政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。
当ホームページ上のすべての記事は無料ではなく「シェアウェア」です。著作権の侵害とそれに類する一切の不適切な使用、及び不正行為は固くお断りします。また不正行為等の防止のためにやむを得ないと判断する場合には事前の警告なしに報復措置を含めたすべての必要な手段を講じます。
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購読料について(2006年版) (2006/12/28更新)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)
○「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)
○「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)
○「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)
○サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)
受験シーズンが終わり、桜が咲いたり散ったりする季節になった。春は別れの季節でもあるし、新たな出発の季節でもある。もうすっかり新年度である。今回は「心の問題」特集になっている。「桶狭間の戦い」ではないが、「目指すは『心の問題』ただ一つ」というのが当初の基本方針であった。しかし、永田町周辺が「心の問題」へと通じる唯一の道を大きくふさいでしまったために余計なことにもある程度は触れざるを得なくなっている。
北朝鮮による日本人拉致被害者の横田めぐみさんの夫が韓国人拉致被害者である可能性が非常に高いことが日本側のDNA鑑定で明らかになった(2006/4/11)。同じ頃、民間会議の機会に北朝鮮の核問題などを協議する6カ国協議の各国代表らが東京に集まったが、中断されたままの協議再開の見通しは立っていない。
あえてひとことだけコメントしておくことにする。現実の世界にはできることとできないこと、許されることと許されないことがある。そして権利と義務は表裏一体の関係にある。相変わらず「犯罪組織」なのか「主権国家」なのかもよく分からない北朝鮮の問題でも(→参考:2006/2/21号etc.)、核問題が深刻化しているイランの問題でも、そして「内戦状態」とも言われているイラクの問題でも、まず「ダメなものはダメ」ということをしっかりと理解させなければ全く話にもならないのだろう。民主主義には多数決でも絶対に決められないことがあるなどという最も基本的なこと(→参考:2006/2/8号etc.)も満足に理解できない相手と話し合っても意味のある合意が得られるはずがないからである。
さて、相変わらずスポーツは多くの人たちを感動させ、永田町周辺は多くの国民を失望させ続けている。ちなみに筆者は関係者の「ご協力」のおかげで永田町周辺に加え、スポーツの分野でも「占い師」にしていただいている(→参考:2006/2/8号)。
トリノ冬季五輪フィギュアスケート女子シングルで荒川静香選手が金メダルを獲得(2006/2/24朝(日本時間))して多くの人たちを感動させた。そして小さな子どもたちからいい歳をした大人たちまでもが「荒川選手独特の大きく反り返るイナバウアー」を真似した。
ちょうど同じ頃、永田町周辺では「謝罪」と「アウバナイ」(→筆者注:深々と長く頭を下げること)を繰り返しながら「銅メダル」(→筆者注:比例復活当選の議員バッチ)を堅く握り締めた「愚か者」が国民に大きな失望を与え続けていた。やはり「ガセネタ」(→参考:2006/2/21号)だったのである。
「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC。米国、キューバ、日本、韓国などが参加した初の本格的な国際野球大会)」で日本代表がキューバを10-6で破って初代の世界一になった(2006/3/21)。韓国との3度の対決(→日本の1勝2敗(3/5(1次リーグ、2-3で敗北)、3/16(2次リーグ、1-2で敗北)、3/19(準決勝、6-0で勝利))、そして米国戦での「誤審」(3/13、3-4でサヨナラ負け)とメキシコが米国を2-1で破ったことによる失点率差(→失点をイニング数で割ったもの)での「奇跡的な復活による準決勝進出」(3/17)という途中経過がなければ、日本代表の世界一はなかったのかもしれない。いずれにしても様々な意味で日本らしい勝ち方による世界一達成によって、お年寄りから子どもたちまでの実に幅広い年代の多くの人たちが野球というスポーツの面白さを改めて実感したことだろう。
一方の永田町周辺では、「ガセネタ・メール問題」のために引責辞任した民主党の野田佳彦・前国対委員長の後任に「黄門さま」のような渡部恒三元衆議院副議長が就任(2006/3/2)して「お宝グッズ」を次々と取り出して大活躍を始めても、前代未聞の全国紙への謝罪広告掲載(2006/3/15)という事態にまで発展しても、「うっかりはちべえ」は進退を決められず、結局、前原誠司代表らが辞意を表明(2006/3/31)するまでは辞職願を提出することもなかった(→2006/3/31。4/4に辞職許可)。またまた繰り返された問題代議士の「議員バッチ」への異常に強いこだわりに多くの国民は大いに失望させられたことだろう。ふと気がつくと、いつの間にか2006年度予算が成立していた(→3/2衆院通過、3/27成立)。そして民主党代表も小沢一郎新代表に代わっている(2006/4/7)。
「先程、両議員総会におきまして、私から代表を辞したいということを申し上げ、ご了解をいただきました。今回、メール問題につきましては、永田(寿康)議員が取り上げた問題でございましたけれども、私自身、(2006/2/22の)党首討論等で取り上げ、また、3月いっぱいまでこの問題を引きずるという、そういった対応になったのもすべて私の責任だというふうに思っております。やはりこの問題を打開をし、野党第一党としての責任を果たしていく。そして国民の信頼を本気で取り戻し、次の総選挙で政権交代ということを腹の底から訴えていくためには、人心一新、これが私は必要だと考え、自ら代表を辞し、一議員となってもう一度、しっかり一から出直し、頑張っていきたい。そして誰が代表になられても一生懸命支えていきたい。こういう思いでおります」「私自身、一議員として、また、思いを持って国会議員にならせていただいて、その思いのポイントはただ一つ、この国を良くしたい…。そして世界平和、環境問題…、様々な問題についての国民の負託を受けて、それを良い方向に前進をさせたい。そういう思いは代表であろうが、一議員であろうが全く変わりがありません。従って今まで積み重ねてきた私なりの思いというものは、これからもしっかりと行っていきたいと思っております…(後略)」(以上、2006/3/31の民主党の前原誠司・前代表の辞任会見から)
「(前略)…私も変わらなくちゃいけないと思って、常に自分を…、自分自身もそう言い聞かせておりますけれども…(中略)…私は、日本人も、日本社会そのものの仕組みも…、コンセンサス社会を全面的に否定するわけじゃありませんけれども、もう少し…、自立した…、合理的、論理的要素を、日本人そのものも、社会の仕組みも、取り入れていくべきだろうというふうに思っておりますから…。私自身もそういうようなことを常に心がけております。ですから、分かりやすい例を…、例えれば、政治の決定に感情をはさんではいけないと私は常に自分に言い聞かせてます。皆さんは笑うかもしれませんけれども、本当の私って言っちゃあ変だけど、私はどちらかと言うと、情に竿(さお)さして流せれる方なもんですから、常に自分で言い聞かせて、政治の決断について、情をはさんではいけないっちゅうのを自分に言い聞かせております。うーん…。あとはね…、皆さん(→記者たち)に対する態度をちょっと良くせいとか…(場内笑)。ブスッとしてないでもうちょっと笑えとか、そういう意味のまた…、変身も心がけねばならないということもまた、この機会に肝に銘じようと思っております」(民主党の小沢一郎・新代表が2006/4/7の選出直後の記者会見で)
「(前略)…靖国神社を、本来の戦争で亡くなった、その御霊をね…、あれするという…、本来の靖国神社に返すべきなんです。昭和53年以前は、天皇陛下もお参りしていたんです。総理大臣はもとより。それが(昭和)53年以降ダメになった…、問題化して。なぜかというと、俗に言われる『A級戦犯』ですね、僕はこの『A級戦犯』っていう言い方、認めてないですよ。勝った国が勝手に裁判したんですからね。しかし、そう言われておる人たちね、この人たちは…、戦争で死んだわけじゃないんですよ。そしてある意味において、中国や韓国から言われるまでもなくね、日本の国民に対して戦争を指導した大きな責任あるんですよ。まあ、そういう人たちがね…、靖国神社に本来、祀られるべき人ではない。もちろん、東条英機、まあ、これ…、(地元の)岩手県の出身だけれども、いいと思う人いたら東条神社造ればいいんですよ。乃木神社だってあるんだから。だけども靖国神社は戦争で亡くなった人たちの御霊を祀るところなんです。だからそういう本来の靖国神社に返ればいいんです。そして天皇陛下も、総理大臣も、ちゃんと参拝すればいいんです。(まず条件を整えることが先だと、に)そんなの簡単なことなんですから。そうすれば中国も韓国も何の文句もないです。当たり前です、そんなの…。各国どこでも…。戦没者の慰霊はみんなやっているんですから。たまたま日本は靖国神社という…。まあ、神社の形をとっているけれども、それは、あの、みんな戦没者の慰霊のためのものなんですから。僕は本来の姿に戻して、そしてきちんと、他から誤解されたり文句を言われたりしないように堂々とやるべきだと思います」(2006/4/9放送のNHK「日曜討論」での民主党の小沢代表の発言から)
<政治家、国会議員に求められる最低限の能力とは何か>
政治家、国会議員に求められる最低限の能力とはいったい何なのだろうか。最近の永田町周辺では政治家、国会議員に求められる最低限の能力とはいったい何かということについて考えさせられる機会が増えている。読者の判断材料にするために小泉純一郎首相のお気に入りの「マックス・ウェーバー」の話をあえて引用しておくことにする。
「よく指導者の資質ということを聞かれた場合に…、有名な学者のマックス・ウェーバーが言うんですね。『使命感』と『洞察力』と『情熱』…。短く言えば…、これでしょうね。指導者たるべき…、ま、将来、総理になる人。何をやればいいかという使命感を持つ。そして、その目標を立てたことを…、実際、実現できるかどうかという本質を見抜く力…。未来を見抜く力、見通す力、洞察力…。そのためには…、一時の勢いでできるものではありません。長い間…、情熱を持って、それをこつこつ、こつこつ…、粘り強くやり遂げるための情熱。短く言うと、このマックス・ウェーバーの言葉というのは、どのような立場の指導者にも当てはまるのではないでしょうか」(2006/1/26の衆院予算委での自民党の金子一義代議士の質疑に対する小泉首相の答弁から)
「(「ポスト小泉」の要件を抽象論で問われて)それは抽象論で言えば、よく言われる言葉に、マックス・ウェーバーが言われた言葉が有名であります。指導者の資質、それは『使命感』と…。その『使命感』を持って一つの目的を達成するための『情熱』。これが一時的なものではない。粘り強く困難を克服し、耐えていく『情熱』。と同時に、『洞察力』、本質を見抜く力。これが実現可能かどうか。単なる空想、幻想と言われるなら理想ではない。理想は必要だけれども、現実を直視した実現可能かどうかという『洞察力』。この3つが大事だとマックス・ウェーバーが言っておりますが、私もその通りだと思っております」(2006/3/6の参院予算委での自民党の片山虎之助氏の質疑に対する小泉首相の答弁から)
「(前略)…現実的に考えれば、総理大臣も一人の平凡な人間であります。すべての役所の抱える問題、すべての人が持っている関心事、これに同じように全力投球するというのは不可能ではないか。多くの人の力を借りなければその職責を果たすことはできません。それだけに自らの考えている最重要課題、あるいは優先課題と同じように、多くの人が持っている関心事、優先度に対して真摯に対応しなければならない、大変きつい仕事でありますので、十分健康にも気を付けて、この改革路線をしっかりしたものに仕上げていただきたい。そのためには、総理大臣としての使命感、責任感、そしてどの事項を目標として掲げれば実現できるかという洞察力、更に一時の思い付きではない、粘り強くいかなる批判にも耐えて、掲げた目標を実現しなければならないという情熱、これは昔から言われていることでありますけれども、指導者の3条件と言われている使命感、洞察力、情熱、これを十分胸に秘めてしっかりと対応していただきたい。そういう方が私の後を継がれる自民党総裁、総理大臣になることを期待しております」(2006/3/27の小泉首相による2006年予算成立後の記者会見から)
「政治家にとっては、情熱(Leidenschaft)−責任感(Verantwortungsgefuhl)−判断力(Augenmaβ)の三つの資質がとくに重要であるといえよう…(中略)…情熱は、それは『仕事』への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力−これは政治家の決定的な心理的資質である−が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。『距離を失ってしまうこと』はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。ドイツのインテリの卵たちの間でこうした傾向が育成されれば、彼らの将来は政治的無能力を宣告されたも同然である。実際、燃える情熱と冷静な判断力の二つを、どうしたら一つの魂の中でしっかりと結びつけることができるか、これこそが問題である…(後略)」(p77-78、マックス・ヴェーバー(Max
Weber)著、脇圭平訳、職業としての政治(POLITIK ALS BERUF)、岩波文庫(白209-7)、1980年(原書:1919年)から)
小泉首相は各種改革を実現する指導者に求められる十分な能力を持っているのだろうか。少なくとも郵政民営化問題では小泉首相に十分な「情熱」も「使命感」も「判断力」もあったと筆者は判断している。読者はどのような判断をするだろうか。
今年になってから大きな問題になった数々の不祥事は特に小泉首相の「判断力」についてどのような情報を国民に与えているのだろうか。やはり「『ラ』から始まる事件」(→参考:2006/2/1号etc.)によって小泉首相の「人間を見極める能力」は少なくとも完璧ではないということが明らかになったのである。確かに小泉首相は「一人の平凡な人間」だと自分自身で言っているし、「一人の平凡な人間」ならば「人間を見極める能力」が完璧でなかったとしても特に不思議なことではない。だが、小泉首相は「それにもかかわらず」、「ポスト小泉」として誰がふさわしいかということについては自分だけが常に間違いなく判断することができると強く主張して譲らないような「予感」がしているのは筆者だけではないはずである。
<民主党側> 前原誠司・前代表(→京都大学(法学部)卒)、鳩山由紀夫幹事長(→工学博士、東京大学(工学部)卒→スタンフォード大学博士課程修了)、渡部恒三・新国対委員長(→早稲田大学(第一文学部)卒)、野田佳彦・前国対委員長(→早稲田大学(政治経済学部)卒)、永田寿康・元代議士(→東京大学(工学部)卒→UCLA経営学修士課程修了)
<自民党側> 小泉純一郎首相(→慶応義塾大学(経済学部)卒)、武部勤幹事長(→早稲田大学(第一法学部)卒)、竹中平蔵総務相(→経済学博士、一橋大学(経済学部)卒)
学歴と「人間を見極める能力」との関係を考えるために役立つリストの一例である。これでも「学歴神話」は崩壊しないのだろうか。そう言えば1、2年前の永田町周辺では「学歴詐称疑惑」が流行していた。万一、卒業していないにもかかわらずどういうわけか卒業したことにされているとか、あるいは、大学院を修了しているのにもかかわらずなぜか修了していないなどという虚偽の情報を流布されているのならば、筆者にも情報提供してもらえばお詫びして訂正させてもらうことにしたいと思う。いずれにしても有名大学をきちんと卒業したとしても、それだけでは社会の中では非常に重要になってくる「人間を見極める能力」を身に付けることができるとは限らないのである。
<テレビの世界と永田町周辺>
最近の政治家たちはテレビが大好きである。国会中継があるときはテレビカメラからよく見える席が大人気である。そしてどういうわけかいつでも「カメラ目線」になっている政治家まで何人かいる。最近のテレビを見ていると、テレビの世界と今の永田町周辺は本当に良く似ているということに気づくことになる。ここであえてテレビの世界と永田町周辺を科学的に「比較」してみることにしよう。
ここで科学的に「比較」するということはまず同じ部分を確認し、それから違う部分がどう違っているのかを考えていくということである。あの「対照実験」(→参考:2006/2/8号)の話と基本的には同じである。そしてこのテレビの世界と永田町周辺の科学的な「比較」が実は「心の問題」の「準備体操」と「雰囲気づくり」にもなっているのである。
「公立学校で授業にならないとか、飛行機の中で暴れ出す奴がいるとか、そういった現象はすべてが"ずり上がった"せいじゃないかとおいらは思ってる…(中略)…本当は、ランクをずり上げた瞬間に、受け入れ側もずり上がらなきゃいけないのに、そのままになっているからどうしようもない。 そんなふうに、全員のランクをずり上げるのが民主主義だと、日本人はなぜか思い込んでしまったんだ…(中略)…日本の民主主義は、競争のない結果平等主義。おかしな民主主義にしてしまった。 タレントでもそうだよ。誰でもタレントになれるっていう状態にしちゃって、何だかわけのわからない奴が仕事をしている。 テレビを見ても、誰が出たっていいような番組しか作ってないからね。それなら、ただの素人を連れてきて遊んだ方が面白いってことにもなってしまう。これまで何のために芸人として修業してきたんだって嘆く奴なんか、一人もいやしない…(後略)」(p44-45)、「(前略)…タレントだってそう。芸を磨いてなんぼの時代が懐かしいもの。今は胸がでかくて水着を着れば、誰でもテレビに出られて、タレント面できるんだから。 だから、もう芸人と一般の人との境がほとんどなくなっている。 本来、芸人と一般の人とは、明らかに違ったんだ。 『行列して並んでまで物を買いたくない』とか『人に後ろ指さされてまで金儲けをしたいのか』っていう言葉があるだろう。 『そんなにまでして何々したいのか』っていうのが一般人の常識で、『そんなにまでしちゃうんだよ』というのが芸人。 芸人は一般人の常識をぶち破って『そんなにまでしちゃう』から、『市民権も何もいらないよ』ということになる。ところが、今は一般の人までが節操をなくして常識をぶち破るから、もうわけがわからない…(後略)」(p96。以上、ビートたけし著、「そのバカがとまらない」、新潮文庫、2003年)
永田町周辺も「公募」などによって「しがらみのない素人」でも簡単に政治家や国会議員になれる状態になり、「議員バッチ」を付けただけの「何だかわけのわからない奴」がうろちょろするのも特に珍しいことではなくなっている。どうせ誰にでもできるような「政治活動」や「議員活動」しかしていないのならば、やはり国会でも「しがらみのない素人」を連れてきて遊んだ方が面白いということになるのかもしれない。そしてやはり永田町周辺でも、横綱・大関昇進の際の口上ではないが、「これではいったい何のために長年『国会議員道』を究めようと全身全霊をかけて精進してきたのか分からない」などと嘆く声はほとんど聞こえてこない。たまに嘆いている政治家がいたとしても「何年も何十年も政治家だったくせにどうしてこんな低い能力しか持っていないのか」などと突っ込みたくなるような当選回数だけを積み重ねた「お粗末なベテラン政治家」だったりするのである。やはりテレビの世界と永田町周辺は良く似ている。
だが、本当にそんなことでいいのだろうか。テレビの世界でも一般社会でも「お前なんか知らないよ」などとハッキリと言ってやれば「うるさいバカな芸のない芸人」を追っ払うことは簡単にできるのかもしれない。だが、政治家や国会議員の場合にはそういうわけにはいかないのである。国会議員の場合には、一度でも税金を無駄遣いされたり、国の借金を増やされたりしてしまうと、将来の世代を含めた国民が強制的にそのツケを支払わされることになってしまうのである。
勘違いしたテレビ好きの政治家がテレビの世界に進出してきた場合には「お前なんか知らないよ」などとハッキリ言ってやれば「うるさいバカな芸のない芸人」よりも簡単に追っ払うことができるのかもしれない。だが、逆に「ただ単にテレビに出ていただけの訳の分からない人間」が間違って政界に進出してしまった場合には、国民は多大の犠牲を覚悟しなければ間違いを訂正することも非常に難しくなるのである。
「それもこれもテレビ文化、いやテレビ至上主義の行き着いた先、という気がするね 今やテレビは家族の一員だし、社会そのものになってしまった。 前は『新聞に書いてあった』というのが正義の代名詞みたいな感じだったのに、今は『テレビで言っていた』という言い方に変わっている…(中略)…とにかくテレビに関わっていることが正義なんだから、あらゆる人間がテレビに出て、テレビを利用しようとしている。 笑っちゃうのは、何とかに詳しい専門家というのが、次々と出てくることだね。 テポドンが発射されたといえば北朝鮮評論家。台湾の問題が持ち上がれば台湾評論家。少年犯罪が起きれば少年犯罪評論家になる。怪人二十面相じゃないんだって。 あれはテキ屋だよね。その時によってトウモロコシを売ったり、綿飴を売ったりする。そんな"テレビテキ屋"が多すぎるよ…(後略)」(p91-92)、「(前略)…職業だってそうなんだ。本当は就いてはいけない人まで、その職業に就くようになってしまった。そこから、社会が崩れ始めた。名前を売ることしか考えない『人権派弁護士』、ノーパンシャブシャブ狂いの官僚、金儲けしか頭にない医者、教え子と関係をもってしまう中学の女性教師……バブル経済が生んだ"バブル人間"だよね…(後略)」(p98。以上、ビートたけし著、「そのバカがとまらない」)
道路公団民営化が話題になればとりあえず「高速道路無料化」、団塊の世代の大量退職が話題になれば「団塊党」、フリーター・ニートの問題が浮上すれば「団塊ジュニア」対策、さらには「格差社会」が大きく取り上げられれば格差対策や弱者対策、そして若者の間に「コスプレ」や「メイド喫茶(カフェ)」や「萌え系」などが流行していると聞けば、「アキバ系」などの若者文化も考慮した選挙戦術をなどと…。名前を売ることしか考えない国会議員、金儲けしか頭にない国会議員、ホテルの客室で男女2人きりになることに鈍感な国会議員、秘書や関係者と「不適切な関係」になってしまう国会議員、呆れるほど女性狂いの国会議員…。今も昔も変わらず永田町周辺には胡散臭い人間たちがあふれている。やはりテレビの世界と永田町周辺は本当に良く似ている。
「(前略)…基本的な知識もないくせに、情報もへったくれもない。IT革命なんて言ったら、よけいバカになるだけだよ。 これから少子化で子供はますます減るから、受験も簡単になる一方。大学も生き残るために学生確保に必死だからね。一芸入試みたいなくだらない試験がもっと増えていく。 だけど演芸場の弟子じゃないんだからさ、そんな一芸で大学入ってもしょうがないだろう。 今でもそうだけど、優秀な人間というか、まともな人間はもう子供を作らなくなるんじゃないかな…(後略)」(ビートたけし著、「お前の不幸には、訳がある!」、新潮文庫、2003年、p187-188から)
確かに「AO(アドミッションズ・オフィス)入試」や「社会人入試」などが盛んになってくると、「ろくな芸もない芸人」と同じような「ろくな学力もない大学生・大学院生」を多く誕生させてしまうことにもなってしまうのだろう。今の永田町周辺もテレビの世界や大学・大学院と似たような状態である。あえて具体例は挙げないが、永田町周辺にも「ろくな政治家としての能力もない国会議員」がたくさんいる。そういう意味では今の永田町周辺もテレビの世界や大学・大学院と似たような状態である。だが、自分の行動に対する責任の取り方は一般社会やテレビの世界とはかなり違うようである。
一般社会では、例えば、一般入試以外の方法で入学した人たちに向かって「あなたたちは、ちゃんと(一般の筆記)試験を受けたんですか」などというようなことを公の場で言ってしまったならば、たとえ「院内」であっても、謝罪会見や全国紙の謝罪広告で責任が打ち止めになるとは限らないのである。「永田町の中心」では大した証拠もなしに公の場で「カネで魂を売った」などと叫んでも「院内」だけの話ならば大したことにはならないのかもしれない。だが、一般社会やテレビの世界での社会人としての様々な責任は、法と証拠に基づいて厳格に問われることも少なくはないのである。永田町周辺と一般社会やテレビの世界とでは責任の取り方にかなり大きな違いがあるようである。
責任の取り方以外にも、テレビの世界などと永田町周辺の間には見過ごすことができない大きな違いがいくつもある。例えば、一般社会やテレビの世界では、何が何でも「人気者」になることができればそれでいいと思っているような人間がいても、誰からも相手にされなくなるまでそういう人間を放っておいたとしても特に大きな問題にはならないのかもしれない。言うまでもなく「人気者」になるために何をやっても言い訳ではないが、一般社会やテレビの世界では大した話ではないのかもしれない。だが、政治家の場合にはそうはいかないのである。政治家の場合には何をやっても国民が受ける被害は一般人の場合よりも大きくなる危険性が高いのである。
そもそも政治家という仕事は本来は「人気者」にはなかなかなれない仕事である。確かに有権者の「代表」である政治家は有権者の声をよく聞かなければならない。だが、政治家は間違っても有権者の「御用聞き」ではないから国民や有権者と対話しながら「できないことはできない」「許されないことは許されない」などとどんなに嫌われたり憎まれたりすることでもハッキリと言い、その上で有権者を説得しなければならないのである。どんなに少なくとも政治家は自分が当選すればそれでいいというわけではないはずである。
確かに今の永田町周辺とテレビの世界はよく似ているのかもしれない。だが、民主主義国家では、同じようにテレビによく出ていたとしても、「テレビ好きの政治家たち」と「それ以外のテレビの人間たち」との間には重大な相違点があるということを絶対に見失ってはいけないのである。そして「テレビ好きの政治家たち」と「それ以外のテレビの人間たち」との間には、目には見えないが、そう簡単に越えることはできない「高くて厚い壁」が実はあるはずなのである。その「高くて厚い壁」が見えない人たちの数が増えれば増えるほど、日本の民主主義はますます危機的な状況になっていくということだけは絶対に見失ってはならないのである。
永田町周辺のガセネタ・メール問題などのおかげでかなり回り道をさせられてしまった。くどいようだが、今回はあくまでも「心の問題」特集である。そして「心の問題」特集には、いくつかの「スクープ」が含まれている。もっとも筆者の「スクープ」は、誰かと「お友達」になってコネなどを利用し、関係者にしか知り得ない「内部情報」を入手してそれを暴露するなどという類のものではない。もちろん今の永田町周辺の人間たちや多くの読者がほとんど知らない事実を明らかにしているという意味でも「スクープ」になっているわけだが、あくまでも「スクープ」の核心は「事実が持っている意味」である。賢明な読者には読んでもらえばわかるという趣旨で「楽しみにしていただきたい」とあえて言っておくことにする。
「メイン・ディッシュ」となる「心の問題」についての「スクープ」の前に、ここからしばらくの間はちょっとした「前菜」のような「スクープ」で読者にお楽しみいただくことにしよう。ガセネタ・メール問題が一区切りついた今、新しく別のメール問題を「スクープ」することにする。新しいメール問題をガセネタ・メール問題と区別するためにとりあえず「ヤマタ・メール問題」とでも呼んでおくことにしよう。たとえ地球上のどこにいたとしても、賢明な読者ならば「ヤマタ・メール問題」の存在を知っただけでもう「負け組」になることはなくなるはずである。
絶対に一人も「負け組」にしないように野暮を承知であえて念のためにこれから取り上げるメールの「注目点」も一緒に示しておくことにする。例えば、(1)メールで取り上げられている「俳句」の解釈、(2)メールの中の「俳句」の漢字や仮名遣い、(3)送信日(時)、(4)作成者名などに注目するだけでも様々な種類の面白いことが見え始めてくるのである。なおこれらのメールの場合は、もしも「送信者」と「受信者」のメールアドレス、あるいは本文中の一部が不自然に「黒塗り」になっていたとしても、ホームページからバックナンバーを確認することができるので全く問題はない。「ヤマタ・メール問題」には「メールの真贋」を明らかにする大きな意味があるということを多くの読者はきっと理解してくれることだろう。本人の本音が書いてあるのかどうかということが「ヤマタ・メール問題」の核心部分になる。
「(前略)…小泉総理は、大宰府の梅の使節(西高辻宮司他)が官邸を訪れた際『梅咲けど 鴬鳴けど ひとりかな』という小林一茶の句を引用し、自らの心情を吐露しました。これを聞いて小泉総理の孤独に思いを致し、一国の指導者には豊富な政治経験に基づく優れた大局観と適切な判断力が求められていることを改めて痛感しました」(メールマガジン「山崎拓の時々刻々」(2006/2/13、第110号)から。バックナンバー:http://blog.mag2.com/m/log/0000029851)
「(前略)…官邸には一足早く春が訪れています。10日、官邸ロビーに子どもの成長を祈るひな人形が飾られ、福岡の太宰府天満宮からは満開の梅の鉢植えをいただきました。『梅さけど 鶯なけど ひとり哉』 香り立つ梅の花を見て、一茶の句を思い出しながら、近づきつつある春を感じて心が温かくなりました」(小泉内閣メールマガジン(2006/2/16、第222号)から。バックナンバー:http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/index.html)
小泉首相は太宰府天満宮「梅の使節」と面談(2006/2/10)した際に小林一茶の「梅さけど 鶯なけど ひとり哉」(新訂 一茶俳句集、丸山一彦校注、岩波文庫(黄223-1)、1990年、p50(197))を引用して「何か心境に合致する」などと言ったらしい。そしてどういうわけか既存のマスコミや「自称・側近」の「解説」によると単純に「孤立」「孤独」などということで片付けられてしまうらしい。あくまでも念のために言っておくが、筆者は俳句などの専門家でも何でもない。だが、あえて小泉首相の「心境」を推測してみることにする。
小泉首相の「心境」を推測する鍵は「ひとり」である。この句も「格差」の問題などと同じように「何と何の間で何を比べているのか」ということを「省略」されている「核心部分」を正しく補って考える必要があるのである。そして小泉首相が「ひとり」の対極としていったいどのような状態を思い浮かべているのかということを想像していけば、「梅さけど」「鶯なけど」という状況が何を意味しているのかということもなんとなく分かってくるのだろう。
小泉首相は郵政民営化が実現するなどして一区切りついた今、これまで「非情」「冷血」に切り捨ててきた人たちのことなどをふと思い浮かべているのだろうか。それとも例えば、「a
boy be ambitious」などとあえて言ってくれた「恩人」や「本気で総理・総裁にしようと思った人」のことを思い浮かべているのだろうか。そういう意味での小泉首相の「心の問題」は筆者にはよく分からない。もしも誰かがあえて小泉首相に直接聞いてみるという野暮なことをしてみたとしても本当のところはおそらく分からないだろう。
俳句には「五・七・五」という限られた字数の中に作者の感情を含めた実に多くのものが詰め込まれていると考えるべきなのか、それとも「五・七・五」という単純さゆえに幅広い人たちの様々な感情を表現することができると考えるべきなのか。いずれにしても「心の問題」は、既存のマスコミや「自称・側近」の能力では本質を捉えることすらも難しいほど実に複雑な問題であるということはよく分かるだろう。
さて、問題の2つのメールはやはり「ゴーストライター」が書いているのだろうか。それとも本人が直接書いているのだろうか。念のために言っておくが、本人が直接書いていたとしても「ゴーストライター」が代理で書いていたとしても実は大したことではないのである。あくまでも問題になるのはメールに本人の本音が書いてあるのかどうかということである。
言うまでもなく「本人の本音以外」のことがあたかも「本人の本音」であるかのように書かれているのならば、メールの読者はその政治家側に愚弄されているということになる。「本人の本音」ならばメールの読者はその政治家側に愚弄されていることはないのだろう。だが、それぞれの「本人の本音」の距離がそれぞれの政治家の間の距離を示していると考えることもできるのである。賢明な読者は「本音、本音」、「本音以外、本音」、「本音、本音以外」、「本音以外、本音以外」のどの組み合わせの「カード」を選ぶつもりなのだろうか。「カード」を選んでいる段階、つまり「ヤマタ・メール問題」の存在を知った時点でもう「負け組」になることだけは絶対にないから、ぜひ鼻歌でも歌いながら気楽に「自己責任」で選んでもらいたい。
筆者のお勧めは「本音、本音」のカードである。「本音、本音」のカードを選んだ上で最近の永田町周辺から状況証拠を探してみたり、これから永田町周辺で起こることを注意深く観察してみたりするとかなり楽しむことができるかもしれない。賢明な読者が「勝ち組」のカードを引いたとしても、「勝ち組」以外のカードを引いたとしても、もう「ヤマタ・メール問題」関連では絶対に「負け組」になることはないという趣旨でぜひ「楽しみにしていただきたい」と言っておくことにしよう。続きは「永田町周辺」を注意深く観察していればきっと分かるだろう。
「<たけし> 総理は『どうしようかな』と迷った時は、人に相談することもあるんですか。 <小泉> そりゃあ、するよ。 <たけし> でも、内閣では……、失礼なことを言うけど、『こいつは裏切りそうだ』とかいう大臣が実はいたりするんじゃないですか。 <小泉> だから、敵も味方に思えと言っているんだな。例えば、ある人に相談して、表面的には協力してくれそうな態度を取っていたとする。でも、たぶん裏では違うことを言うんだろうなというのはわかっていても、ちゃんとその人の言うことは聞くよ。 <たけし> まあ、だいたいわかっているわけだ(笑)。 <小泉> まあ、だいたい(笑)。私の前で言うことと、誰か他の人の前で言うことは違うなと。それは自然と分かるもんだよ…(後略)」(ビートたけし著、「巨頭会談」、新潮文庫、2005年、p19から。なお対談の時期は2002年7月)
「子曰、君子和而不同、小人同而不和、 子の曰(のたま)わく、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。 先生がいわれた、『君子は人と調和するが雷同はしない。小人(しょうじん)は雷同するが調和はしない。』」(「論語」子路篇第二三章、金谷治訳注、岩波文庫(青202-1)、p265)、「子曰、君子周而不比、小人比而不周、 子の曰わく、君子は周して比せず、小人は比して周せず。 先生がいわれた、『君子はひろく親しんで一部の人におもねることはないが、小人は一部でおもねりあってひろく親しまない。』」(「論語」為政篇第一四章、岩波文庫(青202-1)、p42)
ちなみに小泉首相は「和して同ぜず」という言葉もお気に入りである。仮に一週間に一回ぐらいの割合で会食に行ったり囲碁をしたりしていたとしても、あるいは、恋人でもないのに毎晩のように電話をかけていたとしても、さらには、まるで「金魚のフン」のようにどこに行ってもすぐそばに近寄っていたとしても、「和して同ぜず」ということもあるのである。賢明な読者にこれ以上野暮なことを言う必要はないだろう。続きは「永田町周辺」を注意深く観察していればきっと分かるだろう。
「(前略)…東京には、ようやく暖かさが訪れ、官邸周辺も日ごと桜色に染まっていきます。江戸時代の歌人、橘曙覧(たちばなのあけみ)が詠んだ歌 『たのしみは朝おきいでて昨日(きのう)まで無(なか)りし花の咲ける見る時』の気持ちで毎日を迎えています。 来週からは新年度。新たな1年の始まりを期待と緊張をもって迎えようとしている人も多いのではないでしょうか。進学する人、社会に出ていく人、専門能力にさらに磨きをかけようとする人、新しい世界に向けて羽ばたこうとしているみなさん、頑張ってください」(小泉内閣メールマガジン(2006/3/30、第228号)から)。
「花」には実にいろいろな意味がある。そして使われる「文脈」によって「花」の意味も変わってくる。俳句や川柳、短歌では、「花」と言えばたいていは「桜」のことである。ちなみに小泉首相が毎日見るのを楽しみにしている「花」とはいったいどんな「桜」なのだろうか。あえて想像してみると実に興味深いものがある。もちろん特に深い意味はないのかもしれない。だが、ある程度の経験とセンスを併せ持った非常に賢明な読者はもう気づいている頃なのかもしれない。
小泉首相の在任日数が戦後歴代3位になった(→2006/4/5。小泉首相は「いや、(ここまで長期政権になるとは)思わなかったね。ここまで来れたのも運が良かったのかね。国民の皆さんが支援し協力してくれたおかげですね」などと。4/6以降は中曽根康弘元首相の1806日を超えて単独3位に。ちなみに1位は佐藤栄作元首相の2798日、2位は吉田茂元首相の2616日)。
そして小泉首相は、首相としては「最後」となる街頭演説を行う直前に開かれた恒例の「桜を見る会」(2006/4/15)でも、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」という細川ガラシャの辞世の歌を引用しながら、引き際や散り際を大切にしたいという自らの心情を表現している。そもそも「散りぬべき時」が何度来てもどういうわけか絶対に散らないのならば、美しいとか美しくないなどという話の前に、少なくとも間違いなく「本物の桜」ではないということだけはよく分かる。賢明な読者には野暮な解説は必要ないだろう。最近の小泉首相はなぜか「俳句」や「短歌」などで自らの心境を表現するようになってきた。
俳句や短歌、そして文学、あるいはその他の芸術は、もともとの作者の感情や境遇、さらには時代をも超えて、全く別の環境の中にいる「別の個人」の感情を第三者に理解できる形に変換するための「容器」として役立つことも少なくはないのである。芸術作品が時代を超えて多くの人たちから愛されているのはそういう理由もあるのだろう。ただし、ここで絶対に見失ってはいけないのは「容器」の中身がすべてではないということである。もともとの作者の心境にしても、その芸術作品に自分自身を重ねる人たちの心境にしても、「容器」としての芸術作品からはみ出たり、あふれ出たりしたものが必ずあるのである。
野暮を承知であえて「ベン図」を使って説明すると「コンビニとスーパーの商品の関係」になっているのである(→参考:2005/10/18号etc.)。つまり、もともとの作者の心境(Aの円)、「容器」としての芸術作品(Aの円とBの円が重なっている部分)、芸術作品に自分自身を重ねる人たちの心境(Bの円)という関係になっており、「Aの円の中でBの円と重なっていない部分」(→作者が芸術作品の中に表現し切れなかった心境など)と、「Bの円の中でAの円と重なっていない部分」(→芸術作品に自分自身を重ねる人たちが十分に重ね切れなかった心境など)は、芸術作品(Aの円とBの円が重なっている部分)だけを見ていても見えてこないのである。
そう言えば、かつて「自らが作った俳句で自らの心境を表現した内閣総理大臣」がいたものである。そしてそのときの官房長官は「あの政治家」だった。ほんの少し「過去」を振り返ってみただけでも、ある政治家が内閣総理大臣の「器」かどうかということは官房長官としての仕事ぶりからも十分に判断することができるということに気づくことになるのである。
<「心の問題」の「本丸」>
もう既にほとんどの読者は「心の問題」の「本丸」がいわゆる靖国問題であるということに気づいていることだろう。そして多くの読者は靖国問題を早急に解決するための「即効薬」は存在しないということも理解してくれているのかもしれない。あくまでも念のために言っておくが、「靖国神社参拝中止」では一時的な問題解決にしかならないし、いわゆる「A級戦犯の分祀」などによってすべての問題を完全に解決することができるかどうかは定かではないのである。ましてや「追悼施設」の調査費計上などでは問題解決を先送りすることもできないのである。
特集の最大の目玉は「靖国問題における『心の問題』とはいったい何を意味しているのか」についての「スクープ」である。この「スクープ」はその性質上、いくつかの状況証拠を積み重ねることによって「靖国問題における『心の問題』の意味はこういう意味である可能性が高い」と推測しているに過ぎないのである。よって筆者が読者に対して結果的に「ガセネタ」を提供することになってしまうかもしれないのである。もちろん賢明な読者が適切に判断するために必要となる状況証拠のいくつかは公開している。
ここから先はいよいよ「靖国問題における『心の問題』とはいったい何を意味しているのか」についての「スクープ」の話になる。繰り返しになるが、筆者の「スクープ」は誰かと「お友達」になってコネなどを利用し、関係者にしか知り得ない「内部情報」をもらってそれを暴露するような類のものではない。そしてこの「スクープ」はその性質上、いくつかの状況証拠を積み重ねることによって「靖国問題における『心の問題』の意味はこういう意味である可能性が高い」と推測しているに過ぎないのである。
小泉首相が靖国神社参拝を続ける理由はいったい何なのか。中国や韓国などがいくら激しく反発したとしても絶対に参拝中止をしない理由はいったい何なのか。率直な話、筆者は昨年2005年末までは完全に納得できる理由がどうしても見つからなかったのである。ところが昨年末に郵政民営化解散に至るまでの経緯などを改めて振り返っているうちに、もしかするとこういうことなのかもしれないという一つの「推論」を偶然思いつくことができたのである。
小泉首相による靖国神社参拝の「真の理由」を理解するための糸口は「比較」にあると筆者は判断している。「靖国問題」と「郵政民営化問題」との比較、そして「人間・小泉純一郎」と「政治家・小泉純一郎」との比較から、簡単には埋めることができない「大きな格差」が筆者には見えてきたのである。筆者にはなぜそんな不自然に「大きな格差」があるのかということがなかなか理解できなかったが、ふとしたことからその不自然に「大きな格差」を埋めることができると考えられるものを見つけることができたのである。その糸口が「心の問題」というキーワードである。もちろん「心の問題」には、憲法19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という意味もある。だが、それだけとは限らない。あえて一歩踏み込んで深く考えてみるともう一つ大きな意味が存在する可能性が高いことに気づくかもしれないのである。あえて言い換えるならば、「心の問題」には「人間・小泉純一郎」としての意味だけではなく、「政治家・小泉純一郎」としての意味もあるのではないかと筆者は判断している。
そして2005年末から現在までは、「心の問題」(→2006/2/1号、2006/2/21号)、「説明を止(や)めるな。」(2006/2/8号)などと「スクープ」のためのアリバイ作りをしながら、靖国問題についての小泉首相の発言の中から筆者の「推論」を裏付けるような状況証拠を収集してきたのである。その結果、「推論」を肯定する状況証拠はそれなりに蓄積されていく一方、「推論」を否定する内容はまだ一つも出てこないのである。
もちろん筆者が読者に対して結果的に「ガセネタ」を提供することになってしまう危険性はまだ多く残っているが、あえて「心の問題」を一つの形としてまとめて取り上げることにする。まずは最近の小泉首相の靖国問題についての主な発言を先入観なしに改めて素直に読んでもらいたい。
<「説明を止(や)めるな。」>
「(前略)…靖国参拝だけじゃありません、中国、韓国との問題は。今まで、中国との関係、韓国との関係も、いまだかつてないほど、様々な分野で相互依存関係が深まっております。これからも日本は未来志向で中国の首脳とも、韓国の首脳とも、日中友好、日韓友好、未来志向でお互いの協力関係を進めていこうということで合意を見ております。ただ靖国参拝をやめればいいのかという議論には私はくみしておりません。私は、靖国神社を参拝するのは、先の大戦の反省を踏まえて、60年間の歩みを見てほしい。日本の基本方針として、二度と戦争をしない、経済的に発展しても、経済大国になっても軍事大国にならないんだというのを60年間の実質的な歩みの中で示しているんです。そういうことから、私は靖国神社に対して過去の戦争の反省を踏まえてあの大戦で心ならずも命を失った方々に対する哀悼の誠をささげる上において参拝している。これをやはり中国にしても韓国にしても理解していただくように努力していかなきゃならん…(中略)…日中関係というのは、靖国だけですべて規定するものじゃないと言っているんです。靖国の参拝というのは憲法に保障されている。『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない』というのは日本国憲法第19条に規定されているじゃないですか。これは、私の率直な、総理大臣である小泉純一郎が一国民として参拝する。しかも平和を祈念する。二度と戦争をしない。心ならずも戦場で倒れた人に対して敬意と感謝の誠をささげる。そして現在の平和と繁栄を維持していく。この平和と繁栄というのは現在生きている人だけで成り立っているものではない、過去の戦場で倒れた方々の尊い犠牲の上にあるということを片時も忘れてはならないということで参拝しているので、それをどうしていけないのかというのは私は理解できないんです…(後略)」(2005/10/19の前原誠司・民主党代表(当時)との党首討論における小泉首相の答弁から)。
「(前略)…中国の問題、韓国の問題、靖国の問題で首脳交流が進んでいないというご質問だと思いますが、私はこの靖国の参拝の問題は外交問題にはしない方がいいと思っています。一国の首相が一政治家として一国民として戦没者に対して感謝と敬意を捧げる。哀悼の念を持って靖国神社に参拝する。二度と戦争を起こしてはいけないということが、日本人から、おかしいとか、いけないとかいう批判が、私はいまだに理解できません。まして外国の政府が一政治家の心の問題に対して、靖国参拝はけしからんということも理解できないんです。精神の自由、心の問題。この問題について、政治が関与することを嫌う言論人、知識人が、私の靖国参拝を批判することも理解できません。まして外国政府がそのような心の問題にまで介入して外交問題にしようとする、その姿勢も理解できません。精神の自由、心の問題、これは誰も侵すことのできない憲法に保障されたものであります。そういうことから、私は一つの問題が自分たちと意見が違うから外交交渉はしないとか、首脳会談を開かないということについては、私はいまだに理解できません。私は中国とも韓国とも友好関係を促進していくという日中、日韓友好論者です。現に、私が総理大臣に就任して、中国とも、韓国とも、いまだかつてないような経済交流、人的交流が盛んになっております。相互依存関係はますます深まっております。こういう関係を更に発展させていこうという強い気持ちを持っておりますし、私は中国側とも韓国側とも交渉の扉を閉じたことは一度もありません。常に開けておりますし、率直に、友好裏に、さまざまな問題の話し合いを進めて、何か一つの問題で意見の違いがあったら、あるいは対立があったら、それを乗り越えていく努力が必要ではないかと思っておりますし、そのような姿勢は今後も堅持していきたいと思っております」(2006/1/4の小泉首相の年頭記者会見から)
「中国、韓国とは、経済、文化、芸術・スポーツなど幅広い分野において、いまだかつてないほど交流が盛んになっています。中国はアメリカを抜いて我が国最大の貿易相手国となり、40年前の国交正常化当時は年間1万人だった日韓の人の交流は今や1日1万人を超えています。一部の問題で意見の相違や対立があっても、中国、韓国は我が国にとって大事な隣国であり、大局的な視点から協力を強化し、相互理解と信頼に基づいた未来志向の関係を築いてまいります」(2006/1/20の小泉首相の施政方針演説から)
「私の靖国参拝についてでございますが、私は明治維新以来のわが国の歴史において、心ならずも国のために命を捧(ささ)げた戦没者の方々、『全体』を追悼して敬意と感謝の念を捧げるとともに、二度と戦争を繰り返してはならないという気持ちから靖国神社に参拝しております。追悼施設についても平成18年度予算案への計上を見送りましたが、今後議論が熟されることを期待しております」(2006/1/24の参院本会議での民主党の江田五月氏の代表質問に対する小泉首相の答弁から)
「私は就任前も、総理大臣に就任してからも、中国、韓国は、日本の大事な隣国である。日中友好論者であり、日韓友好論者であると。その通り。各般の分野において、交流は拡大しております。ただ、靖国参拝の問題をめぐって意見が違うのは事実であります。だから一部の意見の相違や対立があったからといって、全体の友好関係、交友関係を阻害してはならないと今でもそう思っているんです。私は中国首脳にも、韓国首脳に対しても、一切、条件を付けたことは一つもありません。靖国参拝しなければ他の問題、上手くいくよと。靖国参拝するなと。それ、言うこと聞けば…、中国とも韓国とも友好関係が進展する部分もあるでしょう。靖国参拝を批判する方々はどう思っているのか。その辺を。私は何も条件付けてませんよ。今までいろいろな分野において友好関係が深まっています。交流も拡大しております。中国と日本との関係は、いまやアメリカと日本の関係を抜いて、貿易の面、経済の面においては…、第一位に…。日中関係、日米関係を抜いて第一位になりました。経済関係において。韓国との間も、人の交流も、スポーツ・文化の分野でも拡大しております。そういう関係で…、靖国参拝自身がいけないのか、これは戦没者に対する敬意と感謝の念を…、一国の総理大臣である小泉純一郎が、また一人の国民である小泉純一郎が、そういう戦没者に対して哀悼の念を持って参拝するのがいけないのかどうか…。改めて私は聞いてみたいんですよ。二度と戦争、起こしていない。第二次大戦の反省を踏まえて、この60年間、平和国家として発展してきたんです。日本は敗戦国なんですよ。戦勝国じゃないんです。敗戦の反省を踏まえて、経済大国になっても二度と軍事大国にならないと。それを現実の行動で示してきたんです。それをただ1点、靖国神社参拝することがいけない。それに同調する日本人が大勢いる。これも私は理解できない。そういう点も、私は、戦没者に哀悼の念を表しながら、二度と戦争を起こしてはいけないという、この参拝がなぜいけないのかも分からない。中国がいいと言えばそれじゃあいいのか。その辺はどうなんでしょうかね。中国がいけない(と言う)からいけないというのか。そういう点もあると思います。私は一切、中国、韓国に条件を付けて、この問題で日本と意見が違うから会談をしないとか、交流をしないという考えは全くありません。日本と中国は友好関係を発展させていかなきゃならない。日本と韓国も、友好国、隣国として友好・発展を増進したいという気持ちには全く変わりありません。こういう姿勢でこれからも日中関係、日韓関係の友好・発展を増進していきたいと思っております」(2006/2/1の参院予算委での自民党の市川一朗氏の質疑に対する小泉首相の答弁から)
「(アジア外交は危機的状態にあるのではないか、に)私はそうは思っておりません。問題は、中国と韓国との首脳交流がないから、アジア外交上手くいっていない、という論点に立てばそう言えるかもしれません。しかし私は日中友好論者であります。日韓友好論者であります。靖国参拝、私がしなければ首脳会談に応ずるということの方がむしろ異常じゃないかと思っております。日本の首相が戦没者に対して哀悼の念を表する。二度と戦争を起こしてはいけないという気持ちで参拝する。しかもその施設は日本国内の施設なんです。これに対して、外国の首脳は、この施設には行くなとか…。各大臣も、この大臣ならいいけど、あの大臣はいいとか…。そんなこと言っている首脳は他どこにもいませんよ。私も外国の首脳に対して…。気に食わないからここの施設には行っちゃいかんなんていう気は全くありません。そういうことから考えて、それでは上手く行っていないということは…、靖国参拝が原因で日中、日韓の首脳会談ができないからだという論拠に立つんだと思いますけども、それでは、中国や韓国の首脳の言う通り『靖国参拝しない。首脳会談しましょう』って言えば、それはもう相手は喜ぶでしょうね。それで日本の外交はいいんでしょうか。そういう問題もある。東南アジアにしても、インドにしても、オーストラリアにしても、ヨーロッパにおいても、アメリカにおいても、首脳交流は…。(筆者注:日本と)中国と韓国との相互依存関係はますます強まっております。そこをよく考えていただきたい。なぜ私が靖国参拝していけないのかと。じゃあ、中国、韓国がいいと言えばいいのかと。(岡田氏「総理、私ね…」など)そういう問題があるんです…。一時期、首脳交流ができなくても、こういう時期、ハッキリと日本は、自由主義社会であり、民主主義社会であり、心の自由が認められる国であると…(岡田氏「何、逆ギレしているんですか」)、…いうことであると。それが気に食わないから他の交流をも止めるっていうのは私は良くないのではないかと。私は全然条件を付けないで…、中国の首脳とも、韓国の首脳とも話し合いましょうと。今も交流も今までになく進んでいるんです。私はある時期…、日本の首相として、ハッキリ言うべきことは言うという時期が、中国との間においても、韓国との間にあっても、いいと思っています」(2006/2/7の衆院予算委での民主党の岡田克也元代表の質問に対する小泉首相の答弁から)
「歴史認識は国によってそれぞれ違うと思います。日本と韓国との歴史研究も始まっておりますが、それは今後将来、日本と中国とも歴史研究を始めるのもいいと思っております。かつて敵同士であった国が…、何年か経てば友好関係になっている。良い例が日本とアメリカですね。ま、ドイツとフランスにおいてもそうであります…(中略)…ただ、歴史認識は国によって違ってもいいと思っております。未来に向けて、かつての歴史の教訓を踏まえ、戦争をしない、未来志向で友好関係を築いていこうという、そういう視点が大事ではないかなと思っております」「靖国神社に参拝した後も何度も談話を出し、その後、中国首脳とも、韓国首脳とも、何回か会談して未来志向の関係を築いていこうと。私がなぜ靖国神社を参拝するかということも直(じか)に説明し…、話しております。そして何回か会談してきております。その発表された談話にしても、あるいは演説にしても、読んでいただければ分かると思います。それを直に中国首脳に対しても韓国首脳に対しても私は申し上げております。その上で靖国神社を参拝しております」(以上、2006/2/7の衆院予算委での社民党の阿部知子代議士の質問に対する小泉首相の答弁から)
「(前略)…私は、日中というのは、これからも友好関係を発展させていかなきゃならないし…。韓国も隣国であるし、隣国を大事にしていかなきゃならないという考えでは一貫しております。ただ…、靖国の問題で、これで他の問題を発展させないという考えは取っておりません。だからこそ、様々な…、経済、文化、スポーツ、交流は、いまだかつてないほど進んでおります。相互依存関係は、いまだかつてないほど、深く、広く、発展しております。ただ一点、中国は、小泉が靖国参拝する限りは首脳会談行わない。これが本当に良いことでしょうか。日本の首相が、日本の一施設に…、行けとか、行くなということを言われて、はいそうですかと言って、そのまま従うことが良いことなんでしょうか。戦没者に対する哀悼の念を表することはそれほどいけないことなんでしょうか。これさえしなければ、小泉が靖国参拝しなければ、首脳会談を行う。これに多くの日本国民はその通りだと思うんでしょうか。私は一部の意見で相違があっても対立があっても、日中全体の友好発展を阻害してはならないということで、その方針通り様々な分野で、私が就任以来進んでおります。ただ一点、靖国参拝するな。こういうことについては、いまだに理解に苦しみます」(2006/3/3の参院決算委での公明党の高野博師氏の質問に対する小泉首相の答弁から)
「(8/15を含めた靖国神社参拝について問われて)これは、今のご質問に結論から申し上げますと、私の靖国神社参拝については適切に判断するということにとどめているんです。しかし、私はこれは国会におきましても再三答弁しておりますが、私の靖国参拝を批判する中国なり韓国なりの政府…。私にはいまだに理解できないんですが、私は日中友好論者です。日韓友好論者であります。今までも就任以来、様々な分野において協力をしてまいりました。日本としてできるだけの支援なり協力をしてきたつもりでございます。各種の交流においても、私の就任前よりも拡大しております。相互依存関係、相互互恵関係というのは深まっております。そういう中で、私が靖国神社に参拝するからといって首脳会談を行わないと。これも理解できません。意見の違い、対立があるから、しかもその一事をもってして意見の違いがあるから首脳会談を行わないという国は他にありません。しかも日本の進歩的な人とか、文化的な方、評論家の方の中にも、この靖国神社を参拝するから日中関係がおかしい、日韓関係がおかしいと批判をする方がいます。本当にそんなことでいいんでしょうか。これは心の問題なんです。日本の総理大臣も一人の人間です。現在の日本の繁栄というものは、現在生きている人だけで成り立っているんではないと私は思っているんです。戦争で犠牲になられた戦没者の尊い犠牲の上に成り立っている。そういうことを忘れてはならない。戦没者に対して哀悼の念を捧げるために靖国神社に参拝する。しかも、日本の総理大臣が日本の施設に行くということに対して、外国の政府が行ってはいかん、それをその通りだと、中国の言う通りにしなさい、韓国の言う通りにしなさいと言う方々、これも私は理解できません。言論の自由、表現の自由、精神の自由を最も尊重しなければならない人たちが、中国の言うことを聞けば、日本と中国の関係が良くなる、アジア外交が良くなる。ハッキリ言って、中国の言う通りにすれば、アジア外交が展開されるということになるんじゃないでしょうか。そんなものではないです。これは、表現の自由とか、言論の自由を尊重する人までが、私の靖国神社参拝をやめれば、中国との関係、韓国との関係がうまくいく。結局、突き詰めていけば、中国の言う通りにしなさい。韓国の言う通りにしなさい。中国の嫌がることをしたら日中関係はうまくいきませんということにつながるんではないでしょうか。どの国でも1つや2つ、意見の違う問題、対立の問題があります。私は、日中友好は極めて重要な外交問題だと思っています。韓国との友好関係も重要であります。アジア外交も極めて重要であります。日米同盟関係を基軸にしながら中国とも韓国ともアジアとも国際社会とも協調していく、これが日本の生きる道であります。それを一点だけ取って、しかも戦没者に対して哀悼の念を捧げる、戦争の反省を踏まえて、二度と戦争を起こしてはいけないという、その気持ちを持って参拝すること、これがけしからん、これをやめなければ首脳会談を行わないということに対して、言論人が心の自由、精神の自由を尊ぼうと言っている人たちが批判している。これは本当に理解できません。こんなことで一体いいんでしょうか。
私は、これからも日中と日韓の友好が、日本にとって極めて重要でありますから、たとえ1つや2つの意見の対立があっても、中国との関係、韓国との関係は友好的に発展させていきたいと思っております。この考えに今までもこれからも考えに変わりはありません」(2006/3/27の小泉首相による2006年度予算成立を受けての記者会見から)
小泉首相の靖国問題についての発言は2006年になってからだけでも結構ある。だが、基本的には同じ話の繰り返しに過ぎないのである。あえて小泉首相の主張を非常に短く乱暴に「要約」してみるのならば、「靖国神社を参拝する理由は『戦没者の追悼』と『不戦の誓い』である。それなのになぜ参拝がいけないというのかが分からない」などということになるのかもしれない。そして「戦没者の追悼」と「不戦の誓い」を靖国神社参拝の理由として掲げている点は最初の参拝の頃から一貫しているのである(→参考:http://www.jchiba.net/message/05yasukuni.htm)。
さらに言えば、「国民や遺族の方々の多くが、靖国神社を我が国の戦没者追悼の中心的施設であるとし、同神社において公式参拝が実施されることを強く望んでいるという事情を踏まえたものであり、その目的は、あくまでも、祖国や同胞等を守るために尊い一命を捧げられた戦没者の追悼を行うことにあり、それはまた、併せて我が国と世界の平和への決意を新たにすることでもある」「国際関係の面では、我が国は、過去において、アジアの国々を中心とする多数の人々に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んで来ているが、今般の公式参拝の実施に際しても、その姿勢にはいささかの変化もなく、戦没者の追悼とともに国際平和を深く念ずるものである旨、諸外国の理解を得るよう十分努力してまいりたい」などという靖国神社を公式参拝した中曽根康弘内閣時代の藤波官房長官談話(1985/8/14付)などとも共通しているのである(→参考:追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会(2002/12/24に報告書)の配布資料(→参照:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai2/gijisidai2.html))。
そういう意味では一連の小泉首相の靖国問題についての発言には目新しい部分は実はほとんどないのである。ただし、小泉首相の発言を注意深く聞いていると、それぞれの発言の他とは微妙に違う部分の中に、いくつか注目すべき部分を見つけることができるのである。最も注目すべきであると筆者が考えているのは「心の問題」(→参照:2006/1/4の年頭記者会見、2006/3/27の記者会見etc.)という言葉である。そしてその他にも、例えば、「靖国参拝自身がいけないのか、これは戦没者に対する敬意と感謝の念を…、一国の総理大臣である小泉純一郎が、また一人の国民である小泉純一郎が、そういう戦没者に対して哀悼の念を持って参拝するのがいけないのかどうか…。改めて私は聞いてみたいんですよ」(2006/2/1の参院予算委で自民党の市川一朗氏へ)、「私はある時期…、日本の首相として、ハッキリ言うべきことは言うという時期が、中国との間においても、韓国との間にあっても、いいと思っています」(2006/2/7の衆院予算委で民主党の岡田克也元代表へ)、「私がなぜ靖国神社を参拝するかということも直(じか)に説明し…、話しております。そして何回か会談してきております。その発表された談話にしても、あるいは演説にしても、読んでいただければ分かると思います。それを直に中国首脳に対しても韓国首脳に対しても私は申し上げております。その上で靖国神社を参拝しております」(2006/2/7の衆院予算委で社民党の阿部知子代議士へ)などという部分には注目する必要があると考えている。
<「心の問題」のもう一つの意味とは>
「靖国の問題というのは、国民の心の問題であり、宗教にかかわっている問題だけに、解決が非常に難しい。 日本人の立場に立って考えてみれば、靖国神社には国のために命をなくした人が祭られているんだ、靖国神社がそうした戦没者追悼の中心的施設なんだ、と国民の多くが思っているわけだから、政治の場でもこの気持ちは大切にしなければならない。しかし、この一方で、戦後四十年たったといっても、中国や東南アジアの各国には、前の大戦で被害を受けた人がまだ生存している。その子供も生活している。そうした国々、人々のことも忘れるわけにはいかない。 そうした意味で靖国神社問題は国内的にも、また、アジアの国々との関係でも取り扱いのきわめて難しい問題であった」(p138-139)
「(前略)…さまざまに議論した揚げ句、最終的には、宗教的色彩を消し、追悼の場として靖国を借りるのであれば憲法に反しないという結論が導き出され、(筆者注(以下、( )内は原則同):昭和)六十(1985)年八月十五日、(中曽根康弘)内閣総理大臣と閣僚が公式参拝することになった。前日の十四日には政府見解を変更する藤波(孝生)官房長官談話が発表されているはずだ。しかし、追悼だという主張をしながら『参拝』と表現しているのも妙な話というほかない。先に述べた通り、当日、私は他の閣僚よりだいぶん遅れて独りでお参りした。 この公式参拝に踏み切るにあたっては『別段これによって軍国主義を鼓吹するとかいったような意味合いは一切ない』との日本政府の考え方を、事前に中国はじめアジア各国に対して外交ルートで伝え了解を求めた。ところが、あとになって、靖国神社にはA級戦犯も祭ってあるということを理由に中国などから大変に厳しい反発が生まれた。『被害を受けた我々中国国民の感情に対する配慮が足りない』ということで外交問題に発展してしまった。 そこで、この靖国神社公式参拝は、もとより制度化したものではなく、その都度判断するという前提であったので、(昭和)六十一年になって改めて政府として検討した結果、『近隣諸国の国民感情への配慮など諸般の事情を総合的に考えなくてはならない』という判断をし、総理大臣の公式参拝は差し控えることになった。このときはまた私が官房長官で、総理の参拝見送りに関する官房長官談話を発表している。この談話のなかで、中国など関係各国に日本の真意を理解してもらう努力をする、としているが、これはなかなか容易なことではない。従ってその後も参拝は見送りということで今日に至っている。 しかし、この参拝見送りを決めるまでが、また大変だった。公式参拝すれば中国側がどういう態度に出るかだいたい予想できたが、七月下旬、あるルートを通じて非公式に念押しの打診をした。中国側の回答は、『参拝は日中双方を困らせることだ。参拝があれば中国は厳しい反応を示さざるを得ない』だった。これをもとに政府部内で協議し、参拝はとりやめることにしたが、一方で八月十五日が近づくにつれて、終戦記念日の公式参拝は何としても継続せよという、靖国三協議会や遺族会代表の攻勢はトーンを高めていた…(中略)…現時点でも(昭和)六十年八月に打ち出した『宗教色を排した形、つまり神道儀式によらなければ、靖国神社というのは追悼の中心的施設であるわけだから国務大臣が公式参拝しても憲法違反ではない』という見解は変更していない。政府として、その態度は貫いている。しかし、そうは言いながらも諸外国の理解が得られない段階では外交的な配慮から見送らざるを得ないというのが現状だ。端的に言えば、いわゆる公式参拝は時期尚早だったということだ。 A級参拝十四柱合祀の件は『靖国懇』のなかでも議論になっている。だから、政府としても分かっていたわけだが、この点は『個々の祭神について参拝するのではない。戦没者一般を対象とする追悼である』というとらえかたで実施した。しかし、中国などの立場からすると、この理屈はなかなか通らない。『戦没者のところへ大臣がお参りに行くのはなんら問題ないが、あの戦争を引き起こし、指導したA級戦犯が祭られている所へ行くというのは、これは反省が足りない』ということになる。 こういう外交問題に発展したものだから、A級戦犯の遺族の方々の中からは、『こういう事態になり自分達としても心にひっかかるものがある。別のところにお祭りしていただいてもいい』という声もあがったようだ。 靖国神社の側でそういう方法かなにかでA級戦犯問題を解決していただければ、総てがうまく収まるわけだが、政府が例えばA級戦犯を分祀してくれというようなことをもし言えば、それこそ憲法の政教分離原則を犯すことになる。財界のある方をはじめ何人かの人が非常に心配してくれて、靖国神社の宮司さんらに話をしてくださったようだが、神社側は、『祭神はいわば一つの座布団にお祭りしてあるので、分けることはできない』ということだったと聞いている…(後略)」(p148-151。以上、後藤田正晴著、内閣官房長官、講談社、1989年)
「(前略)…その後、(筆者注:昭和)六十年頃になって、僕がまた官房長官になったものですから、結局どこが悪いんですかと、別の線を通じて相手の国に確かめたわけですよ。そうしたら、A級戦犯をお祀りしてあるところに総理大臣以下が行くことは問題だと。A級戦犯というのは極東軍事裁判でしょうと。極東軍事裁判というのは、サンフランシスコの平和条約で日本政府は認めているじゃありませんかと。その裁判で有罪になった人達をあそこに一緒にお祀りして、そこに総理大臣以下がいくのは、被害を受けた側としては納得ができない、反発している国民に説明がつかない、というわけです。 それで僕も困って、A級戦犯を別のところにお祀りできないかなと思った。国民感情もあるし、ことにA級戦犯のご遺族の人のお気持ちもありますからね。しかし、この案を正式に官房長官が発言したら、憲法二〇条違反になってしまうわけだよ。それで、靖国神社の後援会のような組織の会長をやっていらっしゃった大槻文平さんに、何か手はないですかね、と相談したら、もっともですな、と言って、神社側に話してくれたんです。ところが、神社側がうんと言わない。ご遺族も賛否両論で二つに割れた。そういうようなことで、これは政府が表に立つわけにいかない問題ですから、それで今日に至っている。 本来、靖国神社の問題は日本の内政問題だと思っているんです。外国に言われる問題ではないと思っているけれど、不幸にして、A級戦犯の問題で残念ながら外交問題になった。まあ、ともかく、私をして言わしめれば、戦後の問題は、心の問題はまだ終わっていないということになると思いますね…(後略)」(後藤田正晴著、情と理−後藤田正晴回顧録 <下>、講談社、1998年、p97-98から)
「1 戦後40年という歴史の節目に当たる昨年(筆者注:昭和60(1985)年)8月15日の『戦没者を追悼し平和を祈念する日』に、内閣総理大臣は、気持ちを同じくする国務大臣とともに、靖国神社にいわゆる公式参拝を行った。これは、国民や遺族の長年にわたる強い要望に応えて実施したものであり、その目的は、靖国神社が合祀している個々の祭神と関係なく、あくまで、祖国や同胞等のために犠牲となった戦没者一般を追悼し、併せて、我が国と世界の平和への決意を新たにすることであった。これに関する昨年8月14日の内閣官房長官談話は現在も存続しており、同談話において政府が表明した見解には何らの変更もない。
2 しかしながら、靖国神社がいわゆるA級戦犯を合祀していること等もあって、昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある。それは、諸国民との友好増進を念願する我が国の国益にも、そしてまた、戦没者の究極の願いにも副う所以ではない。
3 もとより、公式参拝の実施を願う国民や遺族の感情を尊重することは、政治を行う者の当然の責務であるが、他方、我が国が平和国家として、国際社会の平和と繁栄のためにいよいよ重い責務を担うべき立場にあることを考えれば、国際関係を重視し、近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない。
4 政府としては、これら諸般の事情を総合的に考慮し、慎重かつ自主的に検討した結果、明8月15日には、内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝は差し控えることとした。
5 繰り返し明らかにしてきたように、公式参拝は制度化されたものではなく、その都度、実施すべきか否かを判断すべきものであるから、今回の措置が、公式参拝自体を否定ないし廃止しようとするものでないことは当然である。政府は引き続き良好な国際関係を維持しつつ、事態の改善のために最大限の努力を傾注するつもりである。
6 各国務大臣の公式参拝については、各国務大臣において、以上述べた諸点に十分配慮して、適切に判断されるものと考えている」(1986/8/14の後藤田内閣官房長官談話)
故・後藤田正晴元副総理(2005年9月死去)の著書などからの引用である。歴史は良い意味でも悪い意味でも繰り返すということなのかもしれない。約20年前の中曽根内閣時代に靖国神社公式参拝を中止した際の議論は、現在でもほぼそのままの形で通用するということにあえて注目してもらいたいのである。望ましい「未来」を実現するためには「現在」の靖国問題の本質を正しく理解する必要があるし、「現在」を正しく理解するためには少なくともある程度は「過去」を知る必要があるのである。もしも仮に小泉首相が靖国神社参拝を中止したとしても、最悪の場合には10年か20年ぐらい後になるとまた全く同じ議論が繰り返されることになるという可能性もそれなりにあるわけである。「靖国神社参拝中止」は問題解決の先送りにしかならないと筆者は考えている。そろそろ完全かつ最終的な形で靖国問題に決着を付けるべきであると筆者は心から思っている。もちろん靖国問題は時間が自然に解決してくれるような単純な問題ではない。問題解決につながる新しいアイディア、問題解決のための熱意や努力といったものも必要になってくるのである。
小泉首相もやはり様々な意味で一人の生身の人間である。そして小泉首相は都合の悪いことをごまかしたり、平気で開き直ったりすることもあるということは筆者も否定はしない。詰まらないことで感情的になったり、大したことではないことに意地になってこだわったりすることもきっとあるのだろう。もちろん小泉首相は非常に幸運な人でもある。
意外なことかもしれないが、小泉首相は意地になって開き直ったようなことであっても、実はたいていのことは後から目立たない形で「撤退」しているのである。明らかな例外は「郵政民営化」と「政局」である。ある「一線」まではいくらでも妥協はするが、その「一線」を超えると一切妥協せずに止まらなくなる。そして靖国問題は、「意地になって開き直るパターン」よりも、はるかに「郵政民営化」や「政局」の方に近いように筆者には見えているのである。つまり靖国問題は「人間・小泉純一郎」の部分だけでは十分に説明できないのである。靖国問題を説明するためには、「郵政民営化」のように何らかの譲れない「一線」、「政治家・小泉純一郎」としての信念のようなものも必要になってくると筆者は考えているわけである。その信念のようなものは、例えば、10年、20年前のような「心の問題」かもしれないし、その他の別の何かなのかもしれないということなのである。
あくまでも、仮に小泉首相が「時期尚早」とかつて棚上げされた「心の問題」を今度こそ絶対に先送りせずに解決する必要があるなどという「信念」を持っているとするのならば、どんなに激しく中国・韓国などが反発したとしても靖国神社参拝中止だけは絶対に避けようとする姿勢を理解することも不可能ではなくなるということである。
小泉首相が強くこだわっている「心の問題」のもう一つの意味がここにあるなどと断定するようなことは差し控えておくことにする。理由は小泉首相本人から直接そう聞いたわけではないからである。だが、賢明な読者が筆者の主張や判断をよりよく理解することができるようにするためにもう一つだけ強力な状況証拠を示しておくことにする。読者はまだ「一内閣一閣僚」などという特徴的な言葉を覚えているだろうか。
「(前略)…現在の各省大臣は、国務大臣として内閣に出席しているときでも、各役所の代弁者のような発言に終始している。閣議了解事項のように簡単な問題ならそれでいいだろう。しかし、重要な政策、国全体に影響するような政策であっても、本当の意味での『国務大臣』になりきれない。大蔵大臣は大蔵官僚の代弁者として議論し、外務大臣は外務官僚の代弁者として、その立場から議論している。 私は長年閣議に出席し、主宰もしてきたが、どうしてもそうとしか思えない。 なぜそうなのか。 一つは、仕事の中身がわからないからだ。このため、ついつい官僚の説明を鵜呑みにしてしまい、代弁者になってしまう。もう一つの理由は、官僚の忠告によく耳を傾け、それに忠実に従う方がよい大臣として部内で評価される。逆に、官僚のご機嫌を損なうと仕事がやりにくくなる…(中略)…この事態を打開するためにはどうすればよいか。 大臣の任期を延ばすのである。これまで大臣の任期は一年にも満たなかった。これでは、仕事を覚えないままに終わってしまう。 大臣の任期を一内閣一大臣にする。これは、私が以前から主張してきた持論である。 内閣が三年つづけば大臣も三年つづける。こうすれば、仕事を覚えて自分の考えで何かをやれる。任期が長くなれば、役人にとってどんなに煙たくて嫌な大臣であっても、非協力を貫くことは難しくなる。現在は任期が短いため、嫌な大臣のときは交代するまで頭を下げてじっと時を待つことができる。 それがわかっているのに、なぜ、短い任期で交代するか。 政治家は一国一城の主である。誰でも大臣になりたい。当選回数が増えても大臣になれないと、後援者に対して顔向けできないという事情もある。また、総理をはじめ与党幹部や派閥の領袖にとっては、党内や派閥を統制するためには、年功序列などの順番で大臣に就任させるのがよい。 誰しも、自分の能力はわからない。もし、同僚が大臣になったのに自分がならなければ、どうして彼がなって自分はダメなのか、という不満が出てくる…(中略)…年功序列の順送り人事であれば、基準が数字なので、その心配がないわけである。しかしながら、本当に国務を考えるなら、大臣の人選は適材適所を考えなければならない。そうでなければ、いよいよ官僚主義が跋扈する。 どうすればよいか。 そのためにも、政治改革が必要なのである。 百の説法を繰り返すより、政治自身が変わらなければならない。現状の制度をそのままにして、政治家個人に変わるよう迫ってもあまり意味はなく、選挙民に対して、政治家は利権や便宜の分配人ではないと説教してもタテ前論に終始する。私が六年にわたって、四方八方から嫌みをいわれながら政治改革に取り組んできた理由はここにある。 その主張が、ようやくここにきて実現しはじめている。もちろん、選挙制度改革の法案が通過しさえすれば政治改革は終わり、というものではない。政治改革は、ようやく第一段階を通過したにすぎない。これから第二、第三段階へと進めなければならない。腐敗防止法にしても、まだまだ不十分である。より厳しく、しかし、無理なく実行できる制度に改める必要がある」(後藤田正晴著、政と官、講談社、1994年、p120-123)
「一内閣一閣僚というのは、目的ではありませんから、私は大臣はくるくる替わらない方がいいと。今の大臣は、皆さん全力で精力的に改革に取り組んでくれておりますので、私は、今は改造を考えないで、今国会いろいろな法案成立に全力を尽くしてもらいたいということを、今日の閣僚の懇談会でもご協力をお願いしたわけでありますので、当面は改造を考えておりません。ただ、自民党内、与党内には、改造を期待している方がたくさんいるということは承知しております。この点について政策推進、政策目的実現のために、どういう体制がいいかということは、総理としても常に念頭に置かなきゃなりませんので、将来のことは将来のこととして、いろいろな党内情勢を見極めながら考えたいと思います。ただ、閣僚はそう替わらない方がいい。しっかりと多くの方の信頼を得ながら、それぞれの手腕と見識を発揮していただきたい。今の閣僚は、当面替える必要はないし、改造の必要性も感じておりません」(小泉首相が2002/4/26の就任1周年の記者会見で)
「私は、クルクル大臣が変わるというのはよくないと今でも思っております。定期的に、時期が来ると改造しているということよりも、大臣が一定期間、しっかりと役所の行政を把握し、そして役所の幹部はじめ職員の信頼を得、人心を掌握し、自信を持って主導権を発揮するというような手腕を発揮するためには、半年とか1年でクルクル変わるようでは、これは大臣としての責任も指導権も発揮できないのではないかという考えから述べてきたわけであります。今でもその考えに変わりはありません。しかし、今回の改造におきまして、そういう点も踏まえながら、いろいろと厳しい状況に対応できるような、そういう体制をつくるのも一つの方向ではないか。そして、今の政権は、自民党、公明党、保守党3党連立協力体制のもとになっております。公明党、保守党等の意見も聞きながら、この3党連立協力体制を維持しながら、自民党内のいろいろな声も聞きながら、新しい体制をつくるのがむしろ小泉内閣の『改革なくして成長路線』、『改革なくして成長なし』というこの軌道を確固たるものにできるのではないかということで改造いたしました。別に、『一内閣一閣僚』にこだわっているわけではありませんが、できればクルクル大臣が変わらない方がいいというのは、今でも変わりありません」(小泉首相が2002/9/30の第1次小泉純一郎改造内閣発足後の記者会見で)
「一内閣一閣僚」などという言葉は「米百俵の精神」と同じくらい筆者にとっては懐かしい言葉である。ちなみに以前(→参考:2006/2/8号)あえて取り上げた「試験問題の話」を思い出してもらいたい。政治家の能力を当選回数だけで判断するということは、例えば、受験生の能力を正確に判断することができない非常に不適切な試験問題で高得点を獲得した人間を優秀と判断するようなものである。
なお小泉首相が何度か持ち出していたような気がする「一内閣一仕事」という言葉の「オリジナル」が本当にどこかに存在するのかどうかについて筆者は全く知らない。筆者の記憶に残っているのは、小泉純一郎元厚相(当時)という政治家がテレビでそんな怪しい言葉をどこかから持ち出していたことぐらいである。
<問題解決のための「科学的枠組み」>
今回の「心の問題」特集では、さらにあと2つほど目玉の「スクープ」がある。それは、靖国問題は「科学的枠組み」を導入することによって解決することが可能であるということ、そして現状でも問題解決のための「科学的枠組み」をすぐにでも導入することができる状態にあるということである。これらの2つの「スクープ」は、「科学的な考え方」を十分に理解している人間にとっては当たり前すぎるくらい当たり前の話であり、本当は「スクープ」でも何でもないのである。くどいようだが、筆者の「スクープ」は誰かと「お友達」になってコネなどを利用し、関係者にしか知り得ない「内部情報」をもらってそれを暴露するような類のものではない。
ちなみに「靖国問題における『心の問題』とはいったい何を意味しているのか」についての「スクープ」が正真正銘の本物のスクープであったとしても、あるいは「ガセネタ」であったとしても、これら2つの「スクープ」の信頼性には全く何の影響を与えることもない。
靖国問題を解決するためには以下の5点の「認識」が関係者の間で共有されている必要がある。すなわち、(1)靖国問題は様々な人たちの感情が絡み合った非常に複雑な問題であるために短期間で解決することはできず、しかも時間が経過すればするほど解決が難しくなる問題であるということ、(2)「事実」と「事実が持っている意味」(→認識など)は明確に区別する必要があるということ、(3)靖国問題のような複雑な問題を解決するためには、相違点から出発するのではなく、共通点を確認しながら相違点へと向かっていく科学的な方法が有効であるということ、(4)実は靖国問題でもほぼすべての関係者の間で「目的」と「ルール」が共有されているということ、(5)「因果関係」は正確に理解する必要があるということ、の5つの「認識」を共有する必要がある。そして5つの「認識」を共有した上で、(A)「事実」と「事実が持っている意味」を明確に分離・区別→(B)正しい因果関係かどうかを確認→(C)「目的」と「ルール」の共有を(再)確認→(D)「目的」達成のために新しい「事実」を追加→(A)→(B)→(C)→(D)→…という繰り返しになっている「科学的枠組み」を導入して問題の解決を目指していくわけである。
<(1)靖国問題は様々な人たちの感情が絡み合った非常に複雑な問題であるために短期間で解決することはできず、しかも時間が経過すればするほど解決が難しくなる問題であるということ>
様々な人たちの感情が絡み合った非常に複雑な問題であるということについての説明は必要ないだろう。時間が経過すればするほど解決が難しくなる理由については、多少説明しておく必要があるのかもしれない。
時間が経てば経つほど、「過去」を体験した世代が減り、「過去」を直接経験していない若い世代の割合が次々と増えていくことになる。そうなってくると解決のための「糸口」を見出すことも難しくなり、当然ながら問題解決もますます困難になっていく。靖国問題は「即効薬」がないだけではなく、時間との勝負が必要な問題でもあるのである。
今と昔とでは「日本人」「中国や韓国などのアジアの人たち」などという全く同じ言葉を使った場合でも、意味している内容がかなり大きく変化しているのである。実は現時点においても「日本人=加害者」、「中国や韓国などのアジアの人たち=被害者」などという単純な図式はもはや成立しなくなっているのである。繰り返しになるが(→参考:2006/2/21号etc.)、だからこそ筆者は、「日本は『加害者』で中国・韓国などは『被害者』」などという「もっともらしい認識」は絶対に受け入れることができないのである。中国・韓国などの子どもたちは「生まれながらの被害者」であり、日本の子どもたちは「生まれながらの加害者」であるなどという「身分制社会」のような「致命的に間違った歴史認識」を断じて認めるわけにはいかないのである。
<(2)「事実」と「事実が持っている意味」は明確に区別する必要があるということ>
前回(→2006/2/21号)も「歴史的事実」と「歴史認識」の区別という形で説明しているから、「事実」と「事実が持っている意味」(→認識など)の区別については補足することはない。いずれにしても「事実」と「事実が持っている意味」を区別する必要があるなどということは当たり前すぎるくらい当たり前の話である。
<(3)靖国問題のような複雑な問題を解決するためには、相違点から出発するのではなく、共通点を確認しながら相違点へと向かっていく科学的な方法が有効であるということ>
靖国問題のような複雑な問題では、相違点から出発すると本質を見落としてしまう危険性もある。つまり最初から相違点に注目していると、表面だけが違っていて実は内部は全く同じものであるという場合を見落としてしまう危険性も高くなるのである。相違点を正確に把握するためには、どこからどこまでが共通点なのかということを正確に理解している必要があるのである。要するに、第2回(→2006/2/8号)で取り上げた「対照実験」のような手法を用いるということである。
ここまでの(1)、(2)、(3)については前回までに既に説明してきたことなので補足することはあまりないが、残りの(4)、(5)はやや補足説明が長くなる。
<(4)実は靖国問題でもほぼすべての関係者の間で「目的」と「ルール」が共有されているということ>
靖国問題では、中国・韓国などと日本の間というよりも、むしろ中国・韓国などと小泉首相側との間で対立が深刻化しているようにも見える。確かに両者の主張は対立しているのだが、実はその両者の間でも「目的」と「ルール」は共有されているということが見落とされているのである。
これは当たり前すぎるくらい当たり前の話だが、小泉首相側を含めた日本でも、中国でも、韓国でも、そしてその他の国々でも、「互いに争って殺し合うような未来」ではなく「互いに共存・協力している未来」の実現を「目的」にすることにはほとんどすべての人たちが賛成するはずである。そして、その「目的」を達成するためには、例えば「戦争をしてはいけない」とか「互いに相手を尊重して対等の関係で付き合わなければならない」などということを最低でも「ルール」にしなければならないということにもほとんどすべての人たちは賛成することだろう。さらにもう一歩深く踏み込んで考えれば、一人ひとりの生命などのような最低限のものも保障されていない場所が地球上のどこかにあるのならば、最悪の場合には戦争へと発展する様々な争いの「原因」が次から次へと生まれてくるということも多くの人たちは理解することができるはずである。
意外かもしれないが、二度と戦争を繰り返してはならないという「不戦の誓い」と、ある個人の「心の問題」を純粋な「心の問題」にするということは、実は表裏一体の関係にあるのである。加害者の側であっても、被害者の側であっても、戦争は、愛し合う男女の間を引き裂くし、ある個人から子供や親や兄弟姉妹や友人を奪い取るという点では全く変わらないのである。「国家」などという「マクロ」の視点で見れば「加害者」と「被害者」の側に区別されることになるが、「個人」という「ミクロ」の視点では、それぞれの個人が置かれた環境によって理不尽にも様々な個人の感情を押さえ込まざるを得なかった、あるいは否応なしに個人が大事にしているものを犠牲にせざるを得なかったという意味では、加害者の側にも、被害者の側にも、本質的な違いはないのである。
最近使い始めた「法則」のようなもの(→参考:2006/2/8号etc.)を使って説明すれば、「(4)環境とその内部の行為者(主体)は相互作用する」、だから「(5)ある物やその性質は元の環境から切り離して考えることは難しい」(あるいは「(5')ある物の今現在の状態は変化の経路に依存している」)ということになる。この場合には戦争という環境が個人に与える悪影響は絶対的であるが、個人の側が戦争に与える影響は限定的な小さなものになる。戦争という環境と個人という主体の力関係は非対称の関係にある。加害者の側であっても、被害者の側であっても、戦争という環境の中に置かれた個人は、たとえどんなに強く抵抗したとしても、結局は戦争によって否応なしに大きく人生を変えられてしまい、それぞれの個人が大事にしてきた様々な「心の問題」を簡単に踏みにじられてしまうのである。
確かに戦争に巻き込まれなくても、事故や自然災害や病気などによって、ある個人が恋人や配偶者、子供や親、友人などの大切な人たちを理不尽に奪われることはあるだろう。だが、戦争というものに巻き込まれることがなければ、悲劇を経験しなければならない人たちの数は確実に少なくなるはずである。
どんなに少なくとも、将来の世代を含めた一人ひとりの生命などが保障されていなければ、たとえどんなに強く不戦を誓ったとしても、そう遠くない将来に多くの人たちが悲劇や不幸を味わうという理不尽な形で様々な歪みを解消しようとするような動きが出てくるということは、人類の歴史で何度も繰り返し示されているところである。ある特定の個人の「心の問題」だけを重視するようなことも、とにかく何が何でも二度と戦争を繰り返してはならないなどと主張するようなことも、長い目で見れば様々な深刻な問題を引き起こすことにつながっていくのである。本来は表裏一体の関係にある「心の問題」と「平和」はもちろん重要であるが、それらを大切にしたり、達成したりする方法も大いに問題になってくるのである。
二度と戦争を繰り返してはならないという「不戦の誓い」と、ある個人の「心の問題」を純粋な「心の問題」にするということは、実は表裏一体の関係にあるということをそれなりに納得してもらうことができただろうか。なおこのことは表面的な違いばかりにこだわっていると、違いだけではなく共通点も存在するという本質を見失うおそれもあるということの実例でもあるのである。
<(5)「因果関係」は正確に理解する必要があるということ>
「因果関係」は正確に理解する必要があるということは、本来ならば当たり前すぎるくらい当たり前の話である。だが、「原因」から「結果」が生じるという単純な関係でさえも現実問題の中では見失われてしまうこともあるのである。あくまでも「原因」があるから「結果」が生じるのであり、とにかく「結果」を出せば後から「原因」がついてくるというわけではないのである。そのように「因果関係」を正しく理解することができる読者ならば「靖国神社参拝中止」では本当の意味での問題解決にはならないということをすぐに理解してくれることだろう。
確かに小泉首相の靖国神社参拝という「事実」が中国や韓国などの人たちの感情を傷付けた(→「事実の持っている意味」)ということは「事実」である。つまり「因果関係」としては、小泉首相の靖国神社参拝が「原因」になり、中国や韓国などの人たちの日本に対する感情が悪化するなどという「結果」が生じたわけである。「だから小泉首相は靖国神社参拝を止めるべきだ」などという主張が強まっているが、「靖国神社参拝中止」では本当の意味での問題解決にはならないということを絶対に見失ってはならないのである。ここで問題になるのは、この場合の「靖国神社参拝中止」は「原因」なのか「結果」なのかということである。実は「靖国神社参拝中止」が「原因」なのか「結果」なのかということは靖国問題の本質なのである。
「靖国神社参拝中止」は「原因」だと言うのだろうか。あえて言い換えれば、例えば、小泉首相が靖国神社参拝を止めればそれでいいのだろうか。どんなに少なくとも靖国神社参拝を止めるという「事実」だけが重要だというわけではないはずである。言うまでもなく「面従腹背」(Japanese
& Korean→「表面服从、内心不服」(Chinese))ということもあり得るからである。
あえて身近な別の例を挙げることにしよう。例えば、夫婦や恋人がいつも一緒で仲良くしている場合には二人の間には何の問題もないのだろうか。どこに行くときでもいつも二人一緒で他人からはとても仲良くしているように見えていたとしても、もうすっかり二人の心が離れてしまっているということも少なくはないはずである。あるいは、子どもが真面目に毎日学校に行っていればそれだけで何の問題もないのだろうか。そんなことは絶対にないはずである。良い意味でも悪い意味でも、いくら他人からは「良い子」に見えたとしても、様々な問題を抱えていても何も不思議ではないし、場合によっては様々な問題を引き起こすこともあるはずである。つまり、「いつも一緒で仲良くすること」や「真面目に毎日学校に行くこと」はどんなに少なくとも確実に「良い結果」をもたらす「原因」になるとは限らないのである。
靖国問題の解決を考える場合には、少なくとも「靖国神社参拝中止」を「結果」と考えるべきであり、「結果」の前には何らかの「原因」がなければおかしいと考えるべきなのである。おそらくそういうところまでは、中国や韓国などの人たちを含めたほとんどすべての人たちが同意してくれるのではないかと筆者は考えている。
もしもまだ釈然としないものが残っているときには、あえて無理矢理「原因」と「結果」を逆にしてみる場合を考えてみれば、比較的容易に納得することができるのかもしれない。例えば、「公務員」は「原因」と考えるべきなのだろうか、それとも「結果」と考えるべきなのだろうか。どんな人間も「公務員」になれば国民や住民に奉仕するようになるのだろうか。そうではなくて国民や住民に奉仕する人たちを選んで「公務員」になってもらうべきなのだろうか。あるいは、どんな人間でも「警察官」や「裁判官」や「教師」になればそれだけで信用できる立派な人物になるのだろうか。そうではなくて信用できる立派な人物を探して「警察官」や「裁判官」や「教師」になってもらうべきなのだろうか。「公務員」は「原因」と考えるべきなのだろうか、それとも「結果」と考えるべきなのだろうか。いついかなるときにも当てはまる唯一絶対の正解は存在しないのかもしれないが、どんなに少なくとも最初から「原因」だと決め付けて考えるのはあまりにも危険である。平和で豊かな民主主義国家でも、地球上のどこかにある破綻国家でも、程度の差はあっても「公務員」の問題は実に深刻な問題である。
せっかくだからさらにいくつか別の例も挙げておくことにしよう。もちろん「議員バッチ」を付けただけで正しい使命感と十分な能力を併せ持った「国民の代表」になることができるわけではないという実例ならば永田町周辺にいくらでも転がっている。少なくとも「議員バッチ」だけで政治家の能力を新しく生み出す「原因」になるということはまずあり得ないのである。あるいは、「トーダイ」などの有名大学を卒業しただけで本人の知的レベルが高くなるということも実はあまりないのである。もちろん有名大学に入学しただけで本人の知的なイメージが強まるというようなことはあるのかもしれないが、少なくとも入学しただけで本人の知的レベルが高くなるということはまずあり得ないのである。繰り返しになるが、「トーダイ」などの有名大学を卒業してもビックリするようなお粗末な能力しか持たない人間ならば永田町周辺にはいくらでもいるのである。
もしも「トーダイ」などの有名大学に入るだけで努力すれば誰でも「トーダイ」などの有名大学の卒業生にふさわしい能力を身につけることができるのならば、入学試験を完全に廃止してくじ引きだけで入学者を選んだとしても全く何も問題は起こらないはずである。ところが実際には誰でも努力すれば「トーダイ」などの卒業生にふさわしい能力を身に付けることができるというわけではない。もしも誰でも努力すればいつかは間違いなく卒業することができるというのならば「トーダイ」などの「ブランド価値」はほとんどなくなってしまうはずである。
確かに結婚から始まる恋愛もあるのかもしれないし、高い「地位」や「肩書き」を手に入れた人が努力してそれにふさわしい能力を身に付けるような「器」の方が人をつくるという実例もいくつかは存在するのだろう。だが、実際には、「地位」や「肩書き」の「ブランド価値」を利用するだけ利用し、自分の本当の能力をその「地位」や「肩書き」に求められるレベルにまで引き上げようとするのではなく、「地位」や「肩書き」の方を自分の低い能力のレベルにまでずり下げる人間たちがかなりいるのである。
さらに言えば、政治家の子供が政治家になっている「二世政治家」(→あるいは「三世」以上の政治家も同じ)という「結果」だけを見て「世襲」などという結論を出すのは間違いである。民主主義国家では、たとえ「二世政治家」であっても、自由で公正な選挙の下で議員に選ばれるのならばその存在は合法的に認められることになる。親が政治家である場合にその子供が政治家になることを認めないということは、親が政治家でなければその子供が政治家になることができないという「身分制度」を認めるのと本質的には同じことである。民主主義社会においてはあくまでも親は親、子は子で別々の個人として扱われるのである。もっともいくら間違いなく民主主義国家であるということが繰り返し確認されていたとしても、政治家の子供が政治家になるという事例があまりにも頻繁に見られて事実上常識になっているような場合には、「本当に民主主義国家なのか」という疑問が何度でも繰り返し出てくることになってしまうのである。
日本は経済的な格差が広がって固定化するような「格差社会」にはまだなっていないが、「地位」や「肩書き」などをずり下げるだけずり下げる人間たちがはびこる「ずり下げ社会」にはなってしまっている。どんなに強く思い込んだとしても、「結果」から「原因」が生じるというなどということはあり得ないのである。そもそもそんな「因果関係」が逆転するような現象は因果関係と呼ぶのも適当ではない。そういう状態は「ずり下げ関係」とでも呼ぶべきなのだろう。日本はいつの間にか見えにくい場所で見えにくい部分をこっそりだらしなくずり下げる人間たちがはびこる「ずり下げ社会」になってしまっている。言うまでもなく、そんな「ずり下げ社会」の問題も別の意味での「心の問題」と考えることもできるのである。
これで靖国問題を解決するための5点の「認識」の説明がようやく終わったことになる。
(1)靖国問題は様々な人たちの感情が絡み合った非常に複雑な問題であるために短期間で解決することはできず、しかも時間が経過すればするほど解決が難しくなる問題であるということ、(2)「事実」と「事実が持っている意味」(→認識など)は明確に区別する必要があるということ、(3)靖国問題のような複雑な問題を解決するためには、相違点から出発するのではなく、共通点を確認しながら相違点へと向かっていく科学的な方法が有効であるということ、(4)実は靖国問題でもほぼすべての関係者の間で「目的」と「ルール」が共有されているということ、(5)「因果関係」は正確に理解する必要があるということ、という5つの「認識」を関係者の間で共有することができれば「科学的枠組み」を導入することができるようになる。
<「科学的枠組み」の「シミュレーション」>
さて、靖国問題のような問題の解決をしようとする場合にも、「科学的枠組み」、すなわち、(A)「事実」と「事実が持っている意味」を明確に分離・区別→(B)正しい因果関係かどうかを確認→(C)「目的」と「ルール」の共有を(再)確認→(D)「目的」達成のために新しい「事実」を追加→(A)→(B)→(C)→(D)→…という繰り返しの枠組みを導入することが本当に有効かどうかということを多くの人たちにも感覚的に理解できるような身近な事例を用いてあえて「シミュレーション(simulation)」をしてみることにする。
用いる身近な事例は「おとぎの国の不倫疑惑」である。密会を目撃されるなどして不倫を疑われた場合には、実は誰の目にも明らかな形で疑惑は事実無根だということを示すことはなかなか難しいのである。いくら疑惑は事実無根などと強く否定したとしても、密室内で何があったかなかったかなどということは第三者にはなかなか分からないことである。それに加えて仮に不倫はなかったとしても心の中に浮気心が少しもなかったのかどうかなどということは本当のところは本人以外には誰にも分からないことである。一度疑われるとなかなか誤解を解くことができない不倫疑惑のようなものでも「科学的枠組み」が有効だということになれば、靖国問題のような「心の問題」にも有効ではないかとそれなりに納得してもらえるようになるのかもしれない。
ここで「都心の高級ホテルの客室で男女が2人きりで一夜を過ごした」(→「事実(1)」とする)という「事実」が明らかになったとしよう。これはホテルの客室の近くで一晩中張り込まれていたから否定のしようがない事実であるとする。この段階で「男女関係の疑惑」(→「事実の持っている意味(1)」とする)が発生したことになる。そして少なくとも「男」の方には「妻」がいる(→「事実(2)」とする)という「事実」も明らかになったとしよう。もちろんこれも否定のしようがない事実であるとする。この段階で疑惑は「不倫疑惑」(→「事実の持っている意味(2)」とする)に発展したことになる。
それでは、この男女が疑惑を解消しようとする場合を考えてみることにする。「科学的枠組み」を導入すると、まず(A)「事実」と「事実が持っている意味」を明確に分離・区別し、(B)正しい因果関係かどうかを確認することになる。当たり前の話だが、あえて因果関係を確認すると、「都心の高級ホテルの客室で男女が2人きりで一夜を過ごした」(→「事実(1)」)という原因から「男女関係の疑惑」(→「事実の持っている意味(1)」)という結果が生じていること、そして「事実(1)」と「男」の方には「妻」がいる(→「事実(2)」)という2つの原因から「不倫疑惑」(→「事実の持っている意味(2)」)という結果が生じていることが分かる。よって2つの疑惑は「都心の高級ホテルの客室で男女が2人きりで一夜を過ごした」(→「事実(1)」)ことから始まっているのであり、疑惑を一発で解消するためには「事実(1)」を否定することができればいいということになる。
さて、(C)「目的」と「ルール」の共有を(再)確認することはやはり重要なことである。もしも「男」が不倫疑惑や男女関係の疑惑など解消する必要は全くないなどと考えている場合には第三者がいくら疑惑を追及しても平行線に終わってしまうからである。疑惑解消や真相解明などという「目的」と、少なくとも不倫や男女関係は不適切であるという「ルール」が共有されていなければ全く話にならないのである。例えば、もしも「男」の方が「どの女と寝ようが関係ないじゃないか」などと思っていたとすれば疑惑を解消しようとすらも思わないのかもしれない。そのような主張を女性はもちろん、多くの男性も認めることはないのだろうが、いずれにしても本人が疑惑を解消する気がなければどうしようもないのである。あるいは、もしも「男の妻」が「体の浮気は許すことができるが心の浮気は絶対に許すことができない」などと思っているのならば、社会の中で大多数の人たちが倫理的に問題があるなどと思っていても、夫婦の間では全く問題にならないということもあるのかもしれない。何にしても「目的」と「ルール」が共有されているかどうかということは前提として非常に重要なことなのである。
そして疑惑解消などという「目的」が共有されている場合には(→(C)「目的」と「ルール」の共有を(再)確認)、(D)「目的」達成のために新しい「事実」を追加することを考えることになる。疑惑を否定するときに真っ先に思いつく新しい「事実」としては「アリバイ」がある。もしも「問題の夜」に男女のどちらかが都心の高級ホテルの客室以外の別の場所にずっといたなどという「アリバイ」があるのならば、「男女関係の疑惑」も「不倫疑惑」も完全に否定することができることになる。だが、残念なことにこの「おとぎの国の不倫疑惑」の場合には「アリバイ」などは全く存在しない。それどころか翌日には「PLEASE
DON'T DISTURB」の札をかけたドアから出てきたところを記者に見つかった「男」がエレベーター前で「鬼ごっこ」のようなことまでしてしまっているのである。
「アリバイ」がダメならば、客室の中には第三者も一緒にいて実は2人きりではなかったなどという新しい「事実」を明らかにして疑惑を解消するという方法もある。もしも信頼できる第三者が「確かにあの夜はずっとその男女と一緒に客室にいた」などと疑惑を否定してくれるのならば、その証言の信憑性が崩れない限り、ひとまず疑惑は解消することになる。だが、残念なことにこの場合には疑惑を否定する証言をしてくれるような第三者はどこにも存在しなかったのである。
「アリバイ」も「第三者による証言」も存在しない場合には疑惑を解消することができないのかというと必ずしもそんなことはないのである。分かり易い例を挙げれば、例えば、上司の外出中に部下が真面目に働いていたのならばやり終えた仕事がたくさんあるはずだが、逆にサボっていたのならばやり残した仕事が山のように残っているはずである。外出中にサボっていたのではないかという疑惑を「アリバイ」や「第三者による証言」で解消することができない場合であっても、多くのやり終えた仕事を「証拠」として示すことによって疑惑を解消することも不可能ではないのである。不倫疑惑の場合にも、もしも「問題の夜」に男女関係があったのならば絶対に存在するはずのないものを「証拠」として示すという形で疑惑を解消する方法も残されているのである。
例えば、「問題の夜」以降の時点に本人でなければ絶対に書くことができない内容が豊富に含まれており、しかも通常ならば2日ぐらいかかる分量の原稿のようなものが「問題の夜」の翌朝に間違いなく完成していたということを示すことができるのならば、それは男女関係を否定する明白な証拠とみなすことができるのかもしれない。もしも「問題の夜」に男女関係があったとするのならば、同じ夜に徹夜でもしていなければ書き上げることが難しい原稿が存在するはずがないと考えられるからである。
ところがこの「おとぎの国の不倫疑惑」の場合には、残念なことに「問題の夜」に男女関係があったのならば絶対に存在するはずのないものを何も「証拠」として示すことはできなかったのである。その代わりに、「問題の夜」は高級ホテルの客室で「政治家」である「男」と「メディアコンサルタント」の「女」(→「コミュニケーション・アドバイザー」だとする情報も)が「打ち合わせ等」をしていたという新しい「事実」をどうやらこっそりと文書で示したらしいのである(→「事実(3)」)。だが、「政治家だって男には変わりはないし、そのカタカナ職業だって女には変わりないじゃないか。そして次回の密会を相談していても、互いの恋愛感情を確認していても『打ち合わせ等』と言い張ることができるじゃないか」などという実にもっともな指摘にもなぜか沈黙を守り、疑惑は解消されないまま残ったのである。疑惑を解消するためにはさらに新しい「事実」が必要になったわけである。つまり「科学的枠組み」では2周目、あるいは2回転目に入ったということになる。
確かに「密室内」での出来事を客観的な形で証明することは非常に難しいわけだが、あれはあくまでも「仕事」であって男女関係などは存在しなかったなどという主張の説得力を高める方法はいくつか考えられないわけではない。例えば、その「仕事」が「都心の高級ホテルの客室」以外の別の場所では絶対にできなかったということを何らかの明確な証拠と共に示すとか、あるいは、「問題の夜」には予想外の緊急事態が発生し、しかも情報漏えいを防ぐためには「都心の高級ホテルの客室」で2人きりになる以外の方法が存在しなかったということを何らかの明確な証拠と共に示すなどということが考えられる。なるほどそういうやむを得ない事情があったのならば、確かに「誤解を招く行為」や「不用意な行動」だったのかもしれないが、今回のところは「政治家」でもある「男」の言うことを信じてみようということにもしかするとなったかもしれないのである。
そして一刻も早い疑惑解消のために「男」による一層の「情報公開」が注目される中、「男」は予想外の行動に出たのである。疑惑解消のために新しい「事実」を公表するのではなく、なんと1週間ほど「沈黙」を守ったのである。実は「問題の夜」以外にも何度も「都心の高級ホテルの客室」で2人きりで過ごしていたらしいとか、「臨海部の高級ホテル」でも2人きりの夜を過ごしていたらしいとか、あるいは休日には2人きりでドライブまでしていたらしいなどいう状況証拠もすべてそのままにして、なぜか「男」は「沈黙」を守ったのである。そしてますます疑惑は拡大することになってしまったのである。
さらに出張先に詰め掛けた多数の記者たちやテレビカメラから「男」が無言で逃げ回ったことによって疑惑はさらに深刻なものになっていくことになる。もしも本気で疑惑を解消するつもりならば、疑惑を解消することができる「選択肢」の中から自分の次の行動を選ぶ必要があるはずである。それにもかかわらず、どういうわけか疑惑解消につながる行動をあえて避け続けているような場合には、その人物がどうしたら疑惑を解消することができるのかということも理解できないほど能力が低いのか、それとも疑惑を解消する気が全くないのか、あるいは、疑惑をあえて疑惑のままにしておかないと何か非常に都合が悪いことがあるのか、などと受け止めるしかなくなってしまうのである。
いったいどのように行動していたら「おとぎの国の不倫疑惑」の主人公の「男」は賢明な対応をしたと評価されていたのだろうか。やはり「男」は少なくとも最初から逃げ隠れせずに事実関係を明確に認めるべきだったのである。第三者にも説得力がある疑惑を否定する明確な証拠が何も存在しない以上、最初から逃げ隠れせずに否定しようのない事実関係を明確に認めて国民に謝罪するべきだったのである。もしもそうしていたならば一時的には大きなダメージを受けたのかもしれないが、あそこまで意味不明に問題が拡大することだけは絶対になかったことだろう。また疑惑が発覚してから意味不明に1週間ほど「沈黙」を守ったり、その直後に記者やテレビカメラなどから無言で逃げ回ったりしたことも、結果的に火に油を注ぐ形になって疑惑をますます拡大させてしまったのである。
さらに言えば、「政治家」でもある「男」は、散々逃げ回った挙句、ようやく疑惑について釈明し始めたのかと思ったら今度は開き直り、実に見苦しい言い訳を繰り返したのである。釈明ではどういうわけか否定しようのない事実関係についても未練がましく口を濁して明確に認めず、その一方で証拠を一切示さずに「いやいや、男女関係についてはありません」などと何度でも明確に否定していたのである。これでは国民に謝罪したことにも釈明したことにもならない。開き直ってじっとほとぼりが冷めるのを待っていただけである。もしかするといつまでもすべての説明を省略して「男女関係はありません」などと繰り返しているうちに、最悪の場合には、「男」は誰からも全く信用されなくなり、実は「女」は潜入取材や潜入捜査をしていたどこかの「スパイ」だったのではないか、それで何か弱みでも握られたんじゃないかなどと疑惑がさらに深刻なものに発展していた可能性もなかったとは言えないのである。
ちなみに「おとぎの国の不倫疑惑」の展開は、最近のガセネタ・メール問題の展開とビックリするほど非常によく似ているのだが、これはあくまでも「おとぎの国の不倫疑惑」の話であってガセネタ・メール問題とは全く無関係である。なお不倫疑惑のほとぼりが冷めるのを待った「男」の場合には、最後の最後まで自分から辞めることはなく、やがて周囲からも次々と見放されて孤独な状態になっていったのである。いずれにしても疑惑への対応を致命的に間違ったために自分で自分の首を絞める結果になったわけである。
男女関係にしても、靖国問題のような「心の問題」にしても、第三者が外部からある個人の心情などの目に見えないものを直接観測するようなことはかなり難しいことではある。だが、あらかじめ疑惑や誤解を解消するために必要となる行動の「選択肢」を正確に理解した上で、ある個人の行動をじっくりと観察した場合には、第三者が外部からその個人の「本音」などを推測することもそれほど難しいことではなくなるのである。
ここまでの「シミュレーション」によって多くの読者に「科学的枠組み」の有効性をそれなりに実感してもらうことができただろうか。
<靖国問題の完全解決のために>
繰り返しになるが、靖国問題は様々な人たちの感情が絡み合った非常に複雑な問題である。靖国問題を完全に解決するためには、まず複雑に絡み合った様々な感情を解きほぐし、問題解決のために必要不可欠ないくつかの論点を整理しておく必要がある。様々な感情が複雑に絡み合ったままであり、しかも論点も不明確なままであるのならば、いくら「科学的枠組み」を導入しても早期の問題解決を期待するようなことは難しくなってしまう。靖国問題は短期間に完全解決することができるような容易な問題ではない。そして時間が経過すればするほど解決が難しくなる問題でもあるのである。
<「事実」と「事実が持っている意味」の区別>
くどいようだが、「事実」と「事実が持っている意味」とは明確に区別する必要がある。「事実」と「事実が持っている意味」を区別しないのならば靖国問題を解決することは不可能になってしまうのであえて最初に確認しておくことにする。
<参拝の目的は何か>
少し前に触れたように、小泉首相らの靖国神社参拝の目的は「戦没者の追悼」と「不戦の誓い」であると考えられる。さて、この「戦没者の追悼」と「不戦の誓い」という目的が間違いなく「本音」である場合には、中国や韓国などの人たちも間違いなくこれらの目的を受け入れることができるのだろうか。もしも「本音」であったとしてもこれらの目的すらも絶対に受け入れられないということになるのならば靖国問題を解決することは不可能になってしまう。
率直に言わせてもらうならば、小泉首相の談話などからは「不戦の誓い」というメッセージがあまり強く伝わってきていないと筆者は感じている。もちろんだからと言って小泉首相が示している「不戦の誓い」が必ずしも不十分だというわけではない。だが、「不戦の誓い」は伝わらなければ全く意味はないとまでは言わないが、やはり伝わらなければ不十分である。人間の心情は目に見えるものではない。だが、自分の心情を目に見えやすい何らかの形に変えたり、あるいは何らかの相手に伝わりやすいものに乗せて伝えるような工夫ならばいくらでもできるはずである。
相手から誤解された場合に、誤解を解消することができるかもしれないすべての手段を利用し尽くす前に簡単に諦めてしまうのならば、誤解は致命的な状態にまで発展してしまうこともある。もしかしたら最悪の場合には、少し前に取り上げた「おとぎの国の不倫疑惑」で致命的な対応を繰り返して自滅していった「男」のようになってしまうかもしれないと言った方が分かりやすいのだろうか。いずれにしても「人間・小泉純一郎」も「政治家・小泉純一郎」も「おとぎの国の不倫疑惑」で自滅した「男」のような「呆れるほど愚かで情けない生身の人間」ではないはずである。
<なぜ靖国神社参拝がいけないというのか>
そもそも靖国神社参拝に反対する人たちは、なぜ靖国神社参拝がいけないというのだろうか。当たり前すぎるくらい当たり前のことなのかもしれないが、「なぜ靖国神社参拝がいけないというのか」ということを見失ってしまったら靖国問題を解決することなどできるわけがないのである。
「A級戦犯も祀られている靖国神社」だからいけないというのか。それとも「過去の軍国主義の象徴だった靖国神社」だからいけないというのか。あるいは「日本政府を代表すると見なされる内閣総理大臣ら」だからいけないというのか。あえて言い換えれば、いわゆる「A級戦犯」が分祀などされれば、誰がいかなる立場で参拝してもいいのか。それとも「A級戦犯」が分祀などされなくても、「A級戦犯」を礼拝しているわけではないなどと受け止められるようになれば参拝をしてもいいのか。
さらには「A級戦犯」が分祀などされた場合でも、「A級戦犯も祀られている靖国神社」ではなくなったと誰もが納得できない場合にはやはり参拝してはいけないというのか。それとも「A級戦犯」が分祀などされても「過去の軍国主義の象徴だった靖国神社」だから絶対にいけないというのか。あるいは「A級戦犯」が分祀などされなくても、靖国神社は確かに「過去の軍国主義の象徴」だったかもしれないが今は全く違うなどと受け止められるようになればいいのか。
いわゆる「A級戦犯」が分祀などされてもされなくても、いくつか問題点は残ることになるのである。
<靖国神社を参拝しなければ「目的」を達成することができないのか>
そもそも靖国神社を参拝しなければ「戦没者の追悼」と「不戦の誓い」という「目的」を達成することができないのかということも問題になるだろう。結論としては、「不戦の誓い」の方はともかくとしても、少なくとも現時点においては靖国神社以外の場所で「戦没者の追悼」をしただけでは「不十分」ということになるだろう。戦死したら靖国神社に魂が行くことになるのは当然などと思っていた戦没者や遺族にとっては「代替施設」などはとても考えられないことなのだろう。それは遺族らの「心の問題」である。
<靖国問題は「追悼施設」で解決するのか>
結論から言えば、遺族らの「心の問題」が残る限り、「追悼施設」をつくってもつくらなくても靖国問題はそのまま残ることになる。遺族らにとっては「追悼施設」に行って戦没者の霊と語り合うことができるなどと心から思うようなことはそう簡単なことではないはずである。「追悼施設」をつくっても遺族らの「心の問題」は残るのである。
「(前略)…『あの世を信じる?』 『どうして?』 『おじいちゃんは好きな人と、あの世で一緒になろうって誓い合ったわけだからさ』 アキはしばらく考えて、『わたしは信じないな』と言った。 『毎日寝る前に、お祈りしてるんだろう?』 『神様は信じるの』彼女はきっぱりと答えた。 『神様とあの世と、どう違うわけ?』 『あの世って、この世の都合で作り出されたもののような気がしない?』 ぼく(筆者注:朔太郎)はそれについてちょっと考えた。 『するとおじいちゃんたちは、あの世でも一緒になれないね』 『あくまでわたしが信じる信じないの話よ』アキは弁解するように言った。『おじいさんとその人には、また別の考え方があったんでしょうから』…(後略)」(p37、片山恭一著、「世界の中心で、愛をさけぶ」、小学館、2001年)
「"Do you believe in another world after this?" "Why?"
"Because Grandpa and that woman promised each other they'd be together in the next
world." Aki thought for a while. "No, I don't." "But you pray every
night before you go to bed, don't you?" "I do believe in God," she said
firmly. "How are the two any different?" "Doesn't 'the afterworld' seem
like something people made up to feel better about death?" I thought about this.
"So they can't be together in the next world, then, either." "That's just
what I believe," Aki said. "Your grandfather and that woman must've seen it
differently."」(p35-36、(英訳)Kyoichi Katayama, translated by Akemi Wegmuller,
Socrates in Love, VIZ media, ISBN 1-4215-0154-6)
「取り残される恰好になった。ここ(筆者注:中学校)に二人で通ったのだ、と胸のなかで言葉にしてみた。ここでアキと出会った……もう何十年も昔のことのような気がする。時間を超えて、遠い世界の出来事にも思える。今浦島の気分であたりに目をやると、校庭に植えられた桜が満開だった。あのころは桜の花など、まともに見たことはなかった。桜が植えられていることにすら、おそらく気づかずに卒業したはずだ。それなのにいまは、こんなにも美しい桜並木だった。
そのとき胸の奥底に、針でつついたほどの小さな穴があいた。それはブラックホールのように、一瞬にしてすべてを呑み込んでしまった。まわりの風景も流れた時間も。あれほど遠いと思っていた過去に吸い込まれるようにして、不意にアキの声が蘇った。
『掃除の時間に、教室の机を拭くのって好きだったな。掃除しながら机の落書きを読んでいくの。何年も前に卒業した人の残した古い落書きがあったり、相合い傘にナイフで好きな人の名前が彫ってあったり。なかには消してしまいたくないのもあって……』
耳のすぐそばで、彼女は喋っていた。懐かしい、あのはにかむような声で。やさしい心はどこへ行ったのだろう。アキという一人の人間のなかに包み込まれていた美しいもの、善いもの、繊細なものは、どこへ行ってしまったのだろう。夜の雪原を走る列車のように、明るく光る星の下を、いまも走りつづけているのだろうか。どこへとも行方を定めずに。この世界の基準では測れない方位に沿って。
あるいはいつか、ここへ戻ってくることがあるのだろうか。ずっと以前になくしたものが、ある朝ふと、もと置いた場所に見つかることがある。きれいな、昔あったままの姿で。なくしたときよりも、かえって新しく見えたりする。まるで誰か知らない人が、大切にしまってくれていたかのように。そんなふうにして、彼女の心はまたここへ戻ってくるのだろうか…(後略)」(p204-205、片山恭一著、「世界の中心で、愛をさけぶ」、小学館、2001年)
「This is where it all started, I tried telling myself. This is where I first met Aki.
It felt like decades ago, like something that had happened in another time, in a distant
world. Feeling like Rip Van Winkle, I looked around me and saw that the cherry trees were
in full bloom. Back then, I had never looked at the cherry blossoms. I had graduated
without ever noticing there were cherry trees. Yet they looked so beautiful.
Deep in my heart, a hole as small as a pinprick opened, and like a black hole, it
swallowed up everything−the cherry trees, the school, all the time that had passed. As I
was sucked into a past that had seemed so far away, Aki's voice came back to me.
"I loved wiping off the desks when we had to clean the classroom. I'd read all the
stuff people had written. There'd be old stuff left by people who'd graduated years
before, and hearts and arrows where people had carved the names of their crushes. Some of
them, I wished I didn't have to wipe away…"
She spoke right by my ear, in that bashful voice I loved. Where had she gone? All the
sweetness, the beautiful and good and fragile things that had formed the person called
Aki, where had they gone? Were they speeding on under the bright stars, like a train
through a snowy field at night? Racing on and on along a course unmeasurable by the
standards of this world?
It happened that sometimes, one morning, something you had lost long ago would
unexpectedly turn up in the place you had put it. It would look exactly as it had before,
yet newer to you than when you lost it. It would be as if someone had carefully put it
away for you. Would Aki's spirit come back here like that one day?」(p165-166)
(以上、(英訳)Kyoichi Katayama, translated by Akemi Wegmuller, Socrates in Love, VIZ
media, ISBN 1-4215-0154-6)
「世界の中心で、愛をさけぶ」(片山恭一著、小学館、2001年。(英訳)Kyoichi
Katayama, translated by Akemi Wegmuller, Socrates in Love, VIZ media。なお映画化・テレビドラマ化され、映画は韓国でも公開(2004年10月))をここで取り上げることが適切なことなのかどうかについては筆者にも少し迷いがある。だが、「遺された者」が「亡くなった大切な人」が全く知らなかったような場所でその人と語り合っていると感じるのはなかなか難しいことなのだろうなどと想像してみることは大切なことである。
さらに付け加えるのならば、仮に「追悼施設」ができた場合には、外国の大統領や首相は「追悼施設」の方を訪問するようになるのかもしれないが、日本の首相は必ずしも「追悼施設」の方だけということにはならないかもしれないのである。ある首相は「追悼施設」の方に行くが、別の首相は両方に行くなどということも十分に考えられるのである。いずれにしても靖国問題は「追悼施設」をつくればそれで解決するというような安易な問題ではないのである。そして靖国問題の本質と「追悼施設」とが必ずしも一致するわけではないのである。
繰り返しになるが、靖国問題は短期間に解決することができるような問題ではないが、時間が経過すればするほど解決が難しくなる問題であるということを決して見失ってはならないのである。だからこそ、(1)靖国問題は様々な人たちの感情が絡み合った非常に複雑な問題であるために短期間で解決することはできず、しかも時間が経過すればするほど解決が難しくなる問題であるということ、(2)「事実」と「事実が持っている意味」(→認識など)は明確に区別する必要があるということ、(3)靖国問題のような複雑な問題を解決するためには、相違点から出発するのではなく、共通点を確認しながら相違点へと向かっていく科学的な方法が有効であるということ、(4)実は靖国問題でもほぼすべての関係者の間で「目的」と「ルール」が共有されているということ、(5)「因果関係」は正確に理解する必要があるということ、の5つの「認識」を共有した上で、(A)「事実」と「事実が持っている意味」を明確に分離・区別→(B)正しい因果関係かどうかを確認→(C)「目的」と「ルール」の共有を(再)確認→(D)「目的」達成のために新しい「事実」を追加→(A)→(B)→(C)→(D)→…という繰り返しになっている「科学的枠組み」を導入し、少しずつでも問題解決に向かって進むべきだと筆者は考えているのである。
<「科学的枠組み」は「公共財」>
残念ながら靖国問題を早期に解決することは非常に困難である。だが、今の状態でも問題解決に確実につながる前向きで有効な方法が少なくとも一つは存在するのである。それは問題意識などを共有した人たちの間で「科学的枠組み」を先行して導入することである。そして「科学的枠組み」や問題意識などを共有する人たちが対立する主要な立場のすべてにそれぞれ存在する状態になりさえすれば、その時点から「科学的枠組み」はすべての関係者が恩恵を受ける「公共財」(→参考:2005/5/17号etc.)として機能し始めることになる。あえて言い換えれば、理想的な状態がどういうものかを考え、それを正しく「要約」して「要点」のすべてが残されているものを一度でもつくってしまえば、その時点から「科学的枠組み」は「公共財」として機能するということである。
「科学的枠組み」を導入することができれば、どんなに少なくとも靖国問題を含めた「心の問題」で感情的対立が無制限にエスカレートするような最悪の事態をほぼ確実に阻止することができるようになる。さらに「科学的枠組み」が導入することができれば、たとえどんなに問題解決からはほど遠い状況に見えたとしても、現在よりも将来の方が間違いなく問題解決に近づき、様々な前向きな努力や工夫をすればするほど問題解決のスピードを加速することができるようになっていくのである。「科学的枠組み」を導入することができれば、「科学的枠組み」の有効性をまだ理解していない人たちにその有効性を科学的に説明することを通じて問題意識などを共有する人たちの数を増やしていくことも可能になるのである。
現在のほとんどの国では、たった一回の試験だけで残りの人生を「勝ち組」として生きていくことができる「特権階級」になるようなことはまず不可能である。それと同じように靖国問題のような非常に困難な問題でもすべてを一度に完全解決することはまず不可能なのである。だが、しっかりと「目的」や「出口」を共有した上で、「科学的な考え方」を正しく用いることができるのならば、たとえどんなに困難な問題であっても「解決までの道筋がハッキリと見えるアイディアと時間の問題」に変換することはできるのである。あくまでも「目的」や「出口」を共有して「科学的な考え方」を見失うことがない限り、アイディアを出しながら時間をかけていくことによって確実に問題解決に近づいていくことができるのである。もちろん解決までの道筋がどんなにハッキリと見えていたとしても、道のりが短いとは限らない。だが、「科学的枠組み」を導入して「科学的な考え方」を用いて見出した「出口」ならば、「科学的な考え方」を見失うことがない限り、やがて「結末」になるはずである。
日本と韓国の間には人類共通の知的資産の一部分である「科学的な考え方」に加えて、民主主義の基本的な考え方なども共有されている。そして民主主義国家ではない中国でも実は現在の指導部は理科系出身者の割合が非常に高いのである。だからどんなに少なくとも指導部だけは「科学的な考え方」を世界のどこの国よりも素早くよりよく理解することができると期待することができるのである。ちなみに理科系出身者の割合が非常に高いことが「文化大革命」(1966-1977)という中国独自の歴史的背景とどれだけ関係があるのかは筆者にはよく分からない。
春は別れの季節であると同時に、新しい出発の季節でもある。桜はあっという間に一斉に咲いて散っていく。もしかしたら桜という花は、日本社会の良い面も悪い面も共に忠実に映す「鏡」のようなものなのかもしれない。そろそろあちこちの「不自然な人工の木」が枝の先から根元まで粉々に崩れ落ち、いくつかの「枯れ木」に見事な花が咲き始めてきた頃だろうか。
<< 続く (→第5回(2006/5/12)) >>
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)
○「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)
○「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)
○「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)
○サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)
○事実はテレビや新聞よりも奇なり -「小泉新党」から政局が見えてくる- (2005/10/18)
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (2/8) 「ルール」はかなり以前から変わっていた
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (3/8) 「マニフェスト(政権公約)選挙」
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (4/8) 「壁」を破った自民と「壁」が迫ってきた民主
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (5/8) 「あと1年」のために必要なこと
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (6/8) 「小泉新党」から今後の政局が見えてくる
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (7/8) 「こんにちは前原誠司」で良かったのか
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (8/8) 「自動安定化装置」としての「大連立」構想
○この選挙はどのような意味を持つことになるのか(2005/8/26)
○日本は「民主主義立国」になることができるのか(2005/6/27)
○「カルトからの自由」の実現に必要不可欠な挙証責任(2005/2/9)
(参考)前回からの動き(2004/12/25-2005/2/9)
○複数の視点は「連鎖」の理解にも必要不可欠(2004/12/25)
(参考)主な動き(2004/9/21-2004/12/24)
○現実政治の問題解決に必要不可欠な複数の視点(2004/9/21)
○永田町も国際社会も相変わらず「異常なし」(2004/6/22)
○正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23)
○「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (補足(2004/1/12))
○「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5)
(参考) 2003年後半の海外の動き
▽参考:日本の政治。
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