政治の究極目標は「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」であると考えています。そしてその目的を達成するためには「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化することが必要だと考えています。
当ホームページ上のすべての記事は無料ではなく「シェアウェア」です。著作権の侵害とそれに類する一切の不適切な使用、及び不正行為は固くお断りします。また不正行為等の防止のためにやむを得ないと判断する場合には事前の警告なしに報復措置を含めたすべての必要な手段を講じます。
購読料について(2006年版) (2006/11/19更新)
○日本は「民主主義立国」になることができるのか(2005/6/27)
(参考)前回からの動き(2005/2/9-2005/5/11)
○「カルトからの自由」の実現に必要不可欠な挙証責任(2005/2/9)
(参考)前回からの動き(2004/12/25-2005/2/9)
○複数の視点は「連鎖」の理解にも必要不可欠(2004/12/25)
(参考)主な動き(2004/9/21-2004/12/24)
○現実政治の問題解決に必要不可欠な複数の視点(2004/9/21)
○永田町も国際社会も相変わらず「異常なし」(2004/6/22)
○正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23)
○「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (補足(2004/1/12))
○「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5)
(参考) 2003年後半の海外の動き
▽参考:日本の政治。
前回(2005/5/17)から約1カ月が経過した。中国の呉儀副首相が小泉純一郎首相との会談を直前にキャンセルして帰国(5/23)したが、今年は首脳級会談でドタキャンが流行するというわけでもないようである。韓国・ソウルでは予定通り小泉首相と盧武鉉大統領が「ネクタイあり」でぎこちない握手をする日韓首脳会談が行われ(6/20)、異例の質問なしの「共同記者発表」が行われた。おそらく英国での主要国(G8)首脳会議(グレンイーグルズ・サミット、7/6-7/8予定)も無事に行われるのだろう。そしてイラクでは相変わらず自爆テロや襲撃が相次いでいる。陸上自衛隊が派遣されているサマワでも移動中の陸自の車列を狙ったと見られる爆発が発生した(→6/23。遠隔操作?で道路脇に仕掛けられた爆弾が爆発。1台のフロントガラスにひびが入り、ドアもへこむなどしたという。けが人などはなし)。
さて、サッカー日本代表がタイ・バンコクでの「無観客試合」で北朝鮮を破って2006年W杯ドイツ大会出場を決めた(6/8)が、多くの国民が興味・関心をほとんど持っていない永田町周辺の「無観客試合」では現在の「泥仕合」と将来の「茶番劇」の準備という非生産的な活動が相変わらず続けられている。小泉首相が夢中になっている郵政民営化関連法案がようやく審議入りした(→5/26の衆院本会議で趣旨説明と質疑。小泉首相が出席。自民、公明、共産が質疑。審議拒否中の民主などは欠席。なお5/20の本会議で郵政民営化特別委を設置)。岡田克也代表の就任から1年(5/18)が経過した民主党などは、いつものようによく分からない理由で審議拒否を始め、いつものようによく分からない理由で国会正常化に応じた(5/31)。そして衆院郵政民営化特別委などでの審議が続けられ、さらに野党がいつものようによく分からない理由でよく分からない抵抗を少しした後に通常国会の会期も延長された(→6/17。6/19までの会期が8/13までに55日間延長)。
そろそろ郵政民営化問題は「泥仕合」から「茶番劇」に変わっていくのだろう。そして「茶番劇」の「結末」と「主人公」を決めるのは小泉首相自身である。このまま「今なぜあえて郵政民営化なのか」ということすらもよく分からないままダラダラと「泥仕合」を続けていっても「茶番劇」に似た「結末」になっていくのだろうが、もしも自己中心的な野党党首の化けの皮がはがれた年金未納・未加入問題(→参考:2004/6/22号etc.)、あるいはラジオ局株騒動(→参考:2005/5/11号etc.)のように「起承転結」の「転」がハッキリと分かる形で「茶番劇」に変わっていくのならば永田町周辺の「無観客試合」ももう少し国民から注目されるようになっていくのかもしれない。言うまでもなく物事の評価はそれぞれの視点で違ってくる。ある現象が多くの人たちにとって間違いなく「茶番劇」だったとしても、「茶番劇」の「主人公」にとっては突然の理不尽な「悲劇」なのかもしれないのである。そして「主人公」にとっては悲劇でも、大多数の人たちにとってはハッピーエンドになることもあるだろうし、どちらにとっても悲劇的な結末に終わることもあるだろう。筆者としては「主人公」にデメリットがあってもなくても、間違いなく大多数の人たちには大きなメリットがある「起承転結」の「転」だけを扱うことにする。
今回の長文は、前回までに用意した「道具」を使って郵政民営化問題をはじめとする永田町周辺の「無観客試合」の「起承転結」の「転」を誰の目にもハッキリと見える形で示すという意味で「第二幕」(→参考:2005/5/17号)の予告編(Part1)になっている。例えば、現時点では国民からほとんど興味・関心を持たれていない郵政民営化問題は「今なぜあえて郵政民営化なのか」ということに急に大きな説得力が出てくると形勢が劇的に変化して「起承転結」の「転」が見えるようになるのかもしれない。筆者の今回の長文がいったいどれだけの「市場価値」を持つのかということは現時点では予想できない。だが、もしも小泉首相の「琴線」に触れた場合の「破壊力の大きさ」は永田町周辺の人間ならば誰でもすぐに予想することができるだろう。
さて、郵政民営化問題を含めた「第二幕」の予告編(Part1)という「本丸」に進む前に相変わらず深刻な閉塞状況に陥っているいくつかの問題に触れておく必要がある。今回は深刻な閉塞状況に陥っている問題でも大多数の人たちに間違いなく大きなメリットがある「起承転結」の「転」だけを考えることにする。
<「転」→国の将来を考えながら命を落としていった人たちに現状をどう説明するつもりなのか>
靖国問題は相変わらず深刻な閉塞状況に陥っている。小泉首相が「今日の日本の繁栄は、あの60年前、過酷な戦争で日本国民も大きな犠牲を受けた。そして当時、家族を持ちながら戦場には行きたくなかった方も心ならずも国家のために戦場に赴いて命を落とさなければならなかった。そういう方の犠牲の上に今日の日本の平和と繁栄があるのではないか。そういう戦没者に対して心からの追悼の誠をささげるというのがなぜいけないのか私は理解できません。そして日本は二度と戦争をしてはいけないという気持ちでお参りをする。現に60年間、日本は二度と戦争にも巻き込まれず戦争もしていないんです。そういうことに対して靖国参拝してはいけない。この理由が私は分からないんです」「胡錦濤国家主席との間でも、あるいは温家宝首相との会談でも、靖国の問題が出ました。靖国参拝はすべきでないというお話もありました。しかし今のような理由を私は申し上げました。現に東条英機氏のA級戦犯の問題がたびたび国会の場でも論ぜられますが、そもそも『罪を憎んで人を憎まず』というのは中国の孔子の言葉なんです。私は日本の感情として一個人のために靖国を参拝しているのではありません。心ならずも戦場に赴いて命を犠牲にした方々、こういう犠牲を今日の平和な時代にあっても決して忘れてはならないんだ、そういう尊い犠牲の上に日本の今日があるんだ、ということは我々常に考えておくべきではないか。現在の日本というのは現在生きている人だけで成り立っているものではないんだ、過去のそういう積み重ねによって反省の上から今日があるわけでありますので、戦没者全般に対しまして敬意と感謝の誠をささげるのがこれはけしからんというのはいまだに理由が分かりません。いつ行くか適切に判断いたします」(いずれも2005/5/16の衆院予算委で民主党の仙谷由人政調会長へ)などと答弁して波紋を広げた。
おそらく戦没者にどのような追悼をするのかについて「他国が干渉すべきでない」のだろうし、現時点では小泉首相が2005年も靖国神社を参拝するのかどうかもよく分からない。筆者は、国の将来を考えながら命を落としていった人たちは自分たちのことを何よりも優先して考えてほしいなどとは決して思わないだろうと考えている。今回はあえて靖国問題にも例の「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点による相対化手法を適用してみることにする。そして深刻な閉塞状況に陥っている靖国問題で大多数の人たちにとって間違いなく大きなメリットがある「起承転結」の「転」を模索する場合には、国の将来を考えながら命を落としていった人たちの心情をあえて想像してみることが鍵になるのではないかと筆者は考えている。
まず目の前にある靖国問題を「過去」「未来」の視点から見てみることにする。そもそも小泉首相はいったい何のために靖国神社を参拝したのだろうか。あえて「過去」を振り返る必要がある。「わが国の悔恨の歴史を虚心に受け止め、戦争犠牲者の方々すべてに対し、深い反省とともに謹んで哀悼の意を捧げたい」、「あの困難な時代に祖国の未来を信じて戦陣に散っていった方々の御霊の前で今日の日本の平和と繁栄がその尊い犠牲の上に築かれていることに改めて思いをいたし、年ごとに平和への誓いを新たに」する、などということになるのかもしれない(2001/8/13の小泉首相の談話(参拝直前に発表)より)。小泉首相の「目的」を誤解が生じないようにひとことで表現するのは難しいが、少なくとも日本の負の歴史を正当化するためでも、日本に軍国主義を復活させるためでもなかったはずである(→参考:2005/5/11号etc.)。そして現状では靖国神社を参拝することによって「目的」は達成されそうだろうか。さらに言えば、現状は「目的」が達成している「未来」に間違いなくつながっているのだろうか。あえて冷静に考えてみる必要がある。
次に目の前にある靖国問題を「ミクロ」「マクロ」の視点から見てみることにする。現実政治における靖国問題のポイントは、(1)追悼する場合に「心ならずも戦場に赴かなければならなかった戦没者」と「A級戦犯」を客観的に見ても明確な形で分離できるのかどうかということ、そして(2)特にサンフランシスコ平和条約を締結した日本の政治部門トップの内閣総理大臣が参拝する場合には「心ならずも戦場に赴かなければならなかった戦没者」と「A級戦犯」の客観的な形での分離について「政治家としての説明責任(accountability)」(→参考:2005/2/9号etc.)が間違いなく存在するということである。つまり、日本国内閣総理大臣には「心ならずも戦場に赴かなければならなかった戦没者」だけを見たり自分自身の心の問題だけを気にしたりするような「ミクロ」の視点ではなく、靖国神社に祀られているすべての人たちを見たり靖国問題での幅広い人たちの心情を想像したりするような「マクロ」の視点からの行動が求められているのである。靖国問題、特に「心ならずも戦場に赴かなければならなかった戦没者」と「A級戦犯」の分離という問題でも、内閣総理大臣には自分が言ったことと実際に自分がやったことを一致させる責任があるのである。日本国内閣総理大臣に求められる「政治家としての説明責任」は非常に重いものであり、その説明は「現在の世代」だけでなく、「将来の世代」、そして国の将来を考えながら命を落としていった人たちや様々な形で戦争の犠牲者となった「過去の世代」にも十分に理解できるものでなくてはならないはずである。
もちろんどんな視点から見るかによって全く変わってくるわけだが、靖国問題にも「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」の両面がある。従ってもしも中止する場合であっても中止すればそれでいいというのではなく、中止の理由や具体的な中止の方法も大いに問題になってくるのである。「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」の両面から中止の方法などを慎重に検討して「過去」にも「未来」にも「ミクロ」にも「マクロ」にも悪影響が及ぶ可能性を最小にする必要がある。
確かに心の問題、人間の感情の問題は非常にやっかいである。「最愛の人を亡くしてしまった。最愛の人はもうこの世の中にいないということは分かっている。でも、最愛の人がいない世の中をどうしても受け入れられない。頭では分かっているのだが…」などという話は万国共通のよくある話である。「中止」、「分祀」、「新施設」、あるいは「その他の方法」のどれであっても、様々な人たちの様々な感情が絡んでくることだけは間違いない。「こうするかああするしかない」などということが分からなければ話にもならないが、もしもそういうことを頭で十分に分かっていたとしてもそれだけで物事をすべて解決できるほど現実は甘くはないのである。だからこそやっかいで難しい人間の感情の問題をあえて冷静に考えてみる必要があるのである。
小泉首相は、日本国内閣総理大臣に求められる「政治家としての説明責任」は非常に重いものであるということ、そして特に国の将来を考えながら命を落としていった人たちに現状をどう説明するのかということは絶対に忘れてはならないと筆者は考えている。ちなみに小泉首相は「変人」であると同時に大変な「へそ曲がり」でもあるので永田町周辺の人間たちが「正義の味方」気取りで「正論」を振りかざすことはあまりにも愚かだということをあえて付け加えておくことにする。
<深刻な北朝鮮問題の打開にも有効な複数の視点による相対化>
北朝鮮の核問題などを協議する6カ国協議再開の見通しは立たず、前回(2004/6/23-26)から1年が経過した。北朝鮮の金正日総書記が南北共同宣言5周年記念行事のため訪朝していた韓国の鄭東泳統一相との会談(6/17)で米国が北朝鮮を交渉相手として認めて尊重するのならば7月中にも6カ国協議復帰の用意があるなどと発言したなどと伝えられたが、現時点では6カ国協議の再開が決まったわけでも実際に6カ国協議が再開されたわけでもないのだから北朝鮮問題では実質的な変化は何もない。小泉首相による最初の電撃的な北朝鮮訪問・日朝平壌宣言(2002/9/17)からもうすぐ3年になるし、2度目の北朝鮮訪問・金総書記との首脳会談(2004/5/22)からも既に1年が経過している。また韓国の金大中大統領(当時)と金総書記が南北共同宣言(2000/6/15)に合意・署名してから5年が経過したが、金総書記の韓国訪問の約束は実現されていない。そして多国間のパイプと同時に二国間のパイプもほとんど機能しなかったこの1年の間、北朝鮮は国際的な非難を受けながらも核兵器開発をさらに進め、また北朝鮮による日本人拉致問題などについては誠実な対応を示してこなかったが、同じ民族の韓国との関係をますます緊密なものにすることはできたようである。
日本では北朝鮮に対する経済制裁を求める声がさらに強まってきている。もしも7月中に北朝鮮が6カ国協議の無条件再開に応じないのならば、中国や韓国も理解しやすい何らかの「制裁」を日本単独で実施することも真剣に検討しなければならなくなると筆者は考えている。そして北朝鮮が核問題の完全解決のために誠意を持って6カ国協議に出席するまでの間は北朝鮮の貨客船「万景峰(マンギョンボン)92」の日本入港を認めないとか(→参考:2004/12/25号etc.)、あるいは北朝鮮の日朝平壌宣言違反を認定して同宣言の凍結もしくは破棄を行うなどという「制裁」の実施は真剣に検討すべきだが、いわゆる「経済制裁」はカードとしてまだしばらく温存しておくべきだと筆者は考えている。いわゆる「経済制裁」は最も大きな効果が期待できる形、最も効果的なタイミングで不退転の決意を持って実施する必要があるのである。そしてそんな北朝鮮問題での深刻な閉塞状況を打破する方法を考える場合にも、例の「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって相対化する手法が有効である。
初めに北朝鮮問題を「ミクロ」と「マクロ」の視点から見てみることにする。日本からの「ミクロ」の視点で見れば、この1年の間、北朝鮮は6カ国協議の再開にも応じてこなかったし、日本にも拉致問題で不誠実な対応を繰り返し、まるでこれから完全な鎖国でもしようとしているかのようにも見える。だがもう少し視野を広げた「マクロ」の視点から見てみると、北朝鮮は国際社会で孤立を深めているにもかかわらず、同じ民族の韓国とは逆に結びつきを強めているのである。そしてもちろん北朝鮮は中国と相当密接な関係を維持したままでもある。また韓国は様々な理由で日本や米国との結びつきをやや弱めているのかもしれないが、それでもまだ日本や米国とは相当密接な関係を維持している。このような国際社会の中での北朝鮮の孤立、強まる韓国と北朝鮮の結びつき、相変わらずの中国と北朝鮮の強い結びつきという現状から判断するならば、北朝鮮問題の解決のためには、北朝鮮への「直接ルート」よりも韓国や中国を経由して北朝鮮に向かう「間接ルート」の有効性が大きくなっているのである。北朝鮮は伝統的な中国との強い結びつきに加え、新たに強めた同じ民族の韓国との結びつきも決して自分たちの方からは断ち切ることができなくなってきているのである。
次に北朝鮮問題を「過去」と「未来」の視点から見てみることにする。北朝鮮問題には南北共同宣言や日朝平壌宣言のような北朝鮮を「国際社会の責任のある一員」にすることを目指していた「過去」が確かに存在する。また北朝鮮問題の「望ましい未来」とは、北朝鮮が「国際社会の責任のある一員」になっていること、そしてその延長線上にある朝鮮半島の人たちによる朝鮮半島の統一である。ところが現状では北朝鮮は多くの人たちを飢えさせてでも核兵器開発を進め、地球上の一人ひとりの生命などに様々な形で脅威を与え続けている。このような現状を早急に改め、朝鮮半島から「核兵器」と「核兵器開発・保有を目指す政権」と「人権蹂躙」を完全かつ不可逆的な形で取り除かなければ「望ましい未来」を実現することは不可能である。万一、現状に目を閉ざして強引に朝鮮半島の統一に向けた動きを進めたとしても、「国際的に孤立した非常に危険な統一国家」ができるだけの話である。
北朝鮮問題を「メリット(プラス)」と「デメリット(マイナス)」の視点からも見てみることにする。確かに北朝鮮の核兵器開発にしても北朝鮮による日本人拉致を含む様々な人権蹂躙にしても実に深刻な問題である。だが、北朝鮮問題には「デメリット(マイナス)」だけではなく、やはり「メリット(プラス)」も考えることができるのである。例えば、北朝鮮問題を正しく解決することによって朝鮮半島の人たちによる朝鮮半島の統一を実現することも可能になるという「メリット(プラス)」を考えることができるのである。そして朝鮮半島の統一という「目標」は、韓国の人たちや北朝鮮の末端の人たちだけではなく、実は日本の多くの人たちにも共有されているのである。そしておそらく米国も中国もロシアも、もちろん国際社会のその他の国々も、朝鮮半島が平和的に統一されて新たな「国際社会の責任のある一員」になるというのならば、21世紀の国際社会で「バランサー」を目指すような「井の中の蛙」になる危険性(→参考:2005/5/11号)が多少残っていたとしても反対はしないだろう。そういう意味でもしも北朝鮮問題の正しい解決につながる「起承転結」の「転」を新たに生み出すことができるのならば、国際社会の大多数の人たちにとって間違いなく大きなメリットを持つことになると考えられるのである。
<「転」→あえて韓国にも「抗議」して北朝鮮のことはすべて「同じ民族」の韓国と話し合う>
実は深刻な閉塞状況に陥っている北朝鮮問題でも、大多数の人たちにとって間違いなく大きなメリットがある「起承転結」の「転」を考えることができるのである。北朝鮮がこのまま国際社会に対して不誠実な対応を示し続けるのならば、日本を含めた国際社会は北朝鮮だけではなく、あえて韓国にも「抗議」して今後は北朝鮮のことはすべて「同じ民族」の韓国と話し合うようにしてしまうのである。
例えば、北朝鮮が日本人拉致問題でこれからも不誠実な対応を繰り返すのならば日本は北朝鮮だけではなく「同じ民族」の韓国にも強く「抗議」すればいいし、北朝鮮が核兵器開発をさらに進めて国際社会に挑戦し続けるのならば、日本、米国、さらには中国、ロシアなどが北朝鮮だけではなく「同じ民族」の韓国にも強く「抗議」すればいい。そして日本を含めた国際社会の「抗議」を受けた韓国が「同じ民族」の「非」を認め、「同じ民族」の北朝鮮を責任を持って説得すると国際社会に明確に約束するのならば、日本との国交正常化後の「経済協力」や米国などが北朝鮮の核完全放棄後に検討するであろう経済支援のような「前向きな話」はすべて韓国と話し合うことになる。そして北朝鮮とは残った厳しい抗議や様々な圧力を加えるような「後ろ向きの話」しかできないことになる。
もしも「前向きな話」がまとまるまでに北朝鮮が誠意ある対応を示さない場合には、日本や米国などの国際社会は韓国と話し合ってまとめた「前向きな話」を「同じ民族」の韓国との間で正式に決めてしまえばいい。そしてもしも「同じ民族」の韓国との間で「前向きな話」を正式に決めてしまっても相変わらず北朝鮮が誠意ある対応を示さない場合には、「前向きな話」に基づく経済協力などは北朝鮮ではなく「同じ民族」の韓国にすべて行うことにすればいい。
もしも北朝鮮が不誠実な対応を繰り返した場合には「あえて韓国にも『抗議』して北朝鮮のことはすべて『同じ民族』の韓国と話し合う」ということにするのならば、北朝鮮にとってはどんな「制裁」よりも効果が大きいはずだと筆者は考えている。つまり北朝鮮が国際社会を挑発したり不可解な行動を繰り返したりしている間に「自分たちが得られたはずの利益」をどんどん失っていくことになるわけだから、6カ国協議はもちろん、日本などとの二国間交渉も一刻も早く再開しないわけにはいかなくなるのである。
問題は韓国である。まさか「同じ民族」の北朝鮮と共に国際的な孤立を深めていくようなことはないと思うが、日本を含めた国際社会からの強い「抗議」が韓国にとっては南北対話において大きなカードにもテコにもなるであろうということを現政権が正しく認識できるかどうかについてはやや不安が残る。政治経験が豊富な金大中前大統領の時代だったならば、日本があえて韓国にも「抗議」して北朝鮮のことはすべて「同じ民族」の韓国と話し合うなどというような、それこそ一歩間違えば日韓両国の深刻な感情的対立に発展しかねない両刃の剣のような外交政策であっても、もっと安心して提案することができたのかもしれない。だが、続発する労組や学生による過激なデモと軍や警察による弾圧という非民主的状況がすっかり過去のものになった今の韓国は日本などと同じ民主主義的価値観を共有している国家である。日韓関係があまり良好ではない今だからこそ、筆者としては民主主義国家の韓国を信じ、日本はあえて北朝鮮の不誠実さを韓国にも「抗議」して北朝鮮のことはすべて「同じ民族」の韓国と話し合うべきだと主張することにしたい。
北朝鮮との強い結びつきを持っていて国際社会から北朝鮮への「間接ルート」になっている韓国や中国には北朝鮮を「国際社会の責任のある一員」にする非常に重い責任があるのである。韓国が本気で朝鮮半島の統一を望むのならば、朝鮮半島から「核兵器」と「核兵器開発・保有を目指す政権」と「人権蹂躙」を完全かつ不可逆的な形で取り除き、北朝鮮を「国際社会の責任のある一員」にする必要があるということを絶対に忘れるべきではない。また中国が間違っても北朝鮮を「中国の一地方政権」や「緩衝地帯」などと考えていないのならば、一刻も早く北朝鮮を「国際社会の責任のある一員」にするためにさらに一層の努力と協力をしてもらいたいものである。新たな「国際社会の責任のある一員」を生み出すことにつながる朝鮮半島の統一という「目標」は日本や中国や韓国を含めた東アジア、そして米国やロシアを含めた国際社会全体で共有されているのではないか。
<朝鮮半島の統一は日本が過去の歴史を克服する大きなチャンス>
さて、朝鮮半島の統一の実現は日本にとっても特別な意味を持っていると筆者は考えている。新たな「国際社会の責任のある一員」を生み出すことにつながる朝鮮半島の統一は日本にとっては過去の歴史を克服する大きなチャンスでもあると筆者は考えている。
「もしも北朝鮮が『領域内の一人ひとりの市民の人権を蹂躙する非人道的な独裁国家』であり続けるのならば、日本は断じて北朝鮮との国交を正常化させてはならないし、ましてや過去の植民地支配の『賠償』としての性格をも併せ持つ国交正常化後の経済協力などを行うことは絶対に許されない。日本が朝鮮半島の人たちに耐え難い苦しみを与えた過去の植民地支配を真の意味で反省しているのならば、『領域内の一人ひとりの市民の人権を蹂躙する非人道的な独裁国家』の存在を認め、そして独裁国家内の一人ひとりの人権を蹂躙することを間接的に支援することなど絶対にできるわけがない。もしも『領域内の一人ひとりの市民の人権を蹂躙する非人道的な独裁国家』と国交正常化し、過去の植民地支配の『賠償』としての性格をも併せ持つ国交正常化後の経済協力などを行うことになるのならば、日本は過去の植民地支配に加えて21世紀になってからもさらに朝鮮半島の人たちに耐えがたい苦しみを与えたと将来の世代から見なされることになってしまうだろう。日本は断じて新たにそのような取り返しのつかない大きな歴史的な過ちを犯してはならないのである」(2004/12/25号から)
筆者が一貫して「北朝鮮国内の末端の一人ひとりの生命・人権などを守ること」に強くこだわり続けていることや、「日本は『ドイツ』になることによってではなく、『日本らしいやり方』によってのみ『過去』を克服することができる」「もしも日本が将来に渡って中国や韓国などの人たちと協力して『将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること』につながる様々な活動に取り組み続けることができるとするならば、日本はほぼ間違いなく負の過去を清算することができるようになる」(共に2003/5/11号)などと主張してきたことから、朝鮮半島の統一問題は日本が過去の歴史を克服する大きなチャンスでもあると筆者が考えているということに既に気づいている読者が何人かいるかもしれない。筆者は、日本はあえて控えめに一歩後ろに下がりながらも、朝鮮半島の人たちが自主的な判断と努力を通じて新たな「国際社会の責任のある一員」を生み出すことにつながる朝鮮半島の統一を実現するために何らかの貢献をすべきだと考えている。日本が北朝鮮の不誠実さをあえて韓国に抗議するようなことも、朝鮮半島の人たちが厳しい現実を見据えながら確実に統一に向かって一歩前進することに多少なりとも貢献することができるのではないかと考えている。韓国の人たちはなるべく早くから現実味を持って統一するということは具体的にどういうことなのかということを考え始めた方がいいし、朝鮮半島の統一を実現するために乗り越えなければならない厳しい現実の中で日本が解決のために協力できることがあるのならばなるべく早くから準備を始めておいた方がいいと筆者は考えている。
日本が新たな「国際社会の責任のある一員」を生み出すことにつながる朝鮮半島の統一にあえて一歩後ろに下がりながら協力することによって負の歴史を克服することができるかもしれないと筆者は考えている。繰り返しになるが、労組や学生による過激なデモと軍や警察による弾圧という非民主的状況がすっかり過去のものになった今の韓国は日本などと同じ民主主義的価値観を共有している。日韓関係があまり良好ではない今だからこそ、新たな「国際社会の責任のある一員」を生み出すことにつながる朝鮮半島の統一に日本があえて一歩後ろに下がりながら協力することによって新しく信頼関係を積み重ねていくことができるのではないかと考えている。
グローバリゼーションが進展している現在における民主主義的価値観を共有した国家同士の関係では、別の主権国家の政府だけではなく、その国家内の一人ひとりにも理解してもらえるような説得力のある主張をしていくことが重要であると筆者は考えている。民主主義的価値観を共有した国家であっても、国内の一部にしか通用しない主張や国際的にほとんど説得力を持たない主張が完全に消え去ることはないのだろうが、そのような主張が簡単に多数になることはないし、長い目で見ればやがて消え去る方向に向かっていくのである。
そしてまだ民主主義的価値観を共有していない中国などの人たちとも「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守ること」、例えば「犯罪対策」や「地球環境問題」では比較的簡単に協力することができるはずだと筆者は考えている。そして新たな「国際社会の責任のある一員」を生み出すことにつながる朝鮮半島の統一問題でも日本や韓国や中国などの人たちが協力していくことは十分に可能であるし、そのために筆者は「漢字」や「漢字を使用する文化」を「道具」として積極的に活用して韓国や中国などの人たち一人ひとりに対して協力を呼びかけ始めているつもりである(→参考:2005/5/11号)。北朝鮮の人権・人道問題や核兵器開発問題における日本や韓国や中国などの人たちの取り組みが将来の歴史教科書にどのように記述されることになるかということを真剣に考えていきたいと筆者は考えている。
ちなみに日本があえて一歩後ろに下がりながら朝鮮半島の統一に協力していくことによって負の歴史を克服していくというアイディアは20年以上前の歴史教科書問題(→1982年。参考:2004/1/5号)を受けて当時はまだ少年だった筆者が出した「優等生的な解答」が基本になっている。「日本のどこがなぜ悪かったのか」「日本が負の歴史を清算するためにはどうしたらいいのか」などということを考えて出した「一昔前の青臭い理想論」が冷戦構造の崩壊を含めた様々な国際環境の劇的な変化を経て、急に21世紀になって現実味を帯び始めたことにやや戸惑いはあるが、日本の負の歴史問題と深刻な北朝鮮問題を同時に解決することができる「起承転結」の「転」になることを心から願っている。そして日本や中国や韓国などの人たちが感情的な対立を解消しながら互いに協力していくために「漢字」や「漢字を使用する文化」を「道具」として積極的に活用していくアイディアを筆者が少しずつ形にし始めたのは「反日行動」や「反日デモ」が出てくる直前の約1年前にすぎない。つまり時間切れで見切り発車の状態なのである。筆者としては日本はもちろん、韓国や中国などの一人ひとりの人たちの一層多くの協力を期待している。あまり他人のことをとやかく言うつもりはないが、「本場」よりも少し若い日本の「386世代」の一人は少なくともこの程度の創造的なことを考えているのである。
<「正義の味方モデル」と「弱者の味方モデル」>
永田町周辺の「泥仕合」や「茶番劇」の主な登場人物の中から「偽者の政治家」を間違いなく見分けるためには、前回公表した「偽者の政治家」のビジネス・モデル(→参考:2005/5/17号)に加え、「正義の味方モデル」と「弱者の味方モデル」という2つのモデルにもよく注意をする必要がある。靖国問題、郵政民営化問題、あるいはその他の問題であっても、「正義の味方モデル」と「弱者の味方モデル」という2つのモデルを知っているだけでも多くの政治家たちの唐突な行動の意味を理解し易くなるだろう。「正義の味方モデル」とは、「多くの人たちが既に批判していて『悪者』がなぜ悪いのかということが誰でもなんとなくは分かっているような状態で、あえて大声で繰り返し批判して多くの人たちの共感と支持を集めようとするモデル」ということになるのだろう。そして「弱者の味方モデル」とは、「多くの人たちが既に批判するなどして『弱者』が誰かということが誰の目にもハッキリと分かっているときに、あえて『弱者』の主張を大声で弁護して『弱者』の共感と支持を集めようとするモデル」であり「しばしば『悪者』も『弱者』として扱われることがあるモデル」ということになるだろう。そして「正義の味方モデル」と「弱者の味方モデル」は、共に「詐欺師モデル」と「パラサイト(寄生虫)・ニート(Not
in Education, Employment or Training)モデル」を足して2で割ったような変形型のモデルであり、2つのモデルとも「マスコミへの露出が非常に高い」という共通した特徴を持っている。言い換えれば、能力のないマスコミの人間たちが全く気づかずに見事に騙されたり、あるいはなんとなくどこかおかしいと思いながらも結局は騙されたりすることになるという既存のマスコミが最も不得意とする種類の「偽者の政治家」のビジネス・モデルということになるのだろう。
「正義の味方モデル」と「弱者の味方モデル」の最近の具体例としては、なんと言ってもやはり「郵政民営化断固反対モデル」を挙げることができる。当事者たちがどちらのモデルを使っているつもりになっているのかはよく分からないが、「郵政民営化断固反対モデル」は「正義の味方モデル」か「弱者の味方モデル」、あるいはその両方の典型例になるのだろう。
さて、その郵政民営化問題は、「民営化とはどういうことなのか」「今なぜあえて郵政民営化なのか」などということすらもよく分からないままダラダラと審議が続いて「泥仕合」が「茶番劇」に変わってきている。現時点では、郵政民営化関連法案が今の通常国会で成立してもしなくても、あるいは修正があってもなくても、「茶番劇」になることだけはほぼ間違いのない情勢にまではなってきている。そして民営化の定義が正しいかどうかをひとまず問題にしないのならば、郵政民営化関連法案が成立する可能性は非常に高くなってきているのである。郵政民営化問題が「茶番劇」に変わってきた主な理由は、(1)郵政民営化断固反対派が本音では意外なほど強く解散を恐れているからであり、そして(2)野党第一党の民主党が取り返しの付かない致命的なミスを犯してしまったからである。「偽者の政治家」のビジネス・モデルを愛用する政治家だけでなく、口先だけで能力が全く伴わない政治家もあまりにも多すぎるのである。ちなみに郵政民営化関連法案が通常国会で成立しないのならば小泉首相はほぼ確実に解散するだろうと筆者も考えている。
<小泉首相の「琴線」は昔から「郵政民営化」と「政局」>
「選挙制度が変わり、55年体制が崩壊し、政党にもいろいろな変移が続いています。野党が与党に、与党が野党にということも経験しました。それは、政党間の垣根が低くなり、政策の違いなどの境界も見えにくくしています。政党が違っても同じ意見の人がいるかと思えば、同じ政党でも意見の違う人がいる。混沌とした時代であり、いい意味で政治家の技量が試される時代ともいえるでしょう。政治家個人が、どう行動するのか。政党の枠にとらわれることなく、自分の政策理念をはっきり打ち出せるか否かが、問われているともいえます。そうしたなかで、私は一貫して郵政三事業の民営化を訴えてきました。どんなに政治状況が変わっても、やり遂げることはやり遂げなければならないからです。私は、祖父も父も政治家の家系で、早くから政治家になることを言われながら育ちました。20代まではそれが嫌で、反抗していたんです。今でも、政治家でありながら選挙になるとウンザリもします。町中に自分の顔のポスターが貼られ、お願いしまーすと頭を下げて回り、公約をマイクを通して訴える。正直に言えば、いいことばかりを臆面もなく話しまくる。一般の感覚から言えば、非常識な感覚とも言えるでしょう。が、政治家というのは、それを敢えてしなければならないのです。とすれば、信念を持った政策がなければ、挫折してしまうでしょう。少なくとも私の信条は、政治家や大臣職にしがみつくことを是としていません。自分の分をわきまえ、時代に合わなくなったと思えば、スパッとやめる覚悟はあります。ただ今は、郵政三事業民営化を端緒とする行財政の改革に、私が微力を尽くせると思って止みません。混沌の時代ではあっても、理想の実現に向かって突き進むしかないのです」(小泉純一郎著、「小泉純一郎の暴論・青論」、集英社、1997年、p34-35)。
選挙運動というものを見るのも嫌いな筆者としては、小泉首相も実は選挙が嫌いだったという部分の方により多く注目している。いずれにしてもかつての記述が既に時効になったとか賞味期限を過ぎたという証拠はどこにも見当たらないのである。そして筆者が知っている小泉純一郎という政治家の「琴線」は昔から「郵政民営化」と「政局」である。だから郵政民営化断固反対派などが「郵政民営化」で「政局」にしようものなら「変人」は目を輝かせて受けて立つだろうと筆者は思っている。
「財政構造改革法の改正と補正予算編成について、(筆者注:橋本龍太郎)内閣の方針が私の信念と相反した以上閣僚にとどまるべきではないのではないかというお尋ねですが、世の中、自分の思うようにいかないのは誰でも同じだと思います(筆者注:議場内爆笑)。政界、政党人においても内閣においても、これは誰にでも言えるのではないでしょうか。自分の主張をどこまで貫くか、どこで妥協するか、それは個人の政治判断だと思います。自分の進退については私は人から指図されることなく自分で決めます」「橋本政権に対する支持率の低下、不支持率の増加に対してどう思うか。これは確かに世論調査においては橋本政権に対する支持率は低下しております。私は、自分の勉強した範囲内においては、イギリスなんかの小選挙区制度を見ますと、大体補欠選挙というのは与党の支持率が高くても普通は野党が勝つんです。ところが、これだけ橋本内閣に対する支持率が低いにもかかわらず、どんな補欠選挙でも自民党連戦連勝、これは一体どうなのか。世論調査が正しいのか選挙民が正しいのか、専門家の意見を聞いてみたいと思っております。(筆者注:身振り手振りなどを交えた活き活きとした答弁から急に原稿を読み上げながらの答弁に変わって)老人医療費拠出金の負担の見直しについてですが…(後略)」(いずれも1998/4/30の参院本会議での公明の渡辺孝男氏への小泉厚相(当時)の答弁)。
当時はまだ国会に取材に行っていた筆者はこの小泉厚相(当時)の答弁を生で聞いている。小泉厚相(当時)は、本会議での答弁をほとんどすべて大急ぎの原稿の「棒読み」で済まし、自分の答弁以外のほとんどすべての時間は居眠りとの区別が非常に難しい「瞑想」に費やしていたものである。ところが本会議場で与野党がもめて不規則発言が激しくなったり、「郵政民営化」や「政局(あるいは権力闘争的なもの)」のようなお気に入りの質問が出たりすると急に「別人」になって目を輝かせたり身を乗り出したりしていたものだった。小泉純一郎という政治家は当時も今も「郵政民営化」と「政局(あるいは権力闘争的なもの)」が「琴線」だということは全く変わっていないのである。最近も衆院本会議(6/17)で飲酒騒動があったが、おそらく小泉首相は「第三者」として騒動を実に楽しそうに眺めていたことだろう。相手が小泉首相である場合には「郵政民営化」で「政局」にしようなんていうことはあまりにも愚かである。郵政民営化断固反対を唱えて選挙で勝てる自信があるのならばそれでもいいが、「郵政民営化」なんかで解散したら歴史に残る超低投票率の選挙になることだけはほぼ間違いない。
ちなみに一大臣のときと内閣総理大臣になってからとの間で「自分の主張をどこまで貫くか、どこで妥協するか」を判断する基準が変わったのどうかについては筆者にもよく分からない。
<民主党は「政局」的には郵政民営化に賛成すべきだった>
野党第一党の民主党は郵政民営化問題でも「政局」的に致命的な大失敗を繰り返してしまったのである。労組などのしがらみのために民主党の議員たちも郵政民営化問題での主張は完全にバラバラで意味のある対案をまとめることは不可能だったのかもしれないが、それでも民主党は「政局」的には郵政民営化に賛成の方針を明確に打ち出し、政府・与党に徹底的な郵政民営化の実現を要求すべきだったのである。もしも政府案よりも徹底した郵政民営化を要求して民主党が与党側と修正協議を続けることに成功していたならば、自民党執行部と郵政民営化断固反対派との妥協は完全に不可能になっただろう。徹底した郵政民営化の方向に自民党執行部を強く引っ張り、逆に郵政民営化断固反対派を思いっきり遠くに突き飛ばし、それにもかかわらず採決直前の最後の最後になって「政府案は郵政民営化の名に値しない」などと突然猛反発して反対に回り、法案を廃案にするためならば自民党内の郵政民営化断固反対派とも協力するなどとやっていればほぼ確実に「政局」にはなっていたことだろう。ちなみに民主党内の断固反対派に最終的には反対する方針だとこっそり伝えておけば「政局」的に郵政民営化に賛成することは不可能ではなかったはずである。自民党執行部側も様々な理由で実は民主党が郵政民営化に賛成してくることを最も恐れていたのかもしれない。国会対策であれ何であれ、政治家として無能な人間たちは何年政治家をやっても何一つまともな知識や能力などを蓄積することはできないということが今回の致命的な大失敗で明らかになったのだろう。
もっとも「政局」になっていたとしても民主党が政権を獲得できるかどうかということとは全く別の話であるが、郵政民営化関連法案に反対の方針を打ち出した時点で民主党は「茶番劇」の主人公に内定していたのである。このままでは民主党の岡田克也代表は「場合によっては国民でさえも欺いてやろうなどという不真面目なところが少しもない菅直人」になってしまうなどと陰口をたたかれるようになっていくのかもしれない。だが、実は政権交代の可能性はまだそれなりに残されているのである。もしも岡田代表らが民主党内の「偽者の政治家」の「酔っ払い運転」のような国会対策などに引っ張られずに「政権準備政党」などというものにそれなりの説得力を持たせる作業に全力投球することができるのならば、政権交代が不可能とまでは言い切れない状態にまでは回復させることができるのかもしれない。
<「国(家)」とは何か、「国益」とは何か>
民主党の岡田代表の「総理は極東軍事裁判、いわゆる東京裁判、これについてどういった見解をお持ちでしょうか」に、小泉首相は「これは第二次世界大戦後、極東軍事裁判が行われましたけれども、我が国は我が国を含む46カ国が締約国となっておりますサンフランシスコ平和条約第11条により、極東国際軍事裁判所、この裁判を受諾しておりますし、この裁判について今我々がとやかく言うべきものではないと思っております」、岡田代表の「いま総理はサンフランシスコ講和条約第11条によって極東軍事裁判所の裁判を受諾していると。それは事実であります。その上で今おっしゃったことが、とやかく言う話ではないというふうに聞こえましたがどういうことですか。従来の政府答弁は異議を唱えるものではない、こういう答弁ですね。同じですか」に、小泉首相は「受諾しているということは異議を唱えるものではない、とやかく言うものではない」、岡田代表の「総理、いろいろな国会での答弁、後でまた申し上げますがすごく誤解を招きやすいんですよ。総理ですからきちんと答弁していただきたいと思いますが、受諾している、したがって同裁判には異議を唱える立場にはない、こういうことでよろしいですね」に、小泉首相は「たびたび答弁しておりますように受諾しているものであり、異議を唱える立場にはございません」、岡田代表の「(前略)…(極東軍事裁判において有罪判決を受けた)25名、死刑7名、終身禁錮16名、禁錮20年1名、禁錮7年1名。そしてあと3名の方が、2人は途中でお亡くなりになり、1人、大川周明氏は途中で精神に変調を来して裁判から外れました。この有罪判決を受けた25名の人たち、重大な戦争犯罪を犯した人たちであるという認識はありますか」に、小泉首相は「それは東京裁判でそのような判決を受けたわけでありますし、日本は受諾したわけであります。そういう点においては東京裁判において戦争犯罪人と指定されたわけであり、その点は日本としては受諾しているわけであります」、岡田代表の「A級戦犯については、重大な戦争犯罪を犯した人たちであるという認識はあるということですね」に、小泉首相は「裁判を受諾している。二度と我々は戦争を犯してはならない、戦争犯罪人であるという認識をしているわけであります」と、岡田代表の「私は、もちろん、その25名の一人一人を見たときに、いろいろな議論はあるんだろうと思います。しかも東京裁判そのものについてもいろいろな議論はある。勝者が敗者を裁いた裁判であったとか、事実関係において間違いがあるとか、あるいは新しい罪を設定して裁いたとか、いろいろな議論はありますが、しかし、我が国としてこれを受諾している、これが議論のスタートだと思うんですね。そしてその東京裁判において現に有罪判決を受けたA級戦犯に対して、これは重大な戦争犯罪を犯した人たちである、そういう認識にまず立っていろいろな議論をしていかないと議論が迷走すると思うんですが、もう一度、そのことはよろしいですね」に、小泉首相は「それは東京裁判を受諾しているということで十分ではないかと思います」、岡田代表の「裁判を受諾しているということはその25名について重大な戦争犯罪人であるという判決が出ているわけですから、そのことは受諾しているということですね」に、小泉首相は「その裁判を受諾しているわけであります。認めているわけであります」とそれぞれ答弁していた(いずれも2005/6/2の衆院予算委)。
もしも質問者が「内閣総理大臣のイス」にどうしても座ってみたくて仕方がない野党党首だったならば「正義の味方モデル」を採用して小泉首相をもっと厳しく追及していたのかもしれない。「国益」と呼ばれる国民の共通利益を守ることよりも自分自身がいかに「正義の味方」らしく見えるかということばかりを気にするような「偽者の政治家」ならばもっと「大活躍」していたのかもしれない。岡田代表らしい真面目で地道な実に詰まらないやりとりではあるが、もしも「野党」ではない「政権準備政党」というものがこのようなやりとりを繰り返して政権交代を実現していくものだいうのならばそれなりに高く評価しなければならないだろう。国益を守ったりあるいは国益を新たに創造したりしながら国民に政権担当能力をアピールしていくのならば、外国と手を組んででも「国民」のために「国」の失敗や責任を徹底的に追及していくべきだとか、「国」は「国益」ではなく「弱者の利益」を守るべきだなどというおかしなことを声高に唱えて政権交代を狙うような「偽者の政治家」との違いも明確になってくるだろう。「国(家)とは何か」ということを正しく理解することができる政治家ならば、民主主義国家における「国(家)」とは一人ひとりの国民の共有物であり、民主主義国家における「国益」とは一人ひとりの国民の共通利益に他ならないということをどんなときにも忘れることはないだろう。「政権準備政党」なるものが「国(家)とは何か」ということを正しく理解することができる政治家たちの集団になるのならば政権交代の可能性は意外にも低くはないということになるのである。
<「政権準備政党」の歴史>
民主党の岡田政調会長(当時)の「本会議で再質問することは前例もあります。こんなことがもめること自身が、私は全くおかしなことだと思います…(中略)…総理は、沖縄サミットのときの日米首脳会談で普天間の問題を議論したと答弁されたように私には聞こえました。SACOの問題全体を議論したということは承知しておりますが、本当に普天間について個別に議論したのでしょうか。もししたとすれば、相当真剣な議論を総理としてはされたはずですけれども、どういう議論があったのか、御紹介いただきたいと思います…(後略)」などという再質問に、森喜朗首相(当時)は「(前略)…沖縄におきますクリントン大統領との懇談は、時間的には極めて短いものでございます。サミットのときを利用いたしまして各国の首脳会議が二国間会談を行うというのは、ある意味では儀礼的なところもあるわけであります。こうした中で、深く時間をつくってこの普天間の問題等をじっくり話し合う時間というのは、なかなか用意できるわけではございません。しかし、基本的なことだけはきちっと申し上げておりますし、先ほども答弁に申し上げましたように、クリントン大統領も、日本側のそうした申し出につきましては、十分にこのことを踏まえて今後協議していきたい、このように答弁をされておられるわけでありますから、十分話し合いができているというふうに御理解いただけると思います…(後略)」と、さらに岡田政調会長(当時)の「それでは、今の総理の発言について、もう一度私確認したいと思っております。それは、日米首脳会談でクリントン大統領が、総理が普天間の15年の期限つきについて具体的にお述べになり、そしてクリントン大統領はそれに対してよく協議したいというふうに本当におっしゃった、そういうふうに確認をしたいと思いますが、いかがでしょうか」という再々質問に、森首相(当時)は「先ほど申し上げましたとおり、沖縄におきます会談というのは、皆さんも御承知だと思いますが、サミットの首脳会議に来られた際に、二国間同士がそれぞれ体系的に総合的なお話し合いをすることはございます。そういう中で、具体的なことについてお互いに触れ合いませんが、しかし、こちら側の申し入れはきちっといたしておりますし、日本側の申し入れ等につき、また沖縄の皆さんが求めておられることについては、十分に大事にそれを受けとめてこれから両国で真剣に議論していきましょう、こういうお答えがございました」と答弁した(以上、2000/9/25の衆院本会議での森喜朗首相(当時)の所信表明演説に対する民主党の岡田克也政調会長(当時)の代表質問から)。
いつの間にか野党議員の「再質問」(とそれに対する答弁への反発)などがずいぶんと形式的なものに変わってしまったということに既に気づいている読者もいるかもしれない(→参考:2005/2/9号)。言うまでもなく再質問や再々質問は岡田代表の「発明」というわけではないが(→参考:衆議院規則134条の2)、民主党の本会議での再質問戦術のルーツであることは間違いない。ちなみに岡田代表の再質問の約7年前、1993年の細川護煕内閣時には「史上最強の野党」と言われた自民党の議員たちも再質問を行っていたし、55年体制下でも旧社会党議員が再質問を行っていた。いずれにしても岡田代表の民主党が「政権準備政党」を名乗るまでにはちょっとした創意工夫と歴史の積み重ねもあったのである。そして少なくともどういうわけか再び「開かずの踏切」(→参考:2004/1/5号etc.)ができる一昔前には深く考えずに意味のない「空騒ぎ」などを繰り返す議員たちばかりではなかったのである。繰り返しになるが、岡田代表らが「政権準備政党」などというものにそれなりに説得力を持たせることができ、そしてその「政権準備政党」なるものを「国(家)とは何か」ということを正しく理解することができる政治家たちの集団にすることができるのならば新しい道が開けてくるかもしれないのである。民主党が政権交代を実現する可能性を高めることができるかどうかは、よく分からない理由でよく分からないことを繰り返す「酔っ払い運転」のような国会対策や「空騒ぎ」ではなく、「政権準備政党」などというものにそれなりに説得力を持たせることができるかどうかにかかっているのである。いずれにしても党首自身が簡単に「偽者の政治家」に何度も繰り返しだまされてしまうような政党が多くの国民から支持されるようなことはまずあり得ないだろう。
<このままなら社会保障改革も「茶番劇」に終わる>
永田町周辺には、ほとんどの国民が興味・関心を持っていない郵政民営化問題よりも、多くの国民が興味・関心を持っていて早急に抜本改革を進めなくてはならない年金制度などの社会保障制度改革問題を優先すべきであるという主張が根強く存在する。確かに「正論」のようにも聞こえる。そして「年金制度をはじめとする社会保障制度改革に関する両院合同会議」が国会に設置(4/1)されるなどしており、永田町周辺でも社会保障制度の議論が全く行われていないというわけではないのである。だが、社会保障制度改革問題もこのままの延長線上の議論が続くのならばほぼ確実に「茶番劇」に終わることになるのだろう。このままなら社会保障制度改革問題も郵政民営化問題とほとんど同じような「茶番劇」になっていくが、社会保障制度改革問題の方がずっと多くの国民を巻き込むことになるだろうという点で郵政民営化問題よりもひどい「茶番劇」ということになるのかもしれない。
筆者が社会保障制度改革問題も「茶番劇」に終わると考える最大の理由は、永田町周辺で行われているほとんどすべての議論が「グローバリゼーション」という「人類の歴史的文脈」を全くというほど意識せず、しかも「日本国内」、あるいは「日本国内の日本人」、ひどいのになると「日本国内の日本人の特定団体」などという「ミクロ」の視点にあまりにも偏った議論になっているからである。「少子高齢化」が進行するということを除けば今の日本のまま大きく変化しないということを「前提」にすることが間違いではないのならば、今まで熱心に行われてきた永田町周辺の社会保障制度改革の議論もきっとそれなりに説得力のあるものになっただろうとは筆者も思っている。だが、そう遠くない将来にグローバリゼーションの影響がほぼ確実に社会保障制度にも明確な形で表れてくるはずだと見ている筆者には、日本などだけに限定した「ミクロ」の視点にとらわれ、グローバリゼーションという「人類の歴史的文脈」を見失った社会保障制度改革の議論には虚しさすら感じてしまうのである。そんな状態でいくら社会保障制度の「抜本改革」を行ったとしても10年もしないうちに再度の抜本改革が緊急に必要になってくるだけである。どんなに真剣で熱心な議論をしたとしても、「前提」が間違っていれば安心できる社会保障制度を作るための抜本改革を実現することは不可能なのである。
人類は長い歴史を通じて「世界」を少しずつ拡大し、広くなる「世界」をもっと詳しく知ろうとし続け、そしてその広く複雑になっていく「世界」の中で様々な形で一人ひとりの人間の結びつきを強めてきたのである。ヒト、モノ、カネ、情報の国際移動が活発になるグローバリゼーションという現象を人類の長い歴史の中で捉えてみれば、実は近年特有の一時的な現象ではなく、一貫した「人類の歴史的文脈」だと考えることができるのである。よっておそらくこれからもヒト、モノ、カネ、情報の国際移動が活発になるという傾向は続くはずだということに気づくだろう。つまり現実政治に限らず何事でも長期的な視野から物事を考えようとする場合にはグローバリゼーションによる影響を無視することはできないのである。もしかしたら10年あるいは15年前だったならば、最近は日本でも仕事や旅行で海外に出かける人たちが増えているから(そういう人たちにとっては)国際化が進んでいるとか、(そういう人たちにとって)グローバリゼーションは無縁ではないなどと考えていても大きな問題は生じなかったのかもしれない。だが、現在では一昔前とは比較にならないほどグローバリゼーションによる影響は大きくなっており、日本国内でじっとしていてもその影響を無視するわけにはいかなくなってきているのである。
実はグローバリゼーションは「少子高齢化」という現象にも大きな影響を与える可能性が非常に高いのである。現在のようなグローバリゼーションの時代には、ある程度長期的で広い視野から検討した政策を採用するのならば、「少子高齢化」という現象を緩和したり歯止めをかけたりすることも不可能ではなくなるが、逆にあまりにも狭い視野にとらわれてしまうと「少子高齢化」を加速するどころかさらに大きな悪影響が出てくる可能性も非常に高くなってしまうのである。グローバリゼーションの時代になっても、主権国家や国境はなくなってはいないし、おそらくこれからもなくならないのだろうが、主権国家や国境の性質が劇的に変化しているという現実を見失ってはならないのである。そして日本における「少子高齢化」という問題の解決を目指す場合には、長期的で広い視野から検討することが必要であり、そのためには「日本国内」、あるいは「日本国内の日本人」などという「ミクロ」の視点よりも「マクロ」の視点の方が重要になってくるのである。
もちろん「少子高齢化」や「人口減少」は日本だけの問題ではなく、ある程度世界的な問題でもある。ヨーロッパ諸国でも「少子高齢化」や「人口減少」は進んでいるし、東アジアでも「少子高齢化」や「人口減少」が進んでいく。だがアフリカなどの発展途上国では人口が増加するので世界人口はしばらく増加し続けることになる(→世界人口は約64.5億人(2005年)、約78.5億人(2025年)、約89.2億人(2050年)。UN,
World Population Prospects: The 2002 Revision(中位推計))。地球規模の「マクロ」の視点で見れば、おそらくだいたいこの通りの状況になっていくのだろう。だが、現実政治の問題解決を考える場合にはそこで思考停止してはならないのである。多くの国々で「少子高齢化」や「人口減少」が進むということ、世界人口はまだしばらく増加し続けるということなどがグローバリゼーションと絡み合って日本や国際社会にどのような影響を与える可能性が高いのかをある程度正確に予想し、そういう将来発生する可能性が高い影響をも十分に考慮した上で対策を考えていかなければならないのである。
多くの国々で「少子高齢化」や「人口減少」が進むということは、例えば、各国が「優秀な人材」や「労働力」を獲得するために激しく競争することになるかもしれないということを意味している。しばらくの間は世界人口が増加し続けるということは、例えば、人口増加国から人口減少国などへの「人口圧力」が大きくなるということを意味している。人間は決してモノではないのだから、多いところから少ないところに移動させればそれで問題がすべて解決するなどという単純な話にはならないのである。「優秀な人材」や「労働力」を獲得しようとする場合には、いわゆる「ソフト・パワー」(→参考:2005/2/9号etc.)を含めた様々な分野でのその国家の国際的な競争力が問題になり、そこが自由で安全な社会であるかどうかとか、さらには信頼できる社会保障制度などがあるかどうかなどということも大いに問題になってくるはずである。そして「優秀な人材」や「労働力」の獲得とか「人口圧力」によってヒトの国際移動が活発になるということは「文化」の違いが今よりもずっと大きな現実的な問題として浮上してくるかもしれないということでもある。
日本の総人口は約1億2769万人(2004年10月1日現在)である。日本人出国者数は約1683万人(→2004年。ちなみに1989年は約966万人、1995年は約1530万人)、外国人入国者数は約676万人である(→2004年。ちなみに1989年は約299万人、1995年は約373万人。法務省入国管理局の統計)。そして日本国内の外国人登録者数は約197万人(→2004年末。ちなみに1989年は約100万人、1995年は約136万人。なお不法残留者は約21万人(2005/1/1現在)。法務省入国管理局の統計)、海外在留邦人は約91万人である(→長期滞在者約62万人+永住者約29万人。2003年。ちなみに1989年は約59万人(うち長期約34万人)、1995年は約73万人(うち長期約46万人)。外務省の統計)。
現時点でもグローバリゼーションによるヒトの国際移動はもはや無視できるレベルではないし、今後もグローバリゼーションによるヒトの国際移動の影響が大きくなることはあってもおそらく小さくなることはないのである。ヒトの国際移動の増加を受け、日本は先進諸国との間で保険料の二重負担や掛け捨ての問題を解消するために社会保障協定を次々と締結している。現時点ではまだ現実味はないが「東アジア共同体」ができる方向に向かうのならばヒトの国際移動はさらに増加し、東アジアとの間にも新たに様々な社会保障をめぐる問題が浮上してくることになる。また永田町周辺では基礎年金の財源に消費税をあてることなどが真剣に検討され始めているが、消費税は日本の社会保障制度と全く無関係な人たちも負担することになるということやそのことの持つ意味をどこまで深く考えて議論しているのかが大いに疑問である。そう遠くない将来にグローバリゼーションが社会保障に与える影響がこれだけ多く予想されるのにもかかわらず、永田町周辺ではグローバリゼーションの影響を全くというほど意識せず、相変わらず「日本国内」の「少子高齢化」や「世代間の公平」「制度間の公平」などということにあまりにも偏った議論を続けているのである。グローバリゼーションの影響を全くというほど意識せずに社会保障制度の「抜本改革」を行ったとしても10年もしないうちに再度の抜本改革が緊急に必要になってくるだけである。このままなら社会保障制度改革問題は郵政民営化問題よりもずっと多くの国民を巻き込むひどい「茶番劇」になるという筆者の主張に多くの読者は説得力を感じてくれているだろうか。
筆者は「正義の味方モデル」や「弱者の味方モデル」に見事に騙されたり、あるいはなんとなくどこかおかしいと思いながらも結局は騙されたりすることになるという既存のマスコミとは全く違うのである。「偽者の政治家」が「正義の味方モデル」や「弱者の味方モデル」などを使いそうな「怪しい土俵」を見つけたら筆者は「土俵」から完全に覆してしまうのである。
<郵政民営化という「無観客試合」の「本丸」>
さて、いよいよ郵政民営化という「無観客試合」の「本丸」に移って閉塞状況を打破するための「起承転結」の「転」を考えていくことにする。「起承転結」の「転」を模索するためには「民営化とはどういうことなのか」「今なぜあえて郵政民営化なのか」などということに注目する必要があるが、困ったことにそういうことすらもよく分からないまま審議がダラダラと続いて「泥仕合」が「茶番劇」に変わってきている。
「郵政民営化の目的、必要性、なぜ今民営化なのかという点についてのお尋ねでございます。郵政事業については、郵便、郵貯、簡保、いずれの分野も、民間企業が自由な経営のもとで同様のサービスを提供しており、公務員でなければできない事業ではなく、民間による運営が十分可能であると考えております。他方、現在の公社制度には、郵便局では郵便、郵貯、簡保しか取り扱えない等、業務範囲が限られるため、環境変化にも柔軟に対応できないこと、法人税等が非課税であること等、民間企業と対等な競争条件となっていないこと等の問題点があるところであります。このため、郵政民営化を実現することにより、国の関与をできるだけ控え、民間企業と同一の条件で自由な経営を可能とすることにより、質の高い多様なサービスが提供されるようにしていくとともに、郵便局を通じて国民から集めた約340兆円もの膨大な資金を官から民に流す道を開く、約40万人の郵政公社の職員が民間人になるとともに、従来免除されていた税金が支払われること等により財政再建にも貢献するなど、小さな政府の実現に資する等のメリットを引き出し、構造改革を一層前進させ、国民の利便性の向上が図られるようにしていくものであります。また、現在の郵政事業を取り巻く内外の経済社会環境は、通信・輸送手段の発達や金融の技術革新などにより、劇的に変化しております。このような環境変化に適切に対応するためには、速やかに民営化することが必要でありますが、最終的な民営化に至るまでには準備期間に加え相当年数の移行期間が必要であること等を考慮すると、直ちに民営化に取り組む必要があると思います。その実現に当たっては、過疎地を初め必要な郵便局ネットワークが維持されるようにするなど、国民の利便性には十分配慮することとしております。今回の郵政民営化関連六法案は、以上のような考え方に基づいて取りまとめましたが、その提出に当たっては、与党との間で精力的な調整を行いました。この過程における柳澤議員を初め関係者の皆様の御尽力に、心から御礼を申し上げます。今後、この法案について御審議いただき、速やかな成立を期待しております」(2005/5/26の衆院本会議での自民党の柳澤伯夫代議士への小泉首相の答弁)
「先ほど園田さんから私が異常な決意で小泉がダメだというような指示だという話なんですが、異常な決意だということは認めます。しかし、私が出したのは大まかな方針なんです。大まかな方針なんです。細かい技術的なことまであれこれ、こうやれ、ああやれと言ったことは一つもありません。それは竹中大臣なり麻生大臣なり担当大臣を信頼して十分協議をしてくださいと。総理大臣としては任せることが大事ですから、私はできるだけあまり細かいことは言わずに基本方針だけ指示してそれにのっとってやってくれと。あとは各大臣を信頼してやったわけです。そういう点について、私が強く出した基本方針というのは、郵便局がなくなると誤解を持っているから、郵便局の機能、今の郵政サービスというのはなくならないということ、これはしっかりしてくれということ。それと、郵貯、簡保、これは政府保証がある、政府保証がある限り民営化にならない。これは移行期間をもって政府保証がある期間と民営化になった場合は政府保証がなくなるのだ、これはしっかりしなきゃいかん。そして各会社の機能が違うのですから、しっかりとそういう郵便局の仕事が機能できるように、それぞれの郵便事業なり窓口サービス事業なり、あるいは郵貯なり簡保なり、これが民営化した場合に成り立っていけるような形をきちんとつくること。そして今、郵政事業をやっている国家公務員、これは国家公務員である必要はない。一部に公権力を行使しないとできない部分は除いて、これは公務員である必要はないから民間人になるべきだ。この方針をきっちりと守ってくれ、あとは専門家の担当大臣、有識者の皆さんに任せるから十分協議してください、そういうことなんです。そこをまたよく御理解をいただきたいと思います」(2005/6/3の衆院郵政民営化特別委での自民党の園田博之代議士への小泉首相の答弁)
「(将来の日本がどういう国になるから公社ではダメだとなどと考えているのか、に)それは、公社でやる限りは制約があります。今、三事業しかできません。そういう際に、資金運用においても安全を重視しますから、なかなか、ある程度収益は上がるけれどもリスクをとるという場合については運用しにくいでしょうね。国債、これが一番安全でありますから、この国債運用というものは将来売ったり買ったりすれば当然損益が出てきますから、この問題についても限りがある。今のような形で運用していって、郵便事業にしてもあるいは金融事業にしても、今の形で果たして収益が上げられるかというと、これは先ほど言いましたけれども、郵便事業の問題一つとってみても、ある程度、今の時代におきましては、郵便物も減ってきております。手紙やはがきだけでなくて、いろいろな通信手段が出てきております。しかしながら、こういう問題について、郵便局が今の制約のもとでほかの事業が展開できないとなると、結局、今の民間でやっている事業のようなものを展開しないと利益が上げられない、となると民業圧迫になる、今の条件を厳しく守っていくと、これは民間の競争に太刀打ちできないということにもなってくると思います。私は、そういう面において、郵便事業会社あるいは郵便局、窓口の会社については、政府の関与をある程度残しながら、公共的なサービスを提供しながら、もっと自由な事業展開をさせるようにした方が国民のサービスのためにもよくなるのではないか、さらには経済の活性化にも資するのではないかと思っております」(2005/6/3の衆院郵政民営化特別委での自民党の野田聖子代議士への小泉首相の答弁)
要するに「民営化とはどういうことか」というと「官から民へ」「民間にできることは民間に」「過疎地の郵便局をはじめとする必要なネットワークがなくなるわけではない」ということらしい。そして「今なぜあえて郵政民営化なのか」というと、郵便局はこのままでは「ジリ貧」になるから民営化が必要であり、そして民営化の準備には時間がかかるからできるだけ早い方がいいとか、小泉首相自身の任期とも関係があるから急いだ方がいいということのようである。筆者には小泉首相などの答弁を聞いても現時点ではこれ以上のことはよく分からない。こんな状態では小泉首相以外に郵政民営化でやる気が出てくる国民や国会議員が一人も出てこなくても何も不思議ではない。
<郵政民営化問題の「起承転結」の「転」>
ところが、もしも郵政民営化の実現が多くの国民が興味・関心を持っている政治課題の実現に大きく貢献するなどということが明らかになり、「今なぜあえて郵政民営化なのか」ということに急に大きな説得力が出てくると形勢が劇的に変化して「起承転結」の「転」が見えるようになるかもしれないのである。結論から先に言ってしまえば、「今なぜあえて郵政民営化なのか」ということを「2007年」と「教育」、「国(家)とは何か」ということに注意しながら考えていくだけでもいくつかの「転」が見えてくるし、上手くいけば郵政民営化問題以外のいくつかの重要問題も「いもづる式」に同時に解決することができるようになるかもしれないのである。もしも小泉首相の「琴線」に触れるアイディアが出てくるなどして「今なぜあえて郵政民営化なのか」ということが急に大きな説得力を持った場合の「破壊力の大きさ」は永田町周辺の人間ならば誰でもすぐに予想することができるだろう。
ちなみに郵政民営化関連法案が無事に成立したならば、小泉首相は政治家としての理想を実現して一区切り付くことになるのだろうが、郵政民営化を将来「骨抜き」にしかねない政治家たちに致命的な打撃を与えるチャンスがあるのならば、突然「伝家の宝刀」を抜いて彼らに襲いかかる可能性もしばらくは残ることになる。なぜなら小泉首相の「琴線」は「政局」と「郵政民営化」のままだと考えられるからである。どんなに遅くとも2007年秋までには衆議院議員の選挙が行われるわけだが、政治争点とタイミングを間違えなければ日本の政治に劇的な変化を生み出すことも不可能ではないのである。
筆者に言わせれば、解散を含めて「2007年」に向けたあるタイミングで様々な「教育」絡みの改革を実現しようとすることによって信じられないほど多くのことが「いもづる式」に同時に解決できる可能性が高くなるのである。そして「2007年」というタイミングを逃してしまうと日本が大きく飛躍できるチャンスはあと10年待っても巡ってこないかもしれないと筆者は考えている。偶然にも様々なことが都合よく重なった「2007年」というタイミングは日本にとって大きな曲がり角になるかもしれないと筆者は考えているのである。
読者は前回(→参考:2005/5/17号)に長々と説明した「設計図法」(仮称)のことを覚えているだろうか。郵政民営化問題の「起承転結」の「転」を生み出し、そして解散を含めた「2007年」というタイミングで様々な「教育」絡みの改革に着手することによってその他の重要問題を「いもづる式」に解決することを目指す場合に使用する「道具」が「設計図法」なのである。そして「設計図法」には、(1)「不人気な政治課題」や「解決困難な政治課題」をその前後にある「人気のある政治課題」や「解決が容易な政治課題」との連鎖関係を「てこ」にして解決を容易にする(→(A)「人気のある課題」の実現にはまず「不人気な課題」を解決する必要があると説得するような「プル・ファクター」、(B)「人気のある課題」を実現することによって「不人気な課題」の解決も容易にする連鎖を新たに考えるような「プッシュ・ファクター」の両面)、(2)末端の一人ひとりの国民がそれぞれ関心を持っている課題の解決過程の「参加したい部分に参加したい程度だけ参加する」ことを可能にすることによって解決の加速を目指すという特徴がある。つまり、郵政民営化問題という「不人気な政治課題」や「解決困難な政治課題」に、あえて「教育」絡みの改革やその他の重要問題のような「人気のある政治課題」や「解決が容易な政治課題」を上手い形でできるだけ多く結び付けることによって、郵政民営化問題の「起承転結」の「転」を生み出し、さらにその他の重要問題も「いもづる式」に解決しようと考えているのである。
<郵政民営化をどのように結び付けて推進力にするのか>
さて、次に問題になってくるのは、ほとんど無関係のように思える郵政民営化問題と「教育」絡みの改革やその他の重要問題をどうしたら上手く結び付けることができるのかということ、そしてどうしたら郵政民営化が「教育」絡みの改革やその他の重要問題を進展させる推進力になるかということである。結論から先に言ってしまえば、郵貯・簡保の巨額の資金(→郵貯約214兆円、簡保約120兆円、合計約334兆円。2005年3月末)と郵便局のネットワークを活用するのである。「教育」絡みの改革やその他の重要問題と郵政民営化をカネとネットワークで結び付けて改革の推進力にするのである。
郵政民営化が実現した場合にも、(1)郵貯・簡保の資金の運用先はどうするのか、(2)巨額の資金残高は減っていくのか、(3)民営化した会社が外資などに買収されることはないのかなどということが問題になってくる。(1)の運用先は最大の問題になる。国の借金などが約800兆円以上(→国債及び借入金残高が約782兆円、政府保証債務現在高が約58兆円。2005年3月末)もある。また国債などに代わる安全な運用先というものはそう簡単には見つからないだろう。よって民営化後もしばらくの間は郵貯・簡保資金の運用先の多くは国債などにならざるを得ないのだろう。ただし、同じ国債などに投資する場合であっても、できるだけ前向きなものに投資した方がいいに決まっている。そういう意味でも時代に先駆けた何らかの前向きなプロジェクトを立ち上げる必要があるのである。
一方、(2)と(3)は、もしも多くの国民が「日本郵政株式会社」など(以下、「民営化会社」とする)が自分にとって必要不可欠なものであると心から納得し、郵便預金の一部を下ろしてでも株式を買ってくれるようになるのならば同時に解決することができるようになるのかもしれない。つまり「民営化会社」の資本金がかなり巨額になり、しかも全国津々浦々のほとんどの国民が安定した小口の株主になってくれているような状態を実現することができるのならば、買収は金銭的にも物理的にもほとんど不可能な状態になるのである。もちろん「民営化会社」が国民の信頼を失うような不祥事を起こした場合には多くの国民が株を大量に売却しようとして経営危機に陥る可能性もあるので経営者や従業員には適度の緊張感が保たれることにもなるだろう。
そして国債などに代わる安全な運用先をどう確保するのか、国民一人ひとりに「民営化会社」が必要不可欠な存在であるとどのように実感してもらうのかという問題は、「民営化会社」が民間の力で公共の利益を実現したり新しい公共財を創造(→参考:2005/5/17号etc.)しようとしたりするような動きを積極的に支援することによって同時に解決することができるようになるかもしれないのである。
ここで「国(家)とは何か」ということを改めて考えてみる必要がある。少なくとも国や地方自治体などの公的部門は「『打ち出の小槌』を持っている気前の良い大金持ち」などではないということである。従って国などが膨大な借金を抱え、しかも仮に増税をしたとしても大幅な税収増をあまり期待できないような状態では自由に使える予算は少なくなり、できることは非常に限定的なものになってしまう。一方、少子高齢化やグローバリゼーションの進展による様々な社会構造の変化のために新しく実現する必要が出てきた公共の利益や新しく必要とされる新しい公共財はむしろ増えているのかもしれない。実現を期待されている公共の利益や公共財は増えても、国などの公的部門にできることは限られているのである。そこで「公共財などの公共の利益は公的部門しか実現することができないのか」(→参考:2005/5/17号)などということが問題になってくるわけである。
もちろん資産を持っている人たちならば、国などが提供しない公共財を自分たちの負担で提供することができるし、あるいは社会のためになる活動をしているNGO(非政府組織)などに寄付をすることもできる。そしておカネがあまりない人たちでも、時間、アイディア、能力などがあればボランティア活動に参加したり、自分自身でNGOなどを作ったりすることなどによって公的部門に代わって公共の利益を実現することができる。もしも「民営化会社」が郵貯・簡保資金と郵便局のネットワークを活用して公的部門に代わって公共の利益を実現したり新しい公共財を作り出したりするような動きを支援する新しい事業を基幹部門の一つにまで成長させることができるのならば、「民営化会社」は国民の一人ひとりにとって「なくてはならない存在」だと見なされることになるのだろう。公的部門に代わって公共の利益を実現したり新しい公共財を作り出したりするような動きを支援する新しい事業の利益はあまり大きくはないかもしれないが、銀行を含めた普通の民間企業はこの種の事業展開には熱心でないし、公的部門もこの種の事業に関与する余裕はほとんどないので間違いなく意味のある新規事業になる。
自分たちも出資することが不可能ではない少額の出資で自分たちが強く望んでいる公共の利益がほぼ確実に実現することができるのであれば、実際にかなり多くの人たちが出資をする可能性が出てくるだろう。それぞれの地域の細かなニーズを把握し、それらを統合して全体として実現可能な形に組み立て直し、さらに実現のためのコストを小口の「証券」などに分割して販売するなどということを考えた場合には、郵貯・簡保資金だけでなく、郵便局のネットワークも非常に大きな武器になるはずである。「民営化会社」はそういう新規事業の開拓に成功すれば、民業を圧迫することもなく、しかも公的部門も関与する余裕がない公共の利益を実現するという意味で国民にとって「なくてはならない存在」になることができるのである。
<「郵政民営化」→「団塊の世代」→「フリーター・ニート」>
実際に公的部門に代わって公共の利益の実現を目指すような人たちがそんなに多くなるのか疑問だと思っている読者もかなり多いのかもしれない。そして筆者も基本的には同感である。だが、「2007年」というタイミングで様々な「教育」絡みの改革を考えた場合には公的部門の力に頼らずに公共の利益の実現を目指すような人たちが劇的に増加することを期待することができるのである。「2007年」からは「団塊の世代の大量退職」が始まることになる。いわゆる「団塊の世代」は、日本が「平和で豊かな民主主義国家」になった後に社会人としての経験を積み重ね始めた世代なのである。大学紛争(1968-1969年)の時にはまさに当事者の大学生だった人たちも多かったから、もっと年配の世代からは「破壊しかしない世代」などと悪口を言われたこともあったが、基本的には彼・彼女たちは「平和で豊かな民主主義国家」になった日本社会の第一線で社会人として様々な経験をずっと積み重ねてきた世代なのである。そして一般に「団塊の世代」は公共の利益の実現やその他の創造的な活動に強い興味や関心を持っていると言われている。そういう社会全体のためになる創造的な活動を行う志と能力を併せ持った比較的自由な人たちが2007年から日本社会に新たに大量に供給され始めると考えることもできるのである。
何度壊れても自己中心的な「解放区」を作り直してきたことぐらいしか実績がない永田町周辺の「団塊の世代」ならばリタイアして急に創造的な活動を行うようなことはまず不可能なのだろうが、一般社会の「団塊の世代」の中には社会全体のためになる創造的な活動を行う志と能力を併せ持った人たちがたくさんいるのである。自己中心的な「解放区」は日本にも、東京都にも、あるいは武蔵野・小金井・府中を含めた地球上のどこにも全く必要ないが、社会全体のためになる創造的な活動は地球上のどこでも必要とされているのである。「団塊の世代の大量退職」が始まる「2007年」というタイミングは公的部門に代わって公共の利益の実現を目指す様々な動きを加速する大きなチャンスなのである。
「団塊の世代の大量退職」が始まる「2007年」から社会全体のためになる創造的な活動を行う志と能力を併せ持った比較的自由な人たちが日本社会に新たに大量に供給され始めることは間違いないとしても、彼・彼女たちには「若さ」が欠けているから「労働力」としてはやはり限界があるのではないかと多くの読者は考えることだろう。筆者も基本的にはその通りだと思う。そして社会全体のためになる創造的な活動に必要な「若さ」の不足が予想される場合には、その「若さ」をどこからどう補うことができるのかということも考えてある。「若さ」をどこからどう補うか。「若さ」は永田町周辺などによって「フリーター」、「ニート(Not
in Education, Employment or Training)」などというラベルを十把一絡げに付けられている若者たちの中から補うのである。
「フリーター」や「ニート」などというラベルを付けられている若者たちのほとんどは、実は、「職業一般」というよりも「現時点で社会に存在する職業」にあまり魅力を感じていないということ、あるいは「現時点で社会に存在する職業」では自分の能力を十分に発揮できないということ以外には何も問題のない人たちなのかもしれないと筆者は考えている。「過去」には「現時点で社会に存在する職業」のすべてが存在したのか、「未来」には「現時点で社会に存在する職業」のすべてがそのまま存在するのか、などということをあえて考えて見なくても、誰でもすぐに「現時点で社会に存在する職業」だけが職業ではないということに気づくだろう。「現時点で社会に存在する職業」への適応を中心にしたフリーター・ニート対策が完全な間違いだとは言わないが、少なくとも前向きな対策ではないし、唯一絶対の解決策でもないことは明らかである。
もしも「団塊の世代」という志と能力を併せ持った比較的自由な人たちが様々な社会全体のためになる創造的な活動を立ち上げ、不足する「若さ」を補うために様々な人材を募集した場合には、「フリーター」や「ニート」などというラベルを付けられている多くの若者たちが「魅力を感じる職業」や「自分の能力を十分に発揮できる職業」を自力で簡単に見つけ出すことができるようになるのかもしれない。特に誰でもある程度の経験は持っている「教育」関連分野における創造的な活動が立ち上げられる場合には「フリーター」や「ニート」などというラベルを付けられている若者たちでも全くのゼロからのスタートではないという点でも非常に望ましいものになるだろう。
もしもほとんど利益を期待できないために人材募集を行うことが難しい場合には、採用した若者の給与を支援するなどという形で国や地方自治体のフリーター・ニート対策予算をそういう前向きな活動に投入していけばいい。もしも社会的不適応などの問題を抱えた若者たちにも社会全体のためになる創造的な活動に携わる新しい職業への門戸を広く開こうとするのならば、そういう若者たちの雇用は「実地訓練」(on-the-job
training, OJT)とでも考えて若者や雇用主を支援するために専門的なスタッフも派遣するようにしたらいい。
「今なぜあえて郵政民営化なのか」という話から、「団塊の世代」が絡む厳しい財政事情の中でどのように公共の利益を実現していくのかという問題、そして「フリーター・ニート問題」にまで拡大してきた。そして上手くいけばそれらのすべてを「いもづる式」に解決することもできるということにある程度説得力を感じてもらえてきただろうか。
<「民主主義立国」実現に向けた「基本方針」>
公的部門の代わりに公共の利益の実現を目指す動きを促進しようと考える場合にも何か「核」になるような「基本方針」のようなものがあれば、様々なアイディアや動きが有機的に結び付いて個別に実現を目指したときよりもずっと大きな力を生み出すことができるようになるのかもしれない。そしてこの場合にも幅広く多くの人たちにアイディアや協力を柔軟な形で求めることに適した「設計図法」(仮称)(→参考:2005/5/17号)を活用することができるのである。
「民営化会社」はそうした「核」になる「基本方針」の周辺で動き出した様々な公共の利益の実現を目指す動きを資金と郵便局のネットワークを活用して支援していくのである。そうすることによって「民営化会社」は国民にとって「なくてはならない存在」になることを目指し、国民は日本の民主主義をよりよいものにしていくことを目指すのである。さらに日本の民主主義をよりよいものにしていくことを通じて、選挙を通じた民主主義によって社会を何度でも劇的に変化させることができることを日本で実証し、地球上の別の地域で民主主義を定着させたり、社会をよりよいものにしたりする動きにもよい影響を与えることを目指すのである。多少の誤解を恐れずに言うならば、日本には「民主主義立国」実現に向けた「核」となる「基本方針」が必要なのである。
筆者は公的部門の代わりに公共の利益の実現を目指す動きを促進しようと考える場合には、「全地球米百俵計画」(仮称)と「教育分野における日本の国際競争力の強化」という2つの「基本方針」を採用すべきであると考えている。そしてこれらの基本方針をより安定した「核」にするためには、日本という国の基本方針として採用されることが望ましいと考えている。そういう意味で遅くとも2007年秋までに行われる次期総選挙で政権担当能力のある政党の「政権公約(マニフェスト)」に「教育」関連の様々な政策が体系的に盛り込まれ、総選挙の争点になることが望ましいと考えている。そしてその様々な「教育」絡みの改革が争点となる次期総選挙では「教育」という「公共財」を利用して改革を促進していく政治家の数を可能な限り増やし、様々な意味で不適切な政治家たちを可能な限り多く落選させることを目指すのである。
ここでなぜ「2007年」に「教育」なのかということについてもう少し説明しておくことにする。具体的にどのような重要問題の解決を目指していくのかなどということはこの文章の後半部分である程度詳しく説明していくことにする。まず「2007年」というタイミングには「団塊の世代の大量退職(2007年-)後の補充」などという形で「教員の世代間変化」も始まるし、「大学全入時代」も到来(2007年度からか?)することになるから「教育」絡みの諸改革を考える場合には劇的な変化を期待することができるからである。また「2007年」秋までには「解散」もあるから選挙で「教育」絡みの改革を争点にすることもできることになる。そして同じく「2007年」に予定されている郵政民営化を一連の「教育」絡みの改革や重要問題と結び付けて一連の改革の推進力にするのである。
「今」(→例えば、「2007年」というタイミングでの「教育」絡みの諸改革を郵政民営化と結び付けることによって促進するため)、「なぜ」(→例えば、国などの公的部門以外の「民間」でも多くの公共の利益を実現することができるという実例を作るため)、「あえて郵政民営化なのか」(→例えば、郵政民営化と結び付けられたその他の重要問題を「いもづる式」に解決できるから)ということに説得力が出てくるのならば、「郵政民営化とは何か」というと、日本の民主主義をよりよいものにする改革を飛躍的に進展させる「推進力」の一つであると言うこともできるようになるのかもしれない。そろそろ読者にも「もしも筆者がいまあえて郵政民営化をやろうとする立場だったならばこうやるというアイディアをいくつか持っている」(2005/5/11号)と書いた意味が少しずつ分かってきているのかもしれない。
繰り返しになるが、日本は「民主主義立国」を目指していくべきであり、そのための「核」となる「基本方針」が必要であると筆者は考えている。以下は「教育」絡みの諸改革の実現といくつかの重要問題の解決などを通じて日本が「民主主義立国」になっていくことを目指して筆者が作成した「設計図」の原案である。
<「米百俵の精神」がもったいない!>
「私は、積極的な『国民との対話』を通じて国民の協力と支援の下に新しい社会、新しい未来を創造していく作業に着手します。関係閣僚などが出席するタウンミーティングを全ての都道府県において半年以内に実施し、また『小泉内閣メールマガジン』を発刊します。こうした対話を通じ、国民が政策形成に参加する機運を盛り上げていきたいと思います。明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に救援のための米百俵が届けられました。米百俵は当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。新世紀を迎え、日本が希望に満ち溢れた未来を創造できるか否かは国民一人ひとりの改革に立ち向かう志と決意にかかっています。私は、この内閣において『聖域なき構造改革』に取り組みます。私は自らを律し、一身を投げ出し、日本国総理大臣の職責を果たすべく、全力を尽くす覚悟であります。議員諸君も『変革の時代の風』を真摯に受け止め、信頼ある政治活動に共に邁進しようではありませんか。国民並びに議員各位の御理解と御協力を心からお願い申し上げます」(2001/5/7(首相就任後初)の小泉首相の所信表明演説より)。
さすがに小泉首相がこの演説は誰の演説かを忘れてしまったなどということはないだろう。だが、「メールマガジン」や「タウンミーティング」は今でもまだしっかりと残っているが、「聖域なき構造改革」は今では「改革」の部分ぐらいしか残っていないし、「米百俵の精神」などは見事なまでに完全に消えてなくなってしまっている。そういうことから判断するならば、例えば、国造りにおける教育の重要性を意識して日本の開発途上国への教育分野における援助方針などを検討した「国際教育協力懇談会・最終報告」(遠山敦子文部科学相(当時)の私的懇談会。2002/7/30)などの存在をほぼ確実に小泉首相は忘れていることだろう。もしも小泉首相が急に「米百俵の精神」などを思い出し、7月の主要国(G8)首脳会議(グレンイーグルズ・サミット、7/6-7/8予定)などの国際舞台でアフリカなどの開発途上国を重視した長期的で大規模な日本独自の教育分野における援助方針などを示す「全地球米百俵計画」(仮称)などをぶち上げた場合には、国際社会における日本の存在感を高めることができるばかりか、いくつかの国内問題にもよい影響を与えるかもしれないし、さらには国民が郵政民営化問題を見る目も大きく変わってくるかもしれないと筆者は考えている。
だいたいここ数年の間、「アフリカ諸国への援助の増額」「早急な初等教育の普遍化」などという問題は国連でもサミットなどの国際会議でも何度も何度も問題にされてきたはずである。日本としてはそろそろ国際社会に向かってインパクトのある明確な援助方針を打ち出すべき時期を迎えているのではないかと筆者は考えている。「(筆者注:2015年までの極度の貧困及び飢餓の撲滅、普遍的初等教育の達成などの目標を掲げる国連による)ミレニアム開発目標(MDGs)に寄与するためODA(政府開発援助)の対GNI(国民総所得)比0.7%目標の達成に向け引き続き努力する観点から、我が国にふさわしい十分なODAの水準を確保していきます」(2005/4/22のアジア・アフリカ首脳会議における小泉首相のスピーチ)などとは言うものの、大雑把に考えてみても日本のGNIの0.7%というのは約3.5兆円という巨額の資金規模である(→もちろん多少の変動はあるが日本のGNIは約500兆円規模。最近のODAはその約0.2%の約1兆円規模)。厳しい財政事情の中でこれだけの巨額の資金をどのように調達するつもりなのか、そしてこれだけの巨額の資金を本当に無駄なく効率的に使うことができるのかなどということを一歩踏み込んで考えてみる必要があると筆者は考えている。現実問題としては、やはり資金面では郵政民営化後も国債の安定大量購入という形で郵貯・簡保資金に依存せざるを得ないのである。当面は郵貯・簡保資金に依存するしかないとしても、そう遠くない将来には別の形でも資金などを調達することができるように改革を進めていかなければODAも「ジリ貧」になっていく可能性があるのである。
またHIV/AIDSやマラリアなどの深刻な被害と関連する様々な悪影響を考えるならば、開発途上国における感染症対策は言うまでもなく非常に重要な問題である。だが、日本としては「平和で豊かな民主主義国家」になるまでに歩んできた道をあえて振り返り、国際社会の中で教育の重要性を様々な形で強調する役割も積極的に果たすべきではないかと筆者は考えている。そして巨額の資金は、すぐに限界が見えてくる校舎建設などのハコモノよりも、様々なアイディアから生み出される人材や教材を含むソフト、それらと密接不可分の関係にある一部のハードに集中的に投入すべきであると考えている。また良いアイディアというものはある程度の方向性も見えていない状態ではなかなか生まれてこないものだし、仮に生まれたとしても一つ一つのアイディアを有機的に結び付けることは困難である。だからこそ長期的で大規模な日本独自の教育分野における援助方針などを示す「全地球米百俵計画」(仮称)などをぶち上げる必要があると筆者は考えているのである。
<「全地球米百俵計画」(仮称)>
「全地球米百俵計画」(仮称)は、国内問題と国際問題の連鎖を意識した長期的な視点に基づいて作成し、しかも様々な変化に迅速に対応できる柔軟な内容にすべきである。例えば、そう遠くない将来に各国共通の教材として採用される可能性をも視野に入れながら、各国の文化的な違いがあまり大きな問題にはならない地球環境問題や保健衛生のような基礎的な科学分野の教育に役立つ様々な教材などを開発する。そしてそれらの教材を使って基礎的な科学分野の教育に貢献することができる人材を養成し、まずは開発途上国を中心に教材と人材をセットにして長期的に提供する。そして人材も教材も日本と現地の人たちが可能な限り力を合わせて用意するようにしたらいい。そのようなプロジェクトを日本は真剣に検討する必要があるのではないか。
ちなみに基礎的な科学分野の教育のための様々な教材と人材は、差し迫った目の前にある環境問題や伝染病の脅威に備える緊急対策を末端の一人ひとりにまで徹底していく必要がある場合には、そのための新しい強力な基盤としても活用することができるのである。そして基礎的な科学分野の教育のために様々な教材と人材をセットにして地球規模で長期的に提供し続ける場合のコストは実は意外なほど安いが、将来人類全体が得ることができる利益はかなり大きいかもしれないのである。もちろん安全に勉強できる環境がすべての前提になっているわけだが、最も極端な場合には土地や建物がなくても「生徒」と「先生」と「教える内容」がありさえすればそれだけでも「学校」と呼ぶことができるということにもあえて注目すべきである。様々な教材と人材をセットにして長期的に提供し続けるだけでも、世界中の必要とされる場所にあっと言う間に立派な「学校」を作ることができるのである。
子どもの安全と教育効果を同時に考えて地球規模で幅広くスクールバス用に最新式の燃料電池車を提供することも積極的に検討すべきである。水素を燃料にして走る車は子どもにとっては非常に大きなインパクトがあって魅力的に見えるかもしれないが、犯罪者にとってはガソリンで走らない車は使うにしても売るにしても非常に面倒くさくて厄介な物でしかないだろう。そういう意味でも燃料電池車は安全でスクールバスには最適である。そして燃料電池車のスクールバスで通学した子どもたちならば、そう遠くない将来に真剣に考えなくてはならなくなる地球環境問題を身近な問題として受け止めることができるのかもしれない。
地球上のどこに行っても人間の体の仕組みは見た目が多少違っても基本的には全く同じだし、地球は同じ一つの地球のままである。そして地球上のどこでも科学が同じ科学のままでなければ自然現象を正しく統一的に説明することはできない。つまり科学は広い意味での人類共通の「文化」である。だが、科学を人類共通の「文化」として受け入れるのならば、科学へのアプローチの仕方、科学との付き合い方には地球上のそれぞれの場所でそれぞれのやり方があっても構わないのである。例えば、地球上で生活するすべての一人ひとりの「大人」には性の知識を含めて保健衛生に関する一定レベル以上の知識を持っていることが求められるが、そういう知識を最終的にいつまでにどのようなやり方で身に付けるのかということは基本的にはそれぞれの自由である。また科学が人類共通の「文化」として間違いなく受け入れられているのならば、クローン技術を含めた生命倫理などの問題でも様々な意見を相互に尊重していく必要がある。
「いうまでもなく自然科学はヨーロッパで発達したものであり、東洋にはこれに匹敵するものがなく、わが国では幕末になってからヨーロッパの科学が輸入された結果として、急に発達したものであります。このような歴史的に明白な事実から見ても、一般に東洋的な物の考え方は非科学的であり、東洋的な意識にとらわれることが多ければ多いほど、自然科学の進歩の妨げになるというのが、現代日本の多くの知識人の通念になっているのも無理のないことと思います。ところで私自身も日本人であり、したがって東洋人の一人であり、この特殊の歴史的・地理的環境の中に、特殊の遺伝的素質を持って生れ、かつ成長してきたのでありますから、どんなに努力してアメリカやソ連をも含む、いわゆる西洋に同化しようとしても、そこにはおのずから限度があります。東洋と西洋という問題は、私自身にとっても極めて切実な、そして恐らく一生ついてまわる問題であろうと思われます。私自身の貧しい経験から申しますと、私には一般知識人の方々のように、東洋的なものを単に自然科学に対して否定的なものとばかりはいい切ることができないのであります。もちろん私の場合は一つの例外であって、一般原則とはなりえないかも知れませんが、少なくとも多数の実例の中の統計的な一資料として、何かの御参考になれば大変しあわせであります」(湯川秀樹著、科学者のこころ(朝日選書89) 東洋的思考(1948年)、朝日新聞社、1977年、p155-156)。
現在では大きな文化的摩擦なしにほとんどすべての国で受け入れられているように見える(自然)科学は日本でも一昔前までは異質なものだったのである。民主主義や欧米などの異文化と自分たちの固有の文化との間で激しい摩擦が生じている地球上の別の地域の人たちから見れば日本の経験の中から問題解決のためのヒントを見つけることができるかもしれない。そういう意味でも日本は国際社会に貢献することができるのではないか。
繰り返しになるが、筆者は長期的で大規模な日本独自の教育分野における援助方針などを示す「全地球米百俵計画」(仮称)などをぶち上げる必要があると考えている。もしも日本がヒトもろくなアイディアも共に出さずにただ単にカネだけを出したとするならば、国際社会にも日本国民にも全く説得力はないし、だいいち大きな効果を期待することはできないだろう。最悪の場合には重債務貧困国の債務救済・免除の増額などにしか使われないということになるのかもしれない。まともなアイディアのない援助のすべてを単なる税金の無駄遣いにすぎないなどと断定することはできないが、多くの国民は少なくとも「もったいない」と思うことだろう。
現状では国際社会で「もったいない」とはいったいどういう意味かと質問された場合には、とりあえず「日本の小泉政権のような状態」と答えておけば何となく理解はしてもらえるのだろう。そしてそのすぐ後に他国の指導者がうらやましくなるくらいの高い支持率をずっと維持しているのに「聖域なき構造改革」は中途半端に終わり、いつのまにか「米百俵の精神」のような素晴らしい政策もどこかに忘れてなくしてしまったような状態などと補足説明すれば、日本の政治をある程度知っている人たちならば「なるほど全くその通りだ」と妙に納得してくれることだろう。
小泉首相が「米百俵の精神」などを思い出し、「2007年」というタイミングでの「教育」絡みの諸改革とお気に入りの郵政民営化を結び付けることにより、郵政民営化問題でも「起承転結」の「転」が見えてくるかもしれないのである。
<「教育分野における日本の国際競争力の強化」>
公的部門の代わりに公共の利益を実現しようとする動きを促進しようと考える場合には「全地球米百俵計画」(仮称)に加え、「教育分野における日本の国際競争力の強化」も「基本方針」として採用すべきであると筆者は考えている。そして「教育分野における日本の国際競争力の強化」を考える場合には、「2007年」というタイミングで大規模な「教員の世代間変化」が起こり得るということを明確に意識する必要がある。「教員の世代間変化」は、初等・中等教育(小学校・中学校・高校)においては「団塊の世代の大量退職(2007年-)後の補充」と「少人数授業導入などによる教員採用数の増加」という形によって劇的な形で進行することになるだろう。また高等教育(大学・大学院)においては「大学全入時代到来(2007年度からか?)による学生獲得競争への対応」という形で表れてくることになるのかもしれない。
公教育(義務教育)は民主主義に必要不可欠な「公共財」であると考えている。日本の公教育(義務教育)、初等・中等教育を、他国の人たちが「ぜひ日本に行って勉強してみたい」と思うようになるという意味で「国際競争力」を持つようなものに短期間で変えようと考える場合であっても、あるいは新しい国際社会の中で「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守る」ための地球規模の様々な取り組みを担う人材を効率的に育てる教育に短期間で改革しようと考える場合であっても、新方針に対応できない教員を事実上の「過剰人員」という形で抱えた状態では、国などの公的部門の改革に必要とされるコストは非常に大きくなり、しかも改革はなかなか進まないだろう。2007年というタイミングで「団塊の世代の大量退職後の補充」と「少人数授業導入などによる教員採用数の増加」を通じて速く大規模に進行し始める「教員の世代間変化」は、短期間で大規模な変化を実現することができるもう二度とやってこないかもしれない大きなチャンスなのである。早急に先見性のある明確な目的と方針を持って新しい教育に必要な人材の獲得を始めれば、民主主義をよりよいものにしていくことにつながる「教育分野における日本の国際競争力の強化」の成果が意外なほど速く目に見える形で表れてくるかもしれないのである。
「教育分野における日本の国際競争力の強化」を「基本方針」として採用してその実現を目指した場合のメリットについてもいくつか触れておくことにする。まず(1)前述のような「団塊の世代」と「フリーター」や「ニート」などというラベルを付けられている若者たちが共に取り組むことを想定している「教育」関連分野での創造的な活動が促進されるであろうということを挙げることができる。そして(2)一層グローバリゼーションが進展した場合であっても、教育熱心な家庭ほど海外に流出して日本の「少子高齢化」がますます加速されるなどというような可能性は小さくなり、例えば、社会保障制度の安定などにもプラスの影響があるということも挙げることができるだろう。さらに(3)「国際競争力の強化」は「国際化への対応」ということとも非常に密接に関連しており、例えば公立学校における外国人児童・生徒の受け入れ能力の向上は、グローバリゼーションの負の側面の解消にもつながるということも挙げることができるだろう。子どもが公立学校に通うことによって初めて地域社会とのつながりができるということもあるだろうし、子ども同士が同じ学校でなければ絶対に知り合わないであろう親同士が知り合うこともある。もちろん「公園デビュー」などと同じようにそれぞれの親にはメリットもデメリットもあるが、社会全体から見れば間違いなく大きなメリットがある。「子はかすがい」という言葉は夫婦の間だけではなく見知らぬ大人の間にもあてはまるのかもしれないのである。そして今よりもずっと多くの外国人児童・生徒が日本の学校で日本人の児童・生徒と一緒に勉強するようになれば、(4)「社会化」の過程で受けた様々な影響を含めて日本人と多くのものを共有した外国の人たちの数が増えて将来の協力の可能性が拡大するということも挙げることができるのかもしれない。
なおあくまでも念のために言っておくが、「教育分野における日本の国際競争力の強化」とは、あくまでも他国の人たちでも「ぜひ日本に行って勉強してみたい」と思うようになるという意味での国際競争力の強化であり、「ゆとり教育で学力が低下したからこれからは世界一の学力を目指して厳しくする」とか「50年間にノーベル賞受賞者30人程度」(→参考:2002/10/15号、2005/2/9号etc.)などという底の浅い発想や行動とは全く無関係である。ちなみに日本で一番難しい大学や有名大学を出ても、「世界一の学力」とは何かということやそれを本当に「平均点」や「ノーベル賞受賞者数」などという数値で正確に表すことができるのかということを一歩踏み込んで考えてみることもできない「大人」になったり、「良い仕事に就くために勉強しなさい」などというあまりにも底の浅いことを言っても全く恥ずかしいと思わないような「大人」になったりする事例が続出するのは、今までの日本の初等・中等教育に問題があったからなのか、それとも高等教育に問題があったからなのかは現時点ではよく分からない。
いずれにしても「何のために勉強するのか」という疑問との関連で「学歴」というものにどういう意味があるのかを手っ取り早く知りたいと思ったらまず永田町周辺を見回してみればいい。日本で一番難しい大学や有名大学を出た人たちの中には確かにものすごい人たちもいるが、ビックリするぐらいお粗末な人たちも多い。永田町周辺には「学歴」の持つ意味を考えるための「生きた教材」がたくさんある。永田町周辺を見ても、それでもまだ「学歴」を信仰する人たちは信仰し続けるのだろうか。「学歴」を信仰し続ける前に少なくとも永田町周辺ぐらいは見回してみるべきである。
「何のために勉強するのか」という疑問に対する一つの答えとしては「できるだけ多くの人類の知的資産を使いこなせるようになるため」という答えも考えられるだろう。日本で一番難しい大学や有名大学を出てもビックリするぐらいお粗末な人たちは「伝統的装飾を施した鍵」で「金庫」を開けることができてもその中に入っている人類の知的資産をほとんど使いこなせないような人たちなのだろう。「鍵」自体の数が少なかった大昔ならば、「伝統的装飾を施した鍵」を持っているだけで一生「良い仕事に就く」ことができたのかもしれない。だが、現在では「金庫」を開けてからが本当の勝負なのである。「留学」も同じようなものである。「留学」自体が珍しかった時代ならば海外の有名大学・大学院に留学しただけで一生、大学教授などの「良い仕事に就く」ことができたのかもしれない(→参考:2005/2/9号)。グローバリゼーションが進展している現在では「金庫」を開けてからが本当の勝負なのである。繰り返すが、「学歴」を信仰し続ける前に少なくとも永田町周辺ぐらいは見回してみるべきである。
<「子は親の鏡」、素晴らしい研究者からは素晴らしい研究者>
さて、以前に免許のいらない大学・大学院の教員の能力を「学問の自由」という文脈の中で問題にしたことがあった(→参考:2005/2/9号)。民主主義をよりよいものにしていく諸改革を考える場合にも大学・大学院の教員の能力が問題になってくるのである。なかでも特にいわゆる「有名大学」の場合は、「人類共通の知的生産活動」という観点からだけでなく、政治家・官僚・記者などの永田町周辺の人材養成という観点からも大学・大学院の教員の能力を問題にせざるを得ないのである。永田町周辺の人間たちが何度でも繰り返している「泥仕合」や「茶番劇」などの「意味不明の無用の混乱」と、大学・大学院で「教員」や「研究者と称する人物」が、俗に言う「金魚のフン」のような「海外有名研究愛好会」レベルのもの、何度でも「穴を掘ってすぐにまた埋める」だけの「古典愛好会」レベルのものだけを繰り返し「生産」している状況はビックリするほどよく似ているのである。
大学全入時代到来(2007年度からか?)による学生獲得競争は、俗に言う「金魚のフン」や「穴を掘ってすぐにまた埋める」だけの「人類共通の知的生産活動」とは全く無縁の非生産的活動を専門にしている人間たちにとっては一定の圧力にはなるのだろう。言うまでもなく、俗に言う「金魚のフン」や「穴を掘ってすぐにまた埋める」程度のお粗末な内容では大学・大学院の入学者の減少を他の大学・大学院の入学予定者によって補うことも、あるいは社会人によって補うこともできないだろう。少しでも大学・大学院がどういうところかを知っている人たち、学問とはどういうものかを少なくともある程度は知っている人たち、そしてある程度社会的な経験を積んできた人たちには、俗に言う「金魚のフン」や「穴を掘ってすぐにまた埋める」程度のお粗末な内容では全く通用しないはずである。場合によってはそのことを筆者が責任を持って「保証」と「保障」をしても構わない。
「研究室の運営という点でも、ダルベッコ先生(筆者注:1975年にノーベル生理学医学賞を受賞)は、若い研究者を育てるという観点に大きな比重をおいていました。彼は、大学院生やわたし(筆者注:1987年にノーベル生理学医学賞を受賞した利根川進マサチューセッツ工科大学(MIT)教授(Center
for Learning and Memory(学習と記憶研究センター,CLM)所長)のように新しく入ったポストドクが行くと、『君は何をやりたいのだ』と聞きます。そしてわたしたちからやりたいことを引き出して、それを批判したり、あるいはそれを再構成して、大学院生の学生を含めて、それぞれの若い研究者が一人で主役としてやっていけるようなプロジェクトを決めて、やっていかせるのです…(中略)…こういうわけで、わたしはダルベッコ研究室で、どうやってレベルの高い研究をするかということと、どうやってよりすぐれた若い研究者を育てるかという、研究者にとってもっとも大切な二つの課題について、たいへんな勉強をすることができたと思っています)(「私の脳科学講義」、利根川進著、岩波新書、2001年、p17)「彼(筆者注:ダルベッコ博士)が言った具体的なアイディアはまちがっていたけれど、大局観は正しかった。わたしはああいうふうになりたいと思って、努力しています。彼の弟子にノーベル賞受賞者が四人います。それで見ても、彼がどういう影響を弟子たちに与えたかということが、よくわかります。だから、わたしの大きな夢は、わたしの研究室か、少なくともCLMからノーベル賞受賞者を出すことです。親友のある学者が、わたしがノーベル賞をもらったときに、『ノーベル賞をもらうのはたいへんむずかしく、すばらしいことだけど、もっとむずかしいことがある』と言うのです。何かというと、それは『自分の弟子がノーベル賞をもらうことだ』と言うのです。ダルベッコ先生は、そういう意味でもすばらしい人です…(後略)」(同p138)
「けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる/とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる/不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる/『かわいそうな子だ』と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる/子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる/親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる/叱りつけてばかりいると、子どもは『自分は悪い子なんだ』と思ってしまう/励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる/広い心で接すれば、キレる子にはならない/誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ/愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ/認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる/見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる/分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ/親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る/子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ/やさしく、思いやりを持って育てれば、子どもは、やさしい子に育つ/守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ/和気あいあいとした家庭で育てば、/子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる」(筆者注:「/」は改行を示す。「子は親の鏡」、ドロシー・ロー・ノルト作。「子どもが育つ魔法の言葉」、ドロシー・ロー・ノルト/レイチャル・ハリス著、石井千春訳、PHP文庫、2003年、より)。
師弟関係などとも呼ばれる学問上の親子関係をたどっていくと、素晴らしい研究者も、俗に言う「金魚のフン」のようなおかしな人間たちも「いもづる式」に見つけ出すことができるのだろう。「突然変異」という例外もあるのかもしれないが、素晴らしい研究者は素晴らしい研究者を生み出し、逆に「人類共通の知的生産活動」がどういうものかを全く知らない人間は「人類共通の知的生産活動」ができない人間を生み出していくことになるのだろう。「親の顔を見てみたい」などと言われるべきなのは、幼い子どもではなく、実はいい歳をした「大人」なのである。そして意味のある研究のやり方を教えてもらわなかった人間が意味のある研究ができなかったとしてもある意味では当然だし、学問の本当の面白さを教えてもらわなかった人間が学問の本当の面白さを知らなかったり、学問の本当の面白さを教えることができなかったりしても全く何も不思議なことではないのである。
初等・中等教育でも高等教育でも、その学問の本当の面白さを伝えることができないような人間が教員になるべきではないのである。人間性や能力に問題のある教員の存在によって将来有望な子どもたちの可能性が次々と奪われていくようなことは現実に存在する深刻な問題である。そして免許が必要な小学校・中学校・高校などの教師だけではなく、免許のいらない大学・大学院の教員も人間性や能力が問題にされなければならないのである。人間性や能力に問題のある教師や教員の「バカの壁」を鋳型にして前途有望な若者が次から次へとそんな教師や教員と同じような人間に作り替えられてしまったらそう遠くないうちに人類は滅びてしまうだろう。
<「教育」と日本の現実政治における「世代間変化」>
繰り返しになるが、筆者は公的部門の代わりに公共の利益を実現しようとする動きを促進しようと考える場合には「核」となる「基本方針」として「全地球米百俵計画」(仮称)と「教育分野における日本の国際競争力の強化」という2つの方針を採用すべきであると考えている。そしてこの2つの基本方針をより安定した「核」にするためには、日本という国の基本方針として採用されることが望ましいと考えている。そういう意味で遅くとも2007年秋までに行われる次期総選挙で政権担当能力のある政党の「政権公約(マニフェスト)」に「教育」関連の様々な政策が体系的に盛り込まれ、総選挙の争点になることが望ましいと考えている。そしてその様々な「教育」絡みの改革が争点となる次期総選挙では「教育」という「公共財」を利用して改革を促進していく政治家の数を可能な限り増やし、様々な意味で不適切な政治家たちを可能な限り多く落選させ、日本の民主主義をよりよいものにする改革を飛躍的に進展させることを目指すのである。繰り返しになるが、日本は「民主主義立国」を目指していくべきであり、できれば日本という国の基本方針として採用されるような「核」となる「基本方針」が必要だと筆者は考えているのである。
前回(→参考:2005/5/17号)、日本の現実政治においてプラスの意味での「世代間変化」が考えられる具体例として挙げたように、「55年体制崩壊」(1993年)後、あるいは小選挙区比例代表並立制導入(1996年)後に初当選した代議士たちはそれ以前に初当選した代議士たちと比べて政権維持や政権交代よりも自分たちが掲げた政策の実現を優先する傾向が強いという点で異なっているのではないかと期待することができるのかもしれない。そんな新しい世代の代議士たちが初当選してから約10年が経過し、そろそろ旧世代との明確な違いを持っているのかどうかということを実際に確認してみることができるようになってきているのである。そしてもしもそれぞれの政治家としての資質・能力を効率的に見抜いて不適切な人物だけを選挙という手段で排除することができるのならば、「世代間変化」を大きく加速させることができることになる。
もしかしたら「なぜ約10年も時間をかける必要があるのか」「なぜ一回の選挙でほとんどの政治家を入れ替えてしまうような劇的な方法を考えないのか」などと思う読者もいるかもしれない。だが、今後は「新世代」が中心になっていくという流れが後戻りできない不可逆的なものになって初めて変化は確実なものになるのである。約10年間という時間は「本物の政治家」(→参考:2005/5/17号)として正しく経験を積み重ね、ある程度の役割を果たすことができる地位にいる「新世代」の政治家たちの数を増やし、さらに彼・彼女たちの後ろには「新世代」の政治家たちが続々と続いているという状態を生み出すために必要となる最短の期間なのである。そしてこの状態ですべての当選回数・年齢に渡って偏りなく「偽者の政治家」を激減させることができれば、「新世代」の政治家たちが中心的な役割を果たしていくという不可逆的な流れはほぼ確実なものになるのである。
たった1回の選挙でこれから「本物の政治家」になっていく新人の議員がいくら大量に政界に誕生したとしても後からどんな人間が続くのかは定かではないのである。先輩の「偽者の政治家」に新人の議員のほとんどが「汚染」されていく可能性もあるし、次回以降の選挙では「偽者の政治家」になる新人の方が多く当選していくかもしれないのである。「リバウンド」の危険性を極力低く抑えようと思うのならば、「新世代VS旧世代の闘い」などという「空騒ぎ」や「バブル」は極力避けなければならないのである。
そして次に問題になるのは、実際にどうしたら政治家としての資質・能力を効率的に見抜いて不適切な人物だけを選挙という手段で排除することができるのかということである。筆者は数年前から政治家にできるだけ多く「教育」のことを語らせればその政治家の資質・能力を効率的に見抜くことができると考え始めている。日本の場合には、どんな政治家も例外なく教育を受けた経験があるのだから、非常に専門的な内容にまでは踏み込むことができなかったとしても、どんな政治家でも教育について語ることぐらいはできるはずである。そして一般的には政治家の教育観にはそれまでのすべての経験が凝縮されていると考えることができる。つまり「教育」は政治家の資質・能力を判断する指標としても最適なものの一つであると考えられるのである。
しかも日本の場合には有権者の側も例外なく教育を受けているから、非常に専門的な内容にまで踏み込む必要がないのならば、誰でも実体験を踏まえながら政治家の資質・能力を判断することも不可能ではないということになる。現時点においても「教育」は民主主義をよりよくするという手段としてだけではなく、政治家の資質・能力を判断する指標としても「公共財」になっているのである。したがって次期総選挙で各政党が「政権公約(マニフェスト)」の中に教育への様々な取り組みを積極的に取り入れ、各政党・各政治家の間で教育関係の政策を中心にした活発な政策論争を行うという「流れ」を作り出すことができるのならば、日本の民主主義をよりよいものにする改革につながる「世代間変化」を大きく加速させることができる可能性が高くなると筆者は考えているのである。
そして「教育」を政治家の資質・能力を判断する指標として用いる場合にも、「偽者の政治家」の「詐欺師モデル」、「ギャング(強盗)モデル」、「パラサイト(寄生虫)・ニート(Not
in Education, Employment or Training)モデル」とでも呼ぶべき3種類の「ビジネス・モデル」とその変種(→参考:2005/5/17号)を意識することによって政治家の本性を簡単に見抜くことができるのである。日本で「落選運動」が解禁されてもされなくても、筆者ならば政治家の資質・能力を判断するための材料を分かりやすい形で多くの読者に提供することができると考えている。
「教育の原点は、幼児教育にあると考えています。生まれてから、歩くようになり、言葉を覚えていく、誰もがたどる道ですが、この時期の教育が、実は非常に重要だと思うからです」「昔、ある教育者から聞いた言葉に、『幼児教育とは、しっかり抱いて、そっと歩かせる。このことに尽きるんです』というのがありました。なるほど、集団に入る前、集団という存在を知る前は、自分が接触する対象は家族に限られています。このとき、身近にいる人との接触、ふれあいによって他者を意識し、他者からの愛情を知るわけですが、『しっかり抱いて、そっと降ろす』ことが充分であればあるほど、人間形成がいい方向に向くんじゃないでしょうか。そしてこのことが、充分であるか否かによって、その子供の将来は大きく変わってしまうとも言えるでしょう」(p68-69)「日常生活のなかで他人の存在を認識し、その他人を受け止め、信頼することを知るのと知らないのでは、その後の精神的、情緒的な人間形成が変わるはずです。私は、この幼児教育期間にじっくり手をかけることが、その後の教育について大きな意味をもってくると考えます。そしてこれは、私の教育論の基本ともなっているのです」(p70)「日本は、学校の成績が優秀であれば、どんな家庭の子弟でも、官僚などに登用される機会がある国とされています。官僚だけでなく、民間のいい会社への就職もできるようになっています。安定した生活を得られる上、社会的なリーダーとして尊敬を受けるかもしれない、こういう立場は誰もが憧れるものです。安定した地位を手に入れようとするため、どうしても学校の成績をよくしようと必死になる構造が生まれています。親は結果として、学校の成績だけに目を奪われてしまいます。子供本人が、安定など求めたくないと思っても、親がそれを許さないところがあります。それが、日本社会の一般的な願望となっているのは、疑いようもありません。従って教育も、子供の願いより親の願いが優先されてしまっているのは、実に不幸なことと言えましょう。言ってみれば今の教育は『親』自身の満足のためのもので、『子』が不在となっているかのようです。これが、教育を歪めていることは否めません。しかも、学校に期待し、一方で学校を信じられずに塾にゆだねるという現象があります。金は使うが、何から何まで他人まかせ。幼児期のふれあい(しっかり抱きとめる)を放棄するだけでなく、ひたすら学校成績のアップだけを望む。こうした環境のなかで、子供の人間形成が難しくなっていくのは当然でしょう」(p72-73。以上、小泉純一郎著、「小泉純一郎の暴論・青論」、集英社、1997年から)
郵政民営化と政局ぐらいにしか興味を持っていないように思われている小泉首相だが、実は「教育族」よりも教育通かもしれないのである。仮に「教育通」とまでは言えなかったとしても、どんなに少なくとも「楽市・楽座」と「関所の廃止」の正しい関係が分からない政治家(→参考:2004/3/23号etc.)や「良い仕事に就くために勉強しなさい」などという底の浅いことを言うような政治家よりもはるかにレベルが高いということは多くの人たちも少し考えればすぐに気づくことができるだろう。
「他人に厳しく自分に非常に甘い自己中心的な政治家」の「師弟関係」に注意してみると「いもづる式」に「他人に厳しく自分に非常に甘い自己中心的な政治家」を見つけ出すことができるのかもしれないし、様々な不適切発言をする政治家の「師弟関係」に注意してみると「いもづる式」に問題のある政治家を見つけることができるのかもしれない。もちろん「突然変異」ということもあるのだろうが、多くの場合は、「本物の政治家」からは「本物の政治家」が生まれ、「偽者の政治家」からは「偽者の政治家」が生まれるのだろう。できるだけ多くの政治家たちの「化けの皮」をはがすためにできるだけ多く「教育」について語らせてみたいものである。
<日本は「民主主義立国」を目指すべき>
ここまで長々と「教育」絡みの諸改革の実現といくつかの重要問題の解決を目指して筆者が作成した「設計図」の原案を示してきた。2007年というタイミングで一連の「教育」絡みの諸改革に着手してそれらの実現を目指すことによって日本の政治を劇的に変えることができるかもしれないのである。そしてその日本の政治における劇的な変化は、選挙を通じた「民主主義」によって世の中を何度でも劇的に変えることができるという実例になり、国際社会における「民主主義」の説得力を高めることに貢献することができるようになるかもしれないのである。くどいようだが、日本は「民主主義立国」を目指すべきだと筆者は考えている。日本は、西欧生まれの「民主主義」を自分たちの創意工夫によって改良し続け、そしてその日本なりの「民主主義」が新しくソフト・パワーを生み出していくような国家を目指すべきであると筆者は考えている。
もちろんここまでに示してきた2007年をタイミングにした一連の「教育」絡みの諸改革の実現を目指しながら日本の民主主義をよりよいものにしていくなどという筆者の構想はかなり大雑把なものだし、実際に物事を進めていくと予想外の困難なことに直面して前に進まなくなることもあるだろう。だが、そういう未完成の状態でもあえて構想を明らかにする意味はあるのである。未完成の状態でもあえて構想を明らかにすることによって、多くの人たちからよりよいアイディアや協力が得られるようになるかもしれないのである。さらにあえて構想を明らかにすることによって、政権担当能力のある政党の「政権公約(マニフェスト)」に「教育」関連の様々な政策が体系的に盛り込まれるなどという形で「教育」が政治的に大きな争点になっていくことにつながるのならば、有権者にとっては「偽者の政治家」を見分けて間違いなく落選させることも非常にやり易くなってくるだろう。「楽市・楽座」と「関所の廃止」の正しい関係も分からないような人間が地球環境や将来の世代に無責任な「高速道路無料化」などを声高に唱えたり、多くの国民にはよく分からない形で「追加マニフェスト」なるものをこっそりと追加したことにしてしまったりするような最低最悪の「マニフェスト選挙」(→参考:2003/12/8
(6/8)号)よりも何段階かレベルの高い選挙を実現することにつながっていくのかもしれない。
そして未完成の状態でもあえて構想を明らかにして多くの人たちの協力などを求めることを強く意識したのが前回(→参考:2005/5/17号)長々と説明した「設計図法」(仮称)とでも呼ぶべき考え方なのである。念のために言っておくが、「設計図法」(仮称)という表現は単なる比喩であり、まだ見えない将来の共通利益などを分かり易く説明することができるのであれば、図表を使っても文章だけで説明してもどちらでも構わない。「設計図」という表現を用いた理由をあえて挙げるならば、日本の過去の実績を思い浮かべたからということになる。日本には「『設計図』を紙飛行機にして飛ばしたら次の日には『製品』になって戻ってくる」と言っても全くの嘘にはならない地域がまだいくつか残されているはずである。また日本は独創的な研究・発明がとても少なく、外国の発明・技術などを改良してよりよい製品を作るのが非常に得意であり、それを世界中に売ってきたなどと言われ続けてきた。筆者は日本に独創的な研究・発明が少ないとは必ずしも思っていないが、日本が外国の発明・技術などを改良してよりよい製品を作ることが非常に得意であるということは間違いないと考えている。それならば西欧生まれの「民主主義」も日本で改良に改良を重ねてよりよいものにして日本から世界中に広げていくことも夢ではないのかもしれないと筆者は思っている。
ちなみに「設計図法」の明確な成功例はまだないが、「設計図法」と似たような考え方での成功例はインターネットの世界には既に存在する。それは複製・修正・再配布などが自由に認められた状態で世界中の技術者が開発を行う「リナックス(Linux)」のようなオープンソース型のプログラムである。「リナックス」と同じように、「設計図法」では諸課題の解決のために必要なものやその方法も示されているから、日本人に限らない多くの人たちが解決過程に参加したり「設計図」を改良したりすることによって民主主義をよりよいものにしていくことを期待することができるのである。
<何のために勉強するのか>
当たり前と言えば当たり前の話だが、前述した一連の「教育」絡みの諸改革の実現過程を追跡してそれらの持つ意味や全体像などを興味・関心を持っている人たちに説得力を持って伝えることができるのは現時点ではおそらく筆者だけである。一連の「教育」絡みの諸改革が時代から選ばれるのならば、おそらく筆者も共に時代から選ばれ、このまま一連の「教育」絡みの諸改革の実現過程を追跡し、それらの持つ意味などを論じ続けることになるのだろう。筆者は2007年というタイミングで一連の「教育」絡みの諸改革に着手することが最も効果的であり、そうすることによって様々な国際問題と国内問題を「いもづる式」に解決することも可能になると考えている。だが、様々な理由から筆者の考えるような一連の改革が見向きもされなかったり実現されなかったりする可能性も高いのである。
2007年というタイミングでの「起承転結」の「転」を作り出そうとする一連の「教育」絡みの諸改革がどんな運命に終わるのかはよく分からないが、少なくとも今の時点から新たな「世代間変化」を引き起こすことが可能になる程度の影響力や破壊力は確保しておく必要がある。そうすれば「世代間変化」を通じて多数になった将来の世代が一連の「教育」絡みの諸改革を将来の実情に合わせた形に変えながら実現を目指す可能性を残すことができるからである。筆者と一連の「教育」絡みの諸改革が時代から選ばれたかどうかは早ければ郵政民営化「茶番劇」が本格化するころには筆者自身によってある程度明らかにされるのだろうし、どんなに遅くとも10年、20年後には将来の世代によって将来の世代と彼らのアイディアが時代から選ばれたかどうかということと共に明らかにされることになるのだろう。
「何のために勉強するのか」ということについて筆者があえてここで答えなければならないとするのならば、「できるだけ多くの人類の知的資産を使いこなし、それらを創意工夫によって少しずつ良いものに変えていくため。そしてそうやって蓄積してきたすべてのものを、前の世代から受け継いだものをさらに良いものに変えていくという『伝統』と共に次の世代に間違いなく伝えていくことができるようにするため」ということになる。永田町周辺に限らず思わず親の顔が見てみたくなるような人間が急増している。日本は「民主主義立国」になることができるのか。
(日本の政治)
衆院予算委(→5/16。小泉首相も出席。靖国問題も。福田康夫前官房長官らが質問)が開かれた。衆院本会議で郵政民営化特別委が設置され(→5/20。自民、公明の賛成多数で。委員長には二階俊博・元運輸相、与党筆頭理事には山崎拓元自民党副総裁を起用。山崎氏は理事に集中するため首相補佐官を辞任。民主、社民は特別委設置に反対して本会議を欠席)、郵政民営化関連法案の趣旨説明と質疑が行われた(→5/26。小泉首相が出席。自民、公明、共産が質疑。審議拒否中の民主などは欠席)。民主などは審議拒否を続けたが、すぐに自民と国会正常化で合意(→5/31)した。小泉首相らが衣替えでノーネクタイ・ノー上着姿を披露した(→6/1。「クールビズ」。地球温暖化防止対策の一環。小泉首相がブルーの沖縄の軽装「かりゆしウエア」)。そして国会正常化後に衆院予算委(6/2。小泉首相に岡田克也民主党代表らが質問。ノーネクタイ・ノー上着で)、衆院郵政民営化特別委(→6/3、6/15には小泉首相が出席。なお6/3に自民党の綿貫民輔前衆院議長らが郵政公社を前提とする法案を衆院に「提出」(→所属会派の了承を得ていないので慣例により不受理へ))が開かれた。ちなみに小泉首相側の意向で郵政民営化に消極的だった総務省幹部2人を更迭(→事実上降格)する人事が固まったなどと報道されて波紋(5/13)が広がった。
そして通常国会の8/13まで55日間の会期延長が決定した(→6/17。衆院本会議で川崎二郎衆院議運委員長解任決議案を否決後、自民・公明の賛成多数で会期延長を決定。6/19までの会期は8/13まで55日間延長。なお飲酒した代議士が衆院本会議場にいるなどと抗議して民主などが一時投票を拒否、自民・民主双方が懲罰動議提出の応酬)。また衆院決算行政監視委(→6/22。小泉首相が出席。岡田克也民主党代表らが質疑。日韓首脳会談、靖国問題など。なお小泉首相は民主党が提出した首相らの酒気帯びを理由にした懲罰動議は事実無根と強く抗議)が開かれた。
民主党の岡田克也代表の就任から1年が経過した(→5/18。外交・安全保障政策の提言「『開かれた国益』をめざして」を発表)。
中国の呉儀副首相が小泉首相との会談を「緊急の公務」のために直前になってキャンセルして帰国したことで波紋が広がった(→5/23午後に帰国。会談は5/23夕の予定だった。5/25に政府は中国の呉儀副首相の会談キャンセル問題について今後は論評せずと)。自民党の武部勤幹事長と公明党の冬柴鉄三幹事長が北京で中国の胡錦濤国家主席(→5/22。胡主席は目にしたくない動きが日本にあるなどと。靖国神社参拝、歴史教科書問題、台湾問題の3点で不満らしい)、唐国務委員(前外相。5/21)と会談した。
なお小泉首相が河野洋平衆院議長と会談した(→6/7。河野議長は靖国神社参拝について慎重に判断するよう求め、小泉首相は中国・韓国の理解は得られている??などと答えたらしい)ちなみに改正祝日法が成立した(→2007年から昭和天皇の誕生日だった4/29(みどりの日)を「昭和の日」に、5/4(国民の休日)を「みどりの日」に変更)。2004年の合計特殊出生率(→1人の女性が生涯に産む平均子供数)が1.29だったことが明らかになった(5/31)。政府は経済財政諮問会議と臨時閣議で2006年度予算編成の指針となる「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2005」(骨太の方針第5弾)を決定した(6/21)。
小泉首相は戦没者追悼式出席のため硫黄島(東京都小笠原村)を訪問した(→6/19。現職首相の硫黄島訪問は初)。また小泉首相は沖縄全戦没者追悼式などに出席した(6/23)。
小泉首相はモスクワで行われた対独戦勝60周年記念式典に出席、ロシアのプーチン大統領と会談した(5/9。5/10帰国)。その後も小泉首相は首相官邸でカンボジアのフン・セン首相(5/12)、フィンランドのバンハネン首相(5/13)、パレスチナ自治政府のアッバス議長(5/16)、アフガニスタンのアブドラ外相(5/18)、スロバキアのズリンダ首相と会談(5/23)、シンガポールのリー・シェンロン首相(5/24)、マレーシアのアブドラ首相(5/25)、ブラジルのルラ大統領(→5/26。国連安保理改革、日系ブラジル人支援などで一致)、ポルトガルのサンパイオ大統領(5/26)、インドネシアのユドヨノ大統領・ルーマニアのバセスク大統領・ニュージーランドのクラーク首相(いずれも6/2)、アルメニアのマルガリャン首相・カタールのハマド首長(いずれも6/8)、カザフスタンのアフメトフ首相(6/14)、チェコのパロウベク首相(6/22)らと会談した。
小泉首相が韓国・ソウルを訪問して盧武鉉大統領と青瓦台(大統領府)で会談し、会談後には記者からの質問を受け付けない異例の「共同記者発表」を行った(→6/20。靖国問題・歴史認識問題などでは平行線。事前の外交ルートでの合意事項以上の合意はなかったという。第2期歴史共同研究の開始、研究成果を両国の制度の枠内で教科書編集の参考とするよう努力すること、金大中前大統領時に小泉首相が表明した新たな追悼施設を国民世論などを考慮し検討することなどで合意したという。次回の首脳会談は年内に日本で。なお羽田-金浦間のシャトル便は8/1から1日4便から1日8便に増便へ。今回はネクタイありでぎこちない握手の会談だった。小泉首相は6/21帰国)。
町村信孝外相が日本を訪れたロシアのラブロフ外相と会談した(→5/31。プーチン大統領の訪日は11月以降か)。町村外相がベトナムでファン・バン・カイ首相・ニエン外相(6/9)、カンボジアでフン・セン首相ら(6/10)と会談した。森喜朗前首相がロシア・サンクトベテルブルクでプーチン大統領と会談した(→6/14。大統領は11月に日本を訪問する予定を伝える)。
ちなみにタイ・バンコクのスパチャラサイ国立競技場で行われた2006年サッカー・ドイツW杯アジア最終予選B組の第5戦、日本代表(4勝0分1敗、勝ち点12)は北朝鮮代表(0勝0分5敗、勝ち点0)を2-0で破って3大会連続のW杯出場を決定した(→6/8。国際サッカー連盟(FIFA)の北朝鮮に対する処分のために第三国で観客なしという異例の「無観客試合」という形式だった)。
(韓国・北朝鮮関連)
北朝鮮が稼働を停止した寧辺の実験用黒鉛減速炉から再処理でプルトニウムを抽出可能な使用済み核燃料棒8000本の取り出し作業を完了したなどと発表した(5/11)。米国政府当局者が5/13にニューヨークの北朝鮮国連代表部を訪れて北朝鮮を主権国家と認めて6カ国協議への復帰を求めていたことなどが明らかになった(5/19)。さらにニューヨークで米国と北朝鮮が実務レベルの接触をしていたことも明らかになった(→6/6。北朝鮮は6カ国協議への復帰に前向きな姿勢を示すも、具体的な期日などを示すことはなかったという)。北朝鮮の金桂寛(キム・ケグァン)外務次官が米ABCテレビのインタビューで核保有・核爆弾製造継続を明言した(→6/8に放送)。
韓国と北朝鮮の南北次官級会談が北朝鮮の開城で行われた(5/16)。そして韓国は北朝鮮に提供する肥料の輸送を開始した(→5/21。20万トン。田植え前に緊急に提供。南北次官級会談で合意)。韓国の金大中前大統領と北朝鮮の金正日総書記による南北共同宣言5周年(6/15)を記念する行事などに出席するため韓国政府代表団などが北朝鮮・平壌を訪問(6/14)した機会に金正日総書記が韓国の鄭東泳統一相と会談した(→6/17。韓国統一相によると、金総書記は米国が北朝鮮を交渉相手として認めて尊重するのならば7月中にも6カ国協議復帰の用意があるなどと発言したという。また6/20には金総書記が統一相との会談で米国との国交正常化が実現したら長距離(?)ミサイルを廃棄する用意があるなどと述べたらしいことも明らかになった)。そして韓国と北朝鮮による南北閣僚級会談が約1年1カ月ぶりにソウルで行われた(→6/21-6/23。朝鮮半島の非核化が最終目標であると確認するなどの合意を盛り込んだ共同報道文を発表)。
米国のブッシュ大統領と韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領がホワイトハウスで首脳会談した(→6/10(日本時間6/11未明)。北朝鮮に6カ国協議への復帰を促す。共同記者会見では北朝鮮の核問題を平和的・外交的に解決する方針・朝鮮半島の非核化という目的の一致、米韓両国の同盟関係をあえて強調?)。ブッシュ米大統領は北朝鮮で強制収容所に収容されていた経験を持つ北朝鮮から韓国に亡命した朝鮮日報記者の姜哲煥氏とホワイトハウスで面会した(6/13)。なお米国は人道目的で北朝鮮に食糧5万トンの支援を決定した(6/23)。
国土交通省は北朝鮮の大型貨客船「万景峰92」に改正船舶油濁損害賠償保障法に基づいて入港を認める証明書を交付した(→5/11。日本入港に必要な油濁汚染を賠償する船主責任保険(PI保険)に加入していることを示す証明書)。そして「万景峰92」が約5カ月ぶりに新潟西港に入港した(→5/18。国土交通省が入港証明書の確認、船舶安全性検査(ポート・ステート・コントロール(PSC)を実施、など)。
なお韓国外交通商省は駐韓日本大使を呼んで谷内外務事務次官が韓国の与野党国会議員団に対して「米国が韓国に不信感」などと発言したとされることについて抗議した(5/26)。北朝鮮による拉致被害者の蓮池薫さん(47歳)が翻訳した小説が発売されることが明らかになった(→5/25。韓国の歴史小説「孤将」(新潮社))。北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさんの夫のジェンキンスさんが約40年ぶりに故郷の米国ノースカロライナ州ウェルドンに帰郷した(→6/14。6/22に帰国。曽我さんと2人の娘と共に。母親と再会、現地の報道は冷ややかだったという)。
長崎県対馬付近の日本の排他的経済水域(EEZ)内で立ち入り検査しようとした海上保安部の巡視艇から韓国のアナゴ漁船が逃走、韓国側が漁船や船長らの引渡しに応じていなかった問題が決着した(→6/2。5/31深夜に韓国漁船は追跡・強行接舷して乗り込んだ海上保安官2人を乗せたまま約2時間半逃走、韓国側EEZ内(領海外)で韓国海洋警察庁の警備艦に接舷して停船。海上保安官2人は無事。日本側は漁業法違反(立ち入り検査忌避)の容疑で引渡しを要求するが、韓国側は応じず。ちなみに国連海洋法条約(111条(追跡権))では日本側に捜査権限がある。そして海上保安庁と韓国海洋警察庁が漁船をはさんで協議、日本側に漁船の船長が漁業法違反(立ち入り検査忌避)容疑を認める書類と50万円の担保金を支払う保証書を提出したため、6/2夕までに船長と漁船を韓国側に引き渡して42時間ぶりに収束)。
韓国の李首相が中国・北京を訪問して温家宝首相と会談した(→6/21。北朝鮮核の6カ国協議再開問題など)。
(中国・台湾関係)
中国の胡錦濤・総書記(国家主席)が北京で台湾の第2野党・親民党の宋楚瑜主席と会談(5/12)した。台湾で憲法改正を承認する国民大会の代表選挙が行われた(→5/14。与党・民進党が勝利、憲法改正案を承認へ)。
日本と中国の外務次官級の「総合政策対話」が北京で行われた(→5/13-14)。東シナ海のガス田をめぐる日中局長級実務者協議も北京で行われた(→5/30-5/31日中の主張は平行線)。
なお2003年6月に福岡市で一家4人が中国人3人に殺害された事件で強盗殺人などの罪に問われた中国人の男に福岡地裁は求刑通り死刑判決を言い渡した(5/19)。
シドニーの中国総領事館の領事(37歳)がオーストラリアに政治亡命を求めていたことが明らかになった(→6/4。反体制派の監視を担当。中国当局による反体制派の拉致・強制送還などを主張、反発。領事は1989年の天安門での学生デモに参加、再教育後に外交官になったという)。
台湾漁船約50隻が尖閣諸島近海(→与那国島の北の日本の排他的経済水域(EEZ)内)で日本の操業取り締まりに抗議した(6/9)。台湾海軍のフリゲート艦に国防相や国会議長らが乗って与那国島や尖閣諸島周辺の海域を視察した(→6/21。日本の排他的経済水域(EEZ)には入らなかったという)。
(イラク関係)
イラクのイスラム教スンニ派過激武装勢力「アンサール・スンナ」がイラク西部で銃撃戦の末に重傷の英警備会社ハート・セキュリティに所属する斎藤明彦さん(44歳)を拘束したなどとインターネット上に犯行声明(5/9)を出した。そして武装勢力が斎藤さんは死亡したなどとして新たな映像を公開した(→5/28。斎藤さんとほぼ断定)。イラクで武装勢力に誘拐されたフランス紙・リベラシオンの女性記者とイラク人通訳が約5カ月ぶりに解放されたことが明らかになった(6/12)。
陸上自衛隊第6次イラク復興支援群の第1陣がサマワの宿営地に到着(5/15)した。イラク・サマワで移動中の自衛隊の車列を狙ったと見られる爆発が発生(→6/23。遠隔操作?で道路脇に仕掛けられた爆弾が爆発。4台の車列の3台目の高機動車1台のフロントガラスにひびが入り、ドアもへこむなどしたという。けが人などはなし)。
米国のライス国務長官が電撃的にイラク訪問(5/15)した。英大衆紙サンが米軍関係者から入手したとするイラクで拘束中のフセイン元大統領の下着姿などの写真を掲載した(5/20。米軍はジュネーブ条約違反の可能性もあるとして内部調査)。
(その他)
ウズベキスタン東部アンディジャンでカリモフ大統領辞任などを要求する大規模な反政府暴動が発生、軍が発砲するなどして制圧(5/13)、多数の住民がキルギス国境付近に押し寄せたなどと伝えられている(→5/18に日本大使を含む各国大使などが当局の監視の下で現場を視察するも市民との接触はできず)。
キューバの米グアンタナモ基地で米軍尋問官がコーランをトイレに流して冒涜したなどという米ニューズウィーク誌の記事が誤報だったことが明らかになった(→5/16。記事をきっかけに世界各地で反米デモが発生していた)。米国防総省はグアンタナモ基地で米軍尋問官や看守がコーランを蹴飛ばしたり踏みつけるなどの不適切な行為(→参考)が5件あったという最終報告書を公表(6/4)した。
米国のニクソン元大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件(1972年)での主要情報源「ディープ・スロート」が当時の米連邦捜査局(FBI)副長官だったマーク・フェルト氏(91歳)だったことを本人自ら月刊誌に認めたことが明らかになり、ワシントン・ポストも同氏が「ディープ・スロート」だと認めた(5/31)。
ブッシュ米大統領はホワイトハウスでパレスチナのアッバス議長と会談した(5/26)。またブッシュ大統領はベトナムのファン・バン・カイ首相とホワイトハウスで会談した(→6/21。ベトナム首相の訪米はベトナム戦争終結(1975年)後初)。
米国は安保理改革を含む国連改革に関する包括提案を発表した(→6/16。新安保理常任理事国は日本を含む2カ国程度で拒否権なし、などと)。
ニューヨークの国連本部で開かれていた核拡散防止条約(NPT)再検討会議は事実上決裂状態で閉幕した(→5/2-5/27。各国の意見が対立したまま何の成果もなく終了)。
欧州連合(EU)憲法条約の是非を問うフランス国民投票で批准が否決(5/29)されて大きな波紋が広がった。批准否決を受けてフランスのシラク大統領はラファラン首相の辞表を受理、後任の首相にドビルパン内相を任命した(5/31)。さらにEU憲法条約はオランダでも国民投票で否決(6/1)された。また欧州連合(EU)域内での自由な人の移動を促す協定など(→「シェンゲン協定」。共通難民政策を定めた「ダブリン協定(条約)」)加盟の是非を問うスイスの国民投票は賛成多数で可決(6/5)された。フランスのシラク大統領とドイツのシュレーダー首相がベルリンで緊急会談を行った(→6/4夜。フランスとオランダの国民投票でEU憲法条約批准否決を受けて。批准手続き続行を確認)。そして英国のストロー外相は欧州連合(EU)憲法条約の賛否を問う国民投票(→来年初に予定?)の凍結を発表(6/6)した。そしてブリュッセルで開催されていた欧州連合(EU)首脳会議が決裂した(→6/18。2007-2013年の中期財政計画の策定を巡る英国の還付金の削減問題で英仏両国が対立。EU共通農業政策による農業保護補助金の受益が少ない英国だけに還付金がある。なお憲法条約問題は先送りしている)。
イラン大統領選は第一回投票(6/17)で過半数を得る候補がなく、初の決選投票(6/24)が行われ、有力と言われた保守穏健派の前大統領のラフサンジャニ最高評議会議長を破って保守強硬派のアフマディネジャド・テヘラン市長が新大統領に選出された(6/25)。
イスラエルのシャロン首相とパレスチナのアッバス自治政府議長との首脳会談がエルサレムで行われた(→6/22。実質的に何も進展なし)。
今回は前回(2005/5/11)からわずか約1週間である。どうやら永田町周辺では筆者が使用する「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化する手法の威力を実感し始めているようである。特に都合の悪い過去だけを選択的に忘れようとしても自分の「バカの壁」にも跳ね返されてしまう勘違いした政治家とその周辺の人間たちは手も足も出ないようである。これから民主主義のルールに基づいて勘違いした政治家たちが選挙で議員バッチを奪い取られて「ただの人」になったり、「泥仕合」や「茶番劇」に喜んで巻き込まれるような能力のないおかしな「記者」が淘汰されて「普通のブロガー」になったりするような実例がいくつか出てくれば、さらにもっと多くの人たちに複数の視点によって相対化する手法の威力を実感してもらえるようになるのかもしれない。
前回の後半部分では日本と中国や韓国などの問題についての具体的な「将来の共通利益」などの話をしてきた。今回は「将来の共通利益」を実現するために必要なことを考えていくことにする。実は筆者が取り上げてきた「共通利益」とか「井戸の水」などというものは、国際政治学や経済学などでよく使われる「公共財」という言葉とほぼ同じものである。しばらくの間は避けて通ることのできない「詰まらない話」が続くことになる。
<「公共財」とは何か>
最初に「公共財」がどのような性質を持っているかということを確認しておく必要がある。経済学では「財」の種類を(1)排除可能性と(2)競合性などという2つの性質に着目して分類している(→参考:例えば、スティグリッツ公共経済学(第2版)(上)、マンキュー経済学T(ミクロ編)、共に東洋経済新報社など)。食料品などの普通に店で売っている「商品」の場合には、基本的には(1)代金を払わなければ「商品」を自分のものにしたり利用したりすることはできないし(→「排除可能性」がある)、(2)ある人がその商品を先に買ってしまったら他の人は(同じ種類の別の商品を買うことはできても)全く同一の商品を買うことはできなくなる(→「競合性」もある)。よって問題なく売ったり買ったりすることができるのである。このような普通の「商品」は「私的財」と呼ばれている。
また世の中には店で売ったり買ったりするのに不向きな(1)利用者が代金を支払わなくても利用できるタイプの「財」もある(→「排除可能性」がない。あるいは排除が困難)。そして(2)誰かが利用しても別の誰かの利用に影響を与えないのもの(→「競合性」がない)は「公共財」、誰かが利用すると別の誰かの利用に影響を与えるもの(→「競合性」がある)は「共有資源」などと分類されている。
「公共財」の具体例としては、国防・警察、あるいは道路などのインフラがよく挙げられる。もちろん警察官の数が犯罪件数や人口に比べてあまりにも少なければ、ある人のところにはすぐに警察官が駆けつけて犯罪に巻き込まれずに済んでも、ほぼ同時に別の場所で襲われた別の人は犯罪の被害者になってしまうというようなことも起こるだろう。道路の場合も自動車の数があまりにも多くなってくれば渋滞して利用者が互いに悪影響を及ぼし合うことになる。従って実際には純粋な「公共財」というものを見つけることはなかなか難しく、ほとんどの「公共財」は「(純粋な)公共財」と「共有資源」の間の中間的な性質を持つものと考えるべきである。ここで「公共財」とは、(1)利用する場合に代金を支払わなくても利用でき、しかも(2)ある人が利用しても他の人も全く同じように利用できるものと定義しておくことにする。
料金を徴収できないか徴収することが非常に困難であるということは、「公共財」を提供する側が必要なコストを負担しなければならないということを意味している。従って民間部門が「公共財」を提供することは基本的には期待できず、ほとんどの「公共財」は国や地方自治体などの公的部門が提供することになる。だが、国や地方自治体などの公的部門が独占的に「公共財」を提供できるというわけではないのである。例えば、(1)莫大な資産があるために料金を徴収できなくても構わないと考えているような資産家、あるいは(2)「公共財」を提供する投資をしても後からそれを上回る大きな利益を得ることが期待できると考えているような人たち、などは民間でも「公共財」を提供することがあるだろう。
少数の人たちが巨額の資金を出資しなくても「公共財」を提供することが可能になる場合もある。例えば、その「公共財」が存在することによって確実に利益を得ることができるということを十分に理解している人たち同士が少額ずつ出し合って必要な資金を集めることができる場合には、その「公共財」を提供できるようになるだろう。
実は筆者は巨額の資金を必要としないタイプの「新しい公共財」を創造しようと試みているのである。そういうこともあって筆者のホームページ上の記事は「シェアウェア方式」(→基本的にアクセスは無料だが、「立ち読み」以上の評価をした場合には「購読料」を払う必要がある方式)になっているのである。そしてそれが急に「詰まらない話」を始めたもう一つの理由でもある。そしてここからも「将来の共通利益」を実現するために必要なことを考えていく際に避けて通ることのできない「詰まらない話」がまだ続くことになる。
<「民主主義のコスト」の負担>
今年の春は問題解決に全くつながらない「泥仕合」や「茶番劇」がいくつかあった(→参考:2005/5/11号)。「義憤」を感じて「爆発寸前」だった人たちも多かったのかもしれないが、残念ながら当事者周辺のごく一部の人たちしか「介入」することは許されなかった。社会全体で「欲求不満(frustration)」が高まってくると、十分な能力と正しい使命感を持たない人間やメディアには「報道の自由」を認めない国家、他人の迷惑を全く考えずに当選や勢力拡大に夢中になる勘違いした政党や政治家には「自由選挙(運動)」を認めない国家、人類共通の知的生産活動を行うための十分な能力を持たない人間や組織には「学問の自由」を認めない国家、大金を持っていても社会のためになる使い方ができない人間や企業には「私有財産」の所有を認めない国家などに一時的に避難してみたい気分になってくるかもしれない。だが、「平和で豊かな民主主義国家」の日本はそういう「履き違えた自由」や「過剰な自由」によって生じる負のコストを負担することによって「平和で豊かな民主主義国家」になってきたはずだと筆者は考えている。
もちろん負の影響は小さければ小さいほどいいに決まっているが、やはり「民主主義」を採用すればある程度のコストの負担からは逃れることはできない。やはり「カルト」(→ここでのカルトとは「事実との真正の結合とは全く無関係な強い思い込み」またはそういう強い思い込みをする人たちのこと)を含めた「何らかの問題があるもの」にはルールに基づいて退場してもらうしかないのである。民主主義国家の中では自分の生命などを守るために他に手段がないなどの場合以外には、どんなに正しい理由があったとしてもテロや暴力や破壊活動などで問題を解決することは認められないのである。あくまでも念のために言っておくが、民主主義国家でも「邪魔者には消えてもらうこと」は不可能ではない。ただし「邪魔者には民主主義のルールに従って消えてもらわなくてはならない」という点で「無法地帯」などと根本的に異なっているのである。
地球上のどこを探しても「地上の楽園」は存在しないが、「カルト」を含めた「問題のあるもの」ならどこでもすぐに見つけることができる。もしも「地上の楽園」に行きたいと思うのならば、多大な労力をかけてでも今いる場所に自分たち自身で「地上の楽園」を創造するしかないのである。「将来の世代を含めた一人ひとりの生命などを守る」ためには「民主主義」という「道具」が最も役に立つが、その「道具」を使い続けるためにはある程度のコストは覚悟しなければならないのだと筆者は考えている。つまり「民主主義社会を維持したり、より良いものにしたりするために必要な費用」である「民主主義のコスト」を覚悟しなくてはならないのである。
<負担の方法は「欲求不満」をためることだけではない>
さて、次に問題になってくるのは、「民主主義社会を維持したり、より良いものにしたりするために必要な費用」である「民主主義のコスト」はいったい誰がどんな形で負担するのかということである。言うまでもなくコストを負担しているのは必ずしも末端の一人ひとりの国民だけではないし、「民主主義のコスト」を負担する方法も「民主主義」を維持するためにはやむを得ないなどと「欲求不満(frustration)」をためることだけではない。もしも「民主主義のコスト」が末端の一人ひとりの国民が欲求不満をためることだけによって支払われるのだとすれば、「民主主義」国家も実質的には独裁国家と何も変わらないということになってしまう。
大部分の「民主主義のコスト」を最終的に負担しているのは末端の一人ひとりの国民である。だが、企業、NGOなども様々な形で「民主主義のコスト」を負担している。ちなみに国家は「公共財」を提供することなどによって「民主主義のコスト」を形式的に負担しているが、国家の負担のほぼすべては最終的に末端の一人ひとりの国民に転嫁されることになる。そういう基本的なことも分からない人間は国家と「『打ち出の小槌』を持っている気前の良い大金持ち」などとを区別することができないということになるのだろう。
繰り返すが、「民主主義のコスト」を負担する方法は欲求不満をためることだけではない。問題解決につながる前向きな「民主主義のコスト」の負担方法は他にいくらでもあるのである。例えば、おカネを持っている人たちならば、国が提供しない「公共財」を自分たちの負担で提供したり、「社会的責任投資(SRI、Socially
Responsible Investment)」(→企業を経済面だけではなく事業の社会や環境への配慮などからも評価して投資先を決定)などを行ったりすることによって社会に貢献し、「民主主義のコスト」を負担することができる。あるいは社会のためになる活動をしているNGOなどに寄付をするという方法もあるだろう。
おカネがあまりない人たちでも、時間、アイディア、能力などがあればボランティア活動に参加したり、自分自身でNGOなどを作ったりすることなどによって前向きに「民主主義のコスト」を負担することができるだろう。おカネも時間もあまりなくても、社会的な地位がある人たちならば、多くの人たちに呼びかけて協力してもらうなどという間接的な形で「民主主義のコスト」を負担することもできるかもしれない。おカネも時間も社会的な地位などもない人たちであっても、最も極端な場合には、社会全体のためになる活動などにずっと興味・関心を持ち続けているだけでもやがて何らかの形で前向きに「民主主義のコスト」を負担することにつながっていくということもあるのかもしれない。
このように様々な形で前向きに「民主主義のコスト」を負担する方法があるわけだが、民主主義国家において最も正統性があってしかも最も効率的な方法は「選挙で選ぶ代表としての政治家(議員)を経由して公共の利益を実現すること」である。そして日本の現実政治において政治家(議員)を経由する正規の方法が上手く機能していないということが現在の深刻な政党・政治家不信の根本的な原因であり、閉塞状況を生み出している最大の原因なのである。よって次に問題になってくるのは「選挙で選ぶ代表としての政治家(議員)を経由して公共の利益を実現する」という正規の方法をどうしたら上手く機能させることができるか、つまり、どうしたら民主主義を上手く機能させることができるかということになる。
<政治家の「ビジネス・モデル」>
以前から何度か問題解決過程の「心理学的アプローチ」(→参考:2004/9/21号etc.)を取り上げてきている。「心理学的アプローチ」とは、ある人がどうしても急いで解決しなくてはならない「問題」に直面した場合には、「ルール」に従って(1)自分自身の力で問題を解決するか、(2)他人の力を借りて問題を解決するか、あるいは「ルール」を破ってでも(3)何が何でも問題を解決しようとするか、あるいは「ルール」を破らずに(4)現実に合わせて自分の感情を変えて適応するか、それとも(5)欲求不満やストレスをため続けて「破滅」してしまうか、という5種類の「出口」があると考えられるというあの話のことである。今回は「怪しい政党・政治家やカルト宗教や詐欺師などに欺かれる危険性などを指摘しないわけにはいかない」としながらも今まで深入りする余裕がなかった(2)の「他人の力を借りて問題を解決する場合」をやや詳しく説明することにする。
おカネの世界では「継続的に利益を生み出す仕組み」などという意味の「ビジネス・モデル」という言葉がよく使われている。他人の力を借りて問題を解決する場合には相手の「ビジネス・モデル」を注意深く見抜こうとするだけでも欺かれる危険性を大きく低下させることができると筆者は考えている。もちろんそれは政治家(議員)を経由して公共の利益を実現しようと考えている場合にもあてはまるのである。日本の現実政治における深刻な政党・政治家不信を解消していくためには「政治家のビジネス・モデル」に注目する必要がある。
「理想的な(あるいは本物の)政治家のビジネス・モデル」とは、「公的部門から必要な費用の大部分を支給される選挙で選ばれた議員が主として独占的に認められた立法作業を通じて公共の利益を創造して維持するモデル」などということになるのだろう。従って何か公共の利益を創造して維持したいと思うようなときには「理想的な政治家」に協力を求めることが最良の選択ということになるわけだが、困ったことに現実政治の世界にはその「理想的な政治家」がなかなかいないのである。日本の現実政治では、協力を求めたいと思っていても協力を求めるべき「理想的な政治家」がなかなか見つからないから投票率が下がり、無理に協力を求めようとすると「偽者の政治家」に引っかかって政治不信が増幅してさらに投票率が下がってしまうという悪循環に陥ったとしても何の不思議もない状態になっているのである。そして様々な「泥仕合」や「茶番劇」のような「意味不明の無用の混乱」が発生すればするほど、そしてその混乱が深刻な状態になればなるほど、冷静な判断能力を失った一人ひとりの心の弱みに付け込む「偽者の政治家」の「商売」は大繁盛することになるのである。
それでは「理想的な(あるいは本物の)政治家」以外の「偽者の政治家」がいったいどのような「ビジネス・モデル」を使っているのかということになるわけだが、日本の現実政治におけるほとんどの「偽者の政治家」の場合には、(1)「詐欺師モデル」、(2)「ギャング(強盗)モデル」、(3)「パラサイト(寄生虫)・ニート(Not
in Education, Employment or Training)モデル」とでも呼ぶべき3種類の「ビジネス・モデル」とその変種、あるいはそれら複数の組み合わせで説明できるのではないかと筆者は考えている。「偽者の政治家」の「ビジネス・モデル」を研究して有権者がそれを現実政治の場で応用すれば、「偽者の政治家」にだまされる可能性を大きく低下させることができるのではないかと筆者は考えている。
(1)の「詐欺師モデル」とは、「公共の利益の実現を目指していたとしても、実現につながらない方法を意図的に用いたり、あるいは自分自身の利益をあたかも公共の利益であるかのように信じ込ませたりしてカネや支持を集めるモデル」である。もちろん税金から活動のために支給された費用もそのまま受け取ることになる。政治家が有権者や支持者の「錯誤」を利用するモデルと言えるだろう。変種の一つには、「実は政治家自身も公共の利益の障害の一つになっているにもかかわらず、あたかも公共の利益を実現するために全力を尽くしているかのように信じ込ませてカネや支持を集める」という「関所・開かずの踏切モデル」もある。例えば、自分自身が政権交代の「開かずの踏切」になっているにもかかわらず、とりあえず政権交代が実現するまで議員在職25周年表彰を辞退するなどと主張するような政治家などはこの変種モデルにも分類できることになる。この変種モデルには、だましているのがバレそうになったり、あるいは実現が間近に迫ってきたりしたときには、大急ぎでよけるだけで詐欺師だとバレないばかりか、手柄まで独り占めできるという非常に大きなメリットがある。
(2)の「ギャング(強盗)モデル」とは、「不当な力や脅迫を背景に自分勝手な選択肢を押し付けてカネや支持を集めるモデル」である。もちろん税金から活動のために支給された費用もそのまま受け取ることになる。例えば、自分は唯一の「中央とのパイプ」などと主張して投票を迫ったり、あるいは二大政党制を唱えた上で「今の与党のままでは日本はめちゃくちゃになる」などと何でもかんでも厳しく批判して政権交代を迫ったりするようなやり方も「ギャング(強盗)モデル」に分類できるだろう。要するに「このままおとなしくカネを差し出すか、それとも殺されてカネを奪われるのか。どちらがいい?」などというケースと同様に政治家が自分勝手な選択肢を有権者に押し付けて脅迫するモデルなのである。
(3)の「パラサイト・ニートモデル」とは、「公共の利益の実現につながる創造的・生産的活動を実質的には全く行っていないのにもかかわらず、当事者たちが勘違いすることによってなぜかカネや支持が集まってしまうというモデル」である。もちろん税金から活動のために支給された費用もそのまま受け取ることになる。例えば、世の中で与党政治家のスキャンダルが大問題になれば誰よりも厳しく追及し、国民に不人気な増税などの負担増には先頭の目立つ場所に立って断固反対し、国民が激怒する年金未納・未加入問題や役所の不祥事、あるいは監督責任を問える鉄道事故などが発生すればやはり真っ先に厳しく追及する、というようなことを繰り返していけば支持者はそれなりに満足するし、自分自身も支持者の期待に応えて何かまともなことをやっているような気分になってくるが、実は社会全体から見れば全く創造的・生産的な活動を行っていないというケースがその典型例である。政治家も支持者も共に勘違いしているモデルと言えるだろう。ちなみに創造的・生産的活動を行わずに社会に寄生しているという意味では「パラサイト」であり、実質的に創造的・生産的活動を現在しているわけでもなく、また創造的・生産的な活動ができるようになるために再教育や職業訓練を受けているわけでもないという意味で「ニート」であると言えるのである。
有権者が「詐欺師モデル」「ギャング(強盗)モデル」「パラサイト(寄生虫)・ニート(Not
in Education, Employment or Training)モデル」の政治家たちに間違って協力を求めないようにするための最も地味で確実な方法は、それぞれの政治家たちの行動が公共の利益の実現に間違いなく結びついているのかどうかということを一つずつ確認していくことである。だが、ほんの少し発想を転換するだけで「偽者の政治家」たちの「ビジネス・モデル」を狙い撃ちにして効果的に打撃を加えることができる方法があるということにも気づくだろう。
その方法は、実現したいと思っている「公共の利益」を政治家経由以外の別の方法を使ってでもとにかく実現してしまうという方法である。もしも別の方法で「公共の利益」が実現してしまったならば、「理想的な(あるいは本物の)政治家」はすぐに自分自身で考えた新しい公共の利益の実現を目指すようになるかもしれない。ところが、「偽者の政治家」たちはその時点ですべて「商売上がったり」の状態になってしまい、多くは国民から新しく「大量注文」が入ってくるまでは右往左往しているだけだろう。どさくさにまぎれて逃げられないようにするために最初に「意味不明の無用の混乱」の発生をまず確実に阻止し、その上で何らかの別の方法で「公共の利益」を実現して「偽者の政治家」を「商売上がったり」の状態に追い込み、それからそれぞれの政治家たちの行動が公共の利益の実現に確実に結びついているかどうかということを一つずつ確認していけば、「ビジネス・モデル」を封じられた「偽者の政治家」たちに逃げ道は全く残されなくなるはずである。
以上のようなことから「公共財などの公共の利益は政治家などの公的部門しか実現することができないのか」というあの問題に再び戻っていくことになるのである。
<「意味不明の無用の混乱」などを阻止するための「防波堤」>
繰り返しになるが、政治家(議員)や公的部門だけではなく、民間でも、目的を共有してカネ、時間、アイディア、能力、興味・関心などを持った人たちを集めるなどすれば「民主主義社会を維持したり、より良いものにしたりするために必要な費用」である「民主主義のコスト」を前向きな形で負担して公共の利益を実現することは不可能ではなくなる。だが、実際に民間が公共の利益を実現できる可能性はあまり高くはない。一般的には、カネ、時間、アイディア、能力、興味・関心などを持った人たちなどの「すべての必要なもの」を過不足なくタイミングよく集めることは非常に困難だからである。実際にそういう「すべての必要なもの」を過不足なくタイミングよく集めるためにはかなりのコストがかかるし、仮にそのコストのすべてを負担する人たちがいたとしても、確実に公共の利益が実現するかどうかもよく分からない状態では「すべての必要なもの」を集めることは容易ではない。
さらに現実政治の世界では、多くの人たちが「偽者の政治家」にだまされてしまうと必要な協力などがますます得られにくくなり、「理想的な(あるいは本物の)政治家」が公共の利益を実現することが難しくなるのである。ほとんどの場合には、他の誰も協力してくれないような状態で「理想的な(あるいは本物の)政治家」だけがいくら努力しても公共の利益を実現することは困難である。それならば仕方がないからその公共の利益をなんとか民間で実現しようと思ったとしても、協力してくれそうな人たちのほとんどが「偽者の政治家」の非生産的な活動に巻き込まれてしまっており、民間で必要なものを集めることはただでさえ難しいのにさらに難しくなっているのである。そう考えれば公共の利益を実現するためには「偽者の政治家」に多くの人たちがだまされてしまうことだけは何としてでも阻止しなければならないということに気づくだろう。多くの人たちが「偽者の政治家」などにだまされてしまうのを効率的に阻止することができる「防波堤」のような「公共財」が必要だと筆者は考えている。
実は「偽者の政治家」などに多くの人たちがだまされてしまうのをどうすれば効率的に阻止することができるのかという問題は、筆者が約1年前(→参考:2004/3/23号、2004/6/22号etc.)から何度も取り上げている、(1)一人ひとりの人間が同じ地球上を共有していることを自覚し、将来の世代を含む一人ひとりの生命などを守ることを目指しながら、幸福を追求していくために必要となる最低限の能力や知識とは何か、(2)それらを地球規模で普及させて政治や政治ジャーナリズムのための「新しい公共財」を作り出していく可能性はあるのか、などという問題の「新しい公共財の最初の段階」に相当するのである。そして筆者が今回までに暫定的に「防波堤」として用意したものが、例の「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化するあの手法、そして前述の「政治家のビジネス・モデル」の公表なのである。
読者が複数の視点による相対化手法、あるいは「政治家のビジネス・モデル」を少し意識するだけでも、永田町周辺の無能な政治家たちと無能な既存のマスコミによって引き起こされる問題解決に全くつながらない「泥仕合」や「茶番劇」などの「意味不明の無用の混乱」に巻き込まれたりだまされたりするのをかなり防ぐことができるようになるだろうと筆者は考えている。正直な話、複数の視点による相対化手法などがどこまで強力な「防波堤」として役に立つのかはこのまましばらく使ってみないとよく分からないが、少なくとも何もない状態よりはましであることだけは確かである。よって次に問題にしなければならないことは、どのように「防波堤」を「長く」(→できるだけ多くの人たちの役に立つようにする)、「高く」(→「意味不明の無用の混乱」などがかなり大規模になっても阻止できるようにする)していくかということになる。
<何のために勉強するのか>
読者の中には、複数の視点で問題を相対化するようなことは当たり前の話だし、「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などというそんな誰にでもすぐに思いつきそうなこと、小さな子供でもすぐに覚えて真似できるくらい単純なことがいったいどんな役に立つというのかなどと思っている人たちもいることだろう。「誰にでもすぐに思いつきそうなこと」や「単純なこと」などという指摘は全くその通りだと筆者も思っている。もちろん「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという視点は筆者のオリジナルではないし、だいたいそれらだけでは「泥仕合」や「茶番劇」などの「意味不明の無用の混乱」から身を守る「防波堤」の役割を果たすこともできない。これらの複数の視点を「防波堤」として役に立つものに変えるために必要不可欠なものが「教育」である。
民主主義国家に限らず、ほとんどすべての国家では国の責任ですべての国民が何らかの教育を受けている。つまり程度の差はあってもほとんどのすべての国家には公教育、あるいは教育を受けた国民という「公共財」が存在することになる。そしてこの単純さや平凡さが「新しい公共財」を作り出そうとする場合には非常に大きなメリットになるのである。もしも「誰にでもすぐに思いつきそうなこと」や「単純なこと」とほとんどどこにでもある「教育」という「公共財」から「意味不明の無用の混乱」から身を守る「防波堤」(→「新しい公共財」)を作ることができるのならば、教育のレベルを量的にも質的にも向上させることによって地球規模で「防波堤」を「長く」(→できるだけ多くの人たちの役に立つようにする)、「高く」(→「意味不明の無用の混乱」などがかなり大規模になっても阻止できるようにする)していくことも比較的容易になってくるのである。
ちなみに筆者は日本の義務教育終了程度の学力を持っている人たちならば少し考えれば分かるように一連の「茶番劇」や「泥仕合」などの問題点を「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」という複数の視点を用いて説明してきたつもりである。「何のために勉強するのか」と問われるならば、筆者ならばとりあえず1つの答えとして「民主主義という道具を上手く使うため」「他人と協力して将来の世代を含む一人ひとりの生命などを守ることを目指しながら幸福を追求していくため」などと答えるだろう。いずれにしても「良い仕事に就くため」などというあまりにも底の浅いことだけは間違っても言わない。
<連鎖関係を分かり易く示した「設計図」>
さて、仮に複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化する手法が「意味不明の無用の混乱」から身を守る「防波堤」(→「新しい公共財」)としての役割を十分に果たすことができたとしても、それだけではまだ見えない将来の共通利益などを実現することはできない。「意味不明の無用の混乱」に巻き込まれる人たちが少なくなり、将来の共通利益などを実現するというもっと困難な課題に取り組むための前提となる「最初の段階」をようやくクリアーできたというだけの話である。「理想的な(あるいは本物の)政治家」を経由する場合であっても、あるいは民間だけで実現を目指す場合であっても、現時点では具体的な形としては見えない将来の共通利益などをどのように説得力のある形で示しながら実現のために必要な多くの人たちの協力を得ていくのかということを考えていかなければならないのである。さらにグローバリゼーションが進展して様々な問題が複雑に絡み合っている今の時代では国内政治と国際政治の連鎖を正確に理解していなければ問題を解決することは困難である。そうした複雑な連鎖も併せて説明しながらまだ見えない将来の共通利益の実現に向けた協力を求めていかなければならないのである。
さて、ここで再び大きな発想の転換をすることにする。以前(→参考:2004/12/25号)
国内政治と国際政治の連鎖の具体例を取り上げたときは、どちらかと言えばデメリットを強調したが、実は複雑な連鎖にもメリットはある。複雑な連鎖が存在する場合には、「この問題を解決するためには、あの問題とその問題も解決しなければならない」ということも事実だが、別の視点から見れば「この問題を解決することができれば、あの問題もその問題も解決している」ということもまた事実なのである。「鶏が先か卵が先か」よく分からないような複雑な連鎖であっても、正しく連鎖を理解して上手く優先順位を付けていくことができるのならば問題の解決が容易になる可能性も出てくるのである。
現実政治の中で相互に複雑に絡み合っている諸課題を急いで解決しようと思っているときには、(1)それぞれの課題を解決するために必要なことや解決方法(→課題の解決がどのくらい困難か、どのくらい国民の支持が得られそうかが分かる)、(2)それぞれの課題間の正しい連鎖の関係(→ある課題を解決するためにはまず別の課題を解決しなければならないとか、ある課題を解決することによって別の課題の解決が容易になる、などの関係や優先順位が分かる)を分かり易く示した「設計図」のようなもの作るか作らないかで実現の可能性やそのスピードが大きく変わってくることもあると筆者は考えている。そしてさらに言えば、分かり易い「設計図」を作ることによって末端の一人ひとりの国民がそれぞれ関心を持っている課題の解決過程の「参加したい部分に参加したい程度だけ参加する」ことも可能になってくるのである。
もう少しだけ話を具体的にしてみる。比較的簡単な連鎖の例を考えて、例えば、「政治課題D」を解決するためにはその前に「政治課題B」または「政治課題C」が解決されていなければならず、そして「政治課題B」や「政治課題C」の解決はその前の「政治課題A」が解決されていれば容易になるというケースがあったとしよう。あえて図示してみると『(「D」←)「C」←「A」→「B」→「D」』というような状態になる。
普通に考えれば最も優先順位が高くなるのは「政治課題A」である。理由は「政治課題A」を解決することができれば「政治課題B」も「政治課題C」もどちらも解決が容易になるからである。そして普通に考えれば、その次に優先順位が高いのは「政治課題B」と「政治課題C」になり、どちらでも好きな方を選ぶことができるということになるだろう。
ところがもしも「政治課題A」が国民に不人気であり、しかもその解決がかなり困難であるような場合には、最も優先順位を高くすべき政治課題は別のものに変わってくることもある。仮に「政治課題B」が国民の関心が非常に高くて最も解決が望まれる政治課題であるのならば、「政治課題B」の解決が非常に困難でない限り、「政治課題B」を優先順位1位にすることもあり得るということになる。
もしも「政治課題B」の解決が「政治課題A」とほとんど同じぐらい困難ならば、優先順位1位は「政治課題A」のままにして「国民の関心の高い『政治課題B』を解決するためにはまず『政治課題A』を解決することが必要」ということを丁寧に説明し、多くの人たちを説得したり協力を求めたりして「政治課題A」をなんとか少しでも早く解決しようとすることもできるだろう。
あるいは「政治課題A」と「政治課題B」の解決が非常に困難であっても、「政治課題C」の解決はそれよりもずっと容易であり、しかも「政治課題C」が解決した後は「政治課題A」や「政治課題B」の解決も容易になってくることが十分に予想できるのならば、まず「政治課題C」を解決してその後から「政治課題A」や「政治課題B」や「政治課題D」を解決していけばいいということになるだろう。
<「設計図法」は「新しい公共財の後半の前半部分」>
このような連鎖関係にある諸課題のすべてを(1)解決のために必要なものやその方法、(2)課題間の連鎖関係を示した「設計図」のようなものを考え、優先順位などを判断しながらできるだけ早く解決しようとするような方法を「設計図法」(仮称)とでも暫定的に名づけておくことにする。「設計図法」には、(1)「不人気な政治課題」や「解決困難な政治課題」をその前後にある「人気のある政治課題」や「解決が容易な政治課題」との連鎖関係を「てこ」にして解決を容易にする(→(A)「人気のある課題」の実現にはまず「不人気な課題」を解決する必要があると説得するような「プル・ファクター」、(B)「人気のある課題」を実現することによって「不人気な課題」の解決も容易にする連鎖を新たに考えるような「プッシュ・ファクター」の両面)、(2)末端の一人ひとりの国民がそれぞれ関心を持っている課題の解決過程の「参加したい部分に参加したい程度だけ参加する」ことを可能にすることによって解決の加速を目指すという特徴がある。
当然ながらこの方法では連鎖関係を利用しているから連鎖を持たない課題同士は一緒にすることができないということになる。つまり、正しい「設計図」ならば、トレードオフとか二律背反の関係にあるような矛盾する諸課題が一緒に入っていることはあり得ないし、互いに無関係な諸課題が「抱き合わせ」で入っているということもあり得ないということになる。逆に言えば、明らかにおかしなものが入っているのならば「設計図」は明らかに正しくなく、そういうものを出してくる政治家や政党は明らかに信じてはいけない「偽者の政治家」や「偽者の政党」だとすぐに分かることになる。
もしも「設計図法」のような形式で総選挙時の「政権公約(マニフェスト)」を各政党に作らせることができれば、有権者が投票する前に信じてはいけない「偽者の政治家」や「偽者の政党」を今よりも簡単に判断することができるようになるだろう。またもしも選挙後に公約が実現しなかったときには、原因は政党や政治家の能力なのか、それとも別の何かなのかなどということも比較的容易に判断することができるようになるだろう。
この「設計図法」は、筆者が約1年間考えてきた「新しい公共財」の中の「意味不明の無用の混乱」などを阻止するための「防波堤」という「最初の段階」に続くもの、「新しい公共財の後半の前半部分」に相当するものなのである。
<「新しい公共財の最後の部分」は「世代間変化法」>
現実政治の問題解決過程では様々な形で絶望的な状況に直面することもある。もしも何らかの原因で現時点では問題を解決することができなかったとしても、10年、20年という中長期的な視点から考えれば問題を解決することができることもある。そしてもしも中長期的な視点でも問題を解決することができなかったとしても50年、100年という世代を超えた「人類の歴史的文脈」という視点から考えれば問題を解決できる可能性が出てくることもある。
最後に残った「新しい公共財の最後の部分」は、以前(→参考:2005/2/9号)少しだけ説明している「世代間変化」の考え方を用いる方法である。「世代間変化法」は、時代の変化を受けた新しい問題の解決の重要性を理解し、その問題を解決できる能力を持った人間の数を「教育」を利用して少しずつ増やしていくことによって間接的に問題の解決を目指す方法である。つまり、教育を利用して長い時間をかけてまず社会の中の人間の分布、社会の構成を変えていくことによって問題解決を容易にして加速していくという「万策が尽きた場合の最後の手段」である。
日本の現実政治においてプラスの意味での「世代間変化」が考えられる具体例を一つだけ挙げておくことにする。例えば、「1993年総選挙以降に初当選した衆議院議員(代議士)」(以下、「After93」とする)のほとんどは、1989年のベルリンの壁崩壊を象徴とする東欧社会主義体制の急崩壊、そして1991年のソ連邦の解体によって冷戦構造が名実共に崩壊するという歴史上の大変化を「永田町の外」で見て、そして代議士になってから国会の中で様々な政治活動を積み重ねて「政治家としてのアイデンティティ」を確立していく前に1993年総選挙前後の自民党分裂・野党転落による「55年体制崩壊」を経験していることになる。さらに1996年総選挙からは、選挙制度がそれ以前の「中選挙区制」から「小選挙区比例代表並立制」に変わっている。「After93」世代は、それ以前の「半永久与党」である自民党と「万年野党」である旧社会党を中心とした野党による「55年体制」を前提にした政治的価値観を捨て去ることができない政治家たちが多い「旧世代」とは「政治家としてのアイデンティティ」が確立していく時期に受けた影響が全く異なると考えられるのである。従って「新世代」が「旧世代」よりも「理想的な政治家のビジネス・モデル」を使いこなすために必要な能力や知識を身に付けるという意味では恵まれた環境で政治家としての「(自己研鑽(さん)を含めた)教育」を受けたと考えることもできるわけである。
ここで実際に自民党が分裂して野党に転落した「1993年総選挙以降に初当選した衆議院議員(代議士)」(「After93」)の割合を見てみることにする。1993年総選挙で初当選した衆議院議員(代議士)は134人(定数511)で全代議士に占める割合は約26%だった。そして「After93」世代の全代議士に占める割合は一貫して増加し続け、1996年総選挙直後(初当選115人)には約41%(→206人、定数500)、2000年総選挙総選挙直後(初当選106人)には約57%(→274人、定数480)、そして2003年総選挙直後(初当選100人)には約67%(→320人、定数480)と既に多数派になっているのである。
さらに選挙制度が「小選挙区比例代表並立制」に変わった「1996年総選挙以降に初当選した衆議院議員(代議士)」(「After96」)の割合を見てみることにする。1996年総選挙で初当選した衆議院議員(代議士)は115人(定数500)で全代議士に占める割合は23%だった。そして「After96」世代の全代議士に占める割合も一貫して増加し続け、2000年総選挙直後(初当選106人)には約40%(→191人、定数480)、そして2003年総選挙直後(初当選100人)には約52%(→248人、定数480)とやはり多数派になっている。
どんなに遅くとも2007年11月までに行われる次期総選挙前後までには、既に数の上で多数派になっている「After93」世代や「After96」世代が重要なポストの多くの割合をも同時に占めることになると予想することができる。もしも次期総選挙前後までに「After93」世代や「After96」世代と「旧世代」の議員たちとの間に明確な「世代間変化」が観測されないのならば、「仮説」を放棄して次期総選挙以降から始まる何らかの新たな「変化」を積極的に作り出していくことを考えていかなければならないと考えている。
<「公共財」を利用して「新しい公共財」を創造する「ビジネス・モデル」>
最近の具体例を用いたいつもの「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点で深刻な問題を相対化する話が終わったと思ったら、「民主主義のコスト」、「ビジネス・モデル」、「公共財」、「意味不明の無用の混乱」などを阻止するための「防波堤」、「設計図法」(仮称)、「世代間変化法」…。いったいいつまで訳の分からない「詰まらない話」を続けるつもりなのかと思っている読者も少なくはないだろう。実はこれらの「詰まらない話」の結論によって筆者の研究がようやく「第一幕」の閉幕を迎えることができるようになったのである。「第二幕」の開幕予定はいつになるのかよく分からない「次期総選挙(衆議院選挙)」である。「第一幕」では「第二幕」で使うための「道具」を作っていたのである。そして「第二幕」では、その作ったばかりの道具を使って民主主義のルールの下で「偽者の政治家」という邪魔者に消えてもらいながら「新しい公共財」を作っていくことを考えているのである。これから「第二幕」の開幕までに残された時間は可能な限り「道具」を使いやすく改造していくことにしたい。郵政民営化問題などでドタバタ劇をやって解散・総選挙になるのかどうかについては実はあまり興味がないのだが、とにかく筆者としてはいつ次期総選挙があっても対応できる最低限の準備だけは完了したということである。
さて、ここからは筆者の「ビジネス・モデル」を示すことを通じて「第一幕」のエピローグに進むことにしたい。筆者の「ビジネス・モデル」をあえてひとことで説明するならば、「公共財」を利用して「新しい公共財」を創造する「ビジネス・モデル」ということになるだろう。
「教育」と「義務教育を受けた全国民」という「公共財」を利用し、まず<1>「意味不明の無用の混乱」などを阻止するための「防波堤」(→「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点によって目の前の深刻な問題を相対化する手法、政治家の「ビジネス・モデル」の公開、など)を作って「偽者の政治家」と彼らと利害が一致する勘違いした一部の既存のマスコミを含めた協力者たちを封じ込める。
その上で<2>「設計図法」(仮称)を使用し、諸課題の連鎖関係を考慮して優先順位を決め、多くの人たちの協力を求めながら将来の共通利益の実現を目指していく。繰り返しになるが、「設計図法」は、(1)「不人気な政治課題」や「解決困難な政治課題」をその前後にある「人気のある政治課題」や「解決が容易な政治課題」との連鎖関係を「てこ」にして解決を容易にする(→(A)「人気のある課題」の実現にはまず「不人気な課題」を解決する必要があると説得するような「プル・ファクター」、(B)「人気のある課題」を実現することによって「不人気な課題」の解決も容易にする連鎖を新たに考えるような「プッシュ・ファクター」の両面)、(2)末端の一人ひとりの国民がそれぞれ関心を持っている課題の解決過程の「参加したい部分に参加したい程度だけ参加」できるようにすることによって解決の加速を目指すという特徴を持っている。
いくら努力しても問題が解決せず、絶望的な状況に陥ってしまったときには<3>「世代間変化法」という「万策が尽きた場合の最後の手段」を使うことになる。繰り返しになるが、「世代間変化法」は、時代の変化を受けた新しい問題の解決の重要性を理解し、その問題を解決できる能力を持った人間の数を「教育」を利用して少しずつ増やしていくことによって間接的に問題の解決を目指す方法である。つまり、教育を利用して長い時間をかけてまず社会の中の人間の分布、社会の構成を変えていくことによって問題解決を容易にして加速していくという「万策が尽きた場合の最後の手段」なのである。
「教育」と「義務教育を受けた全国民」という「公共財」を利用し、まず<1>「意味不明の無用の混乱」などを阻止するための「防波堤」を作り、<2>「設計図法」(仮称)と<3>「世代間変化法」を駆使して「まだ見えない将来の共通利益」を実現する。そして今度は実現した共通利益を「新しい公共財」にし、さらに同様のことを繰り返して次々と「新しい公共財」を作っていく。それが筆者の「ビジネス・モデル」の概要である。改めて繰り返すが、「公共財」とは、(1)利用する場合に代金を支払わなくても利用でき、しかも(2)ある人が利用しても他の人も全く同じように利用できるものと定義している。
ところで、ちなみにここまでの「詰まらない話」の中で概要を説明してきた筆者の研究は、早稲田大学に残されていた有形無形の有用な知的資産を間違いなく確実に選び出し、自由かつ独自に利用することによって飛躍的に進展した。最近はこういうことを書くとあらぬ誤解を与える可能性も出てくる非常に物騒な世の中になっているようだから、あくまでも念のために一応断っておくが、筆者はどこからも「取材協力費」やそれに類するものは受け取っていない。従って「協賛企業名」などを後から掲載する約束も全くしていないし、慌てて「取材協力費」を返還する可能性も完全にゼロである。
さて、カネのことばかり考えている人間たちはおそらく「カネの流れはどこにあるのか? それでどうして儲かるのか?」などという疑問を真っ先に持ったことだろう。カネのことばかり考えている人間たちにとっては「キャッシュフロー」などが全く見えない「ビジネス・モデル」などは想像もできないのだろうが、「価値があるもの」と「その価値を評価するところ」などがハッキリと分かれば潜在的な「キャッシュフロー」はいくらでも見えてくるはずである。
ある将来の共通利益(→「新しい公共財」)に高い価値を認め、それが実現することを強く望んでいる人たちが多く存在するならば、彼・彼女たちのほとんどは将来の共通利益が実現するまでの途中過程にも興味・関心を持ち続けると期待することができる。つまり、彼・彼女たちが納得できる形でその将来の共通利益を実現する過程を取り上げ続ければ一定数以上の読者や視聴者を獲得することができると見込むことができるわけである。そして実現過程を報道する際には、その時点での問題点などを最も効果的に伝えることができるメディアをインターネット、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどから毎回選択していくようにすれば、本当の意味での「メディアの融合」も同時に実現することができるようになるのかもしれない。
また、ある将来の共通利益(→「新しい公共財」)に高い価値があると評価し、自分がそれを利用すれば新しく利益を生み出すことができると思っている人たちが多くいるのならば、彼・彼女たちは実現のために必要な費用をある程度までなら事前に負担するようになる可能性も高くなってくるのである。例えば、将来の共通利益(→「新しい公共財」)が、CDやコンサートからの収入、テレビやCMの出演料、キャラクターグッズなどからの収入(→将来の収入)を「担保」に「証券」を発行し、調達した資金をCD制作費やコンサートなどの必要経費に使うということも不可能ではない「超大物アーティスト」の将来の著作物などと同程度かそれ以上に高い価値と実現性があると客観的に判断されるような状態になるのならば「証券化」による資金調達という手法もかなり現実味を帯びてくることになる。
まだ見えない将来の共通利益の実現のために必要な費用を事前に調達する方法を考える際に役立つのは、過去に類似の手法で成功例があるようなアイディアだけではない。「新しい公共財」が高い価値を持つことがほぼ確実であるのならば、そのために必要な費用を事前に調達して利益を生み出していく新しいアイディアはいくらでも生まれてくると筆者は考えている。常にある程度のリスクは残るのだろうが、「新しい公共財」の価値が高まれば高まるほど、そしてその価値を高く評価する人たちの数が増えれば増えるほど、筆者の「ビジネス・モデル」によって必要な費用を事前に調達して利益を生み出すことができるようになる可能性も高まっていくのである。
そして筆者の「ビジネス・モデル」によって実際に必要な費用を事前に調達することに成功した場合には、ある共通利益が実現する前から「新しい公共財」になるまでの間(→3-4年間と想定)は取材・執筆・編集などの活動についての経済的なリスクはほぼゼロになるということを意味している。つまり、事前に必要な経費のほとんどすべてが準備できているために、例えば、広告が大量キャンセルされるなどの形で圧力を受けて途中で取材を断念せざるを得ない状態に追い込まれたり、あるいは発表直前に記事や番組などがお蔵入りになったりするなどという既存のマスコミならば起こり得るリスクを全く考えなくてもよい状態になるのである。いずれにしても「新しい公共財」が高い価値を持たなければ全く何も始まらない。
<「ビジネス・モデル」の最大の問題点は「防波堤」の脆弱性>
現時点では筆者の「ビジネス・モデル」にはいくつかの問題点がある。最大の問題点は<1>の「意味不明の無用の混乱」などを阻止するための「防波堤」の脆弱性である。筆者が用意した「防波堤」は小規模で散発的な「意味不明の無用の混乱」ならば問題なく阻止することができる。だが、現時点では筆者が用意した「防波堤」だけでは大規模な「意味不明の無用の混乱」の破壊力に対抗していくのはかなり困難であるということは率直に認めざるを得ない。そして筆者が用意した「防波堤」は「新しい公共財」を創造していく際の土台部分になっているから、その「防波堤」が破壊されてしまうだけで壊滅的な打撃を受け、<2>「設計図法」(仮称)、<3>「世代間変化法」などは全く無意味なものになってしまうのである。
しかもこの「防波堤」は目に見える形で存在しているものではない。強いて言うならば、もしも「防波堤」が存在するとしたら、それは「一人ひとりの頭の中に存在する」ということになるのだろう。本物の防波堤や道路や橋などのように目に見える形で存在し、特に意識せずにその存在と効果を実感できるようなものではないのである。従ってできるだけ多くの人たちに筆者の用意した目には見えない「防波堤」の存在や効果を実感し続けてもらわなければ、いつの間にか一人ひとりの頭の中から消え去ってしまうことになる。筆者の用意した目には見えない「防波堤」は、(1)大規模な「意味不明の無用の混乱」による破壊にも、(2)一人ひとりの忘却による破壊にも非常に脆いものなのである。
繰り返すが、この「意味不明の無用の混乱」などを阻止するための「防波堤」は教育という「公共財」を利用している。だからこの「防波堤」の脆弱性を根本的に解消するためには、社会全体の教育レベルを量的にも質的にも向上させることが必要になってくる。繰り返しになるが、教育レベルを量的にも質的にも向上させることによって地球規模で「防波堤」を「長く」(→できるだけ多くの人たちの役に立つようにする)、「高く」(→「意味不明の無用の混乱」などがかなり大規模になっても阻止できるようにする)していくこともできるのである。そして言うまでもなく、社会全体の教育レベルを向上させるためにはかなりの長い時間が必要になってくる。よってほぼ確実に「第二幕」が開幕する予定の「次期総選挙」までには間に合わないのである。
だが、「防波堤」の脆弱性をある程度改善するためになることならば、「第二幕」開幕までにまだやれることがいくつか残されている。時間的に「防波堤」を「長く」「高く」することはもはや不可能ではあっても、「防波堤」を「堅固に」していくことならばそれほど多くの時間をかけなくても実現できるかもしれない。脆弱性を改善するためにもやはりできるだけ多くの人たちに目には見えない「防波堤」の存在や効果を実感し続けてもらう必要があるのである。
あくまでも念のために言っておくが、「防波堤」が頭の中にあると言っても、それは「バカの壁」とは似て非なるものである。「バカの壁」との違いは具体例を示せばすぐに納得してもらえることだろう。例えば、自分を「わらしべ長者」のように勘違いしている「偽者の政治家」ならば、「過去」には「小さな政党をもっと大きな政党と取り替えていくこと」によって成功してきたから、これからも次々と「小さな政党をもっと大きな政党と取り替えていくこと」によって「将来」は政権交代が実現できるようになるに違いないなどと思い込んでいるのかもしれない。またもしかしたら目先のことだけにとらわれた勘違いした「偽者の政治家」の「ミクロ」の視点と「マクロ」の視点の間にはほとんど何も違いがないのかもしれない。さらには勘違いした「偽者の政治家」の「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」とは、一般国民の「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」ではなく、ただ単に自分自身にとっての「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」であるのかもしれない。
こんなところに注意していくだけでも多くの人たちはすぐに「偽者の政治家」を見抜くことができるようになるのかもしれない。そういう意味では「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点で相対化する手法という「防波堤」は今のままでも少なくとも勘違いした「偽者の政治家」の「バカの壁」よりは十分に高いということになるのだろう。
さらに言えば、鏡に映った自分の姿を見て急に恥ずかしくなって行動を思いとどまることもあるのと同じように、「よく分からないまま繰り返されてきた行動をあえて明確に記述する」だけでもその行動を思いとどまらせる圧力になることもあるのである。「こんなレベルの低いことをやっている」ということをあえて文字にするだけも非常に大きな圧力になることもあるのである。そういう意味では「詐欺師モデル」、「ギャング(強盗)モデル」、「パラサイト(寄生虫)・ニート(Not
in Education, Employment or Training)モデル」などとでも呼ぶべき「偽者の政治家」の「ビジネス・モデル」を記述するだけでも一定の「営業妨害」の効果ぐらいはあることになる。それにやり口が事前に広く知られてしまえば「偽者の政治家」は欺こうと思っても以前ほど簡単に多くの人たちを欺くことは難しくなるはずである。
<「論より証拠」から「論も証拠も」へ>
筆者が用意した目には見えない「防波堤」の存在や効果を実感し続けてもらうためには、やはり「防波堤」が「意味不明の無用の混乱」などを阻止するために大いに役立つということを示し続けることが最も確実な方法である。おそらく「論より証拠」ということになるのだろう。だからこそ筆者は複数の視点を用いた相対化手法を様々な具体的な問題に適用して読者に「防波堤」の威力を実感し続けてもらおうとしてきたのである。筆者は今後も時間が許す限り複数の視点を用いた相対化手法などの威力を読者に実感し続けてもらうようにする予定である。だが、筆者が用意した目には見えない「防波堤」の威力を今よりも多くの人たち、一人でも多くの人たちに実感し続けてもらうためには、「証拠」以外にもある程度の「(理)論」も必要になってくるのだろう。ここからは「論より証拠」から「(理)論も証拠も」の状態にすることを意識していくことになる。
まず1つ目の「(理)論」としては、実は筆者の用意した「防波堤」が多くの人たちから受け入れられるために越えなければならないハードルは意外にもそれほど高くはないのである。例えば、交通ルールの場合には、「青は進め、赤は止まれ」などというルールをその他すべての人たちが把握しており、しかもほとんどすべての人たちがそのルールを確実に守るだろうということを一人ひとりが理解していなければ「公共財」として機能することは困難になると思われる。赤信号でも停止せずに猛スピードで走ってくる車がたった1%でも確実に存在するのならばほぼ間違いなく交通がマヒするだろうということは少し想像してみれば誰でもすぐに気づくことである。しかし、筆者の用意した「防波堤」の場合には、極端な話、たった一人でもその存在を実感して利用するだけですぐに「公共財」として機能し始めるのである。もちろん「公共財」らしくなってくるためには少しでも多くの人たちに筆者の用意した「防波堤」を利用してもらう必要があることは言うまでもない。まだまだ筆者の用意した「防波堤」は交通ルールのように多くの人たちには知られてはいないが、実は交通ルールよりも受け入れられるために越えなければならないハードルは低いのである。
2つ目の「(理)論」としては、「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという複数の視点で相対化する手法は、科学とその系譜上にあるものの中ではある意味での歴史的な裏付けを持ったノウハウの一つでもあるということである。言うまでもなく、どんな物にも「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」を考えることができる。そして「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などという視点も、複数の視点で相対化する手法もどちらも筆者のオリジナルではない。筆者の独創的な部分は、「偽者の政治家」などが他人をだましにくくすることも視野に入れて(1)「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」、「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」などをそれぞれ一組にして同時に把握しようとしていること、しかも(2)それぞれの組は実は相互に密接に関連しているから、もしも1つの組で無理な認識をすればその他の組で破綻が見えやすくなるようになっていること、そして(3)深刻な現実政治の問題などに次々と適用して問題解決につながる形で説明しようとしていること、などである。
規模がまだ小さかった頃には全く問題なく「真理」のように見えていたことも、だんだんと規模が大きくなってくるにつれて目の前の現実と「理想」とのずれが大きくなっていき、ひどい場合には他の事実との矛盾がいくつも出てくることもある。物理学や経済学などに限らず、「ミクロ」と「マクロ」という両極端のケースをあえて考えてみると今まで見落としていたものが見えてくることもあるのである。
意外なことかもしれないが、実は「過去」「未来」と科学とは切っても切れない関係にあるのである。マジックなどではない普通の状態では「(幻想などではない)間違いなく存在しているもの」がある瞬間から急に消えてなくなってしまったり、逆に今まで全く何もなかったところに急に「(幻想などではない)何か」が現れたりすることは絶対にないということは誰もが無意識のうちに前提として認めていることである。そういう永続性や保存を前提にしなければ科学どころか足し算も引き算もできなくなってしまう。壊したり別の場所に移動させたりするなどの何か特別の原因がない限り、「過去」に存在したものは「現在」も存在して「未来」にもまた同じ場所に存在しているはずなのである。以前から何度も繰り返しているが、科学というものは急に何かが消えたり現れたりするような「テレポーテーション」とか「タイムスリップ」などという類の「オカルト」とは全く相容れないものなのである。
こんな当たり前すぎるぐらい当たり前のことであっても、自分勝手な都合の良い嘘をついたり、都合の悪いことは最初からなかったことにしたりしようとする「偽者の政治家」などの嘘を見抜く非常に強力な武器になるのである。ある物が幻想ではなく間違いなく今現在存在しているのならば、「過去」のどこかの時点で作られたか、あるいは別のところから運ばれてきたということになる。そして壊したり別の場所に持って行ったりしなければ「未来」もそのままそこにあるはずである。科学とは似て非なるものである「科学のようなもの」しか理解できない「偽者の政治家」がいくら都合の悪いことを最初からなかったことにできると強く思い込んでも、その他のほとんどの人たちは科学の本質を忘れてしまうことはないのである。
もちろん「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」はそれぞれの視点や具体的な状況などによって違ってくる。つまり「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」は「ミクロ」「マクロ」、「過去」「未来」などと互いに密接に関連しているのである。例えば、同じ「腐る」場合であっても、人間の役に立つ特別な場合には「発酵」(→「メリット(プラス)」)と呼ばれ、役に立たない場合には「腐敗」(→「デメリット(マイナス)」)と呼ばれるが、腐らせる微生物の側から見ればどちらも「メリット(プラス)」である。同じように「害虫」「益虫」などというときの「害」(→「デメリット(マイナス)」)や「益」(→「メリット(プラス)」)は全く同じ行動であっても人間以外の別の立場から見れば正反対になることもある。そしてこれらのことを個別の生物レベル(→「ミクロ」)で見ればそれぞれの立場で「メリット(プラス)」「デメリット(マイナス)」が違ってくることになるが、生態系レベル(→「マクロ」)で見れば「メリット(プラス)」ということになるのかもしれない。さらには同じ生態系レベル(→「マクロ」)で見ても、ある生物が異常に多かった「過去」には食物連鎖の中でその生物が捕食されるということは「メリット(プラス)」だったのかもしれないが、ある生物が極端に減少しているかもしれない「未来」では全く同じことが「デメリット(マイナス)」になるかもしれないのである。
<「新しい公共財」は筆者自身の貴重な財産でもある>
少しは「論より証拠」から「(理)論も証拠も」という状態に近づいてきただろうか。そして筆者が用意した「偽者の政治家」などを排除する目には見えない「防波堤」の威力をまだ実感しない人たちにもある程度は理解してもらうことができただろうか。くどいようだが、できるだけ多くの人たちに筆者の用意した目には見えない「防波堤」の存在や効果を実感し続けてもらわなければ、その後に予定されている「第二幕」が開幕することはないのである。「第二幕」が開幕しなければ「第二幕」の閉幕までに実現しそうなことも実現しないのである。そして「第二幕」が開幕したとしても、それが多くの人たちにとって魅力的な将来の共通利益を実現するということにつながっていかなければ、将来の「新しい公共財」を「担保」にして実現のために必要な費用を事前に調達したり、利益を生み出したりしていくなどということは全くあり得ないのである。
ちなみに、「偽者の政治家」などを排除したり、「意味不明の無用の混乱」などを阻止したりするために筆者が用意した目には見えない「防波堤」は、正しく使っていただけるのならば、どこの誰でも自由に使っていただいて結構な「新しい公共財」であると同時に、筆者自身の貴重な財産でもある。筆者が「『防波堤』を作るために費やしてきたすべての費用や時間の合計の何割かが資産価値に等しくなる」のか、「『泥仕合』や『茶番劇』による社会全体の損失額について、筆者の用意した『防波堤』が実際に損害を防ぐことができる確率などを勘案したものが資産価値になる」のかはよく分からないし、仮に財産が被害を受けた場合に何らかの形で算出した資産価値を根拠にして損害賠償を請求することができるのかどうかなどということは現時点ではよく分からない。だが、もしも「偽者の政治家」などが大規模な「意味不明の無用の混乱」などを引き起こして筆者自身の貴重な財産に損害を与えた場合には民主主義のルールに従った完全に合法的な形で「反撃」することになるのだろう。「偽者の政治家」などに「反撃」するときには、「公共の利益の実現のため」ということに加えて「筆者自身の財産を守るため」という大義名分もあるわけである。
地球上の別の地域には「治安」という公共財を破壊して「無法地帯」を作っておかなければ「商売上がったり」になったり生きていけなくなる強盗とかテロリストなどが存在するように、筆者が用意した「防波堤」を破壊しておかなければ「商売上がったり」になったり生きていけなくなる「偽者の政治家」もいないわけではない。
何にしてもこれで「第一幕」が終わった。「第二幕」が予定通り開幕するのかどうかはよく分からないし、そこに筆者が存在しているかどうかもよく分からない。いずれにしても筆者としては「第二幕」開幕予定日(次期総選挙(衆議院選挙))まで筆者の用意した「防波堤」の存在や効果をできるだけ多くの人たちに実感し続けてもらうことによって土台部分を維持・改善し、そして筆者が作り出そうと考えている「新しい公共財」の実現性と資産価値を少しでも多くの人たちに認めてもらうように努力するしかない。
編集・発行:http://www.jchiba.net/、筆者:千葉 潤、ご意見など:jchiba@tokyo.email.ne.jp
当ホームページについてのご意見、ご感想、反論などは、jchiba@tokyo.email.ne.jp まで電子メールをお送りください。なお当ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての著作権はJCATSニュースに帰属します。 Copyright1997-2005 Jcats-news. No reproduction or republication without written permission..