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 最近の日本の政治情勢について(2006/5/12更新)

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 政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。

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 購読料について(2006年版) (2006/12/28更新)


正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)

「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)

「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)

「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)


サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)


「安全保障」特集−正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- -(2006/5/12)

  
 前回(2006/4/17)からまだ1カ月足らずなのに実に様々な出来事があった。小泉純一郎首相が「内閣総理大臣」「自民党総裁」として最後の街頭演説(2006/4/15)を行った衆院千葉7区補選では、民主党候補が公明党も推薦した自民党候補を僅差で破って当選した(→2006/4/23。955票差。投票率は49.63%(前回2005年総選挙は64.75%))。
 
 残念ながら筆者は選挙期間中に選挙区内のどこの選挙活動が行われている場所に行っても普通の人たちと出会うことはほとんどなかった。そしてジャンケンやビールケースや自転車、それから自薦・他薦の何人かの「バカタレ」たち、様々なしがらみで様々な思いを持って集まった「サクラ」だけが異常に目立っていたことが筆者の印象に強く残っている。ちなみに「最初はグー…(後略)」などという自民党側のジャンケン作戦が持っていた意味は選挙後になってようやく明らかになってきたようである。
 
 小泉内閣発足から5年(2006/4/26)が経過した。現時点では「ポスト小泉」関連の動きはまだ本格化していない。それにしても5年前の映像の中の格好の良い小泉首相と比べてしまうとどんな「ポスト小泉」でも色あせて見えてしまう。様々な意味で「ポスト小泉」は大変である。
 
 そして民主党の小沢一郎代表が就任(2006/4/7)してからまだ約1カ月である。小沢代表が本当に変わったのか変わっていないのかなどということを含めて今回のところは筆者があえて言及しなければならないことはない。また後半国会の「カルト」(→ここでのカルトとは「事実との真正の結合とは全く無関係な強い思い込み」またはそういう強い思い込みをする人間たちのこと)や「デマゴーク(demagog)」(→扇動政治家)が引き起こすかもしれないいくつかの無意味な騒動について筆者があえて言及しなければならないこともない。
 
 あえて言及する必要があるとしたら小泉首相の「心の問題」(→参考:2006/4/17号)ぐらいである。小泉首相は「商売と政治は別」と考えているという。もちろん基本的にはそれは正しい。確かにその通りである。あえて分かりにくい例を一つ挙げるとすれば、もしも「商売と政治は別」ではなかったとしたら、筆者も今頃は本部とか拠点をシンガポールかどこかに移転させながらちょっとした騒動を引き起こすことになっていたのかもしれない。ただし、いくら「商売と政治は別」だということが正しかったとしても、用いられる「文脈」によっては正しくない場合もあるのである。
 
 例えば、グローバリゼーションや相互依存の状態では、モノやカネだけではなく、ヒトも情報も国際移動することになる。つまり政治は経済だけではなく、文化を含めた様々な分野の影響を強く受けることになる。よって経済のことだけを考えていても政治のことは分からないなどという意味では間違いなく「商売と政治は別」ということになる。そしてもしも21世紀の現在になっても一昔前のように政治と経済だけに密接な関係があると根拠もなしに強く思い込んでいる人間たちが残っているとしたら、そのような人間たちは「カルト」にすぎないことになる。筆者としては、そういう「カルト」や「カネで買えないものはない」などと思っている人間たちを批判する「文脈」で「商売と政治は別」などと言うのならばそれなりに説得力があると思っている。だが、例の「心の問題」のような「文脈」で「政治は別」と断言することはなかなか難しいということだけはあえて指摘しておくことにする。
 
 「ポスト小泉」関連の問題でも、そして例の「心の問題」でも、小泉首相が「このまま黙って寝ててくれればいい」などと思っている人たちも多いのかもしれないが、やはりなかなかそういうわけにはいかないのだろう。まだ具体的にどういう形になるのかはよく分からないが、どうやら小泉首相はこのまま最後まで「瞑想」を続けるつもりでもなさそうである。とりあえずはどんな立場の人たちも不用意に刺激しない方が良さそうである。
 
 ちなみに読者は前回(→参考:2006/4/17号)取り上げた「ヤマタ・メール問題」で「勝ち組」になることができそうだろうか。世の中には数多くの似て非なるものがある。できることならば、筆者が「スクープ」と呼ぶものと、衝撃的な内容が「事実」だとしたら「スクープ」になるかもしれないというような「怪しいもの」とを等価なものとして一緒に並べて「比較」しないでもらいたいのである。科学技術が発達している現在では、無線式の高性能の超小型カメラやマイクなどがあれば、極端な場合には可愛らしい犬や猫や小鳥でさえも「独占スクープ」をものにすることは不可能ではなくなっている。またたとえ膨大な量のデータであっても、パソコンと市販のソフトを使えば簡単な集計や分析ぐらいだったら誰でも簡単にできてしまうのかもしれない。そういう意味では、情報化が進んだ21世紀の現在では、報道であっても、研究であっても、「誰がやるのか」ではなく「何のためにやるのか」ということの方が重要になってくる。そして「事実」そのものよりも「事実の持つ意味」の妥当性や説得力などの方がずっと問題になってくるはずである。だからこそ筆者は「事実」に基づいて「事実の持つ意味」を「スクープ」しようとしているのである。
 
 読者は「ヤマタ・メール問題」で「勝ち組」になることができそうだろうか。最近は自分が言っていたことと正反対の結果ばかりが出てくる政治家たちも何人か出てきている。上手くいけばもうすぐ「ヤマタ・メール問題」の「勝敗」が明確な形で見えてくることになるのかもしれない。今回のところは日本の政治の「本丸」にはこれ以上足を踏み入れないことにする。
 
 今回の文章は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」を目的とした「安全保障」特集ということにする。そして今回の文章でも基本的にはいつもの「過去」から「未来」、「ミクロ」から「マクロ」へと続く座標軸、ベン図(→参考:2005/10/18号etc.)などを活用していくことになる。最近は「過去」「未来」「ミクロ」「マクロ」などという言葉を直接使って説明する代わりに「科学的な考え方」「温故知新」などという形で応用して使うことも多くなってきている。もしも「応用」だけでは少し分かりにくく感じるような場合には、いつでも「過去」「未来」「ミクロ」「マクロ」などの「基礎」に立ち戻れば問題は解決するだろう。ちなみに今回の文章では、「ミクロ」から「マクロ」、そして「マクロ」から別の「ミクロ」へと視点を移動させたり(ミクロA→マクロ→ミクロB)、「現在」から「過去」、そして「過去」から別の「過去」(現在→過去A→過去B)、あるいは「過去」から「未来」(現在→過去→未来)などへと視点を移動させていくパターンが多い。
 
 繰り返しになるが、今回の文章は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」を目的とした「安全保障」特集である。今回問題にする「安全保障」は日本政府が大好きな一人ひとりの人間を中心に考える「人間の安全保障」(→http://www.humansecurity-chs.org/ なお「人間の安全保障」(アマティア・セン著、東郷えりか訳、集英社新書(0328A)、2006年)も参考になる)と基本的には同じものであると考えてもいい。
 
 小泉首相は大型連休中にどこにも「寄り道」せずにエチオピア・ガーナ・スウェーデンの3カ国を訪問した(→2006/4/29-5/5)。確かに小泉首相の外遊の目的は他の政治家たちの場合と同じようによく分からない。だが、一連の日本の外交上の動きとセットで考えてみれば、「人間の安全保障」のための環境整備などという「効果」が専門家ではなくても見えてくることだろう。
 
 その他にも日本の政治関連の様々な国際的な動きも活発になってきている。イラク国民議会がようやく再開されて正式政府発足に向けて動き始めた(→2006/4/22。新大統領に移行政府大統領のタラバニ氏(クルド同盟)を選出、新首相にはシーア派最大会派「統一イラク連合」が推薦するマリキ氏を指名)。また日米両政府は外務・防衛担当閣僚による日米安保協議委員会(2プラス2)で在日米軍再編の最終報告をまとめた(→2006/5/1。普天間基地移転、米海兵隊のグアム移転など)。相変わらず深刻なイラクの問題、そしてますます危機的な状況になっているイランの核問題などについては、事態がかなり流動的なので今回のところはあえて触れずにもう少しだけ状況を見極めることにする。
 
 樺太(サハリン)の部隊に所属していた元日本陸軍兵士の上野(うわの)石之助さん(83歳、ウクライナ在住)が63年ぶりに一時帰国して故郷の岩手県洋野町などを訪問した(→2006/4/19-28)。ロシアとは旧ソ連時代に日ソ共同宣言(1956)に調印して国交正常化し、日本人抑留者の釈放・送還が実現している。だが、旧ソ連諸国内には日本国籍を持たない旧植民地出身の人たちを含めてまだ多くの人たちが残されているということを改めて思い出した出来事でもあった。
 
 北朝鮮による日本人拉致被害者の横田めぐみさんの母・早紀江さんらが米下院外交委員会の公聴会で証言し(2006/4/27)、ブッシュ大統領ともホワイトハウスで面会した(→2006/4/29未明(日本時間)。大統領は北朝鮮による拉致を厳しく批判。もっとも心を動かされた会談、指導者が拉致をそそのかすとは心がない、北朝鮮は国際社会から尊敬されたいのならば人権を尊重すべきなどと。また2002年5月に中国・瀋陽の日本総領事館に駆け込んで今は韓国にいる脱北者の金韓美さん(6歳)とその家族も同席(→参考:2002/5/19号etc.)。なおブッシュ大統領は拉致被害者救出を訴える「ブルーリボン」を付けていた)。ちなみにブッシュ大統領はホワイトハウスで中国の胡錦濤・国家主席と会談(2006/4/20)したし、中国の人権活動家らとも面会している(2006/5/11)。
 
 日本の海上保安庁が竹島(韓国名・独島)周辺の海洋調査を行う方針を示したことに韓国側が猛反発して緊張が高まったが(→2006/4/19には海上保安庁の測量船が鳥取県境港市の境港の沖合に停泊、韓国側は警備艇20隻を竹島周辺に展開、など)、日韓両国の外務次官級協議での「合意」を受けて最悪の事態を回避することはできた(→2006/4/21-22。ソウルを訪問した外務省の谷内正太郎外務事務次官と韓国の柳明桓外交通商省第1次官との間の会談。日本側は今回の調査を中止し、韓国側は6月の国際会議で海底地名の韓国名提案を見送ることなどで合意。排他的経済水域(EEZ)境界線画定交渉を5月中にも再開へ)。また韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領はテレビ演説で対日関係についての特別談話を発表した(→2006/4/25.竹島(韓国名・独島)問題では強硬姿勢を示す。大統領は竹島問題を靖国神社参拝、歴史教科書問題と共に歴史認識の問題と認識)。そして韓国を訪問した塩崎恭久外務副大臣が潘基文・外交通商相と会談した(2006/5/1)。
 
 くどいようだが、今回の文章は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」を目的とした「安全保障」特集である。地球上には一人ひとりの生命・財産なども保障されていない場所がまだ多く残されている。そういう場所では一人ひとりの生命・財産などを保障することが他のどのことよりもずっと優先順位が高いはずである。そういう意味で筆者は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」が政治の究極目標であると考えているのである。そして主権国家を中心に考える伝統的な安全保障でも、一人ひとりの生命などを中心に考えるような新しい安全保障でも、現時点においては竹島(韓国名・独島)問題の優先順位がかなり高いことになる。


改めて念のために繰り返し説明

 確かに日本と韓国の間には竹島(韓国名・独島)問題という領土問題が存在する(→参照:竹島問題(外務省)http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/index.html)。韓国側は日本側の抗議にもかかわらず、いわゆる「李承晩ライン」を一方的に設定(1952)し、そして1954年から現在に至るまで竹島(韓国名・独島)の「不法占拠」を続けている。日本側は韓国側に対して竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に提訴することを提案している(→1954年、1962年)が、韓国側は応じていない。日韓基本条約(1965)でも竹島問題は未解決のままである。
 
 どういうわけか竹島(韓国名・独島)問題は意味不明にエスカレートさせられてしまった。一部の韓国マスコミは「独島(日本名・竹島)に異常なし」などと繰り返していたが、それは致命的な勘違いである。約1年前(→参考:2005/5/11号etc.)にも説明しているが、改めて念のために繰り返し説明しておくと、戦後の日本はどんなに「挑発」されても国際的な争いを戦争によって解決しようとすることは絶対にあり得ないのである。日本国憲法9条1項には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定められている。そして日本は敗戦後の過去約60年間に一度も戦争をしたことはなかったし、これからも戦争はしないのである。よって日本は間違っても竹島を「武力による威嚇又は武力の行使」によって奪還しようとすることはない。そしてあくまでも実施しようとしていたのは海上保安庁の測量船による海洋(科学)調査だということである。そういう根本的な部分についてだけは韓国の人たちもそれ以外の国の人たちも絶対に誤解してもらいたくはないのである。
 
 そして韓国側が一方的に「排他的経済水域」であると主張しているような海域であったとしても、あるいは韓国側が一方的に「領海」であると主張しているような海域であったとしても、「軍艦」や「非商業目的のその他の政府船舶」に対するだ捕などの強制措置は国際法では全く認められていないのである(→参考:公海条約9条、国連海洋法条約32条etc.)。それにもかかわらず、あえて韓国側が何らかの強制措置に踏み切った場合には、日本側としては「国際の平和及び安全の維持を危くする虞」のある重大な事態が発生したとして国連安全保障理事会などに報告することを含めて必要なすべての対抗措置を講じざるを得なくなるのである(→参考:国際連合憲章35条etc.)。
 
 また日本側が調査を予定している海域には日本も排他的経済水域であると主張している海域も含まれている。よって万一、民間船舶などによる不法行為が発生したような場合には、日本側としても国際法と国内法令に従ってだ捕や臨検などの強制措置に踏み切らざるを得なくなるのである。そしてもしも大量の民間船舶が不法行為を繰り返すなどして海上保安庁の巡視船では十分に対応できない事態が発生するのならば、海上自衛隊による海上警備行動などに追い込まれることにもなってしまうのである(→参考:自衛隊法82条etc.)。あくまでも念のために最悪の展開も確認しておくことにする。いずれにしても、日本側だけではなく、韓国側も、竹島(韓国名・独島)問題を事実に基づいて判断し、国連憲章などを含めた「国際法」によって解決しなければならないということを最初にしっかりと認識しておく必要があるのである。
 
 さて、以前(→参考:2006/2/21号、2005/5/11号etc.)から何度か繰り返しているが、日本が本当の意味で過去を総括するためには「過去の日本のどこがなぜ悪かったのか」ということをまず明確に把握する必要がある。そして過去の日本は、国家という「マクロ」のレベルでは、「武力による威嚇又は武力の行使」によって国境線を変更したり他国の領土全体を奪ったりして「国家主権」を侵害することによって、主権国家間の共存・協力のためのルールやノウハウの総体である「国際法」を破ったと考えられるから悪かったということになる。また過去の日本は、一人ひとりの人間という「ミクロ」のレベルでは、暴力だけではなく固有の文化を否定するような方法をも用いて一人ひとりの生命・財産などを侵害することによって、人類共通の共存・協力のためのルールを破ったと考えられるから悪かったということになる。日本はそういう「負の過去」を本当の意味で反省しなければならないと筆者は考えている。
 
 もしも本当の意味で日本が「負の過去」を反省しているのならば、「国際法」を破る形での「武力による威嚇又は武力の行使」によって国際紛争を解決しようとするような動きを肯定することはできないはずである。また暴力、あるいは固有文化を否定するような方法を用いたり、さらには自分たちの固有文化を守ることを名目にしたりして一人ひとりの人間の生命・財産などを侵害するようなことを容認することは絶対にできないはずである。
 
 日本が負の過去を真剣に総括しようとすればするほど、国際法に基づかない主張や問題解決を容認したり、あるいは一人ひとりの生命・財産などの基本的人権を踏みにじったりするようなことを断じて認めることはできないのである。以上のような基本認識の下に日本と韓国の間の領土問題である竹島(韓国名・独島)問題について考えていくことにする。
 
国際法上の明確な根拠は必要不可欠

 韓国の盧武鉉大統領がテレビ演説で対日関係についての特別談話を発表した(→参考:http://english.president.go.kr/warp/app/home/en_home(韓国大統領府ホームページ(英語版)から" Special Message by President Roh Moo-hyun on Korea-Japan Relations [April 25,2006]"(最終アクセス:2006/5/12)へ)。率直に言わせてもらうならば、現時点では韓国側が竹島(韓国名・独島)問題でいったいどのような因果関係に基づいてどのような主張をしているのかということを正確に理解することすらもなかなか難しい状態になっているのである。
 
 竹島(韓国名・独島)問題についての「青瓦台」側の主張を理解することはなかなか難しいのだが、これまでの韓国側の主張という「文脈」を踏まえ、盧大統領の特別談話を基本にし、省略されたり、あいまいに表現されたりしている部分を補いながらあえて「要約」を試みてみることにする。
 
 まず(1)独島(日本名・竹島)は間違いなく韓国の領土である。そして(2)かつての日本の植民地支配は日本が1905年に独島(日本名・竹島)を編入したことから始まった。よって(3)現在、日本が独島(日本名・竹島)の領有権を主張することは、韓国の主権の侵害であると同時に、植民地支配時代の権利を主張して過去の植民地支配を正当化していることにもなるという意味では、単なる領土問題ではなく「歴史問題」でもある。また(4)日本の歴史教科書には歴史を「歪曲」している記述があるし、小泉首相らが靖国神社参拝を繰り返している。(5)独島(日本名・竹島)問題、靖国問題、教科書問題を合わせて考えるならば、今も日本は間違った歴史認識を持っており、過去の植民地支配を反省していないことになるから、いくら日韓両国が経済や文化で相互依存の関係を深めてもこのままでは本当の意味での未来志向の関係を構築することなどできるわけがない、などということになるのかもしれない。
 
 もしも筆者が韓国側、特に「青瓦台」側の主張をだいたい正しく「要約」することができているのだとしたら、韓国側、特に「青瓦台」側の主張には、絶対に省略することができない必要不可欠な重要な「要点」のうちの少なくとも一つが最初から欠落していることになる。つまり、1905年以前のどこかの時点から1905年までの間に韓国が独島(日本名・竹島)を当時の国際社会の基準に適合する形で実効支配し続けていたことを裏付ける「歴史的事実」が全く示されていないのである。もしも韓国側に独島(日本名・竹島)の領有権を主張できる国際法上の明確な根拠があるのならば、韓国側の主張には国際社会にも通用する説得力がそれなりに出てくることになるのかもしれない。だが、逆にもしも韓国側の主張に国際法上の明確な根拠が存在しないのならば、韓国側の主張は根底から崩れることになるのである。韓国側、特に「青瓦台」側の主張を国際社会に通用する形で正しく「要約」するためには、どんなに少なくとも国際法上の明確な根拠が必要になってくるのである。韓国側は領土問題を平和的に解決するためにも、なぜか欠落している独島(日本名・竹島)の領有権を主張できる国際法上の明確な根拠を示すべきなのである。
 
 もちろん日本には竹島の領有権を主張できる国際法上の明確な根拠がある。そして日本に限らず、現在の国際社会のどの主権国家であっても、他国が国際法上の明確な根拠もなしに自国の領土に対する領有権を主張するようなことは黙って認めることができないはずである。もしもそんなことを認めてしまったら、最悪の場合にはいつの間にか国土のすべてがなくなってしまうかもしれないからである。
 
 改めて明確にしておかなければならないことは、日本は領土問題を平和的に解決するためにも国際法上の明確な根拠を欠いた領有権の主張を断じて認めるわけにはいかないのである。そして実際に現在の日本が領有権を主張する場合には、領土問題を平和的に解決することができるようにするために、例外なくすべての場合に国際法上の明確な根拠を示しているということである。
 
 国際社会の中では国際法上の明確な根拠を欠いた一方的な主張をいくら繰り返しても全く説得力を持たないのである。そもそも領土問題に限らず、何らかの客観的な証拠が示されていなければ、事情が全く分からない第三者は正しく判断することができるわけがないのである。そういうことは賢明な韓国国民ならばすぐに理解してくれるはずである。そして日本側の抗議や反論に対していつまでも国際法上の明確な根拠を示さずに「独島(日本名・竹島)は疑いのない韓国の領土」などと繰り返して「実効的支配」を続けているだけでは国際社会で通用する説得力は何も生まれてこないし、それどころか最悪の場合には国際社会の中での韓国側の説得力を理不尽なまでに著しく低下させる危険性もあるということは賢明な韓国国民ならばきっと理解してくれるはずである。平和的手段で領土問題を解決するためにも、韓国側は大至急、独島(日本名・竹島)の領有権を主張している国際法上の明確な根拠を示すべきなのである。
 
 あくまでも国際法上の明確な根拠を示さないのならば、韓国側は国際社会の中では「試合」をする前から既に「完全敗北」しているような状態になってしまう。「青瓦台」とその周辺の「カルト」や「デマゴーク」は、間違っても賢明な韓国国民を巻き添えにして「負け組」にしてはならないはずである。
 
 親愛なる賢明な韓国国民の皆さん、
 
 筆者が専門とする日本の政治との「比較」からも、いつまでも「独島(日本名・竹島)は疑いのない韓国の領土」などと繰り返しているだけの政治家たちは「カルト」や「デマゴーク」である可能性が非常に高いという結論になることをあえてこの機会にご報告申し上げることに致します。
 
「独島(日本名・竹島)」と「ソウル」などとでは明らかに事情が異なる

 どうやら「日本が独島(日本名・竹島)の領有権を主張するのはソウルに対する領有権を主張するようなもの」などとさけんでいる政治家が韓国にはいるらしい。領有権を裏付ける根拠という観点からは、「独島(日本名・竹島)」と「ソウル」とでは明らかに事情が異なると筆者は考えているから、このような主張は全く理解に苦しむ主張である。もしかすると多くの賢明な韓国国民にとっても冷静に考えてみると全く理解できない不可思議な主張なのかもしれない。「実事求是」(→「事実に即して真理・真実を探求すること」(広辞苑(第5版)))ということを意識するならば、「ソウル」の場合には韓国側の領有権を裏付ける歴史的事実はいくらでも出てくるはずである。「ソウル」以外の場所、例えば「慶州(キョンジュ)」や「釜山(プサン)」などでも韓国側の領有権を裏付ける歴史的事実はいくつも出てくるはずである。だが、「独島(日本名・竹島)」の場合にはいったいどれだけ多くの歴史的事実が出てくるのか非常に疑問である。そして繰り返しになるが、そもそも筆者には「ソウル」との比較以前に、韓国側が「独島(日本名・竹島)」の領有権を主張している国際法上の根拠がいったい何なのかということすらも現時点では全く分からない状態である。「温故知新」などということも多少意識しながら歴史的事実を確認してみることにしようと思う。
 
 ソウルの場合には、朝鮮民族が実効支配を続けてきたことを裏付ける数々の歴史的文書に加えて、例えば李氏朝鮮時代の王宮である「景福宮」(1395年創建)のような証拠となる歴史的建造物も存在する。「景福宮」は豊臣秀吉の侵略による文禄(1592-93)・慶長(1597-98)の役のときに燃えたり(1592)、日本による植民地支配時代(1910-45)に総督府を建築するときにも多くの建造物が取り壊されたり移動されたりしてその後に再建されているが、それでもやはり朝鮮民族によるソウルの実効支配の証拠となる歴史的建造物であることには変わりはないのである。
 
 ちなみに地図で見る限り「景福宮」と「青瓦台」は非常に近い場所にあるようである。だから「青瓦台」からはソウルよりもピョンヤン(平壌)の方が間近に見えるなどという噂は「ガセネタ」なのだろう。筆者としては、機会があれば「青瓦台」を外側から見てみて内側にピョンヤンの風景が見えるかどうかを自分自身の目で確かめてみたいと思っている。
 
 またソウルには、「東廟」という歴史的建造物も存在する。中国・明の命令で豊臣秀吉の侵略の直後(1604)に建てられた歴史的建造物で中国・蜀漢の英雄の関羽を奉っているという。そして数々の中国の歴史的文書には歴代の朝鮮王朝が中国の皇帝に臣属していたことを示す記述がいくつも存在するはずである。中国と朝鮮半島の間の華夷秩序のような前近代までの東アジアの特殊な国際関係をよく知らない人たちならば、中国が古代からソウルを含めた朝鮮半島の実効支配を続けていたことを裏付ける歴史的事実であるなどと誤解してしまうかもしれない。だが、たとえ形式の上だけであっても、中国の皇帝が周辺国の王などを「任命」したことにし、あくまでも中国側から見て中国の「支配下」に入って臣属したことになれば、その周辺国の使節がやってきたときには、持ってきた「貢物」よりもはるかに多くの物品などの恩恵を与えて帰すことも多かったという「冊封(さくほう(さっぽう))体制」や「朝貢貿易」の実態を知っている人たちは、中国と朝鮮半島の間の「事大」とか「字小」などという考え方を正しく理解するのはなかなか難しいのかもしれないが、少なくとも歴代の朝鮮王朝が中国の完全な支配下にあったなどという誤解をすることだけはないはずである。
 
 ちなみにかつての日本による植民地支配時代に朝鮮総督府が「朝鮮神宮」などの神社を造って朝鮮半島の人たちにも参拝させていたなどという「歴史的事実」は、いくら現在の韓国に「朝鮮神宮」などの神社がどこにも痕跡でさえも残されていなかったとしても、決して消えてしまったわけではないのである。
 
 いずれにしても「ソウル」の場合には韓国側の領有権を裏付ける歴史的事実はいくらでも見つけることはできるはずだと筆者は考えている。その他の都市でも韓国側の領有権を裏付ける歴史的事実はおそらくいくつも簡単に見つけることができるのだろう。だが、「独島(日本名・竹島)」の場合には韓国側の領有権を裏付ける歴史的事実がいったいどれだけ存在するのだろうか。繰り返しになるが、そもそも筆者には「ソウル」との比較以前に、韓国側が「独島(日本名・竹島)」の領有権を主張できる国際法上の明確な根拠がいったい何なのかということすらも全く分からない状態である。
 
 もしも韓国側、特に「青瓦台」側の主張する「歴史」が日本による植民地支配からの「解放前後」に限定された非常に特殊なものであるのならば、もしかしたら「ソウル」と「独島(日本名・竹島)」の領有権を裏付ける歴史的事実はほとんど同じようなものになってしまうのかもしれない。いずれにしても「実事求是」や「温故知新」のような古いことも、「国際法」のような新しいことも、共に満足に理解できない人間たちが事実に裏付けられていない強い思い込みをいくら繰り返し強く主張したとしても、21世紀の国際社会ではほとんど全くと言っていいほど説得力が生まれてこないという現実にいずれ直面することになるはずである。
 
 「実事求是」ということを意識しても、本当に賢明な韓国国民は「ソウル」と「独島(日本名・竹島)」の領有権は同じくらい明確であると考えるのだろうか。いくら何でも「独島(日本名・竹島)の領有権を主張するのはソウルに対する領有権を主張するようなもの」という主張にはあまりにも無理があるということはほとんど誰の目にも明らかであるはずである。それにもかかわらず、「独島(日本名・竹島)の領有権を主張するのはソウルに対する領有権を主張するようなもの」などと主張する政治家たちがいるのならば、その政治家たちはほとんど誰の目にも明らかなことでもすぐに理解することができないほど知的レベルが低い人間たちか、あるいは「白いものでも黒である」などとあえて言ってでも多くの人たちの感情をあおり立てて自分たちへの支持を集めようとする「デマゴーク(Demagog)」(→扇動政治家)か、もしくはその両方ということになるのだろう。
 
 親愛なる賢明な韓国国民の皆さん、
 
 筆者が専門とする日本の政治との「比較」からも、「独島(日本名・竹島)」とソウルやその他の場所の領有権は同じくらい明確であるなどとさけぶような政治家たちは「デマゴーク」である可能性が非常に高いという結論になることをあえてこの機会にご報告申し上げることに致します。
 
「竹島・独島モデル」は新しい人類共通の知的資産になり得る

 確かに日本と韓国の間には竹島(韓国名・独島)問題という領土問題が存在する。そして韓国には韓国の主張があるように、日本には日本の主張があるのである。残念ながら現時点ではどちらの主張が正しいのかは国際法上は明確になっていないのである。21世紀の国際社会では、国際法上の明確な根拠に基づかずに領有権を正当化しようとしたり、一方的な「歴史認識」を他国に押し付けようとしたりするようなことは、他国から「形を変えた侵略」であると受け止められ、友好関係に非常に大きな悪影響を与えることになるということもしっかりと認識しておく必要がある。他国に対して間違いのない「歴史的事実」に基づいて「歴史的事実」の誤りの訂正などを要求するのならばともかくとしても、国際法上の明確な根拠に基づかずに領有権を正当化しようとしたり、一方的な「歴史認識」を他国の教科書の記述に反映させようとするようなあまりにも理不尽な要求は、日本はもちろん、国際社会のどの主権国家も断じて認めるわけにはいかないのである。あくまでも「実事求是」などという姿勢を貫く必要があるのである。
 
 領土問題というものは今日の「勝者」が明日は「敗者」になったり、逆に今日の「敗者」が明日は「勝者」になったりすることができるような性質の問題ではない。つまり基本的には「勝者」は永遠に「勝者」、「敗者」は永遠に「敗者」のままになってしまうのである。よってこのように一方が「永遠の勝者」になり、他方が「永遠の敗者」になるような場合には、どんなに少なくとも「勝者」も「敗者」も共に納得できるような理由と過程で「勝敗」が決定されなければならないのである。だからこそ主権国家間の共存・協力のルールやノウハウの総体である「国際法」を無視することは絶対にできないのである。
 
 また領土問題は、相手を上手く出し抜いて勝ったような場合であっても、どこかに高飛びしたり、雲隠れしたりするようなことが絶対にできない性質の問題でもある。よってどちらが「勝者」でどちらが「敗者」になったとしても、互いに接触することは避けられないことになるから、「勝者」があまりにも多くのものを得る一方で「敗者」があまりにも多くのものを失うような場合には安定した状態には絶対にならないはずである。もちろんだからと言って領土問題は両者の主張を足して2で割ればそれで解決するというような単純な問題ではないし、仮に足して2で割って解決することができたとしてもそれではあまりにも「芸」がなさすぎる。できることならば「勝者」も「敗者」も「勝敗」が決定された分野とは全く別の分野で共に新しく大きな利益を得ることができるようになるのが望ましいと筆者は考えている。アイディアを共に出し合う創造的な過程を通じて新しい価値を生み出し、どちらが「勝者」でどちらが「敗者」になったとしても共に新しく大きな利益を得ることができるようになるのならば両者の関係は安定した状態になるのかもしれない。ちなみに前回(→参考:2006/4/17号)取り上げた「科学的枠組み」のようなものは、アイディアを共に出し合って新しい価値を生み出していく創造的な過程としても十分に利用することができると筆者は考えている。
 
 少なくとも日本側は竹島問題で韓国側に「勝利」できればそれでいいと考えているわけではない。もちろん竹島の領有権についての日本側の主張には国際法上の正当性があるし、竹島問題で「勝利」することが日本の国益を守ることになるのだろう。だが、未来志向の日韓関係の構築という観点からは「勝利」までの過程も大いに問題になってくるのである。繰り返しになるが、少なくとも日本側は竹島問題で韓国側に「勝利」できればそれでいいと考えているわけではないのである。だからこそ韓国側が遅かれ早かれ一方的に不利な立場に陥ることになるのを黙って見ているようなことは一切せず、あくまでも繰り返し粘り強く竹島(韓国名・独島)の領有権を裏付ける国際法上の明確な根拠を問題にし続けるべきなのである。そうすれば賢明な韓国国民には日本側の真意が正しく伝わるはずだと筆者は思っている。
 
 ここから先はあくまでも「実事求是」や「温故知新」ということが本当の意味で日韓両国の間で再確認されることが大前提になっている。「温故知新」ということを意識するならば、人類の「土地」の利用方法は文明が発達するにつれて多種多様になってきていることに気づくはずである。人類は「土地」を狩猟・採集の場所としてだけではなく、やがて農耕にも使用するようになり、さらに科学技術が発達するにつれて工業などの様々な用途にも使用するようになってきた。さらに科学技術が発達すると、人類は「土地」がなくても意味のある生産活動を行うことができるようになり、現在のような情報化社会では様々な情報が人類にとっては実体のある大きな価値を持つようになってきているのである。過去から現在まで人類の歴史を簡単に振り返ってみるだけでも、民間レベルでは「土地」の利用方法は大きく拡大している。主権国家のレベルでも「土地」の利用方法に劇的な変化が起こったとしても全く不思議ではない状況になっているのである。
 
 確かに日本と韓国の間には竹島(韓国名・独島)問題という領土問題が存在する。様々な問題点はあったとしても、日本と韓国は民主主義と市場原理を単なる理想や目標としてではなく、現在では実体のある形で共有しているのである。日本と韓国がそういう関係にあるということを前提にするならば、国際社会に貢献できる領土問題の新しい解決方法を共に模索していく可能性も開けてくるのである。今まで国際社会の中で積み重ねられてきた「国際法」という主権国家間の共存・協力のルールとノウハウの上に新しい柔軟なアイディアを付け加えていくことによって、日韓両国にとっては、朝鮮半島が統一された後も有効であり続ける新しい大きな価値を創造することができる解決方法を見出すことは不可能ではないと筆者は考えている。
 
 もしも「竹島・独島モデル」とでも呼ぶべき新しく大きな意味のある価値を創造することができる解決方法を見出すことができたならば、利益を得ることができるのは日韓両国に限らないことになる。国際社会に存在するその他の深刻な領土問題に悩んでいる人たちも何らかの利益を得ることができるかもしれないという意味では、新しい人類共通の知的資産を創造する有意義な作業になるかもしれないのである。それにもかかわらず、古代文明以前の人間でも真似できるような「力」による解決方法をあえて採用しなければならないというのだろうか。



一人ひとりの生命・財産などの保障は共存のための最低条件

 繰り返しになるが、もしも本当の意味で日本が「負の過去」を反省しているのならば、「国際法」を破る形での「武力による威嚇又は武力の行使」によって国際紛争を解決しようとするような動きを肯定することはできないはずである。また暴力、あるいは固有文化を否定するような方法を用いたり、さらには自分たちの固有文化を守ることを名目にしたりして一人ひとりの人間の生命・財産などを侵害するようなことを容認することもできないはずである。日本が負の過去を真剣に総括しようとすればするほど、国際法に基づかない主張や問題解決を容認したり、あるいは一人ひとりの生命・財産などの基本的人権を踏みにじったりするようなことを断じて認めることはできないのである。
 
 21世紀の国際社会の中で日本が何らかの貢献をしようと考える場合には、日本が西欧生まれの民主主義の下での選挙と教育によって国や社会を劇的に変化させた「非欧米国家」であるという実体験が役に立つはずだと筆者は考えている。そして日本の「民主主義」と「教育」にさらに磨きをかけ、今後もそういう「非欧米国家」の実例であり続けることによって日本は国際社会に独自のやり方で貢献していくことができるのだと筆者は考えている。一人ひとりの生命・財産などを保障するということは、「民主主義の大前提」「最低限の人権」であると同時に国際社会における共存のための最低限の条件にもなっているということをあえて強調しておくことにする。
 
 筆者は中国や韓国などをそう簡単にはケンカ別れすることができない「親友」や「恋人」などであると仮定することにしている(→参考:2005/5/11号)。「親友」や「恋人」ならばこういうことやああいうことをして友情や愛情を具体的な行動で示してもらいたいとか、たまには友情や愛情をこういう言葉やああいう言葉にして直接言ってもらいたいなどという感情が全く理解できないわけではない。だが、「親友」や「恋人」のために自分自身はいったい何ができるのかということを常に考えながら本当の意味で相手のためになることを自然な形でお互いに行っていくような関係が成熟した関係なのではないかと筆者は思っている。
 
 なおあくまでも念のために言っておくが、筆者が「中国の人たち」に一人ひとりの生命・財産などの保障という「民主主義の大前提」「最低限の人権」の話をしている場合には、中国国内のある特定地域に偏在している民主主義的価値観を共有している人たちに限定して話を進めているというわけではないということをぜひ理解してもらいたいのである。今回はあえて無用の誤解を避けるために、日本がかつて植民地支配していた「台湾」関連の出来事については一切言及しないことにしている。
 
 ここから先は韓国や中国などの人たちにとっては厳しい「歴史的事実」を指摘することになるのかもしれない。筆者が「親友」や「恋人」のようなふりをして好き勝手なことを言っているのか、それともそうではないのかということは賢明な読者ならば読めばきっとすぐに分かってくれることだろう。また筆者が日本側の負の過去を十分に反省せずにごまかそうとして韓国や中国などの人たちにとって厳しい「歴史的事実」を持ち出しているわけではないということもきっと理解してくれることだろう。そしてここから先の記述の影の「主役」がいったい何なのかということも賢明な読者ならばきっと理解してくれることだろう。今はあえてこれ以上のことは言わないでおくことにする。
 
「金大中事件」の核心部分

 「一九七三年のその日、八月八日、東京は朝から蒸し暑かった。もう何日も続く暑さだった。朝十時半になると、私は外出の準備をした。新民党を脱党して新たに統一民主党を作った梁一東(筆者注(以下、( )内は同じ):ヤンイルトン)党首に会うためだ。私は前日には東京パレスホテルに泊まっていた。一日、二日をここで過ごし、また場所を移して原田マンションの事務所兼宿所でというように交互に宿泊していた。その頃、韓国の中央情報部が私を狙っている兆候がいくつか発見され、万一の事態に備えていたのだ。 奥の部屋から私が出てくると、金君夫(キムクンブ)と金康寿(キムカンス)の二人の青年が慌ててついてきた。彼らは秘書兼ボディーガードとして私を助けてくれていた…(中略)…『康寿、じゃあ、先生を頼んだよ。必ず連絡しろよ』 金君夫が動き出したタクシーに向かって大声を張り上げた。私たちは真っ直ぐホテルグランドパレスへ向かった。梁一東党首はそこの2211号室に泊まっていた。私は金康寿に下で待つように指示した。梁一東氏とはくつろいだ気分で話し合いたかったからだ。韓国の国内情勢についても聞き、滞在費がなくなっていたので、金を少し用立ててほしいと頼むつもりでもあった…(後略)」(「金大中自伝」p158-159から)
 
 「(前略)…『ところで、駐日韓国大使館の金在権(キムジェコン)情報担当公使が私に聞きに来たよ。キミにどうしても会わなければならんのだが、会えないで困っているとね。私が今日か明日中にキミと会う予定だと言っておいたんだが』『別に彼らと会う用事はありませんよ』 私は梁党首の言葉を軽く聞き流した。ところが金在権公使の話がワナだったことを知ったのは、その後一時間も経たないうちだった。彼らは梁党首を監視していれば、間違いなく私に会えると考えて、彼の身辺を見張っていたのである。 午後には前外務大臣の木村俊夫議員と会う約束だったので、私は午後一時十五分頃に部屋を出た。金敬仁(キムギョンイン)議員が見送りのために付いてきた、その時だった。 体格のいい五、六名の男が私に飛びかかって首筋をひっつかんだ。 『何をする!』 私と金敬仁議員が怒鳴りながら彼らに抵抗したが、無駄だった。彼らは私の口をふさぎ、隣の2210号室に押し込んだ。金議員は梁党首の2211号室に押し返された。 『何をする! どこから来た?』 金議員と梁党首は共に、このように詰問したらしい。 『梁一東先生ですね。私たちはソウルから来ました。すぐに終わります。ちょっと話せばすみます』 はっきりしたソウルの言葉だったという。 『だからといって、人をこんなふうにしていいのか?』 『金敬仁先生だということは存じています。これは国内の問題ですから、静かにして下さい。ここで騒ぐと、外国人に恥ずかしいですから』 二人についても彼らは十分な情報を持っていたことは明らかだ。梁党首と金議員は、下手に騒いでは韓国にとってよくないことが生じるかもしれないと思い、少し待つことにした。 隣の部屋に私を連れ込んだ男たちは、ベッドへ私を放り投げ、麻酔薬のしみ込んだハンカチを鼻に押しつけた。一瞬気を失ったが、麻酔薬がそれほど強くなかったからだろうか、完全に意識がなくなりはしなかった。 『静かにしろ。言うことを聞かなければ殺すぞ』 彼らのうちの一人が流暢な韓国語で脅した。このような状況の中ではあったが、私は彼らが在日韓国人ではないということを知った…(後略)」(「金大中自伝」p160-161から)
 
 「犯人たちはしばらくして、私をエレベーターに連れていった。後で知ったことだが、彼らはリュックと縄、ティッシュ、刃物などを持ってきていた。最初の計画では、私の体を切断し、リュックに入れてホテルから抜け出すつもりだったが、私たちが大声を上げたためにいったん他の場所へ移ることにしたらしい。 エレベーターが少し降りたとき、若い日本人の男女が乗ってきた。後日明らかになったところによると、二人とも男性だったという。私は意識を失ってはいなかったものの、朦朧とした状態で混同したらしい。 『殺される。助けてくれ』 私は日本語で言った。もう一度、渾身の力を振り絞って同じ言葉を繰り返した。だが彼らは怖かったのか、次の階でエレベーターを停め、降りて行ってしまった。彼らが去ると、私を連行していた二人の男が私を殴りつけ、足蹴にしながら言った。 『この野郎、死にたくて狂ったのか。つまらんことをするなと言ったろうが』 最後のチャンスはこのようにして消えてしまった。2211号室では、彼らの仲間がずっと見張っていたので、梁党首と金議員は何もできなかったという。 地下の駐車場に着くと、私をクルマの後ろの座席に押し込み、彼らが両脇に座った。前の座席にも二人が乗った。彼らは私の頭をクルマの底に押しつけ、その上から足で体を押え込んだ。そのような状態にされたままクルマが動き始めた。 こうして犯人たちは、白昼堂々と、日本の大都市のホテルから韓国野党の前大統領候補を、『殺人未遂』のうえに『拉致』までしたのである。高度に訓練されたベテランたちの仕業であることは言うまでもない…(後略)」(「金大中自伝」p162-163から)
 
 「都心を抜け出したクルマは、高速道路に入った。私は依然として犯人たちの足の下に転がされていた。その上に上着をかぶせられ、布切れで口を塞がれた状態だった。体が窮屈で、少しでも動こうとすると彼らは足で容赦なく蹴った。彼らは私を乗せたまま、どこかへと走り続けた。ピクリともできないので、それがどこかは知りようがなく、どれほどの時間が経ったのかも推し量れなかった。 犯人たちが私を最初に連れ込んだのは、とあるビルだった。そこで彼らは私を縛っていた縄をいったん解き、下着だけをのこして服を剥ぎ取った。一人が私の洋服のポケットから現金二十万円と身分証明書、名刺、時計などを抜き取った。そして、別の服を着せ、靴も別のものを履かせた。再び縄で体を縛り、顔は鼻だけを残して包装用のガムテープでグルグル巻きにした。すでに夕方だった。そこに二時間ほどとどまった後、彼らは私をまた車内に移した。両手両足を縛られたまま、今度も彼らの足の下に寝転がされた。 こうして三十分ほど走っただろうか? 私の耳に波の音が聞こえた。波の音は、実際には大きかったかもしれない。包装用のテープで顔を巻かれていたために、かすかにしか聞こえなかったこともあり得る。その波の音を聞いて、故郷荷衣島の波を思い浮かべた。海運会社と船舶会社を経営していたときに、明けても暮れても聞いていた波の音だ。人は土から出でて土に帰るというが、そのとき私は、海辺に生まれてまた海に帰るらしいと思った」(「金大中自伝」p165から)
 
 「その海岸の船着き場で、私はモーターボートに移された。何隻かの船が、付近に停泊していると感じられた。モーターボートの上で、彼らは私の頭に何か風呂敷のようなものを被せた。私はこれでもう終わりかと、縛られた手で十字を切った。すると誰かが、また腹を蹴った。 『殴ることはない。もう死ぬ覚悟はできている。死ぬ覚悟をしている人間を殴る必要はないだろう』 私は彼らにそのように言った。ところがその彼らも、すぐ他の者に代わった。 夜中の一時頃、私は大きい船に乗せ換えられた。その少し前に、彼らが十二時五十分だと言うのを聞いたので、時間を推定することができた。移された船は相当大きいようで、揺れることもなかった。五〇〇トン級で一〇〇〇馬力は超えるだろうと経験からわかった。 彼らは私を甲板へ連れていった。そこで顔に巻いたテープを取り、いったん縄を解いてからガチガチに縛り直した。両手も胸に押しつけて縛った。さらに背中に板を当てて、体と一緒に三カ所を縛った。口には木切れを噛ませて包帯で巻き、両目にはスコッチテープを五回ずつ貼り、さらに包帯で巻いた。作業中、彼らは一言もしゃべらなかったが、少なくとも五、六名は作業に係わっているようだった。 黙りこくっていた彼らは、両手首に三〜四〇キログラム以上の錘を付け終わって、やっと小声で言った。 『投げるときに、外れないか』 『さあ、布団に巻いて投げ込めば、浮いてこないっていうが』 そう言いながらも、彼らは私を布団では包まなかった。 これで終わりだという絶望感に襲われた…(中略)…『助けて下さい。私にはまだやり残したことが沢山あります。韓国民のためにしなければならないことがあります。私への国民の期待に応えなければなりません。救って下さい』 祈りはこれまで何千回もしてきたが、自分を助けて欲しいという祈りは初めてだった。祈りを終えた途端、赤い光がピカッと走った。 『飛行機だ!』 甲板にいた男たちが慌ててとんで行く声と共に、どこからか爆音が聞こえてくるような気がした。船が全速力で走り出した。何かが起こったのは明らかだが、知りようがなかった。船は三十分ほど狂ったように走っていたが、いつの間にか、普通の速度に戻っていた。そうこうするうちに、一人の男がデッキに寝転がされたままの私に近寄ってきた。 『もしや、金大中先生ではありませんか』 慶尚道の訛りだった。私はうなずいた。 『私は一九七一年の大統領選挙のときに、釜山であなたに投票しました』 その言葉を聞いて、私は一安心した。この上なく嬉しい言葉だった。 『先生はもう助かりました』 彼は私の耳元で囁いた。そして口の包帯を解き、タバコに火を着けて吸わせてくれた。タバコを吸っている間に、彼はジュースを持ってきてくれた。 私は彼に訊いた。『今、ここはどこかな?』 『徳島の近海です』 『じゃあ、この船は日本の海岸に立ち寄るね。港に着いたら警察にちょっと連絡して欲しい。日本の警察は私に手助けしてくれるはずだ』 『わかりました』 『キミがもし手を貸してくれるなら、日本での生活は私が責任を持つ。そのときは、一緒に民主回復運動をしよう』 『はい、そうしましょう』 彼は快く応えた。 私は船の中で九日も、翌日の十日も、コクリコクリと眠っていた。十日の夜には船員から、そこが四国の海岸だということを聞いた。ところが十一日の明け方に、外での騒ぎを聞いて韓国の海岸に到着したことを知った…(後略)」(「金大中自伝」p166-168から)
 
 「(前略)…私はゆるんだ包帯のすき間から、辺りを少しずつ見回した。洋館建ての二階だった。私を見張っていた男たちは軍人のようで、髪の毛がずいぶん短かった。それに、軍隊で使う野戦用の電話を使っていた。軍系統か、その方面に従事している男たちであることは明らかだった。当時は中央情報部にも軍人が多かった。 八月十三日、拉致六日目の午後に、若い男が訪ねて来た。 『金大中先生、ちょっと話しましょう』 私は彼が何を言い出すのか、黙って待った。 『先生は、なぜ海外に出て、国家に反対する闘争をするのですか?』 『それは違う。私は大韓民国という国家に対しては、一度も反対したことはない。私が反対するのは朴(正煕、パクチョンヒ)政権であって、国家ではない』 私はひるまずにそう言った。事実だった…(中略)…『国家も政府も変わりはないでしょう?』 イスに座った男が腹立たしげな声で反問した。私は黙って笑っていた。国家と政府についての、そんな初歩的な間違いを教えている場合ではなかった。 すると彼は話題を変えた。 『金大中先生、私とひとつ話を付けませんか』 『何の話かね?』 私は再び笑みを浮かべて聞いた。朴政権は私に、実に多くの妥協を要求するものだと思ったからだ…(中略)…『今から先生を連れていって、お宅の近くで解放致します。上部の命令です。クルマから下(→降)りたら、そこで小用を足して下さい。その間は目の包帯を解いても、声を出してもいけません。用を足したら、家にお帰りになって結構です。どうですか?』 『よろしい、私も約束しよう』 私はうなずいて彼の話を受け入れた。彼らは私をまたクルマに乗せて、ひとしきり走った。高速道路の料金所と思われるところを過ぎたとき、彼らは私に身分証明書と名刺を返して言った。 『財布とお金は後でお返しします』 そうしてくれと答えた。そんな約束は韓国の国家機関だからこそできる。私はこの事件が国家機関と関連していることを、このとき確信した。だがもちろん、奪われた現金と時計はいまだに戻ってきてはいない。 彼らは約束どおりにソウルの市街地を走って、ある裏小路に私を降ろした。私はそこで用を足し、次いで包帯を解いた。その間に彼らは、影も形もなく消えていた。 私が解放された所は、東橋洞の私の家から近いガソリンスタンドの付近だった。月が実に明るい夜であった…(中略)…時間は、夜十時を回っていた。私はわが家の門口で、今ちょうど帰ってきたばかりの家長のように、ベルを押した。東京で拉致されて六日目(1973/8/13)の夜のことである」(p169-173。以上、金大中著、金淳鎬訳、「金大中自伝」、千早書房、2000年、ISBN 4-88492-257-3)
 
 韓国の金大中(キム・デジュン)前大統領の著書からの「金大中事件」の核心部分の引用である。拉致という犯罪がどういう犯罪なのかということを示す生々しい場面をできるだけ省略したくなかったのであえて長々と引用している。映画「KT」(2002年日本公開)を見たことのある読者は、金大中前大統領が韓国の情報機関(旧KCIA)関係者と見られる実行犯たちによって日本国内で拉致されて韓国に送られた様子がかなり忠実に再現されていたことを思い出すかもしれない。「金大中事件」当時の事情を日本の有力政治家の著書からも振り返ることにする。
 
日本は「金大中事件」の真相究明を改めて要求しなくてはならない

 「(前略)…(筆者注:1973年)八月九日朝、僕の旧制高等学校の先輩の宇都宮徳馬さんから電話がかかってきた。『金大中さんが日本に来ておって、そのホテルから拉致された、これは権力犯罪のようだ、それはわかっているかい』と言うから、そんなのは聞いたことがないよ、と言った。それじゃあすぐに手配してくれ、という話で、金大中さんの救出と犯人逮捕をしてもらいたいと言うんです。それで僕は、宇都宮さん、わしに言うのはおかしい、私はいま官房副長官で、警視総監でもなければ警察庁長官でもありませんよ、あんたが警視総監に電話しなさい、と言った。すると、僕は警視総監ってやつを知らんよ、と言うんです。ああそうですか、それなら僕が警視庁によく話しておきます、ということで電話を切ったんです。 警視庁公安部長の三井脩君(後の警察庁長官)に電話をしたら、警視庁は事件発生を知らないんです。それなのにその後、マスコミなどに出るのは、警視庁は金大中氏が来てることを知っており、のみならず、尾行していたはずだ、と言うんだな。金大中氏というのは、日本の治安機関としては当然注意しなければならない一人だと思いこんで、そういう間違ったことを言う。マスコミは、日本の治安機関も金大中さん拉致の片棒をかついでると言いたいわけだ。絶対そうじゃなかった。全然知らなかった。三井君が担当部長で、すぐに手配をします、ということで事件捜査に入ったんです。 当時は金大中さんが関西方面から機帆船で韓国に連れ去られたという話や、日本海側のどこかから出たという話がいろいろありましてね。結局、アメリカが追跡していて、拉致グループに強力な警告を発したんだな。そのような関係で金大中さんは海中に沈められなかった。重石をつけて沈められたら、終わりなんだけれどね。そういう事件で、国際的な関係が非常にあった。警視庁まで疑われたんですけれどね。韓国が釈明したところを見ると、これは文字どおり韓国側の責任でやったということだけは間違いない…(中略)…宇都宮さんは、金大中さんと以前から連絡があったんじゃないですか。金大中さんと会うかなにか用事があったんでしょうね。だから、事件発生直後にわかって連絡をくれたんです。ともかく、あの事件では、金大中さんの命が永らえたのはアメリカのおかげだと言えるだろうな。日本側の情報とは別に、アメリカも情報を得ていた、ということだろうね。防衛庁の中に調査機関があるんですよ。それが情報を集めていた、という話もあるな。それがアメリカと連絡があったかどうか、その点はわかりません。まあ、本人が助かったからいいがな。いちばん不満に思っているのは金大中さんだと思うね。殺されると思っただろうな、きっと」(後藤田正晴著、情と理−後藤田正晴回顧録 <上>、講談社、1998年、p311-313から)
 
 「昭和四十八(筆者注(以下( )内は同じ):1973)年八月八日の白昼、韓国の有力政治家、金大中氏が東京・九段のホテルから拉致され、五日後にソウルの自宅付近で解放されるという事件がおこった。金大中氏は二年前の大統領選挙で朴正煕氏を相手に善戦し、当時は日本、アメリカなどで朴政権批判を行っていた。拉致の現場からは金東雲駐日韓国大使館一等書記官の指紋がみつかった。そのため、韓国の公権力による日本の主権侵害かどうかが大きな問題になった。 それから三か月たった十一月二日、韓国の金鍾泌首相が来日、田中(角栄)首相にたいして遺憾の意を表明した。同時に、金大中氏は一般市民並みに出国をふくめて自由であり、金東雲書記官については取り調べの上、相応の措置をとることを告げた。これによって事件は外交的に決着を告げることになり、韓国はその後、外務部長官、中央情報部長、駐日大使を更迭した。 ところが翌昭和四十九年の四月、ソウルで二人の日本人が北のスパイだとして逮捕されたり、韓国が金大中事件の捜査中止を通告してきたことから、日韓関係はふたたびおかしくなった。そこへ韓国の光復節の八月十五日、文世光という在日韓国人が大阪の交番から盗んだピストルをもって違法出国し、陸英修大統領夫人を射殺するという事件がおこった。このため韓国の世論は沸騰し、日韓関係は攻守が逆転したような様相を呈してきた。日本側は、田中首相が陸英修夫人の国民葬に参列、さらに椎名悦三郎自民党副総裁を特使として派遣して、ようやく一段落した。 しかし日本側には、金大中事件の処理にたいする不満がいぜんとして残っていた。昭和五十年になると、延び延びになっていた日韓閣僚会議の開催が日程にのぼってきた。それには金東雲問題を解決しなければならない。そこで七月二十三日、私(当時外相だった宮沢喜一元首相)が訪韓して話し合った結果、『金東雲に対する捜査は確証がなく不起訴処分となったが、公務員としての地位を喪失させた』という趣旨の韓国政府の口上書を了承した。また、金大中氏の身柄については、係属中の選挙違反裁判が終わりしだい、出国をふくむ自由があることを確認した。これが金大中事件の、いわゆる第二次政治決着である。 ただ、このような解決の経緯について、私は今日も疑問をもっている。当時の日本には、韓国のこととなると人権問題をとりわけきびしく問いただす風潮がみられた。客観的にみて日本の一部のインテリには、朝鮮半島の北と南にたいし、二つのものさしを使いわけて評価する傾向があった。私はそのような風潮をきわめて残念に思っていた。 そもそも金大中事件は、昭和四十八年十一月に金鍾泌首相が朴大統領の親書をたずさえて訪日、遺憾の意を表明したことで、国家間の問題としては終局したと考えるべきであったと思う。日本側には主権侵害という問題がのこるとしても、金首相が来日して事実上の謝罪をしたことの重みをみとめるのが国家間の関係というものであろう」(宮澤喜一著、戦後政治の証言、p188-190から)
 
 「私と金大中事件とのかかわりは、これで終わったわけではなかった。昭和五十五(1980)年七月の鈴木(善幸)内閣発足とともに、私は内閣官房長官に就任した。この年は五月に光州事件があり、金大中氏は内乱罪などで軍法会議の死刑判決をうけた。日本では、訴因に日本滞在中の言動がふくまれていれば政治決着の条件に反する、という議論がおこり、国会の審議が停滞するという事態になった。 私は官房長官として『日韓友好の見地からも、韓国当局が高次の判断による措置を考慮されることを心から期待している』とのべたが、他の主権国家における出来事によって日本の国会審議が停滞するというような政治的雰囲気には、強い違和感をおぼえた。 毎日の記者会見でも決まって政府の対応を聞かれた。日本が死刑に反対であることは事実であったが、政府としてそれを韓国にいえるはずがない。日本がなにかをいえば内政干渉になりかねず、反日運動に発展するおそれさえある。そうなれば、大統領の最終的決断にかえって制約を加えるようなものであろう。私としては、そのような質問はまことに迷惑であるとともに、なぜ韓国にたいしてだけ干渉がましいことを聞くのかと、内心いらだつ思いであった。 その間、私は韓国の崔慶禄大使や、日本とはおなじ立場にあるマンスフィールド米大使と内密の接触をかさねていた。崔大使は日米の考えをよく理解しておられたが、これはきわめて微妙な問題であった。しかし翌昭和五十六年一月、韓国政府は金大中氏を死刑から無期懲役に減刑することを閣議決定した。私は次のような官房長官談話を発表した。 『この問題は過去の経緯もあり、韓国の国内問題であるという制約の中で、日本としての関心を表明してきたが、今般の大統領の措置は高い次元から両国間の友好関係を考慮されたものと評価している。この問題の存在が両国間に影を落としていたことは否定できないので、今回、最終的に決着できることになれば、両国はより深い友好関係になるものと思う』」(p188-192。以上、宮澤喜一著、戦後政治の証言、読売新聞社、1991年から)
 
 韓国外交通商省は「金大中事件」関連の外交文書を公開した(→第一次政治決着関係(2006/2/6)、第二次政治決着関係(2006/3/31))。だが、なぜか筆者が金大中前大統領の著書からあえて長々と引用したような拉致事件の「核心部分」は除外されている。あくまでも韓国側が公開した外交文書によれば、「第一次政治決着」を図った田中角栄首相(当時)は「公権力の介在が判明すれば改めて問題提起をせざるを得ない」などと述べたらしい(→例えば、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞の2006/2/6付朝刊などの記事を参照)。「歴史的事実」を歪曲しているなどと声高に主張するのはどうかと思うが、日本側には現在までに「拉致の現場から検出された金東雲駐日韓国大使館一等書記官の指紋」という明白な証拠に加え、「政治決着」後に新しく明らかになった当時の韓国政府の関与、すなわち日本の主権の侵害という事実を示す様々な状況証拠がいくつも蓄積されているはずである。やはり日本政府としては韓国政府に対して金大中前大統領の著書などを含めた様々な証拠・証言を示しながら「金大中事件」の真相究明を改めて強く要求しなくてはならない状況になっていると筆者は考えている。適切な時期を判断して日本政府は韓国政府に対して「金大中事件」の真相究明を改めて強く要求しなければならないと筆者は考えている。
 
 意外なことに日本だけではなく、韓国の若い人たちにも「金大中事件」のことを知らない人たちが多くなっているようである。そう遠くない将来に日韓両国の教科書に正しく「金大中事件」を掲載することを視野に入れながら共同研究を提案すべきだとも筆者は考えている。なぜなら日本や韓国や米国などの民主主義的価値観を共有する人たちにとっての「金大中事件」は、様々な制約を受けながらも、国境が今よりもずっと高い壁だった時代に民主主義や人権という価値観をなんとか共有しようとし続けた「象徴」の一つであったということは間違いのない「歴史的事実」だからである。
 
 金大中前大統領の拉致事件の生々しい描写は、実体験のない人たちが時代や国境を越えて様々なことを想像することをも可能にしているのかもしれない。60年以上前に日本側によって「強制連行」された人たちの中にも、もしかしたら同じような形で「拉致」された人たちもいるのかもしれない。そして北朝鮮による日本人などの拉致事件の被害者たちもきっと非常に良く似た恐ろしい経験を強いられたのであろう。
 
 韓国ハンナラ党の朴槿恵代表(パク・クンヘ=朴正煕元大統領の長女)が来日し、小泉首相とも会談(2006/3/8)した。「時代の流れ」を感じる。日本を含めた近代国家では、先祖の行為はあくまでも先祖の責任であり、親の行為はあくまでも親の責任であり、その子供たちを含めた将来の世代には責任はないのである。「身分制社会」ならばその先祖の子孫として生まれたという理由だけで先祖の責任をその子孫に理不尽に「相続」させることが正当化されるのかもしれない。だが、たとえ民主主義国家ではなくても、およそ近代国家であるならば、親の責任は親の責任、その子供の責任はその子供の責任として明確に区別されるはずである。以前から何度も繰り返しているが、だからこそ筆者は中国・韓国などの子どもたちは「生まれながらの被害者」であり、日本の子どもたちは「生まれながらの加害者」であるなどというような「致命的に間違った歴史認識」を絶対に認めるわけにはいかないのである。今回のところはあえてそれ以上のことは言わないでおくことにする。
 
 「金大中事件」が様々な形で問題になり続けたこの20年、30年の間に実に様々な出来事があった。そして現在では韓国は間違いなく民主主義国家になった。それにもかかわらず、韓国は北朝鮮になってしまうのだろうか。朝鮮半島の統一は間違っても韓国が北朝鮮になってしまうということではないはずである。金大中前大統領の「三段階統一論」では統一国家は民主主義国家になるということが明確に掲げられていたはずである。それにもかかわらず、最近の「青瓦台」の周辺だけを見ていると、「民主主義の大前提」であり「最低限の人権」でもある一人ひとりの生命・財産などを保障するということをなぜか後回しにし、この20年、30年の間で積み重ねてきたものをたった2、3年で捨て去り、韓国を北朝鮮のようなところにしてしまうつもりなのだろうかと非常に不安な気持ちになってくる。日本と非常に密接な協力関係を構築することも不可能ではない隣国の民主主義国家がいつの間にか消えてなくなり、ふと気づくと北朝鮮が2つになっていたとしたら筆者にとっては最悪の悪夢である。そんなことは賢明な韓国国民が許すはずがないと筆者は信じている。繰り返しになるが、今回のところはあえてそれ以上のことは言わないでおくことにする。


文化大革命」や「紅衛兵」とは何か

 今の中国の若い人たちが「文化大革命」や「紅衛兵」などのことをどれだけ詳しく正確に知っているのかということに筆者は興味を持っている。筆者は幼い頃から「文化大革命」や「紅衛兵」という言葉を何度も聞いたことがあったが、成長するまでは詳しいことは何も分からなかったから「謎の言葉」として記憶に残っていた。なお「文化大革命」とは「1966年に始まる中国の政治・思想・文化闘争。毛沢東・林彪らを主導者とし、直接大衆を組織することによって、党・行政機関の実権を劉小奇らから奪った。その極左的傾向が弊害を生み、毛沢東の死後、江青らいわゆる四人組が責任者として逮捕され、77年終了が宣せられた。文革」(広辞苑(第五版))、「紅衛兵(こうえいへい)」とは「1966年8月、中国で毛沢東の支持の下に作られ、文化大革命初期に活動した青少年の組織。のち、極左偏向と内部分裂で崩壊」(広辞苑(第五版))などと辞書には簡単に書いてある。
 
 「一九六六年八月十七日、毛沢東は天安門楼上で全国各地の紅衛兵に接見することを決定した。これは人々の彼に対する崇拝を新たなピークへと導くものであった。 文革小組の入念な手配のもとに、八月十八日、『文化大革命祝賀大会』と銘打った、毛沢東が大衆に接見する大規模な公開活動が早朝午前一時から開始され、百万にのぼる各界の代表者が統一指揮のもとにぞくぞくと天安門広場に集まった。広場中央の最前部を占めるのは『最初の革命的壁新聞』の模型を高く掲げた北京大学の隊列で、広場の前よりには上海、天津、武漢、広州、ハルピン、ウルムチなどの北京以外からきた教員と学生が並び、天安門城楼両脇の参列台には万をもって数える紅衛兵代表が立っている…(後略)」(p85)
 
 「大会終了後、毛沢東は天安門楼上で百万にのぼる人々のパレードを観閲した。壇上の指導者たちもひっきりなしに手を振って大衆に挨拶を送ったが、パレードに参加した人々の目は、みなじっと毛沢東の影をさがしもとめていた。毎年メーデーや国慶節にもこうした場面は見られる。しかし宣伝によって、このとき人々は毛沢東主席を一目でも見ることに常ならざる意義を与えていたのだった。 天安門楼上では、北京師範大学付属女子中学の宋彬彬が、紅衛兵の腕章を毛沢東の左腕につけ、毛は『紅司令』というこの紅衛兵総司令官の称号を喜んで黙認した。 午前十一時ごろ、パレードはすべて天安門広場から離れた。毛沢東は再び天安門楼上でいくつかの組に分かれた紅衛兵代表全員と会見し、一組一組と記念写真を撮った。紅衛兵は各種各様の紅衛兵の腕章と毛沢東バッジを献げた…(後略)」(p86-87)
 
 「八月十九日の夜、北京市第二中学、北京市第二十五中学、北京市第六十三中学の紅衛兵の大軍が、前門大街にある名の通った北京ダックの店『全聚徳』に乱入した。紅衛兵の激しい叱咤と扇動のもとに、店の入口に七十余年ものあいだ掲げられていた『全聚徳』の看板が、従業員の手でうち壊され、『北京?鴨店』と書いた長いペンキ塗りの木の看板に取り替えられた。紅衛兵たちは『全聚徳』の食堂、厨房、宿舎をわがもの顔で歩き回り、店に掛かっていた山水の書画をすべて破り捨てた…(後略)」(p92-93)
 
 「(前略)…北京の『四旧打破』は形式的な『反帝国主義』『反修正主義』へと拡大していくのである。八月二十四日、紅衛兵は数十万人の大会を組織し、『四つの旧(筆者注:旧文化、旧思想、旧風俗、旧習慣)を大いに打ち破り、四つの新を大いに打ち立てよう』、『アメリカ帝国主義を打倒せよ、ソ連修正主義を打倒せよ』という嵐のような叫び声のなかで、駐中国ソ連大使館前の『揚威路』を正式に『反修路』と命名し、同じ通りにある北京市第二女子中学をただちに『反修路中学』と改名した。 この日、十数の中学の紅衛兵が文革小組と公安機関の直接の支持のもと、東単三条にあるマリア・フランシス修道女会に突入し、『宗教の衣をかぶってスパイ活動に従事する』ローマ・カトリックの修道女を追放しろと要求した…(中略)…八月三十一日、公安人員と紅衛兵に護送された八名の外国人修道女は中国国境から追放された。同時に、北京の各種の宗教施設も打撃を受け、宗教職業者還俗令の波が続けざまに押し寄せた…(中略)…北京の観光の聖地である香山、碧雲寺、臥仏寺、八大処などの公園もまた、紅衛兵の『四旧打破』の重要な対象であった。彼らは山中の楼閣やあずまやに置かれた小さな仏像や横額、書画をたたき壊し、すっかり毛沢東の肖像画と取り替えた…(後略)」(p99-101)
 
 「八月二十三日、早朝から深夜まで、上海の紅衛兵と教員学生からなる何千何万もの宣伝小隊が、毛沢東の大きな肖像画をかかげ、『われわれは旧い世界の批判者だ』、『われわれは新しい世界の創造者だ』と書いた横長のスローガンをかざして街頭をねり歩き、いたるところで宣伝演説をぶち、ビラを配り、壁新聞を貼り、さらに大劇場で大衆集会を開いて宣伝と演説を行なった…(中略)…五十年の歴史をもつ上海最大の娯楽場−『大世界』の従業員は、紅衛兵とともに、歓声のなかで高さ数メートルの『大世界』の看板をひきずり下ろした。『大世界』の入口は壁新聞と大スローガンだらけになった…(中略)…紅衛兵はさらに上海の万国公墓に造反をやりに行き、『反動的人物』あるいは『封建主義、資本主義、修正主義』の雰囲気があるとみなした墓碑をめちゃめちゃに壊した…(後略)」(p101-104)
 
 「中国国内の『四旧打破』と造反行動に関する宣伝は、中国の在外大使館にもすぐに伝えられた。多くの大使館員が、宣伝された国内のやり方をまねて『造反』を始めた。 ある大使館員は、町で『造反有理』のビラをまき、『プロレタリア文化大革命勝利万歳』と大書したスローガンを貼った。また、大使館の屋上にネオンサインで『四つの偉大』のスローガンをつくり、かつこれは『この国の人民に光り輝く毛沢東思想を見せるためにやったのだ』と公言した。他の大使館員は、バスのなかで『毛主席語録』を朗読し、街頭で通行人の手に『紅宝書[毛主席語録]』と毛主席のバッチをむりやりおしこんだ。黒いベールをかぶったイスラムの婦人の行く手をさえぎって『思想の解放』を宣伝し、イスラム教徒のテントに潜り込んで無神論とゲリラ戦を宣伝した者もいた。このため、駐在国の警察との間で流血事件を引き起こした。さらにおかしなこともあった。某国駐在大使館では大使と参事官が『打倒』され、すでに決まっていた駐在国の政府要員を招待したパーティーも『造反派』が主催することになった。駐在国の政府要員が大使館に着いたとき、入口で出迎えたのは一般職員(実は造反派の司令官)だけだった。客間に入ると、以前はそこに有った飾り物があとかたもなく消え去り、かわりに毛沢東の肖像と赤地に黒字のスローガンが飾られていた。宴会の席では、腰にエプロンをかけて料理を運んでいるのがなんと大使と参事官であった。客人たちはこの礼儀に適わぬやり方について質問したが、大使はだまって答えなかった…(後略)」(p108-109)
 
 「紅衛兵は『赤は革命の象徴だ』という極めて幼稚な思想に導かれて、交通を指揮する赤青黄の信号表示に異議を唱え、『赤は進めを表わす』のだと言い始めた。多くの紅衛兵が都市の交通警察官や鉄道警察官のそばで監視に立ち、赤信号は進め、青信号は注意だとむりやり命令し、数えきれないほどの無意味な交通事故を引き起こした。最後にはやはり周恩来総理が自ら乗り出して、『信号の表示は全世界の統一規定であり、赤は人の警戒心を呼び起こしやすいという光学的な効果があるのだ』と紅衛兵に説明し、さらに、信号の問題は今後解決の方法を考える、と述べた。こうしてようやく紅衛兵のでたらめな行動を、何とか機を失せずに止めることができたのである…(後略)」(p111。以上、厳家祺・高皋共著(→1989年の天安門事件をきっかけに中国からフランス、米国に亡命)、辻康吾監訳、文化大革命十年史(上)、岩波現代文庫(学術72)、2002年から)
 
 「(前略)…一九六六年八月十八日、天安門広場で文化大革命を祝う百万人の集会が行われた。このなかに初めて紅衛兵が参加して注目を集めた。二日後の八月二十日、北京の紅衛兵たちは四旧(筆者注:旧文化、旧思想、旧風俗、旧習慣)の打破を叫んで、街頭に繰り出した…(中略)…街には大字報や修正主義批判ビラが溢れ、三角帽子をかぶせられた[原文=戴高帽子]実権派[原文=当権派]、反革命分子が引回しされる姿も随所で見られるようになった。この際に『ジェット機を飛ばす』[原文=?噴気式]姿勢(両手を後にあげさせたままひざまづかせる姿勢)を強制されることも少なくなかった。紅衛兵たちはまた実権派の自宅に押し掛け、家宅捜索[原文=抄家]をやり、反革命資料なるものを持ち去った。ついでに『ブルジョア的なもの』を戦利品として持ち去ることも少なくなかった。紅衛兵から造反の対象とされた実権派は職務を外され[原文=靠辺站]、牛小屋のような粗末な場所[原文=牛棚]に押し込められたり、便所掃除などの屈辱的な仕事を押しつけられた…(後略)」(p111-112、矢吹晋著、文化大革命、講談社現代新書(0971)、1989年から)
 
 筆者は「文化大革命」や「紅衛兵」という幼い頃からの「謎の言葉」が謎ではなくなり始めた頃には、かつての中国で本当にこんなことが起こったのかどうかまだ半信半疑だった。荒唐無稽な主張や「バッチ」や盲目的な個人崇拝などは現在の北朝鮮の状況を強く連想させないでもない。やはりかつての中国には一人ひとりの生命・財産などをいとも簡単に侵害してしまうような理不尽な混乱状態や破壊活動があったのだろう。「温故知新」などという言葉も残らないくらいに徹底的な破壊が行われたのだろう。「歴史的事実」の詳細については、ハッキリしない部分も多く残されているのだろうが、「文化大革命」時代の「紅衛兵」による破壊活動や一人ひとりの人間の生命・財産などの侵害という「歴史的事実」が存在したということだけは間違いない。そして実体験に基づいてその「紅衛兵」という少年・少女たちによる不法な「家宅捜索」の様子などを生々しく描写した著書もいくつかある。
 
 「私が窓から外を見たとき、外は陽にあふれていた。前の夜に雨が降り、晴れたばかりの朝の光が澄みきっていた。それに比べて部屋の中は暗く、私にはやってきた連中の表情がよく見えなかった。全部で七、八人はいたろう。みな同じクラスの生徒だった。誰が口を開いたかは、はっきりしない。『陳凱歌! 我々紅衛兵は、お前の家の家宅捜索と差し押さえを行う!』。私は何か言おうとしたはずだが、何も出てこなかった。 母は病気で、ベッドに横になっていた。部屋を出るように言われ、おばあさんが母に手を貸して、ゆっくりと陽の下へ出て行った。母は、壁に向かって立つよう命令された。私は何か言おうとしたはずだが、一言も出てこなかった…(後略)」(p95)
 
 「彼らは、衣装箱と衣装タンスを開けた。新旧の服が宙を舞い、地面に落ちた。踏まれるたびに、樟脳(しょうのう)の玉が砕け、強烈な匂いが漂った。絹やレースは引き裂かれ、木綿だけが残された。母親が五〇年代にはいていた革靴が出てきた。母は病気のために、ずっと布靴しかはかなかったのだ。それでも、かかとのあるものはへし折り、そうでない靴は半分に切り裂かれた。使われたのは、包丁だった。彼らが引き上げた後、地面に捨てられた包丁は、刃が欠けてデコボコになっていた。彼らは家具を動かし、鉄の棒でしきりに地面や壁をたたいた。しかし出てきたのは、妹がずいぶん前に失くした泣き声を上げる西洋人形だけだった。その人形は、門の外へ放り投げられ、エンジュの木にぶつかって、最後の泣き声を上げた。宋の花瓶も出てこなければ、元の絵画も出なかったので、彼らは額縁のガラスをたたき割った。なかに入っていた写真は、しばらくためらってから、ゆっくりと落ちてきた。おばあさんが使っていた髪油の匂いをかぐ奴もいた。それから瓶を石段にたたきつけた。すると中庭中に、モクセイの香りが漂った。彼らは鍵のかかった引き出しを壊し、それほどあるわけではなかった現金と貯金通帳を取りだした。そして、両親が残しておいた十数年間の手紙を、一通ずつ読んだ。両親の間の手紙もあれば、友人やすでに亡くなった人のものもある。読み終えると、地面に放り投げた。過去のことだったからだ。小さな丸い箱がどうしても開かなかったので、金づちでたたきつぶした。中は、綿に包んだ私と妹の臍(へそ)の緒だった。そして、とうとう本の番になった…(中略)…彼らは、毛とごく一部の作家のものを除いて、残りの本を全部運び出した。それからエンジュの木の下に積み上げて、マッチを擦った。そのとき私はふいに、この本たちと過ごした数えきれぬ黄昏や午後が、ただの夢のように思えた。これから自分の本当の人生が始まるのだ。 本が焼けるときは、静かだった。風もなく、熱気はまっすぐ上に昇っていく。炎も明るくはなかった。太陽が出ていたからだ。気流の向こうで人影がぼんやりと揺れ、ぼおっとしたカーキ色の軍服や赤い腕章が、気流から出てくると輝き、また気流に入ると暗くなった。燃え尽きるときに、頁は夢の中の花びらのように開いた…(後略)」(p97-99)
 
 「炎は深夜まで燃え続けて、ようやく消えた。同級生たちは、目覚まし時計からカメラまで、あらゆる金目の品物を持ち去った。頭痛の薬まで見逃さなかった。あとで映画製作所の造反派に引き渡したらしい。彼らは帰り際に、真面目な顔をして、一人一人私と握手をしていった。まるで自分たちが私を悪魔の手から救い出し、握手は私の感謝の印だとでもいうようだ。家に入ると、部屋はまるで胃の中のものを吐き出したみたいだった…(後略)」(p101)
 
 「家宅捜索や差し押さえをやった側の人間も、後になってみれば確かにおかしいと思ったことだが、憲法に個人の財産を守ると明記してある共和国で、公民が、ましてやまだ公民でもない未成年が、他の公民の財産を勝手に焼き払い、略奪しても、処罰されなかった。そればかりか、かばってもらえたのだ。それはいったいなぜだったのだろう? それは、この家財没収が、はるか昔からの中国の伝統だったからだ。乱世の時代の、暴徒たちの『打ち壊しによる貧民救済』から、治世の時代の、皇帝の『上意による差し押さえ、没収』にいたるまで、目的は違おうとも、そのやり方は同じだった。どちらも、没収することに意味があるのだ。紅衛兵の行動は、伝統を発揮し、古い芝居を焼き直したものにすぎない。没収の目的は、経済的に被害者を追い詰めるだけでなく、思い出の品を破壊して、精神の柱を失わせることにあった。事件後に多くの老人が亡くなったのも、拠りどころを崩されたためだ」(p102)、「この騒ぎのおかげで、個人の手に伝えられていた歴史文物や書画骨董は一掃され、大部分は灰燼に帰した。一部は押収品の倉庫でかびだらけとなり、後に海外へ流失していった。もはや昔日の面影は、うかがうべくもなかった…(後略)」(p104)
 
 「(前略)…六〇年代末の中国では、軍事動員と同じ方法により、大量の都会の青年たちが、辺鄙な田舎へ送り込まれたのだ。行きたくなかった若者が大部分だが、ほかに選択の余地はなかった。そして、彼らと村人との関係は逆転していた。毛沢東の呼びかけを借りて表現するなら、『知識青年が農村へ行き、貧農下層中農の再教育を受けるのは、大いに必要なこと』だったのだ。この呼びかけは、一九六八年の十二月に出された(『人民日報』十二月二十二日)。その後の十年間に二千万人を超える青少年が、大小さまざまな都市から農村へ向かった…(後略)」(p171-172)
 
 「毛が一九七六年に世を去ると、一千万を超える知識青年たちは、いろいろな方法を使って、続々と都会へ戻ってきた。彼らは都会を出ていったが、一度も離れたことがないかのように再び戻ってきた。 しかし、懐かしい街頭に立ってみると、いったいこれまでに何が起こったのか、まさに夢のようだった。十年間も追い求めてきた終点が、出発点だったとは思ってもみなかった。上へ、上へと歩いていたつもりが、それは一つの円にすぎなかった。再び出発点に立ったとき、髪には白いものが混じっていた。過去は田園に置いてきた。そして、未来もまた、もう一つの円かもしれないのだ。終点であり、また出発点でもあるその同じ場所に立つときに彼らが感じたのは、年とった自分の限界でしかない…(後略)」(p212、以上、陳凱歌著、刈間文俊訳、私の紅衛兵時代 −ある映画監督の青春、講談社現代新書(1008)、1990年から)
 
 やはり破壊活動によって創造的活動や「温故知新」などという言葉は完全に吹き飛ばされてしまったのだろう。国際的にも有名な中国の映画監督の陳凱歌監督(チェン・カイコー、日本・中国・韓国の俳優が出演した「PROMISE  無極(THE PROMISE)」は日本でも2006年2月公開)の著書からの引用である。かつての中国では紅衛兵という少年・少女による不法な「家宅捜索」などが行われたことは歴史的事実である。そして60年以上前の戦争中には戦争状態の中で日本側によって「家宅捜索」以上のずっとひどいことが中国各地などで繰り返されていたのだろう。何にしても時間が経過すればするほど歴史的事実の詳細を明らかにするのはますます困難になっていくということだけは間違いないはずである。
 
 今の中国は文化大革命(文革)時代とは全く別の国になっている。今の中国は、どんなに少なくとも一人ひとりの人間の生命・財産などを保障しようとする国家になっているはずだと筆者は思っている。2008年には北京で五輪が開催されるし、2010年には上海で万博が開催される。もはや文革時代の中国に逆戻りするようなことはあり得ないと筆者は思っている。
 
 だが、約1年前に北京や上海を含めた中国各地で「反日デモ」がエスカレートして発生した破壊活動(→参考:2005/5/11号)のときに「造反有理」「愛国無罪」などというプラカードを掲げたり、スローガンを叫んだりしている人間たちを見つけるとやはり少し不安になってくるのである。今の中国の若い人たちは「文化大革命」や「紅衛兵」などのことをどれだけ詳しく正確に知っているのだろうか。今回のところはあえてそれ以上のことは言わないでおくことにする。
 
「時代の流れ」
 
 ヨーロッパでは第二次世界大戦後から長く「冷戦」が続いていたが、アジアでは「冷戦」ではなく「熱戦」が続いていたと捉える日本の学者・研究者もいる。もしかすると東西冷戦が終結してもアジアには冷戦構造が残ったままという見方よりも、東西冷戦が終結してようやくアジアでも「冷戦」状態が定着するようになったという見方の方が正確な「歴史認識」なのかもしれない。筆者にとっては朝鮮戦争(1950-53)は完全な「歴史的事実」であるし、ベトナム戦争(1960-75)も大部分は「歴史的事実」である。だが、それらのアジアを舞台にした「熱戦」の「後遺症」とでも捉えるべき様々な事件は間違いなく「同時代の出来事」であった。
 
 筆者は、韓国の軍隊が市民に発砲したなどという「光州事件」(1980)の断片的で衝撃的な情報を伝えるラジオのニュースを布団の中でこっそりと聞いていた記憶が残っている。当時は報道機関でさえも現地で実際に何が起こっているのかという情報を入手することも簡単な状態ではなかったのである。事件直前に逮捕されていた金大中前大統領(2000年ノーベル平和賞受賞)は死刑判決が確定し(1981)、無期懲役、さらに懲役20年に減刑され、やがて刑の執行が停止されて米国に出国(1982)した。そしてそれまでに何度も繰り返されたテレビニュースの「金大中氏とは」などという資料映像を見た際に日本が舞台になった拉致事件である「金大中事件」(1973)の存在を知り、筆者は非常に大きな衝撃を受けたものである。なぜ韓国の政治家の名前と同じ名前が付いた事件が日本で発生したのか、そしてそんな外交問題になってもおかしくない重大事件がなぜ未解決のままになっているのかなどということを少しずつ理解していくことになった。
 
 そして今から振り返ってみれば、まさにそのような時期に北朝鮮による日本人などの拉致事件などが繰り返されていたことになる(→例えば、横田めぐみさん拉致事件(1977年)、田口八重子さん拉致事件(→1978年。田口さんは1987年の大韓航空機爆破テロ事件実行犯の金賢姫・元北朝鮮工作員の教育係「李恩恵」と同一人物と見られる)、蓮池薫さん・祐木子さん拉致事件、地村保志さん・富貴惠さん拉致事件、曽我ひとみさん・ミヨシさん拉致事件(以上、1978年。ミヨシさんを除く拉致被害者は家族と共に北朝鮮から帰国している)、原敕晁さん拉致事件(1980年、辛光洙(シン・グァンス)事件)など。参考:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/rati/index.html)。
 
 またかなり以前(→参考:2004/1/5 (5/5)号)に触れたことがあるが、筆者が中学生だったときには、「侵略」が「進出」などになったという高校の「歴史教科書検定問題」(1982)もあった。教科書のような非常に身近なものがまさか外交問題になるなんて夢にも思っていなかったから何とも説明が難しい非常に複雑な感情を抱いたものである。最近になって当時の新聞記事を改めて確認してみると、中国、韓国との間で外交問題になっていたのは約1カ月間に過ぎないのだが、様々な意味でとても長く非常に深刻な状態が続いたような印象が残っている。靖国問題やいわゆる歴史認識の問題などが今の日本、韓国、中国などの若い世代にどのような影響を与えるのか少し心配になってくる。いずれにしても問題解決のためには最低でも歴史的事実と歴史認識を区別し、間違いのない事実に基づいて解決方法を考えていく必要があるはずである(→参考:2006/2/21号、2006/4/17号etc.)。
 
 そしてビルマ(ミャンマー)訪問中だった韓国の全斗煥大統領らの暗殺を狙って北朝鮮工作員が実行したと見られるアウンサン廟でのラングーン爆弾テロ事件(1983)が発生し、韓国の閣僚ら21人が殺害された。またソウル五輪(1988)の約1年前には日本人名義の偽造パスポートを所持した北朝鮮工作員によるビルマ(ミャンマー)沖での大韓航空機爆破テロ事件(1987)も発生し、乗客・乗員115人全員が死亡した。これらの事件は現在でも十分に真相が解明されたとは言えない状態が続いている。
 
 また冷戦が終結した今では想像することも非常に難しいサハリン沖でのソ連戦闘機による大韓航空機撃墜事件(1983)のような事件も確かに発生した。そしてあの史上空前の原子力災害となった旧ソ連・ウクライナのチェルノブイリ原発事故(1986/4/26)から20年が経過した。これらの事件ではかなり時間が経過してからも実際に何が起こったのかということでさえもなかなか知ることができなかったという記憶が強く残っている。
 
 様々な理由があったにせよ、核技術先進国のトップランナーであった旧ソ連でさえも核の平和利用に失敗して地球規模の大災害を引き起こしたのである。ロシアは旧ソ連時代の「過去」をどのように反省してどのように総括するのだろうか。仮に核兵器開発の危険性が100%なかったとしても、旧ソ連よりも劣った核技術しか持たずに核の平和利用を目指す国家が地球規模で増加するということは、地球規模では核災害の危険性を著しく増加させることになるということをしっかりと認識しておく必要がある。いずれにしてもイランの核問題、北朝鮮の核問題、そして少し前のインドとパキスタンの核実験(1998)などの問題でも、核の平和利用などの「権利」だけではなく、十分に実効性のある形での「義務」の履行もしっかりと問題にされなければならないということである。
 
 筆者が大学生になると、長く続いた東西冷戦がついに終結することになるが、ヨーロッパでベルリンの壁が崩壊(1989/11/9)する少し前には、東アジアの中国・北京で「天安門事件」(1989/6/4)が発生した。そして軍が発砲したり戦車などが走り回ったりしてデモを武力鎮圧する衝撃的な映像は深夜にテレビの生中継で見たし、その頃に「文化大革命」(1966-1977)の時代にも「天安門事件」と呼ばれる事件(1976)があったことも知った。やはり当時も生中継の映像以外の部分では実際に何が起こっているのかということでさえもなかなか知ることができなかったことをよく覚えている。
 
 いずれにしても地球規模でインターネットが発達している現在では、「天安門事件」「日本人拉致事件」「金大中事件」などを含めたすべての明らかになった「歴史的事実」を詳しく知ろうと思えば、ごく一部の日本の隣国などを除外した地球上のどこにいても、誰でも比較的簡単に情報を入手することは可能になっている。筆者も機会があったら中国国内各地のインターネットカフェなどから検索エンジンなどにアクセスしてインターネット上の筆者自身の文章を間違いなく読むことができるかどうかを確認してみたいものである。やはり筆者は「時代の流れ」を感じている。


時代や世代や国境の壁を越えて「心に直接伝わってくるもの」
 
 「木浦第一小学校の三年間の生活の中で、忘れられない記憶がある。 私が五年生の時、朝鮮語の科目が正規の授業から消えてしまった。それまで私たちは民族の歴史や朝鮮の地理などを朝鮮語の時間に学んだ。ところが民族教育の唯一の窓口が封鎖されてしまったのだ。同時に、学校内での朝鮮語の使用が禁止された。同じ朝鮮人の学生同士が朝鮮語で話してはならず、違反すれば処罰を受けねばならなかった。 その頃のある日、父が学校にいる私に用事があって訪ねてきた。父は日本語が喋れなかったのだが、私も校内で朝鮮語を使うわけにもいかなかった。 『……』 父は困った表情で何かを喋ろうとしたが、口を開けず、お互い苦しく押し黙ったまま時間が流れた。結局、父はそのままきびすを返して、とぼとぼと帰っていった。 何か急ぎの用事があったから訪ねてきたのだろうに、私たちは一言も交わすことができなかった。授業を終えて家に帰った時も、父はどうしてか、その用事のことに関しては何も話さなかった。私も聞けなかった。 胸の締めつけられるような痛い思い出として記憶に残っている。 木浦第一小学校を首席で卒業した私は、その年に公立の五年制の木浦商業学校にやはり首席で入学した。日中戦争たけなわの一九三九年四月のことである。当時、入学した同期生は百六十四人で、日本人と朝鮮人学生が半分ずつだったと記憶している。 今では、商業高校というとあまり高く評価されないが、当時は事情が違っていた。特に木浦商業学校は全国でも有名な学校の一つで、湖南(ホナム)地方では光州(クワンジュ)西中や全州(チョンジュ)北中、光州師範などと共に、最も競争率の高い名門校の一つだった…(後略)」(p42-43)、
 
 「『創氏改名(日本の植民地時代に朝鮮名を日本式に改名させられた制度)』は、私が(筆者注:木浦商業学校)二年生のときに経験させられた。日本人の場合は、姓を変えることはそれほど不思議なことではない。結婚した女性の姓が変わるのはごくごく普通のことであるし、男性でも婿養子になれば姓を変えることが多い。しかし、私たちにとって『姓』を変えることは、命を捨てるにも等しい事柄なのだ。日本人が『命に代えても』と決意を表現するように、わが国の人たちは『できない場合は姓を変える』と表現する。 今でも日本人と話していて、『その当時、創氏改名をどうしましたか』と聞かれることがある。もちろんその質問を口にするのは、単純な好奇心か、あるいは話題をつなぐための軽い話のつもりであろう。しかし私には、ただその程度では受け止められない。常に屈辱感を覚えるのだ。 私はこの質問が出るたびに、『答えたくない』と言う。 『創氏改名』の後くらいから、私の成績は次第に下がり始めた。初めのうちは日本人学生に負けまいと頑張って、一番になっていたのだが、徐々にやる気が失せてきた。その大きな理由として、学校側がわけもなく『問題がある』あるいは『要警戒』生徒として、まともに評価をしてくれなくなったことがある。私は自分の行動には慎重に配慮もしていたので、学校側から問題視されるような事実は何もなかった。しかしそれでも、日本人の上級生たちは私を呼びつけ、つるし上げを行なった。私の思想に問題があるというのだ。朝鮮民族の歴史を口にしただけで危険思想の持ち主とみなされた時代で、そのようなことがあるたびに悔しくてやりきれなかったが、まさに亡国の民の悲哀であり、どうする術もなかった…(後略)」(p44-45。以上、金大中著、金淳鎬訳、金大中自伝、千早書房、2000年から)
 
 再び金大中前韓国大統領の著書からの引用である。もしも筆者が歴史などの教科書の執筆者か編集者ならば、この部分を「資料」として掲載することを真剣に検討するだろう。侵略や植民地支配という「歴史的事実」を正確に知ることはそれほど難しいことではないが、それらの「歴史的事実の持つ意味」を深く正確に理解することはなかなか難しいことなのかもしれない。やはり「被害者」の感情を「加害者」が理解することは非常に難しいことなのかもしれない。だが、「被害者」と「加害者」の壁、さらには時代や世代や国境の壁をも越えて「心に直接伝わってくるもの」も探せば必ず見つかるはずである。それを「人権」と呼ぶかどうかは別にしても、将来の世代を含めた一人ひとりの生命・財産などを尊重するということは昔も今もこれからも地球上のほぼすべての人たちに説得力のある普遍的な価値観であると筆者は考えている。できることならば地球上のすべての人たちと「普遍的真理」を共有したいものだと筆者は心から思っている。
 
 「一九六五年九月一日、私は四中に入った。広い校庭で千八百名の男子生徒と一緒に、新任の校長が始業式で挨拶するのを聞いていた。その日は、きれいに晴れ上がっていた…(中略)…四中は、北京の西城(旧市街の西側)にあった。正門からほど近いところに、西什庫天主教会があり、裏門から一区画行けば林彪元帥の屋敷だった。学校の両側の道は、市の中心にある長安街(北京を東西に貫く中心路)に直結していた。 入学したときには、四中はすでに六十年以上の歴史をもち、その教育には定評があった。文革以前、四中の大学進学率はつねに九十パーセント以上だったから、四中に合格すれば大学行きの切符を手にしたようなものだった。当然、この学校は男子生徒の競う目標となり、その勝者には党や政府、軍の高級幹部の子弟が多く含まれたのも、自然の成行きだろう。なかには、元勲クラスの跡継ぎもいた。私のクラスでも、政府の次官以上の幹部の子弟は二十パーセント以上いたから、それより下の地位の者の数はいうまでもない。髪が白くなりかかった新任校長は、大学の学長になってもおかしくない経歴の人物だった。彼女が任命されたのも、『自分たちの子供』をよろしく頼むという意味があったのだろう。もちろん四中には努力型の庶民の子弟も少なくなかったが、大勢の幹部子弟の存在は、当時の校風を左右しないわけにはいかなかった…(後略)」(p44-45)
 
 「中学の受験勉強中、国語の先生たちは過去の問題を検討して、出題されそうな作文のテーマを考えてくれた。しかし、私の年に出た問題は、予想とは大きくはずれて、なんと『毛主席の良い子供になるには』だった。 一年しかなかった私の中学生活も、その日曜日の大半は教室に座って、担任教師に見られながら、当時第四巻まで出版されていた『毛沢東選集』を朗読して過ごすことになった。そして、『革命』や『階級』『独裁』といった問題を討論し、『革命とは、一つの階級が別の階級をひっくり返す激烈な行動である』と信じていた。こういった『毛主席革命著作学習グループ』は、中学校中にあふれていた…(後略)」(p52。以上、陳凱歌著、刈間文俊訳、私の紅衛兵時代 −ある映画監督の青春、講談社現代新書(1008)、1990年)
 
 実に不思議なことではあるが、ある個人の小学校や中学校ぐらいの「実体験」は時代や世代や国境の壁を簡単に越えることができる場合が多いのである。もしもある国家が国を挙げて戦争を続けているのならば、たとえ学校に毎日行っていたとしても、その国の子どもたちは本当の意味で十分な教育を受けることができない可能性が非常に高い。今も昔も植民地支配や独裁政治や戦争などが教育に与える悪影響は無視できないほど大きなものである。かつての日本でも、敗戦を境にして全く同じ教師が軍国主義から民主主義へと正反対のことをろくな反省もなしに唱え始めたはずである。そしてそれを見たそれまでは真面目だった少年・少女たちも大人に対して不信感を持ち、やがて不良になっていったケースも少なくはなかったはずである。かつての日本であっても、現在の地球上のどこかであっても、あるいは、それ以外のいつかのどこかであっても、戦争などが子どもたちに与える様々な悪影響は、別の環境にいる人たちが想像できないほど大きく違っているわけではないのである。
 
 例の「法則」(→参考:2006/2/8号etc.)のようなものを使うことにすれば、「(4)環境とその内部の行為者(主体)は相互作用する」というのが普通だが、戦争のような一個人ではどうすることもできない理不尽な「環境」の場合には、子どもたちは一方的に悪影響を受け続けることになるのである。そして少年・少女時代に「環境」から一方的に理不尽な形で悪影響を受け続けた子どもたちもやがて様々な思いを持って「大人」になり、少年・少女時代よりもずっと大きな影響を「環境」に与えることができるようになっていくのである。だから「(5)ある物やその性質は元の環境から切り離して考えることは難しい」(あるいは「(5')ある物の今現在の状態は変化の経路に依存している」)のである。今という時代の諸現象を様々な「文脈」に基づいて冷静に捉え直す必要があるのではないかと筆者は考えている。
 
 「二七 たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、しかも人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混えたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。それは彼によって自然がそれを置いた共有の状態から取り出されたから、彼のこの労働によって、他の人々の共有の権利を排斥するなにものかがそれに附加されたのである。この労働は、その労働をなしたものの所有であることは疑いをいれないから、彼のみが、己の労働のひとたび加えられたものに対して、権利をもつのである。少くともほかに他人の共有のものとして、十分なだけが、また同じようによいものが、残されているかぎり、そうなのである」(p32-33(第五章 所有権について)
 
 「二四三 結論はこうである。各個人が社会を取り結んだ時、これに与えた権力は、社会が存続するかぎり決して個々人に復帰することはなく、いつまでも協同体の手に残るであろう。何故なら、これなしには協同体はあり得ず、国家はあり得ず、それは原始の協定に反することになるから。そうして社会が立法権を、どんなものであれ人間の集会に与え、彼らと彼らの後継者が引き続いてそれをもち、また後継者を定めるについての指示とそうして権限とが与えられている場合、立法権は決して、この政府の存続する間は、人民に復帰することはない。何故なら永久に続く権力をもった立法府を設けることによって、人民はその政治権力を立法府に与えてしまったので、それをふたたび取り戻すことはできないのである。けれどももし彼らが、この立法府の存続期間に限度を設け、個人もしくは会議体のもっているこの最高権を一時的に過ぎないものとしたとすれば、もしくは、権威の地位にあるものの失敗でそれが没収された場合には、その没収なり、定められた期限の到来によって、それは社会の手に戻り、人民は最高のものとして行為する権利をもち、立法権を自分たちのうちに継続させるか、あるいは、そのよいと信ずるところにしたがって、新しい形態を定めるなり、古い形態のままでこれを新しいものの手に与えるなりするのである」(p243-244(第十九章 政府の解体について)。以上、ロック著、鵜飼信成訳、「市民政府論(国政二論後編)」、岩波文庫(白7-7)、1968年(原書:John Locke, "TWO TREATISES OF GOVERNMENT"(1690年))から)
 
 筆者はロックの主張のすべてに賛同しているわけではないし、また彼の主張をそのままの形で現代に適用できるなどと考えているわけでもない。筆者があえて強調したいのは「一人ひとりの人間には自分自身の生命や身体、身の回りのささやかな財産を自由に使用する権利すらも認められないのか」という問題は実に古くて新しい深刻な問題だということである。繰り返しになるが、過去の日本の侵略や植民地支配の過程でも、多くの人たちの生命・財産などが理不尽な形で奪われたわけである。よって過去の歴史を完全に総括するためには、地球上のあらゆる場所で一人ひとりの人間の生命・財産などが保障されているかどうかということに敏感でなければならないと筆者は考えている。
 
 もちろん権利と義務、自由と責任は表裏一体の関係にあるから、権利や自由が無制限に認められるというものではない。だが、いくらなんでも一人ひとりの人間に自分自身の生命や身体、身の回りのささやかな財産を自由に使用する権利すらも認めないなどということを正当化するようなことは絶対にできないはずである。21世紀になってもまだ地球上に一人ひとりの生命や身体、身の回りのささやかな財産の安全すらも保障されていない場所が多く残されているという現実を直視する必要があると筆者は考えている。
 
 何度も繰り返していることだが、筆者は政治の究極目標を「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えている。もちろん政治は「親切」であっても構わない。だが、その「親切」は一人ひとりの生命などを守るという「正義」が間違いなく実現している状態になってはじめて意味を持つものである。そういう意味で筆者は政治の究極目標を「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えているのである。日本政府が国際社会で熱心に主張している一人ひとりの人間を中心に考える「人間の安全保障」(→http://www.humansecurity-chs.org/ なお「人間の安全保障」(アマティア・セン著、東郷えりか訳、集英社新書(0328A)、2006年)も参考になる)という考え方と筆者の考え方は基本的には同じものである。いわゆる「人権」の中の基本中の基本である「基本的人権」、しかもその「基本的人権」の核心の中の核心である「一人ひとりの人間の生命・財産」すらも十分に保障されていない状態では、そう遠くない将来に予想できない種類や規模の大混乱が発生したとしても何ら不思議なことではないのである。たとえどんなに強く平和を望んでいたとしても、一人ひとりの生命・財産などが保障されない状態が続くのならば本当の意味で平和を構築したり維持したりすることはできないのである。今回のところはそれ以上の具体的なことはあえて言わないでおくことにする。
 
 民主主義には間違いなく多数決でも決められないものが存在するのである。言い方を換えれば、多数決でも決められないものを大前提にして民主主義というものが成り立っているのである。最近はどういうわけか地球上のあちこちでそういう基本的なことも十分に理解できない偽者の専門家たちがはびこっている(→参考:2006/2/8号etc.)。テロリストや独裁者だけではなく、そういう「民主主義の大前提」も十分に理解することができない政治家や研究者や教員などの偽者の専門家たちもまた民主主義というものを深刻な危機に陥れているということを絶対に見落としてはならないのである。
 
 もう桜が散ったり、とっくに散り終わってしまっている季節になっている。まだもう少しの間だけ「不自然な人工の木」が一本残らず枝の先から根元まで粉々に崩れ落ち、久しぶりに見事な花を咲かせた「枯れ木」に新しい芽が成長していくような「季節」がやってくるという希望を持ち続けていることにしよう。
  

<< 続く (→第6回(2006/8/22)) >>


正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)

「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)

「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)

「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)

正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)

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正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)


サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)


事実はテレビや新聞よりも奇なり -「小泉新党」から政局が見えてくる- (2005/10/18)

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (2/8) 「ルール」はかなり以前から変わっていた

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (3/8) 「マニフェスト(政権公約)選挙」

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (4/8) 「壁」を破った自民と「壁」が迫ってきた民主

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (5/8) 「あと1年」のために必要なこと

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (6/8) 「小泉新党」から今後の政局が見えてくる

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (7/8) 「こんにちは前原誠司」で良かったのか

 事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (8/8) 「自動安定化装置」としての「大連立」構想

(参考)前回からの動き(2005/8/27-10/17)


この選挙はどのような意味を持つことになるのか(2005/8/26)

 (参考)前回からの動き(2005/6/27-8/26)


日本は「民主主義立国」になることができるのか(2005/6/27)

 (参考)前回からの動き(2005/5/12-6/26)

「新しい公共財」の創造(2005/5/17)

「泥仕合」や「茶番劇」のあと(2005/5/11)

 (参考)前回からの動き(2005/2/9-5/11)


「カルトからの自由」の実現に必要不可欠な挙証責任(2005/2/9)

 (参考)前回からの動き(2004/12/25-2005/2/9)


複数の視点は「連鎖」の理解にも必要不可欠(2004/12/25)

  (参考)主な動き(2004/9/21-2004/12/24)


現実政治の問題解決に必要不可欠な複数の視点(2004/9/21)


永田町も国際社会も相変わらず「異常なし」(2004/6/22)


正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23)


「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (補足(2004/1/12))

「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5)

(参考) 2003年後半の海外の動き


(2003年総選挙特集)

「壁」を打ち破るためには(2003/12/8)


 最近の日本の政治情勢について(2003年)

 最近の日本の政治情勢について(2002年)

▽参考:日本の政治


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