(最終更新:2024/4/20,0:00) 

千葉 潤(jchiba)(東京都所属)のホームページ

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 千葉潤 政治過程 行政書士事務所(東京都)/自由自律/公私の区分/自助・共助・公助/行政区画・区域の弊害是正/反・旧民主&共産勢力/反・消費税廃止勢力/反ポピュリズム/反カルト/母校は「故郷」/政治を「科学」にする/人間の安全保障/男女共同参画/老若男女生涯現役社会/仙台は元祖東北・新首都圏

 「5つの約束」

 「これからの日本社会」


きょうのひとこと 

きょうは2024/4/20()です。

「信じてきたが…」(2024/4/20)

『幸せに 必ずする』と 約束を した『この人』を 信じてきたが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はできるだけ多くの人たちに集まってきてもらいたいのになかなか期待通りに多くの人たちが集まってこない場所で「マッチング」なるものを採用しようという動きがあるようです。特に選挙などに「マッチング」なるものを導入した場合には事後検証は必要ないのでしょうか? 世の中には「必ず幸せにする」などと約束したから「この人」を信じてきたが…、などという話はよくある話ですが…。

くどいようですが、確かに世の中では、趣味が同じだとか、興味を持っていることが同じだとか、将来の夢が同じなどという理由で、今まで全く接点のなかった「ある人」と「別のある人」が意気投合するなどというようなことはあるのだろうと思います。それは選挙などに「マッチング」を導入した場合であっても基本的には変わらないのだろうと思います。そして「有権者」が「この人」なら自分の夢をきっと実現してくれると信じて投票する「候補者」を選んで決めるようなこともあるのだろうと思います。「有権者」が信じた結果はどうだったのでしょうか? 特に選挙などに「マッチング」なるものを導入した場合には事後検証は必要ないのでしょうか? 「必ず幸せにする」などと約束したから「この人」のことを信じてきたが…、などという話はよくある話ですが、選挙の場合には早ければ4年もすれば事後検証が可能なはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「実現できる?」(2024/4/19)

『趣味』が合う 『夢』が同じと いうだけで 『夢』を実現 することできる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はできるだけ多くの人たちに集まってきてもらいたいのになかなか期待通りに多くの人たちが集まってこない場所で「マッチング」なるものを採用しようという動きがあるようです。「マッチング」なるものには事後検証は必要ないのでしょうか? 特に選挙などに「マッチング」なるものを導入した場合には…。

繰り返しになりますが、確かに世の中では、趣味が同じだとか、興味を持っていることが同じだとか、将来の夢が同じなどという理由で、今まで全く接点のなかった「ある人」と「別のある人」が意気投合するなどというようなことはあるのだろうと思います。しかし、選挙などに「マッチング」を導入して「有権者」が自分の投票する「候補者」を決めようとする場合には、「候補者」や「政党」が自己申告で「プロフィール欄」に書いた「趣味」や「興味を持っていること」や「将来の夢」が本当に正しいのかどうかとか、「夢」などを実現するために必要な十分な能力を本当に持っているのかなどということを有権者が見極めるための時間的な余裕が非常に乏しいのです。そもそも「趣味」が合うとか「夢」が同じというだけで「夢」を実現することできるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『マッチング』」(2024/4/18)

『マッチング』 したその後は どうなるか? 事後検証は 必要ないか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はできるだけ多くの人たちに集まってきてもらいたいのになかなか期待通りに多くの人たちが集まってこない場所で「マッチング」なるものを採用しようという動きがあるようです。ちなみに「マッチング」なるものには事後検証は必要ないのでしょうか? 

確かに世の中では、趣味が同じだとか、興味を持っていることが同じだとか、将来の夢が同じなどという理由で、今まで全く接点のなかった「ある人」と「別のある人」が意気投合するなどというようなことはあるのだろうと思います。確かに「マッチング」なるものは今まで全く接点のなかった人たち同士を結び付けるために役に立つ手段の1つにはなるのだろうと思います。しかし、いくら意気投合したからと言っても、それだけですぐに「結婚」を決めるような人たちはほとんどいないのだろうと思います。もっとも「マッチング」なるもので意気投合することができる人と出会ったら「お付き合い」を始めるという人たちはそれなりにいるのだろうと思います。特に「マッチング」なるものが導入されている場所にわざわざやってくるような人たちの場合には「お付き合い」を始めるという人たちが多いのかもしれないと思います。さて、ここで問題になるのは、選挙などに「マッチング」を導入して「有権者」が自分の投票する「候補者」や「政党」を決めようとする場合です。「候補者」や「政党」が自己申告で「プロフィール欄」に書いた「趣味」や「興味を持っていること」や「将来の夢」は本当に正しいのでしょうか? 「候補者」や「政党」が書いた「趣味」や「興味を持っていること」や「将来の夢」が本当だったとしてもどれだけ情熱を持っているのでしょうか? そして何より「夢」などを実現するために必要な十分な能力を持っているのでしょうか? そもそも「マッチング」なるものには事後検証は必要ないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『攻撃』でない?」(2024/4/17)

『火災』とか 『交通事故』や 『病死』とか… 『攻撃』でない? 『何か』が起こる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「そもそも」今現在の国際社会では「報復攻撃」などというものが認められているのでしょうか? 最近は改めて「そもそも…」と考え直してみなければならないことが増えていますが…。

きょうもあえて個別具体的な固有名詞や事例は取り上げないことにしておきますが、攻撃を受けた側は本当に「報復攻撃」を実施することを思いとどまるのでしょうか? あるいは、「報復攻撃」を抑制的に実施することになるのでしょうか? さらに言えば、そもそも「報復攻撃」を実施するとか実施しないとか実施したとか実施しないなどということについてわざわざ言及しなければならないのでしょうか? またそもそも今現在の国際社会では「報復攻撃」などというものが認められているのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、もしもどこかの国の軍事施設などで大規模な「火災」や「爆発」事故が発生したり、どこかの国の軍人や研究者らがどこかで「交通事故」に遭ったり「病死」したり、その他の「何か」が起こったりしたとしてもそれだけでは「報復攻撃」などと主張することはできないということには注意が必要になります。くどいようですが、そもそも今現在の国際社会では「報復攻撃」などというものが認められているのでしょうか? 繰り返しになりますが、どんなに少なくとも「報復攻撃」を正当化したり容認したりするということは大規模な戦争を引き起こすことになりかねないあまりにも愚かな主張であるということだけはあえて指摘した上で強調しておくことにしておきます。

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「何かが起こる?」(2024/4/16)

『シリア』とか 『レバノン』だとか 『ガザ』などで 『報復』でない 何かが起こる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「そもそも」今現在の国際社会では「報復攻撃」などというものが認められているのでしょうか? 最近は改めて「そもそも…」と考え直してみなければならないことが増えていますが…。

きょうはあえて個別具体的な固有名詞や事例は取り上げないことにしておきますが、もしも「どこかの勢力」が「報復攻撃」などと主張して「先制攻撃」をした場合には、攻撃を受けた側は本当に「報復攻撃」を実施することを思いとどまるのでしょうか? あるいは、「報復攻撃」を抑制的に実施することになるのでしょうか? もしかすると「シリア」とか「レバノン」とか、そして「ガザ」などで「報復攻撃」ではない「新たな何か」が発生する可能性が高くなるのでしょうか? さらに言えば、仮に何らかの「報復攻撃」を実施したとしても「報復攻撃」を実施したなどとはあえて言及しないということもあるかもしれないと思います。そもそも今現在の国際社会では「報復攻撃」などというものが認められているのでしょうか? その上で、あくまでも念のために付け加えるのならば、自国が再び攻撃される差し迫った脅威を取り除くために攻撃型ドローンや弾道ミサイルなどを発射した軍事基地などを「標的」にした限定的な攻撃を実施した場合には自衛的な措置として国際社会でも理解される可能性が高くなるのではないかと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『抑制的』?」(2024/4/15)

攻撃が 『抑制的』か どうかより… 『報復攻撃』 認められるか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「そもそも」今現在の国際社会では「報復攻撃」などというものが認められているのでしょうか? 最近は改めて「そもそも…」と考え直してみなければならないことが増えていますが…。

イランが4/13-14にかけてイスラエルなどに向けて大量の攻撃型ドローン、巡航ミサイル、弾道ミサイルなどを発射して攻撃したことで国際的に大きな波紋が広がっています(→イスラエル軍の防空システムや戦闘機、米軍、英軍、ヨルダン軍などの戦闘機や迎撃ミサイルなどによってイラン側が発射した攻撃型無人機(ドローン)170機以上、巡航ミサイル30発以上、弾道ミサイル120発以上のうち99%が迎撃されて大きな被害は出なかった模様。イラン側は4/1にシリア・ダマスカスにあるイランの「大使館」がイスラエルによってミサイル攻撃されたとしてその「報復攻撃」などと主張している)。高速で到達時間が短いために迎撃が困難と言われている「弾道ミサイル」を多数使用して攻撃しているにもかかわらず、ミサイル発射を公表したり迎撃が難しくないドローンなどを使用したりしているからイランの攻撃は「抑制的」だとか、イランに近いイスラエル東部では警報が発令されたが地中海側にあるテルアビブなどでは警報が発令されなかったからイランの攻撃は「抑制的」などという「あまりにも珍妙な主張」がマスメディアの一部では飛び交っているようです。しかし、当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、イラン側からイスラエルに向けて飛行してくる途中で迎撃されてしまったドローンやミサイルの「真の攻撃目標」がどこだったのかということを証明することはある意味では迎撃することよりもはるかに難しいのです。さて、話を本論に戻します。そもそも今現在の国際社会で「報復攻撃」などということが正当化されているのでしょうか? 仮に「報復攻撃」などということが禁止されていなかったとしても、そもそもイスラエルはシリア・ダマスカスにあるイランの「大使館」を攻撃したことを認めているのでしょうか? あるいは攻撃を認めていなくても誰の目にも明らかな明白な証拠がいくつもあって国連などがイスラエルによる攻撃などと認定したのでしょうか? もしそうではないのならば、今回イランが自ら実行したと認めているイスラエルに対する攻撃を「先制攻撃」とみなして「自衛のための反撃」などを正当化することもできるという主張にはかなりの説得力があるはずなのです。攻撃が「抑制的」かどうかなどということよりも、そもそも「報復攻撃」が認められるのかということの方がより問題の本質に近いのです。どんなに少なくともイランの「報復攻撃」を正当化したり容認したりするということは大規模な戦争を引き起こすことになりかねないあまりにも愚かな主張であるということだけはあえて指摘した上で強調しておくことにしておきます。

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「『誤解』」(2024/4/14)

意図しない 悲劇を招く 『誤解』など 与えることは 避けるべきだが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会では「同盟」というものはいったいどのような意味を持つものなのでしょうか? 今現在の国際社会では「同盟」というものはいざというときに役に立つものなのでしょうか?

当たり前と言えば当たり前の話ですが、いざというときに役に立たない「同盟」はその存在意義が問われることになるのです。そしてあくまでも一般論ですが、もしも「同盟国」が「敵」から攻撃を受けた場合には、「同盟国」同士が互いに協力しながら「敵」に反撃することになるのだろうと思います。確かに「敵」から攻撃を受けた場合に「同盟国」が共同で反撃することになるということも「同盟」の重要な意味の1つです。しかし、それでもやはり、今現在の国際社会における「同盟」というものの最も重要な意味は、「敵」に「同盟国」を攻撃させないということなのではないかと考えているのです。そのように考えるのならば、今現在の国際社会における「同盟」では、「同盟国」を攻撃した場合には確実に厳しい反撃を受けることになると「敵」に一切の疑いの余地なく認識させることが非常に重要になるのです。たとえ「カネを支払わなければ守らない」などという露骨な表現ではなかったとしても、今現在の国際社会の「同盟」では、意図しない悲劇を招く「誤解」を与えるような言動は避けるべきであるということだけは確かです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「独りじゃない?」(2024/4/13)

米国に 『独りじゃない』と 言うことが 意味することを 考えてみる」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会では「同盟」というものはいったいどのような意味を持つものなのでしょうか? 今現在の国際社会では「同盟」というものはいざというときに役に立つものなのでしょうか?

米国を訪問している岸田文雄首相は4/12未明(日本時間)に米議会上下両院合同会議で演説をしました(→参考:(首相官邸のホームページ) https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2024/0411enzetsu.html)。私としては、今現在日本国の内閣総理大臣が米国に対して「米国は独りじゃない」「私たちが共にいる」などと言うことがいったいどのようなことを意味することになるのかを改めて考えてみる必要があると思っています。あくまでも念のために確認しておきますが、自由、民主主義、法の支配、基本的人権などという価値観を実現していくということは、根拠のない強い思い込みに基づいた一部の野党が主張する「米国の言いなりになる」などということを意味することにはならないのです。それどころかむしろ逆に、米国の方が日本などの同盟国・同志国の言いなりになるということもあるのです。もしも米国と日本などが本当に同じ「『自由と民主主義』という名の宇宙船」に乗っているのならば、米国は日本などの同盟国・同志国の主張に耳を傾けざるを得ないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『月までの道』」(2024/4/12)

『月までの 道』を一緒に 歩ければ 『安全保障』 盤石になる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会では「同盟」というものはいったいどのような意味を持つものなのでしょうか? 今現在の国際社会では「同盟」というものはいざというときに役に立つものなのでしょうか?

米国を公式訪問した岸田文雄首相が4/11未明(日本時間)にバイデン大統領と日米首脳会談を行いました。そしてNASA(米航空宇宙局)主導で月面着陸を目指す「アルテミス計画」において日本人宇宙飛行士2人を月に送ることで合意したそうです(→早ければ2028年にも1人目の日本人宇宙飛行士が月へ。米国人以外では初。日本が開発した月面探査車を日本人宇宙飛行士が月面で運転する可能性も)。私としては、日米両国のこの「月までの道」が国際社会の安全保障環境に予想以上に大きな影響を与えるのではないかと考えています。もしも日米両国が「月までの道」をこのまましっかりと一緒に歩いていくことができるのならば、日米安全保障条約に基づくいわゆる「日米同盟」はこれまで以上に盤石なものになっていくのだろうと思います。どんなに少なくとも日米両国にとっての「月までの道」はこれからの約4年間に「日米同盟」に深刻な亀裂を生じさせる危険性を低下させることに貢献することになるのではないかと思います。あえて念のために付け加えるのならば、日米両国の「月までの道」は米国を再び偉大な国にする道にもつながっているということも確かなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。

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「助けてくれる?」(2024/4/11)

もしも今 日本が攻撃 されたなら 国際社会 助けてくれる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。自由で平和な日本は「戦争」の被害を受けることがないのでしょうか? 「他国の戦争」に巻き込まれることがない限り、自由で平和な日本は「戦争」の被害を受けることは本当にないのでしょうか?

繰り返しになりますが、もしも日本が「どこかの国」から攻撃された場合にはいったいどうするつもりなのでしょうか? いくら日本が「どこかの国」から攻撃される可能性はないなどと強く思い込んでいたとしても、実際に日本が「どこかの国」から攻撃された場合には対応が迫られることになるわけです。そのときは国連や国際社会が助けてくれるはずなどという「主張」がありますが、国連や国際社会にどこまで期待することができるのでしょうか? ウクライナなどの現状を見ても本当に「国連や国際社会が助けてくれるはず」などということが言えるのでしょうか? 「他国の戦争」に巻き込まれることを避けようとして日本に対する攻撃に対して見て見ぬ振りをしようとする国は出てこないのでしょうか? 核兵器の使用をちらつかせて威嚇されたときに日本への支援に消極的になる国は出てこないのでしょうか? あえて個別具体的な固有名詞を挙げることは避けますが、日本の周辺には国連安保理で拒否権を行使することができる国や核兵器を保有している国が複数存在するのです。もしも今、日本が攻撃されたならば国連や国際社会は本当に日本を助けてくれるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「攻撃されない?」(2024/4/10)

本当に 攻撃される ことはない? 攻撃された ときはどうする?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。自由で平和な日本は「戦争」の被害を受けることがないのでしょうか? 「他国の戦争」に巻き込まれることがない限り、自由で平和な日本は「戦争」の被害を受けることは本当にないのでしょうか?

あくまでも仮定の話ですが、もしも日本が「どこかの国」から攻撃された場合であっても「戦争」にはならないのでしょうか? たとえ日本が「どこかの国」から攻撃されているような場合であっても、本当にいわゆる「平和憲法」を守ってさえいれば日本は「戦争」に巻き込まれることはないのでしょうか? さすがにそんなおかしなことだけはあり得ないはずなのです。いわゆる「平和憲法」を守ってさえいれば「戦争」の被害を受けることがないと強く信じ込んでいるような人間たちの中には、「平和憲法」を守っている日本が「どこかの国」から攻撃される危険性はないなどと堂々と「主張」をする人間たちが存在してとても驚かされます。そして万一日本が「どこかの国」から攻撃される可能性があるとしたら在日米軍基地などと「主張」するとか…。あくまでも「攻撃する側」の「攻撃」を批判しようとしない一貫した姿勢には本当に驚かされます。日本は「どこかの国」から攻撃されるようなことは本当にないのでしょうか? 「他国の戦争」に巻き込まれることがない限り、自由で平和な日本は本当に「戦争」の被害を受けることはないのでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、もしも日本が「どこかの国」から攻撃された場合にはいったいどうするつもりなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「守れない!」(2024/4/9)

『法律』や 『規範』だけでは 守れない! 平和や秩序 守るためには…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。自由で平和な日本は「戦争」の被害を受けることがないのでしょうか? 「他国の戦争」に巻き込まれることがない限り、自由で平和な日本は「戦争」の被害を受けることは本当にないのでしょうか?

多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「平和憲法」が自由で平和な日本を守っているなどという主張は「時代遅れの幻想」にすぎないのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、たとえどんなに「立派な思想」や「立派な規範」が存在したとしても、少なくともその「立派な思想」や「立派な規範」だけでは平和な社会をつくったり維持したりすることはできないのです。さらに付け加えるのならば、たとえどれだけ社会の中では許されないことを処罰する「法律」などを整備したとしても、少なくともその「法律」などが存在するだけでは平和な社会をつくったり維持したりすることはできないのです。そのようなことは、いくら殺人や強盗などを処罰する「法律」などが整備されていたとしても、殺人や強盗などが多発している場所が地球上に存在することを見れば明らかです。もちろん日本のような平和な社会であっても殺人や強盗などを処罰する「法律」などはもちろん整備されているわけですが、それでもやはり、殺人事件や強盗事件はなくなってはいないのです。あえて繰り返しますが、いわゆる「平和憲法」が自由で平和な日本を守っているなどという主張は「時代遅れの幻想」にすぎないのです。「法律」や「規範」だけでは平和や秩序を守ることができないのです。平和や秩序を守るためには何が必要になるのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『必要は発明の母』」(2024/4/8)

『必要は 発明の母』 いつまでも 実現し続 けられるならば…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はあちこちで「人手不足」や「労働力不足」などと騒がれています。「人手不足」や「労働力不足」とはいったいどんなことを意味しているのでしょうか? そしてそもそも「人手不足」や「労働力不足」というものは解消することができるものなのでしょうか?

繰り返しになりますが、「労働力不足」や「人手不足」などという「危機」を「制度」や「しくみ」の抜本的な改革や技術革新によって乗り越えるという考え方もあるはずなのです。そもそも本当に若い人たちだけが「労働力」なのでしょうか? そもそもその業務は本当に「人手」をかけてやる必要があるものなのでしょうか? もっと自動化や機械化をすることはできないものなのでしょうか? 「必要は発明の母」という言葉もあります。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「労働力不足」や「人手不足」などという「危機」を乗り越える「必要(性)」は、抜本的な改革や技術革新を生み出す「原動力」にもなるはずなのです。そしてもしも「組織」や「社会」が「必要は発明の母」という言葉をいつまでも実現し続けることができるのならば、その「組織」や「社会」は時代に取り残される危険性の少ない持続的な「組織」や「社会」になるのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『禍を転じて福と為す』」(2024/4/7)

『禍(わざわい)を 転じて福と 為す』ために 『人手不足』は 解消しない!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はあちこちで「人手不足」や「労働力不足」などと騒がれています。「人手不足」や「労働力不足」とはいったいどんなことを意味しているのでしょうか? そしてそもそも「人手不足」や「労働力不足」というものは解消することができるものなのでしょうか?

繰り返しになりますが、「労働力不足」や「人手不足」という状況は、今現在採用している「制度」や「しくみ」が現状にそぐわなくなってきているということを示しているのです。しかし、今現在採用している「制度」や「しくみ」のどこがどのように現状にそぐわなくなってきているのかということは必ずしも明らかにはなっていないのです。「労働力」や「人手」をなんとか確保するとか補充することができさえすれば、今現在採用している「制度」や「しくみ」は今現在もこれから先の未来も本当に問題なく機能し続けるようになるのでしょうか? 多少の誤解を恐れずにあえて単純化した上で率直に言わせてもらうのならば、もしかすると目先の「労働力不足」や「人手不足」などという状況は安易に解消しないようにした方が賢明な選択になるかもしれないのです。「禍(わざわい)を転じて福と為す」という言葉がありますが、「労働力不足」や「人手不足」などという「危機」を「制度」や「しくみ」の抜本的な改革や技術革新によって乗り越えるという考え方もあるはずなのです。そもそも本当に若い人たちだけが「労働力」なのでしょうか? そもそもその業務は本当に「人手」をかけてやる必要があるものなのでしょうか? もっと自動化や機械化をすることはできないものなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「時代に合った『制度』?」(2024/4/6)

不足する 『労働力』を 補充する だけで時代に 合った『制度』に?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はあちこちで「人手不足」や「労働力不足」などと騒がれています。「人手不足」や「労働力不足」とはいったいどんなことを意味しているのでしょうか? そしてそもそも「人手不足」や「労働力不足」というものは解消することができるものなのでしょうか?

確かにいわゆる「少子高齢化社会」になれば「労働力」は不足することになるのだろうと思います。これまでの「労働力」は若い人たちの数に大きく依存してきたわけです。そして昔よりも今、今よりもこれから先の未来の方が、若い人たちの数が少なくなっていき、逆に、昔よりも今、今よりもこれから先の未来の方が、高齢の人たちの数は多くなっていく…。ですから「少子高齢化」というものが「労働力不足」の原因の1つになることは間違いないのだろうと思います。しかし、「労働力不足」や「人手不足」というものを、不足している「労働力」や「人手」をなんとか確保したり補充したりするなどという発想で「解消」することが本当に正しいことなのかどうかということは一度立ち止まって考えてみる必要があります。もちろん「労働力不足」や「人手不足」という状況は、今現在採用している「制度」や「しくみ」が現状にそぐわなくなってきているということを示していることは間違いないのです。しかし、今現在採用している「制度」や「しくみ」のどこがどのように現状にそぐわなくなってきているのかはしっかりと見極める必要があるのです。あえて言い換えるのならば、「労働力」や「人手」をなんとか確保するとか補充することができさえすれば、今現在採用している「制度」や「しくみ」は今現在もこれから先の未来も本当に問題なく機能し続けるようになるのかということには疑問が残るのです。「労働力」や「人手」をなんとか確保するとか補充することができさえすれば、今現在採用している「制度」や「しくみ」は今の時代に合ったものになるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「卑劣な犯罪!」(2024/4/5)

正当化 できない上に 卑劣だと… テロというのは 卑劣な犯罪!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「テロ」というものはなぜ引き起こされてしまうのでしょうか? そしてなぜ「テロ」というものを正当化する人間たちがいるのでしょうか? もちろん唯一絶対の「正解」などというものは存在しないわけですが…。

たとえどれだけ同情することができるような事情があったとしても、やはり「テロ」を正当化するようなことは許されないと思います。もちろん「犯罪」の中にも同情することができるような事情のある「犯罪」がいくつも存在するとは思います。しかし、それにもかかわらず、そのような「犯罪」を正当化することは許されないのです。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、やはり「テロ」は「犯罪」なのです。そしてほとんどの「テロ」は全く無関係な民間人を標的にしていたり巻き添えにしていたりするような種類の「卑劣な犯罪」なのです。たとえ全く無関係な民間人を標的にしていたり巻き添えにしていたりしていなかったとしても、それでもやはり「テロ」は「犯罪」なのです。その上で、さらに多少の誤解や批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「テロ」の中には「国家テロ」とでも呼ぶべきものも存在するのです。あえて個別具体的な事例や固有名詞を取り上げるようなことは避けますが、「テロ」の中には「国家テロ」とでも呼ぶべきものが存在するのです。そしてもちろんその「国家テロ」も「犯罪」なのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「何でもできる?」(2024/4/4)

『大使館』 何でもできる 場所なのか? 『外交官』は 何でもできる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「大使館」は何でもできる場所なのでしょうか? また「外交官」は何でもできるのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、「大使館」や「外交官」が「大使館」や「外交官」であり続ける限り、できることとできないことがあるはずなのです。

例えば、自国の意に沿わない他国の民間人の「暗殺計画」を立ててそのための「刺客」を他国にある「大使館」に「外交官」として送り込んで計画実行直後に帰国させるようなことは許されることなのでしょうか? あるいは、「大使館」に民間人を連れ込んで殺害して遺体やその証拠を隠滅するようなことは許されることなのでしょうか? それでは「外交官」が違法薬物や武器などを「外交封印袋」の中に入れてその国に持ち込むようなことは許されることなのでしょうか? さらに言えば、「外交官」がスクラムのように「自国民」を取り囲んで自国の民間航空機に乗せて帰国させるようなことは許されることなのでしょうか? あえて繰り返しますが、「大使館」は何でもできる場所なのでしょうか? また「外交官」は何でもできるのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、「大使館」や「外交官」が「大使館」や「外交官」であり続ける限り、できることとできないことがあるはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『治外法権』?」(2024/4/3)

『大使館』 は『領土』と同じ?? 『インタビュー』 『ドラマ』の中は 『治外法権』?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。マスメディアの「インタビュー」などや「ドラマ」の中は「治外法権」なのでしょうか? 「個人の意見」であるのならば正しくなくても問題視されないのでしょうか? ほんの少しの専門知識や判断能力があればすぐにおかしいと気づくようなレベルのものでさえもさももっともらしく垂れ流されているわけですが…。

マスメディアの「インタビュー」などや「ドラマ」の中では「X国大使館はX国の領土と同じ」などという言葉が出てくることがあります。しかし、簡単に言っても少し詳しく言ってもそんな滅茶苦茶なことにだけはならないはずなのです。確かに大使館など(→外交関係に関するウィーン条約22条)や外交官の身体(同29条)などは「不可侵」とされています。しかし、それでもやはり、「X国大使館」は大使館が設置されている「接受国」の「領土」であるということには変わりはないのです。「不可侵」とはそれ以上のものでもそれ以下のものでもないのです。さらに言えば、「X国大使館はX国の領土と同じだからX国大使館に対する攻撃はX国に対する攻撃と同じ」などという主張は、攻撃に対する「報復」を正当化しようとする人間たちの「セリフ」としてはお馴染みのものなのかもしれないと思います。しかし、「X国大使館に対する攻撃はX国に対する攻撃と同じ」という主張は、国際条約などの存在を意識する人たちにとってはどんなに少なくともあまりにも大きな飛躍のある突飛な主張になるのです。もしも「どこかの国」が「接受国」に設置されている「X国大使館」を攻撃したことが事実であるのならば、まずは「どこかの国」による「接受国」に対する攻撃が問題になるはずなのです。さらに念のために付け加えておくのならば、もしも「X国」が「X国の仲間」を利用して「報復」と称して「どこかの国」や「どこかの国を支援する大国」の「大使館」や「基地」などを攻撃させたのならば、攻撃された側は「自国の大使館などへの攻撃は自国に対する攻撃と同じ」とみなして「報復」して結果的に非常に大きな戦争が勃発する危険性が極めて高くなってしまうはずです。「X国大使館はX国の領土と同じ」などという言葉はそれを発した人間たちが想像していないくらい大きな悪影響を及ぼす「危険なセリフ」になるのです。あくまでも念のために確認しておきますが、マスメディアの「インタビュー」などや「ドラマ」の中は「治外法権」なのでしょうか? 「個人の意見」でありさえすればたとえ正しくなくても問題視されないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『飛び級』」(2024/4/2)

『能力』や 『専門知識』 あるのなら 『飛び級』しても いいと思うが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中にはいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことをあえてしようとする人たちも、またいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認しようとする人たちも多くいるようです。いわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認したり容認されたりする人たちは自分たち以外の人たちの存在を意識しているのでしょうか? そもそもいわゆる「世襲」の人間たちには本当に「先代」から「資産」として受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? 

おそらくほとんどすべての専門分野においては、もしも「未経験の新人」がその専門分野で必要とされている高いレベルの「専門知識」や「能力」を最初から身につけているのならば、「飛び級」などが認められてもいいのではないかと考えています。基本的には「経験」よりもその専門分野で必要とされている「専門知識」や「能力」の方を重視するべきであると考えています。いくら経験を積み重ねている人たちであっても必ずしもその専門分野で必要とされている高いレベルの「専門知識」や「能力」を期待通りに身につけているとは限らないからです。さて、いわゆる「世襲」は「飛び級」のようなものなのでしょうか? いわゆる「世襲」の人間たちは「先代」から「資産」として受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? その専門分野で必要とされている「専門知識」や「能力」があるのでしょうか? もしも「先代」が「引退」や「卒業」したためにそのすぐ下にいた人間が「専門知識」や「能力」が不十分なままそのまま繰り上げになったのならばその「組織」は衰退へと向かうことになるのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『蚊帳の外』」(2024/4/1)

『世襲』より 深刻なのは 『私物化』か? 普通の人が 『蚊帳の外』へと…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中にはいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことをあえてしようとする人たちも、またいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認しようとする人たちも多くいるようです。いわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認したり容認されたりする人たちは自分たち以外の人たちの存在を意識しているのでしょうか? 

繰り返しになりますが、もしも社会の中のその「組織」とは無関係の多くの人たちに対しても非常に大きな影響を与える可能性が高い「大きな組織」でいわゆる「世襲」が容認されるのならば、社会の中のいわゆる「世襲」を容認していない人たちもいわゆる「世襲」の悪影響から逃れることができなくなるのです。そしてもしもそのような「大きな組織」の中でいわゆる「世襲」を容認した人たちが何らかの「利益」を受ける一方で、その「組織」に所属していてもいわゆる「世襲」を容認しない人たちや、社会の中のその「組織」とは無関係な人たちが何らかの「不利益」を受けるのならば、そのような「大きな組織」や「社会」の「私物化」という問題が浮上することになると思います。いわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認したり容認されたりする人たちは自分たち以外の人たちの存在を意識しているのでしょうか? いわゆる「世襲」よりも「大きな組織」や「社会」の「私物化」の方がより深刻な問題なのではないでしょうか? 普通の人たちが「蚊帳の外」へと追いやられることが非常に深刻な問題になっているのです。ごく普通の多くの人たちが「蚊帳の外」へと追いやられることになる「組織」ではその活力が低下していくことになります。またごく普通の多くの人たちが「蚊帳の外」へと追いやられることになる「社会」では大きな閉塞感が漂うことになります。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「悪影響は…」(2024/3/31)

『世襲』でも 『個人商店』 などならば 悪影響は 小さいのだが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中には、いわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことをあえてしようとする人たちも、またいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認しようとする人たちも多くいるようです。そもそもいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認したり容認されたりする人たちは自分たち以外の人たちの存在を意識しているのでしょうか? 

いわゆる「世襲」が問題になるのは、社会の中の多くの人たちに対して非常に大きな影響を与える可能性が高い「大きな組織」であることが多いように思われます。例えば、地球上に無数に存在する「個人商店」や「零細企業」のような「非常に小さな組織」の場合には、いわゆる「世襲」が問題になることはほとんどないのだろうと思います。「個人商店」や「零細企業」のような「非常に小さな組織」の場合には、一般的に社会に与える影響が非常に小さいのでそこに所属している人たちがいわゆる「世襲」でもいいと思うのならばそれでもいいということに基本的にはなるのだろうと思います。しかし、社会の中の多くの人たちに対して非常に大きな影響を与える可能性が高い「大きな組織」の場合には、その「大きな組織」に所属している人たちの大多数がいわゆる「世襲」を容認したとしてもそれで問題なしということにはならないのではないかと思います。「大きな組織」の場合には、いわゆる「世襲」が容認されると同時に社会の中のその「組織」に所属していない多くの人たちに対しても非常に大きな影響を与える可能性が高くなるのです。あえて言い換えるのならば、社会の中のいわゆる「世襲」を容認していない人たちもいわゆる「世襲」の悪影響から逃れることができなくなるのです。そもそもいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認したり容認されたりする人たちは自分たち以外の人たちの存在を意識しているのでしょうか? もしも社会の中のその「組織」とは無関係の多くの人たちに対して非常に大きな影響を与える可能性が高い「大きな組織」でいわゆる「世襲」が容認されるのならば、社会の中のいわゆる「世襲」を容認していない人たちもいわゆる「世襲」の悪影響から逃れることができなくなるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「滅びてしまう?」(2024/3/30)

『ご先祖』が 築いた『資産』 食い潰し やがて『組織』は 滅びてしまう?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中には想像以上に「世襲」などと呼ぶべきものが多いようです。そもそもいわゆる「世襲」は本当に悪いことなのでしょうか? そしていわゆる「世襲」の人間たちには本当に「先代」から「資産」として受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? 

多少の誤解を恐れずにあえて単純化して率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「世襲」の人間たちは自分たちがいかに恵まれた環境の中にいるのかということを十分に理解していないことが多いのです。いわゆる「世襲」の人間たちが今現在当たり前のように務めている「仕事」の多くはいわゆる「世襲」ではない人たちにとっては一生努力しても務めることができない種類のものであるということも少なくはないのです。そしていわゆる「世襲」の人間たちが今現在当たり前のように親しく接しさせてもらっている人たちは、いわゆる「世襲」ではない人たちにとっては会ってもらうことさえも非常に難しい人たちばかりであるということも少なくはないのです。別の言い方をすれば、もしも「先代」から受け継いだ「資産」がなかったのならばいわゆる「世襲」の人間たちはそのような恵まれた環境の中にいることができなかった可能性が非常に高いのです。もちろん「世襲」であっても「世襲」ではなくてもその「仕事」に見合った十分な能力があるかどうかが重要であることは言うまでもないことです。しかし、それでもやはり、いわゆる「世襲」の人間たちは自分たちがいかに恵まれた環境の中にいるのかということを十分に理解していないことが多いのです。いわゆる「世襲」の人間たちは本当に「先代」から「資産」を受け継いだだけで自分も急に「先代」のような「偉くてすごい人」になることができたと思い込んでいるのでしょうか? 残念ながら世の中には勘違いしたいわゆる「世襲」の人間たちがとても多いようです。もしもこのまま勘違いし続けるのであれば「先代」から引き継いだ「ご先祖」が築いた「資産」を食い潰してその「組織」は滅びてしまうことになるのではないかと思います。くどいようですが、いわゆる「世襲」の人間たちには本当に「先代」の「資産」を受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「偉くてすごい人に?」(2024/3/29)

『先代』が 築いた『資産』 受け継いだ だけで偉くて すごい人に?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中には想像以上に「世襲」などと呼ぶべきものが多いようです。そもそもいわゆる「世襲」は本当に悪いことなのでしょうか? 

多少の誤解を恐れずにあえて単純化して率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「世襲」というものには必ずしも「血縁関係」は必要ないのです。「先代」が築いた「資産」を受け継ぐような場合には、「実の親」から「実の子」であったとしても、「義理の親」から「義理の子」であったとしても、「師匠」から「弟子」であったとしても、「上司」から「部下」であったとしても、あるいは、「先輩」から「後輩」であったとしても、「世襲」と呼ぶべきではないかと考えているのです。「血縁関係」があってもなくても、いわゆる「創業者」のように「ゼロ」からのスタートではなく、「先代」から「資産」を受け継いだ「高い位置」からスタートすることができるということには何の変りもないわけです。問題になるのは、「先代」から「資産」を受け継いだ「高い位置」からスタートしたときに、その「高い位置」に見合った十分な実力があるのかどうかということのはずなのです。まさか「先代」から「資産」を受け継いだだけで自分も急に「先代」のような「偉くてすごい人」になることができるとでも本気で思っているのでしょうか? 残念ながら世の中には勘違いしたいわゆる「世襲」の人間たちがとても多いようです。繰り返しになりますが、そもそもいわゆる「世襲」は本当に悪いことなのでしょうか? そしていわゆる「世襲」の人間たちには本当に「先代」の「資産」を受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「なぜ一括で返済しない?」(2024/3/28)

『借金』を 肩代わりする? それならば… なぜ一括で 返済しない?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「借金」で首が回らなくなってしまう人たちが少なくないのです。そして世の中には「借金」で首が回らなくなってしまった人たちをいろいろと助けてくれる人たちもいるわけです。さらにその中には「借金」で首が回らなくなってしまう人たちの「借金」を肩代わりしてくれるような人たちもいるのだろうと思います。 

あくまでも一般論ですが、他人の「借金」を肩代わりするときには即座に一括で返済するようなことも少なくないのではないかと思います。映画やドラマでは他人の「借金」をその場で「貸金業者」に一括で返済して借用証書などを破り捨てたり燃やしたりするような場面がよく出てくるわけですが…。何にしても他人の「借金」をわざわざ肩代わりしようとするときにはその「借金」を一括で返済しようと考える方が自然なのではないかと思います。もっともごく一部の大資産家を除けば、「借金」があまりにも巨額である場合には、さすがに一括で返済するというようなことは難しくなるのだろうと思います。そして「借金」を一括で返済するわけでもなく、しかもその事情をよく知らないにもかかわらず、あえて他人の「借金」を肩代わりしようと思う場合には、「貸金業者」に「借金」の一部の金額をその他人に代わって返済するのではなく、普通は「借金」の返済のために必要なカネの一部をその他人に貸すようなことを選ぶのではないかと思います。もしかすると自分ではなく他人の「借金」の一部を返済するためにあえて「貸金業者」に一部の金額を返済するということには何か「特別な意味」があるのではないのでしょうか? どんなに少なくともごく自然なことではないように思います。自分が自分自身の「借金」の一部を返済するために「貸金業者」に一部の金額を返済するというのは、当たり前すぎるくらい当たり前の行為なのですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『世襲』?」(2024/3/27)

『組織』での 評判悪く ないときは 『後継指名』 されたり『世襲』?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中には想像以上に「世襲」などと呼ぶべきものが多いようです。なぜいわゆる「世襲」はあちこちで見られるのでしょうか? またいわゆる「世襲」は悪いことなのでしょうか? 

あくまでも一般論ですが、いわゆる「世襲」というものは、その「組織」が存在することによって何らかの利益を受けている人たちがこれからもその利益を受け続けようとすればするほど、増える傾向が強まるのかもしれないと思います。言い換えれば、いわゆる「世襲」というものは、その「組織」とその「組織」が存在することによって何らかの利益を受けている人たちの現状を維持するための手段の1つなのです。さらに言い換えれば、いわゆる「世襲」というものは、その「組織」をバラバラにしないための手段の1つなのです。ですから、その「組織」の内部での評判が悪くない「後継者候補」と見られている人物が「後継指名」されたり「世襲」することになったりすることが多いのだろうと思います。そしてそれなりの長い歴史があって変化がそれほど大きくない社会では結果的に「世襲」というものが多くなるのかもしれないと思います。ところで、いわゆる「世襲」は悪いことなのでしょうか? もちろんその「組織」とその「組織」が存在することによって何らかの利益を受けている人たちにとっては悪いことではないのだろうと思います。しかし、その「組織」に所属していない人たちにとってはいわゆる「世襲」は必ずしも良いことではないのだろうと思います。そして変化の激しい時代には、その「組織」とその「組織」が存在することによって何らかの利益を受けている人たちにとってもいわゆる「世襲」は必ずしも良いことではなくなるのだろうと思います。どうやら世の中には想像以上に「世襲」などと呼ぶべきものが多いようですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「なぜ『借金』ができるのか?」(2024/3/26)

なぜ貸すか? なぜ『借金』が できるのか? 本人以外 から『回収』か?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「借金」で首が回らなくなってしまう人たちが少なくないのです。そもそもなぜそんなに多くの「借金」をしてしまったのでしょうか? あえて逆の言い方をすれば、なぜそんなに多くの「借金」をすることが許されてしまったのでしょうか? 

あえて個別具体的な事例や固有名詞には触れませんが、なぜギャンブルなどで何億円などという巨額の「借金」をすることができてしまうのでしょうか? ごく普通の多くの人たちにとっては、ギャンブルであったとしてもそれ以外の何かであったとしても何億円などという巨額の「借金」を積み重ねてしまうなどということはなかなか想像することもできないのではないかと思います。どこの世の中にも、カネを貸しても返してもらうことができない可能性が極めて高いことを知っているのにもかかわらず、あえて何億円などという巨額のカネを他人に貸すような人間はなかなかいないと思います。それにもかかわらず、なぜ何億円などという巨額の「借金」をすることができてしまったのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、おそらく何億円などという巨額の「借金」であっても比較的簡単に「回収」することができる可能性が十分にあると「貸した側」が考えたからではないかと思います。あくまでも一般論ですが、マフィアなどを含めたいわゆる「反社会的勢力」はたとえ相手がどれだけ支払い能力がなかったとしても「資産家」や「有名人」の家族などの場合にはすぐにいくらでもカネを貸すような事例が過去にはいくつもあったように思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。

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「返す必要はある?」(2024/3/25)

本当に その金額を 借りたのか? そもそも返す 必要はある?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「借金」で首が回らなくなってしまう人たちが少なくないのです。そもそもなぜそんなに多くの「借金」をしてしまったのでしょうか? あえて逆の言い方をすれば、なぜそんなに多くの「借金」をすることが許されてしまったのでしょうか? 

そもそもその巨額の「借金」をしてしまった人たちは本当にその巨額な金額を借りたのでしょうか? 毎回実際に現金を受け取って「借金」を繰り返していた人たちは巨額の「借金」をしたという実感はあるのかもしれないと思います。もっともたとえ毎回実際に現金を受け取って「借金」を繰り返していたような場合であっても、高金利のために「借金」が想像以上に大きく膨れ上がってしまったので巨額の「借金」をしたという実感は乏しいという人たちもいるのだろうと思います。あるいは、例えば、「酒類が提供される特殊な飲食サービス業」などで非常に高額な料金を請求されたような場合にもその実感は乏しいのだろうと思います。繰り返しになりますが、そもそも巨額の「借金」をしてしまった人たちは本当にその巨額の金額を借りたのでしょうか? 過剰に法外な料金を請求されていたり全く身に覚えのない法外な料金を請求されていたりするということはないのでしょうか? そもそも本当に「違法行為」の「対価」として法外な料金を支払う必要はあるのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「違法行為」の「対価」として積み上がった巨額の「借金」を本当に返す必要があるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『痕跡』」(2024/3/24)

『テロリスト』 『工作員』や 『スパイ』だと 示す『痕跡』 すべて消すはず!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ある日唐突に「不祥事」や「疑惑」とは全く無縁だと思える人たちやその周辺から驚くような「不祥事」や「疑惑」が明らかになることがあります。「不祥事」や「疑惑」は本当に「寝耳に水」だったのでしょうか? もちろん後から考えてみれば「そう言えばあのとき…」などということはあるのだろうとは思いますが…。

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、ごく普通の多くの人たちにとっては、たとえ「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などと毎日長い時間ずっと一緒にいたとしても「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などであるということを示す「兆候」などに全く気づかないということはよくあることなのだろうと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などという人間たちは、自分たちが「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などであると絶対に気づかれることのないようにその「痕跡」をできるだけ隠したり消そうとしたりしているわけです。ところで、もしもその人が身近に接している誰かが「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などであったとしたら、その人には社会的責任や道義的責任などが問われることになるのでしょうか? もちろんその人が「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などであることを知って見て見ぬ振りをしながら身近に接していた場合には、社会的責任や道義的責任だけではなく、刑事的な責任も問われることもあるのだろうと思います。あくまでも念のために言っておきますが、たとえ「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などでなかったとしても、他人に知られては困ることをしている人間はその「兆候」や「痕跡」を隠そうとしているのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『異変』に気づく?」(2024/3/23)

『兆候』や 『異変』に気づく ことできる? その『不祥事』は 寝耳に水か?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ある日唐突に「不祥事」や「疑惑」とは全く無縁だと思える人たちやその周辺から驚くような「不祥事」や「疑惑」が明らかになることがあります。「不祥事」や「疑惑」は本当に「寝耳に水」だったのでしょうか? もちろん後から考えてみれば「そう言えばあのとき…」などということはあるのだろうとは思いますが…。

あえて個別具体的な事例や固有名詞を取り上げることは避けますが、例えば、「薬物中毒」や「アルコール中毒」のような「不祥事」や「疑惑」の場合には、周囲の人たちは比較的にすぐにその「兆候」や「異変」に気付くことができるのではないかと思います。「薬物中毒」や「アルコール中毒」のようなものの場合には素人でもすぐに気づくことができそうな「兆候」や「異変」がいくつも現れるのではないかと想像することができるのです。一方、「痴漢」や「盗撮」のような「不祥事」や「疑惑」の場合には、「薬物中毒」や「アルコール中毒」よりもずっと「兆候」や「異変」に気付きにくいのだろうと想像することができます。たとえその人と毎日長い時間ずっと一緒にいても「痴漢」や「盗撮」の「兆候」などに全く気づかないことはとても多いのだろうと思います。もちろんもしも誰かのスマートフォンの画像データやメールなどをこっそり自由に確認することができる人がいるのならば、「痴漢」や「盗撮」などの「兆候」や「異変」にすぐに気づくことができるのかもしれないとは思いますが…。その上で、あえてひとこと付け加えるのならば、仕事中でもパソコンやスマートフォンを短時間操作するだけで簡単にできてしまう「銀行口座振込」や「ギャンブル」などの場合にはパソコンやスマートフォンのアクセス記録や履歴などを分析しなければなかなか「不祥事」や「疑惑」が発覚することはないのかもしれないと思います。繰り返しになりますが、「不祥事」や「疑惑」は本当に「寝耳に水」だったのでしょうか? もちろん後から考えてみれば「そう言えばあのとき…」などということはあるのだろうとは思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「自白強要?」(2024/3/22)

『説明』で ますます疑惑 深まるか? 自白強要 してもいいのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。何かの「疑惑」や「不祥事」などについて「説明」をさせるだけ「説明」をさせておいて結局はその「説明」には納得しない…。もしかすると「説明」する前から「結論」は決まっていたのではないのでしょうか? もしかすると世の中の多くの人たちから「嫌われている人」は「疑惑」を晴らすことができないのではないのでしょうか? 

あくまでも一般論ですが、もしもどこかの誰かが何らかの「犯罪行為」を行ったという「疑惑」を持たれた場合には、いったいどうしたらその「疑惑」を晴らすことができるのでしょうか? 何かの公開された場所で「説明」や「釈明」などをすればその「疑惑」を晴らすことができるのでしょうか? そして「私は本当にやっていません。信じてください」などという程度の「説明」や「釈明」などをすると「疑惑はますます深まった」などということになってしまうのでしょうか? さらに言えば、もしかすると多くの人たちから「嫌われている人」の場合には「私は本当にやっていません。信じてください」などという程度の「説明」や「釈明」などをすると「疑惑はますます深まった」などということにされてしまう危険性が高くなるけれども、「人気者」の場合には「私は本当にやっていません。信じてください」などという程度の「説明」や「釈明」などをしただけでも多くの人たちからすぐに信じてもらえるのでしょうか? そしてひとたび「疑惑はますます深まった」などということにされてしまうと今度は「嘘を言うと犯罪になる場所」で「説明」や「釈明」などをしなければならなくなるのでしょうか? もしもこんなことが許されるのならば極端な場合には警察などで容疑者に「自白」の強要をすることも認められるようになってしまうかもしれないのです。政治倫理審査会で疑惑が払しょくされなかったから次は証人喚問? どうやら「疑惑」の真偽だけではなく「疑惑を追及している人間たち」の「能力」や「人間性」も同時に問われているようです。きょうのところはあえてこのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『嫌われた人』は…」(2024/3/21)

『嫌われた 人』は『疑惑』を 晴らせない? 『説明』させて 納得しない!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? 

たとえ言葉や理屈が全く通じない相手の許しがたい行動を止める方法が「力」でねじ伏せる以外にはなかったとしても、だからと言って罪のない無関係な多くの人たちを巻き添えにするようなことが許されるわけではないのです。例えば、「大昔」の戦争ならば、敵が集落に逃げ込んだときにその集落ごと焼き尽くしたり、敵に「人質」を取られた場合であってもその「人質」もろとも敵を皆殺しにしたりするなどということはそれほど珍しいことではなかったのかもしれないと思います。しかし、今現在は21世紀なのです。「人質」を取って自分たちの「縄張り」の地域に逃げ込んでいる「無法者」たちをねじ伏せるために、その「縄張り」の地域を「完全封鎖」して中にいる無関係な罪のない人たちを含めたすべての人たちを「人質」にするようなことが許されるはずがないのです。くどいようですが、言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「今現在は…」(2024/3/20)

『大昔』 の戦争では 珍しく ないのだろうが 今現在は…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? 

たとえ言葉や理屈が全く通じない相手の許しがたい行動を止める方法が「力」でねじ伏せる以外にはなかったとしても、だからと言って罪のない無関係な多くの人たちを巻き添えにするようなことが許されるわけではないのです。例えば、「大昔」の戦争ならば、敵が集落に逃げ込んだときにその集落ごと焼き尽くしたり、敵に「人質」を取られた場合であってもその「人質」もろとも敵を皆殺しにしたりするなどということはそれほど珍しいことではなかったのかもしれないと思います。しかし、今現在は21世紀なのです。「人質」を取って自分たちの「縄張り」の地域に逃げ込んでいる「無法者」たちをねじ伏せるために、その「縄張り」の地域を「完全封鎖」して中にいる無関係な罪のない人たちを含めたすべての人たちを「人質」にするようなことが許されるはずがないのです。くどいようですが、言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「対抗?」(2024/3/19)

『人質』を 取られたときは 対抗し 『人質』を取り 解決図る?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? 

あくまでも空想上の話ですが、「無法者」たちが罪のない人たちを殺傷したり「人質」として連れ去ったりした後に自分たちの「縄張り」の地域に逃げ込んでいる場合には、その「縄張り」の地域を完全に包囲した上で「人質」の解放を求めるようなことを第三者が非難することは基本的にはないのだろうと思います。そしてもしも「人質」が監禁されている具体的な場所の情報が得られた場合には「人質救出作戦」が実行されることもあるわけです。そしてそのときに「人質救出作戦」の実行そのものを非難する人間たちはそれほど多くはないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、罪のない人たちを殺傷したり「人質」として連れ去ったりした「無法者」が逃げ込んでいる「縄張り」の地域を「完全封鎖」して「縄張り」の地域の中にいる罪のない多くの人たちを含めたすべての人たちをまとめて「人質」にして「人質」の解放交渉などを促進させようとしたり「人質救出作戦」を有利に進めようとしたりするようなことは許されることではないのです。いくら言葉や理屈が全く通じない相手だったとしても「人質」を取られたときにはこちらも対抗して「人質」を取って解決を図るようなことはどんなに少なくとも褒められることではないはずなのです。繰り返しになりますが、言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『新党』?」(2024/3/18)

『違う人』 内閣総理 大臣に したいのならば 『新党』つくる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそも今現在支持率が低くて不支持率が高い岸田文雄首相を内閣総理大臣に選んだのはいったいどこの誰なのでしょうか? そもそも衆議院議員選挙もせずに支持率が低い内閣総理大臣を交代させるようなことは本当に許されることなのでしょうか? 

何度か繰り返していますが、現行の小選挙区比例代表並立制という衆議院議員選挙の選挙制度においては、小選挙区にはそれぞれの政党は1人しか候補者がいないのです。ですから政党から公認・推薦されて小選挙区で当選した候補者は少なくとも当選直後の内閣総理大臣指名選挙では自分自身を公認・推薦した政党の党首に投票するということになるわけです。そのように考えるのならば、現行の小選挙区比例代表並立制という衆議院議員選挙の選挙制度においては、有権者は小選挙区での投票によって事実上内閣総理大臣を選ぶということになるわけです。同じ選挙区に同じ政党の候補者が複数存在するのが当たり前だったかつての中選挙区制度のような選挙制度とは違って、ある政党を支持しているがその政党の党首を内閣総理大臣にはしたくないなどと思っている有権者にとっては小選挙区での投票では「究極の選択」を迫られることになるのです。自分が支持する政党を政権与党にすることを選ぶのか、それとも自分が支持しない人物を内閣総理大臣にしないことを選ぶのか…。現行の小選挙区比例代表並立制でもしも自分が支持している政党の党首とは「違う人」を内閣総理大臣にしたいと本気で考えるときにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 結論としては、政党内に「派閥」をつくるのではなく「新党」をつくるべきということになるわけです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調することにしておきます。

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「無責任!」(2024/3/17)

無責任! 総理・総裁 決めたはず! 選挙で決めた はずではないか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそも今現在支持率が低くて不支持率が高い岸田文雄首相を内閣総理大臣に選んだのはいったいどこの誰なのでしょうか? そもそも衆議院議員選挙もせずに支持率が低い内閣総理大臣を交代させるようなことは本当に許されることなのでしょうか? 

今現在支持率が低くて不支持率が高い岸田文雄首相を内閣総理大臣に選んだのは自民党の国会議員ではないのでしょうか? もちろんその通りです。それではその自民党の国会議員、その中でも内閣総理大臣を選ぶことにより大きな責任のある衆議院議員を選んだのはいったいどこの誰なのでしょうか? 言うまでもなく有権者のはずなのです。もちろん前回の衆議院議員選挙(2021/10/31投開票)で自民党公認・推薦の候補者に投票した有権者により大きな責任があることは間違いないと思います。しかし、自民党公認・推薦の候補者に投票しなかった有権者にもそれなりの責任があるということを忘れてはならないのです。もしも有権者がそのことを忘れてしまうのならば、一部のマスメディアで好んで使われている「もしトラ」のような言葉が表す深刻な状況が日本社会でも起こり得るということになってしまう危険性が高くなるのです。自民党の衆議院議員を含めた与党とその支持者は、岸田文雄首相を自民党総裁・内閣総理大臣候補として決めて前回の衆議院議員選挙に臨んだはずではないのでしょうか? そして小選挙区比例代表並立制という選挙制度の下では、有権者は、前回の衆議院議員選挙で岸田文雄首相を日本国の内閣総理大臣として事実上選んだということになるのです。くどいようですが、自民党公認・推薦の候補者に投票しなかった有権者にもそれなりの責任があるのです。もしも衆議院議員選挙もせずに内閣総理大臣を変えようなどと思っているのならば、それはあまりにも無責任ではないかと思います。だからこそ次期衆議院議員選挙では有権者は今よりももっとずっと真剣に自分自身の投票行動を考えなければならないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『投票権』を行使して…」(2024/3/16)

国連が 『投票権』を 行使して 権威主義者の 当選阻む!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもなぜ「どこかの国の国民」は「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができないのでしょうか? もしも「どこかの国の国民」が「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができるのならば、国際社会のいくつかの深刻な問題をあっと言う間に解決することができる可能性が高くなるのです。

あえて荒唐無稽な想像をしてみることにします。もしも「民主主義」や「選挙」が形だけのものになっている「権威主義国家の大統領や首相」を「権威主義国家の国民」だけではなく国際社会の人たちも選挙に参加して選ぶことができるようにしたならば、「権威主義国家の国民」の生活は今よりも自由で豊かなものになるのでしょうか? かなりの「暴論」であることを承知の上であえて言わせてもらうのならば、例えば、もしも巨額の経済支援の見返りに選挙の「投票権」の何パーセントかを国際連合などが取得して実際に行使することができるようにしたのならば、「権威主義者」が「権威主義国家の大統領や首相」として選ばれることに一定の歯止めをかけることができるようになるかもしれないと想像することができます。まるで「株主」が「株式会社」の「取締役」などを選ぶかのように…。もちろん資本主義的な考え方が民主主義を破壊することもあるわけですが、逆に、資本主義的な考え方を利用すれば民主主義が息を吹き返す可能性もあるのではないかと思います。何にしても国際社会のためにならないだけではなく、その国の国民のためにもならない「民主主義」や「選挙」という制度がいったい何なのかということを一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があると思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「選ばせてくれ!」(2024/3/15)

『もしトラ』も ほぼ確実に 阻止できる? 大統領を 選ばせてくれ!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもなぜ「どこかの国の国民」は「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができないのでしょうか? もしも「どこかの国の国民」が「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができるのならば、国際社会のいくつかの深刻な問題をあっと言う間に解決することができる可能性が高くなるのです。

もしも米国の大統領選挙で投票することが許されているのならば、国際社会のかなり多くの人たちは実際に米国の大統領選挙で投票するのかもしれないと思うことがあります。言うまでもなく米国民ではない「どこかの国の国民」が米国の大統領選挙で投票することができるわけがないのです。しかし、それでもやはり、国際社会の深刻な問題の解決を図るときには米国の参加や関与が必要不可欠になるものがかなり多いのです。一部で好んで使われている「もしトラ」のような言葉が表す事態も、もしも米国民ではない「どこかの国の国民」が米国の大統領選挙で投票することができるのならばほぼ確実に阻止することができるのだろうとは思いますが…。当たり前と言えば当たり前の話ですが、米国の大統領選挙は米国民ではない「どこかの国の国民」には投票することが認められていないのです。国際社会の中で「国際社会を再び偉大」なものにしてもらいたいと思っている人たちは米国の大統領をぜひ自分にも選ばせてもらいたいと思っているのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「大統領を選べれば…」(2024/3/14)

もしも今 大統領を 選べれば 侵略戦争 すぐに終わるが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもなぜ「どこかの国の国民」は「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができないのでしょうか? もしも「どこかの国の国民」が「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができるのならば、国際社会のいくつかの深刻な問題をあっと言う間に解決することができる可能性が高くなるのです。

あくまでも空想上の話ですが、もしも「どこかの国の国民」がロシアの大統領を選挙で選ぶことができたのならば、すぐにでもロシアによるウクライナ侵略戦争を終わらせることができるのだろうと思います。ロシアによるウクライナ侵略戦争は、「プーチンによるプーチンのための戦争」かどうかはともかくとしても、プーチン氏が始めた戦争であるということだけは確かです。ですから少なくとも現時点においては、プーチン氏自身が戦争を止めるか、プーチン氏自身が辞めさせられるかすればロシアによるウクライナ侵略戦争はすぐにでも終わらせることができるものと思われます。繰り返しになりますが、そもそもなぜ「どこかの国の国民」は「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができないのでしょうか? とりあえずは「外国の代理人」をはじめとする良識のあるロシア国民の選択と行動に注目することにしようと思います。

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「莫大になる!」(2024/3/13)

『泥沼』に なるかどうかは 不明だが 『慰謝料』などは 莫大になる!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「有名人」や「大富豪」はなぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」が次々と明らかになることが多いのでしょうか? 

もしかすると「有名人」や「大富豪」の「スキャンダル」や「不祥事」は本当に一部の人間たちが声高に唱えている「陰謀論」のようなものが「原因」なのでしょうか? あくまでも空想上の話ですが、もしもどこかの「有名人」や「大富豪」の「不倫」疑惑が浮上したり「配偶者」が「離婚」を強く望んだりするようになった場合であっても、「陰謀論」のようなものが「原因」になるのでしょうか? またもしもどこかの「有名人」や「大富豪」の「不倫」疑惑が浮上して「配偶者」が「離婚」を強く望むような場合には「慰謝料」などはかなり莫大なものになるのだろうと想像しています。そしておそらく地球上のどこであっても「不倫」や「離婚」をしただけでは「公職」の選挙の候補者資格を失うなどということはないのだろうと思います。しかし、たとえ「離婚」協議などが泥沼状態にならなかったとしても、それでもやはり、「慰謝料」などはかなり莫大なものになるのだろうと想像しています。さらに言えば、もしもどこかの「有名人」や「大富豪」の「不倫」疑惑や「離婚」協議が泥沼状態になったのならば、とても選挙や祖国を再び偉大にすることができるかどうかという騒ぎではなくなってしまうのだろうと想像しています。泥沼状態になるかどうかは不明ですが…。繰り返しになりますが、「有名人」や「大富豪」はなぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」が次々と明らかになることが多いのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『資金力』『影響力』は…」(2024/3/12)

『スキャンダル』 『不祥事』により 衰える? その『資金力』 『影響力』は…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「有名人」や「大富豪」はなぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」が次々と明らかになることが多いのでしょうか? 

もちろん実際にはそれほど多くの「スキャンダル」や「不祥事」を引き起こしていなかったとしても、世の中では目立つ存在の「有名人」や「大富豪」の「スキャンダル」や「不祥事」はやはり目立つから「有名人」や「大富豪」が「スキャンダル」や「不祥事」を次々と引き起しているような印象を与えているだけなのかもしれないと思うことはあります。でも、「有名人」や「大富豪」の「スキャンダル」や「不祥事」は決して少なくはないのです。もしかすると「有名人」や「大富豪」は「スキャンダル」や「不祥事」を引き起こしたとしてもその「スキャンダル」や「不祥事」を何らかの手段で事実上なかったことにすることができるから何度でも「スキャンダル」や「不祥事」を引き起こすことができるのでしょうか? もちろん「有名人」や「大富豪」が自分たちの「影響力」や「資金力」を使って「スキャンダル」や「不祥事」を事実上なかったことにしようとしたとしても、すべての「スキャンダル」や「不祥事」をもみ消すことができるというわけではないのです。ちなみに「有名人」や「大富豪」の「スキャンダル」や「不祥事」が明らかになるたびにその「影響力」や「資金力」は衰えていくことになるのでしょうか? 繰り返しになりますが、「有名人」や「大富豪」はなぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」が次々と明らかになることが多いのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「許されないか?」(2024/3/11)

『違法』でも 『不倫』でもない 『不適切』 許されないか? 許されるのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。なぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」というものはうんざりさせられているときに次々と明らかになるのでしょうか?

あくまでも一般論ですが、いわゆる「プレイガール」や「プレイボーイ」であるということは「スキャンダル」や「不祥事」なのでしょうか? 多くの社会の中では、いわゆる「プレイガール」や「プレイボーイ」であるということは「不適切」なことではあるのだろうと思います。しかし、いわゆる「プレイガール」や「プレイボーイ」であるということは、必ずしも「違法」ではないし、必ずしも「不倫」ではないのです。「違法」でもない「不倫」でもない「不適切」なことは本当に許されないことなのでしょうか? それとももしかしたら「違法」でもない「不倫」でもない「不適切」なことは許されることなのでしょうか? 例えば、「恋愛感情」が非常に短い期間限定であったとしても相手を真剣に愛していたことは間違いないし、また相手から「カネ」をもらっていたり逆に相手に「カネ」を与えていたりしてはおらず、さらに自分も相手も別の誰かと結婚しているわけではないとしても、いわゆる「プレイガール」や「プレイボーイ」としての「不適切な行為」は社会的には許されないものなのでしょうか? もしもいわゆる「プレイガール」や「プレイボーイ」としての「不適切な行為」が社会的に許されないのならば、どこがどのように許されないものになるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 それにしても、なぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」というものはうんざりさせられているときに次々と明らかになるのでしょうか?

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「なぜ今か?」(2024/3/10)

なぜ今か? なぜ冬を越え 春なのか? 問題だとは いつ気付いたか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。なぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」というものはうんざりさせられているときに次々と明らかになるのでしょうか?

どこかの「青年たち」による昨年秋の「不適切な行為」が「スキャンダル」や「不祥事」としてここ数日マスメディアで繰り返し取り上げられています。露出度の高い衣装だったとか、触ったのか触っていないのかとか、「不適切な形」でチップを渡したのかとか、「公金」は使っていなかったなどということよりも、私としては、なぜ今そのような「スキャンダル」や「不祥事」が明らかになって問題になっているのかということの方がずっと気になっているのです。なぜ今そのような「スキャンダル」や「不祥事」が明らかになったのか…。あえて言い換えるのならば、なぜそのときすぐに問題になって明らかにならなかったのか、なぜ今まで約3-4カ月も問題にならなかったのか…。もちろん文字通り「なぜ今なのか」ということも気になります。しかし、私としては、なぜ寒い冬を越してもうすぐ春になろうという今現在までそのような「スキャンダル」や「不祥事」が明らかになって問題になることがなかったのかということの方がずっと大きな問題ではないかと思っているのです。もしかすると「TPO」をわきまえなかったことは別にしても「青年たち」とその周辺の人間たちにとっては「不適切な行為」は「日常茶飯事」で特に珍しいことではなかったのか…。繰り返しになりますが、なぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」というものはうんざりさせられているときに次々と明らかになるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「どこが好きか?」(2024/3/9)

『あの人』の 『どこが好きか?』と 繰り返し 聞いて真似して みたらどうなる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。 なぜ多くの人たちがふさわしくないと猛反対していてもその「候補者」を熱烈に支持する人間たちがいるのでしょうか? その現象を「分断」と呼ぶべきなのかはともかくとしても…。

繰り返しになりますが、世の中では、たとえどれだけ周囲のほぼすべての人たちから猛烈に反対されていたとしても多くの人たちから猛烈に嫌われている人を自分の結婚相手として選ぶなどという人たちもときどきいるわけです。もちろんどこの誰とどんな理由で結婚しようと思ったとしてもそれは基本的にはその人の自由です。しかし、「あの人」と結婚したいという「その人」の気持ちは間違いなく本物なのでしょうか? さて、そのような周囲のほぼすべての人たちが猛烈に反対している「あの人」を自分の結婚相手として選ぼうとしている「その人」に対して、「あの人」の「どこが好きか?」と繰り返し聞いて真似してみたらいったいどうなるのでしょうか? 「あの人」の「どこが好きか?」…。例えば、「国境管理を厳格にすると言っているところ」と言うのならば、自分も「国境管理を厳格にする」と言い、「祖国を再び偉大にすると言っているところ」と言うのならば、自分も「祖国を再び偉大にする」と言う…。「その人」が「あの人」の好きなところだと言っているところを徹底的に真似したとしたらそれでも「その人」は「あの人」のことを結婚したいほど好きでいられるのでしょうか? きょうのところはあえてその疑問を投げかけるだけにとどめることにしておきます。

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「もしかして…」(2024/3/8)

もしかして 猛反対を されるから ますます支持が 熱烈になる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。 なぜ多くの人たちがふさわしくないと猛反対していてもその「候補者」を熱烈に支持する人間たちがいるのでしょうか? その現象を「分断」と呼ぶべきなのかはともかくとしても…。

世の中を見渡してみれば、ごく普通の多くの人たちの目から見ても、一部の人たちから猛烈に嫌われている「誰か」を別の一部の人たちが熱烈に支持しているような事例はよくあることではないかと思います。極端な事例かもしれませんが、たとえどれだけ周囲のほぼすべての人たちから猛烈に反対されていたとしても多くの人たちから猛烈に嫌われている人を自分の結婚相手として選ぶなどということもそれほど珍しいことではないのです。もしかすると周囲から猛烈に反対されればされるほど熱烈に好きになっていくものなのでしょうか? そうであるのならば、もしかしたら多くの人たちがある「候補者」を猛烈に嫌っている感情を覆い隠して猛反対するのをやめれば、その「候補者」を熱烈に支持する人たちは減っていくのでしょうか? きょうのところは、たとえどれだけ周囲のほぼすべての人たちから猛烈に反対されていたとしても多くの人たちから猛烈に嫌われている人を自分の結婚相手として選ぶ人たちが世の中にはたくさんいるということをあえて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『選挙』は変わる?」(2024/3/7)

『推薦』と 『拒否投票』と 『くじ引き』で 『選挙』は変わる? 『社会』は変わる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。 なぜ多くの「選挙」では投票率が低いのでしょうか? 投票率を高くするためにはいったいどうすればいいのでしょうか? 

もしかすると投票率を高くするためには「選挙」の仕組みを根本から見直す必要があるのかもしれないと思い始めています。立候補した「候補者」たちの中から当選させたいと思う「候補者」を選んで投票する以外の方法で「選挙」を行うことはできないのでしょうか? 例えば、暫定的に「拒否投票」とでも呼んでおくことにしますが、どうしてもこの「候補者」だけは当選させたくないと思う「候補者」を選んで当選させないようにする形でも投票することができるようにすることはできないのでしょうか? 自分が当選させたいと思う「候補者」がなかなか見つからないときであっても当選させたくないと思う「候補者」ならばすぐに見つけることができるという場合は少なくないと思います。あるいは、「選挙」に立候補していても立候補していなくても自分が当選させたい人に勝手に投票することができるようにすることはできないのでしょうか? 「選挙」に立候補していても立候補していなくても自分が当選させたい人を「推薦」することができるようにすると考えるのです。さらに言えば、投票率がある数字を下回った場合には「候補者」や「当選者」を「くじ引き」で選ぶようなルールにしたらいったいどうなるのでしょうか? いずれにしても「選挙」に立候補した「候補者」の中には自分が当選させたいと思う「候補者」が見当たらないという人たちにどうしたら投票してもらうことができるのかということを真剣に考える必要があると思います。「選挙」が変われば「社会」も変わるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「投票率は…」(2024/3/6)

なぜ低い? 投票率を 高くする ためには何を すればいいのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。 なぜ多くの「選挙」では投票率が低いのでしょうか? 

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、多くの有権者にとって自分が「選挙」で投票したいと思う「候補者」がいないから投票率が低くなるのだろうと思います。逆の言い方をすれば、もしもそれぞれの有権者にそれぞれの「選挙」で投票したいと思う「候補者」がいるのならば、それぞれの「選挙」の投票率が高くなる可能性もあるわけです。それでは多くの有権者に自分がそれぞれの「選挙」で投票したいと思う「候補者」がいるようにするためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? それぞれの「選挙」に立候補した「候補者」たちが掲げた「公約」をじっくりと比較検討して自分が投票したいと思う「候補者」を選ぶべきなのでしょうか? 確かにそれも1つの考え方です。あるいは、それぞれの「選挙」に立候補した「候補者」たちの人柄や掲げている「公約」を見ながら自分がどうしても投票したくない「候補者」を「消去法」で消していって最後に残った「候補者」に投票するという方法も考えられるとは思います。しかし、「選挙」に立候補した「候補者」たちの中からはどうしても自分が投票したいと思う「候補者」を選ぶことができないということは十分にあり得る話だと思います。繰り返しになりますが、なぜ多くの「選挙」では投票率が低いのでしょうか? 投票率を高くするためにはいったいどうすればいいのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「産むか産まないかさえ…」(2024/3/5)

いま産むか? まだ産まないか? どうするか? そもそも産むか 産まないかさえ…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「男女平等」とか「男女共同参画社会」などと呼ばれるようなことはいったいどのようなことを意味しているのでしょうか?

もしかしたら大きな誤解を与えたり批判を受けたりする危険性が高くなってしまうのかもしれませんが、どんなに少なくとも今現在の社会においては「子どもを産み育てること」について「男女平等」を実現するようなことは事実上不可能ではないかと考えています。なぜならほとんどすべての「女性」には自分自身が「子どもを産むか産まないか」「子どもを産むとしてもいつ産むか」などという「選択肢」があるのに対して、男性にはそれらの「選択肢」が事実上存在しないと言ってもいい状態だからです。もちろん今の時代では「子どもを産むか産まないか」「子どもを産むとしてもいつ産むか」などということはそれぞれのパートナー同士で十分に話し合って互いに納得して決めるべき話です。そのような状況を考えるのならば、「女性」だけではなく「男性」にも「子どもを産むか産まないか」「子どもを産むとしてもいつ産むか」などという「選択肢」があるという見方をすることも全くの間違いとは言い切れないのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、「女性」が「子供を産む」ことについてある意味での「拒否権」を持っていることだけは少しも変わらないのです。あえて言い換えれば、どんなに少なくとも今の時代には、いくら「男性」が子どもを欲しいと思っていても、「女性」が「子どもを産む」という選択をしない場合には基本的にはどうすることもできないのです。当たり前と言えば当たり前の話なのかもしれませんが、生物学的に子どもを産むことが可能な「女性」の側には「子どもを産まない」ということを含めたすべての「選択肢」が存在するのに対して、生物学的に子どもを産むことが不可能な「男性」の側には少なくとも現在においては「子どもを産む」という「選択肢」は存在しないのです。繰り返しになりますが、どんなに少なくとも今現在の社会においては「子どもを産み育てること」について「男女平等」を実現するようなことは事実上不可能ではないかと考えています。きょうのところはひとまずこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『引き金』引けば…」(2024/3/4)

『戦場』は 『男女平等』 ではないか? 『引き金』引けば 『敵』を倒せる!」-

きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「男女平等」とか「男女共同参画社会」などと呼ばれるようなことはいったいどのようなことを意味しているのでしょうか?

もしも唐突に平和で豊かな社会が一般市民も巻き添えになって殺されてしまう「泥沼の戦争」などに巻き込まれてしまった場合には、否応なく自分たちや自分たちの大切な人たちを守るために命を懸けて「敵」と戦わなければならなくなる人たちが出てくることになるのだろうと思います。もちろん少なくとも現時点においては差し迫った「戦争」などの脅威にまだ直面していない日本社会ではなかなか現実味を持って想像することができないことではないかと思います。しかし、あえて個別具体的な固有名詞を挙げることは避けますが、国際社会で隣国から侵略されているいくつかの国では自分たちの大切な人たちを守るために「志願」したり「徴兵」されたりして戦場で兵士として命を懸けて「敵」と戦っている人たちが現実にたくさんいるわけです。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「今の時代の戦争」では命を懸けて戦う兵士は本当に「男性」でなければならないのでしょうか? さらに誤解と批判を恐れずに言わせてもらうのならば、「男女平等」とか「男女共同参画社会」などを掲げている今の時代に「男性」だけに「徴兵」の義務を課すことは本当に許されることなのでしょうか? もちろん「生身の人間」同士が全身と全体力を駆使して至近距離で殺し合うような「大昔の戦争」においては「男性」に対して体格や筋力で劣る「女性」や「子供」は圧倒的に不利だったことは確かなのだろうと思います。しかし、「生身の人間」同士が殺し合う場面がそれほど多くはない「今の時代の戦争」では体格や筋力よりもむしろ使用する兵器の性能やその操作能力によって勝敗が決まる場面が多いのです。本当に「男性」にしか最新式の高性能兵器を使いこなすことができないのでしょうか? 本当に「女性」には最新式の高性能兵器を使いこなすことができないのでしょうか? 「今の時代の戦争」では適切な場面や適切なタイミングで「引き金」を引いたり「発射ボタン」を押したりするだけでほぼ確実に「敵」を倒すことができるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「それぞれの立場から…」(2024/3/3)

それぞれの 立場から見て それなりに 説得力は ありそうだけど…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、どんな悪いものにも探せば良い部分が1つぐらいは見つかるものですし、どんな素晴らしいものにも探せば悪い部分の1つぐらいは見つかるものなのです。しかし、それにもかかわらず、他人の悪いところばかりをわざわざ取り上げている人間たちはいったい何者なのでしょうか? 

どこかの国会では野党によるいわゆる「審議拒否」が繰り返されています。またどこかの国会では与党側によるいわゆる「強行採決」も繰り返されています。そして野党側による「不信任決議案」などの提出も繰り返されています。さらには野党側による「牛歩」や「長時間演説」なども繰り返されています。当たり前と言えば当たり前の話ですが、与党側から見た野党側による「審議拒否」は、野党側にとっては「与党側の強引な審議日程の設定や委員会運営には応じない」などという「正当な行動」になるのです。また野党側から見た法案や予算案などの「強行採決」は、与党側から見れば野党側による悪質な「議事妨害」「採決妨害」などということになるのだろうと思います。同じように、「不信任決議案」などの提出、「牛歩」や「長時間演説」などについても、与党側も、野党側も、それぞれの立場から見てそれなりに説得力のありそうな主張を展開しているのだろうと思います。政府・与党側の悪いところばかりを探し出して悪いところばかりを強調する…。「権力の監視」などというもっともらしい主張をしていてもいなくても、根拠の乏しい強い思い込みに基づいて毎年毎年ほぼ同じような行動を繰り返していったいどのような成果が得られているのでしょうか? 繰り返しになりますが、どんな悪いものにも探せば良い部分が1つぐらいは見つかるものですし、どんな素晴らしいものにも探せば悪い部分の1つぐらいは見つかるものなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『悪者』」(2024/3/2)

『悪者』の 悪い部分は 探し出す 良い部分には 目を閉ざしても…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、どんな悪いものにも探せば良い部分が1つぐらいは見つかるものですし、どんな素晴らしいものにも探せば悪い部分の1つぐらいは見つかるものなのです。しかし、それにもかかわらず、あえて他人の悪いところばかりを取り上げている人間たちはいったい何なのでしょうか? 

多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、誰かの悪いところばかりを取り上げている人間たちは、誰かは「悪者」などという「根拠のない強い思い込み」をしているのだろうと思います。「悪者」である誰かは「悪者」であり続けなくてはならない…。だからこそ誰かの悪い部分ばかりを探し出してその悪い部分だけを取り上げ続けているのだろうと思います。しかし、どんな悪い人間にも探せば良い部分が1つぐらいは見つかるものですし、どんな素晴らしい人間にも探せば悪い部分の1つぐらいは見つかるものなのです。それにもかかわらず、「悪者」の悪い部分ばかりを探し出して取り上げ続け、「悪者」の良い部分についてはあえて探さず仮に見つけても目を閉ざし続ける…。このようなことを繰り返していけば対立はどこまでも深刻なものになり、最終的には果てしない殺し合いが続くことになってしまいます。国際社会だけではなく、ごく普通の多くの人たちのすぐ近くでも「悪者」の悪い部分だけを探す作業は繰り返されているわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「見極める能力」(2024/3/1)

良い部分 悪い部分を 見極める 能力ないと 解決できず!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、どんな悪いものにも探せば良い部分が1つぐらいは見つかるものですし、どんな素晴らしいものにも探せば悪い部分の1つぐらいは見つかるものなのです。そして何が良い部分で何が悪い部分なのかをしっかりと見極める能力は必要不可欠のはずですが…。

どんなに少なくとも内閣総理大臣(自民党総裁)自身がマスメディアなどにも「公開」した状態で衆議院政治倫理審査会に出席して派閥の政治資金パーティーをめぐる問題について釈明する意向を示すという形での「リーダーシップ」を発揮したことによって、公開・非公開などをめぐる与野党の意見の対立のために膠着していた状態が一気に動き出したことは疑いのない事実です。また現職の内閣総理大臣が政治倫理審査会に出席するのは初めてですから、かなり唐突かつ異例な決断であったということもおそらく事実です。さらに言えば、たとえいくら懇切丁寧に繰り返し説明したとしても国民からの信頼を回復させることはそれほど簡単なことではないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、もしも現職の内閣総理大臣が衆議院政治倫理審査会に出席して「公開」された状態で釈明するという決断がなかったのならば、衆議院政治倫理審査会が「公開」された状態で開かれるということはなかったのかもしれないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、そもそも政治倫理審査会での釈明だけで新たに何かが明らかになったり国民からの信頼を回復したりすることを期待することはあまりできなかったはずなのです。繰り返しになりますが、どんな悪いものにも探せば良い部分が1つぐらいは見つかるものですし、どんな素晴らしいものにも探せば悪い部分の1つぐらいは見つかるものなのです。どんなに少なくとも何が良い部分で何が悪い部分なのかをしっかりと見極める能力がなければ様々な問題を解決していくことはできないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「守らなくていい?」(2024/2/29)

『偉い人』 『ルール』を守ら ないときは 自分も守ら なくていいのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。自分たちが守っている「ルール」を「偉い人」が守っていなかったら本当に「不公平」なのでしょうか?

言うまでもなく、もしも自分たちは「ルール」を守らなければならないけれども、どういうわけか「偉い人」は「ルール」を守らなくてもいいということになっているのならば、それは「不公平」と呼ぶべき状況であることは確かです。しかし、いくら「偉い人」が「ルール」を守っていなかったとしても「偉い人」も他の人たちと同じように「ルール」を守らなければならないということには少しも変わりがないはずなのです。さらに言えば、「偉い人」ではない人たちの中にも「ルール」を守っていない人たちがそれなりにいるはずなのです。ごく一部からは「確定申告」の時期だからどうだとか、「納税意欲が低下する」とかなんとかなどという声も聞こえてくるわけですが…。そのような声を上げている人間たちはもしも他人が悪いことをしていたら自分も悪いことをしてもいいと本気で思っているのでしょうか? 他人が横領をしていたら自分も横領をしても構わないとか、他人が窃盗をしていたら自分も窃盗をしても構わないとか、他人が強盗・殺人をしていたら自分も強盗・殺人をしても構わないとか…。もしも世の中にそのような人間たちが大勢いるのならば、世の中はあっと言う間に「地獄」に変わってしまう危険性が高くなるのではないかと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「自慢?」(2024/2/28)

有名な 人や場所での 映像を 他人に見せて 自慢話を…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。なぜ世の中には「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」と一緒に写った写真などを見せながら「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」の話を自慢気にしたがる人間たちが多いのでしょうか? 

なぜ「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」と一緒に撮影したがる人たちがそんなに多いのでしょうか? 観光地、人気スポット、超人気アーティストなどのライブ会場などなど…。「自撮り」をしている人たちがとても多いのです。もっとも普通の人たちが有名な場所や人気スポットなどで「自撮り」をしたくなる気持ちは分からないでもないのです。身近な場所に有名人がやってきたら一緒に撮影したくなる気持ちも分からないではないのです。しかし、そんな「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」と一緒に写った写真などを見せられている側はいったいどのように思うのでしょうか? うらやましいと思うのでしょうか? そんないつもは「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」と一緒に写った写真などを見せながら「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」の「自慢話」をしている人たちであっても、そのような「自慢話」をされることがどれだけ退屈で迷惑なことなのかがすぐに分かるよい機会が「国会議員」などのホームページやパンフレットなどを見ることではないかと思います。誰もが知っている国会という場所で総理大臣などに質問している写真だとか、超大物議員や有名議員らと一緒に写った写真だとか…。「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」と一緒に写った写真などを見せながら「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」での「自慢話」をすることによっていったい何を期待しているのでしょうか? 「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」と一緒だと自分も有名になったり何か特別な能力を身に付けたりしたような気分になるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「どうする?」(2024/2/27)

『同盟』や 『軍事支援』の 約束を 守ってもらう ためにどうする?」-

きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。大事な約束を確実に守ってもらうためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 約束は肝心なときほど守られなくなったり、大事な約束ほど守られなくなったりすることが少なくないわけですが…。

肝心なときに相手から逃げ出されたり黙って見過ごされたりすることなく、確実に約束を守ってもらうためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 例えば、「契約」ならば約束を破った場合には「違約金」などを支払わなければならないような内容にしておくということが考えられます。しかし、現実には「違約金」などを支払いさえすれば約束を破っても構わないということになってしまうことも少なくないのです。それどころかその「違約金」などを支払うという約束までをも一緒に破られてしまうことすらもあるのです。しかし、いくら約束をした相手が逃げ出そうと思ったり黙って見過ごそうと思ったりしても、逃げ出したり黙って見過ごしたりすることが絶対にできないような状況になっていれば全力で約束を守ろうとする以外には「選択肢」がなくなるのだろうと思います。ちなみに「同盟」や「軍事支援」の約束を確実に守ってもらうためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 肝心なときに相手が逃げ出そうと思ったり黙って見過ごそうと思ったりしても逃げ出したり黙って見過ごしたりすることが絶対にできないような状況にするためには…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『抹殺』すれば…」(2024/2/26)

『指導者』を 『抹殺』すれば 現状を 一変させる ことはできるが…」-

きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「起死回生」などという言葉がありますが、圧倒的に不利な現状を一気に打開するための「作戦」などというものは本当に成功するのでしょうか? そしてもしもそのような「作戦」が成功したとしてもその「反動」は何もないのでしょうか? 

あくまでも一般論ですが、多くの時代の多くの場所では敵の圧倒的な大軍に攻め込まれているときに「起死回生」の策などが講じられることがよくありました。例えば、もしも「敵の大将」を討ち取ることができれば戦争に勝利することができるというのならば、いくら「味方」が少数しかいなかったとしても、全員で「敵の大将」の生命だけに狙いを定めて集中的に「敵の大将」の生命を奪おうとする「作戦」が採用されるようなことはよくあることではないかと思います。そのようなことを考えるのならば、もしも「独裁者」が引き起こして「独裁者」だけがその継続を望んでいるような戦争によって苦しめられたり追い詰められたりしている人たちがいるのならば、「独裁者」を「抹殺」することによって「起死回生」を図ろうとする「発想」が出てくる可能性もあるのではないかと思います。確かに「独裁者」を「抹殺」すれば現状を一変することはできるかもしれないわけです。しかし、「独裁者」を「抹殺」した「反動」としていったい何が起こるのか起こらないのかを予測することは非常に難しいのです。もしもどこかに「独裁者」が引き起こして「独裁者」だけがその継続を望んでいるような戦争があるのならば、「独裁者」を「抹殺」することによって戦争を終わらせようとする人間たちが出てこないとは限らないわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『同盟国』を失っていく!」(2024/2/25)

『身勝手』で 『内向き』になる 米国は 『同盟国』を 失っていく!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えながら理解を深めることにしようと思います。なぜ米国という国では国際社会に背を向けて「内向き」になる傾向が強まるのでしょうか? そしてなぜ米国という国は内部に非常に深刻な分断・分裂を抱え持ったまま解消することができないのでしょうか?

繰り返しになりますが、地球上のどこを探しても米国ほど豊かな国はなかなか見つからないのだろうと思います。また地球上のどこを探しても米国ほど自由な国も見当たらないのだろうと思います。そして米国という国はそのようなあまりにも豊かであまりにも自由な国であるからこそ、国際社会に背を向けて「内向き」になる傾向が強まったり、国内に非常に深刻な分断・分裂を抱え持ったまま解消することができなかったりするのではないかと思います。非常に残念なことではありますが、自由で豊かな国である米国が国際社会に背を向けて「内向き」になったり国内の非常に深刻な分断・分裂を国際社会に持ち出して「身勝手」になったりするようなことはやむを得ないことなのかもしれないと思うこともあります。しかし、もしも米国が「身勝手」で「内向き」になり続けるのであれば、米国は国際社会の中で次々と「同盟国」を失っていくことになるのだろうと思います。カネを支払わないのならば敵から攻撃されても守ってやらないとか何とかと…。「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉もあるわけですが、どんなに少なくとも「同盟」というものは顧客と警備員のような関係ではないはずなのです。とりあえずきょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「自由で豊かだから…」(2024/2/24)

あまりにも 自由で豊か だからこそ 『内向き』になる? 『身勝手』になる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えながら理解を深めることにしようと思います。なぜ米国という国では国際社会に背を向けて「内向き」になる傾向が強まるのでしょうか? そしてなぜ米国という国は内部に非常に深刻な分断・分裂を抱え持ったまま解消することができないのでしょうか?

多少の誤解と批判を恐れずにあえて単純化して言わせてもらうのならば、米国という国があまりにも豊かであまりにも自由な国だからなのだろうと思います。米国という国は、もしも米国民が今現在の豊かさを多少失っても構わないと本気で思うのならば、米国民が生活するために必要不可欠なもののほとんどすべてを米国内だけで生産して必要な場所に供給し続けることができるだけの十分な「潜在能力」を持っているのだろうと思います。食糧も、天然資源も、資金も、技術も、生産設備も、労働力も…。地球上のどこを探しても米国ほど多くの「資源」に恵まれている国はないと思います。言い換えれば、米国は自分たちが生活していくために必要不可欠なものの中で決定的に欠けているものがあるわけではないのでどうしても「内向き」になる傾向があるのだろうと思います。さらに言えば、地球上のどこを探しても米国ほど自由な国は存在しないと言ってもいいのだろうと思います。たとえどれだけ自分のことだけを考えて身勝手な行動を繰り返しても、そしてそのことで他人からどれだけ厳しく批判されたとしても、法律で禁止されていない場合には、結局のところは許されてしまうというだけではなく、そのあまりにも身勝手な行動が一部の人間たちから賞賛されてしまうことすらもあるわけです。もしかすると米国という国があまりにも豊かであまりにも自由な国だから「内向き」になったり「身勝手」になったりする傾向があるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことだけを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『チケット』は…」(2024/2/23)

『チケット』は 一人何枚 買うものか? 『パーティー券』も 『特典付き』か?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どこかでよく売られているいわゆる「パーティー券」などというものは音楽イベントや演劇や映画などの「チケット」とはどこがどう違っているのでしょうか? それとも実はほとんど同じものなのでしょうか?

あくまでも念のために確認しておきますが、ごく普通の多くの人たちは1人で「チケット」を何枚ぐらい買うものなのでしょうか? もちろん誰でも身体は1つしかないわけですから1つのイベントに対して1人1枚が原則ということになるのだろうと思います。もっとも「同伴者」がいる場合には1人2枚とか3枚ということもよくあるのだろうと思います。例えば、もしも「チケット」が「握手券付きのチケット」であるような場合には、全く同じイベントの「チケット」を1人で何十枚も買う人たちがたくさん出てくることもあるのかもしれないと思います。さらに言えば、もしも「チケット」が「特典付きのチケット」であるような場合には、いくら1人何枚までと購入可能枚数の上限を設けて制限したとしても、他人の名義を借りたりして事実上1人で何十枚も購入するような人たちが出てくることもあるのだろうと思います。ちなみにどこかでよく売られているいわゆる「パーティー券」などというものにも「握手券」などの「特典付き」のものがあるのでしょうか? 繰り返しになりますが、どこかでよく売られているいわゆる「パーティー券」などというものは音楽イベントや演劇や映画などの「チケット」とはどこがどう違っているのでしょうか? それとも実はほとんど同じものなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「完売?」(2024/2/22)

『チケット』を 完売させる 目的で 『大物ゲスト』 呼んだりするが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どこかでよく売られているいわゆる「パーティー券」などというものは音楽イベントや演劇や映画などの「チケット」とはどこがどう違っているのでしょうか? それとも実はほとんど同じものなのでしょうか? 

例えば、「超人気アーティスト」の場合には、たとえ数万人規模の巨大会場でのライブの「チケット」であったとしても販売開始からわずか1分以内で「完売」になるようなこともそれほど珍しい話ではないのです。その一方で、「あまり知られていないアマチュアバンド」のライブのチケットがライブ当日になってもまだ半分以上も売れ残っているなどということはよくある話ではないかと思います。それでは「あまり知られていないアマチュアバンド」のライブのチケットを手っ取り早く「完売」するためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 例えば、もしもそのライブに「超大物ゲスト」を呼ぶことができるのならば、「あまり知られていないアマチュアバンド」のライブのチケットであったとしても販売開始からすぐに「完売」させることもできるようになるかもしれないのです。確かに「チケット」を完売させる目的で「大物ゲスト」を呼んだりすることもないわけではないのですが…。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「超大物ゲスト」を呼ぶためには「ギャラ」としてたくさんの「カネ」が必要になりますし強力な「コネ」も必要になるわけです。言い換えるのならば、もしも「超大物ゲスト」をなんとか苦労して呼ぶことができて無事に「チケット」を完売することができたとしても結果的にライブが大赤字になる可能性も高いのです。そのように考えるのならば、超大物や名前の知られた先輩が次々にゲストとして駆け付けてくれるようになるかもしれない「派閥」というものはとてもありがたいものなのだろうと想像することができるわけです。繰り返しになりますが、どこかでよく売られているいわゆる「パーティー券」などというものは音楽イベントや演劇や映画などの「チケット」とはどこがどう違っているのでしょうか? それとも実はほとんど同じものなのでしょうか? きょうのところはひとまずこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「支持率は…」(2024/2/21)

支持率は 低下したけど 悪いのか? 辞めさせられる 理由はないが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もともと低かったどこかの内閣の支持率がますます低下しているらしいです。そもそも内閣支持率が低下したらいったい何がどのように悪いというのでしょうか? 逆に、内閣支持率が高かったら本当に良いことなのでしょうか? 

多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、約2年前に行われた任期4年の国会議員を選ぶための選挙で有権者が投票して勝利させた結果として今現在の内閣が発足したわけです。あくまでも念のために確認しておきますが、選挙で勝利したということは、野党の候補者に投票したり棄権したりした有権者を含めたすべての「有権者」が今現在の内閣を選んだということになるわけです。ですから、たとえどれだけ内閣支持率が低下したとしても、任期中であるのならば、そもそも内閣総辞職をしなければならないなどという「理屈」には少しもならないはずなのです。そもそも内閣支持率の低下は内閣不信任決議案の可決とは全く性質が違うのです。何にしても任期はまだ約2年も残っているわけです。あえて言い換えれば、これからいくら内閣支持率が高くなったとしてもあと2年もしないうちに今現在の内閣は確実に総辞職をしなければならなくなるということなのです。繰り返しになりますが、そもそも内閣支持率が低下したらいったい何がどのように悪いというのでしょうか? 逆に内閣支持率が高かったら本当に良いことなのでしょうか? もしも内閣総理大臣も知事や市長のように有権者の直接選挙で選ばれていれば、内閣支持率が低下したからどうのこうのという話は出てこないのだろうとは思います。その上で、あえて付け加えるのならば、「小選挙区比例代表並立制」という選挙制度の下では、過半数の議席を獲得した政党の党首が内閣総理大臣に選ばれるという形で有権者は事実上内閣総理大臣を選んでいることになるわけですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「最悪!」(2024/2/20)

『永田町』 『コスパ』が悪い だけでなく 『タムパ』や『タイパ』 最悪になる!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。それにしてもなぜいわゆる「永田町」では「コスパ」(→コストパフォーマンス)だけではなく、「タムパ」や「タイパ」(→タイムパフォーマンス)が悪いことばかりを繰り返しているのでしょうか?

いわゆる「永田町」では多くのことに驚くほど高い「コスト」がかけられています。そしてその驚くほど高い「コスト」のほとんどは「税金」によって負担されているのです。ですから、ごく普通の多くの人たちは、どうしても驚くほど高い「コスト」、言い換えれば、驚くほど多くの「税金」を使わなければならないというのならば、せめてその驚くほど高い「コスト」に見合った「成果」を得たいと考えるのではないかと思います。しかし、いわゆる「永田町」では「成果」らしい「成果」を得られないまま虚しく時間が過ぎていくことが非常に多いのです。その結果として、いわゆる「永田町」では、「コスパ」(→コストパフォーマンス)だけではなく、「タムパ」や「タイパ」(→タイムパフォーマンス)も非常に悪いということになってしまうわけです。あえてたとえるのならば、ごく普通の多くの人たちにとっては、いわゆる「永田町」では、たっぷり時間をかけて最初から「はずれくじ」しか入っていない「箱」からすべての「はずれくじ」を引き終わるまで「くじ引き」をやり続けるようなバカバカしいことをやっているようにしか見えないのではないかと思います。なぜ「はずれくじ」しか入っていない「くじ引き」だとすぐに気付かないのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「次々消える!」(2024/2/19)

『プリゴジン』 『反体制派』 『ナワリヌイ』 『ロシア国民』 次々消える!」-

ロシアでプーチン政権を厳しく批判してきた反体制派の指導者のアレクセイ・ナワリヌイ氏が収監されていた北極圏の刑務所内で死亡したことが明らかになって大きな波紋が広がっています。また今年3月に予定されているロシア大統領選への立候補を表明していたウクライナ侵攻を批判しているナデジディン元下院議員が立候補に必要な署名の一部に不備があったとして立候補を認められないという判断を下されています。ちなみに2023年8月にはロシアの民間軍事会社ワグネルの創設者のプリゴジン氏が自家用ジェット機の墜落で死亡した「事件」もありました(→参考:2023/8/29付etc.)。

やはりロシアの刑務所内でのナワリヌイ氏の「死亡」にはいくつも疑問点があることは確かです。しかし、どんなに少なくとも現時点においてはナワリヌイ氏の「死亡」にプーチン大統領周辺が関与している明確な証拠は存在しないわけです。さらに言えば、確かに2020年8月にはロシアでの航空機搭乗時にナワリヌイ氏の毒殺未遂事件が発生しましたが、その毒殺未遂事件にもプーチン大統領周辺が関与したという明確な証拠が存在しないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、最近のプーチン政権下のロシアでは「プリゴジン」が消え、「反体制派」が消え、「ナワリヌイ」が消えたということだけは客観的な事実のまま変わらないのだろうと思います。このままプーチン政権下のロシアでは様々なものが次々と消えていくのでしょうか? そしてもしもプーチン政権下のロシアで「ロシア国民」が次々と消えていくことになるのならば、具体的にどのような形で次々と消えていくことになるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「唱えれば…」(2024/2/18)

声そろえ 『反・犯罪』を 唱えれば 安心できる 社会になるか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。本当にみんなで声をそろえて「今すぐ『犯罪』を止めろ!」「反・『犯罪』!」などと唱えれば安心できる社会になるのでしょうか? 

どうやら世の中にはみんなで声をそろえて「今すぐ『犯罪』を止めろ!」「反・『犯罪』!」などと唱えるべきなどと呼び掛けながら実際に自分たちでも唱えている人間たちがいるようです。多少の批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、みんなで声をそろえて「今すぐ『犯罪』を止めろ!」「反・『犯罪』!」などと唱えるべきなどと呼び掛けながら実際に自分たちでも唱えている人間たちは「今すぐ『犯罪』を止めろ!」「反・『犯罪』!」などという「呪文」を唱えれば安心できる社会になるなどと本気で信じ込んでいるのでしょうか? もし本気で信じ込んでいるのならば「カルト宗教の信者」との違いが非常に分かりにくくなってしまいます。当たり前と言えば当たり前の話ですが、いくら多くの人たちが強く望んだとしてもそれだけでは物事を実現させることができないということは明らかなのです。言うまでもなく世の中では大切なものほど「多数決」で決めることはできないのです。そして世の中では実は大切なものほど「多数決」で決めてはならないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。

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「『悪い人間』?」(2024/2/17)

簡単に 誰でも批判 できるのが 本当に『悪い 人間』なのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「悪い人間」を徹底的に厳しく批判する人間たちがいます。確かに「悪い人間」には厳しく批判されるような部分もあるのだろうと思います。しかし、どんな「悪い人間」にも探せば良い部分の1つや2つは見つかっても何の不思議もないのです。それにもかかわらず、なぜそこまで「悪い人間」を徹底的に厳しく批判するのでしょうか?

あくまでも念のために確認しておきますが、「悪い人間」を厳しく批判するようなことは誰でも簡単にできることなのです。あえてもう少しだけ正確に言い換えるのならば、世の中の多くの人たちから「悪い人間」として厳しく批判されている人を厳しく批判するようなことは誰でも簡単にできることなのです。逆に、世の中の多くの人たちがその人を「悪い人間」として厳しく批判している真っ最中にその厳しく批判されている人にも「実は良いところがいくつもある」などと言い出すことはなかなかできることではないと思います。さらに言えば、世の中の多くの人たちが誰かを「悪い人間」として厳しく批判しているその真っ最中に実は「本当に悪いのは別のあの人間たちだ」などと言い出すこともかなり難しいことなのだろうと思います。世の中の多くの人たちから「悪い人間」として厳しく批判されている人は本当に「悪い人間」なのでしょうか? 世の中の多くの人たちから「悪い人間」として厳しく批判されている人を厳しく批判するようなことは誰でも簡単にできることですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「世の中は『カネ』?」(2024/2/16)

世の中は 『カネ』さえあれば 『楽園』か? 『カネ』がなければ 『地獄』になるか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中は「カネ」次第なのでしょうか? 世の中では「カネ」があれば何でも欲しいものを手に入れることができるのでしょうか? 「カネ」がなければ生きていくために必要不可欠なものを含めたすべてのものを失ってしまうのでしょうか? 

もしも政府や政治関係者が「税金」を支払わなければ強盗や泥棒に襲われても助けてやらないなどと口走ったならばいったいどのように受け止められるのでしょうか? またあくまでも「空想上の社会」での話ですが、もしも「どこかの大統領候補の候補者」が大統領選挙に立候補することを諦めるのならばいくらでも欲しいだけ「カネ」を支払ってやると言われたら大統領選挙に立候補することを諦めるのでしょうか? あるいは、もしも「どこかの大統領候補の候補者」がこのまま憲法違反や法律違反で大統領選挙に立候補する資格を失いたくなかったらもっともっとたくさんの「税金」をすぐに支払えと言われたならばいったいどうするのでしょうか? 本当に世の中は「カネ」次第なのでしょうか? あえて言い換えるのならば、世の中は「カネ」さえあれば「楽園」になるのでしょうか? 逆に、世の中は「カネ」がなければ「地獄」になってしまうのでしょうか? もしも「カネ」を支払って世の中の様々な深刻な事態を本質的に解消することができるのならば「裏金」からでも何からでもすぐに「カネ」を支払ってもらいたいと思っている人たちは少なくないはずです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『犯罪者?』」(2024/2/15)

『犯罪者』 の家族なども 『犯罪者』? その子や孫も 『犯罪者』なの?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。たとえ「犯罪者」が「犯罪者」であったとしても、「犯罪者」の家族なども「犯罪者」なのでしょうか? たとえ「犯罪者」が「犯罪者」であるとしても、その子や孫も「犯罪者」なのでしょうか?

あえて個別具体的な固有名詞などを挙げることは避けますが、罪のない人たちを拉致・誘拐した人間たちはやはり「犯罪者」なのだろうと思います。そしてその拉致・誘拐された人たちを「人質」として監禁している人間たちもやはり「犯罪者」なのだろうと思います。さらに言えばその拉致・誘拐された人たちを「人質」として監禁している人間たちに積極的に協力している人間たちも「犯罪者」なのだろうと思います。それでは「犯罪者」の家族なども「犯罪者」なのでしょうか? 「犯罪者」の子や孫なども「犯罪者」なのでしょうか? 当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、たとえ「犯罪者」が「犯罪者」であったとしても、「犯罪者」の家族などは「犯罪者」の家族などであるという理由だけでは「犯罪者」にされることはないはずなのです。そしてもちろん「犯罪者」の子や孫も「犯罪者」の子や孫であるという理由だけでは「犯罪者」にされることはないはずなのです。あくまでも念のために確認しておきますが、攻撃先には「敵」と「犯罪者」と「人質」しかいないわけではないということを絶対に見逃してはならないのです。もしも「敵」と「犯罪者」と「人質」しか見えないのならば、犠牲者はどんどん増えてしまいますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「記録に残す!」(2024/2/14)

支払いは 『キャッシュレス』にし デジタル化! 『口座』経由で 記録に残す!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中ではいわゆるキャッシュレス化やデジタル化が一気に進んでいます。新型コロナウイルスの感染拡大防止対策などとして加速したということもありますが…。それにもかかわらず、政治の現場ではなぜキャッシュレス化やデジタル化がなかなか進まないのでしょうか? 

残念ながら自分が使っている「キャッシュレス」に相手側が対応していなくて困るという場面に遭遇することはまだまだ少なくはないのです。ですから、すべての取引を「キャッシュレス」にするというわけにはいかないということはよく分かります。しかし、率直に言わせてもらうのならば、今現在でも不特定多数の人たちによる一時的で少額の取引以外の支払いは現金よりも「キャッシュレス」の方がずっと便利なのではないかと思います。あえて言い換えるのならば、今現在でも政治活動に関連した支出のほとんどは「キャッシュレス」で支払うことが十分に可能なのです。そしてたとえ紙の領収書を発行・保存していなかったとしてもデジタル化された取引記録は残っているわけです。さらに言えば、たとえ「キャッシュレス」で支払うことが非常に困難な支出であったとしても、「銀行口座」を経由して支払うことができない支出というものはほとんど存在しないのではないかと思います。もちろん「銀行口座」を経由すれば手数料負担が発生します。しかし、例えば、取引記録を残して政治関連のカネの流れを透明化するために、政治団体が登録した銀行口座からの送金手数料を条件付きで免除するとか公費で負担するなどという方法も考えられるわけです。繰り返しになりますが、政治の現場ではなぜキャッシュレス化やデジタル化がなかなか進まないのでしょうか? ちなみにたとえどんなに完璧に見える対策でも「抜け道」などが存在するわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『大口』を…」(2024/2/13)

『大口』を たたいていれば 活躍の 機会は増える? 評価が下がる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使いながらありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には自分たちが活躍する機会が欲しくていわゆる「ビッグマウス」になったり「大口」を叩いたり「ほら吹き」になったりしている人間たちが少なくないようです。でも、本当に「ビッグマウス」になったり「大口」をたたいたり「ほら吹き」になったりすれば自分が活躍することができる機会が増えるのでしょうか? 

そもそも自分たちが活躍する機会が欲しくていわゆる「ビッグマウス」になったり「大口」をたたいたり「ほら吹き」になったりしている人間たちは自分たちの能力を過大評価していないのでしょうか? それとも自分たちの能力が不十分なことは分かっていても何事も言ってみなければ分からないとか言ってみなければ何も始まらないなどと思いながらいわゆる「ビッグマウス」になったり「大口」をたたいたり「ほら吹き」になったりしているのでしょうか? もしかすると「インターネットの中の世界」や「テレビの中の世界」ではいわゆる「ビッグマウス」になったり「大口」をたたいたり「ほら吹き」になったりしなければ活躍することができる機会がなかなか増えないのかもしれないと思うこともあります。しかし、一般社会では、例えば、就職の面接などの場でいわゆる「ビッグマウス」になったり「大口」をたたいたり「ほら吹き」になったりすれば「正確に自己分析をすることができない人」と受け止められて評価が下がってしまうのではないかと思いますが…。ちなみにどこかの政治の世界では、野党の人間たちは政権交代が実現したらどうのこうのと軽々しくいろいろと言っているわけですが…。繰り返しになりますが、本当に「ビッグマウス」になったり「大口」をたたいたり「ほら吹き」になったりすれば自分が活躍することができる機会が増えるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「あなたでは…」(2024/2/12)

あなたでは やっぱりダメと 言わせたい? 求められない のに『立候補』?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使いながらありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中にはたとえ自分が求められていなくても積極的に「立候補」するような人たちがいます。もちろん何かに積極的に「立候補」するかどうかということはその人たちの自由です。でも、なぜ彼・彼女たちは自分たちが求められていないのに「立候補」するのでしょうか? 

ごく普通の多くの人たちの身の回りでも誰かが誰かの「恋人」や「結婚相手」に「立候補」するなどという話ならばありふれていることなのかもしれないと思います。誰かが誰かを好きになって恋人になりたいと思ったり、誰かが誰かを愛して結婚したいと思ったり…。そのような感情は人間としてはごく普通の感情なのだろうと思います。しかし、それでもやはり、誰かが誰かと「恋人」関係になったり誰かと誰かが「結婚」したりするようなことは自分だけでは決められない相手のある話であるということは少しも変わらないはずなのです。あえて言い換えるのならば、いくら相手から求められていなかったとしても自分の方から積極的に「立候補」するようなことはできるが、「やはりあなたではダメ」などと断られることも少なくないのです。そのことはいくら誰かが「恋人」や「結婚相手」に失望しているときであっても少しも変わらないはずなのです。そのように考えるのならば、いくら「政府・与党」がごく普通の多くの人たちを大きく失望させていたとしても、だからと言ってごく普通の多くの人たちが「野党」に心惹かれるようになるとは限らないはずなのです。「政府・与党」がごく普通の多くの人たちを大きく失望させているときになぜ「野党」はそんなに嬉しそうなのでしょうか? 「野党」は求められていないのに「立候補」してごく普通の多くの人たちに「やはりあなたではダメ」などと言わせたいだけなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「人間は…」(2024/2/11)

人間は 良いことばかり しているか? たった一度の 過ちはある!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使いながらありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中に「完全な善」や「完全な悪」は存在するのでしょうか? また人間は「完全な善人」か「完全な悪人」のどちらかなのでしょうか?

くどいようですが、現実の世の中には「完全な善」や「完全な悪」は存在しないと言い切ってもいいと思います。さらに言えば、現実の人間にも「完全な善人」や「完全な悪人」はいないと言い切ってもいいと思います。これもあくまでも一般論ですが、たとえどんなに「完全な善人」に見える人であったしても、熱心に探せば1つか2つぐらいは悪い部分が必ず見つかるものですし、また過去に遡っていけばただの一度も過ちを犯していない人はまずいないのではないかと思います。逆に、たとえどれだけ「完全な悪人」に見える人であったとしても、やはり探せば良い部分が見つかるものですし、もしかすると過去に遡るとかつては「完全な善人」のように見えていた人だったのかもしれないのです。国際社会における様々な争い事の当事者たちは、自分たちの「敵」を「完全な悪人」であるかのように厳しく批判していることが多いのです。しかし、「敵」は本当に「完全な悪人」なのでしょうか? あくまでも念のために言っておきますが、いくら残虐な犯罪行為を繰り返しているテロリストであったとしても探せば良いことの1つや2つぐらいはしていても何の不思議はないわけですし、いくら「正義の味方」のような顔をして「敵」を攻撃している側にも探せば「悪事」や「悪人」がみつかるはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「世の中に…」(2024/2/10)

世の中に 『完全な悪』 などという ものは存在 するのだろうか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使いながらありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中に「完全な善」や「完全な悪」は存在するのでしょうか? 人間は「完全な善人」か「完全な悪人」のどちらかなのでしょうか? 

これは当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、現実の世の中には「完全な善」や「完全な悪」は存在しないと言ってもいいのです。あくまでも一般論ですが、たとえどんなに「完全な善」に見えるものであったしても、熱心に探せば1つか2つぐらいは悪い部分が必ず見つかるものなのです。逆に、たとえどれだけ「完全な悪」に見えるものであっても、やはり探せば良い部分が見つかるものなのです。繰り返しになりますが、世の中に「完全な善」や「完全な悪」は存在するのでしょうか? どんなに少なくとも国際社会における様々な争い事の当事者たちは世の中に「完全な善」や「完全な悪」は存在するのかということを改めて自分自身に問い直してみる必要があると思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「一方的に?」(2024/2/9)

『友人』と 一方的に 思われて いても自分は 思っていない?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。例えば、誰かと誰かが「友人」になるとかならないとか、誰かと誰かが「結婚」するとかしないとか…。ごく普通の多くの人たちが日常生活を送っている社会ではそのようなことは基本的には当人たちの自由で他人がとやかく言うべき話ではないのだろうと思いますが…。

繰り返しになりますが、ごく普通の多くの人たちが日常生活を送っている社会では、たとえ「誰か」が「あまり評判の良くない誰か」から「友人」になってもらいたいと言われたり「友人」であるかのようなことを言われ続けたりしているときに、いくら「私はあなたとは『友人』になりたくない」とか「あなたは私の『友人』ではない」などと強く思っていたとしても、そのようなことを面と向かって相手に言うようなことはそれほど多くはないのだろうと思います。そしてもしも実際に「私はあなたとは『友人』になりたくない」とか「あなたは私の『友人』ではない」などと相手に言った場合には、様々な「トラブル」を招くことにも繋がりかねないのです。そのように考えれば、ごく普通の多くの人たちの中にも「友人」になりたくない相手を刺激しないようにしてうまくごまかすという「八方美人」的な対応を示す人たちは少なくないのだろうと思います。あえて言い換えれば、相手は自分のことを「友人」だと一方的に思い込んでいるが、自分は相手のことを「友人」だとは思っていないという「微妙な状態」をなんとか破たんしないように努力して長く続けているわけです。しかし、それにもかかわらず、どんなに少なくとも政治関係者は「反社会的な集団」に対しては「微妙な状態」を維持することなく「あなたは私の『友人』ではない」などとハッキリと伝えなくてはならないのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「あなたとは…」(2024/2/8)

あなたとは 『友人』でない そう言える 人はそれほど 多くはないが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。例えば、誰かと誰かが「友人」になるとかならないとか、誰かと誰かが「結婚」するとかしないとか…。ごく普通の多くの人たちが日常生活を送っている社会ではそのようなことは基本的には当人たちの自由で他人がとやかく言うべき話ではないのだろうと思いますが…。

ごく普通の多くの人たちが日常生活を送っている社会では、たとえ「誰か」が「あまり評判の良くない誰か」と「友人」であったとしても、どんなに少なくとも見ず知らずの人たちから厳しく批判されるようなことはないのだろうと思います。またごく普通の多くの人たちが日常生活を送っている社会では、たとえ「誰か」が「あまり評判の良くない誰か」から「友人」になってもらいたいと言われたり「友人」であるかのようなことを言われ続けたりしているときに、「私はあなたとは『友人』になりたくない」とか「あなたは私の『友人』ではない」などと強く思っていたとしても、そのようなことを面と向かって相手に言うようなことはそれほど多くはないのだろうと思います。ごく普通の多くの人たちが日常生活を送っている社会では、「私はあなたとは『友人』になりたくない」とか「あなたは私の『友人』ではない」などと面と向かって言うようなことは様々な「トラブル」を招くことにも繋がりかねないわけですが…。しかし、どんなに少なくとも政治関係者は「反社会的な集団」に対して「私はあなたとは『友人』になりたくない」とか「あなたは私の『友人』ではない」などとハッキリと伝えなくてはならないのだろうと思います。きょうのところはこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『透明性』」(2024/2/7)

禁止する? 政治とカネの 問題は 『透明性』が 重要になる!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。どうやら今度は「企業団体献金」を禁止するべきなどという主張が声高に叫ばれるようになっているようです。しかし、本当に「企業団体献金」を禁止すれば政治とカネの問題が解消するのでしょうか?

くどいようですが、あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」を考えてみることにします。例えば、猛烈に急成長している新興企業の取締役などが他人にはなかなか理解することができない趣味に非常に多額のカネを費やしているようなことはそれほど珍しいことではないと思います。あるいは、ごく普通の多くの人たちがその価値を少しも理解することができない「美術品」などを多額のカネを費やして次々と購入するような人たちも少なくはないと思います。あるいは、それを欲しがる人たちにしかその価値が分からないいわゆる「激レアグッズ」のようなものに多額のカネを費やす人たちもそれほど珍しくはないと思います。あくまでも空想上の話ですが、もしも「企業団体献金」を禁止したとしても、企業から給与や配当などを受け取っている個人が自分の意思で献金をしたりパーティー券を購入したりすることはたぶんできるのだろうと思います。さらに空想上の話をすれば、もしも「企業団体献金」を禁止したとしても、企業から給与や配当などを受け取っている個人が趣味や「美術品」や「激レアグッズ」などに費やした多額のカネが様々なルートを通って最終的に政治の側に流れるようなことまでは止めることができないのです。政治とカネの問題の解消を目指すのならば様々な「透明性」をどのように確保するのかということが重要になるのではないかと思います。繰り返しになりますが、本当に「企業団体献金」を禁止すれば政治とカネの問題が解消するのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにします。

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「大切なこと」(2024/2/6)

『派閥』より その弊害を なくすのが 大切なこと であるはずだが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? (→参考:2024/1/27付、2024/1/21付、2024/1/14付、2024/1/13付、2023/12/27付etc.)。そもそも「派閥」をなくすことなどできるのでしょうか?

相変わらず「空想上の社会」の中のどこかの大政党では「派閥」というものを「解散」する動きが広がっているようです。繰り返しになりますが、やはり「派閥」というものはなくならないのだろうと思います。仮に「派閥」を「解散」したとしてもおそらく「派閥」というものは必要とされるときに必要とされる形で再び生まれることになるのだろうと思います。例えば、ある政治課題や主張に賛成したり反対したり何かを実現させたりしようとする人間たちが集まるとき、そのために一人でも多くの自分たちの仲間を選挙で当選させようとするとき、そして自分たちのリーダーを内閣総理大臣にしようとするとき、など…。あえて誤解を恐れずに単純化して言わせてもらうのならば、「派閥」というものは必要とされるのならばその形を「政党」に衣替えしてでも新たに生まれたり生き残ったりするのではないかと思います。そもそも「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? もしも「派閥」を「政党」にすればカネの流れなどの透明性が高まって「派閥の弊害」を解消しやすくなるというのならば、「派閥」を「政党」にした方がましなのだろうと思います。大切なのは「派閥」というものを「解散」することではなく「派閥の弊害」を解消することではないのでしょうか? 特にカネの流れなどの透明性を高めることではないのでしょうか? カネの流れなどの透明性を高めることは大切なことであるはずなのに…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『非対称的な戦争』」(2024/2/5)

『非対称 的な戦争』 であるほど 『テロ』と区別が 難しくなる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例をありがちな物の見方とは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。地球上の多くの場所でほぼ毎日「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」が活発に行われています。そもそも「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」は「テロ」とはどこがどう違っているのでしょうか?

あくまでも一般論ですが、「強大な国の軍隊」と「弱小武装勢力」による「非対称的な戦争」においては、「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」に限らず、多くの攻撃で民間人が犠牲になる傾向が高くなるのです。「非対称的な戦争」では、軍事力の「量」でも「質」でも大きく劣っている「弱小武装勢力」の側はその攻撃対象を「強大な国の軍隊」から「その国の民間人」や「その国と関連するもの」へと拡大させていくことが少なくないのです。その結果として、「攻撃」は「テロ」との違いが見えにくくなってしまうのです。逆に、圧倒的な軍事力を持つ「強大な国の軍隊」の側は、敵があまりにも「弱小」すぎるために民間人の中に紛れ込んだり民間施設に隠れたりすることが簡単にできるような場合には、巻き添えになる民間人や民間施設などが増えてしまうのです。そして結果として、やはり「攻撃」と「テロ」との違いが分かりにくくなってしまうのです。くどいようですが、そもそも「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」は「テロ」とはどこがどう違っているのでしょうか? きょうのところは「強大な国の軍隊」と「弱小な武装勢力」による「非対称的な戦争」では「攻撃」と「テロ」との違いが分かりにくくなってしまうということをあえて指摘しておくことにします。

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「強大にしようとすれば…」(2024/2/4)

『強大な 敵』をますます 強大に しようとすれば 『テロリスト』へと…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例をありがちな物の見方とは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。地球上の多くの場所でほぼ毎日「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」が活発に行われています。そもそも「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」は「テロ」とはどこがどう違っているのでしょうか?

あくまでも一般論ですが、「武装勢力」が「強大な敵」を攻撃するような事例においては「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」を「テロ」と区別することが難しくなる傾向が高まります。そしてもしも「武装勢力」が「強大な敵」をますます強大なものにしようとするような主張を展開している場合には、「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」がさらに「テロ」と区別することが難しくなるのです。例えば、どこかの武装勢力がどこかの国の「軍隊」だけではなく、どこかの国の「民間人」やどこかの国と「関連のあるもの」をもその標的とする場合には、「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」は「テロ」と区別することは極めて難しくなってしまうのです。もちろんどこかの武装勢力の側にとっては、守りが厳重などこかの国の「軍隊」を攻撃することは難しかったとしても、守りが手薄などこかの国の「民間人」、さらにはどこかの国と「関係があるもの」を攻撃することはそれほど難しいことではないのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、自分たちの勝手な事情のために「強大な敵」をますます強大なものにしようとするような主張はテロリストへの道につながっていると言わざるを得ないのです。繰り返しになりますが、そもそも「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」は「テロ」とはどこがどう違っているのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『税金』を…」(2024/2/3)

『税金』を 使わず社会 良くできる? 『税金』使わ なければ無理か?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例についてよくある物の見方とは少し違った角度から少しだけ考えてみることにしようと思います。「税金」を使わなければ多くの人たちのためになるようなことはできないのでしょうか? 「税金」を使わずに社会や国を良くすることはできないのでしょうか?

行政機関が「税金」を使って行わなければ多くの人たちのためになるようなことはできないのでしょうか? 言うまでもなくそんなことはないはずです。実際に地球上の様々な場所で「税金」を使って数多くの民間組織が多くの人たちのためになる様々な事業を実施していることは知られています。それでは「税金」を使わなければ多くの人たちのためになるようなことはできないのでしょうか? もちろんそんなこともないはずなのです。例えば、自然災害の被害を受けた地域の復旧・復興では「ボランティア」の貢献が大きいことは広く知られています。「税金」を使わずに多くの人たちのためになるようなことは自然災害発生時などの緊急事態だけに限定した話なのでしょうか? ごく普通の多くの人たちの中にはそんなことはないはずだと思っている人たちは少なくないと思いますが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「どちらが多い?」(2024/2/2)

『裏金』と 『表のカネ』を 比べたら どちらが多い? 帳尻合わせ?」-

きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用してよくある見方とは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。「キックバック」や「中抜き」による「裏金」などよりももっと重要な問題は他に存在しないのでしょうか?(参考:2024/1/24付、2024/1/23付、2024/1/22付、2024/1/21付etc.) 繰り返しになりますが、いわゆる「政治資金」に限らず、「カネ」というものは「収入」と「支出」の透明性も重要です。もしも「収入」と「支出」に十分な透明性を確保することができないのならば、最悪の場合には「マネー・ロンダリング(→マネロン)」も不可能ではなくなってしまうわけですが…。

あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」の話なのですが、「キックバック」や「中抜き」による「裏金」と、「収入」「支出」の透明性の高い「表のカネ」を比べたらどちらの方がどれだけ多いのでしょうか? いくら何でも「裏金」の方が「表のカネ」よりもはるかに多いなどということはさすがにないのだろうと思います。やはり「表のカネ」の方が「裏金」などよりもはるかに多いのでしょうか? もしも「表のカネ」の方が「裏金」などよりもはるかに多いのならば、たとえ「裏金」などの「不適切なカネ」の存在が明るみに出てしまった場合であっても、大急ぎで「表のカネ」から「補填」して不適切な支出を覆い隠すようなことも不可能ではなくなるのだろうと思います。あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」の話なのですが、例えば、「裏金」は全く使わずに全額そのままプールしていたとか、「裏金」は事務所の家賃やスタッフの給料のために使っていたとか…。もちろんそれは本当にそうだったのかもしれませんし、後からそのように帳尻を合わせただけなのかもしれないわけですが…。いずれにしても、いわゆる「政治資金」に限らず、「カネ」というものの「収入」と「支出」に十分な透明性を確保することができないのならば、最悪の場合には「マネー・ロンダリング(→マネロン)」も不可能ではなくなってしまうということを改めて指摘した上で強調しておくことにしておきます。

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「好まれるなら…」(2024/2/1)

新しい 『強い指導者』 生まれるか? 『強い指導者』 好まれるなら…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例をありがちな物の見方とは少し違った角度から少しだけ考えてみることにしようと思います。どこかの国のごく普通の多くの人たちは本当に「強い指導者」を望んでいるのでしょうか? またどこかの国のごく普通の多くの人たちは「独裁者」を好むのでしょうか? 言うまでもなく「強い指導者」は「独裁者」とは限らないはずなのです。

あえて個別具体的な固有名詞には触れませんが、「強い指導者」を好むというどこかの国のごく普通の多くの人たちはこれからも「同じ独裁的な指導者」が「君臨」することを望んでいるのでしょうか? それともどこかの国のごく普通の多くの人たちは「同じ独裁的な指導者」ではない新しい「強い指導者」の誕生を望んでいるのでしょうか? 例えば、どれだけ「独裁者」から迫害されたり命を狙われたりしても「独裁者」に抵抗し続けるような「新しい強い指導者」の誕生を望んでいるのでしょうか? あくまでも念のために指摘した上で強調しておきますが、「強い指導者」は「独裁者」とも「同じ独裁的な指導者」とも限らないはずなのです。それにもかかわらず、どこかの国のごく普通の多くの人たちは「同じ独裁的な指導者」の下でいくら生活が厳しくなってもやがて「春」は必ずやってくると固く信じて忍耐し続けるのでしょうか? くどいようですが、「強い指導者」は「独裁者」とも「同じ独裁的な指導者」とも限らないはずなのです。さらに言えば、「同じ独裁的な指導者」がもはや「強い指導者」ではなくなっている可能性も低くはないのです。「強い指導者」を好むというどこかの国で「新しい強い指導者」が誕生するためにはいったい何が必要になるのでしょうか? どこかの国で本当に「強い指導者」が好まれているのならば…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「低下する…」(2024/1/31)

人々の 『関心』『気力』 低下する? 必ず『春』は 来ると忍耐?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例をありがちな物の見方とは少し違った角度から少しだけ考えてみることにしようと思います。悲惨な事件、自然災害、戦争、など…。いくら発生当初は多くの人たちが心を痛めて強い関心を持っていたとしても、残念ながらそう遠くないうちに人々の関心が次第に薄れていくようになってしまうものなのです。たとえ解決するべきことが何一つ解決していない場合であっても人々の関心だけは確実に薄れていくものなのです。

今現在もロシアに侵略され続けているウクライナはいったいどうなってしまうのでしょうか? 国際社会の多くの人たちの関心は、ずいぶん前からウクライナではなく、イスラエルとパレスチナなどの中東情勢、そして経済の問題に向けられているようです。たとえどれだけ衝撃的な出来事であったとしても時間が経過するにつれて少しずつ人々の関心が薄れていくのはやむを得ないことなのだろうとは思いますが…。しかし、それにもかかわらず、ごく普通の多くのロシアの人たちの「関心」や「気力」が低下することだけは何としてでも避けなければならないと強く思います。ごく普通の多くのロシアの人たちはこれからも「同じ独裁的な指導者」が「君臨」することを望むのでしょうか? ごく普通の多くのロシアの人たちは「同じ独裁的な指導者」の下では将来の生活に希望が見えないと心の底から思っているのでしょうか? ごく普通の多くのロシアの人たちはいくら生活が苦しくなってもやがて「春」は必ずやってくるなどと固く信じて忍耐し続けるのでしょうか? きょうのところはとりあえずこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「信頼できる?」(2024/1/30)

『職員』は 身柄拘束 できるのか? 訴追はできる? 信頼できる?」-

ガザ地区での支援を行っている国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の複数の職員が2023/10/7の「ハマス」によるイスラエル攻撃に関与した疑いが浮上して各国が資金拠出を停止するなど大きな波紋が広がっています(→UNRWA側はイスラエル側からの情報提供を受けてイスラエル攻撃に関与した疑いがある職員12人のうち9人を解雇、1人は既に死亡、残りの2人の身元の特定を進めているという。米国、英国、オーストラリア、カナダ、ドイツ、イタリア、オランダ、スイス、フィンランドが資金拠出を既に停止。日本政府も1/28夜に資金拠出の一時停止を発表)。

多くの人たちの素朴な疑問としては、「ハマス」によるイスラエル攻撃に関与した(元)職員の身柄を拘束したり訴追したりすることはできないのかということではないかと思います。もしも疑いのある(元)職員の身柄が即座に拘束されて訴追されるなどするのならば、ひとまずその「組織」はまだそれなりに信頼することができる「組織」だと判断することができるのかもしれないと思います。しかし、その「組織」が疑いのある(元)職員を解雇したり契約を解除したりしただけでは、やはりその「組織」を信頼することができると判断することは難しいのだろうと思います。その「組織」が失われた信頼を取り戻すことができるのかどうかは分かりませんが、その「組織」による「調査」などに長い時間が必要になる可能性もあるのだろうと思います。多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)を「経由」しないガザ地区での人道支援プロジェクトを実施することを真剣に検討するべきではないかと思います。もしも組織の腐敗が非常に深刻な状態である可能性が高い場合にはガザ地区のおける人道支援が深刻な打撃を受ける危険性が高まります。言うまでもなく人道支援には一刻の猶予も許されないわけですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「支援は届く?」(2024/1/29)

この組織 どれだけ『腐敗』 深刻か? 一人ひとりに 支援は届く?」-

ガザ地区での支援を行っている国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の複数の職員が2023/10/7の「ハマス」によるイスラエル攻撃に関与した疑いが浮上して各国が資金拠出を停止するなど大きな波紋が広がっています(→UNRWA側はイスラエル側からの情報提供を受けてイスラエル攻撃に関与した疑いがある職員12人のうち9人を解雇、1人は既に死亡、残りの2人の身元の特定を進めているという。米国、英国、オーストラリア、カナダ、ドイツ、イタリア、オランダ、スイス、フィンランドが資金拠出を既に停止。日本政府も1/28夜に資金拠出の一時停止を発表)。

「公正」であるべき国連の組織の信頼が地に堕ちるのは極めて深刻な事態です。あくまでも一般論ですが、たとえごく一部であったとしても「UNRWA」というガザ地区での支援を実施している国連の組織の職員がイスラエル攻撃に関与していたということが事実であるのならば、その国連の組織の「腐敗」はかなり深刻な段階にまで進行している危険性が高いということを意味することになります。あくまでも一般論ですが、たとえ「テロ行為」に直接関与した職員がごく一部だけだったとしても、もしもそうした職員たちがごく自然に組織に溶け込んでいるのであれば、おそらくその組織の中には「テロ行為」に関与した人間たちに非常に「寛容」な人間たちがもっとずっと多くいるのではないかと推測することもできます。さらに言えば、もしもガザ地区での支援を実施している国連の組織の中に「テロ行為」に関与した人間たちに非常に「寛容」な人間たちが多く含まれているということになるのならば、「テロ行為」に関与した人間たちを匿ったり「テロ行為」に関与した人間たちに支援物資を横流ししたりしている危険性も高くなるのではないかと推測することができるのです。そのように考えるのならば、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の組織の「腐敗」がどの程度深刻な状態になっているのかいないのかをということを大至急確認しなければ支援が一人ひとりのごく普通のパレスチナの人たちの下にまで届かなくても少しも不思議なことではなくなってしまいます。疑惑のある一部の職員との契約を解除したり解雇したりすればそれで問題はなくなるなどという単純な話ではないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「行動すれば?」(2024/1/28)

不満なら 『安全な場所』 飛び出して 自分も何か 行動すれば?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、自分たちの周囲によくありそうな「空想上の事例」を使用しながらもよくありそうな見方とは少し違った角度から少しだけ考えてみることにしようと思います。感染症、自然災害、戦争、などなど…。確かに世の中には多くの人たちがいくらその解決を強く望んでもなかなかうまくいかないことがたくさんあります。そしてその問題がなかなか解決しない不満を政治や政府などにぶつける人たちも少なくないわけですが…。

言うまでもなく政治や政府などを批判しているのが今現在苦しんでいる被災者、被害者、感染者などであるのならば、政治や政府などに不満をぶつけるのも感情的には理解することができます。しかし、自分自身は自然災害や戦争などの被害とは全く無縁な「安全な場所」にいてそこで不自由ではない通常の生活を送っているだけであるにもかかわらず、政治や政府などの対応が遅すぎるなどと批判している人間たちは非常に理解に苦しむのです。例えば、被災地や被災者の支援のために数千万円の私財を寄付したような人たち、あるいは、自分の仕事を長期間休んでまで被災地で専門家やボランティアなどとして支援を続けているような人たちが政府などの対応が不十分などと批判するのはまだ分からないでもないのです。しかし、自分自身では被災者や被害者などのためになることはほとんど何もせずに被災者や被害者などの支援を政府任せや他人任せにしている人間たちは自分たちが何か特別な地位にあるとでも勘違いしているのではないかと思います。そんなに他人の対応が不満であるのならば自分自身も安全な場所から飛び出して何か行動を起こせばいいのではないかと思ってしまいますが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「必要ならば…」(2024/1/27)

『解散』は 『廃止』になるか 『再編』か 必要ならば 『派閥』はできる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度からもう少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそも「派閥」とはいったい何なのでしょうか? そして「派閥」はなぜ生まれたのでしょうか? 「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? (→参考:2024/1/21付、2024/1/14付、2024/1/13付、2023/12/27付etc.)

「空想上の社会」の中のどこかの大政党では「派閥」というものを「解散」する動きが広がっているようです。おそらくごく普通の多くの人たちの素朴な疑問は「派閥」の「解散」が「廃止」を意味することになるのか、それとも「再編」や「衣替え」を意味することになるのかということではないかと思います。多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、やはり「派閥」というものはなくならないのだろうと思います。もちろんこれまで存在してきたような形式での「派閥」というものはなくなっていくのだろうと思います。しかし、「派閥」というものは必要とされるときには再び生まれてくることになるのだろうと思います。例えば、ある政治課題や主張を実現させようとする人間たちが集まるとき、そのために自分たちの仲間を選挙で当選させようとするとき、そして自分たちの仲間を内閣総理大臣にしようとするとき、など…。さらなる誤解を恐れずに単純化して言わせてもらうのならば、「派閥」というものは必要とされるのならばその形を「政党」のような形に変えてでも生き残るのではないかと思います。そもそも「派閥」とはいったい何なのでしょうか? そして「派閥」はなぜ生まれたのでしょうか? 「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「最新の支持率」(2024/1/26)

最新の 支持率調査 した上で 『棄権』差し引き 配分すべき!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度からもう少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要が本当にあるのでしょうか? もしも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要があるとしても、数年前の「直近の国政選挙」ではなく、有権者の最新の支持率などに基づいて「配分」し直すべきではないでしょうか? 

例えば、選挙後には一定期間ごとに「直近の国政選挙」に参加した政党の最新の支持率を調査し直したらどうだろうと思っています。もちろん通常の国政選挙とほとんど同じような規模や方法で行った場合にはあまりにも負担が大きくなります。ですから、そう遠くない将来に「電子投票システム」などを利用した迅速かつ低コストで可能な「政党交付金を配分するための最新の支持率調査」を実施することができるようになった場合には、例えば、毎週末に「支持率調査」を実施してその支持率に基づいて「税金」をその配分を見直しながら交付していくようなことも不可能ではなくなるのではないかと思います。ちなみに「政党交付金」は「支持率調査の投票数」だけに基づいて計算して支持率調査を「棄権」した人たちの分は差し引いて配分するようにすれば政治不信の解消にも一定の効果があるのではないかと思います。くどいようですが、そもそも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要が本当にあるのでしょうか? もしも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要があるとしても、数年前の「直近の国政選挙」ではなく、有権者の最新の支持率などに基づいて「配分」し直すべきではないでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『配分』は見直すべき」(2024/1/25)

『税金』を 配るとしても 『配分』は 見直すべきと 考えないか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度からもう少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要が本当にあるのでしょうか? もしも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要があるとしてもその「配分」は見直すべきではないのでしょうか?

あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」の話ですが、「直前」とは言っても1年以上前の選挙で一時的な風が吹いただけで当選した「国会議員の数」、そして「直前」とは言っても1年以上も昔の国政選挙の「得票数」に基づいて「税金」を「配分」することが本当に適切なことなのでしょうか? 想像してみてください。例えば、世論調査などでの内閣や政党の「1年前の支持率」と「最新の支持率」はいつもほぼ同じなのでしょうか? さらに言えば、「3年前の支持率」と「最新の支持率」を比較しようと思ってもその内閣やその政党が既になくなっているということも少なくはないのです。繰り返しになりますが、そもそも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要が本当にあるのでしょうか? もしも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要があるとしてもその「配分」は見直すべきではないのでしょうか? きょうのところは国会議員の「任期」は4年や6年もあるということをあえて強調するだけにとどめることにしておきます。

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「さすがにまずい?」(2024/1/24)

『マネロン』が 不可能でない 『制度』では さすがにまずい? そう思わない?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度からもう少しだけ考えてみることにしようと思います。「キックバック」とか「中抜き」などよりももっと問題視するべき重要な問題は他に存在しないのでしょうか?(参考:2024/1/23付、2024/1/22付、2024/1/21付etc.) いわゆる「政治資金」に限らず、「カネ」というものは「収入」の透明性だけではなく「支出」の透明性も重要なはずなのです。もしも「収入」と「支出」に十分な透明性を確保することができないのならば、最悪の場合には「マネー・ロンダリング(→マネロン)」も不可能ではなくなってしまうわけですが…。

あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」ではありますが、もしも「パーティー券」を誰でも自由に1枚だけなら買うことができるという場合には、本人確認は必要ないのでしょうか? もしも本人確認が不要であるのならば、「不特定多数の多くの人たち」が1枚ずつ購入したことになっている「パーティー券」が実際には同一人物が数百枚購入している可能性も十分に考えられるわけです。またもしも本人確認が不要であるのならば、例えば、「反社会的勢力」の一員とみなされるような人物でも「パーティー券」を購入することが簡単にできるようになってしまうわけです。ちなみに最近はどの音楽イベントなどでも実際にチケットを使用して入場する場合には本人確認は当たり前のように行われています。さらに言えば、もしも「政治資金」の使途として「人件費」「贈答品」などとだけ記載してその内訳を示さなくても許されるのならば、その「カネ」の一部を別のものに流用することも不可能ではないのだろうと思います。いずれにしても最悪の場合には「マネー・ロンダリング(→マネロン)」が不可能ではない「制度」になっているのならば、さすがにまずいと思う人たちも少なくないのだろうと思います。「マネー・ロンダリング(→マネロン)」が不可能ではない「制度」ではさすがにまずいと思わないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「もっと重要!」(2024/1/23)

『収入』の 透明性も 大事だが 『カネ』の『支出』は もっと重要!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度からもう少しだけ考えてみることにしようと思います。「キックバック」とか「中抜き」などよりももっと問題視するべき重要な問題は他に存在しないのでしょうか?(参考:2024/1/22付、2024/1/21付etc.) いわゆる「政治資金」に限らず、「カネ」というものは「収入」の透明性だけではなく「支出」の透明性も重要なはずなのです。

繰り返しになりますが、いわゆる「政治資金」の「収入」について考えてみることにします。いわゆる「政治資金」になった「カネ」は直前まではどこの誰のどのような種類の「カネ」だったのでしょうか? 直前までは個人のポケットマネーだったのでしょうか? あるいは、直前までは「税金」だった「カネ」なのでしょうか? もしも直前まで「税金」だった「カネ」であるのならば、直前まで「政党交付金」だった「カネ」なのでしょうか? それとも直前までは特別に詳細な使途までは明らかにする必要がない「官房機密費」のような種類の「カネ」だったのでしょうか? あるいは、まさかとは思いますが、直前まで世の中には存在しないはずの「裏金」などのような「カネ」だったのでしょうか? そしてこれも繰り返しになりますが、いわゆる「政治資金」の「支出」についても改めて考えてみる必要があるはずなのです。ひとたび「政治資金」となった「カネ」の「使い道」はいったい何なのでしょうか? 政治関係者の人件費など含めた「政治活動」のために必要不可欠な支出なのでしょうか? それともホテルや料亭などでの「会食」のために使ったのでしょうか? あるいは、私的流用の疑いもある様々な不明朗な支出として使われたのでしょうか? まさかとは思いますが、ひとたび「政治資金」となった「カネ」の一部が世の中には存在しないはずの「裏金」のような「カネ」になるようなことは本当にないのでしょうか? いずれにしても「政治資金規正法」などという法律が「裏金」が「政治資金」を通って「表のカネ」になったり「表のカネ」が「政治資金」を通って「裏金」になったりすることを許すようなものであってはならないはずなのです。いわゆる「政治資金」に限らず、「カネ」というものは「収入」の透明性だけではなく「支出」の透明性も重要なはずなのです。きょうのところはこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『税金』でない?」(2024/1/22)

その『カネ』は たぶん『税金』 などでない? なのに大きな 問題になる!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度からもう少しだけ考えてみることにしようと思います。「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? (→参考:2024/1/21付、2024/1/14付、2024/1/13付、2023/12/27付etc.)。「キックバック」とか「中抜き」などよりももっと問題視するべき重要な問題は他に存在しないのでしょうか? 

どこかの「空想上の社会」のマスメディアは、いわゆる「政治資金パーティー」のパーティー券収入の「キックバック」とか「中抜き」ばかりを問題視して批判しているようです。しかし、「キックバック」とか「中抜き」などよりももっと問題視するべき重要な問題が他にいくつもあるのではないかと思います。繰り返しになりますが、パーティー券収入で「キックバック」や「中抜き」の対象となった「カネ」はどこの誰のどんな種類の「カネ」なのでしょうか? どんなに少なくともパーティー券収入となった「カネ」はおそらく「税金」ではないのだろうと思います。あえて言い換えれば、パーティー券収入となった「カネ」は、もともとは「税金」なので基本的にはその使途の詳細までをも明らかにしておかなければならない「政党交付金」のような種類の「カネ」でも、また同じようにもともとは「税金」であってもその詳細な使途までは明らかにする必要がない「官房機密費」のような種類の「カネ」でもたぶんないということなのだろうと思います。パーティー券収入となった「カネ」が「税金」ではなくても今現在これだけ大きな問題になっているわけです。もしもパーティー券収入となった「カネ」が事実上の「税金」であったとしたらそれは非常に大きな「事件」になるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「その『カネ』は…」(2024/1/21)

その『カネ』は どこの誰のか どんな『カネ』? そしてその『カネ』 何に使った?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻になっている多くの問題の中から選んだ1つのことについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。今はまだ実現していないけれども実現したら多くの人たちに利益をもたらすようなことを実現するためにはいったい何が必要になるのでしょうか? 多くの人たちにはまだ形が見えていないものをどのように説明してどのように説得して実現を目指していったらいいのでしょうか? やはり「まだ形が見えていないもの」は「今現在もハッキリと目に見えているもの」にはかなわないのでしょうか? 

どこかの「空想上の社会」のマスメディアでは、いわゆる「政治資金パーティー」のパーティー券収入の「キックバック」とか「中抜き」などが問題視されているようです。しかし、もっと問題視するべき重要な問題が他にいくつもあるのではないかと思います。例えば、そもそもパーティー券収入になった「カネ」はどこの誰のどのような種類の「カネ」なのでしょうか? 支援者個人が「お小遣い」のようなものでパーティー券を買ったのでしょうか? それとも領収書を経理に提出して経費として認められるかどうかはともかくとしても会社などの「カネ」でパーティー券を買ったのでしょうか? そして、そもそもパーティー券収入の「使い道」はいったい何なのでしょうか? 人件費などの「政治活動」のために必要不可欠な支出なのでしょうか? それともホテルや料亭などでの会食のために使ったのでしょうか? 言うまでもなく「派閥」を解散しても解散しなくてもパーティー券収入となった「カネ」がどこの誰のどのような種類の「カネ」だったのか、またパーティー券収入として得られた「カネ」を誰がどこでどのように使ったのかということが明らかになるわけではないのです。繰り返しになりますが、「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「かなわない?」(2024/1/20)

ハッキリと 見えるものには かなわない? まだ見えてない ものも大切」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻になっている多くの問題の中から選んだ1つのことについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。今はまだ実現していないけれども実現したら多くの人たちに利益をもたらすようなことを実現するためにはいったい何が必要になるのでしょうか? 多くの人たちにはまだ形が見えていないものをどのように説明してどのように説得して実現を目指していったらいいのでしょうか? やはり「まだ形が見えていないもの」は「今現在もハッキリと目に見えているもの」にはかなわないのでしょうか? 

あえて個別具体的な固有名詞を取り上げることは避けますが、例えば、「甚大な自然災害の被害」や「戦争による被害や死傷者」などを目の当たりにすればほとんど誰でも最優先で何とかしなければならないと思うのだろうと思います。もちろんそれは人間としては当たり前の感情なのだろうと思います。あるいは、「何かの不祥事」、「物価高騰」などのようにそれらのことが明らかになればすぐに多くの人たちが厳しく問題視するようなものもあります。もちろんそれも悪いことではないと思います。しかし、それでもやはり、次々と生み出されていく「今現在もハッキリと目に見えているもの」の処理ばかりに追われ、まだ形は見えないけれども実現したら多くの人たちに利益をもたらすようなことを実現するために労力を費やすことがなかなかできないのはとても残念なことです。やはり「まだ形が見えていないもの」は「今現在もハッキリと目に見えているもの」にはかなわないのでしょうか? 「まだ形が見えていないもの」も大切なのですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『成功事例』」(2024/1/19)

よく似てる 『成功事例』 示しても 『目指すもの』とは 違っているが…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻になっている多くの問題の中から選んだ1つのことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。今はまだ実現していないけれども実現したら多くの人たちに利益をもたらすようなことを実現するためにはいったい何が必要になるのでしょうか? 多くの人たちにはまだ形が見えていないものをどのように説明してどのように説得して実現を目指していったらいいのでしょうか? 

例えば、もしも「自分たちが目指しているもの」とよく似た「成功事例」がどこか別の場所にある場合には、その「成功事例」を示しながら多くの人たちを説得してその実現を目指していくようなこともできるのだろうと思います。しかし、「成功事例」というものは「自分たちが目指しているもの」とはやはり違っているはずなのです。言い換えれば、「成功事例」は他の場所ではないそのどこか別の場所だったからこそ「成功事例」になった可能性が非常に高いのです。ですから、いくら「自分たちが目指しているもの」とよく似ているからといっても、「成功事例」が「成功事例」になったときの方法をそのまま真似てみるだけでは「自分たちが目指しているもの」を実現することができるとは限らないのです。繰り返しになりますが、多くの人たちにはまだ形が見えていないものをどのように説明してどのように説得して実現を目指していったらいいのでしょうか?きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「守られる?」(2024/1/18)

法律で 禁止にすれば 守られる? 『ルール』にすれば 実現するか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻な問題になっていることの中の1つのことについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。何か問題を解決するときには「正義」を優先して考えるべきなのでしょうか? それとも「利益」や「コスト」を優先して考えるべきなのでしょうか? そして「正義」の実現と「利益」の享受や「コスト」の削減などは両立することはできないのでしょうか? 

社会全体で「正義」の実現と「利益」の享受や「コスト」の削減などを「両立」させるための1つのアプローチとしては、「正義」の実現を法律などの「ルール」にするということが考えられます。そして「正義」の実現を「ルール」として定めるときに「正義」の実現を妨げる行為を罰則付で禁止することも少なくないのです。しかし、「正義」の実現を「ルール」として定めていれば、それだけで「正義」を実現することができるのでしょうか? もちろんそのようなことはないわけです。法律などの「ルール」で禁止されていてもその「ルール」が守られないことも少なくないのです。例えば、「殺人」や「窃盗」は地球上の多くの場所では法律などの「ルール」で禁止されていますが、それでもやはり、「殺人」や「窃盗」は多くの社会で何度も繰り返されているのです。もっとも社会の中に「殺人」や「窃盗」などを禁止する法律などの「ルール」が全く存在しなかったのならば今よりももっとずっと多くの「殺人」や「窃盗」などが社会にあふれていたのだろうとは思いますが…。その上で、あえて付け加えるのならば、「殺人」や「窃盗」ほどひどくはない「正義」に逆行するような事例では「利益」を追い求めたり「コスト」を削減したりするためにもっと気軽に「正義」を犠牲にしやすくなっているということにも注意が必要になります。繰り返しになりますが、「正義」の実現と「利益」の享受や「コスト」の削減などは本当に両立することはできないのでしょうか? きょうのところはとりあえずこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「両立できず?」(2024/1/17)

両立が 難しいのは 確かだが… 『正義』と『利益』 両立できず?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻な問題になっていることの中の1つのことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。何か問題を解決するときには「正義」を優先して考えるべきなのでしょうか? それとも「利益」や「コスト」を優先して考えるべきなのでしょうか? そして「正義」の実現と「利益」の享受や「コスト」の削減などは両立することはできないのでしょうか? 

当たり前と言えば当たり前の話ですが、何かの問題を解決する場合に「正義」を実現しながら同時に「利益」も得られるような方法があるのならば、もちろんそのような方法を迷わず採用するべきです。しかし、残念ながら世の中のほとんどの問題では、「正義」を実現しようとすれば「利益」が少なくなったり「コスト」が割高になったりするようなことが少なくないのです。例えば、社会全体にとってその解決が必要不可欠な諸課題の解決に取り組んでいるいわゆる「慈善事業」や「ボランティア」などはその代表例になるのだろうと思います。逆に、世の中では「利益」を増やそうとしたり「コスト」を減らそうとしたりすれば「正義」の実現が妨げられることがかなり多いのです。例えば、「公害」などという周辺住民が理不尽な犠牲を強いられるような事件は歴史上何度も繰り返されてきています。あるいは、品質や安全性に問題のある「商品」を生産して販売するような形でごく普通の多くの消費者が理不尽な犠牲を強いられることもかなり多いのです。「正義」を実現しようとすれば「利益」や「コスト」が犠牲になり、逆に「利益」や「コスト」を重視すれば「正義」が犠牲になる…。「正義」の実現と「利益」の享受などを両立させることが不可能だとは言いませんが、両立させることがとても難しいことだけは確かです。きょうのところは「正義」と「利益」や「コスト」はそのような関係にあるということを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「『神』は『悪魔』?」(2024/1/16)

ある人に とっての『神』は 別の人 にとって『悪魔』 のようなものに?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻な問題になっていることの1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。「政治」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」について語るとはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? 「政治」と「日常生活」との「距離」はどうあるべきなのでしょうか? 

繰り返しになりますが、自由で民主的な社会の中で政治的な話題を取り上げたり「政治」について語ったりするときには、政治的な話題の取り上げ方や「政治」の語り方に注意が必要になると思います。これもまた繰り返しになりますが、そもそも「政治」とはいったい何なのでしょうか? 例えば、もしも「政治」が「宗教のようなもの」であるのならば、ある人たちにとっての「神のようなもの」は別のある人たちにとっての「悪魔のようなもの」ということになることも少なくないのです(→参考:2024/1/12付、2024/1/11付etc.)。言い換えるのならば、もしも「政治」が「宗教のようなもの」であるのならば、政治的な話題の扱いを間違ってしまうと収束が非常に困難な血みどろの激しい対立に発展してしまう危険性が高くなるのです。あるいは、たとえ「政治」を真面目に注意深く取り上げる場所であっても、現実の社会の中で毎日「政治」に苦悩させられている人たちにとっては気の休まらない居心地のとても悪い場所になってしまう危険性が高くなるのです。くどいようですが、「政治」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」について語るとはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? 「政治」と「日常生活」との「距離」はどうあるべきなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『ステマ』とか『ファッション』ならば…」(2024/1/15)

『ステマ』とか 『ファッション』ならば 『客』は減る! 『客』減らさない ために見ぬ振り?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「政治」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」について語るとはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? 「政治」と「日常生活」との「距離」はどうあるべきなのでしょうか? 

政治的な話題を取り上げるべきかどうかということが社会の様々な場所で問題になることがあります。当たり前と言えば当たり前の話ですが、いわゆる「言論の自由」などが保障されている自由で民主的な社会では、政治的な話題を取り上げることも取り上げないことも、「政治」について語ることも語らないことも、それは自由だと思います。しかし、それでもやはり、政治的な話題の取り上げ方や「政治」の語り方には注意が必要になると思います。例えば、政治的な話題を取り上げたり「政治」を語ったりすることがいわゆる「ステマ(→ステルスマーケティング)」とか単なる「ファッション」のようなものになるのならば、社会全体に対する悪影響はかなり大きくなると思います。もしも「映画」や「ドラマ」や「音楽」などのエンターテインメント分野で「ステマ」がはびこるようになるのならば、「映画」や「ドラマ」や「音楽」などが専制国家や独裁国家の「プロパガンダ(→政治的宣伝)」のようなものになり下がってしまうのではないかと思います。またもしも「とりあえず国家権力に反抗してみせるファッション」や「地球環境問題に熱心に取り組んでいるとアピールしてみせるファッション」のようなやり方で政治的な話題を取り上げたり「政治」を語ったりしているのならば、問題解決などの成果を本気で望んでいる人たちはやがて離れていくことになるのだろうと思います。多少の誤解を覚悟の上であえて単純化して言わせてもらうのならば、もしも「ステマ」や「ファッション」になるのならば、結果的に「客」が減るということになるのだろうと思います。もっとも「客」を減らさないようにするために何事も見て見ぬ振りをするということが良いことだとは言えないわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『派閥』とは何か?」(2024/1/14)

『派閥』とは いったい何か? 『政党』か? 『政党支部』の 『私物化』許す?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。そもそも「派閥」とはいったい何なのでしょうか? そして「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? (→参考:2024/1/13付、2023/12/27付etc.)

繰り返しになりますが、そもそも「派閥」とはいったい何なのでしょうか? そもそも「派閥」は「政党」とどう違うのでしょうか? あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」についての話ですが、一昔前の「派閥」とは「保守連立政権」を構成していたそれぞれの「事実上の小政党」のことを意味していたのだろうと思います。例えば、1つの選挙区から数人が当選するいわゆる「中選挙区」のような選挙制度の下では、1つの政党から複数の候補者を擁立してしかも複数の当選者を出さなければ単独で政権を獲得して与党になることができなかったわけです。言い換えれば、いわゆる「中選挙区」のような選挙制度の下では「与党」の議員は選挙では互いに激しく争いながらも政権獲得のために我慢しながら1つの「政党」を形作っていなければならなかったわけです。多少の誤解を恐れずにあえて単純化するのならば、そのような状況だったからこそ、いわゆる「中選挙区」のような選挙制度の下では与党は単独与党でも事実上の「派閥連立政権」のような実態になっていたのだろうと思います。さて、それでは、政党同士の争いになる(はずの)1つの小選挙区から当選者が1人しか出ない「小選挙区比例代表並立制」の下では「派閥」は歴史的な役割を終えることになったのでしょうか? もしもある政党の「小選挙区」の公認(予定)候補者(→「政党支部」の「支部長」)のポストが「私物化」されることなく予備選挙などの公正なルールの下で公正に選ばれることになるのならば、「派閥」は「小選挙区比例代表並立制」の下ではその役割を終えることになったのかもしれないと思います。しかし、もしも「政党支部」などの政党組織の「私物化」が許されることになるのならば、公認争いなどのために「派閥」はおそらく生き残ることになるのだろうと思います。あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」についての話ですが、そのように考えるのならば、「政党支部」の「支部長」のポストなどを含めた政党組織の「私物化」を続けている人間たちがもっともらしく「派閥解消」などと叫ぶのは「ちゃんちゃらおかしい」と言わざるを得ないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめておくことにしておきます。

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「『解消』?」(2024/1/13)

『疑似・派閥』 『闇・派閥』まで 『解消』を しないのならば ナンセンスだが…」-

きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。なぜ「派閥」というものが生まれるのでしょうか? そして「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? (→参考:2023/12/27付etc.)

相変わらず日本社会では「派閥」に関連したカネの問題に対する批判が高まっています。そもそも「派閥」とはいったい何なのでしょうか? そして「派閥の弊害」とはいったい何なのでしょうか? また「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? さらに言えば、「派閥解消」は今現在も存在してマスメディアで「グループ」などと呼ばれている「闇・派閥」とか「疑似・派閥」のようなものも含めて解消するということを意味しているのでしょうか? もしも「派閥解消」が「派閥」を形式的になくすだけのものになるのならば「派閥の弊害」が完全には解消することはないのだろうと思います。もしも「派閥解消」が「闇・派閥」とか「疑似・派閥」のようなものまで含めて解消するという話にならないのならばナンセンスなのです。あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」についての話ですが、もしも本当に「派閥解消が国民の声」だということになるのならば、そのような国民の知的レベルが問われることにもなるのだろうと思います。とりあえずきょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「どうすべき?」(2024/1/12)

どうすべき? どっぷり浸かる べきなのか? 『日常生活』 と『政治』の距離」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「政治」とはいったい何なのでしょうか? もしかすると「政治」とはある意味で「宗教」なのでしょうか? 「政治」と「日常生活」との距離はどのようにするべきなのでしょうか?

繰り返しになりますが、やはり多くの人たちは自分の信じたいものだけを信じて自分の信じたくないものはなかなか信じようとしないようです。特に「政治」関連の分野ではそのようなことを示している事例が豊富に得られるのではないかと思います。もしも「政治」が一種の「宗教」のようなものであるのならば、どうしたら「政治」と「日常生活」との間の距離を適切に保つことができるのかなどということも考えなくてはならなくなるのではないかと思います。「政治」と「日常生活」との距離はどのようにするべきなのでしょうか? もちろん「正解」は1つだけではないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「政治」の中に「日常生活」がどっぷりと浸かっているような状況が望ましいと言えないことだけは確かです。例えば、いわゆる「宗教二世」なるものが問題になるのならば「政治二世」のようなものも問題になるのだろうと思います。当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、親と子は別々の人格のはずなのです。どうしたら「政治」と「日常生活」との間の距離を適切に保つことができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『宗教』?」(2024/1/11)

『政治』とは 『宗教』なのか? 信じたい ものだけすぐに 信じているが…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「政治」とはいったい何なのでしょうか? もしかすると「政治」とは一種の「宗教」なのでしょうか? 

あえて個別具体的な固有名詞や事例を取り上げることは避けますが、やはり多くの人たちは自分の信じたいものだけを信じ、自分の信じたくないものはなかなか信じようとしないのかもしれないということを実感しています。例えば、野党の支持者の中には、政府や与党のやることなすことのすべてを否定的に捉えて徹底的に批判するような人間たちがいます。あるいは、ある人間のやることなすことのすべてを前向きに解釈して徹底的に支持するような人間たちもいます。多少の誤解と批判を恐れずにあえて単純化して言わせてもらうのならば、たとえどれだけ明確な証拠を示しながらそれを分かりやすく説明した場合であっても、彼・彼女たちには全く効果がないのです。彼・彼女たちは否定することが非常に難しい「不都合な真実」を示す明確な証拠が示されると、それは「フェイクニュース」などと主張したり…。その一方で、彼・彼女たちが信じたい情報の場合には、たとえそれがどれだけ埋もれていたとしてもあっと言う間に見つけ出して簡単に信じ込んでしまう…。残念ながら、多くの人たちは自分の信じたいものだけを信じ、自分の信じたくないものはなかなか信じようとしないのです。「政治」とはいったい何なのでしょうか? もしかすると「政治」とはある意味で「宗教」なのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「誰が支援を?」(2024/1/10)

地球上 『被災地』ばかり になったら 誰が支援を してくれるのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。日常生活では実際に自然災害がやってきたときにどうするかなどということをなかなか考える余裕がないものです。そして少しずつ自然災害の危険性を忘れていくことになるのだろうと思います。残念ながら自然災害というものは忘れた頃にやってくるものですが…。

今現在の災害支援の基本的な「枠組み」は、地球上のごく一部の「被災地」「被災者」を被災していないその他の多くの人たちが支援するというものになっています。言い換えれば、「被災地」「被災者」とは別に、多くの「被災地」「被災者」を支援する余裕がある人たちが存在するということを大前提にした「枠組み」になっているわけです。例えば、もしも地球上のほとんどすべての場所が同時に自然災害などの被害を受けて「被災地」になってしまった場合にはいったい誰が「被災地」「被災者」の支援をしてくれるというのでしょうか? あるいは、たとえ「被災地」「被災者」を支援する余裕がある人たちがたくさんいたとしても、「被災地」「被災者」から遠く離れた場所にいるために「被災地」「被災者」に支援がなかなか届かないということは非常によくある話です。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、何らかの理由のために「被災地」「被災者」がなかなか支援を受けることができない状況に陥る危険性を想定して「被災地」の「被災者」が自分たちで「被災地」「被災者」を支援するという「自助」型の支援のための「新しい枠組み」も必要になのではないかと考えています。とりあえずきょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「多いときには…」(2024/1/9)

『被災地』を 支援可能な 人たちが 多いときには 問題ないが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。日常生活では実際に自然災害がやってきたときにどうするかなどということをなかなか考える余裕がないものです。そして少しずつ自然災害の危険性を忘れていくことになるのだろうと思います。残念ながら自然災害というものは忘れた頃にやってくるものですが…。

日本のような平和で豊かな国の場合には、たとえ大きな自然災害が発生した場合であっても、すぐに「被災地」を支援することができる人たちが非常にたくさんいるわけです。そして今現在の様々な災害支援のためのしくみは「被災地」を支援することが可能な人たちが多いときには問題なく機能するわけですが…。もしも日本国内の多くの場所が同時多発的に自然災害の被害を受けてしまった場合には支援はいったいどうなってしまうのでしょうか? もしも日本が今ほど平和でも豊かでもなくなってしまった場合には支援はいったいどうなってしまうのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「自粛する?」(2024/1/8)

自粛する? いったい誰の ためなのか? 自粛をすれば 支援になるか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。日常生活では実際に自然災害がやってきたときにどうするかなどということをなかなか考える余裕がないものです。そして少しずつ自然災害の危険性を忘れていくことになるのだろうと思います。残念ながら自然災害というものは忘れた頃にやってくるものですが…。

大きな自然災害や大きな事故が発生すると、その直後のあらゆる行事でその大きな自然災害やその大きな事故のことについて必ずと言っていいほど触れることになります。もちろんそのことは少しも間違ったことではないのです。しかし、大きな自然災害や大きな事故が発生すると必ずと言っていいほど一部から聞こえてくる「自粛するべきなのだろうか?」とか「自粛した方がいいのではないか?」などという声についてはやはり間違っていると考えざるを得ないのではないかと思っています。もしも「自粛」の動きが広がることになるのならば、一つの考え方としては、その大きな自然災害やその大きな事故の悪影響が「被災地」から遠く離れた場所にまで及んでしまうことになり、そのことで被災した人たちにさらに重い精神的な負担を生じさせることになるのかもしれないのです。もっとも大きな自然災害や大きな事故の直後には何をやる場合であっても「被災地」のことを全く気にしないというわけにはいかないわけです。しかし、それでもやはり、「被災地」のことを考えれば考えるほど、また被災した人たちのことを考えれば考えるほど、「自粛」ということだけはするべきではないのではないかと考えているのです。「自粛」はいったい誰のためなのでしょうか? 「自粛」をすれば本当に「被災地」の支援につながるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「何ができるか?」(2024/1/7)

『被災地』の ために自分は 何をする? 何ができるか 考えてみる」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。日常生活では実際に自然災害がやってきたときにどうするかなどということをなかなか考える余裕がないものです。そして少しずつ自然災害の危険性を忘れていくことになるのだろうと思います。残念ながら自然災害というものは忘れた頃にやってくるものですが…。

ごく普通の多くの人たちも大きな自然災害が発生すると自分自身は「被災地」のために何をしたらいいのかとか何ができるのかなどということを考えてみることが少なくないのです。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、誰にも迷惑をかけずに独力で「被災地」に行くことができ、しかも「被災地」で今現在最も求められていることを確実に実行することができる人たちは現実にはほとんどいないのだろうと思います。そのように考えるのならば、ほとんどの人たちにとって「被災地」のためにできることの中で最も「被災地」の役に立つことができるのは「募金」なのだろうと思います。「被災地」のために自分自身はいったい何ができるのか? そして「被災地」のために自分自身が実際に何をするのか? あまりにも甚大な被害に感情を激しく揺さぶられる人たちも少なくないと思います。しかし、まずは冷静になって考えてみることが必要なのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『巻き添え』などは…」(2024/1/6)

『標的』を 選び攻撃 するときに 『巻き添え』などは 気にしないのか?」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてから始まったイスラエル側とハマス側による戦闘は続いています(→参考:2023/12/29付、2023/12/18付、2023/12/6付、2023/12/3付、2023/11/30付、2023/11/28付、2023/11/25付、2023/11/23付、2023/11/17付、2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区各地に対する空爆に加え、ガザ地区南部の最大都市ハンユニスの中心部、さらにガザ地区中部でも地上部隊を投入して「ハマス」などの戦闘員と戦闘を続けている模様。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡、パレスチナ側で2万2000人以上が死亡した模様。ちなみにガザ地区の全人口の約80%以上の約180万人以上が避難民になっているなどとも伝えられている)。レバノンの首都ベイルートで1/2に「爆発」があって「ハマス」の「政治部門」の幹部ら7人が殺害されたなどと報道されています(→イスラエル軍によるドローン攻撃? 「ハマス」と同様にイランの支援を受けているレバノンのイスラム教シーア派の「ヒズボラ」の最高指導者が報復を示唆)。また1/3にはイラン南東部ケルマン州で4年前に米軍に殺害された「革命防衛隊」のソレイマニ司令官の追悼式典中に「爆発」が発生して84人が死亡したなどと伝えられています(→イスラム教スンニ派系の武装組織「IS」が1/4に犯行を認める声明。2人による自爆テロなどと)。

中東では相変わらず果てしない戦いが続いているように見えます。イスラエル側の過去の攻撃パターンから判断するのならば、おそらくレバノンでの「爆発」にはイスラエル側が関与している可能性が高いが、イランでの「爆発」にはイスラエル側が関与している可能性は低いのだろうと思います。あくまでも一般論ですが、「敵」の「幹部」を標的にすることはあったとしても、漠然とした形で「敵」を攻撃するようなことはまずないのだろうと思います。もっとも「敵」の「幹部」を標的にした場合に「巻き添え」が発生する危険性が高かったとしても攻撃を少しも躊躇することはないのだろうとは思います。おそらくガザ地区でも似たような攻撃が行われているのだろうと想像しています。「標的」を選定して攻撃するときに「巻き添え」などの危険性を気にすることはないのでしょうか? もしも「巻き添え」などの危険性を気にすることがないのならば無関係な犠牲者が必要以上に増えてしまうわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「もっと活用できないか?」(2024/1/5)

ドローンを もっと活用 できないか? 多くの人の 素朴な疑問」-

石川県能登半島付近を震源とする大地震が1/1夕に発生したことによって大きな被害が出ています(→1/1,16:10頃に石川県能登地方を震源とするマグニチュード7.6の地震では、石川県志賀町で震度7、石川県七尾市、輪島市、珠洲市などで震度6強など。「能登半島地震」。余震と見られる地震も続いている。石川県内を中心に地割れや建物の崩壊や火災などの被害が相次ぐ。倒壊した建物に閉じ込められている人たちも多数残されており、また地震発生直後の津波で1人が行方不明になっている模様。これまでに92人の死亡を確認、安否不明242人(1/5午前の時点))。

ごく普通の多くの人たちは「なぜもっとドローンを活用することができないのだろうか?」などという「素朴な疑問」を持っているのかもしれないと思います。確かに現状ではトラックなどと比べれば空中飛行型のドローンが一度に運搬することができる物資の量ははるかに少ないとは思います。しかし、それでもやはり、天候が悪くなければ道路が寸断されて孤立しているような避難所に迅速に医薬品や食料を輸送する有効な選択肢の1つにはなるはずなのです。一度に運搬することができる量が少ないのならば「台数」と「回数」で補って「ベルトコンベヤー」で輸送しているかのような状態で「ピストン輸送」を行えばいいのではないかと思います。またドローンは航空機やヘリコプターよりも低コストで個別の場所の被害状況を詳細に調査することも不可能ではないのです。いずれにしても、災害発生時の情報収集、被災地支援のためにドローンなどを積極的に活用することができる態勢を大至急整備するべきだと思っている人たちは少なくないのではないかと思います。きょうのところはそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「次々起こる?」(2024/1/4)

本当に 嫌なこととか 悪いこと 次々起こる? 負の連鎖なら…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会や国際社会で深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。世の中では、嫌なことや悪いことが1つ起こると、さらにいくつもの嫌なことや悪いことが次々と起こるようなこともあるのかもしれないと思います。でも、本当に嫌なことや悪いことは次々と起こっているのでしょうか?

もちろん嫌なことや悪いことがあると、そのために精神的なダメージを受けてミスなどを繰り返してしまってさらに嫌なことや悪いことを引き起こしてしまうということは十分に考えられることです。あるいは、嫌なことや悪いことによって精神的なダメージを受けると嫌なことや悪いことに過剰に敏感になってしまい、そのために普段ならばそれほど嫌なことや悪いことではないことまでとても嫌なことや悪いことだと感じてしまうのかもしれないと思います。2024年はたとえ被害を受けていない人たちであっても1/1から精神的な負担になるニュースが続いています。また2023年中から精神的な負担になることがいくつか未解決のまま続いているのかもしれないと思います。「負の連鎖」のようなものが生じないといいと思いますし、「負の連鎖」のようなものが生じてしまったのならば断ち切りたいものですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「なぜ繰り返す?」(2024/1/3)

マスメディア なぜ災害時 繰り返す? 同じ情報 しつこく何度も…」-

石川県能登半島付近を震源とする大地震が1/1夕に発生したことによって大きな被害が出ています(→1/1,16:10頃に石川県能登地方を震源とするマグニチュード7.6の地震では、石川県志賀町で震度7、石川県七尾市、輪島市、珠洲市などで震度6強など。地震発生直後には約10分おきに緊急地震速報が繰り返されるような状況が続いた。余震と見られる地震も続いている。また1/1夕には石川県を含めた日本海沿岸では大津波警報や津波警報などが発令されて実際に津波も観測。石川県内を中心に地割れや建物の崩壊や火災などが相次ぐ。これまでに57人の死亡を確認(1/3,AM0:00時点))。

大地震によってかなり甚大な被害が発生しています。余震もまだ続いています。時間が経てば経つほど被害がさらに甚大なものだったということが明らかになっているわけですが…。あえて素朴な疑問を言わせてもらうのならば、マスメディアは災害発生時になぜ同じ情報を何度も何度もしつこく繰り返す必要があるのでしょうか? もちろん津波や洪水が発生する危険性が高いから一刻も早く安全な場所に避難しなければならないなどという情報は何度でも繰り返し伝える必要があります。しかし、マスメディアが繰り返し伝えている情報の中には本当に繰り返し伝える必要があるのか疑問になるものも少なくないのです。本当にその情報を何度も何度も繰り返す必要があるのかどうか…。もしも今現在の災害報道が被災者の人たちの精神を不必要に消耗させるようなものになっているとしたら、その在り方を見直さなければならないはずです。マスメディアは何のために何度も何度も同じ情報を繰り返しているのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「なぜ次々に…」(2024/1/2)

悪いこと なぜ次々に 起こるのか? 悪夢のような 災害や事故…」-

1/2夕(18:00頃)に羽田空港のC滑走路で着陸した日本航空516便(新千歳発、羽田行き)と海上保安庁の航空機(MA722)が衝突する事故が発生しました(→日航機は衝突後炎上、子ども8人を含む乗客367人・乗員12人合わせて379人全員が脱出したが、そのうち14人がけが。海保の航空機は乗員6人のうち5人が死亡、1人が重傷。能登半島沖地震関連で物資を新潟基地まで運ぶ予定だったという)。

悪夢のような自然災害・大地震、悪夢のような事故…。悪いことはなぜ次々に起きるのでしょうか? 思わずそう言いたくなってしまう人たちも少なくないと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、現時点では事故の詳細についてはまだ十分には明らかになっていないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、悪夢のようなことやその悪影響がさらに悪夢のようなことを引き起こす「負の連鎖」だけは生じさせてはならないのです。もしもあまりにも悪いことが次々と発生しているときには「人災」が関連している危険性を考える必要があるのかもしれないと思います。きょうのところはあえて「一般論」を指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「休みなし!」(2024/1/1)

災害は 忘れた頃に やってくる? 自然災害 には休みなし!」-

2024年になりました。1/1夕から石川県能登半島付近を震源とする大地震が繰り返し発生しています(→1/1,16:10頃に石川県能登地方を震源とするマグニチュード7.6の地震では、石川県志賀町で震度7、石川県七尾市、輪島市、珠洲市などで震度6強など。地震発生直後には約10分おきに緊急地震速報が繰り返されるような状況が続いた)。余震と見られる地震も続いています。また石川県を含めた日本海沿岸では大津波警報や津波警報などが発令されて実際に津波も観測されました。石川県内では地割れや建物の崩壊なども発生している模様です。現時点ではまだ被害の全体像と詳細は不明です。

「災害は忘れた頃にやってくる」などと言われますが…。様々な自然災害の被害を忘れていたとしても忘れていなかったとしても、地震の発生直後から日本社会の「空気」が一気に入れ替わったことだけでは確かなのだろうと思います。年末年始休日中の多くの人たちは自然災害には休みがないということを改めて実感しているのではないかと思います。そして大きな被害が出ていなければいいと願っているのではないかと思います。被害の全体像と詳細が不明な現時点においてはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「理不尽」(2023/12/31)

『イスラエル』 『ハマス』を『主語』に した場合 理不尽になり 報復続く!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会や国際社会で深刻な問題になっていることの1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。世の中には多くの人たちがその実現を心から望んでいることがたくさんあります。しかし、何かを強く望むだけで本当にその何かを実現することができるようになるのでしょうか? 強く望んでいる何かを実現するためにはいったい何が必要になるのでしょうか?

多少の誤解を恐れずにあえて単純化するのならば、何かを実現するためには、一人ひとりの個人、一つひとつの物事を真正面からしっかりと見据えることが必要不可欠ではないかと思います。もしも「イスラエル」と「パレスチナ」の「戦争」を止めようと本気で思っているのならば、まずは「イスラエル」「パレスチナ」「戦争」などというグループや概念ではなく、具体的な一人ひとりの個人、一つひとつの物事を真正面から見据えて問題の解決を考えていく必要があるのではないかということなのです。例えば、国際社会には「イスラエルが殺した」「ハマスが殺した」などと「イスラエル」「ハマス」などを「主語」にした批判が溢れているわけですが、実際には兵士や戦闘員やテロリストである一人ひとりの個人が一人ひとりの個人を殺したはずなのです。そしてもしも「イスラエルが殺した」「ハマスが殺した」などという言い方をしてしまうと、イスラエルにいる民間人であってもハマスが実効支配していたガザ地区にいる民間人であっても「殺害」などの責任を問われるような理不尽な展開になってしまいかねないのです。あえて言い換えるのならば、「イスラエルが殺した」「ハマスが殺した」などという言い方を許せば、報復が報復を呼んで何度でも報復が繰り返されるような最低最悪の展開になっても何も不思議ではなくなってしまうのです。なぜ同じイスラエル人とか同じパレスチナ人というだけの理由で憎悪や報復の対象にされなければならないのでしょうか? そんな理不尽な話があるでしょうか? 繰り返しになりますが、何かを実現しようと本気で思うのならば、一人ひとりの個人、一つひとつの物事を真正面からしっかりと見据えて問題の解決を考えていく必要があるのです。

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「批判だけ?」(2023/12/30)

批判だけ してさえいれば 『正解』か? 『専門知識』 『知性』は不要?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。なぜいわゆる「政治」はいつまでも良くならないのでしょうか? 

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「政治」がいつまでも良くならないのは「野党にあまりにも能力がなさすぎるから」であると言わざるを得ないのです。あくまでも「空想上の社会」の中での話ですが、例えば、与党に不祥事などが次々と明らかになっているときに野党の人間たちの口から与党批判以外のことを聞いたことがあるでしょうか? とりあえず意味のある内容かどうかとか、説得力のあるものかどうかなどということは別にしても、そもそも野党の人間たちが与党批判以外のことを言っているのを聞いたことがあるでしょうか? もしも野党の人間たちがほとんどすべての場合に「与党を批判すること」が「正解」であるとなぜか強く思い込んでいるのならば、「とにかく与党の言っていることやっていることのほとんどすべてを批判していればいい」ということになるわけですから野党の人間たちには最低限の専門知識はもちろんのこと知性すらも全く必要ないということになってしまうのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、たとえ理屈や理由が全くなかったとしても批判するだけなら誰でもすぐにできるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「必要なのは…」(2023/12/29)

今すぐに 戦闘停止 させるため 必要なのは 『祈り』や『叫び』?」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてから始まったイスラエル側とハマス側による戦闘は続いています(→参考:2023/12/18付、2023/12/6付、2023/12/3付、2023/11/30付、2023/11/28付、2023/11/25付、2023/11/23付、2023/11/17付、2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区南部の最大都市ハンユニスの中心部、さらにガザ地区中部でも地上部隊を投入して「ハマス」などの戦闘員と戦闘を続けている模様。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡、パレスチナ側で2万1000人以上が死亡した模様。ちなみにガザ地区の全人口の約80%以上の約180万人以上が避難民になっているなどとも伝えられている)。

相変わらずガザ地区では戦闘停止の兆しすらも全く見られない状況が続いています。国際社会ではガザ地区での即時戦闘停止を求める声が高まり続けているわけですが、それでもやはり戦闘停止の兆しすらも全く見られない状況が続いているのです。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、イスラエルはガザ地区のすべての人たちを「虐殺」して「根絶」しようとしているのでしょうか? もしそうであるのならば戦闘停止の可能性はほぼ完全に0%ということになってしまうのだろうと思います。しかし、どんなに少なくともイスラエルはガザ地区のすべての人たちを「虐殺」して「根絶」しようとまでは考えていないのだろうと思います。そうであるのならば、戦闘停止の可能性は十分に残っているのです。繰り返しになりますが、もしも「ハマス」などが拉致して拘束している残りのすべての「人質」が解放され、イスラエル襲撃に関与したすべての「ハマス」などの幹部や戦闘員らの身柄が引き渡されるのならば、イスラエル軍が更なる攻撃を続ける「大義名分」はほとんどなくなってしまうはずなのです(→参考:2023/10/30付etc.)。例えば、もしもガザ地区の人たちが自分たち自身の手で「ハマス」などの戦闘員や協力者の身柄を「拘束」して自分たち自身の手で厳しく処罰したりイスラエルなどに引き渡したりすることができるのならば、イスラエルは戦闘を停止することのできない説得力のある理由を見つけることはなかなかできなくなるのではないかと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、少なくとも今すぐに戦闘停止をさせるために必要不可欠なのは戦闘停止を求める「祈り」や「叫び」ではないことだけは確かなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『カネ』で解決?」(2023/12/28)

実際に 『カネ』で解決 できるなら 手っ取り早く 『カネ』で解決?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。なぜいわゆる「政治とカネ」の問題はいつまでもなくならないのでしょうか? 

多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、ごく普通の多くの人たちの身の回りの問題を含めた世の中の多くの問題は実は「カネ」を使うと簡単に解決することができるものがとても多いのではないかと思います。現実の社会においては、たとえこうすることが将来の世代を含めた多くの人たちのためになるなどと理路整然と説明したり「理非曲直」を正したりすると、むしろ問題の解決が必要以上に難しくなってしまう場合であっても、ああすれば「カネ」を損するけれどもこうすれば「カネ」をもらえるなどという話をすると簡単に解決することができる問題も少なくないのです。もしもごく普通の多くの人たちの身の回りの問題を含めた世の中の多くの問題が言葉よりも「カネ」を使った方が簡単に解決することができるようになるものが多いのならば、手っ取り早く「カネ」を使って解決しようとする人間たちが増えることになるのだろうと思います。実際に「カネ」で解決することができるのならば手っ取り早く「カネ」で解決しようと思う人間たちも少なくないのです。そのように考えるのならば、いわゆる「政治とカネ」の問題を根本からなくそうと本気で望むのならば、現実の社会の中で「カネ」で解決することができる問題をできるだけ減らし「カネ」で解決することができない問題をできるだけ増やすという方向性にも多大な労力を費やす必要があるということを見失うべきではないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「ちゃんちゃらおかしい!」(2023/12/27)

自分だけ 『居場所』を確保 しておいて 『派閥解消』? ちゃんちゃらおかしい!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。なぜ「派閥」というものが生まれるのでしょうか? そしてなぜ「派閥」というものはなかなかなくならないのでしょうか? 

繰り返しになりますが、「大政党」の「公認候補者」になるためには「派閥」が必要という主張があります。さらに言えば、「小政党」などから「大政党」に「入党」してその中で「居場所」をつくり出すためには「派閥」が必要という主張もあるのです。確かにこの数年に限定しても野党である「小政党」などで初当選した後に「派閥」の強力な引きや後押しを受けて与党である「大政党」に「入党」した議員は何人もいるわけです。もしかすると現実政治の中では「派閥」というものは「大政党」の中で自分の「居場所」をつくり出すために必要不可欠なものになっているのかもしれないのです。そのように考えるのならば、「大政党」の「公認候補者」の地位が事実上保証されている人間たちがもっともらしく叫ぶ「派閥解消」などという主張は「ちゃんちゃらおかしい!」と受け止めている人たちも少なくないと思います。自分だけはしっかりと「居場所」を確保しておいて「派閥解消」とか…。例えば、もしも次の選挙では必ず前回当選した選挙区とは別の選挙区から立候補しなければならないという「ルール」がある場合であっても、もっともらしく「派閥解消」などと叫ぶことができるのかどうか…。くどいようですが、なぜ「派閥」というものが生まれるのでしょうか? そしてなぜ「派閥」というものはなかなかなくならないのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「1つひとつを…」(2023/12/26)

『解消』を 目指すのならば 原因の 1つひとつを 解消すべき!」-

きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。なぜ「派閥」というものが生まれるのでしょうか? そしてなぜ「派閥」というものはなかなかなくならないのでしょうか? 

「派閥」は「大政党」の「公認候補者」になるために必要という主張があります。確かに現実政治の中ではそれなりに説得力のある主張ではないかと思います。あくまでも一般論ですが、「大政党」の中で何かの選挙の「公認候補者」になるための競争は非常に激しいものになります。例えば、何かの選挙で何人かが「公認」争いをしているときに、「大政党」は誰を「公認候補者」として選ぶのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、「大政党」は最も当選する可能性の高い人間を「公認候補者」として選ぼうとするはずです。そしてこれもまた一般論ですが、「大政党」の中により多くの仲間がいる人間の方が「公認候補者」に選ばれることが多いのです。逆の言い方をすれば、「大政党」の中にほとんど仲間がいない人間が「公認候補者」に選ばれることは実際にはほとんどないのです。そうであるのならば、何かの選挙で「大政党」の「公認候補者」になるための競争を勝ち抜くためには「大政党」の中に仲間をできるだけ多く増やす必要があるのです。そして「大政党」の中で手っ取り早く仲間を増やすために「派閥」が必要とされていると考えることもできるのです。あくまでも念のために言っておきますが、現実政治の中で「派閥」が必要とされる「理由」は1つだけではなく複数あるとは思います。しかし、それでもやはり、もしも「派閥解消」の実現を本気で目指すのならば、「派閥」が必要とされている「原因」を1つひとつ解消していくことを考えないわけにはいかないはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「お友達になるためには…」(2023/12/25)

お友達 になるためには どうするか? 『戦闘停止』より 簡単か?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会や国際社会で深刻な問題になっていることの1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。世の中には多くの人たちがその実現を心から望んでいることがたくさんあります。しかし、何かを強く望むだけで本当にその何かを実現することができるようになるのでしょうか? 強く望んでいる何かを実現するためにはいったい何が必要なのでしょうか? 

例えば、「ある人」が「別のある人」と「お友達になりたい」と思っているとします。その場合にいくら「ある人」が「別のある人」と「お友達になりたい」と強く願っていたとしてもそれだけでは「お友達」になることができるというわけではないのです。さらに言えば、いくら「ある人」が「別のある人」と「お友達になりたい」と強く願っていたとしても、「お友達になりたい」と叫び続けているだけでは「お友達」になることができるというわけではないのです。「ある人」が「別のある人」と「お友達」になるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 「お友達」になるためには少なくともこういうことが必要だということはいくつかあるのだろうと思います。しかし、「お友達」になるための確実な方法などというものはやはり存在しないのだろうと思います。さて、話は唐突に変わりますが、「戦闘停止を実現すること」は「お友達になること」よりももっと簡単なことなのでしょうか? それともずっと難しいことなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「望んだり叫ぶだけでは…」(2023/12/24)

望んだり 叫ぶだけでは 戦闘を 停止すること できないのだが…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会や国際社会で深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。世の中には多くの人たちがその実現を心から望んでいることがたくさんあります。しかし、何かを強く望むだけで本当にその何かを実現することができるようになるのでしょうか? 

あえて個別具体的な固有名詞を取り上げることは避けますが、今現在の国際社会では戦闘によって子どもたちを含めた多くの民間人の命が奪われている事態を一刻も早く止めたいと思っている人たちはたくさんいるのです。もちろん一刻も早い戦闘停止を強く望むことは人間としてごく自然な感情の1つではないかと思います。テレビなどで報道されている悲惨な映像を見れば一刻も早い戦闘停止を望まない人たちはほとんどいないのだろうと思います。しかし、いくら一刻も早い戦闘停止を強く望んだとしてもそれだけでは戦闘停止を実現することはできないのです。あるいは、いくら戦闘停止を強く叫んだとしてもやはりそれだけでは戦闘停止を実現することはできないのです。あくまでも念のために言っておきますが、もちろん戦闘停止を強く望んだり強く叫んだりすることが戦闘停止の実現に全くつながらないというわけではないのです。しかし、それでもやはり、いくら戦闘停止を強く望んだり強く叫んだりしてもそれだけでは戦闘停止を実現することはできないのです。この当たり前すぎるくらい当たり前のことをまずしっかりと認識しなければ戦闘停止を実現することはできないのです。きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「集まってまた出て行けば…」(2023/12/23)

『領収書』 不要なカネが 次々と 集まってきて また出ていけば…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会などで深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそも「パーティー券」などの購入代金として支払われたおカネはいったい誰のものだったのでしょうか? 

繰り返しになりますが、「詰まらないパーティー」の「パーティー券」などをいったい誰が購入しているのでしょうか? もっともごく普通の多くの人たちから見ればただの「詰まらないパーティー」であったとしても、実際に「パーティー券」を購入している人間たちにとっては十分に満足のできる内容の「パーティー」である可能性はあるわけです。例えば、そう遠くないうちに「パーティー券」の購入代金よりもずっと大きな「見返り」が得られることを期待することができるとか、あるいは、普段はなかなか会うことができない「推し」と特別にじっくりと会うことができるとか…。その上で、あえて付け加えるのならば、例えば、もしも「パーティー券」の購入代金のために使われているおカネが、いわゆる「裏金」のような「領収書」が不要なおカネであるのならば、たとえ無駄遣いをしたとしても誰からも咎められることはないのだろうと思います。さらに付け加えるのならば、もしも「パーティー券」の売り上げが「領収書」が不要なおカネに化けてしまっていたとしたら、「領収書」が不要なおカネが次々と集まってきて、また「領収書」が不要なおカネとして出ていくなどということにもなりかねないのだろうと思います。実質的に誰から誰にいくらのおカネが流れているのかが分からないなどという不透明な状態が許されるとはとても思えないわけですが…。いくらなんでもそこまでのひどいことにはなっていないのだろうとは思っていますが、きょうはあえてそうした危険性を指摘しておくことにしておきます。

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「誰が買う?」(2023/12/22)

『詰まらない パーティー』の『券』 誰が買う? 誰のおカネで 誰が買うのか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会などで深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそもいったい誰が「パーティー券」を購入するのでしょうか? 

政治資金集めのための「パーティー」が大好きな人間たちの問題の波紋が広がっています。ごく普通の多くの人たちにとっては、さしてためにもならない講演があったりさして高級でもない料理が残っていれば出てきたりする程度の「パーティー」の2万円もする高い「パーティー券」をいったい誰が購入するのだろうかというのが「素朴な疑問」の1つではないかと思います。多少の誤解を恐れずにあえて分かりやすく言い換えれば、「詰まらないパーティー」の「パーティー券」などをいったい誰が購入しているのでしょうか? そもそも「パーティー券」などの購入代金として支払われたおカネはいったい誰のものだったのでしょうか? 「詰まらないパーティー」の「パーティー券」などを本当に自分のおカネで購入しているのでしょうか? 「ごく普通の多くの人たちにとっても楽しいパーティー」の「パーティー券」が「リーズナブルな価格」で販売されているのならば「パーティー券」を購入する人たちがそれなりに存在するであろうということは十分に理解することができるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「へそくり?」(2023/12/21)

『へそくり』の ようなものだと いうことか? 『裏金』などは 必要なのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会や国際社会で深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。どうしたら「裏金」などというものは生み出されるのでしょうか? そもそも「裏金」というものは本当に必要なのでしょうか?

ごく普通の多くの人たちは「裏金」などというものとは無縁なのだろうと思います。しかし、実はごく普通の多くの人たちの中にも「裏金」と似たようなものを持っていて日常的に使っている人たちがいるのかもしれないとも思います。例えば、一昔前のドラマやマンガの中によく出てきた「へそくり」などというもはや「死語」になっているかもしれない言葉があります。もしかするとその「へそくり」が「裏金」と似ているのかもしれないと思いますが…。「へそくり」が他の家族に相談することなしに自分だけで自由に使うことができるおカネのことを意味しているのならば、「へそくり」というものはいったい何のためにあるのでしょうか? 「へそくり」というものは「裏金」と似ているのでしょうか? 「へそくり」が「裏金」と似ていても似ていなくても、「へそくり」などというものは本当に必要なのでしょうか? そしてそもそも「裏金」というものは本当に必要なのでしょうか? いずれにしても「領収書をください」というその一言で「裏金」作りが難しくなるということは確かなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「領収書ください!」(2023/12/20)

『領収書 ください!』と言う 相手なら 『裏金』作り 難しくなる!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会や国際社会で深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。どうしたら「裏金」などというものは生み出されるのでしょうか? 

当たり前と言えば当たり前の話ですが、おカネというものはあるときある場所に突然現れたり、あるときある場所から突然消えてしまったりするようなものではないはずなのです。ですから、おカネというものは支払う人たちが存在するから受け取る人たちがいるわけです。あえて言い換えるのならば、支払った人がいるのに受け取った人間がいないとか、支払った人間がいないのに受け取った人がいるなどということはあり得ないはずなのです。そのように考えるのならば、もしもおカネのやりとりをするときに「領収書をください」と必ず言う相手が存在するのならば、その取引では「裏金」を作るのは難しくなるのです。逆の言い方をすれば、領収書の必要のないおカネのやりとりには「裏金」が使われることが多いのだろうし、そして領収書の必要のないおカネのやりとりによって新たな「裏金」が生み出されることになるのだろうと思います。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「許されるのか?」(2023/12/19)

自分には 悪影響が ないのなら 何を売っても 許されるのか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちが実は疑問に思っていたとしてもなかなか言い出すことができないでいるかもしれない「素朴な疑問」を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。自分に悪影響がなさそうならばどんな相手にでもどんなものでも売るとか…。金儲けができれば何をやってもいいのでしょうか? 自分が悪影響を受けなければ他の誰かがどんなに不幸になっても構わないのでしょうか? 

今も昔も地球上のほとんどどこの場所でも「薬物」は深刻な問題になっています。地球上のあちこちに様々な「薬物」中毒になっている人たちも多くいるのです。その一方で地球上の多くの場所では「薬物」取引によって莫大な利益を得ている反社会的な組織が存在するのです。他人の不幸と引き換えに莫大な利益を得ている人間たちがいるわけです。さらに言えば、自爆型ドローンやミサイルなどの兵器を交戦国や武装勢力に売却して利益を得ている国家や武装勢力も存在するわけです。自分たちが売却した兵器によって自分たちが攻撃される危険性はほとんどないのだろうと思います。しかし、その兵器によって地球上の別の場所では罪のない一般市民が殺傷される可能性が高くなるわけですが…。繰り返しになりますが、金儲けができれば何をやってもいいのでしょうか? 自分が悪影響を受けなければ他の誰かがどんなに不幸になっても構わないのでしょうか? 自分に悪影響がなければ何を売っても許されるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『悲劇』」(2023/12/18)

『悲劇』では 被害者もまた 加害者に 加害者もまた 被害者になる…」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてから始まったイスラエル側とハマス側による戦闘は続いています(→参考:2023/12/6付、2023/12/3付、2023/11/30付、2023/11/28付、2023/11/25付、2023/11/23付、2023/11/17付、2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区南部の最大都市ハンユニスの中心部にも地上部隊を投入して「ハマス」や「イスラム聖戦」の戦闘員と激しい戦闘を続けている模様。そしてイスラエル軍がガザ地区でハマス側の人質になっていた20代のイスラエル人男性3人を誤って射殺したことが12/15に明らかになって波紋が広がっている(→イスラエル人男性は爆弾などを装着していないことを示すために上半身裸の状態で白旗を掲げていた?)。またイスラエル軍が「ハマス」の地下トンネル施設に海水を注入したなどという一部報道も。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡、パレスチナ側で1万8000人以上が死亡した模様。ちなみにガザ地区の全人口の約80%以上の約180万人が避難民になっているなどとも伝えられている)。

イスラエル軍がガザ地区でハマス側の人質になっていたイスラエル人男性3人を誤って射殺した事件が「悲劇」であることは確かです。その上で、「悲劇」の加害者と被害者は、イスラエル人に限定されるわけではないのです。パレスチナの人たちやその他の国の人たちも「悲劇」の加害者にも被害者にもなるということには注意が必要になります。「悲劇」では加害者も被害者になり、被害者も加害者になる…。当たり前と言えば当たり前の話ですが、人間というものは間違いを犯すものです。そして人間というものは、自分が正しいことをしていると信じ込んでいるときほど大きな間違いを犯すことが多いのです。さらに言えば、人間というものは、自分自身の生命の危険を感じてパニック状態になっているようなときには信じられないような行動を繰り返して止まらなくなることもあるのです。誰もがこのままではいけないと思ってはいてもそれを止めることが誰にもできなくなってしまうなどというような「悲劇」に陥ることだけは避けたいものですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『くじ引き』で…」(2023/12/17)

『当選』は 『選挙』に替わり 『くじ引き』で 決めたとしたら どうなるだろう?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが実は疑問に思っていてもなかなか言い出すことができないでいるかもしれない「素朴な疑問」を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそもなぜ選挙をやらなければならないのでしょうか? 本当に選挙をやれば民主主義になっているのでしょうか? 

多少の誤解と批判を覚悟の上であえて極論を言わせてもらうのならば、「選挙」の替わりに議員や地方自治体の長を「くじ引き」で選んではいけないのでしょうか? さらに言わせてもらうのならば、もしかすると現状のような形での「選挙」で選ぶよりも「くじ引き」で選んだ方が結果的に能力の高いふさわしい人物が公職に就くことができる可能性が高くなるのではないでしょうか? もちろん「選挙」の替わりに「くじ引き」で議員や地方自治体の長を選んだ場合には、不適切な人間が間違って選ばれてしまう可能性も当然あるわけです。しかし、もしも「くじ引き」で間違って不適切な人間が選ばれてしまった場合であっても、すぐに有権者による投票で「解職」することができる制度も併せて導入すればその弊害を小さくするようなことはできるのだろうと思います。そもそも選挙でごく普通の多くの人たちはどのような人間たちの中からどのような人間たちを当選者として選んでいるのでしょうか? 繰り返しになりますが、そもそもなぜ選挙をやらなければならないのでしょうか? 選挙をやれば民主主義になっているのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「選ぶなら…」(2023/12/16)

選ぶなら 『なってほしいと 思う人』! 『なりたい人』は 選びたくない?」-

きょうはごく普通の多くの人たちが実は疑問に思っていてもなかなか言い出すことができないでいるかもしれない「素朴な疑問」を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそも選挙ではなぜ立候補した候補者に投票しなければならないのでしょうか? なぜ議員や地方自治体の長にふさわしいと心から思う人物の名前を書いてもその人が立候補していなければ当選することができない選挙制度になっているのでしょうか? 

もしも有権者が選挙に立候補していない人物にも投票することができる制度に変更した場合には、当然ながら選挙で立候補していない人物が「当選」してしまう可能性が出てくることになるわけです。もしも選挙で立候補していない人物が「当選」してしまった場合にはいったいどうしたらいいのでしょうか? 例えば、「当選」という選挙結果が判明した後に「当選」した人物に限って改めて「立候補」するかどうかを選ぶことができるような制度にしてはいけないのでしょうか? 自分は立候補したいと少しも思っていなかったにもかかわらず、選挙で多くの有権者から支持されてなぜか「当選」してしまったが、やはりどうしても議員や地方自治体の長にはなりたくないという人たちは、選挙後もそのまま「立候補」しなければいいだけの話なのです。ちなみに選挙で「当選」した人物が「立候補」しなかった場合には「辞職」した場合と同様に補欠選挙を実施すればいいのです。繰り返しになりますが、なぜ議員や地方自治体の長にふさわしいと心から思う人物の名前を書いてもその人が立候補していなければ当選できない選挙制度になっているのでしょうか? なぜ選挙の候補者を現状のように事実上の「自薦」でしか選んではいけないのでしょうか? 選挙の候補者を「他薦」で選びやすい制度に変更してはいけないのでしょうか? 議員や地方自治体の長に「なりたい人間」は選びたくない、「なってほしい人」を選びたいという人たちは少なくないと思います。もしも議員や地方自治体の長に「なりたい人間」よりも「なってほしい人」を選ぶことができる選挙制度になれば政治は劇的に変わるのではないかと思います。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「失われたら…」(2023/12/15)

信頼を 取り戻すため どうするか? 失われたら 取り戻せない?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。失われた信頼を取り戻すことは本当にできるのでしょうか? 失われた信頼を取り戻すためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 

率直に言わせてもらうのならば、本当に失われた信頼を再び取り戻すことができるのかどうかということはよく分からないのです。残念ながら、世の中では、ひとたび信頼を失った人間は再び信頼を取り戻すことができないままその一生を終えてしまうという事例の方が豊富に存在するのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、失われた信頼を取り戻そうと必死に努力することは必要なことなのだろうと思います。いったいどうしたら失われた信頼を取り戻すことができるのでしょうか? もしもこれから信頼を失うようなことが新たに見つかったとしても、そのことを隠さずにすぐに解消するように努力し続けることが必要なのだろうと思います。もしも信頼を失うようなことが新たに見つかったとしてもそのことを絶対に隠さずにすぐに完全に解消しようと努力し続けていれば、どんなに少なくとも本気で信頼を回復したいと思っているということぐらいは信じてもらえるようになるのではないかと思います。くどいようですが、失われた信頼を取り戻すことは本当にできるのでしょうか? 失われた信頼を取り戻すためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 何にしても失われた信頼を取り戻すことが簡単なことではないことだけは確かです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「取り戻せるか?」(2023/12/14)

『火の玉』に なって『更迭』 繰り返す? また信頼を 取り戻せるか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。失われた信頼を取り戻すことは本当にできるのでしょうか? 失われた信頼を取り戻すためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 

最近は政治資金パーティーなどの問題で国民の信頼が地に落ちた政党が存在する永田町周辺では大きな波紋が広がっているようです。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、永田町周辺で「事実上の更迭」とか「更迭」に追い込まれるような事態はもうこれで「打ち止め」になるとは限らないはずなのです。もしもこれから少しずつ信頼を回復することができたとしても、またまたまたまた疑惑や不祥事やスキャンダルなどが浮上した場合には再び信頼が地に落ちてしまうことになるのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「事実上の更迭」や「更迭」は必要なのだろうと思います。あえて言い換えれば、信頼を回復したいと思うのならば、いくら時間がかかっても「膿」を完全に出し切るということが必要なのです。もしも「事実上の更迭」や「更迭」を繰り返して国会議員の中からなかなか後任を見つけることができなくなったとしても「民間人」から後任を起用するという「選択肢」もまだ残っているわけです。本当に「火の玉」となって「事実上の更迭」や「更迭」を繰り返すことができるのでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、「火の玉」などというものは客観的に見れば「火だるま」とそれほど大きな違いはないのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『目には目を、歯には歯を』でも…」(2023/12/13)

『目には目を 歯には歯を』でも 『報復』の 連鎖を断ち切る ことはできない!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、相変わらず国際社会で深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。もしも「報復が報復を呼ぶ」ような最悪の状況に陥ることを本気で避けようと思うのならば、「被害者」や「被害者」と密接な関係にある人たちに「加害者」に対する「報復」を認めるべきではないと考えています。「報復」の連鎖を断ち切るためには「報復」を認めてはならないのです。

くどいようですが、あえて繰り返しますが、「報復」の連鎖を断ち切るためには「被害者」や「被害者」と密接な関係にある人たちに「加害者」に対する「報復」を認めてはならないのです。もしも「被害者」や「被害者」と密接な関係にある人たちに「加害者」に対する「報復」を認めてしまったとしたら、「被害者」や「被害者」と密接な関係にある人たちが想像する「被害者」の感じた苦しみや痛みなどと同じかそれ以上のものを「加害者」に加えずにはいられなくなってしまうかもしれないのです。「目には目を、歯には歯を」などという言葉もありますが…。もちろん「目には目を、歯には歯を」などでも「報復」の連鎖を断ち切ることはできないのです。そして当たり前と言えば当たり前の話ですが、「加害者」にも家族らがいるわけです。ですから「報復」によって「加害者」の家族らが「加害者」側から今度は「被害者」側になってしまうのです。やはり「報復」では「報復」の連鎖を断ち切ることができないのです。多少の批判と誤解を恐れずにあえて言わせてもらうのならば、「外交」や「対話」によって「停戦」などが実現するのならば、最初から「悲劇」などは発生しなかったのです。その上で、さらに付け加えるのならば、もしも「報復」の連鎖を本気で断ち切ろうと考えるのならば、まずは国際社会には「警察のようなもの」が存在しないという現実を直視することから始める必要があるのです(→参考:2023/12/12付、2023/11/18付、2023/10/30付etc.)。きょうのところはあえてこれ以上の深入りは避けることにしておきますが…。

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「『報復』許すことなしに…」(2023/12/12)

『被害者』の 『報復』許す ことなしに 『加害者』処罰 することできる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、相変わらず国際社会で深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。もしも「報復が報復を呼ぶ」ような最悪の状況に陥ることを本気で避けようと思うのならば、被害者や被害者と密接な関係にある人たちに「報復」を認めるべきではないと考えています。「報復」の連鎖を断ち切るためには「報復」を認めてはならないのです。

例えば、恋人や家族などのような自分にとってとても大切な人たちが無残に殺されてしまったようなときには、自分にとってとても大切な人たちを殺した人間たちに「報復」したいという強い感情を抑えることができないという人たちは少なくないと思います。しかし、それでもやはり、「報復」は認めてはならないのです。「報復」の連鎖を断ち切るためには「報復」を認めてはならないのです(→参考:2023/11/18付、2023/10/30付etc.)。それでは、実際に「被害者」の家族らによる「報復」を抑えるためにはいったい何が必要になるのでしょうか? どんなに少なくとも「被害者」の家族らにとってとても大切な人たちを殺した「加害者」を処罰することは必要不可欠になります。それでは、いったい誰が「加害者」を処罰するのでしょうか? 「被害者」の家族ら以外のいったい誰が「加害者」を処罰するのでしょうか? 本当に「被害者」の家族らが「報復」をせずに誰かに「加害者」の処罰を任せることができるのでしょうか? 本当に「加害者」はおとなしく処罰されるのでしょうか? 「報復」の連鎖を断ち切るためには足りないことだらけであることは確かです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきますが…。

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「問題か?」(2023/12/11)

問題か? 『TPO』も 考えず 騒ぎに騒ぐ 野党やメディア…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「ある有名な人」と「よく分からない人」が一緒に写った写真やら画像やら映像やらが存在するとなぜ問題になるのでしょうか? 

例えば、あえて個別具体的な固有名詞などを取り上げることは避けますが、「ある有名な人」と「よく分からない人」が同じホテルに「時間差」で入り、そしてまた同じホテルから「時間差」で出てきたところがそれぞれ写っている画像などが存在するとしたら、その画像などは何か問題になるのでしょうか? もしもこのような画像が存在するだけで「密会」などの「証拠」になってしまうというのならば、どんなスキャンダルでも簡単にでっちあげることができるようになってしまいます。それでは、「ある有名な人」と「よく分からない人」がかつてどこかで会ったことがあり、そこで名刺交換や挨拶程度の話ぐらいはしたことがあるということが事実である場合には、「ある有名な人」と「よく分からない人」は「関係」があるということになってしまうのでしょうか? 人の顔と名前を覚えるのが特技だという人たち以外の場合には、たとえ名刺交換や挨拶程度の話ぐらいはしたことがある人であっても全く記憶に残っていないという経験はよくあることではないかと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、何かの疑惑などについて考える場合には、いわゆる「TPO(→Time、Place、Occasion)」を踏まえた分かりやすい説明が必要になるのです。それにもかかわらず、野党やメディアは「TPO」も考えずに騒ぎに騒いでいるわけですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「問題になる?」(2023/12/10)

『ある人』と 『よく分からない 人』写る 写真があれば 問題になる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「ある有名な人」と「よく分からない人」が一緒に写った写真やら画像やら映像やらが存在するとなぜ問題になるのでしょうか? 

あえて個別具体的な固有名詞などを取り上げることは避けますが、「ある有名な人」と「よく分からない人」が一緒に写ったものが存在するだけでなぜそんなに問題になるのでしょうか? いくら何でももう少しぐらいはいわゆる「TPO(→Time、Place、Occasion)」を気にしなければあまりにも滅茶苦茶な話ばかりが次々と世の中を騒がせることになってしまいます。ゴシップを熱心に取り上げる週刊誌やタブロイド紙であっても、いわゆる一般紙であっても…。例えば、「ある有名な人」と「よく分からない人」がたくさんの「札束」が積み上げられたテーブルを挟んで一緒に写っている画像などが存在したとするのならば、その画像などだけで非常に大きな疑惑になるということは確かです。もちろん「フェイク画像」などではないということが大前提になるわけですが…。しかし、例えば、「ある有名な人」と「別の有名な人」が会っていた場所で、「ある有名な人」と「よく分からない人」がその他にも大勢の人たちがいる中でたまたま一緒に写った画像などが存在したとするのならば、その画像などはなぜどのように問題になるというのでしょうか? その画像などを問題視する人間たちの側にいわゆる「TPO(→Time、Place、Occasion)」を踏まえた分かりやすい説明が必要になるはずです。その上で、あえて付け加えるのならば、「ある有名な人」も街中や駅のホームなどで「よく分からない人」とたまたま隣り合って立っているところを撮影されたわけではないのならば、自分は「よく分からない人」とは関係がないということを「TPO(→Time、Place、Occasion)」を踏まえて分かりやすく説明するべきなのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『パリピ』が多い…」(2023/12/9)

ある意味で 『パリピ』が多い 永田町 元が取れない チケット売れる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会でも国際社会でも深刻な問題となっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。意外なことに永田町周辺にも年末や大きな選挙が近くなってくると「政治資金パーティー」という特殊なパーティーを頻繁に開催するようになるという意味での「パリピ」が少なくないのです。

今の時代には「政治資金パーティー」の「パーティー券」ほど購入しても「元が取れない」ものはなかなか存在しないのではないかと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「政治資金パーティー」というものは主催者側が政治資金を集めることを目的としたパーティーなのですから「パーティー券」の購入代金の「元が取れない」のはそれほど不思議なことではないのです。あくまでも一般論ですが、「政治資金パーティー」というものは「パーティー券」を購入した人たちの中からかなり多くの「欠席者」が出ることを前提として売られているものなのだろうと思います。例えば、アーティストのライブやスポーツイベントなどのようにチケットを購入した人たちのほとんどが来場することになるものとは根本的な違いがあるわけです。普通に考えれば「元が取れないチケット」が本当に売れるのでしょうか? そんなチケット購入代金の「元が取れない」ような「政治資金パーティー」の「パーティー券」をいったい誰が買うのでしょうか? ごく普通の多くの人たちにとっては「謎」なのです。ちなみに「政治資金パーティー」の「パーティー券」にも探せば良いところはあります。たとえ誰かが誰かに「パーティー券」を高値で転売しようと思ったとしても普通のチケットとは違ってそのようなことはほぼ不可能になっているのです。いずれにしてもごく普通の多くの人たちにとっては永田町周辺の「パリピ」の世界は「謎」だらけなのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『キックバック』?」(2023/12/8)

本当に 『キックバック』と 言えるのか? 誰のおカネが 誰にどれだけ?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会でも国際社会でも深刻な問題となっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。ここ数日は永田町周辺の「パーティー」に関連して「キックバック」なる言葉が飛び交っているようです。

率直に言わせてもらうのならば、永田町周辺やマスメディアが騒いでいる問題で飛び交っている「キックバック」なる言葉は具体的にどのような状態を意味しているのかが非常に分かりにくくなっているのです。そもそも本当に「キックバック」と言える行為が行われているのでしょうか? 具体的に「誰のおカネ」が「誰」から「誰」を通じて「誰」にどれだけ流れているのでしょうか? 「キックバック」という言葉を使う以上、ある方向に流れた「おカネ」の一部が「還流」していなければならないはずなのです。本当に「おカネ」は「還流」していたのでしょうか? もしかすると「おカネ」の流れがなぜか一部だけ「滞留」していたりなぜか一部だけ「別の方向」に流れていたりするということではないのでしょうか? 多少の批判と誤解を覚悟の上であえてごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる事例を用いるのならば、例えば、「〇〇を買うために〇万円必要」と言って「おカネ」を出してもらったときに「お釣り」を返さずにそのままもらってしまうようなケースならば少なくとも「キックバック」などとは言えないのだろうと思います。ただし「お釣り」をそのまま黙ってもらってしまうのは問題です。あるいは、「〇〇を買うために10万円必要」と言って「おカネ」を出してもらったときに、実はその「10万円」は「実際の価格(7万円)」にあらかじめ「3万円」が「上乗せ」された金額であったような場合にもやはり「キックバック」などとは言えないのだろうと思います。しかし、この「3万円」の「上乗せ」は少なくとも「悪質な行為」にはなります。繰り返しになりますが、具体的に「誰のおカネ」が「誰」から「誰」を通じて「誰」にどれだけ流れているのでしょうか? そしてもしも実際に「おカネ」の流れが存在していたにもかかわらずなぜかその記録が残っていないのならば「犯罪的な行為」があった可能性も高くなるのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「避難させて…」(2023/12/7)

安全に 民間人を 避難させ 完全包囲 して『作戦』を!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題となっている「悲劇」の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。あえて個別具体的な固有名詞などを取り上げることは避けますが、無抵抗な民間人を次々と殺害・拉致した「犯罪者」らを「根絶」し、拉致された民間人らの人質を取り戻すために、「軍隊」が民間人を巻き添えにすることを全く躊躇せずに「武力行使」するという「悲劇」が続いています。

多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「軍隊」と「犯罪者」は少なくともまだしばらくの間は殺し合いを止める気は全くないのだろうと思います。そのような状況であるのならば、最優先で考えるべきなのは、巻き添えになる危険性が高い民間人を安全な場所まで避難させ、「犯罪者」を完全に包囲して「人質解放」と「投降」を呼びかけることではないかと思います。まずは巻き添えになる危険性が高い民間人を安全な場所に避難させなければならないはずですが…。一時的にエジプトに避難させる? もしかすると一時的にイスラエルにも避難させる? いずれにしても200万人以上の民間人を安全な場所に避難させるためにはかなりの時間が必要になるのだろうと思います。とにかく巻き添えになる危険性が高い民間人を安全な場所に避難させる…。その上で、「犯罪者」を完全に包囲して「人質解放」と「投降」を呼びかけながら「作戦」を実行するのならば、国際社会にも「軍隊」の「作戦」をやむを得ないことだと考える人たちが増えてくるのかもしれないと思いますが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「受け入れられる?」(2023/12/6)

エジプトに 『難民キャンプ』 設置して ガザの人たち 受け入れられる?」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてから始まったイスラエル側とハマス側による戦闘は激化しています(→参考:2023/12/3付、2023/11/30付、2023/11/28付、2023/11/25付、2023/11/23付、2023/11/17付、2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区南部の最大都市ハンユニスの中心部にも地上部隊を投入して「ハマス」や「イスラム聖戦」の戦闘員と激しい戦闘を続けている模様。またイスラエル軍が「ハマス」の地下トンネル施設に海水を注入することを検討しているなどという一部報道も。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡、パレスチナ側で1万6000人以上が死亡した模様。ちなみにガザ地区の全人口の約80%の約180万人が避難民になっているなどとも伝えられている)。

多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、少なくとも現時点においては、イスラエル軍は「ハマス」などのすべての戦闘員らを「根絶」するまでは戦闘を継続するつもりなのだろうと思います。そして「ハマス」なども自分たちが拉致したすべてのイスラエル人などの人質を解放してイスラエル軍に投降するようなことは全く考えられないのだろうと思います。言い換えれば、イスラエルとハマスは少なくともまだしばらくの間は殺し合いを止める気は全くないのだろうと思います。そのように考えるのであれば、何よりも優先するべきなのは、ガザ地区内の避難民の安全確保とハマスに拉致された人質の救出ではないかと思います。ガザ地区内に避難民の安全を確保することができる安全な場所は残されているのでしょうか? またあくまでも念のために確認しておきますが、例えば、エジプトに「難民キャンプ」などを設置してガザ地区からの避難民を受け入れることはできるのでしょうか? 200万人以上の避難民を受け入れることができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「そのままに?」(2023/12/5)

自分には 『公正』『公平』 求めても 他人の『不公 正』そのままに?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。いったいどうしたら現実の社会で「公正」や「公平」を実現することができるのでしょうか? そもそも「公正」や「公平」とはいったい何なのでしょうか? 「不公正」や「不公平」とはいったい何なのでしょうか? 

繰り返しになりますが、自分たちにとって「世界」や「社会」は「不公正」や「不公平」などと主張する人間たちは、「世界」や「社会」がいったいどのような状態になれば「公正」や「公平」などと認めるのでしょうか? 自分たちにとって「世界」や「社会」は「不公正」や「不公平」などと主張する人間たちは、そもそも他人が直面している「不公正」や「不公平」などを是正するべきだとは思っていないのでしょうか? 国際社会がパレスチナの人たちにとって「不公正」や「不公平」だったとしても、そうではなかったとしても、パレスチナの人たちはイスラエルの人たちや国際社会のその他の人たちのことを「不公正」や「不公平」に取り扱ってはいないのでしょうか? たとえどこの誰であったとしても、もしも自分たちに「公正」や「公平」な取扱いなどを求めているのにもかかわらず、自分たちが他の誰かを「不公正」や「不公平」に取り扱っているのならば、その主張には全く説得力がなくなってしまうはずなのです。パレスチナであっても、イスラエルであっても、その他の場所であっても、「不公正」や「不公平」は許されないはずなのです。もっとも何が「公正」や「公平」であり、何が「不公正」や「不公平」であるのかということを定めるのはかなり難しいことなのだろうとは思いますが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『公正』『公平』」(2023/12/4)

『公正』や 『公平』などと いうものは そもそも何か? 実現できる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。いったいどうしたら現実の社会で「公正」や「公平」を実現することができるのでしょうか? そもそも「公正」や「公平」とはいったい何なのでしょうか? 「不公正」や「不公平」とはいったい何なのでしょうか? 

自分たちにとって「世界」や「社会」は「不公正」や「不公平」などと主張する人間たちは、「世界」や「社会」がいったいどのような状態になれば「公正」や「公平」などと認めるのでしょうか? まさか自分たちの主張が完全に受け入れられるようにならないのならば「不公正」や「不公平」などの状態が続くとでも思っているのでしょうか? そしてなぜ現実の社会で「公正」や「公平」を実現することが難しいのでしょうか? もしかするとある人たちが主張する「公正」や「公平」は別の人たちにとっては「不公正」や「不公平」だからなのでしょうか? 繰り返しになりますが、そもそも「公正」や「公平」とはいったい何なのでしょうか? 「不公正」や「不公平」とはいったい何なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「どこにもないが…」(2023/12/3)

危険だと 攻撃前に 知らせても 安全な場所 どこにもないが…」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてから始まったイスラエル側とハマス側による戦闘は合意した合計7日間戦闘休止の期限切れの12/1から再開されました(→参考:2023/11/30付、2023/11/28付、2023/11/25付、2023/11/23付、2023/11/17付、2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区北部のハマスの拠点への攻撃だけではなく南部でも空爆を実施している模様)。

イスラエル側とハマス側の戦闘休止と人質などの「交換」の「取引」は7日間で限界を迎えてしまったようです。もともと戦闘休止と人質などの「交換」は「時限爆弾」のようにいつかは「爆発」して破たんするような危うい「取引」だったのですが…。実際に戦闘が再開してしまったことによって「悪夢」が再び現実のものになってしまったわけです。いくら攻撃の前に「民間人」に危険な場所を知らせたとしても、すべての「民間人」が攻撃までにより危険ではない場所に避難することができるわけでもないのだろうと思います。そしていくら攻撃の前に「民間人」に危険な場所を知らせたとしても、そもそも今現在のガザ地区には安心して避難することができる安全な場所はどこにもないのだろうと思います。多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、今現在のガザ地区で戦闘が続く限り、いくら注意深く軍事作戦を実行したとしても「民間人」の犠牲は不可避なのです。そう考えるのならば、一刻も早い「停戦」を実現するためにはいったい何が必要になるのかということを真剣に考える必要があるはずなのです。きょうのところはとりあえずこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「どうしたら…」(2023/12/2)

どうしたら 『物価』を下げる ことできる? 『給料』上げる ことができるか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本でも国際社会で深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。どうしたら「物価」を下げることができるのでしょうか? どうしたら「給料」を上げることができるのでしょうか?

当たり前と言えば当たり前の話になりますが、「物価」というものは基本的には需要と供給の関係で決まることになります。ですからいくら政府などが「物価」を制御しようと思ったとしてもそれには限界があるのです。いくら「補助金」などを使って価格上昇を抑制しようとしても需要と比べて供給される量が圧倒的に少なければ「物価」の値上がりはさすがに止めることはできないのです。そしてこれもまた当たり前と言えば当たり前の話ですが、「給料」というものは基本的には企業などが長期的に利益を生み出し続けることができなければ上げることができないものなのです。いくら一時的に大きな利益が得られたからといっても「給料」を上げることができるとは限らないのです。どうやら永田町周辺には経済の基本的なしくみすらも十分に理解することができない人間たちが増えているようです。きょうのところはこれらのあまりにも当たり前すぎるくらい当たり前のことをあえてしっかりと確認しておくだけにとどめることにしておきます。

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「『時限爆弾』?」(2023/12/1)

『人質』を 解放できる 間だけ? 『時限爆弾』 のような休止…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「取引」というものは互いに「交換」することができるものを持っている場合に実現することができるものです。どちらかあるいは両方が「交換」することができるものがなくなってしまったらいったいどうなってしまうのでしょうか? 「時限爆弾」のような「取引」もあるわけですが…。

あえて個別具体的な固有名詞などを取り上げることは避けますが、例えば、世の中にはAグループの人1人に対してBグループの人3人を「交換」する「取引」もあるようです。人質などを解放することができる間だけ戦闘休止が続くのでしょうか? どちらかあるいは両方が「交換」することができるものがなくなってしまったらいったいどうなってしまうのでしょうか? 再び暴力と憎しみが爆発してそれらの連鎖が続くことになるのでしょうか? もしかすると「取引」を続けるために「交換」することができるものを手に入れようとするのでしょうか? Bグループがさらに仲間を釈放させようと思ったらAグループの人たちをさらに拉致する…。すると今度はAグループが仲間を取り返すためにさらに多くのBグループの人たちの身柄を拘束する…。これではいつまでも終わりが見えないことになってしまいます。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。

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「秒読み続く…」(2023/11/30)

『延長』で 時計の針が また戻る! 戦闘までの 秒読み続く…」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による「戦闘状態」は続いています(→参考:2023/11/28付、2023/11/25付、2023/11/23付、2023/11/17付、2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. 11/24から始まった戦闘休止前にはイスラエル軍はガザ地区北部でガザ市を包囲するような形で地上作戦を展開していた。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡、パレスチナ側で1万4000人以上が死亡した模様。今もなお「ハマス」側はイスラエルから約200人の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザ地区内に拉致して「人質」にしていると見られている(→「ハマス」がイスラエルから拉致した人質のうち40人程度を「イスラム聖戦」が監禁しているという見方も))。そしてイスラエルとハマスは11/24から「戦闘休止」を続けています(→11/24-11/27にハマス側はイスラエル国籍(二重国籍除く)50人、外国籍(二重国籍含む)19人の人質を解放、イスラエル側も11/24-11/27に刑務所に収監されていたパレスチナ人の女性と子ども150人を釈放。11/28にはハマス側はイスラエル人10人と外国籍の2人の人質を解放、イスラエル側も収監されていたパレスチナ人30人を釈放。さらに11/29深夜にハマス側はイスラエル人12人とタイ人4人の人質を解放、イスラエル側もパレスチナ人30人を釈放。期限切れギリギリの11/30朝(日本時間同午後)にイスラエル側とハマス側が戦闘休止と人質らの交換の取引をさらに1日再延長することで合意)。

イスラエルとハマスの間の「戦闘休止」と「人質らの交換の取引」は、11/24に4日間の予定で始まり、11/27に2日間延長され、11/30にさらに1日延長されたことになります。戦闘の当事者ではないガザ地区にいる民間人にとっては戦闘休止の期間があまりにも短すぎる上に、戦闘休止の合意の期限切れまでの「秒読み」が休みなく続いている状態になるわけです。戦闘の当事者ではないガザ地区にいる民間人にとっては「延長」されるたびに時計の針がまた戻るけれども「秒読み」自体は止まらないというような精神的な負担の大きな状態が続いているわけです。しかし、それでもやはり、激しい戦闘が再び始まってしまうよりはたとえ精神的な負担が大きくなっても「戦闘休止」の合意の延長が続いた方がいいのです。その上で、多少の誤解を恐れずにあえてひとこと言わせてもらうのならば、例えば、残りのすべての人質をまとめて解放した上で武装解除することを条件にした上でイスラエル領内に侵入して拉致や殺傷を行った実行犯以外のハマスなどの戦闘員の第三国への亡命を認めるなどという「取引」ができないものかとふと思うこともあります。きょうのところはただの思い付きを示すだけにとどめることにしておきます。

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「どっちもどっち!」(2023/11/29)

『非暴力』 貫くのなら よく分かる やり返すなら どっちもどっち!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。本当にすべての「民間人」は「無垢な善人」なのでしょうか? 「民間人」が「テロ組織」や「犯罪組織」などに協力するようなことは本当にないのでしょうか? 

繰り返しになりますが、「戦争」などで「民間人」に犠牲が出たときにテレビカメラの前で「自分たちがいったい何をしたというのだ?」などと嘆き叫んでいる人たちが出てくることがあります。確かにその通りだと思います。おそらく犠牲になった「民間人」には「罪」も「落ち度」もなかったのだろうと思います。しかし、もしも「民間人」の中に自ら積極的に「人間の盾」となって「テロ組織」や「犯罪組織」などとその「構成員」をかくまう「準構成員」のような「民間人」がいるのならば、あるいは、もしも「民間人」の中に「テロ組織」や「犯罪組織」などの「テロ」や「犯罪」を正当化するような「民間人」がいるのならば、これからも「巻き添え」などによる「民間人」の犠牲はなくならないのだろうと思います。さらに言えば、もしも「民間人」による抗議や抵抗が徹底的に「非暴力」を貫いていたのならば、「民間人」に犠牲が出たときに「自分たちがいったい何をしたというのだ?」などと嘆き叫んでいる人たちの言うことがよく分かるのだろうと思います。しかし、もしも「民間人」による抗議や抵抗が暴力的になり、投石、火炎瓶、自爆テロなどと次第にエスカレートし、最終的には「テロ組織」や「犯罪組織」の正式メンバーになって「敵」の「民間人」に危害を加えるようになっていくのならば、「どっちもどっち」ではないかと思う人たちも少なくないのだろうと思います。本当にすべての「民間人」は「無垢な善人」なのでしょうか? 「民間人」が「テロ組織」や「犯罪組織」などに協力するようなことは本当にないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「繰り返される?」(2023/11/28)

戦闘の 『休止』の合意 何度でも 繰り返される? それともいつか…」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による「戦闘状態」は続いています(→参考:2023/11/25付、2023/11/23付、2023/11/17付、2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区北部でガザ市を包囲するような形で地上作戦を展開していた。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡、パレスチナ側で1万4000人以上が死亡した模様。相変わらず「ハマス」側はイスラエルから約200人の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザ地区内に拉致して「人質」にしていると見られている(→「ハマス」がイスラエルから拉致した人質のうち40人程度を「イスラム聖戦」が監禁しているという見方も))。そしてイスラエルとハマスは11/24(AM7:00。日本時間同日14:00)から合意していた4日間の戦闘休止を開始し、同日夕(16:00、日本時間同日23:00)にハマス側がイスラエル側から拉致した人質のうち女性と子ども13人、タイ人10人とフィリピン人1人、戦闘休止2日目の11/25には女性と子ども13人、タイ人3人とイスラエルとロシアの二重国籍1人、戦闘休止3日目の11/26には女性と子ども13人、タイ人4人、戦闘休止4日目の11/27には女性と子ども11人がそれぞれ解放された(→合計:イスラエル国籍(二重国籍除く)50人、外国籍(二重国籍含む)19人)。イスラエル側も11/24-11/27の4日連続で刑務所に収監されていたパレスチナ人の女性と子ども合計150人を釈放(→11/24に39人、11/25に39人、11/26に39人、11/27に33人)。さらに11/27にイスラエルとハマスが戦闘休止を2日間延長することで合意したと発表されています(→11/28と11/29もそれぞれイスラエル人の人質約10人が解放されるとイスラエルの刑務所に収監されているパレスチナ人が約30人釈放される?)。

多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「イスラエル人1人に対してパレスチナ人3人」を「交換」することについても、「拉致された民間人と刑務所に収監されている人」を「交換」するということについても、多くの人たちがなかなか理解することができない「取引」ではないかと思います。この種の「交換」や「取引」が「危険な連鎖」を生み出す危険性が高いことは確かです。例えば、たとえそれほど重くはない犯罪であっても人質と交換するためにあえて次々と身柄を拘束するとか…。あるいは、身柄拘束されている仲間を釈放するためにとにかく民間人を拉致するとか…。そんな「危険な連鎖」が生まれてしまう危険性が高いことも確かです。しかし、それにもかかわらず、戦闘休止が延長されることは悪いことではないのです。国際社会の中ではハマスがガザ地区に拉致したイスラエル人などの人質のすべてが解放されるまでこのまま戦闘休止の延長が何度も繰り返されるといいと思っている人たちが少なくないと思います。しかし、「休止」というものはあくまでも「休止」でしかないのです。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『悲劇』は続く?」(2023/11/27)

『協力』を し続けるなら 『巻き添え』の 『悲劇』は続き 犠牲も増える」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。本当にすべての「民間人」は「無垢な善人」なのでしょうか? 本当にすべての「民間人」は「弱者」なのでしょうか? 「民間人」が「テロ組織」や「犯罪組織」などに協力するようなことは本当にないのでしょうか? 

「戦争」などで「民間人」に犠牲が出たときにテレビカメラの前で「自分たちがいったい何をしたというのだ?」などと嘆き悲しむ人たちが出てくることがあります。確かにその通りだと思います。おそらく犠牲になった「民間人」には「罪」も「落ち度」もなかったのだろうと思います。しかし、もしも「民間人」の中に自ら積極的に「人間の盾」となって「テロ組織」や「犯罪組織」などとその「構成員」をかくまう「テロ組織」や「犯罪組織」などの「準構成員」のような「民間人」がいるのならば、これからも「巻き添え」などによる「罪」も「落ち度」もない「民間人」の犠牲がなくならないのだろうと思います。そして「巻き添え」などによって「罪」も「落ち度」もない「民間人」の犠牲が増えれば増えるほど「テロ組織」や「犯罪組織」などとその「構成員」をかくまう「民間人」も増えていくのかもしれないと思います。もちろん「敵」を憎むような感情は理解できなくはないのです。「敵」を憎むような感情は良い意味でも悪い意味でも人間的な感情の1つなのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、「テロ組織」や「犯罪組織」などに協力する「民間人」が存在し続ける限り、「巻き添え」による「悲劇」はなくならず、「巻き添え」による犠牲者が増え続けることも確かなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『民間人』は…」(2023/11/26)

『テロ組織』 『犯罪組織』 に協力 させられている 『民間人』は…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。本当にすべての「民間人」は「無垢な善人」なのでしょうか? 本当にすべての「民間人」は「弱者」なのでしょうか? 「民間人」が「テロ組織」や「犯罪組織」などに協力するようなことは本当にないのでしょうか? 

残念ながら「テロ組織」や「犯罪組織」などが大きな影響力を持っている社会の中では「テロ組織」や「犯罪組織」などに協力することによって何らかの利益を得ることができるのだろうと思います。もちろん「テロ組織」や「犯罪組織」などに脅されて無理矢理協力させられてしまうような「民間人」も少なくはないのだろうと思います。しかし、同時に「テロ組織」や「犯罪組織」などに積極的に協力している「民間人」も少なくはないのだろうと思います。そしてひどい場合には自ら積極的に「人間の盾」となって「テロ組織」や「犯罪組織」などとその「構成員」をかくまう「テロ組織」や「犯罪組織」などの「準構成員」のような「民間人」もいるのだろうと思います。本当にすべての「民間人」は「無垢な善人」なのでしょうか? 本当にすべての「民間人」は「弱者」なのでしょうか? しかし、それでもやはり、「無垢な善人」や「弱者」であってもなくても、「戦争」であってもなくても、「民間人」に危害を加えられることは少なくとも良いことではないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「一時しのぎ」(2023/11/25)

『人質』の 解放による 『休戦』は 一時しのぎに すぎないのだが…」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘状態は続いています(→参考:2023/11/23付、2023/11/17付、2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区北部でガザ市を包囲するような形で地上作戦を展開している模様。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡、パレスチナ側で1万4000人以上が死亡した模様。相変わらず「ハマス」側はイスラエルから230人以上の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザ地区内に拉致して「人質」にしていると見られている(→「ハマス」がイスラエルから拉致した人質のうち40人程度を「イスラム聖戦」が監禁しているという見方も))。そしてイスラエルとハマスは11/24(AM7:00。日本時間同日14:00)から合意していた4日間の戦闘休止を開始し、ハマスが同日夕(16:00、日本時間同日23:00)にイスラエル側から拉致した人質のうち女性と子ども計13人、さらにタイ人(→タイの首相はタイ人12人と発表。カタールの発表ではタイ人10人、フィリピン人1人)を解放、そしてイスラエル側も刑務所に収監されていたパレスチナ人の女性と子ども計39人を釈放したなどと報道されています。

イスラエルとハマスが「合意」していた4日間の戦闘休止と人質解放が11/24から始まりました。とりあえず初日は大きな問題なく「合意」は履行されたようです。あくまでも念のために確認しておきますが、このままハマスが「合意」を履行し続けてイスラエルから拉致した人質の一部を解放し続けたとしても、すべての人質がいつになったら解放されることになるのかは不明なのです。繰り返しになりますが、現時点で最も大切なことは、すべての人質がいったいいつになったら解放されるのか、そしていったいいつになったら一時的な「休戦」ではなくもう少し長い「停戦」が実現するのかということなのです。くどいようですが、ハマスがイスラエルから拉致したすべての人質が解放されることがなければ、「停戦」もその後の「恒久的な和平」の成立の可能性も生み出されないということだけは確かなのです。「人質」の解放による「休戦」は一時しのぎにすぎないのです。しかし、それでもやはり、「停戦」や「恒久的な和平」のスタートになる可能性は0%ではないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「命の『重さ』『軽さ』」(2023/11/24)

『人質』の 解放見ると よく分かる? 命の『重さ』 命の『軽さ』」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。人間の命には「重さ」や「軽さ」があるのでしょうか? 言い換えれば、ある人の命よりも別のある人の命の方が重かったり軽かったりするのでしょうか? 

あえて個別具体的な固有名詞などを取り上げることは避けますが、「ある国の国民」と「別の国の国民」の命の「重さ」は同じではなくどちらかが重かったり軽かったりするのでしょうか? 「人質」の解放を見ると命の「重さ」や命の「軽さ」がよく分かるのかもしれないと思うことがあります。例えば、「ある国の国民」を1人解放するためには「別の国の国民」を3人解放しなければならないとか…。あるいは、自分たちの仲間の命は重いが、自分たちの「敵」の命は軽いとか…。繰り返しになりますが、人間の命には「重さ」や「軽さ」があるのでしょうか? 言い換えれば、ある人の命よりも別のある人の命の方が重かったり軽かったりするのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「一部解放?」(2023/11/23)

『人質』が 一部解放 された後 残りもすべて 解放される?」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→参考:2023/11/17付、2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区北部でガザ市を包囲するような形で地上作戦を展開している模様。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡、パレスチナ側で1万4000人以上が死亡した模様。相変わらず「ハマス」側はイスラエルから230人以上の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザ地区内に拉致して「人質」にしていると見られている(→「ハマス」がイスラエルから拉致した人質のうち40人程度を「イスラム聖戦」が監禁しているという見方も))。そんな中、イスラエルとハマスが4日間の戦闘休止と50人程度の人質解放で合意したなどと11/22にカタールが発表しました(→解放されるのは拉致された女性と子供(19歳未満)の人質50人。休戦が1日延長されればさらに1日当たり10人を追加で解放? イスラエル側もパレスチナ人の女性と子供の受刑者150人を解放?)。

イスラエルとハマスが4日間の戦闘休止とガザ地区で拘束されている50人の人質解放で「合意」したなどと報道されています。しかし、少なくとも現時点においては、「合意」の詳細には不明な点が残っています。そしてその「合意」が確実に履行されることになるのかどうかということも不明なのです。さらに言えば、仮にハマスがイスラエルから拉致した人質の一部が解放されたとしても、残りのすべての人質がいつになったら解放されることになるのかは不明なのです。現時点で最も大切なことは、すべての人質がいったいいつになったら解放されるのか、そしていったいいつになったら停戦が実現するのかということだと思っています。まずはハマスがイスラエルから拉致したすべての人質が解放されることがなければ、停戦もその後の恒久的な和平の成立の可能性も生み出されないということだけは確かなのです。現時点ではひとまずこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『海賊』」(2023/11/22)

『海賊』は 逮捕・訴追し 処罰する! 『ソマリア沖』も 『紅海上』も…」-

日本郵船が運航する貨物船が11/19に中東のイエメン沖の紅海上で親イランのイエメンの反政府武装組織「フーシ派」によって乗っ取られる事件が発生したことで波紋が広がっています(→日本郵船が運航する自動車運搬船「ギャラクシー・リーダー」。船主は英国ギャラクシー・マリタイム社。乗員は日本人もイスラエル人も含まれない多国籍の25人。を航行中に乗っ取られたと見られている。「フーシ派」はイスラエルの船を乗っ取ったなどと主張。イエメン西部ホデイダ沖の紅海上を航行中の貨物船に「フーシ派」がヘリコプターで接近して兵士を降下させて乗っ取ったと見られている)。

多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、親イランのイエメンの反政府武装組織「フーシ派」の行為は「海賊行為」であり、その「海賊行為」を行った「フーシ派」の「実行犯」を逮捕して訴追して処罰しなければならないのです。民間の貨物船がいったいどのような違法行為を行ったというのでしょうか? 「フーシ派」はいったい何の権限があって民間の貨物船を乗っ取ったのでしょうか? ちなみに「拿捕」などという言葉は「海賊行為」を正当化するために悪用される危険性があるということも指摘しておくことにします。そして国際法上は「いずれの国も、公海その他いずれの国の管轄権にも服さない場所において、海賊船舶、海賊航空機又は海賊行為によって奪取され、かつ、海賊の支配下にある船舶又は航空機を拿捕し及び当該船舶又は航空機内の人を逮捕し又は財産を押収することができる」(国連海洋法条約105条。参考:https://worldjpn.net/documents/texts/mt/19821210.T1J.html etc.)。ちなみにソマリア沖の海賊対策のために各国は自衛隊を含めて部隊を派遣しているはずです。繰り返しになりますが、「海賊行為」を行った「フーシ派」の「実行犯」を逮捕して訴追して処罰しなければならないのです。「ソマリア沖」も「紅海上」も海賊対策の必要性は変わらないはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「歯止めになるか?」(2023/11/21)

学校や 病院などを 警備して 攻撃防ぐ 歯止めになるか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、どんな「主権国家」にも存在する「警察のようなもの」は国際社会には存在しないのです。「警察のようなもの」が存在しない国際社会の治安や秩序をいったいどのようにしたら守ることができるのでしょうか? 

きょうも多少の誤解と批判を恐れずにあえて「議論を呼ぶ空想」をしてみることにしようと思います。もしも地球上の多くの「民間人」が「クラウドファンディング」などによって資金を集めて「民間軍事会社」に依頼をしたら激しい戦闘が続いている地域で停戦を実現することはできるのでしょうか? あえて個別具体的な地名や固有名詞などを取り上げることは避けますが、「民間軍事会社」に依頼すれば病院や学校やその周辺で繰り返されている戦闘や空爆を止めることはできるのでしょうか? もちろん戦闘地域から遠く離れた平和な場所でいくら集会やデモ行進などを繰り返しても戦闘地域で続いている戦闘や空爆を実際に止めることができる可能性は事実上0%です。しかし、もしも「紛争当事者」とは全く無関係な「民間軍事会社」が戦闘地域の病院や学校などを「警備」することができるのならば戦闘や空爆に対する一定の歯止めになる可能性は少なくとも0%ではなくなるのです。もしも「紛争当事者」とは全く無関係な「民間軍事会社」が病院や学校などから「紛争当事者」を完全に「排除」した上で「警備」をし続けることができるのならば、「紛争当事者」は病院や学校などを攻撃する理由はなくなるはずなのです。もっともこのような話は今現在の国際社会ではただの「絵空事」にすぎないわけですが…。しかし、今現在の国際社会であってもどんな場所のどんな場合であっても絶対に実現不可能とまでは言い切れない話ではないと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。

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「回復できる?」(2023/11/20)

民間の 『軍事会社』を 利用して 秩序や治安 回復できる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、どんな「主権国家」にも存在する「警察のようなもの」は国際社会には存在しないのです。「警察のようなもの」が存在しない国際社会の治安や秩序をいったいどのようにしたら守ることができるのでしょうか? 

きょうは多少の誤解と批判を恐れずにあえて「議論を呼ぶ空想」をしてみることにしようと思います。国際社会の中には「民間軍事会社」などというものがいくつも存在しているそうです。おそらく「民間軍事会社」などというものの実態はそれぞれの「民間軍事会社」などで大きく異なっているのだろうと思います。例えば、「ウクライナを侵略し続けているロシア軍の一部」となっている「民間軍事会社」、内戦が続く独裁国家や破たん国家で独裁者の「手先」となって残虐行為を繰り返している「民間軍事会社」、治安が極度に悪化した破たん国家などで武装して顧客の生命などを守る「民間軍事会社」は同じ「民間軍事会社」と呼ばれていてもそれぞれ全く別物と言ってもいいのだろうと思います。その上で、あえて「議論を呼ぶ空想」をしてみるのならば、もしも「民間軍事会社」が内戦の続く破たん国家や独裁国家で「独裁者のため」ではなく「治安や秩序の回復のため」に「軍事作戦」を実施したとするならば、実際に内戦が続く破たん国家や独裁国家の治安や秩序を回復することができるのでしょうか? もしも「民間軍事会社」を利用して実際に内戦が続く破たん国家や独裁国家の治安や秩序を回復することができるのならば、内戦が続く破たん国家や独裁国家の治安や秩序の回復を心から望んでいる地球上の多くの「民間人」が「クラウドファンディング」などによって集めた資金で「民間軍事会社」に内戦が続く破たん国家や独裁国家の治安や秩序の回復するための「軍事作戦」を実施させることが現実味を帯びてくるのかもしれないと思います。もっとも「民間軍事会社」については多くの主権国家で合法的な存在として認められているわけではないのですが…。きょうのところはひとまずこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『保安官』?」(2023/11/19)

『警察』が いないのならば 『保安官 のようなもの』で 秩序を守る?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、どんな「主権国家」にも存在する「警察のようなもの」は国際社会には存在しないのです。「警察のようなもの」が存在しない国際社会の秩序をいったいどのようにしたら守ることができるのでしょうか? 

繰り返しになりますが、国際社会には「警察のようなもの」が存在しないのです。ですから「主権国家」としては基本的には自分自身の力でなんとかして「凶悪犯罪」の被害に遭わないようにするか、他の「主権国家」と協力して共同で「凶悪犯罪」から自分たちを守ろうとすることになるわけです。あるいは、もしも国際社会の中に「非常に強い主権国家」が存在するのならば、「主権国家」にはその「非常に強い主権国家」に自分たちを守ってもらうという「選択肢」もあるのだろうと思います。別の言い方をすれば、「非常に強い主権国家」に「警察のようなもの」が存在しない国際社会を「無法地帯」にしないために秩序を守る「保安官のようなもの」になってもらうわけです。確かに「非常に強い主権国家」が「保安官のようなもの」になれば国際社会にはそれなりの秩序が維持されることになるのだろうと思います。しかし、いくら「非常に強い主権国家」であっても「保安官のようなもの」であり続けるということは経済的な意味でもその他の意味でもかなり大きな負担になるのです。またもしも「保安官のようなもの」になっている「非常に強い主権国家」が私利私欲を追求した場合には「力」ではかなわない他の「主権国家」はその行動を止めることができないわけです。そのようなことを考えるのならば「非常に強い主権国家」に「警察のようなもの」が存在しない国際社会を「無法地帯」にしないための「保安官のようなもの」になってもらうという「選択肢」には致命的な欠陥も限界もあるということに気づくことができると思います。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきますが…。

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「『報復』なしに…」(2023/11/18)

『被害者』に 『報復』させる ことはなく 解決できる しくみをつくる!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、どんな「主権国家」にも存在する「警察のようなもの」は国際社会には存在しないのです。「警察のようなもの」が存在しない国際社会の秩序をいったいどのようにしたら守ることができるのでしょうか? 

繰り返しになりますが、国際社会には「警察のようなもの」が存在しないのです。ですから、もしも国際社会で「主権国家」が強盗や殺人や拉致などの「凶悪犯罪」の被害に遭ったような場合であっても「主権国家」の中で「個人」が犯罪被害に遭ったときのように「警察のようなもの」がすぐに駆け付けてくれるようなことを期待することができないわけです。「警察のようなもの」がすぐに駆け付けてくれるわけではない…。そうなると「主権国家」としては基本的には自分自身の力でなんとかして「凶悪犯罪」の被害に遭わないようにするしかないわけです。そしてもしも「主権国家」が自分自身の力だけではどうしても「凶悪犯罪」から自分自身を守ることができないのならば、他の「主権国家」と協力して共同で「凶悪犯罪」から自分たちを守ろうとするのです。さらに言えば、そんな「警察のようなもの」がすぐに駆け付けてくれるようなことを期待することができない国際社会の中で、もしも「主権国家」が強盗や殺人や拉致などの「凶悪犯罪」の被害に遭ってしまった場合には、自分自身の力によって犯罪被害の回復を図るしかないのです。あえて言い換えるのならば、「凶悪犯罪」の被害に遭った「主権国家」は自衛のために「報復」などを実施することになるわけです。もしも「主権国家」の中の「個人」が「被害者」に「報復」を許すことになったらいったいどうなってしまうのでしょうか? 例えば、もしも「仇討ち」などが許されるのならば「仇討ち」が新たな別の「仇討ち」を招くことにもなるのだろうと思います。もしも「被害者」に「報復」が許されるのならば怒りにまかせた「報復」はかなり凄惨なものになる危険性もあるのです。どんなに少なくとも「被害者」による「報復」なしで物事を解決することができるしくみをつくらなければ「報復が報復を呼ぶ」ような最悪の展開を避けることは難しくなってしまうわけですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「無事に戻ってくるまでは…」(2023/11/17)

『人質』が 無事に戻って くるまでは 戦い終わる ことはないのか…」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→参考:2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区北部でガザ市を包囲するような形で地上作戦を展開している模様。そしてイスラエル軍は11/15にガザ地区で最大のシファ病院内の一部区域で限定的な軍事作戦を実施しているなどと発表(→イスラエル側は病院内にハマスが軍事拠点を設置しているなどと主張。そして指揮所や武器などを発見したと主張。ハマスは否定)。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡(→イスラエル側が身元不明の約200人の遺体は「ハマス」の戦闘員と判断して修正)、パレスチナ側で1万1000人以上が死亡した模様。相変わらず「ハマス」側はイスラエルから230人以上の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザ地区内に拉致して「人質」にしていると見られている(→「ハマス」がイスラエルから拉致した人質のうち40人程度を「イスラム聖戦」が監禁しているという見方も)。国連安保理は11/16朝(日本時間)に人道支援目的での十分な日数の戦闘休止や人道回廊の設置などを求める決議を賛成多数で可決(→5度目の決議案はマルタが提出。賛成は日本、フランス、中国などの12カ国。米国、英国、ロシアは棄権))。

少なくとも現時点においては、イスラエル側が主張するようにハマスの軍事拠点などが病院の地下などに設置されているのかどうか、またハマスが拉致した「人質」もそうした地下施設に捕らわれているのかどうかはよく分からないのです。その上で、あえて言わせてもらうのならば、イスラエルとハマスの戦闘は、ハマスが拉致したすべての「人質」が無事に戻ってくるまでは終わることはないのかもしれないと思います。それどころか、もしもイスラエル軍が国際社会からの厳しい批判を受けながら今現在「地上作戦」を展開しているガザ地区の北部でハマスが拉致したすべての「人質」を発見・救出をすることができなかった場合には、ガザ地区の南部でもイスラエル軍の「地上作戦」が開始される可能性が高くなっていくのではないかと思います。いずれにしてもイスラエルとハマスの戦闘が続けば続くほど、ガザ地区内にいる民間人とハマスによって拉致された「人質」が追い詰められていくということになるのです。あくまでも念のために確認しておきますが、やはりハマスが拉致したすべての「人質」を無条件で解放することが最も早く戦闘を終結させることができる唯一の「選択肢」になるのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきますが…。

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「変化しない?」(2023/11/16)

『真実』は 変化はしない ものなのか? 変化するとき 『偽物』になる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。本当に自分たちの目の前にしか助けを求めていたり支援が必要だったりする人たちはいないのでしょうか? 自分たちが今いる場所から見えないところには助けを求めていたり支援が必要だったりする人たちはいないのでしょうか? たとえ「真実」であったとしてもその一部分だけを切り取ってしまうと「虚偽」になってしまうのでしょうか? 

あくまでも一般論ですが、世の中に存在する物事には様々な側面があるものです。ですから「真実」を見極めるのはなかなか難しいものなのです。もちろん「真実」というものは「カメレオン」のように周囲の環境に合わせて次々と体の色を変化させるような性質のものではないのです。しかし、本当に「真実」というものは変化しないものなのでしょうか? 「真実」は変化する場合もあれば変化しない場合もあるのだろうと思います。そして「真実」には変化する部分もあれば変化しない部分もあるのだろうと思います。例えば、「白い服」についた「黒い染み」は次に見たときには洗濯して消えてなくなっている場合もあるのでしょうし、「黒い染み」が消えずに残っている場合もあるのだろうと思います。でも、もしかすると「黒の染み」の数や面積が増えていることもあるかもしれないのです。繰り返しになりますが、本当に「真実」というものは変化しないものなのでしょうか? そして「真実」が変化するときには「偽物」になってしまうのでしょうか? 繰り返しになりますが、「真実」を見極めるのはなかなか難しいものなのです。いずれにしても自分自身が「真実」であると一度信じ込んだものがいつの間にか変化している可能性もあるということを忘れるべきではないのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「一部分なら…」(2023/11/15)

『真実』も 一部分なら 『虚偽』になる? 見せたい事実 だけ切り取って…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。本当に自分たちの目の前にしか助けを求めていたり支援が必要だったりする人たちはいないのでしょうか? 自分たちが今いる場所から見えないところには助けを求めていたり支援が必要だったりする人たちはいないのでしょうか? たとえ「真実」であったとしてもその一部分だけを切り取ってしまうと「虚偽」になってしまうのでしょうか? 

例えば、「白い服」にいくつか「黒い染み」ができてしまったような状態のときに、「白い部分」だけを取り上げて「白い服」であると言うことは「虚偽」なのでしょうか? 逆に、いくつかある「黒い染み」だけをわざわざ取り上げて「黒い染み」だらけなどと言うようなことは「虚偽」なのでしょうか? さらに言えば、少し離れた場所から「白い服」を見せた後に、いくつかある「黒い染み」だけを取り上げて見せれば本当に「真実」を示したことになるのでしょうか? もしかすると「白い服」の別の場所には「カレーの黄色い染み」があるかもしれないわけですが…。さらに言えば、パンダを見て「パンダは黒」と言うのも「パンダは白」と言うのも「虚偽」になるわけですが、「パンダは白と黒」と言えば本当に「真実」を伝えたことになるのでしょうか? その上で、あえて言わせてもらうのならば、「保育器から出されて並べて寝かせられている未熟児たち」はいったい何を示しているのでしょうか? 「人質として拉致されている映像」や「病院周辺の地下トンネルや地下室の映像や画像」はいったい何を示しているのでしょうか? 繰り返しになりますが、たとえ「真実」であったとしてもその一部分だけを切り取ってしまうと「虚偽」になってしまうのでしょうか? 自分たちが見せたい事実だけを切り取って並べるのならば…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『原因』は放置?」(2023/11/14)

『難民』や 『経済移民』 なぜ増える? その『原因』は 放置したまま?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。本当に自分たちの目の前にしか助けを求めていたり支援が必要だったりする人たちはいないのでしょうか? 自分たちが今いる場所から見えないところには助けを求めていたり支援が必要だったりする人たちはいないのでしょうか? 

繰り返しになりますが、「難民」や「避難民」にしても、そしてもちろん「経済移民」にしても、目の前に現れて助けや支援を求める人たちが逃れてきたのには「原因」があるはずなのです。また当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、「難民」や「避難民」、あるいは「経済移民」などとして助けや支援を求める人たちが逃れてくる前にいた場所にはおそらく「難民」や「避難民」、あるいは「経済移民」などにはならずにそのまま残っている助けや支援が必要な人たちがまだまだたくさん残されているはずなのです。これからも「難民」や「避難民」、あるいは「経済移民」などは増えていくのでしょうか? もしもこれからも増えていくのであれば、なぜ「難民」や「避難民」、あるいは「経済移民」などは増えていくのでしょうか? くどいようですが、やはり「難民」や「避難民」、あるいは「経済移民」が生み出されることになった「原因」にまで遡って考える必要があるのです。もっとも「難民」や「避難民」、そして「経済移民」を生み出した「原因」が「内戦」のようなものであるのならば、そう簡単には「原因」をなくすことができないわけです。しかし、それでもやはり、逃れることができないまま残されている人たちを含めた可能な限り多くの人たちを救うためには「難民」や「避難民」、そして「経済移民」を生み出した「原因」の解消を目指す必要があるはずなのです。あくまでも念のために確認しておきますが、「難民」や「避難民」、そして「経済移民」はその数が激増すればすべての人たちを助けたり支援したりすることは極めて難しい状況に陥るはずです。それにもかかわらず、「難民」や「避難民」、そして「経済移民」を生み出した「原因」は放置したままなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「見捨ててもいい?」(2023/11/13)

『難民』に ならずそのまま 残る人 見捨ててもいい? そういうことか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。本当に自分たちの目の前にしか助けを求めていたり支援が必要だったりする人たちはいないのでしょうか? 自分たちが今いる場所から見えないところには助けを求めていたり支援が必要だったりする人たちはいないのでしょうか? 

言うまでもなく「人道主義」はとても大切です。もちろん一般論としては「難民」や「避難民」などは保護されなければならないとは思います。そしてもしも「難民」や「避難民」などとして助けや支援を求めている人たちが自分たちの目の前に現れたのならば、やはり人道的な観点から適切な支援をしなければならないと思います。しかし、本当に自分たちの目の前にしか助けを求めていたり支援が必要だったりする人たちはいないのでしょうか? 当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、「難民」や「避難民」として助けや支援を求める人たちが逃れてきたのには「原因」があるはずなのです。そしてこれもまた当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、「難民」や「避難民」として助けや支援を求める人たちが逃れてくる前にいた場所にはおそらく「難民」や「避難民」にならずにそのまま残っている助けや支援が必要な人たちがまだまだたくさん残されているはずなのです。目の前にいる「難民」や「避難民」として助けや支援を求めている人たちだけを助けたり支援したりしていればいいのでしょうか? 「難民」や「避難民」にならずそのまま残っている人たちは見捨ててもいいということなのでしょうか? さすがにそんなことはないはずですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『共存』できる関係に…」(2023/11/12)

お互いに 存在認め 合うならば 『共存』できる 関係になる」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら世の中には互いに憎しみ合う関係の人間たちがいるものです。いったいどうしたら互いに憎しみ合う関係の人間たちが「殺し合い」をせずに「共存」することができるのでしょうか?

当たり前と言えば当たり前の話ですが、もしも互いに相手の存在を認めることがなければ、最悪の場合には果てしなく「殺し合い」が続くことになってしまうのです(→参考:2023/10/27付etc.)。ですから、どんなに少なくとも互いに相手の存在を認め合うことがなければ「共存」するのは難しくなってしまうのです。そして互いに相手が存在することを認め合うということは、互いに相手の生命などを尊重するということを意味することになるのです。もちろん互いに相手が「存在」することを否定していなくても「戦争」が発生することはあります。しかし、もしも互いに相手の「存在」を否定しているわけではないのならば、たとえ「戦争」になったとしても、「兵士」と「兵士」だけが徹底的に殺し合うようなことはあったとしても、強力な武器を持った「兵士」が武器を持たない「民間人」を襲撃して生命などを奪うという最低最悪の事態にまではなかなか陥ることはないはずなのです。くどいようですが、互いに相手が存在することを認めるということは、互いに相手の生命などを尊重するということを意味することになるのです。どんなに少なくとも互いに相手の存在を認め合うことがなければ「共存」するのは難しくなってしまうのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『再発防止』」(2023/11/11)

『いつ終わる?』 『どう終わるか?』を 考えて 『再発防止』 最優先に!」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→参考:2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区北部でガザ市を包囲するような形で地上作戦を展開している模様。またガザ地区全域で空爆は続く。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡(→イスラエル側が身元不明の約200人の遺体は「ハマス」の戦闘員と判断して修正)、パレスチナ側で1万1000人以上が死亡した模様。相変わらず「ハマス」側はイスラエルから230人以上の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザ地区内に拉致して「人質」にしていると見られている。人道目的での一時停戦などは実現していなかったが、イスラエル軍が10/9からガザ地区北部で住民避難などの人道支援のために毎日4時間の戦闘休止を行うなどと10/9に米政府が発表(→戦闘停止は3時間前に通告するという)。ガザ北部に民間人を退避させるための2つの人道回廊の設置も。またガザ地区で活動する武装組織イスラム聖戦が10/9にイスラエル人の高齢女性と少年の人質2人を解放する用意があるなどと主張(→「ハマス」がイスラエルから拉致した人質のうち40人程度を「イスラム聖戦」が監禁しているという見方も))。

相変わらずガザ地区では終わりの見えない「殺し合い」が続いています。残念ながらそのような果てしない「殺し合い」が中東全域に拡大する危険性はまだ残っているのだろうと思います。私としては、そろそろガザ地区での終わりの見えない「殺し合い」を「いつ」「どのように」終わらせていくのかということを考えなくてはならない時期になってきているのではないかと考えています。もちろん私も今現在の終わりの見えない「殺し合い」を一刻も早く終わらせることができるのならば一刻も早く終わらせるべきだとは思っています。国際社会の多くの人たちが望んでいる「即時停戦」などという考え方には基本的には反対ではないのです。しかし、何よりも優先するべきなのは、このような「殺し合い」がもう二度と起こることのないようにするためにはいったいどうしたらいいのかということを真剣に考えることなのではないかと思います。「殺し合い」の「再発防止」を最優先で考えるべきであると思っています。どんなに少なくともイスラエルとパレスチナが互いに相手の存在を認めようとしない状態が続くことになるのならば何かのきっかけに「殺し合い」が何度でも繰り返されることになるのだろうと思います。きょうのところはこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「座り込んだら…」(2023/11/10)

『ガザ』に行き 『即時停戦』 させるため 命を懸けて 座り込んだら…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら世の中には「好ましくないこと」がたくさんあります。そして多くの人たちが街頭などでその「好ましくないこと」に「反対」などと叫ぶこともあります。しかし、本当に何度も繰り返し叫んでいればいつか「好ましくないこと」が消えてなくなるのでしょうか? あるいは、何度も繰り返し叫んでいればいつか「好ましいこと」を実現することができるのでしょうか? 

地球上の様々な場所で「即時停戦」などを求めるデモなどが行われているそうです。しかし、何度も繰り返していますが、いくら「戦争をやめろ」「即時停戦を」「平和を」などと繰り返し叫び続けたとしても、戦争の「原因」が消えてなくなるわけではないのです。多少の批判と誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、例えば、もしも「即時停戦」などを求める人たちが「ガザ」に行って戦闘の当事者の間に割って入って命を懸けて座り込んだとするならば、もしかすると戦闘を一時的に停止させることができるのかもしれないと想像することはあります。もちろん「地球温暖化阻止」や「環境保護」などを唱えて過激な行動を繰り返す「エコテロリスト」などと呼ばれる人間たちのやるようなことを正当化することはできないと思います。しかし、それでもやはり、平和な場所で「戦争をやめろ」「即時停戦を」「平和を」などと繰り返し叫び続けることよりも、実際に「ガザ」に行って当事者の間に割って入って命懸けで座り込むことの方が「即時停戦」が実現する可能性が高いような気がします。きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「興味ない!」(2023/11/9)

結局は 自分自身が 当選が できるかどうか しか興味ない!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」ではまず話題に上らないけれども、永田町周辺のごく一部の人間たちだけは強い興味関心を持ち続けている「解散・総選挙の時期」の話題についてあえて少しだけ考えてみることにしようと思います。相変わらずテレビニュースなどでは「解散・総選挙の時期」について盛んに取り上げられています。しかし、ごく普通の多くの人たちは「解散・総選挙の時期」についてはほとんど興味関心を持っていないのではないかと思います。

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「解散・総選挙の時期」に強い興味関心を持ち続けているような人間たちは、結局は自分自身や自分たちの仲間が次の総選挙で当選することができるのかどうかということにしか興味関心を持っていないのだろうと思います。少し先になったらどうなるのかはよく分からないが、もしも今のうちに解散・総選挙が行われるのならば、自分自身や自分たちの仲間が当選することができる可能性が高いと思うのならば「近く解散・総選挙が行われることになるのかもしれない」「年内にも解散・総選挙があるのかもしれない」などと騒ぎ始めるのだろうと思います。しかし、自分自身や自分たちの仲間が次の総選挙で当選することができるのかどうかなどということを想像することすらもできないごく普通の多くの人たちにとっては「解散・総選挙の時期」などは全くどうでもいい話なのだろうと思います。以前から何度も繰り返していますが、「解散・総選挙の時期」などというものは本当にニュースなのでしょうか? きょうのところはとりあえずごく普通の多くの人たちと永田町周辺の人間たちとの間にはあまりにも大きな亀裂があるということをあえて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『原因』を…」(2023/11/8)

『原因』を 考えないで 叫んでも 何も止まらず 何も変わらず…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら世の中には「好ましくないこと」がたくさんあります。そして多くの人たちが街頭などでその「好ましくないこと」に「反対」などと叫ぶこともあります。しかし、本当に何度も繰り返し叫んでいればいつか「好ましくないこと」が消えてなくなるのでしょうか? あるいは、何度も繰り返し叫んでいればいつか「好ましいこと」を実現することができるのでしょうか? 

もしも目の前の「好ましくないこと」を本気でなくしたいと思うのならば、そもそもその「好ましくないこと」はいったいどうして生み出されることになったのかという「原因」について考えなくてはいけなくなるはずなのです。例えば、もしも戦争のない平和な世の中にしたいと本気で思うのならば、戦争の「原因」について考えることが必要不可欠になるのです。いくら「戦争をやめろ」「即時停戦を」「平和を」などと繰り返し叫び続けたとしても、戦争の「原因」が明らかになったりその「原因」が消えてなくなったりするわけではないのです。それにもかかわらず「戦争をやめろ」「即時停戦を」「平和を」などと繰り返し叫び続ければ停戦を実現したり戦争のない平和な世の中にしたりすることができると本気で思っているのでしょうか? 叫び続けているだけで停戦を実現したり戦争のない平和な世の中にしたりすることができるはずがないのです。もっとも「即時停戦」ならばそれを実現するためにはとりあえず「原因」を考える必要はあまりないのです。誰かが叫んでいてもいなくても、とにかく争っている当事者よりも「はるかに強力な力を持った何か」が争いに介入することができさえすれば、すぐにでも「即時停戦」を実現することはできるのだろうと思います。しかし、残念ながら国際社会にはそれぞれの国家内に存在する「警察」のような「強力な力を持った何か」は存在しないのです。ですから少なくとも現時点においては現実の国際社会で「即時停戦」を実現することは極めて難しいということになるのです。くどいようですが、本当に何度も繰り返し叫んでいればいつか「好ましくないこと」が消えてなくなるのでしょうか? あるいは、何度も繰り返し叫んでいればいつか「好ましいこと」を実現することができるのでしょうか? 「原因」を考えずにただ繰り返し叫んでいても何も止まらないし何も変わらないのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『魔法使い』」(2023/11/7)

世界中 『魔法使い』が あふれている? 叫べばいつか 効果が出るか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら世の中には「好ましくないこと」がたくさんあります。そして多くの人たちが街頭などでその「好ましくないこと」に「反対」などと叫ぶこともあります。しかし、本当に何度も繰り返し叫んでいればいつか「好ましくないこと」が消えてなくなるのでしょうか? あるいは、何度も繰り返し叫んでいればいつか「好ましいこと」を実現することができるのでしょうか?

例えば、「戦争をやめろ」「即時停戦を」「平和を」などなど…。もちろんそのような主張に基本的には賛成だという人たちは少なくないと思います。しかし、いくら「戦争をやめろ」「即時停戦を」「平和を」などと繰り返し叫び続けたとしても、それだけでは停戦が実現したり戦争のない平和な世の中になったりはしないはずなのです。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、今現在は世界中に「魔法使い」になったつもりになっている人間たちがあふれているような状態になっているのです。「戦争をやめろ」「即時停戦を」「平和を」などと叫び続けていればいつか効果が出てくるものなのでしょうか? 「戦争をやめろ」「即時停戦を」「平和を」などという言葉は「魔法の呪文」などではないはずなのです。例えば、停戦を実現したり戦争のない平和な世の中にしたりするためにはいったい何が必要になるのでしょうか? もちろん停戦を実現したり戦争のない平和な世の中にしたりすることは簡単ではないと思います。しかし、それにもかかわらず、停戦を実現したり戦争のない平和な世の中にしたりするために何が必要になるのかということを考えないわけにはいかないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『壮大な夢物語』」(2023/11/6)

『壮大な 夢物語』 実現し ロボット利用 促進すべき!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、今現在直面している日本社会だけではなく、そう遠くないうちに直面することになると思われる国際社会においても、深刻な問題になるであろう問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。いわゆる「労働力不足」の問題ではいくつか大きな誤解が広がっているようです。「人間」には「人間」が行うべき仕事があるはずなのです。そして「人間」が行う仕事は「人間」にしか行うことができない仕事に集約していくべきなのです。

きょうは「人間」が行うべき仕事とそうではない仕事を分けて考えるためにあえて実現可能性がそれほど高くはない「壮大な夢物語」について考えてみることにしようと思います。例えば、もしも政府が「これから10年以内に全国のほぼすべての高速道路と幹線道路に『完全自動運転専用レーン』を建設・設置する」などというような「壮大な夢物語」を提唱したとするならば、あるいは、もしも政府とどこかの地方自治体がバスとタクシーのための「完全自動運転専用レーン」を新設してバス路線網を再編成するなどということを発表したとするのならば、それだけで日本社会は劇的な変化を始めてロボットやAIの導入が加速することになるのだろうと思います。そのような状況になったとしても本当に「労働力不足」の問題が続くことになるのでしょうか? もっともいくらロボットやAIの導入を加速するための「インフラ」が整備されたとしても、おそらくまだしばらくの間はプロの運転士の仕事がなくなることはないのだろうと思います。そうであるのならば、「人間」が行うべき仕事はロボットやAIなどが行うことができるものよりもさらに高度なものへと集約していかざるを得なくなるのだろうと思います。くどいようですが、いわゆる「労働力不足」の問題ではいくつか大きな誤解が広がっているようです。「人間」には「人間」が行うべき仕事があるはずなのです。そして「人間」が行う仕事は「人間」にしか行うことができない仕事に集約していくべきなのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『人間』に仕事をさせる場合には…」(2023/11/5)

『人間』に 仕事をさせる 場合には 高い費用が 必要になる!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、今現在直面している日本社会だけではなく、そう遠くないうちに直面することになると思われる国際社会においても、深刻な問題になるであろう問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。いわゆる「労働力不足」の問題ではいくつか大きな誤解が広がっているようです。「人間」には「人間」が行うべき仕事があるはずなのです。そして「人間」が行う仕事は「人間」にしか行うことができない仕事に集約していくべきなのです。

繰り返しになりますが、ほとんどすべての仕事には、必ずしも高度な専門知識を持った専門家や熟練労働者が担わなくても問題のない簡単な作業が含まれているのです。そしてそのような専門家や熟練労働者が担わなくても問題のない簡単な作業を「ロボット」などに担わせることができるのならば「人間」よりもずっと速くて安く行わせることができる可能性があるのです。ですからわざわざ高い費用をかけて「人間」に仕事をさせるのならば高度な専門知識を持った専門家や熟練労働者として仕事をしてもらわなければならないということになるのだろうと思います。そのように考えるのならば、もしも「人間」に仕事をさせようとする場合にはかなり高い費用が必要になるということを何らかの形で明確に「法制化」することも真剣に考える必要があるのです。例えば、「労働力不足」がかなり深刻な介護や運輸などの分野では、一定の「資格」を取得して一定の「勤務年数」を持った労働者については特別に「最低賃金」を定めて報酬を今現在の1.5倍に引き上げるようにすることも1つの考え方になるのではないかと思います。繰り返しになりますが、専門家や熟練労働者が担わなくても問題のない簡単な作業を「ロボット」などに担わせることができるのならば「人間」よりもずっと速くて安く行わせることができる可能性があるのです。ですからわざわざ高い費用をかけて「人間」に仕事をさせるのならば高度な専門知識を持った専門家や熟練労働者として仕事をしてもらうという方向にあえて政策的に誘導することも必要になってくるのではないかと考えています。きょうのところはひとまずこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「速くて安い!」(2023/11/4)

『素人』も すぐできそうな 仕事なら 『ロボット』ならば 速くて安い!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら世の中には「悪い人たち」が存在します。そしてもちろん世の中には「悪い人たちではない人たち」もいるわけです。いったいどうしたら「悪い人たち」と「悪い人たちではない人たち」を分離することができるのでしょうか?

多くの職場では、ほとんど誰にでもできる簡単な作業が出てきた場合には、アルバイトやパートなどの「素人」に任せるという発想がよく見られます。さらに言えば、ほとんどすべての仕事を、完全な単純作業とまではいかなくても、ほぼ誰にでもできる簡単な作業に「分解」して従業員やアルバイトやパートなどの「素人」に任せているという職場もあるわけです。確かにほとんどすべての仕事には、必ずしも高度な専門知識を持った専門家や熟練労働者が担わなくても問題のない簡単な作業が含まれています。しかし、そのような専門家や熟練労働者が担わなくても問題のない簡単な作業を担うことができるのは「人間」だけではないはずなのです。もしかすると専門家や熟練労働者が担わなくても問題のない簡単な作業を「人間」に担わせるようにするからこそ「労働力不足」の問題がますます深刻になっているのかもしれないわけです。率直に言わせてもらうのならば、専門家や熟練労働者が担わなくても問題のない簡単な作業は単位時間当たりにいったいどれだけ大きな利益を生み出すことができるのでしょうか? あえて言い換えれば、簡単な作業の場合には長時間労働をしなければ満足することができる利益を得ることができないのではないでしょうか? いくら「労働力不足」だからと言っても簡単な作業の報酬だけを上げ続けるというわけにもいかないはずです。もちろん専門家や熟練労働者が担わなくても問題のない簡単な作業を従業員やアルバイトやパートなどが担ってはいけないということではないのです。しかし、それでもやはり、もしも同じ作業を「ロボット」などに担わせることができるのならば「人間」よりもずっと速くて安く行わせることができるのです。繰り返しになりますが、専門家や熟練労働者が担わなくても問題のない簡単な作業を「人間」に担わせるようにするからこそ「労働力不足」の問題がますます深刻になっているのかもしれないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「『ろ過』できる?」(2023/11/3)

どうしたら 『民間人』と 『テロリスト』 『ろ過』して分離 することできる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら世の中には「悪い人たち」が存在します。そしてもちろん世の中には「悪い人たちではない人たち」もいるわけです。いったいどうしたら「悪い人たち」と「悪い人たちではない人たち」を分離することができるのでしょうか?

「悪い人たち」と「悪い人たちではない人たち」はどんなに少なくともそれぞれの見た目だけで正確に区別することはできないはずです。いくら「極悪人」に見える人でも心が清くて優しい人であるということもありますし、どんなに「善人」に見えても実は心の中には邪悪なものでいっぱいになっている人間もいるのです。そのように考えるのならば、どんなに少なくとも「悪い人たち」と「悪い人たちではない人たち」を分離するためにはそれなりに長い時間が必要になることだけは確かなのです。あえて言い換えるのならば、「悪い人たち」と「悪い人たちではない人たち」を即座に正しく見分けて確実に処罰するなどということは極めて難しいはずなのです。その上で、さらに付け加えるのならば、いったいどうしたら「民間人」と「テロリスト」を「ろ過」して分離することができるのでしょうか? もしも民主的な主権国家の中の話であるのならば、「刑事司法制度」というそれなりに時間がかかる「しくみ」を使えば、「民間人」と「テロリスト」を「ろ過」してかなり正確に分離することができるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「見えてない?」(2023/11/2)

見えてない? 『敵』の周囲に 罪のない 民間人が たくさんいるが…」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」するイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→参考:2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍によるガザ地区での地上作戦は限定的に開始された模様。イスラエル軍がガザ地区最大の「難民キャンプ」で人口密集地の「ジャバリヤ難民キャンプ」周辺などに10/30から激しい空爆を繰り返して多くの民間人が死傷していることで国際的な批判が高まっている(→イスラエル側は「ハマス」幹部を殺害などと主張)。これまでにイスラエル側で1400人以上が死亡、パレスチナ側で8500人以上が死亡した模様。相変わらず「ハマス」側はイスラエルから230人以上の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザ地区内に拉致して「人質」にしていると見られている。ちなみにガザ地区からラファ検問所を通過してエジプト側にけが人が搬送されたり外国籍を持つ人たち(→退避を希望した日本人10人とその家族8人の計18人を含む)が退避したりしたと伝えられている)。

国際社会からはイスラエル軍による「難民キャンプ」への攻撃を「虐殺」などと厳しく非難する声も聞こえてきます。「虐殺」などという言葉が事態の性質をどれだけ正確に表現することができているのかには疑問があります。しかし、イスラエル軍による「難民キャンプ」に対する攻撃はどんなに少なくとも罪のない民間人が犠牲になってもやむを得ないと思って行っているということだけは確かなようです。あえて言い換えれば、イスラエル軍は「敵」の周囲に罪のない民間人がいるということが見えていないか、あるいは、見えていてもあえて見ようとしていないのだろうと思います。そのように考えるのならば、イスラエル軍は「難民キャンプ」への攻撃によって罪のない民間人が犠牲になったことに対する責任から逃れることはできないはずなのです。あえて繰り返しますが、イスラエル軍は「敵」の周囲に罪のない民間人がいるということが見えていないのでしょうか? それともイスラエル軍は「敵」の周囲に罪のない民間人がいるのが見えていてもあえて見ようとしていないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「交渉できるなら…」(2023/11/1)

駆け引きか? 取引しない? 本当に? 交渉できる なら『最初』から…」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」するイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→参考:2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍によるガザ地区での地上作戦は限定的に開始された模様。これまでにイスラエル側で1400人以上が死亡、パレスチナ側で8000人以上が死亡した模様。相変わらず「ハマス」側はイスラエルから230人以上の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザ地区内に拉致して「人質」にしていると見られている。「ハマス」側は「人質」にしたイスラエル人女性3人の映像を10/30に公開。またイスラエル軍は「人質」にされていたイスラエル軍女性兵士1人を「救出」したと10/30に発表。ちなみにイスラエルのネタニヤフ首相は10/30に「ハマスとの停戦には応じない」「すべての人質の解放のためにできる限りのことをする」などと述べている)。

多少の批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、今現在「殺し合い」をし続けている当事者同士が意味のある生産的な「話し合い」を行うのは非常に難しいのだろうと思います。そしてそのような場合には、一般的には「第三者」による仲介とか調停というものが大きな役割を果たすことが期待されるのです。しかし、今現在の非常に深刻な状況においては、そもそも当事者であるイスラエルとハマス側の双方が共に信頼する「第三者」が存在するのかどうかが疑問なのです。あくまでも一般論ですが、「第三者」による仲介とか調停というものは、当事者がどの程度強く「第三者」を信頼しているのかによって得られる可能性がある最大の「成果」が大きく変わってくるのだろうと思います。もしも当事者の双方が仲介とか調停を担う「第三者」をほぼ完全に信頼しているのならば、例えば、「即時無条件での停戦」などを実現するのはそれほど難しくはないのではないかと思います。今は停戦をしないとか取引しないなどという主張が駆け引きなどなのかどうかはよく分かりません。しかし、もしも交渉などができるのならば「最初」から行っていればこのような惨事が発生することはなかったのではないかなどと言いたくもなってしまいます。本来ならば国連などが「第三者」としての役割を果たすことができればいいのですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「見て見ぬ振り?」(2023/10/31)

『ならず者』 近くにいたら どうするか? 見て見ぬ振りか? 戦い挑む?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。いったいどうしたら「殺し合い」を含めた「争い」を止めることができるのでしょうか? 「殺し合い」を含めた「争い」を止めるためにはいったい何が必要になるのでしょうか? 

もしも「ある人」の隣人の中に「極悪非道のならず者」がいたとしたら「ある人」はいったいどのように行動するのでしょうか? 「極悪非道のならず者」から絶対に目を付けられることがないようになるべくかかわりを持たないようにしておとなしく生活するのでしょうか? あるいは、「極悪非道のならず者」のご機嫌を積極的に取りながらその「威光」を利用して何か特別な利益を得ようと企んだりするのでしょうか? それとも勇ましくも「極悪非道のならず者」と真正面から戦いを挑んで警察に突き出したり地域から追い出したりしようとするのでしょうか? ごく普通の多くの人たちは「極悪非道のならず者」に対していったいどのような反応を示すことになるのでしょうか? 残念ながらごく普通の多くの人たちの中には「極悪非道のならず者」と真正面から戦いを挑もうとするような正義感が強くて勇ましい人たちはほとんどいないのではないかと思います。しかし、「極悪非道のならず者」やその極悪非道な行動に対して見て見ぬ振りをして沈黙を守り続けるということは自分たちも「極悪非道」の同類になるということを意味することになるのです。さらに言えば、他人から非常に多くの恨みを買っている「極悪非道のならず者」の近くにいるとそれだけで物騒なことがたびたび起こってその「巻き添え」になることもあり得ない話ではないのです。繰り返しになりますが、「殺し合い」を含めた「争い」を止めるためにはいったい何が必要になるのでしょうか? どんなに少なくとも自分の目の前やすぐ近くにいる「極悪非道のならず者」やその極悪非道な行動に対して見て見ぬ振りをして沈黙を守り続けることだけは許されないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『原因』は?」(2023/10/30)

『争い』が 激しくなった 『原因』は? 『人質』解放 して投降を!」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」するイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→参考:2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍によるガザ地区での地上作戦は小規模かつ限定的に開始されたと見られている。相変わらず「ハマス」側はイスラエルから約220人の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザに拉致して「人質」にしていると見られている。これまでにイスラエル側で1400人以上が死亡、パレスチナ側で8000人以上が死亡した模様。また米国のバイデン大統領が10/29にイスラエルのネタニヤフ首相と電話会談(→バイデン大統領はイスラエルには自衛権があるが、民間人を守ることを優先する国際人道法に従う必要があるなどと述べたという)。ちなみに国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)はガザ地区の複数の倉庫や配送センターに押し入った人間たちに配給用の小麦粉や生活必需品が奪われたことを明らかに)。

あくまでも念のために確認しておきますが、「ハマス」のテロリストらがイスラエル領内に侵入して民間人を無差別に次々と殺害したり拉致して人質にしたりするようなことは断じて許すことができない犯罪行為です。しかし、だからと言ってイスラエルに「報復」を認めるべきではないのです。もしも「報復が報復を呼ぶ」ような最悪の状況に陥ることを本気で避けようと思うのならば、イスラエルに「報復」を認めるべきではないと考えています。少なくとも現時点においてイスラエルが正当化することができるのは、イスラエルから拉致された「人質」の解放を求めること、ロケット弾などによるイスラエルへの攻撃を止めさせること、そして民間人を無差別に次々と殺害したり拉致して人質にしたりした「実行犯」の引き渡しを求めること、ぐらいではないかと考えています。もちろんイスラエル側とパレスチナ側の「争い」は今に始まったことではないのです。しかし、それでもやはり、その「争い」が激しくなった「原因」は、10/7に「ハマス」のテロリストらがイスラエル側に大量のロケット弾を撃ち込んだり、イスラエル領内に侵入して民間人を無差別に次々と殺害したり拉致して人質にしたりした「事件」を引き起こしたことであるということには少しも変わりはないはずなのです。ですから、もしも本気で「即時停戦」を実現しようと思っているのならば、どんなに少なくとも「ハマス」のテロリストらに即時無条件でのすべての「人質」の解放とイスラエル領内に侵入して民間人を無差別に次々と殺害したり拉致して人質にしたりした「実行犯」の引き渡しを要求することが必要になるのです。もしも「ハマス」のテロリストらが即時無条件ですべての「人質」を解放して「実行犯」を引き渡したのならば、イスラエル軍が更なる攻撃を続ける「大義名分」はほとんどなくなってしまうはずなのです。何度も繰り返していますが(→参考:2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/17付、2023/10/16付)、これ以上の民間人の犠牲を避けるために、テロリストらがすべての「人質」を即時無条件で「解放」して武器を捨てて投降すれば、「勇者」などとして歴史に残ることも不可能ではないのではないかと思います。きょうのところはそのことを改めて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「止めるためには…」(2023/10/29)

『争い』を 止めるためには どうするか? 誰が止めるか? 何が必要?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。いったいどうしたら「争い」を止めることができるのでしょうか? 「争い」を止めるためにはいったい何が必要になるのでしょうか? 

具体例として適切なのかどうかはよく分かりませんが、例えば、2人の「子供」が1つの「おもちゃ」をめぐって争っている場合には、いったいどうしたら「争い」を止めることができるのでしょうか? 考えられる1つ目の方法は、「圧倒的に力の強い大人」が争っている2人の「子供」の間に割って入り、圧倒的な力でねじ伏せて「争い」の原因になっている「おもちゃ」を取り上げてしまうことです。もちろん他にも方法はあります。例えば、別の「おもちゃ」を持っている「第三者」が1つの「おもちゃ」をめぐって争っている2人の「子供」に別の「おもちゃ」を与えることが2つ目の方法として考えられます。あるいは、「第三者」が1つの「おもちゃ」をめぐって争っている2人の「子供」を説得して1つの「おもちゃ」で一緒に仲良く遊んだり順番に遊んだりさせるようにすることも考えられます。その上で、あえて言わせてもらうのならば、争っている2人の「子供」を圧倒的な力でねじ伏せることができる「圧倒的に力の強い大人」がいない場合には、いったいどうしたら「争い」を止めることができるのでしょうか? あるいは、「子供」たちが与えられたもう1つの「おもちゃ」では満足しなかったり、「第三者」の説得に応じなかったりした場合にはいったいどうしたら「争い」を止めることができるのでしょうか? 繰り返しになりますが、「争い」を止めるためにはいったい何が必要になるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『未来』はあるが…」(2023/10/28)

『兵士』らが 『兵士』らとだけ 殺し合う 状態ならば 『未来』はあるが…」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」するイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→参考:2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍によるガザ地区での地上作戦は小規模かつ限定的に開始されたと見られている。相変わらず「ハマス」側はイスラエルから約220人の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザに拉致して「人質」にしている模様。これまでにイスラエル側で1400人以上が死亡、パレスチナ側で7000人以上が死亡した模様。ちなみに10/28朝(日本時間)に国連総会の緊急特別会合でイスラエルとハマスの軍事衝突の人道目的での休戦などを求める決議が採択された(→ハマスを非難する内容は含まれず。121カ国が賛成。米国やイスラエルなど14カ国が反対、日本や英国など44カ国が棄権))。

イスラエル軍はガザ地区で最大の病院の地下に「ハマス」が作戦指揮の本部などを置いているなどと主張しています(→ハマス側は否定)。少なくとも現時点においては「ハマス」が病院や民間人を「盾」に使用しているというイスラエル軍の主張が事実なのかどうかを確認することはできないわけです。しかし、事実であったとしても、事実ではなかったとしても、ガザ地区での戦闘がさらに危険な状態に陥る危険性が高まっているということだけは確かです。あえて言い換えれば、「病院」やその周辺で「爆発」などが発生する危険性が高まっているかもしれないのです。決して「殺し合い」を正当化するつもりはありませんが、「兵士」や「戦闘員」が「兵士」や「戦闘員」と殺し合っているだけならばまだ事態を制御することは不可能ではないのです。そして強力な武器を持った「兵士」や「戦闘員」が非武装・無抵抗の「民間人」を襲撃するなどということだけは正当化することはできないのです。くどいようですが、「殺し合い」を正当化するつもりは全くありませんが、「兵士」や「戦闘員」が「兵士」や「戦闘員」と殺し合っているうちはまだ「未来」があるということは確かなのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「滅ぶまで殺し合う?」(2023/10/27)

『共存』が できない『敵』で あるのなら どちらか滅ぶ まで殺し合う?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会であっても、国際社会であっても、ほぼどこの社会であっても深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。ほぼどこの社会であっても互いに仲の悪い人間たち、互いに憎しみ合う関係の人間たちがいるものです。なぜ同じ社会の中で互いに仲の悪い人間たち、互いに憎しみ合う関係の人間たちが「共存」することができるのでしょうか?

当たり前と言えば当たり前の話ですが、もしも互いに仲の悪い人間たち、互いに憎しみ合う関係の人間たちが互いに相手が「存在」することすらも認めないというのならば、同じ社会の中で「共存」することはできないわけです。相手が「存在」することを認める、あえて言い換えれば、相手の生命などを尊重する…。さらに言い換えるのならば、決して相手の生命などを奪おうとしないということが、互いに仲の悪い人間たち、互いに憎しみ合う関係の人間たちが「共存」するための最低条件になるのです。たとえ「戦争」になったとしても、「兵士」と「兵士」だけが殺し合っている状態ならば、まだ「共存」が完全に不可能とまでは言えない状態で踏みとどまることができるのではないかと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、もしも強力な武器を持った「兵士」が武器を持たない「民間人」を襲撃して生命などを奪うという事態にまで陥れば、「共存」は不可能になってしまいます。もしも互いに「共存」ができない「敵」であるのならば、どちらかが滅ぶまで殺し合うことになってしまうわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「どうなる?」(2023/10/26)

『人質』を 拉致して逃げた ガザ地区を 『完全封鎖』 したらどうなる?」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」するイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→参考:2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍によるガザ地区での地上作戦が近く開始されると見られているが、米国などがイスラエルに地上作戦を遅らせるように強く求めている模様。相変わらず「ハマス」側はイスラエルから約220人の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザに拉致して「人質」にしている模様。これまでにイスラエル側で1400人以上が死亡、パレスチナ側で6500人以上が死亡した模様。ヨルダン川西岸地区でもイスラエルの治安部隊とパレスチナ側との衝突が増えているという。なおエジプトとガザ地区南部との境界にあるラファ検問所から人道支援物資を載せたトラックが通過しているが、イスラエル側の反対でガソリンなどの燃料の供給が止まっているためにガザ地区では稼働できない医療施設なども増えているという。ちなみに国連安保理では10/25(日本時間10/26)に米国が提出したガザ地区への人道支援を行うために戦闘の一時停止などを求める決議案にロシアと中国が拒否権を行使して否決(→15カ国中のうち10カ国が賛成していた))。

念のために確認しておく必要があることがいくつかあります。まず「ハマス」側はイスラエルから約220人の女性や子供や老人や外国人を含む民間人を拉致しておそらく今現在もガザ地区内のどこかに「人質」として拘束しているのだろうと思います。そしてイスラエル側はガザ地区を「完全封鎖」した上で空爆などを続けながら地上作戦を開始する態勢を整えているわけです。「人質」を取ったハマスが隠れているガザ地区を「完全封鎖」すればいったいどうなるのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、ハマス側に「人質」をとられたイスラエルの側もガザ地区を「完全封鎖」することによってガザ地区にいる人たちを丸ごと「人質」にしているような状況であると考えることができるのです。そのように考えるのならば、「人質」にとって地上戦突入の延期や戦闘の一時停止などは実は必ずしも良いことであるとは言えないかもしれないのです。もしもこのままイスラエルの側もガザ地区にいるその他のパレスチナの人たちと一緒にガザ地区内に潜伏している「ハマス」を「人質」にしているような状況が長く続くことになるのならば、「人質」が少しずつ犠牲になっていく悲劇が確実に続くことになるのだろうと思います。繰り返しになりますが、「ならず者」の世界では「人質」は「人質」と交換することによってすぐに確実に解放されるようになることもあるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「なぜいない?」(2023/10/25)

能力が 高い人たち なぜいない? なぜ増えないか? 考えてみる」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、少なくともいくつかの分野においては深刻な人材不足の状態が続いているようです。少なくともいくつかの分野においてはなぜ能力の高い人たちがいないのでしょうか? なぜ優秀な人材が増えないのでしょうか?

あくまでも一般論ですが、男女の比率に大きな偏りのあるいくつかの分野では深刻な人材不足の状態が続いているようです。そうした男女の比率に大きな偏りのあるいくつかの分野においては、なぜか能力の高い人たちが少なく、そしてなぜか能力の高い人たちが増えていかないのです。なぜ男女の比率に大きな偏りのあるいくつかの分野で深刻な人材不足の状態が続くのか…。男女の比率に大きな偏りがあることが「原因」なのでしょうか? あえて言い換えれば、例えば、男性の比率が異常に高い分野では、女性の比率を高めれば深刻な人材不足の問題は解決するのでしょうか? もちろん意図的に女性の比率を高めるようにすれば深刻な人材不足の問題は少なくとも一時的には改善すると思います。しかし、本当に比率を高めれば深刻な人材不足の問題は根本的に解決することができるのでしょうか? 女性の比率を高めた後はずっと優秀な人材が集まってくるようになるのでしょうか? もしかすると「原因」と「結果」を逆に理解しているのではないかと考えています。様々な理由からなかなか新しく優秀な人材が集まってこない分野であるからこそ良い意味でも悪い意味でも「変化」が少なく、「結果」として男女の比率に大きな偏りが生じると考えた方がいいのではないかと思います。繰り返しになりますが、深刻な人材不足の状態が続くいくつかの分野においては、なぜ能力の高い人たちがいないのでしょうか? なぜ優秀な人材が増えないのでしょうか? きょうのところはあえてそのようなことを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「一部解放」(2023/10/24)

『人質』を 一部解放 しただけで まだたくさんの 『人質』がいる!」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」するイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→参考:2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍によるガザ地区での地上作戦が近く開始されると見られているが、米国などが人質の解放と人道支援のためにイスラエルに地上作戦を遅らせるように強く求めているなどという報道も。これまでにイスラエル側で1400人以上が死亡、パレスチナ側でも5000人以上が死亡した模様。「ハマス」の「人質」となっていたイスラエル国籍の高齢女性2人がエジプトとカタールの仲介で10/23に解放されたなどと報道されているが、相変わらず「ハマス」側はイスラエルから約220人の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザに拉致して「人質」にしている模様。なおエジプトとガザ地区南部との境界にあるラファ検問所から人道支援物資を載せたトラックが1日10-20台通過しているなどと伝えられている)。

あくまでも念のために確認しておきますが、「ハマス」の「テロリスト」らがイスラエルに侵入して拉致してきた民間人の「人質」のうちの4人を解放したことが事実だとしても、解放したのはその「人質」の中のごく一部にすぎないのです。罪のない民間人の「人質」がまだまだたくさん残されているわけです。さらに言えば、もしも「ハマス」の「テロリスト」らがイスラエルに侵入して拉致してきた民間人の「人質」の扱いがそれほど非人道的ではなかったということが事実だったとしても、罪のない民間人が唐突に拉致されて「人質」にされているという事実は少しも変わらないわけです。その上で、あえて付け加えるのならば、確かに「ならず者」の世界では「人質」は「人質」と交換することによってすぐに確実に解放されるようになることもあるわけです。しかし、イスラエル側が「ハマス」の「テロリスト」らと同じレベルのことをするようなことはさすがにないのだろうと思いますが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「かくまうのなら…」(2023/10/23)

『テロリスト』 かくまうのなら 『共犯』に? 攻撃されて 『巻き添え』になる?」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」するイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→参考:2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍によるガザ地区での地上作戦が近く開始されると見られているが、米国などが人質の解放と人道支援のためにイスラエルに地上作戦を遅らせるように強く求めているなどという報道も。これまでにイスラエル側で1400人以上が死亡、パレスチナ側でも5000人以上が死亡した模様。「ハマス」の「人質」となっていた米国籍の母親と娘がカタールの仲介で10/20に解放されたが、相変わらず「ハマス」側はイスラエルから約220人の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザに拉致して「人質」にしている模様。エジプトとガザ地区南部との境界にあるラファ検問所から人道支援物資を載せたトラックが1日10-20台通過しているなどと報道されている)。

国際社会のごく普通の多くの人たちがずっと気になっていることではないかと思うのですが、そもそも「ハマス」の「テロリスト」らはガザ地区にいる民間人にとってどのような存在なのでしょうか? もしかすると「ハマス」の「テロリスト」らは「家族」のような存在なのでしょうか? もしそうであるのならば、ガザ地区にいる民間人の中には「ハマス」の「テロリスト」らをかくまう人たちも出てくるのかもしれないと思います。そしてもしも「ハマス」の「テロリスト」らをかくまうのならば「共犯」と見なされてもやむを得なくなる危険性が高まることになるのだろうと思います。もちろんだからと言ってガザ地区にいる民間人が「ハマス」の「テロリスト」らに対する攻撃の「巻き添え」になっても構わないということにはならないわけですが…。あるいは、もしかすると「ハマス」の「テロリスト」らは「強盗」のような存在なのでしょうか? もしそうであるのならば、ガザ地区にいる民間人も「人質」のような存在なのかもしれないと思います。またもしそうであるのならば、ガザ地区にいる民間人の中には「ハマス」の「テロリスト」らに反発したり敵対したりする人たちも出てくるのかもしれないと思います。そしてもしも「ハマス」の「テロリスト」らに反発したり敵対したりする人たちがいるのならば、「ハマス」の「テロリスト」らがイスラエルに侵入して拉致してきた「人質」の居場所や「ハマス」の「テロリスト」らの潜伏場所の情報などを提供する人たちも出てくるのかもしれないと思います。何にしても、そもそも「ハマス」の「テロリスト」らはガザ地区にいる民間人にとってどのような存在なのかということが今後の展開を予想するために必要不可欠なことになると考えています。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「手を上げろ!」(2023/10/22)

手を上げろ! 抵抗やめて 武器を捨て 人質解放 して投降を!」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」するイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→参考:2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍によるガザ地区での地上作戦も近く開始されると見られている。これまでにイスラエル側で1400人以上が死亡、パレスチナ側でも4100人以上が死亡した模様。「ハマス」の「人質」となっていた米国籍の母親と娘がカタールの仲介で10/20に解放されたが、相変わらず「ハマス」側はイスラエルから約200人の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザに拉致して「人質」にしている模様。また10/21にエジプトとガザ地区南部との境界にあるラファ検問所が開放されて人道支援物資を載せたトラックが通過したなどと報道されている。なお国連安保理で人道支援のために戦闘を一時停止するとともにハマスを非難して人質解放などを求めるなどの内容の決議案が10/18に裁決されたが米国が拒否権を行使して否決(→日本、フランスなど12か国が賛成、ロシアと英国が棄権。米国の拒否権行使はイスラエルの自衛権について言及がないことが理由だという)。ちなみに米国のバイデン大統領は10/20に連邦議会に対してイスラエルやウクライナを支援するなどの内容の総額1000億ドル(15兆円)を超える緊急予算を要請)。

イスラエル軍による攻撃によってガザ地区にいる多数の民間人が犠牲になっていることは確かです。しかし、ガザ地区にいる多数の民間人が犠牲になっているのは、イスラエルに侵入して非武装で無抵抗の民間人を襲撃して殺害したり拉致したりした「ハマス」などの「テロリスト」らがガザ地区にいる多数の民間人を「人間の盾」にして自分たちの身を守っていることも原因の1つであるということも確かなのです。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、このまま「ハマス」などの「テロリスト」らにガザ地区にいる多数の民間人を「人間の盾」にすることを許し続ける限り、ガザ地区にいる多数の民間人の命が次々と奪われていくのを止めることはできないのです。もちろん今すぐ戦闘を停止すればガザ地区にいる多数の民間人の命がこれ以上奪われることを防ぐことはできるわけです。しかし、ガザ地区にいる「ハマス」などの「テロリスト」らが「ロケット弾」などでイスラエルを攻撃し続ける限り、あるいは、イスラエルが「ハマス」などの「テロリスト」らを攻撃し続ける限り、戦闘が停止することはないわけです。もしも戦闘を停止することが難しいとしても、「ハマス」などの「テロリスト」らとガザ地区にいる多数の民間人を完全に引き離すことができるのならば、多数の民間人の命が奪われることを防ぐことができるわけです。そのように考えるのならば、どんなに少なくともイスラエル軍はガザ地区での地上作戦を実施する前に「ハマス」などの「テロリスト」らに武器を捨てて人質を解放した上で投降することを強く要求するべきなのです。「ハマス」などの「テロリスト」らに「手を上げろ!」などと警告した上で強く投降を呼びかけるべきなのです。何度も繰り返していますが、ガザ地区にいる「ハマス」などの「テロリスト」らとは全く無関係な多くの民間人を救うためには、すべての「テロリスト」らがすべての武器を捨て、すべての「人質」を即時無条件で解放した上で、イスラエル側に投降する以外の選択肢はもはや残されていないと考えています。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『勇者』はいない?」(2023/10/21)

武器を捨て 人質すべて 解放し 投降できる 『勇者』はいない?」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」するイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてからイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→参考:2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍によるガザ地区での地上作戦も近く開始されると見られている。これまでにイスラエル側で1400人以上が死亡、パレスチナ側でも4100人以上が死亡した模様。「ハマス」の「人質」となっていた米国籍の母親と娘がカタールの仲介で10/20に解放されたが、相変わらず「ハマス」側はイスラエルから約200人の女性や子供や老人や外国人を含む民間人をガザに拉致して「人質」にしている模様。また10/21にエジプトとガザ地区南部との境界にあるラファ検問所が開放されて人道支援物資を載せたトラックが通過したなどと報道されている。なお国連安保理で人道支援のために戦闘を一時停止するとともにハマスを非難して人質解放などを求めるなどの内容の決議案が10/18に裁決されたが米国が拒否権を行使して否決(→日本、フランスなど12か国が賛成、ロシアと英国が棄権。米国の拒否権行使はイスラエルの自衛権について言及がないことが理由だという)。ちなみに米国のバイデン大統領は10/20に連邦議会に対してイスラエルやウクライナを支援するなどの内容の総額1000億ドル(15兆円)を超える緊急予算を要請)。

繰り返しになりますが(→参考:2023/10/16付etc.)、ガザ地区にいる「ハマス」などの「テロリスト」らとは全く無関係な多くの民間人を救うためには、今回の「ハマス」によるイスラエルの民間人に対する襲撃や拉致を命令した指揮官を含めたすべての「テロリスト」らがすべての武器を捨て、すべての「人質」を即時無条件で解放した上で、イスラエル側に投降する以外の選択肢はもはや残されていないと考えています。唐突に非武装で無抵抗の民間人を襲撃して殺害したり拉致したりした「テロリスト」らが「人質」だけではなくガザ地区にいる無関係な人たちをも「人間の盾」に使っていることに対してこの上ない憤りを覚えます。もしも「テロリスト」らと全く無関係な人たちを救うためにすべての「人質」を解放して完全武装解除した数万人から数十万人の「テロリスト」らが投降すれば「英雄」たちとして歴史に残ることができるのではないかと思います。「テロリスト」らの中には「勇者」はいないのでしょうか? もしも「テロリスト」らの中に「勇者」がいるのならば国際社会の多くの人たちはもしかすると「テロリスト」という見方が間違っていたのかもしれないと思うかもしれないのです。くどいようですが、ガザ地区にいる「ハマス」などの「テロリスト」らとは全く無関係な多くの民間人を救うためには、すべての「テロリスト」らがすべての武器を捨て、すべての「人質」を即時無条件で解放した上で、イスラエル側に投降する以外の選択肢はもはや残されていないと考えています。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「見たいもの信じたいものだけを…」(2023/10/20)

見たいもの 信じたいもの だけを見て 争い続け 殺し合うだけ…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、人間というものは自分が見たいものだけを見る傾向があるようです。そしてこれもまた一般論ですが、人間というものは自分が信じたいものだけを信じる傾向があるようです。もしそうであるのならば、ひとたび「分断」が生じてしまった後はそれを修復することが非常に難しくなってしまうことになります。

あえて個別具体的な固有名詞を取り上げることは避けますが、地球上のどこかの場所には自分自身に対する捜査が行われると必ず「政治的弾圧」などと叫び出す「元大統領」がいるようです。そしてその「政治的弾圧」などという主張に対してどういうわけか即座に激しく同意して抗議活動を始める人間たちが出てくるのです。たとえ「政治的弾圧」などという主張をほぼ無条件に信じ込んでいる人間たちがごく一部であったとしても、その行動の過激さからその存在感や悪影響はかなり大きなものになっているのです。さらに言えば、もしも相手を抹殺することによってしか自分たちの幸せを実現することができないなどと強く思い込んでいる人間たち同士が見たいものだけを見て信じたいものだけを信じながら争い始めたのならば、互いに最後の一人がいなくなるまで果てしない殺し合いが続くことになってしまうのだろうと思います。もしも人間が見たいものだけを見て信じたいものだけを信じるのならば、ひとたび生じてしまった「分断」を修復することが非常に難しく、そしてその「分断」はますます大きなものになってしまう危険性が高くなるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『分断』」(2023/10/19)

『分断』が ひとたび生じ た後には 修復するの 難しくなる…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、人間というものは自分が見たいものだけを見る傾向があるようです。そしてこれもまた一般論ですが、人間というものは自分が信じたいものだけを信じる傾向があるようです。もしそうであるのならば、ひとたび「分断」が生じてしまった後はそれを修復することが非常に難しくなってしまうことになります。

繰り返しになりますが、多くの民間人の命が奪われたり非人道的な行為が行われたりしたときに国際社会で厳しい批判を受けることになります。しかし、残念なことですが、批判をしている側は「敵」の攻撃によって命を奪われた「仲間」の民間人のことしか見ていないのです。たとえ自分たちの「仲間」が「敵」と同じように多くの民間人の命を奪い続けていたとしても、「敵」の攻撃によって命を奪われた「仲間」の民間人のことしか見ていないのです。国際社会は「パレスチナ」で民間人の命が奪われていることに沈黙を守ってきた? 本当にそうなのでしょうか? 「イスラエル」に向けて発射されている「ロケット弾」はいったい何に被害を与えているのでしょうか? 抗議活動に参加して治安部隊などに「投石」をしたり「火炎瓶」を投げつけたりしているのとでは状況が全く違うのです。いずれにしてももしも人間が見たいものだけを見て信じたいものだけを信じるのならば、ひとたび生じてしまった「分断」を修復することが非常に難しくなってしまうことだけは確かです。

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「まだ不明」(2023/10/18)

『爆発』の 真相はまだ 不明だと あえて何度も 強調すべき!」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」するイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模攻撃を実施したことによってイスラエル側とハマス側による戦闘が続いています(→イスラエル軍はガザ地区のハマス関連施設などの空爆を続けている。そしてイスラエル軍はガザ市を含むガザ地区北部の約110万人の住民に対してガザ地区南部に避難するよう求めており、ガザ地区での地上作戦も近く開始されると見られている。これまでにイスラエル側で1400人以上が死亡、パレスチナ側でも3000人以上が死亡した模様。またハマス側はイスラエルから女性や子供や老人や外国人を含む民間人約200人がガザに拉致して「人質」にしている模様。参考:2023/10/10付etc.)。米国のバイデン大統領のイスラエルなどへの訪問が発表された直後の10/17夜にガザ市内の病院で「爆発」が発生して500人以上が死亡したことが明らかになって国際的な批判が高まっています(→ハマスやイランなどはイスラエル軍の空爆によるものと厳しく非難。一方、イスラエル側は「ハマス」と共闘する武装組織「イスラム聖戦」のロケット弾の発射の失敗によるものと主張。バイデン大統領は10/18にイスラエルを訪問した後にヨルダンを訪問してアブドラ国王、エジプトのシーシ大統領、パレスチナ自治政府のアッバス議長と会談する予定だったが、ヨルダン訪問は急きょ「中止」に)。

あくまでも念のために確認しておきますが、少なくとも現時点において確実なのは、ガザ地区の病院で「爆発」が発生して多数の犠牲者が出たということだけなのだろうと思います。「報復が報復を呼ぶ」などというような最悪な状況に陥るのを防ぐためにも、現時点ではまだ「攻撃」を行った主体がどこなのかは不明であるということはあえて強調しておく必要があります。そしてできることならば病院での「爆発」の真相などを究明するための国際的な調査を行うことが望ましいと考えています。もしも国際的な調査を行うために一時的な停戦が実現することになるのならば、人権状況が悪化しているガザ地区で民間人に対する緊急支援を実施する余裕を生み出すことができることになると思います。もちろんハマス側に「人質」にされている民間人を解放したり安全に救出したりする時間的な余裕も生み出されることになります。いずれにしても事実関係の詳細や真相が不明な現時点においては、何としてでも事態のエスカレーションだけは絶対に避けなければならないということだけはあえて何度でも強調しておく必要があります。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「民間人は…」(2023/10/17)

ひどいこと した人間と 無関係! 民間人は 無関係だが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。多くの民間人の命が奪われたり非人道的な行為が行われたりしたときに「当事者」は国際社会から厳しい批判を受けることになります。すると「当事者」は「敵はもっとひどいことをしてきた」などと…。「報復が報復を呼ぶ」などというような最悪な状況に陥るのを避けるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「報復が報復を呼ぶ」などというような最悪な状況に陥るのを避けるためには、「当事者」たちは「イスラエル」「パレスチナ」「ハマス」などという言葉をなるべく使わないようにするべきであると考えています。「イスラエル」「パレスチナ」「ハマス」などという言葉が好んで用いられる場面では物事の本質がとても見えにくくなっていることが多いのです。これは当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、たとえ「イスラエルはもっとひどいことをしてきた」のが事実であったとしても、だからと言ってそのもっとひどいことをしてきた人間たちとは全く無関係な民間人が殺害されたり拉致されたりしても構わないなどということには絶対にならないはずなのです。同じように、いくら「パレスチナ」や「ハマス」がテロ攻撃をしてきたとしても、だからと言ってそのテロ攻撃とは無関係の民間人を巻き添えにしてもやむを得ないなどということには絶対にならないはずなのです。繰り返しになりますが、「報復が報復を呼ぶ」などというような最悪な状況に陥るのを避けるためには、「当事者」たちは「イスラエル」「パレスチナ」「ハマス」などという言葉をなるべく使わないようにするべきであると考えています。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『敵』なら…」(2023/10/16)

『パレスチナ』 『イスラエル』なら 構わない? 『敵』ならすべて 攻撃できる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「根絶」や「せん滅」などということはいったいどういう状況になることを意味しているのでしょうか? 相手が「イスラエル」あるいは「パレスチナ」なら何をやっても構わないのでしょうか? 「敵」ならばすべてを攻撃対象にすることができるのでしょうか? 「報復が報復を呼ぶ」というような最悪な状況に陥るのを避けるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 

攻撃対象は「パレスチナ」や「イスラエル」ならば何でも構わないのでしょうか? 「敵」ならばすべてを攻撃対象にしても構わないのでしょうか? 「ハマス」などの「テロリスト」らがイスラエル攻撃に使用している精度がそれほど高くはないロケット弾は、民間施設や民間人を標的にしても標的にしなくても、民間施設や民間人が犠牲になる危険性が非常に高いことは明らかです。もちろんイスラエルによるガザ地区の空爆なども多くの民間人を巻き添えにしていることだけは確かです。このまま「報復が報復を呼ぶ」というような最悪な状況に陥っていくのでしょうか? 「報復が報復を呼ぶ」というような最悪な状況に陥るのを避けるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 多少の批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、ガザ地区にいる「ハマス」などの「テロリスト」らとは全く無関係な人たちを救うためには、今回の「ハマス」によるイスラエルの民間人に対する襲撃や拉致を命令した指揮官を含めたすべての「テロリスト」らがすべての武器を捨て、すべての「人質」を即時無条件で解放した上で、イスラエル側に投降する以外の選択肢はもはや残されていないと考えています。唐突に非武装で無抵抗の民間人を襲撃して殺害したり拉致したりした「テロリスト」らが「人質」だけではなくガザ地区にいる無関係な人たちをも「人間の盾」に使っていることに対してこの上ない憤りを覚えます。もしも「テロリスト」らと全く無関係な人たちを救うためにすべての「人質」を解放して完全武装解除した数万人から数十万人の「テロリスト」らが投降すれば「英雄」たちとして歴史に残ることができるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『根絶』」(2023/10/15)

『害悪』を 『根絶』すると いうことは 『悪』でないもの 一緒に捨てる!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「根絶」や「せん滅」などということはいったいどういう状況になることを意味しているのでしょうか? 新型コロナウイルスなどの感染症であれ、凶悪犯罪であれ、その他の何かであれ、「害悪」を「根絶」とか「せん滅」するということは「悪」でないものも一緒に捨てる危険性が高くなるということには注意が必要になります。

具体例として最適かどうかは分かりませんが、例えば、感染拡大の危険性をできるだけ小さくするためには、たとえ感染が確認されていなかったとしても、新型コロナウイルスなどの感染症に感染している危険性がほんの少しでもある人たちは病院や自宅などに強制的に長期間「隔離」するという「ゼロコロナ」政策なるものを採用していた場所も地球上には存在していたわけです。言い換えれば、感染拡大防止という目的のために、感染していない人たちの自由や人権が切り捨てられてしまったわけです。あるいは、料理であっても、工芸品であっても、その他の何かであっても、最高の品質のものをつくろうとするときには、原材料を厳選し、そして実際に料理や工芸品などをつくるときには、さらにその厳選された原材料の中から品質の良い部分だけを選んで使うことになるわけです。言い換えれば、最高の品質の料理や工芸品などをつくるためには、通常ならば十分に使用することができる原材料の多くの部分を大胆に捨て去ることになるわけです。そのように考えるのならば、もしも「テロリスト」らを「根絶」や「せん滅」しようとするのならば、「テロリスト」らのすぐ近くにいる多くの民間人を巻き添えにすることになっても少しも不思議ではなくなるのです。繰り返しになりますが、「害悪」を「根絶」とか「せん滅」するということは「悪」でないものも一緒に捨てる危険性が高くなるということには注意が必要になります。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『現実』は…」(2023/10/14)

『現実』は 『ドラマ』などより 『奇』なるもの? 傷つけられて 殺されていく…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「現実」は「映画」や「ドラマ」などとは違うのでしょうか? 「事実は小説よりも奇なり」などという言葉がありますが…。

あえて個別具体的な事例や固有名詞を挙げることは避けますが、紛れのない「現実」の中にもいくつか「虚構の話」が紛れ込んでいるものです。まるで「虚構の話」の中で「ネオナチ」と呼ばれても不思議ではないほどおぞましい行動を繰り返す「主人公」を演じているかのような「独裁者」、「核大国」などという「虚構の話」の中で「人民」を飢餓と不幸のどん底に叩き落し続けてまで核兵器やミサイルや人工衛星を欲しがる「王様」など…。そして多くの「戦争」の背景にはそれぞれの民族などの「物語」があることも少なくはないのです。繰り返しになりますが、「現実」は「映画」や「ドラマ」などとは違うのでしょうか? どんなに少なくとも「現実」では実際に人が傷つけられたり殺されたりしていることだけは「映画」や「ドラマ」などとは完全に違っているわけです。そして「映画」や「ドラマ」や「小説」などのように簡単に「ハッピーエンド」なるようにストーリーを変更することができないということも確かなのです。「事実は小説よりも奇なり」などという言葉がありますが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「嘘っぽい?」(2023/10/13)

嘘っぽい? 『映画』や『ドラマ』 『バラエティー』… 何が本当? 何が偽物?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「映画」や「ドラマ」や「バラエティー番組」は嘘ばかりなのでしょうか? 「事実は小説よりも奇なり」などという言葉がありますが…。

多少の批判と誤解を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「映画」や「ドラマ」や「バラエティー番組」、「小説」や「マンガ」など…、最近はあまり「現実味」を感じられない「嘘っぽいもの」が増えているような印象を強く持っています。あくまでも私の個人的な印象ですが…。たとえあまり「現実味」を感じられない「嘘っぽいもの」であったとしても、面白くないとは限らないのです。例えば、最近某人気ドラマ番組で銃撃されながらなんとか大使館の敷地内に逃げ込んだ後に追っ手に「ここは日本国だ。出ていけ」などと言うシーンがありましたが、いくら条約で大使館などが「不可侵」とされていても「日本国」にはならないはずなのです。その一方で、ドラマや映画の中の架空の人物が歌っている歌などは架空の話の中ではあっても「本当の話」「事実」であることもあるのです。人気ドラマや人気映画であってもそうではない何かであっても、何が「本当の話」で何が「偽物の話」なのかが気になってしまうという人たちは少なくないのだろうと思います。何にしてもあまり「現実味」を感じられない「嘘っぽいもの」が多くなるとうんざりさせられてしまうことも事実です。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『巻き添え』でいい?」(2023/10/12)

『報復』が 『報復』を呼ぶ 展開で 『民間人』も 『巻き添え』でいい?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「報復が報復を呼ぶ」などというような最悪の展開を避けるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 

くどいようですが、いくら自分たち以外にも同じようなことをしている人間たちが存在するからと言っても、自分たちの行動を正当化することができるというわけではないのです。「報復が報復を呼ぶ」などという最悪の展開に陥っていく危険性を高めないためには、自分たちの行動を棚に上げて「敵」などの行動を厳しく批判するような人間たちの主張を説得力のあるものとして受け止めないようにすることが必要になるのです。その上で、あえてここで指摘しておかなければならないのは「自分たち」や「敵」などというものはいったい何なのかということなのです。特に「敵」の中には「軍」などだけではなく「民間人」も含まれるのでしょうか? 当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、「報復」による「巻き添え」は事態をさらに悪化させることになります。繰り返しになりますが、「報復が報復を呼ぶ」などという事態は最悪の展開になります。それに加えて「民間人」が「敵」の「軍」に対する「報復」の「巻き添え」になるような事態は悲劇をさらに大きなものにしてしまいますが…。「報復が報復を呼ぶ」などという最悪の展開の中では「民間人」が「巻き添え」になっても構わないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「正当化?」(2023/10/11)

『敵』なども 同じことして いるなどと 言い訳をして 正当化する?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「報復が報復を呼ぶ」などというような最悪の展開を避けるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 

 例えば、「敵が攻撃してきたからこちらも反撃した」「自分たちだけではなく敵もやっている」などという主張は、「報復が報復を呼ぶ」などという最悪の展開に陥っていく危険性が高くなる主張です。次々と民間人を殺害したり拉致したりする「テロリスト」らへの批判に対して、「敵」はいつも空爆などで民間人を殺害しているにもかかわらず、なぜ「テロリスト」らだけを批判するのかなどと反論する…。当たり前と言えば当たり前の話ですが、いくら自分たち以外にも同じようなことをしている人間たちが存在するからと言っても、自分たちの行動を正当化することができるというわけではないのです。窃盗や強盗をしていることを咎められたときに他にも窃盗や強盗をしている人間たちがいるなどと言い訳をすれば許されてしまうのでしょうか? そんなバカなことは絶対にないはずです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「身柄拘束!」(2023/10/10)

『殺人』や 『拉致・監禁』を 繰り返す 『テロリスト』らの 身柄拘束!」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」するイスラム組織ハマスがイスラエル側に大規模攻撃を実施したことによってイスラエル側とハマス側による戦闘が激しくなっています(→ハマスが10/7にガザ地区から2000発以上のロケット弾を発射、さらにハマス側の兵士ら1000人以上がイスラエル側に侵入したことによって大規模な戦闘が始まった。イスラエル軍はガザ地区のハマス関連施設などの空爆を続ける。イスラエルは予備役30万人を招集。これまでにイスラエル側で900人以上が死亡、2400人以上がけが、パレスチナ側でも600人以上が死亡した模様。ハマス側はイスラエルから女性や子供や老人や外国人を含む民間人100人以上をガザに拉致して「人質」にしている模様)。

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「なぜ今か?」(2023/10/9)

なぜ今か? なぜ大規模な 攻撃か? 『テロリスト』らは 『自滅』に向かう?」-

パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」するイスラム組織ハマスがイスラエル側に大規模攻撃を実施したことによってイスラエル側とハマス側による戦闘が激しくなっています(→ハマスが10/7にガザ地区から2000発以上のロケット弾を発射、さらにハマス側の兵士ら1000人以上がイスラエル側に侵入したことによって大規模な戦闘が始まった。イスラエル軍はガザ地区のハマス関連施設などを空爆。これまでにイスラエル側で700人以上が死亡、1000人以上がけが、パレスチナ側でも400人以上が死亡した模様。ハマス側はイスラエルから女性や子供や老人や外国人を含む民間人100人以上をガザに拉致して「人質」にしている模様。レバノン南部との国境でもハマス側と連携?したレバノンのイスラム教シーア派組織「ヒズボラ」が10/8にイスラエルが占領しているシリアのゴラン高原付近のイスラエル軍の陣地をロケット弾で攻撃した模様。イラン革命防衛隊が「ハマス」と「ヒズボラ」の攻撃に関与した疑惑を報じる一部報道も。米国はイスラエルを支援する姿勢を示している)。

なぜ今「テロリスト」らはイスラエルに対する「大規模攻撃」を実施したのでしょうか? 多くのアラブ諸国がイスラエルとの関係を改善して自分たちが見捨てられてしまうなどと大きな危機感を持ったからなのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「テロリスト」らは考えることができる行動の中で最も愚かな行動を選択してしまったのではないかと考えています。「テロリスト」らは今回の「大規模攻撃」を引き起こしたことによってそう遠くない将来に「自滅」する可能性が極めて高くなったと私は見ています。あくまでも念のために確認しておきますが、「テロリスト」らによる「大規模攻撃」は、「戦争」ではなく、単なる「殺人」や「拉致・監禁」などの犯罪にすぎないのです。言い換えれば、「テロリスト」らはただの「犯罪者」にすぎないのです。多くのアラブ諸国にとっても、ガザで生活している多くのパレスチナの人たちにとっても、自分たちを繰り返し危険なことに巻き込もうとする「テロリスト」らはかなり「重荷」になっていると考えられるのです。できることならばこれ以上多くの人たちの命が犠牲になる前に一刻も早く「テロリスト」らを「自滅」に追い込みたいものです。きょうのところはとりあえずこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『変化』」(2023/10/8)

『幸せ』に なるため『変化』 望むのか? 大きな『変化』 ない方がいい?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「幸せ」とはいったい何なのでしょうか? 「幸せ」というものは努力してつかみ取らなければならない種類のものなのでしょうか? それとも「幸せ」というものはいつの間にかそこにあるような種類のものなのでしょうか? 

くどいようですが、「幸せ」というものは一人ひとりで異なるものなのだろうと思います。例えば、多くの人たちから賞賛される「何か」を成し遂げたことによって初めて「幸せ」を実感するという人たちもいるのでしょうし、家族や恋人や友人らと他愛のない会話をする時間などに「幸せ」を実感するという人たちもいるのだろうと思います。努力してつかみ取らなければならない種類の「幸せ」も、いつの間にかそこにあるような種類の「幸せ」も、それぞれの人たちにとっては正真正銘の本物の「幸せ」なのだろうと思います。そのように考えるのならば、「幸せ」になりたいという人たちの中には、「変化」し続けることを望む人たちと、大きな「変化」を望まない人たち、あえて言い換えれば、「保守的」な人たちが存在するということに気づくことになります。「自由で民主的な社会」の中では「変化」し続けることを望む人たちも「保守的」な人たちも「工夫」すれば共に「幸せ」になることは不可能ではないのです。その「工夫」の1つが「公」と「私」の領域を区分するということになるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめてこれ以上の深入りはしないことにしておきますが…。

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「長く続くが…」(2023/10/7)

『幸せ』も 長く続けば 『幸せ』と 感じることが できなくなって…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「幸せ」とはいったい何なのでしょうか? そして「幸せ」というものはどれだけ長く続くものなのでしょうか? 

繰り返しになりますが、「幸せ」というものは一人ひとりで異なるものなのだろうと思います。しかし、それにもかかわらず、ほとんどすべての人たちの場合には様々な意味で「幸せ」はあまり長くは続かないものなのかもしれないのです。もちろん長い人生の中では「幸せ」なことばかりがずっと続くわけではないのです。また仮に「幸せ」なことが長く続いたとしても、いつの間にか「幸せ」なことにすっかり慣れてしまって自分がそれほど「幸せ」だとは感じなくなっているということも少ないのではないかと思います。あるいは、「幸せ」なことにすっかり慣れてしまうともっともっと「幸せ」なことを強く求めるようになるのかもしれないと思います。そのように考えるのならば、もしもほとんどすべての人たちにとって「自由で民主的な社会」が「幸せ」なものであったとしても、「自由で民主的な社会」に生まれてずっとその中で生活していると「自由で民主的な社会」の中で生活することできることがどれだけ「幸せ」なことなのかということを見失ってしまうこともあるのだろうと思います。繰り返しになりますが、「幸せ」というものはどれだけ長く続くものなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『幸せ』は…」(2023/10/6)

『幸せ』は 一人ひとりで 違うもの 『自由』はみんなの 『幸せ』になる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「幸せ」とはいったい何なのでしょうか? 

当たり前と言えば当たり前の話ですが、「幸せ」というものは一人ひとりで異なるものなのだろうと思います。そして、ある人にとっては「幸せ」なことが別の人にとっては当たり前のことであるということもあるのだろうし、逆に、ある人にとって当たり前のことが別の人にとっては「幸せ」なことであるということもあるのだろうと思います。例えば、豊かな自然環境で生まれ育った人たちの中には都会での効率的な生活に憧れる人たちもいるわけですし、逆に、都会で生まれ育った人たちの中には豊かな自然の中でゆっくりと時間が流れるような生活に憧れる人たちもいるわけです。それでは、ほとんどすべての人たちが「幸せ」だと実感することができるようなことは存在しないのでしょうか? 例えば、一人ひとりの人たちが自分自身の「幸せ」を自由に追求することできる社会で生活すること、あえて言い換えれば、「自由」は、ほとんどすべての人たちが「幸せ」を実感することができるものの1つになるのではないかと思います。「自由で民主的な社会」に生まれてずっとその中で生活していると「自由で民主的な社会」の本当の価値が見えにくくなってしまうようなこともあるのかもしれないと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。

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「『主催者』」(2023/10/5)

『主催者』が メディア側なら どうなるか? 記者会見は 混乱しない?」-

大手芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」の創業者のジャニー喜多川氏(2019年死去)から性被害を受けたなどと元所属タレントの男性などが訴えている問題の波紋が広がっています(→参考:2023/10/3付、2023/9/8付、2023/5/15付etc.)。そして事務所側の記者会見を運営していた会社が「NGリスト」(→記者会見の質問で指名しないようにする記者らの顔写真と名前のリスト)を作成していたことが明らかになってさらに波紋が広がっています。

「NGリスト」なるものの存在が事実であるのならば、謝罪や補償などをしようとしている事務所側の姿勢に疑問符が付くことになるのは確かです。またその「NGリスト」なるものを誰がどんな目的で作成していたとしても、事務所側のイメージがさらに低下することだけは確かなのだろうと思います。その上で、多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、たとえ「NGリスト」なるものが存在していたとしても、実はそれほど本質的に大きな問題ではないと考えられるのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「NGリスト」なるものが存在していたとしても存在していなかったとしても、実際に質問する記者らを指名する際に特定の記者らを排除することは十分に可能なはずなのです。さらに言えば、記者会見の「主催者」が事務所側であるのならば、そもそも記者会見の会場から特定の記者らを排除することも全く不可能ではないはずなのです。そのように考えるのならば、今後はマスメディア側が「主催」する事務所側の記者会見の実現を目指すことも必要ではないかと思います。また事前にマスメディア側が質問を書面で提出し、事務所側もそれらの質問に書面で回答した上で、記者会見を実施するような方式を採用することも真剣に検討するべきではないかと思います。一方的な強い思い込みに基づいた「質問」や最低限の専門知識などを欠いた完全に的外れな「質問」は貴重な時間の無駄遣いであることは確かです。もしも記者会見の「主催者」がマスメディア側になったらいったいどうなるのでしょうか? 記者会見は混乱しないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきますが…。

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「『影響力』」(2023/10/4)

『顧客』らに 『影響力』は あったはず! 『責任』までは 問われなくても…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、少なくとも日本社会では深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。もしも長い間ずっとささやかれてきた「疑惑」がやはり事実であったということが明らかになったときには、「責任」が問われるべきなのはいったい誰なのでしょうか? そして長い間ずっと「疑惑」を「疑惑」のままにしていた最大の「原因」はいったい何なのでしょうか? 

当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、基本的には事実であることが明らかになった「疑惑」について「責任」があるのは「加害者」本人のはずなのです。そして長い間ずっと「疑惑」を「疑惑」のままにしていた最大の「原因」はやはり「沈黙」ということになるのだろうと思います。もしも「加害者」のそばにずっといて「疑惑」が事実かもしれないと思っていたような人間たちがいるのならば、その人間たちについてはそれなりの「責任」が問われることになるかもしれないと思います。もしもあのとき「沈黙」を破って「加害者」らに「疑惑」は事実なのではないかなどと問いただしていたのならば、もしかすると「被害」はもっとずっと小さなものになっていたのかもしれないのです。またもしも「顧客」らが「沈黙」を破って「加害者」らに「疑惑」は事実なのかなどと問いただしていたのならば、もしかすると「被害」はもっとずっと小さなものになっていたのかもしれないのです。当時も今現在も「顧客」らにはその気になりさえすれば行使することができる「影響力」があることは明らかなのです。「顧客」らが「疑惑」の噂話すらも全く耳にしなかったなどということはさすがにあり得ないのです。それにもかかわらず、長い間ずっと「顧客」らは「沈黙」を守り続けてきたわけです。「責任」までは問われないかもしれませんが…。さらに言えば、もしも「疑惑」の噂話を耳にしたファンが「沈黙」を破って自分の「推し」が被害を受けていないのかどうかについてもっともっと強く知りたがっていたのならば…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『加害者』はもう…」(2023/10/3)

『被害者』と 『勘違いした 記者たち』と 『傍観者』在り 『加害者』はもう…」-

大手芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」の創業者のジャニー喜多川氏(2019年死去)から性被害を受けたなどと元所属タレントの男性などが訴えている問題について事務所側が10/2午後に再び記者会見を行いました(→「ジャニーズ事務所」は10/17付で名称を「SMILE-UP.(スマイルアップ)」に変更した上で被害者の補償に特化して補償終了後に廃業へ。またタレントのマネジメント業務などを行う「新会社」を設立して希望するタレント個人やグループと個別にエージェント契約を締結するなどと。「新会社」の社長には東山紀之氏、副社長には井ノ原快彦氏が就任し、「新会社」の名称はファンクラブで公募するという。なお9/30までに受付窓口に478人からの申し出があり、うち325人が補償を求めているなどと。11月にも補償を開始へ。(参考)「弊社の社名変更と新会社設立及び補償状況について2023.10.2」((株式会社ジャニーズ事務所のホームページ)https://www.johnny-associates.co.jp/news/info-711/)。参考:2023/9/8付、2023/5/15付etc.)。

あえてここでは「この事例」と呼ぶことにしますが…。「この事例」は「被害者」だけではなく「勘違いした記者たち」と非常に多くの「傍観者」が存在感を示していることに特徴があるように感じます。それにしても「民事裁判」と「刑事裁判」の基本的な違いすらも十分に理解せずにあちこちに激しい言葉を投げつけるようなことは少なくとも何らかの種類の「ハラスメント」には該当する可能性が高いのではないかと思いますが…。その上で、あくまでも念のために付け加えるのならば、「被害者」というものは一般的には「加害者」による心からの謝罪を望んでいるのではないかと思います。しかし、残念ながら「この事例」の場合には「加害者」はもうこの社会には存在していないわけです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「圧倒的な『力』の差だが…」(2023/10/2)

『親』と『子』や 『教師(講師)』と『生徒』 などならば 圧倒的な 『力』の差だが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「部下」は「上司」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? 「生徒」は「教師(講師)」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? 「子」は「親」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? 例えば、「親」と「子」や「教師(講師)」と「生徒」の場合には圧倒的な「力」の差があるわけですが…。

繰り返しになりますが、もしも「上司」や「部下」に「上司」の言っていることだから「部下」は「上司」の言っていることに従わなければならないなどという強い思い込みがあったとしても、「公」と「私」の区別が確実に守られる環境が残されているのならば、「パワーハラスメント」を始めとする様々な「ハラスメント」に対する一定の「歯止め」にはなるのだろうと思います。しかし、非常に困ったことに「親」と「子」の場合には基本的には「公」と「私」を区別することができないのです。また圧倒的な「力」の差がある「教師(講師)」と「生徒」の関係では、弱い立場の「生徒」が「公」と「私」の区別をすることが非常に難しい環境に追い込まれる危険性が高くなってしまうのです。基本的に血縁関係のない「教師(講師)」と「生徒」の場合には「第三者」の適切な介入によって「公」と「私」の区別をしやすい環境をつくり出すことはできるのだろうと思います。しかし、ほぼすべてが私的な関係になっている「親」と「子」の場合には「第三者」の介入によって「公」と「私」の区別をしやすい環境をつくり出すようなことは事実上不可能なのだろうと思います。何にしても「教師(講師)」と「生徒」の関係だけではなく、「親」と「子」の関係でも、それぞれの関係を「密室」化させずに外部から一定の透明性を確保することは必要不可欠なのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『歯止め』になるが…」(2023/10/1)

『公』と『私』の 区別ができる 環境は 『ハラスメント』の 『歯止め』になるが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「部下」は「上司」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? 「弟子」は「師匠」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? 「子」は「親」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? そうであったとしても、そうではなかったとしても、どちらの場合であってもその「理由」はいったい何なのでしょうか?

繰り返しになりますが、「部下」は「上司」の言っていることだから「上司」の言っていることに従わなければならないのでしょうか? そしてくどいようですが、「部下」は「上司」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? もしも「上司」や「部下」に「上司」の言っていることだから「部下」は「上司」の言っていることに従わなければならないなどという強い思い込みがあったとしても、「公」と「私」の区別が確実に守られる環境が残されているのならば、「パワーハラスメント」を始めとする様々な「ハラスメント」に対する一定の「歯止め」にはなるのだろうと思います。言うまでもなく「職場」であってもその他の場所であっても「パワーハラスメント」を始めとする様々な「ハラスメント」などは許されるものではないのです。しかし、とりあえず「パワーハラスメント」を始めとする様々な「ハラスメント」などが「職場」だけにとどまっているのならば「緊急避難することができそうな場所」がいくつか残っているだけましであることは確かです。いつどこに行っても「パワーハラスメント」を始めとする様々な「ハラスメント」などの恐怖を感じている状態はほとんどすべての人たちにとってはとても耐えられる環境ではないと思います。そのように考えるのならば、「パワーハラスメント」を始めとする様々な「ハラスメント」に対する一定の「歯止め」にするという意味でも、「公」と「私」の区別が確実に守られる環境を維持することがとても大切なことになるのです。きょうのところはひとまずこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「勘違い!」(2023/9/30)

勘違い! 『上司』の自分 指示すれば いつでも『部下』は 思い通りに?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「部下」は「上司」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? 「弟子」は「師匠」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? 「子」は「親」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? そうであったとしても、そうではなかったとしても、どちらの場合であってもその「理由」はいったい何なのでしょうか?

繰り返しになりますが、「部下」は「上司」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? そして「部下」は「上司」の言っていることだから「上司」の言っていることに従わなければならないのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、もしも「上司」や「部下」に「上司」の言っていることだから「部下」は「上司」の言っていることに従わなければならないなどという強い思い込みがあるのならば、「パワーハラスメント」を始めとする様々な「ハラスメント」の最大の原因になってしまうのです。残念ながら「上司」である自分が指示すればいつでも「部下」は自分の思い通りになるなどというとんでもない勘違いをしている人間たちが今でもまだあちこちに存在しているようです。そもそも「上司」はなぜ「上司」なのでしょうか? またそもそも「部下」はなぜ「部下」なのでしょうか? 多少の誤解を恐れずにあえて単純化して言えば、「上司」というものは何らかの「組織」の中で何らかの「組織の職務」を行うために必要な役割を演じるために「上司」になっているわけです。そして「部下」というものは何らかの「組織」の中で何らかの「組織の職務」を行うために必要な役割を演じるために「部下」になっているわけです。そのように考えるのならば、どんなに少なくとも「組織の職務」とは全く無関係な場所では「上司」は「上司」ではなくなり、「部下」も「部下」ではなくなるはずなのです。そしてもちろん「組織の職務」を行っている場合であっても、「組織の職務」とは無関係なことをしている場合であっても、「上司」の言っていることが明らかに間違っている場合には、「部下」は「上司」の言っていることに従わなくても構わないと考えることができるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「間違わないか?」(2023/9/29)

社会では 『部下』は『上司』に 従うが… 『上司』はいつも 間違わないか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「部下」は「上司」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? 「弟子」は「師匠」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? 「子」は「親」の言うことには必ず従わなければならないのでしょうか? そうであったとしても、そうではなかったとしても、どちらの場合であってもその「理由」はいったい何なのでしょうか?

もしも「部下」は「上司」の言っていることだから「上司」の言っていることに従わなければならないのだとしたら、「部下」は「上司」の言うことには必ず従わなければならないということになってしまうはずです。そうではなくて、「部下」は「上司」の言っていることが正しいから「上司」の言っていることに従わなくてはならないのでしょうか? そうであるのならば、もしも「上司」の言っていることが正しくなかった場合には、「部下」は「上司」の言っていることに従わなくてもいいということになるはずです。それでは「上司」はいつも必ず正しいことを言うのでしょうか? 「上司」は絶対に間違ったことを言うことはないのでしょうか? 「上司」が人間であるのならば答えは明らかです。「上司」が人間であるのならばいつも絶対に間違わないとは言えないわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『名称』変えて…」(2023/9/28)

もしかして 『新社』と『旧社』 分離した 『新社』にしたい? 『名称』変えて…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。くどいようですが、たとえ「名称」を変更したとしても「中身」が変わらなければ意味はないはずなのです(→参考:2023/9/27付、2023/9/26付、2023/9/8付、2023/5/15付etc.)。

あくまでも「空想」上の話ですが、例えば、もしもどこかの「大手芸能事務所」が「新社」と「旧社」に分離した上で、「旧社」は「過去の償い」などを主に担当し、「新社」が「大手芸能事務所」に所属していたタレントたちの芸能活動のための「受け皿」を担うなどということになったのならば、日本社会や国際社会ではどのような反応が出てくることになるのでしょうか? 「新社」の所属タレントとスポンサーの新しいCM契約などが再び次々と締結されることになるのでしょうか? 「新社」の所属タレントはこれまでと同じかそれ以上にたくさんのテレビ番組やドラマや映画に出演し続けることができるのでしょうか? 「新社」の所属タレントはこれまでと同じかそれ以上に多くの観客をコンサートツアーやイベントなどに動員することができるようになるのでしょうか? もしかすると「名称」をとにかく変えさせたい多くの人間たちの中には、「名称」を変えれば「新社」になることができるなどと強く思い込んでいる人間たちが少なくないのかもしれないと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『原因』は?」(2023/9/27)

『原因』は 『特定個人』 だったのか? もしそうならば 再発はない?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。それにしても世の中にはずいぶんとどこかの何かの「名称」を変えさせたい人間たちが多いということに驚かされます。繰り返しになりますが、たとえ「名称」を変更したとしても「中身」が変わらなければ意味はないはずなのです(→参考:2023/9/26付、2023/9/8付、2023/5/15付etc.)。

あえて個別具体的な固有名詞を挙げることは避けますが、もしかすると何かの不祥事のすべての「原因」は「特定個人」であったということが明らかになっているのでしょうか? もしも何かの不祥事のすべての「原因」が「特定個人」であったのならば、その「特定個人」が存在しなかったのならば何かの不祥事も存在しなかったということになるのだろうと思います。そのように考えるのならば、もしもどこかの組織にその「特定個人」がいなくなれば何かの不祥事が再発する危険性はほぼ0%ということになるのかもしれないのだろうと思います。もしもそれでもまだ何か心配だというのならば、念のためにどこかの組織の「名称」も変更しておけばもう少し安心することができるようになるのかもしれないのだろうと思います。しかし、本当に何かの不祥事のすべての「原因」はその「特定個人」だったのでしょうか? もしかするとその「特定個人」がいなくなるまでほとんど何もしなかった人間たちもまた何かの不祥事の「原因」だったのではないのでしょうか? なぜその「特定個人」がいなくなるまでほとんど何もしなかった人間たちはその「特定個人」がいなくなるまでほとんど何もしなかったのでしょうか? あえて言い換えるのならば、なぜその「特定個人」がいなくなった後になってから急に活発に動き出しているのでしょうか? きょうのところはあえてそれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『中身』はどうか?」(2023/9/26)

臭いもの 蓋をしたいと いうことか? 『名称』変えろ? 『中身』はどうか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。それにしても世の中にはずいぶんとどこかの何かの「名称」を変えさせたい人間たちが多いということに驚かされます。もしかすると大急ぎで臭いものに蓋をしたいということなのでしょうか? 繰り返しになりますが、たとえ「名称」を変更したとしても「中身」が変わらなければ意味はないはずなのです(→参考:2023/9/8付、2023/5/15付etc.)。

あくまでも念のために言っておきますが、いくら大急ぎでどこかの何かの「名称」を変更させたとしても、おそらく多くの人たちに情報を正確にできるだけ分かりやすく伝えなくてはならないニュースなどでは「旧Twitter」「旧統一教会」などのような形で「新名称」と共に「旧名称」も併記・併用されることになるのだろうと思います。そのように考えるのならば、大急ぎでどこかの何かの「名称」を変更させることにはいったいどのような意味があるのでしょうか? やはり大急ぎで臭いものに蓋をしたいということなのでしょうか? もしかすると「名称」を変更すれば「中身」も自然に変わっていくなどと強く思い込んでいるのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、たとえ「名称」を変更したとしてもそれだけで「中身」が変わるはずがないのです。例えば、「食塩が入った容器」の「名称」を「シュガー」にすれば「中身」は甘くなるのでしょうか? あるいは、「ガラスの破片」の「名称」を「ダイヤモンド」に変えれば資産価値が大幅に上昇するのでしょうか? そんなバカなことはないはずです。くどいようですが、繰り返しになりますが、たとえ「名称」を変更したとしても「中身」が変わらなければ意味はないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「原産地偽装できなくするために…」(2023/9/25)

原産地 偽装できなく するために 追跡できる データ公開!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。何度も繰り返していますが(→参考:2023/8/31付、2023/8/30付、2023/8/28付、2023/8/27付、2023/8/25付、2023/8/23付etc.)、残念ながらいわゆる「風評被害」は解消することが非常に難しい問題なのだろうと思います。しかし、「風評被害」や「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」や「卑劣なデマ」によって引き起こされた可能性が非常に高い「犯罪行為」などについては断固とした処置を取り続ける必要があるのです。

中国側による「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」や「卑劣なデマ」が繰り返された後も、相変わらず中国漁船は日本近海で操業を続けて中国で水産物を水揚げしているなどと報道されています。日本国としては、日本国の排他的経済水域内で操業を行った場合など中国漁船に対する立ち入り検査が可能な場合には例外なくすべての中国漁船について立ち入り検査を行った上で、それぞれの中国漁船が操業を行った「日時」、「海域(船舶の位置情報を含む)」、「水産物の種類」と「それぞれの漁獲量」などを中国の流通業者や消費者などにも入手可能な形でホームページ上に公開する必要があると考えています。また日本側が中国漁船について立ち入り検査することができない場合であっても、それぞれの中国漁船が操業を行った「日時」、「海域(船舶の位置情報を含む)」、「推定される水産物の種類」と「それぞれの推定漁獲量」などを中国の流通業者や消費者などにも入手可能な形でホームページ上に公開する必要があると考えています。言い換えれば、中国側による原産地偽装を許さないために中国の流通業者や消費者などでも追跡可能なデータを公開するわけです。「風評被害」や「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」や「卑劣なデマ」を吹き飛ばすためには正確なデータを公開し続けることが必要不可欠であると考えられます。繰り返しになりますが、「風評被害」や「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」や「卑劣なデマ」によって引き起こされた可能性が非常に高い「犯罪行為」などについては断固とした処置を取り続ける必要があるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『偽り』でない?」(2023/9/24)

『偽りの 笑顔』ばかりが あふれている… 『AI』ならば 『偽り』でない?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて日本社会や国際社会で大きな問題になりそうな問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。日本社会でも国際社会でも「偽りの笑顔」があふれています。もしかすると人間が無理にでも「偽りの笑顔」をつくるような場面のほとんどは「AI」によって置き換えられてしまうのではないかと思い始めています。

例えば、接客などではどんな客に対しても「笑顔」で「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」などと言うことが当たり前のように求められています。もちろんすべての「笑顔」が偽りだとは言いませんが、やはり社会のあちこちには「偽りの笑顔」があふれているのです。そして「偽りの笑顔」というものは相手に気づかれてしまうことが実は多いのです。そんな今の社会では、「笑顔」を機械的につくって「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」などと言うことについては、「AI」などの方が人間よりもずっと上手くこなすことができるのではないかと思います。もしも「見た目」だけでいいのならばそう遠くない将来には「AI」が人間による「偽りの笑顔」を上回る「笑顔」をつくることができるように思います。しかも「AI」などが機械的につくる「笑顔」は「偽りの笑顔」ではないのです。もしかすると人間が無理にでも「偽りの笑顔」をつくるような場面のほとんどは「AI」によって置き換えられてしまうのではないかと思い始めています。きょうのところはこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『犯罪組織』?」(2023/9/23)

『ハッキング』 『資金洗浄』 『毒殺』で 協力できる 『犯罪組織』?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」ではなかなかその痕跡すらも見ることが難しい「犯罪行為」を通じて、日本社会でも国際社会でも既に深刻な問題になっており、そう遠くない将来にはさらに深刻な問題になるであろう問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」などが国境を越えて猛烈なスピードで国際移動するグローバリゼーションの時代には、「犯罪」や「犯罪組織」も簡単に国際移動することができるようになるわけです。

繰り返しになりますが、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」などが国境を越えて猛烈なスピードで国際移動するグローバリゼーションの時代には、国境を越えて犯罪行為を繰り返す「犯罪組織」を摘発するためには「主権国家」間の国際協力が欠かせないのです。ですから、もしも国際社会の中に「犯罪組織」を野放しにしておく「腐敗国家」や「破たん国家」がいくつも存在するのならば、国際協力の成果は大きく低下することになってしまいます。そしてもしも「『犯罪組織』がそのまま国家になったような国家」がいくつか存在するのならば、「犯罪組織」が「犯罪行為」を行うのが容易になってしまいます。さらに言えば、もしもいくつかの「『犯罪組織』がそのまま国家になったような国家」同士が協力し合った場合には、「犯罪組織」の摘発が極めて難しくなると同時に「犯罪行為」の被害も拡大してしまいます。いくら国際的に孤立した国家同士であったとしても、「『犯罪組織』がそのまま国家になったような国家」を「ハッキング」「資金洗浄」「毒殺」などで協力することができる「犯罪組織」として見るのならば国際社会全体にとっては非常に大きな脅威になります。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『別の国』」(2023/9/22)

『別の国』 拠点にすれば 摘発は 協力ないと 難しくなる!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」ではなかなかその痕跡すらも見ることが難しい「犯罪行為」を通じて、日本社会でも国際社会でも既に深刻な問題になっており、そう遠くない将来にはさらに深刻な問題になるであろう問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」などが国境を越えて猛烈なスピードで国際移動するグローバリゼーションの時代には、「犯罪」や「犯罪組織」も簡単に国際移動することができるようになるわけです。

一般論としては、どこかの国の「犯罪組織」が「別の国」を拠点にして「犯罪行為」を繰り返している場合にはそれだけで摘発が難しくなるのです。どこかの国の警察組織は基本的には「別の国」にいる「容疑者」を逮捕することはできないのです。「容疑者」を逮捕するためには「別の国」の警察組織と協力することが必要不可欠になります。さらに言えば、どこかの国の「犯罪組織」が「別の国」だけではなく、「また別の国」や「さらにまた別の国」にも拠点を分散させることが考えられます。どこかの国の警察組織にとっては、捜査などで協力を得なければならない国の数が増えれば増えるほど、「犯罪組織」を摘発することがますます難しくなっていくのです。いずれにしても「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」などが国境を越えて猛烈なスピードで国際移動するグローバリゼーションの時代には、国境を越えて犯罪行為を繰り返す「犯罪組織」を摘発するためには「主権国家」間の国際協力が欠かせないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「決めつけ?」(2023/9/21)

『確認は できない』などと 言ったのに 完全否定 したと決めつけ?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも既に深刻な問題になっており、そう遠くない将来にはさらに深刻な問題になるであろう問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。日本社会でも国際社会でも根拠のない強い思い込みをしたまま異なる主張に全く耳を貸そうとしない人間たちには困ったものです。断定することができないことを「断定することができない」などと言っただけなのに、根拠のない強い思い込みをする人間たちによって事実関係を完全に否定したことにされてしまうのはとても恐ろしいことです。

繰り返しになりますが(→参考:2023/9/20付)、詳細な調査ができないまま約100年が経過してしまった「交通事故」の場合には、何かを断定的に言うことは極めて難しいのです。くどいようですが、約100年が経過すれば乗用車Aと乗用車Bの運転手たちも目撃者たちなども存命ではないし、乗用車Aと乗用車Bの車体も残っていないわけです。そして約100年前ですからドライブレコーダーの映像などは当然存在しないわけです。そういう状況であるにもかかわらず、約100年後の今現在において、どちらかの乗用車がどちらかの乗用車に故意に衝突させたなどと確認することはできないはずなのです。もしかすると様々な証言記録などから総合的に判断すれば、何らかの「交通事故」があったことはおそらく確かだろうということまでは言えるのかもしれないとは思います。しかし、だからと言って、どちらかの乗用車がどちらかの乗用車に故意に衝突させたなどと断定することはできないはずですし、ましてや「虐殺事件」などと主張するようなことはできないはずなのです。さらに言えば、約100年前の「交通事故」の詳細については「確認することができない」などと言っただけのはずなのに、「虐殺事件」の存在を強く思い込んでいる人間たちによって約100年前の「交通事故」の存在すらも否定したと決めつけられてしまうのは実に恐ろしいことです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「確認できず!」(2023/9/20)

詳細な 調査ができず 100年が 経過したなら 確認できず!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも既に深刻な問題になっており、そう遠くない将来にはさらに深刻な問題になるであろう問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。日本社会でも国際社会でも根拠のない強い思い込みをしたまま異なる主張に全く耳を貸そうとしない人間たちには困ったものです。

例えば、あまり良い例ではありませんが、乗用車同士が衝突する「交通事故」を具体例にして考えてみることにしようと思います。乗用車Aの運転手は、乗用車Bの方が衝突してきたと主張しているとします。一方の乗用車Bの運転手は、乗用車Aの方が衝突してきたと主張しているとします。当たり前と言えば当たり前の話ですが、乗用車Aと乗用車Bのそれぞれの車体に「痕跡」が残されているのならば、何らかの交通事故があったことだけは事実だということはすぐに分かります。乗用車Aが乗用車Bに衝突したのでしょうか? それとも乗用車Bが乗用車Aに衝突したのでしょうか? あるいは…。もしも乗用車Aと乗用車Bのそれぞれの車体の損傷部分を詳細に調査することができるのならば、乗用車Aと乗用車Bが衝突したのかどうか、また衝突した場合には乗用車Aと乗用車Bがどのような状況で衝突したのかなどということが分かるのだろうと思います。もっとも乗用車Aか乗用車Bのどちらかにドライブレコーダーが搭載されていれば記録されている映像からも交通事故の状況がすぐに分かるのだろうと思います。しかし、もしも何らかの理由のためにそうした交通事故の状況の詳細な調査ができないまま約100年が経過してしまった場合にはいったいどうなってしまうのでしょうか? 約100年が経過すれば乗用車Aと乗用車Bの運転手たちも目撃者たちなども存命ではないし、乗用車Aと乗用車Bの車体も残っていない…。そして当時はドライブレコーダーなどはまだなかった…。くどいようですが、乗用車Aが乗用車Bに衝突したのでしょうか? それとも乗用車Bが乗用車Aに衝突したのでしょうか? あるいは…。詳細な調査ができないまま約100年が経過してしまった場合には、どんなに少なくとも乗用車のどちらかが故意にどちらかに衝突させたなどということを確認することはできないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『悪夢』」(2023/9/19)

『男性か?』 『女性か?』などと 議論する… そんな『悪夢』が 現実になる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも既に深刻な問題になっており、そう遠くない将来にはさらに深刻な問題になるであろう問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。いわゆる「ジェンダー平等」などを従来のような安易な方法で追求すると新たな深刻な人権問題を引き起こす危険性が高まっているように思います。

繰り返しになりますが、最近はどこかの国で閣僚人事などがあると「女性の入閣は〇人」などということが非常に大きく注目されるようになっています。「女性の入閣は〇人」…。なぜ「男性の入閣は〇人」とは言わないのでしょうか? 私は少しおかしな表現だと思っています。もちろん大臣として入閣する人たちのほとんどが男性という状況がずっと続いているからこそ「女性の入閣は〇人」という表現が出てくることになるのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「女性の入閣は〇人」という表現はおかしな表現だと思います。せめて全体の比率が分かりやすくなるように「入閣は男性〇人、女性〇人」などと表現することはできないものなのでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、そもそも「男性」とか「女性」というのは「生物学的な性」のことを意味しているのでしょうか? それとも…。もしもそう遠くない将来に「あの人」は「男性」か「女性」かなどという「不毛な議論」があちこちで何度も繰り広げられるようになるとしたら「悪夢」です。きょうのところはいわゆる「ジェンダー平等」などを従来のような安易な方法で追求すると新たな深刻な人権問題を引き起こす危険性が高くなるということを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「『男ならでは』」(2023/9/18)

これまでは 『男ならでは』 ばかりだと 反省すると 『女性ならでは』?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも既に深刻な問題になっており、そう遠くない将来にはさらに深刻な問題になるであろう問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。いわゆる「ジェンダー平等」などを従来のような安易な方法で追求すると新たな問題を引き起こす危険性が高くなると思います。

最近はどこかの国で閣僚人事などがあると「女性の入閣は〇人」などということが非常に大きく注目されるようになっています。私は「女性の入閣は〇人」などという表現は少しおかしな表現だと思っています。もちろん大臣として入閣する人たちのほとんどが男性という状況がずっと続いているからこそ「女性の入閣は〇人」という表現が自然に出てくることになるのだろうと思います。多少の誤解を恐れずに言えば、「女性の入閣は〇人」などという表現は「男ならでは」あるいは「女ならでは」の発想や視点から出てきたものなのだろうと思います。例えば、もしもこれまではずっと「男ならでは」の発想や視点ばかりだったと反省するのならば、「女性ならでは」の発想や視点を採り入れようと「女性」を何人か入閣させるという発想になるのだろうと思います。あるいは、もしもいわゆる「ジェンダー平等」などの実現を従来のような安易な方法によって目指すのならば、女性の数だけに注目して「女性の入閣は〇人」などという表現を好んで用いることになるのだろうと思います。繰り返しになりますが、「女性の入閣は〇人」などという表現は「男ならでは」あるいは「女ならでは」の発想や視点から出てきたものなのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『身の丈』」(2023/9/17)

これからも 『補充』すること できるのか? 『身の丈』に合う 『システム』にする!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会では既に深刻な問題になっており、そしてそう遠くない将来には国際社会でも深刻な問題になるであろう問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。何度も繰り返していますが、そろそろ日本社会はいわゆる「少子高齢化」という現象を真正面から捉える必要があるのです。くどいようですが、日本社会における「労働力不足」の問題を解消するためには、「労働力不足」という現象を単なる「労働力の不足」の問題としてではなく、「もはや時代に合わなくなっている古いシステム」の改革の不足や欠落として捉え直すことが必要不可欠であると考えています。

繰り返しになりますが、日本社会では「労働力不足」が様々な分野で指摘されています。日本社会のあちこちで「労働力不足」と呼ばれる深刻な状況が発生していることは確かです。しかし、それでもやはり、不足している「労働力」を他分野や海外から「補充」しようなどという安易な発想は間違いなのです。本当に不足している「労働力」を他分野や海外から「補充」することができるのでしょうか? 仮に不足している「労働力」を他分野や海外から「補充」することができたとしても、これからもずっと不足している「労働力」を他分野や海外から「補充」し続けることができるのでしょうか? そのように考えるのならば、「もはや時代に合わなくなっている古いシステム」を抜本的に改革してこれからの日本社会の「身の丈」に合った「労働力」だけで運用することができる「新しいシステム」を構築する以外には「労働力不足」の問題を根本的に解消することはできないということに気づくはずです。これからの日本社会の「身の丈」に合った「労働力」だけで運用することができる「新しいシステム」とは何か? どんなに少なくともいわゆる「労働力人口」の世代、特に若い人たちに過度に依存することによって生み出される「労働力」を前提にしたシステムからは完全に脱却したものにならなければならないはずなのです。きょうのところはそのことを改めて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『疑似餌』」(2023/9/16)

上機嫌? 『軍事マニアの 王様』は 上手く『疑似餌』で 釣り上げられる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」ではまず見られない「時代遅れの王様たち」の世界を「空想」してみることにしようと思います。そして「時代遅れの王様たち」の世界を「空想」することを通じて、日本を含めた国際社会で深刻な問題になっている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。

「どこかの小さな国の軍事マニアの王様」が「どこかの大きな国のロシア帝国の幻想にとらわれた王様」から招待されて「どこかの大きな国」の「宇宙基地」や「戦闘機工場」や「最新ミサイル」や「太平洋艦隊」などを見せてもらって満足しているようです。「どこかの大きな国」と「どこかの小さな国」は「軍事協力」の可能性を模索しているなどと言われているようです。率直に言わせてもらうのならば、もしも「軍事協力」などというものが行われることになったとしても、それが対等なものにはならないであろうことだけはほぼ確実です。例えば、「どこかの小さな国」はウクライナで侵略戦争を続けている「どこかの大きな国」に対して最新型の高性能の無人機を大量に供給し続けることができるのでしょうか? それでは「どこかの小さな国」は旧ソ連製のローテク兵器や砲弾などの消耗品を大量に供給し続けることができるだけの十分な「生産力」があるのでしょうか? 本当に「どこかの小さな国」は「どこかの大きな国」に心から感謝される「軍事協力」をすることができるのでしょうか? もしも「どこかの小さな国」に「どこかの大きな国」と匹敵するかそれ以上に大量に供給することができる「何か」があるとしたら、おそらくそれは「肉」などと呼ばれる銃弾と砲弾が激しく飛び交って地雷がたくさん埋められている最前線で味方の兵士が次々と倒されても勇敢に前進し続けることができる忠実な兵士たちぐらいなのではないかと思います。「どこかの小さな国の軍事マニアの王様」は「どこかの大きな国のロシア帝国の幻想にとらわれた王様」がちらつかせている「疑似餌」に食いつくのかどうか…。そして上手く「疑似餌」で釣り上げられるのかどうか…。あくまでも「空想」の世界の話ですが、「時代遅れの王様たち」には本当に困ったものです。

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「『補充』する?」(2023/9/15)

不足する 『労働力』を 『補充』する? 日本はそんな 魅力的なの?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会では既に深刻な問題になっており、そしてそう遠くない将来には国際社会でも深刻な問題になるであろう問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。そろそろ日本社会はいわゆる「少子高齢化」という状況を真正面から捉える必要があると思います。

日本社会では「労働力不足」ということが様々な分野で指摘されています。そしてその日本社会で不足している「労働力」を日本国外から「補充」しようという発想もあります。しかし、日本社会は国際的に見てそんなに魅力的な労働環境なのでしょうか? たとえ円安傾向が続いても続かなくても、いわゆる発展途上国の人たちにとっても日本社会の賃金水準はそれほど魅力的なものではなくなってきているのではないかと思います。そして国際社会の中には日本よりもはるかに魅力的な労働環境を提供することができる場所があるということも忘れてはならないのです。さらに言えば、当たり前と言えば当たり前の話ですが、いわゆる発展途上国でも若い人たちは「労働力」として必要不可欠なのです。それにもかかわらず、日本社会で不足している「労働力」を日本国外から「補充」し続けることが本当に可能なのでしょうか? 国際社会の様々な場所で若い人たちの奪い合いが激しくなるだけで日本社会の「労働力不足」は埋められないのではないでしょうか? くどいようですが、日本社会における「労働力不足」の問題を解消するためには、「労働力不足」という現象を単なる「労働力の不足」の問題としてではなく、「もはや時代に合わなくなっている古いシステム」の改革の不足や欠落として捉え直すことが必要不可欠であると考えています。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「埋まらない!」(2023/9/14)

『報酬』の 引き上げしても 埋まらない! 奪い合いだけ 激しくなるが…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会では既に深刻な問題になっており、そしてそう遠くない将来には国際社会でも深刻な問題になるであろう問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。そろそろ日本社会はいわゆる「少子高齢化」という状況を真正面から捉える必要があると思います。

日本社会では「労働力不足」ということが様々な分野で指摘されています。しかし、このまま「少子高齢化」の流れが続いて若い人たちの人口が減少し続ける限り、いくら報酬を引き上げたりしても、「労働力不足」の問題が解消することはまず不可能なのです。そもそも若い人たちの数が少ないのならば、いくら報酬を引き上げるなどしても様々な場所で若い人たちの奪い合いが激しくなるだけで「労働力不足」は埋められないはずなのです。率直に言わせてもらうのならば、日本社会における「労働力不足」の問題を解消するためには、「労働力不足」という現象を単なる「労働力の不足」の問題としてではなく、「システム改革の不足」あるいは「システム改革の欠落」として捉え直すことが必要不可欠であると考えています。あえて言い換えるのならば、日本社会のような若い人たちの人口が減少し続けている社会において「労働力不足」の問題を解消するためには、かつての若い人たちを中心とした「労働力」に依存することを大前提にした「システム」がもはや完全に時代に合わないものになっているという現実を真正面から受け入れる必要があるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「できない環境」(2023/9/13)

『犯罪』を しようとしても 実際に できない環境 つくり上げれば…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも、そして国際社会でも深刻な問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「何かの犯罪」の被害者を出さないようにするためにはいったいどうしたらいいのでしょう? 「何かの犯罪」をなくすためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 

あくまでも一般論ですが、たとえどれだけ「何かの犯罪」を犯そうと思っている人間たちであったとしても、物理的に「何かの犯罪」を犯すことができない環境では「何かの犯罪」を犯すことはできないと考えられます。そのように考えるのならば、いったい何をどのようにしたら「何かの犯罪」を犯すことができない環境をつくり上げることができるのかということが何よりも大切なことになるのではないかと思います。例えば、「容疑者」と「被害者」が2人きりになる場面をなくすとか、「容疑者」と「被害者」がプライベートでは絶対に会わないようにするとか、「容疑者」と「被害者」が日常的に半径2メートル以内の距離に近づかないようにするとか、「容疑者」と「被害者」が接触する可能性のあるすべての場所に防犯カメラを設置するとか…。もちろん過去に「何かの犯罪」を犯したことのある人間たちを「データベース」に登録して「何かの職業」の採用時に確認するなどという方法によって「何かの犯罪」を防ぐという考え方も併用することはできるわけです。しかし、実際にどのようにして「何かの犯罪」を犯すことができない環境をつくり上げることができるのかということが重要ではないかと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「限界」(2023/9/12)

犯罪者 データベースを 確認し 犯罪防ぐ ことに限界?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも、そして国際社会でも深刻な問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「何かの犯罪」の被害者を出さないようにするためにはいったいどうしたらいいのでしょう? 「何かの犯罪」をなくすためにはいったいどうしたらいいのでしょうか?

あくまでも一般論ですが、過去に「何かの犯罪」を犯したことのある人間たちをわざわざ「何かの犯罪」を最も実行しやすい環境の中に置いておくようなことはやはり好ましくはないはずなのです。そういう意味では「何かの職業」に従事することができるのは過去に「何かの犯罪」を犯したことがない人たちだけに限定するなどということはそれなりに意味のあることなのだろうと思います。しかし、それでもやはり、過去に「何かの犯罪」を犯したことがない人たちが初めて「何かの犯罪」を犯すようなことを防ぐことはできないのです。さらに言えば、「記録上」は過去に「何かの犯罪」を犯したことがないことになっている人間たちが「何かの犯罪」を犯す危険性を0%にすることも難しいのです。そのように考えるのならば、過去に「何かの犯罪」を犯したことのある人間たちを「データベース」に登録して「何かの職業」の採用時に確認するなどという方法によって「何かの犯罪」を防ぐという発想には限界があるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「売れている『俳優』ならば…」(2023/9/11)

売れている 『俳優』ならば 『NG』に されてもたぶん 生き残れるが…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも、そして国際社会でも深刻な問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。どうやらほとんどすべての社会の中にもいくつもの種類の「見えない壁」が存在するようです。「社会」というものは人間と人間の間の関係で成り立っているわけですから、やはり「見えない壁」ができてしまうのを避けることは難しいことなのだろうと思います。

繰り返しになりますが、テレビの世界にはそんな「見えない壁」を表現する「共演NG」などという言葉があるようです(→参考:2023/9/10付)。例えば、もしも売れている大人気の「俳優A」とそれほど売れていない「俳優B」が「犬猿の仲」であるという場合にはおそらく「共演NG」ということになるのだろうと思います。そして何かの現場で「共演NG」の両者が「競合」する場合には、おそらく売れている大人気の「俳優A」が起用されることになり、それほど売れていない「俳優B」は起用されないということになるのだろうと思います。売れている大人気の「俳優」ならば「共演NG」にされてもたぶん生き残ることができるわけですが…。そのように考えるのならば、ごく一部の大人気の「俳優」以外の「俳優」は、もしも誰かから嫌われて「共演NG」になった場合にはそれだけで仕事が激減してしまう危険性が高くなるわけです。ですから、ごく一部の大人気の「俳優」以外の「俳優」は誰かと絶対に「共演NG」にならないように細心の注意を払うということになるのだろうと思います。さらに言えば、ごく一部の大人気の「俳優」以外の「俳優」は、もしも仕事を選ぶことができるのならば、その仕事をしたために誰かから嫌われる危険性が高くなる仕事はなるべく避けたいと思うようになるのだろうと思います。あくまでも一般論ですが、ごく一部の大人気の「俳優」以外の「俳優」らは様々な「見えない壁」に直面することになるのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、ごく一部の大人気の「俳優」とその所属事務所の「権力」を絶大なものにしているのはいったい誰なのでしょうか? きょうのところはあえてその疑問を投げかけるだけにとどめることにしておきます。

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「『共演NG』」(2023/9/10)

共演は NGなどと いうことは 本人いない 場所でも決まる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも、そして国際社会でも深刻な問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。どうやらほとんどすべての社会の中にもいくつもの種類の「見えない壁」が存在するようです。「社会」というものは人間と人間の間の関係で成り立っているわけですから、やはり「見えない壁」ができてしまうのを避けることは難しいことなのだろうと思います。

テレビの世界にはそんな「見えない壁」を表現する「共演NG」などという言葉があるようです。「俳優A」と「俳優B」を同じテレビ番組やドラマなどで共演させるといろいろなトラブルが発生する危険性が高いような場合におそらく「共演NG」ということになるのだろうと思います。例えば、「俳優A」と「俳優B」の間には過去に恋愛関係があったために顔を合わせるのも気まずい状態にあるなどという場合は「共演NG」ということになるのだろうと思います。あるいは、「俳優A」と「俳優B」が互いにライバル関係にあって「犬猿の仲」であるという場合にもおそらく「共演NG」ということになるのだろうと思います。もちろん限られた予算と限られた時間の中でテレビ番組やドラマなどを制作しなくてはならない側としては、制作を円滑に進めるためには「共演NG」などということには非常に敏感にならざるを得ないのだろうと思います。もしも売れている大人気の「俳優A」を起用したテレビ番組やドラマなどをどうしても制作したいと思うのならば、「俳優A」が気分を害して撮影を何度も中断させたり怒って途中降板したりする危険性は可能な限り0%にしたいのだろうと思います。そのように考えるのならば、もしも売れている大人気の「俳優A」にとっては「俳優B」を含めた他の誰に対しても「共演NG」ではなかったとしても、どうしても大人気の「俳優A」を起用したい側としては勝手に「共演NG」をつくり出してしまうこともあるのだろうと思います。極端な場合には、たとえ「俳優A」やその所属事務所が少しも「圧力」を加えなかったとしても明確な理由もなしになかなか起用されなくなる「俳優」などが出てくることになるかもしれないのです。あえて言い換えるのならば、大人気の「俳優A」の「共演NG」は大人気の「俳優A」をどうしても起用したい側が本人の知らない場所で勝手につくり出すことも実は少なくないのかもしれないと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、大人気の「俳優」とその所属事務所の「権力」を絶大なものにしているのはいったい誰なのでしょうか? 本当に大人気の「俳優」とその所属事務所なのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「見て見ぬふりか?」(2023/9/9)

自分だけ 幸せならば それでいい? 他人の不幸 見て見ぬふりか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。ほとんどすべての人たちは自分のことが大切なのだろうと思います。しかし、自分だけが幸せならばそれでいいのでしょうか? 自分が幸せならば他人の不幸は見て見ぬふりをしてもいいのでしょうか? 自分も不幸になってしまう危険性が高い場合には他人の不幸は見て見ぬふりをしても許されるのでしょうか?

例えば、「いじめ」の問題の場合には、いじめられていることに気づいてはいたけれども、自分もいじめられるようになるのが怖くて見て見ぬふりをしてしまったなどという話はよく聞きます。自分もいじめられるようになってしまう危険性が高い場合には、たとえ他人がいじめられていることに気づいていたとしても、見て見ぬふりをすることが許されるのでしょうか? あるいは、自分たちが何らかの利益を得ているときにその利益を失う危険性が高くなるような場合には、たとえその利益の「裏」で誰かが不幸になっていることに気づいていたとしても、見て見ぬふりをすることが許されるのでしょうか? その上で、あえて率直に言わせてもらうのならば、自分たちがいじめられる心配がなくなった後に後悔や反省などと共に「いじめ」などを証言するようなことは難しいことではないのだろうと思います。さらに言えば、自分たちがこれ以上利益を失う危険性が低くなった後に自分たちの利益の「裏」で不幸になっていた人たちについて後悔や反省などを交えながら語ることもそれほど難しいことではないのだろうと思います。繰り返しになりますが、自分が幸せならば他人の不幸は見て見ぬふりをしてもいいのでしょうか? 自分も不幸になってしまう危険性が高い場合には他人の不幸は見て見ぬふりをしても許されるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『名前』だけ変えても…」(2023/9/8)

『名前』だけ 変えても『中身』 変わらない! 大事なことは いったい何か?」-

大手芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」の創業者のジャニー喜多川氏(2019年死去)から性被害を受けたなどと元所属タレントの男性などが訴えている問題について9/7午後に事務所側が記者会見を行いました(→事務所としてジャニー喜多川氏の性加害を認めて謝罪。藤島ジュリー氏が9/5付で社長を辞任、後任の社長に所属タレントの東山紀之氏が後任の社長に就任したことを発表。事務所側から会見に出席したのは、藤島氏、東山氏、「ジャニーズJr.」を養成する「ジャニーズアイランド」の社長で所属タレントの井ノ原快彦氏、弁護士。(参考)「外部専門家による再発防止特別チームに関する調査結果について 2023.8.29」((株式会社ジャニーズ事務所のホームページ)https://www.johnny-associates.co.jp/news/info-711/)。参考:2023/5/15付)。

きょうのところはいわゆる「性加害」問題本体についてはあえてコメントしないことにしておきます。その上で、率直に言わせてもらうのならば、「ジャニーズ事務所」の名称を変更しないことは許されないかのような一部の極端な主張については非常に理解に苦しみます。もちろん事務所側と被害を受けた人たちが「償い」の一部として名称変更で合意したような場合には1つの考え方として理解することはできます。しかし、「名前」だけを変えても「中身」が変わらなければ全く意味はないはずです。固有名詞を挙げることは避けますが、過去に深刻な事件や問題を引き起こしたいくつかの「カルト宗教団体」の実例を今こそ思い起こすべきです。さらに言えば、あくまでも一般論ですが、失ったら困るものをたくさん持っている人たちが自分は何かを失うリスクが高くなるだけで新たに何かが得られる見込みがあるわけでもないにもかかわらず、他人のために、あえて何かを失うリスクが高くなるような行動を取るような場合には、とりあえず「信用」してみる価値はあるのではないかと思います。あえて付け加えるのならば、当時も今現在も失ったら困るものをたくさん持っているマスメディアやエンターテインメント業界の人間たちが長く沈黙を守ってきたことを思い起こすのならばそのように考える人たちの数も増えるのではないかと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「自分だけ良ければ…」(2023/9/7)

自分だけ 良ければ他は 無関係? 人権めぐる 『距離感』違う」-

今現在の国際社会は「多極化」しているなどと言われています。確かに「二極化」などという単純な構図が当てはまらないような分かりにくい状況にはなってきているようです。しかし、「多極化」と呼ぶことができる程度まで複数の「極」がハッキリと見えているという状況でもないように思います。ただもしかすると「ブロック経済」化は進んでいるのかもしれないと思うことはあります。「ブロック経済」などという言葉を思い出して何かを連想してしまうという人たちも少なくはないかもしれませんが…。

繰り返しになりますが、今現在の国際社会のそれぞれの国家の人権に対する「距離感」にはかなり違いがあります。あえて固有名詞や個別具体的な事例を取り上げることは避けますが、国際社会の中には「ある人権問題」を理由に「ある国家」に対する経済制裁を実施したりその経済制裁の枠組みに積極的に参加したりする国家もあるわけです。その一方で、たとえ「ある人権問題」があってもこれまでと同じかそれ以上に「ある国家」との貿易を続けるような国家もあるわけです。そしてひどい場合には、「ある人権問題」を理由にした「ある国家」に対する経済制裁のために値下がりした物品を大量に購入して大幅な利益を得る国家も存在するわけです。「『ある国家』に対する経済制裁に参加している国家のグループ」は「ある国家」との貿易は制限されるが、「『ある国家』に対する経済制裁に参加しない国家のグループ」は「ある国家」との貿易は制限されない…。世界経済は新しい形で「ブロック経済」化が進んでいくと見ることもできるわけです。そしておそらく国際社会のそれぞれの国家の人権に対する「距離感」の違いをもう少し狭い範囲内に収めることができなければ、世界経済の「ブロック経済」化はさらに深刻なものになっていくのだろうと思います。国際社会の破滅的な危機を避けるためには、どんなに少なくとも自分たちが平和で豊かな生活ができさえすれば地球上の別のどこかの場所でどれだけ人権が蹂躙されていたとしても関係ないなどという考え方だけは許されないと思います。きょうのところはそのことを繰り返し指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『距離感』」(2023/9/6)

人権の 『距離感』違う 国々が 『ブロック経済』 つくっていくか?」-

今現在の国際社会は「多極化」しているなどと言われています。確かに「二極化」などという単純な構図が当てはまらないような分かりにくい状況にはなってきているようです。しかし、「多極化」と呼ぶことができる程度まで複数の「極」がハッキリと見えているという状況でもないように思います。ただもしかすると「ブロック経済」化は進んでいるのかもしれないと思うことはあります。「ブロック経済」などという言葉を思い出して何かを連想してしまうという人たちも少なくはないかもしれませんが…。

今現在の国際社会は人権などという価値観でさえも十分に共有することができていない状況にあります。あえて固有名詞や個別具体的な事例を取り上げることは避けますが、たとえ「民主主義」を掲げていても掲げていなくても、国際社会のそれぞれの国家の人権に対する「距離感」には実に様々なものがあります。そしてそれぞれの人権問題に対するそれぞれの国家の「距離感」の違いによって、「ある人権問題」を理由に「ある国家」に対する経済制裁を実施したりその経済制裁の枠組みに積極的に参加したりする国家もあれば、「ある人権問題」があってもこれまでと同じかそれ以上に「ある国家」との貿易を続けている国家もあるわけです。あえて言い換えるのならば、それぞれの人権問題に対するそれぞれの国家の「距離感」の違いによって、世界経済の「ブロック経済」化が進んでいく危険性もあるわけです。そのように考えるのならば、少なくとも人権などという価値観については「多極化」しつつあるようにも見える今現在の国際社会が好ましい状況ではないことだけは確かです。どんなに少なくとも自分たちが平和で豊かな生活ができさえすれば地球上の別のどこかの場所でどれだけ人権が蹂躙されていたとしても関係ないなどという考え方だけは許されないと思います。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきますが…。

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「『強者』がいれば…」(2023/9/5)

『係争地』 『内戦地域』 預かれる 『強者』がいれば どれだけいいか…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる事例をヒントにして国際社会の深刻な問題の1つの解決についてもう少しだけやや空想的なことを考えてみることにしようと思います。「戦争」というものはいったいどうしたら防ぐことができるのでしょうか? 「戦争」を防いだり止めさせたりすることは本当に可能なのでしょうか?

繰り返しになりますが、もしも「A国」と「B国」の間に領土問題や国境線の画定の問題が存在して両国の対立が激化した場合であっても、今現在の国際社会には対立が戦争状態にまでエスカレートするのを止めることができる「強者」は残念ながら存在しないのです。あえて言い換えれば、今現在の国際社会には「おもちゃ」を取り合っている2人の「子ども」から強引に「おもちゃ」を取り上げることができる「大人」のような「強者」は残念ながら存在しないのです。その上で、あえて「空想」をしてみるのならば、もしも「国際連合」が「おもちゃ」を取り合っている2人の「子ども」から強引に「おもちゃ」を取り上げることができる「大人」のような「強者」になることができるのならば、例えば、「国際連合」が「A国」と「B国」が「その帰属をめぐって対立している領土(→係争地)」を「国際信託統治地域」(→参考:国連憲章12章・13章)のようなものとして預かる形式で戦争状態にまでエスカレートする危険性を限りなく0%に近づけることができるのかもしれないのです。さらに「空想」を続けるのならば、もしも「国際連合」に地球上のすべての「係争地」や「内戦などのために事実上無政府状態になっている地域」を「国際信託統治地域」のようなものとして預かることができる能力があるのならば、国際社会を今現在よりももっと良いものにすることができるかもしれないと思います。国際社会の中に「係争地」「内戦地域」を預かることができる「強者」がいればどれだけいいか…。きょうのところは「空想」をするだけにとどめてあえて深入りはしないことにしておきます。

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「どうしたら…」(2023/9/4)

どうしたら 戦争止める ことできる? 『大人』が『おもちゃ』 取り上げられる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる事例をヒントにして国際社会の深刻な問題の1つの解決についてあえてやや空想的なことを考えてみることにしようと思います。「戦争」というものはいったいどうしたら防ぐことができるのでしょうか? 「戦争」を防いだり止めさせたりすることは本当に可能なのでしょうか? 

例えば、もしも「A国」と「B国」の間に領土問題や国境線の画定の問題が存在して両国の対立が激化した場合には、いったいどうしたら戦争状態にまでエスカレートすることを止めることができるのでしょうか? もちろん国際社会のその他の国々が「A国」と「B国」を説得することも必要です。でも、国際社会の説得だけで戦争状態にまでエスカレートすることを本当に止めることができるのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて一般社会でありそうな具体例を用いるのならば、例えば、「おもちゃ」を取り合っている2人の「子ども」の争いを止めようとする場合には、「大人」がその「おもちゃ」を取り上げることが最も効果的な方法の1つになるのです。しかし、残念ながら今現在の国際社会には「子ども」から「おもちゃ」を取り上げることができる「大人」が存在しないのです。あえて繰り返しますが、「戦争」というものはいったいどうしたら防ぐことができるのでしょうか? 「戦争」を防いだり止めさせたりすることは本当に可能なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『悪者』?」(2023/9/3)

『権力者』 『悪者』叩く 『流行』に 異議を唱える 者は『悪者』?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じてこれからの日本社会や国際社会で大きな問題になっていくかもしれない問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。やはり今も昔も世の中の人たちは「流行」しているものが好きなようです。そして残念なことに「悪者」を叩くことなどにも「流行」があるようなのです。

繰り返しになりますが、「権力者」や「悪者」を叩いたりするようなことにも「流行」のようなものがあるようなのです。そして「権力者」や「悪者」を叩くことがひとたび「流行」すると、ますます多くの人たちが「権力者」や「悪者」を批判したり叩いたりする「流行」に便乗するようになるようです。くどいようですが、そもそも「権力者」や「悪者」はなぜ悪いのでしょうか? さらに言えば、「権力者」や「悪者」を批判したり叩いたりする「流行」に異議を唱えるような人たちは「悪者」になってしまうのでしょうか? 一度立ち止まって冷静になって考えてみる必要があります。もしも「権力者」や「悪者」を批判したり叩いたりする「流行」に異議を唱えるような人たちが「悪者」であるというのならば、「多数派」に異論を唱える「少数派」の存在を認めないという非常に恐ろしい世の中になってしまいます。自分たちが批判している「権力者」や「悪者」の「暴走」と同じかそれ以上にひどい「暴走」が続くことになるのです。「権力者」や「悪者」を批判したり叩いたりする「流行」に便乗しているうちに自分たちが批判したり叩いたりする人間たちよりもはるかにひどい「悪者」になってしまうこともあるのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『流行』に便乗すれば…」(2023/9/2)

『権力者』 『悪者』叩く 『流行』に 便乗すれば 『悪者』になる!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じてこれからの日本社会や国際社会で大きな問題になっていくかもしれない問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。やはり今も昔も世の中の人たちは「流行」しているものが好きなようです。そして残念なことに「悪者」を叩くことなどにも「流行」があるようなのです。

あくまでも一般論ですが、「権力者」や「悪者」を叩いたりするようなことにも「流行」のようなものがあるようです。そして「権力者」や「悪者」を叩くことがひとたび「流行」すると、ますます多くの人たちが「権力者」や「悪者」を批判したり叩いたりする「流行」に便乗するようになるようです。そもそも「権力者」や「悪者」はなぜ悪いのでしょうか? 自分自身はいったいなぜ「権力者」や「悪者」を批判したり叩いたりしているのでしょうか? 一度立ち止まって冷静になって考えてみる必要があります。「権力者」や「悪者」を批判したり叩いたりする「流行」に便乗しているうちに自分たちが批判したり叩いたりする人間たちよりもはるかにひどい「悪者」になってしまうこともあるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『流行』すれば…」(2023/9/1)

人々は 『流行』している ものが好き! 『流行』すれば 注目される?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じてこれからの日本社会や国際社会で大きな問題になっていくかもしれない問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。やはり今も昔も世の中の人たちは「流行」しているものが好きなようです。そして今も昔も世の中には「どこかで流行したというもの」が溢れています。しかし、そもそも本当に「流行」したのでしょうか? 

一昔前には「テレビや雑誌で紹介された店や商品」というものはそれだけで「宣伝文句」として使われたものです。「テレビや雑誌で紹介された」ということは「流行」しているということなのでしょうか? また「全米で話題」などという「宣伝文句」は今でもよく聞きます。話題になるということは「流行」しているということなのでしょうか? そしてここ数年はYouTubeやTikTokで「何億回再生」だとか「バズった」などという「宣伝文句」が溢れています。そもそも「何億回再生」だとか「バズった」などということは「流行」しているということを意味しているのでしょうか? そもそも「流行」したというのはいったいどういう状態なのでしょうか? 何にしても「流行」したり「話題」になったりすれば多くの人たちから注目してもらえるということだけは確かなようです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『ゼロコロナ』?」(2023/8/31)

『ゼロコロナ』 のようなことを 食品で やり始めれば 餓死者も出るが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。何度も繰り返していますが(→参考:2023/8/30付、2023/8/28付、2023/8/27付、2023/8/25付、2023/8/23付etc.)、残念ながらいわゆる「風評被害」は解消することが非常に難しい問題なのだろうと思います。しかし、「風評被害」や「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」や「卑劣なデマ」によって引き起こされた可能性が非常に高い「犯罪行為」などについては断固とした処置を取り続ける必要があるのです。

改めて素人の素朴な疑問ですが、そもそも中国を原産地とする農林水産物や中国で生産された食品は本当に安全なのでしょうか? 中国を原産地とする農林水産物や中国で生産された食品には、残留農薬などの化学物質や食品添加物などはいったいどのくらい含まれているのでしょうか? 中国を原産地とする農林水産物や中国で生産された食品の安全性は諸外国と比較しても十分なものなのでしょうか? さらに言えば、中国国内の「検査」は本当に信頼できるものなのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、もしも食品の安全性で「ゼロコロナ」政策のようなことをやり始めたとするのならば、時間が経過するにつれてどんどん少なくなっていく数少ない安心して食べることができる食品に多くの人たちが群がり、やがて餓死者が出ることにもなりかねないわけですが…。繰り返しになりますが、中国を原産地とする農林水産物や中国で生産された食品は諸外国の食品と比較しても十分に安全性の高いものなのでしょうか? さらに言えば、中国を原産地とする農林水産物や中国で生産された食品は「核汚染水」に「汚染」されたと思い込んでいる食品よりも安全なものなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『過去の悪事』が明らかに?」(2023/8/30)

一人だけ 『入国拒否』を されたとき 『過去の悪事』が 明らかになる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。繰り返しになりますが(→参考:2023/8/28付、2023/8/27付、2023/8/25付、2023/8/23付etc.)、残念ながらいわゆる「風評被害」は解消することが非常に難しい問題なのだろうと思います。しかし、「風評被害」や「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」や「卑劣なデマ」によって引き起こされた可能性が非常に高い「犯罪行為」などについては断固とした処置を取り続ける必要があるのです。

素朴な疑問として強く思うことなのですが、そもそも全く無関係なところに「嫌がらせ電話」などをしていったい何になるというのでしょうか? 私には全く理解できない謎の行動です。繰り返しになりますが(→参考:2023/8/27付)、「嫌がらせ電話」などはすべて録音し、「嫌がらせ電話」などに使用された「電話番号」「アドレス」などはすべて記録し、そして「実行犯」を確実に「特定」しておく必要があります。もちろん一連の「犯罪行為」については個別具体的な事例を詳細に分析した上で法律と証拠に基づいて適切に判断する必要があります。具体的には、日本の警察当局などが「嫌がらせ電話」などに使用された「電話番号」の契約者などを「特定」した上で実際に「コールバック」をして「嫌がらせ」などについて「警告」を行うべきです。その上で、もしかすると「特定」と「警告」を行った人間たちの中には今後日本国に入国しようとしたときに「入国拒否」されるような人間たちも出てくることになるのかもしれないと思います。観光旅行はもちろん、企業の出張、あるいは留学などのために日本国への入国を希望したときに仲間の中でただ一人だけ「入国拒否」をされることによって数年後に「過去の悪事」が明らかになるとか…。当たり前と言えば当たり前の話ですが、たとえ地球上のどこであっても自分自身の行動にしっかりと責任を持たなければならないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「消されてしまう?」(2023/8/29)

『邪魔者』が 消されてしまう 国ならば 『消された証拠』 隠滅できる?」-

ロシアで武装反乱を引き起こした民間軍事会社「ワグネル」の創設者でトップのプリゴジン氏が8/24に乗っていたジェット機が墜落して死亡し、8/29にロシア・サンクトペテルブルク郊外で葬儀が行われて埋葬されたなどと報道されています(→モスクワからサンクトペテルブルクに向かって飛行中だったプライベートジェット機が8/24にロシア北西部のトベリ州で「墜落」、ロシア連邦捜査委員会は8/27にDNA鑑定で死亡を確認したなどと発表していた。参考:2023/8/26付、2023/6/29付、2023/6/27付、2023/6/25付、2023/6/24付etc.)。

あくまでも一般論ですが、「墜落事故」の原因の究明までにはそれなりの時間が必要になるのだろうと思います。しかし、それでもやはり、専制国家や独裁国家では「邪魔者」が政権によって消されてしまうということは十分にあり得ることなのだろうと思います。そして実際に専制国家や独裁国家で「邪魔者」が政権によって消されてしまうようなことがあった場合には、専制国家や独裁国家では「邪魔者」が政権によって「消された証拠」も消されてしまう、証拠を隠滅することもできてしまうということになるのだろうと思います。その上で、あくまでも念のために確認しておきますが、プーチン大統領がプリゴジン氏の死亡した「墜落事故」に関与していたような証拠は現時点までに全く見つかっていないわけです。そしてロシア側の調査によってはプーチン大統領がプリゴジン氏の死亡した「墜落事故」に関与していたような証拠は全く見つからないのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「中国は…」(2023/8/28)

中国は 安全性は 十分か? 科学が通用 しない社会か?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。繰り返しになりますが(→参考:2023/8/27付、2023/8/25付、2023/8/23付etc.)、残念ながらいわゆる「風評被害」は解消することが非常に難しい問題なのだろうと思います。しかし、「風評被害」や「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」や「卑劣なデマ」によって引き起こされた可能性が非常に高い「犯罪行為」などについては断固とした処置を取り続ける必要があります。

素人の素朴な疑問ですが、そもそも中国を原産地とする農林水産物や中国で生産された食品の安全性はいったいどうなっているのでしょうか? 中国を原産地とする農林水産物や中国で生産された食品には、残留農薬などの化学物質や食品添加物などはいったいどのくらい含まれているのでしょうか? 中国を原産地とする農林水産物や中国で生産された食品の安全性は諸外国と比較しても十分なものなのでしょうか? さらに言えば、中国国内の「検査」は本当に信頼できるものなのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、「風評被害」や「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」や「卑劣なデマ」がはびこる社会は、そもそも正確な科学的な根拠に基づいて物事を判断することができない社会である可能性が非常に高いのです。社会の多くの人たちに科学が通用しないから「風評被害」や「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」や「卑劣なデマ」がはびこるのだろうと思いますが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『特定』」(2023/8/27)

録音し 『電話番号』 『アドレス』は すべて記録し 『特定』すべし!」-

福島第一原子力発電所の事故後に発生した汚染水を「多核種除去設備(ALPS(アルプス))」などの設備を使って浄化処理した「処理水」(→「ALPS処理水」=トリチウム(3重水素)以外の核種について、環境放出の際の規制基準を満たす水)の海洋放出が8/24に開始されました。中国政府は8/24に日本を原産地とする水産物の輸入を全面的に停止することを発表しています。中国国内の日本人学校への投石事件が発生したり、さらには中国から日本国内の海洋放出とは全く無関係な店舗や施設などに対して嫌がらせ電話が繰り返されたり嫌がらせ電話をしている映像がSNS上に投稿されたりしているそうです。

繰り返しになりますが(→参考:2023/8/25付、2023/8/23付etc.)、残念ながらいわゆる「風評被害」は解消することが非常に難しい問題なのだろうと思います。しかし、「風評被害」や「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」や「卑劣なデマ」によって引き起こされた可能性が非常に高い「犯罪行為」などについては断固とした処置を取り続ける必要があります。「嫌がらせ電話」などはすべて録音し、「嫌がらせ電話」などに使用された「電話番号」「アドレス」などはすべて記録し、そして「実行犯」を確実に「特定」しておく必要があります。もちろん一連の「犯罪行為」については個別具体的な事例を詳細に分析した上で法律と証拠に基づいて適切に判断する必要があります。いずれにしても中国国内で「嫌がらせ行為」を繰り返しているような人間たちが日本国の領域内に入った場合であっても法律と証拠に基づいて適切な処分を受ける可能性を「0%」にすることだけは絶対に避けなければならないと考えています。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『邪魔者』は…」(2023/8/26)

『邪魔者』は 消されてしまう ことになる? ほとぼりさめた 頃に消される?」-

きょうは平和な本物の民主主義国家で生活しているごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」ではまず見られない特殊な出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。やはり独裁国家や専制国家では民主主義国家では想像もできないことが次々と発生するようです。現時点ではあえて個別具体的な事例については触れませんが、やはり「独裁者」などにとっての「邪魔者」というものは、毒物や爆薬や銃弾などによって最終的に消えてしまうことになるのかもしれないと思います(→参考:2023/6/29付etc.)。

あくまでも一般論ですが、いくら飲み物や乗り物には細心の注意を払っていたとしてもやはり「独裁者」などから「邪魔者」と見なされてしまった場合には最終的には消えてしまうことになるのだろうと思います。そしてこれもあくまでも一般論ですが、たとえ「組織犯罪」を処罰することが可能な状態になったとしても、「組織犯罪」というものは犯罪の実行を指示した人間と実際に犯行を行った人間とを客観的な証拠に基づいて結び付けていくことが非常に難しいのだろうと思います。さらにこれもあくまでも一般論ですが、平和な本物の民主主義国家では「邪魔者」を抹殺した側の人間たちが平然と「邪魔者」を追悼するようなことはまずあり得ない話なのかもしれませんが、独裁国家や専制国家では特に珍しい話ではないのかもしれないと思います。やはり「邪魔者」は消されてしまうことになるのでしょうか? やはり「邪魔者」はほとぼりがさめた頃に消されてしまうことになるのでしょうか? 何にしてもきょうのところはあえて一般論だけにとどめることにしておきます。

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「『トリチウム残留水』」(2023/8/25)

『トリチウム 残留水』と 呼ぶならば 『プロパガンダ』は 大失敗に!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。繰り返しになりますが(→参考:2023/8/23付)、残念ながらいわゆる「風評被害」は解消することが非常に難しい問題なのだろうと思います。しかし、「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」や「卑劣なデマ」については意外なほど簡単に吹き飛ばすことができるのです。

「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」を繰り広げたり「卑劣なデマ」を流布し続けたりしている人間たちは福島第一原子力発電所の事故後に発生し続けている汚染水を「多核種除去設備(ALPS(アルプス))」などの設備を使って浄化処理した「処理水」(→「ALPS処理水」=トリチウム(3重水素)以外の核種について、環境放出の際の規制基準を満たす水)のことを意図的に「(核)汚染水」などと呼んでいるのです(→参考:(経済産業省のホームページ) https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/hairo_osensui/shirou_alps.html etc. (経済産業省資源エネルギー庁のホームページ) https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/shorisui02.html etc.)。そうした悪意に満ちた状況を踏まえて判断するのならば、私としては、「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」や「卑劣なデマ」を吹き飛ばすために、「(ALPS)処理水」のことをあえて「トリチウム(3重水素)残留水」などと呼ぶようにした方がいいのではないかと考えています。その上で、「(ALPS)処理水」の海洋放出後の海水の水質検査や魚などの海産物の検査では、「トリチウム」だけではなく「その他の(放射性)核種」についても「自然界に存在する量とほぼ同じ」だとか「検出限界以下」などという検査結果を国際社会に示すべきなのです。要するに、徹底的に科学的に客観的な事実を積み上げていきさえすれば、「プロパガンダ(→政治宣伝活動)」を繰り広げたり「卑劣なデマ」を流布し続けたりすることを大失敗させることはできるのです。しかし、それでもやはり、いわゆる「風評被害」は解消することが非常に難しい問題であり続けるわけですが…。きょうのところはそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『失敗』」(2023/8/24)

『失敗』の 発表すぐに してみても 正当化する ことはできない!」-

北朝鮮が8/24早朝に弾道ミサイル技術を利用した飛翔体1発を発射したものの失敗したと見られる事件が発生したことで波紋が広がっています(→日本政府によると、北朝鮮北西部から8/24,AM3:51頃に弾道ミサイル技術を使用して発射された1発は複数に分離、1つはAM3:58頃に朝鮮半島の西約300kmの黄海上に落下、もう1つはAM3:59頃に朝鮮半島の南西約350kmの東シナ海上に落下、さらにもう1つは沖縄本島と宮古島の間の上空を通過してAM4:05頃にフィリピンの東約600kmの太平洋上に落下したと見られる。いずれも日本の排他的経済水域(EEZ)外。また北朝鮮の朝鮮中央通信は8/24に同日未明に軍事偵察衛星を積んだロケットを打ち上げたが失敗したなどと伝える(→1段目と2段目は正常に飛行したが、3段目の飛行中に異常が発生? 10月に3度目の偵察衛星発射を予定などと)。ちなみに北朝鮮は8/24-31に「衛星ロケット」を打ち上げる方針を海上保安庁に通告していた)。

今回も「失敗」であるにもかかわらず北朝鮮側による発表が迅速であることが注目点の1つではないかと思います。ちなみに前回の5月の打ち上げ失敗のときも同じでした(→参考:2023/6/1付、2023/5/31付)。北朝鮮側はなぜ「人工衛星打ち上げ失敗」をすぐに発表したのでしょうか? 北朝鮮側の意図はよく分かりませんが、もしも北朝鮮側が「人工衛星のようなもの」の打ち上げや失敗の情報を迅速に公表することによって国際的な義務などを果たしているかのようなイメージを演出して自らの行動を正当化するつもりであるのならば、そのような主張は断じて許されるものではないのです。北朝鮮による弾道ミサイル技術を使用したいかなる発射も国連安保理決議違反であるわけですから正当化することはできないのです。きょうのところあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「表と裏の関係?」(2023/8/23)

もしかして 『表と裏の 関係』か? 『欲しい気持ち』と 『風評被害』」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながらいわゆる「風評被害」は解消することが非常に難しい問題なのだろうと思います。

もしかするといわゆる「風評被害」と「ある商品を欲しいと思う気持ち」とは「表と裏の関係」にあると言えるのかもしれないと思います。多くの人たちが「ある商品」を欲しいと思うのはなぜなのでしょうか? 「ある商品」は安くて品質も良いからでしょうか? もちろんそういうことも理由の1つなのだろうと思います。しかし、「ある商品」の持っている「イメージ」が欲しいと思う理由の1つであることもあるのだろうと思います。そもそも「ある商品」は科学的に十分な安全性を満たしているのでしょうか? もしかすると「ある商品を欲しい」という強い気持ちがあれば、科学的な安全性などは二の次になっているのではないでしょうか? いわゆる「風評被害」と「ある商品を欲しいと思う気持ち」とが「表と裏の関係」にあるとするならば、残念ながら「風評被害」の解消というものは非常に難しい問題になってしまうのだろうと思います。もしも「風評被害」が「イメージ」によって引き起こされているのならば、いくら科学的な安全性などを分かりやすく繰り返し説明したとしても、「風評被害」の解消はなかなか難しいのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『買占め』になる場合には…」(2023/8/22)

『爆買い』が 『買占め』になる 場合には 『買占め税』を 課税するべき?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。いわゆる「インバウンド需要」(→日本を旅行などで訪れた外国人による需要)に過度に期待するということは、いわゆる「オーバーツーリズム」(→観光客などが著しく増加することによって地域住民の日常生活や自然環境などに悪影響を与える現象)の弊害が大きくなる危険性を覚悟しなければならないはずなのです。

繰り返しになりますが、いわゆる「インバウンド需要」を発生させる「旅行者」は基本的には「インバウンド需要」の「受益者」ではないので「インバウンド需要」の「コスト」を支払う必要はないと考えています。しかし、「旅行者」を例外的に「インバウンド需要」の「受益者」と考えなければならないケースもあるのです。例えば、「旅行者」のいわゆる「爆買い」が「買占め」やそれに近い状態になる場合には「旅行者」も追加的に「コスト」を負担しなければ国民の日常生活に看過することができない重大な悪影響が生じる危険性もあるのではないかと思います。「旅行者」による「コスト」負担を「販売(個数)制限」などという形で実施するのか、「買占め税(仮称)」などという「課税」の形で実施するべきなのかはともかくとしても、「旅行者」のいわゆる「爆買い」によって国民の日常生活に必要不可欠な商品が値上がりや品不足になることは避けるべきなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『ただ乗り』」(2023/8/21)

『受益者』が 『オーバーツーリ ズム税』を 支払わないと 『ただ乗り』になる!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。いわゆる「インバウンド需要」(→日本を旅行などで訪れた外国人による需要)に過度に期待するということは、いわゆる「オーバーツーリズム」(→観光客などが著しく増加することによって地域住民の日常生活や自然環境などに悪影響を与える現象)の弊害が大きくなる危険性を覚悟しなければならないはずなのです。

最初に確認しておきますが、いわゆる「インバウンド需要」によって大きな利益を得ることができるのは社会のすべての人たちではなく一部の人たちにすぎないのです。さらに言えば、いわゆる「オーバーツーリズム」の弊害を強く受けているのは、やはり社会のすべての人たちではなく一部の人たちにすぎないのだろうと思います。そのように考えるのならば、いわゆる「インバウンド需要」の「受益者」でいわゆる「オーバーツーリズム」の弊害をほとんど受けていない者については、例えば、「オーバーツーリズム税」(仮称)などという形で「インバウンド需要」のコストを追加で支払わなければ「ただ乗り」になってしまうのです。その上で、あくまでも念のために言っておきますが、いわゆる「インバウンド需要」の「受益者」には基本的には「旅行者」は含まれないのです。ですから、基本的には「旅行者」は「インバウンド需要」のコストを支払う必要はないのです。「旅行者」は基本的には「インバウンド需要」のコストを支払う必要がないわけですが…。とりあえずきょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『偽・民主主義』」(2023/8/20)

これからは 『偽・民主主義』 打倒して 『新・戦争』に 立ち向かうべき!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」の出来事とは大きく異なる国際社会の問題をごく普通の多くの人たちにもできるだけ実感を伴う形で少しだけ考えてみることにしようと思います。あえて言い換えれば、国際社会には本当の意味での「民主主義」とは相容れないような「偽・民主主義」が溢れていますし、たとえ実質的な内容を見れば「戦争」と見るべきものであったとしても「戦争」とまではみなすことが難しい「新・戦争」も増えているのです。

本当の意味での「民主主義」とは相容れないような「偽・民主主義」とは何か? 例えば、ほぼすべてが例外なく「多数決」だけによって決まる「制度」は本当の意味での「民主主義」とは相容れないものになるのです。さらに言えば、ほぼすべてが例外なく「多数決」だけによって決まる「制度」の中には、政権の方針に「反対」する者を完全に排除して「賛成」する者のみがその投票に参加することが許されるような「制度」も存在するのです。もしもほぼすべてが例外なく「多数決」だけによって決まる「制度」を「民主主義」と見なすのならば、反対する人たちを少なくとも政治的に抹殺することができる「偽・民主主義」でさえも「民主主義」に含まれることになってしまうのです。そしてこのような「偽・民主主義」などが国際社会の中で自分たちの利益を守ったり拡大したりするために悪用しているのが実質的な内容を見れば「戦争」とは少しも違わないが形式上は「戦争」とまではみなすことが難しい「新・戦争」とでも呼ぶべきものなのです。これからの国際社会は国際社会はびこる「偽・民主主義」を打倒して「新・戦争」に立ち向かうべきなのですが…。いずれにしても国際社会には本当の意味での「民主主義」とは相容れないような「偽・民主主義」が溢れていますし、たとえ実質的な内容を見れば「戦争」と見るべきものであったとしても「戦争」とまではみなすことが難しい「新・戦争」も増えているのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『三角形』のままにできるか?」(2023/8/19)

これからは 『日米韓』の 関係を 『三角形』の ままにできるか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」の出来事とは大きく異なる国際社会の問題をごく普通の多くの人たちにもできるだけ実感を伴う形で少しだけ考えてみることにしようと思います。米国を訪問した岸田文雄首相は8/19未明(日本時間。8/18昼)にワシントン郊外の大統領専用山荘「キャンプ・デービッド」で米国のバイデン大統領、韓国の尹錫悦(ユンソンニョル)大統領と日米韓首脳会談を行いました(→バイデン大統領、岸田首相、尹大統領は共同記者会見。日米韓首脳会談を少なくとも年1回以上開催、日米同盟・米韓同盟の連携を強化する複数領域における日米韓共同訓練を毎年実施など。日米韓首脳共同声明「キャンプ・デービッド精神」、そして「キャンプ・デービッド原則」なども発表。ちなみに国際会議などの機会を利用せずに単独で日米韓首脳会談が行われるのは初めて)。

日米韓3カ国の連携の話も、まずは一人ひとり異なる個性を持った3人が共通の利益・目標のために関係を深めていこうという話をイメージすればいいのだろうと思います。3カ国には共通の利益などがあることは確かですが、それでもやはり、日本も、韓国も、米国も、それぞれ最も関心を持っていることが違っているわけです。中国の問題、北朝鮮の問題、そして台湾の問題…。もしかすると日米間3カ国にはこれらの問題などでそれぞれに温度差や優先順位の違いがあるかもしれないわけです。そして日本と米国、米国と韓国のそれぞれの2国間については安全保障上の「同盟」関係にあるわけです。しかし、日本と韓国の2国間には様々な形でぎくしゃくとした問題が残されているわけです。たとえ共通の利益・目標を共有した3者であっても、3者は一人ひとり異なる個性を持っているわけですから、どんなに少なくとも「正三角形」のような関係になることはまずあり得ないということをまず認識するべきなのです。今回の日米韓首脳会談後は、「日米韓」の関係を「三角形」のまま維持することができるようになるのかということが最大の注目点になると思います。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「悪くない?」(2023/8/18)

『被害者』が 『加害者』になる こともある! 『被害者』ならば 悪くないのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。たとえ「被害者」に「落ち度」があったとしても、やはり悪いのは「加害者」のはずなのです。そして「加害者」の行ったことが「犯罪」になるのならば「加害者」の刑事責任なども厳しく問われることになるのです。

例えば、もしも「資産家」が大勢の人混みの中で「紙幣」を間違ってばらまいてしまい、多くの人間たちがその「紙幣」を勝手に持っていってしまったような場合には、基本的に悪いのは「紙幣」を勝手に持っていった人間たちなのです。しかし、もしも「資産家」が大勢の人混みの中で「紙幣」を間違ってばらまいてしまったときに、多くの人間たちが「紙幣」に殺到したことによって「群衆雪崩」のようなものが発生して「紙幣」に殺到しなかった人たちも含めた多くの人たちが巻き込まれて死傷してしまった場合には、いったいどうなのでしょうか? あるいは、もしも「資産家」が全身に「札束」をまとったような「かなり奇抜な格好」で歩き回っていたり「紙幣」を間違ってばらまいてしまったりしたときに、そのことがきっかけになって何らかの形で別の「被害者」を生み出してしまった場合には、いったいどうなのでしょうか? さらには、もしも「資産家」が大勢の人混みの中でわざと「紙幣」をばらまいたような場合には…、本当に「資産家」は悪くないのでしょうか? あくまでも念のために指摘しておきますが、「被害者」が同時に「加害者」になってしまうこともあり得るのです。きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「悪いのは…」(2023/8/17)

悪いのは 『被害者』でなく 『加害者』と いうことなぜか 分からなくなる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。たとえ「被害者」に「落ち度」があったとしても、やはり悪いのは「加害者」のはずなのです。そして「加害者」の行ったことが「犯罪」になるのならば「加害者」の刑事責任なども厳しく問われることになるのです。

例えば、もしも「資産家」が全身に「札束」をまとったような「かなり奇抜な格好」で大勢の人混みの中をこれ見よがしに歩き回っていたとしても、それでもやはり、何者かが「資産家」が身にまとっている「札束」を引っ張って奪い取ったような場合にはその何者かが悪いということは当たり前すぎるくらい当たり前のことです。そしてこの場合には「札束」を奪い取った何者かが「犯罪」の責任を厳しく問われることになるわけです。あるいは、もしも「資産家」が人通りの多い場所でわざわざ自分が持っている大量の「札束」の数をゆっくりと確認していたとしても、それでもやはり、何者かが「資産家」が数えていた「札束」を勝手に持って行ったような場合にはその何者かが悪いのは明らかです。そしてこの場合にも「札束」を勝手に持って行った何者かが「犯罪」の責任を厳しく問われることになるわけです。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも性犯罪の「被害者」が「非常に露出度の高い服装」をしていたとしても、それでもやはり、悪いのは性犯罪の「加害者」であるということは少しも変わらないわけです。そしてもちろんこの場合でも性犯罪の「加害者」が性犯罪の責任を厳しく問われることになるはずなのです。悪いのは「被害者」ではなく「加害者」であるということをなぜか分からなくなる人間たちがいるようですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「違っているが…」(2023/8/16)

『戦争』を 始める者と 実際に 戦う者は 違っているが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。「戦争」というものはいったいどうしたらなくすことができるのでしょうか? (参考:2023/8/15付、2023/8/12付、2023/8/11付etc.)

一般的に「戦争」というものでは、「戦争」を始めたり終わらせたりするための決定をする人間たちと、「戦場」で実際に「戦争」を行っている人間たちとは違っているということには注意が必要になります。あえて言い換えるのならば、いくら「戦争」というものの残虐さを「戦場」で実際に「戦争」を行っている人間たちがよく知っていたとしても、「戦場」で実際に「戦争」を行っている人間たちが「戦争」を始めたり終わらせたりするための決定をするわけではないということなのです。さらに言えば、いくら「戦争」を始めたり終わらせたりするための決定をする人間たちが「戦争」というものの残虐さを知っていたとしても、ひとたび「戦争」が始まってしまえば「戦場」で実際に「戦争」を行っている人間たちが「戦争」というものの残虐さに麻痺してしまう危険性もあるのです。その上で、あえて付け加えるのならば、これまでの「戦争」では「戦場」から遠く離れた安全な場所で「戦争」を始めたり終わらせたりするための決定をする人間たちが「戦争」を始めたり終わらせたりするための決定をすることが多かったのです。そのように考えるのならば、「戦争」というものをなくすためには、「戦争」を始めたり終わらせたりするための決定をする人間たちと「戦場」で実際に「戦争」を行っている人間たちとは違っているということを見失ってはならないということだけは確かです。きょうのところはこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『敵』が存在しないなら…」(2023/8/15)

『戦争』は 『敵』が存在 しないなら 発生しない ことにはなるが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。「戦争」というものはいったいどうしたらなくすことができるのでしょうか? (参考:2023/8/12付、2023/8/11付etc.)

そもそも「戦争」というものはいったいどうして発生するのでしょうか? もちろんそれぞれの「戦争」によって個別具体的な「原因」などはそれぞれ異なります。しかし、どのような「戦争」にも共通する「原因」が少なくとも1つは存在するのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、たとえどのような「戦争」であったとしても「敵」が必ず存在しているのです。そのことにあえて注目するのならば、「戦争」をなくすためには「敵」が存在しない状態を実現すればいいということになります。そして「敵」が存在しない状態を実現するためには少なくとも2つの方法が存在するのです。1つ目の方法は自分たちが徹底的に譲歩して「敵」が望むすべてのことを「敵」に与える形で事実上「敵」を「敵」ではなくすることです。しかし、たとえ自分たちが「敵」が望むすべての財産などを差し出したとしても最終的には生命までをも奪い取られてしまう危険性がなくならないということには注意が必要になります。そして「敵」が存在しない状態を実現するためのもう1つの方法は、「敵」を抹殺してしまうことです。しかし、もしも「敵」を抹殺することによって「敵」が存在しない状態を実現して「戦争」をなくそうとするのならば、最悪の場合には、「戦争」をなくすために「戦争」を繰り返すという状態に陥ってしまうことになるということにも注意が必要になります。「戦争」というものはいったいどうしたらなくすことができるのでしょうか? 「戦争」というものは「敵」が存在しない状態になれば発生しないことにはなるわけですが…。やはり「戦争」というものをなくすことが簡単なことではないということだけは確かです。きょうのところはひとまずこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「集中するが…」(2023/8/14)

政策の 実現望む 場合には 『政府・与党』に 集中するが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本の政治において深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。あえて個別具体的な固有名詞などを挙げることは避けますが、なぜ今現在の日本の政治は「与党一強」などという状態になっているのでしょうか? 

もしも実現したい政策がある人たちが自分たちの政策を本気で実現しようと考えるのならば、「政府・与党」にその実現を求めるということになるのは当たり前すぎるくらい当たり前の話です。もしも「政府・与党」に対して自分たちが実現を望む政策の実現を求めて受け入れられた場合には、自分たちが実現を望む政策を最も速く実現することができるわけです。実現させることができない野党にあえて自分たちの政策の実現を求めるのはその野党の支持者ぐらいなのではないかと思います。その結果として「政府・与党」には様々な要望などが集中することになるわけです。そのように考えるのならば、「与党一強」などという状態になっていくのは特に不思議なことではないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「政府・与党」に対して自分たちが実現を望む政策の実現を求めて受け入れられた場合であっても、「政府・与党」がその政策を実現させることができないということも実はあり得ないことではないのです。例えば、衆議院では過半数以上の議席を保有する与党が参議院では過半数の議席を保有していない場合、そして与党の中で激しい対立のある政策である場合など…。実は「与党一強」という状態は与党の中に「利害関係の対立」や「異なる価値観の衝突」を増加させる可能性が高くなるということも意味しているのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「実現したい政策は?」(2023/8/13)

心から その実現を 望んでいる? 実現したい 政策あるか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本の政治において深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。自分たちが実現したい政策がある人たちがその政策を実現しようと思ったらいったいどうするのでしょうか? 

もちろん自分たちが実現したい政策を実現してくれそうな「政治勢力」を探したりつくったりしてその「政治勢力」を選挙で応援するということもあるのだろうと思います。しかし、何かの団体などに所属していないごく普通の一人ひとりの人たちにとっては、自分が心から実現を望むような政策を実現してくれそうな「政治勢力」を探すだけでもかなり大きな負担を求められることになるのです。そもそも何かの団体などに所属していないごく普通の一人ひとりの人たちは、自分が心から実現を望むような政策が何かということが明確になっていないということの方が多いのかもしれないと思います。もっと給料が上がるように経済をもっともっと良くしてもらいたいだとか、税金などの「負担軽減」だとか、子育ての「負担軽減」だとか、年金などの社会保障の充実だとか…。もちろんこうした類のことについてはそのための裏付けとなる財源が十分にある場合には反対する人たちはほとんどいないのだろうと思います。しかし、一人ひとりのごく普通の人たちは本当に心から単純な「負担軽減」や単純な「給付の充実」の実現を望んでいるのでしょうか? もしもほとんどの人たちが単純な「負担軽減」と単純な「給付の充実」の実現しか望んでいないのならば今現在よりも良い社会をつくり上げることは非常に難しくなってしまいます。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『反対』し続けていれば…」(2023/8/12)

『戦争』に 強く『反対』 し続けて いれば『戦争』 なくなっていく?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。「戦争」というものはいったいどうしたらなくすことができるのでしょうか? 「戦争」に強く反対し続ければ「戦争」を止めることができるのでしょうか? 「戦争」に強く反対し続ければ「戦争」をなくすことができるのでしょうか?

最初に確認しておきますが、大昔の「戦争」は「戦争」に強く反対する人たちがいなかったから発生してしまったのでしょうか? もしかすると「圧倒的な少数派」だったのかもしれませんが、ほとんど(すべて)の大昔の「戦争」でも「戦争」に強く反対し続ける人たちはいたのだろうと思います。どんなに少なくとも大昔の「戦争」でもすべての人たちが「戦争」を強く支持していたなどということはさすがになかったのだろうと思います。そのように考えるのならば、「戦争」に反対し続ける人たちがいたにもかかわらず、なぜ「戦争」を止めることができなかったのでしょうか? もちろんもしもほとんどすべての人たちが「戦争」に強く反対し続けているのならば、「戦争」を引き起こすのは非常に難しくなることは確かです。しかし、それでもやはり、たとえこちら側ではほとんどすべての人たちが「戦争」に強く反対し続けていたとしても、他者の側が必ずしもそうではないのならば、自分たちが「戦争」に巻き込まれたり自分たちが「戦争」を一方的にしかけられたりすることになってしまう危険性は残るわけです。くどいようですが、「戦争」というものはいったいどうしたらなくすことができるのでしょうか? 「戦争」に強く反対し続ければ「戦争」を止めることができるのでしょうか? 「戦争」に強く反対し続ければ「戦争」をなくすことができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「強く誓っても…」(2023/8/11)

『戦争』は しないと強く 誓っても 相手の方が 『敵』とみなせば…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「戦争」というものはいったいどうしたらなくすことができるのでしょうか? 「戦争」は二度と繰り返さないなどと強く誓えばそれで「戦争」はなくなるのでしょうか?

当たり前と言えば当たり前の話ですが、「戦争」というものが発生するためには「敵」が必要不可欠な存在になるのです。そのことに注目するのならば、もしも自分たちが「戦争」をしないなどと強く誓ってすべての他者に対して寛大であり続けるのならば、「戦争」をなくすことができるような気がするのかもしれないと思います。言い換えれば、自分たちが「敵」をつくり出すことがなければ、「戦争」をなくすことができると思うのかもしれないと思います。しかし、残念ながら、もしも他者の中に自分たちのことを「敵」とみなす人間たちが存在するのならば、いくら自分たちが「戦争」をしないなどと強く誓いながら他者に寛大であり続けていても、「戦争」というものは他者の側から唐突にやってくる危険性がなくならないのです。いくら「戦争」は絶対にしないなどと強く誓い続けても、それだけでは「戦争」をなくすことができないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『厳重注意』?」(2023/8/10)

『申告』は 『捜査機関』に 相談を することなしに 『厳重注意』?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。やはり多くの人たちにとっては自分たちに不都合なことに対して真正面から向き合うことは難しいのかもしれないと思います。たとえ「隠ぺい」などとは言えなかったとしても、やはり不都合なことに対して真正面から向き合うということはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。

あえて個別具体的な固有名詞については取り上げることを避けますが、「どこかの組織」で「違法薬物疑惑」が浮上した場合にも残念ながら不都合なことに対して真正面から向き合うということはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。例えば、もしも「どこかの組織」に「違法薬物疑惑」の「自己申告」があったような場合には、「警察関係者」などではなく、やはりきちんとした「捜査機関」に相談するべきなのだろうと思います。そしてもしも「捜査機関」がきちんと捜査して「自己申告」した「違法薬物疑惑」について刑事事件として立件することができるだけの十分な証拠を集めることができなかった場合には、おそらく「厳重注意」などということになるのかもしれないと思います。しかし、たとえ「警察関係者」に相談していたとしても、もしもきちんとした「捜査機関」に相談することなしに「どこかの組織」が自己判断で「厳重注意処分」などにしていたのであれば、「違法薬物疑惑」の「自己申告」などを「捜査機関」に対して実質的に「隠ぺい」したことになってしまうのではないかと思います。繰り返しになりますが、たとえ「隠ぺい」などとは言えなかったとしても、やはり不都合なことに対して真正面から向き合うということはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『怪しい』」(2023/8/9)

『怪しい』を 『怪しい』ままに しておけば 隠さなくても 『真実』隠す!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。やはり多くの人たちにとっては自分たちに不都合なことに対して真正面から向き合うことは難しいのかもしれないと思います。たとえ「隠ぺい」などとは言えなかったとしても、やはり不都合なことに対して真正面から向き合うということはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。

あえて個別具体的な固有名詞については取り上げることを避けますが、「どこかの組織」で「違法薬物疑惑」が浮上した場合にも残念ながら不都合なことに対して真正面から向き合うということはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。例えば、もしも「怪しい植物片」などを見つけたのならば、すぐに専門家に「鑑定」を依頼して「怪しい植物片」などが「違法薬物」なのかそうではないのかを確認することが必要不可欠なのです。しかし、それにもかかわらず、どういうわけか「怪しい植物片」を「怪しい植物片」のままにしておくということは、たとえ「隠ぺい」などの意思は少しもなかったとしても、その行動は実質的には「隠ぺい」などとほとんど違わなくなるのです。そもそもなぜ「怪しい植物片」を「怪しい」と思ったのでしょうか? 「怪しい」のに「怪しい」ということをあえてそのままにしておくことは実質的には「隠ぺい」などと同じになることもあるのです。「怪しい」にもかかわらず、あえて「怪しい」ままにしておくということは、どんなに少なくとも「真実」を隠すことにはなってしまうはずなのです。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「なぜ授からないか?」(2023/8/8)

なぜ子ども 授からないか 考えず? 望んだ人の 望み叶える?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。地球上の多くの国では社会の「少子化」と「高齢化」が大きな問題になっています。くどいようですが、本当に「子育ての負担軽減」をすれば「少子化」を食い止めることができるのでしょうか? もしも多くの人たちがこれまでのような考え方に縛られ続けるのならば「少子化」と「高齢化」はますます深刻な問題になってしまうのです。

以前も書きましたが(→参考:2023/3/25付etc.)、大昔からつい最近までは、ほとんどの人たちは「若い女性と男性が結婚して子供が生まれる」ということは当たり前のことだと思ってきたのだろうと思います。さらに言えば、多くの人たちはこれまで「子供を産んだ(若い)女性が母親」だということは当たり前すぎるくらい当たり前のことだと思ってきたのだろうと思います。しかし、これからは様々な「常識」が次々と「常識」ではなくなっていくのではないかと思います。繰り返しになりますが、「結婚した若い女性と男性」の間に子どもが生まれて「子育て」をするという考え方が根強く残り続ける限り、さらには「(若い)女性が子供を産む」という「制約」が存在し続ける限り、いわゆる「少子化対策」を推し進めていけば、どうしても「若い女性」ばかりに負担が集中することになるという状況は続くことになるのだろうと思います。そもそもなぜいわゆる「子育て世代」の若い人たち以外の人たちは子どもを授かることが(ほとんど)できないのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、子どもを授かることができない人たちの「原因」を科学技術と医療技術を駆使して解消することはいったいどこまで許されるのでしょうか? 子どもを欲しいと強く願っている人たちの望みをどこまで叶えることが許されるのでしょうか? 例えば、いわゆる「不妊治療」に限らず、「高齢の夫婦」、「未婚の父親」、「未婚の母親」、さらには「同性カップル」にもそう遠くない将来に「代理母」などを認めるのかどうか…。ちなみに「異次元の少子化対策」とはいったい何なのでしょうか? 「異次元の少子化対策」という言葉を改めて捉え直してみる必要があると考えています。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『お買い得』?」(2023/8/7)

『1個』より 『2個セット』なら 割引が 大きくなって 『お買い得』だが…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。地球上の多くの国では社会の「少子化」と「高齢化」が大きな問題になっています。あくまでも念のために確認しておきますが、いわゆる「少子化対策」というものは、いわゆる「子育ての負担軽減」と同じことを意味しているのでしょうか? あえて言い換えるのならば、「子育ての負担軽減」をすれば本当に「少子化」を食い止めることができるのでしょうか? 

多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「少子化対策」を考える場合には「テレビショッピング」や「インターネット通販」などでお馴染みの消費者にまとめて買うと「お買い得」などと訴えるような「宣伝文句」のようなものはほとんど役に立たないはずなのです。例えば、「1個」ではなく「2個セット」で買えば割引率が大きくなってさらに「お買い得」などという「宣伝文句」のように、もしも「1人」ではなく「2人以上」ならば「子育ての負担軽減」のための「手当」がはるかに多く支給されるようになるから「お得」などと言われたとしても、だからと言って「1人」ではなく「2人以上」にしようと本気で考えるようになる人たちはいったいどれだけいるのでしょうか? あるいは、「これまでは非常に大変だった商品購入後の『お手入れ』がとても簡単になりました」などという「宣伝文句」のように、もしもこれからは大幅な「子育ての負担軽減」を実現して「子育て支援策」も充実させていくなどと言われたとしても、だからと言って「2人以上」にしようなどと本気で考えるようになる人たちはいったいどれだけいるのでしょうか? 繰り返しになりますが、いわゆる「少子化対策」というものは、いわゆる「子育ての負担軽減」と同じことを意味しているのでしょうか? 「子育ての負担軽減」をすれば本当に「少子化」を食い止めることができるのでしょうか? いずれにしても「少子化対策」を考える場合には「テレビショッピング」や「インターネット通販」などでお馴染みの「宣伝文句」のようなものはほとんど役に立たないはずなのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、子どもは「商品」などとは全く異なっているはずなのです。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「時間が経過すれば…」(2023/8/6)

話し合い で解決する? いつまでに? 時間が経過 すればどうなる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、おそらく日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。あちこちの争いを外から見ている人間たちは「話し合いで解決するべき」などという言葉を非常によく使います。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、本当に争いは話し合いで解決することができるのでしょうか? もしかすると話し合いでは解決することができないから暴力を伴った争いになっているのではないのでしょうか? 今現在あちこちで溢れている「話し合いで解決するべき」などという言葉には説得力が乏しいように思います。

争いを話し合いで解決するとしていったいいつまでに解決するのでしょうか? そしてもしも解決することができないまま時間が経過してしまったらいったいどうなってしまうのでしょうか? もしも争いの当事者の双方が真剣に争いを話し合いで解決することに合意していたとしても、「争いの原因になっているもの」の性質によっては話し合いで解決することができないということもあるのです。例えば、「争いの原因になっているもの」に「期限」が存在するような場合には、「期限」が経過する前までに話し合いをまとめなければ争いを話し合いによって解決することができなくなってしまうのです。そのように考えるのならば、もしも争いの当事者が「争いの原因になっているもの」に「期限」が存在するということを知っている場合には、争いを話し合いで解決することがさらに難しくなってしまう危険性が高いということにも気づくのではないかと思います。繰り返しになりますが、争いを話し合いで解決するとしていったいいつまでに解決するのでしょうか? そしてもしも解決することができないまま時間が経過してしまったらいったいどうなってしまうのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「話し合いでは…」(2023/8/5)

話し合い では解決が できなくて 争いになって いるのでないか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、おそらく日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。あちこちの争いを外から見ている人間たちは「話し合いで解決するべき」などという言葉を非常によく使います。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、本当に争いを話し合いで解決することができるのでしょうか? もしかすると話し合いでは解決することができないから暴力を伴った争いになっているのではないのでしょうか? 今現在あちこちで溢れている「話し合いで解決するべき」などという言葉には十分な説得力がないように思います。

例えば、「ある人」はこのままの状態は絶対に許せないと思っているけれども、「別の人」はこのままの状態の方が良いと思っている場合には、本当に争いを話し合いで解決することができるのでしょうか? たとえそのような状態で話し合いをしたとしても「別の人」が考え方を改めなければ話し合いはいつまでも平行線の状態が続くことになります。最も極端な場合には、話し合いを続けるということが事実上「ある人」の主張をほぼ完全に諦めさせて「別の人」の主張をほぼ完全にそのままの形で許すということになるかもしれないのです。くどいようですが、本当に争いを話し合いで解決することができるのでしょうか? 当たり前すぎるくらい当たり前の話かもしれませんが、話し合いで解決することができる争いしか話し合いで解決することができないのだろうと思います。あえて言い換えるのならば、本当に話し合いで解決することができない争いは存在しないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『邪魔者』は…」(2023/8/4)

『邪魔者』は 弾圧されて 追い出され 残った者に 『悪政』続く…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、おそらく日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。ほとんどすべての人たちにとっては、もしも自分たちの目の前で人権が侵害されている人たちがいるのならば、黙って見過ごすことはできないのだろうと思います。そしてごく普通の多くの人たちにとっても、地球上の別の場所で人権が侵害されている人たちの存在を知ったのならば、おそらくそう簡単には見捨てることができないのだろうと思います。しかしながら、地球上の別の場所から人権が侵害されている人たちを自分たちの国に受け入れ続けたとしたら何かが良くなるのでしょうか? 

あえて人権を侵害している「独裁国家」や「専制国家」の側から考えてみることにしようと思います。「独裁国家」や「専制国家」の側にとっては、たとえ自分たちがどれだけ好き勝手なことをしたとしても自分たちに敵対する人たちが一人もいない状態を維持することが「理想」なのだろうと思います。だからこそ「独裁国家」や「専制国家」の側は、無実の罪をでっち上げたとしても自分たちに敵対する人たちを弾圧しようとしたり実際に弾圧したりしているわけです。言うまでもなく罪をでっち上げたとしてもでっち上げなかったとしても人権を侵害するようなことが許されるわけではないのです。しかし、それでもやはり、「独裁国家」や「専制国家」の側は、自分たちに敵対する人たちが一人もいない状態を維持することが「理想」であるということは変わらないのだろうと思います。そのように考えるのならば、最も極端で最悪の場合には、「独裁国家」や「専制国家」の側としては、自分たちにとっての「邪魔者」を弾圧して国外に追い出して「理想」を実現するようなことも「選択肢」の1つにすることになるのかもしれないと思います。「邪魔者」は弾圧されて追い出され、「独裁国家」や「専制国家」に残った者には「独裁国家」や「専制国家」の「悪政」がそのまま続いていく…。繰り返しになりますが、地球上の別の場所から人権が侵害されている人たちを自分たちの国に受け入れ続けたとしたら何かが良くなるのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「何か良くなる?」(2023/8/3)

人権が 侵害される 人たちを 受け入れ続け 何か良くなる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。ほとんどすべての人たちにとっては、もしも自分たちの目の前で人権が侵害されている人たちがいるのならば、黙って見過ごすことはできないのだろうと思います。そしてごく普通の多くの人たちにとっても、地球上の別の場所で人権が侵害されている人たちの存在を知ったのならば、おそらくそう簡単には見捨てることができないのだろうと思います。しかしながら、地球上の別の場所から人権が侵害されている人たちを自分たちの国に受け入れ続けたとしたら何かが良くなるのでしょうか? 

もちろん人権が侵害されていた場所から安全な場所に受け入れてもらうことができた人たちから見れば状況は劇的に良くなっているのだろうと思います。そして言うまでもなく地球上の別の場所で人権が侵害されている人たちを受け入れることがいけないことだとか何の意味もないことなどと言うつもりもないのです。しかし、それでもやはり、地球上の別の場所から人権が侵害されている人たちをどれだけ多く自分たちの国に受け入れ続けたとしても、地球上の別の場所で誰かの人権が侵害されなくなるとは限らないのです。最も極端で最悪の場合には、もしかすると地球上の別の場所から人権が侵害されている人たちを自分たちの国に受け入れ続ければ受け入れ続けるほど、地球上の別の場所では新しく人権が侵害される人たちが生み出され続けることになるかもしれないのです。きょうのところはそのことを指摘した上で強調するだけにとどめてあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「問題ない?」(2023/8/2)

『引継ぎ』を すれば問題 何もない? 『クレーム』もない? 『トラブル』もない?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、おそらく日本社会だけではなく国際社会でも深刻な問題になっていてもおかしくはない問題の1つについて考えてみることにしようと思います。人間である限り、たとえどんな人であっても病気やけがのために仕事などを休まなくてはならなくなる危険性はあるのです。また多くの人たちはいわゆる「育休」や「産休」などで仕事を休むことも少なくはないはずです。そしてこれは当たり前と言えば当たり前の話ですが、ある人が仕事などを休んだ場合にはその人でなければできない仕事などはその人が休んでいる間はすることができなくなってしまうのです。

やはり「どうしても自分でないとダメな仕事」をたくさん抱え持っている人たちほど仕事を休むのが難しくなってしまうのだろうと思います。「顧客」などの相手側が自分を担当にすることを強く希望しているような意味での「どうしても自分でないとダメな仕事」を抱えている場合にはさらに休むのが難しくなってしまうのだろうと思います。たとえ「顧客」などの相手側が自分を担当にすることを強く希望している場合であっても、きちんと「引継ぎ」をすれば本当に何も問題はないのでしょうか? いくら「引継ぎ」をきちんとしたとしても自分が担当でなくなれば「顧客」などの相手側がすぐに「キャンセル」をする場合もありますし、たとえすぐに「キャンセル」をしなくても「クレーム」や「トラブル」が発生する場合も少なくないのではないかと思います。「顧客」などを失うリスクが生じるのはやむを得ないことなのでしょうか? 「顧客」などを失うリスクが生じるのはやむを得ないことなどと切り捨てることができるケースばかりではないはずです。例えば、教師がようやく自分にだけ心を開いてくれた生徒を別の教師に引継いだり、医師が自分の言うことにしかなかなか耳を傾けてくれない患者を別の医師に引継いだりすることが本当にそんなに簡単にできるのでしょうか? いずれにしても現実の職場では「どうしても自分でないとダメな仕事」をたくさん抱え持っている人たちが少なくなく、そしてそのような人たちほど仕事を休むのが難しくなってしまうのだろうと思います。きょうのところはひとまずそのことを指摘して強調するだけにとどめてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「どうしても自分でないと…」(2023/8/1)

どうしても 自分でないと ダメなもの いくつあるのか? 一つもないか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、おそらく日本社会だけではなく国際社会でも深刻な問題になっていてもおかしくはない問題の1つについて考えてみることにしようと思います。人間である限り、たとえどんな人であっても病気やけがのために仕事などを休まなくてはならなくなる危険性はあるのです。また多くの人たちはいわゆる「育休」や「産休」などで仕事を休むことも少なくはないはずです。そしてこれは当たり前と言えば当たり前の話ですが、ある人が仕事などを休んだ場合にはその人でなければできない仕事などはその人が休んでいる間はすることができなくなってしまうのです。

誰であっても自分が仕事を休む前に確認しておく必要があることがいくつかあるはずです。例えば、「どうしても自分でないとダメな仕事」はいったいいくつあるのでしょうか? また「どうしても自分でないとダメな仕事」とは「自分にしかできない仕事」のことを意味しているのでしょうか? それとも顧客などの相手側が自分を担当にすることを強く希望しているなどということを意味しているのでしょうか? さらに言えば、たとえ「自分にしかできない仕事」であっても、経験が豊かだったり能力が高かったりする人ならば時間をかければできるようになるようなものなのでしょうか? 何にしても「どうしても自分でないとダメな仕事」をたくさん抱え持っている人たちほど仕事を休むことが難しくなるのだろうと思います。そしてそんな「どうしても自分でないとダメな仕事」をたくさん抱え持っている人たちほどその人が仕事を休んだ場合の職場への悪影響が大きくなるのだろうと思います。あえて言い換えれば、「どうしても自分でないとダメな仕事」が一つもない人たちの場合には職場の人たちに気兼ねをすることなしにいつでも自分が休まなくてはならないときに休むことができるのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「『機械』にさせる!」(2023/7/31)

危険かつ きつい汚い 仕事なら ロボットなどの 『機械』にさせる!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちはいくら「きつい」「汚い」「危険」な仕事であっても「低賃金」でずっと続けるのでしょうか? 「きつい」「汚い」「危険」な仕事に従事する人たちがいなければ「社会経済活動」を維持することができないのです。いったいどうしたらいいのでしょうか? 

繰り返しになりますが(→参考:2023/7/28付)、やはり「社会経済活動」を維持しやすくするためには、世の中から「危険な仕事」や「汚くなる仕事」や「きつい仕事」をできるだけ少なくしていくという方法が「正攻法」であることだけは確かなのです。そして「きつい」「汚い」「危険」な仕事を減らすためには、すべての仕事についてその全過程を聖域なく見直した上で徹底的に機械化を進めるということが最も効果的な方法の1つになります。あえて言い換えるのならば、可能な限り多くの「きつい」「汚い」「危険」な仕事を人間ではなくロボットなどの機械にやらせることができるようにしていくということになります。その上で、あえて付け加えるのならば、すべての仕事についてその全過程を聖域なく見直した上で徹底的に機械化を進めたとしても、現時点ではどうしてもまだ人間にしかできない「きつい」「汚い」「危険」な仕事については今よりもはるかに「高賃金」にならざるを得ないのだろうと思います。それでは、すべての仕事についてその全過程を聖域なく見直した上で徹底的に機械化を進めたとしても、現時点ではどうしてもまだ人間にしかできない仕事とはいったいどんな仕事なのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「ずっと続ける?」(2023/7/30)

仕事なら きつい汚い 危険でも 低賃金で ずっと続ける?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちはわざわざ「きつい」「汚い」「危険」な仕事を選ぶのでしょうか? もしもごく普通の多くの人たちがどうしても「きつい」「汚い」「危険」な仕事をしなければならないときに「低賃金」でも構わないと思うのでしょうか? ごく普通の多くの人たちはいくら「きつい」「汚い」「危険」な仕事であっても「低賃金」でずっと続けるのでしょうか? 

当たり前と言えば当たり前の話ですが、ごく普通の多くの人たちは仕事を選ぶことができるのならばわざわざ「きつい」「汚い」「危険」な仕事を選ぶことはないのだろうと思います。またごく普通の多くの人たちはどうしても「きつい」「汚い」「危険」な仕事をしなければならないときに「低賃金」では長く続けたいとは思わないのだろうと思います。そのように考えるのならば、これも当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、たとえ「高賃金」を約束しても「きつい」「汚い」「危険」な仕事にはなかなか応募者が集まってこないし、ようやく応募してきた人たちを雇ってもなかなか長続きしないということになるのです。しかし、「きつい」「汚い」「危険」な仕事に従事する人たちがいなければ「社会経済活動」を維持することができないわけです。それではいったいどうしたらいいのでしょうか? 多少の批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、どんなに少なくとも「不足する『労働力』を海外から補う」などという発想だけは致命的な間違いなのです。たとえその国では「低賃金」でも海外の労働者から見れば母国の賃金の何十倍もの「高賃金」に相当する場合であっても、「きつい」「汚い」「危険」な仕事に海外から応募者がたくさん集まるなどという非常に特殊な状況はそう長くは続かないはずなのです。例えば、海外から次々と新しい労働者を受け入れて「きつい」「汚い」「危険」な仕事に短期間だけ従事してもらってその期間が終わったらすぐに帰国してもらうとか…。もちろんそんな「ご都合主義的な政策」も「持続可能」なものではないのです。繰り返しになりますが、ごく普通の多くの人たちはいくら「きつい」「汚い」「危険」な仕事であっても「低賃金」でずっと続けるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「黙認すれば…」(2023/7/29)

『核』保有 黙認すれば 隣国の 『核拡散』を 誘発するが…」-

北朝鮮が朝鮮戦争の休戦協定締結から70年となる7/27夜に平壌で軍事パレードを実施しました(→金正恩(キムジョンウン)総書記とロシアのショイグ国防相、中国共産党の李鴻忠政治局員と並んで観覧。ロシアのプーチン大統領のメッセージがショイグ氏によって代読されたという。参考:2023/7/19付etc)。

軍事パレードではICBM(大陸間弾道ミサイル)級とみられるミサイルや新型の無人機なども…。率直に言わせてもらうのならば、中国とロシアは今回の北朝鮮の式典への要人出席を通じて北朝鮮の核保有などを黙認するという意思を国際的に示したことになると思います。中国とロシアは北朝鮮の核保有などを本当に認めるのでしょうか? もしそうであるのならば、中国とロシアは自分たちの「核心的利益」などでも核兵器による「恐怖の均衡」などの問題に直面する危険性がますます高まることになります。あえて個別具体的な固有名詞に触れることは避けますが、もしもあのまま核兵器を保有したままでいたのならばロシアによる軍事侵攻を思いとどまらせることができたのではないかとか、もしかすると核兵器を保有すれば「武力統一」を放棄せざるを得なくなるのではないか、などという声があることも事実です。もしも中国とロシアが北朝鮮の核兵器保有を黙認するのならば、核拡散を誘発することになるということだけはあえて指摘した上で強調することにしておきます。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『持続可能』か?」(2023/7/28)

危険とか 汚いことや きついこと 低賃金で 『持続可能』か?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。地球上では「危険な仕事」や「汚くなる仕事」や「きつい仕事」をしかも「低賃金」でやりたがる人たちがたくさんいる場所は少ないと思います。そんな中、海外からの「労働力」を利用しようとするような考え方は「持続可能」なものなのでしょうか? 

あくまでも一般論ですが、多くの人たちは仕事を選ぶことができるのならば、「危険な仕事」よりも「安全な仕事」を、「汚くなる仕事」よりも「汚くならない仕事」を、「きつい仕事」よりも「楽な仕事」を、そして「低賃金の仕事」よりも「高賃金の仕事」を選ぶのだろうと思います。それにもかかわらず、「危険な仕事」や「汚くなる仕事」や「きつい仕事」をしかも「低賃金」でやらざるを得ない人たちは、やはりそうせざるを得ない「特別な事情」があることが多いのだろうと思います。例えば、その国の言語を十分に理解することができない人たち、正規の手続きで入国したり合法的に在留したりしているわけではない人たち、様々な事情のために母国でずっとやっていた仕事をその社会ではすことができない人たち、など…。本当に「危険な仕事」や「汚くなる仕事」や「きつい仕事」をしかも「低賃金」でやりたがる人たちはたくさん集まるのでしょうか? 繰り返しになりますが、海外からの「労働力」を利用しようとするような考え方は「持続可能」なものなのでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、そうであったとしても、そうではなかったとしても、世の中から「危険な仕事」や「汚くなる仕事」や「きつい仕事」を少しでも少なくしていくという方法が正攻法であることだけは確かなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「それでいいのか?」(2023/7/27)

祖国から 逃れることが できた人 だけを救えば それでいいのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながらごく普通の多くの人たちの中にも自分自身は安全で安心できる場所にいながら様々な出来事を遠い場所の他人事と捉えてもっともらしいことを主張する人たちは少なくないのです。

くどいようですが、もちろん「祖国」から逃れてきた気の毒な人たちを人道上の問題としてそれぞれの社会に受け入れることは決して間違ったことではないのです。しかし、それでもやはり、多くの人たちが逃げ出してきた「祖国」にはまだまだ逃れることができない人たちがたくさん残されているという現実には少しも変化はないのです。なんとか「祖国」から逃れることができた人たちだけを救うことができればそれでいいのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、そもそもいくら「難民」の受入れを増やしたとしても、自分たちだけではどうすることもできない事情のために自分たちが生まれ育った場所で自分たちの家族と幸せに暮らしていくことができないという人たちをなくすことはできないのです。そして多くの人たちが逃げ出してきた「祖国」には逃げ出すことができない人たちが残されたままなのです。繰り返しになりますが、なんとか「祖国」から逃れることができた人たちだけを救うことができれば本当にそれでいいのでしょうか? 残念ながらごく普通の多くの人たちの中にも自分自身は安全で安心できる場所にいながら様々な出来事を遠い場所の他人事と捉えてもっともらしいことを主張する人たちは少なくないのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『上限』なし?」(2023/7/26)

気の毒な 人たちだから 受け入れる? 『上限』なしに 受け入れられる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながらごく普通の多くの人たちの中にも自分自身は安全で安心できる場所にいながら様々な出来事を遠い場所の他人事と捉えてもっともらしいことを主張する人たちは少なくないのです。

あくまでも一般論ですが、やはり「難民」は気の毒な人たちなのだろうと思います。確かに彼・彼女たちは、本来ならば自分たちが生まれ育った場所で自分たちの家族と幸せに暮らしていたかっただけなのに様々な事情から自分たちが生まれ育った場所から逃れざるを得なくなったという気の毒な事情があるわけです。しかし、それでもやはり、自分たちが生まれ育った場所から逃れてきた人たちが逃れてきた先にも「自分たちが生まれ育った場所で自分たちの家族と幸せに暮らしていたいだけの人たち」がいるということは変わらないはずなのです。もちろん人道上の問題として逃れてきた気の毒な人たちをその社会に受け入れることは間違ったことではないのです。しかし、それでもやはり、それぞれの社会にはそれぞれの社会に逃れてきた人たちを受け入れることができる「人数」や「期間」に「上限」があるということもまた事実なのです。あくまでも念のために確認しておきますが、それぞれの社会に逃れてきた人たちを支援し続けるために必要不可欠な資金などが無限にあるというわけではないのです。さらに言えば、それぞれの社会に逃れてきた人たちがそれぞれの社会で使用される言語を習得してそれぞれの社会を支えるために必要な仕事を実際にすることができるようになるまでにはそれなりに長い時間が必要になるはずなのです。そのことを考えれば考えるほど、それぞれの社会に逃れてきた気の毒な人たちをそれぞれの社会に受け入れることを慎重に考えざるを得なくなるのではないかと思います。言い換えれば、いくら自分たちが生まれ育った場所から逃れざるを得なくなったという気の毒な人たちであってもそれぞれの社会で「上限」なしで受け入れることができるというわけではないのです。繰り返しになりますが、残念ながらごく普通の多くの人たちの中にも自分自身は安全で安心できる場所にいながら様々な出来事を遠い場所の他人事と捉えてもっともらしいことを主張する人たちは少なくないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「自分も『親』に?」(2023/7/25)

『子』が『親』の 背中見ながら 成長し 自分も『親』に なりたくなるか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。地球上の多くの国では社会の「少子化」と「高齢化」が大きな問題になっています。もしも多くの人たちがこれまでのような考え方に縛られ続けるのならば「少子化」と「高齢化」はますます深刻な問題になるのです。

あえて素朴な疑問を投げかけてみることにしますが、子どもには自分を育てている「親」のことはいったいどのように見えているのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、一人ひとりの人間にはそれぞれ個性がありますから、もちろんいろいろな「子」や「親」がいてもいいわけです。しかし、それでもやはり、子どもは自分のことを育ててくれている「親」が毎日辛そうだったり毎日疲れ切っていたりすれば、自分が成長して大人になったときに子育てをしたいと積極的に思うかどうかは大いに疑問です。もしも「親」が自分のことを一生懸命に育ててくれればくれるほど、育ててもらった「子」が自分は「親」になりたいと思わなくなったとしたら…。もちろん「子育て」の負担は重いよりも軽い方がいいと思います。そして「親」が愛情を注ぎ込んで真剣に「子育て」をし続ける限り、たとえどれだけ支援を受けても、「親」には無視することができない程度の大きな負担が残ることだけは変わらないはずなのです。そうであるのならば、「子育て」の負担を軽減することよりも、「子育て」の楽しさやその幸福度などを増加させるためにより多くの労力や資源を費やすべきではないかと思います。繰り返しになりますが、もしも多くの人たちがこれまでのような考え方に縛られ続けるのならば「少子化」と「高齢化」はますます深刻な問題になるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「幸せ?」(2023/7/24)

『子育て』は 大変だけど 楽しいし 心配ばかり だけど幸せ?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。地球上の多くの国では社会の「少子化」と「高齢化」が大きな問題になっています。もしも多くの人たちがこれまでのような考え方に縛られ続けるのならば「少子化」と「高齢化」はますます深刻な問題になるのです。

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「少子化」対策のために「子育て」の負担を軽減するという考え方にばかりとらわれるのは大きな間違いではないかと思っています。たとえどれだけ「子育て」の負担を軽減するための政策を充実させたとしても、それでもやはり、「親」が愛情を注ぎ込んで真剣に「子育て」をする限り、「親」には無視することができない程度の大きな負担が残ることだけは変わることがないはずなのです。そしてもしも社会の中の多くの人たちがそのことに気づいているのならば、「子育て」の負担を軽減することよりも、どうしたら「子育て」の楽しさやその幸せなどを増加させることができるのかということを考えることにより多くの時間や労力を費やすことになるのではないかと思います。「いろいろな支援策はあってもやはり子育ては大変。でも、楽しい」とか「親になると子どもの心配ばかり。でも、幸せ」などと…。くどいようですが、もしも多くの人たちがこれまでのような考え方に縛られ続けるのならば「少子化」と「高齢化」はますます深刻な問題になるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『主人』まんなか」(2023/7/23)

『主人』とか かつて『まんなか』 だった頃 本人たちは 幸せだった?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会や国際社会で深刻な問題となっている問題の1つについてあえて「あり得ない空想」を交えながら少しだけ考えてみることにしようと思います。いくら一昔前の社会では当たり前だった価値観であっても、今現在の社会ではなかなか受け入れないものになっていることは珍しくないわけですが…。

「男は仕事、女は家庭」などという価値観が主流だった一昔前までは、男性は「主人」とか「旦那」とか「一家の大黒柱」などと呼ばれて家庭内で大事にされてきたのだろうと思います。そんな「主人」とか「旦那」とか「一家の大黒柱」などと呼ばれて「まんなか」だった頃に本人たちが幸せだったのかどうかなどということはよく分かりませんが…。何にしても「男は仕事、女は家庭」などという価値観は今現在の社会では少数派になっているわけです。その上で、今現在の社会の多数派の価値観でこれから何が「まんなか」にされることになるのかはあえて分からないと言っておきますが、いずれにしても社会の少数派などに対する配慮などは必要不可欠になります。例えば、科学技術が発達した今現在でも実際に子どもを産むことができるのは(若い)女性だけであるということは変わらないわけです。またいくら科学技術が発達しても、少なくとも現在においては、子どもを産むことができない女性も、子どもに恵まれない夫婦やカップルなども社会の中にはたくさんいるわけです。そのような状況の中で何かを「まんなか」と喧伝することの弊害にももっと目を向ける必要があると思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『老人』まんなか」(2023/7/22)

『老人』が 『まんなか』だった 大昔 なぜ『まんなか』で 大事にされた?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会や国際社会で深刻な問題となっている問題の1つについてあえて「あり得ない空想」を交えながら少しだけ考えてみることにしようと思います。いくら一昔前の社会では当たり前だった価値観であっても、今現在の社会ではなかなか受け入れないものになっていることは珍しくないわけですが…。

あくまでも一般論ですが、大昔の社会では長生きをした「老人」が「長老」などとしてその社会の「まんなか」で大切にされていたことが少なくなかったようです。なぜ大昔の社会では「老人」が「長老」などとしてその社会の「まんなか」で大事にされていたのでしょうか? もちろん理由はいろいろあるのだろうと思います。でも、やはり大昔の社会では「老人」の数自体が少なかったことが最大の理由の1つであることは確かです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、もしも社会の約1/3が「老人」であったのならば、どんなに少なくとも「老人」が社会の「まんなか」で「長老」などとして大事にされることはなかったのではないかと思います。言い換えれば、たとえ大事にしたいと思っても、あまりにも「老人」の数が多くなり過ぎれば、「老人」が社会の「まんなか」で「長老」などとして大事にするのは難しくなるのだろうと思います。今現在では「老人」を社会の「まんなか」で「長老」などとして大事する価値観が必ずしも受け入れられない考え方になったわけではないのでしょうが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「どうしたら…」(2023/7/21)

どうしたら エスカレーション 止められる? 消耗させて 均衡させる!」-

ロシアによるウクライナ侵略戦争がエスカレートする危険性が高まっているようです。ロシアは、7/17にウクライナ産農産物の輸出をめぐる合意の履行を停止したのに続き、7/19には黒海でウクライナの港に向かうすべての船舶について軍事物資を輸送している可能性があるとみなすなどと警告したことで波紋が広がっています。そしてロシア軍はウクライナ南部の農産物の積み出し港がある黒海沿岸のオデーサ周辺を攻撃し続けています(→輸出用の穀物貯蔵施設や港湾施設だけではなく、オデーサの中国総領事館にも被害が出たという)。またこれを受けてウクライナも黒海でロシアの港とロシアに占領されているウクライナ領の港に向かうすべての船舶について軍事物資を輸送している可能性があるとみなすなどという対抗措置を発表しています。

このままロシアによるウクライナ侵略戦争はエスカレートし続けていくのでしょうか? いったいどうしたら戦闘のエスカレーションを止めることができるのでしょうか? もしかすると素人の「机上の空論」なのかもしれませんが、ロシア側が軍事的に優勢な戦力をことごとく消耗させてウクライナ側と均衡させるようにするという戦略が有効ではないかと思います。ますます戦況が不利になって苦しくなってきているロシア側は軍事的に優勢な戦力に大きく依存するようになってきているようです。どうやらロシア側はウクライナ側を物量的に大きく上回っている兵員数、弾薬量、ミサイル数、航空戦力などにますます依存する傾向が強まっているようです。もしそうであるのならば、ロシア側が圧倒的に優勢である兵員数、弾薬量、ミサイル数、航空戦力などをことごとく消耗させてウクライナ側と均衡させるようにしていけば上手くいけばロシアによるウクライナ侵略戦争にも終わりが見えてくるのかもしれないと思います。その上で、あくまでも念のために付け加えておきますが、もちろんロシア側には「核戦力」という絶対的に優位な戦力があるわけです。ですから、そのロシア側の「核戦力」を絶対に使うことができない状態にしておくということが大前提になります。もしもロシアが「核戦力」を使用する可能性が高まることがあるのならば、ほぼ確実に米国を含めたNATO(北大西洋条約機構)側がウクライナ側に参戦して圧倒的な「通常戦力」でロシア側に壊滅的な打撃を加えることになる可能性も同時に高まっていくという状態を維持することが必要不可欠になるのです。いずれにしてもロシア側が圧倒的に優勢である戦力をことごとく消耗させてウクライナ側と均衡させるようにしていけば上手くいけばロシアによるウクライナ侵略戦争にも終わりが見えてくるかもしれないのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『国連』よりも…」(2023/7/20)

小さいが 『国連』よりも 強力に 平和をつくる ための『組織』に?」-

繰り返しになりますが(→参考:2023/7/13付)、ロシアによるウクライナ侵略を見れば明らかなように、「国際連合(United Nations)」は、どんなに少なくとも安全保障分野では完全に機能不全の状態に陥っているのです。「国際連合(United Nations)」の主要機関である「安全保障理事会」は、深刻な問題であればあるほど、常任理事国による「拒否権」によって「無力化」してしまうのです。ですから「安全保障理事会」の常任理事国であるロシアによって引き起こされているウクライナ侵略戦争については、「国際連合(United Nations)」は完全に機能不全の状態に陥ってしまうのです。それでは「国際連合(United Nations)」を再構築するためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 

一つの考え方としては、たとえ「国際連合(United Nations)」が「安全保障理事会」の常任理事国による「拒否権」によって機能不全に陥っている場合であっても、「国際連合(United Nations)」を補完して加盟国に対する武力行使を排除するための何らかの「組織」をつくることを考えるということがあります。もしも「国際連合(United Nations)」よりも小規模ではあっても強力に平和をつくることができる何らかの「組織」が「国際連合(United Nations)」の中に存在すれば、たとえ「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」(国連憲章51条)であっても、「加盟国の有志による集団的自衛権の行使」という形で加盟国に対する武力行使を排除することができることになるのです。もしかするとロシアによるウクライナ侵略戦争においてNATO(北大西洋条約機構)がいかなる役割を果たすことができるかどうかということから「国際連合(United Nations)」の新しい形が見えてくるのかもしれないと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「現実逃避?」(2023/7/19)

不満だと ミサイル発射 繰り返す? 現実逃避? 解決できず…」-

防衛省は北朝鮮が7/19未明から早朝にかけて日本海に向けて短距離弾道ミサイル計2発を発射したと発表しています(→平壌近郊の順安(スナン)付近から発射。2発とも日本国の排他的経済水域(EEZ)の外側に落下した模様)。ごく普通の多くの人たちの目から見れば、北朝鮮は何か不満があるとすぐにミサイルを発射する傾向があると受け止めているのではないかと思います(→参考:2023/7/12付etc.)。ミサイルを発射しても目の前の脅威や深刻な問題を解決することができるわけがないので「現実逃避」に等しいわけですが…。あくまでも念のために言っておきますが、ミサイル発射だけではなく、核実験などを強行しても目の前の脅威や深刻な問題を解決することができるようになるというわけではないのです。問題を解決するためには、話し合いや交渉が必要になるのです。

その上で、一連の北朝鮮の問題を本質的に解決するためには、最初に国際社会が北朝鮮を「核保有国」として認めることは絶対にあり得ないということをしっかりと北朝鮮に理解させることが必要不可欠になります。そもそもなぜ北朝鮮は「核保有国」だと言い張っているのでしょうか? 「核兵器」を保有すると「体制」を保障することができると考えているのでしょうか? もしそうであるのならば、例えば、「共産主義専制国家」が「武力」による「統一」の可能性を否定していない「どこかの地域」もまた自分たちに対する「武力侵攻」を阻むために「核兵器」を保有することを真剣に検討するようになるかもしれないと思います。さらに言えば、もしも北朝鮮が国際社会から「核保有国」として認められることになるのならば、北朝鮮による「核兵器」を使った恫喝を阻むために自分たちも「核兵器」を保有して「核保有国」として認められようとする「隣国」もいくつか出てくる危険性が高まります。言い換えれば、もしも北朝鮮が国際社会から「核保有国」として認められることになるのならば、東アジアは「核保有国」だらけになってしまう危険性が高まるわけです。そのように考えるだけでも、国際社会が北朝鮮を「核保有国」として認めることは絶対にあり得ないということをしっかりと北朝鮮に理解させることが北朝鮮の問題を本質的に解決するためには必要不可欠になるわけです。きょうのところはそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『逃亡先』に?」(2023/7/18)

『敵』の『敵』 ならば保護して くれるはず? 『逃亡先』に 『敵国』選ぶ?」-

少し分かりにくい表現になりますが、自分が仲の悪い人と仲が悪い人とは仲良くなることができるなどという話は、ごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよくある話なのかもしれないと思います。「敵」の「敵」は「味方」だとか、「敵」の「味方」は「敵」だとか…。もしかするとそのような話はごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよくある話なのかもしれないと思います。実は国際社会では「敵」の「敵」は「味方」などという考え方が大きな問題を引き起こすこともあるのです。

例えば、たとえ殺人や強盗のような「重大犯罪」を犯して政府から追われる立場になった人間であったとしても、もしも「敵国」を「逃亡先」に選ぶことができるのならば、「敵」の「敵」としてとりあえず保護される事例もなくはないのです。さらに言えば、たとえその国の政権にとって脅威となる人物が「政治犯」などとして追われる立場になった場合であっても、他国に「亡命」してそこで保護されるという事例も少なくないのです。問われているのが殺人や強盗のような「重大犯罪」なのか、それとも「政治犯」などなのか、さらにはそもそもでっち上げられた「犯罪」なのか…。実はそのようなことを正しく判断するのはなかなか難しいということをあえて指摘した上で強調しておくことにします。いずれにしても国際社会では「敵」の「敵」は「味方」などという考え方が大きな問題を引き起こすこともあるのです。

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「集まるか?」(2023/7/17)

優秀な 人材多く 集まるか? 世界中から 集まってくる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題となっている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。世の中の多くの人たちは何をやってもすぐにあれこれ言われたり禁止されたりするような場所よりも、何をやっても誰からも何も言われず誰からも何も禁止されたりしないような場所を好むのだろうと思います。

あくまでも想像上の架空の話ですが、もしも「ある国家」が世界中の多くの人たちの中からそれぞれの分野で才能のある優秀な人たちを集めてその中から何人かを選んで「賞品」としてその国の「国籍」とその国で自由にその才能を発揮できる環境を与える「オーディション」などを実施するようになったとしたら「ヒトの国際移動」はいったいどうなってしまうのでしょうか? 「ある国家」に世界中の優秀な人材が集まってくるようになるのでしょうか? もちろん実際にどれだけの数の「賞品」が与えられるようになるかによっても違ってくるわけですが…。「ある国家」が例えば、米国のような自由で豊かな国の場合にはおそらく世界中の優秀な人材の多くが「ある国家」に集まってくることになるのかもしれないと思います。しかし、「ある国家」が例えば「共産主義専制国家」の場合には、いったいどれだけの優秀な人材が世界中から集まってくるのかは疑問です。もちろんとりあえず自分がやりたいことを思う存分できるかどうかということ以外のことをほとんど気にしないような人間たちは高待遇に惹かれて「ある国家」に集まってくるのかもしれないと思います。でも、「ある国家」の期待するような「成果」がそれなりの期間内に得られなかった場合にはいったいどうなってしまうのでしょうか? 「特権」を失った状態で「共産主義専制国家」に取り残されても人権が尊重されるとはなかなか想像することはできないわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『ヒトの国際移動』は増える?」(2023/7/16)

『グローバリ ゼーション』進み 増えていく? 『ヒトの国際 移動』は増える?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題となっている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。世の中の多くの人たちは何をやってもすぐにあれこれ言われたり禁止されたりするような場所よりも、何をやっても誰からも何かを言われたり禁止されたりしないような場所を好むのだろうと思います。

例えば、自分が生まれ育った国では自分のやりたいことがすべて禁止されていて普通に生活しているだけでも生命の危険を感じる個人が「亡命」するような事例は大昔からあります。また一昔前からは、膨大な利益を得て多額の税金を負担しなければならなくなった企業や個人は、同じ地球上のできるだけ税金を支払わなくても済むような場所に本社や住所を移転させようとする傾向があります。このままヒト、モノ、カネ、情報の国際移動が加速する「グローバリゼーション」が進めば、もしかするとそう遠くない将来には、多くの人たちがやりたいことを自由にやるためにより良い場所を求めて国境を越えて生活する場所を移動しようとする「ヒトの国際移動」が活発になる時代がやってくる可能性も低くはないと思われます。本当に「ヒトの国際移動」は活発になるのでしょうか? 「ヒトの国際移動」が活発になることは良いことばかりなのでしょうか? きょうのところはそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「居座り続け…」(2023/7/15)

『強盗』や 『泥棒』せずに 押し寄せて 居座り続け 追い出していく?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題となっている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。もしも見知らぬ大勢の人間たちが「泥棒」や「強盗」などをせずにただ居座り続けた場合にはいったいどうしたらいいのでしょうか? とりあえず「警察」などを呼ぶでしょうか? 現実には「警察」などを呼んでも解決しないケースも少なくないのです。

もちろん唐突に「見知らぬ大勢の人間たち」が押し寄せてくるのにはいろいろなケースがあるのだろうと思います。例えば、戦争や内乱などが発生して生命を守るために着の身着のまま逃れてきた「国内避難民」や「難民」も、もともとその場所で生活している人たちから見れば「突然押し寄せてきた見知らぬ大勢の人間たち」になるのだろうと思います。あるいは、自由で豊かな生活を夢見て国境を越えようとする見知らぬ大勢の人間たちが次々と押し寄せてくるようなことも少なくないわけです。さらに言えば、もしかしたら「武装」しているかもしれない見知らぬ大勢の人間たちが「泥棒」や「強盗」などをせずにただただ居座り続けるようなケースもあるのだろうと思います。そして見知らぬ大勢の恐ろしい人間たちがただただ居座り続けることによってやがてもともとその場所で生活していた人たちを追い出していくとか…。最後のケースは大昔の「帝国主義」の時代には「植民地」を建設するための「常套手段」の1つだったようです。最近は南シナ海や東シナ海でもよく見られるわけですが…。いずれにしても唐突に「見知らぬ大勢の人間たち」が押し寄せてくるケースには「警察」などを呼んでも解決することができないものも少なくないのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『無人島』では…」(2023/7/14)

『強盗』は 『無人島』では どうするか? 助けはくるか? 逃げ切れるのか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会で深刻な問題となっている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。もしも「警察」がいない場所で「泥棒」や「強盗」などに遭遇した場合にはいったいどうしたらいいのでしょうか? とりあえず逃げるのでしょうか? それとも自分で捕まえたり撃退しようとしたりするのでしょうか? 

もしも「無人島」などのような「警察」どころか他に誰も住んでいない場所に突然「泥棒」や「強盗」などが侵入してきたとしたならば、少なくとも逃げ切ることは非常に難しいのだろうと思います。しかも助けを求めても助けがやってくる可能性も非常に低いのだろうと思います。そういうことになるとやはり「無人島」などで生活するのならば銃などで「武装」して「自衛」するしか「選択肢」が存在しないということになるのだろうと思います。ちなみにどこかの超大国でもほんの少し「田舎」に行けば「無人島」のように銃などで「武装」して「自衛」するしか事実上「選択肢」が存在しない場所がたくさんあるのかもしれないわけです。残念ながらそれが国際社会の偽らざる現実なのです。しかし、それでもやはり、「無人島」のように銃などで「武装」して「自衛」しなければならない現状を放置することは人類にとって長い目で見た場合には決して良いことではないはずなのです。例えば、「武装」して「自衛」しなければならない現状を放置した結果として地球上のあちこちで終わりの見えない争いが繰り返されることにもなっているわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『無力化』される!」(2023/7/13)

深刻な 問題のとき 『安保理』は 『拒否権』により 『無力化』される!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」だけを見ていてはなかなか想像することができないことについてあえて想像してみることにしようと思います。今現在の「国際連合(United Nations)」はどれだけ役に立っているのでしょうか? どんなに少なくとも安全保障分野では今現在の「国際連合(United Nations)」は完全に機能不全に陥っているのではないでしょうか? 「国際連合(United Nations)」を再構築するためにはどうしたらいいのでしょうか?

当たり前と言えば当たり前の話ですが、今現在でも「国際連合(United Nations)」は地球上で非常に大きな役割を果たしていることは事実です。「国際連合(United Nations)」には、IAEA(国際原子力機関)やWTO(世界貿易機関)のような関連機関や、IMF(国際通貨基金)やWHO(世界保健機関)やUNESCO(国連教育科学文化機関)のような専門機関などのいわゆる「国連ファミリー」が存在し、それぞれの専門分野で大きな役割を果たしていることは多くの人たちも知っています(→参考:https://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/)。しかし、それでもやはり、「国際連合(United Nations)」は、どんなに少なくとも安全保障分野では完全に機能不全の状態に陥っているのです。それは今現在も続いているロシアによるウクライナ侵略を見れば明らかです。「国際連合(United Nations)」の主要機関である「安全保障理事会」は、深刻な問題であればあるほど、常任理事国による「拒否権」によって「無力化」してしまうのです。その結果、「国際連合(United Nations)」は、安全保障分野の深刻な問題では完全に機能不全の状態に陥ってしまうのです。それでは「国際連合(United Nations)」を再構築するためにはどうしたらいいのでしょうか? 「国際連合(United Nations)」の改革や再構築が必要不可欠であるということは誰の目にも明らかです。しかし、そのために有効な方法が何かを判断するのはなかなか難しいことなのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきますが…。

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「発射するしか…」(2023/7/12)

ミサイルを 発射するしか できること なくなっている 愚か者たち」-

北朝鮮が大陸間弾道ミサイルと見られるものを7/12午前に発射したことで波紋が広がっています(→防衛省によれば、ミサイルは7/12,AM9:59頃に平壌近郊から東側に向けて発射され、同11:13頃に北海道・奥尻島の西方約250kmの日本の排他的経済水域(EEZ)の外側の日本海に落下したという。ロフテッド軌道で打ち上げられ最高高度6000km超、飛行距離は約1000km。約74分間の飛行は過去最長だという)。

率直に言わせてもらうのならば、どうやら北朝鮮の指導部は弾道ミサイルを発射することしかできることがなくなっている愚か者たちばかりになっているようです。弾道ミサイルの発射を繰り返していったいどんなメリットがあるというのでしょうか? 確かに弾道ミサイルの発射を繰り返せばミサイル技術の開発は進むのだろうと思います。上手くいけば米国と何らかの取引をするための交渉をすることができるようになるかもしれないとは思います。しかし、それでもやはり、超軍事大国の米国との間で「戦争状態の一歩手前」にまで進んでしまったり「戦争状態」になったりしてしまったときに北朝鮮の指導部は本当に対峙することができると思っているのでしょうか? あえて非常に極端な話をするのならば、もしも米本土が核攻撃をされる危険性がそれなりに高い状態が現実のものになったときに米国は「北朝鮮を地球上から消滅させる」ことによって米本土への核攻撃の危険性を取り除くという「選択肢」を採用する可能性を完全に捨て去ることはないと思います。もちろんその場合には米国の同盟国や北朝鮮の周辺国に限らず、地球規模で甚大な被害が発生することになるはずです。ですから「米本土への核攻撃による被害」と「北朝鮮を地球上から消滅させることによる被害」とを比べて慎重に判断することになるのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、「北朝鮮を地球上から消滅させる」という「選択肢」が現実に採用される危険性が高まった場合には、米国の同盟国も北朝鮮の周辺国も自分たちが巻き添えによって甚大な被害を受けるのを黙って見過ごすことだけはないはずなのです。繰り返しますが、弾道ミサイルの発射を繰り返していったいどんなメリットがあるというのでしょうか? どうやら北朝鮮の指導部は弾道ミサイルを発射することしかできることがなくなっている愚か者たちばかりになっているようです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『公正』? 『平等』?」(2023/7/11)

ある人が 主張受け入れ られたなら 『公正』なのか? 『平等』なのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会で深刻な問題となっていることの1つを少しだけ考えてみることにしようと思います。「不公正」「不平等」とはいったい何なのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、どんなに少なくとも社会の中で自分の主張が受け入れられていない状態が「不公正」や「不平等」ではないはずなのです。

例えば、「未成年」の人たちに選挙権が認められていないのは「不公正」や「不平等」なのでしょうか? あるいは、自分たちの生活に大きな影響を受ける米国民以外の人たちが米国の大統領選挙に立候補したり投票したりすることができないのは「不公正」や「不平等」なのでしょうか? さらに言えば、「ある人」にプロポーズをしたけれども、「ある人」は「別の人」と結婚することを決めたような場合には、「不公正」や「不平等」なのでしょうか? 最近は改めて「公正」や「平等」とは何か、「不公正」や「不平等」とは何かということを見つめ直す必要がある機会が増えているのではないかと思います。繰り返しになりますが、「少数派」の主張が社会の中で受け入れられていない状態は必ずしも「不公正」や「不平等」であるとは言えないのです。あえて付け加えるのならば、誰かの主張が誰かから受け入れられた場合には「公正」「平等」であるが、受け入れられない場合には「不公正」「不平等」であるなどということではないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『不公正』? 『不平等』?」(2023/7/10)

『不公正』 『不平等』だと 言えるのか? 主張受け入れ られないならば…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会で深刻な問題となっていることの1つを少しだけ考えてみることにしようと思います。「不公正」「不平等」とはいったい何なのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、どんなに少なくとも社会の中で自分の主張が受け入れられない状態が「不公正」や「不平等」ではないはずなのです。

社会の中で「少数派」が「多数派」の価値観を押し付けられていると感じることはよくあることです。もちろん実際に「少数派」が「多数派」から価値観を押し付けられているような事例は存在すると思います。そして一般論としては自由で民主的な社会の中では価値観の押し付けは良くないことです。しかし、それでもやはり、「少数派」の主張が社会の中で受け入れられていない状態が必ずしも「不公正」や「不平等」であるとは言えないということをあえて指摘しておく必要があります。そもそも「公正」とか「平等」とはいったいどういう状態を意味しているのでしょうか? 改めて「公正」とか「平等」とは何かということを見つめ直す必要があると思われる人間たちが増えていることが非常に気掛かりです。くどいようですが、「少数派」の主張が社会の中で受け入れられていない状態は必ずしも「不公正」や「不平等」であるとは言えないのです。もちろん「多数派」が「少数派」に対して価値観を押し付けるようなことは「公正」や「平等」ではないのです。そしてもしも「少数派」の主張や価値観を「多数派」に押し付けるようなことができるのならば、そのようなことも同じように「公正」や「平等」ではないのです。きょうのところはあえてそれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「その現実は…」(2023/7/9)

『法律』も 『警察』なども 実はない! 国際社会 その現実は…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、人類の長い歴史の中で深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。人類の長い歴史の中では「報復が報復を呼ぶ」とか「やられたらやり返す」というような状況は何度も何度も繰り返されているわけですが…。

あえて個別具体的な固有名詞などを取り上げることは避けますが、今現在も地球上では「領土」や「土地」をめぐって「報復が報復を呼ぶ」とか「やられたらやり返す」というような果てしない殺し合いが続いている場所がいくつか存在します。誰もが思っていることではないかと思いますが、この「報復が報復を呼ぶ」とか「やられたらやり返す」というような果てしない殺し合いを止めるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、「話し合いで解決」するためにはその裏付けとなるものがいくつか必要になります。例えば、当事者を含めた多くの人たちが納得することができる「公正なルール」、そして実際に当事者による「報復」を思いとどまらせたり止めたりするために必要不可欠な非常に強力な「力」が必要になります。あくまでも念のために確認しておきますが、国際社会には国家の中には当たり前のように存在しているのと同じ意味での「法律」や「警察」などは存在しないのです。言い換えれば、今現在の国際社会では、争いを「話し合いで解決」することも、「報復が報復を呼ぶ」とか「やられたらやり返す」というような果てしない殺し合いを止めることも、実はかなり困難なのです。それが今現在の国際社会の偽らざる現実なのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「やられたらやり返す?」(2023/7/8)

『やられたら やり返す』とか 『報復が 報復を呼ぶ』 リスクがあるが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、人類の長い歴史の中で深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。人類の長い歴史の中では「報復が報復を呼ぶ」とか「やられたらやり返す」というような状況は何度も何度も繰り返されているわけですが…。

米国がウクライナからの要請を受けて「クラスター爆弾」の提供を決定したことを7/7に発表したことで波紋が広がっています(→「親爆弾」から多数の「子爆弾」が飛散して多くの不発弾を生み出すことがある「クラスター爆弾」は非人道的な兵器として国際的な批判が強い。日本や英独仏など100カ国以上が締約国となった「クラスター爆弾」の製造・使用を禁止する条約もあるが、米国、ロシア、ウクライナなどは条約に参加せず。米国のウクライナに対する「クラスター爆弾」の提供は砲弾増産までの限定的な措置?) ロシア側が既にウクライナ国内で「クラスター爆弾」を何度も使用しているという指摘もあります。そしてウクライナ国内には既にロシア側が残した大量の地雷や不発弾などが放置されているので「クラスター爆弾」を限定的に使用するのならば状況は大きく変化しないという指摘もあります。確かにその通りなのだろうと思います。またウクライナを侵略して非常に強力な防御態勢を構築しているロシア軍に対しては「クラスター爆弾」を使用した攻撃が非常に大きな効果を期待することができるという指摘もあります。おそらくその通りなのだろうと想像することができます。しかし、私としては、「クラスター爆弾」の使用を正当化することができる事情があってもなくても、「報復が報復を呼ぶ」とか「やられたらやり返す」というような悪循環に陥るリスクが残っているということをあえて指摘しておく必要があると思っています。きょうのことはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきますが…。

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「防ぐことできず…」(2023/7/7)

大雨や 猛暑を防ぐ ことできず 被害少なく するのも困難…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。今年も猛暑、大雨などが続いています。地球環境の問題と言えば、少し大げさかもしれませんが…。

猛暑、大雨、台風、そして花粉症などによっていったいどれだけの経済的な損失があるのかということを考えてみたくなることがあります。そしてその経済的な損失をできるだけ少なくするためにはいったいどうしたらいいのかということを考えてみたくなることがあります。花粉症の場合は原因がハッキリしている上に、原因となる飛散する花粉の量を減らすこともそれほど難しいことではないのだろうと思います。しかし、猛暑や大雨などを防ぐことは少なくとも今現在の科学技術ではできないわけです。もちろん猛暑、大雨などが地球温暖化などと関連していることは確かなのだろうと思います。しかし、猛暑や大雨などの被害の軽減を考えるためには、温室効果ガスの排出抑制などでは不十分であるということを指摘しておく必要があります。率直に言わせてもらうのならば、温室効果ガスの排出削減程度ではもはや十分な効果を期待することができない状態なのです。くどいようですが、猛暑、大雨、台風、そして花粉症などによる経済的な損失はそれほど小さなものではないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、猛暑や大雨などの経済的な損失を軽減することはそれほど簡単なことではないわけです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『マイナンバー』は…」(2023/7/6)

『常識』も それぞれ違う こと示す 事件が豊富? 『マイナンバー』は…」-

最近大騒ぎになっている「マイナンバーカード」関連の騒動は悪い意味でそれぞれの個人に非常に豊かな個性があるということを実感させられる騒動ではないかと思います。あえて個別具体的な事例の詳細については触れませんが、どうやら説明する側がさすがに説明を聞けばこのぐらいのことは分かるだろうと思い込んでいることを誤解してしまう人たちが次々と出てきたり、おかしいおかしいと思いながらも間違った説明通りのことをそのままやってしまったりする人たちがかなりいるようなのです。多くの人たちの身近な場所にもおそらく他人の説明をどうしてこんなふうに誤解してしまうのだろうというぐらい驚くようなひどい誤解をする人たちもいるのではないかと思います。また多くの人たちの身近な場所にはなぜか誤解を招くような説明の仕方をしてしまう人たちもいます。それぞれの人たちの非常に豊かな個性というものの影響は誰もが共通して持ち合わせていると思っている「常識」にまで及んでいるようです。いずれにしても「マイナンバーカード」のようなほぼ全国民が無関係ではいられない巨大なシステムを構築したり運営したりする場合にはほぼすべての「常識」を疑ってみる必要があるはずなのです。繰り返しになりますが、一人ひとりの個人には非常に豊かな個性があるということを改めて実感させられる事件がときどき発生するものです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

あくまでも念のために確認しておきますが、そもそも「高齢化」はなぜ問題なのでしょうか? 一般論としては、人間が長生きをすることができるようになるのは悪いことではないと思います。もしかするといわゆる「労働力人口」が減少することが問題なのでしょうか? もしそうであるのならば、ほとんどすべての人たちが「リタイア」することなくいわゆる「生涯現役」の状態でずっと働き続けることができるのならば、「高齢化」は少なくともそれほど悪いことではなくなるのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、実は「高齢化」は「少子化」とは全く無関係ではないのです。どんなに少なくとも社会で「高齢化」が進めば、「子育て」が身近なことではなくなる人たちの数とその割合が増加することになるわけです。言い換えれば、「子育て」のことを考える余裕がなくなったり「子育て」が他人事になったりする人たちの数と割合が増加することになるのです。繰り返しますが、そもそも「高齢化」はなぜ問題なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『リタイア』せずに…」(2023/7/5)

『リタイア』は せずに『生涯 現役』を 貫くことが できるのならば…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。地球上の多くの国では社会の「少子化」と「高齢化」が大きな問題になっています。もしも多くの人たちが従来の考え方にとらわれたまま「少子化」と「高齢化」が進み続けるのならば、その社会は「滅亡」や「消滅」に向かって進み続けることになってしまいます。従来の考え方に縛られ続けるのならば「少子化」と「高齢化」は深刻な問題になるのです。

あくまでも念のために確認しておきますが、そもそも「高齢化」はなぜ問題なのでしょうか? 一般論としては、人間が長生きをすることができるようになるのは悪いことではないと思います。もしかするといわゆる「労働力人口」が減少することが問題なのでしょうか? もしそうであるのならば、ほとんどすべての人たちが「リタイア」することなくいわゆる「生涯現役」の状態でずっと働き続けることができるのならば、「高齢化」は少なくともそれほど悪いことではなくなるのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、実は「高齢化」は「少子化」とは全く無関係ではないのです。どんなに少なくとも社会で「高齢化」が進めば、「子育て」が身近なことではなくなる人たちの数とその割合が増加することになるわけです。言い換えれば、「子育て」のことを考える余裕がなくなったり「子育て」が他人事になったりする人たちの数と割合が増加することになるのです。繰り返しますが、そもそも「高齢化」はなぜ問題なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「不利になる?」(2023/7/4)

『妊娠』や 『出産』『子育て』 不利になる? 不利になるなら 避けるのだろう」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。地球上の多くの国では社会の「少子化」と「高齢化」が大きな問題になっています。もしも多くの人たちが従来の考え方にとらわれたまま「少子化」と「高齢化」が進み続けるのならば、その社会は「滅亡」や「消滅」に向かって進み続けることになってしまいます。従来の考え方に縛られ続けるのならば「少子化」と「高齢化」は深刻な問題になるのです。

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、もしも全身全霊をささげて何かに打ち込もうとするときに「妊娠」「出産」「子育て」などが「ハンディキャップ」になるのならば、「少子化」は止まることはないのではないかと思います。別の言い方をするのならば、もしも実現することが極めて難しい「夢」を必死で実現しようとしていたり厳しい出世競争をなんとか勝ち抜こうとしていたりする場合には、不利になることが明らかな「妊娠」「出産」「子育て」などを避けようとするのはごく自然な考え方ではないかと思います。しかも人間ならば誰もがいつなってもおかしくはない「病気」や「けが」などとは違い、「妊娠」「出産」「子育て」などは避けようと思えばほぼ確実に避けることができるわけです。いくら「育休」や「産休」などが充実していたとしても、いくら給付金を含めた「子育て支援策」が充実していたとしても、いくら配偶者や親族などから手厚い協力が得られたとしても、「妊娠」「出産」「子育て」などが全身全霊をささげて何かに打ち込むときに不利になるのならば「妊娠」「出産」「子育て」などを避けようとするようになると思います。多少の誤解を恐れずにあえて単純化して言えば、もしも本当に女性に全身全霊をささげて何かに打ち込む自由を保障しようとするのならば、結果として「少子化」が止まることはないのではないかと思っています。しかし、それにもかかわらず、女性に全身全霊をささげて何かに打ち込む自由を保障しなければならないのです。そのように考えるのならば、「育休」や「産休」、あるいは、給付金を含めた「子育て支援策」では「少子化」を止める「特効薬」にはなり得ないということは明らかなのです。従来の考え方に縛られ続けるのならば「少子化」を止めることはできないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『自分の国』」(2023/7/3)

フランスが 『自分の国』で あるという 意識を持たぬ 人間たちは…」-

フランスのパリ郊外のナンテールで6/27に北アフリカ系の17歳の少年が警察官に銃で撃たれて死亡した事件に対する抗議行動が過激化して各地で暴動が続いています(→警察署などを襲撃したり車に放火したしたり商店を襲撃して破壊したりするなどの破壊行為が続く。これまでに3000人以上の身柄を拘束。4万5000人の警察官を動員)。

当たり前すぎるくらい当たり前のことをあえて確認しておきますが、たとえいくらひどい「差別」などを受けていたとしても、だからと言って「暴力」を正当化することができるわけがないのです。さらに念のためにあえて確認しておくのならば、近代国家においては、たとえ誰が殺されたとしても、仕返しに容疑者などを殺してもいいということになるはずがないのです。経済的に恵まれていない? 差別を受け続けている? たとえそれが事実であったとしてもそうではなかったとしても、どんなに少なくとも犯罪を取り締まる場合には「情状」を考慮することは不要なのです。今現在フランスで破壊行為を繰り返している人間たちにフランスが自分たちの国であるという意識があまりにも希薄であることが最も深刻な事態であるかもしれないと思います。フランスが自分たちの国であるという意識を持たない人間たちによる暴力はどこまでもエスカレートする危険性があるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りは避けることにしておきます。

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「溶け込めるのか…」(2023/7/2)

『難民』や 『避難民』でも 『移民』でも 社会の中に 溶け込めるのか…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。地球上のほぼどこの社会であっても「難民」や「避難民」や「移民」は古くて新しい問題ではないかと思います。

もちろん様々な事情のために今まで生活していた場所を追われた人たちを「難民」や「避難民」などとして自分たちの社会に受け入れることは悪いことではないと思います。また経済危機などのために自分たちの社会ではとても生活していくことができないなどという人たちを自分たちの社会に「移民」として受け入れることももちろん悪いことではないと思います。しかし、それでもやはり、それぞれの社会の中にはもともと生活していた人たちが存在するわけですから、そのもともと生活していた人たちの生活が「難民」や「避難民」や「移民」を受け入れることによって脅かされることになってその社会から新しく「難民」や「移民」などが発生することになってしまったら元も子もなくなるわけです。「難民」や「避難民」や「移民」を受け入れる場合には「難民」や「避難民」や「移民」をどのようにそれぞれの社会の中に溶け込めるようにしていくのかということが非常に重要になります。きょうのところはそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『国家』とは?」(2023/7/1)

『テロ組織』 『マフィア』を雇う 『国家』とは? 『ならず者』らが 地球を壊す!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会では深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。ロシアが侵略戦争を続けているウクライナとロシア関連のニュースでは「民間軍事会社」の「ワグネル」などというものが話題になっています。「民間軍事会社」というものはいったい何なのでしょうか? 「マフィア」や「反社会勢力」や「テロ組織」とは違うのでしょうか? 

もしも「国家」が「テロ組織」や「マフィア」を雇って表立ってはすることができないことをやっているとしたらその「国家」は実質的に「テロ組織」や「マフィア」と何が違っているのでしょうか? そのような「国家」をどうしても「国家」と呼ばなくてはならないのならば「ならず者国家」などと呼ばざるを得なくなるのだろうと思います。またもしも「国家」が雇っている「民間軍事会社」が「非常に殺傷能力の高い武器」を使用して内戦などに参戦して多数の住民を殺傷しているとしても、「民間軍事会社」を雇っている「国家」の責任は何も問われないのでしょうか? もしも「国家」が雇っている「民間軍事会社」がダイヤモンドや金などの鉱物、原油や天然ガス、さらには麻薬などの違法薬物の「密輸」で莫大な利益を手にしているとしても、「民間軍事会社」を雇っている「国家」は全く無関係で何の責任も問われないのでしょうか? もしも「民間軍事会社」がたとえどんなことをやってもその「民間軍事会社」を雇っている「国家」の責任が何も問われないのならば、地球は「ならず者」らによって壊されていくことになるのだろうと思います。それでもなお国際社会は「民間軍事会社」を事実上「非合法化」しようともしないのでしょうか? きょうのところはそのことを指摘するだけにとどめてあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『民間軍事会社』とは?」(2023/6/30)

『ワグネル』や 『民間軍事 会社』とは? 『テロ組織』とか『マフィア』と違う?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、国際社会では深刻な問題であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。ロシアが侵略戦争を続けているウクライナとロシア関連のニュースでは「民間軍事会社」の「ワグネル」などというものが話題になっています。「民間軍事会社」というものはいったい何なのでしょうか? 「マフィア」や「反社会勢力」や「テロ組織」とは違うのでしょうか?

そもそも地球上のどこに政府の組織以外の「非常に殺傷能力の高い武器を保有する武装集団」が合法的に存在しているような場所があるのでしょうか? あるいは、個人が合法的に「非常に殺傷能力の高い武器」を持つことができる場所はあるのでしょうか? もしも政府の組織以外の「非常に殺傷能力の高い武器を保有する武装集団」や「非常に殺傷能力の高い武器」を持つ個人が「非合法化」されないとしたらおそらくそれは独裁国家や内戦状態の破たん国家のような場所ぐらいなのだろうと思います。例えば、たとえ米国のような個人でも銃の入手が非常に容易な社会であったとしても、さすがに政府の組織以外には戦車やミサイルなどを持つようなことは許されていないわけです。そしてもしも「民間軍事会社」というものが合法的に存在していない組織であるのならば、「民間軍事会社」というものは、「マフィア」や「反社会勢力」や「テロ組織」とは違うのでしょうか? 「民間軍事会社」というものが「マフィア」や「反社会勢力」や「テロ組織」と違っているとしたらいったいどこがどう違っているのでしょうか? なぜ「民間軍事会社」のような非常に殺傷能力の高い武器を保有する武装集団の存在が「非合法化」されないのでしょうか? きょうのところはあえてそれらのことを繰り返し指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「厳しく処罰?」(2023/6/29)

『反乱』は 不問に付して 『別の罪』 次々探し 厳しく処罰?」-

ロシアで民間軍事会社「ワグネル」と国防省などとの対立が発展して「ワグネル」による「反乱」と見られる事態が6/24に発生した波紋が広がっています(→参考:2023/6/27付、2023/6/25付、2023/6/24付etc. ベラルーシのルカシェンコ大統領が6/27に消息不明だった「ワグネル」代表のプリゴジン氏は同国内にいると明らかにしたという。ベラルーシ国内にワグネルの戦闘員のための宿営地を設置などと。またロシアのプーチン大統領は6/27にロシア政府側からプリゴジン氏の関連会社「コンコルド」を経由して「ワグネル」(→実はロシア国内では「非合法組織」)に資金提供(→年間800億ルーブル(約1350億円))していたことを明らかにした上で、提供された資金の使途が適正だったかどうかなどについて調査するなどの考えを示す)。

あくまでも一般論ですが、もしも「権力者」や「独裁者」が本気で「敵」を叩き潰そうと思っているのならば、そのための手段は選ばない可能性がそれなりにあるわけです。そのように考えるのならば、「権力者」や「独裁者」としては、たとえ「反乱」の罪を不問に付すことになったとしても、「脱税」や「横領」などの「別の罪」を次々と探して「敵」を少しずつ弱体化させた上で最終的に厳しく処罰して叩き潰すことができればいいのだろうと思います。「権力者」や「独裁者」は本気で「敵」を叩き潰そうと思っているのでしょうか? 「仲介者」がまとめたのは「最終的な合意」なのでしょうか? それとも「一時しのぎの合意」にすぎないのでしょうか? もしも「権力者」や「独裁者」が本気で「敵」を叩き潰そうと思っているのならば、「仲介者」の顔を立てるためにあえて「一時しのぎの合意」をすることも十分にあり得る話なのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『共謀』?」(2023/6/28)

『当事者』と 『仲介者』とが 『共謀』し 利益分け合う ことはよくある?」-

ロシアで民間軍事会社「ワグネル」と国防省などとの対立が発展して「ワグネル」による「反乱」と見られる事態が6/24に発生した波紋が広がっています(→参考:2023/6/27付、2023/6/25付、2023/6/24付etc. ベラルーシのルカシェンコ大統領が6/27に消息不明だった「ワグネル」代表のプリゴジン氏は同国内にいると明らかにしたという。ベラルーシ国内にワグネルの戦闘員のための宿営地を設置などと。またロシアのプーチン大統領は6/27にロシア政府側からプリゴジン氏の関連会社「コンコルド」を経由して「ワグネル」(→実はロシア国内では非合法組織)に資金提供(→年間800億ルーブル(約1350億円))していたことを明らかにした上で、提供された資金の使途が適正だったかどうかなどについて調査するなどの考えを示す)。

きょうは「ならず者の世界」における仮定の話についてあえて「想像力」を発揮してみることにしようと思います。あくまでも想像上の話ですが、「ならず者の世界」では「当事者」の一方と「仲介者」が「共謀」して利益を分け合うなどということはよくあることなのです。例えば、「当事者」の一方が「別の当事者」に言いがかりをつけて脅している真っ最中に、タイミングよく現れた「仲介者」が「解決金」などを支払うことなどで話をまとめて争いが収まるとか…。そしてもしも「当事者」の一方と「仲介者」があらかじめ「共謀」しているのならば「仲介者」は非常に簡単に話をまとめることができるわけです。もちろんこういうことは「ならず者の世界」ではよくある話というだけのことです。その上で、あえて付け加えるのならば、自由で民主的な社会で平和に生活している人間たちの中には、「虫けらのように潰される」などという「独裁者」の「自慢話」を真に受ける人間たちが意外なほど多いということに驚かされます。繰り返しになりますが、もしも「ならず者の世界」であったのならば「当事者」の一方と「仲介者」が「共謀」するようなことは決して珍しいことではないということを指摘しておくことにします。きょうのところはあえて「想像力」を発揮するだけにとどめてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「信用できる相手?」(2023/6/27)

『プーチン』が 信用できる 相手だと 信じる者は どれだけいるか?」-

ロシアで民間軍事会社「ワグネル」と国防省などとの対立が発展して「ワグネル」による「反乱」と見られる事態が6/24に発生した波紋が広がっています(→参考:2023/6/25付、2023/6/24付etc. モスクワへの進軍を中止して占拠していたロシア南部の軍司令部から退去するときと見られる映像を最後に消息が不明だった「ワグネル」代表のプリゴジン氏は6/26深夜(日本時間)にSNSに音声メッセージを投稿。モスクワへの進軍中止は流血の事態を回避するため、政権転覆の意図はなかったなどと。でも、相変わらず居場所は不明。また6/26夜(日本時間6/27,AM4:00頃)にプーチン大統領の演説がロシア国営テレビで放送された。反乱はいかなる場合でも鎮圧される、首謀者らは国や国民や犯罪に引きずり込んだ者を裏切った、などと。そして進軍中止を最後の一線で踏みとどまったなどと評価、戦闘員に対して国防省との契約を結ぶ選択肢を示す、など)。

繰り返しになりますが、現時点でも正確な事実関係を把握するために必要不可欠な情報があまりにも不足しています。例えば、「反乱」の首謀者と見られるプリゴジン氏が今現在どこにいるのかだけではなく、ロシア国内の「ワグネル」の戦闘員らは今現在どこで何をやっているのか、武装して部隊としてまとまってどこかで行動しているのか、それとも武装解除してバラバラになっているのか、など…。その上で、あえてもうひとことだけ付け加えるのならば、もしかすると平和で自由な社会で生活していると見失ってしまうのかもしれませんが、平和で自由な社会以外の社会では、そもそもプーチン大統領のような人間を信用できる相手だと信じている者はいったいどのくらいいるのでしょうか? 約束をしたら約束を必ず守る人間などと信じている者はいったいどのくらいいるのでしょうか? もしもプーチン大統領が信用できる人間だったり約束を守る人間だったりするのならば、おそらく「特別軍事作戦」などと称してウクライナを侵略する戦争を引き起こすようなことはなかったのではないかと思っている人たちは少なくないはずです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「管理できるのか?」(2023/6/26)

核兵器 きちんと管理 できるのか? 『ならず者』らに 奪われないか?」-

ロシアで民間軍事会社「ワグネル」と国防省などとの対立が発展して「ワグネル」による「反乱」と見られる事態が6/24に発生した波紋が広がっています(→参考:2023/6/25付、2023/6/24付)。少なくとも現時点においては正確な事実関係を把握するために必要不可欠な情報があまりにも不足しています。水面下ではいったい何が起こっているのかがなかなか見えてこないわけですが…。

その上で、現時点においてもあえて指摘しなければならないのならば、ロシアが保有する核兵器や核関連施設などの管理はいったいどうなっているのか、そしてこれからどうなっていくのかということです。率直に言わせてもらうのならば、「ならず者」らによって核兵器や核関連施設が奪われたりする危険性が高まることはないのかということが国際社会では非常に大きな関心事になっているのではないかと思います。国際社会としては、今現在のロシアでは「武装集団」が政権側から大きな抵抗を受けることなく首都モスクワからそう遠くない場所まであっと言う間に到達することができたということを目の当たりにしてしまったわけですから、ロシアが保有する核兵器や核関連施設などの管理態勢について重大な懸念を持つことになるわけです。そしてロシア軍が同盟国のベラルーシに戦術核を配備するなどという動きもあったわけですが…。きょうのところはロシアの核兵器や核関連施設などの管理の重大な問題点について指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「脅しに弱い?」(2023/6/25)

『プーチン』は 脅しに弱い 相手だと 明らかにして 今後どうなる?」-

ロシアでは民間軍事会社「ワグネル」と国防省などとの対立が発展して「反乱」と見られる事態に陥っています(→ロシア最高検察庁は6/24朝(日本時間同日昼)に治安機関のFSB(連邦保安庁)が民間軍事会社「ワグネル」代表のプリゴジン氏が武装蜂起を呼びかけた疑いがあるとして捜査に着手したと発表。プリゴジン氏は6/24朝(日本時間同日昼)にロシア南部ロストフ州のロシア軍南部軍管区司令部入りし、飛行場を含む軍事施設を支配下に置いたなどと主張。「ワグネル」の部隊は北上してモスクワに向けて進軍を続けていた模様だが、プリゴジン氏が6/24夜(日本時間6/25,AM2:00すぎ)にSNSの音声メッセージで流血の事態を避けるために部隊を引き返させているなどと主張。ベラルーシのルカシェンコ大統領がプーチン大統領とも事前に協議した上でプリゴジン氏と協議して事態収拾を図った模様。プリゴジン氏はベラルーシに移動へ? ロシア大統領府によれば、プリゴジン氏に対する捜査は中止され、「ワグネル」の戦闘員も反乱の罪には問われないという)。

どうやらロシア国内で一般市民をも巻き添えにした激しい内戦が繰り広げられる危険性は低くなったようです。しかし、現時点においても正確な事実関係やその詳細は不明のままなのです。その上で、あえて現時点においても言えることについてコメントするのならば、プーチン大統領のロシアは「脅しに弱い」ということを明らかにしてしまったということになるのではないかと思います。言い方を変えれば、理不尽な罪を問われてもおとなしく拘束された人たちは何年も投獄され続けるが、徒党を組んで武器を持って抵抗した人間たちは罪に問われることはなくなるかもしれないということになるわけです。あくまでも一般論ですが、「脅しに弱い相手」だということを明らかにした場合には「脅し」が増える危険性も高まるわけです。さらに言えば、もしかすると「脅しに弱い相手」だと認めたくない人間たちは、通常では「脅し」とは思えないようなものまで「脅し」として捉えたり、通常では考えられないような「過剰反応」を示したりすることもあるのです。今後のロシアはいったいどうなっていくのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「反乱?」(2023/6/24)

ロシアでは 『武装集団』 反乱か? 『無法地帯』に なっていくのか…」-

ロシア国防省側と民間軍事会社「ワグネル」の対立は決定的になったと見られています(→民間軍事会社「ワグネル」代表のプリゴジン氏はロシア軍が「ワグネル」の部隊を攻撃したなどと主張してロシア国防省などをSNSなどで厳しく批判。ロシア最高検察庁は6/24朝(日本時間同日昼)に治安機関のFSB(連邦保安庁)が「ワグネル」のプリゴジン氏が武装蜂起を呼びかけた疑いがあるとして捜査に着手したと発表。また「ワグネル」の部隊はロシアが侵略しているウクライナからロシア南部ロストフ州に入ったと伝えられている。プリゴジン氏は6/24朝(日本時間同日昼)にロストフ州のロシア軍南部軍管区司令部入りし、飛行場を含む軍事施設を支配下に置いたなどと主張。「ワグネル」の一部の部隊は北上してモスクワに向けて進軍中? 「ワグネル」は反乱、クーデターを起こしている? ロシア国防省などは「ワグネル」の戦闘員に対して反乱に参加しないように呼びかけ)。ロシアのプーチン大統領は6/24(日本時間同日16:00頃)に「裏切りに直面」などと緊急演説しました。

ロシアでは反乱が起こっているのでしょうか? 少なくとも現時点においては、正確な事実関係やその詳細が不明であり、しかも事態はかなり流動的な状況です。その上で、あえてひとことコメントするのならば、今現在ロシアで発生している事態は国際社会全体にとっては好ましいことではないのです。「非常に強力な暴力」が野放しの状態で行使される危険性が高いのです。いずれにしても今現在のロシアでは「非常に強力な兵器で武装した武装集団」が好き勝手なことをする「無法地帯」になってしまう危険性が高いということだけは確かなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『男社会』の内側は…」(2023/6/23)

批判する 『男社会』の 内側は? 『男』同士は 平等なのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。日本社会を含めた自由で民主的な社会においては、社会のあるべき姿としていわゆる「男女共同参画社会」「ジェンダー平等」の実現が目指されています。そしていわゆる「男女共同参画社会」「ジェンダー平等」の対局にある社会は「男社会」などと呼ばれているようです。

あくまでも念のために確認しておきますが、いわゆる「男女共同参画社会」「ジェンダー平等」の実現を目指している人たちが批判している「男社会」の内側はいったいどうなっているのでしょうか? 例えば、「男社会」の内側では「男」同士は本当に平等なのでしょうか? もしも「男社会」の内側で「男」同士が平等ではないのならば、単純に女性の割合を増やしていくという発想でいわゆる「男女共同参画社会」「ジェンダー平等」の実現を目指す手法では限界があるかもしれないのです。最悪の場合には「ジェンダー平等」などとは別の新たな不平等を生み出して固定化することになってしまう危険性もあります。いずれにしてももしもこれから改めようとしている「男社会なるもの」の実態を正しく捉えていなかったのならば、いわゆる「男女共同参画社会」「ジェンダー平等」の実現は必要以上に難しいものになってしまいます。きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『日本人だけ』のときには…」(2023/6/22)

『日本人 だけ』のときには 『問題』が 存在しない とでも言うのか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。日本社会でも国際社会でもそれぞれの社会で外国人として生活することによって自分の生まれ育った社会ではなかなか経験しない様々な問題の存在を実感することはあるのだろうと思います。もちろんそれぞれの社会にはそれぞれの特性があり、そのうちのどれかが唯一絶対の「正解」ではないのですが…。

できることならば、たとえどこの誰がどこの社会に行って生活した場合であっても、自分が生まれ育った社会では経験しないような不安や理不尽さなどを感じることのないようにしたいものです。くどいようですが、それでもやはり、それぞれの社会にはそれぞれの特性があり、そのうちのどれかが唯一絶対の「正解」ではないのです。もっとも最低限の自由や人権などが保障されていない社会は少なくとも最低限の自由や人権などが保障されるように改められるべきではあります。何にしても少なくとも現時点においては、どこの社会であってもその社会で外国人として生活することによって様々な不安や理不尽さなどを感じることはあるのだろうと思います。しかし、その不安や理不尽さなどは「外国人」が「外国人」であるがゆえに感じるものなのかどうか、また本当に「外国人」にしか感じることができないものなのかどうかということは一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があるのではないかと思います。例えば、日本社会がほぼ「日本人だけ」だったときには、いじめや差別などの問題は存在しなかったとでも言うのでしょうか? もちろんそんなことはないはずなのです。そのことにあえて注目するのならば、例えば、「外国人」が日本社会で生活することによって感じる様々な不安や理不尽さなどの多くは、日本社会がほぼ「日本人だけ」だったときにも実は存在していたことなのかもしれないということに気づくのではないかと思います。どんなに少なくとも外国人が日本社会で生活することによって感じる様々な不安や理不尽さなどの解消を考える場合には、日本人の「少数派」が日本社会で生活することによって様々な不安や理不尽さなどを感じる可能性が存在しないことを前提にした方法を採用することは致命的な間違いなのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「すべて奪えば…」(2023/6/21)

『選択肢』 すべて奪えば 『聞く耳』を 持たないわけに いかなくなるが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも相変わらず深刻であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら世の中には「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」や「話し合いができない相手」というものは存在するものです。「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」や「話し合いができない相手」に「聞く耳」を持たせて意味のある話し合いをするためにはいったい何が必要になるのでしょうか? 

もちろん話し合いによって何らかの「メリット」が得られたり何らかの「リスク」を減少させたりすることができる場合には、「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」や「話し合いができない相手」でも「聞く耳」を持つようになる可能性が高くなるのだろうと思います。しかし、たとえ「メリット」がほとんどなかったとしても、あるいは、たとえ「リスク」があまりにも大きくなったとしても、あくまでも「聞く耳」を全く持たずに自分たちの思うままに行動し続ける事例も少なくないのです。そのときには「話し合い」を諦めることしかできないのでしょうか? たとえそのような場合であっても、相手から「話し合い」以外の「選択肢」をすべて奪い取った上で強制的に「聞く耳」を持たざるを得ない状態に追い込むという方法も考えられるのです。あくまでも一般論ですが、おかしな強い思い込みに基づいて隣国をしつこく侵略し続ける「独裁者」があくまでも「聞く耳」を持とうとしない場合には、いくら侵略をし続けても絶対に勝つことができないということをその「独裁者」に理解させるところから始めなければなかなか「話し合い」にはならないのだろうと思います。きょうのところはそのことを指摘するだけにとどめてあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「聞かぬなら…」(2023/6/20)

聞かぬなら 聞かせてみよう 工夫して 『メリット』がある! 『リスク』減少!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも相変わらず深刻であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら世の中には「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」や「話し合いができない相手」というものは存在するものです。「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」や「話し合いができない相手」に「聞く耳」を持たせて意味のある話し合いをするためにはいったい何が必要になるのでしょうか? 

当たり前と言えば当たり前の話ですが、「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」や「話し合いができない相手」に「聞く耳」を持たせるためには、話を聞かせるための何らかの工夫が必要になります。例えば、もしも話し合いをすることによって相手側に何らかの「メリット」が得られたり何らかの「リスク」を減少させたりすることができるのならば、「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」や「話し合いができない相手」でも「聞く耳」を持つようになる可能性が高くなるように思います。多くの人たちは自分で選ぶことができる場合にはより多くの利益が得られるものやより危険な目に遭わずに済むものの方を選ぶのではないかと思います。いずれにしても「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」や「話し合いができない相手」に「聞く耳」を持たせるためには、話を聞かせるための何らかの工夫が必要になるのです。とりあえずきょうのところはこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「安泰?」(2023/6/19)

できるだけ 『苦手な国』と かかわらず 繫栄できる 国は安泰?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも相変わらず深刻であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら世の中には「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」とか「話し合いができない相手」というものは存在するものです。ごく普通の社会の中で生活しているごく普通の人たちは、「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」とか「話し合いができない相手」に限らず、自分が苦手な人たちとはなるべくかかわらないようにする「生活の知恵」を持っているのかもしれないと思います。しかし、国際社会でも「苦手な国」となるべくかかわらないようにして繁栄し続ける「知恵」のようなものが本当に存在するのでしょうか? 

残念ながら今現在の国際社会においても結局のところは「力」の強い国が「力」を使って好き勝手なことを強引に押し通すことが少なくないのです。残念ながらそれが今現在の国際社会の現実です。そして当たり前と言えば当たり前の話ですが、国際社会ではいくら「力」を使って好き勝手なことを強引に押し通そうとする国を苦手にしている国があったとしても、その国が「苦手な国」の近くからどこか別の遠くの場所に引っ越すようなことができるわけではないのです。ですから急迫不正の侵害などのときには嫌でも「苦手な国」と向き合わざるを得なくなるのです。さらに言えば、いくら国際社会の中でほとんどすべての国が深刻な食糧不足や貧困の状態になっていたとしても、自分の国だけが繫栄していればその他の国の深刻な食糧不足などを見なかったことにすることができるわけではないのです。大勢の避難民や難民などが押し寄せるという形で自分たちも無関係ではいられないはずなのです。いずれにしても「平時」から「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」とか「話し合いができない相手」と話し合おうという努力を怠っていたのならば、「有事」には想像できないほどの大きな惨事になる危険性が高くなるわけです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「苦手な人と…」(2023/6/18)

できるだけ 苦手な人と かかわらず 生活できる 『生活の知恵』」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも相変わらず深刻であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら世の中には「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」とか「話し合いができない相手」というものは存在するものです。

そもそも「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」とか「話し合いができない相手」とも絶対に話し合わなくてはならないものなのでしょうか? もちろんごく普通の社会の中で生活しているごく普通の人たちにとっては、「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」とか「話し合いができない相手」に限らず、自分が苦手な人たちとはなるべくかかわらないようにすることが許されているのだろうと思います。そして実際に多くの人たちは自分たちの「半径3メートル程度」の範囲内に自分が苦手な人たちがなるべく入ってこないようにするための様々な「生活の知恵」を持っているのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、社会の中には「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」とか「話し合いができない相手」とも話し合おうとする人たちが必要不可欠なのです。もしも「他人の話に聞く耳を全く持たない相手」とか「話し合いができない相手」を社会の中で話し合いのないまま放置することになれば、ひとたび対立や衝突が発生すれば一気に事態が深刻化する危険性があるのです。逆の言い方をすれば、どんなに少なくとも話し合いを行うことができる余地があるのならば事態の深刻化を防ぐことができる可能性も残るわけです。あえて個別具体的な事例には触れませんが…。きょうのところはそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『温度差』が…」(2023/6/17)

『永田町』 普通の人の 『温度差』が 投票率を 低迷させる…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にはあまり強い興味関心を持っている人たちがいないであろう「解散」とか「選挙」などを意識した話題について取り上げてみることにしようと思います。そもそも「解散・総選挙の時期」などというものは本当にそんなに大きなニュースなのでしょうか? 

きのう6/16に衆議院本会議でごく一部の野党が提出した岸田文雄内閣不信任決議案が賛成少数で否決されたそうです。これによってここ数日の「解散・総選挙の時期」に関するニュースは完全に無価値な情報になってしまったのだろうと思います。しかし、今度は秋に「臨時国会に召集して解散」する可能性などが指摘されるようになっています。あえて言い換えるのならば、またまた永田町周辺やマスメディアは少し時間が経過すると完全に無価値になってしまう「情報」を別の形で「量産」し始めることになるのだろうと想像しています。そもそも永田町周辺やマスメディアではなぜ「解散・総選挙の時期」などというものがそんなに大きなニュースになっているのでしょうか? 永田町周辺やマスメディアとごく普通の人たちとの間の「温度差」はなぜこれほど大きくなってしまっているのでしょうか? 選挙の投票率が低迷している問題を解決するための「鍵」の1つはこの「温度差」ではないかと考えています。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「誰に『一本化』?」(2023/6/16)

選挙では いったい誰に 『一本化』? 小選挙区は 『バラバラ』はダメ?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にはあまり強い興味関心を持っている人たちがいないであろう「解散」とか「選挙」などを意識した話題について取り上げてみることにしようと思います。そもそも「解散・総選挙の時期」などというものは本当にそんなに大きなニュースなのでしょうか? 

「解散・総選挙」関連の話題が活発になってくると「野党側がバラバラでは小選挙区で与党に勝てない」「野党は小選挙区で候補者を一本化するべき」などという主張が聞こえてきます。確かに小選挙区での選挙の一般論としてはその通りなのだろうと思います。しかし、いったいどこの誰に「一本化」するつもりなのでしょうか? まさかもっともらしく「一本化するべき」などと唱えている人間たちを「小選挙区の野党統一候補」にするべきなどということになっているのでしょうか? もしそうであるのならば、自分たちの当選のためにもっともらしいことを叫んでいるにすぎないと見なされても仕方がなくなります。例えば、自分たちは全員、次回の選挙には立候補せずに政界を引退するから、その代わりに少し前まで普通の学生やサラリーマンや主婦だった女性を「野党統一候補」として当選させてもらいたいなどと主張しているのならばまだ説得力があるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことしておきます。

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「政治は変わる?」(2023/6/15)

『平均』や 『合計票』で 当選を 決めるのならば 政治は変わる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にはあまり強い興味関心を持っている人たちがいないであろう「解散」とか「選挙」などを意識した話題について取り上げてみることにしようと思います。そもそも「解散・総選挙の時期」などというものは本当にそんなに大きなニュースなのでしょうか? どんなに少なくとも「解散・総選挙の時期」に関するニュースは解散・総選挙がまだまだ先の話である場合には発信後数日が経過すれば完全に無価値な情報になってしまうのだろうと思います。

そう遠くないうちに無価値になってしまう情報を取り上げるぐらいならば将来もまだ考える意味が残っている仮定の話をすることにしようと思います。あくまでも仮定の話ですが、もしも「選挙」が「毎月」あるとするのならば、政治は変わるでしょうか? もしもいくつかの「選挙」における得票数の「平均」や「合計」で当選する候補者を決めるようにするのならば、政治は変わるでしょうか? そしてもしも政治が変わるとしたらいったいどのように変わるのでしょうか? もしもいくつかの「選挙」での「得票数」の「平均」や「合計」で決めるようにするのならば、どんなに少なくとも今現在よりももっと長期間の「民意」が反映されるようになります。言い換えれば、そのときどきの「選挙」の際に吹いている「風」や「逆風」の影響を小さくすることができるようになるわけです。もしも「選挙」における「風」や「逆風」の影響を小さくすることができたのならば、政治は変わるでしょうか? それともやはり政治は変わらないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「『支持』から『不支持』を…」(2023/6/14)

選挙でも 『支持』から『不支持』 差し引いて 当選決めて みたらどうなる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にはあまり強い興味関心を持っている人たちがいないであろう「解散」とか「選挙」などを意識した話題について取り上げてみることにしようと思います。そもそも「解散・総選挙の時期」などというものは本当にそんなに大きなニュースなのでしょうか? どんなに少なくとも「解散・総選挙の時期」に関するニュースは解散・総選挙がまだまだ先の話である場合には発信後数日が経過すれば完全に無価値な情報になってしまうのだろうと思います。

そう遠くないうちに無価値になってしまう情報を取り上げるぐらいならば将来もまだ考える意味が残っている仮定の話をすることにしようと思います。あくまでも仮定の話ですが、もしも「選挙」でそれぞれの有権者に対して「支持する候補者」と「支持することができない候補者」にそれぞれ1票ずつを投票することができ、そして「支持」から「不支持」を差し引いて当選する候補者を決める選挙制度にしてみたらいったいどうなるのでしょうか? 多くの有権者が不祥事などを引き起こしたあの候補者だけは絶対に当選させたくないと思っている候補者を落選させることができるようになるのでしょうか? あるいは対立政党の組織票のためにある政党の党首や幹部が次々と落選する事例が相次ぐようになるのでしょうか? 何にしても「支持」から「不支持」を差し引いて当選する候補者を決める選挙制度にしたら政治は変わるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「『模倣犯』」(2023/6/13)

『闇バイト』 『模倣犯』など 増やすかも まだこれからも 混乱続く…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも相変わらず深刻であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。確かに誰でも自分は大切なのだろうと思います。しかし、世の中に自分だけがよければ他はどうなっても構わないと考える人間たちの数が増えるのならば混乱ばかりが続くことになります。世の中には自分だけがよければ他はどうなっても構わないと考えている人間たちがあまりにも多すぎるように思います。

繰り返しになりますが、最近の日本社会ではいわゆる「闇バイト」なるものと結びついた凶悪犯罪が横行しているようです。いわゆる「闇バイト」なるものが横行するような状況が長く続くと、様々な「模倣犯」も増えてくる危険性も高まります。残念ながらやはり「闇バイト」によって「実行犯」を手配して凶悪犯罪を繰り返すようなタイプの「模倣犯」は少なくとも一時的には増える危険性が高いのだろうと思います。その一方で、「闇バイト」を利用した新しいタイプの様々な犯罪も出現する危険性は少なくないと思います。例えば、「闇バイト」に応募してきた人間たちの「親族」に「口止め」や「賠償」を名目にして金銭の支払いを強要するとか、「闇バイト」に応募してきた人間たちを「カルト宗教」が勧誘して入信させて「カルト宗教」のために働かせるとか…。いずれにしても世の中に自分だけがよければ他はどうなっても構わないと考える人間たちの数が増えれば混乱が続くことになるのです。まだしばらくは混乱が続く危険性が高いわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「止めるためには…」(2023/6/12)

『闇バイト』 『犯罪組織』 『テロ組織』 人の流れを 止めるためには…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも相変わらず深刻であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。確かに誰でも自分は大切なのだろうと思います。しかし、世の中に自分だけがよければ他はどうなっても構わないと考える人間たちの数が増えるのならば混乱ばかりが続くことになります。世の中には自分だけがよければ他はどうなっても構わないと考えている人間たちがあまりにも多すぎるように思います。

最近の日本社会ではいわゆる「闇バイト」なるものと結びついた凶悪犯罪が横行しているようです。いわゆる「闇バイト」なるものは、要するに、カネを得るためならば犯罪にも加担するということを意味しているわけです。言い換えれば、自分だけがよければ他はどうなっても構わないと考えている人間たちが「一時しのぎ」のために何よりも大切なはずの自分自身を「格安の値段」で売り払ってしまっているということになるのだろうと思います。率直に言わせてもらうのならば、あまりにも愚かな行動であるとしか言いようがないと思います。もしかすると人間というものは追い詰められると冷静さを失って愚かな行動だとはなんとなく気づいていても「一時しのぎ」のためにあえて愚かな行動を選んでしまうということもあるのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、自分のことしか考えていなかった人間たちが自分で自分自身を破滅させる道を選ぶとはなんとも愚かな行動です。その上で、あえて念のために指摘しておくのならば、日本社会で「闇バイト」に流れ込んでいる人間たちと国際社会で「テロ組織」や「犯罪組織」に流れ込んでいる人間たちとはある意味では非常によく似た人間たちではないかと思います。どのようにしたら「闇バイト」や「テロ組織」や「犯罪組織」への流れを止めることができるのか…。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「状況見えず…」(2023/6/11)

『いよいよ』か 『既に開始』か 『失敗』か 『進行中』か 状況見えず…」-

きょうはマスメディアを中心に日本や国際社会で最近注目を集めていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。地球上のどこかの地域で「いよいよ始まるか」「既に始まったか」などと言われている「反転攻勢」というものについて少しだけ考えてみることにしようと思います。

そもそも「反転攻勢」の定義とはいったい何なのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、「反転攻勢」の定義というものがしっかりと定まっていなければ、開始したのか開始していないのか、成功したのか失敗したのか、現在進行中なのかなどということを正しく判断することができるはずがないのです。さらに言えば、そもそも戦場の状況を正確にオンタイムで把握することはそんなに簡単にできることなのでしょうか? 戦場の状況を正確にオンタイムで把握することは戦争の当事者でさえも非常に難しいことのはずです。もしも時々刻々と変化する戦場の状況を正確にオンタイムで把握することができるのならば、そのような情報を入手することができる側はそうではない側に対して圧倒的な勝利を収めることができるようになるのだろうと思います。そもそも戦争の当事者ではないマスメディアなどが戦場の状況を正確にオンタイムで把握することは可能なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『自腹』で支援?」(2023/6/10)

『難民』や 困っていると いう人に 『自腹』で支援 し続けられる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも相変わらず深刻であり続けている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。確かに誰でも自分は大切なのだろうと思います。しかし、誰もが自分だけが大切だと考えて行動するようになるのならば世の中には混乱ばかりが生み出されることになります。世の中には自分だけがよければ他はどうなっても後はどうなっても構わないと考えている人間たちがあまりにも多すぎるように思います。

例えば、様々な事情のために生活に困っている人たちに対してもっと手厚く支援をするべきだという主張は「正論」だと思います。あるいは、「人道上の問題」から様々な事情のために母国を追われた「難民」をできるだけ多く受け入れるべきだという主張も「正論」だと思います。もちろんこのような「正論」を主張している人たちは「自分だけが大切」だと思っているような人たちではないのだろうと想像しています。しかし、話が具体的になればなるほど、実は「自分だけが大切」だと思っている人間たちがかなり含まれているということに気づかされることになるのではないかと思い始めています。「正論」を主張している人たちは、「難民」や困っている人たちのために、決して有り余るほどあるわけではない自分たちの収入や財産の中からそれなりの金額を費やし続けることができるのでしょうか? 「正論」を主張している人たちは「自腹」で支援し続ける覚悟はあるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「ごちゃ混ぜにする…」(2023/6/9)

猛烈に 『反対』すると 『あること』も ほぼ『ないこと』も ごちゃ混ぜにする…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて日本の政治で深刻な問題になっている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。自由で民主的な社会では、何かの政策や何かの法案に「反対」している人たちが何かの政策や何かの法案に「反対」することはもちろん認められているわけです。しかし、いくら「反対」しているからと言っても、「あること」も、「ないこと」も、すべてごちゃ混ぜにして「反対」の理由として叫びながら猛烈に「反対」するのは問題を想定外に深刻なものにすることになるのです。

繰り返しになりますが、野党側が過去に猛烈に「反対」していた政策や法案が実現したり成立したりした後に実際にどのようなことが起こったのでしょうか? 野党側が猛烈に「反対」する理由として主張してきたことは現実のことになったのでしょうか? いくら「反対」しているからと言っても、「あること」も、「ないこと」も、すべてごちゃ混ぜにして「反対」の理由として叫べば、説得力が乏しくなってしまうのです。もしかするとごく普通の多くの賢明な人たちの中には、野党側の荒唐無稽な「反対」の理由を聞いただけで「反対」から「賛成」に考えを改めたことがあるという人たちもいるかもしれないと思います。いくら「反対」しているからと言っても、「あること」も、「ないこと」も、すべてごちゃ混ぜにして「反対」の理由として叫べば、説得力が乏しくなってしまうのです。あくまでも念のために付け加えておきますが、野党側がいくら荒唐無稽な主張を繰り返しながら猛烈に「反対」したとしても、だからと言って政府・与党側の主張が正しくなるわけではないのです。しかし、政府・与党側の主張に賛成できない人たちの中のかなりの割合の人たちは、猛烈に「反対」している野党側の荒唐無稽な主張を聞いて政治に大いに失望しているのではないかと思います。くどいようですが、いくら「反対」しているからと言っても、「あること」も、「ないこと」も、すべてごちゃ混ぜにして「反対」の理由として叫びながら猛烈に「反対」するのは問題を想定外に深刻なものにすることになるのです。きょうのところはそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることことにしておきますが…。

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「ならなかったが…」(2023/6/8)

『反対』と 叫んだときに 言っていた ひどい未来に ならなかったが…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて日本の政治で深刻な問題になっている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。自由で民主的な社会では、何かの政策や何かの法案に「反対」している人たちが何かの政策や何かの法案に「反対」することはもちろん認められているわけです。しかし、いくら「反対」しているからと言っても、「あること」も、「ないこと」も、すべてごちゃ混ぜにして「反対」の理由として叫びながら猛烈に「反対」するのは問題を想定外に深刻なものにすることになるのです。

野党側が過去に猛烈に「反対」していた政策や法案が実現したり成立したりした後に実際にどのようなことが起こったのでしょうか? 野党側が猛烈に「反対」する理由として主張してきたことは実際に起こったのでしょうか? あえて個別具体的な事例には触れませんが、もしも野党側が猛烈に「反対」していたときに主張していた通りのことが正しかったとしたら、今現在の日本国は「平和で豊かな国だった頃の面影も残されていないほど完全な廃墟」になっていても少しも不思議ではないと思います。いくら「反対」しているからと言っても、「あること」も、「ないこと」も、すべてごちゃ混ぜにして「反対」の理由として叫べば説得力が高まるのでしょうか? むしろ逆に説得力が乏しくなってしまうのです。猛烈に「反対」してきた人間たちが叫んでいたようなことは少しも起こらないじゃないかなどと憤っている人たちも少なくないのではないかと思います。政策や法案が実現しても猛烈に「反対」してきた人間たちが叫んでいたひどい未来にはならなかったではないかと憤っている人たちは少なくないと思います。いくら「反対」しているからと言っても、「あること」も、「ないこと」も、すべてごちゃ混ぜにして「反対」の理由として叫びながら猛烈に「反対」するのは問題を想定外に深刻なものにすることになるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。

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「『ダム』破壊」(2023/6/7)

『ダム』破壊 されて洪水 発生し 住民たちは 被害を受ける…」-

ウクライナを侵略しているロシア軍に対するウクライナ側の「反転攻勢」が既に始まっているとか近く始まるなどと伝えられています。そんな中、ロシア軍が占領しているウクライナ南部ヘルソン州のドニプロ川にある水力発電所のダムが破壊されて下流の広大な地域で大規模な洪水の被害が発生しています(→ウクライナ側はロシア軍がダムを爆破したと発表。一方ロシア側はウクライナ軍の砲撃などで破壊されたなどと主張)。

少なくとも現時点においては、ダムを破壊したのがロシア側なのかどうかを判断することができるだけの十分な客観的証拠が得られていないことは確かです。私のような素人であっても、ダムというものは、大量の水を貯めることによって発生する大きな水圧に耐えることができるようにかなり頑丈な構造になっているということぐらいは容易に想像することができるわけです。そう考えれば、ロシア軍の支配地域にあるダムをウクライナ側が破壊することはかなり難しいと思われます。またダムを破壊することで発生する洪水による被害よりも、ダムを破壊することによって得られる何らかのメリットの方が大きくなる可能性が高いのは、やはりウクライナ側の「反転攻勢」をかなり恐れているロシア軍側であるということも確かなのだろうと思います。しかし、それでもやはり、少なくとも現時点においては事実関係を裏付ける十分な客観的証拠が得られていないことも確かなのです。そして現時点においても確かなことは、ダムが破壊されたことによって実際に多くのウクライナの住民が洪水の被害を受けているということなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『絶滅危惧』の状態に?」(2023/6/6)

これからは 『絶滅危惧』の 状態に? 『職場恋愛』 『職場結婚』」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会で深刻な問題になっている問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。もしかするとこれからは様々な理由から一昔前と比べて「職場恋愛」「職場結婚」などというものはかなり少なくなっていくのでしょうか? それともこれからも「職場恋愛」「職場結婚」などというものは巷の人たちの会話の中でも映画やドラマの中でも大きな存在感を示し続けるのでしょうか? 

あくまでも念のために確認しておきますが、「職場恋愛」「職場結婚」を完全否定するつもりはないのです。しかし、もしもいわゆる「ジェンダー平等」や「男女共同参画社会」の実現を本気で目指すのならば、今よりももっとずっと「公」「私」の区分が明確な職場環境にしていく必要があるのではないかと考えています。言い換えれば、「上司」も「部下」も「同僚」も、互いに相手のプライベートなことはほとんど知らないけれども、職場で仕事をしているときの相手のことはよく知っているから問題なく職務を遂行することができる職場環境ということになります。多少の誤解を恐れずにさらに言い換えるのならば、「公」「私」の区分が明確な職場環境とは、「職場恋愛」「職場結婚」に発展する「きっかけ」が今よりももっとずっと少ない職場環境のことを意味しているのです。いわゆる「ジェンダー平等」や「男女共同参画社会」を実現するためには、職場で仕事をするときに仕事とは無関係な部分が問題にされることがない職場環境にすることが必要不可欠ではないかと考えています。これからは「職場恋愛」「職場結婚」は「絶滅危惧」の状態になっていくのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『同じ穴の狢』」(2023/6/5)

『同じ穴 の狢』だとは 気付かない? 自分の考え 他人に押し付け…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会で深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。たとえどれだけ自分が正しいと信じていたとしても自分の考えを他人に押し付けることは深刻な問題を引き起こすこともあるということには注意が必要になります。

例えば、多くの人たちが「時代遅れ」だと感じる考え方を正しいと信じている人間たちはいるものです。「子育ては女性の仕事」「女性は家庭を守るべき」「妻は夫を支えることに徹するべき」などなど…。一昔前には決して珍しくはなかった「男は外で働き、女は家庭を守る」などという「男尊女卑」的な主張は今ではなかなか耳にすることも少なくなってきています。しかし、それでもやはり、ごく一部の男性だけではなく、ごく一部の女性にも「男は外で働き、女は家庭を守る」などという「男尊女卑」的な主張を正しいと信じている人間たちが今もいるのです。確かに今現在は「男は外で働き、女は家庭を守る」などという「男尊女卑」的な主張はほとんど支持されることはないと思います。少なくともそういう意味では「男は外で働き、女は家庭を守る」などという「男尊女卑」的な主張は「時代遅れ」の主張です。しかし、そうした「男は外で働き、女は家庭を守る」などという「男尊女卑」的な主張をしている人間たちの考え方を「男女共同参画社会」の時代にふさわしいものに改めさせることは本当に正しいことなのでしょうか? 自由で民主的な社会で生活しているすべての人たちには思想・信条などの精神的な自由があるはずなのです。もしも「男は外で働き、女は家庭を守る」などという「男尊女卑」的な主張に激しく反発してそうした主張をしている人間たちの考え方を「男女共同参画社会」の時代にふさわしい自分たちのような考え方に置き換えようとする人間たちがいるのならば、大昔の「男尊女卑」的な社会で「男尊女卑」的な生き方や考え方を女性たちに押し付けてきた人間たちと「同じ穴の狢」とみなされても仕方がなくなるのです。自由で民主的な社会ではすべての人たちに思想・信条などの精神的な自由が保障されていないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『進化』をやめた?」(2023/6/4)

『被害者』が 『加害者』になる 時代かな? 『文明』はもう 『進化』をやめた?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会で深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。たとえどれだけ自分が正しいと信じていたとしても自分の考えを他人に押し付けることは深刻な問題を引き起こすこともあるということには注意が必要になります。

できるだけ個別具体的な事例を挙げることは避けようと思いますが、今はかつての「被害者」が「加害者」になる時代なのでしょうか? かつての「被害者」も時間が経過すると「加害者」になってしまうのならば、人類や「文明」は何度でも「同じ過ち」を繰り返すことになってしまいます。あくまでも念のために言っておきますが、「女性」であれ、「少数民族」であれ、かつて虐げられてきた人たちが不当な差別を根絶しようと考えるのは間違ったことではないと思います。しかし、たとえどんなに目的は正しかったとしてもその目的を実現するための手段が致命的に間違っていれば致命的に間違った結果しか生み出さないのです。人類や「文明」はもう「進化」をやめたのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『除け者』?」(2023/6/3)

『子育て』は 『子育て世代』 だけのもの? 子どものいない 人は『除け者』?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもこれからますます深刻になっていく問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。いわゆる「少子化対策」などというものはいわゆる「子育て世代」だけの問題なのでしょうか? そしていわゆる「少子化対策」などの「主役」はいわゆる「子育て世代」ではなく「一人ひとりの子ども」であるべきではないのでしょうか?

くどいようですが、いわゆる「少子化対策」などというものはいわゆる「子育て世代」だけの問題なのでしょうか? 多少の誤解を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「少子化対策」などでは子どものいない人たちは「除け者」にされてしまうのでしょうか? 私としては、そもそもなぜ「児童手当」などを「一人ひとりの子ども」に対して直接支給してはいけないのかが理解できないのです(→参考:2023/6/2付)。例えば、すべての国民に「少子化対策のための定額給付金」を支給してはなぜいけないのでしょうか? もしも国民一人ひとりに「少子化対策のための定額給付金」のようなものを支給するのならば、子どものいない人たちを「除け者」にすることなしに「少子化対策」を推進することができるようになる可能性が高まると思います。もちろん今現在子育てをしている人たちと今現在子育てをされている子どもたちは「少子化対策のための定額給付金」を自分の子どもたちや自分自身のために使えばいいわけです。そして子どものいない人たちは、例えば、「子ども食堂」や「奨学金」などのために「少子化対策のための定額給付金」を使えばいいのではないかと思います。繰り返しになりますが、いわゆる「少子化対策」などでは子どものいない人たちは「除け者」にされてしまうのでしょうか? そしていわゆる「少子化対策」などの「主役」はいわゆる「子育て世代」ではなく「一人ひとりの子ども」であるべきではないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『主役』」(2023/6/2)

『子育て』は 『子育て世代』 だけのもの? 『一人ひとりの 子ども』が『主役』!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもこれからますます深刻になっていく問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。いわゆる「少子化対策」などというものはいわゆる「子育て世代」だけの問題なのでしょうか? そしていわゆる「少子化対策」などの「主役」はいわゆる「子育て世代」ではなく「一人ひとりの子ども」であるべきではないのでしょうか?

もちろん「児童手当」などの拡充は基本的には悪いことではないと思います。しかし、そもそもなぜ「児童手当」などを「一人ひとりの子ども」に対して直接支給してはいけないのでしょうか? 率直に言わせてもらうのならば、月額1万円程度の「児童手当」などならば「一人ひとりの子ども」に直接支給してもそれほど大きな問題は発生しないように思います。もしも月額1万円程度の「児童手当」などを「一人ひとりの子ども」に直接支給して何か問題が発生するとしたら、そのほとんどは「無駄遣い」の類の問題ではないかと想像しています。親たちが子どもたちに「児童手当」などの使い道を適切に指導・監督することは不可能ではないはずです。多少の誤解を恐れずにさらに率直に言わせてもらうのならば、「一人ひとりの子ども」に直接支給するのではなく、いわゆる「子育て世代」である親に月額1万円程度の「児童手当」などを支給するようにすれば、本当に「無駄遣い」の類の問題はほとんど発生しなくなるのでしょうか? 「月額1万円程度」ということは「1日300円程度」です。「生活費」などとして見れば「わずかな金額」かもしれないと思います。しかし、「ネグレクト」を含めた児童虐待などの被害を受けている子どもたちから見れば決して「わずかな金額」ではないかもしれないのです。繰り返しになりますが、そもそもなぜ「児童手当」などを「一人ひとりの子ども」に対して直接支給してはいけないのでしょうか? いわゆる「少子化対策」などの「主役」はいわゆる「子育て世代」ではなく「一人ひとりの子ども」であるべきではないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「買い集めた方が…」(2023/6/1)

民間の 衛星画像 買い集め 使った方が 『コスパ』が 高い?」-

北朝鮮が5/31朝に人工衛星打ち上げと称して事実上の弾道ミサイルを発射して「失敗」した波紋が広がっています(→防衛省などによると、5/31,AM6:28頃に北朝鮮西岸から弾道ミサイルの可能性があるもの1発が南方向に向けて発射されたが、同AM6:35頃に朝鮮半島西側の黄海の上空でレーダーから「消失」したという。また北朝鮮は北西部の西海(ソヘ)から初の軍事偵察衛星「万里鏡(マルリギョン)1号」を新型ロケット「千里馬(チョルリマ)1型」で打ち上げたが、1段目のエンジンを切り離し後に2段目のエンジンの異常のために推力を失って朝鮮半島西側の黄海に墜落したなどと発表。そして北朝鮮は可及的速やかに2回目の打ち上げを行うなどと。なお韓国軍が黄海で北朝鮮の「ロケット」の残骸と見られるものを発見・回収)。

そもそも北朝鮮が使用する予定だった「軍事偵察衛星」は民間の衛星画像などよりも正確かつ詳細な情報を得ることができるほど高性能の衛星だったのでしょうか? 率直に言わせてもらうのならば、自分たちで「軍事偵察衛星」を打ち上げて情報収集をするよりも、民間の商業衛星が撮影した衛星画像を買い集めて分析に使用した方が「コストパフォーマンス」が高くなるのではないかと思います。私のような「素人」であっても、北朝鮮がどんなに少なくともかなりの数の「軍事偵察衛星」を同時に運用することができるような状態にならなければ民間の衛星画像を上回る満足な情報を得ることを期待することはできない可能性が高いということに気づくことができるのです。もちろん北朝鮮に衛星画像を提供する民間企業はなかなか存在しないとは思いますが、「ダミー会社」などを使えば民間の衛星画像を入手することは不可能ではないと思います。それにもかかわらず、なぜ北朝鮮は「軍事偵察衛星」を打ち上げるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「なぜすぐに?」(2023/5/31)

なぜすぐに 『失敗』したと 発表を? 急いですぐに 2回目発射?」-

北朝鮮が5/31朝に人工衛星打ち上げと称して事実上の弾道ミサイルを発射して「失敗」した波紋が広がっています(→防衛省などによると、5/31,AM6:28頃に北朝鮮西岸から弾道ミサイルの可能性があるもの1発が南方向に向けて発射されたが、同AM6:35頃に朝鮮半島西側の黄海の上空でレーダーから「消失」したという。また北朝鮮は北西部の西海(ソヘ)から初の軍事偵察衛星「万里鏡(マルリギョン)1号」を新型ロケット「千里馬(チョルリマ)1型」で打ち上げたが、1段目のエンジンを切り離し後に2段目のエンジンの異常のために推力を失って朝鮮半島西側の黄海に墜落したなどと発表。そして北朝鮮は可及的速やかに2回目の打ち上げを行うなどと。なお韓国軍が黄海で北朝鮮の「ロケット」の残骸と見られるものを発見・回収)。

北朝鮮が「人工衛星の打ち上げ」に「失敗」したことをすぐに認めたことに少し驚いているという人たちも少なくないと思います。北朝鮮はなぜすぐに「人工衛星の打ち上げ」に「失敗」したと発表したのでしょうか? 北朝鮮は急いですぐに2回目の事実上の弾道ミサイルを発射することになるのでしょうか? もちろん2回目も「失敗」しても構わないのならば急いですぐに2回目の事実上の弾道ミサイルを発射することはできるのだろうと思います。しかし、常識的に考えるのならば「失敗」の分析にはそれなりに多くの時間が必要になってくるのではないかと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、もしもすぐに2回目の事実上の弾道ミサイルを発射することになるのならば、そもそも最初から本当に「失敗」していたのかどうかということすらも疑問になってくるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「増やし続ける?」(2023/5/30)

若い人 減らさないよう 人口を 爆発的に 増やし続ける?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもこれからますます深刻になっていく問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。人口が爆発的に増加している一部の地域を除いた地球上の多くの場所で子どもが少なくなっていくのはなぜなのでしょうか?

当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、人間というものは「生物」の一種であるわけですから、年月や月日が流れればそれに応じて年齢を重ねていく存在なのです。これも当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、今現在の小学生は、10年後には高校生や大学生や新人の社会人などになっているのだろうと思います。これもまた当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、今現在の20歳代や30歳代の人たちは、病気や事故などがなければ10年後には無事に30歳代や40歳代になっているのだろうと思います。もしも毎年生まれてくる子どもの数が全く減らなかったとしても、「平和で豊かな国」では「年配の世代」の数がどんどん増えていくことになるわけですから、子どもを含めた若い人たち「割合」はどんどん小さくなっていくということには注意が必要になります。繰り返しになりますが、人口が爆発的に増加している一部の地域を除いた地球上の多くの場所で子どもが少なくなっていくのはなぜなのでしょうか? これからも若い人たちの「割合」を減少させないように人口を爆発的に増やし続けるのでしょうか? きょうのところは「年配の世代」の数がどんどん増えていく「平和で豊かな国」では子どもを含めた若い人たちの「割合」が減少するのは当たり前だということをあえて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「持ちつ持たれつ」(2023/5/29)

『協力』を やめれば他も 『解消』に! 『連立与党』 持ちつ持たれつ」-

きょうはごく普通の多くの人たちにとってはあまり興味関心がないであろう「東京での信頼関係は地に落ちた」などという言葉が飛び交っているどこかの国の政治の「騒動」の持つ意味について少しだけ考えてみることにしようと思います。たとえ東京では「信頼関係は地に落ちた」としても、日本全体や東京以外の場所では「協力」は続くのでしょうか?

繰り返しになりますが、「連立与党」であるということは「持ちつ持たれつ」の関係にあるわけです。あえて言い換えるのならば、東京を含めた「ある地域」における協力関係があるからこそ「別の地域」での協力関係が成り立っているのだろうと思います。もっとも特殊な地域事情が存在する大阪などの関西では、今現在も「連立与党」は持ちつ持たれつの関係とは言えないのだろうと思います。しかし、もしもこれまで「連立与党」の持ちつ持たれつの関係が続いてきた東京で「信頼関係は地に落ちた」として協力関係が解消されることになるのならば、その動きは全国的に波及せざるを得なくなるのだろうと思います。その場合には「最大与党」の「協力」を受けて候補者を当選させてきた「小選挙区」を失うデメリットは極めて大きいはずなのです。もっとも「ある政治勢力」が連立与党を離脱して「野党連合」に加わるとしても「小選挙区」での当選は「連立与党」であったときよりも難しくなる可能性が高いのです。たとえ東京では「信頼関係は地に落ちた」としても、日本全体や東京以外の場所では「協力」は続くのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「協力続く?」(2023/5/28)

東京で 信頼関係 地に落ちて 他の地域で 協力続く?」-

きょうはごく普通の多くの人たちにとってはあまり興味関心がないであろう「東京での信頼関係は地に落ちた」などという言葉が飛び交っているどこかの国の政治の「騒動」の持つ意味について少しだけ考えてみることにしようと思います。たとえ東京では「信頼関係は地に落ちた」としても、日本全体や東京以外の場所では「協力」は続くのでしょうか? 

多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、もしも「ある政治勢力」が小選挙区において自力で候補者を当選させることができるのならば、「信頼関係は地に落ちた」ときにはすぐに袂を分かつことになるのだろうと思います。しかし、「ある政治勢力」は小選挙区において自力で候補者を当選させることができるのでしょうか? もしも自力で候補者を当選させることができる可能性が極めて低いのならばたとえ「信頼関係は地に落ちた」としても袂を分かつことはなかなかできないのだろうと思います。「連立与党」であるということは「持ちつ持たれつ」の関係にあるわけです。あえて言い換えるのならば、「最大与党」は「連立与党」のためにいくつかの「小選挙区」で候補者を擁立せずに譲っているからこそ「ある政治勢力」が「小選挙区」で候補者を当選させることができているというのが「偽らざる現実」なのです。さらに言い換えるのならば、ある地域での信頼関係が地に落ちて協力関係が解消された場合には「連立与党」のために「最大与党」が候補者擁立を見送っていた「小選挙区」に「最大与党」も候補者を擁立する可能性が高くなるのだろうと思います。持ちつ持たれつの関係では当然そういう話になっていくわけです。繰り返しになりますが、たとえ東京では「信頼関係は地に落ちた」としても、日本全体や東京以外の場所では「協力」は続けるのでしょうか? きょうのところはこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『最高の笑顔』」(2023/5/27)

『最高の笑顔』 があれば 許される?『仕事』や『商品』 関係ないか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会では古くて新しい深刻な問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、「パワーハラスメント」「セクシュアルハラスメント」などは「公」「私」の区分が不明確な職場環境ではかなり深刻なものになってしまうのだろうと思います(→参考:2023/5/25付、2023/5/14付etc.)。「パワーハラスメント」「セクシュアルハラスメント」などを防ぐためには様々な場面や様々な場所で今よりももっと「公」「私」の区分を明確にする必要があるのだろうと思います。

例えば、「笑顔」や「誉め言葉」などというものは仕事とは直接的な関係はないものなのかもしれないと思います。もちろん「笑顔」や「誉め言葉」などがなくても物品やサービスを売り買いすることはできるわけです。しかし、「笑顔」や「誉め言葉」などというものは職場のような「公」的な場所においてもやはり必要なものなのだろうと思います。確かに人間と人間が互いに活動している場面では「笑顔」や「誉め言葉」などというものが「潤滑油」のような役割を果たすことはあるのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「笑顔」や「誉め言葉」などの「潤滑油」のようなものを求められる環境にも全く問題がないわけではないのです。もしかすると「笑顔」や「誉め言葉」などが「潤滑油」にはならない場面があり、その場面では「笑顔」や「誉め言葉」などが様々な「ハラスメント」のきっかけになることもあるかもしれないのです。あくまでも念のために確認しておきますが、店員や業者の担当者が「最高の笑顔」を見せてくれたり「最高の誉め言葉」などを言ってくれたりしさえすれば「商品」や「サービス」はどうでもいいのでしょうか? そんなことはないはずです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「説得力を感じる?」(2023/5/26)

『反省』に 説得力を 感じるか? 『反省』しても またすぐ『反省』?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会では古くて新しい深刻な問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。多くの人たちは「多数派」と「強者」の前では沈黙してしまうことが多いようです。そして残念なことにマスメディアも「多数派」と「強者」の前ではなぜか「多数派」と「強者」の批判を控える傾向があるようなのです。

あえて個別具体的な事例を挙げることは避けますが、最近は多くのマスメディアが「強者」や「人気者」による「性加害」「性被害」の問題(→2023/5/15付etc.)について「強者」や「人気者」の前で長期間に渡って「沈黙」を守り続けたことを「反省」しているそうです。確かにあれだけ長期間に渡って「沈黙」を守り続けたことを「反省」する必要はあるのだろうと思います。しかし、「反省」する時期があまりにも遅すぎたために「反省」の説得力がかなり乏しくなってしまったこともまた事実なのです。多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、少し前までは「強者」や「人気者」の前で「強者」や「人気者」にとって不都合なことについて「沈黙」を守り続けていたわけですが、その「強者」や「人気者」に不都合なことを批判する人たちが「多数派」になっている今現在はその「多数派」の前でかつて「沈黙」を守り続けたことを「反省」しているということになるわけです。ごく普通の多くの人たちは「反省」に説得力を感じているのでしょうか? もしかするとそう遠くない将来にまた「反省」しなければならなくなるのではないかという予感もするのですが…。とりあえずきょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「関係続く」(2023/5/25)

前日に 何があっても 翌日も 『上司』と『部下』の 関係続く」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会では古くて新しい深刻な問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、「パワーハラスメント」「セクシュアルハラスメント」などは「公」「私」の区分が不明確な職場環境ではかなり深刻なものになってしまうのだろうと思います(→参考:2023/5/14付etc.)。

最初に念のために確認しておきますが、職場の「上司」と「部下」の関係というものは、もちろん「友人同士」の関係ではなく、また「先輩と後輩」の関係でもなく、ましてや「女性と男性」などの関係でもなく、あくまでも職場の「上司」と「部下」の関係以外の何物でもないはずなのです。あえて言い換えるのならば、職場の「上司」と「部下」の関係というものは、あくまでも「公」的な関係であり、間違っても「私」的な関係ではないのです。さらに言い換えるのならば、「公」的な時間である勤務時間以外の「私」的な時間には、そして「公」的な場所である職場など以外の「私」的な場所では、たとえ職場の「上司」と「部下」であっても「上司」と「部下」の関係ではなくなるはずなのです。しかし、それでもやはり、翌日以降も「公」的な場所である職場などで「公」的な時間である勤務時間になれば前日までに何かがあったとしても「上司」と「部下」の関係に戻らなくてはならなくなるわけです。たとえ前日に何があったとしても翌日も「上司」と「部下」の関係は続くのです。もちろん「公」「私」の区分を明確にした上で「公」と「私」の関係をそれぞれ演じ分けるのはかなり難しいことなのだろうと思います。あえて個別具体的な事例を用いながら詳細に説明することは避けますが、「公」の場になぜか「私」の関係を持ち込んだり、「私」の場になぜか「公」の関係を持ち込んだりすることによって「パワーハラスメント」「セクシュアルハラスメント」などが増加して深刻なものになる危険性が高くなるということだけは強調しておく必要があります。きょうのところはこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『AI』ならば…」(2023/5/24)

『映像』や 『画像』が事実 かどうかは 『AI』ならば 瞬時に分かる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる現象や出来事を通じて今現在とこれからの日本社会と国際社会のことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。衝撃的な「スクープ映像」や「スクープ写真」というものは衝撃的であればあるほど「事実」だと受け止めてしまう人たちが少なくないのかもしれないと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「映像」や「画像」だけでは「証拠」にはならないということを改めてしっかりと確認しておく必要がありそうです。

米国防総省の近くで爆発が発生したとする「AI」などによって作成されたと見られる偽の画像が5/22にインターネットなどで拡散して株価が一時下落するなどの騒動が発生しています。「フェイク画像」にごく一部のメディアやいわゆるマーケットを含めた多くの人たちが振り回されることになったわけです。ちなみに私としては少し前の「クレムリンのドローン攻撃」についてもそもそも事実かどうかも確認することができていないのではないかと考えています(→参考:2023/5/5付etc.)。「毒を以て(もって)毒を制す」などという言葉がありますが、「フェイク映像」や「フェイク画像」をつくり出すための「AI」には「フェイク映像」や「フェイク画像」を見抜くための「AI」で対抗するということが一つの有効な方法になるのではないかと考えています。そしてあくまでも念のために付け加えるのならば、「フェイク映像」や「フェイク画像」を見抜くためには、マスメディアにおける古典的な原則のいわゆる「5W1H」(→When(いつ)、Where(どこで)、Who(誰が)、What(何を)、Why(なぜ)、How(どのように))を活用することが重要になってくるのです。もしも「爆発」や「攻撃」があったとするのならば…。人間でも「AI」でも「5W1H」に注目すれば「爆発」や「攻撃」と矛盾するいくつかの事実を発見することはそれほど難しいことではなくなるかもしれないのです。そしてもしかすると「AI」に様々な取材のノウハウと膨大なデータを学習させれば「フェイク映像」や「フェイク画像」を瞬時に見抜くことができるようになるかもしれないと思います。もっとも「AI」は互いにその能力を高め合っていくことになるので「フェイク映像」や「フェイク画像」をつくる側と見抜く側の戦いは終わりの見えない戦いになってしまうのかもしれませんが…。いずれにしても「映像」や「画像」だけでは「証拠」にはならないということを改めて指摘した上で強調することにしておきます。

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「『映像』や『画像』だけでは…」(2023/5/23)

『映像』や 『画像』だけでは 『証拠』には ならないことを 忘れないこと!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる現象や出来事を通じて今現在とこれからの日本社会と国際社会のことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。衝撃的な「スクープ映像」や「スクープ写真」というものは衝撃的であればあるほど「事実」だと受け止めてしまう人たちが少なくないのかもしれないと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「映像」や「画像」だけでは「証拠」にはならないということを改めてしっかりと確認しておく必要がありそうです。

確かに一昔前には日本でも国際社会でも「大衆紙」や「写真週刊誌」に掲載された衝撃的な「スクープ写真」に説得力を感じる人たちが多かったのだろうと思います。例えば、「誰もが知っている超人気俳優」と別の「誰もが知っている超人気俳優」がどこかで「密会」していたとか…。あるいは、最近はテレビ番組で「ドライブレコーダー」や「防犯カメラ」や「スマホ」の「衝撃的な映像」が使用されることが非常に多くなっています。ニュース番組でも、情報番組でも、バラエティー番組でも、「衝撃的な映像」があふれています。しかし、これらの「衝撃的な画像」や「衝撃的な映像」は本当に「事実」なのでしょうか? もし「事実」だとしたならばなぜ「事実」なのでしょうか? あくまでも念のために付け加えておきますが、現時点においてもごく普通の人たちが日常的に使っている映像編集ソフトや画像加工ソフトでも「フェイク映像」や「フェイク画像」をつくることはそれほど難しくないとも言われています。もしも最新技術を駆使して「フェイク映像」や「フェイク画像」が「量産」されたとしたら…。繰り返しになりますが、「映像」や「画像」だけでは「証拠」にはならないということを忘れるべきではないのです。きょうのところは改めてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「将来につながる?」(2023/5/22)

将来に つながるサミット になったか? これはあのとき 始まったとか…」-

きのう5/21にG7広島サミットが閉幕しました(→参加国は議長国の日本、米国、英国、ドイツ、フランス、イタリア、カナダ、そしてEU(欧州連合)。招待国は、オーストラリア、ブラジル、コモロ(アフリカ連合(AU)議長国)、クック諸島(太平洋諸島フォーラム(PIF)議長国)、インド(G20議長国)、インドネシア(ASEAN(東南アジア諸国連合)議長国)、韓国、ベトナム。招待機関は、国連、IEA(国際エネルギー機関)、国際通貨基金(IMF)、経済協力開発機構(OECD)、世界銀行、WHO(世界保健機関)、世界貿易機関(WTO))。なおG7首脳らは5/19に原爆資料館などを訪問、原爆死没者慰霊碑へ献花)。率直に言わせてもらうのならば、やはり急きょ出席が決まったウクライナのゼレンスキー大統領がサミットの現場でもマスメディアでも「主役」級の扱いを受けていたように思います(→ゼレンスキー大統領は5/21にG7首脳と共に「ウクライナ情勢」をテーマにしたセッションに出席、同日夕に岸田文雄首相と首脳会談。またゼレンスキー大統領は5/21夕に原爆資料館を訪問、岸田首相と共に平和記念公園で原爆死没者慰霊碑へ献花、5/21夜に広島市内で会見)。

もちろん議長国日本の岸田文雄首相の存在感もしっかりと示されていたようです。その上で、多少の誤解を恐れずにあえて単純化して言えば、今回のサミットは、ロシアによるウクライナ侵略が続く中、「被爆地の広島『で』」、「核兵器を保有する国を含めた各国の首脳『が』会談」したということだけでも国際社会にとってはそれなりに大きな成果になるということをあえて指摘しておく必要があります。言い換えれば、「将来につながるサミット」になる可能性が高いのではないかと私は思っています。現時点ではあまり具体的なことは言えませんが、そう遠くない将来に何かの成果が得られ始めたときに実はこの動きはあのときの広島でのサミットのときから始まっていたなどと振り返ることになることも少なくないのではないかと想像しています。確かに今現在の国際社会は深刻な問題や課題が山積しています。あえて逆の見方をすれば、将来大きな成果が得られる可能性のあるものがたくさん存在しているとも言えるわけです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。

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「『実感』」(2023/5/21)

『平和』とか 『豊かさ』とかの 『実感』を 持ってる国と 持ってない国」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる現象や出来事を通じて今現在とこれからの日本社会と国際社会のことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。今現在当たり前のように「平和」や「豊かさ」を実感している人たちほど「平和」や「豊かさ」が失われることに対する危機感が強いのでしょうか? 今現在「平和」や「豊かさ」とはほど遠い環境で生活している人たちほど「平和」や「豊かさ」を切実に望んでいるのでしょうか? 問題になるのは「平和」や「豊かさ」の価値を本当に理解しているのはいったい誰なのかということなのです。

例えば、ロシアによるウクライナ侵略に厳しい姿勢を示しているのは、米国、英国、フランス、ドイツ、日本などのような自由や民主主義などの価値観を共有している平和で豊かな国が多いことは確かです。その一方で、最近流行のいわゆる「グローバルサウス」などというまとめ方が適切なのかどうかはよく分かりませんが、新興国、経済的に恵まれていない国、内戦が続く国、周辺国などとの戦争が繰り返されている国などでは、ロシアによるウクライナ侵略に対してそれほど厳しい姿勢を示していない国が多いこともまた事実です。多少の誤解を恐れずにあえて単純化して率直に言わせてもらうのならば、やはり多くの人たちは自分自身の「平和」や「豊かさ」には強い興味関心を持っているということなのかもしれないと思います。だからこそ「平和」や「豊かさ」を実感している人たちほど「平和」や「豊かさ」が失われるということに対する危機感が強く、「平和」や「豊かさ」を実感していない人たちは他人の失われる「平和」や「豊かさ」よりもまずは自分自身の「平和」や「豊かさ」の方に興味関心があるとか…。平和で豊かな国であっても、そうではない国であっても、自分たちだけが「平和」や「豊かさ」を享受することができればそれでいいという自己中心的な考え方ではやがて自分自身にも跳ね返ってくることもあるということには注意が必要になります。問題になるのは平和や豊かさの価値を本当に理解しているのはいったい誰なのかということなのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『対面』」(2023/5/20)

『対面』で 参加する意味 大きいか? 『オンライン』では 済ませられない?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる現象や出来事を通じて今現在とこれからの日本社会と国際社会のことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに多くの分野で「オンライン」や「リモート」や「配信」などの非接触型の手法が導入されるようになっています。このまま「オンライン」や「リモート」や「配信」のままでも問題はないのでしょうか? やはり「対面」でないとダメなのでしょうか? もちろん「ケース・バイ・ケース」なのだろうとは思いますが…。

例えば、「音楽関係のライブイベント」では、「アーティスト」が「オンライン」や「リモート」で参加したり、聴衆が「配信」で参加したりすればそれだけでイベントの魅力が激減すると感じる人たちは少なくないのではないかと思います。もっとも「DTM」や「ボーカロイド」を駆使した音楽の中には「音源」よりも大きく見劣りする「ライブ」になってしまうものも少なくないのかもしれませんが…。さて、ウクライナのゼレンスキー大統領は広島で開かれているG7サミット(主要7カ国首脳会議)に「対面」で出席する予定であるということが5/19昼(日本時間)に明らかになっています。そしてゼレンスキー大統領は5/19にサウジアラビア西部ジッダで開かれたアラブ連盟の首脳会議にも出席したそうです。やはり「対面」で出席すれば同席者が感じる存在感が大きくなりますし、それに伴ってマスメディアでの扱いも大きくなるようです。少なくとも国際政治の分野では今現在もなお「オンライン」ではなく「対面」で出席することの意味が小さくないことは確かです。やはり「対面」で出席しなければならなくて「オンライン」で済ますことができないものは少なくないのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『人間の安全保障』連合』」(2023/5/19)

『人間の 安全保障』 連合を 日本としては つくりあげたい?」-

きょうはごく普通の多くの人たちとそれぞれの「半径3メートル程度」の周辺から「安全保障」というものを少しだけ考えてみることにしようと思います。「国家」ではなく一人ひとりの個人に着目して「安全保障」を考える「人間の安全保障」という考え方があります(→参考:https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/bunya/security/index.html)。

念のために確認しておきますが、「人間の安全保障」と伝統的な国家中心の安全保障とは必ずしも矛盾するものではないのです。しかし、例えば、国民から人権を奪い取ってさらに飢餓状態にまで追い込んで核兵器やミサイルの開発を続けるようなことは「人間の安全保障」の考え方とは完全に相容れないことになるわけです。今回は「人間の安全保障」の詳細については触れませんが、伝統的な国家中心の安全保障ではなく、一人ひとりの個人の人権や生活などにも注目して「安全保障」というものを捉え直してみると新しい国際社会を構築する手掛かりが見えてくるのかもしれないと思います。どういうわけか「国連安保理常任理事国」の1つから侵略されて占領されている領土の奪還を目指しているウクライナのような国にとっては「戦闘機連合」などが現時点においては最も必要なものなのかもしれないとは思います。しかし、そう遠くない将来には「『人間の安全保障』連合」のようなものが国際社会で果たす役割が大きくなってくるのではないかと思います。ちなみに日本国はこの「人間の安全保障」という考え方とは深いかかわりがあるのです。日本国としてはそう遠くない将来には「『人間の安全保障』連合」のようなものを作り上げたいと考えているのでしょうか? きょう5/19から広島でG7サミット(主要7カ国首脳会議)が始まります。私としては、岸田文雄首相が新しい国際社会を構築するためにどのような成果を生み出すことができるのかということにも注目しています。

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「『質』よりも『量』」(2023/5/18)

『質』よりも 『量』が大事と いうことか? 『量』が増えれば おカネが動く?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会の比較的新しい問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。YouTube(ユーチューブ)などの動画サイト、Twitter(ツイッター)やInstagram(インスタグラム)やTikTok(ティクトック)などのSNS、そして様々な音楽配信サービスでなど注目されている「再生回数」にはいったいどのような意味があるのでしょうか?

繰り返しになりますが(→参考:2023/5/17付、2023/5/16付)、たとえインターネット上や音楽配信サービスの「再生回数」が同じであったとしても、それぞれの「再生回数」の持つ意味はそれぞれ違っているはずなのです。そしてあくまでも一般論ですが、どうやら「再生回数」というものは「質」よりも「量」が重視される傾向があるようなのです。もしかすると「再生回数」などの「量」が増えれば多くのおカネが動くようになるということなのでしょうか? もちろん多くの人たちがたくさん見聞きしたという「再生回数」の「量」にはそれなりの価値があるのだろうと思います。しかし、実際にどのような人たちがどのような場面でどのように見聞きをしてどのように感じているのかなどという「再生回数」の「質」も大切ではないかと思います。くどいようですが、インターネット上や音楽配信サービスの「再生回数」にはいったいどのような意味があるのでしょうか? そして「再生回数」というものは「質」よりも「量」が重視されるべきものなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「誰に届いているか?」(2023/5/17)

ネットでの 『再生回数』 数億回? いったい誰に 届いているか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会の比較的新しい問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。YouTube(ユーチューブ)などの動画サイト、Twitter(ツイッター)やInstagram(インスタグラム)やTikTok(ティクトック)などのSNS、そして様々な音楽配信サービスでなど注目されている「再生回数」にはいったいどのような意味があるのでしょうか?

当たり前と言えば当たり前の話ですが、同じ「再生回数が数億回の動画」であったとしても、それぞれの「再生回数」の持つ意味はそれぞれ違っています。例えば、「推し」のアイドルなどの非常に熱心なファン1万人が「MV」などを1日に100回再生すれば100日で「再生回数」は1億回になります。あるいは、「ある動画」の存在を知って興味を持った1000万人が気に入って1日に1回再生するようになれば10日で「再生回数」は1億回になります。さらに言えば、インターネットに接続された大量のPCなどに「ある動画」を1日数百回再生するように「命令」すれば、「再生回数」は驚くほど短期間のうちに1億回超になるのだろうと思います。繰り返しになりますが、動画サイトやSNSや音楽配信サービスなどで注目されている「再生回数」にはいったいどのような意味があるのでしょうか? 「再生回数」が数億回であったとしても、数百回であったとしても、いったいどのような形で誰に届いているのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『鬼リピ』」(2023/5/16)

『鬼リピ』で 『再生回数』 増やしても いったい誰に 届いているか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会の比較的新しい問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。YouTube(ユーチューブ)などの動画サイト、Twitter(ツイッター)やInstagram(インスタグラム)やTikTok(ティクトック)などのSNS、そして様々な音楽配信サービスでなど注目されている「再生回数」にはいったいどのような意味があるのでしょうか?

YouTube(ユーチューブ)などの動画サイト、Twitter(ツイッター)やInstagram(インスタグラム)やTikTok(ティクトック)などのSNSをあまり使わないという人たちでも「バズる(→インターネット上の動画などが注目を集めること)」とか「鬼リピ(→何度も何度も繰り返すこと)」などという言葉を耳にする機会が増えているのではないかと思います。あくまでも一般論ですが、もしも自分の「推し」のアイドルなどの「MV(→ミュージックビデオ)」や「楽曲」を1日に何度も何度も繰り返し再生するような熱心なファンたちが「鬼リピ」で「再生回数」を増やし続ければ、その「MV」や「楽曲」はたぶん「バズる」ことになるのだろうと思います。もちろん「動画」や「楽曲」などがインターネット上で注目されなければその「動画」や「楽曲」などを再生してみることはおそらくなかったという人たちも少なくないと思います。しかし、もしも「再生回数」のうちの相当の部分が「鬼リピ」であったとしたら、その「動画」や「楽曲」などはいったい誰に届いているのでしょうか? もちろん熱心なファンの人たちが大好きな「動画」や「楽曲」などの「鬼リピ」を繰り返すようなことは悪いことではないと思います。自分たちの時間は自分たちの好きなように自由に使えばいいと思います。しかし、それでもやはり、「鬼リピ」によって「再生回数」が増えた結果、その「動画」や「楽曲」はいったい誰に届いているのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『これまでのこと』『これからのこと』」(2023/5/15)

『不祥事』は ひとまず分けて 考える! 『これまでのこと』 『これからのこと』」-

大手芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」の創業者のジャニー喜多川氏(2019年死去)から性被害を受けたなどと元所属タレントの男性などが訴えている問題で5/14に藤島ジュリー景子社長が同社の見解と対応を「動画」と「文書」で公式サイトに公開しました(→参考:https://www.johnny-associates.co.jp/news/info-700/)。

ずいぶん前から一部週刊誌(→週刊文春)や一部海外メディア(→BBC)が熱心に取材して取り上げていた問題についてジャニーズ事務所がようやく見解を示したわけです。私としては、「これまでのこと」と「これからのこと」をひとまず分けて考える必要があると思っています。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「既に亡くなった人」が関係しているかもしれない「過去の出来事」については、その「真相」を客観的な証拠に基づいて明らかにすることはかなり難しいと思われます。もちろん様々な「状況証拠」や様々な関係者の「証言」などを積み重ねていけばそれなりに「信憑性のあるストーリー」を作り上げることはできるのかもしれませんが、それでもやはり「真相」を客観的な証拠に基づいて明らかにすることはかなり難しいのだろうと思います。そして何よりも「これまでに」発生した「過去の出来事」をなかったことにすることはできないわけです。その一方で、「これからのこと」には「これまでのこと」と比べればできることに制約は少ないのです。そしてもしも「性加害」「性被害」は絶対に許さないと本気で思っているのならば、少なくとも「これから」は「性加害」「性被害」が発生することのない職場環境を作り上げることは不可能ではないのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『上司』ならば…」(2023/5/14)

嫌なこと 相手が『上司』 なら我慢? 『公』『私』の区分 不明確だと…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会では古くて新しい深刻な問題の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、「公」「私」の区分が不明確な環境では「性加害」「性被害」などはかなり深刻なものになってしまうのだろうと思います。

例えば、もしも職場という「公」の場所における「上司と部下の関係」がどういうわけか「私」的な環境に持ち込まれてしまった場合には、多くの人たち、特に「部下」の立場にある人たちにとっては非常に不幸な状況に陥ってしまうのだろうと思います。そして職場以外の場所で不愉快なことや多少理不尽なことがあったとしても相手が「上司」の場合には翌日以降の職場でのことを考えて我慢してうやむやにせざるを得なくなることも少なくないのだろうと思ってしまいます。そのように考えるのならば、もしも「上司と部下の関係」を悪用する形で「性加害」「性被害」が引き起こされたのならば、かなり深刻なものになってしまうのだろうと思います。その上で、さらにあえて付け加えるのならば、いわゆる「芸能界」などでは「公」「私」の区分が不明確な環境があふれているのだろうと思います。いわゆる「Me Too」などの問題に限らず…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「失うことは嫌だから…」(2023/5/13)

『政権』を 失うことは 嫌だから 『ケンカ』をやめて 一致結束!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、今現在の日本の政治では古くて新しい深刻な問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。なぜ「政権交代」がなかなか実現しないのか? 多少の誤解を恐れずにあえてひとことで言えば、「致命的な間違い」をいくつも繰り返し重ねているからではないかと思います。

もしも「政権交代」を本気で実現しようと考えているのならば、まずは「政権交代」という「もっともらしい言葉」によって覆い隠されている「偽らざる現実」を直視するところから始めなければならないと思います。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「政権交代」という「もっともらしい言葉」によって覆い隠されているのは「実態が存在しないということ」です。言い換えるのならば、「政権」というものが存在しなければ存在することができないものということを意味しているのです。一昔前のある野党党首が野党の「共闘」は「非『ブタ』連合」のようなものと言っていたことがあります。いくら「ブタ」を厳しく批判してみてもその「ブタ」が消えてしまえば自分たちもバラバラになって消えてしまうことになるわけです。ちなみにいつも「ケンカ」ばかりしているように見える「与党」はなぜバラバラにならないのでしょうか? 誰よりも「与党」であることのメリットを実感している「与党」は「政権」を失いそうになるとすぐに「ケンカ」をやめて一致結束するようになる…。そのように考えるのならば、「非『ブタ』連合」を作ることによって「政権交代」の実現を目指すなどということが「致命的な間違い」であるということにすぐに気づくことができるのではないかと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「失うことは…」(2023/5/12)

『豊かさ』を 失うことは 嫌だから 『見ざる』『言わざる』 『聞かざる』ことに?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会と国際社会では古くて新しい深刻な問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。大昔から今現在に至るまで、自分自身のことが何よりも大切だという人間たちは少なくないのだろうと思います。もちろん自分を大切にするということは悪いことではないわけです。しかし、自分だけがよければ他はどうなっていても構わないなどということは許されないことではないかと思います。

「あそこから買ってはいけない? あそこには売ってはいけない? 自分たちの生活が厳しくなっているのに…」。「自分たちはもっともっと豊かになりたい。それなのに…」などなど…。ほとんどの人たちは同じ商品を買うのならば安い方がいいわけですし、同じ商品などを売るのならば高く売ることができる方がいいわけです。しかし、安いものには安い理由があるわけですし、高く売ることができるものには高く売ることができる理由があるわけです。例えば、搾取や強制労働や児童労働によってつくられた商品は安くなることもあるわけですし、「密輸」をすればかなり高く売ることができるのだろうと思います。だからこそ「不都合な真実」については「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の姿勢を示すということになることもあるのだろうと思います。その上で、あえてひとこと付け加えるのならば、「グローバルサウス」などという「もっともらしい言葉」を使うことによって物事の「本質」が見えにくくなるということもあるのだろうと思います。くどいようですが、大昔から今現在に至るまで、自分自身のことが何よりも大切だという人間たちは少なくないのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『理解増進』」(2023/5/11)

『反対』を する人たちの ためになる 法律にして 『理解増進』!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、今現在の日本社会と国際社会で次第に大きな問題になってきていることについて少しだけ考えてみることにしようと思います。賛否が分かれて激しい議論が続いている「何か」を「理解する」とか「認める」などということはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? 

賛否が分かれて激しい議論が続いている「何か」について「理解増進」のために法律などを作るなどという話があります。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、もしも「何か」についての「理解増進」を目的にした法律などをつくることに意味があるとするのならば、「何か」を「理解する」とか「認める」ことができないという人たち、特に「何か」を「攻撃」したり厳しく「批判」したりする人間たちの数をできるだけ多く減らすということになるのではないかと思います。あえて言い換えるのならば、賛否が分かれて激しい議論が続いている「何か」について「理解増進」のために法律などを作るのは、大雑把に言えば、「何か」について「支持」したり「賛成」したり「理解」したり認めたりしている人たちのためではなく、「何か」を「理解する」とか「認める」ことができないという人たち、あるいは「何か」を「理解」して認めていても「反対」している人たちのためなのです。繰り返しになりますが(→参考:2023/5/10付)、「何か」を「理解する」とか「認める」という状態にするためには、まずは「何か」を「攻撃」したり厳しく「批判」したりしないような状態にしなければならないのだろうと思います。そのように考えるのならば、もしも賛否が分かれて激しい議論が続いている「何か」について「保守派」や「左翼」を「攻撃」したり厳しく「批判」したりするのならば、「何か」についての「理解増進」につながるわけがないのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『祝福』?」(2023/5/10)

『理解』とは 『祝福』すると いうことか? 『攻撃』しない? 『反対』しない?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、今現在の日本社会と国際社会で次第に大きな問題になってきていることについて少しだけ考えてみることにしようと思います。賛否が分かれて激しい議論が続いている「何か」を「理解する」とか「認める」などということはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? 

あくまでも念のために確認しておきますが、どんなに少なくとも「何か」を「理解する」とか「認める」などということは「何か」を「支持する」とか「祝福する」ということとは違っているはずなのです。あえて言い換えるのならば、もしも賛否が分かれて激しい議論が続いている「何か」について誰かが「支持」や「祝福」をしていないのならば、その人は「何か」について「理解」していないなどということにはならないはずなのです。「何か」を「理解する」とか「認める」などということはどういうことなのでしょうか? 非常に極端な場合を考えることにしようと思います。さすがに誰かが「何か」を「攻撃」したり厳しく「批判」したりしている場合には「何か」を「理解する」とか「認める」などという状態である可能性は極めて低いのだろうと思います。そのように考えるのならば、「何か」を「理解する」とか「認める」という状態にするためには、まずは「何か」を「攻撃」したり厳しく「批判」したりしないような状態にしなければならないのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、「賛成」していなければ「理解」していないということにはならないはずなのです。さらに言えば、たとえ「何か」を「理解する」とか「認める」という状態ではあっても、それでもやはり「何か」には「反対する」ということは十分にあり得るのだろうと思いますきょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『融合』」(2023/5/9)

『空白の 5年間』にも 確実に 『融合』進む エンタメ分野」-

岸田文雄首相は韓国を訪問して5/7に尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領と首脳会談を行いました(→参考:https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2023/0507kaiken2.html https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page6_000851_00001.html 尹大統領が日本を訪問して3/16に岸田首相と日韓首脳会談を行っていた(→参考:https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page1_001529.html)。また尹大統領はG7広島サミット(5/19-21)の際にも来日へ。参考: 「日韓共同宣言」https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page1_001262.html)。日韓首脳が相互往来する「シャトル外交」が再開しています。

繰り返しになりますが、多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、私から見れば、最近の約5年間はどういうわけか「大韓民国」が国際社会から唐突にどこかに消えてしまったような「空白の約5年間」だったように見えるのです(→参考:2023/5/8付)。「BTS」「TWICE」「NewJeans」などなど…。まだまだ「他にもたくさんいるのになぜ取り上げないのか?」とクレームをつけられそうなくらい日本でも韓国でも人気のアーティストはたくさんいます。そして映画などでも日本でも韓国でも人気のあるものはたくさんあります。たとえ政治の分野では「空白の約5年間」があったとしても、エンターテイメント分野での日本と韓国の「融合」はこの約25年の間に確実に進んでいます。もっとも韓国でも大人気の「SLAM DUNK」の「登場人物」が韓国では「韓国名」になっているようなところにはまだ「かつての時代」の「痕跡」が残されているわけです。約25年前に金大中大統領が韓国における「日本文化解放」を決断しなければ今のような「融合」の状態は生み出されなかったであろうということを改めて実感しています。日本、韓国、そして国際社会はこれから25年後にはいったいどうなっているのでしょうか? 良い意味でも悪い意味でも予想をすることは非常に難しいと思います。しかし、ヒト、モノ、カネ、情報が当たり前のように国境を越えて移動するグローバリゼーションの大きな流れはもはや止まることはないのだろうと思います。たとえ政治の分野でさらに「空白の約5年間」などがあったとしても…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「おかえりなさい」(2023/5/8)

唐突に どこかに消えた 約5年 おかえりなさい 『大韓民国』」-

岸田文雄首相は韓国を訪問して5/7に尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領と首脳会談を行いました(→参考:https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2023/0507kaiken2.html https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page6_000851_00001.html 尹大統領が日本を訪問して3/16に岸田首相と日韓首脳会談を行っていた(→参考:https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page1_001529.html)。また尹大統領はG7広島サミット(5/19-21)の際にも来日へ)。日韓首脳が相互往来する「シャトル外交」が再開しています。

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、私から見れば、最近の約5年間はどういうわけか「大韓民国」が国際社会から唐突にどこかに消えてしまったような「空白の約5年間」だったように見えるのです。そしてその「空白の約5年間」はまるで「北朝鮮の子分」や「民族差別主義者」になりたいような人間たちに「占拠」されたような非常に不幸な状態が続いていたように見えていたのです。岸田文雄首相も歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいるなどと述べた際に例示していた1998年10月の「日韓共同宣言」(→参考:https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page1_001262.html)をまとめた小渕恵三首相と金大中大統領はこの「空白の約5年間」を経た現状をいったいどのように受け止めるのだろうと思います。ようやく「おかえりなさい、『大韓民国』」と言える状況にはなったわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「なぜ『結婚』できないか?」(2023/5/7)

なぜダメか? なぜ『結婚』は できないか? 『倫理』は変化 『技術』は進歩」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、もしかするとそれほど遠くない将来には社会的に大きな問題になってくるかもしれないことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「恋をしている」とか「恋に落ちる」などということはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? そして「結婚」とはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? 

もちろん時代と共に多くの人たちの価値観は変化していきます。そして時が流れれば「技術」は進歩して「倫理」と呼ばれるものも変化していくことになります。そのように考えるのならば、今現在は全く想像することができないような問題が深刻な社会問題に発展する危険性も高くなるのです。例えば、もしも「アニメキャラクター」などと最新型の「AI」技術とが結びついた場合には、「アニメキャラクター」などに本気で恋に落ちたり恋をしたりする人たちが増えていくのかもしれないと思います。そしてもしかすると「アニメキャラクター」などに恋をしているという人たちの中には本気で「結婚」をしたいと思う人たちが出てくるかもしれないと思います。言うまでもなく今現在の制度では「ペット」と同じように「アニメキャラクター」などとも法律上は「結婚」するようなことはできないわけです。たとえどれだけ「アニメキャラクター」などを愛していたとしても、たとえどれだけ「アニメキャラクター」などがその人の精神的な支えになっていたとしても、今の社会では法律的に「アニメキャラクター」などとは「結婚」することはできないわけです。なぜ制度上は「アニメキャラクター」などが「家族の一員」になったり「結婚」したりすることができないのでしょうか? それは時代が変わって多くの人たちの価値観が変われば制度を変えて認めてもいいことなのでしょうか? 繰り返しになりますが、「恋をしている」とか「恋に落ちる」などということはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? そして「結婚」とはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? きょうのところはとりあえずこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「なぜダメか?」(2023/5/6)

なぜダメか? なぜ『制度』では 認めない? 時代と共に 価値観変化」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、もしかするとそれほど遠くない将来には社会的に大きな問題になってくるかもしれないことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「恋をしている」とか「恋に落ちる」などということはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? そして「結婚」とはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? 

今の時代は犬や猫などの「ペット」を「家族の一員」だと思っているという人たちは少なくないと思います。そして「ペット」を「家族の一員」どころか「恋人」や「結婚相手」だと本気で思っているという人たちもいるかもしれないと思います。しかし、たとえどれだけ強く「ペット」を「家族の一員」だと思っていたとしても、たとえどれだけ「ペット」が「家族」の精神的な支えになっていたとしても、今の社会では法律的に「ペット」を「家族の一員」にすることはできないのです。たとえどれだけ「ペット」を愛していたとしても、たとえどれだけ「ペット」がその人の精神的な支えになっていたとしても、今の社会では法律的に「ペット」とは「結婚」することはできないわけです。もちろんこれは当たり前すぎるくらい当たり前の話です。しかし、なぜ制度上は「ペット」が「家族の一員」になったり「結婚」したりすることができないのでしょうか? 制度を変えれば認めてもいいことなのでしょうか? もちろん時代と共に多くの人たちの価値観は変化していくものです。一昔前には「ペット」が「家族の一員」だという主張に違和感を覚えたり理解できなかったりする人たちも珍しくはなかったのですが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『残骸』は?」(2023/5/5)

『残骸』は? 『被害』はないか? 『航跡』は? 『フェイク映像』 ではない証拠は?」-

 ロシアの首都モスクワのクレムリン(→大統領府などがある)に無人機(ドローン)2機の攻撃を受けたなどとロシア大統領府が5/3に発表したことで波紋が広がっています(→ロシア大統領府はウクライナ側の攻撃などと主張。攻撃は5/3未明? マスメディアではSNSに投稿されたクレムリン内と見られる特徴的な建物にドローンが至近距離まで接近して閃光を上げて爆発する映像が繰り返し流されている)。

マスメディアなどではドローン攻撃の瞬間とされている「謎の映像」が何度も繰り返し流されていますが…。そして現時点においてもまだ事件の背景どころか事実関係の詳細すらもほとんど明らかになっていないということには注意が必要になります。そもそもこの「謎の映像」は本当にねつ造された「フェイク映像」などではないのでしょうか? なぜ攻撃の瞬間を見事に撮影することができたのでしょうか? もしかすると監視カメラなどの映像なのでしょうか? そうであるのならば…。またもしも「謎の映像」が正真正銘の現実の出来事を撮影したものであるのならば、爆発したドローンの「残骸」などは存在するのでしょうか? ドローンは爆発すると痕跡も全く遺さない程度にまで粉々になったり蒸発してしまったりするものなのでしょうか? ドローンの爆発によって建物などには「被害」が出ていないのでしょうか? さらに言えば、そもそも爆発したドローンはどのような「航跡」をたどって厳重な警戒下のモスクワのクレムリン上空まで飛行してくることができたのでしょうか? 本当にドローンはウクライナ国内から飛行してくることが可能だったのでしょうか? それらの疑問点のうちのいくつかは「残骸」や「被害」の状況を分析するだけでもすぐに解消することができるはずなのです。きょうのところはあえてそれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『メリット』?」(2023/5/4)

戦争を 継続したい 者たちに 最も大きな 『メリット』あるが…」-

どこかの「専制主義国家」の中枢がドローンによる攻撃を受けたなどと報道されています。多少の誤解と批判を恐れずにあえて少しだけ「想像」してみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、もしも「ドローン攻撃」が事実であるとするのならば、現在進行中の戦争が休戦や終息へと向かうのではなく、逆に、戦争がますます激しくなったりますます長く継続したりするような方向に向かう危険性が高まると思います。

もしも早期の戦争終結や勝利を本気で望んでいるのならば、人の少ない深夜に「戦争指導者」が不在の建物を「ドローン攻撃」の標的に選ぶような愚かなことはしないのではないかと思います。たとえ厳重な警戒態勢をかいくぐって「ドローン攻撃」を成功させて敵の警備責任者などのメンツを叩き潰すことができたとしても、だからと言って戦争の早期終結や勝利には直接つながらないのです。そもそも戦争の早期終結や勝利を本気で望んでいる側にとっては「ドローン攻撃」をする「メリット」がほとんどないのです。もしも本気で戦争の早期終結や勝利を望んでいる側にどうしても「ドローン攻撃」しなければならない特別な事情があるのならば、ほぼ無防備な状態で観閲や演説をしている「式典」出席中の「戦争指導者」を「ドローン攻撃」の標的にするようなことを考えるのではないかと思います。そしてもしも「式典」中の「戦争指導者」の「ドローン攻撃」に失敗した場合であっても最低でも大事な「式典」を台無しにすることぐらいはできるはずなのです。いずれにしても戦争の早期終結や勝利を本気で望んでいる側にとっては深夜に「戦争指導者」が不在の建物を標的にするような「ドローン攻撃」をすることに「メリット」はないのです。もしも「ドローン攻撃」によって戦争が休戦や終息へと向かうのではなく、戦争を激化させたり長引かせたりする効果があるのであれば、戦争を継続したい人間たちに最も大きな「メリット」があるということになるのだろうと思います。しかし、いくら「メリット」があると言っても本当にそんなことを実際に行うのかどうか…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「生まれながらの…」(2023/5/3)

『親』の『罪』 『子』に償わせ てもいいか? 『生まれながらの 罪人』なのか?」-

きょうは日本社会と国際社会で大昔から今現在まで根強く残っている深刻な「差別」の問題についてごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる状況を通じて少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそも「差別」とはいったい何なのでしょうか? そもそもなぜ「差別」することがいけないのでしょうか? 

あくまでも念のために確認しておきますが、本当に「罪」を犯した「親」の「子」は「親」の「罪」を償わなければならないのでしょうか? 当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、現代の自由で民主的な国家においては「罪」を犯した「親」の「罪」をその「子」が償わなければならないなどということはあり得ない話なのです。しかし、それにもかかわらず、「国」や「民族」の単位になると、「祖先」の「罪」をその「子孫」に償わせようとするような主張が平然と唱えられるようになることには非常に大きな違和感を覚えます。そもそも「祖先」はいったい誰に対してどのような「罪」を犯したというのでしょうか? 「祖先」がどのような「罪」を犯したとしても犯してはいなかったとしても「祖先」の「罪」を当然のようにその「子孫」に償わせようとするような主張は「民族差別」と呼ぶべき許しがたいものになると思います。なぜ「祖先」の「罪」をその「罪」を犯したわけでもない「子孫」が償わなければならないというのでしょうか? 「子孫」は「生まれながらの罪人」なのでしょうか? 一歩踏み込んで考えてみればそこには「民族差別」的に歪んだ「思想」や「民族差別」的な感情ぐらいしか存在しないのです。きょうのところあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『性別』で…」(2023/5/2)

『性別』で 『トイレ』や『更衣 室』分ける? 『性別』同じ だとなぜ一緒?」-

きょうは日本社会と国際社会で大昔から今現在まで根強く残っている深刻な「差別」の問題についてごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる状況を通じて少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそも「差別」とはいったい何なのでしょうか? そもそもなぜ「差別」することがいけないのでしょうか? 

あくまでも念のために確認しておきますが、「生物学的な性」によって何かを分けて考えたり何かの取扱いを変えたりするようなことは本当に「差別」になるのでしょうか? 例えば、「女性だけが国会議員になることができる。男性が国会議員になることは認められない」などという主張は誰の目にも明らかな「差別」になるわけです。しかし、もしも「生物学的な性」によって区別しなければならない「合理的な理由」があるのならば、「生物学的な性」によって区別しても必ずしも「差別」ということにはならないのだろうと思います。多少の誤解が生じる危険性を承知の上であえて単純化して考えるのならば、例えば、トイレや更衣室などを「生物学的な性」によって区別することには「合理的な理由」があると考える人たちがほとんどではないかと思います。しかし、実は一歩踏み込んで考えてみると本当に「生物学的な性」によって区別することに「合理的な理由」があるのか疑わしくなってくるのです。たとえいわゆる「性的マイノリティー」などではなかったとしても、トイレや更衣室などを「生物学的な性」によって区別することに本当に「合理的な理由」があるのか疑問を感じるという人たちも少なくないのではないかと思います。「なぜ『生物学的な性』が同じという理由だけで他人と一緒にならなければならないのか」「なぜトイレや更衣室は『個人別』ではないのか」などという主張に説得力を感じるという人たちも少なくないのではないかと思います。もしも「生物学的な性」によって区別することに「合理的な理由」があったとしても、「生物学的な性」によって区別することによって本当に一人ひとりの人権を十分に保障することができるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「規制をしても…」(2023/5/1)

『AI』の 規制をしても 防げない! 『情報』管理 徹底すべき!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもそれなりに話題になっている出来事について少しだけ考えてみることにしようと思います。相変わらず日本社会でも国際社会でも「ChatGPT」などの「対話型(式)AI」を含めた最新型の「AI」技術などに関連した情報をあちこちで見聞きする機会が増えています(→参考:2023/4/30付、2023/4/23付、2023/4/22付、2023/4/11付、2023/4/10付)。今回も最新型の「AI」技術などによって生み出されることになるかもしれない「夢物語」についてあえて少しだけ考えてみることにしようと思います。どのようなものにも「光」と「影」の2つの側面があるものですが…。

きょうは最新型の「AI」技術などによって引き起こされるかもしれない「負の側面」について少しだけ考えてみることにしようと思います。前回(→参考:2023/4/30付)は「容疑者検挙の迅速化」などという「メリット」を取り上げたわけですが…。もしもどこかで見かけた「気になる人」の「情報」を「検索」するとすぐに「気になる人」に関する「情報」が次々と得られるような「システム」が開発されたのならば、「ストーカー」やその他の「犯罪」にも悪用される危険性があることになります。もしかするとそう遠くない将来には誰かが街中でときどき見かける「気になる人」の画像をこっそり撮影して「検索」すると、その人の氏名、生年月日、住所、TEL番号、SNSのアカウント、友人関係、趣味や興味のあるもの、よく行く場所とそこによく行く曜日や時間帯、よく購入する商品などの関連情報が次々と得られるようになるとか…。空想しただけでも「非常に恐ろしい話」です。しかし、だからと言って最新型の「AI」の開発などを規制すればこのような「非常に恐ろしい話」を防ぐことができるというわけではないということには注意が必要になります。むしろこの場合には最新型の「AI」の開発を規制することよりも、「個人情報」の管理を徹底するというこれまでの「古典的な防衛策」を強化した方が明らかに効果的なのです。いずれにしても「AI」技術の「光」と「影」の2つの側面をしっかりと見据える必要があるのです。きょうのところはとりあえずこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『検索』」(2023/4/30)

気になって すぐに『情報』 『検索』し さらに『情報』 どんどん分かる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもそれなりに話題になっている出来事について少しだけ考えてみることにしようと思います。相変わらず日本社会でも国際社会でも「ChatGPT」などの「対話型(式)AI」を含めた最新型の「AI」技術などに関連した情報をあちこちで見聞きする機会が増えています(→参考:2023/4/23付、2023/4/22付、2023/4/11付、2023/4/10付)。今回も最新型の「AI」技術などによって生み出されることになるかもしれない「夢物語」についてあえて少しだけ考えてみることにしようと思います。どのようなものにも「光」と「影」の2つの側面があるものですが…。

ドラマや映画やバラエティー番組などに「気になる俳優」などが出演していたり、マスメディアや日常会話で「よく知らない言葉」を見聞きしたりすると、すぐにスマートフォンなどで「検索」してみるという人たちは少なくないと思います。あくまでも仮定の上に仮定を積み重ねた上での「夢物語」になるわけですが、もしかするとどこかで見かけた「気になる人」の「情報」を「検索」するとすぐに「気になる人」に関する「情報」が次々と得られるようになるのかもしれないと思います。例えば、犯行現場から逃走した容疑者の「特徴」や「画像」などの「情報」で「検索」すれば、「容疑者に関連する可能性のある情報」が次々と得られ、そして「AI」からの質問に答えていくことによってその中から「真に容疑者に関連した情報」を絞り込んでいくというような容疑者の検挙の迅速化に大きな効果がありそうな「システム」はすぐにでも実現することができそうです。その上で、あくまでも念のために付け加えるのならば、いくら容疑者検挙に大きな効果がありそうな「システム」であっても悪用すれば「ストーカー」やその他の「犯罪」にも役立てることができるということには注意が必要になります。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「安心できる?」(2023/4/29)

『避難民』 安心できる 環境か? 『追っ手』がすぐに 追いかけてくる?」-

きょうも日本社会と国際社会でこれからますます増えていくかもしれない深刻な問題についてごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にあふれている出来事を通じて少しだけ考えてみることにしようと思います。繰り返しになりますが、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」が「国境」を越えて移動するということはいったいどのようなことを意味しているのでしょうか? やはりこれからの時代は他の国での「事件」を他人事で済ますことがますますできなくなっていくということだけは確かなのです。

例えば、戦争や深刻な人権侵害などのために「専制国家」などから平和で自由な社会に逃れてきた「避難民」は本当に「一安心」することができるのでしょうか? 「専制国家」などから平和で自由な社会にすぐに「避難民」が逃れてくることができたということは、「専制国家」などから平和で自由な社会に「追っ手」がすぐにやってくるということも実はそれほど難しいことではないということを意味することになるわけです。もちろん「専制国家」などが平和で自由な社会の中に「警察署のようなもの」を勝手に作っていたとしてもすぐに摘発して叩き潰すことは不可能ではないのだろうと思います。しかし、もしも「専制国家」などから自由や平和を求めて平和で自由な社会に逃れてきた「避難民」を偽装して「追っ手」がやってきたとしたらいったいどうなってしまうのでしょうか? 「専制国家」などから送り込まれた「偽装避難民」があたかも「避難民」同士の揉め事であるかのように「偽装」しながら「避難民」に様々な形で危害を加え続けるような危険性を本当に無視することができるのでしょうか? 繰り返しになりますが、これからの時代は他の国での「事件」を他人事で済ますことがますますできなくなっていくということだけは確かなのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『共犯』に…」(2023/4/28)

『国境』を 越えて移動を 繰り返す 『カネ』で『共犯』 になってしまう…」-

きょうも日本社会と国際社会でこれからますます増えていくかもしれない深刻な問題についてごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にあふれている出来事を通じて少しだけ考えてみることにしようと思います。繰り返しになりますが、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」が「国境」を越えて移動するということはいったいどのようなことを意味しているのでしょうか? これからの時代は他の国での「事件」を他人事で済ますことがますますできなくなっていくということだけは確かなのです。

例えば、人々に自由を認めず人権を尊重することはないけれども「国境」を越えた「ヒト」「モノ」「カネ」の移動には非常に熱心に取り組んでいる「専制国家」は地球上にたくさんあります。もしも「専制国家」の中で「強制労働」や「知的財産権の侵害」などが横行しているのならば、平和で自由な社会で生活している人たちが「専制国家」が輸出する「価格の安い商品」を購入するということは事実上「強制労働」や「知的財産権の侵害」などの「共犯」になるということを意味することになります。さらに言えば、もしも「専制国家」の中で「強制労働」や「知的財産権の侵害」などが横行しているのならば、「専制国家」から平和で自由な社会にやってくる旅行者による「インバウンド」や「爆買い」による需要に期待するということも事実上「強制労働」や「知的財産権の侵害」などの「共犯」になるということを意味することになるのです。「国境」を越えて「カネ」が動くということは「国境」を越えて「共犯」になるということを意味することもあるのです。繰り返しになりますが、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」が「国境」を越えて移動するということはいったいどのようなことを意味しているのでしょうか? これからの時代は平和で自由な社会で生活しながら他の国での「事件」を他人事で済ますことがますますできなくなっていくということだけは確かなのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「改めて…」(2023/4/27)

改めて 『ヒト』『モノ』『カネ』と 『情報』が 『国境』越えて 移動するとは?」-

きょうは日本社会と国際社会でこれからますます増えていくかもしれない深刻な問題についてごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にあふれている出来事を通じて少しだけ考えてみることにしようと思います。改めて「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」が「国境」を越えて移動するとはいったいどのようなことを意味しているのでしょうか?

例えば、今の時代には日本から「隣国」に「日帰り」で観光旅行をすることは十分に可能です。極端な場合には、たった1日の休日しかなかったとしても、羽田空港などから朝に航空機で出発、午前中には「隣国」の国際空港に到着、日中は「隣国」で「観光」などをし、夜には「隣国」の国際空港から羽田空港などに戻ってくるなどといういわゆる「日帰り弾丸ツアー」も不可能ではないのです。あるいは、もしも金曜日の深夜か土曜日の早朝に出発して日曜日の深夜か月曜日の早朝に戻ってくるなどという「週末」でスケジュールを考えることができるのならば、「隣国」の範囲は拡大し、「観光」などの内容もさらに充実することになるのだろうと思います。ごく普通の多くの人たちにとっては良いイメージばかりがあるかもしれませんが、あえて負の側面も考えてみる必要があるのです。例えば、「隣国」に「日帰り」で「観光」などに行くことが簡単にできるようになるということは、「隣国」で「犯罪行為」などを行って「日帰り」で戻ってくるなどということも簡単にできるようにもなるということを意味しているわけです。さらに言えば、「日帰り」や「週末」の日程で「観光」などのために訪れた「隣国」でスパイ容疑などの理不尽な容疑で唐突に身柄を拘束されて予定通りに帰国することができなくなるなどということも頻繁に起こるようになるということを意味しているのです。繰り返しになりますが、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」が「国境」を越えて移動するとはいったいどのようなことを意味しているのでしょうか? きょうのところはあえて負の側面を指摘するだけにとどめることにしておきます。

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「『形』だけ…」(2023/4/26)

『形』だけ そっくりならば それでいい? 『中身』が違う 『偽物』でいい?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にあふれている出来事やすぐに消えていくとりとめのないことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。最近は社会のあちこちで流行りのものの「形」だけを真似するような動きがあふれています。たとえどれだけ「形」は「魅力的な本物」とそっくりであったとしても、「中身」は全く異なる「よく似た偽物」があちこちにあふれているわけですが…。

あえて個別具体的な事例を挙げることは避けますが、商品でも、サービスでも、エンターテインメントなどの分野でも、それぞれの分野で大人気になった「魅力的な本物」にそっくりなものがどんどん増えていきます。そうした現象は「流行」などと呼ばれることになるのだろうと思います。もちろんそのことは今に始まった話ではないとは思います。しかし、それでもやはり、「形」だけは「魅力的な本物」とそっくりでも「中身」は全く異なる「よく似た偽物」があふれることで何か良いことがあるという人たちはそれほど多くはないのではないかと思います。社会のあちこちに「よく似た偽物」があふれるということはそれだけでも社会の「多様性」が失われる危険性が高まるわけです。そして何よりも社会のあちこちに「魅力的な本物」と「形」はそっくりでも「中身」が全く異なる「よく似た偽物」があふれるということはそれだけでも社会全体の「質」が低下する危険性も高まるのです。「魅力的な本物」と「形」だけそっくりならばそれでいいのでしょうか? 「魅力的な本物」とは「中身」が違う「よく似た偽物」でもいいのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「一安心?」(2023/4/25)

とりあえず 一安心と 言えるのか? 避難ができない 人たちもいる!」-

国軍と軍傘下の準軍事組織の戦闘が激化しているスーダンから出国を希望する日本人は4/25までに出国したなどと報道されています(→参考:2023/4/21付。自衛隊のC2輸送機で在留邦人ら45人がスーダン東部のポートスーダンから自衛隊の「海賊対策」の活動拠点のある周辺国のジブチに到着。またさらに出国を希望していた残りの日本人ら8人もスーダンを出国したという。スーダンでは統合問題で対立を深めた国軍と軍傘下の準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」による戦闘が首都ハルツームを含めた各地で激化して民間人にも多数の犠牲者が出ていた。各国がスーダン在留の自国民の国外退避を進めている)。

とりあえず出国を希望する日本人が避難することができた日本としては「一安心」ということになるのだろうと思います。しかし、本当に「一安心」と言えるのでしょうか? スーダン国内には理不尽にも戦闘に巻き込まれてしまっている人たちがまだまだたくさん残っているわけです。そして自分たちの国の中で理不尽にも戦闘に巻き込まれてしまっているスーダン国民はなかなか避難することもできないのです。いったいどのようにしたら理不尽な戦闘を止めさせて終わらせることができるのか…。その上で、さらに付け加えるのならば、「国軍」と「民間軍事会社」の対立、「正規軍」と「民兵組織」などの対立という構図はスーダン以外の地球上のいくつかの場所でも見られるのです。繰り返しになりますが、本当に「一安心」と言えるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『抜け殻』だらけ?」(2023/4/24)

『形』だけ 流行りのものを 真似てみた? 『心』を抜いた 『抜け殻』だらけ?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」に最近あふれている出来事やすぐに消えていくとりとめのないことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。最近は社会のあちこちで流行りのものの「形」だけを真似するような動きがあふれています。たとえどんな「魅力的なもの」であったとしても、その「心」を抜いた「抜け殻」だけになれば「魅力」は完全に消え去ってしまうはずですが…。

最近の社会は肝心な「心」の部分を抜き出された「抜け殻」だらけの社会だと言うことができると思います。あえて言い換えれば、最近は社会のあちこちで「よく似た偽物」があふれているということもできるのだろうと思います。例えば、いわゆる「政治の世界」では、「選挙カー」などの上に乗って「マイク」を握りながらもっともらしいことを叫んでいるだけの「抜け殻」や「よく似た偽物」があふれています。子育て支援策を充実させます? 安全安心な社会をつくります? 経済を良くします? …などともっともらしいことを叫んでいる「抜け殻」や「よく似た偽物」があふれています。いったい何をどのようにしてそれらのことを実現させるつもりなのでしょうか? そもそもそれらのことを本当に実現させることができるのでしょうか? ごく普通の多くの人たちは彼・彼女たちがもっともらしく叫んでいることを一歩踏み込んで考えてみたことがあるでしょうか? 最近の社会は肝心な「心」の部分がない「抜け殻」だらけ「よく似た偽物」だらけです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『分身』」(2023/4/23)

『AI』を 『分身』にして 羽ばたける 新たな世界 つくるためには…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」に最近あふれている出来事やすぐに消えていくとりとめのないことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。相変わらず日本社会でも国際社会でも「ChatGPT」などの「対話型(式)AI」を含めた最新型の「AI」技術などとどのように向き合うのかなどという問題に関連した情報をあちこちで見聞きする機会が増えています(→参考:2023/4/22付、2023/4/11付、2023/4/10付)。やむを得ないことなのかもしれませんが、最新型の「AI」技術などについてはその負の側面ばかりが強調されている印象を受けます。今回は最新型の「AI」技術などによって生み出されるかもしれない「夢物語」についてあえて少しだけ考えてみることにしようと思います。

少なくとも現時点においては荒唐無稽な話に過ぎないわけですが、非常に多忙なときなどに「自分がもう一人か二人欲しい」などとつい思ってしまう人たちは少なくないと思います。多少の誤解と批判を恐れずにあえて単純化して「夢物語」を語るのならば、最新型の「AI」技術などを活用するとそう遠くないうちに必要なときに必要な数だけ自分の「分身」をつくり出して手助けをしてもらえるようになるかもしれないのです。同じことをずっと繰り返すような単純作業だったり、条件に合うときと条件に合わないときにそれぞれどうすればいいのかを判断する程度の簡単な仕事だったり…。今現在でも単純作業や簡単な仕事ならばすぐにでも自分の「分身」をつくり出して手助けをしてもらうことができそうです。最新型の「AI」技術などを活用した自分の「分身」が羽ばたくことができる新たな世界つくるためにはいったい何が必要になるのか…。最新型の「AI」技術などとどのように向き合うのかなどということを考える場合にはデメリットだけではなくメリットについても考える必要があると思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「まず『部下』にして…」(2023/4/22)

『AI』を まず『部下』にして 育てれば やがて『執事』や 『下僕』にできる?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」に最近あふれている出来事やすぐに消えていくとりとめのないことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。相変わらず日本社会でも国際社会でも「ChatGPT」などの「対話型(式)AI」を含めた最新型の「AI」技術などとどのように向き合うのかなどという問題に関連した情報をあちこちで見聞きする機会が増えています(→参考:2023/4/11付、2023/4/10付)。

多少の誤解を恐れずにあえて現状を単純化して捉えた上で、最新型の「AI」技術などとの向き合い方を考えるのならば、最新型の「AI」技術などを活用しようと考える人たちは「まずは『部下』として接する」ようにする必要があるのではないかと思います。少なくとも現時点においては、多くの人たちが活用しようと考えている「ChatGPT」などの「対話型(式)AI」のような「AI」は人間側の「指示」や「命令」がしなければ何も始まらないわけです。また、少なくとも現時点においては、「AI」は人間側の「指示」や「命令」に対して「不十分な結果」しか生み出すことができないわけです。そして「指示」や「命令」をした人間の側が「AI」の生み出した「不十分な結果」をチェックする必要があるわけです。さらに言えば、実際に「AI」の生み出した「不十分な結果」をチェックする場合には、「AI」が実際にどのような「プロセス」を経てその「不十分な結果」を生み出したのかというところまで踏み込んでチェックしなければならなくなるわけです。そしてもしも「プロセス」が不適切であるのならば、「AI」に適切な「プロセス」を指示することも必要になるかもしれないのです。そのように考えるのならば、少なくとも現時点においては、最新型の「AI」技術などを活用しようと考える人たちには「AIの上司」としての役割を十分に果たすことができる能力が求められることになるのではないかと思います。繰り返しになりますが、最新型の「AI」技術などを活用しようと考える人たちは「まずは『部下』として接する」ようにする必要があるのではないかと思います。「AI」をまず「部下」にして育てていけばやがて「執事」や「下僕」にすることができるのかどうか…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「一元化」(2023/4/21)

『救出』や 『邦人保護』の 実現に 一元化した 対策が要る!」-

スーダンで国軍と軍傘下の準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」の戦闘が激化していることで国際的に大きな波紋が広がっています(→戦闘は首都ハルツームを含めた各地で激化して多数の民間人にも犠牲が出ている模様。また首都近郊の国際空港でも旅客機に大きな被害が出ている模様。戦闘では戦闘機などによる攻撃も。国軍への軍傘下の準軍事組織「即応支援部隊」(RSF)の統合問題をきっかけに戦闘が始まったという。日本は在留邦人の国外避難のために自衛隊機を「海賊対策」の活動拠点のある周辺国のジブチに派遣へ)。

多少の誤解を恐れずにあえて単純化して率直に言わせてもらうのならば、今現在のスーダンのような「かなり激しい戦闘が続く戦場に近い状態」でいったいどのようにして在留邦人らを保護して安全に国外避難させるつもりなのでしょうか? もしもスーダンの空港などからの自衛隊機による避難が可能であったとしても、その自衛隊機が離発着する空港までどのように在留邦人を安全に輸送するつもりなのでしょうか? なんとか自力で空港までたどり着いてもらいたいなどと言うつもりなのでしょうか? もしも今現在もまだスーダン政府が機能停止に陥っていないのならば、事前通告をした上で「日本国の外交官の輸送手段」として「防弾仕様の乗用車」や「装甲車」を使用してスーダン国内の在留邦人らをできるだけ安全に避難させるようなことが本当にできないのかを真剣に検討するべきです。激しい戦闘のために自宅などで身動きが取れない状態にある人たちを現実に避難させるためには「切れ目のない一元化した対策」が必要不可欠です。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「何をどこまで…」(2023/4/20)

目的の 実現のため 必要か? 何をどこまで 制限すべき?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」を含めた社会のあちこちでよく見られる出来事について少しだけ考えてみることにしようと思います。もちろん何かを選ぶということは何かを選ばないとか何かを捨てるということを意味することもあるわけです。もっと大切な何かを実現するために別の大切なことを諦めるなどということはよくある話です。しかし、それでもやはり、何かを実現するために他の何かが犠牲になることは本当にやむを得ないことなのでしょうか? 

例えば、「戦争で勝つため」「テロを阻止するため」などいう目的のために多くの人たちの自由や権利が奪われてしまうということは今も昔もとてもよくあることです。また最近は「地球温暖化を防ぐため」「地球環境保全のため」などいう目的のために多くの人たちの自由や権利が様々な形で制限されることも増えているのです。目的の実現のためには本当にそのことが必要なのか、また実際に多くの人たちの自由や権利をどこまで制限するべきなのかなどということはひとまず置いておくことにしますが…。とにかく最近は「地球温暖化を防ぐため」「地球環境保全のため」などいう目的のために多くの人たちの自由や権利が様々な形で制限されることも増えているわけです。さらに言えば、「新型コロナウイルスの感染拡大防止のため」「経済成長のため」などいう目的のために多くの人たちの自由や権利が様々な形で悪影響を受けることもあるわけです。くどいようですが、何かを実現するために他の何かが犠牲になることは本当にやむを得ないことなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「憤らない?」(2023/4/19)

『テロ』などと 結び付けられ イメージが 低下したとか 憤らない?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」を含めた社会のあちこちでよく見られる出来事について少しだけ考えてみることにしようと思います。もちろん何かを選ぶということは何かを選ばないとか何かを捨てるということを意味することもあるわけです。もっと大切な何かを実現するために別の大切なことを諦めるなどということはよくある話です。しかし、それでもやはり、何かを実現するために他の何かが犠牲になることは本当にやむを得ないことなのでしょうか? 

あくまでも念のために確認しておきますが、例えば、「選挙権や被選挙権が認められる年齢を引き下げる」ために「テロ」などを行うなどというようなことは本当に許されることなのでしょうか? あるいは、「国葬に反対」だから「テロ」などを行うなどというようなことは本当に許されることなのでしょうか? さらに言えば、「テロ」などを行うことは絶対に許されないことではあるが、「選挙権や被選挙権が認められる年齢を引き下げるべき」という主張や「国葬に反対」という主張は理解することができるなどという考え方が本当に多くの人たちから共感を得ることができるのでしょうか? 「選挙権や被選挙権が認められる年齢を引き下げるべき」などという主張と、本来その実現とは全く無関係なはずの「テロ」がどういうわけか結び付けられてしまったことについて強烈な違和感を覚える人たちはあまりいないのでしょうか? 全く無関係な「テロ」などと結びつけられてしまったことによって「選挙権や被選挙権が認められる年齢を引き下げるべき」などという主張に対するイメージが大きく低下してしまったなどと憤っている人たちはそれほど多くはないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「認めないだけ? 許さないだけ?」(2023/4/18)

自分たち とは違っている 考えを 認めないだけ? 許さないだけ?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」を含めた社会のあちこちでよく見られる出来事について少しだけ考えてみることにしようと思います。何かを選ぶということは何かを選ばないとか何かを捨てるということを意味することもあるわけです。確かにもっと大切な何かを実現するために別の大切なことを諦めるということはよくある話です。しかし、それでもやはり、何かを実現するために他の何かが犠牲になることは本当にやむを得ないことなのでしょうか? 

例えば、地球温暖化を防ぐために地球温暖化対策に消極的だと思われる企業を批判したりするようなことは許されることなのでしょうか? それとも許されないことなのでしょうか? あるいは、地球温暖化を防ぐために地球温暖化対策に消極的だと思われる政党や議員などの政治関係者を批判したりするようなことは認められることなのでしょうか? もちろん客観的な事実関係に基づいて法律などの社会のルールを守りながら批判するようなことは認められているはずです。その上で、あえて付け加えるのならば、そもそもその企業やその政治関係者は本当に地球温暖化対策に「消極的」なのでしょうか? もしかすると自分たちの主張や理想とは違った考え方をしている人たちを「消極的」と決めつけて批判しているだけなのではないでしょうか? 地球温暖化を防ぐために自分たちの主張や理想とは違った考え方をしている人たちを切り捨てるのはやむを得ないことなのでしょうか? 自分たちの主張や理想と違った考え方を認めなかったり許さなかったりしているだけではないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「ますます『テロ』が…」(2023/4/17)

『テロ』増えて 『実行犯』の 心理的 『壁』低くして ますます『テロ』が…」-

相変わらず4/15昼頃(AM11:30頃)に岸田文雄首相が選挙応援のため訪れた和歌山市の雑賀崎漁港で男が金属製とみられる筒のようなものを岸田首相に向けて投げつけてその後爆発する事件が発生した波紋が広がっています(→男(24歳)は近くにいた民間人と警察官にすぐに取り押さえられて威力業務妨害の疑いで逮捕された。岸田首相はすぐ近くに筒のようなものが投げつけられた直後に警察官に守られながら避難して無事。男が取り押さえられた後に大きな音を出して爆発。なお男は逮捕時にもう1つの金属製の筒のようなものを所持していた)。

現時点においても事件の詳細などはまだ不明です。あくまでも一般論ですが、もしも1つの「テロ」によって「テロ」というものに対する「実行犯」とその予備軍の心理的な「壁」が低くなることがあるとしたら、ますます「テロ」が頻繁に引き起こされるようになる危険性が高まってしまうことになるわけです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、もしも「テロ」というものが成功することがないものであると強く思い知らされることになるのならば、「テロ」というものに対する「実行犯」とその予備軍の心理的な「壁」はかなり高くなるのではないかと思います。さらに言えば、もしも「テロ」というものを引き起こしたとしても自分自身が期待している通りの展開にはならないと強く思い知らされることになるのならば、「テロ」というものに対する「実行犯」とその予備軍の心理的な「壁」はさらに高くなるのではないかと思います。いずれにしても「テロ」というものは絶対に成功させてはならないし、「テロ」というものを引き起こすことによって何らかの利益を得るような人間たちを生み出さないようにしなければならないのです。そのことだけはいくら強調しても強調しすぎということにはならないのだろうと思います。

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「犯罪の『価値』」(2023/4/16)

憎むべき 犯罪だけど 騒ぎすぎ! 犯罪の『価値』 高めてしまう!」-

4/15昼頃(AM11:30頃)に岸田文雄首相が選挙応援のため訪れた和歌山市の雑賀崎漁港で男が金属製とみられる筒のようなものを岸田首相に向けて投げつけてその後爆発する事件が発生した波紋が広がっています(→男(24歳)は近くにいた民間人と警察官にすぐに取り押さえられて威力妨害の疑いで逮捕された。岸田首相はすぐ近くに筒のようなものが投げつけられた直後に警察官に守られながら避難して無事。男が取り押さえられた後に大きな音を出して爆発。なお男は逮捕時にもう1つの金属製の筒のようなものを所持していた)。

現時点では事件の詳細もその動機なども不明です。その上で、あえて言わせてもらうのならば、確かに少なくとも選挙演説を妨害することになった爆発事件はそれだけでも十分に憎むべき犯罪です。しかし、マスメディアと政治関係者は少し騒ぎすぎではないかと思います。あくまでも一般論ですが、世の中にはたとえどんなことをしてでも自分に対して多くの人たちが大騒ぎして注目するようになることを強く望んでいる人間たちが存在する可能性があるのです。もしも自分に対して多くの人たちが大騒ぎして注目するようになることを強く望んでいる人間たちが無視できない数だけ存在するのならば、爆発事件についてマスメディアと政治関係者らが大騒ぎをすればするほど、そのような人間たちからみた犯罪の「価値」が高まってしまうということには注意が必要になります。繰り返しになりますが、爆発事件などはもちろん憎むべき犯罪です。しかし、それでもやはり、多くの人たちが大騒ぎをすればするほど、犯罪の「価値」を高める危険性があるということにはよくよく注意をする必要があります。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「守り切れるか?」(2023/4/15)

『犯罪』も 『いじめ』も見ない ふりをして 守った自分 守り切れるか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でも社会でもありふれている出来事について少しだけ考えてみることにしようと思います。やはり多くの人たちにとっては自分がいちばん大切なのだろうと思います。もちろん自分が大切なのは悪いことではないと思います。しかし、それでもやはり、自分だけが大切だという姿勢には非常に大きな問題があるのです。

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、自分がいちばん大切だという人たちにとっては、とにかく危ないことには巻き込まれないということが何よりも大切なことなのでしょうか? 「犯罪」であっても、「いじめ」であっても…。最悪の場合にはいちばん大切な自分を守ることを優先して「犯罪」も「いじめ」も見て見ぬ振りをしてしまうことになるのかもしれないと思います。もちろん自分が大切なのは悪いことではないと思います。しかし、それでもやはり、「犯罪」も「いじめ」も見て見ぬ振りをしたり、他の誰かを見捨てたりしてまで守らなければならないものとはいったい何なのでしょうか? さらに言えば、「犯罪」も「いじめ」も見て見ぬ振りをしたり、他の誰かを見捨てたりしてまで守ったつもりになっていても、やがてそのことがいちばん大切な自分自身に跳ね返ってくることはないのでしょうか? 「犯罪」も「いじめ」も見て見ぬ振りをしたり、他の誰かを見捨てたりしてまで大切な自分を守ったつもりになっていても、本当に最後まで守り切れるものなのでしょうか? やがてそのことがいちばん大切な自分自身に跳ね返ってくることはないのでしょうか? 最近は日本社会でも国際社会でも自分がいちばん大切だという人たちばかりが目立っているわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「自分だけなの?」(2023/4/14)

安いのは 安い『理由』や 『事情』あり! 大切なのは 自分だけなの?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でも社会でもありふれている出来事について少しだけ考えてみることにしようと思います。やはり多くの人たちにとっては自分がいちばん大切なのだろうと思います。もちろん自分が大切なのは悪いことではないのです。しかし、それでもやはり、自分だけが大切だという姿勢には非常に大きな問題があるのです。

例えば、いくら品不足だったり値上がりが止まらなかったりして生活が大変だったとしても、いつでも欲しいものをそれほど高くはない金額で好きなだけ買うことができることが何よりも重要なことなのでしょうか? あくまでも一般論ですが、他の物よりも値段が安い物には必ず「理由」や「事情」があるはずなのです。こんなに安いのは…。もしかすると「盗品」などの犯罪が絡んだ商品なのかもしれませんし、もしかすると「強制労働」などの劣悪な労働環境の下で生産された製品なのかもしれませんし、もしかすると深刻な環境汚染を引き起こしていることを隠して生産された製品なのかもしれませんし…。繰り返しになりますが、やはり自分だけが大切だという姿勢には非常に大きな問題があるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「翻弄されないために…」(2023/4/13)

唐突に こちらに向けて 飛んでくる ものに翻弄 されないために…」-

4/13朝に北朝鮮から弾道ミサイルと見られるものが発射されたなどと報道されています(→防衛省によれば北朝鮮が4/13,AM7:22頃に大陸間弾道ミサイル級のミサイル1発を発射したなどと。Jアラートでは一時ミサイルが北海道周辺に落下する危険性があるなどとされていたが、落下の危険性がなくなったなどと訂正された。ミサイルはレーダーから消失? 詳細はまだ不明)。

確かに弾道ミサイルが発射された場合には厳重な警戒が必要になります。しかし、毎回、毎回、弾道ミサイル発射からしばらくの間は社会経済活動が大きな制約を受けることになるという現状にはやはり問題があります。さらに言えば、弾道ミサイル発射が繰り返されて厳重な警戒が繰り返されるたびに多くの人たちの感覚が少しずつ麻痺して警戒の度合いが低下していくことも心配です。発射が繰り返されるたびに翻弄されて疲弊していくというのは最悪の展開です。弾道ミサイルであっても、戦闘機などであっても、唐突にこちらに向けて飛んでくるものに翻弄されないようにするためにはいったい何が必要になるのでしょうか? 今よりもずっと多くの正確な情報をずっと速く収集することが必要不可欠であるということだけは確かです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『本物』か『似た偽物』か」(2023/4/12)

『本物』か 『似た偽物』か 見極める 『秘密』であるが ゆえに困難」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事や社会のあちこちで生まれてすぐに消えていくとりとめのないことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。誰かが秘密にしていたことがなぜか暴露されて大きな波紋が広がるなどということは社会のあちこちでよくある話です。そして「秘密」というものは、それが「秘密」であるがゆえに何がどこまで真実であるかを確かめることが非常に難しいものなのです。

どこかの国家の「機密文書」が流出したとか暴露されたなどという報道がときどきあります。もちろん正真正銘本物の「機密文書」が流出したとか暴露されたという事例もあるのだろうと思います。しかし、「機密文書」が実際には「よく似た偽物」であるということも少なくないのだろうと思います。そして「機密文書」が「本物」か「よく似た偽物」であるかを見極めるためには、別の種類の「秘密」が必要になってくるのです。例えば、自分自身がその「機密文書」を作成したとか、自分もその「機密文書」と同じ「機密文書」を持っているとか、「機密文書」にしか書かれていない内容が真実であることを知っているとか…。いずれにしても、「秘密」というものは、それが「秘密」であるがゆえに何がどこまで真実であるかを確かめることが非常に難しいものなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『過程』が見えず…」(2023/4/11)

『対話型(式) AI』などが つくるもの 『過程』が見えず 信じられない!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事や社会のあちこちで生まれてすぐに消えていくとりとめのないことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。最近は日本社会でも国際社会でも「ChatGPT」などの「対話型(式)AI」などと呼ばれるものが話題になっています。そして「対話型(式)AI」などとどのように向き合うかなどということがあちこちで議論され始めているようです。

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、ごく普通の多くの人たちにとっては、少なくとも現時点においては「ChatGPT」などの「対話型(式)AI」などがつくり出すものを簡単には信じることができない状態なのです。そもそも「対話型(式)AI」の開発に携わっているごく一部の人たちを除いたほとんどすべての人たちには「対話型(式)AI」などがどこの何をどのように判断してその「もっともらしいもの」がつくり出されているのかが分からないわけです。ごく普通の多くの人たちにとっては「しくみ」や「過程(プロセス)」が不明な状態で「アウトプット」されてくる「結果」を正しいものであると信じることはなかなか難しいのだろうと思います。あえて逆の言い方をすれば、もしも「対話型(式)AI」などがどこのどのような情報をどのような理由でどのように判断したりどのように加工したりしてそのような「もっともらしいもの」をつくり出したのかということが誰の目にもハッキリと分かるような形で明らかにすることができるようになるとしたら、ごく普通の多くの人たちにとって「対話型(式)AI」などは仕事や勉強などの「質」を向上させるための大いに役立つ「道具」になるのではないかと思います。繰り返しになりますが、ごく普通の多くの人たちにとっては「しくみ」や「過程(プロセス)」が不明な状態で「アウトプット」されてくる「結果」を正しいものであると信じることはなかなか難しいのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「とりあえず『無視』」(2023/4/10)

とりあえず 『無視』することに しておけば おかしなことは 何も起きない!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事や社会のあちこちで生まれてすぐに消えていくとりとめのないことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。最近は日本社会でも国際社会でも「ChatGPT」などの「対話型(式)AI」などと呼ばれるものが話題になっています。そして「対話型(式)AI」などとどのように向き合うかなどということがあちこちで議論され始めているようです。

多少の誤解を恐れずにあえて単純化した上で率直に言わせてもらうのならば、少なくとも現時点においては、「対話型(式)AI」などというものはとりあえず無視することにしておくというのがかなり合理的な考え方ではないかと思います。少なくとも現時点においては「対話型(式)AI」などが「アウトプット」した「もっともらしいもの」にはそのままの形ではごく普通の多くの人たちの実生活の様々な場面ですぐに役立つものはほとんど存在しないのではないかと思います。言い換えれば、まず人間が「対話型(式)AI」などが「アウトプット」した「もっともらしいもの」について実際に使っても問題がないかどうかを「確認」する必要があるわけです。もちろん実際に使っても問題がないかどうかを非常に簡単に「確認」することができる「作業のようなもの」の場合には「対話型(式)AI」などを活用することに大きなメリットがあると考えられるのです。しかし、「確認」するために「人間」の方に新たに多くの労力や時間が必要になったり高度な能力が必要になったりする場合には、わざわざ「対話型(式)AI」などを使うメリットはほとんどなくなるわけです。そのように考えるのならば、少なくとも現時点においては、「対話型(式)AI」などというものはとりあえず無視することにしておくというのはかなり合理的な考え方ではないかと思います。メリットがそれほど大きくない現時点においては、デメリットが生じる危険性を0%にするというのは間違った考え方ではないと思います。少なくとも現時点においては、「人間」が「対話型(式)AI」などに何かを「インプット」しなければおかしなことは何も起こらないわけです。少なくとも現時点においては、「対話型(式)AI」などの側が「人間」に向かって次々と質問などを投げかけて勝手に様々なことをもっともらしく「アウトプット」したりするような状況にはなっていないわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「許しているか?」(2023/4/9)

有権者 地方議員に 他の選挙 手伝うことを 許しているか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にあふれている出来事を通じて今現在の日本の政治の深刻な問題点の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。今現在日本社会は統一地方選挙の「季節」を迎えています。そもそも「地方自治体の首長」や「地方議会の議員」の仕事とはいったいどのような仕事なのでしょうか? そして「地方自治体の首長」「議員」などにも働き方改革が必要ではないのでしょうか?

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、そもそも他人の選挙の手伝いをすることは「地方議会の議員」などの仕事なのでしょうか? もちろん国会で法律が制定されたり国の予算に計上されたりしなければ実現することができない地方の政治課題は存在するわけですから、「地方議会の議員」などであっても国政選挙に無関心ではいられないということは理解することができます。しかし、それでもやはり、「地方議会の議員」などが当たり前のように「国会議員の選挙」の手伝いをすることを「有権者」が本当に認めているのかということには疑問が残ります。言うまでもなく「地方議会の議員」などは「地方議会の議員にしかできない仕事」などを最優先で考えなければならないはずです。もちろん「地方議会の議員にしかできない仕事」などをしっかりとこなした上で、「地方議会の議員」などが「国会議員の選挙」の手伝いをすることは基本的には批判されるようなことではないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「地方議会の議員」などが当たり前のように「国会議員の選挙」の手伝いをすることを正当化することができるのかは疑問なのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「働き方改革」(2023/4/8)

議員にも 働き方の 改革が 必要なのは 間違いないが…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にあふれている出来事を通じて今現在の日本の政治の深刻な問題点の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。今現在日本社会は統一地方選挙の「季節」を迎えています。そもそも「地方自治体の首長」や「地方議会の議員」の仕事とはいったいどのような仕事なのでしょうか? そして「地方自治体の首長」「議員」などにも働き方改革が必要ではないのでしょうか?

当たり前と言えば当たり前の話ですが、例えば、「地方自治体の首長」の選挙で当選すればその候補者は「地方自治体の首長」として、「地方議会の議員」の選挙で当選すればその候補者は「地方議会の議員」として、それぞれ「有権者」から認められたということになるわけです。そもそも「地方自治体の首長」や「地方議会の議員」の仕事とはいったいどのような仕事なのでしょうか? どんなに少なくとも「地方自治体の首長」は「地方自治体の首長にしかできない仕事」を、「地方議会の議員」は「地方議会の議員にしかできない仕事」をそれぞれ最優先で考えなければならないはずなのです。また「地方自治体の首長」や「地方議会の議員」にはプライベートの時間が認められないのでしょうか? もちろん「地方自治体の首長」や「地方議会の議員」にもプライベートの時間は認められるはずです。さらに言えば、「地方自治体の首長」や「地方議会の議員」はプライベートの時間ならば何をやっても許されるのでしょうか? 言うまでもなくプライベートの時間は「犯罪」や「不倫」など以外のことに費やすのならば基本的には自由に過ごすことができるはずなのです。繰り返しになりますが、そもそも「地方自治体の首長」や「地方議会の議員」の仕事とはいったいどのような仕事なのでしょうか? そして「地方自治体の首長」「議員」などにも働き方改革が必要ではないのでしょうか? 様々な意味で「地方自治体の首長」「議員」などにも働き方改革が必要なはずですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「既に投票…」(2023/4/7)

不倫した? 軽率だった? 傷付けた? 既に投票 した票返らず…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にあふれている出来事を通じて今現在の日本社会や国際社会の深刻な問題点の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。今現在日本社会は統一地方選挙の「季節」を迎えています。ある選挙である候補者が当選したときには「有権者から選ばれた」などと言われることが少なくないと思います。しかし、有権者は本当に選挙で候補者を選んでいるのでしょうか? 

例えば、ある選挙で有力候補者の過去の不祥事が選挙期間中に唐突に明らかになったとします。例えば、その有力候補者の不祥事が発覚したのが投票日まであと2日とか3日というタイミングだったとします。そして不祥事が発覚したにもかかわらず、もしもその不祥事が発覚した有力候補者が当選することができたとしたならば、その不祥事が発覚した有力候補者は「有権者から選ばれた」とか「有権者から信任された」などということになるのでしょうか? 少し考えればそんなおかしなことはないと気づくはずなのです。投票日まであと2日とか3日というタイミングだったのならば、不祥事の存在を知らずに既に期日前投票で投票してしまったという有権者は少なくないと思います。不倫をしたのかどうかとか、軽率だったのかどうかとか、誰かを傷つけたのかどうかとか…。もちろんそうしたことを気にすることに意味がないわけではないのだろうと思います。しかし、「有権者から選ばれたのか」とか「有権者から信任されたのか」ということを考える場合には、どんなに少なくとも不祥事の存在を知らずに既に期日前投票で投票してしまった有権者の票は返らないということだけは絶対に見失ってはならないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「選んでいる?」(2023/4/6)

『選挙』では 人を本当に 選べるか? 選んでいると 幻想抱く?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にあふれている出来事を通じて今現在の日本社会や国際社会の深刻な問題点の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。今現在日本社会は統一地方選挙の「季節」を迎えています。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、そもそも「選挙」というものは自由で民主的な社会を実現するために必要不可欠なものなのでしょうか? 

ある選挙である候補者が当選したときには「有権者から選ばれた」などと言われることが少なくないと思います。しかし、有権者は本当に選挙で候補者を選んでいるのでしょうか? もしかすると有権者は「選んでいる」という幻想を抱いているだけなのかもしれないのです。もちろん有権者は立候補者の中からは自分が投票する候補者を自由に選ぶことができるわけです。しかし、有権者は候補者以外の人物を選んで投票することはできないわけです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、今現在の選挙の制度では有権者はいくらふさわしい人物だと思ってもその選挙に立候補していない人物に投票して当選させることはできないのです。そのように考えるのならば、選挙で立候補しているのは自分が投票したくない候補者ばかりだと感じている有権者が選挙に多くを期待しなくなったり投票率が下がったりしていくことは十分に理解することができるのではないかと思います。繰り返しになりますが、有権者は本当に選挙で候補者を選んでいるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『選挙』でいいか?」(2023/4/5)

収拾が つかなくなると 『代表』を 選ぶにしても 『選挙』でいいか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にあふれている出来事を通じて今現在の日本社会や国際社会の深刻な問題点の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。今現在日本社会は統一地方選挙の「季節」を迎えています。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、そもそも「選挙」というものは自由で民主的な社会を実現するために必要不可欠なものなのでしょうか? 

当たり前と言えば当たり前の話ですが、民主主義社会では社会全体の問題を決める場合には基本的に多数決で決めることになります。もちろんいつもすべての有権者が参加して1つひとつの問題を多数決で決めていくという方法も民主主義の1つの形としては考えられるわけです。例えば、100人程度の小さなコミュニティーならば有権者全員が参加することも不可能というわけではないのだろうと思います。しかし、例えば、有権者が数万人規模の自治体では、有権者全員に同時に同じ場所に集まってもらうことでさえも現実的には極めて難しくなるのだろうと思います。もっとも最新のインターネット回線などを利用した「リモート会議」などの形式でならば、すべての有権者が同時に同じ場所に集まりやすくなるのかもしれないとは思います。しかし、実際にどのようにしたら数万人規模の有権者が突っ込んだ議論をすることができるのでしょうか? 「リモート会議」などに一度でも参加した経験がある人ならば、賛否が分かれる問題で議論が白熱したときには完全に収拾がつかない状態になるであろうということは容易に想像することができるのだろうと思います。だからこそ現在の民主主義国家では有権者の「代表」を選んで物事を間接的な多数決で決めるという方法が採用されているのです。しかし、その上で、あえて言わせてもらうのならば、有権者の「代表」を選ぶためには選挙が必要不可欠なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「言うことを聞いてくれた?」(2023/4/4)

言うことを 聞いてくれたと いうことは どういう意味か 考えるべき」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事を通じて今現在の日本社会や国際社会の深刻な問題点の1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。社会のあちこちで「あの人は私の言うことを聞いてくれる」とか「私の言うことなんか聞いてくれない」などという話をよく耳にします。「言うことを聞いてくれる」ということはいったい何を意味しているのでしょうか? 

もしも「ある人」が黙って「別のある人」の言葉が尽きるまでずっとうなずきながら耳を傾けていたとしても、だからと言って必ずしも「言うことを聞いてくれた」ということにはならないのだろうと思います。世の中には相手が自分の主張の核心部分を受け入れてくれない限り「言うことを聞いてくれた」と思わない人間たちが少なくないのです。その上で、さらに言わせてもらうのならば、社会のあちこちで「説明不足」などというセリフもよく耳にします。個別具体的な事例のすべてがそうだと言うつもりは全くありませんが、少なくとも「説明不足」などというセリフが飛び交っている事例のうちのいくつかは相手の主張に全く耳を貸さない人間たちがいるということを意味しているのだろうと思います。相手が自分の主張の核心部分を受け入れてくれなければ「言うことを聞いてくれた」と思わない人間たちや、相手の主張に全く耳を貸さずに「説明不足」などと叫んでいる人間たちが増えれば増えるほど政治的な対立は深まるばかりですが…。繰り返しになりますが、「あの人は私の言うことを聞いてくれる」とか「私の言うことなんか聞いてくれない」などという場合の「言うことを聞いてくれる」ということはいったい何を意味しているのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『こどもまんなか』ならいいが…」(2023/4/3)

両親が 『こどもまんなか』 ならいいが… 『子育て支援』 子どものために?」-

「こども家庭庁」が4/3に発足しました(→「こども家庭庁」は厚生労働省と内閣府の関連部局を統合して内閣府の外局として発足。発足式には岸田文雄首相が出席。「こども家庭庁」は岸田内閣の掲げる「こどもまんなか社会」の実現を担う)。

しかし、非常に残念なことですが、現状では世の中のすべての親が例外なく自分の子どものことを第一に考えていると断言することができないのです。あえて言い換えれば、親の側に様々な問題があるために様々な「子育て支援」が本当に子どもの役に立っているのか非常に疑問に感じることもあるかもしれないのです。さらに言えば、世の中のすべての「大人」が自分の子どもだけではなくすべての子どもの将来のことをどこまで真剣に考えているかについても疑問を感じることが少なくないのです。もしも両親が「こどもまんなか」ではないのならば、本当に様々な「子育て支援」は子どものためになるのでしょうか? もちろん両親が「こどもまんなか」であるのならば様々な「子育て支援」は子どものためになるのだろうと思います。しかし、もしも子どものための様々な支援策を最初から子どもに対して直接給付するように制度を設計にしておくのならば、「こどもまんなか」ではない環境に置かれている子どもたちに対してもそれなりに効果を期待することができる支援策になるのではないかと思います。そして「こどもまんなか」の保護者に育てられている子どもの場合には、様々な支援策を子どもに対して直接給付するように制度を設計していたとしても保護者の監督の下でさらに確実に適切な効果を期待することができるのではないかと思います。繰り返しになりますが、もしも両親が「こどもまんなか」ではないのならば、本当に様々な「子育て支援」は子どものためになるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『労働力』にならない?」(2023/4/2)

高齢者 『労働力』に ならないと 決めつけている 根拠は何か?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事やとりとめのないことについて少しだけ書いてみることにしようと思います。高齢化というものは悪いことなのでしょうか? もしも高齢化が悪いとしたらどこがどう悪いというのでしょうか? 高齢者は「労働力」として期待することができないのでしょうか? 

あくまでも一般論ですが、もしも「高齢者」が「若者」よりも「体力」や「筋力」の面で劣っているとするのならば、これからロボット技術などがさらに発達すれば「高齢者」と「若者」の格差は縮小していくはずです。そしてもしも「体力」や「筋力」の面での「高齢者」と「若者」の格差がほとんどなくなるのならば、既に圧倒的に多くの「経験」を積み重ねてきている「高齢者」が「若者」よりも優位に立つ場面が増えていくかもしれないのです。もっとも「熟練労働者」の技術力やノウハウなどをコンピューターやAIなどの最新技術を駆使して多くの人たちの間で共有することができるようになれば、「経験」の面での「高齢者」と「若者」の格差も縮小していくことになるのだろうと思います。何にしても高齢者は「労働力」として期待することができないのでしょうか? もしも高齢者を「労働力」として期待することができないなどと決めつけているのならば、その根拠はいったい何なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「悪い?」(2023/4/1)

『高齢化』 悪いとしたら どう悪い? 何がどうして どう悪いのか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事やとりとめのないことについて少しだけ書いてみることにしようと思います。年齢を重ねることは良いことなのでしょうか? それとも悪いことなのでしょうか? 長生きをすることは良いことなのでしょうか? それとも悪いことなのでしょうか? 高齢化というものは悪いことなのでしょうか? もしも高齢化が悪いとしたらどこがどう悪いというのでしょうか?

年齢を重ねるにつれて「記憶力」や「判断力」が衰えていくことを実感している人たちは少なくないのだろうと思います。また年齢を重ねると「体力」や「筋力」などが衰えていくことを実感している人たちも少なくないのだろうと思います。しかし、例えば、コンピューターやAIなどの最新技術を駆使すれば「記憶力」や「判断力」の衰えを補うことは不可能ではないはずなのです。さらに言えば、ロボット技術などがさらに発達すれば「体力」や「筋力」などを補うことも不可能ではないはずなのです。繰り返しになりますが、高齢化は悪いことなのでしょうか? もしも高齢化が悪いとしたらどこがどう悪いというのでしょうか? きょうのところはあえてこのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。

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「信じない!」(2023/3/31)

信じたく ないものすべて 信じない! 信じたいこと だけ信じたい?」-

米ニューヨーク州・マンハッタン地区の大陪審が3/30(日本時間3/31朝)に前大統領のトランプ氏を起訴したなどと報道されて波紋が広がっています(→トランプ氏が起訴された罪状は不明。検察がトランプ氏と不倫関係にあったと主張する元ポルノ女優にトランプ氏が口止め料を支払ったとされる疑惑について捜査を進めていた。米国の大統領経験者の刑事訴追は初)。

マスメディアでは「米大統領経験者の起訴は初」などと驚きを持って伝えられています。しかし、率直に言わせてもらうのならば、「米大統領経験者」というよりも「トランプ氏」の問題として見るのならば実はそれほど意外なことではないのかもしれないと思います。良い意味でも悪い意味でも、「トランプ氏」は大統領に就任する前も、大統領在任中も、そして「前大統領」になってからも、「異例中の異例の人物」であることだけは確かなのです。事実か事実ではないかは別にしても、どんな予想外のことが起きても起きなくても全く不思議ではない…。それにしても今の米国には自分たちが信じたくないものはすべて信じず、自分たちが信じたいことだけを信じていたい人間たちがあまりも多すぎますが…。事実関係の詳細もまだ不明な現時点においてはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「春は…」(2023/3/30)

日本では 春は別れと 出会い繰り返す 桜の下で 新たな門出」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事やとりとめのないことについて少しだけ書いてみることにしようと思います。日本社会では春は別れと新しい出会いの季節です。日本社会では春は卒業や新たな門出、出発の季節でもあります。

「あのときにあの場所に行ってあの人と出会わなかったならば…」などというセリフは世の中に溢れています。もしも自分が「あのときにあの場所に」いなければ、良い出会いであったとしても、あまり良くない出会いであったとしても、とりあえず出会うことはなかったわけです。もっともたとえ「あのときにあの場所に」いなかったとしても、そう遠くないうちに再び出会うかもしれない別の機会がやってくることはあるわけです。その一方で、何年間もほぼ同じ時間帯にほぼ同じ路線・ほぼ同じ区間の電車に乗っていても互いに「出会う」ことが全くないことの方が多いこともまた事実なのです。日本社会では春は別れと新しい出会いの季節です。日本社会では春は卒業や新たな門出、出発の季節でもあります。今年の春も日本社会のあちこちで様々な別れと出会い、卒業と門出が繰り返されるのだろうと思います。それにしてもいつの間にか桜が咲いて散っていく時期がずいぶんと早くなったものですが…。東京都心の桜ももうすぐ終わりです。

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「約束される?」(2023/3/29)

『神』などに すべてのものを 差し出せば 『安心』『安定』 約束される?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事から日本社会を含めた国際社会の深刻な問題点の1つをさらに少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも仮定の話ですが、もしも「悪魔」に「魂」を売ればおカネに一生困らないような生活を送ることができるようになるとしたら、あなたは「悪魔」に「魂」を売るでしょうか? さすがにほとんどの人たちは「悪魔」には「魂」を売るようなことはしないのだろうと思います。しかし、もしも「自分が信じることができる何か」に「魂」を含めたすべてのものを差し出せば「安心」や「安定」が約束されるとしたらどうでしょうか?

もしかすると「安心」や「安定」を何よりも重視するという人たちの中には、自分の「魂」と引き換えにすれば「安心」や「安定」が得られるというのならば「魂」を差し出すという人たちもいるのかもしれないと思います。あるいは、もしかすると「神」などの「自分が信じることができる何か」に自分の「魂」を含めたすべてのものを差し出せば「安心」や「安定」が約束されるのならば「魂」を含めたすべてのものを差し出すという人たちもいるかもしれないと思います。しかし、本当に「安心」や「安定」が約束されるのでしょうか? そもそも「安心」や「安定」などというものはいったい誰がどのように実現することができるものなのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、もしも実現することができないのならば約束することもできないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『魂』を売る?」(2023/3/28)

『魂』を 売ればおカネに 困らない? 『独裁者』にも 『魂』を売る?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事から日本社会を含めた国際社会の深刻な問題点の1つをさらに少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも仮定の話ですが、もしも「悪魔」に「魂」を売ればおカネに一生困らないような生活を送ることができるようになるとしたら、あなたは「悪魔」に「魂」を売るでしょうか? さすがにほとんどの人たちは「悪魔」には「魂」を売るようなことはしないのだろうと思います。しかし、もしも「自分が信じることができる何か」に「魂」を売ればおカネに一生困らないような生活を送ることができるようになるとしたらどうでしょうか?

大昔には結婚と絡めて「玉の輿に乗る」とか「永久就職」などという言葉が使われることも少なくなかったようです。そして「終身雇用」が当たり前だった一昔前には「就社」などと呼ばれる働き方が当たり前だったわけです。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、人類の長い歴史の中では「配偶者」や「会社」などに一度は「魂」を売ってもいいと思ったことのある人たちは少なくとも何人かはいたのだろうと思います。その上で、仮定の上に仮定を重ねた上で、さらに言わせてもらうのならば、もしも「独裁者」などに「魂」を売ればおカネに一生困らないような生活を送ることができるようになるとしたら、あなたは「独裁者」などに「魂」を売るのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「どうするべきか?」(2023/3/27)

『空腹』と 『温暖化』とは どう違う? 実現のため どうするべきか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事から日本社会を含めた国際社会の深刻な問題点の1つを少しだけ考えてみることにしようと思います。くどいようですが、物事を成し遂げるために必要なことはいったい何なのでしょうか? 自分のやりたいことを実現するためにはどうするべきなのでしょうか?

多少の誤解と批判を恐れずにあえて分かりやすい事例を用いれば、あなたは「空腹」のときにはいったいどうするのでしょうか? もちろん何かを食べることになるのでしょう。では、具体的にどのようにして何かを食べることになるのでしょうか? 自分でどこかの飲食店に行って食べるとか、自分でどこかで食べるものを買ってくるとか、自分で調理をするとか…。何にしても自分で解決しようとするのが基本のはずなのです。もっともたとえ小さな子供ではなくても誰かに用意してもらうという人たちもいるのだろうとは思いますが…。さすがに今の時代には「空腹」を訴えるために繁華街や国会前などでデモ行進をしたり政治関係者や企業などを厳しく批判したりする人間たちはいないのだろうと思います。そのように考えるのならば、「地球温暖化対策」などと「空腹」などとはどこがどれだけ違っているというのでしょうか? くどいようですが、物事を成し遂げるために必要なことはいったい何なのでしょうか? 自分のやりたいことを実現するためにはどうするべきなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「必要なことは…」(2023/3/26)

物事を 成し遂げるため 必要な ことは何かと 考えるべき!」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事から日本社会を含めた国際社会の深刻な問題点の1つを少しだけ考えてみることにしようと思います。物事を成し遂げるために必要なことはいったい何なのでしょうか? 

もしかするとごく普通の多くの人たちに歴史のテストなどでよく出題されそうなことを真面目に質問してみると興味深い結果が得られるのではないかと思います。例えば、「万里の長城は誰が作ったのでしょうか?」「江戸城は誰が作ったのでしょうか?」などという質問にあなたはいったい何と答えるのでしょうか? もちろん「万里の長城は誰が作ったのでしょうか?」には「秦の始皇帝など歴代の中国の皇帝」、「江戸城は誰が作ったのでしょうか?」には「徳川家康」などと答える人たちも少なくないのだろうと思います。しかし、「え? 職人? 作業員? 誰?」などと答えようとする人たちも全くいないというわけではないのだろうと思います。「正解」は何なのでしょうか? また「正解」を知っていれば「万里の長城」や「江戸城」を実際に作ることができるのでしょうか? 繰り返しになりますが、物事を成し遂げるために必要なことはいったい何なのでしょうか? きょうのところはそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『子育て世代』だけ?」(2023/3/25)

子育ては 『子育て世代』 だけのこと? 『歳の差親子』 『未婚の父』は…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事からあえて日本社会を含めた多くの社会で深刻な問題になっている「少子化」についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います(→参考:2023/3/18付etc.)。相変わらず日本社会では様々な「少子化」対策が打ち出されています。しかし、いわゆる「子育て世代」だけが「子育て」や「少子化」対策の「当事者」なのでしょうか? 「異次元の少子化対策」とはいったい何なのでしょうか? 

繰り返しになりますが、大昔からつい最近までは、ほとんどの人たちが「若い男性と若い女性が結婚して子供が生まれる」ということは当たり前のことだと思ってきたのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「結婚」をしなくても子供が生まれるということなどを含めて「子育て」には様々な形があって良いのではないかと思います。そして「子育て世代」だけが「子育て」をするという考えが根強く残り続ける限り、さらには「女性が子供を産む」という「制約」が存在し続ける限り、いわゆる「少子化対策」を推し進めていけば、どうしても「子育て世代の女性」ばかりに負担が集中するという状況は続くことになるのだろうと思います。いわゆる「子育て世代」だけが「子育て」や「少子化」対策の「当事者」であり続ける必要があるのでしょうか? 非常に極端なことを言えば、そう遠くない将来には、例えば、かなり高齢の夫婦が子育てをして「かなり歳の差のある親子」になったり、「未婚の父親」が子育てをしたりすることも珍しいことではなくなっていくのでしょうか? ちなみに「異次元の少子化対策」とはいったい何なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「余計なお世話」(2023/3/24)

TikTok(ティックトック) 余計なお世話 多すぎる? 『おすすめ動画』 だけではないと…」-

米国や欧州などでは動画投稿アプリ「TikTok(ティックトック)」の政府職員による公用端末での利用を禁止する動きが広がっています(→3/23の米下院の公聴会でTikTokのCEO(最高経営責任者)は米国のデータは米国内に保管されて米国の会社で米国の社員により監督されているなどと主張するも理解は広がらず。TikTokの利用禁止よりも米国企業への売却を求める圧力が強まっている? 中国政府が企業や国民に対して情報活動への協力を義務付ける「情報安全法」の存在がこの問題の背景。なお米司法省と米連邦捜査局(FBI)はTikTokの中国の親会社ByteDance(バイトダンス)が米メディア記者の位置情報を監視していた疑いがあるなどとして捜査を開始している)。

率直に言わせてもらうのならば、私としては、「TikTok(ティックトック)」は少しも見たくもない動画を勝手に何回も連続再生されたりするのであまり良い印象を持っていないのです。しかし、世界中の多くの人たちが「TikTok」に投稿した動画を必要に迫られて見ざるを得なくなることが少なくないわけです。もっとも見たくもない動画を勝手に再生したり見たくもない「おすすめ動画」をしつこく表示したりするような余計なお世話が多すぎるアプリは「TikTok」だけではないわけですが…。いずれにしても「余計なお世話が多過ぎるアプリ」によって勝手に自分自身の個人情報がどこかに提供され、最悪の場合には専制主義国家の中で生活している国民と同じような扱いを受けることだけは絶対に認められないと思っているのは私だけではないと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「できるのは…」(2023/3/23)

『G7』 『日本国』にも できるのは ウクライナへの 『財政支援』?」-

外遊中にウクライナを電撃的に訪問した岸田文雄首相が3/23朝に帰国しました(→参考: 2023/3/22付、2023/3/21付、2023/2/26付etc. )。岸田首相のウクライナ電撃訪問について国会などでも議論が行われています(→岸田首相は3/23午後の参院予算委に出席)。

そもそもウクライナのために「G7」や「日本国」にもできることはいったい何なのでしょうか? 仮に日本国がウクライナに対して武器などの支援を行うことを真剣に検討したとしても、現実的にはウクライナにとってそれほど効果的な支援をすることはできないのだろうと思います。やはり最も素早くて効果的な支援は「財政支援」ということになるのではないかと思います。その上で、あえて言わせてもらうのならば、同じ「財政支援」であっても、できるだけウクライナの「復興支援」につながるようなものを中心に考えていくべきです。そしてさらに言わせてもらうのならば、「財政支援」であっても、「復興支援」であっても、できることならば一時的なものではなく、中長期的な投資につながるような支援を考えていくべきだと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『日程』」(2023/3/22)

中国の 『影響力』を 打ち消せる 『日程』だった 『電撃訪問』」-

岸田文雄首相が3/21に電撃的にウクライナを訪問したことで波紋が広がっています(→参考: 2023/3/21付、2023/2/26付etc. 。岸田首相はウクライナ・キーウで3/21夜-3/22未明(日本時間)にゼレンスキー大統領と首脳会談、共同声明を発表。なお岸田首相のウクライナ訪問は外交ルートを通じてロシア側に事前通告していたという。岸田首相はウクライナ訪問後、3/22午後にはポーランド・ワルシャワでモラウィエツキ首相と首脳会談。帰国へ)。ちなみにロシアを訪問した中国の習近平(シーチンピン)国家主席とプーチン大統領が3/21に首脳会談を行ったなどと伝えられています。

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、岸田首相の電撃的なウクライナ訪問は実はそれほど「電撃的」なものではなかったように受け止めている人たちは少なくないかもしれないと思います。日本はG7の議長国であるにもかかわらず、岸田首相以外のG7の他の国の首脳はウクライナを訪問していたわけですから、そう遠くないうちに岸田首相がウクライナを訪問する可能性が高いと予想されていたわけです。そしてもしも岸田首相がウクライナを訪問することがあるとしたら、おそらく何かの外遊の機会を利用してウクライナを訪問することになる可能性が高いのではないかと予想されていたのではないかと思います。そのように考えるのならば、今回の岸田首相の電撃的なウクライナ訪問は実はそれほど「電撃的」なものではなかったのではないかと思うのです。その上で、あえてもうひとことだけ付け加えるのならば、岸田首相の電撃的なウクライナ訪問の「時期」が偶然にも中国とロシアの首脳会談が行われている「時期」と重なったということが予想外の大きな成果を生み出したかもしれないと思います。もしも岸田首相の電撃的なウクライナ訪問が同時期になかったならば、中国はロシアとウクライナの和平交渉の「仲介者」であるかのようにふるまいながら国際社会の中でもっともっと大きな注目を集めることができていたかもしれなかったのです。そのように考えるのならば、岸田首相の電撃的なウクライナ訪問は中国の「影響力」を打ち消す効果がそれなりにあったことだけは確かなのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『電撃訪問』」(2023/3/21)

ウクライナ 『電撃訪問』 しただけで 終わらせないで もらいたいもの」-

岸田文雄首相が3/21に電撃的にウクライナを訪問しました(→参考:2023/2/26付etc. 訪問先のインドから3/21未明(日本時間)に政府専用機ではなくチャーター機でポーランド入り、3/21午前(日本時間)にポーランド・プシェミシルから列車でウクライナ・キーウを訪問してゼレンスキー大統領と会談へ。ちなみに岸田首相は3/18に日本を訪問したドイツのショルツ首相と首脳会談、3/19深夜に日本を出発、3/20昼にインドに到着してG20議長国のインドのモディ首相と首脳会談をしていた。当初の予定では3/21午後にインドを出発して帰国の途に就く予定だった)。

率直に言わせてもらうのならば、岸田首相にとっては「電撃訪問」が可能な最後の機会にようやく「電撃訪問」をすることができたということになるのではないかと思います。あえて言い換えるのならば、もしも今回の外遊の機会を逃してしまったのならば、G7広島サミット(2023/5/19-21)までに岸田首相がウクライナを訪問する可能性は事実上ほとんどなくなってしまっていただろうと思います。とりあえずきょうのところは今回の岸田首相のウクライナ訪問をただ単に電撃訪問したというだけの話で終わらせてもらいたくないとだけ言っておくことにします。

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「『温度差』」(2023/3/20)

プーチンの ために地球は 回っている? あまりにひどい 『温度差』がある!」-

ロシアを訪問中の中国の習近平(シーチンピン)国家主席とプーチン大統領が3/20に首脳会談を行ったなどと伝えられています(→3/21にも首脳会談か?)。またプーチン大統領が3/18にはロシアが2014年に一方的に併合したと主張するウクライナのクリミアのセバストポリなど、3/18-19にはウクライナを侵略しているロシアが一方的に併合を主張して不法占拠を続けているクライナ東部のドネツク州の要衝マリウポリなどを訪問したなどと伝えられています。

激戦地ではない占領した場所をわざわざ訪問することにいったいどれだけ大きな意味があるのでしょうか? まさかロシアには「プーチン大統領のために地球が回っている」などと強く思い込んでいる人間たちしかいないというわけではないのだろうと思います。しかし、ロシアなどと日本や米国や欧州を含む国際社会との間にはあまりにひどい「温度差」があることだけは確かです。いくらロシア軍が占領しているウクライナの地域を訪問してみても戦況に大きな影響を与えるわけでもなければ占領や併合を正当化することができるわけでもないのです。それにもかかわらず、訪問に何か大きな意味があるかのように訪問する…。おそらくロシアと中国の首脳会談でもまるで「自分たちのために地球が回っている」かのような勘違いをした話し合いが行われることになるのではないかという嫌な予感がしていますが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『首脳会談』」(2023/3/19)

『容疑者』に 『面会』に行く かのような 『首脳会談』 になるわけだが…」-

ロシア軍がウクライナの占領地から違法に子どもを連れ去ったという戦争犯罪の容疑で国際刑事裁判所(ICC)がプーチン大統領の逮捕状を発付したなどと3/17に発表したことで大きな波紋が広がっています(→ICCには日本を含めた123カ国が加盟。米国、中国、ロシアなどはICCに未加盟。なおロシア大統領府で子どもの権利を担当するリボワベロワ大統領全権代表にも同容疑で逮捕状)。ちなみに中国の習近平国家主席が3/20-22の日程でロシアを公式訪問してプーチン大統領と首脳会談を行うことが3/17に明らかになっています(→中国側はロシアによるウクライナ侵略戦争で和平交渉を促すなどとしていた)。

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、中国の習近平国家主席にとっては、国際社会においては新たに「戦争犯罪容疑者」という肩書きを持つことになったロシアのプーチン大統領に「面会」に行くかのような「首脳会談」になってしまったわけです。そして習近平国家主席にとっては予想外の形で自らの言動が国際社会から大きく注目されることになるのではないかと思います。例えば、チベットの子どもたちが親から引き離されて中国語で同化教育を受けさせられているなどという「噂の真相」、新疆ウイグルの多くの人たちが強制的に収容されたり強制的に労働に従事させられたりしているなどという「噂の真相」など…。さらには中国国内の人権状況についても国際的な関心が再び高まっていくことになるのかもしれないと思っています。きょうのところはあえてこれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『異次元の少子化対策』とは?」(2023/3/18)

『異次元の 少子化対策』 とは何か? 『子育て世代』 だけが『当事者』?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事からあえて日本社会を含めた多くの社会で深刻な問題になっている「少子化」について少しだけ考えてみることにしようと思います。相変わらず日本社会では様々な「少子化」対策が打ち出されています。しかし、いわゆる「子育て世代」だけが「子育て」や「少子化」対策の「当事者」なのでしょうか? 「異次元の少子化対策」とはいったい何なのでしょうか? 

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、大昔からつい最近までは、ほとんどの人たちが「若い男性と若い女性が結婚して子供が生まれる」ということは当たり前のことだと思ってきたのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、たとえ「結婚」をしなくても、子供が生まれるということはよくあることなのです。しかし、それでもやはり、どんなに少なくとも現時点では「女性」がいなければ子供が生まれてくるということはないのです。そして大昔から今現在も「女性が子供を産む」ということについてはほぼ誰もが少しも疑いを抱いていないわけです。そのように考えるのならば、いわゆる「少子化対策」を推し進めていけば、「女性が子供を産む」という「制約」が存在し続ける限り、どうしても「子育て世代の女性」ばかりに負担が集中するという状況は少しも変わらないわけです。いわゆる「子育て世代」だけが「子育て」や「少子化」対策の「当事者」なのでしょうか? 「異次元の少子化対策」とはいったい何なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『空白』を埋めて…」(2023/3/17)

『空白』を 埋めて新たな 関係を 再構築し 未来をつくる!」-

岸田文雄首相は3/16に韓国の尹錫悦(ユンソンニョル)大統領と首相官邸で会談しました(→岸田首相と尹大統領は首脳会談後に共同記者会見。日韓両国の首脳が互いに相手国を訪問する「シャトル外交」の再開、「日韓安全保障対話」「日韓次官戦略対話」の早期再開などでも一致。また日本政府は3/16に2019年から行っていた韓国向け半導体素材3製品の輸出規制強化措置の解除を決定。いわゆる「徴用工」問題で韓国側の財団が元徴用工側への支払いを行うという「措置」を打ち出して日本側が評価したことを受けての関係改善(→日韓とも財団の「求償権」の行使については想定せずと)。なお岸田首相と尹大統領は銀座の日本料理店と洋食店で飲食。ちなみに国際会議出席以外の韓国大統領の日本訪問は2011年12月の李明博(イミョンバク)氏以来約12年ぶり)。

私としては、今回の日韓首脳会談によって日韓関係は長い「空白」の期間をようやく終え、正常な方向に向けて第一歩を踏み出したことになると受け止めています。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、日韓基本条約と日韓請求権・経済協力協定を「大前提」として日韓両国・両国民の間に信頼関係を積み重ねてきた人たちにとっては、少なくとも最近約5年間は唐突に地球上から「大韓民国」が消滅したような不幸な状態が続いていたように認識しています。このまま「空白」を埋めて真の意味での未来志向の新しい日韓関係を再構築して日韓両国で共に未来をつくっていきたいものだと心から思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「できることない?」(2023/3/16)

『ミサイル』を 発射してみる ぐらいしか できることない 独裁国家?」-

北朝鮮が3/16朝に大陸間弾道ミサイル(ICBM)級の長距離弾道ミサイル1発を発射しました(→参考:2023/2/19付、2022/11/18付etc. 防衛省などによると、北朝鮮・平壌(ピョンヤン)近郊から3/16,7:09頃に東方向に向けて発射され、約70分間飛行して北海道の渡島大島の西方約200kmの日本国の排他的経済水域(EEZ)の外側の日本海に落下したと見られる。飛行距離は約1000km、最高高度は約6000km、「ロフテッド軌道」で。ミサイルの射程距離は弾頭の重量によるものの1万5000km超で米全土が射程内になると見られている)。

何度も繰り返していますが(→参考:2022/11/18付etc.)、そもそもなぜ北朝鮮はミサイルを次々と発射しているのでしょうか? もちろん「米本土を攻撃することができる核兵器を搭載した大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発を急いでいる」などということは確かなのだろうと思います。しかし、本当にそのことによって北朝鮮にとって好ましい方向に事態は動くようになるのでしょうか? いくら弾道ミサイルの発射を繰り返しても米国が北朝鮮を「核保有国」などと認めて「軍縮交渉」に応じる気配は全く見られないわけです。それにもかかわらず、北朝鮮は弾道ミサイルの発射を繰り返す…。もしかすると北朝鮮は弾道ミサイルの発射を繰り返すぐらいしかできることがない独裁国家なのでしょうか? やはり最近の北朝鮮は科学的・合理的な判断に基づいて行動しているようには見えないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「妨害は…」(2023/3/15)

妨害は 『ならず者』らの 得意技! 操縦ミスか? 技量が分かる?」-

米軍は黒海上空の国際空域を飛行していた米空軍の無人偵察機に対してロシア軍の戦闘機2機が妨害行為を行った末に衝突して無人機が制御できなくなったために海上に墜落させたと3/14に発表したことで波紋が広がっています(→ロシア軍の戦闘機が米軍の無人機に対して約30分間に渡って19回接近を繰り返して最後の3、4回は燃料を噴射して無人機のカメラを汚そうとしたなどと報道されている。衝突は故意ではなく操縦ミス? 無人機の後方のプロペラへの衝突によってロシアの戦闘機も一部損傷? ロシア側は戦闘機と無人機との衝突を否定)。

どうやら高速道路での悪質な危険運転かそれ以上のことが「ならず者」らによって公海やその上空でも行われているようです。そして黒海だけではなく、東シナ海や南シナ海などで起こっていることを含めれば、公海上やその上空での「ならず者」らによる妨害は日常茶飯事なのだろうと思います。そもそも衝突はあったのか? また衝突したのならばその原因は何か? 意図的な衝突か? それともパイロットの操縦ミスなどか? 事件の真相が明らかになる際にはロシア軍の戦闘機のパイロットの技量なども一緒に明らかにされることになるのだろうと思います。何にしてもそう遠くないうちに証拠映像が公開される可能性もありますから、米軍の無人偵察機とロシア軍の戦闘機の間で実際に何が起こっていたのかが明らかになっていくのではないかと思います。さらにもうひとこと付け加えるのならば、大昔には戦闘機のミサイルで民間航空機を撃墜していたにもかかわらず、「レーダーから突然消えた」などと主張するようなことも不可能ではなかったわけです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「努力をすれば…」(2023/3/14)

自分だけ 努力をすれば 上手くいく? 相手の方も 受け入れないと…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事からあえて日本社会によくあるいくつかの問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。世の中にはいくら自分だけが一生懸命頑張って努力し続けてもどうにもならないことはたくさんあると思います。もちろん努力し続けることに意味がないというわけではないのです。しかし、いくら自分だけが努力し続けてもどうしようもないことがあることは確かなのです。

例えば、「恋愛」のような相手のある話の場合には、いくら自分だけが一生懸命頑張って努力し続けても決して報われることのない危険性がそれなりにあるわけです。「恋愛」のような相手がある話の場合には、いくら自分自身を磨き続けて魅力的な存在になったとしても、相手の側が自分を全く受け入れてくれないということは非常によくある話ではないかと思います。さらに言わせてもらうのならば、「恋愛」のような相手がある話の場合には、いくら自分だけが思いを募らせてその一方的な強い思いを相手に押し付けても上手くいかないのです。その上で、あえてもうひとこと付け加えるのならば、「戦争」とか「平和」というものも相手がある話のはずなのです。そのことに注意をするのならば、「戦争」とか「平和」というものも自分だけが一方的に思いを募らせて他人に押し付けても実現しないのではないかと思います。「LOVE & PEACE」などという言葉が想像以上に含蓄のある言葉なのかどうかは分かりませんが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「判断できず?」(2023/3/13)

自分では 判断できず 周り見て マスクを外す 判断すると?」-

政府が3/13から新型コロナウイルスの感染拡大防止のために続けられてきたマスク着用を屋内・屋外を問わず個人の判断に委ねるようになったことがあちこちで話題になっています。マスメディアなどでは主にマスクをしている人たちとマスクをしていない人たちの割合などに注目して各地の街頭などの様子を繰り返し伝えています。

率直に言わせてもらうのならば、そもそもいわゆる「ジェンダー平等」というものは「男女平等」とか「男女同数」などということと同じものなのでしょうか? さらに率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「ジェンダー平等」というものは「平等」とは違ったものなのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて言い換えるのならば、たとえ「男性グループ」と「女性グループ」のそれぞれの内部、あるいは「ある男性」と「ある女性」の間に「不平等」が残っていたとしても、「男性グループ」と「女性グループ」とが「平等」でありさえすれば、いわゆる「ジェンダー平等」というものは実現したことになるのでしょうか? その上で、さらに言わせてもらうのならば、そもそも「男性」「女性」「ジェンダー」とはいったい何を意味しているのでしょうか? 繰り返しになりますが、ありふれている出来事を真剣に考えようとすればするほど、様々な「常識」を疑ってみるところから始めなくてはならなくなるのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「残っていても…」(2023/3/12)

『不平等』 残っていても 『平等』か? 『同数』ならば 『平等』なのか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事からあえて日本社会によくあるいくつかの問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。実はありふれている出来事を真剣に考えようとすればするほど、様々な「常識」を疑ってみるところから始めなくてはならなくなるのです。例えば、いわゆる「ジェンダー平等」などということを考える場合には、多くの人たちが考えている以上に様々な「常識」を疑ってみるところから始めなくてはならないのです。

率直に言わせてもらうのならば、そもそもいわゆる「ジェンダー平等」というものは「男女平等」とか「男女同数」などということと同じものなのでしょうか? さらに率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「ジェンダー平等」というものは「平等」とは違ったものなのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて言い換えるのならば、たとえ「男性グループ」と「女性グループ」のそれぞれの内部、あるいは「ある男性」と「ある女性」の間に「不平等」が残っていたとしても、「男性グループ」と「女性グループ」とが「平等」でありさえすれば、いわゆる「ジェンダー平等」というものは実現したことになるのでしょうか? その上で、さらに言わせてもらうのならば、そもそも「男性」「女性」「ジェンダー」とはいったい何を意味しているのでしょうか? 繰り返しになりますが、ありふれている出来事を真剣に考えようとすればするほど、様々な「常識」を疑ってみるところから始めなくてはならなくなるのです。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「『実体験』を持たないが…」(2023/3/11)

次世代は 『実体験』を 持たないが 次の時代も 『記憶』に残る」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事からあえて日本社会によくあるいくつかの問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。もちろん悲惨な戦争や自然災害の実体験のある人たちの記憶を継承するとか語り継いでいくなどということはとても大切なことです。しかし、時が流れれば戦争や大きな自然災害の実体験のある世代の人たちの数がどんどん少なくなっていくことは避けることができないことのはずなのです。そう考えればそう考えるほど、一人ひとりの実体験に基づいた「個人の物語」を抽象化して「教訓」というか様々な意味で個人の実体験を超えた社会全体の「記憶」のようなものをどれだけ多く残すことができるのかが重要ではないかと思います。

悲惨な戦争や自然災害の実体験のある人たちが語る悲惨な戦争や自然災害の話に多くの人たちはなぜ迫力や説得力を感じるのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、悲惨な戦争や自然災害を語っている人たち自身の「実体験」だからです。そのように考えるのならば、「実体験のある人たち」から「実体験を持たない世代の人たち」が受け継いで語る悲惨な戦争や自然災害の話に多くの人たちは「実体験のある人たち」が語ったのと同じような迫力や説得力を感じるでしょうか? あくまでも念のために言っておきますが、「実体験を持たない世代の人たち」が「実体験のある人たち」から悲惨な戦争や自然災害の話を受け継いで語ることに全く意味がないわけではないのです。「実体験を持たない世代の人たち」が「実体験のある人たち」から自分自身が体験していないことを語ることができるくらいしっかりと悲惨な戦争や自然災害のことを受け継ぐということは、どんなに少なくとも次の時代も社会の中に悲惨な戦争や自然災害のことを「記憶」している人たちが確実に残るということを意味することにはなるのです。きょう3/11で東日本大震災から12年になります。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「とりあえず…」(2023/3/10)

とりあえず 『男』を見たら 批判して 『女』を見たら 味方しておく?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事からあえて日本や国際社会の非常に深刻な問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら人間というものは、自分が信じたいものだけを信じようとし、自分が信じたくないものは信じようとしない傾向があるようです。そして実際に多くの人たちが信じたいものだけを信じ、信じたくないものは頑なに信じようとしないのです。最悪の場合には、まるで何を言っても全く耳を貸そうともしない「カルト宗教の信者」と同じような状態になってしまうわけですが…。

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「ジェンダー平等」とはいったい何なのでしょうか? とりあえず「男」を見たら批判して「女」を見たら味方しておけば大きな問題はないのでしょうか? 確かに「ジェンダー平等」などという言葉がわざわざ使われる場合には女性の側が「善」で男性の側が「悪」という構図になっていることがほとんどです。もちろん「男が善で女が悪」という構図もあり得ないというわけではないのだろうと思います。「ジェンダー平等」とは必ずしも「男が悪で女が善」などということではないはずなのです。おそらく実際には「男が悪で女が善」というケースの方がずっと多いのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「ジェンダー平等」とは「男が悪で女が善」などということではないはずなのです。残念ながら人間というものは、自分が信じたいものだけを信じようとし、自分が信じたくないものは信じようとしない傾向があるようです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「書かれると…」(2023/3/9)

『文書』内 『名前』『発言』 書かれると 辞めさせられる ことになるのか?」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事からあえて日本や国際社会の非常に深刻な問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら人間というものは、自分が信じたいものだけを信じようとし、自分が信じたくないものは信じようとしない傾向があるようです。そして実際に多くの人たちが信じたいものだけを信じ、信じたくないものは頑なに信じようとしないのです。最悪の場合には、まるで何を言っても全く耳を貸そうともしない「カルト宗教の信者」と同じような状態になってしまうわけですが…。

繰り返しになりますが、「役人」というものはいついかなるときであっても正しくて絶対に間違うことはないのでしょうか? さすがにそんなことはないはずです。そのように考えるのならば、「役人」が職務上作成・取得した「行政文書」に書かれている内容が絶対に正しいということにはならないはずなのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「役人」が職務上作成・取得した「行政文書」であっても、その他の「文書」であっても、そこに書かれている内容が真実かどうかを確かめる必要があるはずなのです。さらに付け加えるのならば、「文書」の内容が真実であるかどうかを示す責任があるのは、基本的には、「文書」に書かれた人間たちではなく、「文書」を作成した人間たちや書かれている内容が真実であると主張する人間たちのはずなのです。あくまでも自分たちが信じたいものだけを信じ、自分たちが信じたくないものを信じようとしない人間たちによって多くの人たちの貴重な時間と労力が浪費させられることになるかもしれないということには注意が必要です。何にしても「行政文書」というものはどんなに少なくとも「そこに名前や発言などが書かれた人間は辞任させられることになるノート」などではないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『信者』のような…」(2023/3/8)

信じたい ものだけ信じ 突き進む 『信者』のような 人間たちは…」-

きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事からあえて日本や国際社会の非常に深刻な問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。残念ながら人間というものは、自分が信じたいものだけを信じようとし、自分が信じたくないものは信じようとしない傾向があるようです。そして実際に多くの人たちが信じたいものだけを信じ、信じたくないものは頑なに信じようとしないのです。最悪の場合には、まるで何を言っても全く耳を貸そうともしない「カルト宗教の信者」と同じような状態になってしまうわけですが…。

あくまでも一般論ですが、「役人」というものはいついかなるときであっても絶対に正しくて間違ったことをしないのでしょうか? さすがにそんなことはないはずです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「役人」も人間ですから、どんなに真面目に仕事をしていてもミスをすることはあるでしょうし、私利私欲にとらわれて様々な正しくないことをすることもあるはずなのです。そして実際に「役人」が犯罪に手を染める事件は後を絶たないわけです。だからこそ「役人」や「行政」が国民のために正しい仕事をしているのかどうかを「監視」する必要があるはずなのです。そして「役人」や「行政」が国民のために正しい仕事をしているのかどうかを「監視」するために重要な役割を担うことを期待されているのが「議会」や「報道」のはずなのです。しかし、それにもかかわらず、「議会」や「報道」があくまでも自分たちが信じたいものだけを信じ、自分たちが信じたくないものを信じようとしないのならば、「役人」や「行政」が国民のために正しい仕事をしているのかどうかを「監視」することができるわけがないのです。もしもあくまでも自分たちが信じたい「行政文書」だけを無条件に信じて突き進むような人間たちであるのならば、「カルト宗教の信者」との違いが非常に分かりにくくなってしまうはずですが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「批判するだけで…」(2023/3/7)

『悪者』を 厳しく批判 するだけで 受け入れられる 社会でいいか…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事からあえて日本や国際社会のいくつかの深刻な問題についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。いつの時代のどこの場所でも評判の悪くなった「古巣」を厳しく批判するようになる人間たちはいるわけです。しかし、そんな「古巣」を厳しく批判する人間たちの中にはその厳しい批判が自分自身に跳ね返ってくるケースも少なくないのです。

あえて率直に言わせてもらうのならば、ほとんどすべての人たちが「悪者」だと思っているもの、例えば、「独裁政権」などを厳しく批判しさえすればそれだけで評価されてしまうような社会はかなり深刻な問題を抱えていると思います。そんな社会だからこそ生き残るために「古巣」を厳しく批判する人間たちが次から次に出てくることになるのだろうと思います。たとえどこの誰であったとしてもほとんどすべての人たちが「悪者」だと思っているものを厳しく批判するだけで受け入れてもらえるようになる…。本当にそんなことを許してしまう社会でいいのでしょうか? 最悪の場合には上手く立ち回った「悪者」を生き残り続けることができるようにすることにもなりかねないわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「選択肢なし?」(2023/3/6)

あのときは 生き残るため 言いなりに なる以外には 選択肢なし?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事からあえて日本や国際社会のいくつかの深刻な問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。いつの時代のどこの場所でも評判の悪くなった「古巣」を厳しく批判するようになる人間たちはいるわけです。しかし、そんな「古巣」を厳しく批判する人間たちの中にはその厳しい批判が自分自身に跳ね返ってくるケースも少なくないのです。

非常に極端な例を挙げれば、「独裁政権」の時代に「独裁政権」の言いなりになってそれなりに成功してきた人間たちの中には、「独裁政権」崩壊後に「生き残るために言いなりになる以外の選択肢はなかった」などと釈明した上で「独裁政権」を厳しく批判するようになる人間たちがいるのです。なるほど確かにそういうことだったのかもしれないとは思います。しかし、そういうことであるのならば、全く同じ人間たちがそう遠くない将来に「あのときは生き残るために他に選択肢がなかった」などと釈明しながら今現在の状況を厳しく批判するようになっている可能性がかなり高いのだろうと思います。その上で、さらに付け加えるのならば、例えば、「独裁政権」の時代でもあくまでも「独裁政権」の言いなりにならずに抵抗し続けて冷遇され続けた人たちもいるわけです。そういう人たちはもう生き残っていないのでしょうか? 何にしても今現在の日本社会にも様々な「古巣」を厳しく批判している人間たちがいるわけです。それぞれの人間たちがそれぞれの「古巣」にいたときにどうだったのかは知りませんが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『混乱の種』」(2023/3/5)

『混乱の 種』が入って くることは おそらくあるが 『芽』は出させない!」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事からあえて日本や国際社会の将来について少しだけ考えてみることにしようと思います。たとえ自分たちやその周辺が深刻な問題に直面していなかったとしても、地球上には一人ひとりの個人の人権や生命や財産などを脅かす様々な脅威が今も存在しているのです。そしてもしも現時点では自分たちやその周辺にはそれほど深刻な問題が存在していなかったとしても、そう遠くない将来には自分たちとその周辺にも個人の人権や生命や財産などを脅かす非常に深刻な問題が発生するかもしれないのです。ヒト、モノ、カネ、情報などが地球規模で移動するグローバリゼーションの時代には自分たちだけが平和や豊かさや自由を享受し続けることは難しくなっているのです。

きょうも「ヒト」の国際移動についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います(→参考:2023/3/4付etc.)。繰り返しになりますが、ある場所からある場所に「ヒト」が国際移動するということは、それに伴って「文化」や「慣習」なども国際移動するということになるわけです。その上で、多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「ヒト」の国際移動に伴って悪い意味での「文化」や「慣習」も国際移動する危険性があるということも確かなのです。地球上のあちこちで移民排斥などを唱えている人間たちが主張するように、もしも内戦が続き凶悪犯罪が日常茶飯事になっている破たん国家のような場所からあまりにも多くの人たちが流入してきたのならば、その社会に「混乱の種」が持ち込まれる危険性が高くなることは確かです。しかし、「ヒト」の国際移動に伴って「混乱の種」を持ち込ませないようにするための方法を考えることはできるはずです。そしてたとえ「ヒト」の国際移動に伴って「混乱の種」が多少持ち込まれることがあったとしても「芽」を出させないようにすることは不可能ではないはずなのです。いずれにしても「ヒト」の国際移動は好ましいものも好ましくないものも含めた「文化」や「慣習」などの国際移動でもあるということなのです。きょうのところはとりあえずこれ以上のことは言わないことにしておきます。

「一緒に…」(2023/3/4)

ある場所に 『ヒト』が国際 移動する ときには『文化』 なども一緒に…」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている出来事からあえて日本や国際社会の将来について少しだけ考えてみることにしようと思います。たとえ自分たちやその周辺が深刻な問題に直面していなかったとしても、地球上には一人ひとりの個人の人権や生命や財産などを脅かす様々な脅威が今も存在しているのです。そしてもしも現時点では自分たちやその周辺にはそれほど深刻な問題が存在していなかったとしても、そう遠くない将来には自分たちとその周辺にも個人の人権や生命や財産などを脅かす非常に深刻な問題が発生するかもしれないのです。ヒト、モノ、カネ、情報などが地球規模で移動するグローバリゼーションの時代には自分たちだけが平和や豊かさや自由を享受し続けることは難しくなっているのです。

きょうは「ヒト」の国際移動について少しだけ考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「ヒト」は一人ひとりそれぞれ違った「個性」を持った存在なのです。そして「個性」というものはそれぞれが生まれ育ったり今現在生活したりしている「環境」からも強い影響を受けているのです。そのことにあえて注目するのならば、「個性」というものは確かに一人ひとりそれぞれ違っているわけですが、同じような「環境」の影響を強く受けてきた人たちの「個性」の中には「似ている部分」が多くなると考えることもできるわけです。そしてそれぞれの人たちの「個性」の中の「似ている部分」は「文化」や「慣習」などと呼ばれているのだろうと思います。そのように考えるのならば、ある場所からある場所に「ヒト」が国際移動するということは、それに伴って「文化」や「慣習」なども国際移動するということになるわけです。あえて言い換えれば、「ヒト」の国際移動は「文化」や「慣習」などの国際移動でもあるということなのです。きょうのところはそのことを指摘するだけにとどめてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。

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「無駄だったのか?」(2023/3/3)

国会が 今でもそんな 大事なら 『副大臣』は 無駄だったのか?」-

インド・ニューデリーで開かれていたG20(主要20カ国・地域)の外相会合が3/2に閉幕しました(→ウクライナ情勢による米中ロなどの対立のために共同声明の採択は見送りに。米国のブリンケン国務長官、ロシアのラブロフ外相、中国の秦剛外相などが出席。米国のブリンケン国務長官とロシアのラブロフ外相も約10分間会話をしたという。ちなみに林芳正外相が参院予算委への出席を優先してG20外相会合への出席を見送ったことで波紋が広がっている)。

それにしても林芳正外相が国会出席を優先してG20外相会合への出席を見送ったということを知って驚いたり呆れたりしているという人たちは少なくないのだろうと思います。今でもそんなに国会出席が大事だというのならば「副大臣・政務官」制度はいったい何のために導入したのでしょうか? もしも「副大臣」が国会答弁程度のことでさえも「大臣」の代理を務めることが許されないのだとしたら「副大臣」のポストをつくったのは無駄だったのでしょうか? あえて率直に言わせてもらうのならば、やはり外務大臣には外務大臣の本来の職務を最優先で考えてもらいたいものです。そして外務大臣の本来の職務を最優先で考えようとする外務大臣の足を引っ張るような真似はしないでもらいたいものです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「何が問題か?」(2023/3/2)

『少子化』の いったい何が 問題か? 継承させる ものはないのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている話題から今現在の日本の政治の深刻な問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。今に始まった話ではありませんが、日本社会ではもっともらしく様々な「少子化」対策が声高に唱えられています。何度か繰り返していますが(→参考:2023/2/9付、2023/1/24付、2023/1/23付、2023/1/7付etc.)、そもそも「少子化」や「人口減少」のいったい何が問題なのでしょうか? 

もちろん「少子化」や「人口減少」が進行することによって主な「労働力」となる若い人たちの数が減ったり国全体の人口が減少したりすれば経済に悪影響を及ぼすことになるのだろうと思います。しかし、「労働力不足」は、著しい技術革新や世の中の仕組みを抜本的に変革することによって解決することも不可能ではないはずなのです。例えば、そう遠くない将来には今現在は人間にしかできない様々な仕事や作業のほとんどをロボットなどにも担わせることができるようになる可能性があるのです。ですから、もしも「労働力不足」になることが理由で「少子化」や「人口減少」を問題視しているのならば、実際に「少子化」や「人口減少」が進行し続けたとしてもそれほど深刻な問題にはならないように思います。ここで別の見方をしてみることにします。もしも「少子化」や「人口減少」が進んでいけば社会や文化の担い手が減少してやがてその社会や文化が継承されなくなる危険性が高まるわけです。あえて単純化して言い換えるのならば、「少子化」や「人口減少」が進めばやがて社会や文化が「滅亡」するということにもなりかねないわけです。もちろん社会や文化が「滅亡」することを避けるためには「少子化」や「人口減少」に歯止めをかけなければならないなどということになるのだろうと思います。その上で、あえて念のために確認しておきますが、そもそも今現在の社会には次世代に継承させるべきものがいったいどのくらい存在しているのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『子育て』は…」(2023/3/1)

『子育て』は いつになったら 終わるのか? 15歳とか 18歳か?」-

きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」にありふれている話題から今の日本の政治の深刻な問題について少しだけ考えてみることにしようと思います。繰り返しになりますが、最近は永田町周辺から「子ども予算」を増やすべきだとか倍増させるべきなどという主張がよく聞こえてきます。ところで「子ども予算」とはいったい何を意味しているのでしょうか? 肝心なことをハッキリさせないまま「子ども予算」などという言葉だけが繰り返されているわけですが…。

やはり「子育て」はとても大変なことなのだろうと思います。一人の子どもが新しく生まれてくるときには「親」にはそれなりに大きな負担が新しく生じることだけは確かです。ですから産前産後休業、育児休業、出産育児一時金、その他の出産関係費用の補助などを充実させるのは悪い話ではないと思います。そして生まれてきた子どもが少し大きくなってきたら保育所などになかなか入れないなどという問題にも悩まされることになるのだろうと思います。そのような問題を解決するためには保育サービスなどを拡充することも必要なのだろうと思います。そしてやはり「子育て」には何かとおカネがかかるのだろうと思います。子どもの医療費を無料化したり児童手当を拡充したりすることも悪い話ではないのだろうと思います。財源の目途が立つのならばそれらの予算を増やせばいいのだろうと思います。その上で、多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、そもそも「子育て」というものはいったいいつになったら終わるのでしょうか? 義務教育が終了する15歳なのでしょうか? 成人年齢の18歳なのでしょうか? あるいは、就職が決まって社会人になったときなのでしょうか? どんなに少なくとも「子育て」というものは子供が小学校や中学校に入学した後も続くことだけは確かなのです。きょうのところは「子育て」というものはかなり長く続くものであるということをあえて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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