東京都心⇔旧地名残る仙台市中心部
千葉潤 政治過程 行政書士事務所(東京都)/自由自律/公私の区分/自助・共助・公助/行政区画・区域の弊害是正/反・旧民主&共産勢力/反・消費税廃止勢力/反ポピュリズム/反カルト/母校は「故郷」/政治を「科学」にする/人間の安全保障/男女共同参画/老若男女生涯現役社会/仙台は元祖東北・新首都圏
「『外見』で 他人になりす ますことを 許してしまう! 信じてしまう!」-。
きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外見」「見た目」「見かけ」などからその人がどのような人なのかということをどれだけ正確に判断することができるものなのでしょうか? グローバリゼーションが進展している今現在においてこそ「外見」「見た目」「見かけ」などの持つ意味について改めて考えてみる必要がありそうです。
今回もさらに女性と男性の関係を「外見」「見た目」「見かけ」などから判断しようとする場合について考えてみることにします。もしも女性と男性が何らかの目的のために関係を装うことができるのならば、女性と男性が実際にはどのような関係であったとしても他人からは恋人同士や夫婦、あるいは、親子と見られる可能性が高くなるのだろうと思います。例えば、女性と少年の場合には、男性と少女の場合よりも、多くの人たちから疑われることなく簡単に「親子」と信じてもらうことができるのかもしれないと思います。しかし、もしかすると男性と少女(あるいは、若い女性)の場合には、女性と少年(あるいは、若い男性)の場合よりも、多くの人たちから疑われることなく簡単に「恋人(?)同士」や「夫婦」だと信じてもらうことができるのかもしれないと思います。それを「ジェンダー・バイアス」などと呼ぶかどうかは別にしても…。さらに言えば、若い女性であっても若い男性であっても、高齢の女性や高齢の男性と一緒にいる場合には、多くの人たちからそれほど疑われることなく「親子」と信じてもらうことができるのかもしれないと思います。たとえ高齢の女性や高齢の男性の判断能力がかなり衰えている場合であっても、極端な場合には、一緒にいる若い女性や若い男性の言葉だけで「親子」だと信じてしまうということもあるのかもしれないと思います。繰り返しになりますが、何らかの目的のために関係を装うことができるのならば、女性と男性が実際にはどのような関係であったとしても他人からは恋人同士や夫婦、あるいは、親子と見られる可能性が高くなるのだろうと思います。くどいようですが、人間を「外見」「見た目」「見かけ」などだけから判断するのは難しくてとても危険なことなのです。人間を「外見」「見た目」「見かけ」などだけから判断すれば、簡単に他人になりすますことを許してその嘘を簡単に信じてしまうことになってしまうのです。グローバリゼーションが進展している今現在においてこそ「外見」「見た目」「見かけ」などの持つ意味について改めて考えてみる必要がありそうです。きょうのところはそのことを強調するだけにとどめてあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 (twitter:http://twitter.com/jchiba_net (ホームページ版:http://www.jchiba.net/)。 「どちらかと 子どもだけでも 『親子』だと 信じてくれる? 男女差はある?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外見」「見た目」「見かけ」などからその人がどのような人なのかということをどれだけ正確に判断することができるものなのでしょうか? グローバリゼーションが進展している今現在においてこそ「外見」「見た目」「見かけ」などの持つ意味について改めて考えてみる必要がありそうです。 さらに女性と男性の関係を「外見」「見た目」「見かけ」などから判断しようとする場合について考えてみることにします。繰り返しになりますが、もしも女性と男性が何らかの目的のために非常に「親密」な関係を装うことができるのならば、この女性と男性が実際にはどのような関係であったとしても他人からは恋人同士や夫婦だと見られる可能性が高くなるのだろうと思います。そして例えば、女性と男性と一緒に幼い子どもがいるような場合には、おそらく多くの人たちは、女性と男性は「夫婦」で幼い子どもは「その夫婦の子ども」という説明をほとんど疑わずにすぐに信じてしまうのではないかと思います。ここで、少し「頭の体操」をしてみることにしようと思います。もしも女性と男性と幼い子どもの3人ではなく、女性と幼い子ども、あるいは、男性と幼い子どもの2人のときに「親子」と信じてもらうことができるのでしょうか? もしかすると女性と幼い子どもの場合には比較的簡単に「親子」と信じてもらえたとしても、男性と幼い子どもの場合には「親子」と信じてもらえないこともときどきあるなどということはあるのでしょうか? さらに言えば、女性と少年の場合には比較的簡単に「親子」と信じてもらえても、男性と少女の場合には「親子」と言ってもまずは疑われてしまうなどということが少なくないのでしょうか? 「親子」と信じてもらい易いかどうかに男女差はあるのでしょうか? それを「ジェンダー・バイアス」などと呼ぶかどうかは別にしても…。繰り返しになりますが、人間を「外見」「見た目」「見かけ」などだけから判断するのは難しくてとても危険なことなのです。きょうのところはあえてそのことを重ねて強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『夫婦』には 『幼い子ども』 いるならば 疑わないで 信じてしまう?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外見」「見た目」「見かけ」などからその人がどのような人なのかということをどれだけ正確に判断することができるものなのでしょうか? グローバリゼーションが進展している今現在においてこそ「外見」「見た目」「見かけ」などの持つ意味について改めて考えてみる必要がありそうです。 さらに女性と男性の関係を「外見」「見た目」「見かけ」などから判断しようとする場合について考えてみることにします。もしも女性と男性がとても「友人」とは思えないくらいに非常に「親密」な様子であった場合には、この女性と男性は恋人同士か夫婦だと考えてもいいのでしょうか? もしも女性と男性が何らかの目的のために非常に「親密」な関係を装うことができるのならば、この女性と男性が実際にはどのような関係であったとしても他人からは恋人同士や夫婦だと見られる可能性が高くなるのだろうと思います。もっとも公共の空間では非常に「親密」な関係を装うことには限界があるわけですが…、例えば、女性と男性と一緒に幼い子どもがいたらどうなるのでしょうか? おそらく多くの人たちは、女性と男性は「夫婦」で幼い子どもは「その夫婦の子ども」という説明をほとんど疑わずにすぐに信じてしまうのではないかと思います。ちなみに夫婦と子どもの場合には、兄弟姉妹などと「言い訳」する場合とは違い、互いに顔などが少しも似ていなくても怪しまれることはほとんどないのだろうと思います。何にしても「幼い子ども」という「外見」などが新たに付け加えられるだけで、女性と男性の関係がかなり違ったものに見えてしまうこともあるわけです。その上で、あくまでも念のために付け加えるのならば、いくら本物の夫婦とその子どもに見えたとしても、「女性」、「男性」、「幼い子ども」がそれぞれ完全な赤の他人であるにもかかわらず「仮初(かりそめ)の家族」を演じている可能性はもちろんあるわけです。繰り返しになりますが、人間を「外見」「見た目」「見かけ」などだけから判断するのは難しくてとても危険なことなのです。きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『恋人』か? 『弟』なのか? 『友人』か? 実は『夫婦』か? 判断できず…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外見」「見た目」「見かけ」などからその人がどのような人なのかということをどれだけ正確に判断することができるものなのでしょうか? グローバリゼーションが進展している今現在においてこそ「外見」「見た目」「見かけ」などの持つ意味について改めて考えてみる必要がありそうです。 引き続き女性と男性の2人の関係を「外見」「見た目」「見かけ」などから判断しようとする場合について考えてみることにします。もしも女性と男性がとても「友人」とは思えないくらいに非常に「親密」な様子であった場合には、この女性と男性は恋人同士か夫婦だと考えてもいいのでしょうか? もちろん必ずしもそのように考えることができるというわけではないのです。例えば、女性が男性の姉や妹であったり、男性が女性の兄や弟であったりする可能性もあるのだろうと思います。あるいは、もしかするとこの女性と男性は兄弟姉妹同然に育った「幼馴染」なのかもしれないわけです。もっともこれらはドラマなどで「言い訳」としてもよく使われているわけですが…。さらに言えば、この女性と男性が互いに「友人」や「親友」だと思っていても、他人から見ればいわゆる「友人以上恋人未満の関係」なのかもしれないのです。「恋人」か、「兄弟姉妹」か、「友人」か、それとも実は「夫婦」なのか…。何にしても「外見」「見た目」「見かけ」などから女性と男性の関係を判断するのはなかなか難しいことなのです。その上で、あくまでも念のために付け加えておくのならば、もしも女性と男性が何らかの目的のために非常に「親密」な関係を装うことができるのならば、この女性と男性が実際にはどのような関係であったとしても他人からは恋人同士や夫婦だと見られる可能性が高くなるのだろうと思います。そのことに気づくのならば、人間を「外見」「見た目」「見かけ」などだけから判断するのはとても危険なことであるということにも気づくことができるのではないかと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「実際に 『女性』と『男性』 だと聞いた 多くの人は イメージできた?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外見」「見た目」「見かけ」などからその人がどのような人なのかということをどれだけ正確に判断することができるものなのでしょうか? グローバリゼーションが進展している今現在においてこそ「外見」「見た目」「見かけ」などの持つ意味について改めて考えてみる必要がありそうです。 くどいようですが、引き続き女性と男性が2人でいる様子を見た話を続けます。この女性と男性はいったいどのような関係なのでしょうか? 「夫婦」ではなく「友人」でもなく、実は「初対面」だった…。この女性と男性の関係を「外見」「見た目」「見かけ」などだけから正確に判断することは非常に難しいということを実感することができたのではないかと思います。さて、そろそろこの女性と男性の「外見」「見た目」「見かけ」以外の情報を提供することにしようと思います。実は、「女性」の肩書きは「内閣総理大臣」、一方の「男性」の肩書きは「大統領」だったのです。つまり、「女性と男性が2人でいる様子」とは、いわゆる「首脳会談の様子」だったのです。多くの人たちが「女性と男性が2人でいる」と聞いたときに最初に思い描くイメージとはかなり違ったものになったのかもしれないと思います。あえて別の言い方をするのならば、「女性と男性が2人でいる」と聞いたときにすぐに「首脳会談」のことだと気づいた人たちはほとんどいなかったのではないかと思います。それを「ジェンダー・バイアス」などと呼ぶかどうかは別にしても…。いずれにしても世の中の物事を「外見」「見た目」「見かけ」などだけから正確に判断することは非常に難しいのです。きょうのところはあえてそのことを重ねて強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『外見』や 『見た目』だけでは 正確に 2人の関係 判断できず!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外見」「見た目」「見かけ」などからその人がどのような人なのかということをどれだけ正確に判断することができるものなのでしょうか? グローバリゼーションが進展している今現在においてこそ「外見」「見た目」「見かけ」などの持つ意味について改めて考えてみる必要がありそうです。 引き続き女性と男性が2人でいる様子を見た話を続けます。この女性と男性はいったいどのような関係なのでしょうか? どうやら「初対面」でもなさそうで「夫婦」でもないのならば…。もしかするとこの女性と男性は「不倫」関係なのでしょうか? さすがにそれはあまりにも論理が大きく飛躍しています。ちなみにこの女性と男性のうち少なくとも一方は別の人と結婚していることは確かなのです。しかし、この女性と男性がいくら親しげに談笑していたとしても少なくともそれだけでは「不倫」関係にあるなどということには絶対にならないはずなのです。それでは、この女性と男性は「友人」や「親友」なのでしょうか? 意外にも実はこの女性と男性は「初対面」だったそうなのです。少し前に何度か電話では話したことがあるそうですが、実際に対面で会うのは初めてだと…。それにもかかわらず、こんなに親しげに…。くどいようですが、この女性と男性はいったいどのような関係なのでしょうか? この女性と男性の関係を「外見」「見た目」「見かけ」などだけから正確に判断することは非常に難しいということを実感することができたのではないかと思います。今回もあえて謎を謎のままにして終了することにしておきます。 ======================================= 「この2人 どんな関係 なのだろう? 『夫婦』じゃないし 『初対面』じゃない?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外見」「見た目」「見かけ」などからその人がどのような人なのかということをどれだけ正確に判断することができるものなのでしょうか? グローバリゼーションが進展している今現在においてこそ「外見」「見た目」「見かけ」などの持つ意味について改めて考えてみる必要がありそうです。 例えば、女性と男性が2人でいる様子を見たとします。この女性と男性はいったいどのような関係なのでしょうか? もしもこの女性と男性がとても親しげに談笑しているのならば、この女性と男性は「夫婦」だと考えてもいいのでしょうか? この女性と男性は「夫婦」なのかもしれませんし、そうではないのかもしれないのです。やや論理が飛躍していますが…。例えば、この女性と男性が「友人」であったとしてもとても親しげに談笑することはできるはずです。それでは、この女性と男性は「初対面ではない」と考えてもいいのでしょうか? 残念ながらこの女性と男性が「初対面ではない」と断言することもできないのです。世の中にはたとえ「初対面」の相手であってもすぐに打ち解けた雰囲気にすることができるような人たちもいるのです。繰り返しになりますが、この女性と男性はいったいどのような関係なのでしょうか? とりあえず今回はその謎は謎のままで終了することにしておきます。 ======================================= 「『ファン』ならば みんな同じか? それぞれか? 『同担拒否』は 珍しいこと?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。人間とはいったい何なのでしょうか? 例えば、同じ「人間」であるのならば、だいたいどのようなものを好んだり望んだりし、だいたいどのようなものを好まなかったり望まなかったりするなどという「共通点」は存在するのでしょうか? もちろんある人たちは好んだり望んだりしても、別のある人たちは好みもしないし望みもしないという「相違点」はたくさん存在するのだろうと思います。グローバリゼーションが進展している今現在こそ改めて「人間」の「共通点」と「相違点」について考えてみることが必要だと思います。 何度も繰り返していますが、ある意味で「社会的生物」である「人間」には「社会」の中に「自分」の「居場所」が存在するということを実感したいなどという「人間」に特有の「欲求」が存在するのではないかと考えることができます。最近はアニメやアイドルなどの分野のあるものの熱心なファンたちやそのファンたちの世界などということを意味する「ファンダム」などという言葉だけではなく、「同担拒否」などという言葉を見聞きすることも増えています。「同担拒否」などという言葉は、たとえ全く同じものの「ファン」であったとしてもすべての「ファン」同士が必ず仲良くなれるとは限らないということを意味しているのだろうと思います。率直に言わせてもらうのならば、私から見れば、これは当たり前すぎるくらい当たり前の現象ではないかと思います。たとえ全く同じものの「ファン」であったとしても、あるもののどこがどのように好きであるかとか、実はあるもののどこかにあまり好きではない部分があったりなかったりするなどということはそれぞれの「ファン」によって違うのは当然ではないかと思います。さらに言えば、「ある人」をあまりにも大好き過ぎる「ファン」同士の場合には互いに嫉妬のような感情を持つこともあるのだろうと思います。例えば、最近はマスメディアで「ある芸能人」が「別のある芸能人」の「大ファン」などと「公言」することが少なくないのですが、実はその発言を聞いた「一般人の別のある芸能人のファン」が「ある芸能人」を様々な理由で「拒否」するようになることも少なくないのではないかと思います。例えば、もしも「ある芸能人」が「本物のファン」ならば誰でも知っていても少しも不思議ではないことをほとんど知らずに「大ファン」などと「公言」していたり、あるいは、「同じ芸能人だから」という理由だけで他の「ファン」には許されない様々な「特別扱い」や「破格の扱い」を求めたりすれば、「拒否」の対象になっても少しも不思議でないことだけは確かなのです。もっとも単なる「ビジネス」目的で「ファン」を公言しているようなケースについては「同担拒否」とは言えないわけですが…。何にしても私から見れば「同担拒否」などという現象は、「最近の現象」でも「珍しい現象」でもなく、大昔から存在する当たり前の話に過ぎないと思うのです。繰り返しになりますが、グローバリゼーションが進展している今現在こそ改めて「人間」の「共通点」と「相違点」について考えてみることが必要だと思います。たとえ全く同じものの「ファン」であったとしてもすべての「ファン」同士が必ず仲良くなれるとは限らないわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「自分たち だけの『世界』に 閉じこもる? 悪い意味での 『ファンダム』なのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。人間とはいったい何なのでしょうか? 例えば、同じ「人間」であるのならば、だいたいどのようなものを好んだり望んだりし、だいたいどのようなものを好まなかったり望まなかったりするなどという「共通点」は存在するのでしょうか? もちろんある人たちは好んだり望んだりしても、別のある人たちは好みもしないし望みもしないという「相違点」はたくさん存在するのだろうと思います。グローバリゼーションが進展している今現在こそ改めて「人間」の「共通点」と「相違点」について考えてみることが必要だと思います。 何度も繰り返していますが、ある意味で「社会的生物」である「人間」には「社会」の中に「自分」の「居場所」が存在するということを実感したいなどという「人間」に特有の「欲求」が存在するのではないかと考えることができます。最近はあるものの熱心なファンたちやそのファンたちの世界などのことを意味する「ファンダム」などという言葉を見聞きすることが増えています。「ファンダム」という言葉はアニメやアイドルなどの分野のファンに関する話題でよく使われているようです。そしておそらく「ファンダム」というものは、あるものの「ファン」にとっては「居場所」になるのかもしれませんが、「ファン」以外の人たちにとってはあまり居心地の良い場所ではないのだろうと思います。私に言わせると、最近の「政治」に関する動きでもある意味での「ファンダム」のようなものがかなり増えているのではないかと思います。あくまでも一般論ですが、「なんとかファースト」などという類のものは、ある意味での「ファンダム」のようなものの典型例なのではないかと思います。もしも地球上に「なんとかファースト」などという自分たちにとっては耳障りのいい主張ばかりがあふれている自分たちだけのそれぞれの「世界」に閉じこもっているような人間たちが増えているのならば、互いに異なる価値観を持った相手を尊重することができなくなる危険性が高まることになるわけですが…。「なんとかファースト」などという類のものは、悪い意味での「ファンダム」なのでしょうか? きょうのところは「政治」分野における「ファンダム」のようなものの危険性についてあえて問題提起するだけにとどめることにしてきます。 ======================================= 「『自分』など 必要なのか? 『社会』には… 『社会』のために 何ができるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。人間とはいったい何なのでしょうか? 例えば、同じ「人間」であるのならば、だいたいどのようなものを好んだり望んだりし、だいたいどのようなものを好まなかったり望まなかったりするなどという「共通点」は存在するのでしょうか? もちろんある人たちは好んだり望んだりしても、別のある人たちは好みもしないし望みもしないという「相違点」はたくさん存在するのだろうと思います。グローバリゼーションが進展している今現在こそ改めて「人間」の「共通点」と「相違点」について考えてみることが必要だと思います。 繰り返しになりますが、ある意味で「社会的生物」である「人間」には「社会」の中に「自分」の「居場所」が存在するということを実感したいなどという「人間」に特有の「欲求」が存在するのではないかと考えることができます。「社会」の中に「自分」の「居場所」が存在するということを実感するためには何が必要になるのでしょうか? 例えば、「自分」は「社会」の役に立っているなどと他人から評価されているような場合には、「社会」の中に「自分」の「居場所」が存在するということを実感することができるのではないかと思います。しかし、「社会」の役に立っているのかどうかについてはそれぞれの立場によって受け止め方が異なっている可能性が高いのです。「自分」は「社会」に必要なのかという疑問を強く持っていて「社会」の中に「居場所」が存在するということを実感したい本人は、自分自身が「社会」の役に立っている「証拠」には敏感ではあっても、実際にはあまり「社会」の役に立たなかった(あるいは、全く役には立たなかった)という情報には鈍感になる傾向があるのかもしれないと思います。一方、その人に「社会」の役に立って欲しいと強く期待していた人たちは、その人が実際にはあまり「社会」の役に立たなかったという情報については比較的簡単に信じても、その人が実際に「社会」の役に立っている「証拠」の「認定」には必要以上に厳しくなる傾向があるのかもしれないと思います。あるいは、もしかするとその人に「社会」の役に立って欲しいとあまりにも強く期待しすぎてしまうと、その人と一体化しているような感情になって「社会」の役に立たなかった情報にかなり鈍感になってしまうのかもしれませんが…。あくまでも念のために付け加えるのならば、いわゆる「政治家」というものが「社会」の中の「居場所」になっているのか、そして本当に「居場所」になっていいのかなどということについても一度立ち止まって考えてみる必要があるのかもしれないと思います。いわゆる「政治家」というものは「社会」のために何ができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『社会』では 『自分』は役に 立っている? 他の人からも 評価されている?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。人間とはいったい何なのでしょうか? 例えば、同じ「人間」であるのならば、だいたいどのようなものを好んだり望んだりし、だいたいどのようなものを好まなかったり望まなかったりするなどという「共通点」は存在するのでしょうか? もちろんある人たちは好んだり望んだりしても、別のある人たちは好みもしないし望みもしないという「相違点」はたくさん存在するのだろうと思います。グローバリゼーションが進展している今現在こそ改めて「人間」の「共通点」と「相違点」について考えてみることが必要だと思います。 繰り返しになりますが、やはり「人間」というものは、基本的には自分一人では生きていくことができない「社会的生物」なのだろうと思います。だからこそ「人間」は、社会的な「動物」の「群れ」のようなものよりもはるかに大規模ではるかに複雑な「社会」をつくり出しているのだろうと思います。そしてそのような複雑で大規模な「社会」の中に自分の「居場所」があるのかなどということを実感することが難しくなっているのです。そのことに注目するのならば、「社会的生物」である「人間」には「社会」の中に「自分」の「居場所」が存在するということを実感したいなどという「人間」に特有の「欲求」が存在するのではないかと考えることができるのです。「社会」の中に「自分」の「居場所」が存在するということを実感するためには何が必要になるのでしょうか? 例えば、「自分」は「社会」の役に立っているなどと他人から評価されるような場合には、「社会」の中に「自分」の「居場所」が存在するということを実感することができるのではないかと思います。その上で、あえて念のために確認しておくのならば、もしも「自分」から希望して仲間に入れてもらったような場合にはその「社会」の中に「自分」の「居場所」が存在することを望まない人間はいったいどれだけいるのでしょうか? 繰り返しになりますが、そもそも同じ「人間」であるのならば、だいたい好んだり望んだりしたり、だいたい好まなかったり望まなかったりするなどという「共通点」などは本当に存在するのでしょうか? きょうもあえてそれらのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『自分』では 実感ないが 仲間入り? 『社会』の中に 『居場所』はあるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。人間とはいったい何なのでしょうか? 例えば、同じ「人間」であるのならば、だいたいどのようなものを好んだり望んだりし、だいたいどのようなものを好まなかったり望まなかったりするなどという「共通点」は存在するのでしょうか? もちろんある人たちは好んだり望んだりしても、別のある人たちは好みもしないし望みもしないという「相違点」はたくさん存在するのだろうと思います。グローバリゼーションが進展している今現在こそ改めて「人間」の「共通点」と「相違点」について考えてみることが必要だと思います。 繰り返しになりますが、「食欲」「睡眠欲」「性欲」などのいわゆる「三大欲求」とか「生理的欲求」などと呼ばれるものは、現実にはかなり個人差が大きなものになるのかもしれませんが、とりあえず多くの人たちの「共通点」ということにはなるのだろうと思います。しかし、「三大欲求」とか「生理的欲求」などと呼ばれるものは「人間」だけではなく「動物」にも存在するものですから、少なくともそれだけでは「人間らしさ」を十分に説明することはできないのです。また「動物」には存在しなくて「人間」には存在する「カネ」や「金銭欲」などの「カネ」の話だけで世の中の動きや「人間」の行動のすべてを説明することができるというわけではないのです。その上で、あえて言わせてもらうのならば、やはり「人間」というものは、基本的には自分一人では生きていくことができない「社会的生物」なのだろうと思います。もちろん「動物」の中にも「群れ」などという形で「社会」のようなものをつくるものも存在します。しかし、「人間」は、社会的な「動物」の「群れ」のようなものよりもはるかに大規模ではるかに複雑な「社会」をつくり出すことができるのです。そうであるがゆえに、そのような複雑で大規模な「社会」が「自分」を仲間に入れてくれるのか、その「社会」の中に「居場所」はあるのかなどということを実感することが難しくなっているのです。そのことに注目するのならば、「社会的生物」である「人間」にとっては「社会」の中に「居場所」が欲しいなどという「人間」に特有の「欲求」が存在するのではないかと考えることができるのです。繰り返しになりますが、人間とはいったい何なのでしょうか? そもそも同じ「人間」であるのならば、だいたい好んだり望んだりしたり、だいたい好まなかったり望まなかったりするなどという「共通点」などは本当に存在するのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『金儲け』 『高収入』や『負担減』 おカネの話 だけでもいいか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。人間とはいったい何なのでしょうか? 例えば、同じ「人間」であるのならば、だいたいどのようなものを好んだり望んだりし、だいたいどのようなものを好まなかったり望まなかったりするなどという「共通点」は存在するのでしょうか? もちろんある人たちは好んだり望んだりしても、別のある人たちは好みもしないし望みもしないという「相違点」はたくさん存在するのだろうと思います。グローバリゼーションが進展している今現在こそ改めて「人間」の「共通点」と「相違点」について考えてみることが必要だと思います。 繰り返しになりますが、「食欲」「睡眠欲」「性欲」などのいわゆる「三大欲求」とか「生理的欲求」などと呼ばれるものは、現実にはかなり個人差が大きなものになるのかもしれませんが、とりあえず多くの人たちの「共通点」ということにはなるのだろうと思います。しかし、「食欲」「睡眠欲」「性欲」などのいわゆる「三大欲求」とか「生理的欲求」などと呼ばれるものは、「人間」だけではなく「動物」にも存在するということには注意が必要になるのです。そのことに注意をするのならば、やはり「人間」の「共通点」としては、「人間」には存在しても「動物」には存在しない何かの中から選んだ方が適切なのではないかと考えることができるのではないかと思います。例えば、「カネ」や「金銭欲」などというものは、「人間」には存在しても「動物」には存在しないものではないかと思います。確かに「カネ」や「金銭欲」などを「人間」の「共通点」として取り上げるのならば、「動物」には存在しない「人間」だけの「共通点」になるのだろうと思います。どこかの国には「猫に小判」などという言葉があるわけですが…。「人間」の場合には、「金儲け」「高収入」「負担減」などという「カネ」の話は、たとえ互いの言語をそれほど理解することができない場合であっても、比較的理解しやすい種類の話になるのではないかと思います。しかし、「カネ」や「金銭欲」などの「カネ」の話だけで世の中の動きや人間の行動のすべてを説明することができるのでしょうか? 「カネ」や「金銭欲」などだけで「人間らしさ」を十分に表現することはできないということにも注意が必要になります。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『生理的 欲求』ならば 誰にでも あるものだけど それだけならば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。人間とはいったい何なのでしょうか? 例えば、同じ「人間」であるのならば、だいたいどのようなものを好んだり望んだりし、だいたいどのようなものを好まなかったり望まなかったりするなどという「共通点」は存在するのでしょうか? もちろんある人たちは好んだり望んだりしても、別のある人たちは好みもしないし望みもしないという「相違点」はたくさん存在するのだろうと思います。グローバリゼーションが進展している今現在こそ改めて「人間」の「共通点」と「相違点」について考えてみることが必要だと思います。 おそらく「食欲」「睡眠欲」「性欲」などのいわゆる「三大欲求」とか「生理的欲求」などと呼ばれるものは多くの人たちの「共通点」ということにはなるのだろうと思います。しかし、たとえ「共通点」ということができたとしても、現実にはかなり個人差が大きなものになるのではないかと思います。世の中には「食いしん坊」などとも呼ばれることもある「食欲」がかなり強い人たちもたくさんいますが、いくら美味しいと評判になっている食べ物であってもそれほど強い関心を示さないという人たちも少なくはないのです。また「睡眠欲」については、眠ることが大好きだから時間があれば何時間でも寝ていられるという人たちもいれば、逆に、他人と比べて短い睡眠時間でも平気だという人たちもいれば、いくら疲れていてもぐっすり眠ることができなくて困っているという人たちもいるわけです。そしていわゆる「性欲」については、それぞれの人たちにその強弱の違いが存在するというだけではなく、今現在は「LGBTQ」などという言葉で表現されるような様々な「性的嗜好」が存在するということも同時に広く知られているわけです。そもそも同じ「人間」であるのならば、だいたい好んだり望んだりしたり、だいたい好まなかったり望まなかったりするなどという「共通点」などは本当に存在するのでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、「食欲」「睡眠欲」「性欲」などのいわゆる「三大欲求」とか「生理的欲求」などと呼ばれるものは、「人間」だけではなく「動物」にも存在するものではないのでしょうか? 「生理的欲求」などが「共通点」であったとしても、それだけならば…。きょうのところはあえてそれらのことを指摘した上で問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『有権者』 他の人たちを どう見ている? 排除するのか 尊重するか…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「有権者」は「神様」か何かなのでしょうか? 「有権者」はそんなに偉いのでしょうか? 「有権者」が間違えることはないのでしょうか? 民主主義の制度の下では、いくら今現在の政治が最悪の状態であったとしても「有権者」が選挙で選んだ結果と考えることができるのです。 くどいようですが、「有権者」(→「国民」)にはいわゆる「主権」があるのです。あえて単純化して言い換えれば、どこかの国をどのようにしていくのかということを最終的に決めるのはどこかの国の「国民」(→「有権者」)なのです。しかし、「有権者」や「国民」は「ご主人様」でもなければ「王」などでもないのです。そう考えるのならば、選挙というものは、どこかの国をどのようにしていくのかについて自分がやるべきことを自分に代わってやってくれる「代表」を選ぶためのしくみであると考えることができるのです。あえて別の言い方をするのならば、自分の主張に賛成する「有権者」が他にも多くいない場合には、自分たちの主張を実現させるために活動する「代表」を選ぶことができないというのが選挙というしくみなのです。そもそも「有権者」は他の人たちのことをどう見ているのでしょうか? 特に自分たちの主張とは相容れない主張をしている人たちのことをどのように見ているのでしょうか? 自分たちの主張とは相容れない主張をしている人たちのことは排除しようとするのでしょうか? それともたとえ自分たちの主張とは相容れない主張をしている人たちであってもその人たちの主張やその存在を尊重しようとするのでしょうか? 民主主義の制度の下では「有権者」や「国民」が「ご主人様」でもなければ「王」などでもないのならば、それぞれの「有権者」は互いに尊重し合わなければならなくなるはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『有権者』 何者なのか 分かっている? 『ご主人様』や 『王』ではないが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「有権者」は「神様」か何かなのでしょうか? 「有権者」はそんなに偉いのでしょうか? 「有権者」が間違えることはないのでしょうか? 民主主義の制度の下では、いくら今現在の政治が最悪の状態であったとしても「有権者」が選挙で選んだ結果と考えることができるのです。 繰り返しになりますが、「国民主権」などと言われるように、「有権者」(→「国民」)にはいわゆる「主権」があるのです。あえて単純化して言い換えれば、どこかの国をどのようにしていくのかということを最終的に決めるのはどこかの国の「国民」(→「有権者」)なのです。しかし、「有権者」や「国民」は「ご主人様」でもなければ「王」などでもないのです。これも繰り返しになりますが、民主主義国家における選挙というものは「有権者」が自分たちの命令を忠実に実行してくれる「召使」や「家来」などを選ぶためのしくみではないはずなのです。選挙というものは、どこかの国をどのようにしていくのかについて自分がやるべきことを自分に代わってやってくれる「代表」を選ぶためのしくみであると考えることができるのです。「有権者」は自分自身が何者であるのかということを本当に分かっているのでしょうか? もしも「有権者」が自分自身は何者であるのかを正しく理解しているのならば、「減税」などのような自分自身にとって「メリット」があることを安易に求め続けながら「デメリット」があることは断固拒否し続けるような無責任なことだけはできないはずなのです。繰り返しになりますが、「有権者」や「国民」は「ご主人様」でもなければ「王」などでもないのです。それにもかかわらず、どこかの国をどのようにしていくのかということを最終的に決めるのはどこかの国の「国民」(→「有権者」)であるということは少しも変わらないのです。きょうのところはあえてこのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「そもそもは 自分ですべき ことなのに 代わりにやって もらっているから…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「有権者」は「神様」か何かなのでしょうか? 「有権者」はそんなに偉いのでしょうか? 「有権者」が間違えることはないのでしょうか? 民主主義の制度の下では、いくら今現在の政治が最悪の状態であったとしても「有権者」が選挙で選んだ結果と考えることができるのです。 何度も繰り返していますが、最近のどこかの国では「有権者の理解が得られない」などという言葉がよく聞こえてきます。そもそもなぜ「有権者」の「理解」などということが問題になるのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、それは「有権者」(→「国民」)にいわゆる「主権」があるからなのです。いわゆる「国民主権」などと言われるように…。多少の誤解を恐れずにあえて単純化すれば、どこかの国をどのようにしていくのかということを最終的に決めるのはどこかの国の「国民」(→「有権者」)なのです。しかし、「有権者」や「国民」は「君主」や「王様」などではないのです。民主主義国家においては「有権者」や「国民」は自分が望むことを「家来」などに命令して実行させる「君主」や「王様」などのような立場ではないということなのです。さらに言えば、民主主義国家における選挙というものは「有権者」が自分たちの命令を忠実に実行してくれる「家来」を選ぶためのしくみではないはずなのです。そのことに注意をするのならば、選挙というものは、そもそも自分でやるべきことを自分に代わってやってくれる「代表」を選ぶためのしくみであると考えることができるのです。そしてその場合には、「有権者の理解が得られる」ということは、「有権者」が自分自身で責任を持って実現させるべきことであると「理解」することができるかどうかということになると考えることができるのです。「有権者」に代わってやってくれている「代表」だからこそ「有権者」の「理解」がとても重要になるのです。繰り返しになりますが、そもそもなぜ「有権者」の「理解」などということが問題になるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「前回は どこに投票 してどんな 結果になった? そして次回は…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「有権者」は「神様」か何かなのでしょうか? 「有権者」はそんなに偉いのでしょうか? 「有権者」が間違えることはないのでしょうか? 民主主義の制度の下では、いくら今現在の政治が最悪の状態であったとしても「有権者」が選挙で選んだ結果と考えることができるのです。 繰り返しになりますが、最近のどこかの国では「有権者の理解が得られない」などという言葉がよく聞こえてきます。くどいようですが、「有権者」が間違えることはないのでしょうか? どんなに少なくとも「有権者」の「理解」だけで物事を判断したり決めたりしようとするのはあまりにも愚かなことなのです。ちなみに一人ひとりの「有権者」は前回の選挙ではどのような理由でどの候補者・どの政党に投票した(あるいは、投票しなかった)のでしょうか? また前回の選挙はどんな結果になったのでしょうか? ちなみにその選挙結果はすべての「有権者」の「理解」が得られるものだったのでしょうか? そして前回の選挙結果を受けて世の中はどのような状況になったのでしょうか? あくまでも念のために付け加えておくのならば、いくら「前回の選挙結果」やそれを受けて生み出された「状況」がそれぞれの「有権者」にとっては「理解」の得られるものではなかったとしても、民主主義という制度の下ではそれを受け入れなければならないはずなのです。自分たちが気に入らない前回の選挙をやり直すべきなどということを主張するようなことは民主主義社会の「有権者」としての見識が強く疑われるのです。一人ひとりの「有権者」は前回の選挙での自分自身の判断をどのように「理解」した上で次回の選挙での投票行動を決めることになるのでしょうか? 「有権者」は自分自身の間違いについても「理解」しなければならないはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『減税』や 『悪者批判』 だけならば 『理解』はすぐに 得られるのだが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「有権者」は「神様」か何かなのでしょうか? 「有権者」はそんなに偉いのでしょうか? 「有権者」が間違えることはないのでしょうか? 民主主義の制度の下では、いくら今現在の政治が最悪の状態であったとしても「有権者」が選挙で選んだ結果と考えることができるのです。 繰り返しになりますが、最近のどこかの国では「有権者の理解が得られない」などという言葉がよく聞こえてきます。あくまでも一般論ですが、人間というものは、自分に「メリット」があることや、自分が悪者を追及するために「原告席」に立つことについてはすぐに「理解」することができるのだろうと思います。逆に、多くの人たちにとっては自分に「デメリット」があることや、自分自身が「被告席」に立たされて追及されるようなことについてはなかなか「理解」することができないのだろうと思います。繰り返しになりますが、「有権者」は「神様」か何かなのでしょうか? もしも「有権者」が人間であるのならば、得をすることもあれば損をすることもあるのでしょうし、正しいこともあれば間違えることもあるのだろうと思います。そのように考えるのならば、「有権者」の「理解」が得られるかどうかだけを基準に考えることには致命的な欠陥があるということに気づくはずなのです。世の中の解決しなければならない問題などが「減税」や「悪者批判」だけであるのならばすぐに「有権者」の「理解」を得ることができるのだろうと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『有権者』 あなたはそんなに 偉いのか? それはあなたが 選んだ『結果』!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「有権者」は「神様」か何かなのでしょうか? 「有権者」はそんなに偉いのでしょうか? 「有権者」が間違えることはないのでしょうか? 民主主義の制度の下では、いくら今現在の政治が最悪の状態であったとしても「有権者」が選挙で選んだ結果と考えることができるのです。 最近のどこかの国では「有権者の理解が得られない」などという言葉がよく聞こえてきます。率直に言わせてもらうのならば、「有権者」はそんなに偉いのでしょうか? 選挙に立候補する候補者・政党にとっては一人でも多くの「有権者」に自分たちに投票してもらいたいのだろうと思います。しかし、そもそも「有権者の理解を得られないこと」は正しくないことなのでしょうか? 逆の言い方をすれば、「有権者の理解が得られたこと」は正しいことなのでしょうか? もしも「有権者」の「理解」が得られるかどうかで正しいか正しくないかなどということが決まってしまうのならば、「有権者」は「神様」か何かなのでしょうか? 「有権者」が間違えることはないのでしょうか? 「有権者」であるあなたはそんなに偉いのでしょうか? 「有権者」であるあなたは間違えることはないのでしょうか? いずれにしても、もしも今現在の政治が最悪の状態であるのならば、それは「有権者」が自分自身で選んだ「結果」と考えることができるはずだということをあえて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「ある『言語』 ある『宗教』の 押し付けや 否定になれば 受け入れられる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会の中で生活する一人ひとりの個人に求められる最低限の「基礎知識」や「学力」などはいったいどのようなものになるのでしょうか? グローバリゼーションが進展すればするほど、それぞれの人たちの間で共有されている「基礎知識」や「学力」などが大きな問題になると思います。 あくまでも一般論ですが、やはりグローバリゼーションが進展すればするほど、「言語」や「宗教」がそれぞれの社会に与えている影響をどのように捉えるのかということはなかなか難しい問題になると思います。例えば、もしも一人ひとりの個人に「英語」が意思疎通の手段として日常的に使用されている社会とそうではない社会の間に「格差」が生じるような種類の「基礎知識」や「学力」を要求することになるのならば、それらはグローバリゼーションを「深化」させていく段階では大きな障害になる危険性が高くなるのです。あえて言い換えるのならば、グローバリゼーションは形を変えた「英語圏による侵略」などという反発が出てくる危険性もあるのです。あるいは、もしも一人ひとりの個人に特定の「宗教」などの影響を強く受けた「基礎知識」や「学力」などを要求することになるのならば、グローバリゼーションは形を変えた「特定の宗教的な価値観」の強制などを意味することになってしまうのです。さらに言えば、もしも一人ひとりの個人に「特定の宗教的な価値観」を完全に否定した「基礎知識」や「学力」など要求することになるのならば、その「特定の宗教的な価値観」を信奉する人間たちにとってグローバリゼーションはとても受け入れられるものではないのだろうと想像することができます。繰り返しになりますが、現実の国際社会の中では、それぞれの社会では「教育」と「言語」や「宗教」は無縁ではないということには注意が必要になります。一人ひとりの個人に求められる最低限の「基礎知識」や「学力」などが、ある「言語」やある「宗教」の押し付けや否定になるのならば、国際社会の多くの人たちから受け入れられることは難しくなるのだろうと思います。いずれにしてもグローバリゼーションが進展すればするほど、それぞれの人たちの間で共有されている「基礎知識」や「学力」などが大きな問題になると考えられるのです。きょうのところは改めてそのことを強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『数学』や 『科学』は比較 しやすいが 『読解力』は 高度になると…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会の中で生活する一人ひとりの個人に求められる最低限の「基礎知識」や「学力」などはいったいどのようなものになるのでしょうか? グローバリゼーションが進展すればするほど、それぞれの人たちの間で共有されている「基礎知識」や「学力」などが大きな問題になると思います。 最近は国際的な学力調査などを伝えるニュースなどを見聞きする機会も少なくないと思います。もしもそれぞれの国の子どもたちの「学力」を国際的な学力調査などという形で本当に客観的に比較することができるのならば、おそらくそのような国際的な学力調査の内容を突き詰めて考えていくことが、これからの国際社会の中で生活する一人ひとりの個人に求められる最低限の「基礎知識」や「学力」などについて考えることにつながっていくのではないかと思います。あえて付け加えるのならば、「言語」や「宗教」がそれぞれの社会に与えている影響をどのように捉えるのかということはなかなか難しいものになると思います。「科学」や「数学」の持っている性質を考えれば、「科学的・数学的知識」の客観的な国際比較はそれほど難しくはないのだろうと思います。しかし、例えば、「読解力」などというものは、その内容が高度なものになればなるほどそれぞれの「言語」の壁を越えて客観的に比較することが難しくなっていくのではないかと思います。さらに言えば、「宗教」が様々な形で「読解力」に影響を与える可能性があるのではないかと思います。例えば、「ある宗教」を信じている子どもたちにとっては「ある宗教」ではあり得ないような状況が前提になっている文章の「読解力」は低くなる可能性もあるのではないかと思います。現実の国際社会の中では、それぞれの社会では「教育」と「言語」や「宗教」は無縁ではないということには注意が必要になります。いずれにしてもグローバリゼーションが進展すればするほど、それぞれの人たちの間で共有されている「基礎知識」や「学力」などが大きな問題になると考えられるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『温暖化』 止めたら元に 戻せるか? 『排出ゼロ』に するだけならば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会の中で生活する一人ひとりの個人に求められる最低限の「基礎知識」や「学力」などはいったいどのようなものになるのでしょうか? グローバリゼーションが進展すればするほど、それぞれの人たちの間で共有されている「基礎知識」や「学力」などが大きな問題になると思います。 あくまでも一般論ですが、もしも地球上で生活している多くの人たちの間でもっと多くの「基礎知識」や「学力」などが共有されていたのならば、例えば、いわゆる「地球温暖化」の問題をめぐる動きも随分と違ったものになっていたのではないかと思います。もちろん二酸化炭素(CO2)などのいわゆる「温室効果ガス」などの排出が増えれば、地球がますます温暖化する危険性が非常に高くなることは明らかです。そして残念ながらいくつかの国ではそのことを十分に理解しているかどうかも怪しい人物が指導者になっていることも確かです。しかし、地球から熱を逃がしにくくする「温室効果ガス」などの排出をゼロにすれば本当に「地球温暖化」を止めることができるのでしょうか? たとえ「温室効果ガス」などの排出をこれからゼロにしたとしても「温暖化」を緩やかにするところまではできるかもしれませんが、どんなに少なくとも地球を冷却することまではできないということには注意が必要になります。率直に言わせてもらうのならば、「温室効果ガス排出ゼロ」以上のことをやらなければ、「地球温暖化」を実質的に止めたり温暖化以前の地球環境に戻したりすることは極めて難しいのです。いわゆる「地球温暖化」の問題をめぐっても、地球上で生活している多くの人たちの間でもっと多くの「基礎知識」や「学力」などが共有されているのならば、「摩擦」や「衝突」はずいぶん違ったものになる可能性が高くなるのです。くどいようですが、グローバリゼーションがますます進むこれからの時代は国際社会の中で生活する一人ひとりの個人に求められる最低限の「基礎知識」や「学力」などというものがとても重要なものになってくるのです。きょうのところは重ねてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『基礎知識』 共有するか しないかで 『摩擦』『衝突』 ずいぶん違う」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会の中で生活する一人ひとりの個人に求められる最低限の「基礎知識」や「学力」などはいったいどのようなものになるのでしょうか? グローバリゼーションが進展すればするほど、それぞれの人たちの間で共有されている「基礎知識」や「学力」などが大きな問題になると思います。 大昔には実際によくあった話なのだろうと思いますが、「医学や科学が発展した社会」で生活している人たちと「医学や科学などというものがほとんど発展していない社会」で生活している人たちが「接触」したときには、それぞれの「基礎知識」や「学力」の違いが原因になった様々な「摩擦」や「衝突」があったのだろうと思います。非常に極端な場合には、感染症などの病気を「医薬品で治療しようと考える側」と「取り付いている悪霊などを追い出そうなどと思っている側」の間にはかなり深刻な「摩擦」や「衝突」があったのではないかと思います。「感染症」の原因がウイルスや細菌などの「病原体」であるということが共有されていないからどうしても「摩擦」や「衝突」が発生してしまう…。逆の言い方をすれば、もしも「感染症」の原因がウイルスや細菌などの「病原体」であるということをすべての人たちが共有していたのならば「摩擦」や「衝突」はほとんど発生しなかったのかもしれないのです。「基礎知識」があるかないかで「摩擦」や「衝突」はずいぶん違ったものになるわけです。そのように考えるのならば、グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会の中で生活する一人ひとりの個人に求められる最低限の「基礎知識」や「学力」などというものがとても重要なものになってくるのです。きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『観光』で 多くの人が 来るときは 好影響も 悪影響も…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会の中で、「国家」と「国家」、誰かと誰かなどが「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そしてこれからの時代に「国家」というものの持つ意味や役割はいったいどうなっていくのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 今回もさらに空想上の荒唐無稽な話を続けることにしようと思います。もしも非常に多くの数の「宇宙人」が「ある国家」の領域内に「観光」などの目的のために次々とやってきて短期滞在を繰り返しているような場合には、「宇宙人」が何らかの意味で「ある国家」を支配しているなどと考えることはできるのでしょうか? いくら多くの「宇宙人」が「ある国家」に次々とやってきたとしても、さすがに「支配」などと主張することには無理があるのではないかと思います。そして「ある国家」にとっていわゆる「インバウンド」による経済効果はそれなりに大きなものになるのだろうと想像することができるのです。しかし、それでもやはり、いわゆる「オーバーツーリズム」などのデメリットが消えてなくなるというわけではないのです。「宇宙人」に限らず、「観光」などのためにやってくる多くの人たちによって「ある国家」の領域内の「観光地」や「大都市」の住民の日常生活が多大な悪影響を受ける危険性が高くなるのです。日常生活を支えている交通機関で異常なほどの混雑が慢性化したり、出張などのための宿泊施設の予約がなかなかできないことが常態化したり、宿泊料金の異常な高騰が続いたり、などなど…。さらにあくまでも念のために付け加えるのならば、非常に多くの数の「宇宙人」が「ある国家」の領域内に「観光」などの目的のために次々とやってきて短期滞在を繰り返しているような場合には、「ある国家」に「入国」した後に何らかの犯罪行為を犯してすぐに「出国」してしまうような「宇宙人」も多くなってしまう危険性も高くなるのです。何度も繰り返していますが、グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会の中で、「国家」と「国家」、誰かと誰かなどが「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そしてこれからの時代に「国家」というものの持つ意味や役割はいったいどうなっていくのでしょうか? 「観光」などの目的のために多くの人たちがやってくるときには好影響も悪影響もあるのです。「ヒト」の国際移動が増えればそのメリットもデメリットも同時に目立つようになるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「あまりにも 投資が巨額 になるなら 万一のとき 打撃大きく…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会の中で、「国家」と「国家」、誰かと誰かなどが「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そしてこれからの時代に「国家」というものの持つ意味や役割はいったいどうなっていくのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 今回もさらに空想上の荒唐無稽な話を続けることにしようと思います。もしも「宇宙人」が「ある国家」の領域内に莫大な投資をし、いくつもの「工場」などを建設し、多数の労働者を雇用し、そして「工業製品」などを大量生産してそのほぼすべてを自分たちの国などに「輸出」し続けているような場合には、「宇宙人」は「ある国家」を経済的に支配しているなどと考えることができるのでしょうか? 「宇宙人」が「ある国家」で多数の労働者を雇用しているということは、「ある国家」にも多大な経済的な利益を継続的に与え続けているわけです。そのことに注目するのならば、「宇宙人」が「ある国家」を経済的に支配しているなどとは必ずしも言えないと考えることになるのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「宇宙人」による「ある国家」に対する投資額があまりにも莫大で「ある国家」の経済の中でかなりの割合を占めることになるのならば、「宇宙人」による経済支配と同じような潜在的なリスクを抱えることになるということには注意が必要になります。もしも何らかの理由で「工業製品」などを「輸出」することができなくなったとしたら…。もしも何らかの理由で「工場」などが閉鎖されて労働者が大量に解雇されることになったとしたら…。「ある国家」の経済がかなり大きな打撃を受けることだけは確かなのです。繰り返しになりますが、グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会の中で、「国家」と「国家」、誰かと誰かなどが「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そしてこれからの時代に「国家」というものの持つ意味や役割はいったいどうなっていくのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『ある国家』 『モノ』の流れを 止めること すべてできない わけではないが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会の中で、「国家」と「国家」、誰かと誰かなどが「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そしてこれからの時代に「国家」というものの持つ意味や役割はいったいどうなっていくのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 今回もさらに空想上の荒唐無稽な話を続けることにします。もしも「宇宙人」が「ある国家」の領域内で「農地」を大規模に利用して「農産物」を大量生産してそのほぼすべてを自分たちの国などに「輸出」し続けているような場合には、「宇宙人」はある意味で「ある国家」を支配しているなどと考えることができるのでしょうか? たとえ「ある国家」が食糧不足に陥ったとしても「ある国家」からの「輸出」がそれでも続くとするのならば…。あくまでも空想上の荒唐無稽な話ではあるわけですが、「ある国家」の「農地」で生産した「農産物」などをほぼすべて自分たちの国に持ち去ってしまうなどということは、かつての植民地支配の時代などにはよくある話だったのです。その上で、さらに空想上の荒唐無稽な話を積み重ねるのならば、もしも「ある国家」が「農産物」の「輸出」を禁止する法律を制定したり「農産物」の「輸出」に非常に高い税金を課したり単純に「実力行使」をして止めたりするなどすれば、「宇宙人」は「ある国家」から自分たちの国などに「農産物」を「輸出」することは極めて難しくなるわけです。言い換えれば、もしも「宇宙人」が「ある国家」の領域内で「農地」を大規模に利用して「農産物」を大量生産してそのほぼすべてを自分たちの国などに「輸出」し続けたとしても、その種の「宇宙人」による「ある国家」の「支配」は少なくとも決して盤石なものではないのです。グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会においても、それぞれの「主権国家」は「モノ」の流れを止める手段や権限をすべて失ったというわけではないということには注意が必要になります。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「ほぼすべて 『不動産』など 所有して 経済支配 することできる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会の中で、「国家」と「国家」、誰かと誰かなどが「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そしてこれからの時代に「国家」というものの持つ意味や役割はいったいどうなっていくのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 あくまでも空想上の荒唐無稽な話ですが、もしも「宇宙人」が「ある国家」の領域内の「不動産」を購入し続けてその結果としてほぼすべての「不動産」の「所有権」が実質的に「宇宙人」にあるようになったのならば、「宇宙人」は「ある国家」を経済的に支配することができるのでしょうか? 確かにそのような場合には「ある国家」で生活するほとんどすべての人たちは「不動産」の実質的な所有者である「宇宙人」に対して「賃料」を支払わなければならなくなるわけです。そして「ある国家」で生活するほとんどすべての人たちは「不動産」の実質的な所有者である「宇宙人」が「賃料」を値上げしようとしたり「賃貸借契約」に様々な条件を付けようとしたりするたびに振り回されることになるのだろうと思います。そのようなことに注目するのならば、「宇宙人」が「ある国家」の領域内に存在するほぼすべての「不動産」の「所有権」を持っているような場合には、「ある国家」は少なくとも経済的には実質的に「宇宙人」に支配されているなどと考えることもできるのだろうと思います。その上で、あえて荒唐無稽な話の上に荒唐無稽な話を積み重ねるのならば、例えば、もしも「ある国家」で所有者本人が自分自身では利用していない「不動産」の所有を禁止する法律が制定・施行されたのならば、その瞬間から「ある国家」における「宇宙人」による実質的な経済支配は終わりを迎えることになるのだろうと思います。繰り返しになりますが、グローバリゼーションがますます進むこれからの国際社会の中で、「国家」と「国家」、誰かと誰かなどが「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そしてこれからの時代に「国家」というものの持つ意味や役割はいったいどうなっていくのでしょうか? きょうのところはそれらのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『不動産』 所有するとか 『経済』を 実質支配 すれば『侵略』?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? グローバリゼーションがますます進むこれからの時代に「国家」というものの持つ意味はいったいどうなっていくのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 今回も引き続き空想上の荒唐無稽な事例を用いて考えてみることにしようと思います。もしもあなたが自分の国で「宇宙人」と「共存」していかなければならないときに、あなたは「宇宙人」たちの行動をどこまで理解して寛容になることができるのでしょうか? もしも「ある特定の地域」で生活している「宇宙人」が増加しているのならば、あなたはどのように思うのでしょうか? さらに言えば、もしも「宇宙人」が「ある特定の地域の不動産」の大半を所有していたり、「ある特定の地域の経済」を実質的に支配していたりするような場合には、あなたはどう思うのでしょうか? あえて人類の歴史を振り返ってみなくても、その国の国民ではない人間たちがまるでその国(の特定の地域)を事実上支配しているかのような状況になればその国の国民の強い反発を招いて極めて危険な状態になる危険性が高くなるということには注意が必要になります。多少の誤解を覚悟の上であえて単純化して言い換えれば、その国の国民から「侵略」もしくは「事実上の侵略」と受け止められてしまう状況を絶対につくり出さないようにしなければ「宇宙人」などとその国の中で「共存」することは極めて難しくなるのです。繰り返しになりますが、ヒト、モノ、カネ、情報などの国際移動が活発になるグローバリゼーションがますます進むこれからの時代に「国家」というものの持つ意味はいったいどうなっていくのでしょうか? 改めて一度立ち止まって考えてみる必要があります。 ======================================= 「『国民』が 少数派でも その『国家』 安定的に 存続できる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? グローバリゼーションがますます進むこれからの時代に「国家」というものの持つ意味はいったいどうなっていくのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 今回も引き続き空想上の荒唐無稽な事例を用いて考えてみることにしようと思います。もしもあなたが自分の国で「宇宙人」と「共存」していかなければならないときに、あなたは「宇宙人」たちの行動をどこまで理解して寛容になることができるのでしょうか? もしも「ある特定の地域」で生活している「宇宙人」が増加しているのならば、あなたはどのように思うのでしょうか? さて、唐突に話は少しだけ変わります。そもそも「国家」とはどのようなものなのでしょうか? 例えば、その国の「国民」が少数派であるような「国家」は存在するのでしょうか? もしもその国の「国民」が少数派であるような「国家」が存在したとしてもそのような「国家」は不安定なものになるのではないかと想像することができます。もっともその「国家」でその国の「国民」が少数派になってしまったとしてもそれが短期間であるのならば、その「国家」は「国家」として存続することはできるのだろうと思います。あるいは、たとえ「国民」が少数派になったとしても「圧倒的な最大グループ」であり続けることができるのならば、その「国家」は「国家」として存続することは不可能ではないのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、「宇宙人」が「ある特定の地域」を選んでそこで集中的に生活するようになったようなときに、「宇宙人」が「ある特定の地域」である程度の長い期間に渡って「多数派」であり続けるような場合には、「ある特定の地域」は、その「国家」の中の「ある特定の地域」であるにもかかわらず、その「国家」ではなくなるような状況になってしまうということも全くあり得ない話ではなくなるのです。ある「国家」において「国民」が「多数派」や「圧倒的な最大グループ」であり続けることができるかどうかということは「国家」にとっては死活的に重要な問題なのではないかと思います。きょうのところはあえてこのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『宇宙人』 集中的に 『特定の 地域』を選び 生活すれば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? グローバリゼーションがますます進むこれからの時代に「国家」というものの持つ意味はいったいどうなっていくのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 今回もさらに空想上の荒唐無稽な事例を用いて考えてみることにしようと思います。もしもあなたが自分の国で「宇宙人」と「共存」していかなければならないときに、あなたは「宇宙人」たちの行動をどこまで理解して寛容になることができるのでしょうか? もしも「ある特定の地域」で生活している「宇宙人」が増加しているのならば、あなたはどのように思うのでしょうか? 特に気にならないのでしょうか? それともこのままでは「ある特定の地域」が「宇宙人」に乗っ取られてしまうなどと問題視するのでしょうか? おそらくあなたが今現在「ある特定の地域」で生活しているかそれともしていないかで感じ方はかなり違ってくるのではないかと思います。そしてもちろんあなたが「宇宙人」に対して好感を持っている場合と悪い感情や偏見のようなものを持っている場合とでは感じ方はかなり違ってくるのだろうと思います。あくまでも念のために付け加えるのならば、いくら「宇宙人」であっても、「侵略」の意図は全くなく、あなたとあなたの国の言語で意思疎通を図ることができるのならば、「共存」することは不可能ではないと思います。しかし、それでもやはり、「ある特定の地域」を選んで「宇宙人」がそこで集中的に生活するようになることは、たとえ法律的には許されないことではなかったとしても、少なくとも好ましいことではないと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「多数派が 国民以外に なったとき 『国家』の意味は どうなっていく?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? グローバリゼーションがますます進むこれからの時代に「国家」というものの持つ意味はいったいどうなっていくのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 今回も引き続き空想上の荒唐無稽な事例を用いて考えてみることにしようと思います。繰り返しになりますが、もしもあなたが自分の国で「宇宙人」と「共存」していかなければならないときに、あなたが「宇宙人」と「あなたの国の言語」以外の言語で意思疎通を図ることになるのならば、あなたの国の「文化」は大きく変化してしまう危険性が高くなるのです。そしてその場合には、あなたを含めたあなたの国の人たちが「宇宙人」と「共存」することによって自分たちの「文化」が大きく変化してしまう危険性が高いということをどのように受け止めることになるのかということも大きな問題になってくるのです。その上で、あえて付け加えるのならば、いくら「宇宙人」と「あなたの国の言語」で意思疎通を図ることができたとしても、あなたやあなたの国の人たちがあなたの国で「共存」しなければならない「宇宙人」の数があまりにも多くなった場合には、あなたを含めたあなたの国の人たちが「宇宙人」と「共存」することによって自分たちの「文化」が大きく変化してしまう危険性が高くなってしまうのです。例えば、あなたを含めたあなたの国の人たちよりもずっと多くの「宇宙人」があなたの国で「共存」するようになった場合には、あなたの国がまるで「宇宙人の国」になってしまったかのように感じるという人たちは少なくないのだろうと思います。そしてその場合にはそもそも国家というものがどのような意味を持っているのかということが問われることになると思います。グローバリゼーションがますます進むこれからの時代に「国家」というものの持つ意味はいったいどうなっていくのでしょうか? 例えば、その国の国民以外の人たちが多数派になった場合の「国家」の持つ意味はいったい何なのでしょうか? きょうのところはあえてこれらのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「実際に 『あなたの国の 言語』での 意思の疎通を 続けられれば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? グローバリゼーションがますます進むこれからの時代に「国家」というものの持つ意味はいったいどうなっていくのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 今回も引き続き空想上の荒唐無稽な事例を用いて考えてみることにしようと思います。もしもあなたが自分の国で「宇宙人」と「共存」していかなければならない場合、あなたが「宇宙人」と「あなたの国の言語」以外の言語で意思疎通を図ることになるのならば、あなたの国の「文化」は大きく変化してしまう危険性が高くなるのです。そしてその場合には、あなたを含めたあなたの国の人たちが「宇宙人」と「共存」することによって自分たちの「文化」が大きく変化してしまう危険性が高いということをどのように受け止めるのかということも大きな問題になってくるのです。そのように考えるのならば、あなたが自分の国で「宇宙人」と「共存」していかなければならない場合には、「宇宙人」とは「あなたの国の言語」で意思疎通を図ることができるのならばそれが望ましいということになるわけです。それでは、あなたの国であなたを含めたあなたの国の人たちと「共存」していく「宇宙人」に「あなたの国の言語」で意思疎通を図ることを義務付けるようなことはできるのでしょうか? あるいは、義務付けても義務付けなくても、実際にあなたの国では「宇宙人」を含めたほとんどの人たちが「あなたの国の言語」を使って意思疎通を図り続けることはできるのでしょうか? 何にしてももしもあなたの国であなたを含めたあなたの国の人たちと「共存」していく「宇宙人」が実際に「あなたの国の言語」で意思疎通を図ることになるのならば、あなたの国の「文化」の望まない形への変化を最小限に食いとどめることができるのではないかと考えられるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「変化する? 自分の国の 言語とは 別の言語に すれば『文化』も…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? グローバリゼーションがますます進むこれからの時代に「国家」というものの持つ意味はいったいどうなっていくのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 今回も引き続き空想上の荒唐無稽な事例を用いて考えてみることにしようと思います。もしもあなたが自分の国で「宇宙人」と「共存」していかなければならない場合には、実際にどの「言語」を使って「宇宙人」と意思疎通を図るのでしょうか? あなたは自分の国では「自分の国の言語」で「宇宙人」と意思疎通を図るのでしょうか? それともあなたは「宇宙人」とは「宇宙人の言語」で意思疎通を図るのでしょうか? あるいは、もしかするとなぜか「国際言語」である「英語」などで意思疎通を図るのでしょうか? 繰り返しになりますが、実は「言語」というものは「文化」とはかなり密接な関係にあるのです。多少の誤解を恐れずにあえて単純化するのならば、「言語」とは「文化」の大部分であると考えることもできるのです。そのように考えるのならば、もしもあなたがあなたの国で「宇宙人」と「あなたの国の言語」以外の言語で意思疎通を図ることになるのならば、あなたの国の「文化」は大きく変化してしまう危険性が高くなるのです。ですから、あなたを含めたあなたの国の人たちが「宇宙人」と「共存」することによって自分たちの「文化」が大きく変化してしまう危険性があるということをどのように受け止めるのかということも大きな問題になってくるのです。もちろん「変化」が絶対に避けることができないものであるのならば、「変化」を受け入れるしかないのでしょうが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「どの『言語』 使って意思の 疎通する? 『言語』と『文化』 密接だから…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? グローバリゼーションがますます進むこれからの時代に「国家」というものの持つ意味はいったいどうなっていくのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 あえて空想上の荒唐無稽な事例を用いて考えてみることにしようと思います。もしもあなたが自分の国で「宇宙人」と「共存」していかなければならないとしたらいったいどうするのでしょうか? 言うまでもなく「共存」のための大前提として「宇宙人」の側に「侵略」などの意思が全くないということを確認することが必要になります。もちろん「宇宙人」と十分に意思の疎通を図ることができるようにすることも必要になります。そして実際に「宇宙人」と意思疎通を図る場合にはどの「言語」を使って意思疎通を図るのかということが問題になるわけです。あなたは自分の国では「自分の国の言語」で「宇宙人」と意思疎通を図るのでしょうか? それともあなたは「宇宙人」とは「宇宙人の言語」で意思疎通を図るのでしょうか? あるいは、もしかするとなぜか「国際言語」である「英語」などで意思疎通を図るのでしょうか? あくまでも念のために付け加えておくのならば、実は「言語」というものは「文化」とはかなり密接な関係にあるのです。あなたが実際にどの「言語」を使って「宇宙人」と意思疎通を図るのかということがもしかするとあなたが想像している以上に大きな問題に発展するかもしれないということをあえて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「本当に 『正義』と『悪』は 入れ替わる ことはないのか? もしあるのなら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。現実の世の中には「白」か「黒」かを決めることができないようなものばかりがあふれているのです。現実の社会は単純で分かりやすい場所ばかりではないのです。それにもかかわらず、なぜ「白」や「黒」と決めつけることができるのでしょうか? 一度立ち止まって考えてみる必要があります。 「正義」というものはいつでもどんなときでも「正義」であり、「悪」はいつでもどんなときでも「悪」なのでしょうか? 例えば、最初は「正義」だったはずものが少しずつ「悪」になっていったり、逆に、「悪」だったはずのものが少しずつ「正義」に近づいていったりするようなことは本当にないのでしょうか? 例えば、最初は自分自身の生命身体を守るためにやむを得ず必要最小限の実力を行使したような場合であっても、相手と争っているうちに過剰な実力行使になっていくということもあるのだろうと思います。その場合には最初は「正義」だったはずのものが少しずつ「悪」に近づいていき、逆に最初は「悪」だったはずのものが少しずつ「正義」に近づいていくことになるのです。最悪の場合には「正義」と「悪」が入れ替わってしまう可能性もあるという意味でも「完全な正義」や「完全な悪」などというものは存在しないのではないかと考えています。もしそうであるのならば、決して分かりやすく単純にはできていない現実の社会においては、そう簡単には「正義」や「悪」と決めつけることはできないはずなのです。現実の世の中には「白」か「黒」かを決めることができないようなものばかりがあふれているのです。きょうのところは改めてそのことを強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「現実の 社会の中に 『悪魔』とか 『神』は存在 することできる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。現実の世の中には「白」か「黒」かを決めることができないようなものばかりがあふれているのです。現実の社会は単純で分かりやすい場所ばかりではないのです。それにもかかわらず、なぜ「白」や「黒」と決めつけることができるのでしょうか? 一度立ち止まって考えてみる必要があります。 あくまでも一般論ですが、現実の社会の中に「完全な悪人」や「完全な善人」は存在するのでしょうか? 現実の社会の中では、たとえまるで「悪魔」であるかのように極悪に見えるような人間であったとしてもよくよく探せば良い部分(→あるいは、悪くない部分)の1つぐらいは見つけることができるのではないかと思います。逆に、まるで「神」であるかのように見える善良な人であったとしても、しつこく探せば1つぐらいは悪い部分(→あるいは、良いとは言えない部分)を見つけ出すことができるのではないかと思います。あえて別の言い方をするのならば、「神」のような「完全な正義」や「悪魔」のような「完全な悪」などというものは「理論上」(→あるいは「宗教上」)はともかくとしても、現実の社会の中ではなかなか存在することができないのではないかと思います。犯罪を犯すような人間は「悪」であり、そうではない人たちは「善」であるなどと単純に考えることができるほど世の中は分かりやすくできてはいないのです。繰り返しになりますが、現実の世の中には「白」か「黒」かを決めることができないようなものばかりがあふれているのです。それにもかかわらず、なぜ「白」や「黒」と決めつけることができるのでしょうか? きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「完全な 『悪』や『正義』は 現実の 社会の中に 存在するか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。現実の世の中には「白」か「黒」かを決めることができないようなものばかりがあふれているのです。現実の社会は単純で分かりやすい場所ばかりではないのです。それにもかかわらず、なぜ「白」や「黒」と決めつけることができるのでしょうか? 一度立ち止まって考えてみる必要があります。 世の中では「戦争は悪」「戦争は絶対にしてはいけない」「正しい戦争なんて存在しない」などという主張を耳にすることがよくあります。しかし、本当に戦争は「悪」なのでしょうか? あえて言い換えれば、本当に戦争は「完全な悪」なのでしょうか? さらに言えば、「正しい戦争」「正義の戦争」などというものは本当に存在しないのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上で、あえて率直に言わせてもらうのならば、「正しい戦争」「正義の戦争」などというものは少なくとも「理論上」(→あるいは「空想上」)は存在し得るということには注意が必要になるのです。例えば、もしもあなたがナイフを持った何者かに襲われたときに、他に適切な手段がない場合には、自分自身で必要最小限度の実力を行使して自分自身の生命身体と財産を守るようなことは「正しい」「正義」と呼ぶことができるのではないかと思います。そのように考えるのならば、少なくとも「理論上」は「戦争」にも「正しい」「正義」などと呼ぶことができるものが存在し得るのではないかと思います。しかし、単純に「白」か「黒」かを決めることがなかなか難しい現実の社会においては「正義」が「完全な正義」という形で存在することは極めて難しいのではないかとも思います。繰り返しになりますが、現実の世の中には「白」か「黒」かを決めることができないようなものばかりがあふれているのです。現実の社会は単純で分かりやすい場所ばかりではないのです。それにもかかわらず、なぜ「白」や「黒」と決めつけることができるのでしょうか? もしも「完全な悪」や「完全な正義」などが現実に存在するのならば、世の中はさぞかし単純で分かりやすい場所になるのだろうとは思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『試験』など 『合格』すれば 『成功』か? もしそうならば 『衰退』するが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会のあちこちでは様々な「枠」をつくって様々な物事をそれらの「枠」にあてはめていく作業が繰り返されているようです。しかし、そもそもそれらの「枠」は本当に正しいものなのでしょうか? あえて言い換えれば、「枠」とは「正解」のことなのでしょうか? 一度立ち止まって考えてみる必要があります。 ある意味では「試験」や「オーディション」に「合格」するようなことも社会に存在する「枠」の1つなのだろうと思います。どこの社会でも何かの難しい「試験」や「オーディション」に「合格」したことによって何かの「成功」につながったということはよくある話ではないかと思います。しかし、その何かの難しい「試験」や「オーディション」に「合格」すればそれだけで本当に「成功」することができるのでしょうか? どんなに少なくとも「成功」するためには「合格」後も絶えず「努力」し続けることが必要不可欠のはずなのです。例えば、どこかの国で少し前までは主流だった「終身雇用」の大企業の入社試験に「合格」すれば、犯罪などを犯したり不祥事などを引き起こしたりしない限り、「定年」までの約30年間の雇用が保障されることになると考えることもできたのだろうと思います。しかし、入社後のその企業の中での「出世」までは約束されていなかったはずなのです。そして企業の中で「出世」するためには、入社後も絶えず「努力」し続けて様々な「競争」で「勝者」になっていかなければならないはずなのです。その一方で、確かに「科挙」などという大昔のいくつかの国の官僚の採用試験のようなものならば、「合格」しただけでその後の人生は劇的に変化することになったのだろうとは思います。しかし、いくら難しい「試験」に「合格」したとは言っても、長い人生の中で「合格」するまでのごく短期間しか努力をしない人間たちが組織の中に多くなれば、その組織はほぼ確実に「衰退」していくことになるのです。その上で、多少の誤解と批判を覚悟の上で、さらに言わせてもらうのならば、そもそも(一部の「試験」や)「オーディション」などのようなものは、「合格」することができた人たちと「不合格」だった人たちとの「差」を説得力のある形で合理的に説明することができないものがかなり多いのです。あえて別の言い方をすれば、「オーディション」での「合格」というものは、「合格」後の「成功」を約束したものではなく、「成功」するための「努力」をし続けるチャンスを与えてもらったようなものだと考えることができるのではないかと思います。繰り返しになりますが、そもそも「試験」や「オーディション」の「合格」などという「枠」は本当に「成功」を意味しているのでしょうか? 「試験」や「オーディション」に「合格」しさえすれば「能力」や「努力」などは必要ないのでしょうか? きょうのところは改めてそれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『イメージ』で 『なりたい自分』に なれるのか? 『能力』『努力』 関係ないか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会のあちこちでは様々な「枠」をつくって様々な物事をそれらの「枠」にあてはめていく作業が繰り返されているようです。しかし、そもそもそれらの「枠」は本当に正しいものなのでしょうか? あえて言い換えれば、「枠」とは「正解」のことなのでしょうか? 一度立ち止まって考えてみる必要があります。 おそらく社会の中でつくられている様々な「イメージ」のようなものもそうした「枠」の1つなのではないかと思います。例えば、「大人の女性」や「大人の男性」、「ミュージシャン」や「歌手」、「アーティスト」、「俳優」、「インフルエンサー」などなど…。世の中には、様々な「イメージ」を演出することによって、「なりたい自分」になることができると思い込んでいる人間たちが少なくないようなのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、いくら「大人の女性」や「大人の男性」と「お友達」になってもらって「仲良く」してもらっているかのように装うなどして「大人の女性」や「大人の男性」であるという「イメージ」を演出したとしても、どんなに少なくともそれだけでは「大人の女性」や「大人の男性」になることができるわけではないのです。またこれも当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、いくら「高い芸術性」や「高い歌唱力」や「高い演技力」などがあるかのような「イメージ」を演出したとしても、さすがに「能力」もなければ「努力」などもほとんどしないのならば、超一流の「ミュージシャン」や「歌手」、「アーティスト」、「俳優」などになることができるわけがないのです。さらに言えば、SNSなどで評判になったり「バズる」などしたりするだけで本当に「成功」することができるのでしょうか? 繰り返しになりますが、そもそも社会の中でつくられている様々な「イメージ」のような「枠」は本当に正しいものなのでしょうか? 「イメージ」を演出すれば本当に「なりたい自分」になることができるのでしょうか? 「イメージ」さえ演出することができれば「能力」や「努力」などは本当に必要ないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『依怙贔屓(えこひいき)』 すればするほど 『成功』は 遠ざかるのに なぜ気づかない?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会のあちこちでは様々な「枠」をつくって様々な物事をそれらの「枠」にあてはめていく作業が繰り返されているようです。しかし、そもそもそれらの「枠」は本当に正しいものなのでしょうか? あえて言い換えれば、「枠」とは「正解」のことなのでしょうか? 一度立ち止まって考えてみる必要があります。 あくまでも一般論ですが、何かの分野において「平等」な状態を実現するための手段として何かを「優遇」するようなことは必ずしも悪いことではないと思います。例えば、男女共同参画社会、様々な少数者との共生などの実現を目的として、「女性」や「男性」、あるいは「少数者」などを「優遇」するようなことは「選択肢」の1つにはなると思います。そうした目的で何かを「優遇」するための「枠」がつくられることはよくあることなのです。しかし、そうした何らかの「平等」を実現するための手段としての「優遇」は、絶対に「依怙贔屓(えこひいき)」であってはならないのです。多少の誤解を覚悟の上であえて単純化して言い換えるのならば、そうした何らかの「平等」を実現するための手段としての「優遇」は、もしも公正な競争が実現していたらほぼ確実に「勝者」になっていたとほとんどの人たちが想像することができる事例に限定するべきなのです。あえて付け加えるのならば、もしも公正な競争が実現していたのならば「勝者」になっていたとしても不思議ではない (→逆に言えば、「勝者」にはならなかった可能性もそれなりに高い)という程度の事例については、「依怙贔屓(えこひいき)」になってしまう危険性を可能な限り小さくするために、あえて「優遇」せずに切り捨てるべきなのです。公正な競争で「勝者」になっていても不思議ではなかったにもかかわらず「勝者」になることができなかったという人たちは「優遇」の対象にはなり得ない側の人たちの中にも数多く存在するはずなのです。あえて念のために付け加えておくのならば、「依怙贔屓(えこひいき)」というものはそれをすればするほど、実は本当の意味での「成功」からはどんどん遠ざかっていくものであるということになぜ気づかないのでしょうか? そもそも男女共同参画社会や様々な少数者との共生などの実現のために「優遇」する数などの「枠」を正しく設定するようなことは本当に可能なのでしょうか? きょうのところはあえてそれらのことについて問題提起をするだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『ほぼ50 %ずつ』 にできれば 男女平等 実現できる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会のあちこちでは様々な「枠」をつくって様々な物事をそれらの「枠」にあてはめていく作業が繰り返されているようです。しかし、そもそもそれらの「枠」は本当に正しいものなのでしょうか? あえて言い換えれば、「枠」とは「正解」のことなのでしょうか? 一度立ち止まって考えてみる必要があります。 「男女共同参画社会」などを掲げている「どこかの国」では、多くの分野で男性と女性の構成比に大きな偏りがあることが問題になっています。例えば、(課長相当職以上の)管理職の女性比率は約13%、国会議員の女性比率は10-30%などと…。いわゆる「男女平等」などという「枠」を大きく逸脱していることだけは確かなのです。そして「男女平等」などの観点からは管理職や国会議員などの女性比率を50%にすることが1つの「目標」になるのだろうと思います。「どこかの国」が「男女共同参画社会」「男女平等」であるのならば男女の比率が「ほぼ50%ずつ」になるなどと考えるのはそれほど不思議なことではないのだろうと思います。しかし、そもそも男女比率が「ほぼ50%ずつ」になれば本当に「男女共同参画社会」「男女平等」を実現したということを意味しているのでしょうか? 例えば、もしも女性はその90%以上が大卒・大学院修了などであるが、男性はほぼ100%が高卒以下という「社会」があったとしたら、ほとんどの分野で男女の比率を「ほぼ50%ずつ」にすることが本当に「男女共同参画社会」「男女平等」なのでしょうか? たとえ男女比率を「ほぼ50%ずつ」にすることができたとしても、必ずしも「男女共同参画社会」「男女平等」を実現することができたということにはならないということには注意が必要になるのです。その上で、あくまでも念のために確認しておくのならば、今現在の社会においては、ごく一部の例外的な分野を除外すれば、男性もしくは女性でなければ非常に不利などという職業分野は存在しないのではないかと思います。あえて言い換えれば、今現在の社会においては、もしもすべての人たちが公正な条件で競争をしたのならば、男性であっても女性であっても能力がありさえすれば「勝者」になることができる分野がかなり多くなっているのではないかと思います。そのように考えるのならば、男女比率を「ほぼ50%ずつ」にすることを目指すよりも、どのようにしたら公正な競争を実現することができるのかということの方を真剣に考えるべきなのではないかと思います。そもそも男女比率は「ほぼ50%ずつ」という「枠」は本当に正しいのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにしておきます。 ======================================= 「帰る場所 ない人たちも 追い返す? 大勢逃れて きた場合には…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 虚実ないまぜの情報に触れるたびに改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要性を実感します。 今回もさらに空想上の荒唐無稽な話を続けることにします。もしもあなたが自分の国で「宇宙人」と「共存」していかなければならないとしたらいったいどうするのでしょうか? 例えば、「宇宙人」が内戦などの続く場所からあなたの国に「難民」として逃れてきたり何らかの事情で「亡命」を求めたりしてきたとします。そしてもしも「宇宙人」に「侵略」などの意思が全くないということを確認することができたのならば、とりあえずその「宇宙人」を一時的に受け入れることにはなるのだろうと思います。しかし、「難民」などとしてあなたの国に逃れてくる「宇宙人」の数があまりにも多くなった場合にはあなたの国にとってはかなり深刻な問題になると思います。実際にあなたの国に逃れてきた大勢の「宇宙人」の日々の生活はどうするのでしょうか? そのことを考えている間にもさらに大勢の「宇宙人」があなたの国に逃れてくる可能性が十分にあるわけです。結局のところは「宇宙人」が生活している場所が「安心して生活することができる場所」にならない限り、大勢の「宇宙人」が逃れてくる状況は続くのだろうと思います。もしかするとどこかの誰かが「宇宙人」が生活している場所を「安心して生活することができる場所」にすることができるのでしょうか? まさか逃れてきた「宇宙人」を追い返すつもりなのでしょうか? 「宇宙人」には「帰ることができる場所」がないはずなのです。あくまでも念のために付け加えておくのならば、「宇宙人」は人間かどうか定かではありませんが、「外国人」は間違いなく人間なのです。きょうのところはあえて問題を提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『共存』が できなくなったら どうするか? 帰れる場所が あるのかどうか…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 虚実ないまぜの情報に触れるたびに改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要性を実感します。 今回も空想上の荒唐無稽な話を続けることにします。もしもあなたが自分の国で「宇宙人」と「共存」していかなければならないとしたらいったいどうするのでしょうか? たとえ「宇宙人」に「侵略」などの意思が全くないということを確認することができて、そして実際に「宇宙人」と「共存」していくことも不可能な話ではないと多くの人たちが思うことができたとしても、それですべての問題を解決することができたということにはならないのです。さらに言えば、実際に「宇宙人」と「共存」を始めてみると新しい問題が次から次に浮上してくる可能性が高くなるのです。例えば、もしも「宇宙人」がその国の「言語」を十分に使いこなすことができて、その国の中のどこかの分野で「即戦力」として活躍して報酬を得ることができるだけの十分な能力があったとしても、今現在働いているその国の人たちから職を奪うような危険性が高くなるのならば、「共存」していくのはなかなか難しいと思います。さらに言えば、もしも「宇宙人」がその国の中のどこかの分野でその国の人たちから職を奪うことなく「即戦力」として活躍して報酬を得ることができたとしても、時間が経過して社会が変化すればその分野で十分な報酬を得ることができなくなる可能性は十分に考えられるのです。あえて言い換えれば、「宇宙人」とその国の人たちが「共存」していくための前提条件が崩れたということを意味することになるのです。「宇宙人」とその国の人たちが「共存」していくための前提条件が崩れたときにはいったいどうするつもりなのでしょうか? 「宇宙人」にその国から出て行ってもらうことになるのでしょうか? 繰り返しになりますが、誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 「宇宙人」に「安心して帰ることができる場所」があればいいのですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「その国で 日々の生活 どうするか? 社会は変化 し続けていく」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 虚実ないまぜの情報に触れるたびに改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要性を実感します。 さらに空想上の荒唐無稽な話を続けることにします。もしもあなたが自分の国で「宇宙人」と「共存」していかなければならないとしたらいったいどうするのでしょうか? たとえ「宇宙人」に「侵略」などの意思が全くないということを確認することができて、そして実際に「宇宙人」と「共存」していくことも不可能な話ではないと多くの人たちが思うことができたとしても、それですべての問題を解決することができたということにはならないのです。さらに言えば、実際に「宇宙人」と「共存」を始めてみると新しい問題が次から次に浮上してくる可能性が高くなるのです。例えば、「宇宙人」はその国でいったいどうやって生活していくつもりなのでしょうか? もしも「宇宙人」がしばらくは日々の生活に困ることがないだけの莫大な財産を持っているのならば、ひとまず大きな問題はなくなるのだろうと思います。しかし、おそらくすべての「宇宙人」が莫大な財産を持っているというわけではないのだろうと思います。そうであるのならば、「宇宙人」がその国の中のどこかの分野で「即戦力」として活躍して報酬を得ることができるだけの十分な能力がなければ、その国の中でその国の人たちと「共存」していくことは難しいのだろうと思われます。そして、たとえ「宇宙人」がその国の「言語」を十分に使いこなすことができて、その国の中のどこかの分野で「即戦力」として活躍して報酬を得ることができるだけの能力があったとしても、社会というものは時間が経過すれば変化していくものであるということには注意が必要になるのです。繰り返しになりますが、誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 何にしても実際に「共存」を始めてみると新しい問題が次から次に浮上してくる可能性が高くなるということにも注意が必要になります。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『排他的 宇宙人街』 できるなら 『共存』でなく 『侵略』になる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 虚実ないまぜの情報に触れるたびに改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要性を実感します。 今回もあえて空想上の荒唐無稽な話を続けます。もしもあなたが「宇宙人」との「共存」を本気で考えなければならないとしたらいったいどうするのでしょうか? まずは「宇宙人」に「共存」の意思があるのかどうかを確かめることが必要になってくるのだろうと思います。それでは「宇宙人」の意思をどのように確かめたらいいのでしょうか? もしも「宇宙人」と「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」ではなく「言葉」「言語」で意思疎通を図ることができるのならば「大きな障害」の一つを乗り越えることはできるのだろうと思います。しかし、いくら「言葉」「言語」で意思疎通を図ることができたとしても、なかなか分かり合うことができない部分もあるはずなのです。そのことは同じ「言語」を母語とする同じ国の国民同士でもよくあることなのです。しかし、例えば、過去に実際に「言葉」「言語」を使って意思疎通を図って「共存」しようと試みた「経験」は、次回の「共存」の試みの際にはその「経験」が「共存」を試みて大きな失敗をしなかったという「前例」や「実績」となることだけは確かなのです。その上で、あえて付け加えるのならば、過去に実際に「言葉」「言語」を使って意思疎通を図って「共存」しようと試みた「実績」がある種の「経験」や「実績」によって完全に崩壊しまうこともあるということには注意が必要になります。例えば、ある国の内部に「排他的な宇宙人街」などがなぜかできてしまったような場合には、ある国には「宇宙人」とは「共存」することができないと考える人たちが増える危険性が非常に高くなります。もしも「排他的な宇宙人街」などが、ある国の国内に存在しているのにもかかわらず、そこでは「宇宙人」の方がある国の国民よりもずっと多く生活していて、「宇宙人」の「言語」が盛んに飛び交ってはいても、ある国の「言語」はほとんど通じず、ある国の文化や慣習とは大きく異なる「宇宙人」の文化や慣習ばかりが目に付くような場所になっているのならば、ある国の国民の中に「宇宙人」に本当に「共存」する意思があるのかどうか疑ってしまうという人たちが増えても不思議ではなくなってしまうのです。あえて言い換えるのならば、ある国の中の「排他的な宇宙人街」は「宇宙人による侵略」の「動かぬ証拠」として受け止められてしまう危険性が極めて高くなってしまうのです。繰り返しになりますが、誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 「共存」のためには互いに「言葉」「言語」を使って実際に意思疎通を図ろうと試みる「実績」を崩壊させてしまう種類の「経験」や「実績」にはよくよく注意をする必要があるのです。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「実際に 『言語』を使い 『共存』を 図る『経験』 『実績』になる」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 虚実ないまぜの情報に触れるたびに改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要性を実感します。 今回もあえて空想上の荒唐無稽な話を続けます。もしもあなたが「宇宙人」との「共存」を本気で考えなければならないとしたらいったいどうするのでしょうか? まずは「宇宙人」に「共存」の意思があるのかどうかを確かめることが必要になってくるのだろうと思います。それでは「宇宙人」の意思をどのように確かめたらいいのでしょうか? もしも「宇宙人」と「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」ではなく「言葉」「言語」で意思疎通を図ることができるのならば「大きな障害」の一つを乗り越えることはできるのだろうと思います。しかし、いくら「言葉」「言語」で意思疎通を図ることができたとしても、なかなか分かり合うことができない部分もあるはずなのです。そのことは同じ「言語」を母語とする同じ国の国民同士でもよくあることなのです。それでは、「言葉」「言語」で意思疎通を図ってもなかなか分かり合うことができない部分が残ってしまうという状況をなんとか乗り越えて、「言葉」「言語」で意思疎通を図ることができる「宇宙人」と「共存」していくためにはいったい何が必要になってくるのでしょうか? もちろん「正解」が存在するかどうか分かりませんし、仮に存在する場合であっても「正解」は1つではないのかもしれないと思います。その上で、あえて言えば、「宇宙人」と「共存」していくために「言葉」「言語」を使って意思疎通を図ろうとする「経験」を積み重ねていくことが必要になってくるのではないかと思います。あくまでも一般論ですが、過去に実際に「言葉」「言語」を使って意思疎通を図って「共存」しようと試みた「経験」は、たとえ100%の成功とは言えなかったとしても、どんなに少なくとも次回の「共存」の試みの際にはその「経験」が「共存」を試みて大きな失敗をしなかったという「前例」や「実績」となることだけは確かなのです。その上で、多少の誤解と批判を覚悟の上であえて言わせてもらうのならば、「宇宙人」よりも「外国人」と「共存」することの方が成功する可能性が高いことだけは確かなのだろうと思います。繰り返しになりますが、誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 「共存」のためには互いに「言葉」「言語」を使って実際に意思疎通を図ろうと試みる「経験」も重要になってくるのです。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「不信感 警戒感を 避けるため 『言語』を使い 意思の疎通を!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 虚実ないまぜの情報に触れるたびに改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要性を実感します。 引き続き空想上の荒唐無稽な話を続けます。もしもあなたが「宇宙人」との「共存」を本気で考えなければならないとしたらいったいどうするのでしょうか? 例えば、「宇宙人」があなたの生命や財産などを奪おうとして攻撃してくるような場合には「共存」することは不可能であると思われます。「宇宙人」があなたを攻撃してくる意思がないとどのように確かめるのでしょうか? もちろん言葉が全く通じない状態であっても「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」によって「宇宙人」と意思の疎通をしようと試みることもできるのだろうと思います。しかし、「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」では互いの意思を正確かつ詳細に伝達することが極めて難しいからこそ「言葉」「言語」が必要になってくるのです。言うまでもなく「宇宙人」と「言葉」「言語」を使って意思疎通を図るなどというのはあまりにも荒唐無稽な話です。しかし、多少の誤解と批判を覚悟の上で、あえて「宇宙人」を「外国人」に置き換えてみるのならば、「言葉」「言語」を使って意思疎通を図ることの重要性を理解することができるのではないかと思います。あくまでも一般論ですが、「外国人」が当たり前だと思って何気なくしている行動がある国では不審な行動や迷惑な行動になるということも少なくないのです。もしも「言葉」「言語」を使って十分に意思疎通を図ることができないのならば、「外国人」の不審な行動や迷惑な行動は必要以上に不信感や警戒感などを増大させることもあるのです。そのように考えるのならば、たとえ合法的に入国して合法的に滞在している「外国人」であったとしても、もしも「言葉」「言語」を使って十分に意思疎通を図ることができないような場合には「密入国」や「不法滞在」などを含めてあらぬことを疑われる危険性が高くなってしまうのです。繰り返しになりますが、誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 「共存」のためには互いに「言葉」「言語」を使って十分に意思疎通を図ることが非常に重要なのです。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「お互いに 『ジェスチャー』などで 伝えるの 難しいから 『言語』を使う!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 虚実ないまぜの情報に触れるたびに改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要性を実感します。 あくまでも空想上の荒唐無稽な話にすぎないのですが、もしもあなたが「宇宙人」との「共存」を本気で考えなければならないとしたらいったいどうするのでしょうか? 例えば、「宇宙人」があなたの生命や財産などを奪おうとして攻撃してくるような場合には「共存」することは不可能であると思われます。しかし、たとえ今は「宇宙人」の方から攻撃してくるような兆候は見られなかったとしても、こちらが隙を見せたときに「宇宙人」がどうするのか全く予想することができない場合にはどうするのでしょうか? 言い換えれば、「宇宙人」があなたを攻撃してくる意思がないとどのように確かめるのでしょうか? もちろん言葉が全く通じない状態でも「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」によって「宇宙人」と意思の疎通をしようと試みることもできるのだろうと思います。しかし、言うまでもなく「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」では互いの意思を正確かつ詳細に伝え合うことは極めて難しいのです。あえて確認しておくのならば、「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」では互いの意思を正確かつ詳細に伝達することが極めて難しいからこそ「言葉」「言語」が必要になるわけです。繰り返しになりますが、誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「民主主義 『多数』によって 『独裁』や 『専制主義』に 変わってしまう?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? そもそも「力」とは何なのでしょうか? もしかすると民主主義社会での「正しい」とは「多数」のことを意味しているのでしょうか? もしそうであるのならば、民主主義社会での「多数」は「力」と「正しさ」を併せ持ったものになるのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 繰り返しになりますが、なぜ民主主義社会では例外なくすべてのことを「多数決」で決めることができないのでしょうか? もちろん「正解」は1つだけではないと思います。しかし、あえて単純化した上で率直に言わせてもらうのならば、もしも「多数決」によって既に存在している「事実」をなかったことにしたり新たにつくり出したりすることができるのならば、「多数」があれば何でもできることになってしまうからなのです。別の言い方をすれば、もしも「多数決」で例外なくすべてのことを決めることができるのならば、もはやその社会は民主主義社会ではなくなってしまうからなのです。あくまでも空想上の話ですが、もしも「多数決」で例外なくすべてのことを決めることができるのならば、選挙で生み出された「多数派」が「多数決」によって「少数派」の人たちを次々と「有罪」にした上で「基本的人権」を剥奪していくようなことも不可能ではなくなってしまうことになります。あえて言い換えるのならば、もしも「多数決」で例外なくすべてのことを決めることができるようにしてしまったら、民主主義という制度は、あっと言う間に民主主義国家を民主主義とは相容れない「独裁国家」や「専制主義国家」に変化させてしまうという「致命的に重大な欠陥」を放置したままの状態になってしまうのです。その上で、あくまでも念のために付け加えるのならば、最近の国際社会ではこのような民主主義の「致命的に重大な欠陥」に改めて注目が集まりそうな事例が増えているように思われます。くどいようですが、確かに民主主義国家の選挙で有権者の「多数」の支持を集めた場合には大きな「力」を持つことになります。しかし、民主主義国家の選挙で有権者の「多数」の支持を集めた場合には本当に「正しい」ということになるのでしょうか? 大昔に修正したはずの民主主義の「致命的に重大な欠陥」はその必要があるのならば何度でも修正する必要があるはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『多数』でも なぜ決めること できないか? 『多数』になれば 何でもできる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? そもそも「力」とは何なのでしょうか? もしかすると民主主義社会での「正しい」とは「多数」のことを意味しているのでしょうか? もしそうであるのならば、民主主義社会での「多数」は「力」と「正しさ」を併せ持ったものになるのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 繰り返しになりますが、民主主義というものは基本的には物事を最終的に「多数決」で決めていくしくみですが、すべてのことを例外なく「多数決」で決めることができるというわけではないのです。例えば、ある人を何かの罪で有罪にするかどうかということを「多数決」だけで決めることはできないのです。ある人を何かの罪で有罪にするかどうかを決めるのは「法律」と「証拠」です。さらに言えば、誰かから精神や身体の自由などのような「基本的人権」を奪い取るようなことは「多数決」でも「法律」でもできないのです。それではなぜ民主主義社会では例外なくすべてのことを「多数決」で決めることができないのでしょうか? もちろん「正解」は1つだけではないと思います。しかし、その上で、あえて「多数決」の持っている重要な性質の1つに注目することにするのならば、「多数決」というものは既に存在している「事実」をなかったことにすることができたり、新たな「事実」をつくり出したりすることはできないからではないかと思います。逆の言い方をすれば、もしも「多数決」が既に存在している「事実」をなかったことにしたり新たにつくり出したりすることができるのならば、「多数決」は民主主義とは相容れないような「暴力的な装置」になってしまうのです。言い換えれば、「多数」があれば何でもできることになってしまうことになってしまうのです。繰り返しになりますが、確かに民主主義国家の選挙で有権者の「多数」の支持を集めた場合には大きな「力」を持つことになります。しかし、民主主義国家の選挙で有権者の「多数」の支持を集めた場合には本当に「正しい」ということになるのでしょうか? きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『多数』では 決めらないこと 多くある! 『多数』があれば 『有罪』になる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? そもそも「力」とは何なのでしょうか? もしかすると民主主義社会での「正しい」とは「多数」のことを意味しているのでしょうか? もしそうであるのならば、民主主義社会での「多数」は「力」と「正しさ」を併せ持ったものになるのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 確かに民主主義というものは基本的には物事を最終的に「多数決」で決めていくしくみです。しかし、言うまでもなく、民主主義社会では、すべてのことを例外なく「多数決」で決めることができるというわけではないのです。「多数決」では決めることができないものは多いのです。例えば、ある人を何かの罪で有罪にするかどうかということを「多数決」だけで決めることはできないのです。ある人を何かの罪で有罪にするかどうかを決めるのは「法律」と「証拠」です。さらに言えば、ある人の精神や身体の自由などのような「基本的人権」についても「多数決」によって奪い取ることはできないのです。あえて言い換えるのならば、誰かから「基本的人権」を奪い取るようなことは「多数決」でも「法律」でもできないのです。確かに民主主義国家の選挙で有権者の「多数」の支持を集めた場合には大きな「力」を持つことになります。しかし、民主主義国家の選挙で有権者の「多数」の支持を集めた場合には本当に「正しい」ということになるのでしょうか? 「多数」が「正しい」ことを意味していたとしても、そうではなかったとしも、それでもやはり、民主主義社会では例外なくすべてのことを「多数決」で決めることができるというわけではないということだけは少しも変わらないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「襲われる 心配のない 状況を 何をどうして 実現するか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも社会では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 この何日かは「誰か」が「強盗」などに襲われた状況をあえて仮定した上で様々なことを考えてきました。しかし、もしもどこかの社会の中で「強盗」などに襲われる心配のない状況を実現することができるのならば、ずいぶんと話は違ってくるはずなのです。どこかの社会の中で「強盗」などに襲われる心配のない状況を実現するためには何をどうしたらいいのでしょうか? あくまでも一般論ですが、もしも腐敗や不正がなくて信頼ができる上に高い能力を併せ持った「警察」組織などが存在するのならば、「強盗」などの「犯罪」を犯した人間たちはすぐに逮捕されることになるのだろうと思います。そしてもしも「強盗」などの「犯罪」を犯した人間たちがすぐに逮捕されるような状況が長く続いて当たり前の状況になるのならば、やがて安易に「強盗」などの「犯罪」を犯そうと考える人間たちの数が激減することになるのだろうと思います。そしてもしもどこかの社会では子供の頃から「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をしてはいけないなどと何度も何度も繰り返し言われ続けていたとしたら、その社会では「強盗」などの「犯罪」を犯そうと考える人間たちはさらに激減することになるのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、地球上には、腐敗や不正がなくて信頼ができる上に高い能力を併せ持った「警察」組織などが存在する場所もあれば、そもそも「警察」などが存在しないような場所もあるわけです。さらに言えば、国際社会には国家などを取り締まることができる「警察のようなもの」は存在しないのです。繰り返しになりますが、社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも社会では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「襲われて 反撃したら どうなるか? 反撃しても 結果は同じ?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも社会では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 繰り返しになりますが、もしも「誰か」が「強盗」などに襲われたときに、その「強盗」に対して「そんな間違ったこと、悪いことをしてはいけない。真面目にこつこつ努力しながら生活していればそのうちきっと良いことがある」などと正しいことを切々と説いたのならば、「強盗」は「間違ったこと」「悪いこと」をすぐにやめるのでしょうか? それでも辞めない場合には「強盗」に反撃するという「選択肢」ももちろんあり得るわけです。しかし、「強盗」に襲われた側が非常に腕っぷしの強い「強者」で「強盗」を取り押さえることができるような場合には、取り押さえた後に「説得」をするなどということもあり得ない話ではないと思います。しかし、ごく普通の多くの人たちは、たとえ「強盗」に反撃したとしても結果は同じかもしれないのです。あるいは、もしかすると反撃したことによって「強盗」以上のさらに深刻な被害を受けることになるかもしれないのです。そのように考えるのならば、ごく普通の多くの人たちは、「強盗」などに襲われた場合には、逃げたり、多少の抵抗をしたりすることはできるのかもしれませんが、反撃することはなかなか難しいのだろうと思います。やはり残念ながら現実の社会では「力」の強い者の主張が正しくなってしまうのでしょうか? 正しいことを主張しても結局は「力」によってねじ伏せられてしまうのでしょうか? さて、ここであえて少しだけ話は変わります。もしも「強盗」を「戦争」に置き換えてみたとしたら「結論」は変わるのでしょうか? もしも子供の頃から「戦争」のような「間違ったこと」「悪いこと」をしてはいけないなどと何度も何度も繰り返し言われ続けていたとしたら、「戦争」のような「間違ったこと」「悪いこと」をするような人たちは(ほとんど)出てこないのでしょうか? あるいは、もしも「戦争」のような「間違ったこと」「悪いこと」をしようとしていても、「説得」に応じて「間違ったこと」「悪いこと」をするのを思いとどまるようになるのでしょうか? きょうのところはあえてそれらのことを指摘した上で問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「襲われて 助けも来ない 状況で 正しいことを 実現できる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも社会では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 繰り返しになりますが、もしも「誰か」が「強盗」などに襲われたときに、その「強盗」に対して「そんな間違ったこと、悪いことをしてはいけない。真面目にこつこつ努力しながら生活していればそのうちきっと良いことがある」などと正しいことを切々と説いたのならば、「強盗」は「間違ったこと」「悪いこと」をすぐにやめるのでしょうか? もちろん「強盗」に襲われた側が非常に腕っぷしの強い「強者」で「強盗」を取り押さえた後に「説得」するなどということもあり得ない話ではないと思います。しかし、ごく普通の人たちにとっては、「強盗」などに襲われて誰かが助けに来てくれるわけでもないのに「強盗」の「説得」を試みるようなことはとてもできないのではないかと思います。やはり現実の社会では「力」の強い者の主張が正しくなってしまうのでしょうか? あえて言い換えれば、「正しいこと」を主張して実現していくためには強くならなければならないのでしょうか? 残念ながら現実の社会では「正しい」ことを主張しているだけでは「力」が強くなるようなことはないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「襲われて 正しいことを 説いたなら 間違ったこと すぐにやめるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも社会では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 あくまでも一般論ですが、もしも「誰か」が「強盗」などに襲われたときに、その「強盗」に対して「そんな間違ったこと、悪いことをしてはいけない。真面目にこつこつ努力しながら生活していればそのうちきっと良いことがある」などと正しいことを切々と説いたのならば、「強盗」は「間違ったこと」「悪いこと」をすぐにやめるのでしょうか? もちろん「説得」に応じて「間違ったこと」「悪いこと」をするのを思いとどまる「強盗」がただの一人もいないとは限らないと思います。しかし、やはり、実際に「強盗」に出会ったときには「説得」が全く通用しないことの方が多いのではないかと思います。さらに言えば、もしも子供の頃から「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をしてはいけないなどと何度も何度も繰り返し言われ続けていたとしたら、「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をするような人たちは(ほとんど)出てこないのでしょうか? あるいは、もしも「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をしようとしていても、「説得」に応じて「間違ったこと」「悪いこと」をするのを思いとどまるようになるのでしょうか? 率直に言わせてもらうのならば、「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をするような人間たちの多くは、「強盗」のようなことが「間違ったこと」「悪いこと」であるということぐらいは十分に理解しているのではないかと思います。残念ながら現実の社会では「正しい」ことを主張する者は「無力」であるということも少なくないのです。さらに言えば、もしも「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をするような人間たちが「強盗」のようなことが「間違ったこと」「悪いこと」であるということぐらいは十分に理解しているという現実を真正面から見据えることができないのならば、「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をなくすことも減らすこともできないと思います。きょうのところはあえてこのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「自らも 『軍事大国』 になるのか? 『同盟』結ぶ? 『軍拡』進む!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも世の中では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? また「力」とは何なのでしょうか? 最近は改めてそれらのことについて考え直してみる必要性を感じさせられる事例が増えています。 何度も繰り返していますが、最近は「隣国」に侵略戦争を仕掛けて領土を奪い取って自分たちの支配地域を拡大するような「軍事大国」がいくつか存在します。そしてこれも繰り返しになりますが、残念ながら今現在の国際社会でも、「軍事大国ではない国」が「軍事大国」に「力」によって領土を奪われた場合には、奪い取られた領土を「力」によって奪い返すこともできなければ、事実上、平和的な手段によって取り戻すこともできないというのが「偽らざる現実」なのです。言い換えれば、今現在の国際社会も「弱肉強食の世界」のままなのです。そしてもしも今現在の国際社会も「弱肉強食の世界」であるのならば、「軍事大国」に「力」によって侵略されないためには自分たちも「軍事大国」になるしかないと考える国は少なくないのだろうと思います。あるいは、同じ「軍事大国」による脅威に直面している他国と「同盟」を結んでその脅威に対抗しようとする国も少なくはないと思います。その上で、「軍事大国」に対抗して自分たちも「軍事大国」になろうとする場合であっても、同じ「軍事大国」による脅威に直面している他国と「同盟」を結んで対抗しようとする場合であっても、国際社会では「軍備拡張(軍拡)」が進んで「戦争発生のリスク」と戦争が発生した場合の「被害拡大のリスク」が共に高まってしまうということには注意が必要になります。念のために付け加えることにするのならば、「軍備拡張(軍拡)」が進み続ける国際社会は「国際連合が理想とする国際社会」とはかけ離れていることだけは確かなのです。繰り返しになりますが、結局のところは、今現在の国際社会でも「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? 「正しい」とは「力」が強いということなのでしょうか? 「国際連合の理想」は正しくないのでしょうか? 「国際連合の理想」は「力」にはならないのでしょうか? きょうのことろはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「安保理の 『常任理事国』 の場合は 何をやっても 許されるのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも世の中では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? また「力」とは何なのでしょうか? 最近は改めてそれらのことについて考え直してみる必要性を感じさせられる事例が増えています。 繰り返しになりますが、最近は「隣国」に侵略戦争を仕掛けて領土を奪い取って自分たちの支配地域を拡大するような「軍事大国」がいくつか存在します。そしてこれも繰り返しになりますが、残念ながら今現在の国際社会でも、「軍事大国ではない国」が「軍事大国」に「力」によって領土を奪われた場合には、奪い取られた領土を「力」によって奪い返すこともできなければ、事実上、平和的な手段によって取り戻すこともできないというのが「偽らざる現実」なのです。言い換えれば、今現在の国際社会も「弱肉強食の世界」のままなのです。さて、話は少し変わります。今現在の国際社会では「大規模な軍事パレード」などを好んで行う「軍事大国」がいくつか存在します。例えば、「大規模な軍事パレード」などで核兵器搭載可能な大陸間弾道ミサイルなどをこれみよがしに披露するようなことは国際連合憲章などの「武力による威嚇」に本当に当たらないという理解でいいのでしょうか? またそもそも「大規模な軍事パレード」などを好んで行うようなことは「武力による威嚇もしくは武力の行使」を禁じて「紛争の平和的な解決」を掲げる国際連合の加盟国、ましてその安全保障理事会の常任理事国としてふさわしい行動なのでしょうか? 「軍事大国」が「大規模な軍事パレード」などを好んで行うことの持つ意味について一歩踏み込んだ考察が必要になります。さらに言えば、国際連合の加盟国、ましてその安全保障理事会の常任理事国が国際連合憲章などに違反する平和の破壊や侵略行為などを繰り返すことが許されるのでしょうか? また国際連合の安全保障理事会の常任理事国が国際連合憲章などに違反する平和の破壊や侵略行為などを繰り返す国に対して様々な形で支援をするようなことが許されるのでしょうか? 国際連合の安全保障理事会の常任理事国は何をやっても許されてしまうのでしょうか? 繰り返しになりますが、結局のところは、今現在の国際社会でも「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? 「正しい」とは「力」が強いということなのでしょうか? きょうもあえてそれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「もしも今 『軍事大国』 より強い 『巨人』『怪物』 存在したら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも世の中では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? また「力」とは何なのでしょうか? 最近は改めてそれらのことについて考え直してみる必要性を感じさせられる事例が増えています。 繰り返しになりますが、最近は「隣国」に侵略戦争を仕掛けて領土を奪い取って自分たちの支配地域を拡大するような「軍事大国」がいくつか存在します。残念ながら今現在の国際社会でも、「軍事大国ではない国」が「軍事大国」に「力」によって領土を奪われた場合には、奪い取られた領土を「力」によって奪い返すこともできなければ、事実上、平和的な手段によって取り戻すこともできないというのが「偽らざる現実」なのです。言い換えれば、今現在の国際社会も「弱肉強食の世界」のままなのです。結局のところは、今現在の国際社会でも「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? 「正しい」とは「力」が強いということなのでしょうか? もしもこの「偽らざる現実」を真正面から見据えることができないのならば、地球上から「戦争」をなくすることなどできるわけがないのです。さて、ここで話は変わります。あくまでも現時点においてはただの空想上の話ですが、もしも国際社会の中に「『軍事大国』よりもはるかに強い『巨人』や『怪物』のようなもの」が存在するのならば、「軍事大国」から奪い取った領土を「力」づくで取り上げて、「隣国」に返してやるようなことも不可能ではなくなるのだろうと想像しています。そしてもしも国際社会の中に「『軍事大国』よりもはるかに強い『巨人』や『怪物』のようなもの」が存在して睨みを利かせているのならば、そもそも侵略戦争のようなものは発生しなくなる可能性も高くなるのではないかと想像しています。もっとも今現在の国際連合をさらに長い時間をかけて育てていけば、「『軍事大国』よりもはるかに強い『巨人』や『怪物』のようなもの」に成長するのか、それとも今現在の国際連合とは全く別の何かを新しくつくり出すところから始めなければ国際社会の中に「『軍事大国』よりもはるかに強い『巨人』や『怪物』のようなもの」を誕生させることができないのかはまだ分からないわけですが…。繰り返しになりますが、結局のところは、今現在の国際社会でも「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? 「正しい」とは「力」が強いということなのでしょうか? きょうもあえてそれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『大国』に 奪い取られて しまったら 奪い返せず 取り戻せない」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも世の中では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? また「力」とは何なのでしょうか? 最近は改めてそれらのことについて考え直してみる必要性を感じさせられる事例が増えています。 あえて固有名詞を取り上げることは避けますが、最近は「隣国」に侵略戦争を仕掛けて領土を奪い取って自分たちの支配地域を拡大するような「軍事大国」がいくつか存在します。もしかすると今現在の国際社会では「力」によって領土を奪い取るようなことが許されているのでしょうか? もちろんそのようなことが許されているわけがないのです。国際連合憲章には国際紛争の平和的な解決、武力による威嚇もしくは武力の行使を慎むことなどが定められています。あえて言い換えれば、今現在の国際社会では「力」によって領土を奪い取るようなことはどんなに少なくとも正しいことではないのです。それでは、今現在の国際社会では「力」によって奪い取られた領土を平和的な手段によって取り戻すことができるのでしょうか? 非常に残念なことですが、今現在の国際社会では「力」によって奪い取られた領土を平和的な手段によって取り戻すことは事実上不可能なのです。そもそも「力」によって領土を奪い取った「軍事大国」が返還する意思が全くなければ、平和的な手段によって取り戻すことは事実上不可能なのです。それでは、今現在の国際社会では「力」によって奪い取られた領土を「力」によって奪い返すようなことは許されていないのでしょうか? もちろん全く許されていないわけではないのです。例えば、国際連合の安全保障理事会が侵略戦争に対して必要な措置を講じるまでの間、そして国際連合の安全保障理事会が「力」によって奪い取られた領土を「力」によって奪い返すことを正当化する決議などを採択した場合には、今現在の国際社会においても、「力」によって奪い取られた領土を「力」によって奪い返すことが許されていないわけではないのです。しかし、それでもやはり、「軍事大国ではない国」が「軍事大国」に「力」によって領土を奪われた場合には、奪い取られた領土を「力」によって奪い返すこともできなければ、事実上、平和的な手段によって取り戻すこともできないというのが「偽らざる現実」なのです。あえて言い換えれば、今現在の国際社会も「弱肉強食の世界」のままなのです。結局のところは、今現在の国際社会でも「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? もしもこの「偽らざる現実」を真正面から見据えることができないのならば、地球上から「戦争」をなくすることなどできるわけがないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『他人事』が ある日突然 『自分事』 になってしまう 『無関心』なら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には自分にとってあまり関係がないことや興味のないことは「他人事」として捉える人たちが少なくないのです。それはある意味で「生物」としては当然の反応です。しかし、今の時代は「他人事」として捉える人たちの「無関心」や「無責任」が命取りになることも少なくないのです。 繰り返しになりますが、もしも「戦争」が「他人事」であるのならば、「戦争」を「容認」とか「黙認」するようなことは許されるのでしょうか? 言うまでもなく自分たちが「戦争」の当事者ではない「遠く離れた場所」で続く「戦争」を「他人事」として捉えて無関心でいることは褒められたことではないのです。しかし、地球上には自分たちが当事者ではない「戦争」を「他人事」として捉えて無関心でいるような事例よりもさらにひどい事例がいくつも存在するのです。あえて個別具体的な固有名詞を取り上げるようなことは避けますが、たとえ「ある国」が「戦争」をしていても、「ある国」から「遠く離れた場所」だけが「戦場」になっているために、「戦争」中であるにもかかわらず、「ある国」ではほとんどの人たちがこれまでとほとんど変わらない日常生活を送ることができているような場合には、「戦争」に反対する主張はそれほど強まることはないのかもしれないと思います。あえて言い換えるのならば、たとえ「ある国」が「戦争」の当事者であったとしても、「ある国」のごく普通の多くの人たちにとって「戦争」を「他人事」にしておくようなことは不可能ではないということには注意が必要になるのです。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「ある国」が今現在も「戦争」をしているのならば、いくら今現在は「ある国」から「遠く離れた場所」だけが「戦場」になっていたとしても、ある日突然「ある国」の中枢部を含めた国内も「戦場」になってしまう危険性を完全にゼロにすることはできないのです。そしてあえて個別具体的な事例を取り上げることは避けますが、「ある国」の主要都市で要人暗殺や司令部機能の破壊などという形で「空爆」や「爆発」などが頻発することもあるわけです。「ある国」が「戦争」の当事者である場合には「他人事」だった「戦争」がある日突然「自分事」になる危険性は当事者ではない場合よりもさらに高まるのです。くどいようですが、もしも「戦争」が「他人事」であるのならば、「戦争」を「容認」とか「黙認」するようなことは許されるのでしょうか? もしも本当の意味で「戦争」に反対しているのならば、自分たちが当事者ではない「戦争」や自分たちから「遠く離れた場所」で続いている「戦争」に対して「無関心」や「無責任」であることが命取りになることも少なくないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『戦争』も 『他人事』ならば 許される? 遠くの場所で 『無関係』なら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には自分にとってあまり関係がないことや興味のないことは「他人事」として捉える人たちが少なくないのです。それはある意味で「生物」としては当然の反応です。しかし、今の時代は「他人事」として捉える人たちの「無関心」や「無責任」が命取りになることも少なくないのです。 一部の独裁者や専制主義の指導者、テロリストなどを除外すれば、「戦争」は良いことだと思っている人間は地球上にはほとんどいないのだろうと思います。しかし、「侵略者」から自分や自分の家族などを守るための「戦争」は必ずしも悪いことではないなどと思っている人たちは少なくはないと思います。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「戦争」というものにはいつどんなときでも必ず「悪」であると単純に言い切ることができない複雑さがあるからこそ、「戦争」をなくすことをそう簡単に実現することができないということには注意が必要になるのです。その上で、あくまでも念のために確認しておくことにするのならば、そもそも「戦争」はなぜいけないのでしょうか? もちろん様々な理由があると思います。しかし、多くの人たちが「戦争」がいけないと思う理由のほとんどは、自分たちが「戦争」と関係しているということが前提になっているのではないかと思います。特に「戦争」を「他人事」ではなく自分自身の問題として捉えようとしている人たちほどその傾向が顕著になるのではないかと思います。それでは、もしも「戦争」が「他人事」であるのならば、「戦争」を「容認」とか「黙認」するようなことは許されるのでしょうか? 例えば、遠く離れた場所などで行われていて自分たちとは「無関係」な「戦争」は「容認」とか「黙認」することが許されるのでしょうか? どういうわけか「戦争」に強く反対している人間たちの中には「他国の戦争」に巻き込まれる危険性が高まることばかりを嫌っている人間たちが少なくないのです。あえて言い換えるのならば、「戦争」に反対している人間たちの中には、「他国の戦争」と「無関係」でいられなくなることを反対の最大の理由にしている人間たちも少なくないのです。繰り返しになりますが、そもそも「戦争」はなぜいけないのでしょうか? 遠くの場所などで行われていて自分たちとは「無関係」な「戦争」は「容認」とか「黙認」するようなことが許されるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「興味ない 『会社』の『社長』 辞めるべき? 『他人事』だから どちらでもいい?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には自分にとってあまり関係がないことや興味のないことは「他人事」として捉える人たちが少なくないのです。それはある意味で「生物」としては当然の反応です。しかし、今の時代は「他人事」として捉える人たちの「無関心」や「無責任」が命取りになることも少なくないのです。 あくまでも一般論ですが、もしも自分にとっては関係がなくて興味のない「会社」の「社長」が「業績悪化」の責任を取って辞めるべきか辞めるべきではないかなどと問われたのならば、ほとんどの人たちは「他人事」だからどうでもいいと思うのではないかと思います。もしかすると「業績悪化」は「社長」だけの責任ではないから辞めなくてもいいなどと主張する人たちも出てくるのかもしれないと思います。あるいは、もしかすると「社長」が辞めても「業績」が改善するかどうかは別問題だからすぐに辞める必要はないなどと主張する人たちも出てくるのかもしれないと思います。しかし、もしもその人たちがその「会社」の「株主」や「従業員」だったとしたら「会社」の「社長」が「業績悪化」の責任を取って辞める必要はないなどと本当に主張することができるのでしょうか? もしもその人たちがその「会社」の「株主」や「従業員」であったとしたらたぶん「業績悪化」を「他人事」では済ますことができないのではないかと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、おそらく世の中の「与党党員」ではない人たちにとっては「与党党首」が選挙で敗北した責任を取って辞めるべきか辞めるべきではないかということは「他人事」なのだろうと思います。しかし、「日本国内閣総理大臣」が辞めるべきか辞めるべきではないかということは、本当に日本国民(→日本国の有権者)にとって「他人事」で済ますことができるような問題なのでしょうか? さらに付け加えるのならば、「日本国内閣総理大臣」が辞めるべきか辞めるべきではないかを日本国民(→日本国の有権者)が判断する場合には、選挙で敗北したのは「与党党首」でもある「日本国内閣総理大臣」だけの責任ではないなどということが本当に理由になるのでしょうか? 「日本国内閣総理大臣」が辞めるべきか辞めるべきではないかを日本国民(→日本国の有権者)が判断する場合には、国政選挙を通じて日本国民(→日本国の有権者)が「日本国内閣総理大臣」として信任しなかったとか不信任したなどということを真っ先に考える必要があるはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『王』などは 『選挙』で選ぶ ものなのか? 選ばれた後 勝手に『王』に?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。主権国家の中で「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? また国際社会の中でも「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? そもそも主権国家や国際社会の中の「怪物」や「巨人」などはどのようなものなのでしょうか? 今回も大真面目に「怪物」や「巨人」についてさらに考えてみることにしようと思います。もしも「ある場所」に「怪物」や「巨人」がいたのならば、その場所はいったいどうなってしまうのでしょうか? くどいようですが、もしも「ある場所」が「弱肉強食の場所」であったとしても、「王」や「皇帝」などと呼ばれる「特別な最強の強者」にほぼすべての「弱者」が「貢物」などを差し出す替わりに自分たちの「安全」を約束してもらうような場所であるのならば、「弱肉強食の場所」に「特別な秩序」のある「特別な弱肉強食の場所」になると考えることができるのです。さらに言えば、もしも「王」や「皇帝」などが存在しなかったとしても、もしも「怪物」や「巨人」が実在しなかったとしても、「空想上の怪物や巨人」が「特別な秩序」を破壊する者が出現しないようににらみを利かせたり実際に「特別な秩序」を破壊した者を排除したりすることができるのならば、「特別な秩序」を維持することは十分に可能なのです。そしてもしも「空想上の怪物や巨人」のかたちをすべての人たちが参加して選挙などで決めることができるような「しくみ」をつくり上げることができたのならば、それは「民主主義」や「民主主義国家」と呼ばれるものになるのだろうと思います。その上で、あくまでも空想上の話ですが、もしも選挙で「空想上の怪物や巨人」のトップに選ばれた人間が勝手に「王」や「皇帝」などになるようなことがあったとしたら、「特別な秩序」はそのまま維持されることになるのでしょうか? どんなに少なくとも選挙で「空想上の怪物や巨人」のかたちを選んだはずの人たちは「約束」を破られた後も引き続き「特別な秩序」を維持する「義務」があるとまでは言えなくなるはずなのです。「王」や「皇帝」などは「選挙」で選ぶものなのでしょうか? また「選挙」で選ばれた後に勝手に「王」や「皇帝」などになることは許されることなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「選挙では 『空想上の 怪物や 巨人』を選び 『王』は不要に!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。主権国家の中で「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? また国際社会の中でも「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? そもそも主権国家や国際社会の中の「怪物」や「巨人」などはどのようなものなのでしょうか? 引き続き「怪物」や「巨人」について大真面目に考えてみることにしようと思います。もしも「ある場所」に「怪物」や「巨人」がいたのならば、その場所はいったいどうなってしまうのでしょうか? 何度も繰り返していますが、もしも「ある場所」が「弱肉強食の場所」であったとしても、「王」や「皇帝」などと呼ばれる「特別な最強の強者」にほぼすべての「弱者」が「貢物」などを差し出す替わりに自分たちの「安全」を約束してもらうような場所であるのならば、「弱肉強食の場所」に「特別な秩序」のある「特別な弱肉強食の場所」になると考えることができるのです。そもそもなぜ「王」や「皇帝」などは「王」や「皇帝」などになることができたのでしょうか? さらに言えば、そもそも「王」や「皇帝」などが存在しなければ、本当に「特別な秩序」をつくり上げることはできないのでしょうか? 例えば、もしもすべての人たちが「空想上の怪物や巨人」に「貢物」などを差し出す替わりに自分たちの「安全」を約束してもらうような「新しいしくみ」をつくり上げることができるのならば、「王」や「皇帝」などは必要ではなくなるのです。もしも「王」や「皇帝」などが存在しなかったとしても、もしも「怪物」や「巨人」が実在しなかったとしても、「空想上の怪物や巨人」が「特別な秩序」を破壊する者が出現しないようににらみを利かせたり実際に「特別な秩序」を破壊した者を排除したりすることができるのならば、「特別な秩序」を維持することは十分に可能なのです。それでは「空想上の怪物や巨人」とはいったいどのようなものになるのでしょうか? 例えば、「国家」は「空想上の怪物や巨人」の具体例の1つになるのだろうと思います。その上で、もしも「空想上の怪物や巨人」のかたちをすべての人たちが参加して選挙などで決めることができるような「しくみ」をつくり上げようとするのならば、それは「民主主義」や「民主主義国家」をつくり上げようとするということを意味することになるのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「『神』なのか? 『神』が与えた ものなのか? なぜ『王』などに なることできた?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。主権国家の中で「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? また国際社会の中でも「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? そもそも主権国家や国際社会の中の「怪物」や「巨人」などはどのようなものなのでしょうか? 今回も「怪物」や「巨人」について大真面目に考えてみることにしようと思います。もしも「ある場所」に「怪物」や「巨人」がいたのならば、その場所はいったいどうなってしまうのでしょうか? 繰り返しになりますが、もしも「ある場所」が「弱肉強食の場所」であったとしても、「王」や「皇帝」などと呼ばれる「特別な最強の強者」にほぼすべての「弱者」が「貢物」などを差し出す替わりに自分たちの「安全」を約束してもらうような場所であるのならば、「弱肉強食の場所」に「特別な秩序」が生まれた「特別な弱肉強食の場所」になると考えることができるわけです。しかし、そもそもなぜ「王」や「皇帝」などは「王」や「皇帝」などになることができたのでしょうか? 「王」や「皇帝」などが実際に「怪物」や「巨人」などのようなものになって力づくですべての強者を打ち負かして自分にひれ伏させることができたからなのでしょうか? もちろんそのようなこともあったのだろうと思います。しかし、「王」や「皇帝」などの子孫に生まれたから「王」や「皇帝」などになることができたという人間たちの方が多いのではないかと思います。そして、「王」や「皇帝」などの子孫に生まれたために「王」や「皇帝」などになることができたような人間たちは、自分自身は「怪物」や「巨人」などのようなものにはならずに、「初代」の「王」や「皇帝」などを「神」などとして祭り上げるようとすることも少なくないのだろうと思います。あるいは、もしかすると「初代」の「王」や「皇帝」などは「神」から「特別な力」を付与されたなどと宣伝することになるのかもしれないと思います。あえて言い換えるのならば、「神」などという「特別な存在」を持ち出すことによって、自分たちは「ただの最強の強者」ではなく「特別な最強の強者」であるなどと主張することになるのだろうと思います。しかし、それにもかかわらず、「王」や「皇帝」などの「特別な最強の強者」よりも強い者が新たに出現する可能性はなくならないのです。もはや「特別な最強の強者」が「新しい強者」を抑え込むことができなくなったのならば、「特別な弱肉強食の場所」から「特別な秩序」が失われて再び「ただの弱肉強食の場所」になっていくことになるわけですが…。繰り返しになりますが、そもそもなぜ「王」や「皇帝」などは「王」や「皇帝」などになることができたのでしょうか? きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにしておきます。 ======================================= 「新しく 『覇者』が交代 するのなら 『秩序』は続く ことにはなるが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。主権国家の中で「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? また国際社会の中でも「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? そもそも主権国家や国際社会の中の「怪物」や「巨人」などはどのようなものなのでしょうか? 引き続き大真面目に「怪物」や「巨人」について考えてみることにしようと思います。もしも「ある場所」に「怪物」や「巨人」がいたのならば、その場所はいったいどうなってしまうのでしょうか? 例えば、もしも「ある場所」が「弱肉強食の場所」であったとしても、「王」や「皇帝」などと呼ばれる「特別な最強の強者」にほぼすべての「弱者」が「貢物」などを差し出す替わりに自分たちの「安全」を約束してもらうような場所であるのならば、「弱肉強食の場所」に「特別な秩序」が生まれた「特別な弱肉強食の場所」になるのです。あえて言い換えれば、その「特別な弱肉強食の場所」の中では「王」や「皇帝」などと呼ばれる「特別な最強の強者」に公然と逆らうことができるような者は誰もいなくなるわけですから、ある意味では「平和な場所」になると考えることもできるのです。しかし、その「平和」は永久に続くわけではないのです。そんな「特別な秩序」がある「平和な場所」であっても、それなりに長い時間が経過すれば、「王」や「皇帝」などの「特別な最強の強者」よりも強い者が新たに出現する可能性が高まっていくのです。いくら「王」や「皇帝」などの「特別な最強の強者」であったとしても、彼・彼女が「生き物」である限り、「老化」から逃れることはできないのです。そのように考えるのならば、「特別な弱肉強食の場所」では「これまでの特別な最強の強者」が「新しい強者」を抑え込むことができなくなっていく可能性が高まることになるのです。もしも「新しい強者」が「覇者」となって「これまでの特別な最強の強者」に代わって「新しい特別な最強の強者」になることができるのならば、「これまでの特別な弱肉強食の場所」も「新しい特別な弱肉強食の場所」になって「特別な秩序」がある「平和な場所」であり続けることができるようになるのだろうと思います。しかし、もしも「新しい特別な最強の強者」が出現しない場合には、「ある場所」は再び「ただの弱肉強食の場所」になっていくことになるわけですが…。きょうのところはとりあえずこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『最強』で 『特別』ならば 『特別な 秩序』を持った 『弱肉強食』」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。主権国家の中で「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? また国際社会の中でも「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? そもそも主権国家や国際社会の中の「怪物」や「巨人」などはどのようなものなのでしょうか? 今回は大真面目に「怪物」や「巨人」について考えてみることにしようと思います。もしも「ある場所」に「怪物」や「巨人」がいたのならば、その場所はいったいどうなってしまうのでしょうか? 例えば、「ある場所」が「強者」によって「弱者」が食い物にされる「弱肉強食の場所」であったのならば、おそらく「怪物」や「巨人」はその「弱肉強食のピラミッドの頂点」となってすべての「強者」よりも上位の「最強の強者」として君臨することになるのだろうと思います。ここでもしも「怪物」や「巨人」が「ただの最強の強者」であるのならば、「ある場所」は「強者」が「弱者」を食い物にする「ただの弱肉強食の場所」であり続けることになるだけなのだろうと思います。しかし、もしも「怪物」や「巨人」が「ただの最強の強者」ではない「特別な最強の強者」であるのならば、もしかすると「ある場所」を「ただの弱肉強食の場所」から「特別な弱肉強食の場所」に変えることができるのかもしれないのです。「特別な最強の強者」とはいったいどのようなものなのでしょうか? 例えば、「特別な最強の強者」が「弱肉強食のピラミッドの頂点」として君臨している場合に、「ただの強者」が「弱者」を食い物にしているのを見つけると、今度は「特別な最強の強者」が「ただの強者」を「弱者」として食い物にするようなことは十分に想像することができると思います。そのような状況で、もしもほぼすべての「弱者」が「特別な最強の強者」に「貢物」などを差し出す替わりに自分たちの「安全」を約束してもらったとしたら…。無秩序に次々と「強者」が「弱者」を食い物にする「弱肉強食の場所」に「特別な秩序」が生まれて「特別な弱肉強食の場所」になるのです。ちなみに人類の長い歴史の中では、このようなタイプの「特別な最強の強者」にあてはまるのは、「王」や「皇帝」などと呼ばれた者になるのだろうと思います。きょうのところはひとまずこの程度にとどめることにしておきます。 ======================================= 「『国難』は 『信任』されず とどまった 『政権』ならば 乗り越えられる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「選挙」を実施していれば、自由で民主的な社会なのでしょうか? 「選挙」を実施しているだけで本当に「自由で民主的な社会」を守ることができるのでしょうか? たとえ「きっかけ」は「選挙」という民主的な手段であったとしてもいつの間にか「自由で民主的な社会」が「専制」や「独裁」などに乗っ取られてしまうこともあるということは歴史が示しているのです。 もしも「どこかの民主主義国家」が本当に「国難」だったとしても、選挙で有権者から「信任」されずにとどまっている「政権」のままで「国難」を乗り越えることができるのでしょうか? 例えば、もしも「首脳同士の個人的な信頼関係」などというものを構築することができたのならば、「どこかの民主主義国家」は選挙で有権者から「信任」されずにとどまっている「政権」であっても「国難」を乗り越えることができるのでしょうか? 合理的な思考をするのならば、「相手国」としては、「大統領令」などを連発することができるわけでもない「どこかの民主主義国家」の選挙で有権者から「信任」されずにとどまっている「政権」とたとえどんな約束をしたとしても「どこかの民主主義国家」の議会でその約束が阻止される危険性が極めて高いということに気づくことになるはずなのです。そのような状態で「どこかの民主主義国家」の選挙で有権者から「信任」されずにとどまっている「政権」と「首脳同士の個人的な信頼関係」を構築するメリットがあると「相手国」は本当に考えるのでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、もしも選挙で有権者から「信任」されずにとどまっている「政権」でもなんとか「国難」を乗り越えることができたとしても、そのときには「どこかの民主主義国家」は本当の意味での民主主義国家のままでいることができるのかどうかは定かではないのです。人類の歴史では「独裁者同士」「権威主義的な指導者同士」の「固い絆」で結ばれた「首脳同士の個人的な信頼関係」を駆使して互いに権力にしがみつきながら「国難」を乗り切ろうとするような動きもなかったわけではないのです。ちなみに「民主主義国家」や「自由で民主的な社会」が破壊される危機があるような事態は「国難」とは呼ばないのでしょうか? 何度も繰り返していますが、たとえ「きっかけ」は「選挙」という民主的な手段であったとしてもいつの間にか「自由で民主的な社会」が「専制」や「独裁」などに乗っ取られてしまうということもあるということは歴史が示しているのです。きょうも改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『個人的 信頼関係』 『国難』は 国や政府の 『私物化』を意味?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「選挙」を実施していれば、自由で民主的な社会なのでしょうか? 「選挙」を実施しているだけで本当に「自由で民主的な社会」を守ることができるのでしょうか? たとえ「きっかけ」は「選挙」という民主的な手段であったとしてもいつの間にか「自由で民主的な社会」が「専制」や「独裁」などに乗っ取られてしまうこともあるということは歴史が示しているのです。 どういうわけか最近はマスメディアなどで「自由で民主的な社会」を破壊する危険性が非常に高い言葉がもっともらしくそのまま流されています。例えば、「首脳同士の個人的な信頼関係を構築する」などと…。もちろん国際社会の中には「首脳同士の個人的な信頼関係」などというものが存在するのだろうと思います。そしてもちろんその「首脳同士の個人的な信頼関係」などというものが少しも重要でないというわけではないのです。しかし、もしもそれぞれの国家と国民の利益を最優先で考えるのならば、「首脳同士の個人的な信頼関係」よりも、「政府同士の信頼関係」と「国民同士の信頼関係」を構築したり発展させたりすることの方がはるかに重要なものになるはずなのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「首脳同士の個人的な信頼関係」は「首脳」のどちらか(あるいは、どちらも)が交代した場合にはまたゼロから再構築する必要がありますが、「政府同士の信頼関係」と「国民同士の信頼関係」は「首脳」が交代してもゼロから再構築する必要はないのです。それにもかかわらず、なぜ「首脳同士の個人的な信頼関係」なのでしょうか? さらに言えば、そもそも「まずは首脳同士の個人的な信頼関係を構築する」などという発想は、「自由で民主的な社会」同士の友好関係を考える場合には少なくとも適切なものではないのです。なぜ「自由で民主的な社会」同士の友好関係を発展させようとするときに「まずは首脳同士の個人的な信頼関係を構築する」などという「勘違いしたトップダウン」の発想を採用しなければならないのでしょうか? 国家と国家の友好関係を発展させるというのならば、なぜ「首脳同士」よりもずっと長続きする「政府同士の信頼関係」を発展させようと考えないのでしょうか? そのように考えるのならば、「首脳同士の個人的な信頼関係を構築する」などという発想は、国家や政府の「私物化」と見なさなければならなくなる危険性が高いのです。その上で、あえて付け加えるのならば、「国難」などという類の言葉は、権威主義国家の指導者や「クーデターの首謀者」などの「自由で民主的な社会」を破壊しようとする人間たちが好んで使う言葉の1つでもあるのです。繰り返しになりますが、たとえ「きっかけ」は「選挙」という民主的な手段であったとしてもいつの間にか「自由で民主的な社会」が「専制」や「独裁」などに乗っ取られてしまうということもあるということは歴史が示しているのです。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『選挙』では 二度も『信任』 されなくて なぜとどまれる? 民主主義なら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「選挙」を実施していれば、自由で民主的な社会なのでしょうか? 「選挙」を実施しているだけで本当に「自由で民主的な社会」を守ることができるのでしょうか? たとえ「きっかけ」は「選挙」という民主的な手段であったとしてもいつの間にか「自由で民主的な社会」が「専制」や「独裁」などに乗っ取られてしまうこともあるということは歴史が示しているのです。 選挙の敗北の責任は「党首」だけの責任ではない? そんなことは当たり前です。支持率の低迷は「党首」や「内閣総理大臣」だけの責任ではない? おそらくそれもその通りなのだろうと思います。しかし、いわゆる「下院」の選挙で「選挙前の与党」が過半数を失ったという選挙結果は疑いのない事実のまま少しも変わらないはずなのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、そもそも過半数の議席数を確保していない「比較第一党なるもの」は選挙で有権者から信任されてはいないのです。さらに付け加えるのならば、そもそも過半数の得票数を得て選出されたわけでもない「内閣総理大臣」には有権者から信任されたなどと強弁することができる「根拠」も存在しないのです。(代議制)民主主義とは、有権者が選挙で選んだ議員を通じて、基本的には過半数で物事を決めていく制度だということを絶対に忘れてはならないのです。さらに言えば、いわゆる「直近の民意なるもの」が示された「上院」の選挙でも、「選挙前の与党」が過半数を失ったということは、「比較第一党なるもの」の党首でもある「内閣総理大臣」が信任されなかったということを意味しているはずなのです。(代議制)民主主義というものが何かということを考えれば考えるほど、「下院」の選挙でも過半数を失って有権者から信任されず、そして続く「上院」の選挙でも過半数を失って有権者から信任されなかったにもかかわらず、いったいなぜ「内閣総理大臣」にそのままとどまることができるのか非常に疑問なのです。あえて率直に言わせてもらうのならば、選挙で二度も続けて有権者から信任されなかったにもかかわらず、あえて「内閣総理大臣」にとどまるということは、選挙を軽視した民主主義を愚弄する行為と考えるべきなのです。繰り返しになりますが、たとえ「きっかけ」は「選挙」という民主的な手段であったとしてもいつの間にか「自由で民主的な社会」が「専制」や「独裁」などに乗っ取られてしまうということもあるということは歴史が示しているのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「価値観を 押し付けるため 『犯罪』に? 『ルール』によって 押し付け防ぐ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中から「犯罪」をなくすことはできるのでしょうか? また世の中から「犯罪」がなくなれば本当にすべての人たちが安心して生活することができるようになるのでしょうか? 例えば、ある人間たちは「Aは正しくてBは正しくない」と主張し、別のある人間たちは「Bは正しくてAは正しくない」と主張し、さらに別のある人間たちは「AもBも正しくなくてCが正しい」と主張していたとします。そのような状況で「B」「C」を「犯罪」とする法律などがつくられた場合にはいったいどのようなことになるのでしょうか? 例えば、「B」が「窃盗」、「C」が「殺人」などの場合には大きな問題はないのだろうと思います。しかし、「B」や「C」が何らかの価値観のような種類のものであるのならば、自由で民主的な社会においては「B」「C」を「犯罪」とする法律などをつくることは許されないはずなのです。それでは、「A」「B」「C」が共に価値観のような種類のものである場合に、もしも「B」「C」を「犯罪」とするのではなく、「A」を「推奨」するような内容の法律などがつくられたときにはいったいどうなるのでしょうか? もちろん個別具体的なケースを詳細に検討する必要はあるわけですが、どんなに少なくとも「A」を「推奨」することによって社会の中で「B」や「C」やその他の価値観が否定されるような状況になってしまうことは、自由で民主的な社会では許されないのだろうと思います。あえて言い換えるのならば、自由で民主的な社会においては、憲法などを含めた「ルール」によって価値観の押し付けを防ぐようなしくみになっているのです。何度も繰り返していますが、世の中から「犯罪」をなくすことはできるのでしょうか? また世の中から「犯罪」がなくなれば本当にすべての人たちが安心して生活することができるようになるのでしょうか? きょうもあえて「犯罪」と「安全」や「安心」の関係について改めて考えてみる必要があるということを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「最初から 存在しない ことにする? 見て見ぬふりを すれば安心?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中から「犯罪」をなくすことはできるのでしょうか? また世の中から「犯罪」がなくなれば本当にすべての人たちが安心して生活することができるようになるのでしょうか? 繰り返しになりますが、「犯罪」とは、ある国の法律などによって「犯罪」と定められているもののことを意味しているわけです。しかし、たとえ殺人、傷害、窃盗などのように実際に地球上のすべての場所で法律などによって「犯罪」と定められているものであったとしても、あるいは、ある国を含めた多くの場所では法律などで禁止されている「特定の薬物」や「銃」の所持などのような「犯罪」であったとしても、もしもそれらの行為が確かに存在したにもかかわらず、被害者以外の人間たちが見て見ぬふりをして最初から存在しなかったように扱うことになるのならば、「犯罪」として処罰されることはないということには注意が必要になります。地球上には「武装勢力」や「犯罪組織」などに金品などを奪い取られても「武装勢力」や「犯罪組織」などに逆らった誰かが「行方不明」になったとしても、「犯罪」が「犯罪」として処罰される可能性がほとんどない場所が存在するということは偽らざる現実なのです。そしてそんな「犯罪」が「犯罪」として処罰される可能性がほとんどない場所においては、「犯罪」が存在すると主張したり「犯罪」の存在を裏付けようとしたりして新たに「行方不明」になる人たちもいるのだろうと思います。さらに言えば、そんな「犯罪」が「犯罪」として処罰される可能性がほとんどない場所においては、公式な統計上は「犯罪」の発生件数が極めて低くなっているということもあるのではないかと思います。「統計」を信頼できるものと受け止めるかどうかは別としても…。繰り返しになりますが、世の中から「犯罪」をなくすことはできるのでしょうか? また世の中から「犯罪」がなくなれば本当にすべての人たちが安心して生活することができるようになるのでしょうか? くどいようですが、「犯罪」と「安全」や「安心」の関係について一度立ち止まって考えてみる必要があるのです。 ======================================= 「『犯罪』を すべてなくせば 安心か? 法律などが あれば『犯罪』!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中から「犯罪」をなくすことはできるのでしょうか? また世の中から「犯罪」がなくなれば本当にすべての人たちが安心して生活することができるようになるのでしょうか? 最初に当たり前すぎるくらい当たり前のことをあえて念のために確認しておくことにします。そもそも「犯罪」とはいったい何なのでしょうか? 言うまでもないことなのかもしれませんが、「犯罪」の中には、殺人、傷害、窃盗などのように地球上のほぼすべての場所で「犯罪」とされているものもあります。しかし、例えば、「特定の薬物」や「銃」の所持などのように、地球上のある場所では「犯罪」とされていても、地球上の別の場所では「犯罪」ではないものもあるのです。要するに、「犯罪」とは、ある国の法律などによって「犯罪」と定められているもののことを意味しているわけです。そのように考えるのならば、もしも「特定の薬物」や「銃」の所持などがありふれていて多くの人たちが安心して生活することが難しい場所で「特定の薬物」や「銃」の所持を「犯罪」として禁止する法律などが存在するのならば、その社会では「犯罪」がはびこっているということになるわけです。しかし、もしも「特定の薬物」や「銃」の所持などがありふれていて多くの人たちが安心して生活することが難しい場所で「特定の薬物」や「銃」の所持を「犯罪」として禁止する法律などが存在しないのならば、いくらその社会に「特定の薬物」や「銃」があふれていても「犯罪」がはびこっているなどということにはならないわけです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、たとえその社会が全く同じ状況であったとしても、ある行為を「犯罪」とする法律が存在するかしないかで「犯罪」が存在するかしないかという判断が完全に逆転してしまうこともあり得るわけです。繰り返しになりますが、世の中から「犯罪」をなくすことはできるのでしょうか? また世の中から「犯罪」がなくなれば本当にすべての人たちが安心して生活することができるようになるのでしょうか? 何にしても「犯罪」と「安全」や「安心」の関係について一度立ち止まって考えてみる必要がありそうです。 ======================================= 「もしかして 自分で『介護』 できるなら 他人に頼る 機会減らせる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所の様々な場面で「人手が足りない」とか「人材不足」などという言葉をよく聞きます。しかし、本当に「人手が足りない」「人材不足」などなのでしょうか? もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? 繰り返しになりますが、社会のあちこちで「人手が足りない」「人材不足」などと言われている「仕事」のすべての作業を機械化することができないことは確かです。少なくとも現時点においてこれまで人間が担ってきたすべての作業を機械化することは不可能です。しかし、それでもやはり、発想の転換によって必要不可欠な「人手」を減らしたり機械化することができる部分を増やしたりすることは十分に可能ではないかと思います。例えば、一般に「介護」の分野では、必要不可欠な「人手」を減らすことは非常に難しいと言われています。「介護する必要性のある人たちを他人が介護する」という考え方を前提にするのならば、確かにその通りなのだろうと思います。しかし、もしも精神的にはまだまだ十分に元気だけれども老化などによる身体的機能の衰えのために介護の必要性があると判断されている人たちが、何らかの「機械」によって老化などによる身体的機能の衰えを十分に補うことができるようになるのならば、上手くいけばそのような人たちは介護の必要性がほとんどなくなるかもしれないのです。あえて言い換えるのならば、もしも何らかの「機械」によって老化などによる身体的な機能の衰えを十分に補うことができるのならば、自分で自分を「介護」することができて介護のために他人に頼る機会が大幅に減るという人たちが増えるということになるのです。あくまでも一般論ですが、ある社会でいわゆる「高齢化」がますます進行したときに、いつまでも「高齢者1人を何人の現役世代で支えるのか」などという発想を当たり前のように採用し続けているのならば、その社会が破綻する危険性が極めて高くなってしまうのではないかと考えています。何度も繰り返していますが、もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? きょうもあえてそのことを重ねて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「もしかして 人手不足の その仕事 『報酬』低い? 『待遇』悪い?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所の様々な場面で「人手が足りない」とか「人材不足」などという言葉をよく聞きます。しかし、本当に「人手が足りない」「人材不足」などなのでしょうか? もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? そもそもなぜ社会のあちこちで「人手が足りない」「人材不足」などという言葉があふれているのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて単純化して言わせてもらうのならば、もしかすると不足しているのは「人手」「人材」というよりも「報酬」などの「待遇」なのではないかと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、社会のあちこちで「人手が足りない」「人材不足」などと言われている「仕事」の「報酬」は、他の「仕事」の「報酬」と比べて高いのでしょうか? それとも低いのでしょうか? もしもその「仕事」の「報酬」が他の「仕事」の「報酬」よりも低いのならば、その「仕事」の「生産性」を劇的に高めることによって「報酬」を引き上げる余裕を生み出すことを真剣に考えなければならないはずなのです。その「仕事」の「生産性」を劇的に高めるために最も効果的な方法の1つは、その「仕事」に必要不可欠な「人手」「人材」の数を減らすことなのです。そして「人手」「人材」の数を減らすために効果的な方法の1つは、作業の機械化なのです。さらに言えば、たとえその「仕事」の「報酬」が高かったとしても、その「仕事」の「内容」が他の「仕事」と比べて肉体的や精神的な疲労が激しいものだったり、危険な作業や汚い作業を伴うものだったりするような場合には、その「仕事」に就こうという人たちが少なかったとしても不思議ではないと思います。そしてその「仕事」の「待遇」を改善して肉体的や精神的な疲労を軽減したり危険な作業や汚い作業を減らしたりするためにはできるだけ多くの作業を機械化するということが高い効果を期待することができる方法なのです。少なくとも現時点においてこれまで人間が担ってきたすべての作業を機械化することは不可能です。しかし、さらなる作業の機械化の可能性を追求し続けることはやはり必要なのです。くどいようですが、「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? きょうもあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『人間』を 『機械』に置き換 えられれば 長時間でも 活動できる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所の様々な場面で「人手が足りない」とか「人材不足」などという言葉をよく聞きます。しかし、本当に「人手が足りない」「人材不足」などなのでしょうか? もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? 繰り返しになりますが、もしも「ドローン」などの無人機を大規模かつ組織的に活用することができるのならば、それほど多くの人員を必要とせずに、効果的な有害鳥獣対策を実施することができるようになると考えることができるのです。従来は「人手」や「人材」が必要とされていた作業のいくつかを「ドローン」などの無人機によって代替することによって必要とされる「人手」や「人材」を削減することができるわけです。もちろん「人手」や「人材」のすべてを「ドローン」などの無人機で代替することができるというわけではないと思います。しかし、作業のいくつかを「ドローン」などの無人機で代替することができるのならば必要とされる「人手」や「人材」を削減することができるということだけは確かなのです。その上で、あえて仮定の上に仮定を積み重ねるようなことを言うのならば、もしも「有害鳥獣対策」のために「ドローン」などの無人機を大規模かつ組織的に活用することができるようになるのならば、そのシステムを、例えば、「行方不明者の捜索」、「密入国者・密輸出入の発見・監視」、「禁止区域に侵入した違法なドローンの捕獲・撃墜」などにも「転用」してそれなりに大きな効果を上げることができる可能性が新たに生み出されることになるのです。さらに言えば、「ドローン」などの無人機を活用したシステムは、「人手」や「人材」が必要とされる従来の方法と比べて長時間の連続した活動を実現することができる可能性が高いのです。そのことは人間を機械に置き換えることによって得られるメリットの1つということになります。くどいようですが、本当に「人手が足りない」「人材不足」などなのでしょうか? もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? きょうのところは改めてこのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『ドローン』を 有害鳥獣 対策に なぜ活用を しないのだろう?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所の様々な場面で「人手が足りない」とか「人材不足」などという言葉をよく聞きます。しかし、本当に「人手が足りない」「人材不足」などなのでしょうか? もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? 最近のどこかの国ではクマなどがあちこちに出没して人間が死傷させられる深刻な被害も多く報道されています。率直に言わせてもらうのならば、なぜクマなどの有害鳥獣対策にもっと大規模かつ組織的に「ドローン」などを活用しようという話が出てこないのでしょうか? もちろん「ドローン」などの無人機を活用しようという「アイディア」が全く出てこないというわけではないのだろうと思います。そしておそらく「ドローン」などの無人機の活用には様々な課題や制約などがあるのだろうとは思います。しかし、それでもやはり、もしも「ドローン」などの無人機を大規模かつ組織的に活用することができるのならば、それほど多くの人員を必要とせずに、効果的な有害鳥獣対策を実施することができるようになると考えることができるのです。「ドローン」というと空中を飛行しているイメージが強いのかもしれませんが、地上を走ったり這ったりするタイプの無人機も、水上や水中を航行したりするタイプの無人機も開発されているのです。もしも複数の種類の多数の無人機を同時かつ組織的に活用することができるような形で運用すれば、1年365日24時間体制での「有害鳥獣」の「発見」から「駆除」までの一連の対策を最小限の人員で実行することができるようになるのではないかと思います。繰り返しになりますが、本当に「人手が足りない」「人材不足」などなのでしょうか? もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『戦争』に 『正義』はないか? 本当に? 『理論上』なら 『正義』はあるが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「戦争」や「争い」はなぜなくならないのでしょうか? 「戦争」や「争い」をなくすためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 自分たちの身の回りで繰り返し発生する様々な「争い」をなくさなくても、地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? あくまでも一般論ですが、「正義の戦争なんて存在しない」などともっともらしく言われることがあります。しかし、少なくとも「理論上」は「正義の戦争」は存在するのです。あえて個人間の事例を使って説明することにすれば、例えば、どうしても結婚したいなどと一方的に強く望んでいる人間が力づくで相手に結婚などを迫っているような場合に、その一方的で不当な要求を相手が「力」を使って拒否することは「正義」とは言えないのでしょうか? あるいは、相手の持っているものがどうしても欲しいと強く望んでいる人間が力づくで相手から欲しいものを奪い取ろうとしているような場合に、相手が奪い取られないように「力」を使うことは「正義」とは言えないのでしょうか? そのように考えるのならば、少なくとも「理論上」は「正義の戦争」というものは存在するのです。その上で、あえて付け加えるのならば、たとえ「正義の戦争」として始まったものであったとしても、もう二度と力づくで結婚を迫ってきたり大切なものを奪い取ろうとしたりしてくることができないようにするために、この機会に徹底的に痛めつけてしまおうとか、息の根を止めてしまおうなどということになってしまった場合には、もはや「正義」ではなくなっているのです。繰り返しになりますが、少なくとも「理論上」は「正義の戦争」というものは存在するのです。そしてくどいようですが、自分たちの身の回りで繰り返し発生する様々な「争い」をなくさなくても、地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? きょうのところは改めてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『じゃんけん』や 『くじ引き』をして 決められる? 『分割』をして みんなで分ける?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「戦争」や「争い」はなぜなくならないのでしょうか? 「戦争」や「争い」をなくすためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 自分たちの身の回りで繰り返し発生する様々な「争い」をなくさなくても、地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? 地球上のだいたいどこに行っても、子どもたちは、残り1つになった「お菓子」などをどちら(誰)が食べるのかとか、どちら(誰)が先に「おもちゃ」や「ゲーム」で遊ぶのかとかなどといった実に些細なことで「争い」を始めることがあると思います。そして「争い」に決着を付けるために「じゃんけん」や「くじ引き」で「どちら(誰)か」を決めることもあります。あるいは、「お菓子」のようないくつかに分割することができるものの場合には「分割」してそれぞれで分けることで「争い」に決着を付けるというようなこともあると思います。もしも「じゃんけん」や「くじ引き」で決めたり「分割」して分け合ったりすることで決着を付けることができるのならば、「じゃんけん」や「くじ引き」で決めたり「分割」して分け合ったりすることで決着を付けるということを事前に「ルール」で決めておけば「争い」が発生することはなかったのではないかと多くの人たちは想像するのではないかと思います。もちろん「争い」になりそうなことのすべてが「じゃんけん」や「くじ引き」で決めたり「分割」して分け合ったりすることで完全かつ最終的に決着を付けることができるのならばいいのですが、残念ながら世の中はそれほど単純ではないのです。例えば、恋愛で複数のライバルが同じ人を恋人にしたいと言っているような場合には、「じゃんけん」や「くじ引き」で決めることも、ましてや「分割」して分け合うようなこともできるわけがないのです。ちなみに「話し合いで決める」などということが絶対に不可能だとは言いませんが、いついかなるときでも問題を完全かつ最終的に解決することができるわけではないということをあえて指摘しておくことにします。繰り返しになりますが、自分たちの身の回りで繰り返し発生する様々な「争い」をなくさなくても、地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「お互いに 『主張』や『立場』 押し付けず 『自由』を認め られるのならば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「戦争」や「争い」はなぜなくならないのでしょうか? 「戦争」や「争い」をなくすためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? そもそも地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? 主張や立場が違っていたとしても「戦争」や「争い」を発生させないためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 例えば、たとえ主張や立場が違っていたとしても、双方がそれぞれの主張や立場を守り続けることを互いに認め合うことができるのならば、「戦争」や「争い」にまで発展することは少ないのだろうと思います。それではいったいどうしたらそれぞれの主張や立場を守り続けることを互いに認め合うことができるのでしょうか? 逆の言い方をするのならば、互いに絶対に認めることができない主張や立場とはいったいどのような主張や立場なのでしょうか? どんなに少なくとも「自分たちの主張や立場とは異なる主張や立場の相手の存在は認めない」などという主張や立場を認めることはできないと思います。あえて言い換えるのならば、「戦争」や「争い」にまで発展する危険性をなくすことができない主張や立場だけは認めることができないのです。あなたの主張や立場を支持することも理解することもできないが、あなたが私にあなたの主張や立場を押し付けることがないのならば、私もあなたに私の主張や立場を押し付けることはしないなどということになれば「戦争」や「争い」にまで発展する危険性は大きく低下させることができるのですが…。例えば、「男性は(伝統的な)男性らしく、女性は(伝統的な)女性らしく」などという主張や立場の人たちは「男性も女性も伝統的な価値観に縛られることなく」などという主張や立場の人たちの「自由」を認めず、逆に、「男性も女性も伝統的な価値観に縛られることなく」などという主張や立場の人たちは「男性は(伝統的な)男性らしく、女性は(伝統的な)女性らしく」などという主張や立場の人たちの「自由」を認めない傾向があるように思われます。もしもそういう不寛容な傾向が強まっていくことになるのならば、「戦争」や「争い」にまで発展する危険性をなくすことは極めて難しくなってしまうのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『戦争』や 『争い』なくす ことできる? 抑え込むこと ならできるけど」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「戦争」や「争い」はなぜなくならないのでしょうか? 「戦争」や「争い」をなくすためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? そもそも地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? 「戦争」や「争い」はなぜ発生するのでしょうか? もちろん「原因」は1つとは限らないと思います。また「戦争」や「争い」の「原因」を簡単に特定することができるような単純な事例ばかりではないと思います。しかし、どんなに少なくとも双方の主張や立場が違っていなければ、「戦争」や「争い」が発生することはないのだろうと思います。もっとも双方の主張や立場が違っていても「戦争」や「争い」が発生しないことはあります。例えば、どちらか一方の側の「力」が圧倒的に強い場合には、圧倒的に「力」が劣るもう一方の側が「泣き寝入り」することになることも少なくはないのです。あるいは、たとえ双方の主張や立場が違っていても、双方よりもはるかに圧倒的に強大な「力」を持っている第三者が「戦争」や「争い」の発生を抑え込んでいるような場合にも、「戦争」や「争い」が発生しない可能性が高くなります。主権国家の中で「警察」などが十分に機能している場合には、そう簡単には双方のグループの対立が大規模かつ長期の暴力的な衝突にまで発展することが少ないように…。さらに言えば、もしも双方の主張や立場が違っていたとしても、双方がそれぞれの主張や立場を守り続けることを互いに認め合うことができるのならば、双方の主張や立場の違いが「戦争」や「争い」にまで発展することは少ないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? 「弱者」が「泣き寝入り」せずに「強者」に立ち向かう可能性は残るわけです。そして残念ながら自分たちの主張や立場と違う相手の存在を認めることができないと思っているような人間たちも存在するわけです。「戦争」や「争い」は抑え込むことならできるのかもしれませんが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『最愛の 人』を失う 『過去』をどう 乗り越えたのか? 何を見つけた?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。過去の記憶というものは絶対に「風化」させてはいけないものなのでしょうか? 人間が生き物である以上、「風化」は絶対に避けることができないものなのではないのでしょうか? 人間は、生き物として避けることができない「風化」に抗うための「道具」として「制度」や「文化」などをつくり出したからこそ今現在のような「人間」になることができたはずなのです。 あくまでも一般論ですが、例えば、肉親や恋人などの「最愛の人」を「事故」などで失った人たちはそれぞれの記憶を「風化」させてはいけないのでしょうか? 肉親や恋人などの「最愛の人」を「事故」などで失った人たちがこれからも生き続けるためには、それぞれの悲しい記憶をある意味で「風化」させる必要があるのではないかと思います。また肉親や恋人などの「最愛の人」を「事故」などで失った人たちがそれぞれの悲しい記憶やその後の苦しかった体験を語り継ぐことが本当に「事故」などを防ぐために必要不可欠なことなのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、肉親や恋人などの「最愛の人」を「事故」などで失った人たちがその「過去」をどのようにして乗り越えることができたのかなどということを知りたいと思っている人たちはかなり多いのではないかと思います。肉親や恋人などの「最愛の人」を「事故」などで失った人たちはその「過去」をただただ嘆いてひたすら泣き叫んだからこそ「過去」を乗り越えることができたのでしょうか? おそらくそんなことはないのだろうと思います。おそらくただただ嘆いてひたすら泣き叫ぶよりもずっと前向きなことに取り組むことがなかったのならば「過去」を乗り越えることはできなかったのではないかと思います。例えば、「事故」などが発生する前にその「何か」が存在したとしたらたぶんその「事故」は発生しなかったかもしれないと心から思うことができる「何か」を見つけ出し、その「何か」をつくり出すことに努力し続けているとか…。その上で、あえて付け加えるのならば、その「何か」が「制度」のようなものであるのならば、「風化」しにくくてさらに前向きなものになるのだろうと思います。くどいようですが、過去の記憶というものは絶対に「風化」させてはいけないものなのでしょうか? きょうも改めてそのことを指摘した上で強調することにしておきます。 ======================================= 「『教訓』の 『風化』を防ぐ 目的で 『制度』をつくり 『文明』になる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。過去の記憶というものは絶対に「風化」させてはいけないものなのでしょうか? 人間が生き物である以上、「風化」は絶対に避けることができないものなのではないのでしょうか? 人間は、生き物として避けることができない「風化」に抗うための「道具」として「制度」や「文化」などをつくり出したからこそ今現在のような「人間」になることができたはずなのです。 あくまでも一般論ですが、最近はどこかの国のマスメディアなどでは、過去の悲惨な事件や事故の「記憶や教訓の『風化』をどう防ぐかが課題」などという「結論」がさももっともらしく語られることが増えています。繰り返しになりますが、過去の記憶というものは絶対に「風化」させてはいけないものなのでしょうか? 人間が生き物である以上、「風化」は絶対に避けることができないものなのではないのでしょうか? また「教訓」などは「風化」を避けることができないものなのでしょうか? 例えば、もしも「教訓」を「言い伝え」などの形でしか残さないのならばおそらくその「風化」を避けることはできないのだろうと思います。しかし、「教訓」を文字などで記録して「書物」などの形にしておけば、「言い伝え」よりもはるかに「風化」しにくくなるのではないかと思います。さらに言えば、もしも「教訓」を法律などの「制度」の形にまですることができるのならば、「教訓」はますます「風化」することが難しくなるのだろうと思います。これも繰り返しになりますが、人間は、生き物として避けることができない「風化」に抗うための「道具」として「制度」や「文化」などをつくり出したからこそ今現在のような「人間」になることができたはずなのです。いくら高度な文明社会の中で生活していても、過去の記憶が「風化」することだけを極端に恐れ、そしてどういうわけか「風化」の防止だけで思考が完全に停止してしまっているような人間たちは、もしかすると「文明」を生み出す以前の太古の人間と実はそれほど中身は違っていないのかもしれないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「『やめるな』と 叫んでいても 選挙では 投票しない? 無責任では?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかすると「やめるな」などという言葉ほど無責任な言葉はなかなか存在しないのかもしれないと思っています。そしてこの種の無責任な言動が民主主義を少しずつ破壊しているのではないかと思っています。 最近はどこかの国で「#〇〇やめるな」などという言葉がなぜか流行しているそうです。率直に言わせてもらいますが、「〇〇やめるな」とか「〇〇がんばれ」などともっともらしく叫んでいる人間たちの中に、前回の衆議院選挙や今回の参議院選挙で与党やその候補者に投票して「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」という意思を投票で示した人間たちはいったい何人いるのでしょうか? あるいは、「〇〇」を党首に選んだ与党の党員などになって「〇〇降ろし」後の党首選では党員などとして「〇〇」に投票する準備ができているという人間たちはいったい何人いるのでしょうか? もしかすると「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」などともっともらしく叫んでいる人間たちの中にはそうした人間が一人もいないのではないでしょうか? そうであるのならば、あまりにも無責任ではないでしょうか? もしも前回の衆議院選挙や今回の参議院選挙で与党やその候補者に投票していないにもかかわらず、また与党の党員などになって党首選で「〇〇」に投票する気もないにもかかわらず、「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」などともっともらしく叫んでいる人間たちがいるのならば、その人間たちは民主主義を破壊している人間たちだとみなされても仕方がないと思います。民主主義国家では「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」などという意思は選挙での投票を含めた行動で示すべきなのです。そして民主主義国家では選挙などで示したその「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」などという意思に責任を持たなければならないのです。「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」などという意思を示したのならば、責任を持って「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」などという意思をその後の行動でも示し続けるべきなのです。繰り返しになりますが、無責任な人間たちの無責任な行動が民主主義を少しずつ破壊しているのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「まだ『夢を 諦めないで』 と言うのなら 責任持って 応援すべき!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかすると「やめるな」などという言葉ほど無責任な言葉はなかなか存在しないのかもしれないと思っています。そしてこの種の無責任な言動が民主主義を少しずつ破壊しているのではないかと思っています。 例えば、「ある人」に対して「夢を諦めないで」などと言うことは実はそれほど簡単なことではないと思います。たとえ「ある人」がどんな人生を送ることになったとしても、それは「ある人の人生」なのですから、基本的には「ある人の自由」のはずなのです。もしも他人が「ある人」に対して「夢を諦めないで」などという余計なお世話なことを言いたいのならば、最低でも責任を持って「ある人の夢」の実現を応援するとか、その夢が実現するかどうかを最後まで見届けるなどということをしなければならなくなるのだろうと思います。「ある人」に対して「夢を諦めないで」などと言うことは、ある意味では「ある人の人生」の自由を制限することになるわけですから、「夢を諦めないで」などと言った責任を負う覚悟がなければあまりにも無責任だと批判されることになってもおかしくはないのです。さて、話は変わりますが、最近はどこかの国で「#〇〇やめるな」などという言葉がなぜか流行しているそうです。もしも「内閣支持率が謎の急上昇」をするわけでもなければ、「与党の党員数などが謎の急増」をするわけでもないのならば、どこかの国では「#〇〇やめるな」などと声高に叫んでいる無責任な人間たちが増えているということになるのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『風化』とは いったい何を 意味するか? 『生き証人』が いないと『風化』?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。人類の「負の歴史」などについての「風化」とはいったい何を意味しているのでしょうか? 「風化」はなんとかして防がなければならないものなのでしょうか? それとも「風化」はやむを得ないものなのでしょうか? もしかすると「風化」の防止などというものは「アンチエイジング」のようなものなのでしょうか? 人類の長い歴史の中にはもう二度と繰り返してはならない「負の歴史」がいくつも存在します。例えば、大昔のどこかの国で「奴隷」や「社会の最底辺の階層」などとして理不尽にも様々な非人道的な扱いを受けて差別され続けてきた人たちは、今現在も大昔に自分たちが社会から受けてきた非人道的な扱いや差別の実態を「生き証人」や「語り部」として語り継いでいるのでしょうか? それとも、大昔に「奴隷」や「社会の最底辺の階層」などとして理不尽にも様々な非人道的な扱いを受けて差別され続けていた人たちの「負の歴史」は「風化」しているのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、もしも「奴隷」や「社会の最底辺の階層」などの「生き証人」などが生存しているとしたらその人は170歳ぐらいにはなっているのだろうと思います。そのことに気づいたのならばやはり「風化」はやむを得ないということにも気づくことになるのだろうと思います。さらに言えば、もしも「生き証人」や「語り部」が既にいなくなっていて「奴隷」や「社会の最底辺の階層」などの「負の歴史」が「風化」しているのならば、そう遠くないうちに社会に再び「奴隷」や「社会の最底辺の階層」などが復活するようになってしまうのでしょうか? 本当に「生き証人」などがいないと「風化」してしまうのでしょうか? 言うまでもなく「奴隷」や「社会の最底辺の階層」などの「負の歴史」は「生き証人」や「語り部」などとは違った「永続可能なもの」に形を変えて残っているのです。例えば、国際条約や憲法などを含めた人権を保障する法体系として…。繰り返しになりますが、人類の「負の歴史」などについての「風化」とはいったい何を意味しているのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「直接の 体験者とか 被害者は 時間が経てば 必ず減るが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。人類の「負の歴史」などについての「風化」とはいったい何を意味しているのでしょうか? 「風化」はなんとかして防がなければならないものなのでしょうか? それとも「風化」はやむを得ないものなのでしょうか? もしかすると「風化」の防止などというものは「アンチエイジング」のようなものなのでしょうか? いわゆる「負の歴史」の「生き証人」や「語り部」などが語る言葉に「説得力」があるのはいったいなぜなのでしょうか? やはり「負の歴史」の「生き証人」や「語り部」などがその「負の歴史」の直接の体験者や被害者であるということが大きいのではないかと思います。もしも「負の歴史」の「生き証人」や「語り部」などがその「負の歴史」の直接の体験者や被害者でなかったとするのならば、彼・彼女たちが語る言葉の「説得力」は大幅に減少してしまうのではないかと思います。やはり自分自身の目で直接見たもの、自分自身の耳で直接聞いたもの、自分自身の鼻などで直接嗅いだもの、自分自身の手などで直接触ったもの、自分自身の皮膚などで直接感じたものを、自分自身の言葉で語るのと、その言葉を聞いた人たちがその聞いたことを別の誰かに話すのとでは、「説得力」に雲泥の差があるのだろうと思います。繰り返しになりますが、もしかすると「風化」の防止などというものは「アンチエイジング」のようなものなのでしょうか? 人間が人間であり続ける限り、時間が経過するにつれて「負の歴史」の直接の体験者や被害者が少なくなっていくのは避けることができないことなのだろうと思います。いくら「老化」を防ごうとしても「老化」を完全には防ぐことができないように…。その上で、あえてひとこと付け加えるのならば、たとえ「生き証人」や「語り部」などを引き継いだ直接の体験者や被害者ではない人たちの言葉には直接の体験者や被害者の言葉ほどの「説得力」はなかったとしても、どんなに少なくとも「生き証人」や「語り部」などを引き継いだ人たちの中には直接の体験者や被害者の「記憶」(の一部)を生き残らせることはできるのだろうと思います。くどいようですが、もしかすると「風化」の防止などというものは「アンチエイジング」のようなものなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「本当に 『同じ〇〇 人』なのか? それぞれ違う 人ではないか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。あえて率直に言わせてもらうのならば、もっともらしく地球上のあちこちで「戦争」などについて語られている単純で怪しげな「物語」には注意をする必要があります。 過去の「戦争」などで加害者側だったという人たちの中には自分たちが直接の加害者ではなかったにもかかわらず被害者側の人たちに同情や共感して「同じ〇〇人として恥ずかしく思う」とか「同じ〇〇人としてお詫びする」などという趣旨の発言を好んでしている人たちがいます。おそらくそうした人たちの多くは人間としてのごく自然な感情を素直に表現しているだけなのだろうと想像はしています。しかし、それでもやはり、「同じ〇〇人として」という部分には少なからず違和感を覚えるのです。なぜそれぞれの国の政府関係者が外交の場で発言しているわけでもないのに「同じ〇〇人として」発言しなければならないのでしょうか? 一人ひとりそれぞれ違う一人の人間として、過去の出来事について人間としてのごく自然な感情を素直に表現してはいけないのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「同じ〇〇人として」という物の見方こそが「戦争」を発生させる危険性を高めるということは注意をしなければならないのです。想像してみてください。例えば、X国の一部の人間たちがZ国で凶悪犯罪を繰り返しているような状況で「同じ〇〇人として」などという物の見方をしたらいったいどうなってしまうのでしょうか? 「同じX国の人たち」は「犯罪容疑者やその予備軍」ということにされてしまう危険性は高くならないのでしょうか? 凶悪犯罪の被害者と「同じZ国の人たち」が加害者と「同じX国の人たち」に対して反感や嫌悪感を持つようになる危険性は高くならないのでしょうか? 繰り返しになりますが、なぜ「同じ〇〇人として」発言しなければならないのでしょうか? 一人ひとりそれぞれ違う一人の人間として、過去の出来事について人間としてのごく自然な感情を素直に表現してはいけないのでしょうか? くどいようですが、もっともらしく地球上のあちこちで「戦争」などについて語られている単純で怪しげな「物語」にはよくよく注意をする必要があるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『悲惨さ』を 当時の人は 知らないか? 悪いと知らず? 反対もせず?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。あえて率直に言わせてもらうのならば、もっともらしく地球上のあちこちで「戦争」などについて語られている単純で怪しげな「物語」には注意をする必要があります。 繰り返しになりますが、「戦争」というものがいかに悲惨なものであるのかなどということを「語り継ぐ」ことで本当に「戦争」を防ぐことができるのでしょうか? もう二度と「戦争」を繰り返さないなどと固く誓ったのならば「戦争」を防ぐことが本当にできるのでしょうか? 人間というものは「戦争」が悪いものだと知っていれば「戦争」を引き起こすようなことは本当にないのでしょうか? これらのことはほとんどの人たちがほんの少し立ち止まって改めてじっくりと考えてみるだけでも「戦争」を防ぐことが本当にできるのか疑問になってくるのではないかと思います。あえて率直に言わせてもらうのならば、もしかすると過去に「戦争」が引き起こされてしまったときには、その当時のほとんどの人たちは「戦争」を悪いものだと知らなかったとでも言うのでしょうか? そしてもしかすると過去に「戦争」が引き起こされてしまったときには、その当時の人たちの中には「戦争」に反対した人たちはほとんどいなかったとでも言うのでしょうか? もしかすると過去に「戦争」が引き起こされてしまったときには、その当時のほとんどの人たちは「戦争」の「悲惨さ」を知らなかったとでも言うのでしょうか? 当時も「戦争」に反対している人たちや「戦争」の「悲惨さ」を知っている人たちがいたのならば、なぜ「戦争」は発生したのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「戦争」についての単純で怪しげな「物語」を信じ込んでいる人たちの数が増えれば増えるほど「戦争」の危険性は高まることになるのです。くどいようですが、もっともらしく地球上のあちこちで「戦争」などについて語られている単純で怪しげな「物語」には注意をする必要があります。きょうもあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『悲惨さ』を 語り継いだら 『戦争』は 発生しない? 二度と起きない?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。あえて率直に言わせてもらうのならば、もっともらしく地球上のあちこちで「戦争」などについて語られている単純で怪しげな「物語」には注意をする必要があります。 「戦争」で莫大な利益を得ることができる人間たちや独裁的指導者などを除いたほとんどすべての人たちにとって「戦争」は存在しない方がいいはずなのです。「戦争」を二度と引き起こさないためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 「戦争」というものがいかに悲惨なものであるのかなどということを「語り継ぐ」ことで本当に「戦争」を防ぐことができるのでしょうか? もう二度と「戦争」を繰り返さないなどと固く誓ったのならば「戦争」を防ぐことが本当にできるのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、そのような単純で怪しげな「物語」を信じ込んでいる人たちの数が増えれば増えるほど「戦争」の危険性はむしろ高まることになってしまうのです。人間というものは「戦争」が悪いものだと知っていれば「戦争」を引き起こすようなことは本当にないのでしょうか? もしそうであるのならば地球上から殺人や強盗や窃盗などが消えてなくならないのはいったいなぜなのでしょうか? たとえ殺人や強盗や窃盗などが悪いことであると分かっていても殺人や強盗や窃盗などを繰り返してしまう人間たちは実際にはかなりいるのです。人間というものは「戦争」というものがどれだけ悲惨なものなのかということを分かっていれば「戦争」を引き起こすようなことは本当にないのでしょうか? もしも人間というものがいついかなるときも感情的にはならずに冷静に行動することができるのならば「悲惨さ」は「戦争」の強力なブレーキになるのだろうとは思います。しかし、人間というものは簡単に一瞬で感情的になってしまうことも少なくないはずなのです。そして人間というものは自分自身の感情的な行動によって生み出されたあまりにも悲惨な結果を目にしてから後悔することも少なくないのです。繰り返しになりますが、もっともらしく地球上のあちこちで「戦争」などについて語られている単純で怪しげな「物語」には注意をする必要があります。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「安全な 場所からいくら 叫んでも 見て見ぬふりと どこが違うか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のほとんどすべての人たちは「正しいこと」を「正しいこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「正しいこと」を「正しいこと」であると指摘することができるのでしょうか? また世の中のほとんどすべての人たちは「間違ったこと」を「間違ったこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「間違ったこと」を「間違ったこと」であると指摘することができるのでしょうか? くどいようですが、たとえ「間違ったこと」に気づいていたとしても、自分自身も被害者になってしまう危険性を避けるためにあえて見て見ぬふりをしてしまうという人たちが少なくないということは現実の社会における深刻な問題点の1つなのではないかと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、「目の前の理不尽なこと」に声を上げて抗議などをするだけで(満足して)お終いにしてしまう人たちの存在も現実の社会における深刻な問題点の1つではないかと思っているのです。言うまでもなく中東やウクライナなどで多くの子どもを含めた民間人が犠牲になっていることは「間違ったこと」です。しかし、それでもやはり、「間違っていること」を「間違っていること」であると声高に叫ぶだけでは「間違っていること」が消えてなくなったりするようなことはないはずなのです。さらに言えば、「間違っていること」を「間違っていること」であると声高に叫んでいる人間たちは、いくら「間違っていること」であると声高に叫んでも巻き込まれて自分自身も被害者になってしまう危険性のほとんどない安全な場所にいながら声高に叫んでいるだけであるということにも注意をする必要があるのです。いくら「間違っていること」を「間違っていること」であると声高に叫んでも安全な場所にいながら「間違っていること」を「間違っていること」であると声高に叫んでいるだけであるのならば、「間違っていること」を見て見ぬふりをするのと実質的にどこがどれだけ違っているのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『あのとき』に 『あの場所』で『あの こと』をして いたから『まさか』 の坂道へと…」-。 きょうはあえて少しだけ「昔話」をしてみることにしようと思います。一昔前にどこかの国の内閣総理大臣が「人生にはいくつも坂がある。その一つが『まさか』」などと言っていたことを最近よく思い出します。確かにごく普通の多くの人たちにとっても長い人生の間に「まさか」はときどきやってくることになるものなのだろうと思います。それにしても最近は「まさか」があまりにも多すぎるような気がしますが…。 ちなみにそれほど短くはないがまだそれほど長くもない私の人生の中でも「まさか」はいくつもありました。そして「まさか」の坂道を上っている途中にまた次の「まさか」が見えてくるようなこともありました。改めて振り返ってみると、もしも「あのとき」に「あの場所」で「あのこと」をしていなかったのならば、そもそも「まさか」の坂道に出会うようなことはおそらくなかったのだろうと思います。あえて言い換えれば、「あのとき」に「あの場所」で「あのこと」をしていたのならば「まさか」の坂道へと突き進んでいくことはある意味で「必然」だったと考えることもできるわけです。さらに言えば、「あのとき」に「あの場所」で「あのこと」をしていたために遭遇した「まさか」と真正面から向き合うということは、「あのとき」に「あの場所」で「あのこと」をしていた自分としての「責任」ではないかと考えることもできるのです。それにしても最近は国際社会でも永田町周辺でも「あまりにも質の悪い『まさか』」が多すぎるような気がしますが…。いったい全体どこの誰がこんな「あまりにも質の悪い『まさか』」を次々と生み出したのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「実際に 声を上げても 止められず 立ち向かっても 止められないかも…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のほとんどすべての人たちは「正しいこと」を「正しいこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「正しいこと」を「正しいこと」であると指摘することができるのでしょうか? また世の中のほとんどすべての人たちは「間違ったこと」を「間違ったこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「間違ったこと」を「間違ったこと」であると指摘することができるのでしょうか? 繰り返しになりますが、たとえ「間違ったこと」に気づいていたとしても、自分自身も被害者になってしまう危険性を避けるためにあえて見て見ぬふりをしてしまうという人たちが少なくないことは現実の社会における深刻な問題点の1つなのではないかと思います。たとえ「間違ったこと」に気づいていたとしても、自分自身も被害者になってしまう危険性がある場合には見て見ぬふりをしてしまうというような人たちが多いときにはどうなってしまうのでしょうか? 例えば、あなたが目の前で「強盗」が行われているのをたまたま見てしまった場合にはどうするのでしょうか? 警察に通報するという人たちは少なくないのだろうと思います。もちろん日本のような平和で豊かな民主主義国家の場合には通報すればすぐに警察が駆け付けるので「強盗」が未遂に終わったりすぐに容疑者が逮捕されたりすることも少なくはないとは思います。しかし、地球上では様々な理由から警察などが存在しなかったり存在しても全く信用できなかったりする国も少なくないのです。警察に通報しても解決することができないときはどうしたらいいのでしょうか? 自分自身も被害者になる危険性を覚悟しながら勇気を持って「強盗」に「やめろ!」などと言う人たちもいるとは思います。しかし、いくら「やめろ!」と言っても目の前の「強盗」という理不尽なことを止めることができないということは少なくないと思います。もちろん「見て見ぬふりをしてしまう人たち」よりも「実際に声を上げた人たち」の方がましなのかもしれないとは思います。しかし、目の前で「強盗」が行われているという現実は変わらないのです。あるいは、もしかすると危険を顧みずに果敢に「強盗」に立ち向かって「強盗」を止めようとするという人たちもいるのだろうと思います。確かに「果敢に立ち向かって止めようとする人たち」は「実際に声を上げた人たち」よりも現実を変化させることができる可能性は高いのだろうと思います。しかし、それでもやはり、果敢に立ち向かっても目の前の「強盗」を止めることができないのかもしれないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『間違った こと』だと気づく 場合でも 見て見ぬふりを してしまうなら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のほとんどすべての人たちは「正しいこと」を「正しいこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「正しいこと」を「正しいこと」であると指摘することができるのでしょうか? また世の中のほとんどすべての人たちは「間違ったこと」を「間違ったこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「間違ったこと」を「間違ったこと」であると指摘することができるのでしょうか? 例えば、世の中のほとんどすべての人たちは「いじめ」を「間違ったこと」であると理解しているのでしょうか? また世の中のほとんどすべての人たちは実際に「いじめ」を「間違ったこと」であると指摘することができるのでしょうか? たとえ「いじめ」を「間違ったこと」であると理解していても実際に「いじめ」を「間違ったこと」であると指摘することができるという人たちばかりではないのだろうと思います。実際に「いじめ」を「間違ったこと」であると指摘することによって自分自身も「いじめ」の標的になるなどという形で被害を受けることになるかもしれないと思って実際に指摘することをためらうような人たちは少なくないのではないかと思います。あえて言い換えれば、たとえ「いじめ」という「間違ったこと」に気づいていたとしても、自分自身も被害者になってしまう危険性を避けるためにあえて「いじめ」という「間違ったこと」を見て見ぬふりをしてしまうという人たちも実際にはかなりいるのだろうと思います。そして「間違ったこと」に気づく場合でも見て見ぬふりをしてしまう人たちが少なくないということも、現実の社会における深刻な問題点の1つではないかと思います。たとえ「間違ったこと」に気づいていたとしても、自分自身も被害者になってしまう危険性がある場合には見て見ぬふりをしてしまうような人たちが多いときにはどうなってしまうのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「禁止した 『理由』が消えた 場合には 廊下を走って よくなったのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のほとんどすべての人たちは「正しいこと」を「正しいこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「正しいこと」を「正しいこと」であると指摘することができるのでしょうか? また世の中のほとんどすべての人たちは「間違ったこと」を「間違ったこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「間違ったこと」を「間違ったこと」であると指摘することができるのでしょうか? 例えば、どこかの国の多くの小中学校では「廊下を走ってはいけない」などという「ルール」があるみたいです。そもそもなぜ「廊下を走ってはいけない」のでしょうか? また多くの小中学生は「廊下を走ってはいけない」理由を知っているのでしょうか? そして多くの小中学生は「廊下を走ってはいけない」理由に納得しているのでしょうか? さらに言えば、多くの小中学生は実際に廊下を走ったりしていないのでしょうか? 取り上げている例に少し戸惑っている人たちも少なくはないと思います。あくまでも念のために付け加えることにするのならば、実は「主語」の「小中学生」を「有権者」に、「廊下を走ってはいけない」を「その他の何か」に変えてみると、現実政治の深刻な問題点が分かりやすくなるかもしれないのです。例えば、もはや「ガソリン税の暫定税率」を課税する理由がなくなっている、だから「ガソリン税の暫定税率」を廃止するなどという主張は本当に正しいのでしょうか? 例えば、「ガソリン税の暫定税率」を廃止すると「地球温暖化対策」に逆行して「地球温暖化」を促進するようなことにはならないのでしょうか? 「廊下を走ってはいけない」理由がなくなったから廊下を走ってもいいということになってしまうのでしょうか? 廊下を走ることを禁止したときの理由が消えた場合には本当に廊下を走ってもいいということになってしまうのでしょうか? ちなみに「廊下を走ってはいけない」理由はたった1つだけではなくいくつか存在するのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「有権者 『選挙』のたびに 騙される? 『選挙』の後も 関心持てば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「民主主義」における「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」というものは「投票」すればそれでお終いなのでしょうか? 「民主主義」とは「選挙」なのでしょうか? あえて繰り返しますが、「民主主義」における「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 本当に「選挙」というものは「投票」すればそれでお終いなのでしょうか? もしも「選挙」というものを「投票」すればそれでお終いにしてもいいものにしてしまうのならば、有権者は簡単に「選挙」のたびに騙されるようになってしまうのではないかと思います。もしも有権者がある政党が「消費税廃止」などの減税を主張していたことを支持して投票したにもかかわらず「選挙」後に実現しなかった場合には、おそらく多くの有権者が次回の「選挙」でその政党に投票するようなことはなくなるのではないかと思います。しかし、もしも有権者が次回の「選挙」で「消費税廃止」などの減税を主張する別の政党に投票するようになる場合には、有権者が次回の「選挙」でも騙されるようになる危険性は小さくないのです。有権者が「青い鳥」などを探し続けているとまでは言いませんが…。何にしても有権者は「選挙」の後も自分自身が投票した政党・候補者、そして自分の投票によって様々な影響を与えることになるその他のものについても十分な関心を持ち続けるべきではないかと思います。「選挙」の後にも十分な関心を持ち続けることこそが有権者が「選挙」のたびに騙され続けるのを防ぐ「自衛策」の1つになると思います。「選挙」というものは「投票」すればそれでお終いなのでしょうか? どんなに少なくとも「民主主義」とは「選挙」ではないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「投票で 選挙結果で 阻止できる? 『住民投票』 にしたときには…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「民主主義」における「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」というものは「投票」すればそれでお終いなのでしょうか? 「民主主義」とは「選挙」なのでしょうか? 繰り返しになりますが、「選挙」というものは本当に「世論調査」や「住民投票」のようなものなのでしょうか? あえて言い方を変えれば、「選挙」というものに「ある特定の政策」に対する「世論調査」や「住民投票」としての意味を持たせることが本当にできるのでしょうか? 「選挙」というものに「ある特定の政策」に対する「世論調査」や「住民投票」としての意味を持たせるためには、その選挙結果が「ある特定の政策」の実現や阻止に対して非常に大きな影響を与える可能性があるということが必要不可欠になるのです。そもそも選挙結果が「ある特定の政策」の実現や阻止につながる可能性がないのならば、「ある特定の政策」の実現や阻止を本気で目指しているような有権者は、その「選挙」を「世論調査」や「住民投票」とみなす可能性は低くなると思われます。また「ある特定の政策」の実現や阻止を本気で目指しているような有権者であっても、その「選挙」を「世論調査」や「住民投票」とみなしてしまうと他の重要な政策の実現や阻止ができなくなってしまうような場合には、その「選挙」を単純な「世論調査」や「住民投票」とみなすことに躊躇する可能性も低くはないと思われます。もっとも現実政治においては、大昔にどこかの国の地方選挙で大勝した野党党首が「消費税反対の住民投票に勝利」などと発言したような状況が発生してしまうことは偽らざる現実なのです。そもそもいくら地方選挙で大勝したとしても国会で法律を成立させなければ実現することができない消費税の廃止や撤回を実現することができるようになるわけではないのです。さらに言えば、実際に「選挙」を「住民投票」などにしてしまったときにはどうなってしまうのでしょうか? どんなに少なくとも「選挙」を「住民投票」などにして消費税が廃止や撤回されさえすればその地方がどうなってもいいということにはならないはずなのですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「有権者 なぜ投票を? 『選挙』とは 『世論調査』と 見るべきなのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「民主主義」における「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」というものは「投票」すればそれでお終いなのでしょうか? 「民主主義」とは「選挙」なのでしょうか? もしかすると「選挙」というものは「世論調査」や「住民投票」のようなものなのでしょうか? もしも「選挙」というものが本当に「世論調査」や「住民投票」のようなものであるのならば、かなり質の低い「世論調査」や「住民投票」ということになってしまうのではないかと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「選挙」では、ある政策に対する賛成や反対と、ある政党に投票するか投票しないかということが明確な形で結びついているわけではないのです。言い換えるのならば、例えば、ある政策に反対する人たちはある政党だけではなくその政策に反対している別の政党にも投票する可能性があるわけですし、ある政策に賛成する人たちが不祥事を理由にある政策の実現を唯一主張しているある政党には投票しないという可能性もあるのです。このことは「選挙」を「世論調査」や「住民投票」と見ようとする場合には致命的な欠陥になるのです。もっとも「ある1つの政策」の実現だけを主張するいわゆる「単一政策政党」の選挙における得票数の増加は、ある意味では「ある1つの政策」についての「世論調査」や「住民投票」を実施してそれなりに有権者から支持されたと考えることもできなくはないと思います。しかし、どんなに少なくとも、政権を担当することを視野に入れて様々な政策を体系的に掲げている政党の場合には、いくら「消費税廃止」などの減税や負担減を看板政策として主張していたとしても、減税や負担減以外の政策が評価されて得票数が増加することもあるわけですし、減税や負担減以外の不祥事などが原因で得票数が大幅に減少することもあるわけです。本気で「選挙」を「世論調査」や「住民投票」と見ようとする場合には致命的な欠陥があるということに気づくことになると思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『ビジネス』で 『合意文書』は 守るもの! 『政治』の現場 ではどうなのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には様々な「合意」や「約束」などがあります。「合意」や「約束」などで大切なことは何なのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前のことですが、「合意」や「約束」では、「合意」が履行されることや「約束」が守られることが最も大切なことになります。もちろん大切なことはたった1つだけではないと思います。しかし、それでもやはり、履行されない「合意」や守られない「約束」が期待外れであることだけは確かなのです。 当たり前と言えば当たり前の話ですが、「ビジネス」の現場では「合意文書」というものは守るべきものなのです。そして当事者が「合意文書」に書かれた内容を守るということを前提にするのならば、具体的にどのような内容を記載するのか、また具体的にどのような文言として記載するのかなどということにかなりの時間と神経を使って「合意文書」が作成されることになるはずなのです。これに対して「政治」の現場、特に国内政治の現場では、膠着状態に陥った局面を打開するために様々な事情から必ずしも当事者が合意を守ることを前提としていないような「あいまいな内容の合意文書」が作成されるようなことはとてもよくある話なのです。ちなみに「ビフじいさんのような人」が言っている「合意文書」というものは、「ビジネス」の現場でも十分に通用するような「合意」の具体的内容などを厳密に定義した上で作成された「契約書」のような「合意文書」なのでしょうか? また「合意文書」の当事者は「個人」と「個人」なのでしょうか? あるいは、「どこかの国」と「かつて偉大だった国」の間の「条約」と言えるような内容や形式の「合意文書」なのでしょうか? さらに言えば、「ビフじいさんのような人」は「ビジネスマン」なのでしょうか? それとも「ビフじいさんのような人」は「大統領」という肩書を持った「政治家」なのでしょうか? 「成果」として華々しく強調されている「合意」が一時しのぎのものでなければいいのですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『関税』は 『10% 削減』か? 『10% 以上増加』へ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には様々な「合意」や「約束」などがあります。「合意」や「約束」などで大切なことは何なのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前のことですが、「合意」や「約束」では、「合意」が履行されることや「約束」が守られることが最も大切なことになります。もちろん大切なことはたった1つだけではないと思います。しかし、それでもやはり、履行されない「合意」や守られない「約束」が期待外れであることだけは確かなのです。 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「どこかの国」から「かつて偉大だった国」に輸出するときの「関税」は、「10%削減」されたわけではなく「10%以上増加」したということなのではないのでしょうか? たしかに「どこかの国の政府」の「当社比」では「25%」の「関税」が課されるところだったにもかかわらず、「交渉」によって「10%削減」して「15%」にしたなどということになるのかもしれないと思います。しかし、もともと「15%以下」だった「どこかの国の業界」などの「当社比」では、「交渉」によって新たに「10%以上増加」することになっただけではないかと思います。あくまでも一般論ですが、「関税」が増加すれば、「どこかの国」から「かつて偉大だった国」への輸出は基本的には減少することになるのだろうと思います。その場合には「かつて偉大だった国の政権側」の「当社比」では、貿易赤字は減少するということになるのだろうと思います。しかし、その場合に「かつて偉大だった国の消費者」の「当社比」では、今まで当たり前のように買っていた製品が急に値上がりしたりなかなか手に入らなくなったりするという形でこれまで受けてきた「利益」を新たに失うことになるのです。要するにそれぞれの立場によって「当社比」が異なるために「合意」や「約束」に対する評価が違ってくる可能性が高いのです。言い換えれば、「合意」が履行されてもされなくても、「約束」が守られても守られなくても、いくつかの立場では「合意」や「約束」が「期待外れ」になる危険性が高いわけです。きょうのところはそれぞれの立場に違いがあるということをあえて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『当社比』で 判断すると どうなるか? 『合意』は履行? 『約束』守る?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には様々な「合意」や「約束」などがあります。「合意」や「約束」などで大切なことは何なのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前のことですが、「合意」や「約束」では、「合意」が履行されることや「約束」が守られることが最も大切なことになります。もちろん大切なことはたった1つだけではないと思います。しかし、それでもやはり、履行されない「合意」や守られない「約束」が期待外れであることだけは確かなのです。 あくまでも念のために確認しておきますが、「合意」というものは、いったいどのような状態になったら履行されたと判断されることになるのでしょうか? また「約束」というものは、いったいどのような状態になったら守られたと判断されることになるのでしょうか? もしも当事者が「合意」や「約束」をするときに、「合意」を履行するとか「約束」を守るということがいったいどのようなことを意味するのかなどということについて、両者の認識が完全に一致しているのかどうかということを確認しておかなければ、そう遠くない将来に深刻な対立が発生する危険性が高くなってしまうのです。例えば、一方の当事者は「合意」を履行したとか「約束」を守っていると主張しているが、もう一方の当事者が「合意」は履行されていないとか「約束」を守っていないと反発しているような場合は、おそらく当事者が「合意」や「約束」をしたときに認識が一致しているかどうかを確認していなかったことに原因があるわけです。ちなみに多くの社会では商品の性能が「当社比で〇%増加」「当社比で過去最大」などという「広告」はたくさんあふれているわけです。あえて付け加えるのならば、「当社比」で判断すれば「〇%増加」しているから「合意」や「約束」は守られているとか、いや、こちらの「当社比」で判断すると「合意」や「約束」は守られていないとか…。「ビフじいさんのような人」が「過去最大の合意」「かつてない規模のもの」などと大げさに成果を強調していることに違和感を覚えている人たちの「嫌な予感」が的中しなければいいのですが…。 ======================================= 「選挙後も 『ねじれ』解消 難しく してしまったと 分かっているか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「政治空白」とはいったい何なのでしょうか? 「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが欠けている状態のことを意味しているのでしょうか? あるいは、「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを意味しているのでしょうか? それとも「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などに能力が欠ける人物が就いていることを意味しているのでしょうか? 「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? あえて率直に言わせてもらうのならば、昨年の衆議院選挙で敗北して衆議院で議席数の過半数を確保できなくなり、さらに今年の参議院選挙でも敗北して参議院でも議席数の過半数を確保できなくなったにもかかわらず、なぜ「少数与党」として居座り続けることができるのかということはごく普通の多くの人たちにとってはやはり大いに疑問なのではないかと思います。「少数与党」が新たな政権の枠組みを模索するとしても、そう遠くないうちに行き詰まって「下野」などをすることになるとしても、やはり有権者の意思を問うために解散・総選挙が必要不可欠になります。しかし、少なくとも現時点においては、解散・総選挙後も衆議院と参議院で多数派が異なる「ねじれ」の状態を解消することができる可能性は極めて低い状況になっているということには注意が必要になります。今回の参議院選挙を衆参同日選挙にして「事実上の政権選択選挙」にすることがなかったということもあり、参議院の政治勢力の「多極化」はかなり著しいものになっているのです。最悪の場合には、「多極化」した参議院の政治勢力の中から連立政権をつくることが不可能ではないどのような政治勢力の組み合わせであっても「あちらを立てればこちらが立たず」の状態になってほとんどの重要法案や予算の成立が極めて難航する危険性が高いのです。ここまで著しい参議院の政治勢力の「多極化」は国内政治の停滞を長期化させる危険性が非常に高いのです。そしてそれは衆議院を解散して衆議院選挙を実施するだけでは解消することはできないのです。繰り返しになりますが、「政治空白」とは「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを意味しているのでしょうか? それとも「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などに能力が欠ける人物が就いていることを意味しているのでしょうか? 「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『関税』で 消費者側も 損をする! 『トランプ恐慌』 引き金を引く?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「政治空白」とはいったい何なのでしょうか? 「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが欠けている状態のことを意味しているのでしょうか? あるいは、「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを意味しているのでしょうか? それとも「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などに能力が欠ける人物が就いていることを意味しているのでしょうか? 「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? 何度も繰り返していますが、「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? 「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを「政治空白」と呼ぶべきではないのでしょうか? さらに言えば、たとえ相手国と「交渉」をしてどのような「合意」をしてどのような「約束」をしたとしても、その相手国の「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などがその国内では何も決められず何も実現することができない状態であるのならば、外国から見れば「政治空白」ということに本当にならないのでしょうか? いくら「交渉」をして「合意」をしたとしても相手側がその「合意」を約束通りに実行することができない状態であるのならば、本気で「交渉」しても時間の無駄だと考えたとしても少しも不思議ではないはずなのです。その上で、多少の誤解を恐れずにあえて単純化して言わせてもらうのならば、「ビフじいさんのような人」にとっては自分が望んでいる内容を一方的に相手側が実行すると「約束」する可能性がなければ「交渉」する意味はないということになるのかもしれないと思います。言い換えれば、たとえ衆議院が解散されていたとしても解散されていなかったとしても「約束」したことをきちんと実行することができる相手が存在しなければ、「交渉」が上手くいく可能性は事実上0%(ゼロパーセント)ということになるのだろうと思います。そのように考えるのならば、「関税」が引き上げられてしまう危険性はかなり高いことになるわけですが、「ビフじいさんのような人」は本当に「関税」を引き上げることになるのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、「関税」というものは輸出する側ではなく輸入する側が支払うものなのです。単純化して言えば、「関税」というものはその国の消費者側が「値上がり」という形で負担することになるのです。一般的にモノやサービスの価格が「値上がり」すれば、以前よりも売れる量が減少することになります。売れる量が減少するということは、輸出する側だけではなく、輸入する側の経済にも悪影響があるということには注意が必要になります。そして輸入されていたモノが消費者にとって今現在の生活に必要で他のモノでは代替することができないものであるのならば、以前よりもずっと多くのカネを支払うことになってもそのモノを手に入れなければならなくなるわけです。要するに、「関税」というものはその国の消費者側も損をすることになるし、その国の経済にも悪影響を与えることになるのです。そしてもしも貿易額が非常に大きな相手国に対して本気で「関税」を大幅に引き上げるということになるのならば、経済の急激かつ大幅な停滞を覚悟しなくてはならなくなるはずなのです。もしも「ビフじいさんのような人」とその周辺が合理的な判断をすることができるのならば、本当に「トランプ恐慌」の引き金を引くことになりかねない「関税」引き上げを次々と実施していくことになるのかは少し疑問なのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『たら』『れば』の 話は『禁句』 だとしても 『同日選』を やるべきだった…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「政治空白」とはいったい何なのでしょうか? 「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが欠けている状態のことを意味しているのでしょうか? あるいは、「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを意味しているのでしょうか? それとも「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などに能力が欠ける人物が就いていることを意味しているのでしょうか? 「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? 繰り返しになりますが、「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? 「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを「政治空白」と呼ぶべきではないのでしょうか? 歴史などでは「たら」「れば」は「禁句」などと言われることがよくあります。その上で、あえて「たら」「れば」の話をすることにすれば、もしも参議院選挙直前に衆議院を解散してい「たら」、そして衆参同日選挙にしてい「れば」、もしかすると今現在の「政治空白」は発生していなかったのかもしれませんし、仮に発生したとしてもかなり短期間のうちに解消することができていたのかもしれないと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、どこかの国の制度では衆議院での内閣総理大臣の指名選挙で過半数(あるいは多数)の議席数を確保した政治勢力が「与党」になるのです。言い換えれば、衆議院選挙は「政権選択選挙」になり得るわけですが、参議院選挙は「政権選択選挙」はもちろん「事実上の政権選択選挙」にも普通はならないのです。そしてもしも参議院選挙を「事実上の政権選択選挙」にしたいのならば、そのときには同時に衆議院選挙も行うことによって「政権選択選挙」を実施する必要があるのです。もしも「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態という意味での国民にとって大きな不利益になる「政治空白」が発生する危険性を可能な限り低下させるということを最優先で考えていたのならば、衆参同日選挙を選択するべきであったと考えています。本当に国民のことを最優先で考えていたのならば、衆参同日選挙を選択するべきであったのです。しかし、それにもかかわらず、実際には衆参同日選挙が実施されることはなかったわけです。政治でも「たら」「れば」は「禁句」なのかもしれませんが、「私利私欲」「党利党略」にとらわれずに、国民の利益を最優先で考えた場合にどのような選択をするべきだったのかということを今あえて立ち止まって考えてみる必要があります。くどいようですが、「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? 「内閣総理大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを「政治空白」と呼ぶべきではないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「何事も 決められないし 実現も できないのなら 『政治空白』!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「政治空白」とはいったい何なのでしょうか? 「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが欠けている状態のことを意味しているのでしょうか? あるいは、「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを意味しているのでしょうか? それとも「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などに能力が欠ける人物が就いていることを意味しているのでしょうか? 「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? 内政でも外交でも課題が山積する中で「政治空白」をつくってはならない? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、もっともらしくいったい何を愚かなことを言っているのでしょうか? 両院で過半数の議席数を確保することができていない政治勢力の「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態は「政治空白」ではないのでしょうか? ほとんどすべての政策を実現するために必要不可欠となる法律案や予算案を可決・成立させる見通しが全く立たない状態のことをなぜ「政治空白」と呼ばないのでしょうか? さらに言えば、外国から見れば、相手国と「交渉」をしてどのような「合意」をしてどのような「約束」をしたとしても、その相手国の「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などがその国内では何も決められず何も実現することができない状態であるのならば、「交渉」しても時間の無駄だと見なされることになってしまう危険性が非常に高いのです。繰り返しになりますが、「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? その上で、あえて念のために確認しておきますが、そもそも衆議院だけではなく参議院でも過半数の議席を確保することができていないような政治勢力を本当に「少数与党」と呼ぶべきなのでしょうか? たとえどんなに強く「少数与党」の地位にしがみついたとしても衆議院で内閣不信任決議案が可決されるまでの間は暫定的に「与党」であるという不安定な状態にすぎないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「『需要』ない 場所ではあまり 売れないが 地球のどこか では『需要』ある!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、誰かが誰かではなく別の誰かを愛するようになるのかどうかなどということについては「権力」などによって決めることができるわけではないのです。さらに言えば、ある人がある物よりも別の物を好きになるのかどうかということについても「権力」などによって決めることができるわけではないのです。 あくまでも一般論ですが、例えば、「ジープ」などと呼ばれている「悪路でも安全に高速で走行することができる高性能の大型四輪駆動車」は、たとえいくら魅力的なデザインであったとしても、「道路が整備されている狭い場所」ではあまり「需要」がないのだろうと思います。しかし、そんな「悪路でも安全に高速で走行することができる高性能の大型四輪駆動車」は、道路事情が良くない地球上のどこか別の場所では非常に高い「需要」があるのではないかと思います。さらに言えば、例えば、「輸送能力の大きな大型のドローン」は「都市化が進んだ狭い場所」ではなかなか使用することができなくて「需要」はほとんどないかもしれませんが、広大な大平原が広がる中に集落が点在しているような場所では非常に高い「需要」があるのではないかと思います。「需要」がある場所では売れても「需要」がない場所では売れないというのが通常の自由経済の姿です。しかし、「需要」がほとんどない場所で買って「需要」が非常に高い場所に贈るというある意味で特殊な「需要」も考えられるはずなのです。例えば、日本で買ってウクライナや中東やアフリカに贈るとか…。私に言わせれば、「ある物」をその「需要」がほとんどない場所で買って「需要」が非常に高い場所に贈るという「アイディア」が少しも出てこないことが不思議なのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『不公平』? 自分の『息子』 『娘』なら 『主役』になれる はずだと言うが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、誰かが誰かではなく別の誰かを愛するようになるのかどうかなどということについては「権力」などによって決めることができるわけではないのです。さらに言えば、ある人がある物よりも別の物を好きになるのかどうかということについても「権力」などによって決めることができるわけではないのです。 もしかすると「ビフじいさんのような人」がどこかの国で「ステージママ(あるいは、ステージパパ)」などという「和製英語」で呼ばれているような種類の人に見えてきたという人たちも増えてきているのではないかと思います。あくまでも一般論ですが、どこの国でも映画やミュージカルなどで自分の娘や息子が「主役」になれないのは「不公平」などという自己中心的な主張はなかなか受け入れられるものではないはずなのです。確かにすべての映画やミュージカルなどで「主役」が公正・公平にその俳優の実力に基づいて選ばれているとは言えないのだろうと思います。地球上のどこでもカネやコネなどという特別な「力」によって本来ならば選ばれることがなかった実力不足の俳優が「主役」に選ばれるようなことは珍しいことではないのだろうと思います。しかし、だからと言って、自分の娘や息子が「主役」になれないのは「不公平」などという自己中心的な主張に説得力が生み出されることはまずないのです。そもそも客観的に見て本当に自分の娘や息子は「主役」を務めることができるだけの十分な実力のある「俳優」なのでしょうか? もちろんそのような指摘に素直に耳を傾けることができる相手であるのならば、「ステージママ(あるいは、ステージパパ)」などという「和製英語」で呼ばれることはないのだろうと思いますが…。その上で、あえて付け加えることにするのならば、「ビフじいさんのような人」の娘や息子のような「米国製品」は本当に世界市場や米国市場で「主役」を務めることができるだけの十分な実力のある「俳優」なのでしょうか? どんなに少なくとも「すべてYES」でも「すべてNO」でもないことだけは確かなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「売れるはず? なぜそう強く 思い込む? 『視野』が狭くて 『需要』が見えず?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、誰かが誰かではなく別の誰かを愛するようになるのかどうかなどということについては「権力」などによって決めることができるわけではないのです。さらに言えば、ある人がある物よりも別の物を好きになるのかどうかということについても「権力」などによって決めることができるわけではないのです。 そもそもいったいなぜ「売れるはず」だとそんなに強く思い込むことができるのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、激しい吹雪の中で凍死しそうになっている人たちが「アイスクリーム」や「かき氷」を欲しがるようなことはないと思います。「売れるはず」だと思い込んでいるのが「温かいスープ」などならばまだ理解することができないわけでもないのですが…。さらに言えば、例えば、自分にピッタリのサイズで気に入っている服を何着も持っている人たちには、いくらデザインが素晴らしくてもサイズが大きすぎる上に自分で洗濯するのが難しくてクリーニング店に依頼しなくてはいけないような服が爆発的に売れることはないと思います。被災して着替える服を一着も持っていないようなときならばどんな服でも「売れるはず」だと思い込むような人間が出てくることもあり得ないわけではないのだろうと思いますが…。繰り返しになりますが、そもそもいったいなぜ「売れるはず」だとそんなに強く思い込むことができるのでしょうか? 「視野」があまりにも狭いために「需要」が全く見えていないのでしょうか? 地球上には「ビフじいさんのような人」が「不動産」を持っているような場所とは違った特徴を持っている場所はいくらでもあるのです。また地球上には「ビフじいさんのような人」とその仲間たちのような種類の人間たちしかいないというわけではないはずなのです。「ビフじいさんのような人」の根拠のない強い思い込みには本当に困ったものです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『新党』も 『大政党』も なぜ同じ? 『公平』なのか? 『公正』なのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 あくまでも一般論ですが、どこかの国の多くのマスメディアの選挙報道には致命的な欠陥があるようです。多くのマスメディアの選挙報道でも「政策」の実現可能性というものをほとんど考慮せずにほとんど同じような扱いをしているのです。なぜ「新党」も「大政党」もほとんど同じような扱いになってしまっているのでしょうか? 「新党」も「小政党」も「大政党」も同じような扱いにすることが本当に「公平」なのでしょうか? 同じような扱いにすることが本当に「公正」なのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、民主主義の制度の下では、「政策」の実現のために必要となる法律案や予算案などは、多数決によって多数にならなければ、成立させることができないわけです。そうであるのならば、固定的な支持者の数や世論調査の支持率などから「過半数」の議席を獲得する可能性が十分にあると予想される「政党」が掲げている「政策」と、支持率や候補者数などからは「過半数」の議席を獲得する可能性はほとんどないと見られる「政党」が掲げている「政策」を「公平」に扱う必要が本当にあるのでしょうか? あえて言い換えれば、実現可能性がそれなりに高い「政策」と、実現可能性がほとんどない「政策」を同じような扱いにすることは本当に「公正」なのでしょうか? マスメディアは多くの有権者が実現可能性のほとんどない「政策」を選ぶことを黙って見ているだけなのでしょうか? それが公正や公平な選挙報道なのでしょうか? 「政策」の実現可能性というものをほとんど考慮しない多くのマスメディアの選挙報道は中長期的に見れば政治不信を高めたり投票率を下落させたりする大きな原因の1つになる危険性が高いと考えています。きょうのところはそのことを指摘するだけにとどめてあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『政策』で 『投票先』と マッチング? 『一致』はしても 実現可能?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 どうやら最近は「選挙」などに関連して「ボートマッチ」などというものが流行しているようです。最近よく見る「ボートマッチ」などというものは、自分自身の(重視する)「政策」と政党や候補者が掲げている「政策」との「一致度」などが算出されるものになっています。そして有権者は「政策」の「一致度」などを参考にして自分自身が投票する政党や候補者を決めることができるのです。言い換えれば、「政策」によって「有権者」と「投票先」をマッチングしようとしているわけです。しかし、最近よく見る「ボートマッチ」などというものには致命的な欠陥があるということにはよくよく注意をする必要があるのです。いわゆる「ボートマッチ」などというものには、それぞれの「政策」の実現可能性などというものが全く考慮に入れられていないという致命的な欠陥があるということをあえて指摘しておく必要があります。「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「ボートマッチ」などで「投票先」を決めて投票すればそれでお終いなのでしょうか? いくら「政策」が「一致」したとしても、実際に投票してもその「政策」が実現する可能性がほとんどない場合には投票した意味がどれだけあるのでしょうか? 多くの有権者は自分が支持する「政策」が自分自身の一票によって実現することができるようになることを期待して投票しているのではないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「その『夢』を 実現させる ことできる? 実現させる 能力はある?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 例えば、急きょ「始球式」をやることになったスポーツ経験がほとんどない人がわずか1カ月間の週2回の投球練習だけで球速150km以上のストレートをストライクゾーンに投げるなどということは本当に実現可能なことなのでしょうか? たとえ幼い頃からほぼ毎日ずっと投球練習やトレーニングを続けてきたような野球の強豪高校のエース投手であったとしても球速150km以上のストレートを投げることは簡単なことではないのです。そのようなことに注意するだけでも「始球式で球速150km以上のストレートをストライクゾーンに投げる」などという「公約」が実現可能かどうかについてかなりの正確性を持って予測することができるのです。もちろんどこの誰であっても「始球式で球速150km以上のストレートをストライクゾーンに投げる」などという「夢」を持つことは自由です。しかし、その「夢」を実現させることができるだけの十分な能力がなければその「夢」はずっと「夢」のままなのです。「夢」のようなことを「公約」として掲げている政党や候補者はその「夢」のような「公約」を本当に実現させることができるだけの十分な能力があるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「その『夢』は 実現できる ものなのか? そもそもそれは 実現可能?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 例えば、たとえどこの誰であったとしても「プロのスポーツ選手になりたい」などという「夢」を持つことは自由です。あるいは、たとえどこの誰であったとしてもアクション映画などの「ヒーロー」や「ヒロイン」になりたいという「夢」を持つことも自由です。しかし、「プロのスポーツ選手になりたい」などという「夢」を実現することができるのは非常に限られたごく一部の人たちだけであるということは決して見失ってはならないのです。さらに言えば、おそらく現実の世界では、実際にアクション映画などの「ヒーロー」や「ヒロイン」になることはできないということにも注意が必要になります。もしかするとかつて自分が見ていたのと同じ「夢」の実現のために今現在頑張っている人たちを応援したいなどと思うような人たちもいるのかもしれないと思います。もちろん「選挙」で自分と同じ「夢」を見ている政党や候補者に投票することが悪いことだとは言うつもりはないのです。しかし、そもそもその「夢」は本当に実現することができるものなのかということを一度立ち止まって考えてみる必要があります。その「夢」は「プロのスポーツ選手になりたい」などという種類の「夢」なのでしょうか、それとも…。もちろん「選挙」で自分と同じ「夢」を見ている政党や候補者に投票してもその「夢」が実現する可能性はほとんどないかもしれないなどということを十分に理解した上で投票しているのならばそれはそれで自由なわけですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『日本製』 どれだけ魅力 あるものか? すぐに代替 できてしまうか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、誰かが誰かではなく別の誰かを愛するようになるのかどうかなどということについては「権力」などによって決めることができるわけではないのです。さらに言えば、ある人がある物よりも別の物を好きになるのかどうかということについても「権力」などによって決めることができるわけではないのです。 もしも「日本製のあるもの」が市場から消えてしまった場合には、すぐに「他の何か」によって代替することができるのでしょうか? 「日本製のあるもの」のはどれだけ魅力のあるものなのでしょうか? もしも「日本製のあるもの」が「他の何か」によってそう簡単には代替することができないものであるのならば、新しく高い「関税」を課せられるようになって輸入量が減って値上がりした場合であっても「消費者」は「日本製のあるもの」を買い続けることになるのだろうと思います。逆に、もしも「日本製のあるもの」が「他の何か」によって簡単に代替することができるようなものであるのならば、新しく高い「関税」を課せられた場合には「日本製のあるもの」がそのまま市場から消えてしまう危険性が高くなるのだろうと思います。ここで問題になるのは、本当に「どこかの国」の産業が「日本製のあるもの」を代替することができる「他の何か」について妥当な価格で必要な量を供給することができるのかどうかということです。もしも「どこかの国」の産業が妥当な価格で「日本製のあるもの」を代替することができる「他の何か」を必要な量だけ供給することができないのならば、「どこかの国」は「日本製のあるもの」を代替することができる「他の何か」を不足した分だけ別のところから新たに輸入するか、あるいは、不足した分だけは「関税」によって値上がりした「日本製のあるもの」を買い続けなければならないことになります。さらに言えば、もしも「どこかの国」の産業が「関税」によって値上がりした「日本製のあるもの」とほとんど変わらない価格でしかそれを代替する「他の何か」を供給することができないのならば、高い「関税」によって値上がりした負担増のほぼすべてを「どこかの国」の「消費者」が負担させられることになってしまうのです。繰り返しになりますが、「日本製のあるもの」は「他の何か」によって代替することができるのでしょうか? 「日本製のあるもの」が代替することができる場合であっても代替することができない場合であっても「関税」を引き上げることによって発生した負担増のほとんどは事実上「どこかの国」の「消費者」が負担することになる可能性が高いのです。きょうのところはあえてそのことを強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『関税』で 『センター』の座を 勝ち取れる? 『ファン』の気持ちは 考えないで…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、誰かが誰かではなく別の誰かを愛するようになるのかどうかなどということについては「権力」などによって決めることができるわけではないのです。さらに言えば、ある人がある物よりも別の物を好きになるのかどうかということについても「権力」などによって決めることができるわけではないのです。 今回も多少の誤解を恐れずにあえて少し意外な事例を取り上げることにします。例えば、もしも「人気アイドルグループ」の「人気メンバー」に新しく高い「関税」を課したとするのならば、その「人気アイドルグループの別のメンバー」が「人気メンバー」に代わって「センター」の座を勝ち取ることができるようになるのでしょうか? もしかすると「人気メンバーのファン」はたとえ高い「関税」で負担増になったとしても「人気メンバー」をこれまでと同じように応援し続けるかもしれないのです。その場合には「人気メンバー」は「不動のセンター」のままということになるのだろうと思います。その一方で、もしも「人気メンバーのファン」でも負担することができなくなるほど「関税」が高くなった場合には、「人気メンバー」は「卒業」ということになってしまい、おそらく「別のメンバー」が「人気メンバー」に代わって「センター」の座を勝ち取ることになるのだろうと思います。しかし、「人気メンバー」が卒業した「アイドルグループ」はもはや「人気アイドルグループ」ではなくなっている可能性が高いのです。「ファン」の気持ちを考えなければ、仮に「センター」の座を勝ち取ることができたとしても「アイドルグループ」の「人気」がなくなってしまう…。「どこかの国の経済」も「アイドルグループ」のようなものとまではあえて言わないことにしておきますが、仮に「関税」によって「センター」の座を取り戻すことができたとしても「消費者」を軽視するのならば「経済」が縮小してしまう危険性が高くなるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『関税』で 『ロミオ』ではない 別の人 愛するように なるというのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、誰かが誰かではなく別の誰かを愛するようになるのかどうかなどということについては「権力」などによって決めることができるわけではないのです。さらに言えば、ある人がある物よりも別の物を好きになるのかどうかということについても「権力」などによって決めることができるわけではないのです。 多少の誤解を恐れずにあえて少し意外な事例を取り上げることにします。例えば、もしも「ロミオ」と「ジュリエット」に対して「権力」を行使して結婚を認めないという決定をした場合には、決定後に「ロミオ」と「ジュリエット」は互いに相手のことを愛さなくなるというのでしょうか? さらに言えば、もしも「ロミオ」に新たに非常に高い「関税」を課すことにしたのならば、「ジュリエット」は「ロミオ」のことを諦めて親から決められた相手と喜んで結婚するようになるというのでしょうか? ごく普通の多くの人たちにはそんなバカなことはあり得ないということがすぐに分かると思います。しかし、地球上には「権力」や「関税」を振り回しているだけで世の中のほとんどすべてのことを解決することができるなどという致命的な勘違いを続けている人間たちがまだまだたくさん残っているのです。その上で、あくまでも念のために付け加えるのならば、たとえ200%の「関税」をかけたとしても「ビフじいさんのような人」に「関税」や「権力」ではない別のものの価値を正しく理解させることは極めて難しいことだけは確かなのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「実際に 『美味しい料理』 つくれるか? つくろうとして 見抜ける『嘘』も…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 何度も繰り返していますが、多少の誤解を恐れずにあえて言わせてもらうのならば、「料理人」などではない私にとっては「政治」というものは「料理」によく似ているように見えるのです。そして「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないと思っているのです。例えば、いくら「美味しい料理」の「レシピ」を手に入れることができたとしても、そこに書かれている「食材」が非常に高価なものだったりごく稀にしか手に入れることができない非常に珍しいものだったりする場合には、その「美味しい料理」を実際につくって食べることは事実上不可能になってしまうのかもしれないと思います。あるいは、例えば、いくら「美味しい料理」の「レシピ」を手に入れることができたとしても、超一流の料理人であってもなかなかつくることができないような非常に高度な匠の技が要求されるような場合には、その「美味しい料理」を実際につくって食べることはやはり事実上不可能になってしまうのかもしれないのです。その上で、もしもその「美味しい料理」を実際につくって食べることは何らかの理由のために事実上不可能な状況であるにもかかわらず、どこかの政党や候補者がその「美味しい料理」を希望する人たちには全員に食べさせてみせるなどと「公約」している場合には、その「公約」は実現することができない可能性が極めて高いと判断することができるわけです。自分たちが実際に「美味しい料理」をつくってみようとした経験があったからこそ簡単に見抜くことができるような「嘘」も存在するということは指摘しておく必要があります。いずれにしても「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないのです。繰り返しになりますが、「メニュー」だけを見て「美味しい料理」を注文して「期待外れ」になるようなことをいったいいつまで繰り返すつもりなのでしょうか? きょうも改めてそのことを指摘した上で強調することにしておきます。 ======================================= 「それぞれが 協力すれば 実際に 『美味しい料理』 かどうかが分かる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 繰り返しになりますが、多少の誤解を恐れずにあえて言わせてもらうのならば、「料理人」などではない私にとっては「政治」というものは「料理」によく似ているように見えるのです。そして「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないと思っているのです。例えば、もしも「美味しい料理」の「レシピ」などがどこかで公開されているのならば、「レシピ」を参考にしながら実際につくってみて「美味しい料理」かどうかを確かめてみるという人たちもいると思います。もちろんすべての人たちが実際につくってみて「美味しい料理」かどうかを確かめるようなことができるわけではないのです。世の中には料理が得意な人たちもいれば、そうではない人たちもいるわけです。しかし、料理が得意な人たちとそうではない人たちが協力して「美味しい料理」かどうかを確かめてみることもできるのです。料理は得意ではないけれども「レシピ」や「食材」を調達するのが得意な人たち、あちこち食べ歩いていてそれが「美味しい料理」かどうかを判断することに自信があるという人たち、実際に「美味しい料理」が食べられるかもしれないのならば多少の費用を負担しても惜しくはないと思っている人たち、そして料理をつくるのが得意な人たちが互いに協力すれば、一人では確かめてみることができなかったことを確かめてみることができる可能性が高くなるのです。いずれにしても「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないのです。繰り返しになりますが、「メニュー」だけを見て「美味しい料理」を注文して「期待外れ」になるようなことをいったいいつまで繰り返すつもりなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「美味しそう? でも実際は どうなのか? 『メニュー』だけ見て 注文すれば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 繰り返しになりますが、多少の誤解を恐れずにあえて言わせてもらうのならば、「料理人」などではない私にとっては「政治」というものは「料理」によく似ているように見えるのです。そして「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないと思っているのです。もしも初めての店などで「メニュー」だけを見て「美味しい料理」を注文しなくてはならないのならば、その場合には様々な「リスク」が存在するはずなのです。例えば、インターネットで検索して見つけたホームページ上などで「美味しい料理」を注文する場合には、そもそも本当に注文したものが約束通りに届くのかということにも小さくはない「リスク」が存在するということを忘れてはならないのです。そしてその場合には、実際に届いたものが本当に「美味しい料理」であるかどうかということについてももちろん「リスク」が存在するわけです。さらに言えば、もしも「美味しい料理」がある人たちにとっては本当に「美味しい料理」であったとしても、別の人たちにとっては「美味しい料理」ではなかったなどということもあるのです。いずれにしても「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないのです。「メニュー」だけを見て「美味しい料理」を注文して「期待外れ」になるようなことをいったいいつまで繰り返すつもりなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「その人が 『美味しい料理』 食べたいと 思ったときに どう動くのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 多少の誤解を恐れずにあえて言わせてもらうのならば、「料理人」などではない私にとっては「政治」というものは「料理」によく似ているように見えます。もしもあなたが「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにはいったいどうするのでしょうか? インターネットを検索して「美味しい料理」を注文すればすぐに配達してくれる店などを探そうとするのでしょうか? それとも歩き回って実際に美味しそうな匂いがしている飲食店を探そうとするのでしょうか? あるいは、「美味しい料理」のレシピや材料などを手に入れて実際に自分でつくってみようと思うのでしょうか? さらに言えば、「美味しい料理」を買ったりつくったりするために必要なおカネがないときにはいったいどうするのでしょうか? もしかすると「美味しい料理」をつくると「公約」した政党や候補者に投票しようと思うのでしょうか? あるいは…。いずれにしても「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないのです。きょうのところはこのことを指摘するだけにとどめてあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『戦争』や 『貧国』なくす 公約は 実現できる? できなくないが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は変わるのでしょうか? もしも変化するとしても本当に世の中は良い方向に変化するのでしょうか? 一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 例えば、もしも「地球上から戦争をなくす」とか「地球上から貧困をなくす」などという公約を掲げた政党の候補者が国政選挙で大量に当選して圧倒的多数になったとしたならば、本当に地球上から戦争や貧困をなくすことができるようになるのでしょうか? おそらく多くの人たちはいくら「ある国」の国政選挙で勝利して圧倒的多数の議席を獲得したとしても、地球上の別のどこかで何かを実現することまではできるようにならないということを理解しているのではないかと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「ある国」の政府の権力は基本的には「ある国」の領域内にしか効果がないのです。それでは、もしも「この国から戦争をなくす」とか「この国から貧困をなくす」などという公約を掲げた政党の候補者が国政選挙で大量に当選して圧倒的多数になったとしたならば、本当に「この国」から戦争や貧困をなくすことができるのでしょうか? もしも戦争や貧困の原因を実際になくすことができるのならば、「この国から戦争をなくす」とか「この国から貧困をなくす」こともできなくはないわけですが…。戦争の原因と貧困の原因は全く同じではないのです。例えば、もしも「ある国」で内戦を含めた戦争が長く続くのならば、破壊行為が繰り返されている社会の中で生活する国民はその生命を含めた多くのものを失い続けてその結果として貧困が広がっていくことになるわけです。言い換えれば、戦争は貧困の原因になることもあるわけです。しかし、戦争さえなくしてしまえば、貧困がなくなるというわけではないのです。戦争がない平和な社会の中にも貧困は存在するのです。さらに言えば、もしも周辺国に戦争を次々と引き起こすような大統領などがいる場合には、「この国」だけがいくら努力しても「この国」から戦争をなくすことはできないかもしれないのです。戦争や貧困の原因を本当にすべてなくすことができるのでしょうか? 繰り返しになりますが、一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は変わるのでしょうか? もしも変化するとしても本当に世の中は良い方向に変化するのでしょうか? 一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 ======================================= 「『税金』を なくしたときは どうなるか? 予算の確保 難しくなる…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は変わるのでしょうか? もしも変化するとしても本当に世の中は良い方向に変化するのでしょうか? 一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 あくまでも一般論ですが、もしも「消費税を含めたすべての税金を非課税にする」などという公約を掲げた政党の候補者が国政選挙で大量に当選して圧倒的多数になったとしたならば、本当にすべての税金が非課税になるのでしょうか? 実際にすべての税金を非課税にした場合には国の予算をどう確保するのかということが非常に大きな疑問点になるわけですが…。しかし、それでもやはり、実際にすべての税金が非課税にされてしまう危険性は決して低くはないのだろうと思います。そして実際にすべての税金の負担がなくなって大喜びしたすぐ後に、今まで当たり前のように存在していた様々な行政サービスが次々となくなっていって大きな衝撃を受けるとか…。言い換えれば、「一難去ってまた一難」の状態になってしまうわけです。税金をなくせば予算の確保が難しくなる…。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも当選した議員たちが実際にすべての税金を非課税にした場合には必要不可欠な最低限の国の予算すらも確保することができなくなるという現実に気づくことができるのならば、選挙の公約が破られることになる可能性もそれなりにあるのだろうと思います。言い換えれば、いくら有権者が選挙で「一票」を投票してその結果が圧倒的多数になったとしても世の中が少しも変わらない可能性もあるのです。繰り返しになりますが、一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は変わるのでしょうか? もしも変化するとしても本当に世の中は良い方向に変化するのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『一票』で 世の中変わる? 本当に? 投票すれば 可能性あり」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は変わるのでしょうか? もしも変化するとしても本当に世の中は良い方向に変化するのでしょうか? 一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 繰り返しになりますが、一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は変わるのでしょうか? もちろんそれぞれの有権者が選挙で「一票」を投票することによって何かが変わる可能性があることは確かです。しかし、たとえどれだけ多くの有権者が選挙で「一票」を投票したとしても確実に変化が起こるとは言えないということには注意が必要になります。当たり前と言えば当たり前の話ですが、例えば、いくらどこかの地方の市長選挙で圧倒的大多数の有権者が「一票」を投票した結果として何かを禁止することを公約に掲げた候補者が当選したとしても、その何かを禁止するための条例改正案などを市議会の過半数の賛成を得て可決させることができなければ、何も変わることはないのです。さらに言えば、いくらどこかの地方の市長選挙で圧倒的大多数の有権者が「一票」を投票した結果として何かを禁止することを公約に掲げた候補者が当選したとしても、だからと言ってその何かを禁止する法律が国会で可決されて成立するようになるわけではないのです。くどいようですが、一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は本当に変わるのでしょうか? どんなに少なくとも漠然と「世の中は変わる」などと断言したとしてもその主張には説得力がほとんどないということだけは確かなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『カワイイ』や 『格好いい』でも 許される? 『人気投票』 でも『一票』か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。民主主義国家では一人ひとりの有権者はそれぞれ「平等」に「一票」を持っていることになっています。しかし、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか? あくまでもいくつかの仮定の上にさらに仮定を積み重ねた上での空想上の話になりますが、選挙で自分たちが投票する候補者を「カワイイ」や「格好いい」を理由にして決めるような有権者はいったいどのくらいいるのでしょうか? もちろん有権者が自分の「一票」をどのような理由でどのように使ったとしても基本的にはそれぞれの有権者の自由だとは思います。しかし、もしも自分たちが投票する候補者を「カワイイ」や「格好いい」を理由にして決めることになるのならば、選挙と「人気投票」の違いがほとんどなくなってしまうということになってしまうのです。選挙を「人気投票」にしても構わないのでしょうか? ごく普通の多くの有権者は、投票する候補者を能力や政策などで判断して決めても、「カワイイ」や「格好いい」で投票する候補者を決めるような「人気投票」をしても、同じ「一票」として扱われることに納得しているのでしょうか? もしも有権者の「一票の価値」が「人気投票」によって薄められて結果的に「一票以下」になってしまうようなことがあるのならば、別の意味での「一票の価値」の問題が発生することになるのではないかと思います。きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『減税』や 『給付金』など 『買収』に ならないことに 説得力は?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。民主主義国家では一人ひとりの有権者はそれぞれ「平等」に「一票」を持っていることになっています。しかし、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか? あくまでも一般論ですが、選挙になると「減税」や「給付金」や「補助金」などを公約する政党や候補者が目立つようになります。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、なぜ「減税」や「給付金」や「補助金」などは「買収」にならないのでしょうか? 「減税」や「給付金」や「補助金」などを事実上の「買収」とみなす必要性はないのでしょうか? もちろん「減税」や「給付金」や「補助金」などの政策が効果的な経済状況というものは存在するのだろうと思います。しかし、「減税」や「給付金」や「補助金」などが常に経済政策として十分な効果を期待することができるというわけではないはずなのです。そのように考えるのならば、どんなに少なくとも客観的に見て明らかに経済政策として十分な効果を期待することができない状況であるにもかかわらず、あえて「減税」や「給付金」や「補助金」などを約束するような場合には、事実上の「買収」と受け止められる危険性が高くなるのです。さらに言えば、もしも「減税」や「給付金」や「補助金」などが一部の特定の人たちだけが恩恵を受けることができるような種類のものであるのならば、「減税」や「給付金」や「補助金」などとは無関係の多くの人たちから事実上の「買収」などと厳しく批判されることになるのだろうと思います。しかし、もしも「減税」や「給付金」や「補助金」などがほとんどの人たちがそれなりに恩恵を受けることができるような種類のものである場合には、反対の声はあまり強くはならないのかもしれないと思います。もしもこのまま「減税」や「給付金」や「補助金」などが事実上の「買収」とみなされる危険性が少しもないのならば、「減税」や「給付金」や「補助金」などを唱えることによって自分たちが持っている「一票」を簡単に「一票以上」にすることができる状況が続くことになるのです。逆の言い方をすれば、有権者の「一票の価値」が「減税」や「給付金」や「補助金」などによって薄められて結果的に「一票以下」になってしまう状況が続くことになるのです。「減税」や「給付金」や「補助金」などが事実上の「買収」とならないことにどれだけの説得力があるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「
「男女差はある?」(2025/11/3)
「信じてしまう?」(2025/11/2)
「判断できず…」(2025/11/1)
「イメージできた?」(2025/10/31)
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「どんな関係?」(2025/10/29)
「『同担拒否』?」(2025/10/28)
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「おカネの話だけ?」(2025/10/23)
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「偉いのか?」(2025/10/16)
「押し付けや否定になれば…」(2025/10/15)
「『数学』や『科学』は…」(2025/10/14)
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