政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。
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購読料について(2006年版) (2006/12/28更新)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)
○「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)
○「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)
○「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)
○サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)
第1回(2006/2/1)からの続きである。2005年度補正予算が成立(2006/2/3)した。そして衆院予算委で2006年度予算案の審議が始まった(2006/2/6)。どうせ言うだけ無駄だとは思うが、予算委は予算案審議が最大の「目的」のはずだからもっともっと予算そのものの話も熱心にやってもらいたいとだけあえて言っておく。
ここで念のために筆者が予算審議のチェックを「偽装」していない証拠もきちんと示しておくことにする。前原誠司民主党代表の「(前略)…(「防衛施設庁」(官庁)→「特殊・公益法人等」→「関連企業(民間企業)」という事実上の「天下り」という)この構図というのは、まさに脱法行為…、『官僚ロンダリング』と言ってもいいかもしれません。また小泉さんが『官から民へ』ということをよくおっしゃっていますが、『官から民へ』っていうのは、天下りをすることなのかと。『官から民へ』。そういうふうにも言わなきゃいけないような状況というものが、例えば、この例では見受けられるわけですね。そのことで談合して、先ほど申し上げたように、一年間で2000億円という防衛施設庁の経費というものが…、おそらく1割か2割かは、まさに談合によってコストアップをされていると。こういう構造になっているわけです。総理、これまさに『行革国会』であれば、こういうところにメス入れるのが『行革国会』じゃないですか」などに、小泉純一郎首相は「(前略)…今のご指摘も踏まえて、現在の天下り規制でいいのかどうか…、それから憲法上に認められた職業選択の自由という点もあります。しかしながらこういう談合事件を考えますとね、この天下りと談合事件っていうのは全く無関係とは言えない。こういう点についてやっぱりあの…、改善策を講じていかなきゃならないなあと思っております」などと答弁していた(以上、2006/2/6の衆院予算委から)。
もちろん与党側の質問もしっかりと聞いてはいたのだがあえて「省略」させてもらうことにする。なんかまたこれから長い「トンネル」に入りそうな嫌な予感がしている。筆者としては前回から引き続いて本質だけを横目に見ながら、まだしばらくの間は「日本の政治」からあえて脱線を続けることにする。
ちなみに石油温風機などについての「大切なお知らせとお願い」のダイレクトメールが「ナ」から始まる大手家電メーカーから届いた。「学位工場(diploma
mill)」出身者と区別できないような「教員」でも平気でそのままにしておく無責任な「教育機関」との差はますます広がっていく。あくまでも念のために言っておくが、筆者の一連の文章は「採点結果などを提出したのかしていないのか」などという「二者択一」の問題(→参考:週刊文春2006/2/16号、週刊新潮2006/2/16号)とは現時点では全く無関係である。ただし、もともとあった「つながり」を途中で切らないように慎重に慎重に引っ張っていくと「いもづる式」に何らかの関係が見つかるかもしれないし、また見つからないのかもしれない。「根っこ」では何らかの形でつながっている可能性まではあえて否定しないでおくことにする。
さて、今回の一連の文章では、読者が「要約」と「省略」の違いを正しく理解していることを大前提にした上で議論を進め、様々な場面で正しい「比較」を行うことになる。さらに例のように「過去」から「未来」へと続く時間軸、「ミクロ」から「マクロ」へと向かう座標軸、そして「ベン図」のようなものを使って全体像を見ていく科学的な考え方(→参考:2005/10/18号etc.)も用いることになる。最初に「要約」と「省略」の違い、正しい「比較」について簡単に説明し、さらに後に何度も説明の簡略化のために用いることになる座標軸とベン図を組み合わせて作った「法則」のようなものについても説明することにしたい。
<「要約」と「省略」の違い>
賢明な人たちは、情報量が膨大になってそのままの形ではとても処理できなくなってきた場合には「要約」をすることになる。だが、「要約」と「省略」は全く違うのである。「要約」とは「文章などの要点をとりまとめて、短く表現すること。また、そのとりまとめた言葉や文」、そして「省略」とは「簡単にするために一部分を略してはぶくこと」(以上、広辞苑(第五版)、岩波書店)である。つまり正しい「要約」ならば短くなっても必ず「本質」や「要点」が残されている。だが、「省略」では、それが何のことを言っているのかさえ分かればいいから、「本質」や「要点」を残さずに短くしても問題にはならないのである。
例えば、「『ラ』から始まる事件」などという使い方は「省略」の一例である。ほとんどすべての読者は何のことを言っているのかがすぐに分かるが、「『ラ』から始まる事件」という表現の中には事件の「本質」や「要点」は全く含まれていないのである。
さらにもう一つ具体例を挙げるとするならば、「ほら、あの『助けてください! 助けてください!』と叫んでいたやつだよ」などと言われれば、多くの人たちはおそらく「セカチュー」のことを言っているのだと分かるだろう。だが、「助けてください! 助けてください!」も「セカチュー」も、「世界の中心で、愛をさけぶ」(片山恭一著、小学館、2001年。(英訳)Kyoichi
Katayama, translated by Akemi Wegmuller, Socrates in Love, VIZ media。なお映画化・テレビドラマ化され、映画は韓国でも公開(2004年10月))の「省略」あるいは一部分だけを取り出したものであり、間違っても正しい「要約」にはなっていないのである。「省略」と「要約」の違いを理解できないということは、例えば、必死で叫んでいた「空港のロビー」を「世界の中心」だと勝手に思い込んでしまうビックリするような人間が現実に出てきてしまうくらい恐ろしいことなのである。
また「省略」は、場合によっては犯罪的ですらある。なぜなら、例えば、「ヤマタ」などと3文字に「省略」したとしても、「ヤマタク」などと4文字に「省略」したとしても、「同じ人間(日本人)の男性」という以外には全く共通点がないと言ってもいいくらい似ても似つかない「あの政治家」と「誰もが認めるカッコいい俳優」がソックリにされてしまうからである。ちなみに「あの政治家」や「誰もが認めるカッコいい俳優」が誰なのかなどということはすべて「省略」しておくことにする。
そろそろほとんどすべての読者が「要約」と「省略」は全く違うということを納得してくれていることだろう。念のために繰り返しておくが、正しい「要約」には必ず「本質」や「要点」が残されているが、「省略」には「本質」や「要点」が残されていないこともあるということである。
<正しい「比較」と「対照実験」>
正しい「比較」なんてそんな当たり前のことをわざわざ説明する必要などないと思っている読者も多いことだろう。例えば、数字の大きさを正しく「比較」する場合には、最初に一番大きな位の数字を比べ、もしもその位が同じ数字ならばその一つ下の位の数字を比べ、それでも同じ数字ならばさらに一つ下の位の数字へなどと順番に比べていくことになる。そんなことは当たり前である。よって「155」と「15」を比べて「同じ部分」にあえて注目するような人間は少なくとも小学生以上には一人もいないだろう。また「10005」と「10001」を比べて「違う部分」を必要以上に強調する人間もあまりいないだろう。ところが数字で考えれば明らかにおかしいとすぐに分かることでさえもどういうわけか何度でも繰り返して間違ってしまうのが永田町周辺の人間たちなのである。
永田町周辺には正しい「比較」ができない人間たちが多すぎる。例えば、「10000以上」ならば政権担当能力があると国民に信じてもらえそうだという場合でさえも、やれ「野党は自民党と違っていなければならない」などともっともらしいことを唱える人間たちは、「1」と「5」は全然違っているなどとあえて「10000以上」という「同じ部分」ではなく「違う部分」を強調してみたりする。あるいはもっとひどいのになると「10000以下」の野党であるという以外には全く何も共通点がないはずなのに「1」の次に「5」が並んでいるという部分にどういうわけか「共通点」を見つけて「野党共闘」などを唱えてみたりするのである。
さらに言えば、「もともと数値になっていないもの」をあえて数値で表現しようとする場合には、得られた数値がもともとの性質を正しく表しているのかどうか、そして本当にそれぞれの数値を比較することができるのかどうかということにも注意しなければならないのである。当たり前と言えば当たり前の話だが、「数値化する場合の基準」はすべての場合で全く同じでなければならないし、そしてさらに用いる基準は比較の目的を確実に達成できるものでなければならないのである。
例えば、ある場所と別の場所の降水量を比較する場合には、雨を貯める「容器」には底面積や高さなどが全く同じ「同一の容器」を使わなければならない。そして降水量を比較することが目的だから、「同一の容器」を使っていたとしても、「穴が開いた容器」を使ったり、「すぐにあふれてしまう非常に小さな容器」を使ったりしたら全く意味はなくなってしまう。こんなことは多くの読者にとっては当たり前すぎるくらい当たり前の話だが、これがどういうわけか永田町周辺では当たり前ではないのである。
例えば、永田町の代表的な「デマゴーク(demagog)」(→扇動政治家)は、自分たちと相手を比べる場合には「目的」に応じて全く異なる「容器」を器用に使い分ける。自分が理想とする「衆愚な国民」に対して自分たちの実績を強調することが「目的」の場合には、自分たちには「底面積が非常に小さい容器」、そして相手には「底面積が非常に大きな容器」を用いて「自分たちの方がずっと高い」などと自慢してみる。そして「賢明な国民」がそれぞれの容器からあえて「底面積が等しい容器」に注ぎ直してみると「実際には『デマゴーク』たちの方がずっと少ない」ということもかなりあるのである。また「デマゴーク」は、不祥事の追及が「目的」の場合には、自分たちには「ザル」、相手には「普通の容器」を用いて「未納3兄弟」などと厳しく批判してみる。もちろん「ザル」でもこぼれ落ちないくらい大きな不祥事の場合には「自分自身が4兄弟目」になることもあるが、言うまでもなく「ザル」と「普通の容器」を比べても正しい比較にはならないのである。だから最近では「デマゴーク(demagog)」(→扇動政治家)は「賢明な国民」からだけではなく、実際には「賢明な国民」がかなり多いことに少しずつ気づき始めている「仲間の政治家たち」からもあまり相手にされなくなってきているのである。
ここまで正しく「比較」するために必要不可欠なことをあえて長々と説明してきたわけだが、そういう説明を正しく「要約」した最も分かりやすい具体例の一つが学校の理科などに出てくる「対照実験」の話なのである。
「実験1 植物の蒸散についてテーマや方法を選択して調べる…(中略)…テーマ(2) 蒸散は葉の表と裏のどちらで主に行われているのか調べる。 A葉の表と裏のどちらから蒸散する量が多いか、ワセリン(油の一種)のぬり方を変えて調べる。(筆者注:植物をさして表面に油を浮べた水が入った3種類の試験管の図を省略) (ア)そのまま水にさす。 (イ) 葉の表にワセリンをぬる。 (ウ) 葉の裏にワセリンをぬる。 (筆者注:ここから欄外) ●ワセリンをぬらずに、ほかの条件を同じにしたものを必ず用意する。これを対照実験という。 枝は水中で切り、水の入った試験管に入れてから油を注ごう…(後略)」(p16-17)、「実験3 光合成のとき、二酸化炭素が使われることを確認する (筆者注:絵はすべて省略) 1 準備する。 試験管にタンポポの葉を入れ、呼気をふきこみゴム栓をする(試験管A)。別の試験管には呼気だけをふきこみゴム栓をする(試験管B)。 2 光にあてる。 20〜30分間、試験管AとBを光にあてる。 3 石灰水を入れる。 それぞれの試験管で、ゴム栓を少しはずして、こまごめピペットで石灰水を入れ、すばやくゴム栓を閉める。 4 比べる。 よくふり、AとBの石灰水のにごり方を比べる。 ※それぞれの石灰水は、どちらがより白くにごったか…(後略)」(p23。以上、中学校理科 2分野上、大日本図書、平成13(2001)年文部科学省検定済から)
このように「対照実験」は比較しようとする部分以外の残りのすべてを同一条件にした上で比較するのである。ところが現実の世界では、残りのすべてを同一条件にするということは実はかなり難しいことなのである。だから比較という目的が達成できる範囲内で基準を工夫して対象にする性質を限定してから、比較する部分以外の残りのすべてを同一条件にそろえた上で比較するのである。そして実際に理科の「対照実験」の場合には、「蒸散」とか「光合成」という植物の科学的性質を明らかにすることが目的だから、植物の科学的性質だけに注目し、比較する部分以外の残りのすべての科学的性質を同一条件にした上で比較し、科学的性質以外の部分は完全に無視しているのである。
例えば、「タケベさんとタケナカさんとホリイくんがスクラムを組んで丹精込めて育てた」植物であっても、「タケベさんとタケナカさんがホリオくんの一件は大失敗だったなあと反省しながら育てた」植物であっても、葉の数や大きさがほとんど同じならばどちらも中学校の理科の実験に使うことができるのである。この場合には科学的性質だけが問題になる理科の実験が目的だから「 」内に書かれているような植物の科学的性質以外の性質は全く無関係なのである。だが、目的が理科の実験以外の場合には、例えば、「タケベさんやタケナカさんが育てた」植物ならばいいが、別の人が育てた植物ではダメだとか、あるいは「モリさんやカトウさんが苦言を呈していてもいなくても勝手に育っていた」植物ならば許容範囲内だが、「真面目なオカダさんが断っていたから良かったもののその前の人間だったらいったいどうなっていたかなどと考えているうちに勝手に育っていた」植物は想定の範囲外、などということになるのかもしれないのである。具体例が少しくどくなったが、要するに、比較する目的によってある物のどの性質を見てどの性質を見ないのかということが完全に変わってくるわけである。
<座標軸とベン図を組み合わせて作った「法則」のようなもの>
筆者がいつも用いている例の「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」などという座標軸とベン図を組み合わせて作った「法則」のようなものについても説明しておくことにする。これから説明する「法則」を納得してもらえるのならば、ここから先の部分で筆者の説明と読者の理解が共に楽になると期待することができるようになるのである。「法則」は、「(1)ある物にはプラスとマイナス(あるいはメリットとデメリット)の両面がある」、そして「(2)ある物のプラスとマイナス(あるいはメリットとデメリット)は基準(あるいは目的)によって変化する」、「(3)(人間を含む)ある物は常に変化する可能性がある」、また「(4)環境とその内部の行為者(主体)は相互作用する」、だから「(5)ある物やその性質は元の環境から切り離して考えることは難しい」(あるいは「(5')ある物の今現在の状態は変化の経路に依存している」)の全部で5つある。順次説明していくことにする。
「(1)ある物にはプラスとマイナス(あるいはメリットとデメリット)の両面がある」、そして「(2)ある物のプラスとマイナス(あるいはメリットとデメリット)は基準(あるいは目的)によって変化する」ということは、当たり前と言えば当たり前の話であるからもう説明しなくても多くの読者には納得してもらえるかもしれない。あえて確認のために付け加えることがあるとするならば、「(1)ある物にはプラスとマイナス(あるいはメリットとデメリット)の両面がある」ということは、少なくとも現実の世界においては、誰の目にも明らかな形で「完全な善」とか「完全な悪」を見つけることはできないということも意味しているのである。「(2)ある物のプラスとマイナス(あるいはメリットとデメリット)は基準(あるいは目的)によって変化する」ということについては以前(→参考:2005/5/17号etc.)の説明をあえて繰り返しておくことにする。
例えば、同じ「腐る」場合であっても、人間の役に立つ特別な場合には「発酵」(→「メリット(プラス)」)と呼ばれ、役に立たない場合には「腐敗」(→「デメリット(マイナス)」)と呼ばれるが、腐らせる微生物の側から見ればどちらも「メリット(プラス)」である。同じように「害虫」「益虫」などというときの「害」(→「デメリット(マイナス)」)や「益」(→「メリット(プラス)」)は全く同じ行動であっても人間以外の別の立場から見れば正反対になることもある。そしてこれらのことを個別の生物レベル(→「ミクロ」)で見ればそれぞれの立場で「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」が違ってくることになるが、生態系レベル(→「マクロ」)で見れば「メリット(プラス)」ということになるのかもしれない。さらには同じ生態系レベル(→「マクロ」)で見ても、ある生物が異常に多かった「過去」には食物連鎖の中でその生物が捕食されるということは「メリット(プラス)」だったのかもしれないが、ある生物が極端に減少しているかもしれない「未来」では全く同じことが「デメリット(マイナス)」になるかもしれないのである。
「(3)(人間を含む)ある物は常に変化する可能性がある」ということも当たり前と言えば当たり前の話である。人間を含む生物は成長したり老化したり学習したりして常に変化している。また例えば、建物のような、形のある無生物であっても、劣化したり腐食したりして常に変化している。さらに言えば、形のない物も常に変化しているのである。ある個人の「感情」は日々の生活を通じて常に変化しているし、多くの人たちがかかわっている「慣習」や「常識」なども彼・彼女たちの様々な変化を受けて少しずつ変化しているのである。
「(4)環境とその内部の行為者(主体)は相互作用する」、だから「(5)ある物やその性質は元の環境から切り離して考えることは難しい」ということは「ベン図」を使って考えるとそれほど複雑な話にはならない。「環境(Aの円)と行為者(Bの円)の関係」は、Aグループの大きな円の中にBグループの小さな円が完全に入ってしまう状態、つまり以前に用いた表現を再び使えば「パン(Aの円)とフランスパン(Bの円)の関係」と基本的には同じになる。
まず行為者(Bの円)が環境(Aの円)の内部にあるということは、行為者(Bの円)が様々な形で環境(Aの円)から影響を受けて変化する可能性が高いということを意味している。そして行為者(Bの円)が変化するということは、変化したものが環境(Aの円)の中に入っているわけだから「全体としての環境(Aの円)」も必ず同時に変化するということを意味している。さらに行為者(Bの円)が変化するということは「行為者の周囲の環境(→つまりAの円からBの円を切り取った残りの部分)」にもある程度の影響を与えて変化させる可能性があるということを意味している。また「行為者の周囲の環境(Aの円からBの円を切り取った残りの部分)」が変化するならば、変化したものが中に入っているわけだから、「全体としての環境(Aの円)」も必ず同時に変化することになるし、また「行為者の周囲の環境」の変化は「行為者(Bの円)」にも影響を与える可能性が高いということも意味しているのである。つまり「行為者(Bの円)」と「行為者の周囲の環境(Aの円からBの円を切り取った残りの部分)」は、共に「行為者(主体)」であると同時に互いに相手から見た「環境」にもなっていると考えることができるのである。
以上をまとめると、「行為者(Bの円)」、「全体としての環境(Aの円)」、「行為者の周囲の環境(Aの円からBの円を切り取った残りの部分)」も互いに影響を与え合いながら変化する可能性が高くなる、つまり「(4)環境とその内部の行為者(主体)は相互作用する」ということになるわけである。そして「行為者(Bの円)」、「全体としての環境(Aの円)」、「行為者の周囲の環境(Aの円からBの円を切り取った残りの部分)」のそれぞれの状態はその他がどのような状態になっているかによって大きく変化する可能性が高くなる、だから「(5)ある物やその性質は元の環境から切り離して考えることは難しい」ということになるわけである。そして「(5)ある物やその性質は元の環境から切り離して考えることは難しい」ということは、「(5')ある物の今現在の状態は変化の経路に依存している」と言い換えることもできるのである。
テレビドラマの世界を利用してさらに説明することにする。「(4)環境とその内部の行為者(主体)は相互作用する」ということは、例えば、野ブタ(小谷)は修二と彰のプロデュースによって少しずつ変わっていったが、そんな野ブタ(小谷)を見ながら修二と彰も少しずつ変わっていったのと同じことである。もちろん、つくしと道明寺らF4も相互作用したのである。つくしと道明寺らも互いに影響を与え合って少しずつ変わっていったのである。そして道明寺があの時につくしと出会っていなかったらどうなっていたのだろうかとか、野ブタ(小谷)と修二と彰がそれぞれ別々のクラスだったらどうなっていたのだろうかなどと想像してみれば、「(5')ある物の今現在の状態は変化の経路に依存している」ということも納得することができるだろう。
ちなみにドラマでも小説でも映画でも、そしてもちろん現実の世界でも、「もっと早くあなたと出会っていれば…」とか「あなたと出会ってさえいなければ…」などというセリフは非常にありふれている。「良い出会い」ならばそれもいいかもしれないが、「悪い出会い」ならば取り返しがつかない大変なことになってしまうかもしれないのである。
さらに言えば、「(5)ある物やその性質は元の環境から切り離して考えることは難しい」ということは、例えば、他の先生たちが桜木や真矢の口調やセリフなどを真似しても効果がなかったような場面と基本的には同じことである。それでもピンとこなければ、桜木が小学6年生に向かって「バカと○○こそトーダイに行け!」などと言ったとしても、あるいは真矢が高校3年生に「あなたたちいいかげんに目覚めなさい」などと言ったとしても全く違ったリアクションが返ってくるだろうということを想像してみればすぐに納得することができるのかもしれない。
以上のような5つの「法則」を読者に納得してもらうことができたのならば、この文章のこれから先の部分で筆者の説明と読者の理解が共に楽になると期待することができるようになるのである。
<「何のために勉強するのか」>
そろそろまたほんの少しだけ永田町周辺の方に歩み寄って見ることにする。
「今後の日本を支えていくのは『人』であります。『物で栄えて心で滅ぶ』ことのないよう、新しい時代を切り拓く心豊かでたくましい人材を育てていかなければなりません。教育基本法については、国民的な議論を踏まえ、速やかな改正を目指し、精力的に取り組んでまいります。『社会の中で子供を健やかに育てる』との認識に立ち、学校だけでなく、家庭や地域と連携しながら、体験活動や触れ合い交流を通じて命の尊さ、社会貢献の大切さを教え、道徳や規範意識を身に付けることを促します。豊かな心と健やかな体の育成に健全な食生活は欠かせません。食育推進基本計画を策定し、食生活の改善に加え、我が国の食文化の普及、地元の食材を使った給食の推進など、食育を国民運動として展開してまいります。教育現場の創意工夫を促すとともに、習熟度別の指導、学校の外部評価、保護者や地域住民の学校運営への参画、学校選択制の普及を通じて、教育の質の向上を図ります」(2006/1/20の小泉首相の施政方針演説から)
教育関連政策に限定しても、小泉首相の施政方針演説には実にいろいろなことが書かれている。短く的確な言葉で答えることが非常に得意な小泉首相にもぜひ「何のために勉強するのか」という質問をぶつけてみたいものである。
永田町周辺では教育の話になると、必ずと言っていいほど「道徳や規範意識」「歴史」「伝統文化」などという言葉が繰り返し繰り返し出てくる。もちろん「道徳や規範意識」「歴史」「伝統文化」は大切である。だが、それだけでは足りないのである。「道徳や規範意識」「歴史」「伝統文化」だけでは新しい時代に適応して生き抜いていくことはできないのである。そして言うまでもなく「創意工夫」は進歩のために必要不可欠である。「創意工夫」はもちろん重要だが、とにかく何でもカンでも闇雲にやってみればいいというものではないのである。無意味なことやデタラメなことをやって「負け組」になるくらいならば「待ち組」でいた方がはるかにましなのである。「道徳や規範意識」「歴史」「伝統文化」などの「古いもの」の中には、「こういう時にこういうことをすればほぼ確実に失敗する」「こういうやり方をしてもおそらく上手くいかない」などという「ノウハウ」が豊富に含まれているのである。「道徳や規範意識」「歴史」「伝統文化」などの「古いもの」と、「創意工夫」などの「新しいもの」とを適切に組み合わせていくことが重要なのである。
「科学技術」であれ、その他の「文化」であれ、日本もかなり以前から実際に「古いもの」と「新しいもの」とを適切に組み合わせてきた実績があるはずである。もちろん「民主主義」という制度も例外ではないのである。筆者があえて「温故知新(おんこちしん)」は「日本語」であると主張する理由が少しずつ読者にも分かってきてもらえているのかもしれない。もちろん筆者はこの言葉の由来を知らないわけではないが、あえて「温故知新(おんこちしん)」は「日本語」であると主張しているのである。
「何のために勉強するのか」。そもそも答えを一つに絞り込む必要があるのかどうかもよく分からないが、いずれにしても筆者は答えを一つに決めることができずにいる。今回は民主主義というものを強く意識して「自分自身を含めた一人ひとりの人間の基本的人権を含む権利を保障するため」と答えておくことにする。そしてここからしばらくは「学校選び」を生きた題材として用い、「何のために勉強するのか」ということを考えながら「本丸」の「日本の政治」に向かってじわりじわりと攻め上っていくことにしたい。
<「学校選び」の様々な方法>
筆者が「日本の政治」から脱線するスピードよりも、永田町周辺が誰からも頼まれないのに勝手に「日本の政治」から脱線するスピードの方が実はずっと速いような気がするのはたぶん筆者の気のせいなのだろう。だんだん永田町周辺のことは気にならなくなってきた。さらに脱線を続ける。
「学校選び」には様々な方法がある。繰り返しになるが、筆者は自分がやる気になる学校を選べばいいと基本的には考えている。
「名門校のブランド」でやる気になるのならばそういうところを選べばいい。ただし、いくら「人生のターニング・ポイント」になることがあったとしても、「名門校のブランド」があれば絶対に成功するとか、一生「良い仕事に就くことができる」などという根拠のない強い思い込みだけはしない方がいい。実際には「名門校のブランド」を手に入れたとしても、その直後から次の「成功」に向けた努力を始めなくてはならないのである。そして次の「成功」の直後からはさらに次の新しい「成功」に向けた努力を始めるということの繰り返しなのである。そんなことは当たり前だとか、それでも良いと心から思うのならば「名門校のブランド」を選ぶことも悪くはない。
ちなみに以前(→2005/6/27号etc.)も紹介したが、そういう根拠のない強い思い込みを一瞬で解消する最も効果的な方法の一つは永田町周辺の人間たちを見回すことである。永田町周辺を見回せば、日本で一番難しい大学や有名大学を出た人たちの中には確かにものすごい人たちもいるが、ビックリするぐらいお粗末な人たちもたくさんいるという実例をすぐに見つけることができるだろう。
その他にも「学校選び」には様々な方法がある。憧れの先輩・OB・OGがいるかどうかなどで自分が入学する学校を選ぶというのもそれはそれで一つの方法である。あるいは、やりたい部活(クラブ活動)や楽しみたいスポーツのために一番良い環境を重視して学校を選ぶということもあるのだろう。スポーツで学校を選ぶのもそれはそれで一つの方法である。学びたい教員や学びたいものがあるのならばそういうところを選べばいい。実際には入学後に「期待はずれ」だと気づくことも少なくはないのだろうが、もちろん教員や教育内容などという学校の本質的な部分を重視して学校を選ぶのは「学校選び」の正攻法である。
いずれにしても学校という「環境」によって本人が変わるだけではなく、意欲を持った学生の努力によって学校という「環境」もまた変わっていくのである。そして本人の意欲が引き出されるような学校は本人にとって良い学校になるだけではなく、「後輩」にとっても良い学校になるのかもしれないのである。用意したばかりの「法則」を早速使ってみると、「(4)環境とその内部の行為者(主体)は相互作用する」ということになるのである。
さて、「学校選び」をする場合にも、そして実際に入学する直前に試験を受ける場合にも、入学試験問題というものと真剣に向き合わなければならなくなることが非常に多いのである。今は受験シーズンの真っ最中である。もしかすると過去の入学試験問題を実際に解いてみてから受験する学校を決めるという人たちも少なくはないのかもしれない。それはそれで一つの考え方ではある。しばらく試験問題の話に脱線していくことになる。
<「試験問題」の話>
「aを定数とし、xの2次関数 y=x<2> −2(a+2)x +a<2> −a +1 (筆者注:表現上の制約のため<2>は『二乗』を示すものとする) のグラフをGとする。(1) グラフGとy軸との交点のy座標をYとする。Yの値が最小になるのはa=[ア]/[イ]のときで、最小値は[ウ]/[エ]である。このときグラフGはx軸と異なる2点で交わり、その交点のx座標は、([オ]±√[カキ])/[ク]である。」(大学入試センター試験2005年本試験(数学
I・数学A)の第1問(必答問題)[1]から。ちなみに「正解」はア/イ=1/2,ウ/エ=3/4,オ=5,カキ=22,ク=2)
別に今年2006年のセンター試験の問題を具体例に用いても良かったのだが、偶然目に入ったので1年前の問題を用いることにする。「よりによって『数学』を具体例に選ぶとはどういうつもりだ」などと思っている読者には、筆者は「物理」や「化学」などを最初は選ぶつもりだったということをあえて明らかにして妥協してもらうことにしよう。ちなみに以下の説明には数学の知識はほとんど必要ないから安心してもらいたい。
この問題では「Yが最小値(→ウ〜エ)になるときのaの値(→ア〜イ)」を正しく導き出すことができなければ「x軸との2つの交点のx座標(→オ〜ク)」を正しく導き出すことはまず不可能だと考えられる。つまり「x軸との2つの交点のx座標(→オ〜ク)」が正解ならば「Yが最小値(→ウ〜エ)になるときのaの値(→ア〜イ)」も普通は正解になっているのである。そこで問題文も配点もすべてそのままの状態で最後の「x軸との2つの交点のx座標(→オ〜ク)」の部分だけを答えさせる問題にあえて変えてみた場合を考えてみることにする。
センター試験と同じようにオ〜クの数字を1つずつ答えさせるのならば、「x軸との2つの交点のx座標(→オ〜ク)」の部分だけを答えさせるように変更した場合でも、「部分点」がなくなって途中経過が完全に採点の対象にならなくなったこと以外には何も変化はない。だが、「オ〜クの数字の組み合わせ」の正解を例えば4つの「選択肢」の中から選ばせるように変更してしまうと、問題の性質が大きく変化してしまうのである。賢明な読者はもう気づいたことだろう。偶然に正解を選び出すことができる確率が大きく上昇して「25%」になってしまうのである。
そして偶然に正解を選び出すことができる確率が大きく上昇しても、「数学的な能力を使って本当の意味で正解を導き出した人」には全く何も影響を与えないのである。しかもこの場合には「数学的な能力を使って本当の意味で正解を導き出した人」と「偶然に正解を選び出した人」との区別が全くできないのである。また「選択肢」の場合には「記述式」と違って「正しい数学的な解法に従って計算したが、途中のどこかで計算ミスをしてしまったために正解を導き出せなかった人」に「部分点」を与えることは不可能になるから、計算ミスをすると「全く問題が分からなかった人」と同じ「0点」として評価されてしまうことになる。さらにひどいことには「選択肢」の場合には「正しい数学的な解法に従って計算したが、途中のどこかで計算ミスをしてしまったために正解を導き出せなかった人」よりも「偶然に正解を選び出した人」の評価の方が高くなるという「逆転現象」までかなりの確率で起こってしまうのである。ちなみに「Yが最小値(→ウ〜エ)になるときのaの値(→ア〜イ)」という途中経過の部分を残していれば、「偶然に正解を選び出した人」の数をもっと低く抑えることもできないわけではない。
ここでまとめておけば、4つ程度の「選択肢」の中から選ばせるように問題を変更しなければ「偶然に正解を選び出す確率」は非常に低いままだったし、そしてもともとの問題では「Yが最小値(→ウ〜エ)になるときのaの値(→ア〜イ)」という途中経過の部分もあったのである。仮に「途中経過」が間違っているのならば「オ〜クの数字」という「結論」が正解だったとしても得点を与えないなどという「採点基準」があれば「偶然に正解を選び出した人」を排除することもそれなりにできることになる。センター試験は受験生のその科目についての能力を調べることが基本的な目的である。だから「部分点」をなくし、さらに与えられた「選択肢」の中から正解を選ばせるように変更してしまうと問題を以前よりもずっと不適切なものに変えてしまうこともあるのである。与えられた「選択肢」の中から正解を選ばせるように変更してしまうと試験の「目的と手段の関係」が不適切になることもあるという具体例である。
「選択肢」を選ぶタイプのいわゆる「客観テスト」が不適切なものになる具体例をもう一つ示しておくことにする。例えば、「ラ」から始まるところの「前社長」を「支持するか、支持しないか」、あるいは「政治家としてふさわしいか、ふさわしくないか」などということをセンター試験のように「選択肢」を選ばせる「二者択一」の試験問題にしたら、今ならば大多数の人たちが簡単に「正解」を選び出すことができるだろう。だが、「選択肢」では「正解」を選び出した理由が全く問われていないということによく注意をする必要がある。極端な場合には、「前社長」が自分の気に入らないことを言っているかいないか、あるいは、「前社長」がネクタイをしているかしていないかなどで判断した人間までもが「本質の部分に大きな穴が開いていることを見抜いた人たち」と完全に平等に扱われてしまうのである。
なお「郵政民営化に賛成か反対か」という「客観テスト」だけで候補者選考をすると最悪の場合には人を見る能力が全くないと疑われてしまうこともあるなどという分かりやすい具体例もあるが、くどくなるので「省略」しておくことにする。
いわゆる「客観テスト」では、「採点者の主観的な判断」を排除することはできるが、「出題者の主観的な判断」までをも排除することはできないということは少し考えればほとんどの人たちは理解することができるはずである。いわゆる「客観テスト」は考えに考え抜かれた適切な「選択肢」を用意した場合にだけ本当の意味で客観的になるのである。そういうことはコンピューターに正しいデータを入力すれば正しい答えが出てくるが、コンピューターに間違ったデータを入力した場合には絶対に間違った答えしか出てこないということと全く同じ話である。ところがどういうわけか「偽科学(pseudoscience)」の世界ではデタラメな答えを出しても「コンピューターは絶対に嘘をつかない」などという根拠のない強い思い込みをしている人間たちが多いのである。
もちろんセンター試験を記述式の答案にし、「採点基準」を明確にした上で途中経過を含めて採点することができるのならば、受験生のその科目についての能力を最も正確かつ詳細に調べることができるようになるのだろう。もちろん記述式の方が望ましいということは、一人ひとりの学生の成績を正しく評価する必要がある「学校の試験問題」の場合も基本的には同じである。だが、センター試験などでは記述式の答案を採点している時間的な余裕がないから問題文や選択肢を非常に工夫した上でいわゆる「客観テスト」を採用しているのである。
実は入学試験問題と学校の試験問題には大きな違いがある。学校の試験では、「本当の意味で正解を導き出した人」と「偶然に正解を選び出した人」の区別が全くできなくなるような試験問題を出題してしまうことは一人ひとりの学生の成績を正しく評価するという目的を達成することが全くできなくなってしまうので致命的な大失敗になる。だが、入学試験では「本当の意味で正解を導き出した人」と「偶然に正解を選び出した人」の区別ができない試験問題よりも、「合格者」と「不合格者」の区別ができない試験問題を出題してしまうことの方が致命的な大失敗になるのである。
もちろん理想的な入学試験では、その学校に入学しても問題のない学力を持っている受験生を確実に区別し、その上で学力の高い順序に正確に並べるということが目的になっていると考えることができる。ところが、多くの「受験生」の中からほぼ一定数の「合格者」を選び出すことができれば最低限の目的は達成されたと考えるような学校の「入学試験」では、極端な場合には「合格者」を選び出すことができさえすれば「本当の意味で正解を導き出した人」と「偶然に正解を選び出した人」の区別が全くつかなくてもほとんど問題にはならないということにもなってしまうのである。
「バカと○○こそトーダイに行け!」などというセリフがあったが、容姿を問題にする「○○」は公正な入学試験ではどうにかすることはできないし、またどうにかしてもいけない。だが、「バカ」の方は試験問題を工夫することによって何とかすることはできるのである。例えば、同じ「バカ」でも「専門分野以外はバカ」ならば妥協してもいいが、「専門分野でもバカ」ならば絶対に合格させるわけにはいかないなどというような形で試験問題を工夫することはできるのである。言うまでもなく「バカ」に入学して欲しくないと本気で考えるような学校は、「合格者」と「不合格者」の区別だけではなく、少なくとも「本当の意味で正解を導き出した人」と「偶然に正解を選び出した人」の区別も確実にできる試験問題を出題する必要があるのである。
<「試験問題」としても「研究対象にする問題」としても不適当>
「g ナポレオン3世は内政面ではブルジョワジー、プロレタリアートの両勢力、これらから疎外された農民や中間層の利害対立を巧みに利用し、政権を維持するとともに、外政面では人気を維持するために膨張政策をとった。…(中略)…5 gに記述されているナポレオン3世の政策と最も関連の薄いものはどれとどれか イ デンマーク戦争 ロ クリミア戦争 ハ アロー戦争 ニ メキシコ出兵 ホ イタリア統一戦争」(早稲田大学政治経済学部2004年入学試験問題(世界史)から)
「フランス第二帝政は、農民・資本家・労働者など、利害をことにする勢力にささえられたもので、ナポレオン3世は国内産業を育成する一方、国民の人気を維持するため、クリミア戦争をはじめ、アロー戦争・イタリア統一戦争・インドシナ出兵などの積極的な対外政策を展開した。彼がメキシコ遠征に失敗し、プロイセン=フランス(ドイツ=フランス)戦争に敗れると、パリで蜂起がおこり、帝政は崩壊した(1870年9月)」(詳説世界史(以下、「詳」と省略)、山川出版社、2002年4月4日 文部科学省検定済、p226-227から)
いわゆる「客観テスト」の問題点についてさらに具体例を挙げながら説明することにする。入学試験制度の変更とは無関係に以前よりも「難問」は少なくなってきているのかもしれないが、共通一次試験を導入し、さらに大学入試センター試験の時代になってもやはり「奇問」はなくならないのである。制度を変更したとしても、少なくともそれだけでは本質的な問題解決にはつながらないということを示す具体例にもなっている。もしも教育に関連する何らかの問題をあたかも制度の改正だけで解決できるかのように言っている政治家がいるとしたらそれだけで政治家としての能力に大きな問題があると見ておいた方がいいだろう。以前から主張しているように(→参考:
2005/8/26号etc.)、筆者は政治家に「教育」のことを語らせれば語らせるほどその政治家の資質・能力を効率的に見抜くことができる、「教育」は「政治家としての能力」を見抜くための「道具」として使うことができると考えている。
さて、取り上げた問題は、大学側が「大学入学試験問題としては、選択肢に不適当な箇所がありました」「受験生全員にこの部分の得点を与えることにいたしました」などと発表した世界史の問題である。最初に言っておくが、筆者は世界史の専門家でも何でもない。だが、あえてこの問題が大学入学試験問題を超えたレベルでいったいどんな意味を持っているのかについても考えてみることにする。「学校選び」の観点に限らず、実は得られる情報には意外なほど大きな価値があるのである。
実際に問題を見てみることにする。まず消去法で問題文に書かれた「政策」との関連があり得なさそうな選択肢を探してみることにする。選択肢はすべて「戦争」だから、「ナポレオン3世の時代(1852-1870)の戦争ではない戦争」と「ナポレオン3世時代の戦争でもフランスが参戦していない戦争」はほぼ確実に関連がないということになる。すると「イ」の「デンマーク戦争(1864)」はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題をめぐるプロイセン・オーストリア両国とデンマークの間の戦争であり(→詳p229,p231参照)、フランスは参戦していないから「正解」だと判断できる。だが、問題文では「どれとどれか」と2つの答えを要求しているのである。世界史の教科書の記述から判断すれば、大学入学試験レベルではここまでということになるのかもしれない。そして正解が2つ存在すると仮定してあえてもう一つの答えを見つけ出そうとする場合には、フランスが参戦した残りのすべての「クリミア戦争(1853-1856)」「アロー戦争(1856-1860)」「メキシコ出兵(1861-1867)」「イタリア統一戦争(1859)」について問題文に書かれたナポレオン3世の「政策」との「関連」の薄さを判断して比較しなければならなくなるのである。
ところが困ったことに改めて問題文のgを読み直してみると、「ナポレオン3世は内政面ではブルジョワジー、プロレタリアートの両勢力、これらから疎外された農民や中間層の利害対立を巧みに利用し、政権を維持するとともに、外政面では人気を維持するために膨張政策をとった」としか書かれておらず、そもそも何を基準に「政策」との「関連」が薄いと判断するのかということを含め、それぞれの戦争と「政策」との「関連」を比較することができるような適切な内容にはなっていないのである。
たとえそれぞれの戦争のすべてについてどれだけ多くの知識を持っていたとしても、「政策」との「関連」が薄いかどうかを判断する基準が分からなければ、どの戦争が最も問題文に書かれた「政策」との「関連」が薄いのかなどということを判断できるわけがない。また、それぞれの戦争との「関連」を判断するための最も明確な基準は「参戦しているかどうか」だと考えられるが、先に示したように「参戦しているかどうか」では2つ存在すると仮定した正解のうちの1つしか見つけることはできないのである。つまり与えられた条件では「2つの正解」を導き出すことはできないから、この世界史の問題は「大学入学試験問題」としてだけではなく「試験問題」としても不適当だということになるのである。
それならば「試験問題」ではなく、「ナポレオン3世の政策がそれぞれの戦争に与えた影響を比較する」などという「研究対象にする問題」としては適当かどうかということを考えてみることにする。その場合には、ナポレオン3世の「政策」の内容が少なくとも研究目的の達成につながるような形で正しく要約されているかどうかということがまず問題になってくるのである。そして問題文のgでは正しい要約になっていないということは素人が見ても明らかである。なぜなら問題文では対外戦争を考えようとしているにもかかわらず当時のフランスを取り巻く国際情勢にも、当時の無視できない非常に大きな変化であった産業革命の進展にも、全く触れられていないからである。
当時はナポレオン(1世)の敗北によるウィーン体制が崩壊しつつあり(→詳p218-221参照)、フランスではかつての栄光の回復を求める動きも目立っていたのである。また産業革命が進むにつれて原材料や市場を海外に求めるようになったということは中学生でも知っていることである。従って問題文のようにナポレオン3世の政策を正しく要約せずにそれぞれの戦争を比較したとしても人類の知的資産として蓄積されるような意味のある内容の研究になることはまずあり得ないだろうということは容易に推測することができるのである。この問題を「研究対象にする問題」として適当かどうかなどという観点から判断すると、出題者の「研究者としての能力」に少なくとも疑問符が付くことになるわけである。
このように入学試験問題には「オープンキャンパス」などでは決して得られない問題作成者(=教員)の能力を推測する場合に非常に役立つ「生」の情報が含まれていることも多いのである。受験生は入学試験問題の「過去問」を解くことによって、その学校がどのような学生を求めているか、あるいは自分がその学校に合格することができそうかどうかということだけではなく、その学校の教員にどの程度の能力があるかということも推測することができるかもしれないのである。いずれにしても過去の入学試験問題を実際に解いてみてから受験する学校を決めるというのもそれはそれで一つの考え方ではある。
<専門分野の本当のおもしろさを学生に伝えようとしているか>
長い長い「トンネル」を抜けると、そこはもう地味で真面目な政治家が質問をしている場面だった。NHKに秋篠宮妃紀子(きこ)さまご懐妊(2006/2/7)の速報テロップが出た後に質問に立った民主党の岡田克也前代表は皇室典範改正問題、そして「ラ」から始まる事件なども取り上げていた。基本的には不祥事はもうウンザリなのだが、「前社長」の立候補を否定的に見た側と立候補を許した側の質問と答弁には、少なくとも「ラ」から始まる事件の「要点」が残っている可能性があることはさすがに筆者としても認めざるを得ない。そして確かに不祥事が続いていた中での明るい話題ではあるが、「ご懐妊」関連の騒ぎはほどほどにしてもらいたいものである。どうせ永田町周辺の人間たちのことだから何を言っても無駄だとは思うが、いちおう言うだけは言っておく。
「象徴天皇制度は、国民の間に定着しており、皇位が将来にわたり安定的に継承されるよう、有識者会議の報告に沿って、皇室典範の改正案を提出いたします」(2006/1/20の小泉首相の施政方針演説から)
「(皇室典範改正を)別に急いでいるということではなくてですね…、どうもあの制度のままでありますと、愛子さまの、愛子内親王の…、天皇即位を認めないというのが現行制度でありますから…。愛子内親王はもうじき学校に入られるお年頃であります。やはり将来、自分が天皇陛下ではないということで教育を受けられるのと…、自分はいずれ天皇陛下にならなきゃならないというご自覚の下で…。ご養育されるのと…。愛子さまにとっても、大変大きな問題であり、日本の皇室を安定的に継承していくということを考えると、私、そんなに延ばしてもいいとは思ってないんです。できるだけ早い機会に、それこそ…、政争の具にしないように、冷静に穏やかに慎重に、議論を重ねて、今国会で成立させるのが、後々、安定的な皇位を継承するためには…、天皇制を永く…、維持するためには、今国会じっくり審議して成立させるっていうことは決して早すぎることはないと私は思っております」(2006/2/7の衆院予算委での民主党の岡田前代表の質問に対する小泉首相の答弁から)
「(もう少しきちんと国民に謝罪すべきでは、に)いや、これは、当時から堀江氏が今回逮捕されるような人とは思ってないと。そこまで見抜けというのは、おそらくね、民主党の人も無理じゃないですか。落選したんですよ。それで。しかも無所属ですよ。自民党が…。公認していないんですよ。幹部が応援に行ったのは事実です。私も会ったのは事実であります。しかし堀江氏は無所属です。で、落選しているんです。でありますから、その人物を見抜けなかったという…、小泉はバカだという批判は甘んじて受けるというんです。今、言われて、これがどういう形で責任を取ればいいかと。結局選挙で審判を受けて当選した人までが不祥事を起こした場合に、その党の党首は責任を取るんですか。今回、落選しているんですよね。そしてそこまで人物を調査しても分からない場合があるんです。最終的には有権者が、この選挙っていうのは…。どの政党を応援しようが、有権者、判断するんですよね。民主主義っていうのは。そこで、公認は…、自民党、公認しないけども、自民党の幹部が応援していたから…、私の責任だと言われれば、今までこれだけ批判を受けているわけですから、その批判は甘んじて受けます」(2006/2/7の衆院予算委での民主党の岡田前代表の質問に対する小泉首相の答弁から)
なお岡田前代表は質問(2006/2/7)の中で「私は堀江(貴文容疑者)氏と会ったときに、少なくとも民主党から(選挙に)出せる考え方の持ち主ではないというふうに判断いたしました…(後略)」「私が堀江氏と会ったときに、堀江氏がこういうふうに言いました。これは別れ際ですが…。『選挙に勝つのは難しいよ』って私、言ったんです。堀江氏はそのときに、自分は最終的にきちんと帳尻を合わせるんだと。フジテレビだって結局は…、ニッポン放送・フジテレビの事件だって結局は損をしていない。そういうふうに言いました。ま、結局、ああそういうことかと。つまり選挙に出ること自身が彼の知名度を上げて、ライブドアの信用を上げて、そして時価総額が上がるということ、少なくともそれだけの効果はあるんだと。それは選挙に勝てばそれは良かったのかもしれませんが、負けてもそれだけのことは確保できるんだということで出たんだな、出ようとしているんだなということが私、分かりました…(後略)」などと述べていた。
筆者のコメントはあえて「省略」しておく。いつものように地味で真面目に岡田前代表は財政構造改革や公務員制度改革などでも「政権準備政党」(→参考:2005/6/27号etc.)型の質問をしていた。一方の小泉首相はどこにも「や」がなくても一度始まると「や」の話はもう止まらない。筆者は「や」の話では「説明を止(や)めるな。」とは主張しているが、「一度走り出したらエスカレートさせても絶対に止(と)まるな。」とは一度も言った覚えはない。とにかくどの立場の人たちも事態を「エスカレート」させないでもらいたいものである。「エスカレート」しなければどうにかできるという確実な保証はないが、これ以上「エスカレート」してしまったらどうしようもなくなる。いずれにしても「や」の話は後から必ず取り上げることになるから、ここではあえて「省略」しておく。
さて、試験問題の次は、教員や教育内容などという学校の本質的な部分を重視して「学校選び」をするという正攻法についての話である。もちろん高校までは学校の授業で扱う内容はもちろん、ほとんどの場合には授業を担当する教師も選ぶことができないが、大学・大学院では受講する講義の内容も担当教員もかなり自由に選ぶことができるようになる。大学・大学院で受講する講義や教員を選ぶ場合には、様々なもっともらしいことに騙されないようによく注意しながら「自分なりの確実な方法」で間違いのない選択をしてもらいたいものである。入学後になって「期待はずれ」だったと気づくのはそれはそれで不幸なことだが、実はまだましな方なのかもしれない。間違った選択をしてしまうと最悪の場合には人間性や能力に問題のある教員の「バカの壁」を鋳型にして前途有望な将来を台無しにされてしまうこともあるからである。
一人でも多くの前途有望な若者が「何のために勉強するのか」ということを見失わないようにするために、もしかしたら役に立つかもしれないノウハウをあえて公開しておくことにする。ポイントは2つある。一つは講義で「その教員が専門分野の本当のおもしろさを学生に伝えることを目的にしているかどうか」ということであり、もう一つは「その目的と手段の関係が本当に適切なものなのかどうか」ということである。これならば正しい判断をするためにそれほど多くの専門知識を必要としないだろう。
いくつか具体例を挙げながら説明することにする。例えば、どういうわけか「レジュメ(resume)」と称する配布物だけが高く評価されているような教員にはそれだけで危険信号が点滅していると考えておいた方がいい。そういう教員の多くは講義を正しく「要約」すると「レジュメ」だけが残ることになる。普通は「レジュメ」だけでは「専門分野の本当のおもしろさを学生に伝える」という目的を達成することはまず不可能である。だが、もしも「レジュメ」だけで本当に目的を達成することができるのならば、少なくとも講義は目的達成のためには不適切な手段ということになるし、その「レジュメ」に最低でも授業料分の価値がなければならないことになる。評価の高い何百ページもある専門書でも数千円程度でしか売れない世の中で十数枚程度の「レジュメ」が徴収した授業料と同じ価値を持つとは常識的にはとても考えられないだろう。
また、例えば、試験を受けるだけでほとんど誰でも単位を取得することができるような「超楽勝科目」として評判になっている講義にも危険信号が点滅していると考えておいた方がいい。そういう講義は事実上学生から授業料を巧妙に騙し取っている可能性が非常に高いのである。本物の「学位工場(diploma
mill)」よりは「ブランド価値」の高い「学位工場のようなもの」だと割り切って考えるのも一つの考え方なのかもしれない。だが、そういうことならば、数年後に「ブランド価値」が完全に地に落ちた場合にも本物の「学位工場」の何倍、何十倍の高い授業料を払うに値する価値が残っているかどうかについて一度ぐらいはじっくりと考えてみる必要があるだろう。最近の大学生は「単位を取る」ではなく「単位が来る」などとよく言っているが、もしかすると大学・大学院の現状をかなり的確に表現しているのかもしれない。確かに大学・大学院の講義の成績評価は昔から「理不尽」かつ「不透明」である。おそらく今現在はもっとひどいのだろう。
さらに、例えば、試験の代わりに「極端に枚数が短く制限されたレポート」を課すような教員、あるいは、なぜか定期試験で四者択一の試験問題のような「客観テスト」を出題するような教員にも危険信号が点滅していると考えておいた方がいい。なぜならそういう教員はそもそも一人ひとりの学生の成績を正しく評価しようという意思すらも全く持っていない可能性が非常に高いからである。少し前に説明したように、「学校の試験問題」でも、問題文や選択肢がよほど練り上げられた「良問」でない限り、与えられた「選択肢」の中から正解を選び出す「客観テスト」よりも、記述式の試験問題の方が、学生のその科目についての能力をはるかに正確かつ詳細に調べることができるのである。「本当の意味で正解を導き出した人」と「偶然に正解を選び出した人」の区別が全くできないどころか、「全く問題が分からなかったのに偶然に正解を選ぶことができた人」の方が「99%正しく理解して正解まであと一歩のところまで到達したのに不正解になってしまった人」よりもずっと高く評価されてしまうような「逆転現象」が頻繁に起こる「お粗末な客観テスト」を出題するくらいならば、いっそのこと「抽選」や「くじ引き」に変更した方がはるかに公正な評価になるかもしれないのである。
もしもその教員が「専門分野の本当のおもしろさを学生に伝えること」を目的にしているのならば、教員の努力の成果でもある「一人ひとりの学生の理解度」をなるべく詳しく調べて今後に役立てたいと考えたとしても全く何の不思議もないはずである。それにもかかわらず、成績を正しく評価するための特別な工夫も全くせずに「客観テスト」を出題するということは、消去法で判断するならば、学生の成績を正しく評価する時間や労力を完全に「省略」することが主な目的であるとしか考えられなくなるのである。全く同じように「極端に枚数が短く制限されたレポート」も学生の成績を正しく評価する時間や労力を完全に「省略」することが目的である可能性が非常に高いのである。そういう「お粗末な客観テスト」や「極端に枚数が短く制限されたレポート」を採用するということは、降水量を比較することを目的としているのに、どういうわけか「すぐにあふれてしまう非常に小さな容器」や「ザル」を持ってくるようなものである。
そしてもしも「教員」が各学期に最低1回あれば許される「学生の成績を正しく評価する機会」でさえも時間や労力を完全に「省略」しようとしているのならば、日常の講義で「専門分野の本当のおもしろさを学生に伝える」ために必要になる時間や労力を完全に「省略」していないという保証はどこにもないということになる。ひどい場合には日常の講義では「珍妙な内容」の著書を国会答弁のようにただ単に「棒読み」しているだけということもあり得ない話ではないのである。つまり、こういう類の教員は「専門分野の本当のおもしろさを学生に伝える」という「目的」という観点から判断しても、「目的と手段の関係」という観点から判断しても、どちらでも全く同じ不適切な教員という結論になるのである。
いわゆる「客観テスト」を導入すれば「採点者の主観的な判断」を排除することはできるのかもしれないが、「出題者の主観的な判断」を排除することまでは絶対にできないのである。「客観テスト」を導入しても、それだけでは「難問」を完全になくすことはできないし、まして「奇問」をなくすことなど絶対にできるわけがないのである。試験の代わりに「極端に枚数が短く制限されたレポート」を課すような教員、成績を正しく評価するための特別な工夫も全くせずに「客観テスト」を出題するような教員は、それだけでも「教員としての能力」を十分に疑われることになるのである。さらにその「教員」が「研究者」も名乗っているような場合には、一人ひとりの学生の成績を正しく評価するという目的の達成のために適切な手段を採用することができなかったという確実な「実績」から判断するならば、研究者としての基本的な能力にも疑問符が付くことになるのである。
<「専門用語」で隠されているもの>
まるで外国語で書かれた専門書のように、難しそうな言葉の「割合」が異常に高い文章を学生向けの「シラバス」などに掲載する教員にも危険信号が点滅していると考えておいた方がいい。少し前に説明したように、素人には難しそうな「専門用語(jargon)」を並べて本当の能力を隠している危険性が高いからである。そして「専門用語」で隠されているものが多くなればなるほど、「専門分野の本当のおもしろさを学生に伝える」ことは難しくなっていくはずである。「専門用語」のような「難しそうな言葉」「あまり聞いたことがない言葉」「意味不明のカタカナ」には要注意である。そういう「難しそうな言葉」「あまり聞いたことがない言葉」「意味不明のカタカナ」が異常に多い場合には避けて通った方が無難なことも多いのである。
同じように「難しそうな言葉」や「あまり聞いたことがない言葉」が異常に多い場合であっても、外国語で書かれた専門書の場合には、もしかすると避けて通らない方が結局は近道になることの方が多いのかもしれない。日本は「翻訳文化」が非常に発達しているから、かなり多くの外国語で書かれた有名な専門書が「翻訳」されて「日本語版」になっている。だが、実は「翻訳」や「日本語版」にも危険信号が点滅していると考えておいた方がいいのである。
少し考えればすぐに納得してもらえると思うが、「翻訳」されて「日本語版」になっているものの中には専門書の内容を正しく理解することができる「本物の専門家」が自分自身の手で翻訳しているものは実はかなり少ないのである。そもそも専門書の内容を正しく理解していなければ、どんなに高い語学力を持っていたとしても正しく「翻訳」できるわけがない。ある言語から日本語に「翻訳」される間に「本質」や「要点」が抜け落ちてしまったら、いくら「翻訳」された日本語の文章を繰り返し注意深く読んでも「本質」や「要点」を把握することはできないのである。「翻訳」は、ある言語で書かれた文章から「本質」や「要点」を含めたほとんどすべての部分を別の言語という形に「要約」していると考えることもできる。あるいは「翻訳」も「伝言ゲーム」のような状態になると言った方が分かりやすいのだろうか。それとも野球やサッカーやラグビーなどが分からない人間がそれらのスポーツの実況中継を通訳するようなものだと言っておいた方がいいのだろうか。
いわゆる「政治学」には「偽者の専門家」が「翻訳」した危険信号が点滅している「日本語版」が結構ある。いわゆる「政治学」の用語(jargon)を用いてあえて説明するならば、「偽者の専門家」が「翻訳」をするということは、多くの人たちが人類共通の知的資産としての本物の政治学(political
science)に「アクセス」しようとする場合に非常に強力な「拒否権プレーヤー」としての役割を演じるようなものなのである。だが、やはりどんなものにも探せば「プラス」と「マイナス」の両面があるものである。たとえ日本の「翻訳文化」がどんなに深刻な問題を抱えていたとしても、その「翻訳文化」のおかげで語学が非常に苦手な人間でも、著者の真意を知りたい気持ちが強くなれなるほど、ごく自然な形で必然的に「原書」へと導かれるようになっているという教育上の効果についてだけはどんなに高く評価しても評価しすぎということにはならないのである。
「いわゆる『政治学(political pseudoscience(偽科学))』を学んでいる日本の大学生が原書に『political
science』と書かれているのを見つけて感動して叫ぶ。『翻訳』される前の政治学(political
science)はやっぱり科学的なものだったのか!」−。
こういう類の「ジョーク」がそう遠くない将来に日本の大学・大学院でも流行することになるのかもしれない。
<憲法とは何か>
どうせまだ永田町周辺では筆者が「日本の政治」から脱線していても特に問題がない状態が続いているのだろう。そろそろ脱線するネタも乏しくなってきたから、またほんの少しだけ「日本の政治」の方に歩み寄ってみることにする。
「戦後60年を経て憲法の見直しに関する議論が各党で進んでいます。新しい時代の憲法の在り方について、国民とともに大いに議論を深める時期であります。憲法改正のための国民投票の手続を定める法案については、憲法の定めに沿って整備されるべきものと考えます」(2006/1/20の小泉首相の施政方針演説から)
2005年総選挙後の永田町周辺では憲法改正に関連した議論が活発になっている。言うまでもなく憲法改正について考えたり語ったりする場合には、憲法とその背後にある基本的な考え方を正しく理解していなければならない。「憲法とは何か。民主主義国家にとって憲法なる文書を起草し、それを政治の中心に据えることには、どのような意味があるのか」などという「素人の素朴な疑問」に筆者がひとことで簡潔に答えるとするならば「一人ひとりの人間の基本的人権を含む権利を保障するため」などと答えることだろう。そして筆者が政治の究極目標として何度も繰り返している「一人ひとりの生命などを守ること」などとほぼ同じようなものだと考えてもいいと付け加えるかもしれない。
憲法学の世界では、何らかの形で憲法を定めて国家権力を制約する「立憲主義(constitutionalism)」の考え方は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」(「人および市民の権利宣言」(人権宣言、1789年)第16条)という簡潔な形でしばしば「要約」されている。要するに、権利の保障のための政治参加(→民主主義)であり、権利の保障のための権力分立であるという考え方が「立憲主義」である。従って現代の「立憲主義」は、一人ひとりの基本的人権などの保障を大前提とし、その大前提を除外した部分については「多数決を意思決定の基本とする民主主義」と対立することなど全くあり得ない「イデオロギー」である。そういうことはほんの少しでも憲法学に触れたり、あるいは「人権の拡大」という人類共通の歴史的文脈とでも呼ぶべき歴史の大きな流れに基づいて真面目に政治というものを考えたりしたことのある人間ならば当たり前すぎるくらい当たり前の話である。ちなみに「人権宣言」(抜粋)は高校の世界史などの教科書にも掲載されている(→例えば、前述の詳p212)。
そういう「立憲主義」の基本的な考え方は本物の政治学(political
science)の世界でも誰もが知っている常識になっている。いわゆる「政治学(political
pseudoscience(偽科学))」とは似て非なる「political science」の世界では知らない者がいないほど有名な政治学者であるダール(Robert
A. Dahl)も著書の中で以下のように記述している。
「近代民主国家の基本的な政治制度について、ここで細かく述べる必要はないでしょう。ただ、民主的な統治においては、理念としてだけでなく実際に、市民が一連の基本的な権利や自由や機会など(筆者注(原書):a
body of fundamental rights, liberties, and opportunities)を有することが前提とされていることは明らかと言うべきでしょう。そこに含まれるものとしては、自由で公正な選挙によって公職者を選出すべく投票する権利、選挙による公職に立候補する権利、自由な表現の権利、独立した政治組織を形成し、参加する権利、独立した情報源にアクセスを持つ権利、そして、大規模民主国家の政治制度を実効的に運営するのに必要な、他の自由や機会などへの権利を持つことなどです…(中略)…もしも私たちが、これら政治的な権利・自由・機会を、何らかの意味で根本的に重要なものと見なしているとすれば、理論においても実践においても、民主政治は自由と対立しません。それどころか、私たちの最も根本的な権利や機会が存在するために、民主的な制度は必要なのです(筆者注(原書):(前略)…democracy
does not conflict with liberty. On the contrary, democratic institutions are necessary for
the existence of some of our most fundamental rights and opportunities.)。もしそうした政治制度が、制度が体現する権利・自由・機会を含めて、ある国で存在していないとしたら、その国はそれだけ民主的ではないということになります。ワイマール・ドイツやウルグアイやチリでそうだったように、それらが消滅してしまえば、民主政治も消滅します。そして、それらの国でそうであったように、民主政治が消滅すれば、根本的な権利・自由・機会もまた消滅するのです。同様に、それらの国に民主政治が再び現れた時、それらの根本的な権利・自由・機会もまた、必然的に、再現したのです。したがって、この連関は決して偶然的ではありません。それは内在的なものです(筆者注(原書):The
connection, then, is not in any sense accidental. It is inherent.)」(ロバート・A・ダール著、杉田敦訳、アメリカ憲法は民主的か、岩波書店、2003年、p157-159から。原書:
Robert A. Dahl, HOW DEMOCRATIC IS THE AMERICAN CONSTITUTION?, Second edition, Yale
University Press, 2003)。
ちなみに「立憲主義」の基本文書としても有名なアメリカ独立宣言には「われらは、次の事柄を自明の真理であると信じる。[即ち]すべての人は平等に造られ、造物主によって一定の奪うことのできない権利を与えられ、その中には生命、自由および幸福の追求が含まれる。[また]これらの権利を確保するために人びとの間に政府が組織され、その権力の正当性は被治者の同意に由来する。[さらに]いかなる統治形態といえども、これらの目的を損なうものとなるときは、人民はそれを改廃し、彼らの安全と幸福をもたらすものと認められる諸原理と諸権限の編制に基づいて、新たな政府を組織する権利を有する」(独立宣言(1776年)。樋口陽一・吉田善明編、解説 世界憲法集 第4版、三省堂、2002年、p66から)などとしっかりと書かれている。なお「独立宣言」(抜粋)も高校の世界史などの教科書に掲載されている(→例えば、前述の詳p209)。
ところが不幸なことに、近年の劣悪な大学・大学院教育のためか、今日の日本においては、このような憲法や立憲主義の最も基本的な部分の「要約」でさえも正しく理解されているとは言えないのである。言うまでもなく憲法というものを正しく「要約」することもできない人間が憲法改正について意味のある何かを語ることができるわけがないし、仮に憲法改正について何かを語ったとしても正しく「要約」すると雲散霧消してしまうような本質がすっぽりと抜け落ちた珍妙な内容にしかならないのである。日本では「偽者の専門家」の「頭の中の憲法」を改正するところから憲法改正の準備作業を始めなくてはならないのだとしたら、憲法改正の実現はますます遠い将来の話になってしまうことだろう。
憲法は、「偽者の専門家」や「偽者の政治家」、あるいは「素人」に好き勝手に語らせてよい問題ではない。今、われわれは、ひとりひとりが「偽者の専門家」や「偽者の政治家」を間違いなく見抜くという正しい判断をする責務を負っているのである。なぜなら、正しく「要約」するならば、憲法とは、「偽者の専門家」や「偽者の政治家」が彼・彼女らの利益を守ったり拡大したりするためにあるのではなく、「将来の世代」を含めたわれわれ国民がみずからの基本的人権を含めた権利を守るために拠り所とするもの、だからである。
しかし、やはりどんなものにも探せば「プラス」と「マイナス」の両面があるものである。珍妙なものには、例えば、「立憲主義(constitutionalism)」ではなく、あえて耳慣れない「憲法主義」などという珍妙なラベルが最初から自発的に付けられているのである。もちろんこういう珍妙なラベルの部分だけはどんなに高く評価したとしても決して評価しすぎということにはならないのである。そしてあくまでも念のために言っておくが、例えば、憲法、歴史、そして政治、哲学などといった誰でも知っているような有名な単語にただ単に「主義」を付けてみただけでは少しも学問らしくはならないし、もちろん本物の学問になるわけもないのである。
通常国会では2006年度予算案の審議が行われている。参院では2004年度予算の決算審議も行われているようである。本当の意味で「学問の自由」を守るためには、決してあり余っているわけではない「21世紀COEプログラム(研究拠点形成費補助金)」「科学研究費補助金」などを費やし、いわゆる「政治学」でも耳慣れた用語(jargon)になっているかどうかも怪しい「珍妙なラベル」が付けられたものの中に、「おとぎの国の雑学」や「言葉遊び」とは全く別の人類共通の知的生産活動に貢献し得るだけの意味のある内容が本当に入っているのかどうかということを自発的によくよく確認してみる必要がある。
第三者の立場から見れば、今日の日本の多くの大学を卒業したとしても、生涯賃金や名誉・地位といった点でメリットを生み出す卒業証書を手に入れるために費やした様々な費用に見合うだけの経済的・社会的メリットが保障されるかどうかは、なるほど疑わしい状態であるなどと受け止められ続けるのであれば「学問の自由」は守れなくなってしまうだろう。あるいは大風呂敷を広げようという野心を持っていたとしてもいなかったとしても、いわゆる「政治学」の分野での「研究」とは、なるほど、あえて何百、何千万という「公金」と数年間という長い歳月を費やしてまで「研究者」に自分の無知・無能を自覚させる作業に他ならないのだということになるのならば、やはり「学問の自由」は守れなくなってしまうだろう。あえて言い換えるならば、「誰のためのガヴァナンスなのか」を含めたガヴァナンスの問題ということにもなるのだろう。
そして正しい「要約」と正しい「比較」が上手くできるようになればなるほど、学問や研究が上手くできるようになるかどうかは定かではないが、自分自身の専門分野の基本事項でさえも正しく「要約」したり正しく「比較」したりすることもできないような人間にはどんなに少なくとも「教員」や「研究者」であり続ける「正統性」は全くないはずである。あくまでも念のために言っておくが、どんな種類の「アカウンタビリティ」であっても、説明すればそれでいいというわけではないのである。
以前(→参考:2005/6/27号etc.)の繰り返しになるが、「親の顔を見てみたい」などと言われるべきなのは、幼い子どもではなく、実はいい歳をした「大人」なのである。「子は親の鏡」などとよく言うが、「能力」だけではなく「肩書き」もよくよく注意して見ていなければ誰もが「学位工場(diploma
mill)」出身者と間違ってしまうような「専門家」や「研究者」や「教員」を見るたびに、「躾(しつけ)」をしたはずの「親」の顔が見てみたくなってくる。そしてそのようなお粗末な人間たちをあえて「専門家」や「研究者」や「教員」にした「親」の顔も見てみたくなってくる。筆者に言わせれば、様々な「躾(しつけ)ができていない大人」に向かって言う台詞が「親の顔を見てみたい」である。
注:今回の文章を作成するにあたり、早稲田大学中央図書館及び高田早苗記念研究図書館から資金提供以外の支援を受けた。ここで改めて謝意を表する。また本物の政治学(political
science)の基本文献に加え、「芦部信喜著、憲法学U 人権総論、有斐閣、1994年」「伊藤正巳著、憲法(第3版)、弘文堂、1995年」「佐藤幸治著、憲法(第三版)、青林書院、1995年」「樋口陽一著、比較憲法(全訂第三版)、青林書院、1992年」などを最低限の参考文献として挙げておきたい。
<「アルティメット・クラッシュ(ULTIMATE CRUSH)」>
永田町周辺の出来事でもなく、「日本の政治」でもなく、やはりまた「学校選び」の話に戻ることにする。あえて永田町周辺を確認するだけ時間の無駄のような気もしてきた。
「国民に夢と感動を与えるトップレベルのスポーツ選手を育成するとともに、国民が生涯を通じてスポーツに親しめる環境を整備いたします」(2006/1/20の小泉首相の施政方針演説から)
自分がやりたいスポーツや楽しみたいスポーツを「学校選び」の基準として重視する人たちもいるのだろう。スポーツでもそれぞれの学校には伝統がある場合が多いのである。スポーツにも校風のようなそれぞれの独自のスタイル(style)があることも多いのである。もちろんスポーツを重視して自分が行きたい学校を選択することも「正解」である。
「(筆者注:2001年)三月三日、監督として初めて東伏見のグラウンドで選手たちの練習を見た。初日は体力測定をした。三〇〇〇メートル走、五〇メートル走、ベンチプレスやスクワットの測定だ。そして、そのレベルの低さに愕然とした。身体は小さく、足は遅く、筋力はない。また、プレーの基本ドリルをさせればパスはこぼすし、コンタクトプレーも未熟だった。言葉も出なかった…(中略)…しかし、大学生全体のレベルが落ちているかというと、そういうわけでもない。ほかの大学では足の速い選手をたくさん見かける。つまり、早稲田の学生たちのレベルだけが低くなったということなのだ。もちろんこの数字だけで判断したわけではないが、すべてのレベルで劣っている。持久力はある者もスピードがない。継続プレーで球を出せる者も相手を殺していない。バランスがひどく悪いのである…(中略)…また、古くから早稲田ラグビー部には、先輩が後輩に教えるというすばらしい伝統があった。早稲田的常識というようなものだが、そういった意識も低くなっている。戦い方も、かつては現在のサントリーの戦い方に近いもので、攻撃のスタイルがほぼ決まっていた。選手はその枠のなかで最大限のパフォーマンスを出せばいいので、結果を生むことができた。ところが、一目見るかぎりでは、そういう要素もまったく影をひそめてしまっている。よい伝統はすべて姿を消してしまったということか……。チームの状態が下り坂のなかで、よいものがどんどん姿を消してしまったのだろうか」(p59-62)、「それほど時を待たずに、これが早稲田ラグビーだというものがはっきり見えるプレーを展開できると思っている。オリジナリティ、つまり独自性というのは、いわば、ジャージを隠して試合をしても早稲田だとわかるようなプレースタイルを身につけるということである。理想的なオリジナリティを持つことは、チームの目標でもある。最近ボールの動き方が、ようやくかつての早稲田に近づきつつあると言われる。対戦相手がそれを意識して対応してくれば、すでにそれだけでゲームにアドバンテージが生まれる。相手が身構え、次の動きを予測し、早稲田がやってくることに対応しようとすれば、すでにその時点で相手を一歩リードしていることになる…(後略)」(p242-243)、「弱いチームを強いチームに仕立て上げていくためには、精神的な部分、頭のなかを変えることが第一歩だと思う。頭を切り替えなければ、何も始まらない。今までのラグビーについての知識、常識から離れ、あるいは生活面でもまったく白紙でラグビーと対面させる必要がある…(中略)…強いチームは、前年の経験を継承していけるのである。そして、それこそが誇るべき歴史であり、伝統なのである。大切なことは、そうした経験を途切れさせないことである…(後略)」(p256-257)、「二〇〇二年の目標は、もちろん大学日本一であった。チームが突然強くなるということはありえない。ひとつずつステップアップしていくのだが、そういう意味では二〇〇二年は二〇〇一年よりも高い位置からスタートした。どんな相手にも徹底的に勝つ、しかもわずかな隙も見せずに大差で圧勝できる−そんなチームを目指した。その意味をこめて、二〇〇二年のチームスローガンはアルティメット・クラッシュ(ULTIMATE
CRUSH)とした。相手を徹底的につぶし、早稲田が通った後はペンペン草も生えないというほど完全な勝利を狙っていくという意味を込めた。このチームスローガンは、三月のイギリス遠征時に考えられたものだ。早稲田大学ラグビー部OBで、オックスフォード大学を卒業した(筆者注:2003年11月にイラクで殺害された・故)奥克彦(大使)氏をアドバイザーとして招き、私から日本語でのイメージを伝え、それに合った英語を考えてもらったのだ。しかし、なかなかしっくりする言葉が見つからない。一〇個くらい出してもらって、やっと『これだ』という言葉にぶつかったのだ。しかし、そのためにはむしろ、小さなプレーひとつひとつにこだわっていく姿勢が大切になるのだ…(後略)」(p260-261。以上、清宮克幸著、最強の早稲田ラグビー −世界を狙う「荒ぶる」魂、講談社+α文庫、2004年)
2年連続ラグビー大学日本一を達成(2006/1/8)した早稲田大学の清宮克幸監督の著書からの引用である。「温故知新(おんこちしん)」という「基本戦略」はスポーツの世界でも有効であるということを示す一つの実例としてあえて取り上げた。
今年は、「トリノ冬季五輪(2006/2/10から開幕)」、「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC。米国、キューバ、日本、韓国、中国などが参加する初の国際野球大会。2006/3/3から開幕)」、ドイツで行われる「サッカー・ワールドカップ(W杯、2006/6/9から開幕)」などと大きなスポーツイベントが多い一年である。筆者は「独自のスタイル」を確立したり、「独自のスタイル」の上にどれだけ多くのものを新しく積み重ねたりしていくことができるかが日本チームや選手たちの活躍を左右する一つのポイントになるのではないかとひそかに考えている。圧倒的に不利な状況に追い込まれたとしても、いつでも立ち戻ることができる原点としての「独自のスタイル」があれば不利な流れを変えることも不可能ではないだろうし、圧倒的に有利な状況であっても、常に意識する原点があれば大きくペースを乱して逆転されるようなこともないだろう。それぞれの選手たちもチームも「独自のスタイル」を持っているかどうかで大きく変わってくるのではないかと筆者は考えている。
事実上の「名誉監督」になっている長嶋茂雄名誉監督も応援する中、王貞治監督の指揮の下、イチロー選手、松坂大輔投手らが出場する野球では、世界の中で日本の伝統に基づいた「独自のスタイル」を認識したり確立したりする貴重な機会になるのかどうかということにも注目している。
また日本サッカー協会が全面的にバックアップする中、日本のサッカーをよく知っているジーコ監督の指揮の下、W杯ドイツ大会の日本戦の試合開始前に国旗を持って選手を先導する中学生の「フラッグベアラー」を公募するアイディアを出したという中田英寿選手(http://nakata.net/jp/)らが出場するサッカーでも、そろそろ「日本独自のスタイル(style)」を確立することができるかどうかということが日本チームのさらなる飛躍を左右する重要なポイントの一つになると考えて注目している。
ちなみにわざわざスポーツの話題を取り上げたにもかかわらず、なぜか名前を挙げた選手が極端に少ないような印象を持った読者もいるかもしれないが、それは次から次に有名選手の名前が出てくるどこかの国の総理大臣の演説のようになるのを避けただけの話であって他意はない。
<< 続く(→第3回(2006/2/21)) >>
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)
○「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)
○「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)
○「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)
○サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)
○事実はテレビや新聞よりも奇なり -「小泉新党」から政局が見えてくる- (2005/10/18)
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (2/8) 「ルール」はかなり以前から変わっていた
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (3/8) 「マニフェスト(政権公約)選挙」
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (4/8) 「壁」を破った自民と「壁」が迫ってきた民主
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (5/8) 「あと1年」のために必要なこと
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (6/8) 「小泉新党」から今後の政局が見えてくる
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (7/8) 「こんにちは前原誠司」で良かったのか
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (8/8) 「自動安定化装置」としての「大連立」構想
○この選挙はどのような意味を持つことになるのか(2005/8/26)
○日本は「民主主義立国」になることができるのか(2005/6/27)
○「カルトからの自由」の実現に必要不可欠な挙証責任(2005/2/9)
(参考)前回からの動き(2004/12/25-2005/2/9)
○複数の視点は「連鎖」の理解にも必要不可欠(2004/12/25)
(参考)主な動き(2004/9/21-2004/12/24)
○現実政治の問題解決に必要不可欠な複数の視点(2004/9/21)
○永田町も国際社会も相変わらず「異常なし」(2004/6/22)
○正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23)
○「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (補足(2004/1/12))
○「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5)
(参考) 2003年後半の海外の動き
▽参考:日本の政治。
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