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 最近の日本の政治情勢について(2004/6/22更新)

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永田町も国際社会も相変わらず「異常なし」(2004/6/22)


正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23) (1/5)

正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23) (2/5)

正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23) (3/5)

正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23) (4/5)

正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23) (5/5)


「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (補足(2004/1/12))

「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (1/5)

「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (2/5)

「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (3/5)

「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (4/5)

「今という時代の本質」を探し求める共同作業(2004/1/5) (5/5)

(参考) 2003年後半の海外の動き


(2003年総選挙特集)

「壁」を打ち破るためには(2003/12/8)


 最近の日本の政治情勢について(2003年)

 最近の日本の政治情勢について(2002年)

▽参考:日本の政治


永田町も国際社会も相変わらず「異常なし」(2004/6/22)

 前回から約3カ月が経過したが、永田町でも国際社会でも意味のある大きな政治的な動きは何もなかった。もはや多くの読者は筆者がこのように書いてもほとんど驚かないことだろう。確かに永田町でも国際社会でも見かけ上はいろいろ大きな出来事があったが、冷静に考えてみると本質的な意味での大きな変化は何一つなかった。イラク暫定政府が発足(6/1)し、国連安保理でイラク新決議が全会一致で可決(6/9)され、テロや襲撃が相次いでも6月末のイラク側への主権移譲などに向けた動きは何とか継続している。またイラクに派遣されている自衛隊が主権移譲後に発足する多国籍軍に参加することを政府が決定(6/18)したことでも波紋が広がっている。北朝鮮問題では、小泉純一郎首相による再度の北朝鮮訪問(5/22)もあったし、北朝鮮の核問題などを協議する3回目の6カ国協議も開かれる(6/23-6/26に北京の予定)ことになる。なお国内では「未納兄弟」がどうしたなどという実にくだらない国民年金未納・未加入問題の「茶番劇」で福田康夫官房長官が辞任(5/7)し、さらに「開かずの踏切」(→参考:2004/1/12号)がようやく開いて野党第一党・民主党の代表が次の世代の岡田克也氏に交代(5/18)した。そして通常国会が閉幕(6/16)し、いよいよ参院選(6/24公示、7/11投・開票)が行われることになる。しかし残念ながら、現時点では本質的な意味で実際に何かが大きく変わったり、これから何かが大きく変わっていくような気配も感じられない。永田町でも国際社会でも相変わらず異常な状態がすっかり定着して「異常なし」の状態が続いているようである(→参考:2002/11/3号)。

「永田町の占い師」という不名誉な「肩書き」の返上へ

 「最近は『マニフェスト』などに限らず、国民がある政党やある政治家の能力や資質などの『中身』を考える場合に役立つ数々の新しい『インフラ』が整備され始めてきたから、その場しのぎの無責任な言動を繰り返すような政治家たちはそろそろ『年貢の納め時』なのかもしれない」「もしも全く同じ理屈なのに自分たちにとって都合の良い場合には理解でき、都合が悪い場合には理解できなくなるというのならば彼らの主張は最初から最後まですべて『荒唐無稽』なのだろう」(以上、2004/3/23号から)、「勘違いした一部のマスコミの記者たちは少なくとも『菅直人氏を代表に掲げる今の民主党は本当に『地上の楽園』なのか』『民主党は本当に『地上の楽園』ということでいいのか』などという問いかけに対して良心に恥じない説得力のある言葉を返すことができなくてはならない」(2004/1/12号から)、「このまま米国などがテロを防ぐことができずにイラクの治安回復もできないような状態が続くのならば、何かのきっかけに『石油利権だけに関心を持っている治安回復もできない米国はイラクから出ていけ』などという声がイラク国民共通の旗印になってしまうという最悪の事態に陥る危険性が高まっていくからである」(2004/3/23号から)。後から「未納兄弟」の仲間入りをした元野党党首がかつて厳しく他人を批判していた映像や相変わらず米軍などへの襲撃が相次ぐイラクの映像を見ながら読者はどう感じただろうか。

 筆者の一連の文章を継続的に読み続けている読者は既に気づいているのかもしれないが、少なくとも約2年前からの筆者の指摘や懸念の大部分は筆者の予想した方向に向かって予想の範囲内にとどまり続けている。筆者の「永田町の占い師」としての能力を自画自賛することになるだけなので個別具体的な例を挙げることはなるべく控えるが、筆者から見れば、「当たり前すぎるくらい当たり前の道をたどって当たり前の『最悪の結末』に向かって突き進んでいるのにどうしていつまでも誰も気づかないのだろうか」「もしも気づいているのだとしたらどうして問題解決に逆行するような無意味な混乱状態ばかりを引き起こすのだろうか」などと非常に大きなストレスを感じ続けてきたのがこの約2年間であった。そして約2年前の様々な秘書の問題と「マキコ・ムネオ現象」とでも呼ぶべき単なる感情的な判断に基づくあまりにもひどい混乱状態の中、「日本の政治における様々な問題の本質的な部分など誰も知りたいと思っていないのではないか」「そうだとしたら筆者がこのまま何をどう説明しても完全な無駄だから『撤退』するしかない」と決断しようとした直前に、一連の田中真紀子代議士に関する問題に一歩踏み込んでその背景や本質部分を知りたいと考えている人たちが日本にはそれなりに残っていたのだということを改めて実感させられ(→参考:2002/8/14号etc.)、さらに小泉首相による電撃的な北朝鮮訪問発表(→参考:2002/9/7号etc.)によって以前から「オウムのようなもの」として解決を目指してきた北朝鮮問題で大きな動きがあったことを受けて何とか思いとどまったという過去がある。

 どうしたら永田町周辺の無能な政治家たちと無能な既存のマスコミによって引き起こされる無意味な大混乱状態を阻止することができるのか、どうしたら読者を含めた多くの国民が永田町周辺の無能な政治家たちと無能な既存のマスコミによって欺かれないようにすることができるのかなどを筆者なりに模索し続けてきたのがあれから今までの約2年間であった。そして現状打破のための筆者なりの一つの方向性として、一人ひとりの市民が同じ地球上に生活しているという意識を持って「将来世代を含む一般市民の生命・財産などの利益を守って幸福を追求していく」ような正しい判断をするために必要となる最低限の能力や知識とは何か、そういう最低限の能力や知識を地球規模で普及させるためにはどうすればいいのか、などといったことを意識し、政治や政治ジャーナリズムのための「新しいインフラ」としての可能性をも模索し始めたことは前回(→参考:2004/3/23号)も述べた。まだその準備は十分ではないが決して現実は待ってくれない。今の永田町や国際社会の動きに大きく失望している人たちにとっては少なくともこの約2年間に書き続けた筆者の一連の文章はきっと役に立つはずだと思っている。特に昨年の総選挙で野党第一党に大いに期待して裏切られて大きく失望している人たちに対しては「あなたたちのためにこれらの文章を書き続けてきた」と言っても言い過ぎではないと思っている。政治家たちや既存のマスコミにまた愚弄されるのではないかと気づき始めた人たちにとって有用な情報は約2年前から書き続けてきた一連の文章の中に既にあると思っている。筆者としては同じようなことをまた繰り返して再び「永田町の占い師」としての「名声」を高めるのではなく、約2年前よりもはるかに多くの人たちにバカバカしいことにごまかされずに物事の本質を理解してもらうことに全力を挙げ、「永田町の占い師」という不名誉な「肩書き」を一刻も早く返上したいものだと考えている。

 従って参院選をはじめとする永田町周辺の動きはしばらく完全に「黙殺」し、そして北朝鮮問題やイラク問題などでも意味のある具体的な成果が得られたと判断できるまではあえて沈黙を守ることにしようと現時点では考えている。今のような流れが基本的に続くならば結果は筆者の予想の範囲内になるはずだし、この約2年間に書き続けてきた筆者の一連の文章に「予想の範囲」もその解決策も既に書かれているはずだと筆者は考えている。あえて何かを書かなくてはならない事態になるまでは沈黙を守ることにしたい。

 今回は沈黙を破ってでもどうしても急いで書いておかなければならないことが2点だけある。一つは永田町の「茶番劇」は様々な周期で繰り返される危険性が高いということであり、もう一つは永田町でも国際社会でも「一人ひとりの人間の生命・財産などの保護」という政治の原点が見失われ、問題の本質的な解決が困難になってしまう危険性が高まっているということである。限りのある時間も資金も無駄になると分かっていることには費やす余裕など全くないから、以上の2点だけを読者に伝えたら参院選などを完全に「黙殺」し、再びしばらく沈黙を守ることにしようと考えている。

様々な周期の「茶番劇」

 最近の永田町周辺ではかつて許しがたいこととして排除されたはずのものがまともな総括も反省も教訓もすべて省略しながら次から次へとかつての場所に戻ったりあるいは戻ろうとしている。そういう状況から総合的に判断すれば、非常に短いサイクルでうんざりするほど繰り返されている永田町の「起承転結型の茶番劇」以外にも、少なくとも「約1年周期の茶番劇」「2年周期の茶番劇」「3年周期の茶番劇」「6年周期の茶番劇」が永田町や国際社会には存在し、そうした様々な周期の「茶番劇」によっても国民は愚弄されようとしているのではないかと筆者は見ている。それらの「茶番劇」の繰り返しを阻止することができるのは読者を含めた一人ひとりの市民だけのはずだが、残念ながら彼らの動きは非常に鈍い。

 「起承転結型の茶番劇」は最近も国民年金未納・未加入問題などでうんざりするほど繰り返されている。「起」(→閣僚の未納・未加入などの政府・与党のスキャンダルが発覚)、「承」(→「未納兄弟」、「年金問題を論じる資格なし」、「大臣を辞任すべきだ」などの野党側の厳しい批判)、「転」(→野党党首も「未納兄弟」の仲間入りするなど野党側にも同種のスキャンダルが発覚)、「結」(→なぜか「未納兄弟」の野党党首が年金一元化を唱えながら「言い訳責任」を果たすなど弁解・謝罪が安売りされるが、「辞任」で結局すべてうやむやに)…。よくもまあ、これほどきれいに「起承転結」の形になるものだという「茶番劇」が年金未納・未加入問題以外でもこれでもかこれでもかと繰り返されるものである。

「マニフェスト」とはいったい何なのか

 「約1年周期の茶番劇」とは、各党の参院選の「マニフェスト」なるもののことである。「マニフェスト」とはいったい何なのか。永田町周辺の人間たちの言う「マニフェスト」なるものは「国民を欺く空手形」なのだろうか。約1年前の総選挙の与野党の「マニフェスト」がどれだけ実現されたかという問題はひとまずおいて置くが、政権交代が起こらない参院選で与党以外の政党が政権獲得を前提にした「マニフェスト」なるものを国民に示したとしても単なる「絵に描いた餅」になるだけである。「絵に描いた餅」になることを承知であえて野党が「マニフェスト」なるものを国民に示すのならば「詐欺的行為」と言わざるを得ないだろう。以前も書いたが(→参考:2004/1/5号)、「このマニフェストに書かれた政策は参院選後のいつあるかもよく分からない次の総選挙で政権交代が実現した場合だけにしか実現することはできません。投票の際にはご注意ください」などと表紙などの目立つ場所に大きな文字で注意書きをしておいたとしても「詐欺的行為」と見なされる可能性が高い。念のために言っておくが、「マニフェスト」なるものに書かれていないものを「追加マニフェスト」などと称してこっそり追加することも今回は止めた方がいい(→参考:2003/12/8号)。くどいようだが、参院選では政権交代は起こらない。万一参院選で与党が大敗北し、その上でさらに万一解散されるようなことがあったとしても、その解散された総選挙できちんと「マニフェスト」を示した方が国民のためになることは明らかである。よって少なくとも国民から見た場合には参院選で「マニフェスト」なるものを野党から示されても全く意味はないはずである。もしかすると野党第一党の前回総選挙の「マニフェスト」の「不適切な人物の写真」が「マニフェスト」なるものの「信頼性」の低さと「賞味期限」の短さを最もよく示しているということに国民自身がもう既に気づいているのかもしれない。

約2年前の出来事を改めて思い出してもらいたい

 「2年周期の茶番劇」とは、無能な政治家たちと無能な既存のマスコミによって繰り広げられる永田町周辺の意味不明の大混乱状態のことである。約2年前の出来事を改めて思い出してもらいたい。様々な政治家たちの様々な形での秘書の問題で政治・政治家不信が極限にまで高まり、「マキコ・ムネオ現象」とも呼ばれた問題解決に逆行する感情的な判断に基づく無用な混乱状態が追い討ちをかけた。年金問題で感情的な反発ばかりが前面に出てきて本質的な議論が完全に吹き飛ばされてしまっている現状と非常によく似ているではないか。おまけにふと気づくと2年前の混乱の主役の政治家たちは永田町に既に戻ってきているか、まさに戻ろうとしているのである。さらに2年前の政治・政治家不信が高まった直後には小泉純一郎首相による電撃的な北朝鮮訪問、金正日総書記との首脳会談(2002/9/17)があり、その後に北朝鮮による日本人拉致被害者5人が帰国(2002/10/15)したが、今回もまた小泉首相による再度の北朝鮮訪問・首脳会談、そして拉致被害者家族5人の帰国(5/22)があったというおまけまでついている。

「一斉補欠選挙」? 「怪奇映画のゾンビ」?

 「3年周期の茶番劇」とは2つの「茶番劇」のことを意味している。1つは参院選という名前の「一斉補欠選挙」という「茶番劇」である。すべての「くら替え」などを一律に批判することは間違いだとは思うが、元代議士(元衆院議員)、元参院議員などの政治家、しかもほとんどの人たちがその復活を期待していない人間ばかりがここぞとばかりに名乗りを挙げるという現象にうんざりしている人たちもきっと多いことだろう。国民は強行採決や物理的抵抗などの映像を見たとき以外にも3年ごとの「一斉補欠選挙」の際に参院なんか必要ないと実感させられ続けるのだろう。

 そしてもう一つはかつて葬り去られたはずの「怪奇映画のゾンビ」のような政治家が約3年の周期で復活するという「茶番劇」である。今年はかつて辞めさせた党首をどういうわけか約3年後に再び党首にした「前科」を持つ政党(→参考:2004/12/8号etc.)で「未納兄弟」の仲間入りを果たした末に党首が辞任している。約3年後に絶対に「茶番劇」を繰り返させないためには、現時点でその党首が辞任しなければならなかった本当の理由を誰の目にもハッキリと分かる形で明確にしておく必要がある。

 筆者が「開かずの踏切」(→参考:2004/1/12号etc.)と見なしてきた民主党の管直人前代表は「未納兄弟」などと厳しく批判した直後に自らの国民年金未加入(未納)が発覚し、全く説得力のない言い訳をテレビで繰り返したあげくに辞任(5/10)した。どういうわけか管氏を支持している人間たちは管氏が「国民年金未加入(未納)だったこと」だけが悪かったかのようなとんでもない大きな勘違いをしているらしいが、管氏の「国民年金未加入(未納)だったこと」が問題だというよりも、むしろ「他人に非常に厳しく自分たちだけには非常に甘かった」という「自己中心性」こそが問題だったのだと筆者は考えている。辞職要求であろうが参考人招致や証人喚問の要求であろうが、自らの国民年金未加入(未納)が発覚した後も、せめて管氏が他人を厳しく批判していたときに要求していたのと同じことを「あれはちょっと言い過ぎた」などとトーンダウンさせずに自分自身にも適用・実行していたのならば、少なくとも管氏の「政治家としての資質」や「社会人としての資質」にまで疑問符が付くことはなかっただろうと筆者は考えている。何にしても民主党に限らずどの政党も「自己中心性」から解放されていないと国民から見なされてしまえば政権交代は不可能なはずである。議員になる前に主張していたもっともらしい公約を政治家になった後に次々と破っていく政治家や野党のときに言っていたもっともらしいことを与党になった途端にトーンダウンさせることがハッキリしている政党に投票するほど国民の知的レベルは低くないだろう。

 3年間という時間は無能な既存のマスコミや無能な政治家たちに限らず、賢明な多くの人たちにとっても「茶番劇」を忘れ去るには十分に長い時間なのかもしれない。自然災害も人災も長い年月が経てば防災というよりも「忘災」…、それが偽らざる現実なのかもしれない。

本当に「地上の楽園」なんかが存在するのだろうか

 最後の「6年周期の茶番劇」とは、言うまでもなくまたしても参院選のことである。6年前の参院選では、低投票率・与党有利の事前予想を覆して都市部を中心にした正体不明の強い逆風と共倒れによる全滅という「Wの悲劇」によって自民党が大敗(1998/7/12)し、当時の橋本龍太郎内閣が総辞職(1998/7/30)に追い込まれた。直後の金融国会などで野党側はそれなりに実績を残すことができたが、今から冷静に振り返ってみると、6年前の参院選の結果、いったい何が本質的に変わったと言うのだろうか。もちろん政権交代はその後のどの総選挙でも起こらなかった。永田町周辺は異常な状態がすっかり定着して「異常なし」の状態が続いてきたのではないか。元野党党首などの政治家たちは、あたかも政権交代がすぐに起こるかのようなホラを6年間も吹き続けてきたことになる。6年前に野党に大きく期待してわざわざ投票所に足を運んで投票した人たちは本当に満足しているのだろうか。そして6年間という時間はやはり多くの人たちにとっては「人災」を忘れ去るには十分な時間であり、「茶番劇」が再び繰り返されてしまうのだろうか。既存の政党・政治家に不満ならば、自分たちで新しい政党を作ったり候補者を擁立したりすればいいのだが、そこまで労力をかけなくても無視できないくらいの多数の有権者が棄権せずに「白票」を投じるという形でも6年前の参院選直後よりもずっと大きなインパクトがあるはずである。

 無能な政治家たちや無能な既存のマスコミは何か与党に問題が発生すると、まるで野党を「地上の楽園」であるかのように言い出すが、この世の中に本当に「地上の楽園」なんか存在するのだろうか。無能な上に無責任極まりない一部の既存のマスコミは、昨年の総選挙での「地上の楽園」神話の崩壊が「未納兄弟」騒動などでもはや覆い隠すことができなくなっていても、それでもまだ多くの人たちを欺くための「地上の楽園」宣伝を続けるつもりなのだろうか。

 くどいようだが、「茶番劇」の周期性を打破することができるのは読者を含めた一人ひとりの市民だけである。筆者ができることは基本的には同じことを何度も何度も繰り返して説明することぐらいである。どうしたらもっと効率的に物事の本質だけを伝えることができるのかを模索し続けながら、またうんざりするような「茶番劇」を繰り返し見せ付けられることになるのだろうか。

「一人ひとりの人間の生命・財産などの保護」

 「(前略)…船が清津(チョンジン)港に近づくと私はみなにつられ甲板に駆け上がった。港の後ろに見える山は木がほとんどなかった。誰かが『金日成元帥マンセー』と歓声をあげた。それにつられて何人かが万歳をしていた。そうした喜ぶ人の一方で、悲鳴にも似たうめき声が聞かれた。隣にいた初老の男性は『これは…』と絶句すると『話が違うな』とデッキの手すりをぎゅっとつかんだきり、微動だにしなくなった…(中略)…岸では歓迎団がなにやら音楽を演奏し、私たちの到着を待ちかまえていた。港に近づくにつれ、彼女らの様子がはっきりと見て取れた。女性たちは真冬だというのに薄いチョゴリだけをまとい、歌い踊っていた。吹きつける風に砂塵が混じり、目を開けることができなかった。彼女らは寒風に煽られながらも、やつれた表情に笑顔をはりつけたまま、踊り続けた。私たちは決して日本で裕福な暮らしをしてこなかった。しかし、眼前の『地上の楽園』の住人たちの服装や持ち物、そのたたずまいすべてが私たちとは比べようもないほど貧しかった…(後略)」(「北朝鮮大脱出 地獄からの生還」、宮崎俊輔著、新潮OH!文庫)

 約1年前の総選挙、あるいは6年前の参院選で日本の政治の何かが変わると期待したけれども今は失望している人たちは少し感情移入してしまったかもしれない。永田町でも国際社会でも「一人ひとりの人間の生命・財産などの保護」という政治の原点が見失われている現状に非常に大きな危機感を抱いている。このままでは世界各地で「報復が報復を呼ぶ」という最悪の連鎖がいつまでも続くことになってしまう。

 どうやら唯一の超大国から「汝を北朝鮮国王と為す」などというお墨付きと「金印」と「ごほうび」がもらいたいらしい極東の非人道的な独裁国家やその独裁者の「生存権」を考える場合には、独裁国家内の人たちの人権蹂躙を黙認・容認するようなことだけは断じてあってはならない。また非人道的な独裁国家への経済協力などの支援は、その目的と効果をしっかりと見極めなければならないはずである。経済協力などの支援が非人道的な独裁国家の体制維持にしかつながらず、国内の一人ひとりの支援にほとんどつながらないのならば、経済協力などの支援を行った国家は非人道的な独裁国家と共犯になって独裁国家内の人たちの人権を蹂躙していることになるはずである。特に経済協力が過去の植民地支配の「賠償」という性格を持つ国家の場合には、その国家は自らの過去を全く反省していないと「歴史という法廷の被告席」で糾弾されることになるだろう(→参考:2002/11/3(2)号etc.)。極東の非人道的な独裁国家が本当の意味で国際社会の責任ある一員になるということは、独裁国家内の人たちの人権蹂躙が完全になくなるということである。独裁国家内の人たちの人権蹂躙を黙認・容認する形で非人道的な独裁国家と共存を図るということは目先のことだけにとらわれたその場しのぎのつかの間の平和にすぎないのである。そしてその場しのぎのつかの間の平和で将来世代を含めた一人ひとりの市民を欺こうとした人間たちは「歴史という法廷の被告席」で厳しく糾弾されることになるだろう。国際社会は将来世代を含めた一人ひとりの人間の生命・財産などを守るために本当に共存・協力できる相手としか共存・協力してはならないのである。

政治とは? テロとは?

 ここで筆者が考える「政治の定義」「テロ(テロリズム)の定義」について明らかにしておく必要があるだろう。政治とは、「一人ひとりの自立した個人を含めた様々な主体が共存・協力関係を構築していく過程であり、共存・協力の実績とより良く共存・協力していくための技術を積み重ねながら絶えず現実にフィードバックしていく作業」であると暫定的に定義している。そして「将来世代を含むすべての一般市民の生命・財産などの利益を守ること」がそうした共存・協力関係構築のために必要不可欠な最低限の条件、あえて言い換えれば「政治の究極目標」であると考えている。さらにテロとは、「ある者が非戦闘的な状態において何らかの明確な目的をもって意図的に行う個人の生命・財産などに対する急迫不正の侵害もしくはそれらを脅かす行為。ただし専ら他者の経済的利益の奪取、あるいは憎悪の解消や快楽の享受を目的としたものを除く」と暫定的に定義している。

 イスラエル軍によるハマス指導者暗殺(3/22,4/17)のような国際法的には正当な「攻撃目標」と見なされる可能性のある最高指揮官の戦場以外での「暗殺」、米軍の空爆などによる「誤爆」や「巻き添え」による民間人の犠牲、あるいはどういうわけか一部の人間が「レジスタンス」などと思考停止状態で肯定的に捉えている世界各地で頻発する「自爆テロ」などは「犯罪」との違いが非常に不明確である。やはり被害者となる一人ひとりの市民の側から見ればこれらを明確な「犯罪」と考えるべきなのだろうと筆者は考えている。筆者は先に示した「将来世代を含むすべての一般市民の生命・財産などの利益を守ること」という共存・協力関係構築のために必要不可欠な最低限の条件が満たされていないという意味で「暗殺」「誤爆」「巻き添え」「自爆テロ」などを黙認もしくは正当化することは断じてできないと考えている。なおイラクなどで明らかになった米軍などによる収容者の虐待、そして武装勢力による外国人誘拐・殺害などはいかなる「正しい目的」があろうとも明確な犯罪であるということは言うまでもないことである。

 すべての主権国家はテロリストなどの温床になりかねない「無政府状態」「無法状態」「破たん国家」などの存在を容認することはできないはずである。グローバル化(globalization)の時代にはそうした「無政府状態」「無法状態」「破たん国家」は絶対に封じ込めておくことはできず、ひとたび「無政府状態」「無法状態」「破たん国家」ができれば、それらを拠点に次から次へと主権国家が侵食され、やがてドミノ倒しのように主権国家が「無政府状態」「無法状態」「破たん国家」などに変わっていくことにもなりかねないからである。「人間の安全保障」などという概念をあえて持ち出さなくとも、そろそろ一人ひとりの人間の生命・財産などの保護という政治の原点に立ち戻って「戦争」「テロ」「犯罪」などの定義を見直す必要があるのではないかと考えている。

 「一人ひとりの人間の生命・財産などの保護」という政治の原点が見失われている現状を打破することができるのも読者を含めた一人ひとりの市民だけである。そして筆者にできることはやはり基本的には同じことを何度も何度も繰り返して説明することぐらいである。

 いずれにしてもまた「茶番劇」が周期的に繰り返されようとも、政治の原点がさらに見失われようとも、筆者としては新たな状況に応じて表現や説明方法を変化させながらも基本的には同じことを何度も何度も繰り返し説明していくつもりである。現時点では「茶番劇」が様々な周期で繰り返される危険性が高いこと、「一人ひとりの人間の生命・財産などの保護」という政治の原点が見失われていること、の2点を読者にあえて伝え、またしばらく沈黙を守ることにしたいと思っている。


正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23) (1/5)

 前回は年初(1/5、1/12追加)だったから、もう2カ月以上が経過したことになる。「沈黙の理由は他でもない。この約2カ月間に大きな政治的な動きは何もなかったからである」などと書いたらおそらくほとんどの読者はビックリ仰天してしまうだろうが、筆者に言わせれば、それでもやはり「大きな政治的な動きは何もなかった」のである。
 
 通常国会が召集(1/19)され、小泉純一郎首相の施政方針演説などとそれらに対する代表質問などがあり、2003年度補正予算が成立(2/9)、イラクへの自衛隊派遣(1/20-)が承認(2/9)され、2004年度予算案が衆院を通過(3/5)、そしておそらくもうすぐ成立するのだろう。また拉致・核問題で日本と北朝鮮の高官協議(2/11-14)もあったし、北朝鮮の核問題などを協議する第2回目の6カ国協議(2/25-28)も行われた。スペイン・マドリードの列車同時爆破テロ(3/11)が発生して直後の総選挙(3/14)で与党が敗北した。総選挙(4/15)が迫る韓国で盧武鉉(ノムヒョン)大統領が弾劾(3/12)され、台湾では銃撃(3/19)された陳水扁総統が総統選(3/20)で再選された。もちろん例によって例の如く永田町では数々の不祥事がいくつも発覚したし、その他にもいろいろな動きはあった。確かにそれらの「事実」は間違いなく存在したのだろうが、「内容」がほとんどなかったために「結論」としては「大きな政治的な動きは何もなかった」ということになると筆者は考えているのである。
 
 もしかしたら「バカの壁」(養老孟司著、新潮新書)が310万部を超えてもまだまだ売れ続けていることとか、綿矢りささんの「蹴りたい背中」(100万部突破)と金原ひとみさんの「蛇にピアス」(約50万部)が共に史上最年少で芥川賞を受賞(1/15発表、2/20贈呈式)して2作品を掲載した「文芸春秋」(2004年3月号、増刷して118.5万部)が過去最多の発行部数を記録したこととか、オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)被告に対して東京地裁が死刑判決(2/27)を言い渡したこととか、東京地裁が週刊文春(2004/3/25号、3/17発売)の出版を事前に差し止める仮処分命令(3/16)を出し、文春側の異議申し立てを退け(3/19)、文春側が東京高裁に抗告(3/20)したこと、などに注目した方が日本の政治にとっての「政治的意味」をずっと速く確実に見いだすことができるかもしれないと筆者は考えているくらいである。
 
 今回もホームページ(→http://www.jchiba.net/message/040323-1.htm)
に一連の文章を一挙に全文掲載しているが、メールマガジンでは小口に分割して送信することにした。まずは前回以降の日本の政治、北朝鮮問題、イラク問題などの動きを簡単にまとめておくことにする(→メールマガジン版では省略)。

日本の政治の動き

 小泉純一郎首相が年頭記者会見、伊勢神宮を参拝(1/5)した。第159通常国会が召集され(→1/19。会期は6/16までの150日間)、小泉純一郎首相が施政方針演説など政府4演説(→むすびで「平和は唱えるだけでは実現できません。国際社会が力を合わせて築き上げるものであります。世界の平和と安定の中に我が国の安全と繁栄があることを考えるならば、日本も行動によって国際社会の一員としての責任を果たさなければなりません」などとイラクへの自衛隊派遣・人道復興支援に重点。川口順子外相による外交演説、谷垣禎一財務相による財政演説、竹中平蔵経済担当相による財政演説も)が行われ、政府4演説に対する代表質問(衆院1/21-22、参院1/22-23)も行われた。そしてイラク派遣承認案、2003年度補正予算案が衆院を通過(1/31)、参院でも成立(2/9)した。2004年度予算案審議が衆院予算委で始まり(2/10)、衆院を通過(3/5)した(→一般会計の総額は82兆1109億円。これで遅くとも4/4には自然成立、暫定予算も回避。なお民主会派入りした田中真紀子代議士が民主の方針に反して衆院予算委での採決を欠席したという)。党首討論(2/18)が行われた。
 なお2003年10-12月期の国内総生産(GDP、速報、実質、季節調整値)が対前期比+1.7%(年率換算+7.0%)だったと内閣府が発表(→2/18。バブル経済期の1990年4-6月期以来、13年6カ月ぶりの高い成長率。輸出(対前期比+4.2%)、設備投資(同+5.1%)が高い伸び、個人消費(同+0.8%)が堅調。2003年は年間で名目+2.7%、実質で+0.2%に。3/10に発表した改定値では実質GDP(季節調整値)の成長率は+1.6%(年率+6.4%)に下方修正)した。また日本とメキシコが自由貿易協定(FTA)交渉で正式に合意(3/12)した。
 アナン国連事務総長が来日して小泉首相と会談(2/23)、国会で演説した(→2/24。国連のイラク復興支援での役割を拡大、安全保障理事会など国連組織の強化に取り組んでいく姿勢を強調、日本のイラク問題での貢献を評価、国連事務総長の国会演説は初)。
 イラク・サマワに陸上自衛隊が派遣されている。石破茂防衛庁長官が陸上自衛隊の先遣隊と航空自衛隊の本隊に派遣命令(→1/9。長官は現地取材などの自粛も要請)を出し、陸上自衛隊の先遣隊が出発(1/16)、クウェートから陸路でイラク・サマワのオランダ軍宿営地に到着(1/20)した。そして先遣隊の2人が帰国して石破防衛庁長官に報告(1/23)した。陸上自衛隊本隊と装備などを輸送する海上自衛隊に派遣命令(1/26)が出て、陸上自衛隊本隊第一陣がクウェートから陸路でイラク入り、サマワのオランダ軍宿営地に順次到着(→2/8-10)した。さらに間借りしていたオランダ軍の宿営地から自前の宿営地に引っ越(2/25)後、本隊第2陣(主力第1陣)も自衛隊宿営地に到着(2/27)、陸上自衛隊の車両を積んだ海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」もクウェートに到着(3/15)、主力部隊第2陣(女性自衛官を含む)も到着(3/20-21)、そして派遣部隊の最後となる陸上自衛隊の主力部隊第3陣も出発(3/21)した。
 自民党の池田行彦代議士(1/28。66歳。元外相、衆院広島5区選出)、自民党の山中貞則代議士(2/20。82歳。元通産相など。衆院鹿児島5区)がそれぞれ死去した。また公選法違反(買収)の罪で起訴された自民党代議士の新井正則被告(→衆院埼玉8区から初当選、自民党に離党届を提出済、自民は除名などの処分見送りを決める。<お詫びと訂正> 前回の動きの中で新井正則被告の名前が間違っていたことをお詫びして訂正します)の辞職が認められ(1/19)、衆院の3選挙区で統一補選(→4/25投・開票、衆院の埼玉8区、広島5区、鹿児島5区)が行われることになった。
 不祥事絡みやその他のこともかなりあった。昨年の総選挙で静岡7区から立候補、落選した前保守新党代表の熊谷弘氏陣営の選挙違反事件で公選法違反(現金買収)の罪に問われた元公設第1秘書に対して静岡地裁浜松支部は懲役1年6月、執行猶予5年の判決を言い渡した(→1/22。禁固刑以上の有罪が確定すれば熊谷氏にも連座制が適用へ、熊谷氏は政界引退へ)。ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団(KSD)事件で国会質問の請託を受けて3166万円の賄賂を受け取ったという受託収賄罪に問われた元自民党参院議員の小山孝雄被告に対して東京高裁は一審の東京地裁の懲役1年10月、追徴金3166万円の判決を支持して被告側の控訴を棄却する判決を言い渡した(1/29)。政策秘書の給与を国からだまし取ったとして詐欺罪に問われた社民党の元代議士の辻元清美被告に懲役2年執行猶予5年、土井たか子前党首の元秘書の五島昌子被告に懲役1年6月執行猶予4年の有罪判決を東京地裁はそれぞれ言い渡した(2/12)。土屋義彦・前埼玉県知事の資金管理団体の政治資金規正法違反事件で政治資金規正法違反(虚偽記入)の罪に問われた長女の市川桃子被告に東京地裁は禁固1年6月、執行猶予4年の判決を言い渡した(3/17)。
 民主党の古賀潤一郎代議士の学歴疑惑が浮上(→1/17。米ペパーダイン大卒とされていたが学位授与を否定する報道など。実際に卒業していなかったことが明らかに。自民党前副総裁の山崎拓元代議士らを破って福岡2区から初当選)、民主党は離党を認めずに除籍処分にすることを決定(1/29)した。
 民主党の佐藤観樹代議士(比例東海ブロック選出)の元公設第2秘書の名義借り疑惑が浮上(3/2)、佐藤代議士は辞職(3/5)、民主党は除籍(除名)処分(3/5)にした。そして勤務実態のほとんどない公設第2秘書を登録して国から給与約1700万円をだまし取ったという詐欺容疑で愛知県警に佐藤観樹容疑者ら3人が逮捕された(→3/7。佐藤容疑者は逮捕直前に記者会見。公設第1秘書だった妻、第2秘書として登録されていた女性の夫の元市議会議長の2人も逮捕)。
 北朝鮮と日本の間にもいくつか動きがあった。外務省職員が北朝鮮・平壌入りした(→1/13-17。北朝鮮に麻薬密輸容疑で拘束された日本人男性との面会などのため)。そして外務省の田中均外務審議官、藪中三十二アジア大洋州局長らが北朝鮮・平壌を訪問(2/11-14)、北朝鮮の姜錫柱(カン・ソクチュ)第1外務次官(→金正日総書記の側近)、金永日(キム・ヨンイル)外務次官と日本人拉致問題などについて政府間協議(→日本側は北朝鮮にいる日本人拉致被害者の家族の即時無条件での日本帰国を求めたのに対して、北朝鮮側は拉致被害者5人を一度北朝鮮に戻すなどという従来の主張の応酬になって進展はなかったが、協議継続では合意したらしい。日本側は拉致問題の解決などを求める小泉純一郎首相のメッセージを口頭で伝えたという)を行った。
 日本独自の判断で北朝鮮への経済制裁を可能にする改正外国為替・外国貿易法(外為法)(→日本単独で制裁実施をする場合は国会の事後承認が必要)が成立(→2/9。1/29に衆院通過)し、時間が経過するにつれて北朝鮮の貨物船などの入港を規制する法案が掲出されて成立する可能性が確実に高まってきている。なお北朝鮮の貨客船「万景峰(マンギョンボン)92」は今年も新潟西港に入港(1/28)した。衆院外務委・北朝鮮による拉致および核開発問題等に関する小委が初めて開かれた(2/18)し、衆院予算委では北朝鮮問題の集中審議(3/3)も行われた。
 なお日航機「よど号」乗っ取り事件のメンバーの安部公博容疑者(旧姓)の妻で旅券法違反容疑で国際手配されていた魚本民子容疑者が北朝鮮から北京経由で帰国、成田空港で警視庁公安部に逮捕(2/24)された。北朝鮮で生まれ育ったよど号ハイジャック事件メンバーの子供6人が北京経由で成田空港に帰国(1/13)している。

北朝鮮関係の動き

 プリチャード前朝鮮半島和平担当特使やヘッカー元ロスアラモス研究所長ら米国の核の専門家ら北朝鮮を訪問(1/6-10)、寧辺の実験用黒煙減速炉の稼働を確認したり、プルトニウムと見られる金属片や粉末を北朝鮮側から見せられていたことなどが明らかになった。ソウルで南北閣僚級会談が開かれた(2/4-6。北朝鮮の核兵器開発問題で進展はなし)。北朝鮮を訪問した中国の王家瑞・共産党対外連絡部長が金正日総書記と会談(1/19)した。北朝鮮の核兵器開発問題などを協議する米中朝日韓ロによる6カ国協議の第2回目の協議が2/25から北京で開かれることが明らかに(2/3)なった。
 中国・北京で北朝鮮の核開発などを協議する6カ国協議(2/25-28、2/24はレセプション。釣魚台国賓館。中国の王毅外務次官、藪中三十二外務省アジア大洋州局長、米国のケリー米国務次官補、韓国の李秀赫(イ・スヒョク)外交通商次官補、北朝鮮の金桂寛(キム・ケグァン)外務次官、ロシアのロシュコフ外務次官)が行われ、議長声明を発表して閉幕した(→中国の王毅外務次官が発表。作業部会の設置、次回(第3回)協議を6月末までに北京で開催することでは合意。土壇場で北朝鮮が自分たちに都合が良いように共同文書の修正を求めたことを含めて北朝鮮の核の完全放棄で日米韓と北朝鮮の溝は結局埋まらず、前回(03年8月)と同様に共同文書を取りまとめることはできず)。
 総選挙(4/15)が迫る韓国では大統領選の不正資金疑惑などで政局が混乱した。尹永寛(ユン・ヨングァン)外交通商相が辞任(→1/15。外交通商省北米局幹部が「北朝鮮より」などと大統領の外交政策を批判したことの引責辞任だという。事実上の更迭?)し、後任の外交通商相には外交官出身の潘基文(バンギムン)大統領外交補佐官が任命(1/16)された。そして韓国国会は野党・ハンナラ党と民主党が提出した盧武鉉(ノムヒョン)大統領に対する弾劾訴追案を可決、盧大統領の権限は一時停止、高建(コゴン)首相が大統領の職務を代行(→3/12。賛成195、反対2。在籍271議員中の2/3以上。韓国憲政史上初。盧大統領の弾劾の理由は(1)事実上の与党・開かれたウリ党への支持発言(→公選法違反の疑い?)で法治主義を否定、(2)大統領選での不正資金事件、(3)国民経済と国政を破たんさせたこと、の3つ。最終的には憲法裁判所が180日以内に9人の判事のうち6人以上の賛成で弾劾を決定)した。ちなみに韓国が竹島をデザインにした切手発行したことを受けて日本政府が韓国政府に厳重抗議(1/16)するなどの動きもあった。
 なおロシア大統領選(3/14)では事前の予想通りにプーチン大統領が圧勝という形で再選された。中国では全国人民代表大会(全人代、国会に相当、3/5-3/14)が行われた。台湾の総統選(3/20)では前日に銃撃(3/19)された陳水扁総統(民進党主席)が僅差で再選されたが混乱が続いている。

イラク問題などの動き

 イラク戦争開戦(3/20)から1年が経過した。だが、イラクの治安は回復していない。米軍などへの襲撃やテロは相変わらず沈静化しておらず、またイラク人を標的としたテロも増加傾向にある。イラク北部のアルビルでクルド人2政党の事務所(→クルド民主党(KDP)とクルド愛国同盟(PUK))にほぼ同時に自爆テロが発生、50人以上が死亡(2/1)した。バグダッド南方のイスカンダリヤの警察署前で車を使った自爆テロとみられる爆発が発生、50人以上?が死亡(→2/10。イラク警察に就職を希望して並んでいたイラク人が犠牲者に)した。バグダッド中心部の新イラク軍兵士採用事務所前で車を使った自爆テロと見られる爆発が発生、47人?が死亡(→2/11。事務所前に並んでいた入隊志願のイラク人が犠牲に)した。バグダッド西方のファルージャで警察署などを数十人規模の武装グループが襲撃、イラク人警官や市民20人以上が死亡(→2/14。拘束されていた囚人は逃走。自動小銃程度の装備のイラク警察側よりも武装グループ側の方がはるかに強力な武器を持っていたという)した。バグダッドや中部のシーア派聖地のカルバラなど各地で連続爆弾テロが発生、カルバラでは複数のモスクなどで自爆テロ、宗教行事の「アシュラ」中のシーア派信徒ら140人以上が死亡(3/2)した。
 イラクを訪問したブラヒミ国連事務総長特別顧問が6月のイラク暫定政権樹立前に直接選挙を行うことは困難との考えを示した(2/13)。アナン国連事務総長が6月末までの直接選挙実施は不可能だが早期に直接選挙を行うべきなどというイラク暫定政府樹立などへの見解を発表(2/19)、そして直接選挙の実施は早くても今年末との判断を含むイラク人への主権移譲プロセスに関する報告書も発表(→2/23。法的枠組みの整備後から選挙実施まで8か月の準備期間が必要、ただ6月末までに何らかの暫定政府を作って主権移譲?、など)した。イラク暫定評議会は延期(3/5)されていたイラク基本法に署名(3/8)した。
 イラクから大量破壊兵器は発見されず、米国や英国に対する風当たりがさらに強まっている。米国のイラク大量破壊兵器調査団の団長を辞任(1/23)したデビット・ケイ氏が「イラクに大量破壊兵器が存在するとは思えない」とか「90年代に大規模な生物・化学兵器の生産計画があったとは思えない」などと発言したと報じられ(1/24)、波紋が広がった。BBC(英国放送協会)が報道したイラクの大量破壊兵器問題をめぐる英政府の情報操作疑惑で政府から情報源として名指しされた英科学者のデビッド・ケリー博士が自殺した事件を調査している独立(司法)調査委員会がブレア首相の関与や政府の落ち度を否定してBBCの報道などを批判する調査報告書を発表(1/28)した。ブッシュ米大統領がイラクの大量破壊兵器疑惑に関する情報収集などを検証する独立委員会の設置を発表(2/6)した。
 パキスタンからの核兵器技術流出の深刻さが次第に明らかになっている。パキスタンのムシャラフ大統領は「個人的」な北朝鮮、イラン、リビアに対する核技術提供を認めて謝罪した同国の「核開発の父」と呼ばれるアブドル・カディル・カーン博士の刑事責任を問わないことを発表(2/5)した。またムシャラフ大統領は記者会見でカーン博士の核技術提供に同国政府が関与していないことを表明、また同国が闇市場で部品等を調達して核兵器開発を行ったことを認めた(2/6)。
 列車同時爆破テロ(3/11)のあったスペイン総選挙(3/14)では、イラク戦争を支持したアスナール首相の与党・国民党が敗北、野党・社会労働党が第一党になってイラクに派兵しているスペイン軍部隊の撤退問題が焦点になっている。またパレスチナ過激派ハマスの創設者で精神的指導者のアハメド・ヤシン師がパレスチナ自治区ガザ市内でイスラエル軍の武装ヘリからのミサイル攻撃で殺害(3/22)されたことで暴力の応酬が再び激化する危険性が高まっている。


正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23) (2/5)

物事の本質とは全くかけ離れたこと

 「私は今では完全に『絵に描いた餅』になってしまった『マニフェスト』を千切る。細長く…。おっといけない、いけない。政権交代の起こらない7月の参院選でも、いつあるのか全く分からない次の総選挙でも使うんだった。いけない、いけない…。『もつれた糸』と『空き箱』や大風呂敷を広げて繰り返しほらを吹く『空き菅』(注:原文のまま。空き缶の誤記か)が無造作に転がっているだけのように見える永田町では、どうやって格好良く『もつれた糸』の引っ張れそうな部分を片っ端から引っ張ってますますひどくもつれさせるかが何よりも重要なことらしい。ちょうど野党の政治家たちが少し前に『マキコさんとムネオくんのどちらがウソを言っているかをハッキリさせる』などと勘違いをしていたときのように。たぶん裏金疑惑や不祥事などの追及でも『もつれた糸』がますますひどくもつれ、勘違いしたマスコミも『もつれた糸』がさらにもつれることに何か意味があるかのように伝えるだけなんだろうなあ。イラクへの自衛隊派遣は憲法の枠内か、憲法違反か? 改革は進んだのか、進んでいないのか? 自分探しの旅とセットになった学歴疑惑? さらにまたまた秘書給与事件? ハッ。…っていうこのスタンス。あなたたちはいつものように物事の本質とは全くかけ離れたことばかりに夢中みたいですけど(苦笑)。私はちょっと遠慮しておく。だってもういい大人だし。ま、あなたたちを横目で見ながら『マニフェスト』でも千切っていますよ。気怠く。…っていうこのスタンス。おっといけない、いけない…。まだ使うんだった…(後略)」−。
 「(前略)…かなり千切ってしまっても、配った側に都合の悪い部分だけはハッキリと残っている『マニフェスト』をどうやって元通りにしようかとあれこれ考えていたら、まるで他人事のように涼しい顔をしている『男』の存在に気付いた。負けた…。何と言っても彼は当事者だ。しかも当事者だっていうのに…、彼は第三者の私よりもずっとクールでシニカルだ。彼は自分にそっくりの涼しい顔をした男が表紙になっている『雑誌のようなもの』を熱心に見ていた。もしかして…。こっそり近くに寄って見てみると、やっぱりあの懐かしい『改革宣言』だった。私が横にいるのに気付いているのかいないのか…。彼は猫背で同じページを見たまま動かない。きっとお気に入りの『改革の芽』でも見ているのだろう。『おもしろいんですか? そんなの見て』。彼はピクリとも動かない。どうやら『瞑想中』のようだ。『私もその芽、見ましたよ』なんて言ったら、急に飛び起きて『本当? どこで?』などと目を輝かせて私を官邸か公邸にでも招待するのだろうか? ああ、この無防備な背中を蹴ってみたい。いつもは他人事のように涼しい顔をしている彼が慌てふためく様子を見てみたい…(後略)」−。
 
 あくまでも念のために言っておくが、ここで「出所不明の怪文書」を「引用」したのは、筆者が若い彼女たちに対抗意識を燃やしてこれからは芥川賞を目指そうと決意したからでも、素晴らしい文学を冒涜(とく)しようと思ったからでもない。日本の政治にとっての「政治的意味」を発見するために必要なものは永田町の外にあるかもしれないという問題提起をしようと思ったからである。
 
 ついでだから全く関係ない話もしておこう。東京では桜が開花(3/18)したが、筆者が以前(→2004/1/8(5/5)号)取り上げた「水栽培した球根の芽」もだいぶ植物らしくなってきた。だが、こちらの方は残念ながらまだ花は咲いていない。そしていつ花が咲くのかも、本当に花が咲くのかどうかもよく分からないが、「大きな木」にならないことだけは間違いない。
 
 政治的決定であれ、ジャーナリズムであれ、研究であれ…、人間が何らかの「知的生産活動」を行おうとするときには、(1)まず一つひとつの事実をしっかりと確認し、(2)次にそれぞれの事実の間の関係がどうなっているかを把握し、 (3)そしてそれぞれの事実とそれらの間の関係の「全体像」を見ながら考え、自分の「目的」や「基準」に基づいて何らかの「結論」などを出していく、という基本的なプロセスを経由するのが通常である。そしてそういう基本的なプロセスを経由して、しかもそれぞれのステップに誤りがない場合には、自分の主張を順序よく他人に説明すれば「支持」や「納得」はしてくれなくても「理解」ぐらいはしてくれるはずである。また、仮に「結論」などのアウトプットが結果的に間違いなかったとしても、そのような基本的なプロセスを経由しない場合には合理的でも科学的でもないと見なされてしまうだろう。
 
 永田町が「『もつれた糸』と『空き箱』や大風呂敷を広げて繰り返しほらを吹く『空き菅』(注:原文のまま。空き缶の誤記か)が無造作に転がっているだけのように見える」と仮定した場合に即して説明するならば、 まず最初に(1)どこにどういう「容器」がどれだけあり、それぞれに適当な「中身」が入っているかを確認することから始めなければならない。「容器」が終わったら次は(2)それぞれの「もつれた糸」の「2カ所の先端」がどこにあり、どの「容器」とつながっているのか、それとも何ともつながっていないのかなどを確認しなくてはならない。そして2つとも終わったら(3)それぞれの「糸」でつながれた「容器」の「中身」同士を比較し、本当に「糸」でつないで良いのかどうか、「糸」でつながっているということは結局どういうことになるのか、などということを考えながら「結論」などを出していく、ということになるだろう。そして実際に「容器」の「中身」同士を比べてみる必要があるときには、それぞれの「中身」を「円」の形に直して絶対に動かないように重ねて比較すると間違えることが少なくなるはずである。
 
 今の日本の政治の本質とか、日本の政治にとっての「政治的意味」を偶然ではなく合理的もしくは科学的に発見するためにはこれ以外の方法はないはずだと筆者は考えている。そして政治や政治ジャーナリズムでは、それらの「容器」や「中身」や「糸」が適切な形で「将来世代を含む一般市民の生命・財産などの利益を守って幸福を追求していく」などということに最終的につながっているかを確認することが特に重要なことだと筆者は考えている。さらに言えば、政治で「比較」が出てくる場合には要注意である。しばしば「比較」すべきものではないものが当然のように「対等」に比較されていることがあるからである。もう筆者が何を言っているのかさっぱり分からなくて退屈している読者もいるにちがいないから、「バカの壁」や最年少の芥川賞受賞の話を例にして説明することにしたい。

ベン図」と基本的に同じ話

 筆者は芥川賞受賞2作品を読んだ後、世間に嫌になるほどあふれている2作品の「読書感想文」をなんとなく眺めていたら、ちょっとおもしろいことに気付いた。筆者なりに考えて「読書感想文」を書いたそれぞれの人たちの人生観などの「中身」と「受賞作品」に表現されている「中身」の関係を「円」に直して図示してみると期待したよりもずっと多くのものが見えてきて興味深かった。もしかしたら「読書感想文」を書いたそれぞれの人たちの「バカの壁」と「受賞作品」の「バカの壁」を「円」の形に直して絶対に動かないように「画びょう」かなんかで止めて重ねて比較してみたら、意外なことに数学の集合などでよく出てくる「ベン図」(あるいは「オイラーの図」)と基本的に同じ話になってしまったと言った方が分かりやすいだろうか。
 
 たぶん多くの読者は数学の集合などでよく出てくる「ベン図」(あるいは「オイラーの図」)のことを覚えているだろう。例えば、「1から10までの整数」(U:全体)の中で「2の倍数(偶数)の数字」をAグループ(→A={2,4,6,8,10}、5個)、「4の倍数の数字」をBグループ(→B={4,8}、2個)、「4から10までの整数」をCグループ(→C={4,5,6,7,8,9,10}、7個)、「奇数の数字」をDグループ(→D={1,3,5,7,9}、5個)とすれば、
 (1)Aグループの大きな円(→A={2,4,6,8,10})の中にBグループの小さな円(→B={4,8})が完全に入ってしまうような「パターン1」、
 (2)Aグループの円(→A={2,4,6,8,10})とCグループの円(→C={4,5,6,7,8,9,10})のように2つの円が交わっていて、2つの円に共通する部分(→4,6,8,10)と、共通していない部分(→Aの2、そしてCの5,7,9)に分かれているような「パターン2」、
 (3) Aグループの円(→A={2,4,6,8,10})とDグループ(→D={1,3,5,7,9})のように2つの円が全く交わらない「パターン3」、
 (4)さらに「2の倍数の数字」と「偶数の数字」を比べたときのように実は全く同じものである「パターン4」、がある。
 
 さて、「読書感想文」を書いた人たちや評論家などが「受賞作品」を「世界が狭い」と評したり、「かつての自分の青春」と重ね合わせて懐かしがってどうのこうのと書いたりするときには「ベン図」ではどういう関係になっているのだろうか。Aグループの大きな円(→A={2,4,6,8,10})の中にBグループの小さな円(→B={4,8})が完全に入ってしまうような「パターン1」の状態ならば、評論家ら(→Aグループ)から見て「受賞作品」(→Bグループ)は間違いなく「世界が狭い」ということになるのだろう。だが、Aグループの円(→A={2,4,6,8,10})とCグループの円(→C={4,5,6,7,8,9,10})のように2つの円が交わっていて、2つの円に共通する部分(→4,6,8,10)と、共通していない部分(→Aの2、そしてCの5,7,9)に分かれているような「パターン2」のような状態ならば、本当にそれだけで「世界が狭い」と言えるのかは大いに疑問である。評論家らをAの円、「受賞作品」をCの円として比べたときに、もしもAの円の外側にある(おそらくA自身には見えていない)「Cの円のAと重なっていない部分」が「Aの円のCと重なってない部分」よりも明らかに小さいのならばそのまま「世界が狭い」などと言っても問題はないのだろう。ところが、この例のように実際には「Aの円のCと重なってない部分」(→2)よりも「Cの円のAと重なっていない部分」(→5,7,9)の方が大きく、つまり評論家らの世界の方が逆に狭いというケースもかなりあるのである。

本当に比較しても良いものなのか?

 また「読書感想文」や批評の中では「綿矢りささんは○○、これに対して金原ひとみさんは××」などという「比較」がうんざりするほどあふれていた。確かに「同時受賞」という形であえて2つを並べて一緒に出されれば、比べたくなってしまう方がごく自然な感情の持ち主なのかもしれない。だが、冷静に考えれば考えるほど、そもそも同じ「20歳ぐらいの若い女性作家」の共に「芥川賞を受賞した小説」という以外にはおそらく何の共通点もないだろう2作品を本当に比較しても良いものなのかどうか、また仮に比較できるとしても比較することにいったいどんな意味があるのかが筆者にはどんどん分からなくなってくる。
 
 例として適当かどうかは分からないが、「こちらは『偶数5個のグループ』、『奇数5個のグループ』、それに『0の数字が1個だけあるグループ』のようなものだ。それに対してむこうは『英単語7個のグループ』、『四字熟語2個のグループ』、『数字2個のグループ』といったところだ。どちらも破たんなしに合わせて11個の要素が3グループに非常に良くまとまっている点が評価できる」などという類の「比較」に文学的な意味があるのかどうかは文学の才能のない筆者には全く分からないが、少なくとも政治やジャーナリズムではそういう類の「比較」はほとんど意味を持たない。「それぞれの事実を本当に比較しても良いのか」、仮に比較できるとしても「比較することにいったいどんな意味があるのか」ということは政治やジャーナリズムの場では大いに問題にされなければならないし、そういうところを全く問題にしなければ場合によっては致命的な間違いを犯すことにもつながってしまうのである。例えば、民主主義国家とテロリストや非人道的な独裁国家を「対等のもの」として「比較」してしまうと人権や人道上の問題が完全に吹き飛ばされてしまうこともあるのである。
 
 なぜあえて数学の授業のような詰まらないこと(?)まで持ち出して長々と書いているかというと、こういう詰まらないことが日本の政治、北朝鮮問題やイラクの問題を扱った今回の一連の文章を正しく理解するために必要不可欠な最低限の基礎的知識の一つになっているからである。読者のほとんどはこの程度の基礎的知識は既に間違いなく持っているだろうと筆者は期待しているから、本来ならばあえて書く必要もないことを長々と書いていることになる。それでもあえて長々と書いてきたのには理由がある。永田町周辺には、こういう基礎的知識が完全に欠けているか、または基礎的知識に明らかに反することでも堂々と主張できるような「悪意」を持っているか、あるいは基礎的知識がない代わりに「悪意」を持っているとしか考えられない政治家たちやマスコミが無視できない数だけ存在するからである。特にひどいのになると、なんとかして自分にとって都合の悪いものを隠そうとしたり、実は自分の方が小さいにもかかわらず、なんとかして「比較」する相手の方を小さく見せようとして自分の「円」をこっそりと都合の良い場所に次から次へと動かしていくようなとんでもない輩までいる。こういう基礎的知識が完全に欠けているか、または基礎的知識に明らかに反することでも堂々と主張できるような「悪意」を持っているか、あるいはその両方としか考えられないレベルの低い勘違いした政治家たちやマスコミによって日本の政治が不必要な混乱状態に陥れられているということの深刻さをできるだけ多くの読者にも理解してもらいたいものだと筆者は心から思っている。
 
 しつこく「ベン図」を使った話を繰り返すが、ある勘違いした政治家が自分の「バカの壁」(→Aの円、A={2,4,6,8,10})から見て別の政治家など(→Cの円、C={4,5,6,7,8,9,10})をもっともらしく批判していることを扱う場合(→「パターン2」の状態)には、共通部分(→4,6,8,10)と共通していないそれぞれの部分(→Aの2、そしてCの5,7,9)の大きさを第三者にも分かるような形で示す必要性が出てくる。小さなAの円からわずかに見えるCの円の「円周の曲線の形」から、Aは自分の方が大きいと主張しているが、もしかするとCの円(→C={4,5,6,7,8,9,10})の方がAの円(→A={2,4,6,8,10})よりも大きいかもしれないと推測し、限られた時間の中でなんとか共通していないそれぞれの部分(→Aの2、そしてCの5,7,9)の大きさを第三者にも分かるような客観的な形で示そうと努力する役割が政治ジャーナリズムにはあるのだと筆者は考えている。大昔は文学こそがジャーナリズムだったと言う人もいる。その真偽はともかくとしても、ジャーナリズムには「文学の系譜」が存在することだけはほぼ間違いない。そして意外かもしれないが、実はジャーナリズムには「サイエンス(科学)の系譜」も同時に存在するのである。


正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23) (3/5)

「空白」につけ込まれないようにしなくてはならない

 選挙が必要不可欠な民主主義国家では、選挙による「政治空白」が多かれ少なかれ生じてしまうことを避けることはできないのだろう。列車同時爆破テロ(3/11)のあったスペイン総選挙(3/14)では、イラク戦争を支持したアスナール首相の与党・国民党が敗北、野党・社会労働党が第一党になってイラクに派兵しているスペイン軍部隊の撤退問題が焦点になっている。ロシア大統領選(3/14)では事前の予想通りにプーチン大統領が圧勝という形で再選された。総選挙(4/15)が迫る韓国では盧武鉉(ノムヒョン)大統領が国会に弾劾(3/12)されて混乱が広がっている。少し前に全国人民代表大会(全人代、国会に相当、3/5-3/14)が行われていた中国なども注目していた台湾の総統選(3/20)は、前日に銃撃(3/19)された陳水扁総統(民進党主席)が僅差で再選されたが混乱が続いている。日本でも4月には衆院統一補選(→4/25投・開票、衆院の埼玉8区、広島5区、鹿児島5区)、そして「3年に一度の大規模な衆院統一補選」とも陰口をたたかれている参院選も7月にある。さらに秋には支持率急上昇中のケリー上院議員がブッシュ大統領の有力な対立候補として浮上している米大統領選もある。俗に「政治の季節」などと言われているが、「政治空白の季節」と言った方が実態をよく表しているのかもしれない。筆者としては「政治の季節」でも「政治空白の季節」でもどちらでもいいが、何よりも大事なことは、本当の意味での選挙や民主主義とは無縁な独裁国家やテロリストに絶対に「空白」につけ込まれないようにしなくてはならないということである。民主主義国家の特徴であり、最大の長所でも最大の弱点でもある選挙の時期を「空白」にしておけば、テロリストのような民主主義とは相入れない人間たちや、本当の意味での民主主義というものを全く理解していない人間たちが「空白」に次から次へとおかしなものを詰め込もうとしてきても何の不思議もない。
 
 さらに言えば、「敵」は外側だけから攻めてくるとは限らないのである。民主主義国家の中にも本当の意味での民主主義というものを全く理解していない人間たちはかなり多く存在しているのである。いつの時代にもどこの場所にも国民に感情的な判断を促し、その感情を煽り、国民の一時的な感情の高まりを利用して自分たちが選挙に勝てれば結果的に国民を欺くことになったとしても構わないというような民主主義というものを全く理解していない人間たちが巧妙に変装して民主主義社会の中に潜んでいるのである。繰り返すが、民主主義国家は独裁国家やテロリストのような外部の敵と同時に民主主義社会の中に潜んでいる内部の敵にもつけ込まれないように注意しなければならないのである。
 
 民主主義国家を外部あるいは内部から攻撃する敵を即座に確実に見分けることはなかなか難しいことだが、「一人ひとりの市民」という最も基本的な部分に着目すれば実はそれほど難しいことではなくなると筆者は考えている。例えば、(1)筆者が「政治の究極目標」と考えている「将来世代を含む一般市民の生命・財産などの利益を守って幸福を追求していく」ことを彼らは「目的」としているのか、(2)「目的」を達成するための具体的な手段は本当に適切なものなのか、そして(3)「結果」として「一人ひとりの市民」の状態が実際にどうなっているのか、などということをチェックしていけば、ある集団が本当の意味での民主主義にとっての「敵」であるかどうかぐらいはすぐに分かるはずだと筆者は考えている。

「オウムのようなもの」

 東京地裁がオウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)被告に対して死刑判決(2/27)を言い渡した。地下鉄サリン事件(1995/3/20)が起こった9年前に筆者は「オウムはまるで北朝鮮のようだ」だと思ったものだが、9年後の今は「北朝鮮はまるでオウムのようだ」だと思っている。もちろん第三者に示すことのできる事実に裏付けされているわけではない筆者の漠然とした感情からはそれ以上の意味もそれ以外の意味も見いだすことはできない。だが、オウムにも北朝鮮にも何人いるかは分からないが罪のない「一人ひとりの市民」が末端には間違いなくいるのである。おそらく世界のその他の地域の「胡散臭くてとんでもないもの」にも末端には罪のない「一人ひとりの市民」がいることは同じだろう。訳の分からない主張を繰り返したり、沈黙を守り続ける「胡散臭くてとんでもないもの」の背後にも罪のない「一人ひとりの市民」が見えて来るという経験が筆者には何度もある。
 
 第三者に示すことのできる事実に裏付けられてはいない「北朝鮮はまるでオウムのようだ」という筆者の漠然とした感情を説明することは困難だが、表面的には全く別々のことに見えるようなことでも実は本質的な部分は共通であるということを示そうとする場合のように第三者への説明が比較的簡単なものもある。ちなみに表面的には全く別々の2つの出来事であっても実はかなり似た関係にあると筆者が最近思っているのは、イラク戦争と週刊文春の事前差し止め問題という2つの出来事の間の関係である。イラク戦争と週刊文春の事前差し止め問題のいったいどこがどう似ているのかということについてはこれから具体的に説明していくことにする。
 
 様々な意味で荒唐無稽な「闇」としてそのままで残っている北朝鮮、あるいは基礎的知識が完全に欠けているか「悪意」を持っているかあるいはその両方としか考えられないレベルの低い勘違いした政治家たちのような「オウムのようなもの」を対象にするとき、さらには表面的には全く別々のことに見えるようなことでも実は本質的な部分は共通であるということを示そうとするときなどにはジャーナリズムは自らの「サイエンス(科学)の系譜」を最大限に強調すべきだと筆者は考えている。

プライバシーの保護も表現の自由も

 田中真紀子代議士の長女のプライバシーを扱った記事の掲載を理由に東京地裁が週刊文春(2004/3/25号、3/17発売)の出版を事前に差し止める仮処分命令(3/16)を出し、文春側の異議申し立てを退け(3/19)、文春側は東京高裁に抗告(3/20)した(→週刊誌の発売前日の出版禁止の仮処分は極めて異例。約3万部は出荷停止、ただ仮処分命令以前に出荷ルートに乗っていた約74万部は書店などの自主判断に任せる。ちなみに都内のコンビニや書店では普通に販売されていた)。筆者に言わせれば、この問題のポイントは「プライバシーの保護か、それとも表現の自由か」ではなく、実際に生じた「結果」である。そしてあえて言い換えるならば「プライバシーの保護も表現の自由も」ということになる。
 
 筆者は週刊文春の記事がどんなとんでもないひどい内容なのかを確認するために実際に読んでみた。確かに政治家でもない一般人のプライバシーが取り上げられているのは問題である。一般人のプライバシーは保護されるべきであり、この場合も保護されるべきだろう。さらにかつて取り上げられた某野党党首の不倫疑惑のように、政治家である某野党党首の資質の問題や、政党の問題に発展していきそうな気配も感じられないという意味で問題の記事は公益目的の報道ではなく、非常にレベルの低い不適切な記事だと筆者は判断している。筆者ならばこのような記事は絶対に書かないし、仮に編集長のような責任者だったならば間違いなくこのような記事は「ニュースではない」「報道する意味もない」などと言ってボツにしただろう。
 
 だが、それでもやはり筆者はこのような非常にレベルの低い不適切な記事を掲載した週刊誌であっても出版を「事前に」差し止める仮処分命令を出す必要性を全く感じていない。出版を「事前に」差し止める仮処分命令が状況を実際に改善したのかとか、もしも有名人を親族に持たない普通の一般人が訴えても本当に同じ決定をしたのかなどということにあえて着目しなくても、筆者は出版を「事前に」差し止める仮処分命令には大いに疑問を感じている。もしも問題の記事が発表されなかったならばプライバシーが暴露されることは絶対にあり得ず、しかもその暴露されるプライバシーが直接的に人の生死に結び付くなどの重大かつ深刻な事態を引き起こすと大多数の人たちも納得できるような場合には出版を「事前に」差し止める以外の方法は考えられないだろう。例えば、人間の生死に直結する食中毒のような緊急性のある問題であっても、もしも「カイワレダイコンがO-157による食中毒の原因である可能性が高い」などと中間報告するのならば、十分な根拠や公表の方法などが問題にされるはずである。今回の場合には、例えば、警告はしてもあえて出版を差し止めず、それでも出版したならば事後に巨額の損害賠償金の支払いを命じるという手段の方がずっと適切でしかも効果的だったのかもしれない。
 
 あえて出版を事前に差し止める仮処分命令を出す必要性を感じている人たちの主張を「不当」だとか「なんとかの屁理屈」とは言わないが、筆者はやはり彼らの「良心」を疑ってしまう。表現の自由などを必要不可欠なものだと考えている政治ジャーナリズムとしては、「良心」(→憲法76条)を疑っているというひとことだけで表現の自由(→憲法21条)の重要性を最大限に訴えることにしておく。
 
 いずれにしても筆者に言わせれば、この問題のポイントは「プライバシーの保護か、それとも表現の自由か」ではなく、実際に生じた「結果」であり、あえて言い換えるならば「プライバシーの保護も表現の自由も」ということになる。そして検証が必要になるのは、週刊文春の記事の「目的」と実際にもたらした「結果」、そして司法の決定の「目的」ではなく、用いた「手段」と実際にもたらした「結果」であるはずだと筆者は考えている。正当な目的があるのかどうかも定かではないにもかかわらず一般人のプライバシーを暴露したという「問題のある行為」を、プライバシーの保護という正当な目的のために出版事前差し止めという「問題のある手段」によって阻止しようとした、という意味において週刊文春の出版事前差し止めの問題はイラク問題と非常によく似ていると筆者は考えているのである。

イラク問題と週刊文春の事前差し止め問題の「基本構造」は共通

 筆者に言わせれば、イラク問題を正しく理解している人たちは週刊文春の問題をおそらく正しく理解しているし、週刊文春の問題を正しく理解することができる人たちはイラク問題を正しく理解できたとしても何の不思議もないのである。週刊文春の出版事前差し止め問題を説明することによって、呆れるほど繰り返されてきたあの「大義がない」などという類の話の無意味さ、そして「大義がない」などと繰り返すだけの政治家たちや既存のマスコミの知的レベルの低さなどに気付き、イラク問題の「本質」を理解することに一歩でも近づくことができるのではないかと筆者は考えている。イラク問題と週刊文春の事前差し止め問題に共通する「基本構造」をより具体的な形で説明していくことにする。
 
 東京地裁が出版を事前に差し止めたのは簡単に言えば一般人のプライバシーを保護するためということになるのだろう。一方の週刊文春が記事を掲載したのは公益目的なのかどうか定かではないが、説得力があってもなくても「表現の自由」とか、あるいはそれ以上のことを主張してくるのだろう。さて、このときに東京地裁や週刊文春には「大義」とか「大義名分」というものは存在しないのだろうか。説得力があってもなくても、「大義」とか「大義名分」というものは存在しているのである。そして東京地裁の決定や週刊文春の記事は実際に一般人のプライバシーの暴露などを含めてどのような「結果」をもたらし、その「結果」は長い目で見た場合にどのようなことにつながっていくのだろうか。さらに言えば、東京地裁の決定や週刊文春の記事に何らかの問題があってもなくても、「大義」とか「大義名分」というものがあってもなくても、もしも実際に生じている「結果」に問題があるとしたら、それをそのまま放置することは果たして正しいことなのだろうか。あくまでも念のために言っておくが、東京地裁が米国、週刊文春がかつてのフセイン政権のイラク、にそれぞれ対応するとは筆者は全く考えておらず、あくまでもイラク問題と週刊文春の事前差し止め問題の「基本構造」が共通しているのではないかと言っているだけである。何にしても共通した「基本構造」から見えてくるポイントは、「問題のある行為」や「問題のある国家」ならばどんな「問題のある手段」を使っても構わないのかということになるはずだと筆者は考えている。
 
 それでもあえて「大義」とか「大義名分」というものがないなどと言うような人は読者の中にはおそらくいないだろう。そうだとするならば、イラク問題でも「大義」とか「大義名分」というものではなく、「目的」と具体的な「手段」の関係とか、実際に生じた「結果」が何であるかなどということが真っ先に問題にされなくてはならないことにすぐに気付くはずである。そして自分たちはイラク戦争に反対し続けたから実際に生じた「結果」についてはイラク戦争を支持した側が責任を取るべきだなどという「正論」を主張して突き放すことは他人事で済ますことのできる第三者には許されるのかもしれない。だが、公権力や責任のある立場の政治家たちがそのような「正論」を振りかざしたとしてもほとんど説得力がないし、それどころかむしろ彼らの資質とか能力が疑われることになるということにもおそらく気付くだろう。世界各国の国家指導者や政治指導者らがイラク戦争を支持した側が責任を取るべきだなどという「正論」を振りかざして治安も回復していない危険なイラクの出来事を他人事で済ませたり、危険なイラクから手を引く決定をするようなことがあるとしたら、そういうことはいったいどういうことにつながっていくのかということは冷静にじっくりと考えてみる必要がある。最悪の場合には「大義がない」とか「間違った戦争だから」とか「国連が中心的な役割を果たしていない」とか「イラクは危険」とか「テロに巻き込まれるかもしれない」などということを「大義」とか「大義名分」にしてイラクがテロリストたちの手に落ちるのを黙認することにもなってしまう。
 
 あくまでも念のために言っておくが、筆者は週刊文春の問題でもイラクの問題でも「大義」とか「大義名分」というものに説得力を感じていないし、「目的」は正しかったとしても少なくとも用いられた「手段」は適当でなかったと考えているが、同時にそれぞれの問題で実際に生じている「結果」を放置することは間違いなく正しいことではないと考えているのである。


正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23) (4/5)

「テロへの自由」から「テロからの自由」へ

 イラク戦争開始から1年(3/20)が経過した。今年6月末までに米国などの暫定行政当局(CPA)からイラク暫定政権に主権を移譲することになっている。イラク基本法に暫定評議会が署名(3/5)したが、主権移譲やその後のことについての詳細は固まっていないし、相変わらずテロや襲撃が繰り返されてイラク国内の治安も回復していない。日本は人道復興支援のために陸上自衛隊の部隊をイラク南部のサマワに派遣(1/20-)している。
 
 イラクの現状を考えれば考えるほど筆者は複雑な心境になってくる。大量破壊兵器がいまだに発見されず「大義」の説得力が弱くなっても、あるいは仮に大量破壊兵器が発見されていたとしても、あの時点でのイラクへの武力行使が「正当」だったのかということとは実は全く別の話なのである。非人道的な独裁国家から人々を救出するとか、テロから世界を守るなどという正当な「目的」があったとしても決してどんな「手段」を使ってもいいということにはならないのである。かなり多くの人たちの目から見れば、必ずしも「不当」とは断定できなくても、やはり「正当」とも言い切れないだろう。筆者はイラク戦争開戦前後(→参考:2003/3/10号、2003/3/22号etc.)から一貫して米国などの一連の動きを否定的に捉えてきた。「反対」や「正論」を唱えてそれでお終いという人間たちと一緒にされたくないからあえて強調しなかっただけの話である。ただし、筆者は彼らとは違って「思考停止」せずに一貫してイラクの現実に可能な限り十分な対応しようと試み続けてきたつもりである。
 
 仮にテロの危険性が高まってきたとしても、それでもやはり筆者のイラク問題に対する主張の基本的な部分は不変である。つまりイラク問題も北朝鮮問題と同様に「将来世代を含む一般市民の生命・財産などの利益を守って幸福を追求していく」という「政治の究極目標」を共有している国際社会全体の問題として捉えるべきだということである(→参考:2003/12/8 (2/8)号)。そしてやはり日本は国際社会がみんな乗ってくるような「勝ち馬」になる以外の選択肢はないのだと筆者は考えている。自衛隊はイラクに「国際社会と共に歩む新しい平和なイラク社会の建設のために必要な橋頭堡(きょうとうほ)」をつくることを目的にして派遣する。したがって自衛隊は「国際社会と共に歩む新しい平和なイラク社会の建設のために必要な橋頭堡(きょうとうほ)」ができたと日本政府が独自に判断した段階で一般の国家公務員や民間人に後を託して撤収を開始する。また治安維持・回復に必要な能力を持たない自衛隊は「正当防衛」などを何度も何度も繰り返さなければならないような状態では派遣の目的を達成することが不可能なのでやむを得ず速やかに撤退する、など(→参考:2004/1/5 (2/5)号)という「基本方針」を変更する理由は現時点ではどこにも存在しない。
 
 ただ、今回新たにイラク国民にとっても国際社会にとっても共に説得力のある「新生イラク国家の旗印」を大至急明確な形で掲げるべきだということを筆者としては提案しておくことにする。このまま米国などがテロを防ぐことができずにイラクの治安回復もできないような状態が続くのならば、何かのきっかけに「石油利権だけに関心を持っている治安回復もできない米国はイラクから出ていけ」などという声がイラク国民共通の旗印になってしまうという最悪の事態に陥る危険性が高まっていくからである。もちろん「新生イラク国家の旗印」としては「将来世代を含む一般市民の生命・財産などの利益を守って幸福を追求していく」という「政治の究極目標」が最適だと筆者は考えている。政治学や憲法学などで出てくる「権力(国家)からの自由」(→自由権、など)や「権力への自由」(→参政権、など)という用語を借用し、「テロへの自由」ではなく「テロからの自由」を実現するためにイラクのすべての人たちがまず結集しよう、国際社会と一緒に新生イラク国家を建設しようなどとイラクの人たちに訴えた方がずっと説得力があるのかもしれない。もしかしたら平和な民主主義社会の日本国民よりも、突然銃などを突き付けられて財産はおろか生命さえも簡単に奪われてしまいかねない理不尽な日常に直面している末端のイラクの人たちの方がずっと早く筆者の主張を理解してくれるようになるのかもしれない。
 
 現時点でイラクにいる「一人ひとりの市民」の置かれている状況に注目すれば明らかに米国などは十分な「結果」を出していない。だが、「くたばれ米国」「くたばれブッシュ」ではイラクにいる「一人ひとりの市民」の置かれた状況は今よりも悪化しても改善することはまずあり得ない。したがって筆者としては今回のところは国連のイラク復興への一層の大きな関与と米国などの「ラストスパート」に期待しておくことにする。イラクに暫定政権が成立して主権が移譲されるまでまだあと約3カ月ある。米国などによるイラク戦争とその後の復興政策が「失敗」だったと断定し、民主主義国家の最大の特徴である選挙という場で国民によってブッシュ米大統領らの責任が問われることになるのを見守るのはそれからでも遅くはない。いずれにしても日本の米国に対する発言力はこれから強まっても弱まることはないだろう。日本はイラクの復興と新国家建設を促進するために同盟国でもあり運命共同体にもなっている米国に対してどんな厳しいことでも躊躇せずに言わなければならないはずである。特に旧フセイン政権関係者の段階的追放解除などを日本は真剣に米国などに提案すべきではないのか。
 
 「テロへの自由」ではなく「テロからの自由」を実現してイラクの復興と新国家建設を促進するために日本独自の判断でできることも2つだけ提案しておくことにする。1つ目は、日本主導で国際社会と共にテロと戦う新生イラク警察や新生イラク軍の犠牲者とその家族、そしてテロの被害者とその家族への経済的な支援策を検討することである。例えば、犠牲者・被害者とその家族のための基金を設立してそこに日本が資金を拠出するという形ならば、治安維持・回復のための活動を直接行うことができない日本としてもイラクの治安回復に一定の貢献ができることだろう。
 
 そして2つ目は、いくら治安維持・回復に必要な能力を持たない自衛隊であっても、もっと「軍隊らしい」貢献策も検討すべきだということである。例えば、テロと共に戦うイラクの人たちに対して、伝統的なローテクから最新鋭のハイテクまでの幅広い地雷・不発弾処理技術の支援をすることを自衛隊の任務に加えることなどを真剣に検討すべきではないのか。不幸中の幸いなのかどうかはよく分からないが、地雷・不発弾処理はイラク全土で今後しばらくの間は非常に高いニーズが期待できるので危険だが治安回復と平和を促進する安定した雇用創出につながるはずである。もしも自衛隊にすべての必要なノウハウがないのならば、民間企業やNGOなどから必要な人材やノウハウを集めてでも実現すべきである。あるいは、どこかの港湾に機雷などが残っているのだとしたら掃海艇の派遣などを検討してもいいだろう。
 
 何にしても重要なことは、イラク人に任せられること、民間企業やNGOに任せられることはなるべく早くイラク人や民間企業やNGOに任せるようにし、自衛隊にしかできない「軍隊らしい」貢献もすべて終了させたら、日本政府は自衛隊の任務は終了したと判断すべきだということである。

礼儀正しく「空き箱」を持ってやってきた北朝鮮

 北朝鮮の核開発などを協議する6カ国協議(2/25-28)が中国・北京で開かれたが、目立った成果は得られなかった(→作業部会の設置、次回(第3回)協議を6月末までに北京で開催することでは合意。土壇場で北朝鮮が自分たちに都合が良いように共同文書の修正を求めたことを含め、北朝鮮の核の完全放棄で日米韓と北朝鮮の溝は結局埋まらず。前回(03年8月)と同様に共同文書を取りまとめることはできず)。6カ国協議に先立って北朝鮮の核問題と日本人拉致問題で日本と北朝鮮が平壌で高官協議(2/11-14)を行ったが、目に見える成果は得られなかった(→外務省の田中均外務審議官、藪中三十二アジア大洋州局長らが北朝鮮の姜錫柱(カン・ソクチュ)第1外務次官(→金正日総書記の側近)、金永日(キム・ヨンイル)外務次官と協議)。
 
 何度も繰り返していることだが(→参考:2003/12/8 (2/8)号、2004/1/5 (4/5)号etc.)、北朝鮮問題でも筆者の主張の基本的な部分は不変である。イラク問題などと同様に「将来世代を含む一般市民の生命・財産などの利益を守って幸福を追求していく」という「政治の究極目標」を共有している国際社会全体の問題として捉え、あくまでも「国際社会と北朝鮮の間の問題」として解決していくべきだと考えている。そして事実上の北朝鮮の「安全の保証」と同じ意味を持つ6カ国協議の定期開催を実現させるべきだし、日本は北朝鮮による日本人拉致問題をはじめとする北朝鮮国内のすべての人道・人権問題を6カ国協議の正式な議題にすることをあくまでも要求し続けるべきである。様々な非合法活動を完全にストップさせれば国内の人たちを飢えさせたり彼らに劣悪な生活環境を強いることなしに大量破壊兵器の開発を進めることができる資金的な余裕は北朝鮮には全くないはずだから、日本人拉致問題をはじめとする北朝鮮国内のすべての人道・人権問題を提起し続け、それらの完全な解決を目指していくということは、北朝鮮が不可逆的な形で核兵器を含む大量破壊兵器を完全に放棄することを事実上保証することにもつながると筆者は考えている。
 
 熱心に北朝鮮の説得を試みた中国には実に気の毒な話だったが、筆者から見れば、北朝鮮は6カ国協議などの場に礼儀正しく「空き箱」を持ってやってきたようにしか見えなかった。どうも「空き箱」のような嫌な予感がしていたら、やっぱり悪い予感が当たってしまったというのが率直な感想である。ちなみに北朝鮮にとっては、形式的に日本と高官協議をやったり、形式的に6カ国協議に参加するだけでも何かメリットがあったのかどうかについては推測の域を出ることはできない。いずれにしても重要なのは「空き箱」などの「容器」ではなく「中身」である。筆者に言わせると、北朝鮮が6カ国協議などの場に礼儀正しく「空き箱」を持ってやってきた意味を重く受け止めたり、あまり深く考えるべきではないのである。どんなに北朝鮮が今まででは考えられないほど礼儀正しく「空き箱」を持ってやってきたとしても、「空き箱」を持ってきたことに変わりはないのだから「前向き」と受け止めるべきではない。6月末までに北京で開催することに合意した次回(第3回)の6カ国協議などに北朝鮮がきちんとした意味のある前向きな「中身」を持ってやってくるまでは、「前向き」と誉めたり、無礼だと非難することなしにあえて何も見なかったことにしておくのが「大人の対応」だと筆者は考えている。もしももう一度礼儀正しく「空き箱」を持ってやってきたとしたら中国がどう思うかということぐらいはさすがに北朝鮮でも想像できないことはないだろう。
 
 国会では日本独自の判断で北朝鮮への経済制裁を可能にする改正外国為替・外国貿易法(外為法)が成立(2/9)し、時間が経過するにつれて北朝鮮の貨物船などの入港を規制する法案が提出されて成立する可能性も確実に高まってきている。何にしても北朝鮮がきちんとした意味のある前向きな「中身」を持ってやってくるまでの間は、日本では国会議員は必要な法律を作るなどし、政府は国会議員の作った法律と自国民の保護を含めた国益に基づいて必要なことをやるという本来の仕事が粛々と続けられるだけの話だろう。そしてあくまでも念のために言っておくが、日本は間違っても非人道的な独裁国家ではないのだから、北朝鮮がどんなことを言ったりやったりしても日本にいる大多数の在日朝鮮人らには全く関係ないことだということを誰一人として絶対に忘れてはならない。

誰もが「悲劇的な結末」を望んではいないはずだが…

 北朝鮮が6カ国協議などに礼儀正しく「空き箱」を持ってやってきたことを受けて日本があえて確認したり検討しなければならないことを4点だけ指摘しておくことにする。まず(1)北朝鮮の核やミサイルなどの問題と、日本人拉致問題をはじめとするすべての北朝鮮国内の人権問題、国交正常化とその後の経済協力などをしっかりと固く結び付けるように日本は一層の努力をするべきである。北朝鮮の現状を考えれば、核兵器などの問題と北朝鮮国内のすべての人権問題などは密接不可分な状態にあると判断すべきだと筆者は考えている。もちろん核兵器開発の検証可能かつ不可逆的な形での完全な放棄ということと、平和的な核利用も密接不可分の関係にある。つまりあらゆる形での平和的な核利用の一時的放棄も含めてすべての核開発を検証可能かつ不可逆的な形で完全に放棄しない限り、核兵器開発の検証可能かつ不可逆的な形での完全な放棄は実現しないということである。もちろんもしも検証可能かつ不可逆的な形での完全な北朝鮮の核兵器開発の放棄が実現したならば、北朝鮮による平和的な核利用の可能性を完全に否定する必要はなくなるだろう。遠回りのように見えるかもしれないが、結局のところは核兵器などの問題と北朝鮮国内のすべての人権問題などを密接不可分だと捉えることこそがすべての北朝鮮絡みの問題の解決のための最短の近道になるはずだと筆者は考えている。
 
 「非人道的な独裁国家」が自分たちに都合の良い部分だけを持ち出して自分たちと民主主義国家を「対等のもの」として「比較」しようとする場合には、「将来世代を含む一般市民の生命・財産などの利益を守って幸福を追求していく」という「政治の究極目標」と結び付いているかどうかをしっかりと確認すべきである。もしも「政治の究極目標」を無視して民主主義国家と「非人道的な独裁国家」を「対等のもの」として「比較」してしまうのならば、人権や人道上の問題が完全に吹き飛ばされてしまうこともあるということを絶対に忘れてはならない。
 
 そして(2)日本政府は北朝鮮による日本人拉致被害者を北朝鮮に戻さない理由を明確に示すべきである。筆者は以前(→2002/12/11号etc.)から日本人拉致被害者5人を北朝鮮に戻すことによって日本の家族との連絡がそのまま途絶えてしまったり、二度と出国できなくなる危険性が非常に高いと判断できることを理由にすべきだと主張しているし、旅券法第19条第1項第4号の「旅券の名義人の生命、身体又は財産の保護のために渡航を中止させる必要があると認められる場合」に該当するとして外相が旅券の返納を命じる典型的なケースの一つになるはずだと考えている。理不尽なことで国民が身柄を拘束される危険性などが高いところと国交を結ぶことができないということは国際社会の常識だということを明確に誤解のない形で日本は北朝鮮に示すべきである。
 
 さらに(3)日本側は北朝鮮との交渉の窓口をあくまでも政府に一本化すべきだということである。冷静になって考えてみればすぐに分かることだが、「非人道的な独裁国家」と民主主義国家の間には、本当の意味での民間と民間の間の協力関係などは成立することはないのである。政治家であれ、民間人であれ、「非人道的な独裁国家」の「民間人」や「団体」を相手にするのならば、政治家や民間人が「丸裸」で「非人道的な独裁国家」を相手にすることになってしまうはずである。要するに、いくら「民間人」や「団体」を相手にしているつもりになっても、「民間人」や「団体」という「容器」の中に「非人道的な独裁国家」が入っていたり、あるいは「民間人」や「団体」という「空き箱」からのびた「ひも」の先に「非人道的な独裁国家」がつながっているような状態に必ずなっているのである。もしも本当の意味での民間と民間の間の協力関係などが成立するとしたら、それは「非人道的な独裁国家」から完全に自由になった「脱北者」らを相手にする場合だけだろう。日本の政治家もすべての日本人も日本の政府を突き上げることによって最大の成果が得られるということにたぶん気付くだろう。
 
 最後に、(4)日本側は北朝鮮への「圧力」でも公共事業のPFI的手法のように民間活力を積極的に活用すべきである(→参考:2003/1/13号etc.)。いくら政治家や政府を丸め込んだとしても、日本や国際社会の一人ひとりの市民の心までは思い通りにできないということを北朝鮮に誤解のない形で明確に示すことも必要である。例えば、北朝鮮が具体的に何をどこにどれだけ輸出し、何をどこからどれだけ輸入しているかなどの貿易の詳細な情報を今の時点で調査、公表したらいったいどうなるだろうか。消費者がハッキリとオウムのものだと分かっていたならばオウムのパソコンやソフトはいくら安くてもおそらく飛ぶようには売れなかったことだろう。またいくら商品が安くて品質が良い物だったとしても、非人道的な長時間労働や児童労働でその商品が生産されているとしたら消費者が購入をやめてしまっても最近の国際社会では特に不思議なことではないはずである。もしも北朝鮮が欲しがる物が国際市場でビックリするほど大きく値上がりし、北朝鮮が売りたい物がほとんど売れなかったり、売れたとしても非常に安くしか売れない状態になってしまったとしたら、手も足も出せないということに気付けば、さすがに北朝鮮も国際社会の責任のある一員になるしか生き残る選択肢はないと理解することだろう。
 
 「いわゆる民本主義とは、法律の理論上主権の何人に在りやということは措(お)いてこれを問わず、ただその主権を行用するに当って、主権者は須(すべか)らく一般民衆の利福並びに意嚮(いこう)を重んずるを方針とす可しという主義である。即ち国権の運用に関してその指導的標準となるべき政治主義であって、主権の君主に存りや人民に存りやはこれを問うところではない。もちろんこの主義が、ヨリ能く且つヨリ適切に民主国に行われ得るは言うを俟(ま)たない。しかしながら君主国に在ってもこの主義が、君主制と毫末も矛盾せずに行われ得ることはまた疑いない。何となれば、主権が法律上君主御一人の掌握に帰して居るということと、君主がその主権を行用するに当って専ら人民の利福及び意嚮を重んずるということとは完全に両立し得るからである。しかるに世間には、民本主義と君主制とをいかにも両立せざるものなるかの如く考えて居る人が少なくない。これは大いなる誤解といわなければならぬ…(後略)」(吉野作造、「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」(「中央公論」1916(大正5)年1月号初出、「吉野作造評論集」(岡義武編、岩波文庫))より)
 
 「民本主義」の考え方と同じように、基本的人権が保障されているのならば、あえて言い換えれば「将来世代を含む一般市民の生命・財産などの利益を守って幸福を追求していく」という「政治の究極目標」を共有してその実現に向けて本気で努力しているのならば、とりあえず国家の形態は問題にされないということはあり得ても、「国家」や「国家指導者」という形態さえ整えられていれば、実際に国民の基本的人権が保障されているかどうかは問題にされないなどということは断じてあり得ないのである。「破たん国家」とか内戦が続いている国家を別にすれば、地球上で「国家」としての形態が整っていても国民の生命・財産が露骨に踏みにじられたままの状態で放置されている数少ない場所の一つが北朝鮮である。このまま北朝鮮が「将来世代を含む一般市民の生命・財産などの利益を守って幸福を追求していく」という「政治の究極目標」を国際社会と共有してその実現に向けて本気で努力するつもりがないと見なさざるを得ない状態を続けるのならば、筆者は世界でたった一人だけになったとしても断じて北朝鮮を国家として認めることはない。
 
 あくまでも念のために言っておくが、筆者は北朝鮮などに宣戦布告やそれに類することをする意思は全くない。日本には「外国に対して私的に戦闘行為をする目的で、その予備又は陰謀をした者は、三月以上五年以下の禁錮に処する。ただし、自首した者は、その刑を免除する」(刑法93条)という法律もあるのであくまでも念のために明確に否定しておくことにする。法律などが機械的に適用されて「良心」が期待できない社会になってしまう恐れがあると念のために書いておかなければならない余計な注意事項がどんどん増えていく。
 
 もしも北朝鮮側が日朝平壌宣言署名前後(→2002/9/7号、2002/9/29号etc.)から一連の文章を読み続けているのならば、改めて読み直してみて他ならぬ北朝鮮自身がどれだけ事態を悪化させ続けてきたのかということをしっかりと思い出すべきである。誰もが「悲劇的な結末」を望んではいないはずだが、このままでは残された時間が無意味にどんどん減っていくだけである。


正しい判断のために必要な最低限の能力や知識とは何か(2004/3/23) (5/5)

最後まで残ってしまった日本の政治

 不愉快でくだらないことばかりでなかなか気が進まなかったために最後まで残ってしまった日本の政治についてもやはり触れざるを得ないのだろう。ドアを開けてみたら、永田町は「『もつれた糸』と『空き箱』や大風呂敷を広げて繰り返しほらを吹く『空き菅』(注:原文のまま。空き缶の誤記か)が無造作に転がっているだけのように見える」ような状態だっとしても、最初から何も見なかったことにしてまたドアをこっそりと閉めるわけにもいかないだろう。2004年になってからのことだけを改めて思い出してみても実に不愉快でくだらないことばかりだったが、最初の方で持ち出した「容器」と「ひも」と「中身」の話、「中身」を「円」の形に直して比較する「ベン図」の話を再び持ち出し、最後の力を振り絞って「永田町における最も基本的なベン図」、「永田町における最も基本的な『大義』」、そして「永田町における最も基本的な『中身』」の話だけはどうしても読者や国民に説明しておかなければならない。「永田町における最も基本的なベン図」、「永田町における最も基本的な『大義』」、そして「永田町における最も基本的な『中身』」という3つのことを正しく理解するところから始めなければ、日本の政治は何も変わらないと筆者は考えている。

「永田町における最も基本的なベン図」

 「永田町における最も基本的なベン図」の一つには、自民党(→円A)と民主党(→円B)、そして全体(→Uとする)の間の関係がある。自民党と民主党は明らかに同一の政党ではあり得ない。だから2つの円はそれぞれ別の「円」であることは間違いない。よって2つの「円」がどういう位置関係にあるのかを確かめる必要が出てくるわけである。確かに自民党と民主党の「円」が交わっているのか(→前述の「パターン2」)、あるいは交わっていないのか(→前述の「パターン3」)は政治的にはかなり興味深いテーマの一つではある。だが、今ここで問題にしなくてはならないのは、「円Aでないということは円Bだということなのか」である。つまり「自民党でなければ必ず民主党なのか」ということなのである。当たり前と言えば当たり前の話だが、永田町にはもう一つ与党があるし、総選挙で議席を激減させたいくつかの政党もまだ残っているし、小さくてもその他の政党・会派もあることはあるし、新党だっていつまた誕生するか分からないから、自民党でなければ必ず民主党というわけではないということはあえて「ベン図」を書いてみるまでもなく誰にでもすぐに分かることのはずである。
 
 ところが権力や「内閣総理大臣のイス」に目がくらんで見えなくなったのか、あるいは最初から「ベン図」も満足に理解できないのかは定かではないが、好き勝手に勘違いを深めていく政治家たちがどういうわけか何人もいるのである。自民党でないということは必ず自分たちだということだから野党共闘という談合はやらなければならない。そして野党共闘ができてもできなくても自民党がダメだということは必ず次は自分たちの出番になる。ということは自分たちのことは完全に棚に上げてでも自民党を攻撃すれば政権は自分たちに転がり込んでくる、などと…。永田町にはどんどん好き勝手に勘違いを深めていく国民を欺く政治家たちが何人もいるのである。「永田町の最も基本的なベン図」すらも満足に理解できない政治家たちやマスコミのこの種の救いようのない勘違いこそが「永田町の諸悪の根元」なのだと筆者は考えている。「自民党がダメでも民主党もダメ」ということも十分にあり得るということは誰にでも分かりそうなことではないのか。さらに言えば、自民党が良くて民主党も良いときでも、「民主党の方が自民党よりもずっと良ければ政権交代が起こり得る」ということは、勘違いした政治家たちやマスコミにはおそらく理解できないのだろう。もしもそういうことを正しく理解することができるのならば、あんなにしつこく「くたばれ自民党」などと唱えて自民党や自民党を支持する人たちのことを完全否定する必要はないはずだからである。まず最初に「自民党でないということは必ず自分たちということになる」などと大声で唱え、その上で自民党や自民党を支持する人たちのことをこれでもかこれでもかと徹底的に攻撃・批判するのならば、自分たち以外への支持は絶対に認めないと主張しているのと全く同じことになるではないか。もしも彼らが「政権交代可能な二大政党制」の必要性を本気で訴えるつもりがあるのならば、自民党や自民党を支持する人たちの思想信条の自由も完全に尊重しなければないはずだし、そういう自由を尊重しようともしないのならば「21世紀型のファシズム」などと呼ぶしかなくなってしまう。勘違いした野党の政治家たちや既存のマスコミは「野党第一党は基本的に政府・与党の失政を批判して存在感をアピールしていればいい」などという類の思い込みの愚かさに一刻も早く気付くべきだろう。問題にされなければならないのは、政府・与党の失政よりもむしろ野党、特に野党第一党の「中身」のはずである。「中身」が間違いなく素晴らしいものならば話はそこでひとまず終わり、そして次の段階に進んでいくはずである。

「永田町の最も基本的な『大義』」

 「永田町の最も基本的な『大義』」の一つとしては、「民主党の政権担当能力の根拠」などを挙げることができる。いつの間にかすっかり既成事実にされてしまっているようだが、そもそも民主党が自分たちに政権担当能力があると主張する「根拠」はいったい何なのだろうか。念のために言っておくが、「自民党の次に大きな野党第一党」とか「政権交代可能な二大政党」などと書かれた「空き箱」や「空き缶」の話を聞いているのではない。「空き箱」や「空き缶」をいくらたくさんぶら下げてみても、あるいは「空き箱」や「空き缶」の中にいくらもっともらしく「訳の分からないもの」を詰め込んでみても、さらには大風呂敷を広げていくら繰り返しほらを吹いてみたとしても、自分たちに政権担当能力があると主張する「根拠」を示したことにはならないはずである。民主党が自分たちに政権担当能力があると主張する「根拠」はいったい何なのだろうか。もしかしたら去年の選挙で配布した「マニフェスト」とか、あるいはまさか「自分たちの党首の資質」が自分たちに政権担当能力があると主張する「根拠」だとでも言うのだろうか。筆者にはいったいどこにどんな「根拠」があるのかがよく分からない。つまり現状では「民主党には政権を担当する『大義』はない」という状態である。
 
 仮に、去年の選挙で配布した「マニフェスト」だとか、「自分たちの党首の資質」だとか、あるいはその他の何かが民主党の政権担当能力の「根拠」であるとしよう。そうだとするならば、もしも掲げた「根拠」のほとんどが完全に覆されてしまったり、あるいはほとんどの「根拠」の説得力が乏しくなったということが明確な形で示されたときには、民主党の政治家たちは「民主党には政権を担当する『大義』はない」ということを素直に認めることができるのだろうか。「大量破壊兵器」の代わりに「民主党の政権担当能力の『根拠』」が見つかっていないのと同じ状態だと気付けば、自分たちが「大義がない」などと繰り返し主張しているイラク戦争の場合と論理的な構造は全く同じだと理解でき、科学的もしくは合理的に判断するならば嫌々ながらも素直にそのことを認めざるを得なくなるはずである。もしもそのことを素直に認めることができるのならば少なくともその政治家は知的レベルには問題がないし、国民を欺く「悪意」も持ってはいないのだろう。だが、そのことを素直に認めることができないような政治家たちは知的レベルがあまりにも低いか、国民を欺く「悪意」を持っているか、あるいはその両方だとしか考えられないことになる。もしも全く同じ理屈なのに自分たちにとって都合の良い場合には理解でき、都合が悪い場合には理解できなくなるというのならば彼らの主張は最初から最後まですべて「荒唐無稽」なのだろう。

「永田町における最も基本的な『中身』」

 どうもまだ国会に当事者が残っているらしいが、「学歴疑惑」などという実にくだらない騒動があった。与党側が今でも「いつもだったら得意になって議員辞職勧告決議案を提出してくる野党に今度は逆に踏み絵を踏ませてみたい」などと思っているかどうかはどうでもいい話だが、この騒動も「永田町における最も基本的な『中身』」を説明するために役に立つ素材の一つになるのかもしれない。「○○大学卒業」と書いた「容器」の中に「卒業していない人間」を入れれば「詐称」になるが「○○大学」と書かれた「容器」ならば問題ないとか、「理学部卒業」だけど自分で「政治学科」を作っていたと思い込んでいる人間が「政治学科卒業」と書けば「詐称」になるが「理学部卒業」と書けば問題ない、などという話はもっともらしく聞こえるかもしれない。だが、そういうもっともらしいことまでで「思考停止」する人間たちは物事の本質を全く理解していないと言わざるを得ないのである。どんな「容器」に何と書かれて何が入っているのかということも確かに重要だが、「中身」の性質の方がはるかに重要なはずである。例えば、「生ビール」と書かれた「空き缶」の中に「6年前の生ビール」を入れたとしても「詐称」などにはならないのだろうが消費者は絶対に黙っていないだろうということを想像してみればいい。
 
 「永田町における最も基本的な『中身』」とは、それぞれの政党や政治家たちの持つ能力などのことである。「政党」という形態を整えていても政策の根本的な部分からバラバラのものもあるし、「議員バッチ」を付けていても政治家として十分な能力を持たない人間もたくさんいる。「永田町における最も基本的な『中身』」の性質を調べたり、別の何かの「中身」と比較するような場合には、「中身」を「ベン図」のような「円」の形に直して絶対に動かないように「画びょうのようなもの」で止めてからじっくり見てみると間違えることが少なくなるが、ある政党やある政治家が「何度も何度も繰り返していた発言や主張」とか、おそらくまだ多くの国民の手元に残っているだろう「マニフェスト」を「中身」として選ぶならば「画びょうのようなもの」で止める必要はなくなるのかもしれない。最近は「マニフェスト」などに限らず、国民がある政党やある政治家の能力や資質などの「中身」を考える場合に役立つ数々の新しい「インフラ」が整備され始めてきたから、その場しのぎの無責任な言動を繰り返すような政治家たちはそろそろ「年貢の納め時」なのかもしれない。そして政治や政治ジャーナリズムでは、ある政党やある政治家の主張などが「将来世代を含む一般市民の生命・財産などの利益を守って幸福を追求していく」などということに最終的につながっているのかということを確認することがますます重要になってくると筆者は考えている。

「ベルリンの壁」「楽市・楽座」などという「謎の空き缶」

 「かつてドイツは、NATOの領域内に限られていた軍の活動をNATOの領域外に広げるときに、その基本法、日本でいう憲法の改正をあらかじめやってから行動いたしました。小泉総理は、憲法を変えることもなく、明らかに憲法に違反する行動を命令している。まさに民主主義を破壊する暴挙とこれを言わないで、何を暴挙と言うんでしょうか…(中略)…総理は、イラクは安全と言えないから自衛隊に行ってもらうんだとか、多くの国がイラクに出ているから日本も自衛隊に行ってもらうんだとか、こういったことを言っておりますが、これが日本国憲法に反して自衛隊を送る理由にならないことは、だれの目にも明らかではありませんか」「(前略)…例えば、先日伺った秋田などでは、高速道路が無料になれば野菜などを首都圏に運ぶことも可能だ、そして、現在の関所とも言えるあの料金所を廃止して出入り口を大きくすることによって、かつて織田信長が行った関所の廃止と、いわゆる楽市・楽座のような地方経済の活性化が大きく期待できるということを、私は確信を持って改めてこの場で申し上げたいと思います…(後略)」(以上、1/21の衆院本会議での菅直人民主党代表の代表質問)。
 「私はあえて申し上げます。私たちがマニフェストで高速道路の無料化を言いました。そしてそれは、9兆円の現在道路にかかっている費用のうちの2兆円をその借金返しに充てれば、ある意味では、返済計画はそれで終わりますから、明日からでも無料にできると。かつて信長は関所をなくすることによって楽市・楽座、全国行ってみてください、秋田に行っても、例えば高速道路が無料だったら野菜は東京まで運べますと私に言った方がたくさんありました…(後略)」(2/18の党首討論(国家基本政策委合同委)で菅代表)
 
 原稿なしで行われた菅代表の代表質問には、目立った内容はなく、その代わりに勘違いと間違いがかなりあったようだ。ドイツが基本法を改正して軍を派遣したというのは菅代表の「完璧」な勘違いであったことが与党議員の衆院特別委での質問(1/29)で指摘されたり、イラクへの自衛隊の派遣自体が憲法違反だという菅代表の主張は「必ずしも民主党全体のコンセンサスではない」(鳩山由紀夫前代表のメールマガジン2004/1/21(通算第127号))などと党内で波紋を広げたりしたが、筆者が問題にしたいのは全く別のことである。確かに、実際には機能していなかった「サマワ市評議会」が存在しているなどとの衆院本会議での答弁(1/27)を小泉首相が本会議で撤回(1/29)したのに菅代表は本会議で撤回しないのかとか、あれだけ憲法違反などと厳しく批判していたのに実際に自衛隊が派遣されてしまうと急に大人しくなって無事に任務を終えて早く戻ってきて欲しくなるのはどういうことかという気もする。だが、筆者がここで問題にしたいのはあの「楽市・楽座」の話(→参考:2003/12/8 (5/8)号)である。菅代表の言う「楽市・楽座」や「関所」とはいったい何のことを言っているのだろうか。
 
 まず、織田信長が城下町の安土に出したいわゆる「楽市・楽座令」(→「安土山下町中掟書」(1577))と菅代表の言う「楽市・楽座」が同じものだとするならば、「関所の廃止」とは関係がないはずである。それどころか「楽市・楽座令」は現代の「特区」のような安土を商人たちが通らなくてはいけないある意味での「関所」にするようなことも書かれているはずである。筆者から見れば、菅代表の言う「楽市・楽座」は内部に訳の分からないものが入っているかもしれない「謎の空き缶」である。中にいったい何が入っているのかいないのかちょっと見てみたい気もする。何にしても織田信長はまだ化けて出てきてくれないのだろうか。
 
 そして菅代表の言う「関所」というのはいったい何を意味しているのだろうか。たぶん「高速道路の料金所」が「関所」だと言いたいのだろうが、少なくとも戦国時代などの「関所」は避けて通っただけで重罪に問われるなどの取り返しのつかない大変なことになったはずである。迂回して一般道を通行しても重罪に問われるわけでも何でもない「高速道路の料金所」がなぜ「関所」になるのかが筆者には理解できない。どうせ深い意味はないのだろうが、菅代表の言う「関所」も内部に訳の分からないものを入れられた「謎の空き缶」である。
 
 さらに言えば、去年総選挙の選挙戦で菅代表らは投票日に「ベルリンの壁が崩れる」などと繰り返し言っていたことをまだ覚えている読者も多いだろう。菅氏の言っていた「ベルリンの壁」も「謎の空き缶」の一つであることは言うまでもない。結局投票日には何の「壁」も崩れることはなかったわけだが、せめて菅氏の「バカの壁」が少しでも崩れて彼の視野がほんの少しでも広がっていたとしたら民主党の政治家たちや民主党を支持した人たちにとっては「最小不幸社会」をほんの少しだけ実感することができたのかもしれない。「楽市・楽座」、「関所」、「ベルリンの壁」などと書かれた大小さまざまのたくさんの「謎の空き缶」をぶら下げながら菅代表は全国各地を回っているのだろう。

「ベン図」を利用すると「バカの壁」がハッキリと見えてくる

 実は「マニフェスト」にも「ベン図」を利用すると「バカの壁」がハッキリと見えてくることもあるのである。以前(→2003/12/8 (8/8)号)「次回の参院選や総選挙直前の『予行演習』」として使った民主党のマニフェストの「菅直人から国民のみなさんへ」の「最小不幸社会」(P6)というところを再び具体例として取り上げることにする。
 
 「私は、政治の目標は『最小不幸社会』の実現と考えています。国民の中には『不幸』に遭遇している人たちがいます。そして、人々が『不幸』になる原因はさまざまです。その原因を、政治の力、つまり『権力』で取り除けるものはできるだけ取り除き、『不幸』を最小化すること、それが政治の目標だと思います。(注:段落変更)なぜ『最大幸福』と言わないで『最小不幸』と言うかといえば、病気や貧困といった『不幸』の原因は相当程度『権力』の力で取り除くことができますが、『幸福』のかなりの部分は恋愛や美意識といった精神的なものに支えられており、『権力』が関与すべきでない分野の問題であると考えているからです。一部の人が無理に『幸福』を押しつけようとして『権力』を行使すると、そこには一種の強制や独裁が生まれます。政治『権力』は人の生死をも左右する強制力を伴うものだけに、その行使は人々の『不幸』の原因を最小化することを目標とすべきであり、美意識のような個人的選好に属する『価値』の実現を目標とすべきではないというのが、私の政治に対する基本的哲学です…(後略)」(以上、民主党のマニフェストから)
 
 だまされたと思って文章で書かれている「病気や貧困のうち『権力』の力で取り除くことができるもの」(→Aの円)、「病気や貧困」(→Bの円)、「人々が不幸になるさまざまな原因」(→Cの円)の関係を「ベン図」で表した場合にいったいどうなるかをちょっと考えてみてもらいたい。「病気や貧困のうち『権力』の力で取り除くことができるもの」(→Aの円)がそれよりもほんの一回りだけ大きい「病気や貧困」(→Bの円)の中に入っていて、それらよりもずっと大きな「人々が不幸になるさまざまな原因」(→Cの円)の中にAとBの2つの円が入っていることになるはずである。さて、このとき読者はなぜ不幸が最小になるのか理解できるだろうか? 筆者には全く理解できない。
 
 これは「ベン図」を書いても書かなくてもいいが、「恋愛や美意識といった精神的なもの」に支えられている幸福な人たち(→Xの円)が「恋愛や美意識といった精神的なもの」に支えられなくなった場合のことを考えてみることにする。その場合には幸福な人たちが不幸になってしまうか(→Yの円)、あるいは幸福でも不幸でもない状態になってしまうか(→全体ZからXの円とYの円を除いた部分。なおXの円とYの円は交わらない。前述の「パターン3」に相当)のどちらかになるのだろう。そして「恋愛や美意識といった精神的なもの」に支えられなくなって不幸になった人(→Yの円)に対してやはり権力は関与すべきではないのだろう。さて、問題なのは権力が関与しないときに本当に不幸は最小になるのかということ、そしてそもそも幸福の原因と不幸の原因をどれだけ明確に分けて考えることができるのかということである。読者は理解できるだろうか? 筆者は考えれば考えるほど分からなくなってくる。
 
 いずれにしても民主党は今後も政権担当能力を示すと主張する「大義」とか「根拠」などを新しく出してもらっても結構である。ただし、新たな「大義」とか「根拠」を示す前に、もつれにもつれてまるでブドウのようにたくさんぶら下がっている「謎の空き缶」の山を一度まとめてすべて整理してもらう必要がある。筆者は「内閣総理大臣のイスに一度座ってみたい」などという検証不可能なものが「大義」でない限り、彼らが政権担当能力を示すなどと主張する「大義」とか「根拠」を読者や国民にも分かるような明確な形で否定する準備もできているし、そのための十分な能力も持っている。念のために言っておくと、もしも筆者が検証を繰り返しても肯定することができる「大義」とか「根拠」が出てくるのならば、彼らには政権担当能力などが存在するということになるのだろう。いずれにしても最終的な決定を行うのは国民である。
 
 もしもこの文章を読んで「自民党や小泉首相の味方をしている」などという勘違いをする人間がいるとしたら、彼らは「永田町の最も基本的なベン図」すらも理解できない程度の知的レベルであると見なさざるを得ない。確かに筆者は野党第一党の民主党や菅直人代表の資質とか能力を問題にしている。だが、そのことがなぜ「自民党や小泉首相の味方をしている」などということになるのだろうか。筆者は「将来世代を含む一般市民の生命・財産などの利益を守って幸福を追求していく」かどうかで政治を判断しているなどとあえて強調しなくても、賢明な読者は「野党第一党の民主党や菅直人代表の資質とか能力を問題にすること」がどういうことにつながっているかということぐらいはたぶんもう理解してくれていることだろう。

小泉首相には「本当の意味でのライバル」が必要

 今の永田町には小泉首相にとっては簡単に手玉に取ることができる「絶対安全な敵」しかいないのだろう。万一、何らかの不測の事態が起こったとしても7月の参院選では「政権交代」だけはほぼ確実に起こらない。現状とその延長線上の状況では、参院選の結果を受けて政権側を軸にした「政界再編」や「政変」ならば数%程度の確率で起こるかもしれないが、解散・総選挙となると1%以下の確率に低下、さらに「政権交代」ということになると99.99999%以上の非常に高い確率でまず起こることはないと判断することができる。そしてもしも「政変」が起こる場合であっても、小泉首相の意中の「ポスト小泉」が次々と危機を打開して新たなヒーローになる可能性もかなり現実味を帯び始めている。もしかするといつの間にか「ポスト小泉」にとっても「絶対安全な敵」しかいなくなっているのかもしれない。「ポスト小泉」は大事に大事に「冷凍保存」された小泉首相お気に入りの「改革の芽」をそっくりそのまま「相続」して最初から次々と大きな成果を挙げて「驚異的なロケットスタート」を見せることになるのかもしれない。
 
 やはり改革を進めるためにも小泉首相には「本当の意味でのライバル」が必要なのかもしれない。ただしそのライバルは「容器」と「中身」の違いだけではなく、「中身」同士の違いも正しく理解できなければならないし、どんなときでも必要ならば「ベン図」ぐらいスラスラ書けてすぐに国民に分かりやすく説明できる程度の能力を最低でも持った政治家でなければならない。そして間違っても権力や「内閣総理大臣のイス」に目がくらんで「ベン図」や「容器」と「中身」の違いなどが分からなくなるような政治家であってはならない。そもそも「ベン図」や「容器」と「中身」の違いなども満足に理解できないような人間は「内閣総理大臣候補」どころか政治家としても失格ではないのか。そして「ベン図」や「容器」と「中身」の違いなども満足に理解できないような人間をあえて「内閣総理大臣候補」として支持するような政治家も国民を代表して内閣総理大臣を選ぶ国会議員としての能力に大きな疑問符がいくつも付くことになるはずである。
 
 「永田町周辺」と「一般社会」、そして「平和な日本」と「財産はおろか生命すらも保障されていない世界の地域」などが実は多くのことでつながっているのだということを強く意識しながら同時代の出来事を一歩踏み込んで考えた文章を筆者は書いたつもりである。また筆者は、一人ひとりの市民が同じ地球上に生活しているという意識を持って「将来世代を含む一般市民の生命・財産などの利益を守って幸福を追求していく」ような正しい判断をするために必要となる最低限の能力や知識とは何か、そういう最低限の能力や知識を地球規模で普及させるためにはどうすればいいのか、などといったことを意識し、政治や政治ジャーナリズムのための「新しいインフラ」としての可能性を模索し始めている。そしてそのことは「今後ともオウムのようなものとは断固戦っていく」という9年前に密かに筆者が自分自身にした「公約」を守ることにもつながっている。
 
 次回以降はいよいよ菅直人氏を内閣総理大臣候補として掲げている民主党の政治家たちの資質や民主党のマニフェストに書かれている個別具体的な政策にも「戦線」を拡大していくことになるのだろう。もちろん北朝鮮を含めた「オウムのようなもの」に対する言論による闘争は継続していく。


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