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 最近の日本の政治情勢について(2006/8/22更新)

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 政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。

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 購読料について(2006年版) (2006/12/28更新)


正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)

「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)

「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)

「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)


サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)


「文化」特集−正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- -(2006/8/22)

 前回(2006/5/12)から約3カ月が経過してしまった。屋内設置型湯沸器の事故発生が相次いで明らかになった「パ」から始まるガス器具メーカーが「ナ」から始まる大手家電メーカーと非常に「そっくり」なCMを流すようになっている(→参考:2006/2/1(第1回)号)。もしかしたらまだ夏休み中の読者も多いのかもしれない。
 
 全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)の決勝戦は、早稲田実業と駒大苫小牧が1-1のまま延長15回で引き分け(2006/8/20)、37年ぶりの決勝戦での引き分け再試合となった。そして再試合では早稲田実業が4-3で駒大苫小牧の3連覇を阻んで初優勝を決めた(8/21)。勝者も敗者も互いに相手の力を自然に認めることができるような素晴らしい試合だった。高校野球では勝者が敗者の「代表」になるというような「文化」が再確認されたと筆者は考えている。
 
 前回から間があいたのは執筆中に何度も大幅な原稿の書き直しを迫られる事態が発生したことが主な原因である。最近はすぐに劇的に変化してほとんど意味がなくなってしまう見せかけだけの「大ニュース」が目立っている。筆者から見れば見せかけだけの「大ニュース」に振り回されるということは、ある意味で自分から「経済制裁」の罠にはまっていくようなものである。本質がストック(stock)として残ることがないフロー(flow)だけの「大ニュース」を大々的に報道する意味はないと筆者は考えている。
 
 小泉純一郎首相が靖国神社を参拝した(→2006/8/15,AM7:45頃。首相就任以来6回目(→2001/8/13、2002/4/21、2003/1/14、2004/1/1、2005/10/17に続いて)。現職首相による終戦の日の参拝は1985年の中曽根康弘元首相の公式参拝以来21年ぶり。モーニング姿で本殿に昇殿するが、「二礼二拍手一礼」の神道形式はとらずに一礼のみ。記帳は「内閣総理大臣 小泉純一郎」、献花料3万円は私費で。中国、韓国は反発。靖国参拝を非難する声明を発表、日本大使にも抗議など)。靖国問題はすぐ後で触れることになるからこのまま先に進むことにする。
 
 また昭和天皇が靖国神社参拝を中止したのは「A級戦犯」合祀などに不快感を抱いたことが理由だったということを示す元宮内庁長官のメモが明らかになった(→2006/7/20。富田朝彦元宮内庁長官のメモ。なお「A級戦犯」の合祀は1978年、昭和天皇の最後の参拝は1975年11月)。やはり注目すべき「ポイント」の1つは「心の問題」(→参考:2006/4/17(第4回)号)だったということである。「心の問題」は、昭和天皇の「心の問題」でもあったということである。現時点ではあえてそれ以上のコメントはしないことにする。
 
 さて、通常国会は何事もなく閉会した(2006/6/18)。あれだけ大騒ぎしていた与党も野党も結局のところはほとんど何も成果を上げることができなかったということが注目すべき「ポイント」である。多くの読者も永田町周辺が「4点セット」などと大騒ぎしていた頃のことを遠い昔の出来事として感じているのかもしれない(→参考:2006/2/1(第1回)etc.)。通常国会の確実な成果をあえて一つ挙げるとするならば、憲法改正手続きのための国民投票法案の審議がとりあえず始まり、永田町周辺の人間たちの「頭の中の憲法」の改正作業が着実に一歩進んだということだろう(→参考:2006/2/8(第2回)号)。
 
 さらに国会閉幕後から現時点までに範囲を広げて成果らしきものを永田町周辺から探すとするならば、自民党の「派閥」がほぼ完全に「議員サークル」に変質したことが明らかになったということも挙げることができるのだろう。もしかすると「ギャルサー」(日本テレビ系列ドラマ(2006/6/24最終回、放送終了))で大活躍していた「カウボーイのおっさん」に派手に暴れて説教をしてもらえば「派閥」などに所属して私利私欲を追求する永田町周辺の「害虫」どもはあっと言う間に退治することができるような状態になっているのかもしれない。
 
 小泉首相はイラク・サマワに派遣していた陸上自衛隊の撤収を決定(2006/6/20)した(→7/17に撤収完了。7/25に帰国、7/29に隊旗返還式。参考:2006/2/21(第3回)号)。そして小泉首相は米国・カナダを訪問(6/27-7/1)してブッシュ大統領と「最後」の日米首脳会談(6/29)などを行った。ちなみに日米首脳会談で発表された共同文書「新世紀の日米同盟」などはブッシュ大統領と共に大統領専用機でエルビス・プレスリー邸を訪問した小泉首相のパフォーマンスに完敗した。
 
 また小泉首相はイスラエルによるパレスチナやレバノンでの軍事作戦が始まったちょうどその頃に中東を訪問(7/12-14)、そして「最後」となるロシア・サンクトペテルブルクでのサミット(7/15-17)にも出席した。さらに小泉首相はモンゴルも訪問(8/10-11)したが、実はまだまだ「外遊」は「最後」ではないらしい。いずれにしても注目すべき「ポイント」は、相変わらず首相として「最後」のイベントが続いているということである。
 
 橋本龍太郎元首相が死去した(2006/7/1。8/8に内閣・自民党合同葬)。恒久減税騒動を最大の原因とする参院選(1998/7/12)での記録的な自民大敗を受けて一切の弁解なしに潔く退陣した故・橋本元首相の引き際を思い出した。現時点ではあえてそれ以上のコメントはしないでおくことにする。
 
 橋本元首相死去という新たな事態の発生を受けてさらに文章を書き直していると、今度は北朝鮮が日本海に弾道ミサイルのテポドン2号を含むミサイル合計7発を次々と発射(2006/7/5)し、さらに大幅に文章の書き直しを迫られることになった。ミサイル発射を受けて日本政府は北朝鮮に対する制裁措置を決定・実施した(→2006/7/5。(1)北朝鮮の貨客船「万景峰92」号の6カ月間の入港禁止(→特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法に基づく)、(2)北朝鮮当局の職員の入国は原則として認めない、(3)入港した北朝鮮船籍の乗員の上陸を原則として認めない、(4)在日北朝鮮当局の職員による北朝鮮を渡航先とした再入国は原則として認めない、(5)国家公務員の渡航を原則として見合わせ、日本からの北朝鮮への渡航自粛を要請など。なお7/5朝から新潟西港沖合で停泊していた「万景峰92」号は制裁決定後、人道的配慮によって一時着岸、乗船していた朝鮮学校の生徒ら約210人の乗客を降ろしただけで約2時間後に出港)。
 
 そして国連安保理は北朝鮮非難決議を全会一致で採択した(→日本時間7/16早朝。北朝鮮のミサイル発射を非難し、全加盟国に対して北朝鮮へのミサイルや関連技術などの移転防止と、北朝鮮からのミサイルや関連技術などの流出防止を求めるなどの内容。中国やロシアなどを含む全会一致での採択。なお日本は2006年まで非常任理事国)。さらにサミット(主要国首脳会議。7/15-17)でも北朝鮮のミサイル発射などを非難する声明などが出されたし、また北朝鮮も参加した東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)でもミサイル発射に懸念を示して発射実験凍結を求めるなどの議長声明(7/28)が出された。北朝鮮の国際的孤立は深まっている。
 
 ちなみに国連安保理はイランにウラン濃縮関連活動の全面停止を求める決議(→2006/7/31。イランが8/31までに従わない場合には国連憲章7章に基づく制裁を警告。賛成14、反対1(カタール)の賛成多数)、レバノンでの戦闘停止などを求める決議(→2006/8/12(日本時間)。イスラエルとイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラに対して戦闘停止を求め、レバノン南部の国連レバノン暫定軍(UNIFIL)を増強してイスラエル軍を段階的に撤退させることを求めるなどの内容。全会一致)なども採択している。事態は非常に流動的である。そして現時点ではあえてコメントしなければならないこともない。
 
 筆者はかなり複雑な出来事でもこの部分に注目していれば本質を見失うことがないという「部分」を「ポイント」と呼んでいる(→参考:http://www.jchiba.net/maga/pc.htm)。そして最近は「ポイント」がどこかを見つけ出し、その部分がなぜ「ポイント」になるのかということを理解するための「道具」もそろってきている。本質が含まれていない見せかけだけの「大ニュース」を見分けるときに役立つ数々の「道具」は「文化」の中に豊富に含まれているのである。もしも人類が共有している数々の「文化」を使いこなすことができるならば物事の本質を上手く見極めることもできるのではないかと筆者は考えている。以上のようなことから今回は「文化」特集ということにしたい。
 
 まずは北朝鮮問題と靖国問題の最近の動きを通じて「ポイント」に注目する手法の有効性についてもう少し理解を深めてもらいたいと筆者は考えている。
 
誰のため何のための参拝なのか
 
 「今までの過去5年間の私の靖国神社参拝に対する批判をね、よく考えて見ますと、大方3点に要約されるんじゃないかと思います。まず一つはね、中国、韓国が不愉快にね、反発しているからやめろという意見。これはどうですかね…。私は日中、日韓友好論者なんです…(中略)…どの国ともね、一つや二つ、意見の違い、対立はあります。それで一つの意見の違いがある、不愉快なことがあると。それによって首脳会談を行わないことがいいのかどうか。私はいつでも首脳会談を行う用意があると言っているんですよ。しかも靖国神社参拝を条件にしてね…。その参拝をしなければ首脳会談を行う、するならば首脳会談を行わないというのは果たしていいのかどうか。私はこれはよろしくないと思っています。日本の首相っていうのは、民主的な手続きによって選ばれた首相であります…(中略)…もし私が一つの問題で、私が不愉快に思う、ま、仮にね…。中国、韓国は日本の安保理常任理事国入りに反対しています。これは日本にとっては不愉快だと。だから私は中国、韓国と首脳会談を行わないと言ったらどちらを批判するでしょうか。私は中国が反対しても、韓国が反対しても、首脳会談いつでも行いましょうって言っているんですよ。今回もそうですね。私が拒否してるんじゃないんです。ていうことは、中国の嫌がることはやめなさいというのが靖国参拝の批判の一つですね。中国に不快な思いをさせちゃいけません。中国の言うことを聞きなさい。韓国の言うことを聞きなさい。そうすればアジア外交が上手くいきます。私は必ずしもそうじゃないと思いますね。一つや二つ、どの国も意見の違いや対立があります。そういうのを乗り越えて未来志向で友好関係を進展させていくのが日本としても他国にしても大事じゃないでしょうか。なかにはね…、小泉、アメリカと親しいと。アメリカのブッシュ大統領が靖国参拝するなと言えばしないだろうと。そんなことはありません。ブッシュ大統領が靖国参拝するなと私に言ったとしてもですよ。私は行きます。もっともね、ブッシュ大統領はそんな大人気ないことは言いませんけどね」
 「もう一つはね、A級戦犯が合祀されているから行っちゃいかんという議論。これはね、私は特定の人に対して参拝しているんじゃないんですよ。この戦争でね、苦しい思いをされ…、できれば避けたかった、戦場に行きたくなかった多くの兵士がいるんです。そういう方々の気持ちを思ってね…、なんという苦しい辛い体験をせざるを得ない時代に生まれたんだろうかと。そういう犠牲者に対してね、心からやっぱり哀悼の念を表すべきだなあと。これ日本の文化じゃないでしょうか。特定の人がいるから、あとの人のことは考えなくていいと。一部の自分では許せない人がいるから、それより圧倒的多数の戦没者の方々に対して…、哀悼の念を持って参拝するのがなぜいけないのか。私はA級戦犯のために行っているんじゃないですよ。多くの戦没者の方々に哀悼の念を表す。二度とこのような苦しい戦争をさせてはいけない。そういう気持ちで参拝しているんです」
 「それと第3点、憲法違反だから靖国神社参拝しちゃいかんという人がいる。これもね、憲法第19条(→思想及び良心の自由)、第20条(→信教の自由)、これよく読んでいただきたい。私は神道を奨励するために靖国神社に行っているんじゃありません。いま説明したように。また過去の戦争を美化したり、正当化したりするために行っているんじゃありません。また軍国主義を称揚する、そういうような気持ちで行っているのでもありません…(中略)…(憲法)第19条の『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない』。これどう考えますか。まさに心の問題でしょう。これを日本の首相は…、日本の施設にお参りする、お祈りする。それを外国の政府もっともだと言って、小泉はいかん、小泉を批判する…。これは本当に良いことなのかどうか。今の日本の誰にでも許されている自由という問題をどう考えるのか。私は伊勢神宮にも毎年参拝しています。そのときには何名かの閣僚も随行しています。別に私は強制していません。そして皆さんの前で神道形式に則(のっと)って…、参拝しています。そのときに憲法違反っていう声、起こりませんね。なぜなんでしょうか。私はこういうことから賛否両論あっていいんです。日本は言論の自由、認められていますから。今までもこういうことを私は答弁なり普段の話でしているんです。今回も全くその同じ気持ちで参拝しているんです」
 「(なぜ8/15の参拝なのか、に)これはね、最初、まあ、多くの方々が8月15日だけはやめてくれと…。様々な方から言ってまいりましたね。まあ、そういう方々の意見も聞かなきゃいかんなと…。いうことでね…、あえて(8月)15日を避けて参拝してきましたが、13日、8月…、あるいは4月、10月、1月と…。しかし、8月15日を避けても、いつも批判や反発…。そして何とかこの問題を大きく取り上げようとする勢力…。変わらないですね。いつ行っても同じですね。ならばきょう(8/15)は適切な日ではないかなあと。これから戦没者の追悼式典も行われます。私はこれから千鳥ケ淵の戦没者墓苑にお参りします。戦没者の追悼式典にも出席します。適切な日だなと判断いたしました」
 「(8/15の参拝は過去の談話などに矛盾するのでは、に)矛盾しません。それは過去5年を踏まえて、いつ行っても問題にして混乱にしようとする勢力があるんです。それは仕方ない。そういうことを踏まえて過去の経験が生きてきたわけですね。いつ行っても参拝に…、なんとか争点にしようとか、混乱させようとか、騒ぎにしようとか、国際問題にしようとかいう勢力があるんです。これに対してね、いけないって言ったって…、日本は言論の自由が認められているんですからどうにもなりません。ですからいつ行っても、こういう騒ぎにしようという勢力はあるんですから、8/15に行っても適切じゃないかなあと…(後略)」
 「(総理大臣の立場としての参拝か、に)総理大臣である人間・小泉純一郎が参拝しているんです。(公式参拝か、に)職務として参拝しているものではありません」
 「(「A級戦犯」の戦争責任についてどう考えるか、に) それは戦争の責任を取って…、戦犯として刑を受けているわけですから。それはご本人たちも認めているし…。それはあると思いますが、それとこれとは別です。何回も申し上げているように、特定の人のために参拝するんじゃないです。戦没者全体に対して哀悼の念を表するために参拝しているんです。今言った私の主な3点…。靖国参拝、批判する人、よく考えていただきたい。考えは自由です」
(以上、2006/8/15午前の小泉首相と記者団のやりとり(靖国神社参拝後(AM9:50頃)、首相官邸で)から。参照:http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2006/08/15interview.html)
 
 靖国問題の「ポイント」は、実は参拝の是非ではなく、「目的と手段の関係」と「どうしたら『不戦の誓い』を永遠かつ明確に示すことができるのか」ということであると筆者は考えている。そしてそのことを完全に見失ってしまうと解決できることも解決できなくなってしまうのである。いわゆる靖国問題の「争点化」ということは、「偽者の政治家」などを「正義の味方」にするということとほぼ同じ意味になってしまうと筆者は考えている。
 
 意外に思うかもしれないが、実は小泉首相の靖国神社参拝に反対・批判をする側の「分裂」はかなり深刻な状態なのである。批判や反対という当面の「手段」では一致していても、それぞれの「目的」は深刻な分裂状態にある。現時点ではまだ小泉首相の靖国参拝の波紋によって反対・批判する側の深刻な「分裂」が覆い隠されているが、私利私欲の追求という自己中心的な目的達成のための手段として靖国問題を利用しているだけの「偽者の政治家」(→参考:http://www.jchiba.net/message/05-false.htm)や「デマゴーク(demagog)」(→扇動政治家。参考:http://www.jchiba.net/message/060208-1.htm)が反対・批判する側に実際にはかなり多く紛れ込んでいるのである。本来ならば言うまでもないことだが、当面の「手段」が適切であったとしても、だからと言って「目的」も正しいとは限らないのである。政治の現場では不純な動機を持った「偽者の政治家」や「デマゴーク」の存在は古くて新しい実に深刻な問題である。
 
 いくらなんでも小泉首相は「そこに反対や批判があるから」参拝したということではないのだろう。それでは「誰のため何のための参拝なのか」が理解できなくなってしまう。「目的」は間違っていなかったとしても、「手段」が適切なものでなければ、すべてが不適切に見えてしまうこともあるのである。靖国問題で「説明を止(や)めるな。」(→参考:2006/2/8(第2回)号)などと主張してきた筆者としては、小泉首相が「最後」にまとめた形で説明を残した点については評価することにする。その他には以前にコメントしたことにあえて付け加えなければならないことはない(→参考:2006/4/17(第4回)号、参照:http://www.jchiba.net/message/05yasukuni.htm)。
 
北朝鮮は本当に国家なのか
 
 北朝鮮問題には相変わらず進展の兆しは全く見られない。そしてとうとう北朝鮮は日本海に複数のミサイルを発射した(2006/7/5)。北朝鮮問題の「ポイント」はやはり「北朝鮮は本当に国家なのか」ということである(→参考:2006/2/21(第3回)号)。そして一連の北朝鮮問題の本質的な解決を考える場合に役に立つ「道具」は、政治学や国際政治学よりも心理学(psychology)の中に豊富に存在するかもしれないと筆者は考えている。以前から何度か取り上げている「心理学的アプローチ」(→参考:http://www.jchiba.net/message/0508-psy.htm)を読者はまだ覚えているだろうか。「心理学的アプローチ」を使用して北朝鮮問題を解釈するならば、北朝鮮によるミサイル発射などの一連の「瀬戸際戦術」は、ルールを破ってでもとにかく目的を達成しようとする不適切な「問題行動」や「逸脱」と考えることができるのである。あえて根拠を再確認することもなしに北朝鮮を「国家」であると強く思い込み、北朝鮮問題を政治学や国際政治学などの問題に違いないとばかり考えていると一歩ずつ確実に「カルト」の領域に踏み込むことになってしまうのである。
 
 ちなみに同様に「心理学的アプローチ」を使用して解釈するならば、北朝鮮などが核兵器や弾道ミサイルを開発・保有しようとすることは、心理学の「同一化(identification)」や「取り入れ」などの用語で上手く説明することができるようになる。つまり核兵器や弾道ミサイルなどを開発・保有して米国のような軍事大国と「そっくり」になれば自分たちも米国などと対等になれるなどと強く思い込んでいると解釈することができるのである。子どもたちがヒーローなどの真似をして自分自身もヒーローなどになった気分になっているのならばかわいいものだが、いい歳になった大人がそんなことをしたらみっともないだけである。そしてもしも国家やテロ組織や犯罪組織が軍事大国に「そっくり」になろうとするのを国際社会が黙認してしまったらやがて致命的な危機を迎えることになるはずである。
 
 従って国際社会は、「瀬戸際戦術」は目的達成には全くつながらない完全に間違った方法であるということを誤解の余地のないような明確な形で北朝鮮側に伝える必要があるはずである。韓国や中国やロシアなどだけではなく、かつての米国や日本を含めた国際社会のこれまでのいくつかの行動が北朝鮮側に大きな誤解を与えてしまった可能性がある。もしも北朝鮮が不適切な「問題行動」が問題解決につながる方法であるなどとさらに間違った学習をしてしまうと今後も何度でも「瀬戸際戦術」を繰り返すようになるだろう。
 
 北朝鮮によるミサイル発射に過剰な反応を示す必要は全くないが、北朝鮮側の誤解を解き、そして「瀬戸際戦術」などが間違った方法であるということを確実に理解させるために国際社会による最低限の「制裁」は必要不可欠になってくる。国際社会による「制裁」は、最低でも北朝鮮側に自らの行動が不適切な「問題行動」であると確実に認識させることができるような性質を持たせる必要があるし、また北朝鮮が不適切な「問題行動」を繰り返すたびにますます重くなっていくような性質のものにしなければならないと筆者は考えている。国際社会は一致結束して「瀬戸際戦術」では何もプラスのものを得ることはできず、逆に「瀬戸際戦術」を繰り返せば繰り返すほど多くのものを失っていくということを今度こそ北朝鮮に確実に学習させる必要があると筆者は考えている。国際社会は間違っても北朝鮮に新たな誤解を与えるようなことだけは絶対にしてはならないのである。
 
 ちなみに筆者としては、「戦時作戦統制権」が移管されることになるとしても間違っても北朝鮮に移管されるわけではないし、「青瓦台」の外部を含めた韓国全体が完全に北朝鮮になってから移管されるというわけでも何でもないから現時点では大騒ぎしないでおくことにしたい。だが、北朝鮮によるミサイル発射(2006/7/5)と韓国側の竹島周辺での海洋調査実施(7/5早朝)との関係については時期を見て適切な形で詳細に分析する必要があると考えている。韓国側が竹島周辺での海洋調査を当初の予定よりも急きょ前倒ししたのならばその理由はいったい何なのか。海洋調査が先でミサイル発射がその後だったのか、それとも非常に確度の高いミサイル発射予測情報が先で海洋調査がその後だったのか。あるいは海洋調査とミサイル発射がたまたま同じタイミングになっただけだったのか。そして以上のようなことを明確にした上で「戦時作戦統制権」の移管が日本に与える影響についても時期を見て適切な形で分析・判断する必要があるのだろう。
 
 また筆者としては、「青瓦台」とその周辺に「ピョンヤンのような風景」や「鶏肋」(→けいろく。「鶏のあばらぼね。(少しは肉があるので捨てるには忍びないの意から)大して役に立たないが捨てるに惜しいもの」(広辞苑(第5版)))などがちらっと見えたような気がしたとしても、まだ「国政ブリーフィング」なるものなどで槍玉に挙げられたわけではないからとりあえず大騒ぎしたり過剰に反応したりはしないでおくことにする。ちなみに「鳥インフルエンザ」対策などを科学的に考えて徹底して行う筆者が「鶏肋」を見つけた場合にはどのような対応をするのかということについては読者の想像に任せることにしたい(→参考:2006/2/1(第1回)号)。いずれにしても無原則に「同じ民族」に支援をし続けるようなことは、賭博性が非常に高いゲーム機にのめり込んでいくよりもずっと悲惨な結果を招くということだけは絶対に見失ってはならないはずである。
 
 なお北朝鮮が日本人拉致被害者の横田めぐみさんの夫の可能性が高い韓国人拉致被害者が北朝鮮にいることを唐突に認め(6/8)、韓国に住む母親らに北朝鮮・金剛山での再会(6/28)を許可するなどの動きもあった。さらに在日本大韓民国民団(民団)と在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連、北朝鮮系)が一時60年ぶりに和解して共同声明を発表(5/17)したが、民団内部で批判が相次ぎ、最終的にミサイル発射後に白紙撤回された(7/6)。北朝鮮関係では一度穴を掘ってまたすぐに埋めるような意味不明の動きも多い。しかし、韓国全体を北朝鮮にするような「同じ民族」を無原則に支援する政策とは似て非なる太陽政策、民主主義国家として統一するなどという明確な方針に基づいた「三段階統一論」を唱え続け、そして「拉致という国家犯罪の被害者」でもある金大中前大統領の列車による北朝鮮訪問がもしも実現していたとしたら前大統領は北朝鮮でいったい何と言っていたのだろうかと想像してみたくもなってくる(→参考:2006/5/12(第5回)号)。


「文化」としての科学
 
 「図51のように、白色光をプリズムに通して白い紙に映すと、赤から紫まで連続的に分かれた色が見える。 これは、屈折率が波長によって異なるため、白色光に含まれる赤から紫の光が、それぞれの波長に応じた角度で屈折して進むためである。このように、屈折によっていろいろな色の光に分かれることを光の分散といい、光をその波長によって分けたものをスペクトルという」(p102)、
 「雨上がりの空に虹がかかることがある。虹は、空気中に浮かんでいる多くの水滴によって、太陽光が2回屈折するときの分散により起こる。虹の外側のリングは赤色、内側のリングは紫色である…(後略)」(参考 虹のできるしくみ(p102))
 「白熱灯の光は高温のフィラメントから出る光で、そのスペクトルは波長が広い範囲で連続的に分布した連続スペクトルとなる。一方、水銀灯やネオン管の光は、いくつかの輝いた線がとびとびに分布した線スペクトルを示す(図53)。 一般に、高温の固体や液体から出る光は、連続スペクトルになる。また、高温の気体が出す光は、その気体に特有の線スペクトルになる」(p103)
 「太陽光のスペクトル(図53(b))に見られる暗線を、フラウンホーファー線(筆者注:Fraunhofer)という。これは、太陽の表面から出た連続スペクトルをもつ光が、太陽や地球の大気に吸収されて生じたものである。この暗線の波長から、太陽の近くに水素・ヘリウム・ナトリウムなど多くの元素があることがわかった…(後略))(「COLUMN スペクトルが教えてくれる宇宙のひみつ」(p103)。以上、高等学校 物理T(平成14(2002)年文部科学省検定済)、数研出版から)
 
 「ぼうのある1点をささえにして、ぼうの一部に力を加え、ものを動かしたり仕事をしたりするものを、てこという…(筆者注:図などを省略)…てこには、てこをささえる位置(支点)、力を加える位置(力点)、おもりの位置(仕事をする位置、作用点)がある」(p4)「おもりの位置と支点とのきょりを短くするほど、おもりのてこをかたむけるはたらきが小さくなるので、おもりを楽に持ち上げることができる。 力を加える位置と支点とのきょりを長くするほど、加える力のてこをかたむけるはたらきが大きくなるので、おもりを楽に持ち上げることができる」(p6)「てこがつり合うときのきまり [左のうで] おもりの数(力の大きさ)×支点からのきょり = [右のうで] おもりの数(力の大きさ)×支点からのきょり」(p10)「実験用てこのように水平にささえられたぼうの、支点から左右同じきょりの位置に同じ重さのものをつるすと、ぼうは水平につり合う。 このきまりを利用して、ものの重さをくらべたり、はかったりすることができるようにした道具を、てんびんという」(p12、以上、新編 新しい理科 5下(小学校理科用) 平成16(2004)年2月10日文部科学省検定済)
 
 あくまでも念のために言っておくが、筆者は、似合わない白衣を着てマスコミを煙に巻こうとしていたどこかの国の首相の真似をして読者を煙に巻こうとしているのではない。むしろその逆である。「文化」としての科学に注目すると、複雑な事実関係の解明に役立つと同時に、「偽者の専門家」に欺かれないようにするときにも大いに役に立つ「道具」を用意することができるのである。
 
 実は「スペクトル」の話をただ単に知識として知っているだけでも正しい「要約」とは何かということを理解しようとする場合には非常に役に立つのである。また「対照実験」の話(→参考:2006/2/8(第2回)号)と同じように、「てこ」の話をただ単に知識として知っているだけでも正しい「比較」とは何かということを理解しようとするときには非常に役に立つのである。
 
「科学」と正しい「要約」「比較」との関係
 
 繰り返しになるが、賢明な人たちは情報量が膨大になってそのままの形ではとても処理できなくなってきた場合に「要約」をすることになるが、そうではない人間たちは「要点」を切り捨てた「省略」をしてしまうのである(→参考:2006/2/8(第2回)号etc.)。そして膨大な量の情報を正しく「要約」しようとする場合には「スペクトル」の話は非常に役に立つのである。
 
 例えば、いろいろな波長の光がありすぎて白熱電球の光と太陽光を上手く「比較」することができない場合であっても、プリズムなどを利用してスペクトルを分析すれば、白熱電球の光は「連続スペクトル」、太陽光は「何本かの暗線が観測される連続スペクトル」であるとすぐに分かるはずである。ここで「何本かの暗線」が「要点」であるということが理解できなければ、白熱電球の光も太陽光も「共に明るい」などと簡単に片付ける「省略」をしてしまうことになるのだろう。
 
 逆に「何本かの暗線」が「要点」であるということを理解しているのならば、白熱電球の光は「連続スペクトル」、太陽光は「何本かの暗線が観測される連続スペクトル」などと正しく「要約」するはずである。そうなるとそもそも太陽光にはなぜ「暗線」があるのだろうかという疑問も生じてくるだろう。さらにもしも「暗線」と水素などの「線スペクトル」とを「比較」することができたとするならば、太陽の近くなどに水素などの気体が存在し、太陽光の一部がそれらの気体によって吸収されているから「暗線」が観測されるのではないかという「仮説」を導き出すこともできるようになるのかもしれない。
 
 言うまでもなく最初に正しく「要約」することができなければ、正しく「比較」して「仮説」にまでたどり着くことはできないのである。もしも政治を含めた現実問題でも「要点」を見つけ出すための「プリズム」や「フィルター」のようなものを利用することができるとするならば、難問が山積している状態でも正しく「要約」して正しい「比較」につなげてより多くの問題を本質的に解決することができるようになるかもしれないのである。
 
 何かを正しく「比較」をしようとする場合には「てこの原理」は必要不可欠である。例えば、ある場所と別の場所の降水量を比較する場合には、雨を貯める「容器」には底面積や高さなどが全く同じ「同一の容器」を使わなければならないし、「同一の容器」でも穴が開いた容器」を使ったり「すぐにあふれてしまう非常に小さな容器」を使ったりしたら全く意味はなくなってしまう。さらに実際に正しく「比較」するためには、適切な「同一の容器」を使っていればそれだけで十分というわけではないのである。「比較」するときにそれぞれの「容器」から「支点」までの距離が等しい「てんびん」の状態になっているかどうかということもしっかりと確認しなければならないのである。
 
現実政治と科学の関係
 
 もしかするとまだ多くの読者は「科学」の知識が具体的にどのような形で現実政治の問題に役立つのかがよく分からないままかもしれないから、そろそろ具体例を挙げて説明することにする。意味のある形で現実政治を分析することができるかどうかということは現実政治と科学とを正しく関係付けることができるかどうかで決まってくると言っても決して言い過ぎではないのである。
 
 例えば、首相就任前と就任後で「政治家・小泉純一郎」の主張は変化したのかどうかを明らかにするために調査をすることにしたとしよう。そしてその場合に、国会の議事録に残っている初当選から現在までの小泉首相の国会での質問や答弁をすべて調査するという方法を採用することにしたとしよう。読者は、採用した質問や答弁を含めた「国会でのすべての発言」を調査するという方法が目的を達成するための手段として適切な方法だと考えるだろうか、それとも不適切な方法だと考えるだろうか。またそう考える理由は何だろうか。結論から先に言えば、複数の理由から「国会でのすべての発言」を調査するような方法は目的を達成するための手段としては非常に不適切であり、従って小泉首相の主張の変化を正確に捉えることを期待することはできないということになるのである。
 
 まず「国会でのすべての発言」を調査する方法が不適切であると判断せざるを得ない1つ目の理由である。それは「科学」の話にたとえるならば、同じ「国会でのすべての発言」を対象にしていても、実はそれぞれの時点で使用している「容器の大きさ」が全く違う状態になっているのである。もう少し具体的に説明すれば、首相でも大臣でもない一議員の時代と首相就任後の間で「国会でのすべての発言」を比べた場合には、首相就任後の方が明らかに国会で発言する機会が多くなっているはずである。よって科学的に考えるならば、国会での「発言回数」「発言文字数(あるいは発言時間)」などの数値の大きさからある特定のテーマについての関心の高さを安易に判断するようなことはできないはずである。なぜならたとえ全く同じ程度の高い関心を持っている場合であっても、国会での発言の機会が少なくなれば「発言回数」「発言文字数(あるいは発言時間)」は少なくなるし、逆に国会での発言の機会が多くなれば「発言回数」「発言文字数(あるいは発言時間)」は多くなると予想することができるからである。
 
 「国会でのすべての発言」を調査する方法が不適切であると判断せざるを得ない2つ目の理由としては、実は「国会でのすべての発言」の中に本来ならば等価なものとして一緒にして扱うべきではない「質問」と「答弁」がなぜか一緒に集められているということを挙げることができる。「質問」では、基本的にそれぞれの国会議員が政治家個人としての思想信条や政治的主張に基づいて自由に質問するテーマやその具体的な内容を決めることができる。これに対して「答弁」では、基本的に質問者が質問しないテーマについて勝手に答弁することは許されないのである。さらに「答弁」で政治家個人としての主張を明らかにすることが求められる場合であっても実際には首相や大臣として政府の立場などを代弁することの方が多いのである。もちろん「質問」の場合にも政党の公約や方針などによる一定の制約はあるし、「答弁」の場合にも自分が主張したいことを主張するために強引に脱線していくようなことも少なくはない。だが、やはり「質問」と「答弁」を等価なものとして一緒にして扱うのは明らかに適切ではないのである。
 
 それならば「国会でのすべての発言」ではなく、「質問」と「答弁」を分離してどちらか一方を使えばいいのかというと残念ながらそう上手くはいかないのである。冷静に考えてみればすぐに分かると思うが、首相や大臣としての「答弁」が存在する全く同じ時期には国会議員としての「質問」が存在しないし、逆に国会議員としての「質問」が存在する全く同じ時期には首相や大臣としての「答弁」が存在しないのである。つまりどんなに少なくとも小泉首相が首相を務めている間は、「質問」と「答弁」のどちらを選んでも首相就任前と就任後の主張を正しく「比較」することはできないということになるわけである。少し前の「てこ」の話にたとえるならば、「国会でのすべての発言」では何をどう工夫しても「支点」からの距離が左右で等しくならないから「てんびん」としては使えないという状態なのである。
 
 さらに「国会でのすべての発言」を調査する方法が不適切であると判断せざるを得ない3つ目の理由である。それはまた「科学」の話にたとえるならば、そもそも「国会でのすべての発言」ではある政治家のある時点における主張を正確に把握するための「適切な容器」にはならないということである。要するに、ある政治家の「国会でのすべての発言」をいくら詳細に調査したとしても、それぞれの時点におけるある政治家の主張を大まかに把握することも実はかなり難しいということなのである。「国会でのすべての発言」では正しく「比較」することができないばかりか、そもそも主張を大まかに把握することも難しいということになるのならば、そのような調査には人類共通の知的資産の創造に貢献することができるという意味での学術的な価値はほとんどないということになってしまうのである。
 
 日本の政治にそれなりに興味を持っている読者ならばすぐに納得してくれるとは思うが、一般にどの政治家も自分の主張をいつでも必ず「国会でのすべての発言」で示しているとは限らないのである。「政治家・小泉純一郎」に限らず、特に大物政治家ならばテレビ出演や街頭演説や講演会などという幅広く「公開」されてはいても国会の議事録には絶対に記録されない場所で重要な政治的主張を明らかにしていることも多いのである。また大物政治家であってもそうではない政治家であっても、「部会」などを含めた事実上の「密室」や、報道しない条件で「番記者」だけを対象にする「オフレコ」などのやはり国会の議事録には絶対に記録されない場所で重要な政治的主張を明らかにしていることも実際にはかなり多いのである。ちなみに小泉首相はオフレコ発言をしない例外的な政治家である。だが、一般社会と同じように、現実政治の現場でも、顔なじみだけの「密室」でしか「本音」を明らかにしようとしない政治家の方がずっと多いのである。
 
 以上のような理由から、たとえどんなに多くの時間や資金や人数を使っていくら詳しく国会の議事録に残っている初当選から現在までの小泉首相の国会での質問や答弁だけを調査したとしても、首相就任前と就任後で「政治家・小泉純一郎」の主張が変化したのかどうかなどということを正確に判断することはできないと考えられるのである。さらに付け加えるのならば、万一、主張が変化したかのどうかを正しく判断することがどういうわけか偶然できてしまった場合であっても、なぜ主張が変化したのかという原因を「国会でのすべての発言」だけから明らかにすることはまず不可能であるということにも大いに注目するべきなのである。
 
 要するに、「国会でのすべての発言」を調査する方法では、調査計画自体に致命的な欠陥があるためにどんなに多くの時間や資金や人数を使ったとしてもほとんど意味のない結果しか得られないということなのである。このことをスポーツにたとえるならば、指導者の指導方法が根本的に間違っているためにいつまでたっても試合には勝てず、またトレーニング方法も完全にデタラメだったために選手たちが次々と故障していくというような致命的な状態ということになる。そして最悪の場合には「致命的に間違った指導者」に導かれた集団はカルト集団になってしまうということも絶対に忘れてはならないのである。いずれにしても「政治家名」と「研究」などという言葉を安易に結び付けたとしても、それだけでは人類共通の知的資産の創造に貢献することができる学術的な価値を生み出すことは絶対にできないということは間違いのない事実である。
 
「ア・ボーイ・ビー・アンビシャス(a boy be ambitious)」
 
 ところが調査計画の欠陥のために多くの時間や資金や人数を使っても明らかにできなかったようなことが、適切な方法を用いた場合には何万分の一以下の時間や資金や人数でも簡単に明らかにすることが不可能ではなくなるのである。極端な場合にはほとんど特別なことは何もしていなくても偶然すべてが明らかになってしまうということまであるのである。読者は以前(→2006/4/17(第4回)号)少しだけ触れた「ア・ボーイ・ビー・アンビシャス(a boy be ambitious)」の話を覚えているだろうか。
 
 「『少年よ、大志を抱け』――。小泉首相が自民党総裁選に出馬したきっかけは、そんな言葉だった。欧州歴訪から帰国したばかりの首相は5日、東京都内のホテルで開かれた福田赳夫元首相を『偲ぶ会』に出席し、『秘話』を披露した。 95年の正月、小泉氏が福田氏の私邸に1人で年始参りしたとき、福田氏から『ボーイズ・ビー・アンビシャス(少年よ、大志を抱け)という言葉を知ってるか』と声をかけられた。『君に言っとくけども、これからはア・ボーイ(一人の少年よ)・ビー・アンビシャスだ。良く覚えておけ』と言われたという。 その年、福田氏は死去。小泉首相は秋の福田氏の葬儀で司会を務め、その足で最初の総裁選に立候補する会見をした。現在、長男の福田康夫官房長官と政権を担っていることに『目に見えない何かの縁』と語った」(2001/7/6付朝日新聞朝刊記事から)
 
 もちろんこの記事は朝日新聞のスクープ記事でも何でもなく、他紙にも同様の記事が掲載されている(→参考:2001/7/6付読売新聞朝刊、同日付日本経済新聞朝刊、など)。ちなみにこのエピソードは小泉首相が初めて立候補した1995年9月の総裁選時にも一部では報道されている。当時も総裁選に立候補する意欲も現実的な可能性も共にかなり低いと見られていた政治家が突然立候補する気になった理由はいったい何なのかということが永田町周辺でそれなりに話題になったのである。「ア・ボーイ・ビー・アンビシャス(a boy be ambitious)」という言葉はいくつかの特別な条件が整って正しい適切な文脈の下で使われるのならば「魔法の言葉」になることもあるのである。ちなみに「ア・ボーイ・ビー・アンビシャス」が今現在でも「魔法の言葉」であるのかどうかということを確認することができる機会がもうすぐやってくるのか、そういう機会はもう二度とやってこないのかということは現時点ではまだよく分からない。
 
 何にしても「ア・ボーイ・ビー・アンビシャス」のエピソードは、政治家や政治記者などのごく一部の特別な人間だけではなく、日本の政治にそれなりに興味を持っている人たちにはかなり以前から広く知られていたということになる。従ってこんな有名なエピソードも知らずに「政治家・小泉純一郎」を「研究」しようとする人間がいるとしたらその人間はほぼ確実に「偽者の専門家」である。誰でもこのエピソードを知っているだけで1995年前後に小泉首相の政治家としての主張に大きな変化が見られるかもしれないという「仮説」を簡単に導き出すことができるだろう。そして実際に「政治家・小泉純一郎」を「研究」しようとする本物の専門家や本物の研究者ならば、1995年前後を中心にした小泉首相のあらゆる場所でのあらゆる発言を徹底的に収集し、その上で政治的主張を詳細に分析しようとすることだろう。いずれにしてもその場にいて話を聞いていた記者ならば誰でもすぐに書けるような記事によって何らかの学術的な価値が偶然生み出されることも十分にあり得る話なのである。
 
人気者や有名政治家に「そっくり」
 
 もう一つだけ具体例を挙げて「科学」の知識が現実政治の問題を考える場合に役立つということを説明することにする。どういうわけかテレビの世界だけではなく、政治の世界でも人気者や有名政治家に「そっくり」なことを強くアピールする人間たちがときどき出てくる。2世政治家が初めて選挙に立候補するときなどには「お父さんにそっくりです」などとやっていることも少なくはない。候補者が親に「そっくり」だったとしてもそれがどうかしたのかと筆者は思っているが、まあ、息子や娘ならば似ていることはやはり事実だからとりあえずはそれ以上のことは言わないでおくことにしよう。だが、どこが「そっくり」なのかもよく分からない娘でも息子でも弟子でも何でもないただの「他人」が人気者や有名政治家に「そっくり」などと叫びながら選挙運動しているのを何度か見てしまうと、筆者はそういう選挙運動をしている人間たちの知的レベルを疑わずにはいられなくなってしまうのである。
 
 そもそも有権者の代表を選ぶ選挙に立候補した候補者が人気者や有名政治家に「そっくり」などとアピールしていったい何になるというのだろうか。テレビの「そっくりさん特番」や「ものまね番組」に「うるさいバカな芸のない芸人」がなんとか出演しようとしているのではないはずである。おそらく多くの賢明な有権者たちも「そっくり」だとアピールする意味が全く理解できないのかもしれない。だが、どういうわけか「そっくり」だとアピールしている人間たちは確かに存在するのである。いくら何でも人気者や有名政治家に「そっくり」だとアピールしている人間たちは「そっくり」だと言っていればそのうち人気者や有名政治家に「変身」することができるなどと強く思い込んでいるというわけでもないのだろう。だが、何かいいことがあると強く思い込んでアピールしていることだけは間違いないようである。
 
 筆者には「そっくり」だとアピールすればするほど逆効果になるとしか思えないのである。なぜなら「そっくり」だとアピールすればするほど「対照実験」と同じような状態になって人気者や有名政治家に「そっくり」ではない部分が多くの人たちに分かりやすくクローズアップされることになるからである。「そっくり」だとアピールしている人間たちは、自分たちとしては精一杯の努力をして、人気者や有名政治家を人気者や有名政治家にしている「要点」以外のすべての部分を「そっくり」にしたのだから、きっと多くの人たちも高く評価してくれるだろうと強く思い込んでいる。だが、「科学」を正しく理解できる人たちにとっては、人気者や有名政治家にはこのような「要点」があるからすごいが、「そっくり」だとアピールしている人間たちには「要点」が含まれていないからダメだということが分かりやすくなるだけなのである。
 
 別の説明の仕方をすれば、肝心な部分以外はすべて人気者や有名政治家に「そっくり」になって「そっくり」だとアピールするようなことは、自分自身が「てこ」の「作用点」に乗りながら「支点」をどんどん自分の方に近づけていって、どうか棒の反対側の「力点」から力いっぱい押してひっくり返してくれとアピールしているようなものなのである。多くの読者には、人気者や有名政治家に「そっくり」だとアピールしている人間たちはどんなに少なくとも「科学」の基礎知識すらも理解することができない知的レベルにあるということがよく分かってもらえたことだろう。
 
 科学の世界にも、スポーツの世界などと同じように、「専門家の中の専門家」以外には越えることが難しい高くて厚い壁があり、その壁の向こう側に本物の科学の素晴らしさがあるのではないかと筆者は考えている。壁の向こう側にある本物の科学の素晴らしさに直接触れることができるのは、それを誰の目にも見える形に変えることができる能力を持った超一流の研究者たちだけなのだろう。従って本物の科学の素晴らしさを直接体験している超一流の研究者たちの方が、「伝聞」で知っただけの科学の素晴らしさを素人にも分かりやすい言葉で説明できる人たちよりも、ずっと上手く本物の科学の素晴らしさをそれを知らない人たちに伝えることができるはずである。超一流の研究者たちには、科学という分野での「専門家の中の専門家」として、どんなに少なくても自分自身が直接経験している本物の科学の素晴らしさを自分なりの方法でできるだけ多くの人たちに伝えようとする責任があるはずだと筆者は考えている。
 
 将来の超一流の研究者になる素質を持った子どもたちにとっては、例えば、子ども時代に虹などの自然現象に非常に強い興味を持ち、虹の発生メカニズムなどの「発見」を自分なりに追体験していくうちに、やがて科学(science)の最先端領域の謎の解明に日夜没頭するようになっていった超一流の研究者たちが実体験として語る科学の素晴らしさと、科学を浅く幅広く知っている人たちが素人にも分かりやすく説明してくれる科学の面白さのどちらにより大きな魅力を感じるのかということを一度じっくりと考え直してみる必要があるだろう。


「文化」としてのスポーツ
 
 サッカー・ワールドカップ(W杯)ドイツ大会(2006/6/9開幕)ではイタリアがPK戦の末にフランスを破って優勝した(日本時間7/10早朝)。そして決勝戦ではフランス代表のジダン選手がイタリア代表のマテラッツィ選手の胸に突然強烈な頭突きをしてレッドカードを受けて退場して現役生活を終えるという衝撃的な場面もあった(→国際サッカー連盟(FIFA)は7/20に両選手を処分)。あまり関係はないが、フランスが優勝したサッカーW杯フランス大会の決勝戦(日本時間1998/7/13早朝)と8年前の参院選(1998/7/12)は重なっていたということをふと思い出した。
 
 サッカー日本代表はF組でオーストラリアに1-3で逆転負け(日本時間6/12夜)、クロアチアと0-0で引き分け(同6/18夜)、そしてブラジルに1-4で完敗(同6/23早朝)して1次予選で敗退した。日本代表のジーコ監督が退任の記者会見を行い(2006/6/26)、オシム新監督が就任した(2006/7/21)。また中田英寿選手が現役引退を表明した(2006/7/3)。故・橋本元首相の死去(7/1)などを受けて今回の文章を書き直している最中に「HERO」(フジテレビ系列ドラマ)の特別番組とNHKニュースの速報テロップで知り、すぐにホームページの原文を読んだ(→http://nakata.net/)。「文化」としてのスポーツについては「番外編」(http://www.jchiba.net/message/06-sports.htm)という形で既に書いているから今回は少し切り口を変えることにする。
 
 今回の文章であえて注目するのは、「文化」としてのスポーツの持つ性質、そしてそれらの性質を通じて見えてくる本物の専門家としての責任である。「文化」としてのスポーツには、(1)様々な人たちの間に新しく信頼関係を構築したり、あるいは、何度か壊された信頼関係を修復したりすることができるという性質があるし、さらに(2)その信頼関係を維持していくためにも役に立つという性質もある。また「文化」としてのスポーツには、(3)そのスポーツをやるかやらないかということを完全に自由な状態で責任を持って決めた人たちだけによって支えられているという特徴もあるはずである。どんなに少なくとも民主主義国家では、スポーツの世界に限らず、どの専門的な世界に参加するのか、あるいは参加しないのかということを個人が自由に判断することが許されているはずである。どんな人間でも生まれてから死ぬまでずっと「(政治)社会」に参加し続けて、他者の生命を尊重することなどを含めた様々なルールを守らなくてはならないということと比較してみると「文化」としてのスポーツへの参加が完全な自由であるということをよりよく実感することができるのかもしれない。
 
 そしてこのようなスポーツの持つ「文化」としての性質に注目すれば、本物の専門家に求められる責任も見えてくるのである。本物の専門家には、(1)好きで「その世界」を選んだ者として成功だけではなく屈辱的な敗北なども逃げずに受け入れるという責任、(2)本物の専門家として専門家ではない人たちの「代表」を務めるという責任、(3)「専門家の中の専門家」として「その世界」の素晴らしさなどを分かりやすい形で伝える責任、という少なくとも3つの重要な責任があると筆者は考えている。
 
 ちなみに筆者が以前(→参考:2006/2/8号(第2回))あえて名前を挙げた選手や監督たちは、「専門家の中の専門家」であると同時に、「専門家の中の専門家」としての責任を自覚していると筆者が様々な理由から判断した選手や監督たちばかりである。そして筆者がこれらの「文化」としてのスポーツの持つ重要な性質に注目している最大の理由は、これらの性質が「民主主義社会を構築して発展させる基盤」としても利用することができる可能性が高いと考えているからなのである。
 
信頼のための「道具」
 
 引退表明した中田英寿選手が予選敗退の決まったブラジル戦(2006/6/23)終了後にピッチに倒れたままなかなか起き上がらなかった光景が印象に残っている読者も少なくはないだろう。ラグビーの「アルティメット・クラッシュ(ULTIMATE CRUSH)」(→参考: 2006/2/8(第2回)号)という言葉がピッタリの完敗だったように思う。そしてサポーターたちは敗北後も変わることなく日本代表選手たちを誇りに思うことができたのか、そして選手たちもサポーターたちも今まで戦ったすべてのチームや選手の力を認めて敗北を素直に受け入れることができたのかということが問われていると筆者は考えている。それらのことは日本における「文化」としてのサッカーの成熟度の一つの指標にもなるし、さらに言えば、民主主義社会としての日本社会の成熟度の一つの指標にもなると筆者は考えている。
 
「(前略)…サッカーは世界で最大のスポーツ。
 それだけに、多くのファンがいて、また多くのジャーナリストがいる。
 選手は多くの期待や注目を集め、そして勝利の為の責任を負う。
 時には、自分には何でも出来ると錯覚するほどの賞賛を浴び
 時には、自分の存在価値を全て否定させられるような批判に苛まれる。
 
 プロになって以来、「サッカー、好きですか?」と問われても
 「好きだよ」とは素直に言えない自分がいた。
 責任を負って戦うことの尊さに、大きな感動を覚えながらも
 子供のころに持っていたボールに対する瑞々しい感情は失われていった。
 
 けれど、プロとして最後のゲームになった6月22日のブラジル戦の後
 サッカーを愛して止まない自分が確かにいることが分かった。
 自分でも予想していなかったほどに、心の底からこみ上げてきた大きな感情。
 
 それは、傷つけないようにと胸の奥に押し込めてきたサッカーへの思い。
 厚い壁を築くようにして守ってきた気持ちだった…(後略)」
(以上、中田英寿選手の「人生とは旅であり、旅とは人生である」(2006/7/3付)から。参照:http://nakata.net/jp/)
 
 「(前略)…自分がみんなの期待に、その、100%応えられる…、結果を出していけるっていうところを持って、はじめてプロとしてやっていけると思うので、それがやっぱり100%持てなくなった時点で…、僕の中での、その、プロとしては終わりだなあと。まあ、それは…、まあ、一つの大きな要因ではあるし…。ただ単にプロとしてやる、プロという名前の下にやるっていうだけではやっぱり自分では納得しない。やっぱりそこに自分の納得できる結果を出せて、みんなが納得できる結果を出せて、はじめてやっぱりプロとしてやっていく意味があると思っている。そこに一度…、その…、おカネもらってやれればいいやっていうような感情…。そういう…、やはり自分の中で妥協を一度してしまうと、人生においてずっと妥協してしまいそうだし…。やっぱり一つのことを本気でやるんだったら100%自分の望んでいる形でやりたいと。そういう意味で…、まあ、今回の(筆者注:現役引退の)決断っていうものの…、一つの大きな要因となったっていうことはありますね」
 「今回の、その、ジーコ(筆者注(以下同):サッカー日本代表監督)のやり方っていうのはほんと自由だっていうことを、みんなね、よく言っていたけども、自由っていうのは、その分、責任が出ることであって、逆に言われて何かをするよりも非常に難しいこと。例えば…、試合がもう日曜日だからそれまでの一週間好きにやってって言われるのと、試合が日曜日だから、じゃあ、こういうスケジュールでやっていこうっていうのは…、どっちが簡単かというと、スケジュールを組まれてやる方がもちろん簡単で、自由だから好きにやっていいよって言われて、それに準備してねって言われたら難しい…(後略)」
 「ジーコが明確な…、明確なこういう戦術を与えるわけじゃないから、攻撃もこうやってやりなさいっていうわけじゃないし、ディフェンスもこうやってやりなさいっていうことじゃないから…。だからみんながなんか…、場面々々でどうしたらいいのっていうことが結構多かったんだけど、まあ今回、この4年間ジーコとやって、で、この代表チームを見て、やっぱ最終的に思ったのは……。まだ現時点では、(2002年W杯当時の日本代表監督の)あのトルシエのような、すべてオーダーされる、すべて言われてそうやるやり方の方がまだ合ってるんだなあって。そこから先にもう一歩先に行く…、自分たちの責任を持って自分たちでちゃんとイメージを持ってやるっていうのはまだちょっと早かったのかな…(後略)」
 「あのとき(→筆者注:日本が1-4でブラジルに敗れた2006/6/22のサッカーW杯予選最終戦の後半残り10分以下になったとき)4-1の状態でもう…。そこからね、3点…、5点取れなんて無理な話じゃないですか。無理だとは分かりつつも、走っている自分もなんかピエロみたいで笑えるなと思いながらも、無駄なのも分かってるんだけど、ただ…。やっぱりそこでやめちゃったら、本当に意味のないもので終わっちゃうのかなっていう、自分の中で…。それをやっぱり何か意味のあるものにするためにも最後まで…。何が今できるか。じゃあ、何ができる。点が取れない。ボールが取れない。何がいいか。走るしかできないし。それさえもやめてしまったら全部自分の…。自分にも全部負けてしまうのかなあと…(後略)」(以上、2006/7/15放送の「中田英寿引退特別番組」(テレビ朝日系列)から)の中の中田英寿選手のインタビュー(収録済)から)
 
 当時もプロ意識に欠ける記者たちと何度もかみ合わないすれ違いのやりとりを繰り返していた中田英寿選手がイタリア・セリエAのペルージャに移籍(1998/7/22)したのが約8年前の夏だった。約10年前のアトランタ・オリンピックとその予選(1996年)で「なぜか一人だけなかなか倒されなかった選手」として筆者の印象に強く残ることになった中田英寿選手は「最後の最後まで全力で走り続ける選手」としてピッチを去っていったことになる。時間が経つのは実に早いものである。
 
 たとえマスコミや多くの人たちが取り上げなかったとしても、とりあえずサッカーが好きだという感情を持って真剣に見ていさえすれば、「なぜか一人だけなかなか倒されなかった選手」や「最後の最後まで全力で走り続ける選手」の存在に気づくことは誰でも簡単にできるのだろう。そして感情に加えてある程度の知識をも併せ持っている人間ならば、「なぜなかなか倒されないのか」とか「なぜ全力で走り続けることができるのか」ということについてそれなりに説得力のあることを語ることができるのかもしれない。だが、どんなに分かりやすい言葉で語ったとしても自分が語った内容が正しいということを誰の目にも明らかな形で示すことはなかなか難しいのである。彼らは語ることはできても一流選手とは違って自分自身のプレーで自分の正しさを実際に示してみるようなことはできないのである。「スポーツジャーナリスト」などを名乗るのならば、最低でも一流選手とほぼ同程度の専門的知識と洞察力を持ち、しかも一流選手が自分自身のプレーで実際に示すのに匹敵する方法、つまり自分の主張を誰の目にも明らかな形で正しいと示すことができる自分なりの方法を持っていなければならないと筆者は考えている。
 
 そもそも十分な専門的知識と洞察力を持っていないような人間にはそのスポーツの本当の素晴らしさやその持つ意味が正確に理解できるわけがないのである。だからどんなに分かりやすい言葉で説明したとしてもそのスポーツの本当の素晴らしさが伝わるわけがないということになる。またいくらそのスポーツの本当の素晴らしさやその持つ意味を正しく理解していたとしても、それらを誰の目にも明らかな形で示す自分なりの方法を持っていなければやはりそれを知らない人たちに十分に伝わるわけがないのである。要するに、「専門家の中の専門家」、超一流選手が解説したようなときに、意味のあるものが何も残らなくなってしまうような「偽者の専門家」や素人には「ジャーナリスト」を名乗る資格はないということである。
 
 ちなみにもしも軽薄短小に有名なものや評判の良いものの真似をしたり、あるいは特別に補助金をもらったりして「スポーツジャーナリスト」養成講座などを作ったとしても、すれ違いのやり取りを繰り返さないで済ませることができる程度の能力を持った記者を養成することはできるのかもしれないが、「その世界」の本当の素晴らしさを正確に理解してそれを知らない人たちに伝えることができるような本物の専門家を養成することはまずできないのである。なぜならたとえどんなに分かりやすく伝える高い技術を身に付けることができたとしても、それだけでは今まで本人が十分に分からなかったものや見えていなかったものが決して見えてくるようにはならないからである。本物の専門家とそれ以外の人たちの間、そして「専門家の中の専門家」とそれ以外の人たちの間には、目には見えないかもしれないが高くて厚い壁があるのである。
 
「ジーコ型」と「トルシエ型」
 
 サッカー日本代表のジーコ前監督とトルシエ元監督の指導方法などの違いと似たようなものはサッカー以外の多くの分野でもよく見られる。「とにかく言われたことを言われた通りにやることを求めるような指導方法」(以下、「トルシエ型」とする)と、「基本方針は示しても個別具体的なことはほとんどすべて各自に考えさせるような指導方法」(以下、「ジーコ型」とする)のどちらが適切かなどということは実は教育の現場などでも問題になることが多いのである。なおオシム現監督が「ジーコ型」と「トルシエ型」のどちらの方により近いのかということは賢明な読者にはあえて説明する必要はないだろう。
 
 ちなみに今回のサッカー日本代表でも大きな問題になった「決定力不足」も8年前から指摘され続けたままである。これはあくまでも一般論だが、落ち着いてじっくりと考える時間的な余裕が十二分にあるときでさえも、自分で自由にイメージをし、そのイメージしたことを責任を持ってやりとげることができないというのならば、瞬時に正確な判断と行動が要求される場面で良い結果を出すことはまず不可能であると考えられる。
 
 基礎レベルの技能や知識を身に付ける場合、あるいは「正解」が存在してその「正解」を目標にしてその達成を目指すような場合には、「トルシエ型」の指導方法は効率的であると考えられる。例えば、四則演算のやり方、九九の暗記、漢字の読み書きなどの基礎知識の学習、あるいはほとんどの資格試験や多くの入学試験のための受験勉強の場合には、達成する目標は明確であるから「トルシエ型」の指導方法はかなり効率的なものになる。しかし、逆に「正解」が存在するのかどうかもよく分からない場合、あるいは仮に「正解」が存在したとしても1つとは限らない場合には、「トルシエ型」の指導方法では明らかに限界がある。もしも「正解」が存在しないのにもかかわらず、強引に「正解のようなもの」を作り出して選手や生徒たちにその目標を達成させようとしたとしても「結果」が約束されているわけではないのである。あくまでも強引に作り出した「正解のようなもの」を達成させようとするのならば最悪の場合には選手や生徒たちに完全に間違った努力をさせてしまうことにもなってしまうのである。そういう意味では「正解」が存在するかのどうかもよく分からない場合、あるいは仮に「正解」が存在したとしても1つとは限らない場合には、「トルシエ型」の指導方法は非常に不適切な方法になってしまうのである。基礎知識を知らない、基礎的な読み書きや計算ができないなどということは実に恐ろしいことだが、それらのことは一度知ったりできるようになったりしてしまえば実は大したことではないのである。
 
 もちろん「トルシエ型」の指導方法とは全く別の個人の努力などによって「正解」が存在しない状況にも十分に対応できるような能力を身に付けることはできるのだろう。一つひとつの「言われたこと」の「なぜ」に徹底的にこだわってなかなか「言われたことを言われた通りに」することができない選手や生徒もいないわけではないし、「言われたこと」の意味を即座に自分なりに理解できるセンスのある選手や生徒も何人かはいるのかもしれない。そういう「トルシエ型」の指導方法とは全く別の部分で「言われたこと」の意味を自分なりに考えてきた選手や生徒たちならば、「正解」が存在するのかどうかもよく分からない場合や「正解」が1つとは限らない場合などでもある程度の「結果」を出すことはできるのだろう。
 
 「正解」が存在するかどうかもよく分からない場合、仮に「正解」が存在したとしても1つとは限らない場合には、「ジーコ型」の指導方法が適切であると考えられる。特に基礎レベルの技能や知識が既に十分に身に付いている選手や生徒たちが身に付けたことを使ってそこから何か新しいことを独自に創造していくような場合には「ジーコ型」の指導方法はさらに適切なものになる。あえて言い換えれば、「ジーコ型」の指導方法は、本物の専門家が一段階上の専門レベルを目指すような場合には適切な指導方法ということになる。
 
 例えば、ある程度確実に試合で得点を入れられるようになるためには、ドリブルやシュートや基本戦術の練習をいくら繰り返していてもそれだけでは不十分であり、やはり実際の試合の様々な状況の中で繰り返しゴールを狙い続けなければならないはずである。あるいは、良い論文を書くためには、いくら有名な学者を知っていて彼らの論文をたくさん読んでいたとしてもやはりそれだけでは不十分であり、個別具体的なことを自分自身の頭で考え続けなければならないはずである。そういうことを思い浮かべれば、何か新しいことを独自に創造していくような場合には「ジーコ型」の指導方法が効果的であるということがよく分かるだろう。何か新しいことを独自に創造していく場合には、自分で責任を持って何が必要になってどういうやり方をしたら良いのかなどということを判断できるようにならなければならないはずである。
 
 もちろん「ジーコ型」の指導方法では、各自がいくら真剣に個別具体的なことを考えたとしても基礎レベルの技能や知識が十分に身に付いていない場合にはほとんど無意味な結果に終わるだけである。だが、基礎レベルの技能や知識などはその物事が大好きであるという感情がありさえすれば、その感情に裏付けられた本人の地道な努力だけで自然に身についてしまうことも実際にはかなり多いのである。数学の専門家が目に見える形で数学の本当の素晴らしさを示してくれたおかげで、数学が大好きになって四則演算のやり方や九九を一生懸命に覚えるようになったなどという実例はなかなか見つからないかもしれない。だが、幼い頃に読み聞かせてもらった本が面白かったから本が大好きになってあっと言う間に文字の読み書きができるようになり、さらにもっと難しい本を読んで様々な知識を独学でどんどん身に付けていくようになったという話ならば結構ありふれているのかもしれない。
 
 また「ジーコ型」の指導方法では「正解」がないために「トルシエ型」の指導方法よりも達成状況や成果が見えにくいという欠点もある。本物の専門家には、「その世界」の本当の素晴らしさがよく見えている。だが、その本当の素晴らしさは、多くの人たちの目には見えにくい壁の向こう側にあるのである。多くの人たちには見えない壁の向こう側にある素晴らしいものが一人だけ見えているということは非常に孤独な状態である。そして壁の向こう側の素晴らしいものを実際に誰の目にも見える状態にすることができる能力を持っているのは「専門家の中の専門家」だけなのである。偽者の専門家は多くの人たちには壁の向こう側が見えていないことをいいことに大した意味のないものをさももっともらしく素晴らしいものであるかのように主張し続けるのである。本物の専門家には偽者の専門家が素晴らしいと主張しているものが本物の素晴らしさとは全く別物であることはよく分かっているが、誰の目にも明らかな形でそれが本物の素晴らしさではないということを示すことはなかなか難しいのである。いずれにしても「専門家の中の専門家」が「その世界」の素晴らしさを実際に誰の目にも見える状態にするまでは、偽者の専門家が大いにはびこり続け、本物の専門家にとっては孤独と絶望の日々が続くことになるわけである。
 
 くどいようだが、あえて念のために言っておくが、一般の人たちと同じ目線で物事を見ることができる「市民記者」をいくら募集したとしても、あるいは軽薄短小に有名なものや評判の良いものを真似したり、あるいは特別に補助金などをもらって素人にも分かりやすい言葉で伝えることができるという「なんとかジャーナリスト」などを養成しようとしたとしても、「その世界」の本当の素晴らしさが何であるかということを全く知らない人間が本物の素晴らしさをそれを知らない人たちに伝えることは不可能だということは変わらないのである。「その世界」の本当の素晴らしさを伝えることができるとしたら「その世界」の何が素晴らしいかをよく分かっていて、しかもそれを誰の目にも見える状態にする能力を持っている「専門家の中の専門家」だけなのだろう。
 
好きだからこそ
 
 以前の繰り返しになるが、筆者は「『独自のスタイル』を確立したり、『独自のスタイル』の上にどれだけ多くのものを新しく積み重ねたりしていくことができるかが日本チームや選手たちの活躍を左右する一つのポイントになるのではないか」などと以前(→参考:2006/2/8(第2回)号)書いたことがある。「独自のスタイル」にこだわるということをあえてひとことで言い換えるならば「勝てばそれで良いのか。負ければそれだけで悪いのか」ということである。それぞれの選手の「独自のスタイル」には、その選手の技術や感性、さらにはそのスポーツに対する思いや今まで積み重ねてきた努力などのすべてが凝縮されており、ある意味でその選手の「要約」になっていると筆者は考えている。たとえ勝ったとしても勝つためだけのプレーを繰り返していれば想像以上に多くのものを失ってしまうだろうし、逆にたとえ負けたとしても、自分たちが今まで積み重ねてきたもののすべて出し切ったのならば必ず得るものがあるはずだと筆者は考えている。
 
 ここでサッカー以外のスポーツの世界も少し覗いてそれぞれを「比較」してみることにしたい。
 
 「(あえて得点にならない「イナバウアー」を取り入れたことについて)もうあれはどうしてもこの最高の舞台で…、私のアピールポイントになるものとして見せられるものをやりたいなというのがあったので…。(本当に得点にならない、に)そうですね。なので、カウントとかもしなくていいので、なので、もうここだけが歓声が唯一聞けた場所で、あとはもうスピンしてても、スパイラルしてても、ずっとカウントしているので周りの音はほとんど聞くことができないですけれども…。(ここだけは聞くことができる、に)はい。もう周りの反応が十分に感じることができるのがそこだけなので、気持ち良かったです」「(「アイスクリーム」とカウントしているのか、に)スパイラルで…。そうですね、3秒…、あの、ただ1、2、3、とカウントしてしまうのでは3秒ないので。どうしたら3秒になるかっていうことで、ストップウォッチで測りまして、いろんな言葉を言って。そうしたら『ワン・アイスクリーム、ツー・アイスクリーム、スリー・アイスクリーム』がいちばん3秒に近い。(金メダルを獲得したきのう2/24早朝(日本時間)の演技でもそうだったのか、に)はい。ショート(プログラム)のときなんかは、たぶん映像を見ていただけると分かると思うんですけども、しゃべっているんですよね(笑)。あとで見て私は恥ずかしくなりましたよ。あ、しゃべってるって思いました」(ここまで2006/2/25朝放送のNHKニュース「おはよう日本」から)
 「(3位で迎えたフリーではどんな思いだったのか、に)うーん、あまりその3位だったり、メダルっていうことを意識することがなく、ほんと純粋に…。この舞台を楽しめたらいいなあっていう思いが強かったので、意外とその、試合の前もリラックスして過ごすことができましたし…。うーん。落ち着いてずっとここまで、トリノに入ってからも過ごしてこれたので…。うん。楽しかったですね、全体を通して。(ロシアのスルツカヤ選手や米国のコーエン選手がプレッシャーで失敗する中、どうして冷静に自分の演技を出し切れたのか、に)私はただそこまで…。前回彼女たちはメダルを目指してやってきて、で、今回、金メダルを目指して入ってきてっていう状況の中だったと思うんですけども、私は前回オリンピックに出場できませんでしたし、その前も表彰からはまた遠い場所にいたので、あまりその、メダルがどれだけすごいものだとか、大変なものだっていうことが分かっていなかったんでしょうね。それが逆に…。だから私にプレッシャーを与えなかった原因かなと思います」(2006/2/25夜放送のNHKニュース7から。以上、トリノ冬季五輪のフィギュア女子で金メダルを獲得した荒川静香選手のNHKニュースでの発言から)
 
 「(筆者注:2004-2005年シーズンから導入された)新採点方式のすべてがポイントで評価される点については、不安を否めない部分もある。 というのも、フィギュアスケートは確かにスポーツではあるが、単に勝負を競うスポーツではない。技だけでなく、音楽とすべりを融合させ、優雅さやなめらかさ、柔らかさで『魅せる』スポーツなのだ。 確かに(筆者注:以前の)六点満点方式では、ジャッジによる主観的評価の比重が大きい面もあったが、それは観客もまた、選手のスケートそのものや表現の美しさを純粋に楽しめるという意味でもあった。これが、六点満点方式が一〇〇年以上も採用されつづけてきた所以だろう。 ところが、今の採点方式ではスパイラルは、同じ姿勢を三秒間は保持。六つの挙げられた特徴のうち、五つが入っていればレベル4になるなど、ただ技術を行うだけでなく、高得点をねらうためにより高いレベルを組み込む必要がある…(後略)」(p48)
 「ジュニア選手が、残り一枠のオリンピック代表の座に入った。周りからは好奇の目。一日にして何かが変わったような、何とも言い表せない今までとは違う状況が始まった。何より私が一番面食らったのは、マスコミによる取材攻勢だった。 二〇〇二年に四回転ジャンプを成功させた安藤美姫に対するマスコミの熱狂ぶりには及ばないが、二八年ぶりの中学生のオリンピック代表、しかも、二八年前の代表選手だった福原(筆者注:美和)コーチの教え子ということで、話題となったようだ。全日本選手権の終了直後、急遽日本スケート連盟が用意した狭い記者会見場に、新聞、雑誌、テレビの記者たちが詰め掛けた。 『試合中は緊張した?』『オリンピックはいつから意識した?』といったオーソドックスな質問から、『音楽は何が好き?』『普段は何をしているの?』など、スケートとはまったく関係ない質問まで、矢継ぎ早に浴びせられた。 記者会見など、初めての経験だった私は、しどろもどろになりながら、記者の質問に答えるのに精一杯だった。 ところが、これはただの始まりに過ぎなかった。 全日本選手権の翌日から、練習中のリンクに記者たちが詰め掛け、リンクの外ではカメラマンにいきなり追いかけられたりもした。当時はまだ、日本スケート連盟もマスコミから選手を守るという考えはなく、『お行儀よくしなさい』『挨拶はきちんとしなさい』『あなたたちを取材してくださっているのだから、聞かれた質問にはきちんと答えなさい』と繰り返すだけで、取材慣れしていない身としてはどうしていいか途惑うばかりだった。 日本スケート連盟から指導されていたにもかかわらず、カメラがこちらに向けられていると思ったら、わざとそちらは向かないなど、今から考えると私の態度はあまり褒められたものではなかったと思う。 しかし、『オリンピックまでもう時間がないのだから、練習に集中させて欲しい』というのも、本音だった。 そう、私にはマスコミに気を取られている時間はなかったのだ。 全日本選手権の最終日、カルガリー五輪への内定が出たのが(筆者注:1988年の)一月一五日。オリンピック開幕まで残り一カ月を切っていた」(p92-93)
 「プレッシャーと焦りから、私は何度もフィギュアスケートを辞めようと思った。しかし、どんなに辛くても、翌朝にはいつものようにリングに立つ自分がいた。 スケートが好き。私が今日までスケートを続けることができた理由は、ただそれだけである。スケート以上に面白いものが、私には見つけられなかった。それは今も少しも変わらない。 オリンピック出場は、勝った人にとっては財産になり、負けた人には負債になるとよくいわれる。 私の場合は、カルガリー五輪から辛いことが始まったようだった。仮にオリンピックに出ていなくても、スランプに陥り、辛く苦しい思いをしたかもしれない。今となっては、誰にも分からないことだ。 一つだけ確実にいえることは、私は一八年経った今でも、オリンピックに出場したことは、自分にとって何かの形として残っているわけではないけれども、素晴らしい形なき財産を残してくれたということだ…(後略)」(p108-109。以上、八木沼純子著、女子フィギュアスケート−氷上に描く物語、角川書店(角川oneテーマ21,C-104)、2006年から)
 
 フィギュアスケートの世界でも「試験問題の話」(→参考: 2006/2/8(第2回)号)と全く同じようにそれぞれの選手たちの能力や実力を正しく測定するということはかなり難しいということがよく分かるだろう。そしてやはり「結果」が出なければ今までの努力などがすべて否定されるわけではないし、逆に良い「結果」が出さえすればそれだけで他のこともすべて良くなるというわけでもないということである。
 
 ちなみに八木沼選手はプレッシャーだけではなく、ある意味でマスコミとも戦い続けた経験を持っていたということを思い出した。そして荒川選手はアマチュアを引退してプロになり(2006/5/7)、スケート以外の様々な場所にも進出するようになった。時間が経つのは早いものである。
 
なぜ30年なのか
 
 さて、次は野球である。「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」直前(2006/2/21)にイチロー選手が向こう30年は日本に勝てないと思わせるような形で勝ちたいと発言したなどと繰り返し報道されて韓国などで大きな波紋が広がっていた。筆者は「30年発言」を直接聞いたわけではないから深入りは避けるが、「なぜ30年なのか」「本当は日本とどこの間の話なのか」などと一歩踏み込んで深く考えていくと実に興味深いものがあった。もしかしたら大リーグでプレーをしているマリナーズのイチロー選手は米国と日本の野球の「比較」からいつまでも逃れることができないのかもしれないし、あるいはそうではないのかもしれない。ちなみに約30年という時間はだいたい「一世代(one generation)」であり、その約30年前には日本代表(兼ソフトバンク)の王貞治監督も現役選手として活躍していた。もしかすると地球上の「野球語」が分かる人たちにとってはイチロー選手の「真意」を理解するために野暮な説明は必要なかったのかもしれない。いずれにしても野球は間違いなく日本に定着した「文化」でもあるのである。そしてそのことは高校野球の応援などを見ても分かるのかもしれない。
 
 ちなみにイチロー選手は大リーグのオールスター戦に6年連続出場している(2006/7/12)。そして王監督はシーズン途中で緊急入院して胃がんの手術に成功(2006/7/17)している。時間が経つのは早いものである。
 
 「(前略)…武士道は上述のごとく道徳的原理の掟であって、武士が守るべきことを要求されたるもの、もしくは教えられたるものである。それは成文法ではない。精々、口伝(くでん)により、もしくは数人の有名なる武士もしくは学者の筆によって伝えられたる僅(わず)かの格言があるに過ぎない。むしろそれは語られず書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法たることが多い。不言不文であるだけ、実行によって一層力強き効力を認められているのである。それは、いかに有能なりといえども一人の人の頭脳の創造ではなく、またいかに著名なりといえども一人の人物の生涯に基礎するものではなく、数十年数百年にわたる武士の生活の有機的発達である。道徳史上における武士道の地位は、おそらく政治史上におけるイギリス憲法の地位と同じであろう。しかも武士道には、大憲章(マグナ・カルタ)もしくは人身逮捕令(筆者注:人身保護法)に比較すべきものさえないのである…(後略)」(武士道、p27-28(第1章))
 「Bushido, then, is the code of moral principles which the knights were required or instructed to observe. It is not a written code; at best it consists of a few maxims handed down from mouth to mouth or coming from the pen of some well-known warrior or savant. More frequently it is a code unuttered and unwritten, possessing all the more the powerful sanction of veritable deed, and of a law written on the fleshly tablets of the heart. It was founded not on the creation of one brain, however able, or on the life of a single personage, however renowned. It was an organic growth of decades and centuries of military career. It, perhaps, fills the same position in the history of ethics that the English Constitution does in political history; yet it has had nothing to compare with the Magna Charta or the Habeas Corpus Act.」(CHAPTER 1(p24))
 
 「(前略)…上杉謙信は十四年の間、武田信玄と戦ったが、信玄の死を聞くや『敵の中の最も善き者』の失せしことを慟哭(どうこく)した。謙信の信玄に対する態度には終始高貴なる模範が示された。信玄の国は海を距(へだた)ること遠き山国であって、塩の供給をば東海道の北条氏に仰いだ。北条氏は信玄と公然戦闘を交えていたのではないが、彼を弱める目的をもってこの必需品の交易を禁じた。謙信は信玄の窮状を聞き、書を寄せて曰く、聞く北条氏、公を困(くるし)むるに塩をもってすと、これ極めて卑劣なる行為なり、我の公と争うところは、弓箭(ゆみや)にありて米塩にあらず、今より以後塩を我が国に取れ、多寡(たか)ただ命(めい)のままなり、と。これはかの『ローマ人は金をもって戦わず、鉄をもって戦う』と言いしカミラスの言に比してなお余りがある。ニイチェが『汝の敵を誇りとすべし、しからば敵の成功はまた汝の成功なり』と言えるは、よく武士の心情を語れるものである。実に勇と名誉とは等しく、平時において友たるに値する者のみを、戦時における敵としてもつべきことを要求する。勇がこの高さに達した時、それは仁に近づく」(武士道、p47-48(第4章))
 「Kenshin, who fought for fourteen years with Shingen, when he heard of the latter's death, wept aloud at the loss of "the best of enemies." It was this same Kenshin who had set a noble example for all time in his treatment of Shingen, whose provinces lay in a mountainous region quite away from the sea, and who had consequently depended upon the Hojo provinces of the Tokaido for salt. The Hojo prince wishing to weaken him, although not openly at war with him, had cut off from Shingen all traffic in this important article. Kenshin, hearing of his enemy's dilemma and able to obtain his salt from the coast of his own dominions, wrote Shingen that in his opinion the Hojo lord had committed a very mean act, and that although he (Kenshin) was at war with him (Shingen) he had ordered his subjects to furnish him with plenty of salt − adding, "I do not fight with salt, but with the sword, "affording more than a parallel to the words of Camillus, "We Romans do not fight with gold, but with iron." Nietzsche spoke for the Samurai heart when he wrote, "You are to be proud of your enemy; then the success of your enemy is your success also." Indeed, valour and honour alike required that we should own as enemies in war only such as prove worthy of being friends in peace. When valour attains this height, it becomes akin to Benevolence.」(CHAPTER 4(p47-48))
(以上、武士道、新渡戸稲造著、矢内原忠雄訳、岩波文庫(青118-1)、1938年(改版1974年)(原著:BUSHIDO, THE SOUL OF JAPAN, Inazo Nitobe, 1899(増訂1905年)。例えば、IBC Publishing, 2003, ISBN 4-925080-37-7など)から)
 
 新渡戸稲造が「武士道」を書いた時代と現在とでは全く時代が違うが、サッカー日本代表を応援する「SAMURAI BLUE 2006」から「武士道」を連想した人たちも少なくはなかったことだろう。もしもスポーツを自分の心の中を言葉よりも上手く表現するための「道具」として使いこなすことができるのならば、世代や国境を比較的簡単に越えることができる人類共通の「道具」としても使うことができるのである。そういう意味では「武士道」のような考え方は世界共通のものになるのではないかと筆者は考えている。
 
 あるスポーツの試合で戦ったチームとそのサポーター同士が試合を通じて互いに相手のことを理解するようになり、負けた側も素直に敗北を受け入れて勝った側をある意味で自分たちの「代表」と考えてその後の活躍を心から喜ぶことができるようになるのならば、「文化」としてのスポーツは信頼醸成などのための「道具」として使うことができるようになる。つまり様々な人たちの間に信頼感を醸成し、あるいは、壊された信頼関係を修復してその信頼を維持するために大きな役割を果たすことができるようになると考えることができるのである。
 
 スポーツの世界を見ていると、政治の世界でも非常に重要な「代表とは何か」(→参考: 2006/2/21(第3回)号etc.)ということに対する一つの分かりやすい答えが見えてくるかもしれない。「代表」とは様々な意味で「自分自身と同じ」ということを意味しているのである。勝ったときには自分のことのように代表選手たちと一緒に喜び、負けてしまったときには自分のことのように一緒に悔しがる。勝っても負けても「代表」は「自分自身と同じ」ということは変わらないはずである。もしもある社会が「代表」が勝てば自分のことのように喜ぶが、負ければ「犯人捜し」をして厳しく批判したり、あるいは、何事もなかったかのように他人事にしてしまうような社会であるのならば、その社会は、自分たちが選挙で政党や議員を選んだ結果を真正面から受け入れることができない無責任な「お任せ民主主義社会」である可能性が高いのかもしれない。そういう意味で「文化」としてのスポーツの成熟度と民主主義社会としての成熟度の間には何らかの密接な関係が存在するかもしれないと筆者は考えている。
 
 日本代表に限らず、そしてサッカーに限らず、「代表」のユニフォームを着て、「代表」として試合をする選手たちには、これまでの競争や試合の中で打ち負かしてきた多くの敵からも尊敬されて「代表」と認められるプレーをしなければならないという意味での「責任」もあるはずである。あるスポーツで敵からも尊敬されるようなプレーが繰り返されるたびにそのスポーツは本当の意味での人類共通の「文化」に向けて一歩ずつ近づいていくことになると筆者は考えている。そしてそのことは地球上のすべての場所で共有することが可能な「民主主義社会を構築して発展させる基盤」が整備されるということも同時に意味していると筆者は考えているのである。


ヒーローやヒロインになるためには
 
 日本の政治はいったいどうなったのかという声がどこかから聞こえてくるような気もしないではない。科学、そしてスポーツ…、文化も結構だが、日本の政治はいったいどうなっているのかと不満に思っている読者もそろそろ出てきているのかもしれない。
 
 読者や視聴者に不満を感じさせちゃいけません、読者や視聴者の言うことを聞きなさい、そうすれば「商売」は上手くいくという意見もあるかもしれないが、筆者はそのようには考えていない。またもしも賢明な読者が日本の政治はどうなったのかと筆者に言ったとしても、それでもやはり筆者は日本の政治とは直接関係のない話をまだ続けることになる。もっとも賢明な読者はそんな大人気ないことを言わないだろうとは思っているが、筆者としてはもう少しだけ日本の政治とは直接関係のない話を続けなければならないのである。ちなみにどこかで似たようなセリフを聞いたような気がしている読者はもう完全に日本の政治に毒されているから「中毒」を避けるためにしばらく日本の政治の話題から離れていた方がいいだろう。
 
 さて、ここで簡単な頭の体操をしてみることにしようと思っている。ヒーロー(hero)やヒロイン(heroine)になるための条件というものをあえてここで考えてみることにする。例えば、サッカーの中田英寿選手やジダン選手、野球のイチロー選手や松坂大輔投手、あるいはスケートの荒川静香選手などはどうして子どもたちのヒーローやヒロインになることができたのだろうか。
 
 当たり前と言えば当たり前の話だが、まず、どんなに少なくとも、(1)その国や社会が平和で治安が十分に維持されている状態である必要がある。銃弾やミサイルが次から次へと飛んでくるような状態ではスポーツどころの話ではなくなってしまうからである。そして(2)サッカーや野球やスケートなどの「それぞれの世界」が腐敗しておらず、しかも社会全体からそれなりに注目されている状態である必要がある。例えば、常に理不尽な判定がまかり通るような腐敗した「世界」ではどんなに高い能力を持っていたとしても絶対に活躍することは許されないかもしれないからである。また社会全体から全く注目されていなければどんなに活躍したとしてもヒーローやヒロインになれるわけがないからである。
 
 以上のような(1)、(2)の条件を共に満たした上で、(3)本人が「その世界」で非常に高い能力を持っているということを明確に示すことができるのならば、彼・彼女はヒーローやヒロインになることも不可能ではなくなっていくのである。要するに、(1)の上に(2)があり、その(2)の上に(3)があって初めてヒーローやヒロインが誕生する可能性が出てくるという少なくとも「3階建て」の条件が必要になっているわけである。
 
 スポーツの一流選手はそのスポーツの世界で高い能力を持っていれば必ず一流選手になれるというわけではないのである。どんなに高い能力を持っていたとしても、そのスポーツとそのスポーツを支えるファンがいなければ一流選手になれるわけがないのである。もちろん一人ひとりの選手の能力を公正に評価する仕組みが整っているということも大前提になっている。いずれにしても一流選手はそのスポーツとそれを支えるファンが存在してこその一流選手だということである。
 
 もう一つ別の具体例も挙げておくことにしよう。例えば、どんなに腕の良い猟師であっても狩猟ができる場所があって初めて腕の良い猟師でいることができるのである。だからいくら名人芸を持っている猟師であっても獲物をどんなにたくさん取っても構わないというわけではないのである。乱獲して狩猟ができる場所をなくしてしまったら自分で自分の首を絞めることになるからである。従って「その世界」の評価をずり下げるような人間や「カルト」などは自分たちが立っている土台を自分自身で食いつぶしているということになるのである。「それぞれの世界」の素晴らしさやヒーローやヒロインのすごさが理解できるのならば、それらの基盤の重要さも理解できるはずである。
 
 ヒーローやヒロインがヒーローやヒロインでいられるのは彼・彼女たちをヒーローやヒロインにしている「それぞれの世界」があるからである。逆に言えば、彼・彼女たちが「それぞれの世界」でどんなに高い能力を持っていたとしても、「それぞれの世界」がなければヒーローやヒロインになることはできないのである。もちろん「それぞれの世界」から恩恵を受けているのはヒーローやヒロインだけではない。「それぞれの世界」にはヒーローやヒロインにはなれないかもしれないが、それでも「それぞれの世界」が好きでそれぞれに自由な程度で「それぞれの世界」に参加している多くの人たちもいるはずである。ヒーローやヒロイン以外の人たちも「それぞれの世界」から何らかの利益を得ているという点では同じなのである。いずれにしても「それぞれの世界」から恩恵を受けているすべての人たちにとっては「それぞれの世界」が健全な状態にあるかどうかについては決して無関心ではいられないということになるのである。
 
 このことは何度か繰り返して使っている「(4)環境とその内部の行為者(主体)は相互作用する」という「法則」のようなものを使って考えると分かりやすくなる(→参考:2006/2/8(第2回)号))。この場合は一流選手が「行為者(Bの円)」、そのスポーツとそのスポーツを支えるファンを含めたすべて(→「全体」から一流選手を除外したもの)が「環境(Aの円)」になる。そして以前に用いた表現を再び使えば、Aグループの大きな円の中にBグループの小さな円が完全に入ってしまう状態、つまり「パン(Aの円)とフランスパン(Bの円)の関係」と基本的には同じ状態になるわけである。
 
 民主主義社会は「それぞれの世界」を構築して発展させる基盤になっているのである。そして「文化」としてのスポーツでも触れたように、逆に「それぞれの世界」も「民主主義社会を構築して発展させる基盤」にもなり得ると考えられるのである。
 
「自浄作用」とは何か
 
 さて、今度は先程とは逆のケースについても頭の体操をしてみることにしようと思う。今まで一流選手や立派な人物だと思っていた人が実はそうではなかったということに気づいたような場合を考えてみることにする。つまり一流選手や立派な人物の能力に何らかの問題があると分かったケースである。
 
 まず、かつては間違いなく一流選手や立派な人物と呼ばれるのにふさわしい能力があったが、今現在はそう呼ばれるのにふさわしい能力を持っていないという場合があるだろう。例えば、一流選手でも歳を取れば能力が落ちてしまうということもあるだろうし、かつては間違いなく立派な人物だったとしても今現在はすっかり堕落してしまって全く尊敬できない人物になってしまったということもあるのだろう。
 
 あるいはまた、実は一流選手や立派な人物などと呼ばれるのにふさわしい能力など最初からなかったにもかかわらず、なぜか「一流選手」や「立派な人物」などにされてしまっていたという「化けの皮」がはがれるようなケースも考えられる。ちなみにテレビの世界ならば本人の意思とは無関係に勝手に「虚像」を作り上げてしまわれるようなこともあるのだろう。そして多くの人たちが「虚像」に気づいたときには有名人らとの「コネ」か「しがらみ」、あるいは「身だしなみを確認するための手鏡」ぐらいしか残っていないということもあるのだろう。
 
 いずれにしても本人の能力が問題になる場合には、「文化」を使って知性で本当に能力があるかどうかを判断するという正攻法が効果的な方法になる。そして本人の能力に問題がある場合には、本人の「自律」によって本人が「その世界」から立ち去る場合もあるし、「その世界」の「自浄作用」にゆだねられる場合もあるだろう。
 
 一流選手や立派な人物の能力に問題がなくても、彼・彼女たちがよって立つ「集団」に何らかの問題があるケースもある。ある「集団」などに何らかの問題があるかどうかということを見分けるための「ポイント」の一つは、その「集団」の中に「様々な意味で問題のある人物」が存在するかどうかを確認するということである。もしも「集団」の中に「様々な意味で問題のある人物」が生き残っているのならば、その「集団」では「自浄作用」が正常な形で機能していないということになるから、その「集団」はカルト集団のような問題だらけの集団である危険性が高いと判断することができるのである。
 
 ここであえて強調しておくが、間違ってもその「集団」の中に立派な人物がいるかどうかでその「集団」の性質を判断すべきではない。あくまでもその「集団」の中に「様々な意味で問題のある人物」が生き残っているかどうかでその「集団」の性質を判断するべきである。なぜならカルト集団などのような問題だらけの集団は、立派な人物やテレビなどで有名な人物を「広告塔」として利用することが非常に多いからである。ちなみにカルト集団などのような問題だらけの集団の中に何人か立派な人物や正常な人間がいたとしても圧倒的多数の「カルト」から取り囲まれているうちにやがてはその人たちも「カルト」にされてしまうであろうということは、「(4)環境とその内部の行為者(主体)は相互作用する」という例の「ベン図」を使った「法則」のようなものを使えばすぐに分かることだろう。
 
 最近何かと話題の「カルト」や腐敗した集団などを例にして引き続き説明してみることにしよう。ある集団が「カルト」や腐敗した集団などであるかどうかをほぼ確実に見分けるためのもう一つの「ポイント」は「部分と全体の関係」である。例えば「スポーツチーム」のような普通の集団の場合には、自分たちは「スポーツ選手」である前に「社会人」であるということを忘れることはないだろうし、「社会人」なら誰でも「スポーツ選手」だとか、有名な「スポーツ選手」でありさえすれば誰でも立派な「社会人」であるなどという勘違いをすることも絶対にないだろう。ところが「カルト」の場合には、どういうわけか社会全体が自分たちの「集団」と同じようなものであるなどと強く思い込んでいるのである。だから自分たちの「集団」の中で絶対的な存在である「教祖」に社会全体も従うべきだとか、社会全体の人たちが自分たちの「集団」に入るのは当然などというとんでもない勘違いをしているわけである。「全体」があってこその「部分」であり、「部分」があってこその「全体」である。そして間違っても「全体」が「部分」でも、「部分」が「全体」でもないということである。そういう意味で「部分と全体の関係」は「カルト」を見分けるための「ポイント」の1つになるのである。
 
 もしも「集団」に何らかの問題がある場合であっても、それよりも上位の「それぞれの世界」や、さらにその上の社会全体が正常であれば、その「集団」から問題を除去することは不可能ではない。カルト集団の詐欺的行為はもちろんそのカルト集団内ではルール違反にはならないし、法律などの社会全体のルールにも違反しないことも実際には多い。だが、カルト集団よりも上位の「それぞれの世界」のルールに違反する場合も少なくはないから「それぞれの世界」の「自浄作用」によってカルト集団を排除することを期待することもできるのである。
 
 カルト集団は「同じ世界」の集団や個人による「自浄作用」でたたきつぶすことはできる。そしてもちろんカルト集団の詐欺的行為が法律などの社会全体のルールにも違反するようなときには社会全体から強制力のある形で処罰されることになる。だが、カルトだと気づかなければ「自浄作用」などを発揮することを期待することはできないのである。
 
 多数の女性を食い物にする宗教団体の看板を掲げる胡散臭い集団だけが「カルト」ではない。指導者を含めてその「集団」の中に「様々な意味で問題のある人物」が存在していればカルト集団である危険性が高いことになるのである。また指導者が「全体」があってこその「部分」であり、「部分」があってこその「全体」であるということを完全に見失っている集団はほぼ確実に「カルト」ということになる。「議員グループ」も例外ではない。私利私欲にとらわれた自己中心的な主張を繰り返す指導者への支持を強要するような「議員グループ」は事実上の「カルト」である。ちなみに筆者は「カルト」とは「事実との真正の結合とは全く無関係な強い思い込み」またはそういう強い思い込みをする人間たちのことであると考えている。
 
 ある「集団」で「自浄作用」が機能せずに「カルト」や「様々な意味で問題のある人物」がそのままになってしまえばやがてその集団全体がカルト集団になってしまうこともあるのである。また「それぞれの世界」で「自浄作用」が機能しなければカルト集団が強大な力を持って社会全体に対して重大な脅威になることもあるのである。そうなってしまうといよいよカルト集団が明確な法律違反を犯すまでは社会から排除することはなかなかできなくなってしまうのである。もう多くの読者は「自浄作用」の重要性をよく理解してくれていることだろう。
 
エリート集団の「自浄作用」
 
 それぞれの「世界」で「自浄作用」が正常に機能しなければカルト集団が生み出されてしまうということは、もちろん医者、弁護士、学者などのエリート集団の「世界」でも例外ではない。
 
 医者の世界には、例えば、「A physician shall always maintain the highest standards of professional conduct(医師は、常に専門職としての行為の最高の水準を維持しなければならない)」「A physician shall deal honestly with patients and colleagues, and strive to expose those physicians deficient in character or competence, or who engage in fraud or deception(医師は、患者や同僚医師を誠実に扱い、人格や能力に欠陥があったり、欺まん、またはごまかしをするような医師の摘発に努めるべきである)」(以上、World Medical Association International Code of Medical Ethics(医の倫理国際綱領(世界医師会)、英文:http://www.wma.net/e/policy/c8.htm)から。なお日本語は日本医師会訳(→http://www.med.or.jp/wma/ethics.html)より)という「自浄作用」につながる内部でしか通用しない独自のルールがある。
 
 同じように弁護士の世界にも、例えば、「弁護士は、基本的人権の擁護と社会正義の実現を使命とする。 その使命達成のために、弁護士には職務の自由と独立が要請され、高度の自治が保障されている。 弁護士は、その使命を自覚し、自らの行動を規律する社会的責任を負う…(後略)」(前文)、「弁護士は、真実を尊重し、信義に従い、誠実かつ公正に職務を行うものとする」(5条)、「弁護士は、名誉を重んじ、信用を維持するとともに、廉潔を保持し、常に品位を高めるように努める」(6条。以上、弁護士職務基本規程(日本弁護士連合会、2004/11/10制定)から。参考:http://www.nichibenren.or.jp/ja/autonomy/rinri.html)という「自浄作用」につながる独自の「ルール」がある。
 
 また日本では有名大学の中の有名大学として「トーダイ」の「ブランド」は知的イメージを演出するためによく利用される。最近の書店の店頭にはいわゆる「トーダイ本」があふれている。そしてそのほとんどは「トーダイ」が責任を持って内容を保証しているわけではない「トーダイ本」である。いわゆる「トーダイ本」の中には読む価値がある素晴らしい内容のものもあるが、様々な意味での「トンデモ本」も少なくはないのである。
 
 違法性などがない限り「トーダイ」について書かれている「トーダイ本」は基本的にはどうにかすることはできないし、また仮にどうにかしようとしたら「表現の自由」に抵触してしまう危険性も出てくるのだろう。だが、「トーダイ」の「ブランド」を利用しているだけの「トンデモ本」ならば何とかすることは不可能ではないし、また何とかしなければ最悪の場合には「ブランド」の価値がずり下げられて完全に地に落ちてしまうことにもなるのだろう。もしも「学問」なのかどうかも非常に怪しいお粗末な内容の「トンデモ本」が「トーダイ」の「ブランド」を利用してなぜか次々と出版されてしまうような何らかの制度的な問題、もしくは制度からガヴァナンスへと続く浅くて薄い問題があるのならば、それらを完全に除去する気がありさえすればすぐにでも何とかすることはできるはずである。
 
 ちなみに同じ「トーダイ本」であってもいわゆる「過去問」ならば受験生以外の人たちにとっても最近の政治関連の様々な動きを正確に理解しようとする場合に非常に役立つ価値のある情報が豊富に含まれていることも少なくはないのである。例えば、米国産牛肉輸入再開問題とも関係するBSE問題を正しく理解するために欠かせない「プリオン(prion)」(東京大学入学試験問題2000年前期、生物第3問)、最近何かと話題のES細胞(胚性幹細胞, Embryonic Stem Cell)研究とも密接に関連する「クローン技術」(同2001年前期、生物第2問[文2])を題材にした問題が過去の入学試験では出題されている(→なお最近の大学入試問題とその解答は、例えば、河合塾(http://hiw.oo.kawai-juku.ac.jp/nyushi/)のような大手予備校などの解答速報のホームページでも閲覧することは可能)。試験問題本文とその解答部分に限定するのならば、どんな種類の「過去問」であっても様々な「トーダイ本」の中では最も内容的に信頼性の高いグループに入ることになるのだろう。
 
 もしもどこかの学術系出版社などが大学の研究とその成果の発表を助成して学問の普及や学術の振興を図るとか、時流に流されることなく信念を持って良書を出版して普及させるなどという非常に立派な目的を掲げていたとしても、木を見て森を見ないような「自称・専門家」、あるいは、どういうわけか不自然な人工の木ばかりを見て本物の木も森も見ないような「偽者の専門家」の珍妙な主張の「普及」に貢献しているのならば、本物の専門家など分かる人たちにはすぐに「御里が知れてしまう」のである。
 
 いずれにしても「トーダイ本」の中には、多くの時間と費用を費やしてもお粗末な内容にしかなっていない「トンデモ本」もあれば、新しく特別な労力を費やさなくてもそのままの形で十分に社会の役に立つ「過去問」もあるということである。研究者の「心の問題」と「知的レベルや能力の問題」は「トンデモ本」と「過去問」などという分かりやすい形で表れることもあるのである。
 
誰のため何のための大学・大学院なのか
 
 「研究関係の告発についての学内での受入れは、公益通報者保護法を踏まえ、告発者の保護ルールを制定するとともに、監査室を窓口とすることを学内外に周知しています」(早稲田大学の「公的研究費における不正再発防止に向けた第一次行動計画」(2006/7/12現在)から。http://www.waseda.jp/jp/news06/060712_j.html)
 
 早稲田大学理工学術院(→理工学部)の松本和子教授(→2006/6/27辞表提出)による国からの公的研究費不正使用問題などが明らかになり(6/23)、同大は再発防止に向けた対応策などを順次発表している(→6/29、7/12)。「誰のため何のための大学・大学院なのか」ということが改めて問題になっているわけである(→参考:2006/2/8(第2回)号etc.)。法律などのルールを破るという形で「一線」を越えれば問題になるのは当然である。だが、「一線」を越えなければ何も問題にならないというわけではないのである。大学・大学院は、「偽者の研究者」や「偽者の専門家」が自分たちの利益のために、学生、役人、国民らを欺いて様々な「公金」を私物化するような場所にだけは絶対になってはならないはずである。法律などのルール以前の教員や研究者の「知的レベルや能力の問題」、そして教員や研究者の「心の問題」も厳しく問われなければならないのである。
 
 言うまでもなく告発を形式的に受け付けるだけでは「自浄作用」を十分に発揮することを期待することはできない。「自浄作用」を十分に発揮するためには形式だけではなく実質的に告発を受け付けるような環境整備が必要不可欠になる。形式だけではなく実質的に告発を受け付けるためには、例えば、(1)「公金」の総額、(2)「公金」支出の詳細な内訳、(3)具体的な研究成果、などという「公金」を使用した研究関連情報の「要点」をインターネット上などで自主的に公表し、地球上のどこの誰であっても同種の研究と「比較」してコストパフォーマンスや不自然な点などを容易に発見することができるようにすることなどが必要になってくるのだろう。
 
 それぞれの分野の専門家ならば、例えば、非常に多くの費用と時間を費やしているのにたったこれだけの研究成果しか得られていないとか、あるいはその逆にたったこれだけの費用と時間でこんなにも順調に次々と成果が得られるのはあまりにも不自然であるなどということは公表された研究関連情報を一目見ればすぐに気づくことができるだろう。そして例えば、実際に多くの費用と時間を費やしてもほんのわずかな研究成果しか得られていない研究には「研究者の心」や「研究者の知的レベルや能力」に深刻な問題があるということになるのである。つまりそういうお粗末な「研究」では、そもそも「公金」を可能な限り有効に使って少しでも多く研究を推進しようという意志が「研究者」に欠けているのか、あるいは「公金」を有効に使おうという意志はあってもそのために必要となる能力が「研究者」にないのか、もしくはそういう意志も能力も共に「研究者」に欠けているという結論を出さざるを得なくなるのである。
 
 「自浄作用」を十分に発揮することを期待できないような組織は同じような間違いを何度も繰り返して腐敗していくのである。もしもすべての「公金」を使用した研究関連情報の「要点」部分でさえもなぜか公表できないということになるのならば、何らかの公表することができない深刻で重大な事情があると見なされてしまうことになるのかもしれない。いずれにしても詐欺的、独裁的、あるいは自己中心的などといったどんな珍妙な種類の「アカウンタビリティ」であっても説明すればそれでいいというわけではないのである。「誰のため何のための大学・大学院なのか」ということが問われているのである。


誰のための少子化対策なのか
 
 賢明な読者はもう既に気づいているかもしれないが、今回の文章の中であえて「ポイント」として指摘しているものは、少し前に触れた「てこ」の話で「作用点」として使うことができるものばかりである。自民党総裁選(9/8告示、9/20投・開票)や民主党代表選(9/12告示、9/25投・開票)で政策論争らしきものが行われることがあるとしたら、いわゆる「格差」と少子高齢化の2つの問題は何らかの形でほぼ確実に取り上げられることになるのだろう。ここからは読者がいわゆる「格差」と少子高齢化の問題で「プリズム」や「フィルター」のようなものを使って本質を見極める「予行演習」をすることにしたい。
 
 「昨年は、出生数が110万人を下回り、戦後初めて人口が減少すると見込まれています。少子化の流れを変えなくてはなりません。就任時に表明したとおり、昨年度末までに保育所の受入児童を15万人増やしました。それでもまだ足りない現状を踏まえ、引き続き『待機児童ゼロ作戦』を推進いたします。昨年度末には小学生が親の帰宅までの間、安心して過ごせる場としての放課後児童クラブを目標通り1万5000カ所整備しました。さらに経験豊かな退職者や地域の力を借りて、多様な放課後児童対策を展開いたします。子育て期の経済的負担の軽減を図るために児童手当を拡充するとともに育児休業制度の普及など企業や地域のきめ細かな子育て支援を進め、子育ての喜びを感じながら働き続けることができる環境を整備してまいります」「小さな子供たちを犯罪から守るため、警察や学校だけでなく、PTAや地域住民とも連携して登下校時の警戒強化、不審者情報の共有などを進めます」(以上、2006/1/20の小泉首相の施政方針演説から)
 
 特に2005年の日本の人口が自然減少し、さらに合計特殊出生率が1.25になったことが明らかになって以来、要するにカネで「出生数」を買おうとするような少子化対策が盛んに唱えられている。確かに「経済的支援」には少子化の進行に歯止めをかける一定の効果を期待することができるのだろう。だが、やはり「経済的支援」による効果は非常に限定的なものに終わってしまう可能性が非常に高いのである。そのことは「誰のための少子化対策なのか」「子どもの幸せを心から望んでいない親がどれだけいるのか」ということに注目するだけでも簡単に理解することができるのかもしれない。
 
 確かに「経済的支援」などによって「子育て世代」の親の経済的負担をある程度軽減することはできるのかもしれない。だが、子育てにかかる親のすべての負担が本当に今よりも軽くなるのだろうか。言うまでもなく子育てにかかる親の負担は経済的負担だけではない。それ以外にも様々な種類の負担がある。今後も子育てにかかる総コストが今のまま変わらないか、あるいは今後は今よりも減少していくことになるというのならば、「経済的支援」によって親の負担は今よりも軽くなるのだろう。しかし、もしも子育てにかかる総コストが今よりも増加する可能性が非常に高いのならば、ある程度の「経済的支援」では「焼け石に水」の状態になって大きな効果を期待することはできなくなるはずである。
 
 実際にかなり多くの親たちが「子どもが幸せになるためならば親としてできるだけのことをしてあげたい」などと強く思っており、しかもこれから子どもたちが生きていく将来がどんなに少なくともあまり明るいものにはならないだろうと誰でも簡単に予想することができるような状態が続くのならば、子育てにかかる総コストが今よりも増加していくのはほぼ確実である。筆者は「子どもの幸せを心から望んでいない親がどれだけいるのか」という本質を見失った少子化対策に大きな効果を期待することはできないと考えている。
 
 そもそも「経済的支援」などを中心とする少子化対策の財源はいったいどこから捻出するのだろうか。もしも無駄な予算の削減や経費削減などを財源にするのならば、間違っても無駄なものを削って新しく無駄なものにカネを使うというような「茶番劇」にしないために少子化対策の費用対効果も厳しく問われることになるはずである。
 
 もしも「国債の追加発行」という「将来の世代の負担増」を少子化対策の財源にするのならば、少子化の進行に歯止めをかける効果は長期的に見ればほとんど期待できなくなるだろう。なぜなら子どもの幸せを心から望んでいる親たちが同時に賢明な国民でもあるのならば、少子化対策によって子どもの将来の幸せがかなり制限されることになるということにもやがて気づくはずだからである。
 
 もしも「子育て世代」を除外した現在の世代に限定した増税を少子化対策の財源にするのならば、「経済的支援」には一定の効果を期待することができるのかもしれない。だが、「年金制度や給付額を維持するためには何が何でも少子化に歯止めをかけなければならない」などという自己中心的な主張が支配的な現状では、「子育て世代」を除外して現在の世代に限定した増税の実現可能性にはいくつも疑問符が付いたままである。
 
 やはり少子化対策を考える場合には「誰のための少子化対策なのか」ということも問われなければならないのである。筆者は「誰のための少子化対策なのか」という本質を見失った少子化対策に大きな効果を期待することはできないと考えている。
 
 もしも政府の少子化社会対策会議の「新しい少子化対策について」(2006/6/20付。参照:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/index/syousika/index.html)を正しく「要約」すると、要するにカネで「出生数」を買おうとするような対策と伝統的な家族観を強調する精神論だけになってしまうのならば、小泉内閣の少子化対策は賢明な国民には全く説得力を持たないお粗末な結果で終ってしまったと結論付けることができると筆者は考えている。
 
 「少子化を防がなくてはならないということで、その取り組みは様々あると思いますが、これだという特効薬、万能薬はないと思います。しかし、現在、女性の働く機会も増え、お子さんを持っても、夫も妻も働きやすいような環境を整備していくことによって、子供を持つ負担をなくしていこうという、その面において様々な対策が必要だということで議論がなされております。もちろんそういう対策も必要でありますし、同時に…。親子だけの問題でなくて…、学校の問題、あるいは、保育園、幼稚園、(幼稚園と保育所を一元化した2006/10/1から実施予定の)『(認定)こども園』の問題、地域の協力の問題、様々な対応があると思います。よく子どもの負担、負担っていう、負担が議論になりますが、同時に子どもを持つ喜びっていうものも感じてもらうような制度、環境の整備も必要でしょう。昔から比べれば…、晩婚…、結婚する年齢が遅くなったと。男も女も。これが少子化の大きな原因だという方もおられますけども…、そういう点についても、様々な観点から…、共に男も女も働き、家事育児も分かち合い、そして子どもを持つ喜びを感じてもらうような国全体、社会全体の取り組みも必要ではないかと。今の時代に産めよ増やせよと、政府がですね、音頭を取って…、なかなかその通りいくものではないと。豊かな国であればあるほど少子化の傾向が進んでいるということを考えても、これなかなか難しい問題だと思いますが、できるだけ子を持つ親御さんが働きやすい環境、子を持つことの喜びを持てるような環境整備というものを様々な論点から議論をして良い点を取っていくと、実際の施策に反映させていくということが必要ではないかなと思っております」(2006/6/12の衆院決算行政監視委における公明党の斉藤鉄夫代議士の質疑に対する小泉純一郎首相の答弁から)
 
 「子どもを産むか産まないかは、もちろんそれぞれの人の自由です。子どもを持ちたくない人もいるでしょうし、産みたくても身体などの事情で産めない人もいます。また子どもがほしくても、いろいろな要因で希望するだけの子どもを持てない人も、今の日本ではたくさんいます。そういった背景を考えて、それぞれの人の多様な生き方を尊重したいものです。 また、子育てしている人を経済的、物理的、精神的に追いつめる社会は、子どもたちを大切にできない社会です。おとな社会のしわ寄せは、必ず子どもたちに向けられるからです…(後略)」(p2)、「基本的な考え方は、まず、育っていく主体としての子どもに着目すること。『少子化』が議論されるときには、年金や税金の事情が話題になって、『こんなに子どもの数が減ったら税金を払う人がいなくなってしまう』、『国がもたなくなる』など、国の視点から語られがちです。 でもちょっと待ってください。子どもは国のために生まれてくるのではなく、人間らしく生きていくために、親をはじめとする社会全体に歓迎されて生まれてくるのです。 日本では、昔、戦争中に、『戦争に勝つためには国のために働ける人(そして国のために死ねる人)を増やさなければならない』と、『産めよ殖やせよ』が奨励されたという歴史があります。『国のために生む(筆者注:原文のまま)』という姿勢では、『一人ひとりの子どもにこそ価値がある』という個人の尊厳の視点が弱くなってしまいます」(p31。以上、民主党の未来世代応援政策「育ち 育む"応援"プラン」(2006年5月)から。参照:http://www.dpj.or.jp/kosodate/index.html)
 
 「(前略)…わが党も育児支援についていろいろ取り組みをしております。そういう取り組みそのものは基本的にはわが党も賛成なんですが、先ほど申し上げたのは、どちらかと言えば子どもが生まれた後のことが中心になっているわけでありまして…、生まれる前、あるいは結婚しやすい条件…。まあ、例えば、若い人が結婚したときに公営住宅は、格安で入れるとかですね。また、直接、国が見合いをしろとは言いませんが、少なくとも10組ぐらいまとめた人には銅メダルと。50組ぐらいまとめた方には銀メダルと。100組以上まとめた方には金メダルと。まあ、ノグチユキオ賞(→筆者注:議事録では「野口英世賞」に修正済)もいいんですけども…、そういうあの、そういうことが本当にですね、社会の役に立っているんだと。どちらかというと、ある時期、そういうおせっかいすることはなんかこう…、悪いことだというような感じもありましたので、まあ、そういうこともですね、まあ、ひとつ念頭に入れていただきたいということを申し上げてちょっと次に、あの…、移りたいと思います…(後略)」(2006/6/12の衆院決算行政監視委における民主党の菅直人代表代行の質疑から)
 
 政府・与党側の少子化対策にほとんど説得力がないという民主党にとっては千載一遇のチャンスであるにもかかわらず、民主党の少子化対策で「でもちょっと待ってください」などと指摘しているようなことを民主党を代表とすると見なされかねない政治家が平気で唱えるようなお粗末な状態なのである。少子化対策に限らず、民主党の政策と民主党に所属する政治家が実際に唱える主張には重大な矛盾が見られる場合が少なくはないのである。民主党は政策と民主党に所属する政治家が実際に唱える主張の矛盾を解消しなければ、少なくとも政権交代に「青信号」を点灯させることはまず不可能なのかもしれない。
 
「過去」という「お手本」
 
 「(前略)…日本は、学校の成績が優秀であれば、どんな家庭の子弟でも、官僚などに登用される機会がある国とされています。官僚だけでなく、民間のいい会社への就職もできるようになっています。安定した生活を得られる上、社会的なリーダーとして尊敬を受けるかもしれない、こういう立場は誰もが憧れるものです。安定した地位を手に入れようとするため、どうしても学校の成績をよくしようと必死になる構造が生まれています。 親は結果として、学校の成績だけに目を奪われてしまいます。子供本人が、安定など求めたくないと思っても、親がそれを許さないところがあります。それが、日本社会の一般的な願望となっているのは、疑いようもありません。従って教育も、子供の願いより親の願いが優先されてしまっているのは、実に不幸なことと言えましょう。 言ってみれば今の教育は『親』自身の満足のためのもので、『子』が不在となっているかのようです。これが、教育を歪めていることは否めません。しかも、学校に期待し、一方で学校を信じられずに塾にゆだねるという現象があります。金は使うが、何から何まで他人まかせ。幼児期のふれあい(しっかり抱きとめる)を放棄するだけでなく、ひたすら学校成績のアップだけを望む。こうした環境のなかで、子供の人間形成が難しくなっていくのは当然でしょう…(後略)」(p72-73。小泉純一郎著、「小泉純一郎の暴論・青論」、集英社、1997年から。ちなみに2005/6/27号でも引用)
 
 最近に限らず、そして少子化対策に限らず、海外で効果があったとする対策を日本でも導入しようという安易で軽薄な発想は永田町周辺ではよく見られる。だが、この種の発想には要注意である。少し前(→参考:2006/2/8(第2回)号etc.)から利用している「(4)環境とその中に存在する行為者(主体)は相互作用する」「(5)だから物事は元の環境と切り離して考えることは難しい」という例の「ベン図」を使った「法則」のようなものを用いて考えれば、成功した制度や対策はその国特有の歴史的背景にも大きく依存している可能性があるということに気づくことだろう。海外の「成功事例」を参考にする場合には、その「成功事例」がその国特有の歴史的背景に大きく依存しているかどうか、そしてその「成功事例」に基づいて立案された対策が日本という別の歴史的背景を持った環境の中でも有効に機能するのかどうかということを十分に検討しなければ全く無意味なものになってしまうのである。「外国で上手くいったのだから効果があるだろう」などという「舶来信仰」とでも呼ぶべき根拠のない強い思い込みとはそろそろ明確に決別する必要がある。
 
 筆者ならば、海外の事例だけではなく、時間軸を「過去」に遡って日本における貴重な「自然実験」の中からも成功例や失敗例を探すことだろう。もちろん「自然実験」が行われた時代と現在とでは時代が違うから、どんな成功例や失敗例もそのままの形では適用することはできないが、大まかな傾向をとらえて現在の対策を考えるためのヒントにすることぐらいはできるはずである。例えば、過去の日本において顕著な人口増加を示した事例の一つとして敗戦直後の人口増加を挙げることができる。敗戦直後の人口増加の原因分析はそれほど簡単なことではないのかもしれない。だが、多くの人たちが「きょうからは毎晩安心して電灯をつけることができる」などという形で「戦争というどん底の状態」が終わったことを実感し、特に若い世代が自分たちと自分たちの子どもの将来に明るい希望を持つことができるようになったということが人口増加に大きな影響を与えた可能性は決して低くはないはずである。
 
将来不安と「学歴神話」
 
 現在は国などの膨大な借金は拡大し続けているし、自分たちの年金のことばかりを考えている自己中心的な年配の世代の数も急増している。これらはすべて将来の世代の「負担増」を意味している。そして将来不安が高まれば高まるほど根拠のない「学歴神話」を信じて将来の成功や安定を「学歴」に求めるような人たちの数も増えていくだろう。そうなると教育熱が異常に高まったり「受験戦争」が激化したりして様々な形で将来の世代とその親の世代の負担を著しく増加させることになる。そして「受験戦争」が激化すればするほど、塾や家庭教師などの費用を負担する能力が高い経済的に豊かな家庭の子どもたちの方が結果的に「受験戦争」を勝ち抜いていくのに有利な状況も生まれてくることになる。さらに悪いことにせっかく「受験戦争」を勝ち抜いて「有名大学卒」などという高い学歴を得た場合であっても一昔前とは違ってそれだけでは将来の成功や安定は約束されなくなってきているのである。今の日本では何にどれだけ多く投資することができたとしても将来の成功や安定を確実に得ることは非常に難しくなっているのである。
 
 「(前略)…さらに言語以外の文化の諸領域にわたっても、道具や火の使用を知らない種族は存在しないし、動植物資源を食料に充当するという事実と、その利用の仕方、および利用の仕方の発達の形式には、驚くべき類似をみる。基礎的な生業における男女の分業にも、おそらく文化以前の男女の生物的特性にもとづくと思われる普遍的な形式が認められるが、一対の男女の恒常的な結合とその子供とを枢軸とする、なんらかの形における家族ないしは家が、社会結合の基本的な単位をなすことも、同一家族内の夫婦を除く男女間の性関係を禁ずる強いタブーも、汎人類的な現象である。 これまた、経済生活の単位としての家族の機能のほか、人類の幼児が、その成長に必要とする保護と愛情とを、その生みの親によって、もっともよく与えられうるという事実に由来するもので、家族結合の維持は、究極には、人類社会そのものの存続の要請に応ずるものであろう。あらゆる哺乳動物の中で、両親や社会に依存する幼少年期のもっとも長い人間は、その間、一人前の成人に必要な知識や技術を学習する教育の制度を、いかなる民族も、なんらかの形でもっている…(後略)」(石田英一郎著、文化人類学入門、講談社学術文庫29、1976年(初出1959年)、p265-266から)
 
 いくら親子の間で様々な不幸な出来事が繰り返し発生したとしても、一般的には子どもを最も強く愛しているのはその子どもの親だという「常識」まではなかなか変わるものではないのだろう。そしてもしも親が自分の子どもに最もよく愛情を与えることができるということが今後も変わらないのならば、時代によって形態は多少変化したとしてもやはり「家族」という集団は維持されることになるのだろう。あえて逆の言い方をすれば、親が子どもの幸せを強く望まないような社会では「家族」という集団を維持する意味も薄れてくることになるのかもしれない。
 
 やはり親は自分の子どもがかわいい。もちろん他人の子どもであっても子どもはかわいい。だが、いくらかわいくても子どもはペットとは違うのである。子どもは成長し、やがて親から自立して自分自身の力で幸せになっていかなければならないのである。賢明な若い世代が自分たちや自分たちの子どもの将来に明るい希望を持つことが難しい状態が続くのならば、「子どもが幸せになるためには親としてできるだけのことをしてあげたい」などと思っている親ほど一人ひとりの子どもの養育のために可能な限り多くの費用などを費やすことになり、結果的に子どもの数は減っていくことになるのだろう。もしかすると「こんな時代に生まれてくる子どもはかわいそう」などと思っている人たちも実は少なくはないのかもしれない。そしてそういう人たちは子どもへの強い愛情を持っているがゆえに今の時代に子どもを持つこと自体に大きな疑問を感じることになるのかもしれない。
 
 確かに今の日本のような状況では賢明な若い世代が自分たちや自分たちの子どもの将来に明るい希望を持つことは難しい。だが、将来不安を拡大する様々な要因を一つずつ取り除いていくことによってそれほど悪くない将来に変えていくことは不可能ではないのである。言うまでもなく国債の追加発行などという将来の世代の負担増を財源にした少子化対策は必然的に将来不安を拡大することになるから論外である。また子育てのコストを無制限かつ無意味に吊り上げることにもなりかねない「学歴神話」なども崩壊させる必要があるのである。少子化対策を考える場合には、どんなに少なくとも将来不安と「学歴神話」の関係を検証しなければならなくなるのである。
 
あえて再び「試験」の話
 
 根拠が希薄な「学歴神話」などを完全に崩壊させるためには、あえて再び「試験」の話に戻る必要がある。もしもたった一回の試験の成績だけでその後の人生の「成功」が完全に約束されてしまうのならば、「受験戦争」が激化することはあったとしても緩和することは絶対にないはずである。仮に一生の間に誰もが全く同じ量だけ等しく努力すると仮定したとしても、試験の前に努力するのと試験の後に努力するのとでは天と地ほどの差があるとしたら、ほとんどすべての人たちは試験の前に努力することの方を選ぶようになるだろう。そして、もしもほとんどすべての人たちが試験前にできるだけ多くの努力をするようになったとしたら、ある人が競争で確実に勝ち残って人生の「成功」を約束してもらうためにはいったいどれだけ膨大な量の努力をしなければならないのかなどということは誰にも正確に予想することはできなくなってしまうだろう。
 
 一般的に勝者の数が限定されている競争では、周囲が努力をすれば、自分はもっとずっと多くの努力をしなければ勝者になることはできなくなるのである。まして勝者になることでその後の人生の「成功」が完全に約束されるほど高い価値が勝利にあるのならば、できることならばどんな努力でもするという人たちも少なくはないはずである。「(4)環境とその内部の行為者(主体)は相互作用する」という例の「ベン図」を使った「法則」のようなものは、悪いものがますます悪くなっていくという状況も簡単に説明することができるのである。
 
 例えば、かつての中国や韓国などで歴史的に長く採用されてきた「科挙」のような官吏登用試験制度は誰でも合格するだけで非常に恵まれた生活が約束されていたという。「科挙」ほど恵まれた生活が約束されるわけではないが、日本でも合格するだけでその後の生活がある程度保証されると考えられている試験はいくつかある。そして実際に一昔前までは国家公務員T種試験、司法試験、あるいは東京大学や医学部の入学試験などの「合格」はその後の人生におけるある程度以上の「成功」を約束していたのである。少なくとも一昔前までは「貧乏人の子どもやバカの子どもこそトーダイに行け!」などという言葉にはそれなりに説得力があったし、勉強と試験による立身出世物語ならば、日本全国のどこでもよく探せば身近にいくつか具体例を見つけることができるようなごくありふれた物語だったのである。
 
 いくら試験制度を大幅に変更したとしても、たった一回の試験の成績だけでその後の人生の「成功」が確実に約束されてしまうかのような「神話」を誰の目にもハッキリと分かるような形で崩壊させなければ、「受験戦争」の激化を抜本的に解消することはほぼ不可能である。「神話」が崩壊しなければ、試験制度をいくら大幅に変更したとしても「受験戦争」の形態が大幅に変化するだけで「受験戦争」自体はなくならないだろう。よって名門校や進学校が生き残れないように試験制度を変更したり、あるいは、どこかの日本の隣国のようにどういうわけか役所や政治家が個別学校の入学試験の内容にまで過度に干渉しようとしたとしても、ほぼ確実に問題解決に完全に失敗するであろうということは簡単に予想することができる。たとえ公立学校の試験制度を理不尽な形に変更したとしても、受験生は私立学校に流れるだけの話である。もしも国内の試験制度をすべて理不尽な形に変更したとしても、グローバリゼーションの進展した現代では海外に留学生として逃れる受験生の数も無視できないくらい多くなるはずである。
 
 ちなみに現在の韓国では日本よりも「受験戦争」がかなり過熱しているように思われるが、そのことが科挙の伝統とどれだけ関係があるのか、そしてまた日本よりもずっと深刻な低出生率(1.08(2005年))に「受験戦争」がどれだけ大きな影響を与えているのかなどということについては現時点では筆者にはよく分からないままである。
 
 「(前略)…私は幼稚園に通ったことがないんです。戦後(間もなかった)ですからね。学校も…、小学校1年生、2年生の頃は二部授業でした。先生が少ない。学校の教室も少ない。生徒は多い。だから午前中のクラスと午後のクラス…。同じ1年生でも1週間毎の交代だったんですよ。今週は午前だけ、次の週は午後…。で、(自分が)午前の部になりますとね、朝、起きると、ああ午後の部はまだ寝てていいなあって思うんです。で、(自分が)午後の部になるとね、午前の部(の人たち)は帰ってくる。これからみんな遊べていいなあと(→場内笑)。これから…、俺は学校に行かなきゃならないと。そう感じたことをいまだに懐かしく思い出しますよ。ま、それだけ、先生も少なくて…。学校の教室も今みたいに40人学級じゃありません。50人、60人…。そういう時代でありました。そういう中でも今日まで元気に育ってきたのは、多くの人に支えられてきているからだなあとは思っています…(後略)」(2006/5/24の衆院教育基本法特別委における公明党の池坊保子代議士の質疑に対する小泉純一郎首相の答弁から)
 
 「今、日本の歴史を振り返りますと、豊かさの点においても、自由の点においても、最も恵まれている時代だと思っております。『衣食足りて礼節を知る』という言葉がありますが、衣も、食も、いまだかつてないほど足りている状況にあると思います。にもかかわらず、礼節を失っていると…、多くの方が言われますが、様々な事件を報道で見ますと、そのような感じが私もします。まさに人間社会っていうのは難しいなあと…。昔の…、先人の方々がなんとか平和な時代に持っていこうと、食べ物に困るような時代をなくそうと言っていて、そこに到達して…、今、想像のできない憂うべき事態が山積している。まさに心の問題、法律以前の問題…、人間として何のために生きているのかというのが問われている時代だと思います。教育も大事でしょう。家庭の教育、学校の教育、地域の教育、そういう今までの人間としての生きる姿というもの…。これからの子どもたち…、将来、(小沢代表の言うように解決までに)30年かかるか、いやいや100年かかるか、ということでありますが、まさに今、親の世代が、人間としてどうあるべきか。大人の責任は、子どもに対してどうなのかと…。こういう点を率直に…(中略)…その中で政治の役割、法律面において、どういうことができるのかと。心の問題の内部まで干渉するわけにはいきませんけども、法的な問題で整備できるところがあったら、整備していかなきゃならないと、そう思っております」(小泉純一郎首相(自民党総裁)が2006/5/17の小沢一郎民主党代表との党首討論で)
 「(前略)…一番の問題はやっぱり教育だろうと思うんですね…。今、総理の話の中でね、大人の責任だという話があった。私もそう思います。子は親の背を見て育つ…、そういうね、言葉がありますように、やっぱり大人が、自分勝手に…(中略)…みんなもう、カネのためなら手段選ばず、自分の目先の利害さえ良ければそれでいいと。ま、そういう大人の姿を見て育ってね、子どもが良くなるはずはない。それも総理のおっしゃる通りだ。ただ、私も、総理もね、齢(よわい)、もう60過ぎて、これから私が変わるって言ったら、(総理は)変わるわけがないっておっしゃったそうだけども…(→場内爆笑)。本当に…、本質から変わるっていうわけにはいきませんよ。ただ…、そのことに対して言えばね、人間は理性がありますから、自分の欠点を直すと…。お互いにこの歳になってもその努力をせにゃいかんと思います。それはそれとして…。ですから、結局、本当に日本の社会の今の荒廃というかなんていうか…(中略)…それを考えるときには、子どもの教育ということから始める以外にないんですね。ですから30年、100年っちゅうことになるわけですよ…(後略)」(小沢一郎民主党代表が2006/5/17の小泉首相との党首討論で)
 
 小泉首相と小沢民主党代表の最初で最後の党首討論(2006/5/17)は「教育」が主要テーマになった。当事者たちがどれだけ強く意識していたのかは定かではないが、「教育」は少子化対策や格差解消などと本質的部分で結びついているという意味でも非常に重要な問題なのである。従って「教育」に対する現状認識や具体的な問題解決の方法などを見れば、政治家としての能力、政治指導者としての資質をある程度判断することができると考えられるのである。
 
 少なくとも小泉首相は効果的な少子化対策の実施のためには必要不可欠である「学歴神話」という「ポイント」の一つを認識していたが、残念ながら小泉内閣の少子化対策には全く反映されることはなかったのである。小泉首相は実は少子化対策の「ポイント」を「ポイント」だと気づいていなかったのか、「ポイント」だと気づいてはいたが「てこ」の「作用点」にすることができなかったのか、あるいは「作用点」は正しかったが「道具」の使い方が悪くて「支点」がずれたり、使った「棒」の長さなどが不適切だったりしたから失敗したのかなどという「敗因」の分析も今後は必要になってくるだろう。いずれにしてもこのまま内閣改造なしで幕を引くことになる小泉内閣の下では少子化対策が「合格最低点」にまで改善されることももはや全くあり得ないという状況になっている。
 
 「(前略)…教育制度についていえば、子供の成長が早くなっている点を考えて、就学年齢を引き下げる方がよいだろう。また、高校までは大半の者が進学している。このレベルまでは義務教育とすることも考えられよう。中学と高校の統合によって、少なくとも現在の高校入学までは入学試験という関門をくぐる必要がなくなり、受験競争は緩和できるであろう。 高等教育のあり方も改革したい。 現在の大学教育は海外からも評価されていない。どこに原因があるか。一つは受験競争の終着点が大学で、極端にいえば、入学さえすれば大学が自動的に社会へのパスポートを発行してくれる、という点にある。このため、大半の学生は勉強への意欲が湧かない。もう一つ、大学の授業がつまらないということもある。どうして授業が面白くないか。根本的には大学の性格づけが曖昧だからである。 日本の大学の歴史を振り返ってみると、国立大学は高度の専門教育だけを行う帝国大学と専門職業人を育成する専門学校があった。私立大学は教養的専門教育を施して普通のサラリーマンを世に送り出していた。ところが、時代が下るとともにこの役割分担が崩れ、戦後は一律にすべて同じ大学にしてしまうという乱暴な改革が行われた。その結果、大学の目標が非常に曖昧になった。 高等教育の場である大学はそれぞれの性格と目標を明確にしなければならない。一般教養教育、職能的教育、学術研究など、時代の要請に対応できる制度に改めるべきである」(p256-257)
 「(前略)…教育問題は、社会との関係を無視しては考えられない。社会という土壌が現在の教育を生み出し、現在の教育が現在の社会を現出させている。両者は原因であり結果である。したがって、問題解決はどこから手をつければよいか複雑な面はある。しかし、考えようによっては取り組みやすくもある。できる部分に切り込みを入れれば、その波及効果で他に影響していくからだ。要するに、一日も早く、できることから実行したいと私は考えている…(後略)」(p257-258。以上、小沢一郎著、「日本改造計画」、講談社、1993年)
 
 一度絶版になって最近また復刻された小沢民主党代表の有名な著書からの引用である。約13年前の著書の内容が現時点でもそれほど古く感じられないということは、「政治家・小沢一郎」の先見性の高さを示していると考えることもできるし、結果的に10年以上放置されてきた日本社会の問題点の深刻さを示していると考えることもできる。
 
 確かに教育問題は今の社会と複雑に絡み合った解決が困難な問題ではあるが、ある程度改革を進めていけばその波及効果を期待することができるような性質の問題ではある。小沢代表は「(4)環境とその内部の行為者(主体)は相互作用する」という例の「ベン図」を使った「法則」のような状態を正確に認識しているということが分かる。だが、どんなに「剛腕」であっても「てこの原理」には絶対に逆らうことはできないということだけは決して見失ってはならないのである。小沢代表が政権交代に「再チャレンジ」する場合には、「とにかく抜本的に改革する」などという類の力まかせの「乱暴な改革」ではなく、どこを「作用点」「支点」「力点」にし、「棒」には何を使い、どのような順序で物事を動かしていくのかなどという具体的で詳細な政策を含んだ科学的な方法が必要になってくるはずである。


形式的ではなく実質的に保障されるのか
 
 「国民ひとりひとりがその能力や持ち味を十分発揮し、努力が報われる公正な社会を構築していくことは、国政の重要課題である。このためには、多様な機会が与えられ、仮に失敗しても何度でも再チャレンジでき、『勝ち組、負け組』を固定させない社会の仕組みが必要である。人生の各段階で多様な選択肢が用意され、それを自由に選択することで、個人も企業も自由闊達な活動が可能となり、ひいては我が国経済の活性化にも資することとなる」(政府の「再チャレンジ推進会議」(「多様な機会のある社会」推進会議)の中間取りまとめ(2006/5/30付)の「基本的認識」から。参照:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/saityarenzi/index.html)
 
 最近はいわゆる「格差」の問題が繰り返し論じられている。現時点では日本はまだ「勝ち組」と「負け組」が固定した「格差社会」ではなく、「今日の『勝ち組』(あるいは『負け組』)が明日の『負け組』(あるいは『勝ち組』)になるかもしれない社会」であると筆者は考えている。だが、一般的に日本の社会は黙っていても新しい機会が次々と巡ってくるような社会ではなく、「勝ち組」と「負け組」が固定化していく危険性は決して低くはない社会である。そういう意味では政府が積極的に取り組んでいる「再チャレンジ」の機会を増やそうとする政策はとても重要なものになってくる。「再チャレンジ」の機会を増やして「格差」を固定させないようにしようとする場合に注目しなければならない「ポイント」は、「再チャレンジ」などの機会が「形式的にではなく実質的に保障されるのかどうか」ということであると筆者は考えている。
 
 たとえある人がどんなに高い能力を持っていたとしても機会が与えられなければ成功することはできないだろう。またいくら機会が多く与えられていても十分な能力のない人が成功することはできないだろう。さらにいくら多くの機会が与えられたとしても、またどんなに高い能力を持っていたとしてもある人が十分に能力を発揮することができない環境にいるのならば成功することはなかなかできないだろう。つまり、ある人が実際に成功するためには、(1)成功するために必要となる十分な能力があること、(2)成功するための機会が実際に与えられていること、(3)成功するために実力を発揮することができる環境が与えられていることなどが少なくとも必要になってくるのである。
 
 政府の「再チャレンジ」政策は、新卒一括採用システムを見直すことなどによって新たな機会を提供し、大学・大学院等での学び直しや生涯学習の支援などによって能力強化を図り、さらに育児支援や事業に失敗した人への支援などによって「再チャレンジ」のための環境を整備することを目指す内容になっている。確かに政府の「再チャレンジ」政策は成功のために必要となる3つの条件を形式的に満たしていることになるわけだが、実質的に成功するための機会を保障することができるかどうかは疑問である。主な問題点は(1)大学・大学院等は「再チャレンジ」して成功を目指す個人にとって意味のある形で能力を強化することができるのか、(2)「再チャレンジ」して成功を目指す個人にとって意味のある形で機会が与えられるのか、という2点になる。
 
 今の日本の大学・大学院が様々な深刻な問題を抱えていることは以前から何度も取り上げている(→参考:2006/2/8号、2005/6/27号etc.)。珍妙な全く価値のない内容のものをあたかも価値があるかのように唱えている能力に致命的な問題のある「教員」らを多数抱えているような大学・大学院は完全に問題外であるが、たとえ人類共通の知的資産に値するような内容のものだけを対象にしている大学・大学院であったとしても「再チャレンジ」に直結する実践的な内容が提供されないのならば成功を目指す個人にとって意味のある形で能力を強化することにはならないはずである。政府の「再チャレンジ」政策は今の日本の大学・大学院の抱える様々な深刻な問題には触れられていないという大きな問題点がある。今の日本の大学・大学院が「再チャレンジ」して成功を目指す個人にとって意味のある形で能力を強化することができないのならば機会の提供は形式的なものにとどまり、「勝ち組」と「負け組」は固定化していくことにもなりかねないはずである。いわゆる「格差」の問題でも「教育」は重要なポイントになるのである。
 
 また「勝ち組」と「負け組」を固定させないためには、「再チャレンジ」して成功を目指す個人にとって意味のある形で機会が与えられるのかどうかということも問題になってくるはずである。「再チャレンジ」の機会が与えられるのはごく一部の職種だけなのだろうか、それとも原則すべてなのだろうか。そして「再チャレンジ」して成功が許される数はどのくらいになるのだろうか。たとえ何度でも「再チャレンジ」が許されていたとしても「空くじ」しか存在しなければ「負け組」はいつまでも「勝ち組」にはなれず、ずっと「負け組」のままである。そして「再チャレンジ」を「空くじ」だらけにしないためには一度「勝ち組」になった人たちであっても本当に十分な能力を持っているかどうかということをあえて再確認する必要性も出てくるのである。
 
 そもそも「競争に勝ち残ってある職に就いた人」と「競争に負けてその職に就けなかった人」の間にはどれだけ大きな能力差があったのだろうか。極端な場合には改めて競争をやり直してみると「勝ち組」と「負け組」が完全に入れ替わってしまうということもあるはずである。また「競争に勝ち残ってある職に就いた人」はその職に就いた後にどれだけ多くの意味のある職業経験を積み重ねることができるのだろうか。ただ漫然とその職に就いているだけでは「その組織内でしか通用しない慣習」や「特定の取引先との間にしか通用しない慣行」に詳しくなるだけであり、ひどい場合には堕落や腐敗の経験を積み重ねるだけで終わることもある。もちろんこれらのことは例外なくすべての職業のすべての人たちに当てはまるわけではないが、実際には自分には特定企業の係長や課長や部長の仕事しかできないということにリストラされてから初めて気づくケースも少なくはないはずである。
 
 「再チャレンジ」を「空くじ」だらけにしないためには一度「勝ち組」になった人たちであっても本当に十分な能力を持っているのかどうかということをあえて再確認する必要があるのである。具体的な形式はそれぞれの職業や所属する組織の有無などによって違ってくるのだろうが、やはり何らかの形で「自浄作用」が発揮されなければならないのである。例えば、その職業に就いている人が十分な能力がないことが判明した場合には、大企業ならば再教育などという形で「自浄作用」が発揮されることになるのかもしれないが、自由業などの場合には戦国時代のような食うか食われるかの「生存競争」や「権力闘争」、あるいは「下克上」などという形で「自浄作用」が発揮されることになるのかもしれない。
 
 総選挙で落選した人間、行政府とその周辺で失敗した人間、地方自治の現場で失敗して落選した人間、教育の現場で失敗して転職した人間などにも幅広く「再チャレンジ」を認めている永田町周辺が本当に活性化しているのかどうかということを冷静に見てみれば、「再チャレンジ」やいわゆる「格差」の問題でも「自浄作用」などが非常に重要なポイントになるということがすぐに理解してもらえることだろう。十分な能力を持たない「偽者の専門家」をそのままにしておけば、機会の提供は必然的に形式的なものに終わってしまうのである。「偽者の専門家」の存在を許せば、「勝ち組」と「負け組」は固定化していくことにもなりかねないのである。
 
 どんなに少なくとも専門家と呼ばれるような可能性のある人間ならば、「その世界」が好きなどという理由から自分自身で自由に選んで「その世界」に入ったはずであるから、「その世界」の中でどんなに惨めに敗北したとしてもそれは完全に自己責任のはずである。どんなに少なくとも専門家と呼ばれるような可能性のあるすべての人間には、「その世界」の中で、例えば、戦国時代のように血祭りに上げられたり、敵に敗れて首を取られたり、あるいは一族郎党と共に討ち滅ぼされたりする覚悟を持つことが求められているはずである。そして「その世界」の中での厳しい戦いを勝ち抜いて生き残っている人間が「その世界」の本物の専門家なのである。つまり、「その世界」の「自浄作用」によって「その世界」で「負け組」になって排除されることになるかもしれないというのは当たり前のことなのである。
 
 もちろん言うまでもなく「その世界」でどんなに惨めに敗北して「その世界」の中で生きていけなくなったとしても、一般社会の中で一人ひとりの人間として生きていくことが否定されたわけではないのである。ベン図で言えば、社会全体(Aの円)とそれぞれの世界(Bの円)は、パン(Aの円)とフランスパン(Bの円)の関係にあるということを思い出してもらいたい。
 
「偽者の専門家」は「負け組」ではあっても「弱者」ではない
 
 「(前略)…メールで『どんな本を読みますか』という質問を中学生から頂きました。夏休みで、読書などの課題がでているのではないかと思う。 読書は好きです。小説から専門書まで、いろいろな種類の本を読む。総理に就任してからは時間がなかなかとれないので、新聞の小説を毎日読むのが楽しみです。 なかでも、よく読むのは歴史小説。戦国時代や幕末、明治維新など、大きな変革の時代のものが面白い。 歴史小説から学ぶことは多い。私は、米百俵の精神で日本の将来のために改革を進めていきます」(小泉内閣メールマガジン2001/07/26(第7号)から)
 「Q: What are you reading now? A(筆者注:小泉首相): I am reading a book about Japanese history in the time of the warlords, about 400 years ago. Q: Are there lessons to be learnt for the present day? A(小泉首相): I am learning greatly about the harshness, the harsh life of a samurai warlord. Every day they faced death. There are a lot of lessons to be learned. Q: Which warlords? A(小泉首相): I'm talking about Oda Nobunaga, Toyotomi Hideyoshi and Tokugawa Ieyasu. These three warlords had complicated entanglements in the history of that time.」(The Times "Times interview with Japanese Prime Minister: transcript(2005/9/29付(インタビューは2005/9/27に))"。http://www.timesonline.co.uk/article/0,,3-1801759,00.htmlから)
 
 小泉首相は夏休みにクラシック音楽を聞きながら読書をしたのだろうか。何にしても戦国時代の例だけでは、歴史小説が大好きで「平成の戦国大名」などと呼ばれたもうすぐ「引退」することになるどこかの国の首相以外にはピンと来ないかもしれないから、別の例も挙げておくことにしよう。
 
 例えば、詐欺師を専門に騙して被害者の代わりに騙し取られたものを奪い返すという「クロサギ」(TBS系列ドラマ(2006/6/23最終回、放送終了)、原作:黒丸・夏原武(原案)、小学館「週刊ヤングサンデー」)のようなものも広い意味での「自浄作用」の例として挙げることができるのかもしれない。素人を騙していろいろなものを手に入れて喜んでいる「偽者の専門家」を素人の代わりに騙して騙し取られたものを奪い返すのが「本物の専門家」だと言った方が分かりやすいだろうか。
 
 繰り返しになるが、「偽者の専門家」たちは「その世界」で専門家になる能力があると思って好きで「その世界」に入ってきたのだから、「負け組」ではあるかもしれないが、間違っても「弱者」ではないのである。「弱者」ではないのだから、今まで手に入れたすべてのものを奪い取られて「その世界」から放り出されたとしても全く何の問題もないということになる。あえて表現を換えれば、「偽者の専門家」が騙し取ったすべてのものを返して「その世界」から完全に消え去るまでは、本物の専門家は徹底的に「偽者の専門家」を追及し続けなければならないということである。それが本当の意味での「自浄作用」ということになるはずである。そして「偽者の専門家」が「その世界」から追放されたとしても一般社会で一人ひとりの人間として生きていくことまでを否定されたわけではないし、今度は「別の世界」で本物の専門家になろうとする自由を否定されたわけでもないし、もちろんあえて「その世界」に「再チャレンジ」する自由も完全に否定されたわけではないのである。
 
 「(前略)…人生におけるすべての大なる職業中、商業ほど武士と遠く離れたるはなかった。商人は職業の階級中、士農工商と称して、最下位に置かれた。武士は土地より所得を得、かつ自分でやる気さえあれば素人農業に従事することさえできた。しかしながら帳場と算盤(そろばん)は嫌悪せられた。吾人はこの社会的取極めの智慧を知っている。モンテスキューは、貴族を商業より遠ざくることは権力者の手への富の集積を予防するものとして、賞讃すべき社会政策たることを明らかにした。権力と富との分離は、富の分配を均等に近からしめる…(後略)」(武士道、p67(第7章))
 「Of all the great occupations of life, none was farther removed from the profession of arms than commerce. The merchant was placed lowest in the category of vocations, −the knight, the tiller of the soil, the mechanic, the merchant. The samurai derived his income from land and could even indulge, if he had a mind to, in amateur farming; but the counter and abacus were abhorred. We know the wisdom of this social arrangement. Montesquieu has made it clear that the debarring of the nobility from mercantile pursuits was an admirable social policy, in that it prevented wealth from accumulating in the hands of the powerful. The separation of power and riches kept the distribution of the latter more nearly equable.」(CHAPTER 7(p74))
 
 「(前略)…あらゆる種類の仕事に対し報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行なわれなかった。金銭なく価格なくしてのみなされうる仕事のあることを、武士道は信じた。僧侶の仕事にせよ教師の仕事にせよ、霊的の勤労は金銀をもって支払わるべきでなかった。価値がないからではない、評価しえざるが故であった。この点において武士道の非算数的なる名誉の本能は近世経済学以上に真正なる教訓を教えたのである。けだし賃銀および俸給はその結果が具体的なる、把握しうべき、量定しうべき種類の仕事に対してのみ支払われうる。しかるに教育においてなされる最善の仕事――すなわち霊魂の啓発(僧侶の仕事を含む)は、具体的、把握的、量定的でない。量定しえざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用うるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、これは支払いではなくして献(ささ)げ物であった。したがって通常厳正なる性行の人として清貧を誇り、手をもって労働するにはあまりに威厳を保ち、物乞いするにはあまりに自尊心の強き師も、事実喜んでこれを受けたのである。彼らは艱苦(かんく)に屈せざる高邁なる精神の厳粛なる権化であった。彼らはすべての学問の目的と考えられしものの具体化であり、かくして鍛錬中の鍛錬として普(あまね)く武士に要求せられたる克己の生きたる模範であった」(武士道、p89-90(第10章))
 「The present system of paying for every sort of service was not in vogue among the adherents of Bushido. It believed in a service which can be rendered only without money and without price. Spiritual service, be it of priest or teacher, was not to be repaid in gold or silver, not because it was valueless but because it was invaluable. Here the non-arithmetical honour-instinct of Bushido taught a truer lesson than modern Political Economy; for wages and salaries can be paid only for services whose results are definite, tangible, and measurable, whereas the best service done in education, −namely, in soul development (and this includes the services of a pastor), is not definite, tangible, or measurable. Being immeasurable, money, the ostensible measure of value, is of inadequate use. Usage sanctioned that pupils brought to their teachers money or goods at different seasons of the year; but these were not payments but offerings, which indeed were welcome to the recipients as they were usually men of stern calibre, boasting of honourable penury, too dignified to work with their hands and too proud to beg. They were grave personifications of high spirits undaunted by adversity. They were an embodiment of what was considered as an end of all learning, and were thus a living example of that discipline of disciplines, self-control, which was universally required of samurai.」(CHAPTER 10(p102-103))
(以上、武士道、新渡戸稲造著、矢内原忠雄訳、岩波文庫(青118-1)、1938年(改版1974年)(原著:BUSHIDO, THE SOUL OF JAPAN, Inazo Nitobe, 1899(増訂1905年)。例えば、IBC Publishing, 2003, ISBN 4-925080-37-7など)
 
 世の中には詐欺のネットワークとかカルト集団などのように「価値のないもの」を扱っているだけなのになぜかカネを集めることができるような様々な仕組みが存在する。その一方で「公共財」(→参考:2005/5/17号)のように誰もが認める「価値のあるもの」を扱っていてもなかなか経済的には成り立たないものも存在する。金銭的価値への換算は難しいけれども間違いなく「価値のあるもの」を維持していくためには、市場経済のメカニズムをバイパスするような仕組みを作るという方法も考えられる。だが、バイパスを作ることだけが唯一の方法ではないのである。「価値のあるもの」が誰の目にも明らかな形でその価値の高さを示し、その上で「価値のないもの」と正しく「比較」されることがあるのならば、「価値のあるもの」が「価値のないもの」に自然な形で置き換わるということも全くあり得ない話ではないのである。「自浄作用」はそういう意味でも重要なのである。そしてやはり商品は品質が「命」だということである(→参考:2006/2/1(第1回)号)。
 
 ちなみに今ならば「商売と政治は別」(→参考:2006/5/12(第5回)号)などという言葉は、靖国問題よりも格差の拡大防止などの文脈で用いられる方がずっと適切であるということに多くの読者も納得してくれることだろう。
 
永田町の「孔乙己」
 
 「(前略)…人が陰で噂しているのをきくと、孔乙己(筆者注:コンイーチー)は、もとは学問をした人間なのである。ところが、いくらもがいても(筆者注:昔の中国の官吏登用試験であった『科挙』の最下級の)秀才の試験に受からなかったし、また商人にもなれなかった。そこでだんだん貧乏になって、乞食をせんばかりにおちぶれてしまった。さいわい手がよく書けたので、人に頼まれて書物を筆写し、かつかつその日の糧に代えていた。ところが惜しいかな、飲んだくれの怠けものという悪い癖があった…(中略)…《孔乙己、おまえ、ほんとに字がわかるのかい》孔乙己は、相手の顔を眺めて、口をきくのもおとな気ない、というふうを見せる。すると今度は《おまえ、どうして、秀才の卵にもなれなかったんだい》と追い打ちがかかる。それをきくと孔乙己は、いっぺんにしおれて、そわそわしだす。顔がさっと曇って、口のなかで何やらぶつぶつ言うが、今度はまるっきり『なりけりあらんや』調だから、何を言っているのかわからない。このときとばかり、みんなでどっと笑う。店の内外に快活な空気があふれる…(後略)」(p34-35)
 「(前略)…孔乙己のほうでも、この連中とは話にならぬと心得ていて、子どもを相手にする。あるときなど、私に向かって《字を習ったかね》と話しかけてきた。私がかすかにうなずいてみせると、かれは《習った……では試験してやろう。茴香豆(ういきょうまめ)の茴の字は、どう書くかね》私は、乞食同然の男が私の試験をするなんて、と思ったものだから、そっぽを向いて、相手にならなかった。孔乙己は、しばらく待ってから、親切な口調で、《書けないかな……教えてやるから、おぼえておくんだよ。こんな字はおぼえておくほうがいい。いまに自分で店を持ったとき、帳面をつけるのにいるからね》私はひそかに考えた。自分の店を持つなんて、とんでもない話だ。それに、私たちの主人は、茴香豆を帳面につけたりはしない。おかしいやら、うるさいやらで、私は吐き出すように《教えてなんかもらいたくないよ。草かんむりの下に一回二回の回じゃないか》と言ってやった。孔乙己はすっかり上機嫌になって、二本の指先の長い爪でカウンターを弾きながら、首をうなずかせて《そうだ、そうだ……回の字には四とおり書き方があるが、知っているかな》私は、うるさくてたまらず、口をとがらせて、遠くへ離れてしまった。孔乙己は、爪を酒にひたして、カウンターの上に字を書こうとしていたが、私がさっぱり乗り気でないものだから、残念でならぬというふうに、歎息してみせるのであった…(後略)」(p35-36。以上、「孔乙己」、魯迅作(1919年)、竹内好訳。「阿Q正伝・狂人日記」、岩波文庫(赤25-2)から)
 
 以前(→参考:2006/5/11号etc.)日本の中学校国語教科書の教材として使われている魯迅の小説「故郷」を取り上げたことがあるが、同じ魯迅の「孔乙己」には、科挙の(受験前段階の)試験を長年受験し続けても結局合格できなかった哀れな男が出てくる。そして彼が科挙のための受験勉強を通して長年蓄積してきた「知識」や「経験」は実生活では全くと言っていいほど役に立っていないのである。さらに言えば、もしも合格して役人になっていたとしても、時代が大きく変化して新しい時代になった場合には、古典中心の科挙の試験勉強で得られた「知識」や「経験」も、その後の役人生活で得られたであろう古い時代の「知識」や「経験」もおそらくほとんど役には立たなかったことだろう。
 
 そう遠くないうちに永田町周辺にも「おまえ、本当に政治指導者としての資質があるのかい?」と言われたぐらいでは相手にするのも大人気ないという表情を見せるだけだが、「おまえ、どうして派閥にいたくせに『ポスト小泉』の泡沫候補にもなれなかったんだい?」と言われると急にそわそわし出して口の中で訳の分からないことをぶつぶつ言う無意味に当選回数だけを積み重ねたベテラン政治家が何人か出てくるのかもしれない。永田町周辺にいる初当選組の代議士たちからも全く相手にされない当選回数だけを積み重ねた無能な政治家たちの「近未来」の姿を想像していたら、なぜか突然「孔乙己」を思い出してしまった。多くの賢明な読者はもう少しだけ永田町周辺の動きを見ていれば誰が永田町の「孔乙己」になりそうかが分かるのかもしれない。
 
「てこの原理」と「権力闘争」の関係
 
 最後に「てこの原理」と「権力闘争」の関係についてもあえて説明しておくことにする。
 
 人類共通の知的資産である「文化」を十分に使いこなすことができる能力を持っている者ならば、比較的簡単に「棒」や「支点」になる適切なものを用意して「てこの原理」を使って「権力闘争」を勝ち抜くこともできるはずである。また人類共通の知的資産である「文化」を十分に使いこなすことができる能力を持った者ならば、「権力闘争」で「敵」に「作用点」を効果的に使わせないようにするために必要となる様々な「道具」、あるいは問題点を本質的に解決して「作用点」を「作用点」として使えないようにするために役立つ「道具」などを用意することもできるはずである。
 
 さらには人類共通の知的資産である「文化」を上手く使いこなす非常に高い能力を持っているごく一部の者ならば、まだ誰も気づいていない「新しい作用点」を次々と効率的に発見するための「プリズム」や「フィルター」のようなものを自分自身で発明することができるのかもしれないし、発見した「新しい作用点」に「てこの原理」を適用するために必要になる「棒」や「支点」も自分自身で用意して「権力闘争」を勝ち抜いていくことができるのかもしれない。
 
 現時点(2006/8/22)ではまだ正式に立候補を表明していない安倍晋三官房長官が「極めて優勢」などと報道されているが、いよいよ「ポスト小泉」の座をめぐる自民党総裁選(9/8告示、9/20投・開票)での激しい戦いが始まることになるのだろう。また民主党代表選(9/12告示、9/25投・開票)の方も小沢一郎代表が無投票で再選されるとはまだ完全に決まったというわけではないのだろう。何にしても実際に殺されて谷底に捨てられるような危険性がほとんどない状態では「志士」になることはかなり難しくなるはずである(→参考:2006/2/21(第3回)号)。
 
 筆者は自民党総裁選などの本質を見極めるために非常に効果的ないくつかの「プリズム」や「フィルター」を賢明な読者のために用意している。現時点では「戦略上の理由」から用意したすべての「プリズム」や「フィルター」を公開することはできないが、ある程度状況が理解できる読者への説得力を高めるために「1998年」という「プリズム」だけは事前に公開しておくことにしよう。ちなみに現時点でも筆者の用意した様々な「プリズム」や「フィルター」で「作用点」を見つけ出してピンポイントで狙い撃ちにすれば、驚くほど少ない戦力で複数の私利私欲にとらわれた政治家たちの「政治生命」に致命的な打撃を確実に与えることができる状態になっている。
 
 もしかしたら多くの読者は「正しい『要約』と正しい『比較』のススメ」もついに次回(第7回)で最終回を迎えることになると予想しているのかもしれない。しかし、「最終回」を発行するのか、それとも発行しないのか、また「最終回」を発行する場合であっても、「最終回」が「権力闘争」特集になるのか、それとも「政策論争」特集になるのか、あるいは両者の中間状態になるのかについては現時点では一切明らかにしないことにしておく。「最終回」を発行する場合の内容については永田町周辺の当事者たちに自由に自己責任で選んでもらうことにしようと筆者は考えている。そして言うまでもなく自分で選択したすべての結果に対して完全に責任を負ってもらうことになる。
 
 今回の「権力闘争」は永田町周辺の「カルト」(→ここでのカルトとは「事実との真正の結合とは全く無関係な強い思い込み」またはそういう強い思い込みをする人間たちのこと)や「デマゴーク(demagog)」(→扇動政治家)、「偽者の政治家」や「偽者の専門家」などをすべてまとめて討ち滅ぼすことができる絶好の機会になるのだろうか。いずれにしても正しく「要約」して正しく「比較」する十分な能力を持った賢明な読者は、もっともらしい主張を掲げるような「偽者の政治家」や「偽者の専門家」に振り回されることもなければ、「負け組」にされてしまうようなこともないはずである。

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正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)

「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)

「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)

「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)


サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)


事実はテレビや新聞よりも奇なり -「小泉新党」から政局が見えてくる- (2005/10/18)

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (2/8) 「ルール」はかなり以前から変わっていた

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (3/8) 「マニフェスト(政権公約)選挙」

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (4/8) 「壁」を破った自民と「壁」が迫ってきた民主

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (5/8) 「あと1年」のために必要なこと

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (6/8) 「小泉新党」から今後の政局が見えてくる

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (7/8) 「こんにちは前原誠司」で良かったのか

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (8/8) 「自動安定化装置」としての「大連立」構想

(参考)前回からの動き(2005/8/27-10/17)


この選挙はどのような意味を持つことになるのか(2005/8/26)

 (参考)前回からの動き(2005/6/27-8/26)


日本は「民主主義立国」になることができるのか(2005/6/27)

 (参考)前回からの動き(2005/5/12-6/26)

「新しい公共財」の創造(2005/5/17)

「泥仕合」や「茶番劇」のあと(2005/5/11)

 (参考)前回からの動き(2005/2/9-5/11)


「カルトからの自由」の実現に必要不可欠な挙証責任(2005/2/9)

 (参考)前回からの動き(2004/12/25-2005/2/9)


複数の視点は「連鎖」の理解にも必要不可欠(2004/12/25)

  (参考)主な動き(2004/9/21-2004/12/24)


現実政治の問題解決に必要不可欠な複数の視点(2004/9/21)


永田町も国際社会も相変わらず「異常なし」(2004/6/22)


正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23)


「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (補足(2004/1/12))

「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5)

(参考) 2003年後半の海外の動き


(2003年総選挙特集)

「壁」を打ち破るためには(2003/12/8)


 最近の日本の政治情勢について(2003年)

 最近の日本の政治情勢について(2002年)

▽参考:日本の政治


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