政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。
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購読料について(2006年版) (2006/12/30更新)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)
○「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)
○「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)
○「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)
○サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)
受験シーズンの真っ最中である。もちろん通常国会も召集されている(2006/1/20-6/18までの150日間の予定)。前回(2005/10/18)から切れ目なく「不祥事」が続発している。テレビや新聞や週刊誌が「不愉快な人間たち」に次々と乗っ取られているような「あり得ない状態」が続いている。まだ誰も気づかなかった頃(→参考:2005/5/11号)に「法律の隙間」を利用して「虚業」や「バブル」という言葉をすべて買い占めておけば、筆者も今頃は「超大金持ち」になっていたはずだなどと「態度を正反対に変えた人間たち」の前であり得ないことをわざと悔しがって皮肉りたくもなってくる。それにしてもこれだけ長く「あり得ない状態」が続いてくるとニュースよりもむしろテレビドラマの方が「現実的」になってくるから実に面白いものである。
<どちらが「あり得ない」のか>
例えば、「花より男子」(TBS系列ドラマ(2005/12/16最終回、放送終了)。なお原作は集英社マーガレットコミックス(神尾葉子著)から)には「超大金持ち」が何人も出てくるが、誰一人としてプロ野球球団やテレビ局を欲しがったり、選挙に立候補したりしようともしない。それどころか「大金持ち」に対して屈折した感情を持たずに「自然体」で接していく「庶民」の少女が次から次へと起こる「あり得ない騒動」を乗り越えながら「超大金持ち」たちの認識や感情を変えていくのである。
最近大騒ぎになっている「ラ」から始まるところや「前社長」をなぜかチヤホヤしていた人間たちはたくさんいる。そして裏切られた人たちも、まだ支持している人たちも、なぜか態度を正反対に変えた人間たちもたくさんいる。それは基本的には個人の自由である。だが、なぜチヤホヤしたのだろうか? 既存のマスコミやテレビ周辺の人間たちを含めてチヤホヤした人間たちの中には事実上カネで心や魂を売った人間たちが少なからずいるはずである。実際に売ったわけではないとしても、彼・彼女たちの心はカネで買おうと思えば買える状態だったのである。どちらが現実でどちらがドラマ(あるいはマンガ)なのだろうか? 現実とドラマ(あるいはマンガ)のどちらを見て「あり得ないっつーの!!」と叫んでいいのかよく分からなくなってくる。
ちなみに「ラ」から始まるところにずっと否定的(→参考:2005/5/11号、2005/8/26号etc.)だった筆者自身は「人の心がカネで買えるわけがない」と思っている。なぜなら筆者自身はどんなにカネに困っていたとしても、またどんなに大量のカネを積まれたとしても、「魂」だけは絶対に売らないからである。それどころか「人の心はカネで買える」と思っているような人間には絶対に「アイディア」も売らないし、また絶対に使わせない。万一、筆者の「アイディア」が「人の心はカネで買える」と思っているような人間たちに勝手に使われるようなことがあったとするならば、筆者は彼・彼女たちの「敵」にタダで「アイディア」を提供してでも絶対に阻止して報復する。
また、「野ブタ。をプロデュース」(日本テレビ系列ドラマ(2005/12/17最終回、放送終了)。なお原作は河出書房新社(白岩玄著)から。ちなみにドラマの主題歌の「青春アミーゴ」(by修二と彰)は選抜高校野球(3/23開幕)の入場行進曲)では、「人工的な笑顔で当たり障りのないコメントをするだけの政治家」よりもずっと心に残ることをプロデュースする前から言っていた笑顔がぎこちない心の優しい少女と、プロデュースする側の2人の少年たちが同じ目的に向かって進んでいく間に少しずつ変わっていくのである。
もしも「カネ」や「株」ではなく「アイディア」がカネを生み出す世界があって、そこで筆者が「能力のある魅力的な政治家」をプロデュースしたとするならば、その政治家を内閣総理大臣にすることもできるかもしれないなどと「あり得ない空想」をしてみる。もちろん「ポスト小泉」を「プロデュース」する「誰か」にも絶対に負けないだろう。
「(2006年9月の自民党総裁について問われて)(前略)…今年、面白い質問をされました。去年から今年にかけて『ポスト小泉』、『ポスト小泉』と新聞活字で報道されていますけれども、小泉さん、名前を変えたんですかと。それぐらい『ポスト小泉』という活字が躍り、皆さん、最大の関心事だと承知しておりますけれども、私は現職の総理大臣・小泉純一郎として、この総理大臣の職責を精一杯務めていきたい。あと、総裁選が近づけば、またいろいろご意見を伺うと思いますけれども、どういう対応をするかというのはまだまだ早いのではないか。その時点で私もしっかりとした判断をしていきたいと思っております」(2006/1/4の小泉首相の年頭記者会見から)
「(前略)…『負け組』っていうのは、むしろ、攻められるべきじゃないと。というのは、戦ったから負けたんだと。戦う意欲があるということはほめられるべきだと。なるほどなあと。そういう明るい見方もあるんだなあと。むしろ負けることを恐れて、戦おうとしない人の方が問題だと。この次、良い言葉だと思うんですよ。待ってばかりじゃいかんと。あるときは、総裁選挙に出ないで少し待とうという人もいるかもしれませんけども(→場内笑)、それは(→小泉首相も笑う)、待って良い場合と、待ってダメだったという場合は、歴史の問題でいろいろありますから、それはその人の判断に任せますけども、私はチャンスがあったら逃げない、つかむような、挑戦するような努力が必要だと…(後略)」(2006/2/1の参院予算委での自民党の谷川秀善氏の質疑に対する小泉首相の答弁から)
どうも最近は総裁選も「受験」のように「親子の二人三脚」で乗り切ることが流行っているらしい。「親」と「子」のどちらが「受験」するのかがときどき分からなくなってくるところまでそっくりである。
第三次・小泉純一郎改造内閣が発足(2005/10/31)したが、「ポ…(後略)」の話題にはもう飽き飽きしている読者も多いだろうから、ここでは「新時代に適応しようとする生え抜き組」や「出戻り・中途採用組」よりも安倍晋三官房長官のような「93年以降初当選組(After93)」(→参考:2005/10/18号etc.)の方がやはり注目を集めているとだけコメントしておく。ちなみに「ポ…(後略)」の潜在的な有力候補とはまだ誰も言ってくれない民主党の前原誠司代表も同じ93年初当選である。
ちなみにどうでもいい話だが、筆者が今年になってから受け取ったメールの中で最も面白かったのは「『電車男』ってこういうことだったんですね」というものである(→参考:2006/10/18号)。なぜそんなメールが急に来たのかと思っていたら、「電車男」も「女王の教室」も「ドラゴン桜」も年末年始に再放送があったという。そして同じ年末年始には石油温風機などについての「大切なお知らせとお願い」を「ナ」から始まる大手家電メーカーが「対象製品には屋外に給排気筒が設置されています」などと必死に繰り返していたことを思い出す読者も少なくはないだろう。「実業」の世界では、商品を販売した責任というものが非常に重いものであるということは誰もが知っている常識である。さて、そろそろ「現実」の世界に戻ることにする。
<「不祥事」では本質だけが抜け落ちている>
耐震強度偽装事件(→2005/12/14、2006/1/17に証人喚問、など)、「ラ」から始まるところのバブル崩壊・「錬金術」事件(→2006/1/16に東京地検特捜部などが本社などを強制捜査、1/23に証券取引法違反容疑で前社長(1/24辞任)と幹部を逮捕、など)、再度の米国産牛肉の輸入停止(2006/1/20)の問題、さらにアスベスト問題や個別の政治家の不祥事なども含めれば昨年からほぼ切れ目なく「不祥事」が続発していることになる。そして面白いことに一連の不祥事はみんなそっくりである。程度の差はあっても、一連の不祥事に共通する最大の原因は、なぜか最も重要な本質的な部分だけがすっぽりと抜け落ちていたことであると筆者は考えている。本物の専門家だったら、あるいは、本物のプロ意識を持った人間だったならば「あり得ない事件」ばかりである。やはり商品は品質が「命」である。確かに価格も重要ではあるが、少なくとも価格よりも品質の方が重要である。品質が最悪ならば価格は問題外だからである。商品を販売すれば非常に重い責任が発生するのである。
実は教育も例外ではないはずである。学校も自分たちが販売した「商品」には大きな責任があるはずである。もしも「欠陥商品」を販売したことが判明したのならば、学校も「○○○大学から大切なお知らせとお願いです。○○○大学では2005年頃にいわゆる『政治学』の単位を取得した方を探しています。事故に至る危険性がありますから、ただちに使用を中止して○○○大学までご連絡ください。最悪の場合には履修された方の能力や卒業証書の効力が疑われる恐れもあります。四者択一の試験問題、極端に枚数が短く制限されたレポートなどが対象となる単位の目印です」などという「お知らせとお願い」を何度も何度も繰り返し、責任を持って最後の一人まで徹底的に探し出さなくてはならなくなるはずである。
そして困ったことに教育の場合には、悪影響が目に見える形で表れてくるまでには長い年月がかかるために被害がどんどん拡大して非常に深刻な事態に陥ってしまうのである。そういう意味では教育の優先順位は今現在大きな問題になっている「不祥事」よりもはるかに高いと考えることもできるのである。
ちなみに意外なことかもしれないが、本質がどこにあるのかなどということを判断するだけならば、専門知識は必ずしも必要なく、学校教育の中で体系的に教えられている「科学的な考え方」を少し意識的に使うだけで十分に判断できることも実はかなり多いのである。教育で「科学的な考え方」を身に付ければ身に付けるほど「不祥事」も少なくなっていくなどとは決して言わないが、教育が悪くなって「科学的な考え方」も十分に身に付けることができなかった人間の数が増えれば「不祥事」はますます増えていくかもしれないのである。ちなみにどこかで「似たようなセリフ」を聞いたことがあるような気がするかもしれないが、それは単なる気のせいだろう。いずれにしても筆者は今現在目の前にある「不祥事」をそのままにしておいても何も問題はないなどと言っているのではない。今現在目の前にある「不祥事」に優先的に取り組んでいくことが問題解決のための唯一の絶対的な方法ではないということである。そしてもしかすると抜本的な問題解決のためには正反対のアプローチが必要になるかもしれないのである。
<「しがらみ」と「ただの紙切れ」>
話が「日本の政治」からどんどん脱線しているのは錯覚ではない。だが、あえて気にせずにもう少し脱線を続けていくことにする。さて、一連の不祥事によって「人脈」や「コネ」と称するものは一瞬にして切りたくてもなかなか断ち切れない「しがらみ」に変わり、「株」などはあっと言う間に「ただの紙切れ」のようなものになってしまうということが改めて示されたことになる。一人ひとりの人間は、他人と「違う部分」を無理に強調しなくても自然な形で個性を持っているし、また同じ人間なのだから他人と「同じ部分」を無理に強調しなくても「同じ部分」がいくらでもあるはずである。それにもかかわらず「違う部分」や「同じ部分」を必要以上に強調したがる人間には見えない部分に「重要な何か」があると考えておいた方がいいだろう。例えば、「民主党は自民党と違っていなければならない」「自民党と逆のことをやるべき」などと無理に自民党との違いを強調しようとする人間たちは「民主党の見えない部分」に「重要な何か」があるということも同時に強調していることになるのである。
「他と比べてこんなにすごい」などと必要以上に「違う部分」を強調したがる「カルト」(→ここでのカルトとは「事実との真正の結合とは全く無関係な強い思い込み」またはそういう強い思い込みをする人たちのこと)は、相手の中に自分と「同じ部分」をほんの少しでも見つけるとその他のすべての「違う部分」を強引に「同じ部分」に交換してしまおうとするから要注意である。逆に「ここで一緒になったのも何かの縁」などと必要以上に「同じ部分」を強調して「人脈」や「コネ」だけで世渡りをしようとする「しがらみオバケ」は、相手の中に自分と「同じ部分」を見つけるとその他の「違う部分」は一切見なくなるから要注意である。
「溺れる者は藁(わら)をも掴(つか)む」と言うが、たとえ溺れなくても「カルト」と「しがらみオバケ」は様々な形で他人の足をよく引っ張るのである。そして一度溺れ始めると、あることもないことも、よく知っている名前も、何となく聞いたことがあるだけの名前も、とにかくみんな一緒に出してしまう。世の中で最もうるさいのは「カルト」と「しがらみオバケ」であるということを日常生活で実感している読者も少なくはないはずである。どちらも一度とりつかれてしまうとしつこく自分たちと同じだと思い込むところを無理に探し出し、親しげに近づいてきてうるさくてうるさくて仕方がない。
ちなみに筆者の「カルト」や「しがらみオバケ」対策は、因果関係を判断する「科学的な考え方」に基づいた根本的な対策になっている。「カルト」や「しがらみオバケ」対策も鳥インフルエンザなどの拡大防止策と基本的には同じである。まず「カルト」や「しがらみオバケ」と少しでもかかわりがありそうなものをすべてリストアップし、ほんの少しでも「汚染」されている可能性があるものは躊躇なくバッサリと切り捨てていく。どんなに切り捨てることが忍びない部分がたくさん残っていたとしてもほんの少しでも「汚染」されている可能性のあるものは切り捨てるしかないのである。
このような対策は、少し前によく言われた「完全で検証可能かつ不可逆的な廃棄(the
complete, verifiable and irreversible dismantlement, CVID)」を実現するようなものだとか、かつて危うく「毒まんじゅう」を食わされるところだった政党の総裁が「そんな合意は痕跡も残さないようにしろ」と指示したようなものだとか、あるいは今の季節の表現を使って「アルティメット・クラッシュ(ULTIMATE
CRUSH)」のようなものであると言った方が分かりやすいのかもしれない。いずれにしても「カルト」や「しがらみオバケ」は人間を「非情」にも「冷血」にもするのである。
もちろんどこかの国の総理大臣の「しがらみオバケ」対策も「非情」かつ「冷血」で徹底している。ただし、なぜか「心の問題」だけは例外のようである。確かに「心の問題」は非常に難しい問題だが、だからと言って真の意味で問題解決につながる努力をしないというわけにはいかないだろう。
<「学校選び」は非常に重要>
あえて「日本の政治」から脱線を続け、再び教育の話に戻るが、「学校選び」は非常に重要である。ただでさえ「学校選び」は重要だが、「カルト」や「しがらみオバケ」の存在などを考えればますます重要になってくる。なぜなら「株」の場合には最悪でも「ただの紙切れ」になるだけで済むが、「卒業証書」の場合には「コネ」と「株」の最悪の部分をそのまま足したような「切りたくてもなかなか断ち切れない『しがらみ』付きの価値のない紙切れ」になってしまうこともあるからである。
最近は公立の小・中学校でも学校選択制が導入されている自治体もあるから「受験生」ではなくても「学校選び」に悩んでいる人たちも多いのかもしれない。筆者に言わせれば、基本的には自分がやる気になる学校を選べばいいということになる。「名門校のブランド」でやる気になるのならばそういうところを選べばいいし、学びたい教員や学びたいものがあるのならばそういうところを選べばいい。あるいは、やりたい部活(クラブ活動)や楽しみたいスポーツのために一番良い環境を重視するというのならばそういうところを選べばいい。そして学校という「環境」によって本人が変わるだけではなく、意欲を持った学生の努力によって学校という「環境」もまた変わっていくのである。本人の意欲が引き出されるような学校は本人にとって良い学校になるだけではなく、「後輩」にとっても良い学校になるのかもしれないのである。
ただし、一つだけ付け加えることがあるとするならば、たとえ自分がどんなに努力したとしても、何年かすると恥ずかしい学校にされてしまう危険性が高いところだけは避けるべきだということである。入学するときにはなかなか先のことは分からないものだが、受験生や入学者集めのために必要以上に他の学校と「違う部分」を強調しているような学校には要注意だし、「名門校のブランド」の価値を利用するためだけに多くの人間が集まってくるような学校も危険性が高いのである。言うまでもなく「集団強姦」「強制わいせつ」「東京都迷惑防止条例違反」などという破廉恥行為は論外である。ちなみに念のために言っておくが、永田町周辺にいる有名大学のOB・OGたちを見て急にこんなことを言っているのではない。また仮にそうだとしても物事には普通はマイナスだけではなくプラスの側面もあるから恥ずかしい人たち以外の素晴らしいOB・OGたちも探せばきっといるはずである。
当たり前と言えば当たり前の話だが、先輩たちが長年積み重ねてきた実績が「名門校のブランド」をつくったのである。「名門校のブランド」の価値を食べるだけ食べておいて意味のある新しい価値を何も作り出せない人間ばかりが集まってきたらその「ブランド」の価値は簡単に地に落ちてしまうのである。多くの伝統校の校訓になっている「温故知新(おんこちしん)」という「日本語」の意味も正しく理解しなければならないのである。
<究極目標は何か>
そろそろ脱線をやめて再び「日本の政治」に戻ってみることにする。小泉首相の「最後」の施政方針演説など政府4演説(2006/1/20)が行われ、各党の代表質問(1/23-25)なども行われた。2005年度補正予算案(1/31衆院通過)の審議も行われている。野党や既存のマスコミは、耐震強度偽装、「ラ…(後略)」、米国産牛肉の「3点セット」などと言い出している。これならこのまましばらく「脱線」を続けていても大丈夫そうである。
今現在の永田町周辺は差し迫った深刻な問題の「対症療法」に夢中になっている。後から振り返ればあまり意味がない「不祥事」の追及と「対症療法」などの詰まらない話だけで1-2カ月は経過してしまうのだろう。「現在」と「ミクロ」に偏った深刻な問題では、残された「選択肢」が非常に少なくなっており、既にやるべきことはほとんど誰にでも見えている。筆者は深刻な問題の本質だけを横目でチェックしていればそれで十分だと考えている。注意しなければならないことは「正義の味方ごっこ」をしてただでさえ少ない残された時間を私利私欲のために浪費しようとする「偽者の政治家」(→参考:2005/6/27号etc.)を完全に排除することぐらいである。
またほんの少しだけ脱線する。以前(→参考:2005/2/9号)の繰り返しになるが、日本国憲法第43条1項の「全国民を代表する選挙された議員」には、中世の身分制議会のような命令委任による議員の拘束を禁止して選挙民意思からの独立を重視する「純粋代表」の性質、一人ひとりの人間の基本的人権を含む様々な権利の保障を実質的に確保するために選挙民の意思を反映すべきだとする「半代表」の性質が共に含まれていると考えられている。そして一般に「説明責任」などと訳されている「アカウンタビリティ(accountability)」のような現実政治における政治家の政治責任の本質を正確に理解するためには、どんなに少なくともこの「純粋代表」と「半代表」という2つの代表観を正しく踏まえて分析する必要があるのである。
もしも国民の「代表」である国会議員が国民に約束したことと、その国会議員の実際の政治行動との間に埋めることができない大きな格差が存在するのならば、国民の意思を正しく反映することは不可能になるから(→「半代表」の側面の否定)、国会議員は国民の「代表」であり続けるために国民に説明して格差をなくそうと努めなければならない。そして国会議員が国民を納得させることができないのであれば、国民の「代表」としての正統性を失うことになるが、残りの任期中は辞任せずに実際の政治行動によって格差を埋めようと試みることも不可能ではないということになる(→「純粋代表」的な側面)。「純粋代表」と「半代表」という2つの代表観を踏まえた「アカウンタビリティ」の本質は「代表としての言行一致」などということになると考えられる。そして「代表」とは「任期と公約で制限することによって『純粋代表』と『半代表』の長所を組み合わせようとする全国民の代表」であると定義することにする。
一般に政治家たちは、政治的動機などの不純な目的のために大ニュースに必要以上に強くこだわる傾向がある。そして例えば国会議員の場合には「全国民の代表」としてふさわしいかどうかをやがて国民が選挙で判断することになる。ある国会議員の究極目標は、例えば、一人ひとりの国民の基本的人権を含む様々な権利を守るなどということなのか、それとも自分自身がずっと政治家であり続けることを含めた私利私欲なのかということを国民はしっかりと見極める必要があるのである。
ところが、既存のマスコミもそんな政治家たちと一緒になって無意味なことで大騒ぎをしていれば、国民が適切な判断を行うために必要不可欠な材料を提供することができなくなってしまうのである。既存のマスコミの究極目標はいったい何なのか。例えば、一人ひとりの国民が基本的人権を含む様々な権利を守るために必要不可欠な情報を提供するなどということなのか、それとも「国民の御用聞き」をしながら「マスコミ」であり続けることなのかということもそう遠くない将来に国民から見極められることになるのだろう。
<事実上の「報道規制」と事実上の「検閲」>
まだ「日本の政治」から脱線していても大丈夫そうである。既存のマスコミは、現時点で優先順位が最も高いと判断する一連の「不祥事」のような大ニュースの「報道」に力を入れている。そして新しく大ニュースが発生すると今度はそれをその時点で最も優先順位が高いニュースと判断して新しい方に力を入れるようになっていく。もちろんすべてのマスコミが大ニュースという「ミクロ」の視点だけにとらわれているとは思わない。だが、ほぼすべての既存のマスコミが「横並び」で大ニュースを大々的に「報道」する意味を少なくとも「過去」から「未来」へと続く時間軸の中で捉え直してみる必要があるはずである。
例えば、10月はA問題、11月はB問題、12月はC問題、1月はD問題、E問題、F問題などと…。もしも既存のマスコミが「横並び」で大ニュースを大々的に「報道」し続けるのならば、強制する権力者など一人もいないにもかかわらず、「報道規制」を自発的に受け入れているのと全く同じ状態になる。そしてもしも大ニュースが次々と発生しているときに真相究明などが不完全な状態で次のニュースに移っていくような傾向があるのならば、やはり強制する権力者など一人もいないにもかかわらず、「検閲」を自発的に受け入れているのと全く同じ状態になる。大ニュースを「つまみ食い」だけして次々と「尻切れトンボ」に終わる「報道」はいったいどんな意味を持つのだろうか。途中経過はかなり違ったとしても結果的に「報道規制」や「検閲」とほとんど同じ形になるということはどういうことなのか。こんな簡単な「頭の体操」もできない人間たちが既存のマスコミには多いようである。
さらに言えば、大ニュースかどうかを決めているのは、既存のマスコミと読者・視聴者ということになるのかもしれないが、それでは大ニュースはなぜ発生するのかということにもよく注意をする必要がある。自然災害以外の大ニュースも本当にその時点で偶然発生したものなのだろうか。永田町周辺にも「インテリジェント・デザイン(intelligent
design)」のようなものが存在するはずだなどと十分な根拠もないのに強く思い込んで「陰謀説」などを唱えるのは実に愚かなことだが、「頭の体操」を続けていくといろいろな危険性が見えてくるのである。
ジャーナリズムが「つまみ食い」や「尻切れトンボ」による事実上の「報道規制」を避けるためには「優先順位を判断する基準を変えること」が一つの有効な方法になるだろう。また事実上の「検閲」を避けるためには「大ニュースの本質とはいったい何かということをもっと明確に強く意識すること」が一つの有効な方法になるだろう。例えば、将来のある時点で解決が非常に困難な問題が突然浮上してくる危険性を低下させるということも長期的な視点で見れば非常に重要である。そういう「マクロ」と「未来」の視点を重視して取り組む必要がある問題の優先順位はかなり高いはずである。もちろん目の前にある深刻な問題を解決しないというわけにはいかないから、何らかの形で「余力」を生み出し、「マクロ」と「未来」の視点を重視して取り組む必要がある問題にも着手しなければならない。そこで目の前にある大ニュースの「本質」だけに集中するのである。
「横並び」の報道にはほとんど意味がない。「『○○事件とは…』などと要約したときに明らかに不要なものは最初からなるべく取材しない」「どちらかよく分からないものはとりあえず取材したとしても報道はしない」などという方針を採用しても全く問題はないのかもしれない。後から要約したときに明らかに不要なものでも「取材」「報道」したければ勝手に「取材」「報道」すればいいが、ほとんどすべての既存のマスコミが「横並び」でやるような必要性は全くないだろう。
既存のマスコミの究極目標は、例えば、一人ひとりの国民が基本的人権を含む様々な権利を守るために必要不可欠な情報を提供するなどということなのか、それとも「国民の御用聞き」をしながら「マスコミ」であり続けることなのかということが問われるのである。
<「偽装」を見破る方法>
ついに「3点セット」が防衛施設庁発注工事の談合事件(1/30)を含めた「4点セット」になるなどと言い出した。これならまだまだ「日本の政治」から脱線を続けていても全く問題なさそうである。
さて、今現在大きな問題になっている不祥事のような「現在」と「ミクロ」に偏った深刻な問題とは違い、「マクロ」と「未来」の視点を重視して取り組む必要がある問題では、「正解」になる可能性のある「選択肢」がまだまだ数多く残されている。つまり、対策の自由度が大きいので早い段階から真剣に問題解決に取り組もうとする場合には大きなメリットがあるということになる。だが、逆に「正解」になる可能性がほとんどない「選択肢」をあたかも唯一の「正解」であるかのように「偽装」する「カルト」を排除することが難しくなるというデメリットもある。そしてもしも「カルト」の主張を取り入れてしまったならば、非常に長い時間と多くの時間的・金銭的費用を浪費した挙げ句、新たに目の前に差し迫った深刻な問題を次々と生み出してしまうことにもなるのである。
実は「カルト」の「偽装」を見破る方法は意外に簡単である。確かに「専門用語(jargon)」などを使ったもっともらしい説明を聞いていると「本物の専門家」と「偽者の専門家」を区別することは「素人」には非常に難しいような気がしてくるが、実は専門知識の土台部分に必ず存在する基礎知識の部分に注目すれば「偽装」を簡単に見破ることができる場合も多いのである。「偽装」を見破るためには、学校教育の中で体系的に学ぶ「科学的な考え方」を使って、特に目的と手段の関係に注意しながら、本質は何かということを自分もよく知っている基礎知識を駆使して理解しようとするだけでもかなり効果があるのである。
「張りぼて」の表側をずっと遠くから見ているだけでは本物と区別することができなかったとしても、近くからじっくりと見てみたり、あるいは裏側に回って見てみたりすれば簡単に偽物と見抜くことができるのと同じような話である。「専門家の肩書き」や「専門用語(jargon)」を使って「素人」を簡単には近づけないようにしていたり、裏側を見せないようにしたりしている場合には要注意である。
「ソクラテス さて、それでは、弁論術は、法廷やその他のいろいろな集会において、正と不正に関する事柄を取り扱いながら、いったい、どちらの説得をつくり出すのでしょうか。それは、知ることなしに、ただ信じこむということだけが生ずるような説得なのですか、それとも、知ることになる説得のほうですか。 ゴルギアス それはむろん、ソクラテス、信じこむことになる説得のほうだろうね」(p34-35)「ソクラテス 実際、あなたは今しがた、こう言われていたものですものね。健康に関する事柄についても、弁論家のほうが医者よりも、説得力があるだろうと。 ゴルギアス そう、それは、大衆の前ではと、言っていたのだよ。 ソクラテス では、その大衆の前でということは、一般にものごとを知らない人たちの前で、ということではないですか。というのはむろん、ものごとのわかっている人たちの前でなら、弁論家のほうが医者よりも、説得力があるはずはないでしょうからね…(中略)…ソクラテス そうすると、弁論家のほうが医者よりも、説得力があるという場合には、知識のない者のほうが知識のある者よりも、一般にものごとを知らない人たちの前でなら、もっと説得力があるのだ、ということになるでしょう。どうですか、こういう結論になりますか、それとも、これとは何かちがった結論が出るでしょうか。 ゴルギアス いや、この場合には、そういう結論になるね。 ソクラテス いや、この場合だけではなく、その他のどんな技術に対してでも、弁論家と、そして弁論術とは、いまと同じような関係にあるということになるでしょう。つまり、事柄そのものについては、それがどうあるかを、弁論術は少しも知る必要はないのであって、ただ、ものごとを知らない人たちに対してだけ、知っている者よりも、もっと知っているのだと見えるようにする、何かそういう説得の工夫を、見つけ出しておけばいいわけなのです…(後略)」(
p44-46。以上、プラトン著、加来彰俊訳、ゴルギアス、岩波書店(青601-2)、1967年から)
大昔も昔も今現在も、株式市場にも、永田町周辺にも、そして小学校、中学校、高校、大学・大学院を含めた学校にも、「ものごとを知らない人たちに対してだけ、知っている者よりも、もっと知っているのだと見える」ような「工夫」をする人間たちがあふれている。そろそろ日本も「肩書き」や「専門用語(jargon)」で隠された「専門家」の本当の能力が問題にされるような社会に変わらなければならないのである。「能力」だけではなく「肩書き」もよくよく注意して見ていなければ「学位工場(diploma
mill)」の出身者と区別できないような「専門家」にはすべてまとめてお引取りいただかなければこれからもずっと「素人」は欺かれ続けてしまうのである。もちろん永田町周辺も例外ではない。
例えば、「一生懸命前に歩いている、歩いているといっても、地球の回転よりも遅いスピードで歩いていれば、結局は、トータルとしては、総体的には後退しているということなんですよ」(1998/5/14の衆院緊急経済対策特別委から。ちなみにもしも事実ならば「動く歩道」には誰も乗れないことにもなってしまう。参考:2002/6/10号etc.)などというように科学の基礎知識も理解していない理科系の「学士」が「議員バッチ」を付けているだけで「科学技術と政治」などについてもっともらしいことを語ることが許されるところがどういうわけか存在するらしいのである。「科学」も「政治」も基礎的な部分すらも十分に理解できていなかったにもかかわらず、どうして「科学技術と政治」という高等なものを唐突に分かっていることにできたのかということはそのうち「永田町周辺の七不思議」の一つになるのかもしれない。そのような日本のお粗末な現状を改善しようともしなければこれからも「素人」は欺かれ続けることになってしまう。さて、また少しだけ「日本の政治」の様子を見てみることにする。
「衆院選で…、応援した(筆者注:1/23夜に証券取引法違反容疑で逮捕されたライブドア前社長(1/24辞任)の)堀江(貴文容疑者)氏の件についてでございますが、堀江氏につきましては、現在、捜査当局により捜査が行われているところであり、その状況を見守っていきたいと思います。なお、昨日述べた通り、この件と昨年の衆議院総選挙において、自民党幹部などが堀江氏を応援したこととは別の問題であると考えております。新しい時代に様々な人がチャレンジすることは大事なことでありますが、いかなる場合であっても法律を守ることが大前提であり、違法行為があればそれに厳正に対処すべきことは当然であります」(2006/1/24の参院本会議での江田五月民主党参院議員会長の代表質問に対する小泉首相の答弁から)
「(前略)…私はメディアを通じて知っておりました。その堀江氏が選挙に出たいということで本当かなあと思いながらも…、郵政民営化に賛成だということで、その意気や良しということで…。まあ、公認はしないけども、ということもいろいろ(武部勤自民党)幹事長は話されたようであります。そういう中で堀江氏を無所属とは言いながら、自民党の幹部が応援したということに対して、総裁の私に、批判があるんだと、責任があるんだと言われれば、その批判なり責任というものは甘んじて私は受けますが、私どもがお願いしてですね、堀江氏をテレビで放送してくれとか…、選挙活動をテレビで流してくれとか、テレビに出演させてくれとか、言ったわけではございません。私は、堀江氏のところには応援に行きませんでしたけれども、他の候補のときにはどれだけ行ったかと。行ったところはテレビで放送してくれません。頼んだってテレビで報道してくれない。メディアがあれほど騒いで『時代の寵児』みたいに扱って…、そして今は手のひらを返したように、堀江たたきに毎日毎日テレビ見ると、夢中であります。そして今、竹中(平蔵総務相)さんが応援したところばっかり映す。一部だけ。『ワンフレーズ』じゃない。一場面だけ、竹中さんが応援しているところ、武部さんが応援しているところ…。じゃあ、今まで堀江さんを持ち上げていたテレビ、メディアはどうだったのかと…(後略)」(2006/1/26の衆院予算委での民主党の原口一博代議士に対する小泉首相の答弁から)
「それは小泉改革とね、堀江氏の逮捕は、これは別問題だと。また、無所属でですね、あれだけメディアが持ち上げて…、選挙に出て…、報道も、他の候補者に比べればはるかにテレビに出させましたよね。それで結果的には落選しているんですよね。メディアよりも有権者の方が冷静だったと言えば言えますね(→場内笑)。最近のメディア見てると、もう、堀江氏たたき、たたき…。今まで対談していたキャスターはじめね、一挙にもう天と地の差。これも私はどうかなあと…(中略)…確かに私は応援に行かなかったにしても、(自民党)幹部がね、応援したと。それは総裁の、小泉の責任だと、批判されれば、その批判は私は甘んじて受けますが、この問題と…、小泉改革しているから…、こういう問題が起きるんだというのは別問題だと私は思っております」(2006/1/26の衆院予算委での国民新党の糸川正晃代議士に対する小泉首相の答弁から)
まだしばらくの間は「日本の政治」から脱線していた方が良さそうである。ちなみに筆者の場合は、法律を守ることはもちろん、自ら掲げた「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守る」などという「究極目標」を守ることも大前提にするし、さらには「究極目標」を実現するために自然な形で創造・蓄積してきた「筆者なりの方法(style)」も大切にしていくことになる。「筆者なりの方法(style)」とは、例の「過去」から「未来」へと続く時間軸、「ミクロ」から「マクロ」へと向かう座標軸、そして「ベン図」のようなものを使って全体像を見ていく科学的な考え方(→参考:2005/10/18号etc.)のことである。
今回の文章では、日本国の義務教育程度の基礎知識さえ持っていれば、どんな「素人」でも近づいて「張りぼて」の裏側を確認することも十分に可能な方法をあえて用いながら、教育の問題を出発点にして「未来」の問題から「現在」の問題へ、「マクロ」の問題から「ミクロ」の問題へという形でじわりじわりと少しずつ「本丸」である「日本の政治」に攻め上っていくことにする。そして多くの人たちが「偽者の専門家」や「偽者の政治家」に欺かれて「負け組」になることを阻止し、逆に、一人でも多くの人たちがそう遠くない将来に大成功のチャンスを見つけて「勝ち組」になることができるようにすることも目指すことになる。
日本はまだ「格差社会」ではなく、「今日の『勝ち組』(あるいは『負け組』)が明日の『負け組』(あるいは『勝ち組』)になるかもしれない社会」なのだろう。そして「今日の庶民(あるいは大金持ち)が『偽装』や『玉の輿』や『逆・玉の輿』がなくても明日の大金持ち(あるいは庶民以下)になるかもしれない社会」であるということも明らかになるのだろうか。
これから少し長く「日本の政治」から脱線することになるから、今現在の永田町周辺をもう一度ゆっくりと見回しておいた方がいいのかもしれない。一連の不祥事を勇ましく追及している「正義の味方」がたくさんいるように見えるだろうか。それともよく分からない人間たちが大騒ぎしているだけに見えるだろうか。
<< 続く (→第2回(2006/2/6)) >>
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第1回- (2006/2/1)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第2回- (2006/2/8)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第3回- (2006/2/21)
○「心の問題」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第4回- (2006/4/17)
○「安全保障」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第5回- (2006/5/12)
○「文化」特集・正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第6回- (2006/8/22)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -第7回- (2006/10/2)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -特別号- (2006/11/30)
○正しい「要約」と正しい「比較」のススメ -ゆく年くる年特集号- (2006/12/28)
○サッカーW杯特集号・「文化」としてのスポーツ(2006/6/10)
○事実はテレビや新聞よりも奇なり -「小泉新党」から政局が見えてくる- (2005/10/18)
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (2/8) 「ルール」はかなり以前から変わっていた
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (3/8) 「マニフェスト(政権公約)選挙」
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (4/8) 「壁」を破った自民と「壁」が迫ってきた民主
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (5/8) 「あと1年」のために必要なこと
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (6/8) 「小泉新党」から今後の政局が見えてくる
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (7/8) 「こんにちは前原誠司」で良かったのか
事実はテレビや新聞よりも奇なり(2005/10/18) (8/8) 「自動安定化装置」としての「大連立」構想
○この選挙はどのような意味を持つことになるのか(2005/8/26)
○日本は「民主主義立国」になることができるのか(2005/6/27)
○「カルトからの自由」の実現に必要不可欠な挙証責任(2005/2/9)
(参考)前回からの動き(2004/12/25-2005/2/9)
○複数の視点は「連鎖」の理解にも必要不可欠(2004/12/25)
(参考)主な動き(2004/9/21-2004/12/24)
○現実政治の問題解決に必要不可欠な複数の視点(2004/9/21)
○永田町も国際社会も相変わらず「異常なし」(2004/6/22)
○正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23)
○「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (補足(2004/1/12))
○「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5)
(参考) 2003年後半の海外の動き
▽参考:日本の政治。
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