政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。
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購読料について(2006年版) (2006/12/28更新)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)
○「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)
○「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)
○「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)
○サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)
前回(2006/8/22(第6回))からの続きである。自民党総裁選は最終的には「政策論争」という形で無事に終わったし、民主党代表選も無投票再選という形で無事に終わった。第165臨時国会が召集され(→2006/9/26。会期は12/15までの81日間)、5年5カ月間続いた小泉純一郎内閣が総辞職(→2001/4/26から2006/9/26まで。在任1980日、戦後歴代3位)し、自民党新総裁に選出(2006/9/20)された安倍晋三氏が新首相に指名されて安倍内閣が発足した(2006/9/26)。そして安倍首相は衆院本会議などで所信表明演説を行った(2006/9/29)。
賢明な読者は気づいているかもしれないが、実はここまでのわずか数行を前回の文章の末尾に付け加えれば「最終回」になっていたのである。
今回の文章は、「政策論争」を簡単に振り返ったり、今後の国会での与野党の論戦の持つ意味を考えるために必要なことを簡単にまとめたりする「次回作の予告編」になっている。なおくどいようだが、現時点でも「最終回」を発行するのかしないのか、あるいは、既に発行したのかしていないのかについて明らかにしないでおくことにする。
それではさっそく前回から安倍晋三内閣誕生までの動きを振り返っていくことにする。
演説の「底力」と本物の「政策論争」の価値
自民党総裁選が告示(2006/9/8)され、安倍晋三官房長官(当時)、谷垣禎一財務相(当時)、麻生太郎外相の3氏が立候補、テレビ出演や街頭演説(→例えば、JR秋葉原駅電気街口前(2006/9/9)など)
や公開討論会(→例えば、日本記者クラブ主催の公開討論会(2006/9/11)、など)などを活発に行った。
自民党総裁選は最終的には「政策論争」という形で無事に終わった。そして安倍首相に敗北した麻生外相(安倍内閣でも再任)と谷垣前財務相は得票数よりもむしろ「政策論争」で健闘したと筆者は考えている。ここでは「再チャレンジ」支援策とは全く無関係にあえて「負け組」の発言だけを取り上げておくことにしよう。
「麻生太郎です。三番目になったんで、だいたい似たような話するだろうと思って…。疲れるよね、これだけ立ってると。上に立っている我々も疲れますから、たぶん同じように疲れていると思う。まず、秋葉原駅前の皆さん、そして自称・秋葉原オタクの皆さん…(後略)」「(前略)…ジェー・ファッション(J−Fashion)、ジェー・ポップ(J−POP)、そしてジャパニメーション(→Japan+Animation)というスリー・ジェイ(3J)。これらは明らかに日本が作り上げたブランドですよ。日本というイメージは、歌舞伎とか能とか、思ってるんじゃない? だいたい自分でもあんまり分からないんだから。人様がそんなに簡単に分かるはずはない。サブカルチャーと言われたこういった世界の方がよっぽど日本のイメージとして、強くアジアの世界に延びているという事実を我々自身が知っておかねばならん…(後略)」(以上、2006/9/9の東京・秋葉原駅前での自民党総裁選街頭演説会における麻生太郎外相(安倍内閣でも再任)の演説から)
麻生外相は、街頭演説などを通じて政治家の演説の「底力」を示し、日本の新しい文化が持っている「ソフト・パワー」にもあえてスポットライトを当てていたことが高く評価できる。政治でも政治ジャーナリズムでもウソではない言葉の力はやはり大きいのである。
「(前略)…スウェーデンは高福祉・高負担であります。アメリカは低福祉・低負担であります。日本は何か。日本は中福祉・低負担である。このアンバランスに日本の社会保障の問題があります。だから若い人たちに何か不公平感があって、若い人たちが先行きを暗いものに思う。こういうことがあります。私はこれを放っておいていいとは思いません。だから私は消費税は10%は必要だということを申し上げて、みんなで若い人たちにツケを先送りしないで、みんなでこの大事な社会保障を支え合う仕組みを作らなければいけないと申し上げているんです。そういう基礎の上に立って、更なる社会保障の改革をもっともっと具体的に詰めていかなければならないと私は思います…(後略)」(2006/9/9の東京・秋葉原駅前での自民党総裁選街頭演説会における谷垣禎一財務相(当時)の演説から)
また谷垣前財務相は、あえて消費税引き上げを明言するなどして本物の「政策論争」の価値を多くの人たちに再認識させたことが高く評価できる。永田町周辺では有権者にあえて厳しいことを訴えるようなことは非常に評判が悪いのである。だが、永田町周辺ではすっかり忘れ去られているが、(旧)民主党の鳩山由紀夫代表(当時)が2000年総選挙で財政赤字の深刻さを強調し、公共事業の見直しや所得税の課税最低限引き下げなどの「苦い薬」の必要性を訴えて都市部を中心に躍進したという実例もあるのである。もちろん森喜朗首相(当時)のいわゆる「神の国」発言や「寝ててくれればいい」発言などの影響もあったのだろうが、それでもやはり(旧)民主党が「苦い薬」の必要性を訴えて都市部を中心に躍進したということは事実なのである。
ちなみに総裁選が「政策論争」になったのは、実家を放火(2006/8/15)された後も政治家としての義務を果たし続ける加藤紘一元自民党幹事長とは全くの別人である「よこしまな政治家たち」の口車に乗り、彼らの「DNA」を撒き散らすような候補者が一人も出てこなかったからであるということもあえて指摘しておく必要があるのだろう。
「深さ」が足りなかった教育問題
また自民党総裁選では教育問題も主要なテーマの1つになっていたが、残念ながら議論はあまり深まることなく、物足りないままで終わってしまった。
「(前略)…公教育が上手くなくて、私学にいかなきゃいけないとか、ダブルスクールっていうのは、子育ての負担を高めますから。そのためにも公教育、再生しなきゃいけないと思うんです。問題は、そこに競争原理をどこまで入れるかということだと思います。私は大学はもっと競争原理も入れてですね、国際競争力を高めることが必要だと思いますが、義務教育、特に小学校は、競争原理を入れるというよりも、やっぱり地域の小学校として、地域の人たちが参加して、地域のまなざしで子どもたちが育っていくと。そういうことを考えなきゃいけないと思うんです。あのバウチャーっていう議論がありますが、要するに、その、いわば教育券みたいなのを、あの…、子ども、あるいは親に配ってですね…。学校を選択する…。それはやはり地域間格差とか、学校間格差を生んで格差を固定するものではないかと…(後略)」(2006/9/17放送のNHK「日曜討論」における谷垣禎一財務相(当時)の発言から)
「(前略)…普通は家庭教育において、しつけとか、マナーとか、お箸の持ち方、きちんと家庭で教えてもらう。それが期待できないというんであれば、それは学校でやる。しかもなるべく早くやらねばならんとなると、いわゆる義務教育の前倒しというのも一つの手段ではないかと申し上げました」(2006/9/17放送のNHK「日曜討論」における麻生太郎外相(安倍内閣でも再任)の発言から)
いわゆる「バウチャー」とか「教育利用券」を「国による一人ひとりの子どもに対する最低限の財源上の保障」という側面から捉えた場合には、どんなに少なくとも全体的な教育環境の向上につながる可能性までをも完全に否定するようなことはできなくなるはずである。もしも一定規模の地域に最低でも1つの公立学校が維持されるように制度を設計した上で公立学校全体の教育環境を確実に底上げしていくことができるのならば、高い学費を徴収するような私立学校は生き残りのために教育環境をより良くしていく努力をせざるを得なくなるはずである。いわゆる「バウチャー」とか「教育利用券」が「地域間格差」や「学校間格差」を生じさせたり格差を固定化させたりするものになるかどうかということは基本的には制度設計の問題であると筆者は考えている。
しつけやマナーを教育するために義務教育を前倒しするという考え方には疑問を感じるが、実は筆者も数年前から義務教育開始年齢の低年齢化を真剣に検討する必要があるのではないかと考えている。筆者がそのように考えている理由は主に少子化対策を含めた子育て支援策としての必要性からである。もちろん財源をどうするのかという非常に重要な問題は残るわけだが、最も極端な場合には義務教育開始年齢の低年齢化によって「待機児童」の問題を将来に渡って完全に解消することも不可能ではなくなるのである。
例えば、「義務教育」とは言っても、週1回程度、1日24時間の中でいつでも好きな時間を選んで子どもを連れて行けばいいというような非常に自由度の高い制度だったらどうなるのだろうか。1年365日24時間いつ行っても開いており、しかも小児科医も常駐しているし、育児の相談も受けられるし、さらに追加の負担をすれば週何回何時間でも子どもを預かってくれるというような場所を「義務教育」の形で整備することはやはり不可能なのだろうか。またバラマキ型の少子化対策などと費用対効果比を比べたらどうなのだろうか。同時に期待できる児童虐待対策としての追加的な効果を考慮に入れたら費用対効果比はどうなるのだろうか。もちろん自宅からあまりにも遠い場所に幼い子どもを連れて行くことは事実上不可能だから一定規模の地域に最低でも1つはそういう場所が必要になるが、その場合には「バウチャー」などの対策と組み合わせれば費用を抑制することができるのかどうか、など…。少子化対策を本気で考えるつもりがあるのならば、義務教育開始年齢の低年齢化の実現可能性や導入する場合の制度の概要を一度ぐらいは真剣に検討してみる必要があるのではないかと筆者は考えている。
もっとも少子化対策については、小泉前内閣時代の少子化対策をあえて100点満点で採点すれば「95点ぐらい」は評価できない部分があったということになってしまうから、これからほんの少しでも意味のある政策を実現すればそれだけで一定の成果が得られるのかもしれない(→参考:2006/8/22(第6回)号)。いずれにしても筆者に言わせれば、自民党総裁選における教育問題や少子化対策の議論には「深さ」が足りなかったということになる。
理解が深まらなかった「再チャレンジ」
自民党総裁選における「政策論争」を通じても「再チャレンジ」政策についての理解が深まることはほとんどなかったと筆者は考えている(→参考:2006/8/22(第6回)号)。
ちなみに念のために、同級生より10歳年上の勉強の苦手なヤクザが年齢をごまかして卒業を目指して高校に通学するという「マイ☆ボス・マイ☆ヒーロー」(日本テレビ系列ドラマ(2006/9/16最終回、放送終了))のような話を前向きに90秒以上考えてみても「再チャレンジ」政策についての理解が深まることは全くなかった。
これからも安倍内閣の「再チャレンジ」政策に便乗した訳の分からない政策や予算要求などが増えてくるのだろう。今後は「再チャレンジ」にはもちろんのこと、そもそも社会でも全く役に立たないものを「便乗販売」するような「魅力的な大学・大学院教育」とは無縁の場所を増やさないように特に注意をする必要があるのかもしれない。
例えば、ある大学・大学院が「4年で大学卒」、「2年で修士号」、「さらに3年で博士号」の資格を取得させるなどという明確な「数値目標」を掲げ、そのための手段として「プロセス管理」を採用することにしたとする。もしも「大学卒」や「修士号」や「博士号」などが「工業製品」のように「完成品」や「欠陥品」についての明確な基準を定めて客観的に判断することができるような性質を持った資格であるのならば、適切な「プロセス管理」を実施することも不可能ではないのだろう。だが、「大学卒」や「修士号」や「博士号」は、「工業製品」のような性質を持たないし、また医師や弁護士の資格などのようにある程度客観的に能力を判断することができるような性質も持たないのである。従って実際には「数値目標」と「プロセス管理」はトレードオフの関係にあると考えておいた方がいいということになる。
つまり一般的には、「大学卒」や「修士号」や「博士号」という肩書きにふさわしいレベルにしようとして「プロセス管理」を徹底させたならば「数値目標」の達成が困難になってくるし、逆に「数値目標」の達成を重視するのならば「プロセス管理」が甘くなったとしても全く不思議ではなくなってくるのである。「数値目標」や「プロセス管理」を導入するような大学・大学院が必ず事実上の「学位工場(diploma
mill)」に堕落するかどうかということは別にしても、少なくとも本当に「魅力的な大学・大学院教育」などが行われている場所かどうかということをよくよく確認しておく必要があるのだろう。言うまでもなく事実上の「学位工場(diploma
mill)」で生産されるような資格は「再チャレンジ」には全く役立たない。
もちろんそもそも「大学卒」や「修士号」や「博士号」にいったいどれだけの高い価値があるのかということも問題になり続けるはずである。言うまでもなく「大学卒」や「修士号」や「博士号」という資格は必ずしも実践的な能力や技術の習得を意味してはいないのである。また仮に大学・大学院に入学する側が実践的な能力や技術を全く問題にしていない場合であったとしても、例えば、いわゆる「政治学(political
pseudoscience(偽科学))」のような「珍妙なもの」をどういうわけか身に付けてしまった場合にはそう遠くないある瞬間に「化けの皮」がはがれて「本物の専門家」ではないとバレてしまうこともあるのである(→参考:2006/2/8(第2回)号etc.)。
いずれにしても新政権が発足しても引き続き「誰のため何のための大学・大学院なのか」という問題や「再チャレンジ」政策の有効性などが問われるということは全く変わらないのである(→参考:2006/8/22(第6回)号etc.)。
小泉内閣の「実績」と「負債」
小泉純一郎前首相は最後の最後まで「外遊」に熱心だった。自民党総裁選前後の小泉前首相時代の大きな動きについても簡単に触れておくことにする。
小泉首相(当時)は中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタン両国を訪問した(→2006/8/28-31。8/28にはカザフスタンのナザルバエフ大統領と首脳会談(→世界第2位の埋蔵量を持つ同国のウラン鉱山開発などでの協力強化を含む共同声明を発表。なおカザフスタン訪問は現職首相としては初)。8/29にはウズベキスタン・タシケントでカリモフ大統領と首脳会談(→小泉首相(当時)は大統領に民主化を促す、共同声明を発表)、8/30にはタシケントの日本人抑留死亡者の慰霊碑に献花、サマルカンドで遺跡などを視察、など)。
また小泉首相(当時)はアジア欧州会議(ASEM)首脳会議出席などのためにフィンランドを訪問した(→9/7-12。9/8にはフィンランドのバンハネン首相と会談(→北朝鮮やイランの核開発問題などでの協力で一致)。9/9にはフィリピンのアロヨ大統領と会談(→フィリピン人看護師と介護士の日本受け入れを含む経済連携協定(EPA)に署名(→シンガポール、メキシコ、マレーシアに次いで4カ国目))。また小泉首相(当時)は9/10のASEM首脳会議前に韓国の盧武鉉大統領、中国の温家宝首相と相次いで短時間の立ち話。ちなみに51回目の外遊)。
秋篠宮妃紀子さまが男子をご出産になった(→2006/9/6。港区の愛育病院で帝王切開でのご出産。皇室では秋篠宮さま以来41年ぶりの男子の誕生。皇位継承順位は皇太子さま、秋篠宮さまに次ぐ第3位に。「命名の儀」(2006/9/12)でお名前は「悠仁(ひさひと)」さまに)ことを受けて皇室典範改正問題は先送りされる方向になっている。ちなみに「ご懐妊」の第一報は衆院予算委の審議の真っ最中だった(→参考:2006/2/8(第2回)号)。時間が経つのは早いものである。
タイでクーデターが発生してタクシン政権が崩壊した(→2006/9/20。クーデターを起こしたソンティ陸軍司令官ら「民主改革評議会」をプミポン国王が承認。10/1に暫定首相にスラユット元陸軍司令官(枢密院議員)を指名・暫定憲法公布(国王も承認)。1年以内に新憲法を制定して総選挙を実施する方向。なお国連総会出席のためニューヨーク訪問中だったタクシン氏は帰国せずにロンドンへ)。
ちなみに郵政民営化総選挙から1年、そして米同時多発テロから5年が経過した(2006/9/11)。
「(就任以来約5年5カ月に渡って日本を良い方向に引っ張ってきたという自信はあるか、に)そうですね。経済の低迷していた時期に総理に就任しましたけども、その頃から国会でも、日本はダメだと、何やってもダメだと…。この景気回復は小泉が退陣しなきゃ無理だと…、言われましたね…。『改革なくして成長なし』じゃないと。公共事業積み上げてね、成長なくして改革なしなんだと。そういう論争を重ねて…、結局、経済も回復してきた。やればできるじゃないかと、意欲も出てきた。『改革なくして成長なし』だなあと。これにも結論が出た…。良かったと思いますね。国民の皆さんの支持があったからだと思ってます」
「(在任中一番辛かったのは、などに)まあいつも緊張と重圧の中でやってきましたから…。これは辛くても当たり前なんだと。天がこの辛さに耐えるように仕向けているんだと。これを乗り越えなければいけないということでやってきましたからね。これ、ある程度、辛いのを覚悟して…、総理大臣になったわけですから…。まあ、これは当たり前だなあと…。辛いと逆にそう思ってやってきましたから。(具体的に思い出す場面はあるか、に)みんなそれぞれね、大事な局面で…。これだっていう…、ことよりも、そういう辛さを乗り越えてきた…。それが良かったと思ってますね」
「(中国・韓国との冷え込んだ関係を次期政権に引き継ぐことになったことに後悔はないか、に)ありませんね。中国とも、韓国との関係も、こういう時期は必要だと思っています。まずね…、私が首脳会談を、中国と韓国と拒否しているんじゃありません。一つの問題があるからといって、首脳会談を行わないのがいいのかどうか…(中略)…私は日中の友好論者ですし、日韓の友好論者で、就任以来、中国とも、韓国とも、交流をあらゆる分野において広げてきています。こういう時期は良かったと思ってます。後で評価されると思います。分かると思います」
「(郵政民営化問題を今振り返ってどんな思いか、に)いや当然のことをやったと私思ってます。郵政民営化は改革の本丸だと言って総理に就任して…、その法案を出して…、国民の支持を受けて成立したと。あるときは非情と言われるかもしれませんけども…。国民全体にとって、これは温情だったと、必要な改革だったと、時間が来れば理解してくれると思ってます」(以上、2006/9/25の小泉純一郎首相(当時)の最後のぶら下がりインタビューから)
現時点ではまだ小泉純一郎内閣の5年5カ月を完全かつ正確に評価することは難しいと筆者は考えている。やはりある程度時間が経たないと見えてこない影響や性質が多く残されていると考えているからである。今回のところは現時点においてもほぼ誰の目にも明らかな形で示されている小泉内閣の「実績」と「負債」をそれぞれ一つずつ指摘しておくことにしよう。
現時点でもハッキリしている小泉内閣の「実績」の1つは、郵政民営化解散・総選挙を通じて選挙で政党や政治家が国民に示した公約は守るべきであるというごく当たり前のことの重要性を改めて多くの人たちに認識させたということである(→参考:2005/10/18号etc.)。確かに郵政民営化の詳細については様々な問題点が残されているとは思っているが、やはりどんなに少なくとも郵政民営化の「政治改革」という側面についてだけは非常に高く評価することができるのである。
そして現時点でもハッキリしている小泉内閣の「負債」の1つは、小泉前首相自身が引き起こして解決できないままで終わった靖国問題である。小泉首相の靖国神社参拝直後のインタビュー(→参考:2006/8/22(第6回)号)を聞いて「そういう話ならばどうしてここまで深刻な問題になったのだろうか」と素朴な疑問を持った人たちも少なくはなかったのかもしれない。靖国問題については今回もあえて付け加えなければならないことはない(→参考:2006/4/17(第4回)号etc.)。ただ、今改めて振り返ってみてもつくづく思うことは、もしも様々な立場の人たちが適切なタイミングに適切な形でメッセージを発信していたならば、靖国問題がここまで深刻な状態にまでは悪化することはほぼ確実になかったであろうということである。
現実政治の問題でも、その他の問題でも、たとえ全く同じ意思を持っていたとしても、適切なタイミングに適切な形でメッセージを発信しなかったり、あるいは、最悪のタイミングで誤解を招く出来事があったりすれば、結果が大きく違ってしまうこともあるのだということを筆者は改めて強く実感している。「結婚できない男」(フジテレビ(関西テレビ)系列ドラマ(2006/9/19最終回、放送終了))の桑野信介のようにいくら誤解を招いたり無神経な言動を何度も繰り返す人間であったとしても、周囲に真意を理解してフォローしてくれる人たちがたくさんいれば何とか上手くいくこともあるのだろう。小泉前首相の場合にはこっそり足を引っ張っていた「自称・側近」がいたのかどうかは定かではないが、結果的には周囲の人たちは「さじを投げた」ような状態だったのである。片方はテレビドラマという架空の世界の話だが、同じようにクラシック音楽が大好きな独身男性でもこれだけ大きく環境が異なっていたわけである。いずれにしても、程度はともかくとしても、小泉内閣の「負債」のために国益が損なわれたことだけは間違いないと筆者は考えている。
さて、話は少し変わる。「長文」については筆者自身も他人のことをとやかく言える立場ではないが、民主党の岡田克也元代表が最初から最後までをすべて読むのはなかなか大変な長さの「小泉政治との5年」(→http://www.katsuya.net/koizumiseiji00.html)という「長文」を書いている。岡田元代表の「長文」をあえてここで取り上げるのは、最近の政治家が書いた文章としては非常に珍しく、ほぼそのままの形でここ数年の日本の政治の「一級資料」として用いることができるレベルの高い内容になっているからである。なお岡田元代表による国会論戦中の小泉首相の観察は実に鋭くて「観察結果」の部分だけでも十分に楽しめる。
いずれにしても真面目に政治家の仕事を続けていれば、たった数年でこんなにも多くの意味のある内容を残すことができるわけである。逆の言い方をすれば、結局のところは不真面目にパフォーマンスなどをずっと繰り返しているだけならば、何度代表になったとしても、また政治家を30年ぐらい続けていたとしても、ほとんど意味のあるものは何も残すことはできないのである。
「頭の体操」
永田町周辺の「退屈な話」が長く続いたから、この辺で少し「休憩」して「頭の体操」でもしておくことにしよう。ちなみに「頭の体操」は思いがけないときに思いがけない形で役に立つこともあるのである。
耐震強度偽装事件で建築基準法違反や議院証言法違反(偽証)などの罪に問われた元1級建築士の姉歯秀次被告の初公判が東京地裁で行われた(→2006/9/6。姉歯被告は起訴事実を大筋で認める)。ライブドア事件で証券取引法違反(偽計取引、風説の流布、有価証券報告書の虚偽記載)の罪に問われた同社前社長の堀江貴文被告の初公判が東京地裁で開かれた(→2006/9/4。堀江被告は無罪を主張。なお公判前整理手続きの採用)。
野党側が何点セットなどと騒いでいた頃のこと(→参考:2006/2/1(第1回)号etc.)を遠い昔の出来事として感じている読者もきっと少なくはないだろう。なお2005年総選挙に立候補した堀江被告を応援した竹中平蔵・前総務相は小泉内閣退陣に合わせて参院議員(2004年参院選に比例区で初当選)も辞職(2006/9/28)して一民間人に戻ってしまったし、竹中氏以上に堀江被告を熱心に応援していた武部勤・前自民党幹事長はどういうわけか古巣の派閥に戻ってしまっている。ちなみに小泉前首相は本会議場で「居眠り」をするようなごく普通の一国会議員に戻ってしまっている。時間が経つのはとても早いものである。
確かに最近は偽装や規律の乱れを感じさせる事件・事故が目立っている。言うまでもなく、どの社会でも、他人のものを盗んだり、他人を傷つけたり、他人を殺したりするのは許されないことである。そして日本を含めた多くの社会の大多数の人たちは、たとえ法律で禁止されていなかったとしても、他人のものを盗んだり、他人を傷つけたり、他人を殺したり、あるいは「偽装」などをすることは悪いことだとよく分かっているのだろう。もちろん悪いことを悪いことだと思っていない人間たちばかりがいる社会では、悪いことが何度も繰り返されたとしても全く不思議ではない。そういう意味では規律や規範意識は重要である。だが、実際には大多数の人たちは悪いことだとよく分かっていても、それでもやはり悪いことをしてしまう人間たちが出てきてしまうのではないのか。たとえ大多数の人たちが悪いと分かっていたとしても社会から悪いことがなくならないという現実を見失うべきではないと筆者は考えている。もしかしたらいくら飲酒運転の深刻な被害が繰り返し報道されたとしても、飲酒運転がなくならないということも規律や規範意識などの「精神論」だけでは限界があるということを示す具体例の一つになるのかもしれない。いずれにしても筆者は規律や規範意識などの「精神論」だけでは限界があると考えている。
規律や規範意識などの「精神論」の限界
坂本堤弁護士一家殺害事件(1989年11月)・松本サリン事件(1994年6月)・地下鉄サリン事件(1995年3月)などで殺人罪などに問われて1審・東京地裁で死刑判決を受けたオウム真理教(アーレフに改称)元代表の松本智津夫(麻原彰晃)被告の死刑が確定した(→2006/9/15。最高裁第3小法廷は弁護側が期限までに控訴趣意書を提出しなかったことを理由に控訴を棄却した東京高裁の決定(2006/3/27)を支持して弁護側の特別抗告を棄却する決定をし、松本被告の死刑が確定。なおオウム真理教の後継宗教団体は上祐史浩代表支持派と反上祐派に分裂状態)。
多くの人たちはテレビのワイドショーなどで繰り返されるカルト集団の異様な映像を見ると「どうしてこんなカルト集団に入る人間たちがいるのだろうか」と不思議で不思議で仕方がなくなってしまうのかもしれない。そして実際にカルト集団に入ってしまった彼・彼女たちの知的レベルや規範意識などを疑ってしまうのかもしれない。しかし、カルト集団の問題は知的レベルや規範意識の問題だけに単純化することはできないと筆者は考えている。たとえどんなに立派な規範意識などを持っていたとしても、少しずつその規範意識などに反しない形でできていく「しがらみ」にとらわれ、気づいたときにはカルト集団の中に既に入ってしまっていて簡単には抜けられなくなり、やがて「マインドコントロール」によって躊躇なく反社会的な行動を繰り返すようになってしまうケースも実際にはかなりあるはずである。もちろんカルト集団に入ってしまう人間たちの側に全く何も問題がないというわけではない。だが、カルト集団の問題を規律や規範意識などの「精神論」の問題として捉えることには無理があるということである。規律や規範というものは意外なほど「しがらみ」や「マインドコントロール」には無力なものなのである。
それでは規律や規範意識などで確実に欲望を抑えることができるのだろうか。また欲望を抑えることができなければ規範意識などが欠けているのだろうか。これは現実の世界の中ではなかなか難しい問題である。
例えば、今も昔も「トーダイ」卒などの高学歴の人たちの中でも汚職などの罪を犯す人間たちの数は少なくはない。彼らはいつの間にか汚職が悪いことだと分からなくなってしまったのだろうか。おそらくそういうことではないのだろう。もちろん「トーダイ」卒の人間でも汚職などが悪いことだという感覚が完全に麻痺してしまうようなことはあるのかもしれない。だが、実際には汚職などが悪いことだということは十分に分かっていながら汚職などの罪を犯してしまう人間の方が多いのではないかと筆者は考えている。もちろん犯罪などが悪いことであるということが分かっていなければ論外である。そういう意味では規律や規範意識などは重要である。規律や規範意識などが犯罪に無力だとは言わないが、やはり規律や規範意識などの「精神論」だけで犯罪をなくそうとするのには無理があると筆者は考えている。
さらに言えば、例えば、「不倫」を繰り返す政治家やすぐに関係者と「不適切な関係」になってしまうような政治家は「不倫」などが悪いことだと分からなくなってしまったから「不倫」などを繰り返しているのだろうか。やはりそういうことではないのだろう。もしも悪いことだと分からなくなってしまっているのだとすれば、記者やカメラから逃げ回ったり、見苦しい言い訳を繰り返したりするようなことは絶対にないはずである(→参考:2006/4/17(第4回)号etc.)。もちろん潔く「不徳の致すところ」などと深く反省するような政治家も「不倫」などが悪いことだということはおそらく分かっていたのだろう。「不倫」などを繰り返す状態を「病気」と呼ぶかどうかは別にしても、「不倫」などが悪いことだと十分に分かっていても、それでもやはり「不倫」などを繰り返してしまうという人間の方が実際には多いのではないかと筆者は考えている。規律や規範意識などは「不倫」などに無力だとは言わないが、少なくとも政治家の場合には規律や規範意識などの「精神論」だけで「不倫」などをなくすことは非常に困難であると筆者は考えている。
「歴史」と「伝統」の区別
このままもう少し「頭の体操」を続けることにしよう。確かに「伝統」を守ることは重要なことであると筆者も考えている。そしてもちろん何が何でも「伝統」を守って経験を積み重ねていればそれでいいというわけではない。そういうことは「温故知新」の話(→参考:2006/2/21(第3回)号etc.)、あるいは「永田町の『孔乙己』」とでも呼ぶべき当選回数だけを積み重ねたお粗末な政治家の話(→参考:2006/8/22(第6回)号)などで既に説明している通りである。そういうことは「イノベーション」などというカタカナ語をあえて使って説明しなくても分かる人にはすぐに分かるはずである。
最近、実に驚くべきことに「歴史」と「伝統」の違いが理解できない人間たちが増えているのである。そう言われてみれば、もしかしたら「歴史」と「伝統」は似ているのかもしれないが、言うまでもなく両者は別物である。やはり「歴史」と「伝統」は区別して考える必要があるのである。
例えば、いくらかつて「優れた政治思想」を生み出した場所であったとしても、その場所には「優れた政治思想」を生み出した「歴史」は確かにあるが、だからと言って「優れた政治思想」を生み出す「伝統」があるとは限らないのである。なぜならその場所からある時期以降は「優れた政治思想」が全く生み出されてはいないかもしれないからである。別のもっと分かりやすい例を挙げれば、既に「閉山」している「金鉱山」を今あえて掘ってみたとしても決して「伝統」を守るということにはならないのである。いくら「伝統」を重んじるなどと叫びながら「過去の金鉱山」を掘ってみたとしても、「金がほとんど含まれていない岩石」ぐらいしか出てこないはずである。ひどい場合には「金」を全く含まない「くず岩石」しか掘り出すことができないのかもしれない。いくらかつては世界的にも有名な「金鉱山」であったという「歴史」があったとしても、やはり「過去」や「歴史」は「伝統」とは全く別物なのである。あくまでも「過去」や「歴史」は「過去」や「歴史」、「伝統」は「伝統」なのである。
さらに念のために言っておけば、いくら「プレゼンテーション能力」やら「情報発信能力」などを高めて「錬金術」に磨きをかけ、さらに「広報戦略」なるものを練り上げたとしても、「金ではないもの」は絶対に「金」にはならないのである。またどんなに強くアピールしたとしても、あるいは、いくら巧みなプレゼンテーションを繰り返したとしても、「1+1」は絶対に「100」にはならず、やはり「2」のままなのである。あくまでも「事実」は「事実」、「プレゼンテーション」や「広報戦略」は「プレゼンテーション」や「広報戦略」なのであり、「プレゼンテーション」や「広報戦略」をいくら工夫してもそれだけでは決して「事実」が変化することはないのである。もちろんいくら「公金」をたくさん使ったとしても「事実」は「プレゼンテーション」や「広報戦略」とは全く無関係に「事実」のまま変わらないのである。
くどいようだが、「過去」や「歴史」と「伝統」は区別して考える必要があるのである。そしてどんなに「プレゼンテーション」や「広報戦略」を工夫したとしても、あくまでも「過去」や「歴史」は「過去」や「歴史」、「伝統」は「伝統」、「事実」は「事実」のまま変化することはないのである。最近はどういうわけか「プレゼンテーション能力」や「情報発信能力」の限界も理解できない「知的レベル」の低い「偽者の専門家」の数も増えているらしい。
政治家の仕事とは何か
さらにあえてもう一つだけ「頭の体操」をしておくことにしよう。以前(→参考:2006/4/17(第4回)号)の繰り返しになるが、そもそも政治家という仕事は本来は「人気者」にはなかなかなれない仕事のはずである。確かに有権者の「代表」である政治家は有権者の声をよく聞かなければならない。だが、政治家は間違っても有権者の「御用聞き」ではないのだから、たとえどんなに嫌われたり憎まれたりしても国民や有権者と対話しながら「できないことはできない」「許されないことは許されない」などとハッキリと言い、その上で多くの人たちを説得しなければならないはずなのである。
世の中の特に「かわいそうな人たち」のことだけをあえて取り上げ、格差の解消や弱者対策を強く訴えるような政治家たちは、ある意味では「ポピュリズム」(→大衆迎合主義)を超えて「煽動政治」を行っていると言うべきなのかもしれないと筆者は考えている。確かに世の中には「かわいそうな人たち」がたくさんいる。誰でも「かわいそうな人たち」をかわいそうだと思って支援することは自由である。そして「かわいそうな人たち」を助けることこそが「正義」であるなどという思想を持つのも個人の自由である。だが、政治家は間違っても目の前の「かわいそうな人たち」のことだけを考えていればいいわけではないし、現在の世代のことだけを考えていればいいわけでもないはずである。政治家は国民全体のことを考えなければならないのである。そして国民の中には当然、将来の世代も含まれなければならないと筆者は考えている。
繰り返すが、政治家を含めて誰でも「かわいそうな人たち」をかわいそうだと思って支援することは自由である。しかし、中途半端な支援に終わるくらいならば、最初から何も支援しない方がずっとましということもあるのである。最初から何も支援しないことよりも、支援をあてにして立ち直ろうとし始めた矢先に「大変申し訳ないけれども支援を続ける余裕はなくなりました」などと一方的に支援を打ち切ることになる方がよほど「冷血」かもしれないのである。ある程度の批判を覚悟してあえて言わせてもらうならば、「かわいそうな人たち」に支援をするときには立ち直るまで責任を持って続けるべきであるし、「かわいそうな人たち」が立ち直るまで責任を持って続けることができる支援とは何かということを事前にある程度考えてから支援をするべきではないかと筆者は考えている。「かわいそうな人たち」にとにかく救いの手を差し伸べることだけが優しさではないと筆者は考えている。場合によってはあえて冷たいことや厳しいことを言うことの方が本当の意味での優しさを示すことになるかもしれないのである。
念のために言っておくが、筆者は「かわいそうな人たち」の問題もすべて「自己責任」の問題として片付けるべきであるなどと主張しようとしているのではない。あえて繰り返すが、政治家を含めて誰でも「かわいそうな人たち」をかわいそうだと思って支援することは自由である。だが、「かわいそうな人たち」を助けるということは、政治家以外のどんな人たちにもできることだが、政治家がやらなければならない仕事は基本的には政治家にしかできないのである。たとえどんなにかわいそうであったとしても、あるいは、たとえどんなに多くの人たちから嫌われそうであったとしても、政治家は「できないことはできない」などとハッキリと言って多くの人たちを説得しなければならないはずである。
どんなに多くの人たちから厳しく批判されることになったとしても「できないことはできない」などと言って説得するのが有権者の「代表」としての政治家に求められている最も重要な仕事の1つであると筆者は考えている。もしも政治家の仕事を疎かにしてまで弱者の味方になったり、恵まれない人たちに光を当てるなどと主張するのならば、「ポピュリズム」(→大衆迎合主義)や「煽動政治」を行うことになってしまうのである。
努力は報われるのか
ちなみに政治家は「努力が報われる社会にする」などという言葉を好んでよく使うが、賢明な読者にとってはほとんど説得力のない言葉なのかもしれない。スポーツでも何でもいいが、とにかく好きなことが上手くできるようになりたいと思って本気で努力した経験を持っている人たちならば、どんなに努力をしてもなかなか良い結果を出すことができないということは特に珍しいことではないということをよく知っていることだろう(→参考:2006/8/22(第6回)号)。もしかすると好きなことを本気で努力したことがある人たちほど「努力は報われないもの」であるなどと思っているのかもしれない。
それにもかかわらず、多くの人たちが努力を続けているのは、どうしても好きなことが上手くなりたいという気持ちが強いからなのだろう。そして努力が報われないかもしれなくても、それでもやはり努力をしなかったら好きなことが上手くなることは絶対にないと思っているからなのだろう。もちろん自分よりも少ない努力しかしていない人たちの中から成功する人たちが出てくることは実際には結構ある。だが、たとえそういうことが何回かあったとしても本当にそのことが大好きな人たちならば簡単にくじけてしまうようなことはないのだろう。しかし、努力をしない人たちほど大成功し、努力をすればするほど損をするような「バブル社会」ならば、たとえどんなにそのことが大好きな人たちであったとしても努力をするのがバカバカしくなってしまうだろう。
「努力が報われる社会にする」などという政治家の言葉は、好きなことが上手くできるようになりたいと思って本気で努力した経験がある人たちにとってはほとんど説得力を持たないだろうと筆者は考えている。だが、もしも「努力をすることがバカバカしくならない社会にする」と政治家が本気で訴えるのならば多くの人たちもそれなりに説得力を感じるようになるのかもしれない。言うまでもなく政治ならば「努力をすることがバカバカしくならない社会」を実現することができるかもしれないからである。政治家の仕事とは何かということを改めて考えてみる必要があるのではないかと筆者は考えている。
小泉純一郎内閣から安倍晋三内閣へ
自民党総裁選の投・開票が行われて安倍晋三官房長官(当時)が新総裁に選出された(→2006/9/20。安倍氏464票(議員票267、地方票197、得票率66%)、麻生太郎外相136票(議員票69、地方票67、得票率19%)、谷垣禎一財務相(当時)102票(議員票66、地方票36、得票率15%))。
「まず、この5年間、私が自由民主党総裁として、また日本国内閣総理大臣として、政権担当できましたのも、皆様方の温かいご指導ご鞭撻の賜物であり、心から厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました(→場内拍手)。今回の総裁選挙に際して、安倍(晋三)、麻生(太郎)、谷垣(禎一)
3候補は、自らの抱負、経綸を、国民の前に堂々と披瀝され、多くの国民から期待を担って、堂々たる政策論争を展開されました。安倍、麻生、谷垣3候補のご健闘ぶりに心から敬意を表したいと思います(→場内拍手)。そしてめでたく新総裁に当選されました安倍晋三君に心からなる祝意を表したいと思います。おめでとうございます(→場内拍手)。今後は私も皆様と共に安倍新総裁を盛り立て、政権政党たる使命を持って、引き続き国民の信任を得ることができるように、皆様と共に頑張り、安倍新総裁を盛り立てていきたいと思います。今後の安倍新総裁のご活躍と、自民党のますますのご発展を祈念いたしまして、ご挨拶に代えさせていただきます。おめでとうございました。ご苦労様でございました(→場内拍手)」(2006/9/20の自民党新総裁決定直後の両院議員総会での小泉純一郎・前首相(前総裁)のあいさつから)
「ただいま第21代自由民主党総裁に指名いただきました安倍晋三でございます。まず始めに、本日まで約5年間、自由民主党総裁として改革をしっかりと前進させてきた小泉総理に心から敬意を表し、また御礼を申し上げたいと思います」「私は今、この場に立ちまして、伝統ある自由民主党の総裁の、その地位の重さを改めて認識をいたしております。自由民主党結党以来、この51年間、豊かで平和な、そして自由と民主主義の基盤の上に世界に貢献する日本をつくってまいりました。あるときには困難な中で正しい判断をし、勇気を持ってたじろがずに党を導いてきた歴代の総裁と同じように、私も正しい方向にリーダーシップを発揮してまいります。自由民主党は、日本をより豊かに、そして誇りある国にしていこうというその理想を燃やし続けてまいりました。私もその理想の炎を絶やすことなく、そしてしっかりと改革を前進をさせていくという意志を持ち続けていかなければいけない、そのように覚悟いたしておる次第であります。初の戦後生まれの総裁として、この理想の炎を、改革の炎をしっかりと受け継ぎ、たいまつをしっかりと受け継いでいくことを宣言する次第でございます…(後略)」(以上、2006/9/20の安倍晋三首相の総裁選出直後の両院議員総会でのあいさつから)
そして臨時国会が召集され、小泉純一郎内閣が総辞職し、安倍晋三内閣が発足した(2006/9/26)。
「第90代内閣総理大臣を拝命いたしました安倍晋三です。どうぞよろしくお願いをいたします。私は、自由民主党・公明党連立政権の下、戦後生まれ初の総理大臣として、しっかりと正しい方向にリーダーシップを発揮してまいります。日本を活力とチャンスと優しさに満ちあふれた国にしてまいります。本日より新しい国づくりに向けてしっかりとスタートしてまいります。私は、特定の団体、特定の既得権を持った人たち、あるいはまた、特定の考え方を持つ人たちのための政治を行うつもりはありません。毎日、額に汗して働き、家族を愛し、地域をよくしたいと願っている、そして日本の未来を信じたい、そう考えている普通の人たち、すべての国民の皆様のための政治をしっかりと行ってまいります。そのために、本日、『美しい国創り内閣』を組織いたしました。まず初めに…、はっきりと申し上げておきたいことは、5年間、小泉総理が進めてまいりました構造改革を私もしっかりと引き継ぎ、この構造改革を行ってまいります。構造改革はしばらく休んだ方がいい、あるいは大きく修正をした方がいいという声もあります。私は、この構造改革をむしろ加速させ、そして補強していきたい、このように考えています。頑張った人が、汗を流した人が、一生懸命切磋琢磨し知恵を出した人が報われる社会をつくっていきたいと考えております。公正でフェアな競争の中で生れてくる活力が日本の経済と国の力を押し上げていきます。しかし、ま、人間ですから失敗をすることもあります。そうしたことが…、一回失敗したことが人生を決めてはならないと思います。負け組、勝ち組として固定化されてはならない。何度でも人生に…、いろんな節目に…、チャンスのある社会をつくっていかなければいけません。単線的な人生から、多様な機会のある…、そしてまた多様な価値を求めることができる、複線的な人生が可能な社会に変えていきたいと思います。そのために再チャレンジ推進施策をしっかりと実行してまいります…(後略)」
「昨年から日本の人口が減少し始めたわけでありますが、減少局面においても、しっかりと成長していく国を目指していきたいと思います。そのためには、やるべきことは3つあります。1つは『人材の育成』であります。もう1つは『イノベーション』。画期的な新しい技術の革新、あるいは、新しい取組み、新しい考え方。この『イノベーション』に力を入れていく、また『イノベーション』に投資をしていくことで生産性を上げていくことができると思います。減少していく労働力を補って余りある生産性の向上を目指していきたいと思います。また『オープン』。社会や経済や国を開いていくことであります。そのことによって海外からたくさんの…、多くの投資が行われます。そしてまた有為な人材がどんどん日本にやってくる、このことは活力を生み出します。そしてまた国同士がお互いを開いていく、FTA、EPAを進めていくことによって、アジアの成長を日本の成長に取り入れていくことも、私は十分に可能である、可能性があると…。しっかりと『人材の育成』、そして『イノベーション』、『オープン』、やるべきことをきっちりやって成長していく経済を目指していきたいと、このように思います。今日(きょう)よりも明日がよくなる、今日(きょう)よりも明日がより豊かになっていく、そういう国を目指していきたいと考えています」「また、私の内閣で…、しっかりと進めていく重要な政策の1つが教育の再生であります。すべての子どもたちに高い水準の学力と、そして規範を身に付ける機会を保障していかなければなりません。そのためには、誰もが通うことができる公立学校をしっかりと再生していきたいと思います。まずは、この臨時国会において教育基本法の改正(法案)を成立させ、そして英知を集め、内閣に教育再生会議を発足させたい。そしてしっかりと教育再生改革に取り組んでまいりたいと思います」
(以上、2006/9/26夜の安倍首相の就任後初の記者会見から。参照:http://www.kantei.go.jp/jp/abespeech/2006/09/26press.html)
また安倍首相は衆院本会議などで所信表明演説を行った(2006/9/29)。
「国政を遂行するに当たり、私はまず、自らの政治姿勢を国民の皆様並びに議員各位に明らかにいたします。私は、特定の団体や個人のための政治を行うつもりは一切ありません。額に汗して勤勉に働き、家族を愛し、自分の暮らす地域や故郷を良くしたいと思い、日本の未来を信じたいと願っている人々、そしてすべての国民の期待に応える政治を行ってまいります。みんなが参加する、新しい時代を切り拓く政治、誰に対しても開かれ、誰もがチャレンジできる社会を目指し、全力投球することを約束いたします」
「郵政民営化法の基本理念に沿って平成19年10月からの郵政民営化を確実に実施します」「特別会計の大幅な見直しを実行に移すとともに、道路特定財源については、現行の税率を維持しつつ一般財源化を前提に見直しを行い、納税者の理解を得ながら年内に具体案を取りまとめます」「(前略)…このような改革を徹底して実施した上でそれでも対応しきれない社会保障や少子化などに伴う負担増に対しては、安定的な財源を確保するため、抜本的・一体的な税制改革を推進し、将来世代への負担の先送りを行わないようにします。消費税については、『逃げず、逃げ込まず』という姿勢で対応してまいります」
「私が目指す『美しい国、日本』を実現するためには次代を背負って立つ子どもや若者の育成が不可欠です。ところが近年、子どものモラルや学ぶ意欲が低下しており、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下も指摘されています。教育の目的は志ある国民を育て品格ある国家、社会をつくることです。吉田松陰はわずか3年ほどの間に、若い長州藩士に志を持たせる教育を行い、有為な人材を多数輩出しました。小さな松下村塾が『明治維新胎動の地』となったのです。家族、地域、国、そして命を大切にする、豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け、教育再生に直ちに取り組みます。まず教育基本法案の早期成立を期します。すべての子どもに高い学力と規範意識を身につける機会を保障するため、公教育を再生します。学力の向上については必要な授業時間数を十分に確保するとともに、基礎学力強化プログラムを推進します。教員の質の向上に向けて教員免許の更新制度の導入を図るとともに、学校同士が切磋琢磨して質の高い教育を提供できるよう外部評価を導入します。こうした施策を推進するため、我が国の叡智を結集して内閣に『教育再生会議』を早急に発足させます」
「新しい国創りに共にチャレンジしたいと願うすべての国民の皆様に参加していただきたいと思います。年齢、性別、障害の有無にかかわらず、誰もが参加できるような環境をつくることこそ、政治の責任であります。戦前、戦中生まれの鍛えられた世代、国民や国家のために貢献したいとの熱意あふれる若い人たちとともに、日本を、世界の人々が憧れと尊敬を抱き、子どもたちの世代が自信と誇りを持てる『美しい国、日本』とするため、私は先頭に立って全身全霊を傾けて挑戦していく覚悟であります。国民の皆様並びに議員各位の御理解と御協力を心からお願い申し上げます」
(以上、2006/9/29の衆院本会議での安倍首相の所信表明演説から。参考(全文):http://www.kantei.go.jp/jp/abespeech/2006/09/29syosin.html)
適切なタイミングに適切な形で明確なメッセージを
「(悪いのは「A級戦犯」のような指導者層で一般の国民には責任がないという中国側の考え方そのものを認めないのか、に)いえ、私はそういうことを申し上げたことはないんです。私が申し上げたのはですね…、いわゆる(筆者注(以下( )内同):1978年の)日中の平和友好条約を結ぶに当たって…、中国側がですね…。また(1972年の日中)共同宣言をするに当たってもですね、中国側が、いわば戦争指導者と一般の国民を分けて考えているということを、中国側が言ったということは…、これはまあそういう事実であるということを我々は認識をしています。しかし、他方ですね、そのときにまあ、(日中共同宣言当時の)大平(正芳)外務大臣は…、この戦争については、日本人等しく責任を感じているという、まあ、お話をされたと私もそれを聞いています。しかし、二国間を、例えばですね…、この、ある種、義務を与えるものは、やはり条約であり…、そしてそれは、あの、互いが合意に達したものを文書にしていくということになって、まあ、いくわけですね。そしてそれが、今言ったことが前提でこの条約があるんですよ、ということにはそれはならないのであって、そういうことになってしまっては、これから条約を結ぶときにですね、その文書に書いていないこともいろんな制約条件になっていて、自分はこう言ったんだからそれは条件ですよっていうことになってしまって大変な混乱になってしまう。そうではないというのが国際的な…、私は常識だろうと…。まあ、このように思います。もちろん戦争の指導者とですね、一般の国民は…、責任の重さにおいて、はるかに大きな違いがあるというのは、これは当然、言わずもがなではないかと、このように思っております」
「(1995年の戦後50年の村山富市首相談話を踏襲するのか、に)あの…、先程の…、議論が戻るんですが、つまりその、私もですね、その、先程の繰り返しになりますが、戦争指導者と一般の国民は、これは、もちろん責任の重さにおいては、はるかに大きな違いがあるということを…、もちろんそういう認識ですし、多くの国民もそうなんだろうと、こう思います。そして中国は、このA級戦犯や指導者と国民を分けると、そういう理屈で国民を説得したということなんだろうと思うんです。まあ、しかし、日本もその理屈でですね、例えば、靖国にA級(戦犯)が祀られていればそれを参拝しないということを約束したわけではもちろんないし、そしてその認識ですべてをしていくということを中国との間で約束をしたわけではない。そのことはやはり抑えておかなければいけないことであって…。約束事はやっぱり紙に書いている条約だと。そこはですね、気持ちの上でやはり相手の思いを忖度をしていくという必要もあるんだろうと思うんですが…、政治、あるいは政府、指導者はですね、条約ですよ、という姿勢を持たなければならないんだろうなあと、こう思います。それと歴史認識については、これはやはりなかなか、国が、例えば、政治の場でそれを統一をするということは、それは、私は…、どうだろうかという気がいたします。歴史認識についてはやはり、本来…、歴史家に任せるべきではないかなあと、こう思うんですね。確かに(日中戦争の発端になった1937年の)盧溝橋事件のときに日本の軍隊が中国にいたと。そもそも日本の軍隊が中国において多大な被害を与えたのは事実です。その反省から日本は戦後60年、自由で民主的な国を作ってきたわけでありますが、他方、歴史を研究をしていけば…(中略)…村山談話についてはですね、これは…、閣議決定をした、まあ、歴史的な文書であって、内外に日本政府としての考え方を示したものであって、まあ、その精神は新たに閣議決定をしない限り、当然、受け継がれていくものであると、こう認識をしております」(以上、2006/9/17放送のNHK「日曜討論」における安倍晋三首相の発言から)
「(アジア外交について問われて)小泉内閣時代に私も官房長官を務めておりました。日本は常にドアを開いております。首脳会談…、これは日本側は決して拒否をしているわけではありません。やはり国同士、お互いに国が違えば利害が対立することもありますし、認識が違うこともありますが、やはりそういうときこそ、首脳同士が会って、胸襟を開いて話をしていくことが大切ではないかと思います。そのために私も努力をしていきたいと考えています。是非とも(中韓)両国にも一歩前に出てきていただきたい、このように思います」(2006/9/26夜の安倍首相の就任後初の記者会見から)
「中国や韓国は大事な隣国です。経済をはじめ幅広い分野で過去に例がないほど緊密な関係となっています。両国との信頼関係の強化はアジア地域や国際社会全体にとって極めて大切であり、未来志向で率直に話し合えるようお互いに努めていくことが重要であると考えます」(2006/9/29の衆院本会議での安倍首相の所信表明演説から)
安倍首相がいわゆる歴史認識や靖国問題でこのような詳しい説明を繰り返したとしても、説明を聞かされる側にとっては安倍首相の真意を理解することもなかなか難しい状態のままなのかもしれない。それはなぜなのか。適切なタイミングに適切な形でメッセージを発信していないからだと筆者は考えている。
たとえ安倍首相が「戦争指導者と一般の国民は、これは、もちろん責任の重さにおいては、はるかに大きな違いがある」「そもそも日本の軍隊が中国において多大な被害を与えたのは事実です」などといくら心から思っていたとしても、それ以外の説明の中に「肝心な部分」が埋もれてしまうのならば、なかなか真意は伝わらないのである。誤解なしに真意を伝えるためには適切な形で明確なメッセージを発信する必要があるのである。例えば、歴史認識の詳細については歴史家に任せるが、それでもやはり日本が中国などを侵略したという歴史的事実は変わらないし、戦争指導者の責任が問われて国際的に決着したという歴史的事実も変わることはない、などと明確に主張すれば誤解が生まれる余地は完全になくなったはずである。
もちろん国際天文学連合(IAU)が冥王星を除外して太陽系の惑星数を8とする惑星の新定義を決定(2006/8/24)したようには歴史家も歴史認識を自由に決めることはできないのだろう。だが、なぜか安倍首相が「肝心な部分」をあえて強調せずに「歴史認識は歴史家に任せるべき」などと主張しているだけということになってしまうと、最悪の場合には、「実は侵略ではなかった」とか「戦争指導者には全く責任はなかった」などという結論まで受け入れる意思を持っているのではないかなどという程度まで誤解が拡大する危険性も残ることになる。あえて「肝心な部分」を強調することができない何らかの特別な事情があるわけではないのならば、適切なタイミングに適切な形で明確なメッセージを発信するべきであると筆者は考えている。
「過去に日本がアジアで取った行為についてのお尋ねがありました。先の大戦をめぐる政府としての認識については、平成7年8月15日(→筆者注(以下( )内同じ):戦後50年のいわゆる「村山談話」(1995/8/15))及び、平成17年8月15日(→戦後60年の小泉前首相の談話(2005/8/15))の内閣総理大臣談話等により、示されてきている通り、『我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた』というものであります」
「いわゆるA級戦犯の国家指導者としての責任についてお尋ねがありました。先の大戦に対する責任の主体については、様々な議論があることもあり、政府として具体的に断定することは適当ではないと考えます。いずれにせよ、わが国は、サンフランシスコ平和条約第11条により、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しており、国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはないと考えています」
「私の靖国神社参拝についてのお尋ねがありました。靖国神社参拝につきましては、国のために戦って尊い命を犠牲にした方々に対して手を合わせ、ご冥福をお祈りし、尊崇の念を表する気持ちは持ち続けていきたいと思っております。私がこれまで行くか行かないか、あるいは参拝したかしていないかについて宣明するつもりはないと申し上げてきたことは私が個人としてまさに考えるところであります」(以上、2006/10/2の衆院本会議における民主党の鳩山由紀夫幹事長の代表質問に対する安倍首相の答弁から)
安倍首相はいわゆる歴史認識の「肝心な部分」について答弁した(2006/10/2)。あえて多くはコメントしないが、もっと早い段階で明確なメッセージを発信するべきであったと筆者は考えている(→参考:2006/4/17(第4回)号、参照:http://www.jchiba.net/message/05yasukuni.htm)。ちなみに安倍首相に非常に批判的な一部のマスコミや政治家たちが「よこしまな目的」を持って「アジア外交」などを「争点化」しようとした「副作用」のために日中首脳会談と日韓首脳会談は実現しさえすればそれだけでも一定の成果になるような状態になっている。いずれにしても現時点(2006/10/2)においては小泉前首相時代の靖国問題のような深刻な事態に発展する危険性はまだ完全に消えたわけではないのである。
北朝鮮の「学習」を促す適切な内容
「拉致問題の解決なくして北朝鮮との国交正常化はありえません。拉致問題に関する総合的な対策を推進するため、私を本部長とする拉致問題対策本部を設置し、専任の事務局を置くことといたしました。対話と圧力の方針の下、引き続き、拉致被害者が全員生存しているとの前提に立ってすべての拉致被害者の生還を強く求めていきます。核・ミサイル問題については日米の緊密な連携を図りつつ6者会合を活用して解決を目指します」(2006/9/29の衆院本会議での安倍首相の所信表明演説から)
安倍首相は、塩崎恭久官房長官に拉致問題担当相を兼務させ、拉致問題担当の首相補佐官に中山恭子氏を起用し(2006/9/26)、さらに「拉致問題対策本部」設置を閣議決定した(2006/9/29)。また政府は北朝鮮に対する金融制裁を実施している(→2006/9/19に閣議了解。北朝鮮の大量破壊兵器開発との関連が疑われる15団体・1個人の口座を対象に預金引き出しや海外送金を許可制にして事実上禁止する内容。北朝鮮のミサイル発射を非難する国連決議(2006/7/16)を受けての措置。ちなみに既に金融制裁などを実施している米国に加え、オーストラリアも同様の対北朝鮮金融制裁を実施)。
前回(2006/8/22(第6回)号)の繰り返しになるが、やはり北朝鮮側の根拠のない強い思い込みや誤解を解いて「瀬戸際戦術」などは間違いであるということを確実に「学習」させるためには国際社会による最低限の「制裁」は必要不可欠であると筆者は考えている。もちろん国際社会による「制裁」は過重でも過少でもない北朝鮮の「学習」を促す適切な内容にする必要がある。つまり「制裁」は、北朝鮮側に自らの行動が間違いであるということを確実に認識させると同時に不適切な「問題行動」を繰り返すたびにますます重くなっていくような性質のものにしなければならないと筆者は考えている。そしてもしも北朝鮮が正しく「学習」し始めたときには「問題行動」が改善されるたびに少しずつ軽くなっていくような性質のものにもしなければならないと筆者は考えている。今度こそ国際社会は一致結束して北朝鮮に正しく「学習」させる必要があると筆者は考えている。くどいようだが、国際社会は間違っても北朝鮮に新たな誤解を与えるようなことだけは絶対にしてはならないのである。
独り歩きした「政経分離」
安倍首相が著書に「日中関係は政経分離の原則で」と書いたことでも波紋が広がった。そしてこの「政経分離」という言葉は、本当に著書を読んだのか疑いたくなるようなお粗末な日本語読解力しか持たない勘違いした人間たちによって、どういうわけかまだ独り歩きさせられ続けているのである。
「(前略)…こうした日本と中国との関係は、今後も続いていくことはまちがいなく、この互恵関係を政治問題によって毀損させることは、両国にとってマイナスにこそなれ、けっしてプラスにははたらかない。これからの日中関係を安定させるためには、できるだけ早く両国の間に政経分離の原則をつくる必要があろう。 市場経済を選択し、WTO(世界貿易機関)に加盟すると、どの国もグローバルな市場におけるフェアな競争が担保されなければならない。WTOの協定には、『加盟国の貿易政策および貿易慣行について、いっそうの透明性を確保し、並びに理解を深める』ことを前提に、『関税その他の貿易障害を実質的に軽減』すること、また『国際通商における差別待遇を廃止するための相互的かつ互恵的な取り決め』として、『関税その他の課徴金以外のいかなる禁止または制限も新設し、または維持してはならない』とある。もしこうしたルールに抵触するようなことがおこなわれれば、それは世界ではリスクと認識されてしまう。 政治問題を経済問題に飛び火させない、あるいは政治的な目的を達成するために経済を利用することはしない。おたがいに経済的利益を大切にし、尊重するのである。この原則を共有することができれば、両国の関係悪化の歯止めになるし、抑止になる」(p152-153。安倍晋三著、「美しい国へ」、文藝春秋(文春新書524)、2006年)
どんなに少なくとも安倍首相は経済さえ上手くいっていれば政治が上手くいかなくても良いという意味で「政経分離」という言葉を使っているわけではないのである。おそらく安部首相は、一昔前の日米関係のように政治が良好な関係を維持しても経済摩擦が政治問題化することによって経済が政治に悪影響を与えることもあったから、日中関係では逆に政治問題が経済問題に飛び火しないようにしようという意味で「政経分離」という言葉を使ったのであろう。そういうことであるのならば安倍首相はもっと熱心に誤解を解くべきである。熱心に誤解を解こうとしなければ、本音としては政治は冷え込んだままでも構わないと思っているのではないかなどと誤解がますますひどくなってしまうかもしれない。
もちろん安倍首相に非常に批判的な一部のマスコミや政治家たちによって「政経分離」という言葉に対する誤解が意図的に拡大させられた形跡もないわけではない。だが、どういうわけか安倍首相側にも「政経分離」という言葉に対する誤解を積極的に解消しようとした形跡が見られないのである。「政経分離」という言葉に限らず、安倍首相の主張に対する誤解をそのままにしておくことは、日本の国益、つまり、日本国民の利益を損ねることに他ならないという意識を安倍首相と首相官邸スタッフにもっともっと強く持ってもらいたいものである。
「美しい国」とはいったい何か
「(前略)…総裁選挙の、この期間中は私は2つのことを訴えました。1つはしっかりと改革を前進させていくということであります。改革は決して止めてはならない。さらに改革を加速させていく。そしてその必要性についても訴えてまいりました。人口が減少する中において、今までのようなこの構造をそのままにしておいていたのでは、日本の将来はないし、国民一人当たりの負担もどんどんどんどん増えていってしまう。そしてまた世界の中で競争に勝ち残らなければ日本でも雇用を守ることはできない。そのための構造改革についてはしっかりとこの炎を燃やし続けていくということを訴えてまいりました。もう1点は、21世紀にふさわしい日本の国づくりについて、しっかりと歩みを始めていく。そして目指す日本は、『美しい国、日本。』であるということを訴えてまいりました。そしてその『美しい国、日本。』とは、伝統や文化や自然や歴史を大切にする国であり、そしてまた、自律と、そして規範を知る凛とした国であり、また未来に向かって成長し続ける、エネルギーを持ち続ける国であり、また世界の国々から、信頼され、そして愛されるリーダーシップを発揮をする国である。そしてその具体的な政策についても述べてきたところでございます…(後略)」(2006/9/20の安倍首相の総裁選出直後の記者会見から)
「(「美しい国」などについて具体的に日本をどういう国にしたいのか分かりやすく説明を、に)まず『美しい国』について申し上げますと、これは立候補したときの記者会見でも申し上げたことでありますが、まずその姿の一つは…、この美しい自然や、そして日本の文化や、歴史や、そして伝統を大切にする国であると思います。しっかりと環境を守っていく。そしてまた、そうした要素の中から培われた家族の価値観というものを再認識していく必要があると思います。そしてまた、自由な社会を基盤として…、そして、しっかりと自律した、凛とした国を目指していかなければならないと考えています。そのためにも教育の改革が必要でしょう。そして規範を守る経済でなければならない、このように思います。そして今後力強く成長していく、エネルギーを持ち続ける国でなければならないと思います。冒頭申し上げましたように、今日(きょう)よりも明日が良くなっていく、みんなが未来に希望を持てる国にしていきたい。しっかりと成長していく経済、強い経済をつくってまいりたい。そのために…、『イノベーション』、『オープン』、『人材の育成』が大切であると思います。そして、世界の国々から…、尊敬され、愛される、リーダーシップを持つ国でなければならないと思います。世界に対して、日本の、いわば国柄、カントリー・アイデンティティーをしっかりと発信をしていく国を目指していきたい。そして多く国々が、また多くの人たちが、日本を目指す。また、そういう方々に日本に来ていただける、そういう環境をつくっていくことも重視をしていきたいと思います」(2006/9/26夜の安倍首相の就任後初の記者会見から)
「私が目指すこの国のかたちは、活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた『美しい国、日本』であります。この『美しい国』の姿を私は次のように考えます。1つ目は、文化、伝統、自然、歴史を大切にする国であります。2つ目は、自由な社会を基本とし、規律を知る、凛とした国であります。3つ目は、未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。4つ目は、世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国であります。この『美しい国』の実現のため、私は、自由民主党及び公明党による連立政権の安定した基盤に立って、『美しい国創り内閣』を組織しました…(後略)」(2006/9/29の衆院本会議での安倍首相の所信表明演説から)
「美しい国」は安倍首相の著書のタイトルになっていたにもかかわらず、筆者には著書を読んだだけでは「美しい国」という言葉が意味している内容がほとんど分からかった。筆者にはしばらくの間「美しい国」という言葉は「謎の言葉」であり続けたのである。
そして評判があまり良くなかった全4ページの安倍首相の総裁選の政策の4ページ目に「(前略)…日本を、世界の人々があこがれと尊敬をいだく、そして子どもたちの世代が自信と誇りを持てる『美しい国、日本』とするために全力を尽くすことをお約束します」「『美しい国、日本』は誰かが与えてくれるものではありません。私たち一人ひとりが考え、育んでいくものです」と書かれているのを見つけてようやく少しずつ「美しい国」の意味が分かり始めてきたのである。さらに安倍首相の総裁選出後の記者会見、首相就任後の記者会見、所信表明演説(2006/9/29)を聞いていくうちに、十分に理解できたかどうかはともかくとしても、「美しい国」という言葉に対する筆者の理解は少しずつ深まっていったのである。だが、残念なことに今現在も世の中では「美しい国」という言葉やイメージだけが独り歩きを続けたままである。
このように総裁選直前からの安倍首相の主張を簡単に振り返ってみただけでも、安倍首相周辺に「広報戦略」なるものが存在したのかどうかも疑わしくなってくるのである。少なくとも現在(2006/10/2)までのところは「広報戦略」なるものが存在したとしてもその効果は非常に限定的なものにとどまっている。
確かに現時点では誰の目にも明らかな安倍首相と小泉前首相との間の分かりやすい違いは「カタカナ語」の多さぐらいしか存在しないのかもしれない。だが、安倍首相が政治的に意味のある「結果」を出していくにつれて少しずつ小泉前首相との違いも増えていくはずである。現時点で「天才コピーライター」かつ「敏腕プロデューサー」かつ「名俳優」のような小泉純一郎前首相と比べてしまうと、安倍首相がたとえどんなに丁寧な分かりやすい説明をしていたとしてもやはり見劣りしてしまうのかもしれない。そう遠くないうちに安倍首相と小泉前首相を正しく「比較」することも全く不可能ではなくなってくるはずである。
ちなみに2003年総選挙の民主党マニフェストには、深く考えれば考えるほど、なぜ不幸が最小になるのかもよく分からなくなってくる「最小不幸社会」という実にお粗末な「スローガン」が掲載されていたものである(→参考:2004/3/23号etc.)。あの「最小不幸社会」と比べてしまうと、分かりにくい分かりにくいと言われ続けている安倍首相の「美しい国」もかなり分かりやすい主張に感じてしまうから実に不思議なものである。いずれにしても何と「比較」するかによって多くのものの評価は大きく変わってしまうのである。
政治とは何か
民主党代表選は小沢一郎代表の無投票再選という結果で終わった(2006/9/12)。小沢代表は臨時党大会で再選が正式決定した直後に緊急検査入院(2006/9/25)したが、首相指名選挙(2006/9/26)の行われた衆院本会議には一時退院して出席した。しかし結局は小沢代表による安倍首相の初の所信表明演説に対する代表質問は見送りとなった。
「(前略)…古今東西、さまざまな人たちがリーダー論を語ってきたわけだが、僕なりに『リーダーとは』という定義をしてみれば、次の言葉に集約できるのではないかと思っている。 すなわち、『リーダーとは自分の目指すものを明確に掲げ、自分で決断し、自分の責任において実行できる人物である』と。 集団の中にあって人々を率いていくためには、まず何よりも最初に、自分がリーダーとして何をしたいのか、どういう社会や組織を作りたいかという目標なり志なりを具体的に持っていなければいけない。 『みなが幸せになれる社会に』『地球にやさしい社会』といった美しいスローガンを唱えるのはたやすい。 しかし、現実には社会の成員全員が等しく幸福になれる社会など、ありえない。かつて社会主義がそうした社会の実現を目指し、『大いなる失敗』に終わったことは改めて指摘するまでもないだろう。 また、『地球にやさしい社会』にしても同じことだ。人間の営みは、大なり小なり環境を汚染することにつながる。我々の文明生活は地球環境の犠牲なくしてはありえない。これもまた現実である。 『あちら立てれば、こちらは立たず』という言葉があるとおり、現実の世界には『模範解答』などはない。何かを選択するということは、何かを捨てるということでもある。 そうした現実と理想とのせめぎ合いの中で、志を捨てない者だけがリーダーになれる。夢や理想の中に逃避したり、あるいは逆に、現実の重みに妥協したりすることなく、明日へのビジョンを持つことのできる人間だけが真のリーダーたりうる。 また同時に、自分が作りたい社会、組織のビジョンを具体的な言葉にして、人々に堂々と語りかけ、その必要性を訴えていくことも不可欠だ。人々を説得し、動かすことができなければ、いくら立派なビジョンを持っていようと何の意味もない。 さらに、リーダーは学者や評論家とは違うのだから、みずからのビジョンを現実のものとすべく行動に移さなくてはならない。 その際に重要なのは、他人に責任を転嫁することなく、みずから決断し、そしてその結果に対して責任を負うということだ」(p116-117。小沢一郎著、「小沢主義(オザワイズム)」、集英社インターナショナル、2006年)
さて、小沢代表が代表選直前に示した「私の基本理念」(2006/9/11発表)には「公正な国・日本」とか「普通の国・日本」という言葉が出てくる。「公正な国・日本」の方は「美しいスローガン」とまでは言わないが、やはり安倍首相の「美しい国、日本」と同じように何度説明を聞いても分かったような分からないような印象しか残らない言葉であると筆者は考えている。だが、「普通の国・日本」という言葉については、その言葉の意味を正確に理解するための手がかりが実に様々なところに豊富に残されているのである。例えば、以下のような手がかりがある。
「(前略)…『普通の国』とは何か。二つの要件がある。一つは、国際社会において当然とされていることを、当然のこととして自らの責任で行うことである。当たり前のことを当たり前と考え、当たり前に行う。日本国内でしか通用しないことをいい立てたり、国際社会の圧力を理由にして仕方なくやるようなことはしない。 これはとくに安全保障についていえる。湾岸戦争時の国際貢献やPKO協力法案をめぐる論議を振り返るまでもなく、こと安全保障となると、にわかに憲法や法制度を口実にしたひとりよがりの理屈がまかり通り、何とか国際協調の責任と役割を回避しようとする。どの国よりも世界の平和と安定に貢献しなければならない立場の日本が、安全保障を国際貢献の対象分野から除外することなど許されるわけがない。そのことを冷静に考え、安全保障の面でも自らの責任において自らにふさわしい貢献ができるよう、体制を整えなければならない。これは、軍国主義化、軍事大国化などとはまったく別次元のことである。 もう一つの要件は、豊かで安定した国民生活を築こうと努力している国々に対し、また、地球環境保護のような人類共通の課題について、自ら最大限の協力をすることである。その点は、まだ不十分なところが多いものの、かなり行っていると思う。 この二つを確実に、かつ継続して行うことによって、日本は、国内の経済的発展と財の配分しか考えてこなかった『片肺国家』から、国際社会で通用する一人前の『普通の国』に脱皮することができる」(p104-105)
「(前略)…このような状況にあって、日本はどう対応するか。私は、次の五つの指針の確立が必要だと思う。 第一に、日本外交の基本課題は、民主主義国の一員としてわが国自身の安全と繁栄の維持を図ることである。 民主、人権、市場経済といった価値観は他の民主主義国と共有する日本の理念であり、この理念を追求することを通じてわが国の安定と繁栄を維持していく、ということだ。 第二は、アメリカやヨーロッパとともに日本は新しい世界秩序づくりに積極的に参加していくことである…(中略)…第三は、二十一世紀に向けた日本の外交目的とその戦略を対外的に明確にすることである。 影響力が大きければ大きいほど、何を目指して外交を展開しているかを明確にしなければ、世界各国に疑念を生じさせる。自国の安定と繁栄のために、政治的民主化や自由経済といった、先進民主主義諸国がもっている共通の価値の実現を目指すとか、あるいは、環境汚染、麻薬、エイズなど地球全体の問題解決に貢献するといった外交目的を定め、その実現のために戦略を立てているということを内外に示す必要がある。 第四に、日本外交の基軸は今後とも日米であり、その関係を時代の変化に対応させつつ、さらに発展させることである。 これまで日本は日米安保体制のもとで安全と繁栄を享受してきた。この体制は引きつづき、日本だけでなくアジア・太平洋地域の紛争抑止力となるに違いない。 第五に、アジア・太平洋地域を重視する外交姿勢を明確にすることである…(後略)」(p156-157。以上、小沢一郎著、「日本改造計画」、講談社、1993年)
小沢代表が本当に「日米中の三角形」を唱えたり、あるいは「正三角形」などとどこかで言ったのかどうか、また仮に唱えたり言ったりした場合であってもどういう意味でそう言ったのかについてはあえて触れないことにしておく。だが、そもそも国際関係を「三角形」とか「正三角形」で捉えようとする発想自体が大きく歪んでおり、現実の国際関係を満足に説明することができないということはほぼ誰の目にも明らかであろう。だいたい小沢代表の著書ではどんなに少なくとも「三角」ではなく「多角」の話になっている。いくらなんでも10年以上時間が経過すると知らないうちに「普通の国」という言葉の意味が以前とは全く別の意味に変わってしまっているというようなことはないのだろう。
「煽動政治」とは何か
いくら小沢代表が無投票で再選されたとしても、やはり民主党が「一枚岩」になったというわけではないのである。相変わらず民主党は、党や代表の主張や政策と、所属する政治家が実際に唱えている主張の間の矛盾という深刻な問題を全く解消せずに抱え持ったままなのである(→参考:2006/8/22(第6回)号etc.)。民主党内の重大な矛盾や問題点は数多く存在するが、今回もあえて一つに限定して分かりやすく具体例を挙げて示しておくことにする。
「(前略)…わが国は、自民党による長年の無原則・無責任な政治の結果、今や屋台骨が崩れかかり、日本の良さは失われ、国民の心の荒廃は限界を超えようとしている。しかも、国民の現状不満と将来不安を背景に、極端で偏向した『煽動政治』が台頭し、日本の危機を一段と深刻にしている…(後略)」(2006/9/11発表の小沢民主党代表の「私の基本理念 −『常識の政治』で普通の国に−」から)
「今いろいろ言われた中で、一つだけ私もそのとおりと思うところがありました。それは、多くの国民が総理に期待感を持っているということです。期待感を持っているんですよ、期待感を。タイタニック号のように、新鋭小泉丸が進水した、船長がなかなか優秀そうだ、大丈夫です、皆さん、この新鋭艦、絶対沈むことはありません、私に任せてついてきてください、今まだそんな状況じゃないですか、国民の皆さん。確かに数字は悪い、菅たちがいつもいろいろなことを言うけれども、まあしばらく小泉さんに任せてみようじゃないか、私のところにもそういうメールをたくさんいただきます。 しかし、私は、この9カ月間の総理の行動や内閣の行動を見て、これは期待感を持たれたタイタニック号の船長と同じだ。期待感はあります。しかし、実際に進んでいる方向は氷山の真っただ中に進んでいる。大丈夫だ大丈夫だと言っているけれども、じゃ、どう大丈夫ですかと聞いた途端に、何と答えました、今。期待感があるからいいんだ、そのとおりです。期待感だけはあるんです。だから、それに対してちゃんと説明してください、進んでいる方向が氷山じゃなくて大西洋の真ん中の方にちゃんと戻っているんだということを説明してくださいと言ったら、何と言いました…(後略)」「(前略)…だから、どういう政策をやって景気回復をしようとしているんですかと。構造改革なくして景気回復なしというのを国民が信用して、総理にまさに信頼感を寄せているわけですから。この総理にこの国を任せていたら、タイタニック号と同じ運命を日本はたどってしまう。反論があったら聞かせてください」「(前略)…全部総理が救世主なんですよ。総理は救世主なんです、自由民主党にとって。しかし、国民にとって救世主になると皆さんが期待しているけれども、私が見るところ、私の目が節穴であるかないか、これはこの数年で分かりますが、私が見るところ、総理は日本の救世主ではなくて、日本丸のこの船長は、タイタニック号の船長と同じだ。みんなに期待感だけ与えて、全く間違った方向に船を進めている…(後略)」(以上、2002/1/24の衆院予算委での菅直人幹事長(当時)の質問から)
「私は現代の信長になりたい。信長は戦争が強かったですよね。だから菅も戦争に強くなりたいのか。そうじゃありません…(中略)…信長という人はもう一つの仕事をやったんですよ、当時。日本の経済を大発展させました。それまではいろんな国がバラバラで間に関所があった。この関所を全部取っ払って『楽市・楽座』にしたことによって日本経済が、いろいろな品物…、こちらの品物がこちらに運ばれ…(中略)…日本経済が一挙に活性化した。今、日本で『関所』がありませんか。みなさんがちょっと車に乗ってただちょっと遠くまで行こうと。『関所』があるじゃありませんか。あの(高速道路の)入口に料金所という『関所』があるじゃないですか。これがなくなったらスッキリしますよ」(2003/11/6の衆院東京18区・府中での菅直人代表(当時)の街頭演説会で)
賢明な読者にはわざわざ指摘するまでもないことなのかもしれないが、「デマゴーク(demagog)」(→煽動政治家)の目は完全な節穴だったということが明らかになったわけである。ちなみに「楽市・楽座」と「関所」の廃止の間には直接的な関係がないということは以前説明した通りである(→参考:2003/12/8(5/8)号、2004/3/23号etc.)。日本語を素直に自然に理解するのならば、「タイタニック号」とか「関所」などと叫んで多くの人たちを煽り立てるようなことこそが「煽動政治」ではないかと筆者は考えている。そしてそういう多くの人たちを繰り返し煽り立てるような政治家を「デマゴーク」などと呼ぶのではないかと筆者は考えている。「極端で偏向した『煽動政治』が台頭」しているのは小沢代表の足元の民主党ではないのか。小沢代表の言う「煽動政治」とはいったい何を意味しているのか大いに疑問になってくる。
「(小沢代表の言う煽動政治とはどういうことか、に)いや、それは主として小泉さんのパフォーマンスをね、演出に…、格好良い、あるいは勇ましいね、言葉でね、あの、国民の注意を引きつけてやるっていうのは、それはあまり政治家として…。そういう要素も必要なんだけれども、それだけっちゅうのはよろしくないと。(パフォーマンス政治だと、に)あまりよろしくないと僕は思いますね。(小沢代表が硫黄島に行くのもパフォーマンスじゃないのか、に)もちろんそうです。政治家としてのね。だけど、それをその、ただ単に、その…、国民の注目を集め、人気を集めるためのことであってはいけないと。ましてや総理大臣ですから。最高の責任者、権力者ですからね。それは本当に国民の生活をきちんと、あの、守っていく責任あるわけですから。それなりの実質的なものを伴わなきゃならない。実質的なものを国民のためにやるためのパフォーマンスじゃなきゃいかんですね」(2006/9/24放送のテレビ朝日「サンデープロジェクト」における小沢一郎民主党代表の発言から)
もしかすると「煽動政治」という言葉は、自民党の場合には非常に厳しく、逆に自分の場合にはビックリするぐらい非常に甘かったあの「未納兄弟」と同じような使い方をするとでも言うのだろうか。小沢代表も、その他の民主党の政治家たちも、党や代表の主張や政策と、所属する政治家が実際に唱えている主張の間の矛盾を解消しなければ政権交代にやがて「赤信号」が点灯するということをよく肝に銘じておくべきである。
永田町周辺の「知的レベル」の劣化は「煽動政治」を招く
安倍首相の初の所信表明演説(2006/9/29)直後の野党幹部らのコメントや批判はワンパターンだった。そして多くのマスコミも演説内容や野党幹部らのコメントや批判を十分に「分析」していたとはとても言えない状態であった。やれ具体性に欠けるだの、やれ抽象的だの、やれ言葉が踊っているだけだのと言っていたが、そもそもそれはどこまで本当なのだろうか。賢明な読者は所信表明演説の全文を読んでみればすぐに分かることだろう(→参考:http://www.kantei.go.jp/jp/abespeech/2006/09/29syosin.html)。ちなみに「カタカナ語」が多いという指摘はもっともだが、それは小学生でも真っ先に気づくことである。
どうやら多くの政治家たちは長い演説が頭の中でオーバーフローして自然にワンパターンになってしまったようである。最近の永田町周辺の人間たちは、たぶん母語であるはずの日本語で演説を聞いても十分に分からない、せっかく原稿を渡されてもちょっと長文になると読んでも内容を素早く理解することができないということになってしまうのならば、「日本語のリスニング能力」と「日本語の長文読解能力」が大きく低下しているということになるのだろう。そういう意味では学力低下は実に深刻な状態である。
そしてまた最近は永田町周辺の「自称・政治記者」の「知的レベル」の劣化も止まらない。ついに民主党の小沢代表と安倍首相が「かなり似通っている」だとか、「日米中の三角形を唱える小沢氏と中国との融和に慎重な安倍氏」などという「トンデモ話」も出てきている。もともとは2人とも同じ自民党出身の政治家なのだから、何歳のときに何をやったとか著書を書いたとかなどという都合の良い似ている部分だけを取り出してきて「比較」すればそれは似ているのだろうし、逆に一見違っている都合の良い部分だけを取り出してきて「比較」すればそれは好き勝手にこじつけることも不可能ではないのだろう。
ちなみに筆者の記憶に間違いがなければ、ついこの前までは小泉前首相と小沢代表の経歴などが「そっくり」などというほとんど意味のない「比較」もどこかにあったような気がする。そういうことになると「安倍=小沢=小泉」という関係も成立するということになってしまうのだろうか。最近は強い思い込みに基づいて都合の良い部分だけを取り出してきたお粗末な「雑学」がその他にも多くなっている。こういうことからも、どんなに少なくとも政治ジャーナリズムには、微妙な違いを見分ける能力や、正しく「比較」する能力が求められているということが賢明な読者にはよく分かってもらえることだろう。
どうやら最近は一昔前ならば何度書き直しても「デスク」のチェックを通らなかったであろう「トンデモ話」しか伝えられない人間たちが簡単に「デスク」や「編集委員」になって前途有望な若い記者たちを「指導」しているらしい。いくら経験を積み重ねてもそれに見合った能力を持つことができない「自称・政治記者」の中にも「永田町の『孔乙己』」が増えているようである(→参考:2006/8/22(第6回)号)。そしてそういう「永田町の『孔乙己』」が増えれば、ますます永田町周辺の「知的レベル」の劣化が進み、やがて「政治報道」は「素人政治家」の珍妙な主張を検証せずにそのまま垂れ流して無用の大混乱を引き起こしたり、あるいは私利私欲にとらわれた政治家たちに自由自在に操られて「ポピュリズム」(→大衆迎合主義)や「煽動政治」を台頭させるためのお先棒をかつがされてしまうような状態にまで堕落してしまうのかもしれない。
そして永田町周辺の「自称・政治記者」の「知的レベル」が劣化するだけでも「ポピュリズム」や「煽動政治」が台頭する危険性が十分に高まることになるわけだが、もしも「ポピュリズム」や「煽動政治」を台頭させようとする「よこしまな自称・政治記者」の「心の問題」も厳しく問われなければならない「何らかの特別な事情」があるとするならば、「政治報道」はさらに深刻な状態にまで堕落することになってしまうのだろう。
いずれにしても永田町周辺の「知的レベル」の劣化は「煽動政治」を招くということをよく肝に銘じておく必要があるのである。
政治は「結果」で判断される
「(前略)…『天皇とは、そもそも人々のために立てられたもの』 この仁徳天皇の言葉にこそ、僕は政治の本質が隠されていると思う。 みんなが幸せな生活を、豊かで平穏な生活を送れるようにするために、何をすべきか。それを考えるのが政治の役割、政治家の役割であって、それ以上でもそれ以下でもない。 現代社会はもちろん仁徳天皇の時代とは比べものにならないくらい複雑になっている。古代にはなかった国際政治の問題もあるし、国際経済の問題、地球環境問題も政治の対象だ。 しかし、大胆に言い切ってしまえば、それらの問題は枝葉のことであって、まず一生懸命考えなければいけないのは『どうやってみんなが豊かに幸せに、そして安全に暮らせるようにするか』ということだ。 僕はこれこそが政治のアルファであり、オメガであると思う。 外交や環境問題といった複雑でむずかしい問題も、そこを原点に据えて考えなければ、どんな高論卓説も理想論も意味はない。どんなに世界が平和になり、地球環境が守られていたとしても、そこに暮らしている人々が豊かで安全な生活を送ることができなければ、その政治はやはり失敗なのである。 世の中には、ともすれば小難しい、抽象的な議論をするのが上等だと考える風潮がある。 しかし、学問ならともかく、政治はそうであったら困る。 政治はあくまでも、人々の生活に密接につながっているものであって、だから具体的でなければいけない。 いくら立派なことを言い、それを実行したとしても、肝心の国民が不幸な生活を送っているのでは、それでは正しい政治とはとうてい言えない。僕はそう思っている…(後略)」(p52-54。小沢一郎著、「小沢主義(オザワイズム)」、集英社インターナショナル、2006年から)
「わたしは政治家として十四年目を迎える。この間、素晴らしい仲間にめぐり合ったし、尊敬する先輩の指導を受けることもできた。 政治家の中には、あまり政策に興味を抱かない人がいる一方、特定の政策については細部までつき詰める人たちもいる。政局になると力を発揮する人もいるし、そうしたことには一切興味を示さない人たちもいる。かつては自民党に『官僚派』と『党人派』という区分けがあったが、現在は『政局派』と『政策派』という分け方ができるかもしれない。その意味では、若手議員のほとんどは、かつてと比べて政策中心にものを考える傾向が強くなっているのではないだろうか。 時代は変わったが、わたしは政治家を見るとき、こんな見方をしている。それは『闘う政治家』と『闘わない政治家』である。 『闘う政治家』とは、ここ一番、国家のため、国民のためとあれば、批判を恐れず行動する政治家のことである。『闘わない政治家』とは、『あなたのいうことは正しい』と同調はするものの、けっして批判の矢面に立とうとしない政治家だ。 わたしが拉致問題について声をあげたとき、『右翼反動』というレッテルが貼られるのを恐れてか、運動に参加したのは、ほんの僅かな議員たちだけであった。事実、その後、わたしたちはマスコミの中傷の渦のなかに身をおかざるをえなかった。『応援しているよ』という議員はたくさんいたが、いっしょに行動する議員は少なかった。『闘う政治家』の数が少ないのは、残念ながら、いつの時代も同じだ。 一九三九年、ヒトラーとの宥和を進めるチェンバレン首相に対し、野党を代表して質問に立ったアーサー・グリーンウッド議員は、首相の答弁にたじろぐことがあった。このとき、与党の保守党席から『アーサー、スピーク・フォー・イングランド(英国のために語れ)』と声が飛んだ。グリーンウッドは、その声に勇気づけられて、対独開戦を政府に迫る歴史的な名演説を行ったという。 初当選して以来、わたしは、つねに『闘う政治家』でありたいと願っている。それは闇雲に闘うことではない。『スピーク・フォー・ジャパン』という国民の声に耳を澄ますことなのである」(p3-5(はじめに−「闘う政治家」「闘わない政治家」)。安倍晋三著、「美しい国へ」、文藝春秋(文春新書524)、2006年から)
小沢代表がCMなどで主張しているように本当に「政治とは生活である。」かどうかは別にしても、国民の生活が重要であるということには疑問の余地はない。しかし、目先の国民の生活が良かったり目の前の人たちが不幸でなくなったりすればそれでいいというわけではないはずである。あえてさらに言えば、間違っても目の前の「かわいそうな人たち」だけのことを考えていればいいわけではないし、現在の世代のことだけを考えていればいいわけでもないはずである。「国民」の生活や不幸のことを考える場合には当然、将来の世代も含まれなければならないと筆者は考えている。
繰り返しになるが、たとえどんなに多くの人たちから厳しく批判されることになったとしても、「できないことはできない」などとハッキリ言って多くの人たちを説得するのが有権者の「代表」としての政治家に求められている最も重要な仕事の1つであると筆者は考えている。それを「闘う政治家」と呼ぼうが、「リーダー」と呼ぼうが、それはそれぞれの政治家の自由である。いずれにしても政治家はどんなに多くの人たちから厳しく批判されたとしても「できないことはできない」などとハッキリ言って多くの人たちを説得しなければならないのである。そして政治家の仕事は、言葉ではなく、結果によって評価されなければならないと筆者は考えている。もちろん結果に至るまでの過程が問われないというわけではないが、政治は「結果」で判断されるものであると筆者は考えている。
「(論功行賞とも批判される組閣人事について問われて)まず第1点でありますが、やはり適材適所…、その分野に精通した方、あるいは、例えば…、いわば、その分野をずっと客観的に見てきて優れた見識を持っている方を配置をしたと、このように思います。自民党には雲霞のごとく有為な人材がいます。ですからもちろん…、それぞれのポストについて、自分だったら十分に務まるという方は…、おそらくおられるだろうと思います。そこがなかなか人事の難しいところでありますが、今のこの時点において私が考えた適材適所ということで配置をさせていただきました。そしてまた、これは論功行賞人事では決してないと思います。政治は結果が大切です。しっかりと結果を出せる、そういう方々を私は選んだと思っております…(後略)」(2006/9/26夜の安倍首相の就任後初の記者会見から)
「(前略)…もちろん、その際にはリーダーをいったん選んだ以上は、その人物の考えるとおりに任せる覚悟が国民の側にも必要だ。 リーダーとして一度は担ぎ上げておきながら、まだ改革も進まないうちに、あれやこれやと理由をつけて足を引っ張るのは日本人、ことに日本のマスコミの悪癖だし、それは自分自身の手で未来への可能性をつみ取ってしまうことに等しい。 アメリカのマスコミには、新しい大統領が生まれたときは最初の一年目に限って、その政策を批判しないという不文律があると聞いたことがある。 選挙を経て選ばれた大統領である以上、その政策は国民の支持を得たものであるわけだし、すぐに新政策の当否が判定できるわけでもない。だから、最初の一年に限っては様子を見ようというわけで、僕はこうしたアメリカのマスコミの姿勢をぜひ日本のマスコミも見習ってもらいたいと思っている。 もちろん、国民から選ばれたリーダーが公約を実行しなかったり、あるいは公約どおりのことをやっても予想された結果が出なければマスコミが批判するのは大いに当然のことだ。 しかし、ひとたびリーダーとなったのであったら、まずは任せるという姿勢を示すのが本当のデモクラシーではないかと思っている」(p133-134。小沢一郎著、「小沢主義(オザワイズム)」、集英社インターナショナル、2006年)
これからしばらくの間、筆者は、安倍晋三首相と小沢一郎民主党代表らのお手並みをなるべくおとなしく拝見することにしようと思っている。別に政治指導者側の要請を受けてしばらく「沈黙」を守るというわけではないのだが、やはりある程度の結果が出てくるまでにはそれなりの時間が必要になってくるのである。もちろん今回の場合には安倍首相も小沢代表も共に国民から直接信任されて選ばれたというわけではない。だが、ある程度結果が出てくるまでにはそれなりの時間が必要になってくるということは何も変わらないのである。筆者としては結果が出揃ってきた段階でそれらをまとめて判断することにしたいと思っている。
もう既に賢明な読者は気づいていると思うが、今回の文章の中には、少なくともこれからしばらくの間は日本の政治における諸問題の本質を理解するために役立つであろう「フィルター」や「プリズム」のような「道具」がいくつも含まれているのである。そして今回の文章の中の具体的にどの部分が「フィルター」や「プリズム」のような「道具」になっているのかいないのか、また「フィルター」や「プリズム」のような「道具」になっている場合にも具体的に何の本質を理解するために役立つ「フィルター」や「プリズム」のような「道具」になっているのかなどについては一切宣明しないことにする。
「冷静な状況認識はもとより重要であります。しかしながら、私は、今や大いなる悲観主義から脱却すべきときが来ていると考えます。行き過ぎた悲観主義は活力を奪い去るだけであります。今必要なのは、確固たる意思を持った建設的な楽観主義であると思います。コップの半分の水を、もう半分しか残っていないと嘆くのはたやすいことであります。私は、まだ半分も残っているじゃないかと考える意識の転換が、今まさに求められていると確信するものであります」(1999/1/19の衆院本会議での小渕恵三首相(当時)の施政方針演説から)−。
ちなみに衆院統一補選(→2006/10/10告示、10/22投・開票。神奈川16区・大阪9区)は「選挙区事情」を完全に覆すような劇的な選挙結果にでもならない限り、安倍内閣や小沢民主党の今後を占う「試金石」などにはならないということにもよく注意をしておく必要がある。自民党総裁選でも得票数が予想以上に多かったからどうだとか、少なかったからどうだとかという「分析」や「解説」が盛んだった。だが、そういう類の話が実はあまり意味がないということは「コップの中の半分の水」と同じ「意識の問題」であるということに気づけばすぐに理解することができるだろう。念のために言っておくが、補選が両方とも「まだ半分ある」と楽観的に考えられる結果になると予想しているわけではない。たとえどんな結果になったとしても「まだ」とも「もう」とも考えることができるということをあえて指摘しておきたかったということにすぎないのである。
これから筆者は早めの「冬眠」に入り、やがて日本の政治で大きな意味を持つことになるであろう動きだけを眺めていることにする。それら以外のほとんど意味のない動きは完全に無視してひたすら次回作までの間は「体力」の消耗を避けることにする。もしかしたらかなり長い「冬眠」になってしまうのかもしれない。
<< 完 >>
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)
○「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)
○「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)
○「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)
○サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)
○事実はテレビや新聞よりも奇なり -「小泉新党」から政局が見えてくる- (2005/10/18)
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (2/8) 「ルール」はかなり以前から変わっていた
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (3/8) 「マニフェスト(政権公約)選挙」
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (4/8) 「壁」を破った自民と「壁」が迫ってきた民主
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (5/8) 「あと1年」のために必要なこと
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (6/8) 「小泉新党」から今後の政局が見えてくる
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (7/8) 「こんにちは前原誠司」で良かったのか
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (8/8) 「自動安定化装置」としての「大連立」構想
○この選挙はどのような意味を持つことになるのか(2005/8/26)
○日本は「民主主義立国」になることができるのか(2005/6/27)
○「カルトからの自由」の実現に必要不可欠な挙証責任(2005/2/9)
(参考)前回からの動き(2004/12/25-2005/2/9)
○複数の視点は「連鎖」の理解にも必要不可欠(2004/12/25)
(参考)主な動き(2004/9/21-2004/12/24)
○現実政治の問題解決に必要不可欠な複数の視点(2004/9/21)
○永田町も国際社会も相変わらず「異常なし」(2004/6/22)
○正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23)
○「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (補足(2004/1/12))
○「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5)
(参考) 2003年後半の海外の動き
▽参考:日本の政治。
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