか。もしも「再選モチベーション」も「昇進モチベーション」も共に低いのだとしたら、「理論と称するもの」を持ち出した「合理的説明」ではベテラン議員たちをあえて派閥分裂にまで駆り立てた強い動機はいったい何だったのかということを全く説明することができないという致命的欠陥が誰の目にも明らかな形で示されることになる。
 
 また仮に当選1・2回の代議士たちが高い「再選モチベーション」を持っていたとしても、彼らが新党で再選されると本気で考えていたのかどうかは甚だ疑問である。なぜなら1996年総選挙以降はそれまでの中選挙区制から新しく小選挙区比例代表並立制の選挙制度が導入されているからである。そしてたとえどんな斬新なイメージを持った新党から立候補したとしても小政党から立候補して小選挙区で当選することはかなり困難であるということは2回目の2000年総選挙直後までに永田町周辺では常識になっていたからである。つまりいわゆる「政治学」の世界の中での「合理的説明」を可能にするために当選1・2回の代議士たちが「合理的」に判断していたと考えるにはあまりにも無理があるのである。ちなみに2005年総選挙において小選挙区から当選したいわゆる郵政造反組の多くは中選挙区時代からの固い地盤を持っていた代議士たちであった(→参考:2005/10/18号etc.)。
 
 さらに言えば、当選1・2回の代議士たちが高い「再選モチベーション」を持っていたとしてもいなかったとしても、「昇進モチベーション」が無視できるほど低いとは限らないはずである。「再選モチベーション」も低くはないのだろうが、それよりもずっと「昇進モチベーション」の方が高かったからこそ自民党に残って執行部に忠誠を尽くしたと考えたとしても矛盾は生じないはずである。少なくとも現実をあるがままに捉えた場合には当選1・2回の代議士たちの「昇進モチベーション」が無視できるほど低いと断定できる根拠は全く存在しないのである。
 
 いわゆる「政治学」の世界の中での「合理的説明」では、最も極端な場合には、当選1・2回の代議士たちの行動を高い「昇進モチベーション」だけからも説明することが十分に可能なはずである。だが、どういうわけか「昇進モチベーション」で「合理的説明」を可能にする「異なるインプリケーション」すらも得られていないのである。ちなみに個別具体的な固有名詞はあえて挙げないが、加藤代議士と行動を共にして本会議を欠席した若手代議士たちの中には安倍政権下で「大抜擢」されている政治家は驚くぐらい多くいるのである。いずれにしても、いわゆる「政治学」の「合理的説明」では、当選1・2回の代議士たちの「昇進モチベーション」を説明していないという致命的な欠陥があるということになる。
 
 まだまだ他にも問題点を指摘することはできるが、「再選モチベーション」と「昇進モチベーション」などによる「合理的説明」は都合の良い部分だけを「合理的」に選んで自己中心的な比較をしているということが賢明な読者にはよく分かってもらえたはずである。中学理科でやった「対照実験」のような考え方を少し意識するだけでも「もっともらしい珍妙な主張」に全く説得力がないということを多くの人たちに分かりやすい形で示すことができるのである。
 
 ちなみに首相就任前と就任後で「政治家・小泉純一郎」の主張は変化したのかどうかを明らかにする場合にも「対照実験」のような考え方が大いに役立つということは既に説明している通りである(→参考:第6回(2006/8/22号))。いずれにしても高校でも理科をそれなりに勉強していさえすれば、「対照実験」のような考え方が理解できなくなってしまうことだけはさすがにないはずである。


「瀬戸際政策」などというもの
 
 さらに「ミクロ」からもっと「マクロ」の側に視野を広げ、「理論と称するもの」に強くこだわって現実を直視しない具体例に「心理学的アプローチ」と「ベン図の話」を適用する有効性について説明していくことにしよう。
 
 とうとう北朝鮮は地下核実験実施を発表した(2006/10/9)。以前(→第6回(2006/8/22号)etc.)の繰り返しになるが、「心理学的アプローチ」を採用すると、北朝鮮による一連の「瀬戸際政策」は、ルールを破ってでもとにかく目的を達成しようとする不適切な「問題行動」や「逸脱」(→前述の(3)の場合)と考えることができるのである。そして北朝鮮などが核兵器や弾道ミサイルを開発・保有しようとすることは心理学の「同一化(identification)」や「取り入れ」などの用語で上手く説明することができる。つまり核兵器や弾道ミサイルなどを開発・保有して米国のような軍事大国と「そっくり」になれば自分たちも米国などと対等になれるなどと強く思い込んでいると解釈することができるのである。
 
 繰り返しになるが、だからこそ国際社会は、「瀬戸際政策」が目的達成には全くつながらない完全に間違った方法であるということを一切の誤解の余地を残さないような明確な形で北朝鮮側に示す必要があるはずである。韓国や中国やロシアなどだけではなく、かつての米国や日本を含めた国際社会のこれまでのいくつかの行動が北朝鮮側に大きな誤解を与えてしまった可能性がある。もしも北朝鮮が不適切な「問題行動」が問題解決につながる方法であるなどとさらに間違った「学習」をしてしまうと今後も何度でも「瀬戸際政策」を繰り返すようになるだろう。「瀬戸際政策」というものが完全な間違いであるということを北朝鮮に正しく「学習」させることに失敗すると、北朝鮮問題の解決は事実上不可能になってしまう。
 
 北朝鮮の意図の分析には「心理学的アプローチ」が大いに役立つと考えている。だが、北朝鮮が引き起こした深刻な事態の分析には「新しい国際政治学」や「新しい国際法」の方がずっと役に立つことになるのかもしれない。現時点においても「人道的介入(humanitarian intervention)」という事態の発生の可能性も真剣に考え始めなければならなくなってきている。以前から何度も繰り返しているように、筆者としては北朝鮮にいる日本人拉致被害者を含めた末端の一人ひとりの存在を決して忘れることはない。
 
 さらに北朝鮮には少し前の「ベン図の話」で触れた「トレードオフ」の関係を正しく「学習」させる必要もある。もちろん理想と現実の間の大きなギャップは残るが、それでもやはり「犯罪組織」と「主権国家」の間は「トレードオフ」の関係にある(→参考:第3回(2006/2/21号)etc.)。また「核保有」と「安全の保証」、「核保有」と「経済発展」、「核保有」と「政権維持」、さらには「人権蹂躙」と「安全の保証」、「人権蹂躙」と「経済発展」、「人権蹂躙」と「政権維持」などはすべて同時には成り立たないということを北朝鮮に正しく「学習」させる必要がある。国際社会は一切の誤解の余地を残さない形で「犯罪組織」と「主権国家」、「核保有」と「安全の保証」などはすべて「トレードオフ」の関係にあり、「ナローパス」の関係に変わる可能性は完全にゼロであるということを北朝鮮に明確に示す必要がある。「核放棄」をしなければ何も始まらず、逆にすべてが終わってしまうということ、さらには「人権蹂躙」を繰り返せばやがてすべてが終わってしまうということを北朝鮮に正しく「学習」させなければならないのである。
 
 確かに核問題は基本的には「交渉」を含めた外交的手段によって解決されるべきである。だが、核開発や核兵器は断じて交渉の材料ではないのである。「あなたやあなたにとって大切な人たちの生命や財産に危害を加えたり脅威を与えない代わりに私たちの要求を受け入れてください」という類のことが本当に「交渉」なのだろうか。「交渉とは何か」ということを一歩踏み込んで深く考えてみる必要があるのかもしれない。国際社会は核開発や核兵器をかけひきに使うようないかなる「組織」とも共存することはできないはずである。そして北朝鮮が間違った「学習」を繰り返すということは、そんな北朝鮮を見て間違った「学習」をする国家や「組織」が新たに出てくるということにもつながるはずである。
 
北朝鮮は正しく「学習」したのか
 
 米国、中国、北朝鮮の外交官が北京で非公式協議を行い、北朝鮮の核問題などを協議する6カ国協議を再開することで合意した(→2006/10/31。米国のヒル国務次官補、中国の武大偉外務次官、北朝鮮の金桂冠外務次官が非公式協議。前回(2005/11/9-11)から約1年ぶりに再会へ。北朝鮮は6カ国協議復帰に条件をつけず、また北朝鮮の核開発計画放棄などを定めた2005年9月の共同声明を履行する意思を示す?)。だが、6カ国協議再開の日程は約1カ月が経過した現時点(2006/11/30)になっても決まっていない(→中国・北京で行われた米国・中国・北朝鮮の事前接触は再開日程も決定できず事実上の成果なしに終了(11/28-29))。いずれにしても6カ国協議関連の動きは北朝鮮が正しく「学習」したのかどうかを確認するための良い機会と考えることができる。
 
 言うまでもなく、北朝鮮に対するすべての「圧力」と国連安保理決議に基づく経済制裁は6カ国協議再開関連の動きとは全く無関係に継続していく必要がある。そもそも2005年9月の6カ国協議の共同声明(2005/9/19)には「6カ国は、その関係において、国連憲章の目的及び原則、並びに、国際関係について認められた規範を順守することを約束した」などと書かれているはずである。「圧力」や経済制裁の緩和などの検討を開始する必要性が出てくるのは、北朝鮮が実際に6カ国協議に復帰して共同声明などを無条件で完全履行するということを明確に約束し、さらに地下核実験実施以前の共同声明が出された時点の状態に戻すために必要なすべてのことに北朝鮮が実際に着手した段階になってからであると筆者は考えている。
 
 また6カ国協議の共同声明には「北朝鮮は、すべての核兵器及び既存の核計画を放棄すること、核拡散防止条約(NPT)及び国際原子力機関(IAEA)の保障措置に早期に復帰することを約束した。 米国は、朝鮮半島において核兵器を有しないこと、北朝鮮に対して核兵器または通常兵器による攻撃または侵略を行う意図を有しないことを確認した」などと書かれている。要するに、北朝鮮は核兵器を保有しても絶対に安全は約束されないのである。むしろ逆にすべての核兵器や核開発計画を完全に放棄することが北朝鮮の安全を保証することになるし、そう遠くない将来の国連安保理決議に基づく経済制裁などの緩和にもつながるのである。
 
 さらに言えば、北朝鮮が偽ドル製造などの不法行為を行っているから米国などが金融制裁を実施しているのである。従って北朝鮮が金融制裁の緩和などを望むのならば、北朝鮮がすべての不法行為から完全に手を引かなければならないはずである。もちろん国際社会に対して透明性を確保した上ですべての実行犯や責任者を厳しく処罰することも必要不可欠である。因果関係は正確に理解する必要があるのである。そのことも北朝鮮に誤解の余地のないように正しく「学習」させる必要がある。
 
 このまま北朝鮮が様々な条件を付けながら6カ国協議の早期再開を渋り続けたり、あるいは、6カ国協議に復帰しても核保有を既成事実化するようなことがあるのならば、国際社会はさらに強い「圧力」を加えてでも北朝鮮に正しく「学習」させなければならなくなる。現時点では北朝鮮がとんでもない勘違いをしているのかどうかはまだ正確には判断できないが、いずれにしても国際社会は今度こそ北朝鮮に正しく「学習」させなければならないと筆者は考えている。
 
「太陽政策と称するもの」
 
 「北風と太陽がどちらが強いかで言い争いをした。道行く人の服を脱がせた方を勝ちにすることにして、北風から始めた。強く吹きつけたところ、男がしっかりと着物を押さえるので、北風は一層勢いを強めた。男はしかし、寒さに参れば参るほど重ねて服を着こむばかりで、北風もついに疲れ果て、太陽に番を譲った。 太陽は、はじめ穏やかに照りつけたが、男が余分の着物を脱ぐのを見ながら、だんだん熱を強めていくと、男はついに暑さに耐えかねて、傍(かたわら)に川の流れるのを幸い、素っ裸になるや、水浴びをしにとんで行った。 説得が強制よりも有効なことが多い、とこの話は説き明かしている」
(「北風と太陽」。イソップ寓話集、中務哲郎訳、岩波文庫(赤103-1)、1999年、p55-56から)
 
 「(前略)…私はこの場で北韓(筆者注:北朝鮮)に対し、当面している三原則を明かしたいと思います。 第一に、どんな武装挑発にも決して惑わされません。 第二に、私たちは北韓に害を及ぼしたり吸収するような考えはありません。 第三に、南北間の和解と協力を可能な分野から積極的に推進していきます。 南北間で交流協力が成し遂げられた場合、私たちは北韓が米国、日本など私たちの友邦国家や国際機構と交流協力を推進するのであればこれを支援する用意があります…(後略)」(1998/2/25の金大中大統領就任演説。「金大中自伝」(金大中著、金淳鎬訳、千早書房、2000年)の「資料」p282-283からの引用)
 「(前略)…私は大統領に就任して以来、なおも開放と変化をためらっている北に対して、三つの原則を提示しました。 第一、北の武力挑発を絶対に許さない。第二、われわれも北を害したり、吸収統一を追究しない。第三、南北が和解協力しよう、ということです。これがすなわち、われわれが追究する太陽政策の核心であり、冷戦を終息させるための主張です。われわれは確固たる安保を維持するが、それはあくまでも平和と和解、協力が目的です。 このような太陽政策に基づいて、われわれは北に三つの保障をしています。第一、われわれは北の安全を保障する。第二、北の経済回復を助ける。第三、北の国際的進出に協力する。その代わり、北も三つの保障をしなければならないと主張しています。第一、南に対する武力挑発を絶対に放棄しなければならない。第二、核兵器放棄に対する約束を守らなければならない。第三、長距離ミサイルに対する野望を捨てなければならないということです。これは、与えるものは与え、受け取るものは受け取ろうという相互主義に立脚した包括的なアプローチ方案です。われわれはこれを韓・米・日の三国の緊密な協調のもとで北に提示しました。こうした提案は北にも助けになり、われわれにも利益になるwin-win政策なのです…(後略)」(2000/3/9の金大中大統領のベルリン自由大学での演説。「金大中自伝」の「資料」p289-290から引用)
 
 いったいいつから「太陽政策(融和政策、包容政策とも)」には原則が完全になくなってしまったのだろうか。今現在の「太陽政策(融和政策、包容政策とも)と称するもの」では援助が目的達成のための手段ではなく、援助自体が目的になってしまっている。いくら「北風と太陽」というイソップのお話から得られた「説得が強制よりも有効なことが多い」という「教訓」を強く思い込んでみても現実は全く変わらないのである。「根拠のない強い思い込み」は「信念」とは別物である。
 
 現実を直視しようともしない「太陽政策(融和政策、包容政策とも)と称するもの」は有害無益の根拠のない強い思い込みに過ぎない。例えば、どんなに強く太陽が照らしたとしても、最初から「王様」が裸であるのならば何も脱ぐことはできないはずである。あるいは、もしも「裸の王様」だったら「愚か者には見えない服」を次々と脱いでいくのかもしれない。だが、そういうことになるのならば、たとえどんなに長く強く太陽が照らし続けたとしても、「裸の王様」は「愚か者には見えない服」を永遠に次々と脱ぎ続けていくだけの結果に終わってしまうはずである。
 
 国際社会でも今は「冬」である。「裸の王様」は「愚か者には見えない服」をたくさん着込んで暖かそうにしているが、そのうち何度も「北風」が吹いてくるはずである。季節外れの太陽が強く照らすことは逆効果である。要するに、今現在は「圧力が説得よりも有効」ということなのである。現実はあるがままに受け止めるべきである。


 やはり前回以降の日本の政治関連の出来事にも簡単に触れざるを得ないのだろう。ちなみに今後も「スピンオフ」を発行することがあるのかないのか、また今回ほとんどコメントせずに切り捨てた出来事の「復党」を1年以内に認めて「スピンオフ」などとして採用することがあるのかないのかについてもあえて触れないでおくことにする。
 
「外遊」についてはコメントせず
 
 安倍晋三首相は初めての外遊先となる中国・北京を訪問し、胡錦濤国家主席らと会談した(→2006/10/8。日中両国は「戦略的互恵関係」の構築で合意、北朝鮮の核実験阻止などでの協力でも一致。共同文書「日中共同プレス発表」を発表。焦点の1つだった靖国問題はあいまいな決着? そして安倍首相は同日夜に記者会見。なお中国側の重要行事である共産党中央委員会総会が開かれる中、安倍首相は胡国家主席に加え、温家宝首相、呉邦国全国人民代表大会常務委員長(→国会議長に相当)とも会談)。
 
 また安倍首相は韓国・ソウルを訪問して盧武鉉大統領と会談した(→2006/10/9。安倍首相が中国から韓国への移動中に北朝鮮の地下核実験実施が発表されたため、日韓首脳会談では北朝鮮の核実験実施発表関連の事項に多くの時間が割かれる。日韓両国は北朝鮮の核実験実施を重大な脅威との認識で一致。安倍首相は会談終了後に記者会見、そして帰国(→なお帰国直前に安倍首相は米国のブッシュ大統領と電話協議)。
 
 さらに安倍首相はアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議(11/18-19)出席などのためにベトナム・ハノイを訪問した(→11/17-20。11/18には安倍首相は米国のブッシュ大統領と初めての日米首脳会談、また安倍首相はロシアのプーチン大統領とも初会談、中国の胡錦濤国家主席らとは2度目の会談など。11/20にはハノイで内外記者会見、そして帰国)。
 
 今回の「スピンオフ」では安倍首相の「外遊」については完全に切り捨て、あえて何もコメントしないことにする。
 
今度こそ北朝鮮に正しく「学習」をさせる必要がある
 
 北朝鮮が地下核実験実施を発表した(→2006/10/9。<事実関係など>朝鮮中央通信が「10/9に安全な環境の下で地下核実験を成功裏に実施」などと伝える。10/9,AM10:35頃に実施か。核実験としては小規模との見方も。日本の気象庁も10/9AM10:35頃に人工的と見られる地震波を観測(→震源は北朝鮮北東部の北緯41.2、東経129.3、M4.9、震源の深さは不明)。中国は北朝鮮を厳しく非難する声明を発表、また北朝鮮から核実験実施の事前通告を受けて北京の日米韓の大使館にも伝えていたという)。なお北朝鮮は核実験実施を予告(→2006/10/3。北朝鮮は2005年2月に核保有宣言済み)、これを受けて国連安保理は北朝鮮に警告する議長声明を全会一致で採択していた(→2006/10/6(日本時間10/7未明)。なお議長国は日本)。
 
 日本政府は北朝鮮の核実験実施発表を受けて日本独自の追加制裁を決定・実施した(→2006/10/11決定。(1)すべての北朝鮮籍船の入港を禁止(10/14から)、(2)北朝鮮からのすべての品目の輸入を禁止(10/14から)、(3)北朝鮮籍を有する者の入国は特別の事情がない限り認めない(→10/11即日実施。ただし在日の北朝鮮当局の職員以外の者の再入国は除く)、など。10/13の閣議で正式決定、6カ月の期限付きで発動。なお2006/7/5にはミサイル発射を受けた制裁、2006/9/19には金融制裁)。
 
 国連安保理は対北朝鮮制裁決議を全会一致で採択した(→2006/10/14(日本時間10/15未明)。安保理決議1718(2006)。制裁は全加盟国に拘束力のある国連憲章第7章、そして非軍事的措置を定めた同章41条に基づくと。北朝鮮の核・ミサイル開発関連の金融資産凍結、船舶などの貨物検査を含む内容)。なお米国は北朝鮮の地下核実験実施を公式確認した(→2006/10/16。大気中の放射性物質の分析から。爆発規模はTNT火薬換算で1キロトン以下、詳細は不明。実験は失敗か?。なお日本政府も10/27に核実験実施を事実上確認)。
 
 北朝鮮の核実験実施を受けて各国の外交が活発化した。中国の胡国家主席の特使として唐国務委員が米国(→2006/10/12にライス国務長官らと会談。ブッシュ大統領とも会談したという)、ロシア(2006/10/13)を訪問した。そして唐国務委員は北朝鮮を訪問して金正日総書記と会談した(2006/10/19)。中国の胡国家主席は中国を訪問した韓国の盧武鉉大統領と会談した(2006/10/13)。
 
 米国のライス国務長官は北朝鮮の地下核実験実施を受けて日本(→2006/10/18に麻生太郎外相、10/19には安倍首相と会談)、韓国(→10/19に潘基文外交通商相と米韓外相会談。麻生外相も加わってソウルで日米韓外相会談も)、中国(→10/20に胡国家主席、唐国務委員、温家宝首相と相次いで会談)、ロシア(→10/21にプーチン大統領やラブロフ外相と会談。なおロシア側は会談をマスコミに完全に非公開に)を訪問した。
 
 そして米国、中国、北朝鮮の外交官が北京で非公式協議を行い、北朝鮮の核問題などを協議する6カ国協議を近く再開することで合意した(→2006/10/31。米国のヒル国務次官補、中国の武大偉外務次官、北朝鮮の金桂冠外務次官が非公式協議。前回(2005/11/9-11)から約1年ぶりに再会へ。北朝鮮は6カ国協議復帰に条件をつけず、また北朝鮮の核開発計画放棄などを定めた2005年9月の共同声明を履行する意思を示す?)。だが、6カ国協議再開の日程は約1カ月が経過した現時点(2006/11/30)になっても決まっていない(→中国・北京で行われた米国・中国・北朝鮮の事前接触は再開日程も決定できず事実上の成果なしに終了(11/28-29))。
 
 なお米財務省は北朝鮮が国家的に精巧な偽造・米ドル札(スーパーノート)の製造・流通に関与していることを議会の報告書で明らかにした(→2006/10/25。米政府が北朝鮮の偽ドル製造関与を公式に確認するのは初めて。これまでに5000万ドル(約60億円)分を押収し、2200万ドル(約26億円)が市中に流通しているという)。
 
 また警察庁などは曽我ひとみさんと母親のミヨシさんを拉致した国外移送目的略取と国外移送の疑いで北朝鮮の女工作員(→「キム・ミョンスク」。氏名・年齢不詳。なお弟は北朝鮮の有名バイオリニストだという)の逮捕状を取って国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際手配した(2006/11/2)。政府は北朝鮮に対する「ぜいたく品」の輸出禁止を閣議了解した(→2006/11/14。2006/10/15の国連安保理決議1718に基づく。乗用車、酒、タバコ、牛肉、マグロの切り身など24品目)。さらに政府は松本京子さん(→1977年に鳥取県米子市で失跡。29歳(当時))を拉致被害者支援法に基づく北朝鮮による拉致被害者と認定した(→2006/11/20。政府による拉致被害者の認定は17人目。中国・北京の大使館ルートを通じて北朝鮮に真相究明や即時帰国などを求める)。
 
 今度こそ北朝鮮に正しく「学習」をさせる必要があるなどという何度も繰り返しているコメントをあえて繰り返すだけにとどめておくことにする。
 
現実をありのままに重く受け止める必要
 
 米中間選挙(11/7投・開票)で民主党が勝利し(→民主党は上下両院で過半数を確保)、ブッシュ大統領はラムズフェルド国防長官の辞任を発表した(→11/8(日本時間11/9未明)。後任には元CIA長官のロバート・ゲーツ氏を起用へ)。またイラクでは200人以上が死亡したバグダッドのサドルシティーでの連続爆弾テロ(2006/11/23)をきっかけにスンニ派とシーア派の報復の応酬が続いている。そして米国のブッシュ米大統領がヨルダン・アンマンでイラクのマリキ首相と会談した(2006/11/30)。なおイラク高等法廷は人道に対する罪などに問われた元大統領のサダム・フセイン被告(69歳)に死刑判決を言い渡した(→2006/11/5。1982年にイラク中部ドゥジャイル村でイスラム教シーア派住民148人を殺害したなどの罪)。
 
 米中間選挙はまるで「イラク問題でブッシュ大統領を支持するか、支持しないか」が単一争点になってしまったかのような印象を受けてしまうが、米国国民の選択についてはとやかく言うつもりはない。いずれにしてもイラクは事実上の「内戦状態」になっているという現実をありのままに重く受け止める必要がある。
 
 なおあくまでも念のために言っておくが、「かつて実在したある政権」のように様々な形で日米同盟の信頼性を大きく低下させたり、あるいは、北朝鮮に間違ったメッセージを発信して間違った「学習」をさせたりするような危険性だけはなんとかゼロに抑えてもらいたいものだと心から願っている。現時点で「かつて実在したある政権」のような失敗を繰り返してしまうと致命的な事態に発展してしまうかもしれない。北朝鮮問題でも現実をありのままに重く受け止める必要がある。
 
 その他の注目すべき国際社会の動きにもあえてコメント抜きで触れておくことにする。韓国の潘基文外交通商相が次期国連事務総長に当選することがほぼ確実な情勢になり(→2003/10/3。国連安保理での投票で15カ国中5常任理事国を含む14カ国の賛成)、そして国連総会で次期事務総長への就任が全会一致で決まった(→2006/10/13。2005年末で任期切れとなるアナン事務総長の後任の第8代事務総長に。任期は5年。アジアからはウ・タント氏(1961-1971年、ビルマ(当時))に次いで2人目、東アジアからは初)。
 なおノルウェーのノーベル賞委員会は2006年のノーベル平和賞をバングラデシュの「グラミン銀行」(→農村の女性に無担保で少額の信用貸し付け、など)と創設者で同行総裁のムハマド・ユヌス氏に授与すると発表した(2006/10/13)。
 ミャンマーを訪問した国連のガンバリ事務次長(政治局長)はヤンゴンで自宅軟禁中の民主化運動指導者のアウン・サン・スー・チー氏と面会した(2006/11/11)。
 
「小泉新党」はほぼ完全に消滅
 
 衆院統一補選の投・開票が行われ自民が2勝した(→2006/10/22。衆院神奈川16区(投票率47.16%(2005年総選挙は64.77%)と衆院大阪9区(投票率52.15%(同67.56%)。なおいずれも自民現職代議士の死去に伴う補選)。また安倍首相は郵政造反無所属代議士が復党願を提出したことを受けて復党願と誓約書を提出した11人の復党を認める考えを示した(→2006/11/27。11人は復党へ。2005年総選挙後も郵政民営化法案に反対し、また誓約書を提出しなかった平沼赳夫代議士の復党は認められない見通し)。
 
 やはり補選は「コップの中の半分の水」(→参考:第7回(2006/10/2))だったということ、そして2005年総選挙で誕生したと筆者が仮定した「小泉新党」はほぼ完全に消滅したということだけをあえて指摘しておくことにする。なお安倍首相が郵政造反組の自民復党問題で判断を致命的に間違ったのかどうか、またこのままでは参院選や次期総選挙で自民党は「小泉新党」を敵に回すことになるのかどうかについてはあえてコメントしないでおくことにする。
 
 また安倍首相と民主党の小沢一郎代表による党首討論も行われた(→2006/10/18と2006/11/8に)。安倍内閣は教育再生会議を設置した(→2006/10/10閣議決定。初会合は10/18)。そして教育基本法改正案が衆院を通過した(2006/11/16)。さらにはタウンミーティングでの「やらせ質問」問題の波紋も広がっている。
 
 民主党は「デマゴーグ」量産政策、「煽動政治」依存体質(→参考:第7回(2006/10/2号)etc.)から脱却しなければ未来はないはずだが、どういうわけか逆方向に向かっている。なお教育基本法改正案の審議や一連の「教育問題」に関連した動きについてはコメントしないでおくことにする。
 
「確かな道」
 
 人類が長い歴史の中で少しずつ蓄積してきた様々な知的資産は、多くの先人が歩んできた「確かな道」を示した地図のようなものであると筆者は考えている。もちろん現実の世界ではいくら「地図」通りに正確に進んだとしても至る所に様々な「障害」が新しくできる可能性があるから、実際には「障害」を避けたり乗り越えたりしていかないと「確かな道」を進むことができない場合も多いのである。
 
 また大きな「障害」もなしに順調に進んで行くことができたとしても、「地図」には途中までしか「確かな道」は示されていないから、ある段階に到達した後は必ず自分自身で新しい道を切り開いていかなければならなくなるのである。そして「地図」に示された「確かな道」を進んできた多くの人たちが誰かが新しくつくった道を進んでいくようになればその新しい道はやがて「新しい確かな道」になっていくのである。
 
 たとえ全く同じ道であったとしても、遠回りをしてきた人たちにとっては「長くて険しい道」だったと感じるかもしれないし、あるいは何度も危険な目に遭ってきた人たちにとっては「崖の近くの細い道」だったと感じるのかもしれない。だが、同じように「地図」を頼りに進んできたのならば、それでもやはり「確かな道」であったということだけは間違いのない事実なのである。
 
 繰り返すが、人類が長い歴史の中で少しずつ蓄積してきた様々な知的資産は、多くの先人が歩んできた「確かな道」を示した地図のようなものであると筆者は考えている。筆者が今、「何のために勉強するのか」と問われたならば、「手探りで『確かな道』を進みながら、その先に『新たな確かな道』をつくっていくため」と答えることにしておく。
 
 季節は巡って再び「アルティメット・クラッシュ(ULTIMATE CRUSH)」(→参考:第2回(2006/2/8)etc.)の季節になっている。今シーズンは様々な意味で「北風」も強まって昨シーズンよりも「壮絶な戦い」になるのかもしれない。そしてひょっとしたら来シーズンは様々な意味で「北風」がさらに強まって今シーズンよりもずっと「凄惨な戦い」になるのかもしれない。

<< 完 >>


正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)

「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)

「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)

「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)


サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)


事実はテレビや新聞よりも奇なり -「小泉新党」から政局が見えてくる- (2005/10/18)

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (2/8) 「ルール」はかなり以前から変わっていた

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (3/8) 「マニフェスト(政権公約)選挙」

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (4/8) 「壁」を破った自民と「壁」が迫ってきた民主

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (5/8) 「あと1年」のために必要なこと

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (6/8) 「小泉新党」から今後の政局が見えてくる

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (7/8) 「こんにちは前原誠司」で良かったのか

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (8/8) 「自動安定化装置」としての「大連立」構想

(参考)前回からの動き(2005/8/27-10/17)


この選挙はどのような意味を持つことになるのか(2005/8/26)

 (参考)前回からの動き(2005/6/27-8/26)


日本は「民主主義立国」になることができるのか(2005/6/27)

 (参考)前回からの動き(2005/5/12-6/26)

「新しい公共財」の創造(2005/5/17)

「泥仕合」や「茶番劇」のあと(2005/5/11)

 (参考)前回からの動き(2005/2/9-5/11)


「カルトからの自由」の実現に必要不可欠な挙証責任(2005/2/9)

 (参考)前回からの動き(2004/12/25-2005/2/9)


複数の視点は「連鎖」の理解にも必要不可欠(2004/12/25)

  (参考)主な動き(2004/9/21-2004/12/24)


現実政治の問題解決に必要不可欠な複数の視点(2004/9/21)


永田町も国際社会も相変わらず「異常なし」(2004/6/22)


正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23)


「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (補足(2004/1/12))

「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5)

(参考) 2003年後半の海外の動き


(2003年総選挙特集)

「壁」を打ち破るためには(2003/12/8)


 最近の日本の政治情勢について(2003年)

 最近の日本の政治情勢について(2002年)

▽参考:日本の政治


編集・発行:http://www.jchiba.net/、筆者:千葉 潤、ご意見など:jchiba@tokyo.email.ne.jp


 当ホームページについてのご意見、ご感想、反論などは、jchiba@tokyo.email.ne.jp まで電子メールをお送りください。なお当ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての著作権はJCATSニュースに帰属します。

    Copyright1997-2006 Jcats-news. No reproduction or republication without written permission..