東京都心⇔旧地名残る仙台市中心部
千葉潤 政治過程 行政書士事務所(東京都)/自由自律/公私の区分/自助・共助・公助/行政区画・区域の弊害是正/反・旧民主&共産勢力/反・消費税廃止勢力/反ポピュリズム/反カルト/母校は「故郷」/政治を「科学」にする/人間の安全保障/男女共同参画/老若男女生涯現役社会/仙台は元祖東北・新首都圏
「『幸せに 必ずする』と 約束を した『この人』を 信じてきたが…」-。
きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はできるだけ多くの人たちに集まってきてもらいたいのになかなか期待通りに多くの人たちが集まってこない場所で「マッチング」なるものを採用しようという動きがあるようです。特に選挙などに「マッチング」なるものを導入した場合には事後検証は必要ないのでしょうか? 世の中には「必ず幸せにする」などと約束したから「この人」を信じてきたが…、などという話はよくある話ですが…。
くどいようですが、確かに世の中では、趣味が同じだとか、興味を持っていることが同じだとか、将来の夢が同じなどという理由で、今まで全く接点のなかった「ある人」と「別のある人」が意気投合するなどというようなことはあるのだろうと思います。それは選挙などに「マッチング」を導入した場合であっても基本的には変わらないのだろうと思います。そして「有権者」が「この人」なら自分の夢をきっと実現してくれると信じて投票する「候補者」を選んで決めるようなこともあるのだろうと思います。「有権者」が信じた結果はどうだったのでしょうか? 特に選挙などに「マッチング」なるものを導入した場合には事後検証は必要ないのでしょうか? 「必ず幸せにする」などと約束したから「この人」のことを信じてきたが…、などという話はよくある話ですが、選挙の場合には早ければ4年もすれば事後検証が可能なはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 (twitter:http://twitter.com/jchiba_net
(ホームページ版:http://www.jchiba.net/)。
(ブログ版:http://blog.goo.ne.jp/jchiba_net、http://blog.goo.ne.jp/jchiba_g)。
「『趣味』が合う 『夢』が同じと いうだけで 『夢』を実現 することできる?」-。
きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はできるだけ多くの人たちに集まってきてもらいたいのになかなか期待通りに多くの人たちが集まってこない場所で「マッチング」なるものを採用しようという動きがあるようです。「マッチング」なるものには事後検証は必要ないのでしょうか? 特に選挙などに「マッチング」なるものを導入した場合には…。
繰り返しになりますが、確かに世の中では、趣味が同じだとか、興味を持っていることが同じだとか、将来の夢が同じなどという理由で、今まで全く接点のなかった「ある人」と「別のある人」が意気投合するなどというようなことはあるのだろうと思います。しかし、選挙などに「マッチング」を導入して「有権者」が自分の投票する「候補者」を決めようとする場合には、「候補者」や「政党」が自己申告で「プロフィール欄」に書いた「趣味」や「興味を持っていること」や「将来の夢」が本当に正しいのかどうかとか、「夢」などを実現するために必要な十分な能力を本当に持っているのかなどということを有権者が見極めるための時間的な余裕が非常に乏しいのです。そもそも「趣味」が合うとか「夢」が同じというだけで「夢」を実現することできるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『マッチング』 したその後は どうなるか? 事後検証は 必要ないか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はできるだけ多くの人たちに集まってきてもらいたいのになかなか期待通りに多くの人たちが集まってこない場所で「マッチング」なるものを採用しようという動きがあるようです。ちなみに「マッチング」なるものには事後検証は必要ないのでしょうか? 確かに世の中では、趣味が同じだとか、興味を持っていることが同じだとか、将来の夢が同じなどという理由で、今まで全く接点のなかった「ある人」と「別のある人」が意気投合するなどというようなことはあるのだろうと思います。確かに「マッチング」なるものは今まで全く接点のなかった人たち同士を結び付けるために役に立つ手段の1つにはなるのだろうと思います。しかし、いくら意気投合したからと言っても、それだけですぐに「結婚」を決めるような人たちはほとんどいないのだろうと思います。もっとも「マッチング」なるもので意気投合することができる人と出会ったら「お付き合い」を始めるという人たちはそれなりにいるのだろうと思います。特に「マッチング」なるものが導入されている場所にわざわざやってくるような人たちの場合には「お付き合い」を始めるという人たちが多いのかもしれないと思います。さて、ここで問題になるのは、選挙などに「マッチング」を導入して「有権者」が自分の投票する「候補者」や「政党」を決めようとする場合です。「候補者」や「政党」が自己申告で「プロフィール欄」に書いた「趣味」や「興味を持っていること」や「将来の夢」は本当に正しいのでしょうか? 「候補者」や「政党」が書いた「趣味」や「興味を持っていること」や「将来の夢」が本当だったとしてもどれだけ情熱を持っているのでしょうか? そして何より「夢」などを実現するために必要な十分な能力を持っているのでしょうか? そもそも「マッチング」なるものには事後検証は必要ないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『火災』とか 『交通事故』や 『病死』とか… 『攻撃』でない? 『何か』が起こる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「そもそも」今現在の国際社会では「報復攻撃」などというものが認められているのでしょうか? 最近は改めて「そもそも…」と考え直してみなければならないことが増えていますが…。 きょうもあえて個別具体的な固有名詞や事例は取り上げないことにしておきますが、攻撃を受けた側は本当に「報復攻撃」を実施することを思いとどまるのでしょうか? あるいは、「報復攻撃」を抑制的に実施することになるのでしょうか? さらに言えば、そもそも「報復攻撃」を実施するとか実施しないとか実施したとか実施しないなどということについてわざわざ言及しなければならないのでしょうか? またそもそも今現在の国際社会では「報復攻撃」などというものが認められているのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、もしもどこかの国の軍事施設などで大規模な「火災」や「爆発」事故が発生したり、どこかの国の軍人や研究者らがどこかで「交通事故」に遭ったり「病死」したり、その他の「何か」が起こったりしたとしてもそれだけでは「報復攻撃」などと主張することはできないということには注意が必要になります。くどいようですが、そもそも今現在の国際社会では「報復攻撃」などというものが認められているのでしょうか? 繰り返しになりますが、どんなに少なくとも「報復攻撃」を正当化したり容認したりするということは大規模な戦争を引き起こすことになりかねないあまりにも愚かな主張であるということだけはあえて指摘した上で強調しておくことにしておきます。 ======================================= 「『シリア』とか 『レバノン』だとか 『ガザ』などで 『報復』でない 何かが起こる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「そもそも」今現在の国際社会では「報復攻撃」などというものが認められているのでしょうか? 最近は改めて「そもそも…」と考え直してみなければならないことが増えていますが…。 きょうはあえて個別具体的な固有名詞や事例は取り上げないことにしておきますが、もしも「どこかの勢力」が「報復攻撃」などと主張して「先制攻撃」をした場合には、攻撃を受けた側は本当に「報復攻撃」を実施することを思いとどまるのでしょうか? あるいは、「報復攻撃」を抑制的に実施することになるのでしょうか? もしかすると「シリア」とか「レバノン」とか、そして「ガザ」などで「報復攻撃」ではない「新たな何か」が発生する可能性が高くなるのでしょうか? さらに言えば、仮に何らかの「報復攻撃」を実施したとしても「報復攻撃」を実施したなどとはあえて言及しないということもあるかもしれないと思います。そもそも今現在の国際社会では「報復攻撃」などというものが認められているのでしょうか? その上で、あくまでも念のために付け加えるのならば、自国が再び攻撃される差し迫った脅威を取り除くために攻撃型ドローンや弾道ミサイルなどを発射した軍事基地などを「標的」にした限定的な攻撃を実施した場合には自衛的な措置として国際社会でも理解される可能性が高くなるのではないかと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「攻撃が 『抑制的』か どうかより… 『報復攻撃』 認められるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「そもそも」今現在の国際社会では「報復攻撃」などというものが認められているのでしょうか? 最近は改めて「そもそも…」と考え直してみなければならないことが増えていますが…。 イランが4/13-14にかけてイスラエルなどに向けて大量の攻撃型ドローン、巡航ミサイル、弾道ミサイルなどを発射して攻撃したことで国際的に大きな波紋が広がっています(→イスラエル軍の防空システムや戦闘機、米軍、英軍、ヨルダン軍などの戦闘機や迎撃ミサイルなどによってイラン側が発射した攻撃型無人機(ドローン)170機以上、巡航ミサイル30発以上、弾道ミサイル120発以上のうち99%が迎撃されて大きな被害は出なかった模様。イラン側は4/1にシリア・ダマスカスにあるイランの「大使館」がイスラエルによってミサイル攻撃されたとしてその「報復攻撃」などと主張している)。高速で到達時間が短いために迎撃が困難と言われている「弾道ミサイル」を多数使用して攻撃しているにもかかわらず、ミサイル発射を公表したり迎撃が難しくないドローンなどを使用したりしているからイランの攻撃は「抑制的」だとか、イランに近いイスラエル東部では警報が発令されたが地中海側にあるテルアビブなどでは警報が発令されなかったからイランの攻撃は「抑制的」などという「あまりにも珍妙な主張」がマスメディアの一部では飛び交っているようです。しかし、当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、イラン側からイスラエルに向けて飛行してくる途中で迎撃されてしまったドローンやミサイルの「真の攻撃目標」がどこだったのかということを証明することはある意味では迎撃することよりもはるかに難しいのです。さて、話を本論に戻します。そもそも今現在の国際社会で「報復攻撃」などということが正当化されているのでしょうか? 仮に「報復攻撃」などということが禁止されていなかったとしても、そもそもイスラエルはシリア・ダマスカスにあるイランの「大使館」を攻撃したことを認めているのでしょうか? あるいは攻撃を認めていなくても誰の目にも明らかな明白な証拠がいくつもあって国連などがイスラエルによる攻撃などと認定したのでしょうか? もしそうではないのならば、今回イランが自ら実行したと認めているイスラエルに対する攻撃を「先制攻撃」とみなして「自衛のための反撃」などを正当化することもできるという主張にはかなりの説得力があるはずなのです。攻撃が「抑制的」かどうかなどということよりも、そもそも「報復攻撃」が認められるのかということの方がより問題の本質に近いのです。どんなに少なくともイランの「報復攻撃」を正当化したり容認したりするということは大規模な戦争を引き起こすことになりかねないあまりにも愚かな主張であるということだけはあえて指摘した上で強調しておくことにしておきます。 ======================================= 「意図しない 悲劇を招く 『誤解』など 与えることは 避けるべきだが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会では「同盟」というものはいったいどのような意味を持つものなのでしょうか? 今現在の国際社会では「同盟」というものはいざというときに役に立つものなのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、いざというときに役に立たない「同盟」はその存在意義が問われることになるのです。そしてあくまでも一般論ですが、もしも「同盟国」が「敵」から攻撃を受けた場合には、「同盟国」同士が互いに協力しながら「敵」に反撃することになるのだろうと思います。確かに「敵」から攻撃を受けた場合に「同盟国」が共同で反撃することになるということも「同盟」の重要な意味の1つです。しかし、それでもやはり、今現在の国際社会における「同盟」というものの最も重要な意味は、「敵」に「同盟国」を攻撃させないということなのではないかと考えているのです。そのように考えるのならば、今現在の国際社会における「同盟」では、「同盟国」を攻撃した場合には確実に厳しい反撃を受けることになると「敵」に一切の疑いの余地なく認識させることが非常に重要になるのです。たとえ「カネを支払わなければ守らない」などという露骨な表現ではなかったとしても、今現在の国際社会の「同盟」では、意図しない悲劇を招く「誤解」を与えるような言動は避けるべきであるということだけは確かです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「米国に 『独りじゃない』と 言うことが 意味することを 考えてみる」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会では「同盟」というものはいったいどのような意味を持つものなのでしょうか? 今現在の国際社会では「同盟」というものはいざというときに役に立つものなのでしょうか? 米国を訪問している岸田文雄首相は4/12未明(日本時間)に米議会上下両院合同会議で演説をしました(→参考:(首相官邸のホームページ) https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2024/0411enzetsu.html)。私としては、今現在日本国の内閣総理大臣が米国に対して「米国は独りじゃない」「私たちが共にいる」などと言うことがいったいどのようなことを意味することになるのかを改めて考えてみる必要があると思っています。あくまでも念のために確認しておきますが、自由、民主主義、法の支配、基本的人権などという価値観を実現していくということは、根拠のない強い思い込みに基づいた一部の野党が主張する「米国の言いなりになる」などということを意味することにはならないのです。それどころかむしろ逆に、米国の方が日本などの同盟国・同志国の言いなりになるということもあるのです。もしも米国と日本などが本当に同じ「『自由と民主主義』という名の宇宙船」に乗っているのならば、米国は日本などの同盟国・同志国の主張に耳を傾けざるを得ないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『月までの 道』を一緒に 歩ければ 『安全保障』 盤石になる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会では「同盟」というものはいったいどのような意味を持つものなのでしょうか? 今現在の国際社会では「同盟」というものはいざというときに役に立つものなのでしょうか? 米国を公式訪問した岸田文雄首相が4/11未明(日本時間)にバイデン大統領と日米首脳会談を行いました。そしてNASA(米航空宇宙局)主導で月面着陸を目指す「アルテミス計画」において日本人宇宙飛行士2人を月に送ることで合意したそうです(→早ければ2028年にも1人目の日本人宇宙飛行士が月へ。米国人以外では初。日本が開発した月面探査車を日本人宇宙飛行士が月面で運転する可能性も)。私としては、日米両国のこの「月までの道」が国際社会の安全保障環境に予想以上に大きな影響を与えるのではないかと考えています。もしも日米両国が「月までの道」をこのまましっかりと一緒に歩いていくことができるのならば、日米安全保障条約に基づくいわゆる「日米同盟」はこれまで以上に盤石なものになっていくのだろうと思います。どんなに少なくとも日米両国にとっての「月までの道」はこれからの約4年間に「日米同盟」に深刻な亀裂を生じさせる危険性を低下させることに貢献することになるのではないかと思います。あえて念のために付け加えるのならば、日米両国の「月までの道」は米国を再び偉大な国にする道にもつながっているということも確かなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「もしも今 日本が攻撃 されたなら 国際社会 助けてくれる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。自由で平和な日本は「戦争」の被害を受けることがないのでしょうか? 「他国の戦争」に巻き込まれることがない限り、自由で平和な日本は「戦争」の被害を受けることは本当にないのでしょうか? 繰り返しになりますが、もしも日本が「どこかの国」から攻撃された場合にはいったいどうするつもりなのでしょうか? いくら日本が「どこかの国」から攻撃される可能性はないなどと強く思い込んでいたとしても、実際に日本が「どこかの国」から攻撃された場合には対応が迫られることになるわけです。そのときは国連や国際社会が助けてくれるはずなどという「主張」がありますが、国連や国際社会にどこまで期待することができるのでしょうか? ウクライナなどの現状を見ても本当に「国連や国際社会が助けてくれるはず」などということが言えるのでしょうか? 「他国の戦争」に巻き込まれることを避けようとして日本に対する攻撃に対して見て見ぬ振りをしようとする国は出てこないのでしょうか? 核兵器の使用をちらつかせて威嚇されたときに日本への支援に消極的になる国は出てこないのでしょうか? あえて個別具体的な固有名詞を挙げることは避けますが、日本の周辺には国連安保理で拒否権を行使することができる国や核兵器を保有している国が複数存在するのです。もしも今、日本が攻撃されたならば国連や国際社会は本当に日本を助けてくれるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「本当に 攻撃される ことはない? 攻撃された ときはどうする?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。自由で平和な日本は「戦争」の被害を受けることがないのでしょうか? 「他国の戦争」に巻き込まれることがない限り、自由で平和な日本は「戦争」の被害を受けることは本当にないのでしょうか? あくまでも仮定の話ですが、もしも日本が「どこかの国」から攻撃された場合であっても「戦争」にはならないのでしょうか? たとえ日本が「どこかの国」から攻撃されているような場合であっても、本当にいわゆる「平和憲法」を守ってさえいれば日本は「戦争」に巻き込まれることはないのでしょうか? さすがにそんなおかしなことだけはあり得ないはずなのです。いわゆる「平和憲法」を守ってさえいれば「戦争」の被害を受けることがないと強く信じ込んでいるような人間たちの中には、「平和憲法」を守っている日本が「どこかの国」から攻撃される危険性はないなどと堂々と「主張」をする人間たちが存在してとても驚かされます。そして万一日本が「どこかの国」から攻撃される可能性があるとしたら在日米軍基地などと「主張」するとか…。あくまでも「攻撃する側」の「攻撃」を批判しようとしない一貫した姿勢には本当に驚かされます。日本は「どこかの国」から攻撃されるようなことは本当にないのでしょうか? 「他国の戦争」に巻き込まれることがない限り、自由で平和な日本は本当に「戦争」の被害を受けることはないのでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、もしも日本が「どこかの国」から攻撃された場合にはいったいどうするつもりなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『法律』や 『規範』だけでは 守れない! 平和や秩序 守るためには…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。自由で平和な日本は「戦争」の被害を受けることがないのでしょうか? 「他国の戦争」に巻き込まれることがない限り、自由で平和な日本は「戦争」の被害を受けることは本当にないのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「平和憲法」が自由で平和な日本を守っているなどという主張は「時代遅れの幻想」にすぎないのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、たとえどんなに「立派な思想」や「立派な規範」が存在したとしても、少なくともその「立派な思想」や「立派な規範」だけでは平和な社会をつくったり維持したりすることはできないのです。さらに付け加えるのならば、たとえどれだけ社会の中では許されないことを処罰する「法律」などを整備したとしても、少なくともその「法律」などが存在するだけでは平和な社会をつくったり維持したりすることはできないのです。そのようなことは、いくら殺人や強盗などを処罰する「法律」などが整備されていたとしても、殺人や強盗などが多発している場所が地球上に存在することを見れば明らかです。もちろん日本のような平和な社会であっても殺人や強盗などを処罰する「法律」などはもちろん整備されているわけですが、それでもやはり、殺人事件や強盗事件はなくなってはいないのです。あえて繰り返しますが、いわゆる「平和憲法」が自由で平和な日本を守っているなどという主張は「時代遅れの幻想」にすぎないのです。「法律」や「規範」だけでは平和や秩序を守ることができないのです。平和や秩序を守るためには何が必要になるのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『必要は 発明の母』 いつまでも 実現し続 けられるならば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はあちこちで「人手不足」や「労働力不足」などと騒がれています。「人手不足」や「労働力不足」とはいったいどんなことを意味しているのでしょうか? そしてそもそも「人手不足」や「労働力不足」というものは解消することができるものなのでしょうか? 繰り返しになりますが、「労働力不足」や「人手不足」などという「危機」を「制度」や「しくみ」の抜本的な改革や技術革新によって乗り越えるという考え方もあるはずなのです。そもそも本当に若い人たちだけが「労働力」なのでしょうか? そもそもその業務は本当に「人手」をかけてやる必要があるものなのでしょうか? もっと自動化や機械化をすることはできないものなのでしょうか? 「必要は発明の母」という言葉もあります。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「労働力不足」や「人手不足」などという「危機」を乗り越える「必要(性)」は、抜本的な改革や技術革新を生み出す「原動力」にもなるはずなのです。そしてもしも「組織」や「社会」が「必要は発明の母」という言葉をいつまでも実現し続けることができるのならば、その「組織」や「社会」は時代に取り残される危険性の少ない持続的な「組織」や「社会」になるのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『禍(わざわい)を 転じて福と 為す』ために 『人手不足』は 解消しない!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はあちこちで「人手不足」や「労働力不足」などと騒がれています。「人手不足」や「労働力不足」とはいったいどんなことを意味しているのでしょうか? そしてそもそも「人手不足」や「労働力不足」というものは解消することができるものなのでしょうか? 繰り返しになりますが、「労働力不足」や「人手不足」という状況は、今現在採用している「制度」や「しくみ」が現状にそぐわなくなってきているということを示しているのです。しかし、今現在採用している「制度」や「しくみ」のどこがどのように現状にそぐわなくなってきているのかということは必ずしも明らかにはなっていないのです。「労働力」や「人手」をなんとか確保するとか補充することができさえすれば、今現在採用している「制度」や「しくみ」は今現在もこれから先の未来も本当に問題なく機能し続けるようになるのでしょうか? 多少の誤解を恐れずにあえて単純化した上で率直に言わせてもらうのならば、もしかすると目先の「労働力不足」や「人手不足」などという状況は安易に解消しないようにした方が賢明な選択になるかもしれないのです。「禍(わざわい)を転じて福と為す」という言葉がありますが、「労働力不足」や「人手不足」などという「危機」を「制度」や「しくみ」の抜本的な改革や技術革新によって乗り越えるという考え方もあるはずなのです。そもそも本当に若い人たちだけが「労働力」なのでしょうか? そもそもその業務は本当に「人手」をかけてやる必要があるものなのでしょうか? もっと自動化や機械化をすることはできないものなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「不足する 『労働力』を 補充する だけで時代に 合った『制度』に?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はあちこちで「人手不足」や「労働力不足」などと騒がれています。「人手不足」や「労働力不足」とはいったいどんなことを意味しているのでしょうか? そしてそもそも「人手不足」や「労働力不足」というものは解消することができるものなのでしょうか? 確かにいわゆる「少子高齢化社会」になれば「労働力」は不足することになるのだろうと思います。これまでの「労働力」は若い人たちの数に大きく依存してきたわけです。そして昔よりも今、今よりもこれから先の未来の方が、若い人たちの数が少なくなっていき、逆に、昔よりも今、今よりもこれから先の未来の方が、高齢の人たちの数は多くなっていく…。ですから「少子高齢化」というものが「労働力不足」の原因の1つになることは間違いないのだろうと思います。しかし、「労働力不足」や「人手不足」というものを、不足している「労働力」や「人手」をなんとか確保したり補充したりするなどという発想で「解消」することが本当に正しいことなのかどうかということは一度立ち止まって考えてみる必要があります。もちろん「労働力不足」や「人手不足」という状況は、今現在採用している「制度」や「しくみ」が現状にそぐわなくなってきているということを示していることは間違いないのです。しかし、今現在採用している「制度」や「しくみ」のどこがどのように現状にそぐわなくなってきているのかはしっかりと見極める必要があるのです。あえて言い換えるのならば、「労働力」や「人手」をなんとか確保するとか補充することができさえすれば、今現在採用している「制度」や「しくみ」は今現在もこれから先の未来も本当に問題なく機能し続けるようになるのかということには疑問が残るのです。「労働力」や「人手」をなんとか確保するとか補充することができさえすれば、今現在採用している「制度」や「しくみ」は今の時代に合ったものになるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「正当化 できない上に 卑劣だと… テロというのは 卑劣な犯罪!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「テロ」というものはなぜ引き起こされてしまうのでしょうか? そしてなぜ「テロ」というものを正当化する人間たちがいるのでしょうか? もちろん唯一絶対の「正解」などというものは存在しないわけですが…。 たとえどれだけ同情することができるような事情があったとしても、やはり「テロ」を正当化するようなことは許されないと思います。もちろん「犯罪」の中にも同情することができるような事情のある「犯罪」がいくつも存在するとは思います。しかし、それにもかかわらず、そのような「犯罪」を正当化することは許されないのです。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、やはり「テロ」は「犯罪」なのです。そしてほとんどの「テロ」は全く無関係な民間人を標的にしていたり巻き添えにしていたりするような種類の「卑劣な犯罪」なのです。たとえ全く無関係な民間人を標的にしていたり巻き添えにしていたりしていなかったとしても、それでもやはり「テロ」は「犯罪」なのです。その上で、さらに多少の誤解や批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「テロ」の中には「国家テロ」とでも呼ぶべきものも存在するのです。あえて個別具体的な事例や固有名詞を取り上げるようなことは避けますが、「テロ」の中には「国家テロ」とでも呼ぶべきものが存在するのです。そしてもちろんその「国家テロ」も「犯罪」なのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『大使館』 何でもできる 場所なのか? 『外交官』は 何でもできる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「大使館」は何でもできる場所なのでしょうか? また「外交官」は何でもできるのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、「大使館」や「外交官」が「大使館」や「外交官」であり続ける限り、できることとできないことがあるはずなのです。 例えば、自国の意に沿わない他国の民間人の「暗殺計画」を立ててそのための「刺客」を他国にある「大使館」に「外交官」として送り込んで計画実行直後に帰国させるようなことは許されることなのでしょうか? あるいは、「大使館」に民間人を連れ込んで殺害して遺体やその証拠を隠滅するようなことは許されることなのでしょうか? それでは「外交官」が違法薬物や武器などを「外交封印袋」の中に入れてその国に持ち込むようなことは許されることなのでしょうか? さらに言えば、「外交官」がスクラムのように「自国民」を取り囲んで自国の民間航空機に乗せて帰国させるようなことは許されることなのでしょうか? あえて繰り返しますが、「大使館」は何でもできる場所なのでしょうか? また「外交官」は何でもできるのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、「大使館」や「外交官」が「大使館」や「外交官」であり続ける限り、できることとできないことがあるはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『大使館』 は『領土』と同じ?? 『インタビュー』 『ドラマ』の中は 『治外法権』?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。マスメディアの「インタビュー」などや「ドラマ」の中は「治外法権」なのでしょうか? 「個人の意見」であるのならば正しくなくても問題視されないのでしょうか? ほんの少しの専門知識や判断能力があればすぐにおかしいと気づくようなレベルのものでさえもさももっともらしく垂れ流されているわけですが…。 マスメディアの「インタビュー」などや「ドラマ」の中では「X国大使館はX国の領土と同じ」などという言葉が出てくることがあります。しかし、簡単に言っても少し詳しく言ってもそんな滅茶苦茶なことにだけはならないはずなのです。確かに大使館など(→外交関係に関するウィーン条約22条)や外交官の身体(同29条)などは「不可侵」とされています。しかし、それでもやはり、「X国大使館」は大使館が設置されている「接受国」の「領土」であるということには変わりはないのです。「不可侵」とはそれ以上のものでもそれ以下のものでもないのです。さらに言えば、「X国大使館はX国の領土と同じだからX国大使館に対する攻撃はX国に対する攻撃と同じ」などという主張は、攻撃に対する「報復」を正当化しようとする人間たちの「セリフ」としてはお馴染みのものなのかもしれないと思います。しかし、「X国大使館に対する攻撃はX国に対する攻撃と同じ」という主張は、国際条約などの存在を意識する人たちにとってはどんなに少なくともあまりにも大きな飛躍のある突飛な主張になるのです。もしも「どこかの国」が「接受国」に設置されている「X国大使館」を攻撃したことが事実であるのならば、まずは「どこかの国」による「接受国」に対する攻撃が問題になるはずなのです。さらに念のために付け加えておくのならば、もしも「X国」が「X国の仲間」を利用して「報復」と称して「どこかの国」や「どこかの国を支援する大国」の「大使館」や「基地」などを攻撃させたのならば、攻撃された側は「自国の大使館などへの攻撃は自国に対する攻撃と同じ」とみなして「報復」して結果的に非常に大きな戦争が勃発する危険性が極めて高くなってしまうはずです。「X国大使館はX国の領土と同じ」などという言葉はそれを発した人間たちが想像していないくらい大きな悪影響を及ぼす「危険なセリフ」になるのです。あくまでも念のために確認しておきますが、マスメディアの「インタビュー」などや「ドラマ」の中は「治外法権」なのでしょうか? 「個人の意見」でありさえすればたとえ正しくなくても問題視されないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『能力』や 『専門知識』 あるのなら 『飛び級』しても いいと思うが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中にはいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことをあえてしようとする人たちも、またいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認しようとする人たちも多くいるようです。いわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認したり容認されたりする人たちは自分たち以外の人たちの存在を意識しているのでしょうか? そもそもいわゆる「世襲」の人間たちには本当に「先代」から「資産」として受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? おそらくほとんどすべての専門分野においては、もしも「未経験の新人」がその専門分野で必要とされている高いレベルの「専門知識」や「能力」を最初から身につけているのならば、「飛び級」などが認められてもいいのではないかと考えています。基本的には「経験」よりもその専門分野で必要とされている「専門知識」や「能力」の方を重視するべきであると考えています。いくら経験を積み重ねている人たちであっても必ずしもその専門分野で必要とされている高いレベルの「専門知識」や「能力」を期待通りに身につけているとは限らないからです。さて、いわゆる「世襲」は「飛び級」のようなものなのでしょうか? いわゆる「世襲」の人間たちは「先代」から「資産」として受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? その専門分野で必要とされている「専門知識」や「能力」があるのでしょうか? もしも「先代」が「引退」や「卒業」したためにそのすぐ下にいた人間が「専門知識」や「能力」が不十分なままそのまま繰り上げになったのならばその「組織」は衰退へと向かうことになるのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『世襲』より 深刻なのは 『私物化』か? 普通の人が 『蚊帳の外』へと…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中にはいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことをあえてしようとする人たちも、またいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認しようとする人たちも多くいるようです。いわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認したり容認されたりする人たちは自分たち以外の人たちの存在を意識しているのでしょうか? 繰り返しになりますが、もしも社会の中のその「組織」とは無関係の多くの人たちに対しても非常に大きな影響を与える可能性が高い「大きな組織」でいわゆる「世襲」が容認されるのならば、社会の中のいわゆる「世襲」を容認していない人たちもいわゆる「世襲」の悪影響から逃れることができなくなるのです。そしてもしもそのような「大きな組織」の中でいわゆる「世襲」を容認した人たちが何らかの「利益」を受ける一方で、その「組織」に所属していてもいわゆる「世襲」を容認しない人たちや、社会の中のその「組織」とは無関係な人たちが何らかの「不利益」を受けるのならば、そのような「大きな組織」や「社会」の「私物化」という問題が浮上することになると思います。いわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認したり容認されたりする人たちは自分たち以外の人たちの存在を意識しているのでしょうか? いわゆる「世襲」よりも「大きな組織」や「社会」の「私物化」の方がより深刻な問題なのではないでしょうか? 普通の人たちが「蚊帳の外」へと追いやられることが非常に深刻な問題になっているのです。ごく普通の多くの人たちが「蚊帳の外」へと追いやられることになる「組織」ではその活力が低下していくことになります。またごく普通の多くの人たちが「蚊帳の外」へと追いやられることになる「社会」では大きな閉塞感が漂うことになります。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『世襲』でも 『個人商店』 などならば 悪影響は 小さいのだが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中には、いわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことをあえてしようとする人たちも、またいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認しようとする人たちも多くいるようです。そもそもいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認したり容認されたりする人たちは自分たち以外の人たちの存在を意識しているのでしょうか? いわゆる「世襲」が問題になるのは、社会の中の多くの人たちに対して非常に大きな影響を与える可能性が高い「大きな組織」であることが多いように思われます。例えば、地球上に無数に存在する「個人商店」や「零細企業」のような「非常に小さな組織」の場合には、いわゆる「世襲」が問題になることはほとんどないのだろうと思います。「個人商店」や「零細企業」のような「非常に小さな組織」の場合には、一般的に社会に与える影響が非常に小さいのでそこに所属している人たちがいわゆる「世襲」でもいいと思うのならばそれでもいいということに基本的にはなるのだろうと思います。しかし、社会の中の多くの人たちに対して非常に大きな影響を与える可能性が高い「大きな組織」の場合には、その「大きな組織」に所属している人たちの大多数がいわゆる「世襲」を容認したとしてもそれで問題なしということにはならないのではないかと思います。「大きな組織」の場合には、いわゆる「世襲」が容認されると同時に社会の中のその「組織」に所属していない多くの人たちに対しても非常に大きな影響を与える可能性が高くなるのです。あえて言い換えるのならば、社会の中のいわゆる「世襲」を容認していない人たちもいわゆる「世襲」の悪影響から逃れることができなくなるのです。そもそもいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認したり容認されたりする人たちは自分たち以外の人たちの存在を意識しているのでしょうか? もしも社会の中のその「組織」とは無関係の多くの人たちに対して非常に大きな影響を与える可能性が高い「大きな組織」でいわゆる「世襲」が容認されるのならば、社会の中のいわゆる「世襲」を容認していない人たちもいわゆる「世襲」の悪影響から逃れることができなくなるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『ご先祖』が 築いた『資産』 食い潰し やがて『組織』は 滅びてしまう?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中には想像以上に「世襲」などと呼ぶべきものが多いようです。そもそもいわゆる「世襲」は本当に悪いことなのでしょうか? そしていわゆる「世襲」の人間たちには本当に「先代」から「資産」として受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? 多少の誤解を恐れずにあえて単純化して率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「世襲」の人間たちは自分たちがいかに恵まれた環境の中にいるのかということを十分に理解していないことが多いのです。いわゆる「世襲」の人間たちが今現在当たり前のように務めている「仕事」の多くはいわゆる「世襲」ではない人たちにとっては一生努力しても務めることができない種類のものであるということも少なくはないのです。そしていわゆる「世襲」の人間たちが今現在当たり前のように親しく接しさせてもらっている人たちは、いわゆる「世襲」ではない人たちにとっては会ってもらうことさえも非常に難しい人たちばかりであるということも少なくはないのです。別の言い方をすれば、もしも「先代」から受け継いだ「資産」がなかったのならばいわゆる「世襲」の人間たちはそのような恵まれた環境の中にいることができなかった可能性が非常に高いのです。もちろん「世襲」であっても「世襲」ではなくてもその「仕事」に見合った十分な能力があるかどうかが重要であることは言うまでもないことです。しかし、それでもやはり、いわゆる「世襲」の人間たちは自分たちがいかに恵まれた環境の中にいるのかということを十分に理解していないことが多いのです。いわゆる「世襲」の人間たちは本当に「先代」から「資産」を受け継いだだけで自分も急に「先代」のような「偉くてすごい人」になることができたと思い込んでいるのでしょうか? 残念ながら世の中には勘違いしたいわゆる「世襲」の人間たちがとても多いようです。もしもこのまま勘違いし続けるのであれば「先代」から引き継いだ「ご先祖」が築いた「資産」を食い潰してその「組織」は滅びてしまうことになるのではないかと思います。くどいようですが、いわゆる「世襲」の人間たちには本当に「先代」の「資産」を受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『先代』が 築いた『資産』 受け継いだ だけで偉くて すごい人に?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中には想像以上に「世襲」などと呼ぶべきものが多いようです。そもそもいわゆる「世襲」は本当に悪いことなのでしょうか? 多少の誤解を恐れずにあえて単純化して率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「世襲」というものには必ずしも「血縁関係」は必要ないのです。「先代」が築いた「資産」を受け継ぐような場合には、「実の親」から「実の子」であったとしても、「義理の親」から「義理の子」であったとしても、「師匠」から「弟子」であったとしても、「上司」から「部下」であったとしても、あるいは、「先輩」から「後輩」であったとしても、「世襲」と呼ぶべきではないかと考えているのです。「血縁関係」があってもなくても、いわゆる「創業者」のように「ゼロ」からのスタートではなく、「先代」から「資産」を受け継いだ「高い位置」からスタートすることができるということには何の変りもないわけです。問題になるのは、「先代」から「資産」を受け継いだ「高い位置」からスタートしたときに、その「高い位置」に見合った十分な実力があるのかどうかということのはずなのです。まさか「先代」から「資産」を受け継いだだけで自分も急に「先代」のような「偉くてすごい人」になることができるとでも本気で思っているのでしょうか? 残念ながら世の中には勘違いしたいわゆる「世襲」の人間たちがとても多いようです。繰り返しになりますが、そもそもいわゆる「世襲」は本当に悪いことなのでしょうか? そしていわゆる「世襲」の人間たちには本当に「先代」の「資産」を受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『借金』を 肩代わりする? それならば… なぜ一括で 返済しない?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「借金」で首が回らなくなってしまう人たちが少なくないのです。そして世の中には「借金」で首が回らなくなってしまった人たちをいろいろと助けてくれる人たちもいるわけです。さらにその中には「借金」で首が回らなくなってしまう人たちの「借金」を肩代わりしてくれるような人たちもいるのだろうと思います。 あくまでも一般論ですが、他人の「借金」を肩代わりするときには即座に一括で返済するようなことも少なくないのではないかと思います。映画やドラマでは他人の「借金」をその場で「貸金業者」に一括で返済して借用証書などを破り捨てたり燃やしたりするような場面がよく出てくるわけですが…。何にしても他人の「借金」をわざわざ肩代わりしようとするときにはその「借金」を一括で返済しようと考える方が自然なのではないかと思います。もっともごく一部の大資産家を除けば、「借金」があまりにも巨額である場合には、さすがに一括で返済するというようなことは難しくなるのだろうと思います。そして「借金」を一括で返済するわけでもなく、しかもその事情をよく知らないにもかかわらず、あえて他人の「借金」を肩代わりしようと思う場合には、「貸金業者」に「借金」の一部の金額をその他人に代わって返済するのではなく、普通は「借金」の返済のために必要なカネの一部をその他人に貸すようなことを選ぶのではないかと思います。もしかすると自分ではなく他人の「借金」の一部を返済するためにあえて「貸金業者」に一部の金額を返済するということには何か「特別な意味」があるのではないのでしょうか? どんなに少なくともごく自然なことではないように思います。自分が自分自身の「借金」の一部を返済するために「貸金業者」に一部の金額を返済するというのは、当たり前すぎるくらい当たり前の行為なのですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『組織』での 評判悪く ないときは 『後継指名』 されたり『世襲』?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中には想像以上に「世襲」などと呼ぶべきものが多いようです。なぜいわゆる「世襲」はあちこちで見られるのでしょうか? またいわゆる「世襲」は悪いことなのでしょうか? あくまでも一般論ですが、いわゆる「世襲」というものは、その「組織」が存在することによって何らかの利益を受けている人たちがこれからもその利益を受け続けようとすればするほど、増える傾向が強まるのかもしれないと思います。言い換えれば、いわゆる「世襲」というものは、その「組織」とその「組織」が存在することによって何らかの利益を受けている人たちの現状を維持するための手段の1つなのです。さらに言い換えれば、いわゆる「世襲」というものは、その「組織」をバラバラにしないための手段の1つなのです。ですから、その「組織」の内部での評判が悪くない「後継者候補」と見られている人物が「後継指名」されたり「世襲」することになったりすることが多いのだろうと思います。そしてそれなりの長い歴史があって変化がそれほど大きくない社会では結果的に「世襲」というものが多くなるのかもしれないと思います。ところで、いわゆる「世襲」は悪いことなのでしょうか? もちろんその「組織」とその「組織」が存在することによって何らかの利益を受けている人たちにとっては悪いことではないのだろうと思います。しかし、その「組織」に所属していない人たちにとってはいわゆる「世襲」は必ずしも良いことではないのだろうと思います。そして変化の激しい時代には、その「組織」とその「組織」が存在することによって何らかの利益を受けている人たちにとってもいわゆる「世襲」は必ずしも良いことではなくなるのだろうと思います。どうやら世の中には想像以上に「世襲」などと呼ぶべきものが多いようですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「なぜ貸すか? なぜ『借金』が できるのか? 本人以外 から『回収』か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「借金」で首が回らなくなってしまう人たちが少なくないのです。そもそもなぜそんなに多くの「借金」をしてしまったのでしょうか? あえて逆の言い方をすれば、なぜそんなに多くの「借金」をすることが許されてしまったのでしょうか? あえて個別具体的な事例や固有名詞には触れませんが、なぜギャンブルなどで何億円などという巨額の「借金」をすることができてしまうのでしょうか? ごく普通の多くの人たちにとっては、ギャンブルであったとしてもそれ以外の何かであったとしても何億円などという巨額の「借金」を積み重ねてしまうなどということはなかなか想像することもできないのではないかと思います。どこの世の中にも、カネを貸しても返してもらうことができない可能性が極めて高いことを知っているのにもかかわらず、あえて何億円などという巨額のカネを他人に貸すような人間はなかなかいないと思います。それにもかかわらず、なぜ何億円などという巨額の「借金」をすることができてしまったのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、おそらく何億円などという巨額の「借金」であっても比較的簡単に「回収」することができる可能性が十分にあると「貸した側」が考えたからではないかと思います。あくまでも一般論ですが、マフィアなどを含めたいわゆる「反社会的勢力」はたとえ相手がどれだけ支払い能力がなかったとしても「資産家」や「有名人」の家族などの場合にはすぐにいくらでもカネを貸すような事例が過去にはいくつもあったように思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「本当に その金額を 借りたのか? そもそも返す 必要はある?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「借金」で首が回らなくなってしまう人たちが少なくないのです。そもそもなぜそんなに多くの「借金」をしてしまったのでしょうか? あえて逆の言い方をすれば、なぜそんなに多くの「借金」をすることが許されてしまったのでしょうか? そもそもその巨額の「借金」をしてしまった人たちは本当にその巨額な金額を借りたのでしょうか? 毎回実際に現金を受け取って「借金」を繰り返していた人たちは巨額の「借金」をしたという実感はあるのかもしれないと思います。もっともたとえ毎回実際に現金を受け取って「借金」を繰り返していたような場合であっても、高金利のために「借金」が想像以上に大きく膨れ上がってしまったので巨額の「借金」をしたという実感は乏しいという人たちもいるのだろうと思います。あるいは、例えば、「酒類が提供される特殊な飲食サービス業」などで非常に高額な料金を請求されたような場合にもその実感は乏しいのだろうと思います。繰り返しになりますが、そもそも巨額の「借金」をしてしまった人たちは本当にその巨額の金額を借りたのでしょうか? 過剰に法外な料金を請求されていたり全く身に覚えのない法外な料金を請求されていたりするということはないのでしょうか? そもそも本当に「違法行為」の「対価」として法外な料金を支払う必要はあるのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「違法行為」の「対価」として積み上がった巨額の「借金」を本当に返す必要があるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『テロリスト』 『工作員』や 『スパイ』だと 示す『痕跡』 すべて消すはず!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ある日唐突に「不祥事」や「疑惑」とは全く無縁だと思える人たちやその周辺から驚くような「不祥事」や「疑惑」が明らかになることがあります。「不祥事」や「疑惑」は本当に「寝耳に水」だったのでしょうか? もちろん後から考えてみれば「そう言えばあのとき…」などということはあるのだろうとは思いますが…。 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、ごく普通の多くの人たちにとっては、たとえ「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などと毎日長い時間ずっと一緒にいたとしても「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などであるということを示す「兆候」などに全く気づかないということはよくあることなのだろうと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などという人間たちは、自分たちが「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などであると絶対に気づかれることのないようにその「痕跡」をできるだけ隠したり消そうとしたりしているわけです。ところで、もしもその人が身近に接している誰かが「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などであったとしたら、その人には社会的責任や道義的責任などが問われることになるのでしょうか? もちろんその人が「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などであることを知って見て見ぬ振りをしながら身近に接していた場合には、社会的責任や道義的責任だけではなく、刑事的な責任も問われることもあるのだろうと思います。あくまでも念のために言っておきますが、たとえ「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などでなかったとしても、他人に知られては困ることをしている人間はその「兆候」や「痕跡」を隠そうとしているのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『兆候』や 『異変』に気づく ことできる? その『不祥事』は 寝耳に水か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ある日唐突に「不祥事」や「疑惑」とは全く無縁だと思える人たちやその周辺から驚くような「不祥事」や「疑惑」が明らかになることがあります。「不祥事」や「疑惑」は本当に「寝耳に水」だったのでしょうか? もちろん後から考えてみれば「そう言えばあのとき…」などということはあるのだろうとは思いますが…。 あえて個別具体的な事例や固有名詞を取り上げることは避けますが、例えば、「薬物中毒」や「アルコール中毒」のような「不祥事」や「疑惑」の場合には、周囲の人たちは比較的にすぐにその「兆候」や「異変」に気付くことができるのではないかと思います。「薬物中毒」や「アルコール中毒」のようなものの場合には素人でもすぐに気づくことができそうな「兆候」や「異変」がいくつも現れるのではないかと想像することができるのです。一方、「痴漢」や「盗撮」のような「不祥事」や「疑惑」の場合には、「薬物中毒」や「アルコール中毒」よりもずっと「兆候」や「異変」に気付きにくいのだろうと想像することができます。たとえその人と毎日長い時間ずっと一緒にいても「痴漢」や「盗撮」の「兆候」などに全く気づかないことはとても多いのだろうと思います。もちろんもしも誰かのスマートフォンの画像データやメールなどをこっそり自由に確認することができる人がいるのならば、「痴漢」や「盗撮」などの「兆候」や「異変」にすぐに気づくことができるのかもしれないとは思いますが…。その上で、あえてひとこと付け加えるのならば、仕事中でもパソコンやスマートフォンを短時間操作するだけで簡単にできてしまう「銀行口座振込」や「ギャンブル」などの場合にはパソコンやスマートフォンのアクセス記録や履歴などを分析しなければなかなか「不祥事」や「疑惑」が発覚することはないのかもしれないと思います。繰り返しになりますが、「不祥事」や「疑惑」は本当に「寝耳に水」だったのでしょうか? もちろん後から考えてみれば「そう言えばあのとき…」などということはあるのだろうとは思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『説明』で ますます疑惑 深まるか? 自白強要 してもいいのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。何かの「疑惑」や「不祥事」などについて「説明」をさせるだけ「説明」をさせておいて結局はその「説明」には納得しない…。もしかすると「説明」する前から「結論」は決まっていたのではないのでしょうか? もしかすると世の中の多くの人たちから「嫌われている人」は「疑惑」を晴らすことができないのではないのでしょうか? あくまでも一般論ですが、もしもどこかの誰かが何らかの「犯罪行為」を行ったという「疑惑」を持たれた場合には、いったいどうしたらその「疑惑」を晴らすことができるのでしょうか? 何かの公開された場所で「説明」や「釈明」などをすればその「疑惑」を晴らすことができるのでしょうか? そして「私は本当にやっていません。信じてください」などという程度の「説明」や「釈明」などをすると「疑惑はますます深まった」などということになってしまうのでしょうか? さらに言えば、もしかすると多くの人たちから「嫌われている人」の場合には「私は本当にやっていません。信じてください」などという程度の「説明」や「釈明」などをすると「疑惑はますます深まった」などということにされてしまう危険性が高くなるけれども、「人気者」の場合には「私は本当にやっていません。信じてください」などという程度の「説明」や「釈明」などをしただけでも多くの人たちからすぐに信じてもらえるのでしょうか? そしてひとたび「疑惑はますます深まった」などということにされてしまうと今度は「嘘を言うと犯罪になる場所」で「説明」や「釈明」などをしなければならなくなるのでしょうか? もしもこんなことが許されるのならば極端な場合には警察などで容疑者に「自白」の強要をすることも認められるようになってしまうかもしれないのです。政治倫理審査会で疑惑が払しょくされなかったから次は証人喚問? どうやら「疑惑」の真偽だけではなく「疑惑を追及している人間たち」の「能力」や「人間性」も同時に問われているようです。きょうのところはあえてこのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『嫌われた 人』は『疑惑』を 晴らせない? 『説明』させて 納得しない!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? たとえ言葉や理屈が全く通じない相手の許しがたい行動を止める方法が「力」でねじ伏せる以外にはなかったとしても、だからと言って罪のない無関係な多くの人たちを巻き添えにするようなことが許されるわけではないのです。例えば、「大昔」の戦争ならば、敵が集落に逃げ込んだときにその集落ごと焼き尽くしたり、敵に「人質」を取られた場合であってもその「人質」もろとも敵を皆殺しにしたりするなどということはそれほど珍しいことではなかったのかもしれないと思います。しかし、今現在は21世紀なのです。「人質」を取って自分たちの「縄張り」の地域に逃げ込んでいる「無法者」たちをねじ伏せるために、その「縄張り」の地域を「完全封鎖」して中にいる無関係な罪のない人たちを含めたすべての人たちを「人質」にするようなことが許されるはずがないのです。くどいようですが、言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『大昔』 の戦争では 珍しく ないのだろうが 今現在は…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? たとえ言葉や理屈が全く通じない相手の許しがたい行動を止める方法が「力」でねじ伏せる以外にはなかったとしても、だからと言って罪のない無関係な多くの人たちを巻き添えにするようなことが許されるわけではないのです。例えば、「大昔」の戦争ならば、敵が集落に逃げ込んだときにその集落ごと焼き尽くしたり、敵に「人質」を取られた場合であってもその「人質」もろとも敵を皆殺しにしたりするなどということはそれほど珍しいことではなかったのかもしれないと思います。しかし、今現在は21世紀なのです。「人質」を取って自分たちの「縄張り」の地域に逃げ込んでいる「無法者」たちをねじ伏せるために、その「縄張り」の地域を「完全封鎖」して中にいる無関係な罪のない人たちを含めたすべての人たちを「人質」にするようなことが許されるはずがないのです。くどいようですが、言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『人質』を 取られたときは 対抗し 『人質』を取り 解決図る?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? あくまでも空想上の話ですが、「無法者」たちが罪のない人たちを殺傷したり「人質」として連れ去ったりした後に自分たちの「縄張り」の地域に逃げ込んでいる場合には、その「縄張り」の地域を完全に包囲した上で「人質」の解放を求めるようなことを第三者が非難することは基本的にはないのだろうと思います。そしてもしも「人質」が監禁されている具体的な場所の情報が得られた場合には「人質救出作戦」が実行されることもあるわけです。そしてそのときに「人質救出作戦」の実行そのものを非難する人間たちはそれほど多くはないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、罪のない人たちを殺傷したり「人質」として連れ去ったりした「無法者」が逃げ込んでいる「縄張り」の地域を「完全封鎖」して「縄張り」の地域の中にいる罪のない多くの人たちを含めたすべての人たちをまとめて「人質」にして「人質」の解放交渉などを促進させようとしたり「人質救出作戦」を有利に進めようとしたりするようなことは許されることではないのです。いくら言葉や理屈が全く通じない相手だったとしても「人質」を取られたときにはこちらも対抗して「人質」を取って解決を図るようなことはどんなに少なくとも褒められることではないはずなのです。繰り返しになりますが、言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『違う人』 内閣総理 大臣に したいのならば 『新党』つくる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそも今現在支持率が低くて不支持率が高い岸田文雄首相を内閣総理大臣に選んだのはいったいどこの誰なのでしょうか? そもそも衆議院議員選挙もせずに支持率が低い内閣総理大臣を交代させるようなことは本当に許されることなのでしょうか? 何度か繰り返していますが、現行の小選挙区比例代表並立制という衆議院議員選挙の選挙制度においては、小選挙区にはそれぞれの政党は1人しか候補者がいないのです。ですから政党から公認・推薦されて小選挙区で当選した候補者は少なくとも当選直後の内閣総理大臣指名選挙では自分自身を公認・推薦した政党の党首に投票するということになるわけです。そのように考えるのならば、現行の小選挙区比例代表並立制という衆議院議員選挙の選挙制度においては、有権者は小選挙区での投票によって事実上内閣総理大臣を選ぶということになるわけです。同じ選挙区に同じ政党の候補者が複数存在するのが当たり前だったかつての中選挙区制度のような選挙制度とは違って、ある政党を支持しているがその政党の党首を内閣総理大臣にはしたくないなどと思っている有権者にとっては小選挙区での投票では「究極の選択」を迫られることになるのです。自分が支持する政党を政権与党にすることを選ぶのか、それとも自分が支持しない人物を内閣総理大臣にしないことを選ぶのか…。現行の小選挙区比例代表並立制でもしも自分が支持している政党の党首とは「違う人」を内閣総理大臣にしたいと本気で考えるときにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 結論としては、政党内に「派閥」をつくるのではなく「新党」をつくるべきということになるわけです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調することにしておきます。 ======================================= 「無責任! 総理・総裁 決めたはず! 選挙で決めた はずではないか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそも今現在支持率が低くて不支持率が高い岸田文雄首相を内閣総理大臣に選んだのはいったいどこの誰なのでしょうか? そもそも衆議院議員選挙もせずに支持率が低い内閣総理大臣を交代させるようなことは本当に許されることなのでしょうか? 今現在支持率が低くて不支持率が高い岸田文雄首相を内閣総理大臣に選んだのは自民党の国会議員ではないのでしょうか? もちろんその通りです。それではその自民党の国会議員、その中でも内閣総理大臣を選ぶことにより大きな責任のある衆議院議員を選んだのはいったいどこの誰なのでしょうか? 言うまでもなく有権者のはずなのです。もちろん前回の衆議院議員選挙(2021/10/31投開票)で自民党公認・推薦の候補者に投票した有権者により大きな責任があることは間違いないと思います。しかし、自民党公認・推薦の候補者に投票しなかった有権者にもそれなりの責任があるということを忘れてはならないのです。もしも有権者がそのことを忘れてしまうのならば、一部のマスメディアで好んで使われている「もしトラ」のような言葉が表す深刻な状況が日本社会でも起こり得るということになってしまう危険性が高くなるのです。自民党の衆議院議員を含めた与党とその支持者は、岸田文雄首相を自民党総裁・内閣総理大臣候補として決めて前回の衆議院議員選挙に臨んだはずではないのでしょうか? そして小選挙区比例代表並立制という選挙制度の下では、有権者は、前回の衆議院議員選挙で岸田文雄首相を日本国の内閣総理大臣として事実上選んだということになるのです。くどいようですが、自民党公認・推薦の候補者に投票しなかった有権者にもそれなりの責任があるのです。もしも衆議院議員選挙もせずに内閣総理大臣を変えようなどと思っているのならば、それはあまりにも無責任ではないかと思います。だからこそ次期衆議院議員選挙では有権者は今よりももっとずっと真剣に自分自身の投票行動を考えなければならないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「国連が 『投票権』を 行使して 権威主義者の 当選阻む!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもなぜ「どこかの国の国民」は「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができないのでしょうか? もしも「どこかの国の国民」が「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができるのならば、国際社会のいくつかの深刻な問題をあっと言う間に解決することができる可能性が高くなるのです。 あえて荒唐無稽な想像をしてみることにします。もしも「民主主義」や「選挙」が形だけのものになっている「権威主義国家の大統領や首相」を「権威主義国家の国民」だけではなく国際社会の人たちも選挙に参加して選ぶことができるようにしたならば、「権威主義国家の国民」の生活は今よりも自由で豊かなものになるのでしょうか? かなりの「暴論」であることを承知の上であえて言わせてもらうのならば、例えば、もしも巨額の経済支援の見返りに選挙の「投票権」の何パーセントかを国際連合などが取得して実際に行使することができるようにしたのならば、「権威主義者」が「権威主義国家の大統領や首相」として選ばれることに一定の歯止めをかけることができるようになるかもしれないと想像することができます。まるで「株主」が「株式会社」の「取締役」などを選ぶかのように…。もちろん資本主義的な考え方が民主主義を破壊することもあるわけですが、逆に、資本主義的な考え方を利用すれば民主主義が息を吹き返す可能性もあるのではないかと思います。何にしても国際社会のためにならないだけではなく、その国の国民のためにもならない「民主主義」や「選挙」という制度がいったい何なのかということを一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があると思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『もしトラ』も ほぼ確実に 阻止できる? 大統領を 選ばせてくれ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもなぜ「どこかの国の国民」は「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができないのでしょうか? もしも「どこかの国の国民」が「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができるのならば、国際社会のいくつかの深刻な問題をあっと言う間に解決することができる可能性が高くなるのです。 もしも米国の大統領選挙で投票することが許されているのならば、国際社会のかなり多くの人たちは実際に米国の大統領選挙で投票するのかもしれないと思うことがあります。言うまでもなく米国民ではない「どこかの国の国民」が米国の大統領選挙で投票することができるわけがないのです。しかし、それでもやはり、国際社会の深刻な問題の解決を図るときには米国の参加や関与が必要不可欠になるものがかなり多いのです。一部で好んで使われている「もしトラ」のような言葉が表す事態も、もしも米国民ではない「どこかの国の国民」が米国の大統領選挙で投票することができるのならばほぼ確実に阻止することができるのだろうとは思いますが…。当たり前と言えば当たり前の話ですが、米国の大統領選挙は米国民ではない「どこかの国の国民」には投票することが認められていないのです。国際社会の中で「国際社会を再び偉大」なものにしてもらいたいと思っている人たちは米国の大統領をぜひ自分にも選ばせてもらいたいと思っているのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「もしも今 大統領を 選べれば 侵略戦争 すぐに終わるが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもなぜ「どこかの国の国民」は「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができないのでしょうか? もしも「どこかの国の国民」が「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができるのならば、国際社会のいくつかの深刻な問題をあっと言う間に解決することができる可能性が高くなるのです。 あくまでも空想上の話ですが、もしも「どこかの国の国民」がロシアの大統領を選挙で選ぶことができたのならば、すぐにでもロシアによるウクライナ侵略戦争を終わらせることができるのだろうと思います。ロシアによるウクライナ侵略戦争は、「プーチンによるプーチンのための戦争」かどうかはともかくとしても、プーチン氏が始めた戦争であるということだけは確かです。ですから少なくとも現時点においては、プーチン氏自身が戦争を止めるか、プーチン氏自身が辞めさせられるかすればロシアによるウクライナ侵略戦争はすぐにでも終わらせることができるものと思われます。繰り返しになりますが、そもそもなぜ「どこかの国の国民」は「ある国の大統領や首相」を選挙で選ぶことができないのでしょうか? とりあえずは「外国の代理人」をはじめとする良識のあるロシア国民の選択と行動に注目することにしようと思います。 ======================================= 「『泥沼』に なるかどうかは 不明だが 『慰謝料』などは 莫大になる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「有名人」や「大富豪」はなぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」が次々と明らかになることが多いのでしょうか? もしかすると「有名人」や「大富豪」の「スキャンダル」や「不祥事」は本当に一部の人間たちが声高に唱えている「陰謀論」のようなものが「原因」なのでしょうか? あくまでも空想上の話ですが、もしもどこかの「有名人」や「大富豪」の「不倫」疑惑が浮上したり「配偶者」が「離婚」を強く望んだりするようになった場合であっても、「陰謀論」のようなものが「原因」になるのでしょうか? またもしもどこかの「有名人」や「大富豪」の「不倫」疑惑が浮上して「配偶者」が「離婚」を強く望むような場合には「慰謝料」などはかなり莫大なものになるのだろうと想像しています。そしておそらく地球上のどこであっても「不倫」や「離婚」をしただけでは「公職」の選挙の候補者資格を失うなどということはないのだろうと思います。しかし、たとえ「離婚」協議などが泥沼状態にならなかったとしても、それでもやはり、「慰謝料」などはかなり莫大なものになるのだろうと想像しています。さらに言えば、もしもどこかの「有名人」や「大富豪」の「不倫」疑惑や「離婚」協議が泥沼状態になったのならば、とても選挙や祖国を再び偉大にすることができるかどうかという騒ぎではなくなってしまうのだろうと想像しています。泥沼状態になるかどうかは不明ですが…。繰り返しになりますが、「有名人」や「大富豪」はなぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」が次々と明らかになることが多いのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『スキャンダル』 『不祥事』により 衰える? その『資金力』 『影響力』は…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「有名人」や「大富豪」はなぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」が次々と明らかになることが多いのでしょうか? もちろん実際にはそれほど多くの「スキャンダル」や「不祥事」を引き起こしていなかったとしても、世の中では目立つ存在の「有名人」や「大富豪」の「スキャンダル」や「不祥事」はやはり目立つから「有名人」や「大富豪」が「スキャンダル」や「不祥事」を次々と引き起しているような印象を与えているだけなのかもしれないと思うことはあります。でも、「有名人」や「大富豪」の「スキャンダル」や「不祥事」は決して少なくはないのです。もしかすると「有名人」や「大富豪」は「スキャンダル」や「不祥事」を引き起こしたとしてもその「スキャンダル」や「不祥事」を何らかの手段で事実上なかったことにすることができるから何度でも「スキャンダル」や「不祥事」を引き起こすことができるのでしょうか? もちろん「有名人」や「大富豪」が自分たちの「影響力」や「資金力」を使って「スキャンダル」や「不祥事」を事実上なかったことにしようとしたとしても、すべての「スキャンダル」や「不祥事」をもみ消すことができるというわけではないのです。ちなみに「有名人」や「大富豪」の「スキャンダル」や「不祥事」が明らかになるたびにその「影響力」や「資金力」は衰えていくことになるのでしょうか? 繰り返しになりますが、「有名人」や「大富豪」はなぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」が次々と明らかになることが多いのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『違法』でも 『不倫』でもない 『不適切』 許されないか? 許されるのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。なぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」というものはうんざりさせられているときに次々と明らかになるのでしょうか? あくまでも一般論ですが、いわゆる「プレイガール」や「プレイボーイ」であるということは「スキャンダル」や「不祥事」なのでしょうか? 多くの社会の中では、いわゆる「プレイガール」や「プレイボーイ」であるということは「不適切」なことではあるのだろうと思います。しかし、いわゆる「プレイガール」や「プレイボーイ」であるということは、必ずしも「違法」ではないし、必ずしも「不倫」ではないのです。「違法」でもない「不倫」でもない「不適切」なことは本当に許されないことなのでしょうか? それとももしかしたら「違法」でもない「不倫」でもない「不適切」なことは許されることなのでしょうか? 例えば、「恋愛感情」が非常に短い期間限定であったとしても相手を真剣に愛していたことは間違いないし、また相手から「カネ」をもらっていたり逆に相手に「カネ」を与えていたりしてはおらず、さらに自分も相手も別の誰かと結婚しているわけではないとしても、いわゆる「プレイガール」や「プレイボーイ」としての「不適切な行為」は社会的には許されないものなのでしょうか? もしもいわゆる「プレイガール」や「プレイボーイ」としての「不適切な行為」が社会的に許されないのならば、どこがどのように許されないものになるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 それにしても、なぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」というものはうんざりさせられているときに次々と明らかになるのでしょうか? ======================================= 「なぜ今か? なぜ冬を越え 春なのか? 問題だとは いつ気付いたか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。なぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」というものはうんざりさせられているときに次々と明らかになるのでしょうか? どこかの「青年たち」による昨年秋の「不適切な行為」が「スキャンダル」や「不祥事」としてここ数日マスメディアで繰り返し取り上げられています。露出度の高い衣装だったとか、触ったのか触っていないのかとか、「不適切な形」でチップを渡したのかとか、「公金」は使っていなかったなどということよりも、私としては、なぜ今そのような「スキャンダル」や「不祥事」が明らかになって問題になっているのかということの方がずっと気になっているのです。なぜ今そのような「スキャンダル」や「不祥事」が明らかになったのか…。あえて言い換えるのならば、なぜそのときすぐに問題になって明らかにならなかったのか、なぜ今まで約3-4カ月も問題にならなかったのか…。もちろん文字通り「なぜ今なのか」ということも気になります。しかし、私としては、なぜ寒い冬を越してもうすぐ春になろうという今現在までそのような「スキャンダル」や「不祥事」が明らかになって問題になることがなかったのかということの方がずっと大きな問題ではないかと思っているのです。もしかすると「TPO」をわきまえなかったことは別にしても「青年たち」とその周辺の人間たちにとっては「不適切な行為」は「日常茶飯事」で特に珍しいことではなかったのか…。繰り返しになりますが、なぜうんざりさせられるような「スキャンダル」や「不祥事」というものはうんざりさせられているときに次々と明らかになるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『あの人』の 『どこが好きか?』と 繰り返し 聞いて真似して みたらどうなる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。 なぜ多くの人たちがふさわしくないと猛反対していてもその「候補者」を熱烈に支持する人間たちがいるのでしょうか? その現象を「分断」と呼ぶべきなのかはともかくとしても…。 繰り返しになりますが、世の中では、たとえどれだけ周囲のほぼすべての人たちから猛烈に反対されていたとしても多くの人たちから猛烈に嫌われている人を自分の結婚相手として選ぶなどという人たちもときどきいるわけです。もちろんどこの誰とどんな理由で結婚しようと思ったとしてもそれは基本的にはその人の自由です。しかし、「あの人」と結婚したいという「その人」の気持ちは間違いなく本物なのでしょうか? さて、そのような周囲のほぼすべての人たちが猛烈に反対している「あの人」を自分の結婚相手として選ぼうとしている「その人」に対して、「あの人」の「どこが好きか?」と繰り返し聞いて真似してみたらいったいどうなるのでしょうか? 「あの人」の「どこが好きか?」…。例えば、「国境管理を厳格にすると言っているところ」と言うのならば、自分も「国境管理を厳格にする」と言い、「祖国を再び偉大にすると言っているところ」と言うのならば、自分も「祖国を再び偉大にする」と言う…。「その人」が「あの人」の好きなところだと言っているところを徹底的に真似したとしたらそれでも「その人」は「あの人」のことを結婚したいほど好きでいられるのでしょうか? きょうのところはあえてその疑問を投げかけるだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「もしかして 猛反対を されるから ますます支持が 熱烈になる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。 なぜ多くの人たちがふさわしくないと猛反対していてもその「候補者」を熱烈に支持する人間たちがいるのでしょうか? その現象を「分断」と呼ぶべきなのかはともかくとしても…。 世の中を見渡してみれば、ごく普通の多くの人たちの目から見ても、一部の人たちから猛烈に嫌われている「誰か」を別の一部の人たちが熱烈に支持しているような事例はよくあることではないかと思います。極端な事例かもしれませんが、たとえどれだけ周囲のほぼすべての人たちから猛烈に反対されていたとしても多くの人たちから猛烈に嫌われている人を自分の結婚相手として選ぶなどということもそれほど珍しいことではないのです。もしかすると周囲から猛烈に反対されればされるほど熱烈に好きになっていくものなのでしょうか? そうであるのならば、もしかしたら多くの人たちがある「候補者」を猛烈に嫌っている感情を覆い隠して猛反対するのをやめれば、その「候補者」を熱烈に支持する人たちは減っていくのでしょうか? きょうのところは、たとえどれだけ周囲のほぼすべての人たちから猛烈に反対されていたとしても多くの人たちから猛烈に嫌われている人を自分の結婚相手として選ぶ人たちが世の中にはたくさんいるということをあえて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『推薦』と 『拒否投票』と 『くじ引き』で 『選挙』は変わる? 『社会』は変わる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。 なぜ多くの「選挙」では投票率が低いのでしょうか? 投票率を高くするためにはいったいどうすればいいのでしょうか? もしかすると投票率を高くするためには「選挙」の仕組みを根本から見直す必要があるのかもしれないと思い始めています。立候補した「候補者」たちの中から当選させたいと思う「候補者」を選んで投票する以外の方法で「選挙」を行うことはできないのでしょうか? 例えば、暫定的に「拒否投票」とでも呼んでおくことにしますが、どうしてもこの「候補者」だけは当選させたくないと思う「候補者」を選んで当選させないようにする形でも投票することができるようにすることはできないのでしょうか? 自分が当選させたいと思う「候補者」がなかなか見つからないときであっても当選させたくないと思う「候補者」ならばすぐに見つけることができるという場合は少なくないと思います。あるいは、「選挙」に立候補していても立候補していなくても自分が当選させたい人に勝手に投票することができるようにすることはできないのでしょうか? 「選挙」に立候補していても立候補していなくても自分が当選させたい人を「推薦」することができるようにすると考えるのです。さらに言えば、投票率がある数字を下回った場合には「候補者」や「当選者」を「くじ引き」で選ぶようなルールにしたらいったいどうなるのでしょうか? いずれにしても「選挙」に立候補した「候補者」の中には自分が当選させたいと思う「候補者」が見当たらないという人たちにどうしたら投票してもらうことができるのかということを真剣に考える必要があると思います。「選挙」が変われば「社会」も変わるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「なぜ低い? 投票率を 高くする ためには何を すればいいのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。 なぜ多くの「選挙」では投票率が低いのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、多くの有権者にとって自分が「選挙」で投票したいと思う「候補者」がいないから投票率が低くなるのだろうと思います。逆の言い方をすれば、もしもそれぞれの有権者にそれぞれの「選挙」で投票したいと思う「候補者」がいるのならば、それぞれの「選挙」の投票率が高くなる可能性もあるわけです。それでは多くの有権者に自分がそれぞれの「選挙」で投票したいと思う「候補者」がいるようにするためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? それぞれの「選挙」に立候補した「候補者」たちが掲げた「公約」をじっくりと比較検討して自分が投票したいと思う「候補者」を選ぶべきなのでしょうか? 確かにそれも1つの考え方です。あるいは、それぞれの「選挙」に立候補した「候補者」たちの人柄や掲げている「公約」を見ながら自分がどうしても投票したくない「候補者」を「消去法」で消していって最後に残った「候補者」に投票するという方法も考えられるとは思います。しかし、「選挙」に立候補した「候補者」たちの中からはどうしても自分が投票したいと思う「候補者」を選ぶことができないということは十分にあり得る話だと思います。繰り返しになりますが、なぜ多くの「選挙」では投票率が低いのでしょうか? 投票率を高くするためにはいったいどうすればいいのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「いま産むか? まだ産まないか? どうするか? そもそも産むか 産まないかさえ…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「男女平等」とか「男女共同参画社会」などと呼ばれるようなことはいったいどのようなことを意味しているのでしょうか? もしかしたら大きな誤解を与えたり批判を受けたりする危険性が高くなってしまうのかもしれませんが、どんなに少なくとも今現在の社会においては「子どもを産み育てること」について「男女平等」を実現するようなことは事実上不可能ではないかと考えています。なぜならほとんどすべての「女性」には自分自身が「子どもを産むか産まないか」「子どもを産むとしてもいつ産むか」などという「選択肢」があるのに対して、男性にはそれらの「選択肢」が事実上存在しないと言ってもいい状態だからです。もちろん今の時代では「子どもを産むか産まないか」「子どもを産むとしてもいつ産むか」などということはそれぞれのパートナー同士で十分に話し合って互いに納得して決めるべき話です。そのような状況を考えるのならば、「女性」だけではなく「男性」にも「子どもを産むか産まないか」「子どもを産むとしてもいつ産むか」などという「選択肢」があるという見方をすることも全くの間違いとは言い切れないのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、「女性」が「子供を産む」ことについてある意味での「拒否権」を持っていることだけは少しも変わらないのです。あえて言い換えれば、どんなに少なくとも今の時代には、いくら「男性」が子どもを欲しいと思っていても、「女性」が「子どもを産む」という選択をしない場合には基本的にはどうすることもできないのです。当たり前と言えば当たり前の話なのかもしれませんが、生物学的に子どもを産むことが可能な「女性」の側には「子どもを産まない」ということを含めたすべての「選択肢」が存在するのに対して、生物学的に子どもを産むことが不可能な「男性」の側には少なくとも現在においては「子どもを産む」という「選択肢」は存在しないのです。繰り返しになりますが、どんなに少なくとも今現在の社会においては「子どもを産み育てること」について「男女平等」を実現するようなことは事実上不可能ではないかと考えています。きょうのところはひとまずこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『戦場』は 『男女平等』 ではないか? 『引き金』引けば 『敵』を倒せる!」-。 きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」についてあえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「男女平等」とか「男女共同参画社会」などと呼ばれるようなことはいったいどのようなことを意味しているのでしょうか? もしも唐突に平和で豊かな社会が一般市民も巻き添えになって殺されてしまう「泥沼の戦争」などに巻き込まれてしまった場合には、否応なく自分たちや自分たちの大切な人たちを守るために命を懸けて「敵」と戦わなければならなくなる人たちが出てくることになるのだろうと思います。もちろん少なくとも現時点においては差し迫った「戦争」などの脅威にまだ直面していない日本社会ではなかなか現実味を持って想像することができないことではないかと思います。しかし、あえて個別具体的な固有名詞を挙げることは避けますが、国際社会で隣国から侵略されているいくつかの国では自分たちの大切な人たちを守るために「志願」したり「徴兵」されたりして戦場で兵士として命を懸けて「敵」と戦っている人たちが現実にたくさんいるわけです。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「今の時代の戦争」では命を懸けて戦う兵士は本当に「男性」でなければならないのでしょうか? さらに誤解と批判を恐れずに言わせてもらうのならば、「男女平等」とか「男女共同参画社会」などを掲げている今の時代に「男性」だけに「徴兵」の義務を課すことは本当に許されることなのでしょうか? もちろん「生身の人間」同士が全身と全体力を駆使して至近距離で殺し合うような「大昔の戦争」においては「男性」に対して体格や筋力で劣る「女性」や「子供」は圧倒的に不利だったことは確かなのだろうと思います。しかし、「生身の人間」同士が殺し合う場面がそれほど多くはない「今の時代の戦争」では体格や筋力よりもむしろ使用する兵器の性能やその操作能力によって勝敗が決まる場面が多いのです。本当に「男性」にしか最新式の高性能兵器を使いこなすことができないのでしょうか? 本当に「女性」には最新式の高性能兵器を使いこなすことができないのでしょうか? 「今の時代の戦争」では適切な場面や適切なタイミングで「引き金」を引いたり「発射ボタン」を押したりするだけでほぼ確実に「敵」を倒すことができるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「それぞれの 立場から見て それなりに 説得力は ありそうだけど…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、どんな悪いものにも探せば良い部分が1つぐらいは見つかるものですし、どんな素晴らしいものにも探せば悪い部分の1つぐらいは見つかるものなのです。しかし、それにもかかわらず、他人の悪いところばかりをわざわざ取り上げている人間たちはいったい何者なのでしょうか? どこかの国会では野党によるいわゆる「審議拒否」が繰り返されています。またどこかの国会では与党側によるいわゆる「強行採決」も繰り返されています。そして野党側による「不信任決議案」などの提出も繰り返されています。さらには野党側による「牛歩」や「長時間演説」なども繰り返されています。当たり前と言えば当たり前の話ですが、与党側から見た野党側による「審議拒否」は、野党側にとっては「与党側の強引な審議日程の設定や委員会運営には応じない」などという「正当な行動」になるのです。また野党側から見た法案や予算案などの「強行採決」は、与党側から見れば野党側による悪質な「議事妨害」「採決妨害」などということになるのだろうと思います。同じように、「不信任決議案」などの提出、「牛歩」や「長時間演説」などについても、与党側も、野党側も、それぞれの立場から見てそれなりに説得力のありそうな主張を展開しているのだろうと思います。政府・与党側の悪いところばかりを探し出して悪いところばかりを強調する…。「権力の監視」などというもっともらしい主張をしていてもいなくても、根拠の乏しい強い思い込みに基づいて毎年毎年ほぼ同じような行動を繰り返していったいどのような成果が得られているのでしょうか? 繰り返しになりますが、どんな悪いものにも探せば良い部分が1つぐらいは見つかるものですし、どんな素晴らしいものにも探せば悪い部分の1つぐらいは見つかるものなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『悪者』の 悪い部分は 探し出す 良い部分には 目を閉ざしても…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、どんな悪いものにも探せば良い部分が1つぐらいは見つかるものですし、どんな素晴らしいものにも探せば悪い部分の1つぐらいは見つかるものなのです。しかし、それにもかかわらず、あえて他人の悪いところばかりを取り上げている人間たちはいったい何なのでしょうか? 多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、誰かの悪いところばかりを取り上げている人間たちは、誰かは「悪者」などという「根拠のない強い思い込み」をしているのだろうと思います。「悪者」である誰かは「悪者」であり続けなくてはならない…。だからこそ誰かの悪い部分ばかりを探し出してその悪い部分だけを取り上げ続けているのだろうと思います。しかし、どんな悪い人間にも探せば良い部分が1つぐらいは見つかるものですし、どんな素晴らしい人間にも探せば悪い部分の1つぐらいは見つかるものなのです。それにもかかわらず、「悪者」の悪い部分ばかりを探し出して取り上げ続け、「悪者」の良い部分についてはあえて探さず仮に見つけても目を閉ざし続ける…。このようなことを繰り返していけば対立はどこまでも深刻なものになり、最終的には果てしない殺し合いが続くことになってしまいます。国際社会だけではなく、ごく普通の多くの人たちのすぐ近くでも「悪者」の悪い部分だけを探す作業は繰り返されているわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「良い部分 悪い部分を 見極める 能力ないと 解決できず!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。あくまでも一般論ですが、どんな悪いものにも探せば良い部分が1つぐらいは見つかるものですし、どんな素晴らしいものにも探せば悪い部分の1つぐらいは見つかるものなのです。そして何が良い部分で何が悪い部分なのかをしっかりと見極める能力は必要不可欠のはずですが…。 どんなに少なくとも内閣総理大臣(自民党総裁)自身がマスメディアなどにも「公開」した状態で衆議院政治倫理審査会に出席して派閥の政治資金パーティーをめぐる問題について釈明する意向を示すという形での「リーダーシップ」を発揮したことによって、公開・非公開などをめぐる与野党の意見の対立のために膠着していた状態が一気に動き出したことは疑いのない事実です。また現職の内閣総理大臣が政治倫理審査会に出席するのは初めてですから、かなり唐突かつ異例な決断であったということもおそらく事実です。さらに言えば、たとえいくら懇切丁寧に繰り返し説明したとしても国民からの信頼を回復させることはそれほど簡単なことではないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、もしも現職の内閣総理大臣が衆議院政治倫理審査会に出席して「公開」された状態で釈明するという決断がなかったのならば、衆議院政治倫理審査会が「公開」された状態で開かれるということはなかったのかもしれないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、そもそも政治倫理審査会での釈明だけで新たに何かが明らかになったり国民からの信頼を回復したりすることを期待することはあまりできなかったはずなのです。繰り返しになりますが、どんな悪いものにも探せば良い部分が1つぐらいは見つかるものですし、どんな素晴らしいものにも探せば悪い部分の1つぐらいは見つかるものなのです。どんなに少なくとも何が良い部分で何が悪い部分なのかをしっかりと見極める能力がなければ様々な問題を解決していくことはできないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『偉い人』 『ルール』を守ら ないときは 自分も守ら なくていいのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。自分たちが守っている「ルール」を「偉い人」が守っていなかったら本当に「不公平」なのでしょうか? 言うまでもなく、もしも自分たちは「ルール」を守らなければならないけれども、どういうわけか「偉い人」は「ルール」を守らなくてもいいということになっているのならば、それは「不公平」と呼ぶべき状況であることは確かです。しかし、いくら「偉い人」が「ルール」を守っていなかったとしても「偉い人」も他の人たちと同じように「ルール」を守らなければならないということには少しも変わりがないはずなのです。さらに言えば、「偉い人」ではない人たちの中にも「ルール」を守っていない人たちがそれなりにいるはずなのです。ごく一部からは「確定申告」の時期だからどうだとか、「納税意欲が低下する」とかなんとかなどという声も聞こえてくるわけですが…。そのような声を上げている人間たちはもしも他人が悪いことをしていたら自分も悪いことをしてもいいと本気で思っているのでしょうか? 他人が横領をしていたら自分も横領をしても構わないとか、他人が窃盗をしていたら自分も窃盗をしても構わないとか、他人が強盗・殺人をしていたら自分も強盗・殺人をしても構わないとか…。もしも世の中にそのような人間たちが大勢いるのならば、世の中はあっと言う間に「地獄」に変わってしまう危険性が高くなるのではないかと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「有名な 人や場所での 映像を 他人に見せて 自慢話を…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。なぜ世の中には「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」と一緒に写った写真などを見せながら「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」の話を自慢気にしたがる人間たちが多いのでしょうか? なぜ「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」と一緒に撮影したがる人たちがそんなに多いのでしょうか? 観光地、人気スポット、超人気アーティストなどのライブ会場などなど…。「自撮り」をしている人たちがとても多いのです。もっとも普通の人たちが有名な場所や人気スポットなどで「自撮り」をしたくなる気持ちは分からないでもないのです。身近な場所に有名人がやってきたら一緒に撮影したくなる気持ちも分からないではないのです。しかし、そんな「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」と一緒に写った写真などを見せられている側はいったいどのように思うのでしょうか? うらやましいと思うのでしょうか? そんないつもは「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」と一緒に写った写真などを見せながら「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」の「自慢話」をしている人たちであっても、そのような「自慢話」をされることがどれだけ退屈で迷惑なことなのかがすぐに分かるよい機会が「国会議員」などのホームページやパンフレットなどを見ることではないかと思います。誰もが知っている国会という場所で総理大臣などに質問している写真だとか、超大物議員や有名議員らと一緒に写った写真だとか…。「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」と一緒に写った写真などを見せながら「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」での「自慢話」をすることによっていったい何を期待しているのでしょうか? 「誰でも知っているような有名な人たち」や「誰でも知っているような有名な場所」と一緒だと自分も有名になったり何か特別な能力を身に付けたりしたような気分になるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『同盟』や 『軍事支援』の 約束を 守ってもらう ためにどうする?」-。 きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。大事な約束を確実に守ってもらうためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 約束は肝心なときほど守られなくなったり、大事な約束ほど守られなくなったりすることが少なくないわけですが…。 肝心なときに相手から逃げ出されたり黙って見過ごされたりすることなく、確実に約束を守ってもらうためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 例えば、「契約」ならば約束を破った場合には「違約金」などを支払わなければならないような内容にしておくということが考えられます。しかし、現実には「違約金」などを支払いさえすれば約束を破っても構わないということになってしまうことも少なくないのです。それどころかその「違約金」などを支払うという約束までをも一緒に破られてしまうことすらもあるのです。しかし、いくら約束をした相手が逃げ出そうと思ったり黙って見過ごそうと思ったりしても、逃げ出したり黙って見過ごしたりすることが絶対にできないような状況になっていれば全力で約束を守ろうとする以外には「選択肢」がなくなるのだろうと思います。ちなみに「同盟」や「軍事支援」の約束を確実に守ってもらうためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 肝心なときに相手が逃げ出そうと思ったり黙って見過ごそうと思ったりしても逃げ出したり黙って見過ごしたりすることが絶対にできないような状況にするためには…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『指導者』を 『抹殺』すれば 現状を 一変させる ことはできるが…」-。 きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「起死回生」などという言葉がありますが、圧倒的に不利な現状を一気に打開するための「作戦」などというものは本当に成功するのでしょうか? そしてもしもそのような「作戦」が成功したとしてもその「反動」は何もないのでしょうか? あくまでも一般論ですが、多くの時代の多くの場所では敵の圧倒的な大軍に攻め込まれているときに「起死回生」の策などが講じられることがよくありました。例えば、もしも「敵の大将」を討ち取ることができれば戦争に勝利することができるというのならば、いくら「味方」が少数しかいなかったとしても、全員で「敵の大将」の生命だけに狙いを定めて集中的に「敵の大将」の生命を奪おうとする「作戦」が採用されるようなことはよくあることではないかと思います。そのようなことを考えるのならば、もしも「独裁者」が引き起こして「独裁者」だけがその継続を望んでいるような戦争によって苦しめられたり追い詰められたりしている人たちがいるのならば、「独裁者」を「抹殺」することによって「起死回生」を図ろうとする「発想」が出てくる可能性もあるのではないかと思います。確かに「独裁者」を「抹殺」すれば現状を一変することはできるかもしれないわけです。しかし、「独裁者」を「抹殺」した「反動」としていったい何が起こるのか起こらないのかを予測することは非常に難しいのです。もしもどこかに「独裁者」が引き起こして「独裁者」だけがその継続を望んでいるような戦争があるのならば、「独裁者」を「抹殺」することによって戦争を終わらせようとする人間たちが出てこないとは限らないわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『身勝手』で 『内向き』になる 米国は 『同盟国』を 失っていく!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えながら理解を深めることにしようと思います。なぜ米国という国では国際社会に背を向けて「内向き」になる傾向が強まるのでしょうか? そしてなぜ米国という国は内部に非常に深刻な分断・分裂を抱え持ったまま解消することができないのでしょうか? 繰り返しになりますが、地球上のどこを探しても米国ほど豊かな国はなかなか見つからないのだろうと思います。また地球上のどこを探しても米国ほど自由な国も見当たらないのだろうと思います。そして米国という国はそのようなあまりにも豊かであまりにも自由な国であるからこそ、国際社会に背を向けて「内向き」になる傾向が強まったり、国内に非常に深刻な分断・分裂を抱え持ったまま解消することができなかったりするのではないかと思います。非常に残念なことではありますが、自由で豊かな国である米国が国際社会に背を向けて「内向き」になったり国内の非常に深刻な分断・分裂を国際社会に持ち出して「身勝手」になったりするようなことはやむを得ないことなのかもしれないと思うこともあります。しかし、もしも米国が「身勝手」で「内向き」になり続けるのであれば、米国は国際社会の中で次々と「同盟国」を失っていくことになるのだろうと思います。カネを支払わないのならば敵から攻撃されても守ってやらないとか何とかと…。「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉もあるわけですが、どんなに少なくとも「同盟」というものは顧客と警備員のような関係ではないはずなのです。とりあえずきょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「あまりにも 自由で豊か だからこそ 『内向き』になる? 『身勝手』になる?」-。 きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」についてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えながら理解を深めることにしようと思います。なぜ米国という国では国際社会に背を向けて「内向き」になる傾向が強まるのでしょうか? そしてなぜ米国という国は内部に非常に深刻な分断・分裂を抱え持ったまま解消することができないのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて単純化して言わせてもらうのならば、米国という国があまりにも豊かであまりにも自由な国だからなのだろうと思います。米国という国は、もしも米国民が今現在の豊かさを多少失っても構わないと本気で思うのならば、米国民が生活するために必要不可欠なもののほとんどすべてを米国内だけで生産して必要な場所に供給し続けることができるだけの十分な「潜在能力」を持っているのだろうと思います。食糧も、天然資源も、資金も、技術も、生産設備も、労働力も…。地球上のどこを探しても米国ほど多くの「資源」に恵まれている国はないと思います。言い換えれば、米国は自分たちが生活していくために必要不可欠なものの中で決定的に欠けているものがあるわけではないのでどうしても「内向き」になる傾向があるのだろうと思います。さらに言えば、地球上のどこを探しても米国ほど自由な国は存在しないと言ってもいいのだろうと思います。たとえどれだけ自分のことだけを考えて身勝手な行動を繰り返しても、そしてそのことで他人からどれだけ厳しく批判されたとしても、法律で禁止されていない場合には、結局のところは許されてしまうというだけではなく、そのあまりにも身勝手な行動が一部の人間たちから賞賛されてしまうことすらもあるわけです。もしかすると米国という国があまりにも豊かであまりにも自由な国だから「内向き」になったり「身勝手」になったりする傾向があるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことだけを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『チケット』は 一人何枚 買うものか? 『パーティー券』も 『特典付き』か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どこかでよく売られているいわゆる「パーティー券」などというものは音楽イベントや演劇や映画などの「チケット」とはどこがどう違っているのでしょうか? それとも実はほとんど同じものなのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、ごく普通の多くの人たちは1人で「チケット」を何枚ぐらい買うものなのでしょうか? もちろん誰でも身体は1つしかないわけですから1つのイベントに対して1人1枚が原則ということになるのだろうと思います。もっとも「同伴者」がいる場合には1人2枚とか3枚ということもよくあるのだろうと思います。例えば、もしも「チケット」が「握手券付きのチケット」であるような場合には、全く同じイベントの「チケット」を1人で何十枚も買う人たちがたくさん出てくることもあるのかもしれないと思います。さらに言えば、もしも「チケット」が「特典付きのチケット」であるような場合には、いくら1人何枚までと購入可能枚数の上限を設けて制限したとしても、他人の名義を借りたりして事実上1人で何十枚も購入するような人たちが出てくることもあるのだろうと思います。ちなみにどこかでよく売られているいわゆる「パーティー券」などというものにも「握手券」などの「特典付き」のものがあるのでしょうか? 繰り返しになりますが、どこかでよく売られているいわゆる「パーティー券」などというものは音楽イベントや演劇や映画などの「チケット」とはどこがどう違っているのでしょうか? それとも実はほとんど同じものなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『チケット』を 完売させる 目的で 『大物ゲスト』 呼んだりするが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どこかでよく売られているいわゆる「パーティー券」などというものは音楽イベントや演劇や映画などの「チケット」とはどこがどう違っているのでしょうか? それとも実はほとんど同じものなのでしょうか? 例えば、「超人気アーティスト」の場合には、たとえ数万人規模の巨大会場でのライブの「チケット」であったとしても販売開始からわずか1分以内で「完売」になるようなこともそれほど珍しい話ではないのです。その一方で、「あまり知られていないアマチュアバンド」のライブのチケットがライブ当日になってもまだ半分以上も売れ残っているなどということはよくある話ではないかと思います。それでは「あまり知られていないアマチュアバンド」のライブのチケットを手っ取り早く「完売」するためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 例えば、もしもそのライブに「超大物ゲスト」を呼ぶことができるのならば、「あまり知られていないアマチュアバンド」のライブのチケットであったとしても販売開始からすぐに「完売」させることもできるようになるかもしれないのです。確かに「チケット」を完売させる目的で「大物ゲスト」を呼んだりすることもないわけではないのですが…。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「超大物ゲスト」を呼ぶためには「ギャラ」としてたくさんの「カネ」が必要になりますし強力な「コネ」も必要になるわけです。言い換えるのならば、もしも「超大物ゲスト」をなんとか苦労して呼ぶことができて無事に「チケット」を完売することができたとしても結果的にライブが大赤字になる可能性も高いのです。そのように考えるのならば、超大物や名前の知られた先輩が次々にゲストとして駆け付けてくれるようになるかもしれない「派閥」というものはとてもありがたいものなのだろうと想像することができるわけです。繰り返しになりますが、どこかでよく売られているいわゆる「パーティー券」などというものは音楽イベントや演劇や映画などの「チケット」とはどこがどう違っているのでしょうか? それとも実はほとんど同じものなのでしょうか? きょうのところはひとまずこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「支持率は 低下したけど 悪いのか? 辞めさせられる 理由はないが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もともと低かったどこかの内閣の支持率がますます低下しているらしいです。そもそも内閣支持率が低下したらいったい何がどのように悪いというのでしょうか? 逆に、内閣支持率が高かったら本当に良いことなのでしょうか? 多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、約2年前に行われた任期4年の国会議員を選ぶための選挙で有権者が投票して勝利させた結果として今現在の内閣が発足したわけです。あくまでも念のために確認しておきますが、選挙で勝利したということは、野党の候補者に投票したり棄権したりした有権者を含めたすべての「有権者」が今現在の内閣を選んだということになるわけです。ですから、たとえどれだけ内閣支持率が低下したとしても、任期中であるのならば、そもそも内閣総辞職をしなければならないなどという「理屈」には少しもならないはずなのです。そもそも内閣支持率の低下は内閣不信任決議案の可決とは全く性質が違うのです。何にしても任期はまだ約2年も残っているわけです。あえて言い換えれば、これからいくら内閣支持率が高くなったとしてもあと2年もしないうちに今現在の内閣は確実に総辞職をしなければならなくなるということなのです。繰り返しになりますが、そもそも内閣支持率が低下したらいったい何がどのように悪いというのでしょうか? 逆に内閣支持率が高かったら本当に良いことなのでしょうか? もしも内閣総理大臣も知事や市長のように有権者の直接選挙で選ばれていれば、内閣支持率が低下したからどうのこうのという話は出てこないのだろうとは思います。その上で、あえて付け加えるのならば、「小選挙区比例代表並立制」という選挙制度の下では、過半数の議席を獲得した政党の党首が内閣総理大臣に選ばれるという形で有権者は事実上内閣総理大臣を選んでいることになるわけですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『永田町』 『コスパ』が悪い だけでなく 『タムパ』や『タイパ』 最悪になる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。それにしてもなぜいわゆる「永田町」では「コスパ」(→コストパフォーマンス)だけではなく、「タムパ」や「タイパ」(→タイムパフォーマンス)が悪いことばかりを繰り返しているのでしょうか? いわゆる「永田町」では多くのことに驚くほど高い「コスト」がかけられています。そしてその驚くほど高い「コスト」のほとんどは「税金」によって負担されているのです。ですから、ごく普通の多くの人たちは、どうしても驚くほど高い「コスト」、言い換えれば、驚くほど多くの「税金」を使わなければならないというのならば、せめてその驚くほど高い「コスト」に見合った「成果」を得たいと考えるのではないかと思います。しかし、いわゆる「永田町」では「成果」らしい「成果」を得られないまま虚しく時間が過ぎていくことが非常に多いのです。その結果として、いわゆる「永田町」では、「コスパ」(→コストパフォーマンス)だけではなく、「タムパ」や「タイパ」(→タイムパフォーマンス)も非常に悪いということになってしまうわけです。あえてたとえるのならば、ごく普通の多くの人たちにとっては、いわゆる「永田町」では、たっぷり時間をかけて最初から「はずれくじ」しか入っていない「箱」からすべての「はずれくじ」を引き終わるまで「くじ引き」をやり続けるようなバカバカしいことをやっているようにしか見えないのではないかと思います。なぜ「はずれくじ」しか入っていない「くじ引き」だとすぐに気付かないのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『プリゴジン』 『反体制派』 『ナワリヌイ』 『ロシア国民』 次々消える!」-。 ロシアでプーチン政権を厳しく批判してきた反体制派の指導者のアレクセイ・ナワリヌイ氏が収監されていた北極圏の刑務所内で死亡したことが明らかになって大きな波紋が広がっています。また今年3月に予定されているロシア大統領選への立候補を表明していたウクライナ侵攻を批判しているナデジディン元下院議員が立候補に必要な署名の一部に不備があったとして立候補を認められないという判断を下されています。ちなみに2023年8月にはロシアの民間軍事会社ワグネルの創設者のプリゴジン氏が自家用ジェット機の墜落で死亡した「事件」もありました(→参考:2023/8/29付etc.)。 やはりロシアの刑務所内でのナワリヌイ氏の「死亡」にはいくつも疑問点があることは確かです。しかし、どんなに少なくとも現時点においてはナワリヌイ氏の「死亡」にプーチン大統領周辺が関与している明確な証拠は存在しないわけです。さらに言えば、確かに2020年8月にはロシアでの航空機搭乗時にナワリヌイ氏の毒殺未遂事件が発生しましたが、その毒殺未遂事件にもプーチン大統領周辺が関与したという明確な証拠が存在しないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、最近のプーチン政権下のロシアでは「プリゴジン」が消え、「反体制派」が消え、「ナワリヌイ」が消えたということだけは客観的な事実のまま変わらないのだろうと思います。このままプーチン政権下のロシアでは様々なものが次々と消えていくのでしょうか? そしてもしもプーチン政権下のロシアで「ロシア国民」が次々と消えていくことになるのならば、具体的にどのような形で次々と消えていくことになるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「声そろえ 『反・犯罪』を 唱えれば 安心できる 社会になるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。本当にみんなで声をそろえて「今すぐ『犯罪』を止めろ!」「反・『犯罪』!」などと唱えれば安心できる社会になるのでしょうか? どうやら世の中にはみんなで声をそろえて「今すぐ『犯罪』を止めろ!」「反・『犯罪』!」などと唱えるべきなどと呼び掛けながら実際に自分たちでも唱えている人間たちがいるようです。多少の批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、みんなで声をそろえて「今すぐ『犯罪』を止めろ!」「反・『犯罪』!」などと唱えるべきなどと呼び掛けながら実際に自分たちでも唱えている人間たちは「今すぐ『犯罪』を止めろ!」「反・『犯罪』!」などという「呪文」を唱えれば安心できる社会になるなどと本気で信じ込んでいるのでしょうか? もし本気で信じ込んでいるのならば「カルト宗教の信者」との違いが非常に分かりにくくなってしまいます。当たり前と言えば当たり前の話ですが、いくら多くの人たちが強く望んだとしてもそれだけでは物事を実現させることができないということは明らかなのです。言うまでもなく世の中では大切なものほど「多数決」で決めることはできないのです。そして世の中では実は大切なものほど「多数決」で決めてはならないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「簡単に 誰でも批判 できるのが 本当に『悪い 人間』なのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「悪い人間」を徹底的に厳しく批判する人間たちがいます。確かに「悪い人間」には厳しく批判されるような部分もあるのだろうと思います。しかし、どんな「悪い人間」にも探せば良い部分の1つや2つは見つかっても何の不思議もないのです。それにもかかわらず、なぜそこまで「悪い人間」を徹底的に厳しく批判するのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、「悪い人間」を厳しく批判するようなことは誰でも簡単にできることなのです。あえてもう少しだけ正確に言い換えるのならば、世の中の多くの人たちから「悪い人間」として厳しく批判されている人を厳しく批判するようなことは誰でも簡単にできることなのです。逆に、世の中の多くの人たちがその人を「悪い人間」として厳しく批判している真っ最中にその厳しく批判されている人にも「実は良いところがいくつもある」などと言い出すことはなかなかできることではないと思います。さらに言えば、世の中の多くの人たちが誰かを「悪い人間」として厳しく批判しているその真っ最中に実は「本当に悪いのは別のあの人間たちだ」などと言い出すこともかなり難しいことなのだろうと思います。世の中の多くの人たちから「悪い人間」として厳しく批判されている人は本当に「悪い人間」なのでしょうか? 世の中の多くの人たちから「悪い人間」として厳しく批判されている人を厳しく批判するようなことは誰でも簡単にできることですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「世の中は 『カネ』さえあれば 『楽園』か? 『カネ』がなければ 『地獄』になるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中は「カネ」次第なのでしょうか? 世の中では「カネ」があれば何でも欲しいものを手に入れることができるのでしょうか? 「カネ」がなければ生きていくために必要不可欠なものを含めたすべてのものを失ってしまうのでしょうか? もしも政府や政治関係者が「税金」を支払わなければ強盗や泥棒に襲われても助けてやらないなどと口走ったならばいったいどのように受け止められるのでしょうか? またあくまでも「空想上の社会」での話ですが、もしも「どこかの大統領候補の候補者」が大統領選挙に立候補することを諦めるのならばいくらでも欲しいだけ「カネ」を支払ってやると言われたら大統領選挙に立候補することを諦めるのでしょうか? あるいは、もしも「どこかの大統領候補の候補者」がこのまま憲法違反や法律違反で大統領選挙に立候補する資格を失いたくなかったらもっともっとたくさんの「税金」をすぐに支払えと言われたならばいったいどうするのでしょうか? 本当に世の中は「カネ」次第なのでしょうか? あえて言い換えるのならば、世の中は「カネ」さえあれば「楽園」になるのでしょうか? 逆に、世の中は「カネ」がなければ「地獄」になってしまうのでしょうか? もしも「カネ」を支払って世の中の様々な深刻な事態を本質的に解消することができるのならば「裏金」からでも何からでもすぐに「カネ」を支払ってもらいたいと思っている人たちは少なくないはずです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『犯罪者』 の家族なども 『犯罪者』? その子や孫も 『犯罪者』なの?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。たとえ「犯罪者」が「犯罪者」であったとしても、「犯罪者」の家族なども「犯罪者」なのでしょうか? たとえ「犯罪者」が「犯罪者」であるとしても、その子や孫も「犯罪者」なのでしょうか? あえて個別具体的な固有名詞などを挙げることは避けますが、罪のない人たちを拉致・誘拐した人間たちはやはり「犯罪者」なのだろうと思います。そしてその拉致・誘拐された人たちを「人質」として監禁している人間たちもやはり「犯罪者」なのだろうと思います。さらに言えばその拉致・誘拐された人たちを「人質」として監禁している人間たちに積極的に協力している人間たちも「犯罪者」なのだろうと思います。それでは「犯罪者」の家族なども「犯罪者」なのでしょうか? 「犯罪者」の子や孫なども「犯罪者」なのでしょうか? 当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、たとえ「犯罪者」が「犯罪者」であったとしても、「犯罪者」の家族などは「犯罪者」の家族などであるという理由だけでは「犯罪者」にされることはないはずなのです。そしてもちろん「犯罪者」の子や孫も「犯罪者」の子や孫であるという理由だけでは「犯罪者」にされることはないはずなのです。あくまでも念のために確認しておきますが、攻撃先には「敵」と「犯罪者」と「人質」しかいないわけではないということを絶対に見逃してはならないのです。もしも「敵」と「犯罪者」と「人質」しか見えないのならば、犠牲者はどんどん増えてしまいますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「支払いは 『キャッシュレス』にし デジタル化! 『口座』経由で 記録に残す!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中ではいわゆるキャッシュレス化やデジタル化が一気に進んでいます。新型コロナウイルスの感染拡大防止対策などとして加速したということもありますが…。それにもかかわらず、政治の現場ではなぜキャッシュレス化やデジタル化がなかなか進まないのでしょうか? 残念ながら自分が使っている「キャッシュレス」に相手側が対応していなくて困るという場面に遭遇することはまだまだ少なくはないのです。ですから、すべての取引を「キャッシュレス」にするというわけにはいかないということはよく分かります。しかし、率直に言わせてもらうのならば、今現在でも不特定多数の人たちによる一時的で少額の取引以外の支払いは現金よりも「キャッシュレス」の方がずっと便利なのではないかと思います。あえて言い換えるのならば、今現在でも政治活動に関連した支出のほとんどは「キャッシュレス」で支払うことが十分に可能なのです。そしてたとえ紙の領収書を発行・保存していなかったとしてもデジタル化された取引記録は残っているわけです。さらに言えば、たとえ「キャッシュレス」で支払うことが非常に困難な支出であったとしても、「銀行口座」を経由して支払うことができない支出というものはほとんど存在しないのではないかと思います。もちろん「銀行口座」を経由すれば手数料負担が発生します。しかし、例えば、取引記録を残して政治関連のカネの流れを透明化するために、政治団体が登録した銀行口座からの送金手数料を条件付きで免除するとか公費で負担するなどという方法も考えられるわけです。繰り返しになりますが、政治の現場ではなぜキャッシュレス化やデジタル化がなかなか進まないのでしょうか? ちなみにたとえどんなに完璧に見える対策でも「抜け道」などが存在するわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『大口』を たたいていれば 活躍の 機会は増える? 評価が下がる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使いながらありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には自分たちが活躍する機会が欲しくていわゆる「ビッグマウス」になったり「大口」を叩いたり「ほら吹き」になったりしている人間たちが少なくないようです。でも、本当に「ビッグマウス」になったり「大口」をたたいたり「ほら吹き」になったりすれば自分が活躍することができる機会が増えるのでしょうか? そもそも自分たちが活躍する機会が欲しくていわゆる「ビッグマウス」になったり「大口」をたたいたり「ほら吹き」になったりしている人間たちは自分たちの能力を過大評価していないのでしょうか? それとも自分たちの能力が不十分なことは分かっていても何事も言ってみなければ分からないとか言ってみなければ何も始まらないなどと思いながらいわゆる「ビッグマウス」になったり「大口」をたたいたり「ほら吹き」になったりしているのでしょうか? もしかすると「インターネットの中の世界」や「テレビの中の世界」ではいわゆる「ビッグマウス」になったり「大口」をたたいたり「ほら吹き」になったりしなければ活躍することができる機会がなかなか増えないのかもしれないと思うこともあります。しかし、一般社会では、例えば、就職の面接などの場でいわゆる「ビッグマウス」になったり「大口」をたたいたり「ほら吹き」になったりすれば「正確に自己分析をすることができない人」と受け止められて評価が下がってしまうのではないかと思いますが…。ちなみにどこかの政治の世界では、野党の人間たちは政権交代が実現したらどうのこうのと軽々しくいろいろと言っているわけですが…。繰り返しになりますが、本当に「ビッグマウス」になったり「大口」をたたいたり「ほら吹き」になったりすれば自分が活躍することができる機会が増えるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「あなたでは やっぱりダメと 言わせたい? 求められない のに『立候補』?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使いながらありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中にはたとえ自分が求められていなくても積極的に「立候補」するような人たちがいます。もちろん何かに積極的に「立候補」するかどうかということはその人たちの自由です。でも、なぜ彼・彼女たちは自分たちが求められていないのに「立候補」するのでしょうか? ごく普通の多くの人たちの身の回りでも誰かが誰かの「恋人」や「結婚相手」に「立候補」するなどという話ならばありふれていることなのかもしれないと思います。誰かが誰かを好きになって恋人になりたいと思ったり、誰かが誰かを愛して結婚したいと思ったり…。そのような感情は人間としてはごく普通の感情なのだろうと思います。しかし、それでもやはり、誰かが誰かと「恋人」関係になったり誰かと誰かが「結婚」したりするようなことは自分だけでは決められない相手のある話であるということは少しも変わらないはずなのです。あえて言い換えるのならば、いくら相手から求められていなかったとしても自分の方から積極的に「立候補」するようなことはできるが、「やはりあなたではダメ」などと断られることも少なくないのです。そのことはいくら誰かが「恋人」や「結婚相手」に失望しているときであっても少しも変わらないはずなのです。そのように考えるのならば、いくら「政府・与党」がごく普通の多くの人たちを大きく失望させていたとしても、だからと言ってごく普通の多くの人たちが「野党」に心惹かれるようになるとは限らないはずなのです。「政府・与党」がごく普通の多くの人たちを大きく失望させているときになぜ「野党」はそんなに嬉しそうなのでしょうか? 「野党」は求められていないのに「立候補」してごく普通の多くの人たちに「やはりあなたではダメ」などと言わせたいだけなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「人間は 良いことばかり しているか? たった一度の 過ちはある!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使いながらありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中に「完全な善」や「完全な悪」は存在するのでしょうか? また人間は「完全な善人」か「完全な悪人」のどちらかなのでしょうか? くどいようですが、現実の世の中には「完全な善」や「完全な悪」は存在しないと言い切ってもいいと思います。さらに言えば、現実の人間にも「完全な善人」や「完全な悪人」はいないと言い切ってもいいと思います。これもあくまでも一般論ですが、たとえどんなに「完全な善人」に見える人であったしても、熱心に探せば1つか2つぐらいは悪い部分が必ず見つかるものですし、また過去に遡っていけばただの一度も過ちを犯していない人はまずいないのではないかと思います。逆に、たとえどれだけ「完全な悪人」に見える人であったとしても、やはり探せば良い部分が見つかるものですし、もしかすると過去に遡るとかつては「完全な善人」のように見えていた人だったのかもしれないのです。国際社会における様々な争い事の当事者たちは、自分たちの「敵」を「完全な悪人」であるかのように厳しく批判していることが多いのです。しかし、「敵」は本当に「完全な悪人」なのでしょうか? あくまでも念のために言っておきますが、いくら残虐な犯罪行為を繰り返しているテロリストであったとしても探せば良いことの1つや2つぐらいはしていても何の不思議はないわけですし、いくら「正義の味方」のような顔をして「敵」を攻撃している側にも探せば「悪事」や「悪人」がみつかるはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「世の中に 『完全な悪』 などという ものは存在 するのだろうか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使いながらありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中に「完全な善」や「完全な悪」は存在するのでしょうか? 人間は「完全な善人」か「完全な悪人」のどちらかなのでしょうか? これは当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、現実の世の中には「完全な善」や「完全な悪」は存在しないと言ってもいいのです。あくまでも一般論ですが、たとえどんなに「完全な善」に見えるものであったしても、熱心に探せば1つか2つぐらいは悪い部分が必ず見つかるものなのです。逆に、たとえどれだけ「完全な悪」に見えるものであっても、やはり探せば良い部分が見つかるものなのです。繰り返しになりますが、世の中に「完全な善」や「完全な悪」は存在するのでしょうか? どんなに少なくとも国際社会における様々な争い事の当事者たちは世の中に「完全な善」や「完全な悪」は存在するのかということを改めて自分自身に問い直してみる必要があると思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『友人』と 一方的に 思われて いても自分は 思っていない?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。例えば、誰かと誰かが「友人」になるとかならないとか、誰かと誰かが「結婚」するとかしないとか…。ごく普通の多くの人たちが日常生活を送っている社会ではそのようなことは基本的には当人たちの自由で他人がとやかく言うべき話ではないのだろうと思いますが…。 繰り返しになりますが、ごく普通の多くの人たちが日常生活を送っている社会では、たとえ「誰か」が「あまり評判の良くない誰か」から「友人」になってもらいたいと言われたり「友人」であるかのようなことを言われ続けたりしているときに、いくら「私はあなたとは『友人』になりたくない」とか「あなたは私の『友人』ではない」などと強く思っていたとしても、そのようなことを面と向かって相手に言うようなことはそれほど多くはないのだろうと思います。そしてもしも実際に「私はあなたとは『友人』になりたくない」とか「あなたは私の『友人』ではない」などと相手に言った場合には、様々な「トラブル」を招くことにも繋がりかねないのです。そのように考えれば、ごく普通の多くの人たちの中にも「友人」になりたくない相手を刺激しないようにしてうまくごまかすという「八方美人」的な対応を示す人たちは少なくないのだろうと思います。あえて言い換えれば、相手は自分のことを「友人」だと一方的に思い込んでいるが、自分は相手のことを「友人」だとは思っていないという「微妙な状態」をなんとか破たんしないように努力して長く続けているわけです。しかし、それにもかかわらず、どんなに少なくとも政治関係者は「反社会的な集団」に対しては「微妙な状態」を維持することなく「あなたは私の『友人』ではない」などとハッキリと伝えなくてはならないのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「あなたとは 『友人』でない そう言える 人はそれほど 多くはないが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例を使ってありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。例えば、誰かと誰かが「友人」になるとかならないとか、誰かと誰かが「結婚」するとかしないとか…。ごく普通の多くの人たちが日常生活を送っている社会ではそのようなことは基本的には当人たちの自由で他人がとやかく言うべき話ではないのだろうと思いますが…。 ごく普通の多くの人たちが日常生活を送っている社会では、たとえ「誰か」が「あまり評判の良くない誰か」と「友人」であったとしても、どんなに少なくとも見ず知らずの人たちから厳しく批判されるようなことはないのだろうと思います。またごく普通の多くの人たちが日常生活を送っている社会では、たとえ「誰か」が「あまり評判の良くない誰か」から「友人」になってもらいたいと言われたり「友人」であるかのようなことを言われ続けたりしているときに、「私はあなたとは『友人』になりたくない」とか「あなたは私の『友人』ではない」などと強く思っていたとしても、そのようなことを面と向かって相手に言うようなことはそれほど多くはないのだろうと思います。ごく普通の多くの人たちが日常生活を送っている社会では、「私はあなたとは『友人』になりたくない」とか「あなたは私の『友人』ではない」などと面と向かって言うようなことは様々な「トラブル」を招くことにも繋がりかねないわけですが…。しかし、どんなに少なくとも政治関係者は「反社会的な集団」に対して「私はあなたとは『友人』になりたくない」とか「あなたは私の『友人』ではない」などとハッキリと伝えなくてはならないのだろうと思います。きょうのところはこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「禁止する? 政治とカネの 問題は 『透明性』が 重要になる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。どうやら今度は「企業団体献金」を禁止するべきなどという主張が声高に叫ばれるようになっているようです。しかし、本当に「企業団体献金」を禁止すれば政治とカネの問題が解消するのでしょうか? くどいようですが、あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」を考えてみることにします。例えば、猛烈に急成長している新興企業の取締役などが他人にはなかなか理解することができない趣味に非常に多額のカネを費やしているようなことはそれほど珍しいことではないと思います。あるいは、ごく普通の多くの人たちがその価値を少しも理解することができない「美術品」などを多額のカネを費やして次々と購入するような人たちも少なくはないと思います。あるいは、それを欲しがる人たちにしかその価値が分からないいわゆる「激レアグッズ」のようなものに多額のカネを費やす人たちもそれほど珍しくはないと思います。あくまでも空想上の話ですが、もしも「企業団体献金」を禁止したとしても、企業から給与や配当などを受け取っている個人が自分の意思で献金をしたりパーティー券を購入したりすることはたぶんできるのだろうと思います。さらに空想上の話をすれば、もしも「企業団体献金」を禁止したとしても、企業から給与や配当などを受け取っている個人が趣味や「美術品」や「激レアグッズ」などに費やした多額のカネが様々なルートを通って最終的に政治の側に流れるようなことまでは止めることができないのです。政治とカネの問題の解消を目指すのならば様々な「透明性」をどのように確保するのかということが重要になるのではないかと思います。繰り返しになりますが、本当に「企業団体献金」を禁止すれば政治とカネの問題が解消するのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにします。 ======================================= 「『派閥』より その弊害を なくすのが 大切なこと であるはずだが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? (→参考:2024/1/27付、2024/1/21付、2024/1/14付、2024/1/13付、2023/12/27付etc.)。そもそも「派閥」をなくすことなどできるのでしょうか? 相変わらず「空想上の社会」の中のどこかの大政党では「派閥」というものを「解散」する動きが広がっているようです。繰り返しになりますが、やはり「派閥」というものはなくならないのだろうと思います。仮に「派閥」を「解散」したとしてもおそらく「派閥」というものは必要とされるときに必要とされる形で再び生まれることになるのだろうと思います。例えば、ある政治課題や主張に賛成したり反対したり何かを実現させたりしようとする人間たちが集まるとき、そのために一人でも多くの自分たちの仲間を選挙で当選させようとするとき、そして自分たちのリーダーを内閣総理大臣にしようとするとき、など…。あえて誤解を恐れずに単純化して言わせてもらうのならば、「派閥」というものは必要とされるのならばその形を「政党」に衣替えしてでも新たに生まれたり生き残ったりするのではないかと思います。そもそも「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? もしも「派閥」を「政党」にすればカネの流れなどの透明性が高まって「派閥の弊害」を解消しやすくなるというのならば、「派閥」を「政党」にした方がましなのだろうと思います。大切なのは「派閥」というものを「解散」することではなく「派閥の弊害」を解消することではないのでしょうか? 特にカネの流れなどの透明性を高めることではないのでしょうか? カネの流れなどの透明性を高めることは大切なことであるはずなのに…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『非対称 的な戦争』 であるほど 『テロ』と区別が 難しくなる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例をありがちな物の見方とは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。地球上の多くの場所でほぼ毎日「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」が活発に行われています。そもそも「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」は「テロ」とはどこがどう違っているのでしょうか? あくまでも一般論ですが、「強大な国の軍隊」と「弱小武装勢力」による「非対称的な戦争」においては、「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」に限らず、多くの攻撃で民間人が犠牲になる傾向が高くなるのです。「非対称的な戦争」では、軍事力の「量」でも「質」でも大きく劣っている「弱小武装勢力」の側はその攻撃対象を「強大な国の軍隊」から「その国の民間人」や「その国と関連するもの」へと拡大させていくことが少なくないのです。その結果として、「攻撃」は「テロ」との違いが見えにくくなってしまうのです。逆に、圧倒的な軍事力を持つ「強大な国の軍隊」の側は、敵があまりにも「弱小」すぎるために民間人の中に紛れ込んだり民間施設に隠れたりすることが簡単にできるような場合には、巻き添えになる民間人や民間施設などが増えてしまうのです。そして結果として、やはり「攻撃」と「テロ」との違いが分かりにくくなってしまうのです。くどいようですが、そもそも「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」は「テロ」とはどこがどう違っているのでしょうか? きょうのところは「強大な国の軍隊」と「弱小な武装勢力」による「非対称的な戦争」では「攻撃」と「テロ」との違いが分かりにくくなってしまうということをあえて指摘しておくことにします。 ======================================= 「『強大な 敵』をますます 強大に しようとすれば 『テロリスト』へと…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例をありがちな物の見方とは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。地球上の多くの場所でほぼ毎日「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」が活発に行われています。そもそも「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」は「テロ」とはどこがどう違っているのでしょうか? あくまでも一般論ですが、「武装勢力」が「強大な敵」を攻撃するような事例においては「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」を「テロ」と区別することが難しくなる傾向が高まります。そしてもしも「武装勢力」が「強大な敵」をますます強大なものにしようとするような主張を展開している場合には、「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」がさらに「テロ」と区別することが難しくなるのです。例えば、どこかの武装勢力がどこかの国の「軍隊」だけではなく、どこかの国の「民間人」やどこかの国と「関連のあるもの」をもその標的とする場合には、「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」は「テロ」と区別することは極めて難しくなってしまうのです。もちろんどこかの武装勢力の側にとっては、守りが厳重などこかの国の「軍隊」を攻撃することは難しかったとしても、守りが手薄などこかの国の「民間人」、さらにはどこかの国と「関係があるもの」を攻撃することはそれほど難しいことではないのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、自分たちの勝手な事情のために「強大な敵」をますます強大なものにしようとするような主張はテロリストへの道につながっていると言わざるを得ないのです。繰り返しになりますが、そもそも「ミサイル」や「無人機」などによる「攻撃」は「テロ」とはどこがどう違っているのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『税金』を 使わず社会 良くできる? 『税金』使わ なければ無理か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例についてよくある物の見方とは少し違った角度から少しだけ考えてみることにしようと思います。「税金」を使わなければ多くの人たちのためになるようなことはできないのでしょうか? 「税金」を使わずに社会や国を良くすることはできないのでしょうか? 行政機関が「税金」を使って行わなければ多くの人たちのためになるようなことはできないのでしょうか? 言うまでもなくそんなことはないはずです。実際に地球上の様々な場所で「税金」を使って数多くの民間組織が多くの人たちのためになる様々な事業を実施していることは知られています。それでは「税金」を使わなければ多くの人たちのためになるようなことはできないのでしょうか? もちろんそんなこともないはずなのです。例えば、自然災害の被害を受けた地域の復旧・復興では「ボランティア」の貢献が大きいことは広く知られています。「税金」を使わずに多くの人たちのためになるようなことは自然災害発生時などの緊急事態だけに限定した話なのでしょうか? ごく普通の多くの人たちの中にはそんなことはないはずだと思っている人たちは少なくないと思いますが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『裏金』と 『表のカネ』を 比べたら どちらが多い? 帳尻合わせ?」-。 きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用してよくある見方とは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。「キックバック」や「中抜き」による「裏金」などよりももっと重要な問題は他に存在しないのでしょうか?(参考:2024/1/24付、2024/1/23付、2024/1/22付、2024/1/21付etc.) 繰り返しになりますが、いわゆる「政治資金」に限らず、「カネ」というものは「収入」と「支出」の透明性も重要です。もしも「収入」と「支出」に十分な透明性を確保することができないのならば、最悪の場合には「マネー・ロンダリング(→マネロン)」も不可能ではなくなってしまうわけですが…。 あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」の話なのですが、「キックバック」や「中抜き」による「裏金」と、「収入」「支出」の透明性の高い「表のカネ」を比べたらどちらの方がどれだけ多いのでしょうか? いくら何でも「裏金」の方が「表のカネ」よりもはるかに多いなどということはさすがにないのだろうと思います。やはり「表のカネ」の方が「裏金」などよりもはるかに多いのでしょうか? もしも「表のカネ」の方が「裏金」などよりもはるかに多いのならば、たとえ「裏金」などの「不適切なカネ」の存在が明るみに出てしまった場合であっても、大急ぎで「表のカネ」から「補填」して不適切な支出を覆い隠すようなことも不可能ではなくなるのだろうと思います。あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」の話なのですが、例えば、「裏金」は全く使わずに全額そのままプールしていたとか、「裏金」は事務所の家賃やスタッフの給料のために使っていたとか…。もちろんそれは本当にそうだったのかもしれませんし、後からそのように帳尻を合わせただけなのかもしれないわけですが…。いずれにしても、いわゆる「政治資金」に限らず、「カネ」というものの「収入」と「支出」に十分な透明性を確保することができないのならば、最悪の場合には「マネー・ロンダリング(→マネロン)」も不可能ではなくなってしまうということを改めて指摘した上で強調しておくことにしておきます。 ======================================= 「新しい 『強い指導者』 生まれるか? 『強い指導者』 好まれるなら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例をありがちな物の見方とは少し違った角度から少しだけ考えてみることにしようと思います。どこかの国のごく普通の多くの人たちは本当に「強い指導者」を望んでいるのでしょうか? またどこかの国のごく普通の多くの人たちは「独裁者」を好むのでしょうか? 言うまでもなく「強い指導者」は「独裁者」とは限らないはずなのです。 あえて個別具体的な固有名詞には触れませんが、「強い指導者」を好むというどこかの国のごく普通の多くの人たちはこれからも「同じ独裁的な指導者」が「君臨」することを望んでいるのでしょうか? それともどこかの国のごく普通の多くの人たちは「同じ独裁的な指導者」ではない新しい「強い指導者」の誕生を望んでいるのでしょうか? 例えば、どれだけ「独裁者」から迫害されたり命を狙われたりしても「独裁者」に抵抗し続けるような「新しい強い指導者」の誕生を望んでいるのでしょうか? あくまでも念のために指摘した上で強調しておきますが、「強い指導者」は「独裁者」とも「同じ独裁的な指導者」とも限らないはずなのです。それにもかかわらず、どこかの国のごく普通の多くの人たちは「同じ独裁的な指導者」の下でいくら生活が厳しくなってもやがて「春」は必ずやってくると固く信じて忍耐し続けるのでしょうか? くどいようですが、「強い指導者」は「独裁者」とも「同じ独裁的な指導者」とも限らないはずなのです。さらに言えば、「同じ独裁的な指導者」がもはや「強い指導者」ではなくなっている可能性も低くはないのです。「強い指導者」を好むというどこかの国で「新しい強い指導者」が誕生するためにはいったい何が必要になるのでしょうか? どこかの国で本当に「強い指導者」が好まれているのならば…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「人々の 『関心』『気力』 低下する? 必ず『春』は 来ると忍耐?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めることにしようと思います。そのために自分たちの周囲にもよくありそうな事例をありがちな物の見方とは少し違った角度から少しだけ考えてみることにしようと思います。悲惨な事件、自然災害、戦争、など…。いくら発生当初は多くの人たちが心を痛めて強い関心を持っていたとしても、残念ながらそう遠くないうちに人々の関心が次第に薄れていくようになってしまうものなのです。たとえ解決するべきことが何一つ解決していない場合であっても人々の関心だけは確実に薄れていくものなのです。 今現在もロシアに侵略され続けているウクライナはいったいどうなってしまうのでしょうか? 国際社会の多くの人たちの関心は、ずいぶん前からウクライナではなく、イスラエルとパレスチナなどの中東情勢、そして経済の問題に向けられているようです。たとえどれだけ衝撃的な出来事であったとしても時間が経過するにつれて少しずつ人々の関心が薄れていくのはやむを得ないことなのだろうとは思いますが…。しかし、それにもかかわらず、ごく普通の多くのロシアの人たちの「関心」や「気力」が低下することだけは何としてでも避けなければならないと強く思います。ごく普通の多くのロシアの人たちはこれからも「同じ独裁的な指導者」が「君臨」することを望むのでしょうか? ごく普通の多くのロシアの人たちは「同じ独裁的な指導者」の下では将来の生活に希望が見えないと心の底から思っているのでしょうか? ごく普通の多くのロシアの人たちはいくら生活が苦しくなってもやがて「春」は必ずやってくるなどと固く信じて忍耐し続けるのでしょうか? きょうのところはとりあえずこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『職員』は 身柄拘束 できるのか? 訴追はできる? 信頼できる?」-。 ガザ地区での支援を行っている国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の複数の職員が2023/10/7の「ハマス」によるイスラエル攻撃に関与した疑いが浮上して各国が資金拠出を停止するなど大きな波紋が広がっています(→UNRWA側はイスラエル側からの情報提供を受けてイスラエル攻撃に関与した疑いがある職員12人のうち9人を解雇、1人は既に死亡、残りの2人の身元の特定を進めているという。米国、英国、オーストラリア、カナダ、ドイツ、イタリア、オランダ、スイス、フィンランドが資金拠出を既に停止。日本政府も1/28夜に資金拠出の一時停止を発表)。 多くの人たちの素朴な疑問としては、「ハマス」によるイスラエル攻撃に関与した(元)職員の身柄を拘束したり訴追したりすることはできないのかということではないかと思います。もしも疑いのある(元)職員の身柄が即座に拘束されて訴追されるなどするのならば、ひとまずその「組織」はまだそれなりに信頼することができる「組織」だと判断することができるのかもしれないと思います。しかし、その「組織」が疑いのある(元)職員を解雇したり契約を解除したりしただけでは、やはりその「組織」を信頼することができると判断することは難しいのだろうと思います。その「組織」が失われた信頼を取り戻すことができるのかどうかは分かりませんが、その「組織」による「調査」などに長い時間が必要になる可能性もあるのだろうと思います。多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)を「経由」しないガザ地区での人道支援プロジェクトを実施することを真剣に検討するべきではないかと思います。もしも組織の腐敗が非常に深刻な状態である可能性が高い場合にはガザ地区のおける人道支援が深刻な打撃を受ける危険性が高まります。言うまでもなく人道支援には一刻の猶予も許されないわけですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「この組織 どれだけ『腐敗』 深刻か? 一人ひとりに 支援は届く?」-。 ガザ地区での支援を行っている国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の複数の職員が2023/10/7の「ハマス」によるイスラエル攻撃に関与した疑いが浮上して各国が資金拠出を停止するなど大きな波紋が広がっています(→UNRWA側はイスラエル側からの情報提供を受けてイスラエル攻撃に関与した疑いがある職員12人のうち9人を解雇、1人は既に死亡、残りの2人の身元の特定を進めているという。米国、英国、オーストラリア、カナダ、ドイツ、イタリア、オランダ、スイス、フィンランドが資金拠出を既に停止。日本政府も1/28夜に資金拠出の一時停止を発表)。 「公正」であるべき国連の組織の信頼が地に堕ちるのは極めて深刻な事態です。あくまでも一般論ですが、たとえごく一部であったとしても「UNRWA」というガザ地区での支援を実施している国連の組織の職員がイスラエル攻撃に関与していたということが事実であるのならば、その国連の組織の「腐敗」はかなり深刻な段階にまで進行している危険性が高いということを意味することになります。あくまでも一般論ですが、たとえ「テロ行為」に直接関与した職員がごく一部だけだったとしても、もしもそうした職員たちがごく自然に組織に溶け込んでいるのであれば、おそらくその組織の中には「テロ行為」に関与した人間たちに非常に「寛容」な人間たちがもっとずっと多くいるのではないかと推測することもできます。さらに言えば、もしもガザ地区での支援を実施している国連の組織の中に「テロ行為」に関与した人間たちに非常に「寛容」な人間たちが多く含まれているということになるのならば、「テロ行為」に関与した人間たちを匿ったり「テロ行為」に関与した人間たちに支援物資を横流ししたりしている危険性も高くなるのではないかと推測することができるのです。そのように考えるのならば、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の組織の「腐敗」がどの程度深刻な状態になっているのかいないのかをということを大至急確認しなければ支援が一人ひとりのごく普通のパレスチナの人たちの下にまで届かなくても少しも不思議なことではなくなってしまいます。疑惑のある一部の職員との契約を解除したり解雇したりすればそれで問題はなくなるなどという単純な話ではないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「不満なら 『安全な場所』 飛び出して 自分も何か 行動すれば?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、自分たちの周囲によくありそうな「空想上の事例」を使用しながらもよくありそうな見方とは少し違った角度から少しだけ考えてみることにしようと思います。感染症、自然災害、戦争、などなど…。確かに世の中には多くの人たちがいくらその解決を強く望んでもなかなかうまくいかないことがたくさんあります。そしてその問題がなかなか解決しない不満を政治や政府などにぶつける人たちも少なくないわけですが…。 言うまでもなく政治や政府などを批判しているのが今現在苦しんでいる被災者、被害者、感染者などであるのならば、政治や政府などに不満をぶつけるのも感情的には理解することができます。しかし、自分自身は自然災害や戦争などの被害とは全く無縁な「安全な場所」にいてそこで不自由ではない通常の生活を送っているだけであるにもかかわらず、政治や政府などの対応が遅すぎるなどと批判している人間たちは非常に理解に苦しむのです。例えば、被災地や被災者の支援のために数千万円の私財を寄付したような人たち、あるいは、自分の仕事を長期間休んでまで被災地で専門家やボランティアなどとして支援を続けているような人たちが政府などの対応が不十分などと批判するのはまだ分からないでもないのです。しかし、自分自身では被災者や被害者などのためになることはほとんど何もせずに被災者や被害者などの支援を政府任せや他人任せにしている人間たちは自分たちが何か特別な地位にあるとでも勘違いしているのではないかと思います。そんなに他人の対応が不満であるのならば自分自身も安全な場所から飛び出して何か行動を起こせばいいのではないかと思ってしまいますが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『解散』は 『廃止』になるか 『再編』か 必要ならば 『派閥』はできる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度からもう少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそも「派閥」とはいったい何なのでしょうか? そして「派閥」はなぜ生まれたのでしょうか? 「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? (→参考:2024/1/21付、2024/1/14付、2024/1/13付、2023/12/27付etc.) 「空想上の社会」の中のどこかの大政党では「派閥」というものを「解散」する動きが広がっているようです。おそらくごく普通の多くの人たちの素朴な疑問は「派閥」の「解散」が「廃止」を意味することになるのか、それとも「再編」や「衣替え」を意味することになるのかということではないかと思います。多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、やはり「派閥」というものはなくならないのだろうと思います。もちろんこれまで存在してきたような形式での「派閥」というものはなくなっていくのだろうと思います。しかし、「派閥」というものは必要とされるときには再び生まれてくることになるのだろうと思います。例えば、ある政治課題や主張を実現させようとする人間たちが集まるとき、そのために自分たちの仲間を選挙で当選させようとするとき、そして自分たちの仲間を内閣総理大臣にしようとするとき、など…。さらなる誤解を恐れずに単純化して言わせてもらうのならば、「派閥」というものは必要とされるのならばその形を「政党」のような形に変えてでも生き残るのではないかと思います。そもそも「派閥」とはいったい何なのでしょうか? そして「派閥」はなぜ生まれたのでしょうか? 「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「最新の 支持率調査 した上で 『棄権』差し引き 配分すべき!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度からもう少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要が本当にあるのでしょうか? もしも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要があるとしても、数年前の「直近の国政選挙」ではなく、有権者の最新の支持率などに基づいて「配分」し直すべきではないでしょうか? 例えば、選挙後には一定期間ごとに「直近の国政選挙」に参加した政党の最新の支持率を調査し直したらどうだろうと思っています。もちろん通常の国政選挙とほとんど同じような規模や方法で行った場合にはあまりにも負担が大きくなります。ですから、そう遠くない将来に「電子投票システム」などを利用した迅速かつ低コストで可能な「政党交付金を配分するための最新の支持率調査」を実施することができるようになった場合には、例えば、毎週末に「支持率調査」を実施してその支持率に基づいて「税金」をその配分を見直しながら交付していくようなことも不可能ではなくなるのではないかと思います。ちなみに「政党交付金」は「支持率調査の投票数」だけに基づいて計算して支持率調査を「棄権」した人たちの分は差し引いて配分するようにすれば政治不信の解消にも一定の効果があるのではないかと思います。くどいようですが、そもそも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要が本当にあるのでしょうか? もしも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要があるとしても、数年前の「直近の国政選挙」ではなく、有権者の最新の支持率などに基づいて「配分」し直すべきではないでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『税金』を 配るとしても 『配分』は 見直すべきと 考えないか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度からもう少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要が本当にあるのでしょうか? もしも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要があるとしてもその「配分」は見直すべきではないのでしょうか? あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」の話ですが、「直前」とは言っても1年以上前の選挙で一時的な風が吹いただけで当選した「国会議員の数」、そして「直前」とは言っても1年以上も昔の国政選挙の「得票数」に基づいて「税金」を「配分」することが本当に適切なことなのでしょうか? 想像してみてください。例えば、世論調査などでの内閣や政党の「1年前の支持率」と「最新の支持率」はいつもほぼ同じなのでしょうか? さらに言えば、「3年前の支持率」と「最新の支持率」を比較しようと思ってもその内閣やその政党が既になくなっているということも少なくはないのです。繰り返しになりますが、そもそも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要が本当にあるのでしょうか? もしも「政党」に「政党交付金」などの「税金」を交付する必要があるとしてもその「配分」は見直すべきではないのでしょうか? きょうのところは国会議員の「任期」は4年や6年もあるということをあえて強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『マネロン』が 不可能でない 『制度』では さすがにまずい? そう思わない?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度からもう少しだけ考えてみることにしようと思います。「キックバック」とか「中抜き」などよりももっと問題視するべき重要な問題は他に存在しないのでしょうか?(参考:2024/1/23付、2024/1/22付、2024/1/21付etc.) いわゆる「政治資金」に限らず、「カネ」というものは「収入」の透明性だけではなく「支出」の透明性も重要なはずなのです。もしも「収入」と「支出」に十分な透明性を確保することができないのならば、最悪の場合には「マネー・ロンダリング(→マネロン)」も不可能ではなくなってしまうわけですが…。 あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」ではありますが、もしも「パーティー券」を誰でも自由に1枚だけなら買うことができるという場合には、本人確認は必要ないのでしょうか? もしも本人確認が不要であるのならば、「不特定多数の多くの人たち」が1枚ずつ購入したことになっている「パーティー券」が実際には同一人物が数百枚購入している可能性も十分に考えられるわけです。またもしも本人確認が不要であるのならば、例えば、「反社会的勢力」の一員とみなされるような人物でも「パーティー券」を購入することが簡単にできるようになってしまうわけです。ちなみに最近はどの音楽イベントなどでも実際にチケットを使用して入場する場合には本人確認は当たり前のように行われています。さらに言えば、もしも「政治資金」の使途として「人件費」「贈答品」などとだけ記載してその内訳を示さなくても許されるのならば、その「カネ」の一部を別のものに流用することも不可能ではないのだろうと思います。いずれにしても最悪の場合には「マネー・ロンダリング(→マネロン)」が不可能ではない「制度」になっているのならば、さすがにまずいと思う人たちも少なくないのだろうと思います。「マネー・ロンダリング(→マネロン)」が不可能ではない「制度」ではさすがにまずいと思わないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『収入』の 透明性も 大事だが 『カネ』の『支出』は もっと重要!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度からもう少しだけ考えてみることにしようと思います。「キックバック」とか「中抜き」などよりももっと問題視するべき重要な問題は他に存在しないのでしょうか?(参考:2024/1/22付、2024/1/21付etc.) いわゆる「政治資金」に限らず、「カネ」というものは「収入」の透明性だけではなく「支出」の透明性も重要なはずなのです。 繰り返しになりますが、いわゆる「政治資金」の「収入」について考えてみることにします。いわゆる「政治資金」になった「カネ」は直前まではどこの誰のどのような種類の「カネ」だったのでしょうか? 直前までは個人のポケットマネーだったのでしょうか? あるいは、直前までは「税金」だった「カネ」なのでしょうか? もしも直前まで「税金」だった「カネ」であるのならば、直前まで「政党交付金」だった「カネ」なのでしょうか? それとも直前までは特別に詳細な使途までは明らかにする必要がない「官房機密費」のような種類の「カネ」だったのでしょうか? あるいは、まさかとは思いますが、直前まで世の中には存在しないはずの「裏金」などのような「カネ」だったのでしょうか? そしてこれも繰り返しになりますが、いわゆる「政治資金」の「支出」についても改めて考えてみる必要があるはずなのです。ひとたび「政治資金」となった「カネ」の「使い道」はいったい何なのでしょうか? 政治関係者の人件費など含めた「政治活動」のために必要不可欠な支出なのでしょうか? それともホテルや料亭などでの「会食」のために使ったのでしょうか? あるいは、私的流用の疑いもある様々な不明朗な支出として使われたのでしょうか? まさかとは思いますが、ひとたび「政治資金」となった「カネ」の一部が世の中には存在しないはずの「裏金」のような「カネ」になるようなことは本当にないのでしょうか? いずれにしても「政治資金規正法」などという法律が「裏金」が「政治資金」を通って「表のカネ」になったり「表のカネ」が「政治資金」を通って「裏金」になったりすることを許すようなものであってはならないはずなのです。いわゆる「政治資金」に限らず、「カネ」というものは「収入」の透明性だけではなく「支出」の透明性も重要なはずなのです。きょうのところはこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「その『カネ』は たぶん『税金』 などでない? なのに大きな 問題になる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度からもう少しだけ考えてみることにしようと思います。「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? (→参考:2024/1/21付、2024/1/14付、2024/1/13付、2023/12/27付etc.)。「キックバック」とか「中抜き」などよりももっと問題視するべき重要な問題は他に存在しないのでしょうか? どこかの「空想上の社会」のマスメディアは、いわゆる「政治資金パーティー」のパーティー券収入の「キックバック」とか「中抜き」ばかりを問題視して批判しているようです。しかし、「キックバック」とか「中抜き」などよりももっと問題視するべき重要な問題が他にいくつもあるのではないかと思います。繰り返しになりますが、パーティー券収入で「キックバック」や「中抜き」の対象となった「カネ」はどこの誰のどんな種類の「カネ」なのでしょうか? どんなに少なくともパーティー券収入となった「カネ」はおそらく「税金」ではないのだろうと思います。あえて言い換えれば、パーティー券収入となった「カネ」は、もともとは「税金」なので基本的にはその使途の詳細までをも明らかにしておかなければならない「政党交付金」のような種類の「カネ」でも、また同じようにもともとは「税金」であってもその詳細な使途までは明らかにする必要がない「官房機密費」のような種類の「カネ」でもたぶんないということなのだろうと思います。パーティー券収入となった「カネ」が「税金」ではなくても今現在これだけ大きな問題になっているわけです。もしもパーティー券収入となった「カネ」が事実上の「税金」であったとしたらそれは非常に大きな「事件」になるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「その『カネ』は どこの誰のか どんな『カネ』? そしてその『カネ』 何に使った?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻になっている多くの問題の中から選んだ1つのことについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。今はまだ実現していないけれども実現したら多くの人たちに利益をもたらすようなことを実現するためにはいったい何が必要になるのでしょうか? 多くの人たちにはまだ形が見えていないものをどのように説明してどのように説得して実現を目指していったらいいのでしょうか? やはり「まだ形が見えていないもの」は「今現在もハッキリと目に見えているもの」にはかなわないのでしょうか? どこかの「空想上の社会」のマスメディアでは、いわゆる「政治資金パーティー」のパーティー券収入の「キックバック」とか「中抜き」などが問題視されているようです。しかし、もっと問題視するべき重要な問題が他にいくつもあるのではないかと思います。例えば、そもそもパーティー券収入になった「カネ」はどこの誰のどのような種類の「カネ」なのでしょうか? 支援者個人が「お小遣い」のようなものでパーティー券を買ったのでしょうか? それとも領収書を経理に提出して経費として認められるかどうかはともかくとしても会社などの「カネ」でパーティー券を買ったのでしょうか? そして、そもそもパーティー券収入の「使い道」はいったい何なのでしょうか? 人件費などの「政治活動」のために必要不可欠な支出なのでしょうか? それともホテルや料亭などでの会食のために使ったのでしょうか? 言うまでもなく「派閥」を解散しても解散しなくてもパーティー券収入となった「カネ」がどこの誰のどのような種類の「カネ」だったのか、またパーティー券収入として得られた「カネ」を誰がどこでどのように使ったのかということが明らかになるわけではないのです。繰り返しになりますが、「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「ハッキリと 見えるものには かなわない? まだ見えてない ものも大切」-。 きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻になっている多くの問題の中から選んだ1つのことについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。今はまだ実現していないけれども実現したら多くの人たちに利益をもたらすようなことを実現するためにはいったい何が必要になるのでしょうか? 多くの人たちにはまだ形が見えていないものをどのように説明してどのように説得して実現を目指していったらいいのでしょうか? やはり「まだ形が見えていないもの」は「今現在もハッキリと目に見えているもの」にはかなわないのでしょうか? あえて個別具体的な固有名詞を取り上げることは避けますが、例えば、「甚大な自然災害の被害」や「戦争による被害や死傷者」などを目の当たりにすればほとんど誰でも最優先で何とかしなければならないと思うのだろうと思います。もちろんそれは人間としては当たり前の感情なのだろうと思います。あるいは、「何かの不祥事」、「物価高騰」などのようにそれらのことが明らかになればすぐに多くの人たちが厳しく問題視するようなものもあります。もちろんそれも悪いことではないと思います。しかし、それでもやはり、次々と生み出されていく「今現在もハッキリと目に見えているもの」の処理ばかりに追われ、まだ形は見えないけれども実現したら多くの人たちに利益をもたらすようなことを実現するために労力を費やすことがなかなかできないのはとても残念なことです。やはり「まだ形が見えていないもの」は「今現在もハッキリと目に見えているもの」にはかなわないのでしょうか? 「まだ形が見えていないもの」も大切なのですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「よく似てる 『成功事例』 示しても 『目指すもの』とは 違っているが…」-。 きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻になっている多くの問題の中から選んだ1つのことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。今はまだ実現していないけれども実現したら多くの人たちに利益をもたらすようなことを実現するためにはいったい何が必要になるのでしょうか? 多くの人たちにはまだ形が見えていないものをどのように説明してどのように説得して実現を目指していったらいいのでしょうか? 例えば、もしも「自分たちが目指しているもの」とよく似た「成功事例」がどこか別の場所にある場合には、その「成功事例」を示しながら多くの人たちを説得してその実現を目指していくようなこともできるのだろうと思います。しかし、「成功事例」というものは「自分たちが目指しているもの」とはやはり違っているはずなのです。言い換えれば、「成功事例」は他の場所ではないそのどこか別の場所だったからこそ「成功事例」になった可能性が非常に高いのです。ですから、いくら「自分たちが目指しているもの」とよく似ているからといっても、「成功事例」が「成功事例」になったときの方法をそのまま真似てみるだけでは「自分たちが目指しているもの」を実現することができるとは限らないのです。繰り返しになりますが、多くの人たちにはまだ形が見えていないものをどのように説明してどのように説得して実現を目指していったらいいのでしょうか?きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「法律で 禁止にすれば 守られる? 『ルール』にすれば 実現するか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻な問題になっていることの中の1つのことについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。何か問題を解決するときには「正義」を優先して考えるべきなのでしょうか? それとも「利益」や「コスト」を優先して考えるべきなのでしょうか? そして「正義」の実現と「利益」の享受や「コスト」の削減などは両立することはできないのでしょうか? 社会全体で「正義」の実現と「利益」の享受や「コスト」の削減などを「両立」させるための1つのアプローチとしては、「正義」の実現を法律などの「ルール」にするということが考えられます。そして「正義」の実現を「ルール」として定めるときに「正義」の実現を妨げる行為を罰則付で禁止することも少なくないのです。しかし、「正義」の実現を「ルール」として定めていれば、それだけで「正義」を実現することができるのでしょうか? もちろんそのようなことはないわけです。法律などの「ルール」で禁止されていてもその「ルール」が守られないことも少なくないのです。例えば、「殺人」や「窃盗」は地球上の多くの場所では法律などの「ルール」で禁止されていますが、それでもやはり、「殺人」や「窃盗」は多くの社会で何度も繰り返されているのです。もっとも社会の中に「殺人」や「窃盗」などを禁止する法律などの「ルール」が全く存在しなかったのならば今よりももっとずっと多くの「殺人」や「窃盗」などが社会にあふれていたのだろうとは思いますが…。その上で、あえて付け加えるのならば、「殺人」や「窃盗」ほどひどくはない「正義」に逆行するような事例では「利益」を追い求めたり「コスト」を削減したりするためにもっと気軽に「正義」を犠牲にしやすくなっているということにも注意が必要になります。繰り返しになりますが、「正義」の実現と「利益」の享受や「コスト」の削減などは本当に両立することはできないのでしょうか? きょうのところはとりあえずこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「両立が 難しいのは 確かだが… 『正義』と『利益』 両立できず?」-。 きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻な問題になっていることの中の1つのことについて少しだけ考えてみることにしようと思います。何か問題を解決するときには「正義」を優先して考えるべきなのでしょうか? それとも「利益」や「コスト」を優先して考えるべきなのでしょうか? そして「正義」の実現と「利益」の享受や「コスト」の削減などは両立することはできないのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、何かの問題を解決する場合に「正義」を実現しながら同時に「利益」も得られるような方法があるのならば、もちろんそのような方法を迷わず採用するべきです。しかし、残念ながら世の中のほとんどの問題では、「正義」を実現しようとすれば「利益」が少なくなったり「コスト」が割高になったりするようなことが少なくないのです。例えば、社会全体にとってその解決が必要不可欠な諸課題の解決に取り組んでいるいわゆる「慈善事業」や「ボランティア」などはその代表例になるのだろうと思います。逆に、世の中では「利益」を増やそうとしたり「コスト」を減らそうとしたりすれば「正義」の実現が妨げられることがかなり多いのです。例えば、「公害」などという周辺住民が理不尽な犠牲を強いられるような事件は歴史上何度も繰り返されてきています。あるいは、品質や安全性に問題のある「商品」を生産して販売するような形でごく普通の多くの消費者が理不尽な犠牲を強いられることもかなり多いのです。「正義」を実現しようとすれば「利益」や「コスト」が犠牲になり、逆に「利益」や「コスト」を重視すれば「正義」が犠牲になる…。「正義」の実現と「利益」の享受などを両立させることが不可能だとは言いませんが、両立させることがとても難しいことだけは確かです。きょうのところは「正義」と「利益」や「コスト」はそのような関係にあるということを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「ある人に とっての『神』は 別の人 にとって『悪魔』 のようなものに?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻な問題になっていることの1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。「政治」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」について語るとはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? 「政治」と「日常生活」との「距離」はどうあるべきなのでしょうか? 繰り返しになりますが、自由で民主的な社会の中で政治的な話題を取り上げたり「政治」について語ったりするときには、政治的な話題の取り上げ方や「政治」の語り方に注意が必要になると思います。これもまた繰り返しになりますが、そもそも「政治」とはいったい何なのでしょうか? 例えば、もしも「政治」が「宗教のようなもの」であるのならば、ある人たちにとっての「神のようなもの」は別のある人たちにとっての「悪魔のようなもの」ということになることも少なくないのです(→参考:2024/1/12付、2024/1/11付etc.)。言い換えるのならば、もしも「政治」が「宗教のようなもの」であるのならば、政治的な話題の扱いを間違ってしまうと収束が非常に困難な血みどろの激しい対立に発展してしまう危険性が高くなるのです。あるいは、たとえ「政治」を真面目に注意深く取り上げる場所であっても、現実の社会の中で毎日「政治」に苦悩させられている人たちにとっては気の休まらない居心地のとても悪い場所になってしまう危険性が高くなるのです。くどいようですが、「政治」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」について語るとはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? 「政治」と「日常生活」との「距離」はどうあるべきなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上の深入りはしないことにしておきます。 ======================================= 「『ステマ』とか 『ファッション』ならば 『客』は減る! 『客』減らさない ために見ぬ振り?」-。 きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「政治」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」について語るとはいったいどういうことを意味しているのでしょうか? 「政治」と「日常生活」との「距離」はどうあるべきなのでしょうか? 政治的な話題を取り上げるべきかどうかということが社会の様々な場所で問題になることがあります。当たり前と言えば当たり前の話ですが、いわゆる「言論の自由」などが保障されている自由で民主的な社会では、政治的な話題を取り上げることも取り上げないことも、「政治」について語ることも語らないことも、それは自由だと思います。しかし、それでもやはり、政治的な話題の取り上げ方や「政治」の語り方には注意が必要になると思います。例えば、政治的な話題を取り上げたり「政治」を語ったりすることがいわゆる「ステマ(→ステルスマーケティング)」とか単なる「ファッション」のようなものになるのならば、社会全体に対する悪影響はかなり大きくなると思います。もしも「映画」や「ドラマ」や「音楽」などのエンターテインメント分野で「ステマ」がはびこるようになるのならば、「映画」や「ドラマ」や「音楽」などが専制国家や独裁国家の「プロパガンダ(→政治的宣伝)」のようなものになり下がってしまうのではないかと思います。またもしも「とりあえず国家権力に反抗してみせるファッション」や「地球環境問題に熱心に取り組んでいるとアピールしてみせるファッション」のようなやり方で政治的な話題を取り上げたり「政治」を語ったりしているのならば、問題解決などの成果を本気で望んでいる人たちはやがて離れていくことになるのだろうと思います。多少の誤解を覚悟の上であえて単純化して言わせてもらうのならば、もしも「ステマ」や「ファッション」になるのならば、結果的に「客」が減るということになるのだろうと思います。もっとも「客」を減らさないようにするために何事も見て見ぬ振りをするということが良いことだとは言えないわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『派閥』とは いったい何か? 『政党』か? 『政党支部』の 『私物化』許す?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。そもそも「派閥」とはいったい何なのでしょうか? そして「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? (→参考:2024/1/13付、2023/12/27付etc.) 繰り返しになりますが、そもそも「派閥」とはいったい何なのでしょうか? そもそも「派閥」は「政党」とどう違うのでしょうか? あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」についての話ですが、一昔前の「派閥」とは「保守連立政権」を構成していたそれぞれの「事実上の小政党」のことを意味していたのだろうと思います。例えば、1つの選挙区から数人が当選するいわゆる「中選挙区」のような選挙制度の下では、1つの政党から複数の候補者を擁立してしかも複数の当選者を出さなければ単独で政権を獲得して与党になることができなかったわけです。言い換えれば、いわゆる「中選挙区」のような選挙制度の下では「与党」の議員は選挙では互いに激しく争いながらも政権獲得のために我慢しながら1つの「政党」を形作っていなければならなかったわけです。多少の誤解を恐れずにあえて単純化するのならば、そのような状況だったからこそ、いわゆる「中選挙区」のような選挙制度の下では与党は単独与党でも事実上の「派閥連立政権」のような実態になっていたのだろうと思います。さて、それでは、政党同士の争いになる(はずの)1つの小選挙区から当選者が1人しか出ない「小選挙区比例代表並立制」の下では「派閥」は歴史的な役割を終えることになったのでしょうか? もしもある政党の「小選挙区」の公認(予定)候補者(→「政党支部」の「支部長」)のポストが「私物化」されることなく予備選挙などの公正なルールの下で公正に選ばれることになるのならば、「派閥」は「小選挙区比例代表並立制」の下ではその役割を終えることになったのかもしれないと思います。しかし、もしも「政党支部」などの政党組織の「私物化」が許されることになるのならば、公認争いなどのために「派閥」はおそらく生き残ることになるのだろうと思います。あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」についての話ですが、そのように考えるのならば、「政党支部」の「支部長」のポストなどを含めた政党組織の「私物化」を続けている人間たちがもっともらしく「派閥解消」などと叫ぶのは「ちゃんちゃらおかしい」と言わざるを得ないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめておくことにしておきます。 ======================================= 「『疑似・派閥』 『闇・派閥』まで 『解消』を しないのならば ナンセンスだが…」-。 きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。なぜ「派閥」というものが生まれるのでしょうか? そして「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? (→参考:2023/12/27付etc.) 相変わらず日本社会では「派閥」に関連したカネの問題に対する批判が高まっています。そもそも「派閥」とはいったい何なのでしょうか? そして「派閥の弊害」とはいったい何なのでしょうか? また「派閥」というものをなくせば本当に「派閥の弊害」が解消するのでしょうか? さらに言えば、「派閥解消」は今現在も存在してマスメディアで「グループ」などと呼ばれている「闇・派閥」とか「疑似・派閥」のようなものも含めて解消するということを意味しているのでしょうか? もしも「派閥解消」が「派閥」を形式的になくすだけのものになるのならば「派閥の弊害」が完全には解消することはないのだろうと思います。もしも「派閥解消」が「闇・派閥」とか「疑似・派閥」のようなものまで含めて解消するという話にならないのならばナンセンスなのです。あくまでも「空想上の社会」の「空想上の事例」についての話ですが、もしも本当に「派閥解消が国民の声」だということになるのならば、そのような国民の知的レベルが問われることにもなるのだろうと思います。とりあえずきょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「どうすべき? どっぷり浸かる べきなのか? 『日常生活』 と『政治』の距離」-。 きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「政治」とはいったい何なのでしょうか? もしかすると「政治」とはある意味で「宗教」なのでしょうか? 「政治」と「日常生活」との距離はどのようにするべきなのでしょうか? 繰り返しになりますが、やはり多くの人たちは自分の信じたいものだけを信じて自分の信じたくないものはなかなか信じようとしないようです。特に「政治」関連の分野ではそのようなことを示している事例が豊富に得られるのではないかと思います。もしも「政治」が一種の「宗教」のようなものであるのならば、どうしたら「政治」と「日常生活」との間の距離を適切に保つことができるのかなどということも考えなくてはならなくなるのではないかと思います。「政治」と「日常生活」との距離はどのようにするべきなのでしょうか? もちろん「正解」は1つだけではないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「政治」の中に「日常生活」がどっぷりと浸かっているような状況が望ましいと言えないことだけは確かです。例えば、いわゆる「宗教二世」なるものが問題になるのならば「政治二世」のようなものも問題になるのだろうと思います。当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、親と子は別々の人格のはずなのです。どうしたら「政治」と「日常生活」との間の距離を適切に保つことができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『政治』とは 『宗教』なのか? 信じたい ものだけすぐに 信じているが…」-。 きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でもかなり深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。「政治」とはいったい何なのでしょうか? もしかすると「政治」とは一種の「宗教」なのでしょうか? あえて個別具体的な固有名詞や事例を取り上げることは避けますが、やはり多くの人たちは自分の信じたいものだけを信じ、自分の信じたくないものはなかなか信じようとしないのかもしれないということを実感しています。例えば、野党の支持者の中には、政府や与党のやることなすことのすべてを否定的に捉えて徹底的に批判するような人間たちがいます。あるいは、ある人間のやることなすことのすべてを前向きに解釈して徹底的に支持するような人間たちもいます。多少の誤解と批判を恐れずにあえて単純化して言わせてもらうのならば、たとえどれだけ明確な証拠を示しながらそれを分かりやすく説明した場合であっても、彼・彼女たちには全く効果がないのです。彼・彼女たちは否定することが非常に難しい「不都合な真実」を示す明確な証拠が示されると、それは「フェイクニュース」などと主張したり…。その一方で、彼・彼女たちが信じたい情報の場合には、たとえそれがどれだけ埋もれていたとしてもあっと言う間に見つけ出して簡単に信じ込んでしまう…。残念ながら、多くの人たちは自分の信じたいものだけを信じ、自分の信じたくないものはなかなか信じようとしないのです。「政治」とはいったい何なのでしょうか? もしかすると「政治」とはある意味で「宗教」なのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「地球上 『被災地』ばかり になったら 誰が支援を してくれるのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。日常生活では実際に自然災害がやってきたときにどうするかなどということをなかなか考える余裕がないものです。そして少しずつ自然災害の危険性を忘れていくことになるのだろうと思います。残念ながら自然災害というものは忘れた頃にやってくるものですが…。 今現在の災害支援の基本的な「枠組み」は、地球上のごく一部の「被災地」「被災者」を被災していないその他の多くの人たちが支援するというものになっています。言い換えれば、「被災地」「被災者」とは別に、多くの「被災地」「被災者」を支援する余裕がある人たちが存在するということを大前提にした「枠組み」になっているわけです。例えば、もしも地球上のほとんどすべての場所が同時に自然災害などの被害を受けて「被災地」になってしまった場合にはいったい誰が「被災地」「被災者」の支援をしてくれるというのでしょうか? あるいは、たとえ「被災地」「被災者」を支援する余裕がある人たちがたくさんいたとしても、「被災地」「被災者」から遠く離れた場所にいるために「被災地」「被災者」に支援がなかなか届かないということは非常によくある話です。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、何らかの理由のために「被災地」「被災者」がなかなか支援を受けることができない状況に陥る危険性を想定して「被災地」の「被災者」が自分たちで「被災地」「被災者」を支援するという「自助」型の支援のための「新しい枠組み」も必要になのではないかと考えています。とりあえずきょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『被災地』を 支援可能な 人たちが 多いときには 問題ないが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。日常生活では実際に自然災害がやってきたときにどうするかなどということをなかなか考える余裕がないものです。そして少しずつ自然災害の危険性を忘れていくことになるのだろうと思います。残念ながら自然災害というものは忘れた頃にやってくるものですが…。 日本のような平和で豊かな国の場合には、たとえ大きな自然災害が発生した場合であっても、すぐに「被災地」を支援することができる人たちが非常にたくさんいるわけです。そして今現在の様々な災害支援のためのしくみは「被災地」を支援することが可能な人たちが多いときには問題なく機能するわけですが…。もしも日本国内の多くの場所が同時多発的に自然災害の被害を受けてしまった場合には支援はいったいどうなってしまうのでしょうか? もしも日本が今ほど平和でも豊かでもなくなってしまった場合には支援はいったいどうなってしまうのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「自粛する? いったい誰の ためなのか? 自粛をすれば 支援になるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。日常生活では実際に自然災害がやってきたときにどうするかなどということをなかなか考える余裕がないものです。そして少しずつ自然災害の危険性を忘れていくことになるのだろうと思います。残念ながら自然災害というものは忘れた頃にやってくるものですが…。 大きな自然災害や大きな事故が発生すると、その直後のあらゆる行事でその大きな自然災害やその大きな事故のことについて必ずと言っていいほど触れることになります。もちろんそのことは少しも間違ったことではないのです。しかし、大きな自然災害や大きな事故が発生すると必ずと言っていいほど一部から聞こえてくる「自粛するべきなのだろうか?」とか「自粛した方がいいのではないか?」などという声についてはやはり間違っていると考えざるを得ないのではないかと思っています。もしも「自粛」の動きが広がることになるのならば、一つの考え方としては、その大きな自然災害やその大きな事故の悪影響が「被災地」から遠く離れた場所にまで及んでしまうことになり、そのことで被災した人たちにさらに重い精神的な負担を生じさせることになるのかもしれないのです。もっとも大きな自然災害や大きな事故の直後には何をやる場合であっても「被災地」のことを全く気にしないというわけにはいかないわけです。しかし、それでもやはり、「被災地」のことを考えれば考えるほど、また被災した人たちのことを考えれば考えるほど、「自粛」ということだけはするべきではないのではないかと考えているのです。「自粛」はいったい誰のためなのでしょうか? 「自粛」をすれば本当に「被災地」の支援につながるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『被災地』の ために自分は 何をする? 何ができるか 考えてみる」-。 きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。日常生活では実際に自然災害がやってきたときにどうするかなどということをなかなか考える余裕がないものです。そして少しずつ自然災害の危険性を忘れていくことになるのだろうと思います。残念ながら自然災害というものは忘れた頃にやってくるものですが…。 ごく普通の多くの人たちも大きな自然災害が発生すると自分自身は「被災地」のために何をしたらいいのかとか何ができるのかなどということを考えてみることが少なくないのです。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、誰にも迷惑をかけずに独力で「被災地」に行くことができ、しかも「被災地」で今現在最も求められていることを確実に実行することができる人たちは現実にはほとんどいないのだろうと思います。そのように考えるのならば、ほとんどの人たちにとって「被災地」のためにできることの中で最も「被災地」の役に立つことができるのは「募金」なのだろうと思います。「被災地」のために自分自身はいったい何ができるのか? そして「被災地」のために自分自身が実際に何をするのか? あまりにも甚大な被害に感情を激しく揺さぶられる人たちも少なくないと思います。しかし、まずは冷静になって考えてみることが必要なのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『標的』を 選び攻撃 するときに 『巻き添え』などは 気にしないのか?」-。 パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてから始まったイスラエル側とハマス側による戦闘は続いています(→参考:2023/12/29付、2023/12/18付、2023/12/6付、2023/12/3付、2023/11/30付、2023/11/28付、2023/11/25付、2023/11/23付、2023/11/17付、2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区各地に対する空爆に加え、ガザ地区南部の最大都市ハンユニスの中心部、さらにガザ地区中部でも地上部隊を投入して「ハマス」などの戦闘員と戦闘を続けている模様。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡、パレスチナ側で2万2000人以上が死亡した模様。ちなみにガザ地区の全人口の約80%以上の約180万人以上が避難民になっているなどとも伝えられている)。レバノンの首都ベイルートで1/2に「爆発」があって「ハマス」の「政治部門」の幹部ら7人が殺害されたなどと報道されています(→イスラエル軍によるドローン攻撃? 「ハマス」と同様にイランの支援を受けているレバノンのイスラム教シーア派の「ヒズボラ」の最高指導者が報復を示唆)。また1/3にはイラン南東部ケルマン州で4年前に米軍に殺害された「革命防衛隊」のソレイマニ司令官の追悼式典中に「爆発」が発生して84人が死亡したなどと伝えられています(→イスラム教スンニ派系の武装組織「IS」が1/4に犯行を認める声明。2人による自爆テロなどと)。 中東では相変わらず果てしない戦いが続いているように見えます。イスラエル側の過去の攻撃パターンから判断するのならば、おそらくレバノンでの「爆発」にはイスラエル側が関与している可能性が高いが、イランでの「爆発」にはイスラエル側が関与している可能性は低いのだろうと思います。あくまでも一般論ですが、「敵」の「幹部」を標的にすることはあったとしても、漠然とした形で「敵」を攻撃するようなことはまずないのだろうと思います。もっとも「敵」の「幹部」を標的にした場合に「巻き添え」が発生する危険性が高かったとしても攻撃を少しも躊躇することはないのだろうとは思います。おそらくガザ地区でも似たような攻撃が行われているのだろうと想像しています。「標的」を選定して攻撃するときに「巻き添え」などの危険性を気にすることはないのでしょうか? もしも「巻き添え」などの危険性を気にすることがないのならば無関係な犠牲者が必要以上に増えてしまうわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「ドローンを もっと活用 できないか? 多くの人の 素朴な疑問」-。 石川県能登半島付近を震源とする大地震が1/1夕に発生したことによって大きな被害が出ています(→1/1,16:10頃に石川県能登地方を震源とするマグニチュード7.6の地震では、石川県志賀町で震度7、石川県七尾市、輪島市、珠洲市などで震度6強など。「能登半島地震」。余震と見られる地震も続いている。石川県内を中心に地割れや建物の崩壊や火災などの被害が相次ぐ。倒壊した建物に閉じ込められている人たちも多数残されており、また地震発生直後の津波で1人が行方不明になっている模様。これまでに92人の死亡を確認、安否不明242人(1/5午前の時点))。 ごく普通の多くの人たちは「なぜもっとドローンを活用することができないのだろうか?」などという「素朴な疑問」を持っているのかもしれないと思います。確かに現状ではトラックなどと比べれば空中飛行型のドローンが一度に運搬することができる物資の量ははるかに少ないとは思います。しかし、それでもやはり、天候が悪くなければ道路が寸断されて孤立しているような避難所に迅速に医薬品や食料を輸送する有効な選択肢の1つにはなるはずなのです。一度に運搬することができる量が少ないのならば「台数」と「回数」で補って「ベルトコンベヤー」で輸送しているかのような状態で「ピストン輸送」を行えばいいのではないかと思います。またドローンは航空機やヘリコプターよりも低コストで個別の場所の被害状況を詳細に調査することも不可能ではないのです。いずれにしても、災害発生時の情報収集、被災地支援のためにドローンなどを積極的に活用することができる態勢を大至急整備するべきだと思っている人たちは少なくないのではないかと思います。きょうのところはそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「本当に 嫌なこととか 悪いこと 次々起こる? 負の連鎖なら…」-。 きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会や国際社会で深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。世の中では、嫌なことや悪いことが1つ起こると、さらにいくつもの嫌なことや悪いことが次々と起こるようなこともあるのかもしれないと思います。でも、本当に嫌なことや悪いことは次々と起こっているのでしょうか? もちろん嫌なことや悪いことがあると、そのために精神的なダメージを受けてミスなどを繰り返してしまってさらに嫌なことや悪いことを引き起こしてしまうということは十分に考えられることです。あるいは、嫌なことや悪いことによって精神的なダメージを受けると嫌なことや悪いことに過剰に敏感になってしまい、そのために普段ならばそれほど嫌なことや悪いことではないことまでとても嫌なことや悪いことだと感じてしまうのかもしれないと思います。2024年はたとえ被害を受けていない人たちであっても1/1から精神的な負担になるニュースが続いています。また2023年中から精神的な負担になることがいくつか未解決のまま続いているのかもしれないと思います。「負の連鎖」のようなものが生じないといいと思いますし、「負の連鎖」のようなものが生じてしまったのならば断ち切りたいものですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「マスメディア なぜ災害時 繰り返す? 同じ情報 しつこく何度も…」-。 石川県能登半島付近を震源とする大地震が1/1夕に発生したことによって大きな被害が出ています(→1/1,16:10頃に石川県能登地方を震源とするマグニチュード7.6の地震では、石川県志賀町で震度7、石川県七尾市、輪島市、珠洲市などで震度6強など。地震発生直後には約10分おきに緊急地震速報が繰り返されるような状況が続いた。余震と見られる地震も続いている。また1/1夕には石川県を含めた日本海沿岸では大津波警報や津波警報などが発令されて実際に津波も観測。石川県内を中心に地割れや建物の崩壊や火災などが相次ぐ。これまでに57人の死亡を確認(1/3,AM0:00時点))。 大地震によってかなり甚大な被害が発生しています。余震もまだ続いています。時間が経てば経つほど被害がさらに甚大なものだったということが明らかになっているわけですが…。あえて素朴な疑問を言わせてもらうのならば、マスメディアは災害発生時になぜ同じ情報を何度も何度もしつこく繰り返す必要があるのでしょうか? もちろん津波や洪水が発生する危険性が高いから一刻も早く安全な場所に避難しなければならないなどという情報は何度でも繰り返し伝える必要があります。しかし、マスメディアが繰り返し伝えている情報の中には本当に繰り返し伝える必要があるのか疑問になるものも少なくないのです。本当にその情報を何度も何度も繰り返す必要があるのかどうか…。もしも今現在の災害報道が被災者の人たちの精神を不必要に消耗させるようなものになっているとしたら、その在り方を見直さなければならないはずです。マスメディアは何のために何度も何度も同じ情報を繰り返しているのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「悪いこと なぜ次々に 起こるのか? 悪夢のような 災害や事故…」-。 1/2夕(18:00頃)に羽田空港のC滑走路で着陸した日本航空516便(新千歳発、羽田行き)と海上保安庁の航空機(MA722)が衝突する事故が発生しました(→日航機は衝突後炎上、子ども8人を含む乗客367人・乗員12人合わせて379人全員が脱出したが、そのうち14人がけが。海保の航空機は乗員6人のうち5人が死亡、1人が重傷。能登半島沖地震関連で物資を新潟基地まで運ぶ予定だったという)。 悪夢のような自然災害・大地震、悪夢のような事故…。悪いことはなぜ次々に起きるのでしょうか? 思わずそう言いたくなってしまう人たちも少なくないと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、現時点では事故の詳細についてはまだ十分には明らかになっていないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、悪夢のようなことやその悪影響がさらに悪夢のようなことを引き起こす「負の連鎖」だけは生じさせてはならないのです。もしもあまりにも悪いことが次々と発生しているときには「人災」が関連している危険性を考える必要があるのかもしれないと思います。きょうのところはあえて「一般論」を指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「災害は 忘れた頃に やってくる? 自然災害 には休みなし!」-。 2024年になりました。1/1夕から石川県能登半島付近を震源とする大地震が繰り返し発生しています(→1/1,16:10頃に石川県能登地方を震源とするマグニチュード7.6の地震では、石川県志賀町で震度7、石川県七尾市、輪島市、珠洲市などで震度6強など。地震発生直後には約10分おきに緊急地震速報が繰り返されるような状況が続いた)。余震と見られる地震も続いています。また石川県を含めた日本海沿岸では大津波警報や津波警報などが発令されて実際に津波も観測されました。石川県内では地割れや建物の崩壊なども発生している模様です。現時点ではまだ被害の全体像と詳細は不明です。 「災害は忘れた頃にやってくる」などと言われますが…。様々な自然災害の被害を忘れていたとしても忘れていなかったとしても、地震の発生直後から日本社会の「空気」が一気に入れ替わったことだけでは確かなのだろうと思います。年末年始休日中の多くの人たちは自然災害には休みがないということを改めて実感しているのではないかと思います。そして大きな被害が出ていなければいいと願っているのではないかと思います。被害の全体像と詳細が不明な現時点においてはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『イスラエル』 『ハマス』を『主語』に した場合 理不尽になり 報復続く!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会や国際社会で深刻な問題になっていることの1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。世の中には多くの人たちがその実現を心から望んでいることがたくさんあります。しかし、何かを強く望むだけで本当にその何かを実現することができるようになるのでしょうか? 強く望んでいる何かを実現するためにはいったい何が必要になるのでしょうか? 多少の誤解を恐れずにあえて単純化するのならば、何かを実現するためには、一人ひとりの個人、一つひとつの物事を真正面からしっかりと見据えることが必要不可欠ではないかと思います。もしも「イスラエル」と「パレスチナ」の「戦争」を止めようと本気で思っているのならば、まずは「イスラエル」「パレスチナ」「戦争」などというグループや概念ではなく、具体的な一人ひとりの個人、一つひとつの物事を真正面から見据えて問題の解決を考えていく必要があるのではないかということなのです。例えば、国際社会には「イスラエルが殺した」「ハマスが殺した」などと「イスラエル」「ハマス」などを「主語」にした批判が溢れているわけですが、実際には兵士や戦闘員やテロリストである一人ひとりの個人が一人ひとりの個人を殺したはずなのです。そしてもしも「イスラエルが殺した」「ハマスが殺した」などという言い方をしてしまうと、イスラエルにいる民間人であってもハマスが実効支配していたガザ地区にいる民間人であっても「殺害」などの責任を問われるような理不尽な展開になってしまいかねないのです。あえて言い換えるのならば、「イスラエルが殺した」「ハマスが殺した」などという言い方を許せば、報復が報復を呼んで何度でも報復が繰り返されるような最低最悪の展開になっても何も不思議ではなくなってしまうのです。なぜ同じイスラエル人とか同じパレスチナ人というだけの理由で憎悪や報復の対象にされなければならないのでしょうか? そんな理不尽な話があるでしょうか? 繰り返しになりますが、何かを実現しようと本気で思うのならば、一人ひとりの個人、一つひとつの物事を真正面からしっかりと見据えて問題の解決を考えていく必要があるのです。 ======================================= 「批判だけ してさえいれば 『正解』か? 『専門知識』 『知性』は不要?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。なぜいわゆる「政治」はいつまでも良くならないのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「政治」がいつまでも良くならないのは「野党にあまりにも能力がなさすぎるから」であると言わざるを得ないのです。あくまでも「空想上の社会」の中での話ですが、例えば、与党に不祥事などが次々と明らかになっているときに野党の人間たちの口から与党批判以外のことを聞いたことがあるでしょうか? とりあえず意味のある内容かどうかとか、説得力のあるものかどうかなどということは別にしても、そもそも野党の人間たちが与党批判以外のことを言っているのを聞いたことがあるでしょうか? もしも野党の人間たちがほとんどすべての場合に「与党を批判すること」が「正解」であるとなぜか強く思い込んでいるのならば、「とにかく与党の言っていることやっていることのほとんどすべてを批判していればいい」ということになるわけですから野党の人間たちには最低限の専門知識はもちろんのこと知性すらも全く必要ないということになってしまうのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、たとえ理屈や理由が全くなかったとしても批判するだけなら誰でもすぐにできるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「今すぐに 戦闘停止 させるため 必要なのは 『祈り』や『叫び』?」-。 パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてから始まったイスラエル側とハマス側による戦闘は続いています(→参考:2023/12/18付、2023/12/6付、2023/12/3付、2023/11/30付、2023/11/28付、2023/11/25付、2023/11/23付、2023/11/17付、2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区南部の最大都市ハンユニスの中心部、さらにガザ地区中部でも地上部隊を投入して「ハマス」などの戦闘員と戦闘を続けている模様。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡、パレスチナ側で2万1000人以上が死亡した模様。ちなみにガザ地区の全人口の約80%以上の約180万人以上が避難民になっているなどとも伝えられている)。 相変わらずガザ地区では戦闘停止の兆しすらも全く見られない状況が続いています。国際社会ではガザ地区での即時戦闘停止を求める声が高まり続けているわけですが、それでもやはり戦闘停止の兆しすらも全く見られない状況が続いているのです。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、イスラエルはガザ地区のすべての人たちを「虐殺」して「根絶」しようとしているのでしょうか? もしそうであるのならば戦闘停止の可能性はほぼ完全に0%ということになってしまうのだろうと思います。しかし、どんなに少なくともイスラエルはガザ地区のすべての人たちを「虐殺」して「根絶」しようとまでは考えていないのだろうと思います。そうであるのならば、戦闘停止の可能性は十分に残っているのです。繰り返しになりますが、もしも「ハマス」などが拉致して拘束している残りのすべての「人質」が解放され、イスラエル襲撃に関与したすべての「ハマス」などの幹部や戦闘員らの身柄が引き渡されるのならば、イスラエル軍が更なる攻撃を続ける「大義名分」はほとんどなくなってしまうはずなのです(→参考:2023/10/30付etc.)。例えば、もしもガザ地区の人たちが自分たち自身の手で「ハマス」などの戦闘員や協力者の身柄を「拘束」して自分たち自身の手で厳しく処罰したりイスラエルなどに引き渡したりすることができるのならば、イスラエルは戦闘を停止することのできない説得力のある理由を見つけることはなかなかできなくなるのではないかと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、少なくとも今すぐに戦闘停止をさせるために必要不可欠なのは戦闘停止を求める「祈り」や「叫び」ではないことだけは確かなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「実際に 『カネ』で解決 できるなら 手っ取り早く 『カネ』で解決?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。なぜいわゆる「政治とカネ」の問題はいつまでもなくならないのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、ごく普通の多くの人たちの身の回りの問題を含めた世の中の多くの問題は実は「カネ」を使うと簡単に解決することができるものがとても多いのではないかと思います。現実の社会においては、たとえこうすることが将来の世代を含めた多くの人たちのためになるなどと理路整然と説明したり「理非曲直」を正したりすると、むしろ問題の解決が必要以上に難しくなってしまう場合であっても、ああすれば「カネ」を損するけれどもこうすれば「カネ」をもらえるなどという話をすると簡単に解決することができる問題も少なくないのです。もしもごく普通の多くの人たちの身の回りの問題を含めた世の中の多くの問題が言葉よりも「カネ」を使った方が簡単に解決することができるようになるものが多いのならば、手っ取り早く「カネ」を使って解決しようとする人間たちが増えることになるのだろうと思います。実際に「カネ」で解決することができるのならば手っ取り早く「カネ」で解決しようと思う人間たちも少なくないのです。そのように考えるのならば、いわゆる「政治とカネ」の問題を根本からなくそうと本気で望むのならば、現実の社会の中で「カネ」で解決することができる問題をできるだけ減らし「カネ」で解決することができない問題をできるだけ増やすという方向性にも多大な労力を費やす必要があるということを見失うべきではないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「自分だけ 『居場所』を確保 しておいて 『派閥解消』? ちゃんちゃらおかしい!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。なぜ「派閥」というものが生まれるのでしょうか? そしてなぜ「派閥」というものはなかなかなくならないのでしょうか? 繰り返しになりますが、「大政党」の「公認候補者」になるためには「派閥」が必要という主張があります。さらに言えば、「小政党」などから「大政党」に「入党」してその中で「居場所」をつくり出すためには「派閥」が必要という主張もあるのです。確かにこの数年に限定しても野党である「小政党」などで初当選した後に「派閥」の強力な引きや後押しを受けて与党である「大政党」に「入党」した議員は何人もいるわけです。もしかすると現実政治の中では「派閥」というものは「大政党」の中で自分の「居場所」をつくり出すために必要不可欠なものになっているのかもしれないのです。そのように考えるのならば、「大政党」の「公認候補者」の地位が事実上保証されている人間たちがもっともらしく叫ぶ「派閥解消」などという主張は「ちゃんちゃらおかしい!」と受け止めている人たちも少なくないと思います。自分だけはしっかりと「居場所」を確保しておいて「派閥解消」とか…。例えば、もしも次の選挙では必ず前回当選した選挙区とは別の選挙区から立候補しなければならないという「ルール」がある場合であっても、もっともらしく「派閥解消」などと叫ぶことができるのかどうか…。くどいようですが、なぜ「派閥」というものが生まれるのでしょうか? そしてなぜ「派閥」というものはなかなかなくならないのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『解消』を 目指すのならば 原因の 1つひとつを 解消すべき!」-。 きょうはごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか解消することができない「素朴な疑問」について理解を深めるために、あえて「空想上の社会」の「空想上の事例」を使用していつもとは少し違った角度から考えてみることにしようと思います。なぜ「派閥」というものが生まれるのでしょうか? そしてなぜ「派閥」というものはなかなかなくならないのでしょうか? 「派閥」は「大政党」の「公認候補者」になるために必要という主張があります。確かに現実政治の中ではそれなりに説得力のある主張ではないかと思います。あくまでも一般論ですが、「大政党」の中で何かの選挙の「公認候補者」になるための競争は非常に激しいものになります。例えば、何かの選挙で何人かが「公認」争いをしているときに、「大政党」は誰を「公認候補者」として選ぶのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、「大政党」は最も当選する可能性の高い人間を「公認候補者」として選ぼうとするはずです。そしてこれもまた一般論ですが、「大政党」の中により多くの仲間がいる人間の方が「公認候補者」に選ばれることが多いのです。逆の言い方をすれば、「大政党」の中にほとんど仲間がいない人間が「公認候補者」に選ばれることは実際にはほとんどないのです。そうであるのならば、何かの選挙で「大政党」の「公認候補者」になるための競争を勝ち抜くためには「大政党」の中に仲間をできるだけ多く増やす必要があるのです。そして「大政党」の中で手っ取り早く仲間を増やすために「派閥」が必要とされていると考えることもできるのです。あくまでも念のために言っておきますが、現実政治の中で「派閥」が必要とされる「理由」は1つだけではなく複数あるとは思います。しかし、それでもやはり、もしも「派閥解消」の実現を本気で目指すのならば、「派閥」が必要とされている「原因」を1つひとつ解消していくことを考えないわけにはいかないはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「お友達 になるためには どうするか? 『戦闘停止』より 簡単か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会や国際社会で深刻な問題になっていることの1つについてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。世の中には多くの人たちがその実現を心から望んでいることがたくさんあります。しかし、何かを強く望むだけで本当にその何かを実現することができるようになるのでしょうか? 強く望んでいる何かを実現するためにはいったい何が必要なのでしょうか? 例えば、「ある人」が「別のある人」と「お友達になりたい」と思っているとします。その場合にいくら「ある人」が「別のある人」と「お友達になりたい」と強く願っていたとしてもそれだけでは「お友達」になることができるというわけではないのです。さらに言えば、いくら「ある人」が「別のある人」と「お友達になりたい」と強く願っていたとしても、「お友達になりたい」と叫び続けているだけでは「お友達」になることができるというわけではないのです。「ある人」が「別のある人」と「お友達」になるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 「お友達」になるためには少なくともこういうことが必要だということはいくつかあるのだろうと思います。しかし、「お友達」になるための確実な方法などというものはやはり存在しないのだろうと思います。さて、話は唐突に変わりますが、「戦闘停止を実現すること」は「お友達になること」よりももっと簡単なことなのでしょうか? それともずっと難しいことなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「望んだり 叫ぶだけでは 戦闘を 停止すること できないのだが…」-。 きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、日本社会や国際社会で深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。世の中には多くの人たちがその実現を心から望んでいることがたくさんあります。しかし、何かを強く望むだけで本当にその何かを実現することができるようになるのでしょうか? あえて個別具体的な固有名詞を取り上げることは避けますが、今現在の国際社会では戦闘によって子どもたちを含めた多くの民間人の命が奪われている事態を一刻も早く止めたいと思っている人たちはたくさんいるのです。もちろん一刻も早い戦闘停止を強く望むことは人間としてごく自然な感情の1つではないかと思います。テレビなどで報道されている悲惨な映像を見れば一刻も早い戦闘停止を望まない人たちはほとんどいないのだろうと思います。しかし、いくら一刻も早い戦闘停止を強く望んだとしてもそれだけでは戦闘停止を実現することはできないのです。あるいは、いくら戦闘停止を強く叫んだとしてもやはりそれだけでは戦闘停止を実現することはできないのです。あくまでも念のために言っておきますが、もちろん戦闘停止を強く望んだり強く叫んだりすることが戦闘停止の実現に全くつながらないというわけではないのです。しかし、それでもやはり、いくら戦闘停止を強く望んだり強く叫んだりしてもそれだけでは戦闘停止を実現することはできないのです。この当たり前すぎるくらい当たり前のことをまずしっかりと認識しなければ戦闘停止を実現することはできないのです。きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『領収書』 不要なカネが 次々と 集まってきて また出ていけば…」-。 きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会などで深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそも「パーティー券」などの購入代金として支払われたおカネはいったい誰のものだったのでしょうか? 繰り返しになりますが、「詰まらないパーティー」の「パーティー券」などをいったい誰が購入しているのでしょうか? もっともごく普通の多くの人たちから見ればただの「詰まらないパーティー」であったとしても、実際に「パーティー券」を購入している人間たちにとっては十分に満足のできる内容の「パーティー」である可能性はあるわけです。例えば、そう遠くないうちに「パーティー券」の購入代金よりもずっと大きな「見返り」が得られることを期待することができるとか、あるいは、普段はなかなか会うことができない「推し」と特別にじっくりと会うことができるとか…。その上で、あえて付け加えるのならば、例えば、もしも「パーティー券」の購入代金のために使われているおカネが、いわゆる「裏金」のような「領収書」が不要なおカネであるのならば、たとえ無駄遣いをしたとしても誰からも咎められることはないのだろうと思います。さらに付け加えるのならば、もしも「パーティー券」の売り上げが「領収書」が不要なおカネに化けてしまっていたとしたら、「領収書」が不要なおカネが次々と集まってきて、また「領収書」が不要なおカネとして出ていくなどということにもなりかねないのだろうと思います。実質的に誰から誰にいくらのおカネが流れているのかが分からないなどという不透明な状態が許されるとはとても思えないわけですが…。いくらなんでもそこまでのひどいことにはなっていないのだろうとは思っていますが、きょうはあえてそうした危険性を指摘しておくことにしておきます。 ======================================= 「『詰まらない パーティー』の『券』 誰が買う? 誰のおカネで 誰が買うのか?」-。 きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会などで深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそもいったい誰が「パーティー券」を購入するのでしょうか? 政治資金集めのための「パーティー」が大好きな人間たちの問題の波紋が広がっています。ごく普通の多くの人たちにとっては、さしてためにもならない講演があったりさして高級でもない料理が残っていれば出てきたりする程度の「パーティー」の2万円もする高い「パーティー券」をいったい誰が購入するのだろうかというのが「素朴な疑問」の1つではないかと思います。多少の誤解を恐れずにあえて分かりやすく言い換えれば、「詰まらないパーティー」の「パーティー券」などをいったい誰が購入しているのでしょうか? そもそも「パーティー券」などの購入代金として支払われたおカネはいったい誰のものだったのでしょうか? 「詰まらないパーティー」の「パーティー券」などを本当に自分のおカネで購入しているのでしょうか? 「ごく普通の多くの人たちにとっても楽しいパーティー」の「パーティー券」が「リーズナブルな価格」で販売されているのならば「パーティー券」を購入する人たちがそれなりに存在するであろうということは十分に理解することができるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『へそくり』の ようなものだと いうことか? 『裏金』などは 必要なのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会や国際社会で深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。どうしたら「裏金」などというものは生み出されるのでしょうか? そもそも「裏金」というものは本当に必要なのでしょうか? ごく普通の多くの人たちは「裏金」などというものとは無縁なのだろうと思います。しかし、実はごく普通の多くの人たちの中にも「裏金」と似たようなものを持っていて日常的に使っている人たちがいるのかもしれないとも思います。例えば、一昔前のドラマやマンガの中によく出てきた「へそくり」などというもはや「死語」になっているかもしれない言葉があります。もしかするとその「へそくり」が「裏金」と似ているのかもしれないと思いますが…。「へそくり」が他の家族に相談することなしに自分だけで自由に使うことができるおカネのことを意味しているのならば、「へそくり」というものはいったい何のためにあるのでしょうか? 「へそくり」というものは「裏金」と似ているのでしょうか? 「へそくり」が「裏金」と似ていても似ていなくても、「へそくり」などというものは本当に必要なのでしょうか? そしてそもそも「裏金」というものは本当に必要なのでしょうか? いずれにしても「領収書をください」というその一言で「裏金」作りが難しくなるということは確かなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『領収書 ください!』と言う 相手なら 『裏金』作り 難しくなる!」-。 きょうはごく普通の多くの人たちの「半径3メートル程度」でもよく見られる出来事を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会や国際社会で深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。どうしたら「裏金」などというものは生み出されるのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、おカネというものはあるときある場所に突然現れたり、あるときある場所から突然消えてしまったりするようなものではないはずなのです。ですから、おカネというものは支払う人たちが存在するから受け取る人たちがいるわけです。あえて言い換えるのならば、支払った人がいるのに受け取った人間がいないとか、支払った人間がいないのに受け取った人がいるなどということはあり得ないはずなのです。そのように考えるのならば、もしもおカネのやりとりをするときに「領収書をください」と必ず言う相手が存在するのならば、その取引では「裏金」を作るのは難しくなるのです。逆の言い方をすれば、領収書の必要のないおカネのやりとりには「裏金」が使われることが多いのだろうし、そして領収書の必要のないおカネのやりとりによって新たな「裏金」が生み出されることになるのだろうと思います。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「自分には 悪影響が ないのなら 何を売っても 許されるのか?」-。 きょうはごく普通の多くの人たちが実は疑問に思っていたとしてもなかなか言い出すことができないでいるかもしれない「素朴な疑問」を通じて、日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。自分に悪影響がなさそうならばどんな相手にでもどんなものでも売るとか…。金儲けができれば何をやってもいいのでしょうか? 自分が悪影響を受けなければ他の誰かがどんなに不幸になっても構わないのでしょうか? 今も昔も地球上のほとんどどこの場所でも「薬物」は深刻な問題になっています。地球上のあちこちに様々な「薬物」中毒になっている人たちも多くいるのです。その一方で地球上の多くの場所では「薬物」取引によって莫大な利益を得ている反社会的な組織が存在するのです。他人の不幸と引き換えに莫大な利益を得ている人間たちがいるわけです。さらに言えば、自爆型ドローンやミサイルなどの兵器を交戦国や武装勢力に売却して利益を得ている国家や武装勢力も存在するわけです。自分たちが売却した兵器によって自分たちが攻撃される危険性はほとんどないのだろうと思います。しかし、その兵器によって地球上の別の場所では罪のない一般市民が殺傷される可能性が高くなるわけですが…。繰り返しになりますが、金儲けができれば何をやってもいいのでしょうか? 自分が悪影響を受けなければ他の誰かがどんなに不幸になっても構わないのでしょうか? 自分に悪影響がなければ何を売っても許されるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『悲劇』では 被害者もまた 加害者に 加害者もまた 被害者になる…」-。 パレスチナ暫定自治区ガザ地区を「実効支配」していたイスラム武装組織ハマスが10/7にイスラエル側に大規模な攻撃をしてから始まったイスラエル側とハマス側による戦闘は続いています(→参考:2023/12/6付、2023/12/3付、2023/11/30付、2023/11/28付、2023/11/25付、2023/11/23付、2023/11/17付、2023/11/11付、2023/11/2付、2023/11/1付、2023/10/30付、2023/10/28付、2023/10/26付、2023/10/24付、2023/10/23付、2023/10/22付、2023/10/21付、2023/10/16付、2023/10/10付etc. イスラエル軍はガザ地区南部の最大都市ハンユニスの中心部にも地上部隊を投入して「ハマス」や「イスラム聖戦」の戦闘員と激しい戦闘を続けている模様。そしてイスラエル軍がガザ地区でハマス側の人質になっていた20代のイスラエル人男性3人を誤って射殺したことが12/15に明らかになって波紋が広がっている(→イスラエル人男性は爆弾などを装着していないことを示すために上半身裸の状態で白旗を掲げていた?)。またイスラエル軍が「ハマス」の地下トンネル施設に海水を注入したなどという一部報道も。これまでにイスラエル側で1200人以上が死亡、パレスチナ側で1万8000人以上が死亡した模様。ちなみにガザ地区の全人口の約80%以上の約180万人が避難民になっているなどとも伝えられている)。 イスラエル軍がガザ地区でハマス側の人質になっていたイスラエル人男性3人を誤って射殺した事件が「悲劇」であることは確かです。その上で、「悲劇」の加害者と被害者は、イスラエル人に限定されるわけではないのです。パレスチナの人たちやその他の国の人たちも「悲劇」の加害者にも被害者にもなるということには注意が必要になります。「悲劇」では加害者も被害者になり、被害者も加害者になる…。当たり前と言えば当たり前の話ですが、人間というものは間違いを犯すものです。そして人間というものは、自分が正しいことをしていると信じ込んでいるときほど大きな間違いを犯すことが多いのです。さらに言えば、人間というものは、自分自身の生命の危険を感じてパニック状態になっているようなときには信じられないような行動を繰り返して止まらなくなることもあるのです。誰もがこのままではいけないと思ってはいてもそれを止めることが誰にもできなくなってしまうなどというような「悲劇」に陥ることだけは避けたいものですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『当選』は 『選挙』に替わり 『くじ引き』で 決めたとしたら どうなるだろう?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが実は疑問に思っていてもなかなか言い出すことができないでいるかもしれない「素朴な疑問」を通じて、永田町周辺を中心とした日本社会でも国際社会でも深刻な問題になっていることの1つについて少しだけ考えてみることにしようと思います。そもそもなぜ選挙をやらなければならないのでしょうか? 本当に選挙をやれば民主主義になっているのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて極論を言わせてもらうのならば、「選挙」の替わりに議員や地方自治体の長を「くじ引き」で選んではいけないのでしょうか? さらに言わせてもらうのならば、もしかすると現状のような形での「選挙」で選ぶよりも「くじ引き」で選んだ方が結果的に能力の高いふさわしい人物が公職に就くことができる可能性が高くなるのではないでしょうか? もちろん「選挙」の替わりに「くじ引き」で議員や地方自治体の長を選んだ場合には、不適切な人間が間違って選ばれてしまう可能性も当然あるわけです。しかし、もしも「くじ引き」で間違って不適切な人間が選ばれてしまった場合であっても、すぐに有権者による投票で「解職」することができる制度も併せて導入すればその弊害を小さくするようなことはできるのだろうと思います。そもそも選挙でごく普通の多くの人たちはどのような人間たちの中からどのような人間たちを当選者として選んでいるのでしょうか? 繰り返しになりますが、そもそもなぜ選挙をやらなければならないのでしょうか? 選挙をやれば民主主義になっているのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「「『マッチング』」(2024/4/18)
「『攻撃』でない?」(2024/4/17)
「何かが起こる?」(2024/4/16)
「『抑制的』?」(2024/4/15)
「『誤解』」(2024/4/14)
「独りじゃない?」(2024/4/13)
「『月までの道』」(2024/4/12)
「助けてくれる?」(2024/4/11)
「攻撃されない?」(2024/4/10)
「守れない!」(2024/4/9)
「『必要は発明の母』」(2024/4/8)
「『禍を転じて福と為す』」(2024/4/7)
「時代に合った『制度』?」(2024/4/6)
「卑劣な犯罪!」(2024/4/5)
「何でもできる?」(2024/4/4)
「『治外法権』?」(2024/4/3)
「『飛び級』」(2024/4/2)
「『蚊帳の外』」(2024/4/1)
「悪影響は…」(2024/3/31)
「滅びてしまう?」(2024/3/30)
「偉くてすごい人に?」(2024/3/29)
「なぜ一括で返済しない?」(2024/3/28)
「『世襲』?」(2024/3/27)
「なぜ『借金』ができるのか?」(2024/3/26)
「返す必要はある?」(2024/3/25)
「『痕跡』」(2024/3/24)
「『異変』に気づく?」(2024/3/23)
「自白強要?」(2024/3/22)
「『嫌われた人』は…」(2024/3/21)
「今現在は…」(2024/3/20)
「対抗?」(2024/3/19)
「『新党』?」(2024/3/18)
「無責任!」(2024/3/17)
「『投票権』を行使して…」(2024/3/16)
「選ばせてくれ!」(2024/3/15)
「大統領を選べれば…」(2024/3/14)
「莫大になる!」(2024/3/13)
「『資金力』『影響力』は…」(2024/3/12)
「許されないか?」(2024/3/11)
「なぜ今か?」(2024/3/10)
「どこが好きか?」(2024/3/9)
「もしかして…」(2024/3/8)
「『選挙』は変わる?」(2024/3/7)
「投票率は…」(2024/3/6)
「産むか産まないかさえ…」(2024/3/5)
「『引き金』引けば…」(2024/3/4)
「それぞれの立場から…」(2024/3/3)
「『悪者』」(2024/3/2)
「見極める能力」(2024/3/1)
「守らなくていい?」(2024/2/29)
「自慢?」(2024/2/28)
「どうする?」(2024/2/27)
「『抹殺』すれば…」(2024/2/26)
「『同盟国』を失っていく!」(2024/2/25)
「自由で豊かだから…」(2024/2/24)
「『チケット』は…」(2024/2/23)
「完売?」(2024/2/22)
「支持率は…」(2024/2/21)
「最悪!」(2024/2/20)
「次々消える!」(2024/2/19)
「唱えれば…」(2024/2/18)
「『悪い人間』?」(2024/2/17)
「世の中は『カネ』?」(2024/2/16)
「『犯罪者?』」(2024/2/15)
「記録に残す!」(2024/2/14)
「『大口』を…」(2024/2/13)
「あなたでは…」(2024/2/12)
「人間は…」(2024/2/11)
「世の中に…」(2024/2/10)
「一方的に?」(2024/2/9)
「あなたとは…」(2024/2/8)
「『透明性』」(2024/2/7)
「大切なこと」(2024/2/6)
「『非対称的な戦争』」(2024/2/5)
「強大にしようとすれば…」(2024/2/4)
「『税金』を…」(2024/2/3)
「どちらが多い?」(2024/2/2)
「好まれるなら…」(2024/2/1)
「低下する…」(2024/1/31)
「信頼できる?」(2024/1/30)
「支援は届く?」(2024/1/29)
「行動すれば?」(2024/1/28)
「必要ならば…」(2024/1/27)
「最新の支持率」(2024/1/26)
「『配分』は見直すべき」(2024/1/25)
「さすがにまずい?」(2024/1/24)
「もっと重要!」(2024/1/23)
「『税金』でない?」(2024/1/22)
「その『カネ』は…」(2024/1/21)
「かなわない?」(2024/1/20)
「『成功事例』」(2024/1/19)
「守られる?」(2024/1/18)
「両立できず?」(2024/1/17)
「『神』は『悪魔』?」(2024/1/16)
「『ステマ』とか『ファッション』ならば…」(2024/1/15)
「『派閥』とは何か?」(2024/1/14)
「『解消』?」(2024/1/13)
「どうすべき?」(2024/1/12)
「『宗教』?」(2024/1/11)
「誰が支援を?」(2024/1/10)
「多いときには…」(2024/1/9)
「自粛する?」(2024/1/8)
「何ができるか?」(2024/1/7)
「『巻き添え』などは…」(2024/1/6)
「もっと活用できないか?」(2024/1/5)
「次々起こる?」(2024/1/4)
「なぜ繰り返す?」(2024/1/3)
「なぜ次々に…」(2024/1/2)
「休みなし!」(2024/1/1)
「理不尽」(2023/12/31)
「批判だけ?」(2023/12/30)
「必要なのは…」(2023/12/29)
「『カネ』で解決?」(2023/12/28)
「ちゃんちゃらおかしい!」(2023/12/27)
「1つひとつを…」(2023/12/26)
「お友達になるためには…」(2023/12/25)
「望んだり叫ぶだけでは…」(2023/12/24)
「集まってまた出て行けば…」(2023/12/23)
「誰が買う?」(2023/12/22)
「へそくり?」(2023/12/21)
「領収書ください!」(2023/12/20)
「許されるのか?」(2023/12/19)
「『悲劇』」(2023/12/18)
「『くじ引き』で…」(2023/12/17)
「選ぶなら…」(2023/12/16)