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ここ数年の日本の政治状況を見れば見るほど、「野党共闘」などと称したことでは政権交代は不可能であると私は考えています。「野党共闘」がいかに無意味で政権交代につながらないバカげたものであるかということは、例えば、小泉純一郎首相の誕生前と誕生後の与党と野党それぞれの状況の劇的な変化によって非常に大きな説得力を持って示されています。私は「野党共闘」などと称したことは日本の政治を本質的に変えることには全くつながらないと考えて明確に反対しますし、また「野党共闘」などを唱える政治家たちが政界から完全に淘汰されない限り日本の政治は良くならないとも考えています。「野党共闘」などと称したことに意味があると考えている人たちは以下の文章を無理にお読みいただかなくとも結構です。(2002/1/12更新)。
○今は「明治維新前夜」ではなく、「応仁の乱後」である(2002/3/3)。
○なぜ政権交代で経済が良くなるのか? 野党は自らの足元を見るべき(2002/2/10)。
○いくら自民党との「違い」を強調してもそれだけでは国民を動かすことはできない(2002/1/19)。
○「野党共闘」は売れ残った商品だけを集めた魅力のない「福袋」のようなものである(2002/1/12)。
▽(参考:「野党共闘」などの動きは「詐欺的行為」ではないのか?(2001/3/12更新)、日本の政治)。
北方4島支援事業関係を含めた数々の疑惑が浮上している自民党の鈴木宗男代議士の証人喚問問題で与野党の攻防が続き、野党側は2/28午後から審議拒否に踏み切っている。おそらく外務省が調査結果を明らかにする3/4午前(朝?)まで大きな動きはないのだろう。
やはり鈴木宗男代議士の証人喚問は避けられないと私は思っている。もしも証人喚問に応じずに逃げ隠れしたり、政治倫理審査会でお茶を濁したりするのならば、おそらく鈴木宗男代議士が二度と立ち上がれなくなるまで疑惑や内部文書などがあちこちから次から次へと出てくるような状況になってきているからである。どういった形で決着するのかしないのかはまだよく分からないが、できるだけ早く証人喚問で正面突破を図る以外の選択肢は鈴木宗男代議士には残されていないということだけは間違いない。そう考えると、野党側が予算案を人質に取らなくてはいけないような状況はそう長くは続かないだろうし、そもそも与野党がいったい何を「攻防」しているのかもよく分からなくなってくるが、田中真紀子代議士と鈴木宗男代議士の参考人質疑のときと同じようになぜか話が混線しているから「攻防」になっているのだと私は見ている。こんな状態で野党は何かを明らかにできると本気で思っているのだろうか?
鈴木宗男代議士の証人喚問が実現することを前提にした上で、証人喚問で何かを明らかにして再発防止策などにつなげていくためには、(1)鈴木宗男代議士追及の最大の功労者(いわゆるMVP)は間違っても野党ではなく「内部文書」であるということ、(2)「自民党は鈴木宗男代議士の証人喚問でトカゲのシッポ切りを狙っている」などという認識はおそらく完全な誤りであること、ぐらいは最低でもしっかりと確認しておく必要がある。
野党が国会で「内部文書」を取り上げたことに全く意味がなかったなどと言うつもりはないが、やはり「内部文書」が作成され、それが保存され、リーク(?)され、その存在が外務省によって確認されるということがなかったとしたら、ここまで鈴木宗男代議士が追い詰められることはなかっただろう。そういう本質をすっかり見失って野党が自分たちの手柄だと勘違いして「野党共闘」などをやって浮かれているとしたら、もしかすると与党、特に自民党が最後のとどめの一撃を加えるというビックリするような展開もあり得ない話ではないのかもしれない。
また、一部の野党の政治家たちや政治評論家がまことしやかに流布しているような「トカゲのシッポ切り説」は完全にピントのずれた物の見方か、あるいは時代遅れの発想としか私には思えない。もしかしたら55年体制下の野党の発想ではそういうことになるのかもしれないが、その当時とは政治情勢は大きく変わっている。一連の鈴木宗男代議士の問題が極めて特殊で悪質なものだったとしても、あるいは完全に潔白であったとしても、問われるべき政治的な責任は厳しく問われなくてはならないはずである。むしろ今回のことは「シッポ切り」ではなく「先例」になるのであり、是非とも立派なものにしなくてはならないと私は考えている。もしも将来何かが出てくれば「先例」と比較してどのような政治的な責任を問うべきかを決めればいいだけの話である。今回のことですべての政治家がすべての役所などに言ってきた意見を原則的にすべて文書にして保存し、国民に広く公開することの有効性が示されたのではないかと私は見ている。今後の展開に注目している。
さて、前書きが非常に長くなったが、鈴木宗男代議士関連の話は今回はこの程度にとどめ、以下は本論の「野党共闘」と称したバカげた動きに絞って書くことにする。
2/22夜に鳩山由紀夫民主党代表と小沢一郎自由党党首らが会談し、民主・自由の2党が中心になって「政権の受け皿」をつくることで一致したらしい。「薩長連合」などと当事者たちは言っているらしいが、やはり国民には説得力のない「白昼夢」を見ているだけに過ぎないのではないか。
社民党なども含めるような「野党共闘」よりも民主・自由の2党だけの方が意味のある政策的な合意を形成しやすいことは確かだと思うが、それでも両党が一緒に政権を担うことができるほど政策的な溝が浅いわけではない。そもそも重要法案の採決のたびに造反が相次ぐ主義・主張がバラバラな民主党のような政党が他党との政策協議とか選挙協力などを唱えても全く説得力がない。もしも一緒に政権を担うことができるというのならばいっそのことどちらかに吸収合併して一つの政党になった方が国民にとってはずっと説得力があるはずである。そんな「新・自民党」とも「民自党」ともからかうことのできないような中途半端な連携をしても選挙協力の成果は上がらず、とうてい「政権の受け皿」にはなり得ないだろう。もちろん「新・自民党」とか「民自党」になったとしても「政権の受け皿」になれる保証は全くない。それはあの旧・新進党と比べてどれだけましなものができるのかということを冷静に考えてみればすぐに分かることだろう。
その上でもしも民主・自由の2党の連携模索にあえて何らかのプラスの意味を探すとしたら、(1)状況によっては与党になだれ込もうという政治家たちの動きを事前に封じ込めるという意味か、(2)民主党の「旧社会党のシッポ」と「労組が主役の政党」を目指す勢力を完全に切り捨てるという意味か、(3)民主党と自由党という最も距離が近い政党同士の間でも意味のある協力をするのは非常に難しいことを示すことによって「野党共闘」などと称したことに完全に終止符を打つという意味ぐらいしかないであろう。もっとも現時点では「これだから野党はやっぱりダメだ」と多くの国民から妙に納得されるだけのマイナスの意味しか持たないと私は見ている。「真紀子さん」に感情移入して小泉純一郎首相と「疑似恋愛」していた人たちが離れていくのを見てチャンスとばかりにあらゆる手を尽くしてラブコールを送ってみたものの見事に素通りされてしまったという現実を野党はいったいどう受け止めているのだろうか。
今は「明治維新前夜」であると信じて疑わない「白昼夢」を見続ける政治家たちが野党には少なくないようである。今の日本の政治状況と似た状況をあえて歴史の中に探すとするならば、私は大正から昭和初期が一番似ているのではないかと思っている。どうしてももっと昔にまで遡らなくてはいけないのだとするならば、幕末、「明治維新前夜」を通り越して、一気に「応仁の乱後」にまで遡らざるを得なくなると思っている。
誰が山名宗全(持豊)で誰が細川勝元なのかは定かではないが、非自民連立の細川護煕内閣に裏切られ、小泉純一郎内閣にも失望し始めている国民にとっては今の日本は不毛な戦乱で焼け野原になりつつあるように見えるかもしれない。主要政党総相乗り型の候補者を破って各地で脱政党・無党派型の知事が相次いで誕生したのは、国人一揆か一向一揆はともかくとしても一揆に見えるのではないか。国民の目から見れば、無能な野党も相変わらずの与党も自らの領国も満足に支配できなくなっている守護大名に見えるのではないか。そして戦国時代の覇者となる人物はもちろんのこと、戦国大名すらもまだ登場していないというのが今の日本の政治状況なのではないか。
人々は戦国時代に突入しても織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が登場すれば新しい時代がやってくるという歴史を知っているので、彼らのまがいものの誕生にも結果的に寛容になってしまうかもしれない。このままでは右からも左からも次々と「ニセ・織田信長」がやってきて無能な野党に代わって「荒療治」を行おうとするという悪夢も現実のものになりかねないと私は思っている。繰り返すが、今は「明治維新前夜」ではなく、「応仁の乱後」、あるいは「大正から昭和初期」なのである。野党の政治家たちは一刻も早く「白昼夢」から冷めるべきである。さもなければ国民のために戦国時代の覇者となる有力な戦国大名に取って代わられるべきである。
今回の野党の審議拒否については全く理解できない話ではないと思っているが、野党4党で緊急集会を開いて「気勢」ならぬ「奇声」を発する神経はやはり私には全く理解できない。いったいどんなプラスの意味があるというのだろうか。もしも野党の緊急集会が壇上に並んだ菅直人民主党幹事長ら「明治維新前夜」の「白昼夢」を見続ける政治家たちの永田町からの卒業式、政治家からの引退式であったのならば、「戦乱」もいよいよ終わりに近づくと多くの国民から説得力を持って受け止められたかもしれない。
くどいようだが、「薩長連合」と唱えようが唱えまいが、今は「明治維新前夜」ではなく、「応仁の乱後」、あるいは「大正から昭和初期」なのである。だから「野党共闘」では政権交代は不可能である。
小泉純一郎首相が田中真紀子前外相を更迭したことで内閣支持率が急落し、今まで全く歯が立たなかった野党側がここぞとばかりにはしゃいで「攻勢」を強めているようである。やがて誰の目にも明らかになるとは思うが、小泉内閣の支持率の急落と国民が野党を支持するかどうか、ましてや「野党共闘」などの有効性とは全く何の関係もないはずである。今回の内閣支持率の急落を受けて野党側のお粗末な実態がまたもや明らかになったということをしっかりと確認しておく必要がある。
野党側が田中真紀子前外相の更迭劇を「田中前外相は悪くない」「辞めさせる理由はない」などと批判してみたり、「なぜ田中前外相は辞めさせても武部農水相は辞めさせないのか」などと否決されるだけの武部勤農水相不信任決議案を提出して「国民感情」に訴えるのもそれはそれで結構だが、ちょっと前までは「指輪」がどうしたとか、マスコミが人気を煽った「ワイドショー内閣」をちょっと批判しただけでもこんなに抗議のFAXが殺到する、異常な状態だ、危険な兆候だ、などと言っていたことを多くの国民はおそらく忘れていないはずである。野党が国民のことを本音ではいったいどう思っているのか気になる。
ひどいのになると「(内閣支持率の低下は小泉首相の)催眠術が(田中前外相の)更迭劇によって解けた結果。催眠術を解くパンという音の役割を更迭劇が果たした。一度解けた小泉催眠術に国民は二度とかからない」などとあたかも国民をバカにするかのようなことを得意気に言っていた某野党幹部までいるが、やれ小泉首相はタイタニック号の船長や15代将軍の徳川慶喜のようだとか、やれ今は明治維新前夜のようだとか…、いくら自分たちが根拠のない政権交代の「白昼夢」を見るのが好きだからといっても、多くの国民も同じように虚ろな目で小泉内閣を見ていたに違いないと勝手に決め付けないでもらいたいものである。多くの国民は「野党共闘による自民党に代わる受け皿」催眠術とか「野党こそが真紀子さんの味方」催眠術にかけられてしまうほど愚かではない。
小泉首相は代表質問に対する答弁の中で「(内閣)支持率が下がったと言っても、民主党よりもはるかにまだ高い」などと開き直っていたが、実はもっとずっと問題は深刻なのである。野党第一党・民主党の支持率はおろか全野党の支持率を単純に合計したとしても小泉内閣の支持率の下落幅(20-30%程度)にも及ばず、しかも内閣支持率の急落を受けても野党の支持率はどの政党もせいぜい誤差程度しか増減していないのである。多くの国民はたとえ与党がダメだとしても野党はもっとダメだと考えていることが各種世論調査結果にもよく表れていると言える。
野党は実に久しぶりに党首会談などを行ったそうだが、前回までにくどいほど指摘してきたように、「野党共闘」などと称して一緒にやってもやらなくても、今現在は与党でないというだけの人たちの実態がお粗末な状態ならば多くの国民は見向きもしないということにいいかげんに気付くべきではないのか。
また、最近の民主党を中心とした野党は「なぜ構造改革で景気が回復するのか?」「小泉内閣には弱者の視点が欠けている」「温かい構造改革を断行すべきだ」などと繰り返し攻撃し、これらのフレーズをどうも小泉内閣攻撃の「切り札」として使おうと考えているかのようである。構造改革にデフレ的要素があってもなくても、構造改革をすればそれだけで景気が良くなるわけでないのは当たり前の話である。かつては有効だったかもしれない古い制度などが大きな障害になっているから構造改革をしなければ経済は良くならない、だから構造改革が必要だ、という話ではなかったのか。まさか構造改革をやめれば経済が良くなるとでも言うのだろうか?
仮に政権交代が起こることを前提にして「なぜ政権交代で経済が良くなるのか?」と野党に質問したらいったいどんな説得力のある答えを返すことができるというのだろうか。「構造改革を進めるだけでは経済が良くならないこと」が本当の意味で分かっているのならば、「政権交代が起こるだけでは経済が良くならないこと」ぐらいはすぐに気付くはずである。どういうわけか野党は自らの足元だけは見ようともしないようである。「なぜ構造改革で景気が回復するのか?」などという素朴な疑問を与党にぶつけて自分たちだけで満足しているような状態では、いくら覆い隠そうとしても覆い隠しきれないくらい主義・主張がバラバラな野党第一党や、何度失敗しても「野党共闘」にしがみつくことしかできないダメな野党の存在こそが政権交代の最大の障害になっているという「足元にある非常によく似た構図」が見えないのも当然と言えば当然なのかもしれない。
念のために書いておくが、仮に小泉内閣や自民党を中心とした与党ではダメだとか改革は不可能だということを証明したとしても、それでは「政権交代が起こるだけで経済が良くなること」を論理的に導き出したことにはならないし、もちろん「だから野党」とか「だから野党共闘」という「結論」に強引に結び付けるにはあまりにも大きな論理的な飛躍がありすぎるという現実にも全く何の影響も与えない。
そもそも「なぜ構造改革で景気が回復するのか?」などと構造改革自体に疑問を投げかけるかのようなことを言い出す前に野党側は自分たちが打ち出す政策に本当に説得力があるかどうかをまず疑ってみるべきである。野党側が鳴り物入りで打ち出している政策にも説得力のないものが実はかなりたくさんある。例えば、最近、民主党が声高に唱えている「地域金融円滑化(金融アセスメント)法案」なる法案はその実効性に大いに疑問があるばかりか同党が実は「統制社会」を目指しているのかという根本的な部分にまで疑問が膨らみかねない「問題法案」だと私は考えている。そういう法案を提出するくらいならば、当面は民業圧迫覚悟で政府系金融機関が中小企業に融資し、社会的責任を果たさない金融機関が淘汰されるのを待つ、とでも言った方がまだましなのではないか。
なお「弱者の視点」については、本物の弱者を含めた多くの国民が本当に耐えられないほどの大きな痛みを感じている場合に国の財布を握っている政府・与党があえて何もしないということはあり得ないので野党の「切り札」にはならないと私は見ている。そのときに野党が政府・与党に負けないくらい何かをばらまくことができるというのならばもう少し説得力があるのかもしれないが…。
いくら与党に失望したとしても、自らの足元も見えていないような人たちを支持するほど多くの国民は愚かではない。支持できるものがないのならば多くの国民は正体不明の「新党」などの支持できるものを待つか探すか作ろうとするはずである。だから「野党共闘」では政権交代は不可能である。今現在、多くの国民は「なぜ政権交代で経済が良くなるのか?」という疑問を持つ段階にも至っていない。野党はまず自らの足元をしっかりと見るべきである。
通常国会の召集が近づくにつれて「野党共闘」や「野党協力」などを唱える政治家たちのテレビカメラを意識した無意味な動きが再び目立ってきているようである。くどいようだが、「野党共闘」などでは政権交代は不可能である。ここ数年の政治の流れから全く何も学習せずにどうしてももう一度失敗してみたいというのならば、自分たちの後ろに支持してくれる国民が一人もいなくなってしまうことをも覚悟しなくてはいけない。
「野党共闘」や「野党協力」と称したものを正当化する政治家たちは、与党と野党は何が何でも、そして何から何まで完全に違っていないと困るようである。「与党=悪者・国民の敵」「野党=国民の味方」などと強く思い込みながら、自民党や与党という「レッテル」が付いているかいないかだけで敵味方を識別して激しく敵を批判できなくなってしまうと彼らは不安で不安でたまらなくなってしまうようである。しかし、本当に与党と野党はそんなに何から何まで完全に違っていないといけないのだろうか? そしてもしも完全に違っているとしても本当にそこまで「違い」を強調しないといけないのだろうか? そもそも彼らはなぜそんなに自民党や与党との「違い」を強調したがるのだろうか? ただ単に「今現在は与党ではなくて野党である」というだけのことに彼らが考えているような大きな意味があるとは私にはとても思えない。
彼らが自民党や与党との「違い」を殊更に強調しなくてはいけないのは、もしかしたら野党の中には見るべきものが何もないからではないのか。だから自民党や与党には「悪者・国民の敵」、自分たちには「国民の味方」などという「レッテル」を強引に貼り付け、外側から見た「違い」を徹底的にセールスポイントとして強調してなんとか中身での勝負を避けようとしているのではないのか。そう考えれば彼らが自民党や与党との「違い」を不自然なほど強調していることも理解できないわけではない。
「今現在は野党である」だけの集団には意味のある政策的な共通点は何もなく、「野党共闘」には中身がないと見なすことができる。なぜなら野党の中に「共闘」できるような共通点があるとするならば、野党と与党の間にも互いに積極的に「共闘」できるいくつもの共通点があるはずだからである。もしも「野党共闘」などに何かがあるとしても「レッテル」を貼り付けることによって強引に作られた自民党との「違い」とか、バラバラな政党のいつものドタバタ劇ぐらいのものだろう。
念のために書いておくが、現時点では単なる「外国かぶれ」のレベルに過ぎず、しかも当分の間は空虚なスローガン以上のものにはなりそうもない具体的内容が不明確な「第三の道」などというようなことをいくら一緒にぶち上げてみたとしても「野党共闘」などの中身がないという状況には全く何の変化もない。
実は彼らが強くとらわれている「与党ではダメだから野党だけが国民の味方である」などという勘違いした「選民思想」は、自民党の中の旧態依然とした政治家たちの「野党には政権を任せられないから自分たちしかいない」などという決まり文句と表と裏の関係にある。自民党や与党にも勘違いした「選民思想」に基づいて野党との「違い」を徹底的に強調することによって救われる政治家たちが存在するのである。黙っていても野党の方から「違い」を強調してもらえるとしたらこんなに楽な話はない。
「野党共闘」などを唱える政治家たちは自分たちとほぼ同じ主張をしている与党の政治家たちとだけはなぜか「共闘」できないことについて自民党や与党という「レッテル」以外にいったいどんな説得力のある理由を挙げることができるというのだろうか。「違い」があったとしてもなかったとしても、選挙で与党にする政党を選ぶのは国民であることには何も変わりがない。たとえ与党側に大きな失点があったとしても、殊更に「違い」を強調しなければいけないほど野党側の実態がお粗末な状態ならば国民は見向きもしないはずである。いくら自民党との「違い」を強調してもそれだけでは国民を動かすことはできない。だから「野党共闘」では政権交代は不可能である。
相変わらず野党では同じような顔ぶれがしつこく「野党共闘」を唱え続けている。ちょうど一年前にも同じような顔ぶれが今と同じように「野党共闘」を唱えてもうすぐ政権交代が実現するなどとはしゃいでいたが、小泉純一郎首相の誕生によって一瞬で形勢が逆転し、都議選や参院選を通じて「野党共闘」などの無意味さを痛みを感じながら実感したはずである。この人たちはいったい何度失敗すれば学習できるのだろうか? 相変わらず同じような顔ぶれがいつまでも学習せずに「野党共闘」を唱え続けているだけという野党の現状は、売れ残った商品だけを集めた魅力のない「福袋」を自分たちが政権交代という「白昼夢」を見続けるために「野党共闘」などというブランド名を付けて無理矢理国民に売りつけようとしているようなものである。本当に国民を欺いたり、バカにしていることにはならないのであろうか? どこかのスーパーのように8割引にしたわけでもなく、いらないものばかりがたくさんおまけに付いてくるだけの「野党共闘」などと称した「福袋」のようなものでは政権交代は不可能である。
93年総選挙直後の細川護煕・非自民連立政権の誕生、98年の参院選直後に参院の首相指名選挙で当時の民主党代表だった菅直人幹事長が指名されたなどというような過去の一時的な「成功体験」に味を占めている人たちほどどうも「野党共闘」などを強く唱えているようである。実はそのような「成功体験」はいずれも「野党共闘」などというものと因果関係があるわけではないのである。決して「野党共闘」などによって選挙で過半数を獲得することができたり、政権交代が実現したわけではないということをまずしっかりと確認しておく必要がある。あくまでも選挙の結果を受けて初めて(その時点での)野党各党の議員数の足し算をやってみたら過半数を上回ったというだけの話なのである。仮に何かに成功したとしてもせいぜい正確に数を数えた上で足し算を間違えずにやることができたというだけの「成功体験」に過ぎないわけである。過去の一時的な「成功体験」の本質を理解することもなしに自己中心的な解釈に基づいて「野党共闘」や「野党協力」などの必要性を主張しているだけでは国民からどんどん見放されていくだけである。
いわゆる狂牛病(BSE)問題で批判が強まっている武部勤農水相の不信任決議案や依然非常に高い支持率を示している小泉純一郎内閣の不信任決議案などでどうしても野党各党が協力するというのならばそれはそれで結構だが、その場合にも自分たちが簡単な足し算をちゃんと間違えずにできるのかということぐらいはしっかり確認してからにした方がいい。まさか「野党共闘」などをやって野党の議員を全部足してみたらそれだけで過半数を超えるとでも言うのだろうか? そもそも全部足しても過半数には及ばず、ただ単に今現在は与党になれないだけの人たちの集まりのことをまとめて野党と呼んでいるはずである。否決されるだけの不信任決議案を形式的に提出するという形であえて何度も何度も簡単な足し算をやってみる必要はない。
「野党共闘」とか「野党協力」などと称したことでは自民党を中心とした与党はもちろんのこと、簡単な足し算の結果にも対抗できないことは誰の目にも明らかである。簡単な足し算すらも満足にできるかどうか怪しい人たちの言うことに国民が説得力を感じるはずがない。だから「野党共闘」では政権交代は不可能である。
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