東京都心⇔旧地名残る仙台市中心部
千葉潤 政治過程 行政書士事務所(東京都)/自由自律/公私の区分/自助・共助・公助/行政区画・区域の弊害是正/反・旧民主&共産勢力/反・消費税廃止勢力/反ポピュリズム/反カルト/母校は「故郷」/政治を「科学」にする/人間の安全保障/男女共同参画/老若男女生涯現役社会/仙台は元祖東北・新首都圏
「『排他的 宇宙人街』 できるなら 『共存』でなく 『侵略』になる!」-。
きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 虚実ないまぜの情報に触れるたびに改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要性を実感します。
今回もあえて空想上の荒唐無稽な話を続けます。もしもあなたが「宇宙人」との「共存」を本気で考えなければならないとしたらいったいどうするのでしょうか? まずは「宇宙人」に「共存」の意思があるのかどうかを確かめることが必要になってくるのだろうと思います。それでは「宇宙人」の意思をどのように確かめたらいいのでしょうか? もしも「宇宙人」と「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」ではなく「言葉」「言語」で意思疎通を図ることができるのならば「大きな障害」の一つを乗り越えることはできるのだろうと思います。しかし、いくら「言葉」「言語」で意思疎通を図ることができたとしても、なかなか分かり合うことができない部分もあるはずなのです。そのことは同じ「言語」を母語とする同じ国の国民同士でもよくあることなのです。しかし、例えば、過去に実際に「言葉」「言語」を使って意思疎通を図って「共存」しようと試みた「経験」は、次回の「共存」の試みの際にはその「経験」が「共存」を試みて大きな失敗をしなかったという「前例」や「実績」となることだけは確かなのです。その上で、あえて付け加えるのならば、過去に実際に「言葉」「言語」を使って意思疎通を図って「共存」しようと試みた「実績」がある種の「経験」や「実績」によって完全に崩壊しまうこともあるということには注意が必要になります。例えば、ある国の内部に「排他的な宇宙人街」などがなぜかできてしまったような場合には、ある国には「宇宙人」とは「共存」することができないと考える人たちが増える危険性が非常に高くなります。もしも「排他的な宇宙人街」などが、ある国の国内に存在しているのにもかかわらず、そこでは「宇宙人」の方がある国の国民よりもずっと多く生活していて、「宇宙人」の「言語」が盛んに飛び交ってはいても、ある国の「言語」はほとんど通じず、ある国の文化や慣習とは大きく異なる「宇宙人」の文化や慣習ばかりが目に付くような場所になっているのならば、ある国の国民の中に「宇宙人」に本当に「共存」する意思があるのかどうか疑ってしまうという人たちが増えても不思議ではなくなってしまうのです。あえて言い換えるのならば、ある国の中の「排他的な宇宙人街」は「宇宙人による侵略」の「動かぬ証拠」として受け止められてしまう危険性が極めて高くなってしまうのです。繰り返しになりますが、誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 「共存」のためには互いに「言葉」「言語」を使って実際に意思疎通を図ろうと試みる「実績」を崩壊させてしまう種類の「経験」や「実績」にはよくよく注意をする必要があるのです。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 (twitter:http://twitter.com/jchiba_net (ホームページ版:http://www.jchiba.net/)。 「実際に 『言語』を使い 『共存』を 図る『経験』 『実績』になる」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 虚実ないまぜの情報に触れるたびに改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要性を実感します。 今回もあえて空想上の荒唐無稽な話を続けます。もしもあなたが「宇宙人」との「共存」を本気で考えなければならないとしたらいったいどうするのでしょうか? まずは「宇宙人」に「共存」の意思があるのかどうかを確かめることが必要になってくるのだろうと思います。それでは「宇宙人」の意思をどのように確かめたらいいのでしょうか? もしも「宇宙人」と「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」ではなく「言葉」「言語」で意思疎通を図ることができるのならば「大きな障害」の一つを乗り越えることはできるのだろうと思います。しかし、いくら「言葉」「言語」で意思疎通を図ることができたとしても、なかなか分かり合うことができない部分もあるはずなのです。そのことは同じ「言語」を母語とする同じ国の国民同士でもよくあることなのです。それでは、「言葉」「言語」で意思疎通を図ってもなかなか分かり合うことができない部分が残ってしまうという状況をなんとか乗り越えて、「言葉」「言語」で意思疎通を図ることができる「宇宙人」と「共存」していくためにはいったい何が必要になってくるのでしょうか? もちろん「正解」が存在するかどうか分かりませんし、仮に存在する場合であっても「正解」は1つではないのかもしれないと思います。その上で、あえて言えば、「宇宙人」と「共存」していくために「言葉」「言語」を使って意思疎通を図ろうとする「経験」を積み重ねていくことが必要になってくるのではないかと思います。あくまでも一般論ですが、過去に実際に「言葉」「言語」を使って意思疎通を図って「共存」しようと試みた「経験」は、たとえ100%の成功とは言えなかったとしても、どんなに少なくとも次回の「共存」の試みの際にはその「経験」が「共存」を試みて大きな失敗をしなかったという「前例」や「実績」となることだけは確かなのです。その上で、多少の誤解と批判を覚悟の上であえて言わせてもらうのならば、「宇宙人」よりも「外国人」と「共存」することの方が成功する可能性が高いことだけは確かなのだろうと思います。繰り返しになりますが、誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 「共存」のためには互いに「言葉」「言語」を使って実際に意思疎通を図ろうと試みる「経験」も重要になってくるのです。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「不信感 警戒感を 避けるため 『言語』を使い 意思の疎通を!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 虚実ないまぜの情報に触れるたびに改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要性を実感します。 引き続き空想上の荒唐無稽な話を続けます。もしもあなたが「宇宙人」との「共存」を本気で考えなければならないとしたらいったいどうするのでしょうか? 例えば、「宇宙人」があなたの生命や財産などを奪おうとして攻撃してくるような場合には「共存」することは不可能であると思われます。「宇宙人」があなたを攻撃してくる意思がないとどのように確かめるのでしょうか? もちろん言葉が全く通じない状態であっても「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」によって「宇宙人」と意思の疎通をしようと試みることもできるのだろうと思います。しかし、「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」では互いの意思を正確かつ詳細に伝達することが極めて難しいからこそ「言葉」「言語」が必要になってくるのです。言うまでもなく「宇宙人」と「言葉」「言語」を使って意思疎通を図るなどというのはあまりにも荒唐無稽な話です。しかし、多少の誤解と批判を覚悟の上で、あえて「宇宙人」を「外国人」に置き換えてみるのならば、「言葉」「言語」を使って意思疎通を図ることの重要性を理解することができるのではないかと思います。あくまでも一般論ですが、「外国人」が当たり前だと思って何気なくしている行動がある国では不審な行動や迷惑な行動になるということも少なくないのです。もしも「言葉」「言語」を使って十分に意思疎通を図ることができないのならば、「外国人」の不審な行動や迷惑な行動は必要以上に不信感や警戒感などを増大させることもあるのです。そのように考えるのならば、たとえ合法的に入国して合法的に滞在している「外国人」であったとしても、もしも「言葉」「言語」を使って十分に意思疎通を図ることができないような場合には「密入国」や「不法滞在」などを含めてあらぬことを疑われる危険性が高くなってしまうのです。繰り返しになりますが、誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 「共存」のためには互いに「言葉」「言語」を使って十分に意思疎通を図ることが非常に重要なのです。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「お互いに 『ジェスチャー』などで 伝えるの 難しいから 『言語』を使う!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? 虚実ないまぜの情報に触れるたびに改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要性を実感します。 あくまでも空想上の荒唐無稽な話にすぎないのですが、もしもあなたが「宇宙人」との「共存」を本気で考えなければならないとしたらいったいどうするのでしょうか? 例えば、「宇宙人」があなたの生命や財産などを奪おうとして攻撃してくるような場合には「共存」することは不可能であると思われます。しかし、たとえ今は「宇宙人」の方から攻撃してくるような兆候は見られなかったとしても、こちらが隙を見せたときに「宇宙人」がどうするのか全く予想することができない場合にはどうするのでしょうか? 言い換えれば、「宇宙人」があなたを攻撃してくる意思がないとどのように確かめるのでしょうか? もちろん言葉が全く通じない状態でも「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」によって「宇宙人」と意思の疎通をしようと試みることもできるのだろうと思います。しかし、言うまでもなく「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」では互いの意思を正確かつ詳細に伝え合うことは極めて難しいのです。あえて確認しておくのならば、「ジェスチャー(gesture)」などのいわゆる「ボディーランゲージ(body language)」では互いの意思を正確かつ詳細に伝達することが極めて難しいからこそ「言葉」「言語」が必要になるわけです。繰り返しになりますが、誰かと誰かが社会の中で「共存」していくということはどういうことなのでしょうか? そして誰かと誰かが実際の社会の中で「共存」していくためには何が必要になるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「民主主義 『多数』によって 『独裁』や 『専制主義』に 変わってしまう?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? そもそも「力」とは何なのでしょうか? もしかすると民主主義社会での「正しい」とは「多数」のことを意味しているのでしょうか? もしそうであるのならば、民主主義社会での「多数」は「力」と「正しさ」を併せ持ったものになるのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 繰り返しになりますが、なぜ民主主義社会では例外なくすべてのことを「多数決」で決めることができないのでしょうか? もちろん「正解」は1つだけではないと思います。しかし、あえて単純化した上で率直に言わせてもらうのならば、もしも「多数決」によって既に存在している「事実」をなかったことにしたり新たにつくり出したりすることができるのならば、「多数」があれば何でもできることになってしまうからなのです。別の言い方をすれば、もしも「多数決」で例外なくすべてのことを決めることができるのならば、もはやその社会は民主主義社会ではなくなってしまうからなのです。あくまでも空想上の話ですが、もしも「多数決」で例外なくすべてのことを決めることができるのならば、選挙で生み出された「多数派」が「多数決」によって「少数派」の人たちを次々と「有罪」にした上で「基本的人権」を剥奪していくようなことも不可能ではなくなってしまうことになります。あえて言い換えるのならば、もしも「多数決」で例外なくすべてのことを決めることができるようにしてしまったら、民主主義という制度は、あっと言う間に民主主義国家を民主主義とは相容れない「独裁国家」や「専制主義国家」に変化させてしまうという「致命的に重大な欠陥」を放置したままの状態になってしまうのです。その上で、あくまでも念のために付け加えるのならば、最近の国際社会ではこのような民主主義の「致命的に重大な欠陥」に改めて注目が集まりそうな事例が増えているように思われます。くどいようですが、確かに民主主義国家の選挙で有権者の「多数」の支持を集めた場合には大きな「力」を持つことになります。しかし、民主主義国家の選挙で有権者の「多数」の支持を集めた場合には本当に「正しい」ということになるのでしょうか? 大昔に修正したはずの民主主義の「致命的に重大な欠陥」はその必要があるのならば何度でも修正する必要があるはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『多数』でも なぜ決めること できないか? 『多数』になれば 何でもできる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? そもそも「力」とは何なのでしょうか? もしかすると民主主義社会での「正しい」とは「多数」のことを意味しているのでしょうか? もしそうであるのならば、民主主義社会での「多数」は「力」と「正しさ」を併せ持ったものになるのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 繰り返しになりますが、民主主義というものは基本的には物事を最終的に「多数決」で決めていくしくみですが、すべてのことを例外なく「多数決」で決めることができるというわけではないのです。例えば、ある人を何かの罪で有罪にするかどうかということを「多数決」だけで決めることはできないのです。ある人を何かの罪で有罪にするかどうかを決めるのは「法律」と「証拠」です。さらに言えば、誰かから精神や身体の自由などのような「基本的人権」を奪い取るようなことは「多数決」でも「法律」でもできないのです。それではなぜ民主主義社会では例外なくすべてのことを「多数決」で決めることができないのでしょうか? もちろん「正解」は1つだけではないと思います。しかし、その上で、あえて「多数決」の持っている重要な性質の1つに注目することにするのならば、「多数決」というものは既に存在している「事実」をなかったことにすることができたり、新たな「事実」をつくり出したりすることはできないからではないかと思います。逆の言い方をすれば、もしも「多数決」が既に存在している「事実」をなかったことにしたり新たにつくり出したりすることができるのならば、「多数決」は民主主義とは相容れないような「暴力的な装置」になってしまうのです。言い換えれば、「多数」があれば何でもできることになってしまうことになってしまうのです。繰り返しになりますが、確かに民主主義国家の選挙で有権者の「多数」の支持を集めた場合には大きな「力」を持つことになります。しかし、民主主義国家の選挙で有権者の「多数」の支持を集めた場合には本当に「正しい」ということになるのでしょうか? きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『多数』では 決めらないこと 多くある! 『多数』があれば 『有罪』になる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? そもそも「力」とは何なのでしょうか? もしかすると民主主義社会での「正しい」とは「多数」のことを意味しているのでしょうか? もしそうであるのならば、民主主義社会での「多数」は「力」と「正しさ」を併せ持ったものになるのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 確かに民主主義というものは基本的には物事を最終的に「多数決」で決めていくしくみです。しかし、言うまでもなく、民主主義社会では、すべてのことを例外なく「多数決」で決めることができるというわけではないのです。「多数決」では決めることができないものは多いのです。例えば、ある人を何かの罪で有罪にするかどうかということを「多数決」だけで決めることはできないのです。ある人を何かの罪で有罪にするかどうかを決めるのは「法律」と「証拠」です。さらに言えば、ある人の精神や身体の自由などのような「基本的人権」についても「多数決」によって奪い取ることはできないのです。あえて言い換えるのならば、誰かから「基本的人権」を奪い取るようなことは「多数決」でも「法律」でもできないのです。確かに民主主義国家の選挙で有権者の「多数」の支持を集めた場合には大きな「力」を持つことになります。しかし、民主主義国家の選挙で有権者の「多数」の支持を集めた場合には本当に「正しい」ということになるのでしょうか? 「多数」が「正しい」ことを意味していたとしても、そうではなかったとしも、それでもやはり、民主主義社会では例外なくすべてのことを「多数決」で決めることができるというわけではないということだけは少しも変わらないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「襲われる 心配のない 状況を 何をどうして 実現するか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも社会では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 この何日かは「誰か」が「強盗」などに襲われた状況をあえて仮定した上で様々なことを考えてきました。しかし、もしもどこかの社会の中で「強盗」などに襲われる心配のない状況を実現することができるのならば、ずいぶんと話は違ってくるはずなのです。どこかの社会の中で「強盗」などに襲われる心配のない状況を実現するためには何をどうしたらいいのでしょうか? あくまでも一般論ですが、もしも腐敗や不正がなくて信頼ができる上に高い能力を併せ持った「警察」組織などが存在するのならば、「強盗」などの「犯罪」を犯した人間たちはすぐに逮捕されることになるのだろうと思います。そしてもしも「強盗」などの「犯罪」を犯した人間たちがすぐに逮捕されるような状況が長く続いて当たり前の状況になるのならば、やがて安易に「強盗」などの「犯罪」を犯そうと考える人間たちの数が激減することになるのだろうと思います。そしてもしもどこかの社会では子供の頃から「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をしてはいけないなどと何度も何度も繰り返し言われ続けていたとしたら、その社会では「強盗」などの「犯罪」を犯そうと考える人間たちはさらに激減することになるのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、地球上には、腐敗や不正がなくて信頼ができる上に高い能力を併せ持った「警察」組織などが存在する場所もあれば、そもそも「警察」などが存在しないような場所もあるわけです。さらに言えば、国際社会には国家などを取り締まることができる「警察のようなもの」は存在しないのです。繰り返しになりますが、社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも社会では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「襲われて 反撃したら どうなるか? 反撃しても 結果は同じ?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも社会では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 繰り返しになりますが、もしも「誰か」が「強盗」などに襲われたときに、その「強盗」に対して「そんな間違ったこと、悪いことをしてはいけない。真面目にこつこつ努力しながら生活していればそのうちきっと良いことがある」などと正しいことを切々と説いたのならば、「強盗」は「間違ったこと」「悪いこと」をすぐにやめるのでしょうか? それでも辞めない場合には「強盗」に反撃するという「選択肢」ももちろんあり得るわけです。しかし、「強盗」に襲われた側が非常に腕っぷしの強い「強者」で「強盗」を取り押さえることができるような場合には、取り押さえた後に「説得」をするなどということもあり得ない話ではないと思います。しかし、ごく普通の多くの人たちは、たとえ「強盗」に反撃したとしても結果は同じかもしれないのです。あるいは、もしかすると反撃したことによって「強盗」以上のさらに深刻な被害を受けることになるかもしれないのです。そのように考えるのならば、ごく普通の多くの人たちは、「強盗」などに襲われた場合には、逃げたり、多少の抵抗をしたりすることはできるのかもしれませんが、反撃することはなかなか難しいのだろうと思います。やはり残念ながら現実の社会では「力」の強い者の主張が正しくなってしまうのでしょうか? 正しいことを主張しても結局は「力」によってねじ伏せられてしまうのでしょうか? さて、ここであえて少しだけ話は変わります。もしも「強盗」を「戦争」に置き換えてみたとしたら「結論」は変わるのでしょうか? もしも子供の頃から「戦争」のような「間違ったこと」「悪いこと」をしてはいけないなどと何度も何度も繰り返し言われ続けていたとしたら、「戦争」のような「間違ったこと」「悪いこと」をするような人たちは(ほとんど)出てこないのでしょうか? あるいは、もしも「戦争」のような「間違ったこと」「悪いこと」をしようとしていても、「説得」に応じて「間違ったこと」「悪いこと」をするのを思いとどまるようになるのでしょうか? きょうのところはあえてそれらのことを指摘した上で問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「襲われて 助けも来ない 状況で 正しいことを 実現できる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも社会では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 繰り返しになりますが、もしも「誰か」が「強盗」などに襲われたときに、その「強盗」に対して「そんな間違ったこと、悪いことをしてはいけない。真面目にこつこつ努力しながら生活していればそのうちきっと良いことがある」などと正しいことを切々と説いたのならば、「強盗」は「間違ったこと」「悪いこと」をすぐにやめるのでしょうか? もちろん「強盗」に襲われた側が非常に腕っぷしの強い「強者」で「強盗」を取り押さえた後に「説得」するなどということもあり得ない話ではないと思います。しかし、ごく普通の人たちにとっては、「強盗」などに襲われて誰かが助けに来てくれるわけでもないのに「強盗」の「説得」を試みるようなことはとてもできないのではないかと思います。やはり現実の社会では「力」の強い者の主張が正しくなってしまうのでしょうか? あえて言い換えれば、「正しいこと」を主張して実現していくためには強くならなければならないのでしょうか? 残念ながら現実の社会では「正しい」ことを主張しているだけでは「力」が強くなるようなことはないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「襲われて 正しいことを 説いたなら 間違ったこと すぐにやめるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも社会では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? 改めて一度立ち止まってそれらのことについて考えてみる必要があります。 あくまでも一般論ですが、もしも「誰か」が「強盗」などに襲われたときに、その「強盗」に対して「そんな間違ったこと、悪いことをしてはいけない。真面目にこつこつ努力しながら生活していればそのうちきっと良いことがある」などと正しいことを切々と説いたのならば、「強盗」は「間違ったこと」「悪いこと」をすぐにやめるのでしょうか? もちろん「説得」に応じて「間違ったこと」「悪いこと」をするのを思いとどまる「強盗」がただの一人もいないとは限らないと思います。しかし、やはり、実際に「強盗」に出会ったときには「説得」が全く通用しないことの方が多いのではないかと思います。さらに言えば、もしも子供の頃から「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をしてはいけないなどと何度も何度も繰り返し言われ続けていたとしたら、「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をするような人たちは(ほとんど)出てこないのでしょうか? あるいは、もしも「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をしようとしていても、「説得」に応じて「間違ったこと」「悪いこと」をするのを思いとどまるようになるのでしょうか? 率直に言わせてもらうのならば、「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をするような人間たちの多くは、「強盗」のようなことが「間違ったこと」「悪いこと」であるということぐらいは十分に理解しているのではないかと思います。残念ながら現実の社会では「正しい」ことを主張する者は「無力」であるということも少なくないのです。さらに言えば、もしも「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をするような人間たちが「強盗」のようなことが「間違ったこと」「悪いこと」であるということぐらいは十分に理解しているという現実を真正面から見据えることができないのならば、「強盗」のような「間違ったこと」「悪いこと」をなくすことも減らすこともできないと思います。きょうのところはあえてこのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「自らも 『軍事大国』 になるのか? 『同盟』結ぶ? 『軍拡』進む!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも世の中では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? また「力」とは何なのでしょうか? 最近は改めてそれらのことについて考え直してみる必要性を感じさせられる事例が増えています。 何度も繰り返していますが、最近は「隣国」に侵略戦争を仕掛けて領土を奪い取って自分たちの支配地域を拡大するような「軍事大国」がいくつか存在します。そしてこれも繰り返しになりますが、残念ながら今現在の国際社会でも、「軍事大国ではない国」が「軍事大国」に「力」によって領土を奪われた場合には、奪い取られた領土を「力」によって奪い返すこともできなければ、事実上、平和的な手段によって取り戻すこともできないというのが「偽らざる現実」なのです。言い換えれば、今現在の国際社会も「弱肉強食の世界」のままなのです。そしてもしも今現在の国際社会も「弱肉強食の世界」であるのならば、「軍事大国」に「力」によって侵略されないためには自分たちも「軍事大国」になるしかないと考える国は少なくないのだろうと思います。あるいは、同じ「軍事大国」による脅威に直面している他国と「同盟」を結んでその脅威に対抗しようとする国も少なくはないと思います。その上で、「軍事大国」に対抗して自分たちも「軍事大国」になろうとする場合であっても、同じ「軍事大国」による脅威に直面している他国と「同盟」を結んで対抗しようとする場合であっても、国際社会では「軍備拡張(軍拡)」が進んで「戦争発生のリスク」と戦争が発生した場合の「被害拡大のリスク」が共に高まってしまうということには注意が必要になります。念のために付け加えることにするのならば、「軍備拡張(軍拡)」が進み続ける国際社会は「国際連合が理想とする国際社会」とはかけ離れていることだけは確かなのです。繰り返しになりますが、結局のところは、今現在の国際社会でも「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? 「正しい」とは「力」が強いということなのでしょうか? 「国際連合の理想」は正しくないのでしょうか? 「国際連合の理想」は「力」にはならないのでしょうか? きょうのことろはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「安保理の 『常任理事国』 の場合は 何をやっても 許されるのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも世の中では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? また「力」とは何なのでしょうか? 最近は改めてそれらのことについて考え直してみる必要性を感じさせられる事例が増えています。 繰り返しになりますが、最近は「隣国」に侵略戦争を仕掛けて領土を奪い取って自分たちの支配地域を拡大するような「軍事大国」がいくつか存在します。そしてこれも繰り返しになりますが、残念ながら今現在の国際社会でも、「軍事大国ではない国」が「軍事大国」に「力」によって領土を奪われた場合には、奪い取られた領土を「力」によって奪い返すこともできなければ、事実上、平和的な手段によって取り戻すこともできないというのが「偽らざる現実」なのです。言い換えれば、今現在の国際社会も「弱肉強食の世界」のままなのです。さて、話は少し変わります。今現在の国際社会では「大規模な軍事パレード」などを好んで行う「軍事大国」がいくつか存在します。例えば、「大規模な軍事パレード」などで核兵器搭載可能な大陸間弾道ミサイルなどをこれみよがしに披露するようなことは国際連合憲章などの「武力による威嚇」に本当に当たらないという理解でいいのでしょうか? またそもそも「大規模な軍事パレード」などを好んで行うようなことは「武力による威嚇もしくは武力の行使」を禁じて「紛争の平和的な解決」を掲げる国際連合の加盟国、ましてその安全保障理事会の常任理事国としてふさわしい行動なのでしょうか? 「軍事大国」が「大規模な軍事パレード」などを好んで行うことの持つ意味について一歩踏み込んだ考察が必要になります。さらに言えば、国際連合の加盟国、ましてその安全保障理事会の常任理事国が国際連合憲章などに違反する平和の破壊や侵略行為などを繰り返すことが許されるのでしょうか? また国際連合の安全保障理事会の常任理事国が国際連合憲章などに違反する平和の破壊や侵略行為などを繰り返す国に対して様々な形で支援をするようなことが許されるのでしょうか? 国際連合の安全保障理事会の常任理事国は何をやっても許されてしまうのでしょうか? 繰り返しになりますが、結局のところは、今現在の国際社会でも「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? 「正しい」とは「力」が強いということなのでしょうか? きょうもあえてそれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「もしも今 『軍事大国』 より強い 『巨人』『怪物』 存在したら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも世の中では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? また「力」とは何なのでしょうか? 最近は改めてそれらのことについて考え直してみる必要性を感じさせられる事例が増えています。 繰り返しになりますが、最近は「隣国」に侵略戦争を仕掛けて領土を奪い取って自分たちの支配地域を拡大するような「軍事大国」がいくつか存在します。残念ながら今現在の国際社会でも、「軍事大国ではない国」が「軍事大国」に「力」によって領土を奪われた場合には、奪い取られた領土を「力」によって奪い返すこともできなければ、事実上、平和的な手段によって取り戻すこともできないというのが「偽らざる現実」なのです。言い換えれば、今現在の国際社会も「弱肉強食の世界」のままなのです。結局のところは、今現在の国際社会でも「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? 「正しい」とは「力」が強いということなのでしょうか? もしもこの「偽らざる現実」を真正面から見据えることができないのならば、地球上から「戦争」をなくすることなどできるわけがないのです。さて、ここで話は変わります。あくまでも現時点においてはただの空想上の話ですが、もしも国際社会の中に「『軍事大国』よりもはるかに強い『巨人』や『怪物』のようなもの」が存在するのならば、「軍事大国」から奪い取った領土を「力」づくで取り上げて、「隣国」に返してやるようなことも不可能ではなくなるのだろうと想像しています。そしてもしも国際社会の中に「『軍事大国』よりもはるかに強い『巨人』や『怪物』のようなもの」が存在して睨みを利かせているのならば、そもそも侵略戦争のようなものは発生しなくなる可能性も高くなるのではないかと想像しています。もっとも今現在の国際連合をさらに長い時間をかけて育てていけば、「『軍事大国』よりもはるかに強い『巨人』や『怪物』のようなもの」に成長するのか、それとも今現在の国際連合とは全く別の何かを新しくつくり出すところから始めなければ国際社会の中に「『軍事大国』よりもはるかに強い『巨人』や『怪物』のようなもの」を誕生させることができないのかはまだ分からないわけですが…。繰り返しになりますが、結局のところは、今現在の国際社会でも「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? 「正しい」とは「力」が強いということなのでしょうか? きょうもあえてそれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『大国』に 奪い取られて しまったら 奪い返せず 取り戻せない」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中では「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? それとも世の中では「正しい」ことを主張する者の「力」が強くなるのでしょうか? そもそも「正しい」とは何なのでしょうか? また「力」とは何なのでしょうか? 最近は改めてそれらのことについて考え直してみる必要性を感じさせられる事例が増えています。 あえて固有名詞を取り上げることは避けますが、最近は「隣国」に侵略戦争を仕掛けて領土を奪い取って自分たちの支配地域を拡大するような「軍事大国」がいくつか存在します。もしかすると今現在の国際社会では「力」によって領土を奪い取るようなことが許されているのでしょうか? もちろんそのようなことが許されているわけがないのです。国際連合憲章には国際紛争の平和的な解決、武力による威嚇もしくは武力の行使を慎むことなどが定められています。あえて言い換えれば、今現在の国際社会では「力」によって領土を奪い取るようなことはどんなに少なくとも正しいことではないのです。それでは、今現在の国際社会では「力」によって奪い取られた領土を平和的な手段によって取り戻すことができるのでしょうか? 非常に残念なことですが、今現在の国際社会では「力」によって奪い取られた領土を平和的な手段によって取り戻すことは事実上不可能なのです。そもそも「力」によって領土を奪い取った「軍事大国」が返還する意思が全くなければ、平和的な手段によって取り戻すことは事実上不可能なのです。それでは、今現在の国際社会では「力」によって奪い取られた領土を「力」によって奪い返すようなことは許されていないのでしょうか? もちろん全く許されていないわけではないのです。例えば、国際連合の安全保障理事会が侵略戦争に対して必要な措置を講じるまでの間、そして国際連合の安全保障理事会が「力」によって奪い取られた領土を「力」によって奪い返すことを正当化する決議などを採択した場合には、今現在の国際社会においても、「力」によって奪い取られた領土を「力」によって奪い返すことが許されていないわけではないのです。しかし、それでもやはり、「軍事大国ではない国」が「軍事大国」に「力」によって領土を奪われた場合には、奪い取られた領土を「力」によって奪い返すこともできなければ、事実上、平和的な手段によって取り戻すこともできないというのが「偽らざる現実」なのです。あえて言い換えれば、今現在の国際社会も「弱肉強食の世界」のままなのです。結局のところは、今現在の国際社会でも「力」の強い者の主張が正しくなるのでしょうか? もしもこの「偽らざる現実」を真正面から見据えることができないのならば、地球上から「戦争」をなくすることなどできるわけがないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『他人事』が ある日突然 『自分事』 になってしまう 『無関心』なら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には自分にとってあまり関係がないことや興味のないことは「他人事」として捉える人たちが少なくないのです。それはある意味で「生物」としては当然の反応です。しかし、今の時代は「他人事」として捉える人たちの「無関心」や「無責任」が命取りになることも少なくないのです。 繰り返しになりますが、もしも「戦争」が「他人事」であるのならば、「戦争」を「容認」とか「黙認」するようなことは許されるのでしょうか? 言うまでもなく自分たちが「戦争」の当事者ではない「遠く離れた場所」で続く「戦争」を「他人事」として捉えて無関心でいることは褒められたことではないのです。しかし、地球上には自分たちが当事者ではない「戦争」を「他人事」として捉えて無関心でいるような事例よりもさらにひどい事例がいくつも存在するのです。あえて個別具体的な固有名詞を取り上げるようなことは避けますが、たとえ「ある国」が「戦争」をしていても、「ある国」から「遠く離れた場所」だけが「戦場」になっているために、「戦争」中であるにもかかわらず、「ある国」ではほとんどの人たちがこれまでとほとんど変わらない日常生活を送ることができているような場合には、「戦争」に反対する主張はそれほど強まることはないのかもしれないと思います。あえて言い換えるのならば、たとえ「ある国」が「戦争」の当事者であったとしても、「ある国」のごく普通の多くの人たちにとって「戦争」を「他人事」にしておくようなことは不可能ではないということには注意が必要になるのです。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「ある国」が今現在も「戦争」をしているのならば、いくら今現在は「ある国」から「遠く離れた場所」だけが「戦場」になっていたとしても、ある日突然「ある国」の中枢部を含めた国内も「戦場」になってしまう危険性を完全にゼロにすることはできないのです。そしてあえて個別具体的な事例を取り上げることは避けますが、「ある国」の主要都市で要人暗殺や司令部機能の破壊などという形で「空爆」や「爆発」などが頻発することもあるわけです。「ある国」が「戦争」の当事者である場合には「他人事」だった「戦争」がある日突然「自分事」になる危険性は当事者ではない場合よりもさらに高まるのです。くどいようですが、もしも「戦争」が「他人事」であるのならば、「戦争」を「容認」とか「黙認」するようなことは許されるのでしょうか? もしも本当の意味で「戦争」に反対しているのならば、自分たちが当事者ではない「戦争」や自分たちから「遠く離れた場所」で続いている「戦争」に対して「無関心」や「無責任」であることが命取りになることも少なくないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『戦争』も 『他人事』ならば 許される? 遠くの場所で 『無関係』なら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には自分にとってあまり関係がないことや興味のないことは「他人事」として捉える人たちが少なくないのです。それはある意味で「生物」としては当然の反応です。しかし、今の時代は「他人事」として捉える人たちの「無関心」や「無責任」が命取りになることも少なくないのです。 一部の独裁者や専制主義の指導者、テロリストなどを除外すれば、「戦争」は良いことだと思っている人間は地球上にはほとんどいないのだろうと思います。しかし、「侵略者」から自分や自分の家族などを守るための「戦争」は必ずしも悪いことではないなどと思っている人たちは少なくはないと思います。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「戦争」というものにはいつどんなときでも必ず「悪」であると単純に言い切ることができない複雑さがあるからこそ、「戦争」をなくすことをそう簡単に実現することができないということには注意が必要になるのです。その上で、あくまでも念のために確認しておくことにするのならば、そもそも「戦争」はなぜいけないのでしょうか? もちろん様々な理由があると思います。しかし、多くの人たちが「戦争」がいけないと思う理由のほとんどは、自分たちが「戦争」と関係しているということが前提になっているのではないかと思います。特に「戦争」を「他人事」ではなく自分自身の問題として捉えようとしている人たちほどその傾向が顕著になるのではないかと思います。それでは、もしも「戦争」が「他人事」であるのならば、「戦争」を「容認」とか「黙認」するようなことは許されるのでしょうか? 例えば、遠く離れた場所などで行われていて自分たちとは「無関係」な「戦争」は「容認」とか「黙認」することが許されるのでしょうか? どういうわけか「戦争」に強く反対している人間たちの中には「他国の戦争」に巻き込まれる危険性が高まることばかりを嫌っている人間たちが少なくないのです。あえて言い換えるのならば、「戦争」に反対している人間たちの中には、「他国の戦争」と「無関係」でいられなくなることを反対の最大の理由にしている人間たちも少なくないのです。繰り返しになりますが、そもそも「戦争」はなぜいけないのでしょうか? 遠くの場所などで行われていて自分たちとは「無関係」な「戦争」は「容認」とか「黙認」するようなことが許されるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「興味ない 『会社』の『社長』 辞めるべき? 『他人事』だから どちらでもいい?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には自分にとってあまり関係がないことや興味のないことは「他人事」として捉える人たちが少なくないのです。それはある意味で「生物」としては当然の反応です。しかし、今の時代は「他人事」として捉える人たちの「無関心」や「無責任」が命取りになることも少なくないのです。 あくまでも一般論ですが、もしも自分にとっては関係がなくて興味のない「会社」の「社長」が「業績悪化」の責任を取って辞めるべきか辞めるべきではないかなどと問われたのならば、ほとんどの人たちは「他人事」だからどうでもいいと思うのではないかと思います。もしかすると「業績悪化」は「社長」だけの責任ではないから辞めなくてもいいなどと主張する人たちも出てくるのかもしれないと思います。あるいは、もしかすると「社長」が辞めても「業績」が改善するかどうかは別問題だからすぐに辞める必要はないなどと主張する人たちも出てくるのかもしれないと思います。しかし、もしもその人たちがその「会社」の「株主」や「従業員」だったとしたら「会社」の「社長」が「業績悪化」の責任を取って辞める必要はないなどと本当に主張することができるのでしょうか? もしもその人たちがその「会社」の「株主」や「従業員」であったとしたらたぶん「業績悪化」を「他人事」では済ますことができないのではないかと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、おそらく世の中の「与党党員」ではない人たちにとっては「与党党首」が選挙で敗北した責任を取って辞めるべきか辞めるべきではないかということは「他人事」なのだろうと思います。しかし、「日本国内閣総理大臣」が辞めるべきか辞めるべきではないかということは、本当に日本国民(→日本国の有権者)にとって「他人事」で済ますことができるような問題なのでしょうか? さらに付け加えるのならば、「日本国内閣総理大臣」が辞めるべきか辞めるべきではないかを日本国民(→日本国の有権者)が判断する場合には、選挙で敗北したのは「与党党首」でもある「日本国内閣総理大臣」だけの責任ではないなどということが本当に理由になるのでしょうか? 「日本国内閣総理大臣」が辞めるべきか辞めるべきではないかを日本国民(→日本国の有権者)が判断する場合には、国政選挙を通じて日本国民(→日本国の有権者)が「日本国内閣総理大臣」として信任しなかったとか不信任したなどということを真っ先に考える必要があるはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『王』などは 『選挙』で選ぶ ものなのか? 選ばれた後 勝手に『王』に?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。主権国家の中で「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? また国際社会の中でも「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? そもそも主権国家や国際社会の中の「怪物」や「巨人」などはどのようなものなのでしょうか? 今回も大真面目に「怪物」や「巨人」についてさらに考えてみることにしようと思います。もしも「ある場所」に「怪物」や「巨人」がいたのならば、その場所はいったいどうなってしまうのでしょうか? くどいようですが、もしも「ある場所」が「弱肉強食の場所」であったとしても、「王」や「皇帝」などと呼ばれる「特別な最強の強者」にほぼすべての「弱者」が「貢物」などを差し出す替わりに自分たちの「安全」を約束してもらうような場所であるのならば、「弱肉強食の場所」に「特別な秩序」のある「特別な弱肉強食の場所」になると考えることができるのです。さらに言えば、もしも「王」や「皇帝」などが存在しなかったとしても、もしも「怪物」や「巨人」が実在しなかったとしても、「空想上の怪物や巨人」が「特別な秩序」を破壊する者が出現しないようににらみを利かせたり実際に「特別な秩序」を破壊した者を排除したりすることができるのならば、「特別な秩序」を維持することは十分に可能なのです。そしてもしも「空想上の怪物や巨人」のかたちをすべての人たちが参加して選挙などで決めることができるような「しくみ」をつくり上げることができたのならば、それは「民主主義」や「民主主義国家」と呼ばれるものになるのだろうと思います。その上で、あくまでも空想上の話ですが、もしも選挙で「空想上の怪物や巨人」のトップに選ばれた人間が勝手に「王」や「皇帝」などになるようなことがあったとしたら、「特別な秩序」はそのまま維持されることになるのでしょうか? どんなに少なくとも選挙で「空想上の怪物や巨人」のかたちを選んだはずの人たちは「約束」を破られた後も引き続き「特別な秩序」を維持する「義務」があるとまでは言えなくなるはずなのです。「王」や「皇帝」などは「選挙」で選ぶものなのでしょうか? また「選挙」で選ばれた後に勝手に「王」や「皇帝」などになることは許されることなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「選挙では 『空想上の 怪物や 巨人』を選び 『王』は不要に!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。主権国家の中で「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? また国際社会の中でも「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? そもそも主権国家や国際社会の中の「怪物」や「巨人」などはどのようなものなのでしょうか? 引き続き「怪物」や「巨人」について大真面目に考えてみることにしようと思います。もしも「ある場所」に「怪物」や「巨人」がいたのならば、その場所はいったいどうなってしまうのでしょうか? 何度も繰り返していますが、もしも「ある場所」が「弱肉強食の場所」であったとしても、「王」や「皇帝」などと呼ばれる「特別な最強の強者」にほぼすべての「弱者」が「貢物」などを差し出す替わりに自分たちの「安全」を約束してもらうような場所であるのならば、「弱肉強食の場所」に「特別な秩序」のある「特別な弱肉強食の場所」になると考えることができるのです。そもそもなぜ「王」や「皇帝」などは「王」や「皇帝」などになることができたのでしょうか? さらに言えば、そもそも「王」や「皇帝」などが存在しなければ、本当に「特別な秩序」をつくり上げることはできないのでしょうか? 例えば、もしもすべての人たちが「空想上の怪物や巨人」に「貢物」などを差し出す替わりに自分たちの「安全」を約束してもらうような「新しいしくみ」をつくり上げることができるのならば、「王」や「皇帝」などは必要ではなくなるのです。もしも「王」や「皇帝」などが存在しなかったとしても、もしも「怪物」や「巨人」が実在しなかったとしても、「空想上の怪物や巨人」が「特別な秩序」を破壊する者が出現しないようににらみを利かせたり実際に「特別な秩序」を破壊した者を排除したりすることができるのならば、「特別な秩序」を維持することは十分に可能なのです。それでは「空想上の怪物や巨人」とはいったいどのようなものになるのでしょうか? 例えば、「国家」は「空想上の怪物や巨人」の具体例の1つになるのだろうと思います。その上で、もしも「空想上の怪物や巨人」のかたちをすべての人たちが参加して選挙などで決めることができるような「しくみ」をつくり上げようとするのならば、それは「民主主義」や「民主主義国家」をつくり上げようとするということを意味することになるのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「『神』なのか? 『神』が与えた ものなのか? なぜ『王』などに なることできた?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。主権国家の中で「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? また国際社会の中でも「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? そもそも主権国家や国際社会の中の「怪物」や「巨人」などはどのようなものなのでしょうか? 今回も「怪物」や「巨人」について大真面目に考えてみることにしようと思います。もしも「ある場所」に「怪物」や「巨人」がいたのならば、その場所はいったいどうなってしまうのでしょうか? 繰り返しになりますが、もしも「ある場所」が「弱肉強食の場所」であったとしても、「王」や「皇帝」などと呼ばれる「特別な最強の強者」にほぼすべての「弱者」が「貢物」などを差し出す替わりに自分たちの「安全」を約束してもらうような場所であるのならば、「弱肉強食の場所」に「特別な秩序」が生まれた「特別な弱肉強食の場所」になると考えることができるわけです。しかし、そもそもなぜ「王」や「皇帝」などは「王」や「皇帝」などになることができたのでしょうか? 「王」や「皇帝」などが実際に「怪物」や「巨人」などのようなものになって力づくですべての強者を打ち負かして自分にひれ伏させることができたからなのでしょうか? もちろんそのようなこともあったのだろうと思います。しかし、「王」や「皇帝」などの子孫に生まれたから「王」や「皇帝」などになることができたという人間たちの方が多いのではないかと思います。そして、「王」や「皇帝」などの子孫に生まれたために「王」や「皇帝」などになることができたような人間たちは、自分自身は「怪物」や「巨人」などのようなものにはならずに、「初代」の「王」や「皇帝」などを「神」などとして祭り上げるようとすることも少なくないのだろうと思います。あるいは、もしかすると「初代」の「王」や「皇帝」などは「神」から「特別な力」を付与されたなどと宣伝することになるのかもしれないと思います。あえて言い換えるのならば、「神」などという「特別な存在」を持ち出すことによって、自分たちは「ただの最強の強者」ではなく「特別な最強の強者」であるなどと主張することになるのだろうと思います。しかし、それにもかかわらず、「王」や「皇帝」などの「特別な最強の強者」よりも強い者が新たに出現する可能性はなくならないのです。もはや「特別な最強の強者」が「新しい強者」を抑え込むことができなくなったのならば、「特別な弱肉強食の場所」から「特別な秩序」が失われて再び「ただの弱肉強食の場所」になっていくことになるわけですが…。繰り返しになりますが、そもそもなぜ「王」や「皇帝」などは「王」や「皇帝」などになることができたのでしょうか? きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにしておきます。 ======================================= 「新しく 『覇者』が交代 するのなら 『秩序』は続く ことにはなるが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。主権国家の中で「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? また国際社会の中でも「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? そもそも主権国家や国際社会の中の「怪物」や「巨人」などはどのようなものなのでしょうか? 引き続き大真面目に「怪物」や「巨人」について考えてみることにしようと思います。もしも「ある場所」に「怪物」や「巨人」がいたのならば、その場所はいったいどうなってしまうのでしょうか? 例えば、もしも「ある場所」が「弱肉強食の場所」であったとしても、「王」や「皇帝」などと呼ばれる「特別な最強の強者」にほぼすべての「弱者」が「貢物」などを差し出す替わりに自分たちの「安全」を約束してもらうような場所であるのならば、「弱肉強食の場所」に「特別な秩序」が生まれた「特別な弱肉強食の場所」になるのです。あえて言い換えれば、その「特別な弱肉強食の場所」の中では「王」や「皇帝」などと呼ばれる「特別な最強の強者」に公然と逆らうことができるような者は誰もいなくなるわけですから、ある意味では「平和な場所」になると考えることもできるのです。しかし、その「平和」は永久に続くわけではないのです。そんな「特別な秩序」がある「平和な場所」であっても、それなりに長い時間が経過すれば、「王」や「皇帝」などの「特別な最強の強者」よりも強い者が新たに出現する可能性が高まっていくのです。いくら「王」や「皇帝」などの「特別な最強の強者」であったとしても、彼・彼女が「生き物」である限り、「老化」から逃れることはできないのです。そのように考えるのならば、「特別な弱肉強食の場所」では「これまでの特別な最強の強者」が「新しい強者」を抑え込むことができなくなっていく可能性が高まることになるのです。もしも「新しい強者」が「覇者」となって「これまでの特別な最強の強者」に代わって「新しい特別な最強の強者」になることができるのならば、「これまでの特別な弱肉強食の場所」も「新しい特別な弱肉強食の場所」になって「特別な秩序」がある「平和な場所」であり続けることができるようになるのだろうと思います。しかし、もしも「新しい特別な最強の強者」が出現しない場合には、「ある場所」は再び「ただの弱肉強食の場所」になっていくことになるわけですが…。きょうのところはとりあえずこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『最強』で 『特別』ならば 『特別な 秩序』を持った 『弱肉強食』」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。主権国家の中で「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? また国際社会の中でも「怪物」や「巨人」などのようなものが存在したらどうなるのでしょうか? そもそも主権国家や国際社会の中の「怪物」や「巨人」などはどのようなものなのでしょうか? 今回は大真面目に「怪物」や「巨人」について考えてみることにしようと思います。もしも「ある場所」に「怪物」や「巨人」がいたのならば、その場所はいったいどうなってしまうのでしょうか? 例えば、「ある場所」が「強者」によって「弱者」が食い物にされる「弱肉強食の場所」であったのならば、おそらく「怪物」や「巨人」はその「弱肉強食のピラミッドの頂点」となってすべての「強者」よりも上位の「最強の強者」として君臨することになるのだろうと思います。ここでもしも「怪物」や「巨人」が「ただの最強の強者」であるのならば、「ある場所」は「強者」が「弱者」を食い物にする「ただの弱肉強食の場所」であり続けることになるだけなのだろうと思います。しかし、もしも「怪物」や「巨人」が「ただの最強の強者」ではない「特別な最強の強者」であるのならば、もしかすると「ある場所」を「ただの弱肉強食の場所」から「特別な弱肉強食の場所」に変えることができるのかもしれないのです。「特別な最強の強者」とはいったいどのようなものなのでしょうか? 例えば、「特別な最強の強者」が「弱肉強食のピラミッドの頂点」として君臨している場合に、「ただの強者」が「弱者」を食い物にしているのを見つけると、今度は「特別な最強の強者」が「ただの強者」を「弱者」として食い物にするようなことは十分に想像することができると思います。そのような状況で、もしもほぼすべての「弱者」が「特別な最強の強者」に「貢物」などを差し出す替わりに自分たちの「安全」を約束してもらったとしたら…。無秩序に次々と「強者」が「弱者」を食い物にする「弱肉強食の場所」に「特別な秩序」が生まれて「特別な弱肉強食の場所」になるのです。ちなみに人類の長い歴史の中では、このようなタイプの「特別な最強の強者」にあてはまるのは、「王」や「皇帝」などと呼ばれた者になるのだろうと思います。きょうのところはひとまずこの程度にとどめることにしておきます。 ======================================= 「『国難』は 『信任』されず とどまった 『政権』ならば 乗り越えられる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「選挙」を実施していれば、自由で民主的な社会なのでしょうか? 「選挙」を実施しているだけで本当に「自由で民主的な社会」を守ることができるのでしょうか? たとえ「きっかけ」は「選挙」という民主的な手段であったとしてもいつの間にか「自由で民主的な社会」が「専制」や「独裁」などに乗っ取られてしまうこともあるということは歴史が示しているのです。 もしも「どこかの民主主義国家」が本当に「国難」だったとしても、選挙で有権者から「信任」されずにとどまっている「政権」のままで「国難」を乗り越えることができるのでしょうか? 例えば、もしも「首脳同士の個人的な信頼関係」などというものを構築することができたのならば、「どこかの民主主義国家」は選挙で有権者から「信任」されずにとどまっている「政権」であっても「国難」を乗り越えることができるのでしょうか? 合理的な思考をするのならば、「相手国」としては、「大統領令」などを連発することができるわけでもない「どこかの民主主義国家」の選挙で有権者から「信任」されずにとどまっている「政権」とたとえどんな約束をしたとしても「どこかの民主主義国家」の議会でその約束が阻止される危険性が極めて高いということに気づくことになるはずなのです。そのような状態で「どこかの民主主義国家」の選挙で有権者から「信任」されずにとどまっている「政権」と「首脳同士の個人的な信頼関係」を構築するメリットがあると「相手国」は本当に考えるのでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、もしも選挙で有権者から「信任」されずにとどまっている「政権」でもなんとか「国難」を乗り越えることができたとしても、そのときには「どこかの民主主義国家」は本当の意味での民主主義国家のままでいることができるのかどうかは定かではないのです。人類の歴史では「独裁者同士」「権威主義的な指導者同士」の「固い絆」で結ばれた「首脳同士の個人的な信頼関係」を駆使して互いに権力にしがみつきながら「国難」を乗り切ろうとするような動きもなかったわけではないのです。ちなみに「民主主義国家」や「自由で民主的な社会」が破壊される危機があるような事態は「国難」とは呼ばないのでしょうか? 何度も繰り返していますが、たとえ「きっかけ」は「選挙」という民主的な手段であったとしてもいつの間にか「自由で民主的な社会」が「専制」や「独裁」などに乗っ取られてしまうということもあるということは歴史が示しているのです。きょうも改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『個人的 信頼関係』 『国難』は 国や政府の 『私物化』を意味?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「選挙」を実施していれば、自由で民主的な社会なのでしょうか? 「選挙」を実施しているだけで本当に「自由で民主的な社会」を守ることができるのでしょうか? たとえ「きっかけ」は「選挙」という民主的な手段であったとしてもいつの間にか「自由で民主的な社会」が「専制」や「独裁」などに乗っ取られてしまうこともあるということは歴史が示しているのです。 どういうわけか最近はマスメディアなどで「自由で民主的な社会」を破壊する危険性が非常に高い言葉がもっともらしくそのまま流されています。例えば、「首脳同士の個人的な信頼関係を構築する」などと…。もちろん国際社会の中には「首脳同士の個人的な信頼関係」などというものが存在するのだろうと思います。そしてもちろんその「首脳同士の個人的な信頼関係」などというものが少しも重要でないというわけではないのです。しかし、もしもそれぞれの国家と国民の利益を最優先で考えるのならば、「首脳同士の個人的な信頼関係」よりも、「政府同士の信頼関係」と「国民同士の信頼関係」を構築したり発展させたりすることの方がはるかに重要なものになるはずなのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「首脳同士の個人的な信頼関係」は「首脳」のどちらか(あるいは、どちらも)が交代した場合にはまたゼロから再構築する必要がありますが、「政府同士の信頼関係」と「国民同士の信頼関係」は「首脳」が交代してもゼロから再構築する必要はないのです。それにもかかわらず、なぜ「首脳同士の個人的な信頼関係」なのでしょうか? さらに言えば、そもそも「まずは首脳同士の個人的な信頼関係を構築する」などという発想は、「自由で民主的な社会」同士の友好関係を考える場合には少なくとも適切なものではないのです。なぜ「自由で民主的な社会」同士の友好関係を発展させようとするときに「まずは首脳同士の個人的な信頼関係を構築する」などという「勘違いしたトップダウン」の発想を採用しなければならないのでしょうか? 国家と国家の友好関係を発展させるというのならば、なぜ「首脳同士」よりもずっと長続きする「政府同士の信頼関係」を発展させようと考えないのでしょうか? そのように考えるのならば、「首脳同士の個人的な信頼関係を構築する」などという発想は、国家や政府の「私物化」と見なさなければならなくなる危険性が高いのです。その上で、あえて付け加えるのならば、「国難」などという類の言葉は、権威主義国家の指導者や「クーデターの首謀者」などの「自由で民主的な社会」を破壊しようとする人間たちが好んで使う言葉の1つでもあるのです。繰り返しになりますが、たとえ「きっかけ」は「選挙」という民主的な手段であったとしてもいつの間にか「自由で民主的な社会」が「専制」や「独裁」などに乗っ取られてしまうということもあるということは歴史が示しているのです。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『選挙』では 二度も『信任』 されなくて なぜとどまれる? 民主主義なら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「選挙」を実施していれば、自由で民主的な社会なのでしょうか? 「選挙」を実施しているだけで本当に「自由で民主的な社会」を守ることができるのでしょうか? たとえ「きっかけ」は「選挙」という民主的な手段であったとしてもいつの間にか「自由で民主的な社会」が「専制」や「独裁」などに乗っ取られてしまうこともあるということは歴史が示しているのです。 選挙の敗北の責任は「党首」だけの責任ではない? そんなことは当たり前です。支持率の低迷は「党首」や「内閣総理大臣」だけの責任ではない? おそらくそれもその通りなのだろうと思います。しかし、いわゆる「下院」の選挙で「選挙前の与党」が過半数を失ったという選挙結果は疑いのない事実のまま少しも変わらないはずなのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、そもそも過半数の議席数を確保していない「比較第一党なるもの」は選挙で有権者から信任されてはいないのです。さらに付け加えるのならば、そもそも過半数の得票数を得て選出されたわけでもない「内閣総理大臣」には有権者から信任されたなどと強弁することができる「根拠」も存在しないのです。(代議制)民主主義とは、有権者が選挙で選んだ議員を通じて、基本的には過半数で物事を決めていく制度だということを絶対に忘れてはならないのです。さらに言えば、いわゆる「直近の民意なるもの」が示された「上院」の選挙でも、「選挙前の与党」が過半数を失ったということは、「比較第一党なるもの」の党首でもある「内閣総理大臣」が信任されなかったということを意味しているはずなのです。(代議制)民主主義というものが何かということを考えれば考えるほど、「下院」の選挙でも過半数を失って有権者から信任されず、そして続く「上院」の選挙でも過半数を失って有権者から信任されなかったにもかかわらず、いったいなぜ「内閣総理大臣」にそのままとどまることができるのか非常に疑問なのです。あえて率直に言わせてもらうのならば、選挙で二度も続けて有権者から信任されなかったにもかかわらず、あえて「内閣総理大臣」にとどまるということは、選挙を軽視した民主主義を愚弄する行為と考えるべきなのです。繰り返しになりますが、たとえ「きっかけ」は「選挙」という民主的な手段であったとしてもいつの間にか「自由で民主的な社会」が「専制」や「独裁」などに乗っ取られてしまうということもあるということは歴史が示しているのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「価値観を 押し付けるため 『犯罪』に? 『ルール』によって 押し付け防ぐ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中から「犯罪」をなくすことはできるのでしょうか? また世の中から「犯罪」がなくなれば本当にすべての人たちが安心して生活することができるようになるのでしょうか? 例えば、ある人間たちは「Aは正しくてBは正しくない」と主張し、別のある人間たちは「Bは正しくてAは正しくない」と主張し、さらに別のある人間たちは「AもBも正しくなくてCが正しい」と主張していたとします。そのような状況で「B」「C」を「犯罪」とする法律などがつくられた場合にはいったいどのようなことになるのでしょうか? 例えば、「B」が「窃盗」、「C」が「殺人」などの場合には大きな問題はないのだろうと思います。しかし、「B」や「C」が何らかの価値観のような種類のものであるのならば、自由で民主的な社会においては「B」「C」を「犯罪」とする法律などをつくることは許されないはずなのです。それでは、「A」「B」「C」が共に価値観のような種類のものである場合に、もしも「B」「C」を「犯罪」とするのではなく、「A」を「推奨」するような内容の法律などがつくられたときにはいったいどうなるのでしょうか? もちろん個別具体的なケースを詳細に検討する必要はあるわけですが、どんなに少なくとも「A」を「推奨」することによって社会の中で「B」や「C」やその他の価値観が否定されるような状況になってしまうことは、自由で民主的な社会では許されないのだろうと思います。あえて言い換えるのならば、自由で民主的な社会においては、憲法などを含めた「ルール」によって価値観の押し付けを防ぐようなしくみになっているのです。何度も繰り返していますが、世の中から「犯罪」をなくすことはできるのでしょうか? また世の中から「犯罪」がなくなれば本当にすべての人たちが安心して生活することができるようになるのでしょうか? きょうもあえて「犯罪」と「安全」や「安心」の関係について改めて考えてみる必要があるということを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「最初から 存在しない ことにする? 見て見ぬふりを すれば安心?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中から「犯罪」をなくすことはできるのでしょうか? また世の中から「犯罪」がなくなれば本当にすべての人たちが安心して生活することができるようになるのでしょうか? 繰り返しになりますが、「犯罪」とは、ある国の法律などによって「犯罪」と定められているもののことを意味しているわけです。しかし、たとえ殺人、傷害、窃盗などのように実際に地球上のすべての場所で法律などによって「犯罪」と定められているものであったとしても、あるいは、ある国を含めた多くの場所では法律などで禁止されている「特定の薬物」や「銃」の所持などのような「犯罪」であったとしても、もしもそれらの行為が確かに存在したにもかかわらず、被害者以外の人間たちが見て見ぬふりをして最初から存在しなかったように扱うことになるのならば、「犯罪」として処罰されることはないということには注意が必要になります。地球上には「武装勢力」や「犯罪組織」などに金品などを奪い取られても「武装勢力」や「犯罪組織」などに逆らった誰かが「行方不明」になったとしても、「犯罪」が「犯罪」として処罰される可能性がほとんどない場所が存在するということは偽らざる現実なのです。そしてそんな「犯罪」が「犯罪」として処罰される可能性がほとんどない場所においては、「犯罪」が存在すると主張したり「犯罪」の存在を裏付けようとしたりして新たに「行方不明」になる人たちもいるのだろうと思います。さらに言えば、そんな「犯罪」が「犯罪」として処罰される可能性がほとんどない場所においては、公式な統計上は「犯罪」の発生件数が極めて低くなっているということもあるのではないかと思います。「統計」を信頼できるものと受け止めるかどうかは別としても…。繰り返しになりますが、世の中から「犯罪」をなくすことはできるのでしょうか? また世の中から「犯罪」がなくなれば本当にすべての人たちが安心して生活することができるようになるのでしょうか? くどいようですが、「犯罪」と「安全」や「安心」の関係について一度立ち止まって考えてみる必要があるのです。 ======================================= 「『犯罪』を すべてなくせば 安心か? 法律などが あれば『犯罪』!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中から「犯罪」をなくすことはできるのでしょうか? また世の中から「犯罪」がなくなれば本当にすべての人たちが安心して生活することができるようになるのでしょうか? 最初に当たり前すぎるくらい当たり前のことをあえて念のために確認しておくことにします。そもそも「犯罪」とはいったい何なのでしょうか? 言うまでもないことなのかもしれませんが、「犯罪」の中には、殺人、傷害、窃盗などのように地球上のほぼすべての場所で「犯罪」とされているものもあります。しかし、例えば、「特定の薬物」や「銃」の所持などのように、地球上のある場所では「犯罪」とされていても、地球上の別の場所では「犯罪」ではないものもあるのです。要するに、「犯罪」とは、ある国の法律などによって「犯罪」と定められているもののことを意味しているわけです。そのように考えるのならば、もしも「特定の薬物」や「銃」の所持などがありふれていて多くの人たちが安心して生活することが難しい場所で「特定の薬物」や「銃」の所持を「犯罪」として禁止する法律などが存在するのならば、その社会では「犯罪」がはびこっているということになるわけです。しかし、もしも「特定の薬物」や「銃」の所持などがありふれていて多くの人たちが安心して生活することが難しい場所で「特定の薬物」や「銃」の所持を「犯罪」として禁止する法律などが存在しないのならば、いくらその社会に「特定の薬物」や「銃」があふれていても「犯罪」がはびこっているなどということにはならないわけです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、たとえその社会が全く同じ状況であったとしても、ある行為を「犯罪」とする法律が存在するかしないかで「犯罪」が存在するかしないかという判断が完全に逆転してしまうこともあり得るわけです。繰り返しになりますが、世の中から「犯罪」をなくすことはできるのでしょうか? また世の中から「犯罪」がなくなれば本当にすべての人たちが安心して生活することができるようになるのでしょうか? 何にしても「犯罪」と「安全」や「安心」の関係について一度立ち止まって考えてみる必要がありそうです。 ======================================= 「もしかして 自分で『介護』 できるなら 他人に頼る 機会減らせる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所の様々な場面で「人手が足りない」とか「人材不足」などという言葉をよく聞きます。しかし、本当に「人手が足りない」「人材不足」などなのでしょうか? もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? 繰り返しになりますが、社会のあちこちで「人手が足りない」「人材不足」などと言われている「仕事」のすべての作業を機械化することができないことは確かです。少なくとも現時点においてこれまで人間が担ってきたすべての作業を機械化することは不可能です。しかし、それでもやはり、発想の転換によって必要不可欠な「人手」を減らしたり機械化することができる部分を増やしたりすることは十分に可能ではないかと思います。例えば、一般に「介護」の分野では、必要不可欠な「人手」を減らすことは非常に難しいと言われています。「介護する必要性のある人たちを他人が介護する」という考え方を前提にするのならば、確かにその通りなのだろうと思います。しかし、もしも精神的にはまだまだ十分に元気だけれども老化などによる身体的機能の衰えのために介護の必要性があると判断されている人たちが、何らかの「機械」によって老化などによる身体的機能の衰えを十分に補うことができるようになるのならば、上手くいけばそのような人たちは介護の必要性がほとんどなくなるかもしれないのです。あえて言い換えるのならば、もしも何らかの「機械」によって老化などによる身体的な機能の衰えを十分に補うことができるのならば、自分で自分を「介護」することができて介護のために他人に頼る機会が大幅に減るという人たちが増えるということになるのです。あくまでも一般論ですが、ある社会でいわゆる「高齢化」がますます進行したときに、いつまでも「高齢者1人を何人の現役世代で支えるのか」などという発想を当たり前のように採用し続けているのならば、その社会が破綻する危険性が極めて高くなってしまうのではないかと考えています。何度も繰り返していますが、もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? きょうもあえてそのことを重ねて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「もしかして 人手不足の その仕事 『報酬』低い? 『待遇』悪い?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所の様々な場面で「人手が足りない」とか「人材不足」などという言葉をよく聞きます。しかし、本当に「人手が足りない」「人材不足」などなのでしょうか? もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? そもそもなぜ社会のあちこちで「人手が足りない」「人材不足」などという言葉があふれているのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて単純化して言わせてもらうのならば、もしかすると不足しているのは「人手」「人材」というよりも「報酬」などの「待遇」なのではないかと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、社会のあちこちで「人手が足りない」「人材不足」などと言われている「仕事」の「報酬」は、他の「仕事」の「報酬」と比べて高いのでしょうか? それとも低いのでしょうか? もしもその「仕事」の「報酬」が他の「仕事」の「報酬」よりも低いのならば、その「仕事」の「生産性」を劇的に高めることによって「報酬」を引き上げる余裕を生み出すことを真剣に考えなければならないはずなのです。その「仕事」の「生産性」を劇的に高めるために最も効果的な方法の1つは、その「仕事」に必要不可欠な「人手」「人材」の数を減らすことなのです。そして「人手」「人材」の数を減らすために効果的な方法の1つは、作業の機械化なのです。さらに言えば、たとえその「仕事」の「報酬」が高かったとしても、その「仕事」の「内容」が他の「仕事」と比べて肉体的や精神的な疲労が激しいものだったり、危険な作業や汚い作業を伴うものだったりするような場合には、その「仕事」に就こうという人たちが少なかったとしても不思議ではないと思います。そしてその「仕事」の「待遇」を改善して肉体的や精神的な疲労を軽減したり危険な作業や汚い作業を減らしたりするためにはできるだけ多くの作業を機械化するということが高い効果を期待することができる方法なのです。少なくとも現時点においてこれまで人間が担ってきたすべての作業を機械化することは不可能です。しかし、さらなる作業の機械化の可能性を追求し続けることはやはり必要なのです。くどいようですが、「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? きょうもあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『人間』を 『機械』に置き換 えられれば 長時間でも 活動できる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所の様々な場面で「人手が足りない」とか「人材不足」などという言葉をよく聞きます。しかし、本当に「人手が足りない」「人材不足」などなのでしょうか? もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? 繰り返しになりますが、もしも「ドローン」などの無人機を大規模かつ組織的に活用することができるのならば、それほど多くの人員を必要とせずに、効果的な有害鳥獣対策を実施することができるようになると考えることができるのです。従来は「人手」や「人材」が必要とされていた作業のいくつかを「ドローン」などの無人機によって代替することによって必要とされる「人手」や「人材」を削減することができるわけです。もちろん「人手」や「人材」のすべてを「ドローン」などの無人機で代替することができるというわけではないと思います。しかし、作業のいくつかを「ドローン」などの無人機で代替することができるのならば必要とされる「人手」や「人材」を削減することができるということだけは確かなのです。その上で、あえて仮定の上に仮定を積み重ねるようなことを言うのならば、もしも「有害鳥獣対策」のために「ドローン」などの無人機を大規模かつ組織的に活用することができるようになるのならば、そのシステムを、例えば、「行方不明者の捜索」、「密入国者・密輸出入の発見・監視」、「禁止区域に侵入した違法なドローンの捕獲・撃墜」などにも「転用」してそれなりに大きな効果を上げることができる可能性が新たに生み出されることになるのです。さらに言えば、「ドローン」などの無人機を活用したシステムは、「人手」や「人材」が必要とされる従来の方法と比べて長時間の連続した活動を実現することができる可能性が高いのです。そのことは人間を機械に置き換えることによって得られるメリットの1つということになります。くどいようですが、本当に「人手が足りない」「人材不足」などなのでしょうか? もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? きょうのところは改めてこのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『ドローン』を 有害鳥獣 対策に なぜ活用を しないのだろう?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所の様々な場面で「人手が足りない」とか「人材不足」などという言葉をよく聞きます。しかし、本当に「人手が足りない」「人材不足」などなのでしょうか? もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? 最近のどこかの国ではクマなどがあちこちに出没して人間が死傷させられる深刻な被害も多く報道されています。率直に言わせてもらうのならば、なぜクマなどの有害鳥獣対策にもっと大規模かつ組織的に「ドローン」などを活用しようという話が出てこないのでしょうか? もちろん「ドローン」などの無人機を活用しようという「アイディア」が全く出てこないというわけではないのだろうと思います。そしておそらく「ドローン」などの無人機の活用には様々な課題や制約などがあるのだろうとは思います。しかし、それでもやはり、もしも「ドローン」などの無人機を大規模かつ組織的に活用することができるのならば、それほど多くの人員を必要とせずに、効果的な有害鳥獣対策を実施することができるようになると考えることができるのです。「ドローン」というと空中を飛行しているイメージが強いのかもしれませんが、地上を走ったり這ったりするタイプの無人機も、水上や水中を航行したりするタイプの無人機も開発されているのです。もしも複数の種類の多数の無人機を同時かつ組織的に活用することができるような形で運用すれば、1年365日24時間体制での「有害鳥獣」の「発見」から「駆除」までの一連の対策を最小限の人員で実行することができるようになるのではないかと思います。繰り返しになりますが、本当に「人手が足りない」「人材不足」などなのでしょうか? もしかすると「人手」「人材」よりもはるかに不足しているのは「アイディア」などではないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『戦争』に 『正義』はないか? 本当に? 『理論上』なら 『正義』はあるが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「戦争」や「争い」はなぜなくならないのでしょうか? 「戦争」や「争い」をなくすためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 自分たちの身の回りで繰り返し発生する様々な「争い」をなくさなくても、地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? あくまでも一般論ですが、「正義の戦争なんて存在しない」などともっともらしく言われることがあります。しかし、少なくとも「理論上」は「正義の戦争」は存在するのです。あえて個人間の事例を使って説明することにすれば、例えば、どうしても結婚したいなどと一方的に強く望んでいる人間が力づくで相手に結婚などを迫っているような場合に、その一方的で不当な要求を相手が「力」を使って拒否することは「正義」とは言えないのでしょうか? あるいは、相手の持っているものがどうしても欲しいと強く望んでいる人間が力づくで相手から欲しいものを奪い取ろうとしているような場合に、相手が奪い取られないように「力」を使うことは「正義」とは言えないのでしょうか? そのように考えるのならば、少なくとも「理論上」は「正義の戦争」というものは存在するのです。その上で、あえて付け加えるのならば、たとえ「正義の戦争」として始まったものであったとしても、もう二度と力づくで結婚を迫ってきたり大切なものを奪い取ろうとしたりしてくることができないようにするために、この機会に徹底的に痛めつけてしまおうとか、息の根を止めてしまおうなどということになってしまった場合には、もはや「正義」ではなくなっているのです。繰り返しになりますが、少なくとも「理論上」は「正義の戦争」というものは存在するのです。そしてくどいようですが、自分たちの身の回りで繰り返し発生する様々な「争い」をなくさなくても、地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? きょうのところは改めてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『じゃんけん』や 『くじ引き』をして 決められる? 『分割』をして みんなで分ける?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「戦争」や「争い」はなぜなくならないのでしょうか? 「戦争」や「争い」をなくすためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 自分たちの身の回りで繰り返し発生する様々な「争い」をなくさなくても、地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? 地球上のだいたいどこに行っても、子どもたちは、残り1つになった「お菓子」などをどちら(誰)が食べるのかとか、どちら(誰)が先に「おもちゃ」や「ゲーム」で遊ぶのかとかなどといった実に些細なことで「争い」を始めることがあると思います。そして「争い」に決着を付けるために「じゃんけん」や「くじ引き」で「どちら(誰)か」を決めることもあります。あるいは、「お菓子」のようないくつかに分割することができるものの場合には「分割」してそれぞれで分けることで「争い」に決着を付けるというようなこともあると思います。もしも「じゃんけん」や「くじ引き」で決めたり「分割」して分け合ったりすることで決着を付けることができるのならば、「じゃんけん」や「くじ引き」で決めたり「分割」して分け合ったりすることで決着を付けるということを事前に「ルール」で決めておけば「争い」が発生することはなかったのではないかと多くの人たちは想像するのではないかと思います。もちろん「争い」になりそうなことのすべてが「じゃんけん」や「くじ引き」で決めたり「分割」して分け合ったりすることで完全かつ最終的に決着を付けることができるのならばいいのですが、残念ながら世の中はそれほど単純ではないのです。例えば、恋愛で複数のライバルが同じ人を恋人にしたいと言っているような場合には、「じゃんけん」や「くじ引き」で決めることも、ましてや「分割」して分け合うようなこともできるわけがないのです。ちなみに「話し合いで決める」などということが絶対に不可能だとは言いませんが、いついかなるときでも問題を完全かつ最終的に解決することができるわけではないということをあえて指摘しておくことにします。繰り返しになりますが、自分たちの身の回りで繰り返し発生する様々な「争い」をなくさなくても、地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「お互いに 『主張』や『立場』 押し付けず 『自由』を認め られるのならば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「戦争」や「争い」はなぜなくならないのでしょうか? 「戦争」や「争い」をなくすためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? そもそも地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? 主張や立場が違っていたとしても「戦争」や「争い」を発生させないためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 例えば、たとえ主張や立場が違っていたとしても、双方がそれぞれの主張や立場を守り続けることを互いに認め合うことができるのならば、「戦争」や「争い」にまで発展することは少ないのだろうと思います。それではいったいどうしたらそれぞれの主張や立場を守り続けることを互いに認め合うことができるのでしょうか? 逆の言い方をするのならば、互いに絶対に認めることができない主張や立場とはいったいどのような主張や立場なのでしょうか? どんなに少なくとも「自分たちの主張や立場とは異なる主張や立場の相手の存在は認めない」などという主張や立場を認めることはできないと思います。あえて言い換えるのならば、「戦争」や「争い」にまで発展する危険性をなくすことができない主張や立場だけは認めることができないのです。あなたの主張や立場を支持することも理解することもできないが、あなたが私にあなたの主張や立場を押し付けることがないのならば、私もあなたに私の主張や立場を押し付けることはしないなどということになれば「戦争」や「争い」にまで発展する危険性は大きく低下させることができるのですが…。例えば、「男性は(伝統的な)男性らしく、女性は(伝統的な)女性らしく」などという主張や立場の人たちは「男性も女性も伝統的な価値観に縛られることなく」などという主張や立場の人たちの「自由」を認めず、逆に、「男性も女性も伝統的な価値観に縛られることなく」などという主張や立場の人たちは「男性は(伝統的な)男性らしく、女性は(伝統的な)女性らしく」などという主張や立場の人たちの「自由」を認めない傾向があるように思われます。もしもそういう不寛容な傾向が強まっていくことになるのならば、「戦争」や「争い」にまで発展する危険性をなくすことは極めて難しくなってしまうのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『戦争』や 『争い』なくす ことできる? 抑え込むこと ならできるけど」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「戦争」や「争い」はなぜなくならないのでしょうか? 「戦争」や「争い」をなくすためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? そもそも地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? 「戦争」や「争い」はなぜ発生するのでしょうか? もちろん「原因」は1つとは限らないと思います。また「戦争」や「争い」の「原因」を簡単に特定することができるような単純な事例ばかりではないと思います。しかし、どんなに少なくとも双方の主張や立場が違っていなければ、「戦争」や「争い」が発生することはないのだろうと思います。もっとも双方の主張や立場が違っていても「戦争」や「争い」が発生しないことはあります。例えば、どちらか一方の側の「力」が圧倒的に強い場合には、圧倒的に「力」が劣るもう一方の側が「泣き寝入り」することになることも少なくはないのです。あるいは、たとえ双方の主張や立場が違っていても、双方よりもはるかに圧倒的に強大な「力」を持っている第三者が「戦争」や「争い」の発生を抑え込んでいるような場合にも、「戦争」や「争い」が発生しない可能性が高くなります。主権国家の中で「警察」などが十分に機能している場合には、そう簡単には双方のグループの対立が大規模かつ長期の暴力的な衝突にまで発展することが少ないように…。さらに言えば、もしも双方の主張や立場が違っていたとしても、双方がそれぞれの主張や立場を守り続けることを互いに認め合うことができるのならば、双方の主張や立場の違いが「戦争」や「争い」にまで発展することは少ないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、地球上から「戦争」や「争い」をなくすことが本当にできるのでしょうか? 「弱者」が「泣き寝入り」せずに「強者」に立ち向かう可能性は残るわけです。そして残念ながら自分たちの主張や立場と違う相手の存在を認めることができないと思っているような人間たちも存在するわけです。「戦争」や「争い」は抑え込むことならできるのかもしれませんが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『最愛の 人』を失う 『過去』をどう 乗り越えたのか? 何を見つけた?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。過去の記憶というものは絶対に「風化」させてはいけないものなのでしょうか? 人間が生き物である以上、「風化」は絶対に避けることができないものなのではないのでしょうか? 人間は、生き物として避けることができない「風化」に抗うための「道具」として「制度」や「文化」などをつくり出したからこそ今現在のような「人間」になることができたはずなのです。 あくまでも一般論ですが、例えば、肉親や恋人などの「最愛の人」を「事故」などで失った人たちはそれぞれの記憶を「風化」させてはいけないのでしょうか? 肉親や恋人などの「最愛の人」を「事故」などで失った人たちがこれからも生き続けるためには、それぞれの悲しい記憶をある意味で「風化」させる必要があるのではないかと思います。また肉親や恋人などの「最愛の人」を「事故」などで失った人たちがそれぞれの悲しい記憶やその後の苦しかった体験を語り継ぐことが本当に「事故」などを防ぐために必要不可欠なことなのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、肉親や恋人などの「最愛の人」を「事故」などで失った人たちがその「過去」をどのようにして乗り越えることができたのかなどということを知りたいと思っている人たちはかなり多いのではないかと思います。肉親や恋人などの「最愛の人」を「事故」などで失った人たちはその「過去」をただただ嘆いてひたすら泣き叫んだからこそ「過去」を乗り越えることができたのでしょうか? おそらくそんなことはないのだろうと思います。おそらくただただ嘆いてひたすら泣き叫ぶよりもずっと前向きなことに取り組むことがなかったのならば「過去」を乗り越えることはできなかったのではないかと思います。例えば、「事故」などが発生する前にその「何か」が存在したとしたらたぶんその「事故」は発生しなかったかもしれないと心から思うことができる「何か」を見つけ出し、その「何か」をつくり出すことに努力し続けているとか…。その上で、あえて付け加えるのならば、その「何か」が「制度」のようなものであるのならば、「風化」しにくくてさらに前向きなものになるのだろうと思います。くどいようですが、過去の記憶というものは絶対に「風化」させてはいけないものなのでしょうか? きょうも改めてそのことを指摘した上で強調することにしておきます。 ======================================= 「『教訓』の 『風化』を防ぐ 目的で 『制度』をつくり 『文明』になる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。過去の記憶というものは絶対に「風化」させてはいけないものなのでしょうか? 人間が生き物である以上、「風化」は絶対に避けることができないものなのではないのでしょうか? 人間は、生き物として避けることができない「風化」に抗うための「道具」として「制度」や「文化」などをつくり出したからこそ今現在のような「人間」になることができたはずなのです。 あくまでも一般論ですが、最近はどこかの国のマスメディアなどでは、過去の悲惨な事件や事故の「記憶や教訓の『風化』をどう防ぐかが課題」などという「結論」がさももっともらしく語られることが増えています。繰り返しになりますが、過去の記憶というものは絶対に「風化」させてはいけないものなのでしょうか? 人間が生き物である以上、「風化」は絶対に避けることができないものなのではないのでしょうか? また「教訓」などは「風化」を避けることができないものなのでしょうか? 例えば、もしも「教訓」を「言い伝え」などの形でしか残さないのならばおそらくその「風化」を避けることはできないのだろうと思います。しかし、「教訓」を文字などで記録して「書物」などの形にしておけば、「言い伝え」よりもはるかに「風化」しにくくなるのではないかと思います。さらに言えば、もしも「教訓」を法律などの「制度」の形にまですることができるのならば、「教訓」はますます「風化」することが難しくなるのだろうと思います。これも繰り返しになりますが、人間は、生き物として避けることができない「風化」に抗うための「道具」として「制度」や「文化」などをつくり出したからこそ今現在のような「人間」になることができたはずなのです。いくら高度な文明社会の中で生活していても、過去の記憶が「風化」することだけを極端に恐れ、そしてどういうわけか「風化」の防止だけで思考が完全に停止してしまっているような人間たちは、もしかすると「文明」を生み出す以前の太古の人間と実はそれほど中身は違っていないのかもしれないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「『やめるな』と 叫んでいても 選挙では 投票しない? 無責任では?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかすると「やめるな」などという言葉ほど無責任な言葉はなかなか存在しないのかもしれないと思っています。そしてこの種の無責任な言動が民主主義を少しずつ破壊しているのではないかと思っています。 最近はどこかの国で「#〇〇やめるな」などという言葉がなぜか流行しているそうです。率直に言わせてもらいますが、「〇〇やめるな」とか「〇〇がんばれ」などともっともらしく叫んでいる人間たちの中に、前回の衆議院選挙や今回の参議院選挙で与党やその候補者に投票して「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」という意思を投票で示した人間たちはいったい何人いるのでしょうか? あるいは、「〇〇」を党首に選んだ与党の党員などになって「〇〇降ろし」後の党首選では党員などとして「〇〇」に投票する準備ができているという人間たちはいったい何人いるのでしょうか? もしかすると「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」などともっともらしく叫んでいる人間たちの中にはそうした人間が一人もいないのではないでしょうか? そうであるのならば、あまりにも無責任ではないでしょうか? もしも前回の衆議院選挙や今回の参議院選挙で与党やその候補者に投票していないにもかかわらず、また与党の党員などになって党首選で「〇〇」に投票する気もないにもかかわらず、「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」などともっともらしく叫んでいる人間たちがいるのならば、その人間たちは民主主義を破壊している人間たちだとみなされても仕方がないと思います。民主主義国家では「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」などという意思は選挙での投票を含めた行動で示すべきなのです。そして民主主義国家では選挙などで示したその「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」などという意思に責任を持たなければならないのです。「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」などという意思を示したのならば、責任を持って「〇〇やめるな」「〇〇がんばれ」などという意思をその後の行動でも示し続けるべきなのです。繰り返しになりますが、無責任な人間たちの無責任な行動が民主主義を少しずつ破壊しているのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「まだ『夢を 諦めないで』 と言うのなら 責任持って 応援すべき!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかすると「やめるな」などという言葉ほど無責任な言葉はなかなか存在しないのかもしれないと思っています。そしてこの種の無責任な言動が民主主義を少しずつ破壊しているのではないかと思っています。 例えば、「ある人」に対して「夢を諦めないで」などと言うことは実はそれほど簡単なことではないと思います。たとえ「ある人」がどんな人生を送ることになったとしても、それは「ある人の人生」なのですから、基本的には「ある人の自由」のはずなのです。もしも他人が「ある人」に対して「夢を諦めないで」などという余計なお世話なことを言いたいのならば、最低でも責任を持って「ある人の夢」の実現を応援するとか、その夢が実現するかどうかを最後まで見届けるなどということをしなければならなくなるのだろうと思います。「ある人」に対して「夢を諦めないで」などと言うことは、ある意味では「ある人の人生」の自由を制限することになるわけですから、「夢を諦めないで」などと言った責任を負う覚悟がなければあまりにも無責任だと批判されることになってもおかしくはないのです。さて、話は変わりますが、最近はどこかの国で「#〇〇やめるな」などという言葉がなぜか流行しているそうです。もしも「内閣支持率が謎の急上昇」をするわけでもなければ、「与党の党員数などが謎の急増」をするわけでもないのならば、どこかの国では「#〇〇やめるな」などと声高に叫んでいる無責任な人間たちが増えているということになるのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『風化』とは いったい何を 意味するか? 『生き証人』が いないと『風化』?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。人類の「負の歴史」などについての「風化」とはいったい何を意味しているのでしょうか? 「風化」はなんとかして防がなければならないものなのでしょうか? それとも「風化」はやむを得ないものなのでしょうか? もしかすると「風化」の防止などというものは「アンチエイジング」のようなものなのでしょうか? 人類の長い歴史の中にはもう二度と繰り返してはならない「負の歴史」がいくつも存在します。例えば、大昔のどこかの国で「奴隷」や「社会の最底辺の階層」などとして理不尽にも様々な非人道的な扱いを受けて差別され続けてきた人たちは、今現在も大昔に自分たちが社会から受けてきた非人道的な扱いや差別の実態を「生き証人」や「語り部」として語り継いでいるのでしょうか? それとも、大昔に「奴隷」や「社会の最底辺の階層」などとして理不尽にも様々な非人道的な扱いを受けて差別され続けていた人たちの「負の歴史」は「風化」しているのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、もしも「奴隷」や「社会の最底辺の階層」などの「生き証人」などが生存しているとしたらその人は170歳ぐらいにはなっているのだろうと思います。そのことに気づいたのならばやはり「風化」はやむを得ないということにも気づくことになるのだろうと思います。さらに言えば、もしも「生き証人」や「語り部」が既にいなくなっていて「奴隷」や「社会の最底辺の階層」などの「負の歴史」が「風化」しているのならば、そう遠くないうちに社会に再び「奴隷」や「社会の最底辺の階層」などが復活するようになってしまうのでしょうか? 本当に「生き証人」などがいないと「風化」してしまうのでしょうか? 言うまでもなく「奴隷」や「社会の最底辺の階層」などの「負の歴史」は「生き証人」や「語り部」などとは違った「永続可能なもの」に形を変えて残っているのです。例えば、国際条約や憲法などを含めた人権を保障する法体系として…。繰り返しになりますが、人類の「負の歴史」などについての「風化」とはいったい何を意味しているのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「直接の 体験者とか 被害者は 時間が経てば 必ず減るが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。人類の「負の歴史」などについての「風化」とはいったい何を意味しているのでしょうか? 「風化」はなんとかして防がなければならないものなのでしょうか? それとも「風化」はやむを得ないものなのでしょうか? もしかすると「風化」の防止などというものは「アンチエイジング」のようなものなのでしょうか? いわゆる「負の歴史」の「生き証人」や「語り部」などが語る言葉に「説得力」があるのはいったいなぜなのでしょうか? やはり「負の歴史」の「生き証人」や「語り部」などがその「負の歴史」の直接の体験者や被害者であるということが大きいのではないかと思います。もしも「負の歴史」の「生き証人」や「語り部」などがその「負の歴史」の直接の体験者や被害者でなかったとするのならば、彼・彼女たちが語る言葉の「説得力」は大幅に減少してしまうのではないかと思います。やはり自分自身の目で直接見たもの、自分自身の耳で直接聞いたもの、自分自身の鼻などで直接嗅いだもの、自分自身の手などで直接触ったもの、自分自身の皮膚などで直接感じたものを、自分自身の言葉で語るのと、その言葉を聞いた人たちがその聞いたことを別の誰かに話すのとでは、「説得力」に雲泥の差があるのだろうと思います。繰り返しになりますが、もしかすると「風化」の防止などというものは「アンチエイジング」のようなものなのでしょうか? 人間が人間であり続ける限り、時間が経過するにつれて「負の歴史」の直接の体験者や被害者が少なくなっていくのは避けることができないことなのだろうと思います。いくら「老化」を防ごうとしても「老化」を完全には防ぐことができないように…。その上で、あえてひとこと付け加えるのならば、たとえ「生き証人」や「語り部」などを引き継いだ直接の体験者や被害者ではない人たちの言葉には直接の体験者や被害者の言葉ほどの「説得力」はなかったとしても、どんなに少なくとも「生き証人」や「語り部」などを引き継いだ人たちの中には直接の体験者や被害者の「記憶」(の一部)を生き残らせることはできるのだろうと思います。くどいようですが、もしかすると「風化」の防止などというものは「アンチエイジング」のようなものなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「本当に 『同じ〇〇 人』なのか? それぞれ違う 人ではないか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。あえて率直に言わせてもらうのならば、もっともらしく地球上のあちこちで「戦争」などについて語られている単純で怪しげな「物語」には注意をする必要があります。 過去の「戦争」などで加害者側だったという人たちの中には自分たちが直接の加害者ではなかったにもかかわらず被害者側の人たちに同情や共感して「同じ〇〇人として恥ずかしく思う」とか「同じ〇〇人としてお詫びする」などという趣旨の発言を好んでしている人たちがいます。おそらくそうした人たちの多くは人間としてのごく自然な感情を素直に表現しているだけなのだろうと想像はしています。しかし、それでもやはり、「同じ〇〇人として」という部分には少なからず違和感を覚えるのです。なぜそれぞれの国の政府関係者が外交の場で発言しているわけでもないのに「同じ〇〇人として」発言しなければならないのでしょうか? 一人ひとりそれぞれ違う一人の人間として、過去の出来事について人間としてのごく自然な感情を素直に表現してはいけないのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「同じ〇〇人として」という物の見方こそが「戦争」を発生させる危険性を高めるということは注意をしなければならないのです。想像してみてください。例えば、X国の一部の人間たちがZ国で凶悪犯罪を繰り返しているような状況で「同じ〇〇人として」などという物の見方をしたらいったいどうなってしまうのでしょうか? 「同じX国の人たち」は「犯罪容疑者やその予備軍」ということにされてしまう危険性は高くならないのでしょうか? 凶悪犯罪の被害者と「同じZ国の人たち」が加害者と「同じX国の人たち」に対して反感や嫌悪感を持つようになる危険性は高くならないのでしょうか? 繰り返しになりますが、なぜ「同じ〇〇人として」発言しなければならないのでしょうか? 一人ひとりそれぞれ違う一人の人間として、過去の出来事について人間としてのごく自然な感情を素直に表現してはいけないのでしょうか? くどいようですが、もっともらしく地球上のあちこちで「戦争」などについて語られている単純で怪しげな「物語」にはよくよく注意をする必要があるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『悲惨さ』を 当時の人は 知らないか? 悪いと知らず? 反対もせず?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。あえて率直に言わせてもらうのならば、もっともらしく地球上のあちこちで「戦争」などについて語られている単純で怪しげな「物語」には注意をする必要があります。 繰り返しになりますが、「戦争」というものがいかに悲惨なものであるのかなどということを「語り継ぐ」ことで本当に「戦争」を防ぐことができるのでしょうか? もう二度と「戦争」を繰り返さないなどと固く誓ったのならば「戦争」を防ぐことが本当にできるのでしょうか? 人間というものは「戦争」が悪いものだと知っていれば「戦争」を引き起こすようなことは本当にないのでしょうか? これらのことはほとんどの人たちがほんの少し立ち止まって改めてじっくりと考えてみるだけでも「戦争」を防ぐことが本当にできるのか疑問になってくるのではないかと思います。あえて率直に言わせてもらうのならば、もしかすると過去に「戦争」が引き起こされてしまったときには、その当時のほとんどの人たちは「戦争」を悪いものだと知らなかったとでも言うのでしょうか? そしてもしかすると過去に「戦争」が引き起こされてしまったときには、その当時の人たちの中には「戦争」に反対した人たちはほとんどいなかったとでも言うのでしょうか? もしかすると過去に「戦争」が引き起こされてしまったときには、その当時のほとんどの人たちは「戦争」の「悲惨さ」を知らなかったとでも言うのでしょうか? 当時も「戦争」に反対している人たちや「戦争」の「悲惨さ」を知っている人たちがいたのならば、なぜ「戦争」は発生したのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「戦争」についての単純で怪しげな「物語」を信じ込んでいる人たちの数が増えれば増えるほど「戦争」の危険性は高まることになるのです。くどいようですが、もっともらしく地球上のあちこちで「戦争」などについて語られている単純で怪しげな「物語」には注意をする必要があります。きょうもあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『悲惨さ』を 語り継いだら 『戦争』は 発生しない? 二度と起きない?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。あえて率直に言わせてもらうのならば、もっともらしく地球上のあちこちで「戦争」などについて語られている単純で怪しげな「物語」には注意をする必要があります。 「戦争」で莫大な利益を得ることができる人間たちや独裁的指導者などを除いたほとんどすべての人たちにとって「戦争」は存在しない方がいいはずなのです。「戦争」を二度と引き起こさないためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 「戦争」というものがいかに悲惨なものであるのかなどということを「語り継ぐ」ことで本当に「戦争」を防ぐことができるのでしょうか? もう二度と「戦争」を繰り返さないなどと固く誓ったのならば「戦争」を防ぐことが本当にできるのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、そのような単純で怪しげな「物語」を信じ込んでいる人たちの数が増えれば増えるほど「戦争」の危険性はむしろ高まることになってしまうのです。人間というものは「戦争」が悪いものだと知っていれば「戦争」を引き起こすようなことは本当にないのでしょうか? もしそうであるのならば地球上から殺人や強盗や窃盗などが消えてなくならないのはいったいなぜなのでしょうか? たとえ殺人や強盗や窃盗などが悪いことであると分かっていても殺人や強盗や窃盗などを繰り返してしまう人間たちは実際にはかなりいるのです。人間というものは「戦争」というものがどれだけ悲惨なものなのかということを分かっていれば「戦争」を引き起こすようなことは本当にないのでしょうか? もしも人間というものがいついかなるときも感情的にはならずに冷静に行動することができるのならば「悲惨さ」は「戦争」の強力なブレーキになるのだろうとは思います。しかし、人間というものは簡単に一瞬で感情的になってしまうことも少なくないはずなのです。そして人間というものは自分自身の感情的な行動によって生み出されたあまりにも悲惨な結果を目にしてから後悔することも少なくないのです。繰り返しになりますが、もっともらしく地球上のあちこちで「戦争」などについて語られている単純で怪しげな「物語」には注意をする必要があります。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「安全な 場所からいくら 叫んでも 見て見ぬふりと どこが違うか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のほとんどすべての人たちは「正しいこと」を「正しいこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「正しいこと」を「正しいこと」であると指摘することができるのでしょうか? また世の中のほとんどすべての人たちは「間違ったこと」を「間違ったこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「間違ったこと」を「間違ったこと」であると指摘することができるのでしょうか? くどいようですが、たとえ「間違ったこと」に気づいていたとしても、自分自身も被害者になってしまう危険性を避けるためにあえて見て見ぬふりをしてしまうという人たちが少なくないということは現実の社会における深刻な問題点の1つなのではないかと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、「目の前の理不尽なこと」に声を上げて抗議などをするだけで(満足して)お終いにしてしまう人たちの存在も現実の社会における深刻な問題点の1つではないかと思っているのです。言うまでもなく中東やウクライナなどで多くの子どもを含めた民間人が犠牲になっていることは「間違ったこと」です。しかし、それでもやはり、「間違っていること」を「間違っていること」であると声高に叫ぶだけでは「間違っていること」が消えてなくなったりするようなことはないはずなのです。さらに言えば、「間違っていること」を「間違っていること」であると声高に叫んでいる人間たちは、いくら「間違っていること」であると声高に叫んでも巻き込まれて自分自身も被害者になってしまう危険性のほとんどない安全な場所にいながら声高に叫んでいるだけであるということにも注意をする必要があるのです。いくら「間違っていること」を「間違っていること」であると声高に叫んでも安全な場所にいながら「間違っていること」を「間違っていること」であると声高に叫んでいるだけであるのならば、「間違っていること」を見て見ぬふりをするのと実質的にどこがどれだけ違っているのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『あのとき』に 『あの場所』で『あの こと』をして いたから『まさか』 の坂道へと…」-。 きょうはあえて少しだけ「昔話」をしてみることにしようと思います。一昔前にどこかの国の内閣総理大臣が「人生にはいくつも坂がある。その一つが『まさか』」などと言っていたことを最近よく思い出します。確かにごく普通の多くの人たちにとっても長い人生の間に「まさか」はときどきやってくることになるものなのだろうと思います。それにしても最近は「まさか」があまりにも多すぎるような気がしますが…。 ちなみにそれほど短くはないがまだそれほど長くもない私の人生の中でも「まさか」はいくつもありました。そして「まさか」の坂道を上っている途中にまた次の「まさか」が見えてくるようなこともありました。改めて振り返ってみると、もしも「あのとき」に「あの場所」で「あのこと」をしていなかったのならば、そもそも「まさか」の坂道に出会うようなことはおそらくなかったのだろうと思います。あえて言い換えれば、「あのとき」に「あの場所」で「あのこと」をしていたのならば「まさか」の坂道へと突き進んでいくことはある意味で「必然」だったと考えることもできるわけです。さらに言えば、「あのとき」に「あの場所」で「あのこと」をしていたために遭遇した「まさか」と真正面から向き合うということは、「あのとき」に「あの場所」で「あのこと」をしていた自分としての「責任」ではないかと考えることもできるのです。それにしても最近は国際社会でも永田町周辺でも「あまりにも質の悪い『まさか』」が多すぎるような気がしますが…。いったい全体どこの誰がこんな「あまりにも質の悪い『まさか』」を次々と生み出したのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「実際に 声を上げても 止められず 立ち向かっても 止められないかも…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のほとんどすべての人たちは「正しいこと」を「正しいこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「正しいこと」を「正しいこと」であると指摘することができるのでしょうか? また世の中のほとんどすべての人たちは「間違ったこと」を「間違ったこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「間違ったこと」を「間違ったこと」であると指摘することができるのでしょうか? 繰り返しになりますが、たとえ「間違ったこと」に気づいていたとしても、自分自身も被害者になってしまう危険性を避けるためにあえて見て見ぬふりをしてしまうという人たちが少なくないことは現実の社会における深刻な問題点の1つなのではないかと思います。たとえ「間違ったこと」に気づいていたとしても、自分自身も被害者になってしまう危険性がある場合には見て見ぬふりをしてしまうというような人たちが多いときにはどうなってしまうのでしょうか? 例えば、あなたが目の前で「強盗」が行われているのをたまたま見てしまった場合にはどうするのでしょうか? 警察に通報するという人たちは少なくないのだろうと思います。もちろん日本のような平和で豊かな民主主義国家の場合には通報すればすぐに警察が駆け付けるので「強盗」が未遂に終わったりすぐに容疑者が逮捕されたりすることも少なくはないとは思います。しかし、地球上では様々な理由から警察などが存在しなかったり存在しても全く信用できなかったりする国も少なくないのです。警察に通報しても解決することができないときはどうしたらいいのでしょうか? 自分自身も被害者になる危険性を覚悟しながら勇気を持って「強盗」に「やめろ!」などと言う人たちもいるとは思います。しかし、いくら「やめろ!」と言っても目の前の「強盗」という理不尽なことを止めることができないということは少なくないと思います。もちろん「見て見ぬふりをしてしまう人たち」よりも「実際に声を上げた人たち」の方がましなのかもしれないとは思います。しかし、目の前で「強盗」が行われているという現実は変わらないのです。あるいは、もしかすると危険を顧みずに果敢に「強盗」に立ち向かって「強盗」を止めようとするという人たちもいるのだろうと思います。確かに「果敢に立ち向かって止めようとする人たち」は「実際に声を上げた人たち」よりも現実を変化させることができる可能性は高いのだろうと思います。しかし、それでもやはり、果敢に立ち向かっても目の前の「強盗」を止めることができないのかもしれないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『間違った こと』だと気づく 場合でも 見て見ぬふりを してしまうなら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のほとんどすべての人たちは「正しいこと」を「正しいこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「正しいこと」を「正しいこと」であると指摘することができるのでしょうか? また世の中のほとんどすべての人たちは「間違ったこと」を「間違ったこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「間違ったこと」を「間違ったこと」であると指摘することができるのでしょうか? 例えば、世の中のほとんどすべての人たちは「いじめ」を「間違ったこと」であると理解しているのでしょうか? また世の中のほとんどすべての人たちは実際に「いじめ」を「間違ったこと」であると指摘することができるのでしょうか? たとえ「いじめ」を「間違ったこと」であると理解していても実際に「いじめ」を「間違ったこと」であると指摘することができるという人たちばかりではないのだろうと思います。実際に「いじめ」を「間違ったこと」であると指摘することによって自分自身も「いじめ」の標的になるなどという形で被害を受けることになるかもしれないと思って実際に指摘することをためらうような人たちは少なくないのではないかと思います。あえて言い換えれば、たとえ「いじめ」という「間違ったこと」に気づいていたとしても、自分自身も被害者になってしまう危険性を避けるためにあえて「いじめ」という「間違ったこと」を見て見ぬふりをしてしまうという人たちも実際にはかなりいるのだろうと思います。そして「間違ったこと」に気づく場合でも見て見ぬふりをしてしまう人たちが少なくないということも、現実の社会における深刻な問題点の1つではないかと思います。たとえ「間違ったこと」に気づいていたとしても、自分自身も被害者になってしまう危険性がある場合には見て見ぬふりをしてしまうような人たちが多いときにはどうなってしまうのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「禁止した 『理由』が消えた 場合には 廊下を走って よくなったのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のほとんどすべての人たちは「正しいこと」を「正しいこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「正しいこと」を「正しいこと」であると指摘することができるのでしょうか? また世の中のほとんどすべての人たちは「間違ったこと」を「間違ったこと」であると理解しているのでしょうか? そして世の中のほとんどすべての人たちは実際に「間違ったこと」を「間違ったこと」であると指摘することができるのでしょうか? 例えば、どこかの国の多くの小中学校では「廊下を走ってはいけない」などという「ルール」があるみたいです。そもそもなぜ「廊下を走ってはいけない」のでしょうか? また多くの小中学生は「廊下を走ってはいけない」理由を知っているのでしょうか? そして多くの小中学生は「廊下を走ってはいけない」理由に納得しているのでしょうか? さらに言えば、多くの小中学生は実際に廊下を走ったりしていないのでしょうか? 取り上げている例に少し戸惑っている人たちも少なくはないと思います。あくまでも念のために付け加えることにするのならば、実は「主語」の「小中学生」を「有権者」に、「廊下を走ってはいけない」を「その他の何か」に変えてみると、現実政治の深刻な問題点が分かりやすくなるかもしれないのです。例えば、もはや「ガソリン税の暫定税率」を課税する理由がなくなっている、だから「ガソリン税の暫定税率」を廃止するなどという主張は本当に正しいのでしょうか? 例えば、「ガソリン税の暫定税率」を廃止すると「地球温暖化対策」に逆行して「地球温暖化」を促進するようなことにはならないのでしょうか? 「廊下を走ってはいけない」理由がなくなったから廊下を走ってもいいということになってしまうのでしょうか? 廊下を走ることを禁止したときの理由が消えた場合には本当に廊下を走ってもいいということになってしまうのでしょうか? ちなみに「廊下を走ってはいけない」理由はたった1つだけではなくいくつか存在するのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「有権者 『選挙』のたびに 騙される? 『選挙』の後も 関心持てば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「民主主義」における「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」というものは「投票」すればそれでお終いなのでしょうか? 「民主主義」とは「選挙」なのでしょうか? あえて繰り返しますが、「民主主義」における「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 本当に「選挙」というものは「投票」すればそれでお終いなのでしょうか? もしも「選挙」というものを「投票」すればそれでお終いにしてもいいものにしてしまうのならば、有権者は簡単に「選挙」のたびに騙されるようになってしまうのではないかと思います。もしも有権者がある政党が「消費税廃止」などの減税を主張していたことを支持して投票したにもかかわらず「選挙」後に実現しなかった場合には、おそらく多くの有権者が次回の「選挙」でその政党に投票するようなことはなくなるのではないかと思います。しかし、もしも有権者が次回の「選挙」で「消費税廃止」などの減税を主張する別の政党に投票するようになる場合には、有権者が次回の「選挙」でも騙されるようになる危険性は小さくないのです。有権者が「青い鳥」などを探し続けているとまでは言いませんが…。何にしても有権者は「選挙」の後も自分自身が投票した政党・候補者、そして自分の投票によって様々な影響を与えることになるその他のものについても十分な関心を持ち続けるべきではないかと思います。「選挙」の後にも十分な関心を持ち続けることこそが有権者が「選挙」のたびに騙され続けるのを防ぐ「自衛策」の1つになると思います。「選挙」というものは「投票」すればそれでお終いなのでしょうか? どんなに少なくとも「民主主義」とは「選挙」ではないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「投票で 選挙結果で 阻止できる? 『住民投票』 にしたときには…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「民主主義」における「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」というものは「投票」すればそれでお終いなのでしょうか? 「民主主義」とは「選挙」なのでしょうか? 繰り返しになりますが、「選挙」というものは本当に「世論調査」や「住民投票」のようなものなのでしょうか? あえて言い方を変えれば、「選挙」というものに「ある特定の政策」に対する「世論調査」や「住民投票」としての意味を持たせることが本当にできるのでしょうか? 「選挙」というものに「ある特定の政策」に対する「世論調査」や「住民投票」としての意味を持たせるためには、その選挙結果が「ある特定の政策」の実現や阻止に対して非常に大きな影響を与える可能性があるということが必要不可欠になるのです。そもそも選挙結果が「ある特定の政策」の実現や阻止につながる可能性がないのならば、「ある特定の政策」の実現や阻止を本気で目指しているような有権者は、その「選挙」を「世論調査」や「住民投票」とみなす可能性は低くなると思われます。また「ある特定の政策」の実現や阻止を本気で目指しているような有権者であっても、その「選挙」を「世論調査」や「住民投票」とみなしてしまうと他の重要な政策の実現や阻止ができなくなってしまうような場合には、その「選挙」を単純な「世論調査」や「住民投票」とみなすことに躊躇する可能性も低くはないと思われます。もっとも現実政治においては、大昔にどこかの国の地方選挙で大勝した野党党首が「消費税反対の住民投票に勝利」などと発言したような状況が発生してしまうことは偽らざる現実なのです。そもそもいくら地方選挙で大勝したとしても国会で法律を成立させなければ実現することができない消費税の廃止や撤回を実現することができるようになるわけではないのです。さらに言えば、実際に「選挙」を「住民投票」などにしてしまったときにはどうなってしまうのでしょうか? どんなに少なくとも「選挙」を「住民投票」などにして消費税が廃止や撤回されさえすればその地方がどうなってもいいということにはならないはずなのですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「有権者 なぜ投票を? 『選挙』とは 『世論調査』と 見るべきなのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「民主主義」における「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」というものは「投票」すればそれでお終いなのでしょうか? 「民主主義」とは「選挙」なのでしょうか? もしかすると「選挙」というものは「世論調査」や「住民投票」のようなものなのでしょうか? もしも「選挙」というものが本当に「世論調査」や「住民投票」のようなものであるのならば、かなり質の低い「世論調査」や「住民投票」ということになってしまうのではないかと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「選挙」では、ある政策に対する賛成や反対と、ある政党に投票するか投票しないかということが明確な形で結びついているわけではないのです。言い換えるのならば、例えば、ある政策に反対する人たちはある政党だけではなくその政策に反対している別の政党にも投票する可能性があるわけですし、ある政策に賛成する人たちが不祥事を理由にある政策の実現を唯一主張しているある政党には投票しないという可能性もあるのです。このことは「選挙」を「世論調査」や「住民投票」と見ようとする場合には致命的な欠陥になるのです。もっとも「ある1つの政策」の実現だけを主張するいわゆる「単一政策政党」の選挙における得票数の増加は、ある意味では「ある1つの政策」についての「世論調査」や「住民投票」を実施してそれなりに有権者から支持されたと考えることもできなくはないと思います。しかし、どんなに少なくとも、政権を担当することを視野に入れて様々な政策を体系的に掲げている政党の場合には、いくら「消費税廃止」などの減税や負担減を看板政策として主張していたとしても、減税や負担減以外の政策が評価されて得票数が増加することもあるわけですし、減税や負担減以外の不祥事などが原因で得票数が大幅に減少することもあるわけです。本気で「選挙」を「世論調査」や「住民投票」と見ようとする場合には致命的な欠陥があるということに気づくことになると思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『ビジネス』で 『合意文書』は 守るもの! 『政治』の現場 ではどうなのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には様々な「合意」や「約束」などがあります。「合意」や「約束」などで大切なことは何なのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前のことですが、「合意」や「約束」では、「合意」が履行されることや「約束」が守られることが最も大切なことになります。もちろん大切なことはたった1つだけではないと思います。しかし、それでもやはり、履行されない「合意」や守られない「約束」が期待外れであることだけは確かなのです。 当たり前と言えば当たり前の話ですが、「ビジネス」の現場では「合意文書」というものは守るべきものなのです。そして当事者が「合意文書」に書かれた内容を守るということを前提にするのならば、具体的にどのような内容を記載するのか、また具体的にどのような文言として記載するのかなどということにかなりの時間と神経を使って「合意文書」が作成されることになるはずなのです。これに対して「政治」の現場、特に国内政治の現場では、膠着状態に陥った局面を打開するために様々な事情から必ずしも当事者が合意を守ることを前提としていないような「あいまいな内容の合意文書」が作成されるようなことはとてもよくある話なのです。ちなみに「ビフじいさんのような人」が言っている「合意文書」というものは、「ビジネス」の現場でも十分に通用するような「合意」の具体的内容などを厳密に定義した上で作成された「契約書」のような「合意文書」なのでしょうか? また「合意文書」の当事者は「個人」と「個人」なのでしょうか? あるいは、「どこかの国」と「かつて偉大だった国」の間の「条約」と言えるような内容や形式の「合意文書」なのでしょうか? さらに言えば、「ビフじいさんのような人」は「ビジネスマン」なのでしょうか? それとも「ビフじいさんのような人」は「大統領」という肩書を持った「政治家」なのでしょうか? 「成果」として華々しく強調されている「合意」が一時しのぎのものでなければいいのですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『関税』は 『10% 削減』か? 『10% 以上増加』へ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には様々な「合意」や「約束」などがあります。「合意」や「約束」などで大切なことは何なのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前のことですが、「合意」や「約束」では、「合意」が履行されることや「約束」が守られることが最も大切なことになります。もちろん大切なことはたった1つだけではないと思います。しかし、それでもやはり、履行されない「合意」や守られない「約束」が期待外れであることだけは確かなのです。 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「どこかの国」から「かつて偉大だった国」に輸出するときの「関税」は、「10%削減」されたわけではなく「10%以上増加」したということなのではないのでしょうか? たしかに「どこかの国の政府」の「当社比」では「25%」の「関税」が課されるところだったにもかかわらず、「交渉」によって「10%削減」して「15%」にしたなどということになるのかもしれないと思います。しかし、もともと「15%以下」だった「どこかの国の業界」などの「当社比」では、「交渉」によって新たに「10%以上増加」することになっただけではないかと思います。あくまでも一般論ですが、「関税」が増加すれば、「どこかの国」から「かつて偉大だった国」への輸出は基本的には減少することになるのだろうと思います。その場合には「かつて偉大だった国の政権側」の「当社比」では、貿易赤字は減少するということになるのだろうと思います。しかし、その場合に「かつて偉大だった国の消費者」の「当社比」では、今まで当たり前のように買っていた製品が急に値上がりしたりなかなか手に入らなくなったりするという形でこれまで受けてきた「利益」を新たに失うことになるのです。要するにそれぞれの立場によって「当社比」が異なるために「合意」や「約束」に対する評価が違ってくる可能性が高いのです。言い換えれば、「合意」が履行されてもされなくても、「約束」が守られても守られなくても、いくつかの立場では「合意」や「約束」が「期待外れ」になる危険性が高いわけです。きょうのところはそれぞれの立場に違いがあるということをあえて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『当社比』で 判断すると どうなるか? 『合意』は履行? 『約束』守る?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には様々な「合意」や「約束」などがあります。「合意」や「約束」などで大切なことは何なのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前のことですが、「合意」や「約束」では、「合意」が履行されることや「約束」が守られることが最も大切なことになります。もちろん大切なことはたった1つだけではないと思います。しかし、それでもやはり、履行されない「合意」や守られない「約束」が期待外れであることだけは確かなのです。 あくまでも念のために確認しておきますが、「合意」というものは、いったいどのような状態になったら履行されたと判断されることになるのでしょうか? また「約束」というものは、いったいどのような状態になったら守られたと判断されることになるのでしょうか? もしも当事者が「合意」や「約束」をするときに、「合意」を履行するとか「約束」を守るということがいったいどのようなことを意味するのかなどということについて、両者の認識が完全に一致しているのかどうかということを確認しておかなければ、そう遠くない将来に深刻な対立が発生する危険性が高くなってしまうのです。例えば、一方の当事者は「合意」を履行したとか「約束」を守っていると主張しているが、もう一方の当事者が「合意」は履行されていないとか「約束」を守っていないと反発しているような場合は、おそらく当事者が「合意」や「約束」をしたときに認識が一致しているかどうかを確認していなかったことに原因があるわけです。ちなみに多くの社会では商品の性能が「当社比で〇%増加」「当社比で過去最大」などという「広告」はたくさんあふれているわけです。あえて付け加えるのならば、「当社比」で判断すれば「〇%増加」しているから「合意」や「約束」は守られているとか、いや、こちらの「当社比」で判断すると「合意」や「約束」は守られていないとか…。「ビフじいさんのような人」が「過去最大の合意」「かつてない規模のもの」などと大げさに成果を強調していることに違和感を覚えている人たちの「嫌な予感」が的中しなければいいのですが…。 ======================================= 「選挙後も 『ねじれ』解消 難しく してしまったと 分かっているか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「政治空白」とはいったい何なのでしょうか? 「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが欠けている状態のことを意味しているのでしょうか? あるいは、「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを意味しているのでしょうか? それとも「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などに能力が欠ける人物が就いていることを意味しているのでしょうか? 「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? あえて率直に言わせてもらうのならば、昨年の衆議院選挙で敗北して衆議院で議席数の過半数を確保できなくなり、さらに今年の参議院選挙でも敗北して参議院でも議席数の過半数を確保できなくなったにもかかわらず、なぜ「少数与党」として居座り続けることができるのかということはごく普通の多くの人たちにとってはやはり大いに疑問なのではないかと思います。「少数与党」が新たな政権の枠組みを模索するとしても、そう遠くないうちに行き詰まって「下野」などをすることになるとしても、やはり有権者の意思を問うために解散・総選挙が必要不可欠になります。しかし、少なくとも現時点においては、解散・総選挙後も衆議院と参議院で多数派が異なる「ねじれ」の状態を解消することができる可能性は極めて低い状況になっているということには注意が必要になります。今回の参議院選挙を衆参同日選挙にして「事実上の政権選択選挙」にすることがなかったということもあり、参議院の政治勢力の「多極化」はかなり著しいものになっているのです。最悪の場合には、「多極化」した参議院の政治勢力の中から連立政権をつくることが不可能ではないどのような政治勢力の組み合わせであっても「あちらを立てればこちらが立たず」の状態になってほとんどの重要法案や予算の成立が極めて難航する危険性が高いのです。ここまで著しい参議院の政治勢力の「多極化」は国内政治の停滞を長期化させる危険性が非常に高いのです。そしてそれは衆議院を解散して衆議院選挙を実施するだけでは解消することはできないのです。繰り返しになりますが、「政治空白」とは「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを意味しているのでしょうか? それとも「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などに能力が欠ける人物が就いていることを意味しているのでしょうか? 「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『関税』で 消費者側も 損をする! 『トランプ恐慌』 引き金を引く?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「政治空白」とはいったい何なのでしょうか? 「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが欠けている状態のことを意味しているのでしょうか? あるいは、「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを意味しているのでしょうか? それとも「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などに能力が欠ける人物が就いていることを意味しているのでしょうか? 「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? 何度も繰り返していますが、「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? 「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを「政治空白」と呼ぶべきではないのでしょうか? さらに言えば、たとえ相手国と「交渉」をしてどのような「合意」をしてどのような「約束」をしたとしても、その相手国の「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などがその国内では何も決められず何も実現することができない状態であるのならば、外国から見れば「政治空白」ということに本当にならないのでしょうか? いくら「交渉」をして「合意」をしたとしても相手側がその「合意」を約束通りに実行することができない状態であるのならば、本気で「交渉」しても時間の無駄だと考えたとしても少しも不思議ではないはずなのです。その上で、多少の誤解を恐れずにあえて単純化して言わせてもらうのならば、「ビフじいさんのような人」にとっては自分が望んでいる内容を一方的に相手側が実行すると「約束」する可能性がなければ「交渉」する意味はないということになるのかもしれないと思います。言い換えれば、たとえ衆議院が解散されていたとしても解散されていなかったとしても「約束」したことをきちんと実行することができる相手が存在しなければ、「交渉」が上手くいく可能性は事実上0%(ゼロパーセント)ということになるのだろうと思います。そのように考えるのならば、「関税」が引き上げられてしまう危険性はかなり高いことになるわけですが、「ビフじいさんのような人」は本当に「関税」を引き上げることになるのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、「関税」というものは輸出する側ではなく輸入する側が支払うものなのです。単純化して言えば、「関税」というものはその国の消費者側が「値上がり」という形で負担することになるのです。一般的にモノやサービスの価格が「値上がり」すれば、以前よりも売れる量が減少することになります。売れる量が減少するということは、輸出する側だけではなく、輸入する側の経済にも悪影響があるということには注意が必要になります。そして輸入されていたモノが消費者にとって今現在の生活に必要で他のモノでは代替することができないものであるのならば、以前よりもずっと多くのカネを支払うことになってもそのモノを手に入れなければならなくなるわけです。要するに、「関税」というものはその国の消費者側も損をすることになるし、その国の経済にも悪影響を与えることになるのです。そしてもしも貿易額が非常に大きな相手国に対して本気で「関税」を大幅に引き上げるということになるのならば、経済の急激かつ大幅な停滞を覚悟しなくてはならなくなるはずなのです。もしも「ビフじいさんのような人」とその周辺が合理的な判断をすることができるのならば、本当に「トランプ恐慌」の引き金を引くことになりかねない「関税」引き上げを次々と実施していくことになるのかは少し疑問なのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『たら』『れば』の 話は『禁句』 だとしても 『同日選』を やるべきだった…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「政治空白」とはいったい何なのでしょうか? 「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが欠けている状態のことを意味しているのでしょうか? あるいは、「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを意味しているのでしょうか? それとも「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などに能力が欠ける人物が就いていることを意味しているのでしょうか? 「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? 繰り返しになりますが、「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? 「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを「政治空白」と呼ぶべきではないのでしょうか? 歴史などでは「たら」「れば」は「禁句」などと言われることがよくあります。その上で、あえて「たら」「れば」の話をすることにすれば、もしも参議院選挙直前に衆議院を解散してい「たら」、そして衆参同日選挙にしてい「れば」、もしかすると今現在の「政治空白」は発生していなかったのかもしれませんし、仮に発生したとしてもかなり短期間のうちに解消することができていたのかもしれないと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、どこかの国の制度では衆議院での内閣総理大臣の指名選挙で過半数(あるいは多数)の議席数を確保した政治勢力が「与党」になるのです。言い換えれば、衆議院選挙は「政権選択選挙」になり得るわけですが、参議院選挙は「政権選択選挙」はもちろん「事実上の政権選択選挙」にも普通はならないのです。そしてもしも参議院選挙を「事実上の政権選択選挙」にしたいのならば、そのときには同時に衆議院選挙も行うことによって「政権選択選挙」を実施する必要があるのです。もしも「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態という意味での国民にとって大きな不利益になる「政治空白」が発生する危険性を可能な限り低下させるということを最優先で考えていたのならば、衆参同日選挙を選択するべきであったと考えています。本当に国民のことを最優先で考えていたのならば、衆参同日選挙を選択するべきであったのです。しかし、それにもかかわらず、実際には衆参同日選挙が実施されることはなかったわけです。政治でも「たら」「れば」は「禁句」なのかもしれませんが、「私利私欲」「党利党略」にとらわれずに、国民の利益を最優先で考えた場合にどのような選択をするべきだったのかということを今あえて立ち止まって考えてみる必要があります。くどいようですが、「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? 「内閣総理大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを「政治空白」と呼ぶべきではないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「何事も 決められないし 実現も できないのなら 『政治空白』!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「政治空白」とはいったい何なのでしょうか? 「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが欠けている状態のことを意味しているのでしょうか? あるいは、「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態のことを意味しているのでしょうか? それとも「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などに能力が欠ける人物が就いていることを意味しているのでしょうか? 「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? 内政でも外交でも課題が山積する中で「政治空白」をつくってはならない? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、もっともらしくいったい何を愚かなことを言っているのでしょうか? 両院で過半数の議席数を確保することができていない政治勢力の「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などが何も決められず何も実現することができない状態は「政治空白」ではないのでしょうか? ほとんどすべての政策を実現するために必要不可欠となる法律案や予算案を可決・成立させる見通しが全く立たない状態のことをなぜ「政治空白」と呼ばないのでしょうか? さらに言えば、外国から見れば、相手国と「交渉」をしてどのような「合意」をしてどのような「約束」をしたとしても、その相手国の「大統領」や「内閣総理大臣」や「大臣」などがその国内では何も決められず何も実現することができない状態であるのならば、「交渉」しても時間の無駄だと見なされることになってしまう危険性が非常に高いのです。繰り返しになりますが、「政治空白」とはいったいどのような状態を意味しているのでしょうか? その上で、あえて念のために確認しておきますが、そもそも衆議院だけではなく参議院でも過半数の議席を確保することができていないような政治勢力を本当に「少数与党」と呼ぶべきなのでしょうか? たとえどんなに強く「少数与党」の地位にしがみついたとしても衆議院で内閣不信任決議案が可決されるまでの間は暫定的に「与党」であるという不安定な状態にすぎないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「『需要』ない 場所ではあまり 売れないが 地球のどこか では『需要』ある!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、誰かが誰かではなく別の誰かを愛するようになるのかどうかなどということについては「権力」などによって決めることができるわけではないのです。さらに言えば、ある人がある物よりも別の物を好きになるのかどうかということについても「権力」などによって決めることができるわけではないのです。 あくまでも一般論ですが、例えば、「ジープ」などと呼ばれている「悪路でも安全に高速で走行することができる高性能の大型四輪駆動車」は、たとえいくら魅力的なデザインであったとしても、「道路が整備されている狭い場所」ではあまり「需要」がないのだろうと思います。しかし、そんな「悪路でも安全に高速で走行することができる高性能の大型四輪駆動車」は、道路事情が良くない地球上のどこか別の場所では非常に高い「需要」があるのではないかと思います。さらに言えば、例えば、「輸送能力の大きな大型のドローン」は「都市化が進んだ狭い場所」ではなかなか使用することができなくて「需要」はほとんどないかもしれませんが、広大な大平原が広がる中に集落が点在しているような場所では非常に高い「需要」があるのではないかと思います。「需要」がある場所では売れても「需要」がない場所では売れないというのが通常の自由経済の姿です。しかし、「需要」がほとんどない場所で買って「需要」が非常に高い場所に贈るというある意味で特殊な「需要」も考えられるはずなのです。例えば、日本で買ってウクライナや中東やアフリカに贈るとか…。私に言わせれば、「ある物」をその「需要」がほとんどない場所で買って「需要」が非常に高い場所に贈るという「アイディア」が少しも出てこないことが不思議なのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『不公平』? 自分の『息子』 『娘』なら 『主役』になれる はずだと言うが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、誰かが誰かではなく別の誰かを愛するようになるのかどうかなどということについては「権力」などによって決めることができるわけではないのです。さらに言えば、ある人がある物よりも別の物を好きになるのかどうかということについても「権力」などによって決めることができるわけではないのです。 もしかすると「ビフじいさんのような人」がどこかの国で「ステージママ(あるいは、ステージパパ)」などという「和製英語」で呼ばれているような種類の人に見えてきたという人たちも増えてきているのではないかと思います。あくまでも一般論ですが、どこの国でも映画やミュージカルなどで自分の娘や息子が「主役」になれないのは「不公平」などという自己中心的な主張はなかなか受け入れられるものではないはずなのです。確かにすべての映画やミュージカルなどで「主役」が公正・公平にその俳優の実力に基づいて選ばれているとは言えないのだろうと思います。地球上のどこでもカネやコネなどという特別な「力」によって本来ならば選ばれることがなかった実力不足の俳優が「主役」に選ばれるようなことは珍しいことではないのだろうと思います。しかし、だからと言って、自分の娘や息子が「主役」になれないのは「不公平」などという自己中心的な主張に説得力が生み出されることはまずないのです。そもそも客観的に見て本当に自分の娘や息子は「主役」を務めることができるだけの十分な実力のある「俳優」なのでしょうか? もちろんそのような指摘に素直に耳を傾けることができる相手であるのならば、「ステージママ(あるいは、ステージパパ)」などという「和製英語」で呼ばれることはないのだろうと思いますが…。その上で、あえて付け加えることにするのならば、「ビフじいさんのような人」の娘や息子のような「米国製品」は本当に世界市場や米国市場で「主役」を務めることができるだけの十分な実力のある「俳優」なのでしょうか? どんなに少なくとも「すべてYES」でも「すべてNO」でもないことだけは確かなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「売れるはず? なぜそう強く 思い込む? 『視野』が狭くて 『需要』が見えず?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、誰かが誰かではなく別の誰かを愛するようになるのかどうかなどということについては「権力」などによって決めることができるわけではないのです。さらに言えば、ある人がある物よりも別の物を好きになるのかどうかということについても「権力」などによって決めることができるわけではないのです。 そもそもいったいなぜ「売れるはず」だとそんなに強く思い込むことができるのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、激しい吹雪の中で凍死しそうになっている人たちが「アイスクリーム」や「かき氷」を欲しがるようなことはないと思います。「売れるはず」だと思い込んでいるのが「温かいスープ」などならばまだ理解することができないわけでもないのですが…。さらに言えば、例えば、自分にピッタリのサイズで気に入っている服を何着も持っている人たちには、いくらデザインが素晴らしくてもサイズが大きすぎる上に自分で洗濯するのが難しくてクリーニング店に依頼しなくてはいけないような服が爆発的に売れることはないと思います。被災して着替える服を一着も持っていないようなときならばどんな服でも「売れるはず」だと思い込むような人間が出てくることもあり得ないわけではないのだろうと思いますが…。繰り返しになりますが、そもそもいったいなぜ「売れるはず」だとそんなに強く思い込むことができるのでしょうか? 「視野」があまりにも狭いために「需要」が全く見えていないのでしょうか? 地球上には「ビフじいさんのような人」が「不動産」を持っているような場所とは違った特徴を持っている場所はいくらでもあるのです。また地球上には「ビフじいさんのような人」とその仲間たちのような種類の人間たちしかいないというわけではないはずなのです。「ビフじいさんのような人」の根拠のない強い思い込みには本当に困ったものです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『新党』も 『大政党』も なぜ同じ? 『公平』なのか? 『公正』なのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 あくまでも一般論ですが、どこかの国の多くのマスメディアの選挙報道には致命的な欠陥があるようです。多くのマスメディアの選挙報道でも「政策」の実現可能性というものをほとんど考慮せずにほとんど同じような扱いをしているのです。なぜ「新党」も「大政党」もほとんど同じような扱いになってしまっているのでしょうか? 「新党」も「小政党」も「大政党」も同じような扱いにすることが本当に「公平」なのでしょうか? 同じような扱いにすることが本当に「公正」なのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、民主主義の制度の下では、「政策」の実現のために必要となる法律案や予算案などは、多数決によって多数にならなければ、成立させることができないわけです。そうであるのならば、固定的な支持者の数や世論調査の支持率などから「過半数」の議席を獲得する可能性が十分にあると予想される「政党」が掲げている「政策」と、支持率や候補者数などからは「過半数」の議席を獲得する可能性はほとんどないと見られる「政党」が掲げている「政策」を「公平」に扱う必要が本当にあるのでしょうか? あえて言い換えれば、実現可能性がそれなりに高い「政策」と、実現可能性がほとんどない「政策」を同じような扱いにすることは本当に「公正」なのでしょうか? マスメディアは多くの有権者が実現可能性のほとんどない「政策」を選ぶことを黙って見ているだけなのでしょうか? それが公正や公平な選挙報道なのでしょうか? 「政策」の実現可能性というものをほとんど考慮しない多くのマスメディアの選挙報道は中長期的に見れば政治不信を高めたり投票率を下落させたりする大きな原因の1つになる危険性が高いと考えています。きょうのところはそのことを指摘するだけにとどめてあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『政策』で 『投票先』と マッチング? 『一致』はしても 実現可能?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 どうやら最近は「選挙」などに関連して「ボートマッチ」などというものが流行しているようです。最近よく見る「ボートマッチ」などというものは、自分自身の(重視する)「政策」と政党や候補者が掲げている「政策」との「一致度」などが算出されるものになっています。そして有権者は「政策」の「一致度」などを参考にして自分自身が投票する政党や候補者を決めることができるのです。言い換えれば、「政策」によって「有権者」と「投票先」をマッチングしようとしているわけです。しかし、最近よく見る「ボートマッチ」などというものには致命的な欠陥があるということにはよくよく注意をする必要があるのです。いわゆる「ボートマッチ」などというものには、それぞれの「政策」の実現可能性などというものが全く考慮に入れられていないという致命的な欠陥があるということをあえて指摘しておく必要があります。「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「ボートマッチ」などで「投票先」を決めて投票すればそれでお終いなのでしょうか? いくら「政策」が「一致」したとしても、実際に投票してもその「政策」が実現する可能性がほとんどない場合には投票した意味がどれだけあるのでしょうか? 多くの有権者は自分が支持する「政策」が自分自身の一票によって実現することができるようになることを期待して投票しているのではないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「その『夢』を 実現させる ことできる? 実現させる 能力はある?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 例えば、急きょ「始球式」をやることになったスポーツ経験がほとんどない人がわずか1カ月間の週2回の投球練習だけで球速150km以上のストレートをストライクゾーンに投げるなどということは本当に実現可能なことなのでしょうか? たとえ幼い頃からほぼ毎日ずっと投球練習やトレーニングを続けてきたような野球の強豪高校のエース投手であったとしても球速150km以上のストレートを投げることは簡単なことではないのです。そのようなことに注意するだけでも「始球式で球速150km以上のストレートをストライクゾーンに投げる」などという「公約」が実現可能かどうかについてかなりの正確性を持って予測することができるのです。もちろんどこの誰であっても「始球式で球速150km以上のストレートをストライクゾーンに投げる」などという「夢」を持つことは自由です。しかし、その「夢」を実現させることができるだけの十分な能力がなければその「夢」はずっと「夢」のままなのです。「夢」のようなことを「公約」として掲げている政党や候補者はその「夢」のような「公約」を本当に実現させることができるだけの十分な能力があるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「その『夢』は 実現できる ものなのか? そもそもそれは 実現可能?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 例えば、たとえどこの誰であったとしても「プロのスポーツ選手になりたい」などという「夢」を持つことは自由です。あるいは、たとえどこの誰であったとしてもアクション映画などの「ヒーロー」や「ヒロイン」になりたいという「夢」を持つことも自由です。しかし、「プロのスポーツ選手になりたい」などという「夢」を実現することができるのは非常に限られたごく一部の人たちだけであるということは決して見失ってはならないのです。さらに言えば、おそらく現実の世界では、実際にアクション映画などの「ヒーロー」や「ヒロイン」になることはできないということにも注意が必要になります。もしかするとかつて自分が見ていたのと同じ「夢」の実現のために今現在頑張っている人たちを応援したいなどと思うような人たちもいるのかもしれないと思います。もちろん「選挙」で自分と同じ「夢」を見ている政党や候補者に投票することが悪いことだとは言うつもりはないのです。しかし、そもそもその「夢」は本当に実現することができるものなのかということを一度立ち止まって考えてみる必要があります。その「夢」は「プロのスポーツ選手になりたい」などという種類の「夢」なのでしょうか、それとも…。もちろん「選挙」で自分と同じ「夢」を見ている政党や候補者に投票してもその「夢」が実現する可能性はほとんどないかもしれないなどということを十分に理解した上で投票しているのならばそれはそれで自由なわけですが…。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『日本製』 どれだけ魅力 あるものか? すぐに代替 できてしまうか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、誰かが誰かではなく別の誰かを愛するようになるのかどうかなどということについては「権力」などによって決めることができるわけではないのです。さらに言えば、ある人がある物よりも別の物を好きになるのかどうかということについても「権力」などによって決めることができるわけではないのです。 もしも「日本製のあるもの」が市場から消えてしまった場合には、すぐに「他の何か」によって代替することができるのでしょうか? 「日本製のあるもの」のはどれだけ魅力のあるものなのでしょうか? もしも「日本製のあるもの」が「他の何か」によってそう簡単には代替することができないものであるのならば、新しく高い「関税」を課せられるようになって輸入量が減って値上がりした場合であっても「消費者」は「日本製のあるもの」を買い続けることになるのだろうと思います。逆に、もしも「日本製のあるもの」が「他の何か」によって簡単に代替することができるようなものであるのならば、新しく高い「関税」を課せられた場合には「日本製のあるもの」がそのまま市場から消えてしまう危険性が高くなるのだろうと思います。ここで問題になるのは、本当に「どこかの国」の産業が「日本製のあるもの」を代替することができる「他の何か」について妥当な価格で必要な量を供給することができるのかどうかということです。もしも「どこかの国」の産業が妥当な価格で「日本製のあるもの」を代替することができる「他の何か」を必要な量だけ供給することができないのならば、「どこかの国」は「日本製のあるもの」を代替することができる「他の何か」を不足した分だけ別のところから新たに輸入するか、あるいは、不足した分だけは「関税」によって値上がりした「日本製のあるもの」を買い続けなければならないことになります。さらに言えば、もしも「どこかの国」の産業が「関税」によって値上がりした「日本製のあるもの」とほとんど変わらない価格でしかそれを代替する「他の何か」を供給することができないのならば、高い「関税」によって値上がりした負担増のほぼすべてを「どこかの国」の「消費者」が負担させられることになってしまうのです。繰り返しになりますが、「日本製のあるもの」は「他の何か」によって代替することができるのでしょうか? 「日本製のあるもの」が代替することができる場合であっても代替することができない場合であっても「関税」を引き上げることによって発生した負担増のほとんどは事実上「どこかの国」の「消費者」が負担することになる可能性が高いのです。きょうのところはあえてそのことを強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『関税』で 『センター』の座を 勝ち取れる? 『ファン』の気持ちは 考えないで…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、誰かが誰かではなく別の誰かを愛するようになるのかどうかなどということについては「権力」などによって決めることができるわけではないのです。さらに言えば、ある人がある物よりも別の物を好きになるのかどうかということについても「権力」などによって決めることができるわけではないのです。 今回も多少の誤解を恐れずにあえて少し意外な事例を取り上げることにします。例えば、もしも「人気アイドルグループ」の「人気メンバー」に新しく高い「関税」を課したとするのならば、その「人気アイドルグループの別のメンバー」が「人気メンバー」に代わって「センター」の座を勝ち取ることができるようになるのでしょうか? もしかすると「人気メンバーのファン」はたとえ高い「関税」で負担増になったとしても「人気メンバー」をこれまでと同じように応援し続けるかもしれないのです。その場合には「人気メンバー」は「不動のセンター」のままということになるのだろうと思います。その一方で、もしも「人気メンバーのファン」でも負担することができなくなるほど「関税」が高くなった場合には、「人気メンバー」は「卒業」ということになってしまい、おそらく「別のメンバー」が「人気メンバー」に代わって「センター」の座を勝ち取ることになるのだろうと思います。しかし、「人気メンバー」が卒業した「アイドルグループ」はもはや「人気アイドルグループ」ではなくなっている可能性が高いのです。「ファン」の気持ちを考えなければ、仮に「センター」の座を勝ち取ることができたとしても「アイドルグループ」の「人気」がなくなってしまう…。「どこかの国の経済」も「アイドルグループ」のようなものとまではあえて言わないことにしておきますが、仮に「関税」によって「センター」の座を取り戻すことができたとしても「消費者」を軽視するのならば「経済」が縮小してしまう危険性が高くなるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『関税』で 『ロミオ』ではない 別の人 愛するように なるというのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、誰かが誰かではなく別の誰かを愛するようになるのかどうかなどということについては「権力」などによって決めることができるわけではないのです。さらに言えば、ある人がある物よりも別の物を好きになるのかどうかということについても「権力」などによって決めることができるわけではないのです。 多少の誤解を恐れずにあえて少し意外な事例を取り上げることにします。例えば、もしも「ロミオ」と「ジュリエット」に対して「権力」を行使して結婚を認めないという決定をした場合には、決定後に「ロミオ」と「ジュリエット」は互いに相手のことを愛さなくなるというのでしょうか? さらに言えば、もしも「ロミオ」に新たに非常に高い「関税」を課すことにしたのならば、「ジュリエット」は「ロミオ」のことを諦めて親から決められた相手と喜んで結婚するようになるというのでしょうか? ごく普通の多くの人たちにはそんなバカなことはあり得ないということがすぐに分かると思います。しかし、地球上には「権力」や「関税」を振り回しているだけで世の中のほとんどすべてのことを解決することができるなどという致命的な勘違いを続けている人間たちがまだまだたくさん残っているのです。その上で、あくまでも念のために付け加えるのならば、たとえ200%の「関税」をかけたとしても「ビフじいさんのような人」に「関税」や「権力」ではない別のものの価値を正しく理解させることは極めて難しいことだけは確かなのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「実際に 『美味しい料理』 つくれるか? つくろうとして 見抜ける『嘘』も…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 何度も繰り返していますが、多少の誤解を恐れずにあえて言わせてもらうのならば、「料理人」などではない私にとっては「政治」というものは「料理」によく似ているように見えるのです。そして「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないと思っているのです。例えば、いくら「美味しい料理」の「レシピ」を手に入れることができたとしても、そこに書かれている「食材」が非常に高価なものだったりごく稀にしか手に入れることができない非常に珍しいものだったりする場合には、その「美味しい料理」を実際につくって食べることは事実上不可能になってしまうのかもしれないと思います。あるいは、例えば、いくら「美味しい料理」の「レシピ」を手に入れることができたとしても、超一流の料理人であってもなかなかつくることができないような非常に高度な匠の技が要求されるような場合には、その「美味しい料理」を実際につくって食べることはやはり事実上不可能になってしまうのかもしれないのです。その上で、もしもその「美味しい料理」を実際につくって食べることは何らかの理由のために事実上不可能な状況であるにもかかわらず、どこかの政党や候補者がその「美味しい料理」を希望する人たちには全員に食べさせてみせるなどと「公約」している場合には、その「公約」は実現することができない可能性が極めて高いと判断することができるわけです。自分たちが実際に「美味しい料理」をつくってみようとした経験があったからこそ簡単に見抜くことができるような「嘘」も存在するということは指摘しておく必要があります。いずれにしても「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないのです。繰り返しになりますが、「メニュー」だけを見て「美味しい料理」を注文して「期待外れ」になるようなことをいったいいつまで繰り返すつもりなのでしょうか? きょうも改めてそのことを指摘した上で強調することにしておきます。 ======================================= 「それぞれが 協力すれば 実際に 『美味しい料理』 かどうかが分かる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 繰り返しになりますが、多少の誤解を恐れずにあえて言わせてもらうのならば、「料理人」などではない私にとっては「政治」というものは「料理」によく似ているように見えるのです。そして「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないと思っているのです。例えば、もしも「美味しい料理」の「レシピ」などがどこかで公開されているのならば、「レシピ」を参考にしながら実際につくってみて「美味しい料理」かどうかを確かめてみるという人たちもいると思います。もちろんすべての人たちが実際につくってみて「美味しい料理」かどうかを確かめるようなことができるわけではないのです。世の中には料理が得意な人たちもいれば、そうではない人たちもいるわけです。しかし、料理が得意な人たちとそうではない人たちが協力して「美味しい料理」かどうかを確かめてみることもできるのです。料理は得意ではないけれども「レシピ」や「食材」を調達するのが得意な人たち、あちこち食べ歩いていてそれが「美味しい料理」かどうかを判断することに自信があるという人たち、実際に「美味しい料理」が食べられるかもしれないのならば多少の費用を負担しても惜しくはないと思っている人たち、そして料理をつくるのが得意な人たちが互いに協力すれば、一人では確かめてみることができなかったことを確かめてみることができる可能性が高くなるのです。いずれにしても「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないのです。繰り返しになりますが、「メニュー」だけを見て「美味しい料理」を注文して「期待外れ」になるようなことをいったいいつまで繰り返すつもりなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「美味しそう? でも実際は どうなのか? 『メニュー』だけ見て 注文すれば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 繰り返しになりますが、多少の誤解を恐れずにあえて言わせてもらうのならば、「料理人」などではない私にとっては「政治」というものは「料理」によく似ているように見えるのです。そして「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないと思っているのです。もしも初めての店などで「メニュー」だけを見て「美味しい料理」を注文しなくてはならないのならば、その場合には様々な「リスク」が存在するはずなのです。例えば、インターネットで検索して見つけたホームページ上などで「美味しい料理」を注文する場合には、そもそも本当に注文したものが約束通りに届くのかということにも小さくはない「リスク」が存在するということを忘れてはならないのです。そしてその場合には、実際に届いたものが本当に「美味しい料理」であるかどうかということについてももちろん「リスク」が存在するわけです。さらに言えば、もしも「美味しい料理」がある人たちにとっては本当に「美味しい料理」であったとしても、別の人たちにとっては「美味しい料理」ではなかったなどということもあるのです。いずれにしても「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないのです。「メニュー」だけを見て「美味しい料理」を注文して「期待外れ」になるようなことをいったいいつまで繰り返すつもりなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「その人が 『美味しい料理』 食べたいと 思ったときに どう動くのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちにとって「政治」や「選挙」とはいったい何なのでしょうか? 「政治」とは「選挙」で投票することを意味しているのでしょうか? 「政治」とは「選挙」のことなのでしょうか? どんなに少なくとも「政治」と「選挙」とは同じものではないはずなのです。 多少の誤解を恐れずにあえて言わせてもらうのならば、「料理人」などではない私にとっては「政治」というものは「料理」によく似ているように見えます。もしもあなたが「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにはいったいどうするのでしょうか? インターネットを検索して「美味しい料理」を注文すればすぐに配達してくれる店などを探そうとするのでしょうか? それとも歩き回って実際に美味しそうな匂いがしている飲食店を探そうとするのでしょうか? あるいは、「美味しい料理」のレシピや材料などを手に入れて実際に自分でつくってみようと思うのでしょうか? さらに言えば、「美味しい料理」を買ったりつくったりするために必要なおカネがないときにはいったいどうするのでしょうか? もしかすると「美味しい料理」をつくると「公約」した政党や候補者に投票しようと思うのでしょうか? あるいは…。いずれにしても「美味しい料理」を食べたいと心から思っているときにその人たちが「美味しい料理」にどのようにアプローチしようとするのかということからも、その人たちの「政治」に対する向き合い方を推測することができるかもしれないのです。きょうのところはこのことを指摘するだけにとどめてあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『戦争』や 『貧国』なくす 公約は 実現できる? できなくないが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は変わるのでしょうか? もしも変化するとしても本当に世の中は良い方向に変化するのでしょうか? 一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 例えば、もしも「地球上から戦争をなくす」とか「地球上から貧困をなくす」などという公約を掲げた政党の候補者が国政選挙で大量に当選して圧倒的多数になったとしたならば、本当に地球上から戦争や貧困をなくすことができるようになるのでしょうか? おそらく多くの人たちはいくら「ある国」の国政選挙で勝利して圧倒的多数の議席を獲得したとしても、地球上の別のどこかで何かを実現することまではできるようにならないということを理解しているのではないかと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「ある国」の政府の権力は基本的には「ある国」の領域内にしか効果がないのです。それでは、もしも「この国から戦争をなくす」とか「この国から貧困をなくす」などという公約を掲げた政党の候補者が国政選挙で大量に当選して圧倒的多数になったとしたならば、本当に「この国」から戦争や貧困をなくすことができるのでしょうか? もしも戦争や貧困の原因を実際になくすことができるのならば、「この国から戦争をなくす」とか「この国から貧困をなくす」こともできなくはないわけですが…。戦争の原因と貧困の原因は全く同じではないのです。例えば、もしも「ある国」で内戦を含めた戦争が長く続くのならば、破壊行為が繰り返されている社会の中で生活する国民はその生命を含めた多くのものを失い続けてその結果として貧困が広がっていくことになるわけです。言い換えれば、戦争は貧困の原因になることもあるわけです。しかし、戦争さえなくしてしまえば、貧困がなくなるというわけではないのです。戦争がない平和な社会の中にも貧困は存在するのです。さらに言えば、もしも周辺国に戦争を次々と引き起こすような大統領などがいる場合には、「この国」だけがいくら努力しても「この国」から戦争をなくすことはできないかもしれないのです。戦争や貧困の原因を本当にすべてなくすことができるのでしょうか? 繰り返しになりますが、一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は変わるのでしょうか? もしも変化するとしても本当に世の中は良い方向に変化するのでしょうか? 一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 ======================================= 「『税金』を なくしたときは どうなるか? 予算の確保 難しくなる…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は変わるのでしょうか? もしも変化するとしても本当に世の中は良い方向に変化するのでしょうか? 一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 あくまでも一般論ですが、もしも「消費税を含めたすべての税金を非課税にする」などという公約を掲げた政党の候補者が国政選挙で大量に当選して圧倒的多数になったとしたならば、本当にすべての税金が非課税になるのでしょうか? 実際にすべての税金を非課税にした場合には国の予算をどう確保するのかということが非常に大きな疑問点になるわけですが…。しかし、それでもやはり、実際にすべての税金が非課税にされてしまう危険性は決して低くはないのだろうと思います。そして実際にすべての税金の負担がなくなって大喜びしたすぐ後に、今まで当たり前のように存在していた様々な行政サービスが次々となくなっていって大きな衝撃を受けるとか…。言い換えれば、「一難去ってまた一難」の状態になってしまうわけです。税金をなくせば予算の確保が難しくなる…。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも当選した議員たちが実際にすべての税金を非課税にした場合には必要不可欠な最低限の国の予算すらも確保することができなくなるという現実に気づくことができるのならば、選挙の公約が破られることになる可能性もそれなりにあるのだろうと思います。言い換えれば、いくら有権者が選挙で「一票」を投票してその結果が圧倒的多数になったとしても世の中が少しも変わらない可能性もあるのです。繰り返しになりますが、一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は変わるのでしょうか? もしも変化するとしても本当に世の中は良い方向に変化するのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『一票』で 世の中変わる? 本当に? 投票すれば 可能性あり」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は変わるのでしょうか? もしも変化するとしても本当に世の中は良い方向に変化するのでしょうか? 一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 繰り返しになりますが、一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は変わるのでしょうか? もちろんそれぞれの有権者が選挙で「一票」を投票することによって何かが変わる可能性があることは確かです。しかし、たとえどれだけ多くの有権者が選挙で「一票」を投票したとしても確実に変化が起こるとは言えないということには注意が必要になります。当たり前と言えば当たり前の話ですが、例えば、いくらどこかの地方の市長選挙で圧倒的大多数の有権者が「一票」を投票した結果として何かを禁止することを公約に掲げた候補者が当選したとしても、その何かを禁止するための条例改正案などを市議会の過半数の賛成を得て可決させることができなければ、何も変わることはないのです。さらに言えば、いくらどこかの地方の市長選挙で圧倒的大多数の有権者が「一票」を投票した結果として何かを禁止することを公約に掲げた候補者が当選したとしても、だからと言ってその何かを禁止する法律が国会で可決されて成立するようになるわけではないのです。くどいようですが、一人ひとりの有権者が選挙で「平等」に「一票」を投票することによって世の中は本当に変わるのでしょうか? どんなに少なくとも漠然と「世の中は変わる」などと断言したとしてもその主張には説得力がほとんどないということだけは確かなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『カワイイ』や 『格好いい』でも 許される? 『人気投票』 でも『一票』か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。民主主義国家では一人ひとりの有権者はそれぞれ「平等」に「一票」を持っていることになっています。しかし、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか? あくまでもいくつかの仮定の上にさらに仮定を積み重ねた上での空想上の話になりますが、選挙で自分たちが投票する候補者を「カワイイ」や「格好いい」を理由にして決めるような有権者はいったいどのくらいいるのでしょうか? もちろん有権者が自分の「一票」をどのような理由でどのように使ったとしても基本的にはそれぞれの有権者の自由だとは思います。しかし、もしも自分たちが投票する候補者を「カワイイ」や「格好いい」を理由にして決めることになるのならば、選挙と「人気投票」の違いがほとんどなくなってしまうということになってしまうのです。選挙を「人気投票」にしても構わないのでしょうか? ごく普通の多くの有権者は、投票する候補者を能力や政策などで判断して決めても、「カワイイ」や「格好いい」で投票する候補者を決めるような「人気投票」をしても、同じ「一票」として扱われることに納得しているのでしょうか? もしも有権者の「一票の価値」が「人気投票」によって薄められて結果的に「一票以下」になってしまうようなことがあるのならば、別の意味での「一票の価値」の問題が発生することになるのではないかと思います。きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『減税』や 『給付金』など 『買収』に ならないことに 説得力は?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。民主主義国家では一人ひとりの有権者はそれぞれ「平等」に「一票」を持っていることになっています。しかし、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか? あくまでも一般論ですが、選挙になると「減税」や「給付金」や「補助金」などを公約する政党や候補者が目立つようになります。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、なぜ「減税」や「給付金」や「補助金」などは「買収」にならないのでしょうか? 「減税」や「給付金」や「補助金」などを事実上の「買収」とみなす必要性はないのでしょうか? もちろん「減税」や「給付金」や「補助金」などの政策が効果的な経済状況というものは存在するのだろうと思います。しかし、「減税」や「給付金」や「補助金」などが常に経済政策として十分な効果を期待することができるというわけではないはずなのです。そのように考えるのならば、どんなに少なくとも客観的に見て明らかに経済政策として十分な効果を期待することができない状況であるにもかかわらず、あえて「減税」や「給付金」や「補助金」などを約束するような場合には、事実上の「買収」と受け止められる危険性が高くなるのです。さらに言えば、もしも「減税」や「給付金」や「補助金」などが一部の特定の人たちだけが恩恵を受けることができるような種類のものであるのならば、「減税」や「給付金」や「補助金」などとは無関係の多くの人たちから事実上の「買収」などと厳しく批判されることになるのだろうと思います。しかし、もしも「減税」や「給付金」や「補助金」などがほとんどの人たちがそれなりに恩恵を受けることができるような種類のものである場合には、反対の声はあまり強くはならないのかもしれないと思います。もしもこのまま「減税」や「給付金」や「補助金」などが事実上の「買収」とみなされる危険性が少しもないのならば、「減税」や「給付金」や「補助金」などを唱えることによって自分たちが持っている「一票」を簡単に「一票以上」にすることができる状況が続くことになるのです。逆の言い方をすれば、有権者の「一票の価値」が「減税」や「給付金」や「補助金」などによって薄められて結果的に「一票以下」になってしまう状況が続くことになるのです。「減税」や「給付金」や「補助金」などが事実上の「買収」とならないことにどれだけの説得力があるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『有力者』 『影響力』を 行使して 『一票』以上 投票できる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。民主主義国家では一人ひとりの有権者はそれぞれ「平等」に「一票」を持っていることになっています。しかし、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか? もしもいわゆる「一票の価値」(→参考:2025/7/1付etc.)をどこでも完全に同じ状態に保つことができたとしても、一人ひとりの有権者が「平等」に「一票」を持っているということになるのかどうかは定かではないのです。例えば、いわゆる「有力者」は、自分に与えられた「一票」以外の他の有権者の「一票」の行使にも「影響力」を持っているのです。言い換えれば、「有力者」はその「影響力」を行使することによって自分自身が持っている「一票」だけではなく他の有権者の「一票」を加えた「一票」以上を投票することができると考えることができるのです。もちろん他の有権者の「一票」に対する「影響力」の中には、「買収」などの違法なものもあれば、法律に抵触しない形で何らかの「利益(→あるいは、不利益)」を与えることを約束するような「グレーゾーン」のものもあれば、「説得力」などのような合法的なものもあるわけです。それぞれの有権者の「一票の価値」を「平等」にするためには、どんなに少なくとも違法な「影響力」の行使や「グレーゾーン」の「影響力」の行使については許すべきではないのです。しかし、すべての合法的な「影響力」の行使を無条件に認めるべきなのかどうかについては一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要がありそうです。いわゆる「有力者」はなぜ「有力者」なのでしょうか? その地域に昔から住んでいる資産家一族の一員などだから「有力者」になっているのでしょうか? あるいは、その地域のマスメディアなどに盛んに露出していて知名度が高い人物だから「有力者」になっているのでしょうか? さらに言えば、もしかするとインターネットの動画配信やSNSなどで注目されている「インフルエンサー」などであっても「有力者」になることができるのかもしれないと思います。繰り返しになりますが、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか? きょうのところは重ねてそのことを強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『一票』は どこの誰でも 『一票』か? 『一票の価値』 どこでも同じ?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。民主主義国家では一人ひとりの有権者はそれぞれ「平等」に「一票」を持っていることになっています。しかし、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか? 一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「平等」な「一票」になっているのでしょうか? どこのどの有権者であっても「一票」ならば同じ「一票」なのでしょうか? 例えば、もしも何かの議員選挙で「有権者数が少ないのに定数が多い選挙区」では1万票でも当選することができるのにもかかわらず、「有権者数が多いのに定数が少ない選挙区」では2万票を獲得しても落選してしまうような状態が長く続くのならば、有権者の「一票」は「平等」とは言えないことになります。いわゆる「一票の価値」の問題です。それぞれの選挙区で選ばれる議員1人当たりの有権者数の格差、あるいは、それぞれの選挙区で議員に当選するために必要となる得票数(→有権者数)の格差が大きくなれば大きくなるほど、いわゆる「一票の価値」の格差が大きくなるのです。あえて別の言い方をすれば、いわゆる「一票の価値」の格差が大きくなれば大きくなるほど、「有権者数が多いのに定数が少ない選挙区」の有権者の「一票」は、例えば、0.5票とか0.3票とかになり、「一票以下」の価値しか持たなくなってしまうのです。繰り返しになりますが、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか? きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「もしも今 『正常でない 状態』に なっているなら どう正常に?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所で「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などという言葉をよく聞くようになっています。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「リスク」や「危機」にはいろいろな種類のものがあるわけです。ある程度予想することができ、事前に備えておけば避けることが不可能ではないものもあるわけですが…。 何らかの理由のために「本来正常であるべきものが正常ではない状態」になることを想定した「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などはいったいどのようなものになるのでしょうか? そもそも何らかの理由のために「本来正常であるべきものが正常ではない状態」になるとは具体的にどのようなことを意味しているのでしょうか? そして何らかの理由のために「本来正常であるべきものが正常ではない状態」になるようなことは本当に起こり得ることなのでしょうか? あくまでも一般論ですが、例えば、もしも「警察官」や「医師」などの中に「犯罪者」や「テロリスト」などが紛れ込んでいたとしたならば、本来正常であるべき「警察官」や「医師」などの業務が「正常ではない状態」になる危険性が高くなってしまうのではないかと思います。もちろん最初から「犯罪者」や「テロリスト」などであると分かっている場合には、彼・彼女たちを「警察官」や「医師」などとして採用することはないのだろうと思います。しかし、もしも「犯罪者」や「テロリスト」などであると気づかれなかった場合には、彼・彼女たちが「警察官」や「医師」などとして紛れ込むことになってしまうのだろうと思います。さらに言えば、もしも採用時点では彼・彼女たちが「犯罪者」や「テロリスト」などではなく、またそう遠くない将来に「犯罪者」や「テロリスト」などになる危険性もほとんどなかったとしても、それでもやはり、「警察官」や「医師」などとして採用された後に「犯罪者」や「テロリスト」などになってしまう危険性は残るわけです。ごく普通の多くの人たちにとっては、自分たちが生命の危険を感じているときに、信じて頼りにすることができる「警察官」や「医師」などが信用できない(かもしれない)存在になってしまうのは非常に恐ろしいことではないかと思います。「本来正常であるべきものが正常ではない状態」になってしまっているかどうかをどのようにチェックしたらいいのでしょうか? 「正常ではない状態」を本来あるべき「正常な状態」に戻すためにはどうしたらいいのでしょうか? 繰り返しになりますが、何らかの理由のために「本来正常であるべきものが正常ではない状態」になることを想定した「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などはいったいどのようなものになるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「いくつかの 『バックアップ』を 用意して 最小限に 被害抑える!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所で「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などという言葉をよく聞くようになっています。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「リスク」や「危機」にはいろいろな種類のものがあるわけです。ある程度予想することができ、事前に備えておけば避けることが不可能ではないものもあるわけですが…。 「自然災害」以外の「リスク」や「危機」の場合の「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などというものはいったいどのようなものになるのでしょうか? 「自然災害」以外の「リスク」や「危機」、例えば、「テロ」の場合の「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などというものはいったいどのようなものになるのでしょうか? 例えば、インフラなどを支える重要施設については、テロリストなどによる物理的な攻撃を受けてもそう簡単には破壊されたり侵入されたりしないような堅固な施設にするなどということが考えられます。また電気通信回線を通じて不正にアクセスされたり不正にコントロールされたりしないような様々なサイバーテロ対策を施すなどということも必要になってくるのだろうと思います。しかし、「テロ」というものは、そうした様々な対策の裏をかくような形で発生することが多いのです。そのことに注意をするのならば、「自然災害」以外の「リスク」や「危機」は、実は「自然災害」と同じかそれ以上に予測不能で被害が大きくなる危険性が高いものが多いということに気づくことになるのです。それでは「自然災害」以外の「リスク」や「危機」による被害を最小限に抑えるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 例えば、被害を受けて機能しなくなることをある程度覚悟した上で実際に被害を受けたときに速やかに切り替えて臨時に役割を担うことができるようにするための「バックアップ機能」をいくつか用意するという方法が考えられます。もちろん「自然災害」でも様々なものの「バックアップ機能」を用意することが被害を最小限に抑えるのに役立つと思います。「バックアップ機能」を用意しておくためのコストが万一発生した場合の被害と比較してそれほど高くはないのならばできるだけ多くの「バックアップ機能」を用意しておいた方がいいわけですが…。いずれにしても様々な「リスク」や「危機」の被害を最小限に抑える方法はいくつか考えられるわけです。 ======================================= 「予想して 『自然災害』 の被害を 減らすことなら できるわけだが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所で「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などという言葉をよく聞くようになっています。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「リスク」や「危機」にはいろいろな種類のものがあるわけです。ある程度予想することができ、事前に備えておけば避けることが不可能ではないものもあるわけですが…。 言うまでもなく「リスク」や「危機」の中には「自然災害」も含まれます。そして台風による強風や大雨、地震などの「自然災害」は事前に備えておくことによってそれらの被害をある程度小さくすることはできるわけです。しかし、今の時代でも「自然災害」がいつどこでどのような規模で発生するのかなどということを正確に予想することはできないのです。あえて言い換えれば、「自然災害」の被害を減らすことはできてもその被害を完全にゼロにすることはできないのです。そのことに注意をするのならば、「自然災害」の場合の「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などというものは、事前に被害が予想することができ、かつ、安全な場所に避難することができるような場合には、被害が予想される場合には速やかに「安全な場所に避難する」などということになるのだろうと思います。またもしも「自然災害」の被害を予想して事前に安全な場所に避難することが難しい場合には、「自然災害」の被害をできるだけ小さなものにするために住宅や堤防などに対策を施したり、最初から「自然災害」の危険性が非常に高い場所には住まないようにしたりすることになるのだろうと思います。何にしても少なくとも今現在は「自然災害」の被害を減らすことはできてもその被害を完全にゼロにすることはできないのです。ちなみに「自然災害」以外の「リスク」や「危機」はどうでしょうか? 「自然災害」以外の「リスク」や「危機」の場合には、事前に被害を予想することができ、かつ、安全な場所に避難するようなことができるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『お固い』か? 『食いしん坊』も 『食べ物』を 見て嫌になる こともあるはず!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近のどこかの社会ではなぜか「昭和」がいろいろな場面で話題になります。しかし、本当に「昭和」はそんな時代だったのでしょうか? 間違った「昭和」のイメージを執拗に流布し続けている一部の「老人」による「老害」には困ったものです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「昭和」は「破廉恥」や「非常識」などと同じ意味ではないのです。 くどいようですが、いわゆる「下ネタ」を連発したり「セクハラ」をしたりして「老人」による「老害」を発生させている人間たちが自分たちの言動を「『昭和』ではよくあることだった」が「今は許されなくなった」などともっともらしく言っていることもあります。しかし、「昭和」でもそうした言動を不快に思っていた人たちは少なくなかったはずなのです。これも繰り返しになりますが、そもそも「真ん中の足はもっと上がる」などという「老害」によっていったい誰が楽しい気分になるというのでしょうか? さらに言えば、その種の「老害」に対する周囲の冷ややかな反応を「お固い」などという言葉で無理にごまかそうとする別の形での「老害」にも本当に困ったものです。あくまでも一般論ですが、例えば、たとえ1年365日24時間ずっと「性行為」のことばかり考えているような人間であったとしても、いつも「下ネタ」に大喜びして楽しい気分になるとは限らないのではないかと思います。あるいは、四六時中食べ物のことばかり考えているような食いしん坊であっても食べ物を見たくもなくなるようなときはあるのではないかと思います。そのように考えるのならば、ごく普通の多くの人たちの中には「下ネタ」や「食べ物」の話をしてもそれほど関心を示さなくて反応が薄いという人たちは少なくないのではないかと思います。あるいは、「下ネタ」や「食べ物」の話を聞かされるだけでも不快になるときがあっても不思議ではないと思います。それにもかかわらず、「下ネタ」や「食べ物」の話をしたときに大喜びして楽しい気分にならなければ「お堅い」などと決めつけるのは非常におかしなことではないかと思います。きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「鈍感な 人間たちは 気づかない! 冷たい視線… 誰が楽しい?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近のどこかの社会ではなぜか「昭和」がいろいろな場面で話題になります。しかし、本当に「昭和」はそんな時代だったのでしょうか? 間違った「昭和」のイメージを執拗に流布し続けている一部の「老人」による「老害」には困ったものです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「昭和」は「破廉恥」や「非常識」などと同じ意味ではないのです。 繰り返しになりますが、いわゆる「下ネタ」を連発したり「セクハラ」をしたりして「老人」による「老害」を発生させている人間たちが自分たちの言動を「『昭和』ではよくあることだった」が「今は許されなくなった」などともっともらしく言っていることもあります。しかし、「昭和」でもそうした言動を不快に思っていた人たちは少なくなかったはずなのです。実はその種の「老害」を発生させている人間たちはかなり鈍感な人間たちであるために周囲の冷たい視線などに少しも気づかなかったのではないかと思います。そもそもその種の「老害」によっていったい誰が楽しい気分になるというのでしょうか? あくまでも一般論ですが、例えば、「真ん中の足はもっと上がる」などという「老害」の場合には、それをニヤニヤしながら口走る人間、そしてそれを聞いてゲラゲラと大笑いする人間はおそらく楽しい気分になっているのかもしれないと思います。しかし、それ以外の周囲の人たちは「真ん中の足はもっと上がる」などという「老害」を目の前で見せつけられて楽しい気分になっているとでもいうのでしょうか? 「老害」に対する周囲の冷ややかな反応を「お固い」などという言葉で無理にごまかそうとする別の形での「老害」にも本当に困ったものです。繰り返しになりますが、「昭和」は「破廉恥」や「非常識」などと同じ意味ではないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『昭和』でも 許されていた わけでない! 『昭和だから』で 責任逃れ?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近のどこかの社会ではなぜか「昭和」がいろいろな場面で話題になります。しかし、本当に「昭和」はそんな時代だったのでしょうか? 間違った「昭和」のイメージを執拗に流布し続けている一部の「老人」による「老害」には困ったものです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「昭和」は「破廉恥」や「非常識」などと同じ意味ではないのです。 あくまでも一般論ですが、「俺は『昭和』だから…」などという言葉をよく使う「老人」の言動にはよくよく注意をする必要があります。最近は「こんなことは『昭和』ではよくあることだった」が「今は許されなくなった」などというフレーズを聞かされることが増えています。しかし、実は「こんなこと」は「昭和」でも許されていたわけではないということだけは正確に理解する必要があるのです。例えば、どこかの国の旧軍隊のような「鉄拳制裁」は「昭和」ではあちこちでよく見られたことはおそらく事実なのだろうと思います。しかし、「昭和」では「鉄拳制裁」のような「暴力」が許されていたというわけではないのです。あえて付け加えるのならば、「鉄拳制裁」のような「暴力」があまりにもよく見られたために「『鉄拳制裁』のような『暴力』は許されない」などと主張してもその「正論」がかき消されたり「鉄拳制裁」を恐れてそうした主張をすること自体を躊躇してしまったりしていたのです。さらに言えば、いわゆる「下ネタ」を連発したり「セクハラ」をしたりするような人間たちが自分たちの言動を「『昭和』ではよくあることだった」が「今は許されなくなった」などともっともらしく言っていることもあります。しかし、「昭和」でもそうした言動を不快に思っていた人たちは少なくなかったはずなのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「『昭和』だから」と言えば不適切な言動の責任から逃れることができるわけではないのです。きょうのところはたとえ「こんなことは『昭和』ではよくあることだった」だったとしても決して「昭和」でも許されていたわけではないということをあえて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「米国と ロシアは共に 『拒否権』で 決議を阻止し 国連壊す?」-。 米国が6/22午前(日本時間)にイランの核施設3か所を攻撃したことを発表して国際社会に大きな波紋が広がっています(→米国のミズーリ州の空軍基地から出撃したB2ステルス爆撃機7機がイランのフォルドゥなどの核施設に対して地中貫通弾「バンカーバスター」(最大級の「GBU57」、重量約13.6トン)を合計14発投下したという。また米軍の潜水艦から20発以上の巡航ミサイル「トマホーク」をイランのイスファハンの核施設に向けて発射したという。イランのフォルドゥ、ナタンズ、イスファハンの核施設の被害の詳細は不明)。 繰り返しになりますが、どこの国も他国を軍事攻撃することは原則的に許されないということをあえて念のために確認しておくことにします(→参考:2025/6/17付etc.)。その上で、多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、今回の米国によるイランの核関連施設への攻撃は、ロシアによるウクライナ侵略戦争といったいどこがどのように違っているのかということを一度立ち止まってきちんと考えてみる必要があると思います。まず明らかな共通点について考えてみることにします。米国はもちろんロシアも国際連合の安全保障理事会の「常任理事国」です。そして「常任理事国」であるということは、米国もロシアも共に自国にとって不都合な国連安保理決議案の採択を「拒否権」を行使することによってすべて阻止することができるのです。あえて言い換えるのならば、米国やロシアなどの「常任理事国」による武力行使や侵略戦争に対して国際連合は全く機能しなくなってしまうのです。そして次に明らかな相違点について考えてみることにします。少なくとも現時点においては、米国のイランに対する攻撃は、3か所核施設に対する1回の戦略爆撃機による空爆やミサイル攻撃というかなり限定的なものにとどまっているわけです。これに対して、ロシアによるウクライナ侵略戦争は、ロシアが約3年4カ月に渡って大規模な地上部隊をウクライナ領内に侵攻させると同時に、市街地や住宅地を含めたウクライナ各地を弾道ミサイルやドローンなどによって無差別に攻撃し続けているわけです。ちなみにロシアによるウクライナ侵略戦争においては、かつて深刻な原発事故(1986/4/26)が発生して廃炉に向けた作業が続いている「チェルノブイリ(チョルノービリ)原発」に対する攻撃が発生したことも忘れてはならないのです。言うまでもなく国連憲章に違反する武力行使も侵略戦争も許されることではないのです。しかし、それでもやはり、国際社会は、米国によるイランの核関連施設への攻撃と、ロシアによるウクライナ侵略戦争の共通点と相違点をしっかりと把握した上で、事態をエスカレートさせない形で問題を解決していくための現実的で実際に機能する何らかの方法を考えていかなければならないのです。もしも「常任理事国」が自らに不都合な決議案を「拒否権」によって阻止し続けるのならば、そう遠くないうちに機能不全になった国際連合は崩壊してしまう危険性も高くなってくるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『移民』でも 『労働者』なら 『人間』だ! それぞれ別の 『人生』もある!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? いくら「労働力」が不足していたとしても「外国人労働者」によってそれを埋め合わせる必要があるのでしょうか? そもそも「労働力」の不足を補うことができるような都合の良い「外国人労働者」はいるのでしょうか? あえて一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 くどいようですが、それぞれの国に合法的に存在している「外国人労働者」を排斥するような考え方は一切持っていないのです。しかし、それでもやはり、「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? 繰り返しになりますが、それぞれの国で「外国人労働者」の受け入れに積極的に賛成している人間たちは、ほとんどの「外国人労働者」がそれぞれの国に「人気の高い高報酬の仕事」に就きたいと思ってやってくるような場合にも積極的に賛成することができるのでしょうか? もしも「移民」や「外国人労働者」がそれぞれの国に「危険で汚くて過酷であるにもかかわらず報酬があまり高くない不人気な仕事」に就くためにやってくるのならば賛成だが、「人気の高い高報酬の仕事」に就くためにやってくることには反対であるというのならば、「移民」や「外国人労働者」を自分たちと同じ「人間」ではなく単なる「労働力」として見ているということになってしまうはずなのです。さらに言えば、それぞれの国で「移民」や「外国人労働者」の受け入れに積極的に賛成している人間たちは、もしも「移民」や「外国人労働者」がそれぞれの国に「危険で汚くて過酷であるにもかかわらず報酬があまり高くない不人気な仕事」に就くためにやってきたものの、しばらく生活しているうちにもっとずっと高収入の良い仕事はいくらでもあるということに気づいて「転職」を希望するようになったとしたら、「転職」を認めるべきだと考えるのでしょうか? 当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、「移民」や「外国人労働者」ならば「人間」であり、「人間」であるのならばそれぞれ別の「人生」があるはずなのです。自由で民主的な社会においては、「人間」であるにもかかわらず、それぞれ自由にそれぞれの「人生」を送ることができないような環境を強いることはできないはずなのです。くどいようですが、「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? いくら「労働力」が不足していたとしても「外国人労働者」によってそれを埋め合わせる必要があるのでしょうか? 何度も繰り返していますが、「外国人労働者」は単なる「労働力」ではなくそれぞれの国の国民と同じ「人間」のはずなのです。そして「人間」にはそれぞれの「人生」があるはずなのです。きょうのところはあえてそのことを繰り返した上で強調しておくことにします。 ======================================= 「不足した 『労働力』の 埋め合わせ? 今はともかく これからはもう…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? いくら「労働力」が不足していたとしても「外国人労働者」によってそれを埋め合わせる必要があるのでしょうか? そもそも「労働力」の不足を補うことができるような都合の良い「外国人労働者」はいるのでしょうか? あえて一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 繰り返しになりますが、それぞれの国に合法的に存在している「外国人労働者」を排斥するような考え方は一切持っていないのです。しかし、それでもやはり、「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? 確かに「少子高齢化」などが進行する以前の「かつての社会」の存続を前提にするのならば、どうしても不足した「労働力」を補うなどという発想になってしまうのだろうと思います。しかし、本当に「かつての社会」で当たり前だったやり方やシステムをこれからもそのままの形で存続させなければならないのでしょうか? どんなに少なくとも「これからの社会」でも持続可能にするために様々な「アイディア」を駆使して「方法」を工夫したり「技術革新」を進めたりすることは必要不可欠なのです。もちろん「社会全体のシステム」をこれからの時代に合った形に変革するようなことを今すぐ実現することは不可能です。ですから、少なくとも当面は不足した「労働力」を補うという考え方もしなければならないことは現実なのです。そして確かに今現在はそれぞれの国に「経済的格差が大きな国」から「外国人労働者」を呼び込めば、母国よりもはるかに高い報酬を得られる「外国人労働者」と、それほど高くない報酬で不足した「労働力」を補うことができるそれぞれの国とが共に利益のあるいわゆる「ウィンウィン」の関係であることも少なくはないとは思います。しかし、「経済的格差」というものはいつまでもそのまま縮小しないものではないのです。もしもそう遠くない将来にそれほど高くない報酬で「外国人労働者」を確保できなくなったときに不足した「労働力」をどのように補うつもりなのでしょうか? 繰り返しになりますが、「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? いくら「労働力」が不足していたとしても「外国人労働者」によってそれを埋め合わせる必要があるのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、そもそも「外国人労働者」は単なる「労働力」ではなくそれぞれの国の国民と同じ「人間」のはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「不足した 『労働力』の 埋め合わせ? 外国人も 『人間』のはず!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? いくら「労働力」が不足していたとしても「外国人労働者」によってそれを埋め合わせる必要があるのでしょうか? そもそも「労働力」の不足を補うことができるような都合の良い「外国人労働者」はいるのでしょうか? あえて一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 最初に確認しておきますが、それぞれの国に合法的に存在している「外国人労働者」を排斥するような考え方は一切持っていないのです。その上で、あえてどうしても質問しておかなければならないことがあるのです。「外国人労働者に従事してもらいたい仕事」は、それぞれの国で「人気の高い高報酬の仕事」なのでしょうか? それともそれぞれの国の国民があまりやりたがらないような「危険で汚くて過酷であるにもかかわらず報酬があまり高くない不人気な仕事」なのでしょうか? さらに言えば、それぞれの国で「外国人労働者」の受け入れに積極的に賛成している人間たちは、ほとんどの「外国人労働者」がそれぞれの国に「人気の高い高報酬の仕事」に就きたいと思ってやってくるような場合にも積極的に賛成することができるのでしょうか? もしも「外国人労働者」がそれぞれの国に「危険で汚くて過酷であるにもかかわらず報酬があまり高くない不人気な仕事」に就くためにやってくるのならば賛成だが、「人気の高い高報酬の仕事」に就くためにやってくることには反対であるというのならば、「外国人労働者」を「労働力」の不足を補うことができるような都合の良い「労働力」として考えているということになってしまうはずなのです。繰り返しになりますが、「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? いくら「労働力」が不足していたとしても「外国人労働者」によってそれを埋め合わせる必要があるのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、「外国人労働者」は単なる「労働力」ではなくそれぞれの国の国民と同じ「人間」のはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『核兵器』 『共有』になる 影響は? 『同盟国』は 問題ないか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「危険物」などが「存在」しなければ本当に「危険ではない」のでしょうか? 「危険物」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? 例えば、もしも「危険物ではない物」を材料にして「危険物」などを短時間で簡単に作ることができるのならば…。 繰り返しになりますが、「核兵器」などが「存在」しなければ「危険ではない」のでしょうか? これからも「核兵器」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? これはあくまでも仮定の上に仮定を積み重ねた上での話ですが、もしも「核兵器を保有していない国」が「核保有国」の「核兵器」を「共有」することができるようになったとしたならば、いったいどのようなことを意味することになるのでしょうか? 「共有」になった場合にどのような影響があるのでしょうか? もしも「核保有国」と「核兵器を保有していない国」が同盟関係にあって安全保障上の利益が一致しており、「核保有国」が「核兵器を保有していない国」に対する攻撃を自らに対する攻撃とみなすことになるのならば、「核保有国」が「核兵器を保有していない国」に対して自分たちの「保有」する「核兵器」を「共有」するようなことを認めても実質的に変化はないのでしょうか? 「同盟国」ならば「核兵器」を「共有」しても問題はないのでしょうか? さらに別の形で空想を膨らませるのならば、「核保有国」の「核兵器」が何者かに何らかの形で不正に「共有」されてしまう危険性はどのくらいあるのでしょうか? あくまでも空想上の話ですが、もしも「核保有国」の「核兵器を搭載したミサイル」が何者かによってシステムをハッキングされるなどという形で「想定外のタイミング」に「想定外の標的」に対して発射されるようなことがあるのならば、「核兵器」を「保有」していなくても核戦争を引き起こすようなことが十分にできてしまうことになるわけです。くどいようですが、「核兵器」などが「存在」しなければ「危険ではない」のでしょうか? 本当に「核兵器」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『核兵器』 短時間かつ 簡単に 作れるように なったとしたら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「危険物」などが「存在」しなければ本当に「危険ではない」のでしょうか? 「危険物」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? 例えば、もしも「危険物ではない物」を材料にして「危険物」などを短時間で簡単に作ることができるのならば…。 あくまでも一般論ですが、最近は科学技術の発展のスピードがかなり速くなっているような印象を受けます。もしそうであるのならば、科学技術の発展は、「素人」だけではなく「専門家」の予想をも大きく上回るスピードで進んでいる可能性もあるのではないかと思います。その上で、あえて現時点ではまだ空想にとどまっている話をしてみることにしようと思います。もしも「核兵器」の具体的な製造方法やその他の様々なノウハウを持っている人間たちが「ウラン」や「プルトニウム」などの材料や製造設備などを手に入れることができたとしたら、最短どのくらいの時間で実際に「核兵器」を製造することができるのでしょうか? もしも「ウラン」や「プルトニウム」などの入手が事実上不可能なくらい極めて難しく、しかも実際に「核兵器」を製造するまでにそれなりに長い時間が必要不可欠であるのならば、「核兵器」などの「存在」や「所持」「保有」を認めなければとりあえず「危険ではない」のだろうと思います。これからも「核兵器」などが「存在」しなければ「危険ではない」のでしょうか? これからも「核兵器」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? もっとも「核兵器」の場合には「ウラン」や「プルトニウム」などという「危険物」を材料にしなければならないわけです。しかし、「核兵器」を従来では想像もできなかったような短時間で簡単に製造することができるようになった場合には…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「検査後に 『危険物』など 簡単に 作れるのなら 安全でない!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「危険物」などが「存在」しなければ本当に「危険ではない」のでしょうか? 「危険物」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? 例えば、もしも「危険物ではない物」を材料にして「危険物」などを短時間で簡単に作ることができるのならば…。 例えば、今でも空港の保安検査などでは、X線CT検査装置や金属探知機などが使用されています。確かに保安検査でほとんどの凶器などの「危険物」の航空機内への持ち込みを阻止することができるのだろうと思います。しかし、もしも「危険物」がX線CT検査装置や金属探知機などでは発見することができないタイプの素材や形状のものである場合には、保安検査をすり抜けてしまうことになるのだろうと思います。さらに言えば、いくら保安検査などによって「危険物」などの持ち込みを完全に阻止したとしても、もしも検査後に「危険物ではない物」を材料にして「危険物」などを短時間で簡単に作ることができるのならば、どんなに少なくとも保安検査などでは安全を守ることができなくなってしまうわけです。繰り返しになりますが、「危険物」などが「存在」しなければ本当に「危険ではない」のでしょうか? 「危険物」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「核兵器 開発保有 することや 戦争止める 『強制力』は…」-。 イスラエルが6/13にイランの核関連施設などに対する大規模な攻撃を開始しました(→イスラエルの対外諜報機関モサドがイラン領内に潜入・潜伏させた工作員らが防空システムなどをドローンなどで破壊。その上でイスラエル軍の戦闘機がテヘランや中部ナタンズのウラン濃縮施設を含む100以上の地点を空爆。さらにイランの革命防衛隊のトップや幹部、核開発技術者らをピンポイント空爆で殺害した模様)。イランは「報復」としてイスラエル国内を弾道ミサイルやドローンなどで攻撃しています。そしてイスラエルとイランが互いに相手国内を空爆やミサイル攻撃し合う状況が続いて双方に民間人を含めた多数の死傷者が出ています。 最初にどこの国も他国を軍事攻撃することは原則的に許されないということをあえて念のために確認しておくことにします。率直に言わせてもらうのならば、イスラエルはイランが核兵器を保有することを絶対に許さないと思われるのでイランの核関連施設などを攻撃するのは時間の問題だと思っていました。言い換えれば、もしもイランの核開発を止めることができないのならば、イスラエルのイラン攻撃を止めることもできないのだろうと思っていました。その上で、多少の誤解と批判を覚悟の上で、あえて率直に言わせてもらうのならば、もしもイランが核兵器を保有した後にイスラエルがイランを攻撃していたのならば、もっともっとはるかに甚大な被害が発生していたのかもしれないと思います。今現在の国際社会における致命的な問題の1つは、もしも核兵器を開発・保有しようとする国が国際社会の批判を受け入れずにあくまでも核兵器の開発・保有を強行した場合には、国際社会には核兵器の開発・保有を強制的にやめさせることができるだけの「強制力」がないということなのです。さらに付け加えるのならば、国際社会には、もしも他国を軍事攻撃しようとする国があくまでも軍事攻撃を強行しようとした場合にそれを強制的にやめさせることができるだけの「強制力」もないということなのです。もちろん「今すぐ戦争をやめるべき」などと主張することは「正論」だと思います。しかし、実際に戦争を強制的にやめさせることができるだけの「強制力」を持っていないのならば、「正論」を実現することができないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『諍い』も 『強盗』『傷害』 『殺人』も なくせないのに 『戦争』なくす?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には長年に渡って何度も何度も繰り返されている事件や困った問題などがあります。そういう事件や困った問題などを見ているだけでも、人間というものは実はなかなか変わることができない生物なのではないかということを実感させられることが少なくないのです。そしてなかなか変わることができない生物である人間が集まった「社会」もなかなか変化することができないのかもしれないと思います。 残念ながら今現在も「戦争」というものは地球上のどこかの場所を探せば必ず存在するもののままなのです。たとえ地球上のある場所で「戦争」で甚大な被害を受けて多くの人たちが二度と「戦争」を繰り返してはならないなどと強く誓ったとしても、すぐに地球上のどこか別の場所では「戦争」が勃発してきたのです。そもそも「戦争」を二度と起こさないなどという誓いはいったいどれだけ効果があるものなのでしょうか? 例えば、いくら多くの人たちが「言い争い」「諍い」をしないなどと強く誓ったとしても、おそらく現実の社会から「言い争い」「諍い」をなくすことはできないのだろうと思います。さらに言えば、いくら多くの人たちが法律を遵守する善良な市民であろうとするという形で「強盗」や「傷害」や「殺人」は絶対にしないと強く誓ったとしても、現実の世界から「強盗」や「傷害」や「殺人」を完全になくすことはできないのかもしれないと思います。たとえ「言い争い」「諍い」、「強盗」や「傷害」や「殺人」などをなくすことができなかったとしても、「戦争」だけは強く誓えばなくすことができるのでしょうか? もしも「戦争」だけは強く誓えばなくすことができると言い張るのならば、その根拠はいったい何なのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「本当に 『昔の話』 なのだろうか? 『人身売買』 『売買春』は…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には長年に渡って何度も何度も繰り返されている事件や困った問題などがあります。そういう事件や困った問題などを見ているだけでも、人間というものは実はなかなか変わることができない生物なのではないかということを実感させられることが少なくないのです。そしてなかなか変わることができない生物である人間が集まった「社会」もなかなか変化することができないのかもしれないと思います。 当たり前と言えば当たり前の話ですが、昔の時代を舞台にした小説やマンガや映画やドラマでは、今現在の社会では決して許されないような場面が何度も当たり前のように登場します。例えば、「暴力」「殺人」「人身売買」「売買春」など…。確かに「大昔」や「あの時代」ではそれらのことはそれほど珍しいことではなかったのだろうと思います。しかし、本当に「昔の話」なのでしょうか? もしかするといくつかの国では今現在は「暴力」「殺人」「人身売買」「売買春」などを「昔の話」として片づけることもできないわけではないのかもしれないと思います。でも、地球上のいくつかの場所では誰の目にも明らかに「今現在の話」なのです。さらに言えば、たとえ今現在は「昔の話」ということになっている「どこかの国」であっても、さすがに親が自分の娘を「遊郭」などに売り飛ばすようなことは完全になくなっていますが、「トーヨコ」とか「その近くの公園」などでは「人身売買」「売買春」に近いようなことが「今現在の話」になっているかもしれないのです。あえて繰り返しますが、本当に「昔の話」ということでいいのでしょうか? くどいようですが、人間というものはなかなか変わることができない生物なのではないかということを実感させられます。そしてなかなか変わることができない生物である人間が集まった「社会」もなかなか変化することができないのかもしれないと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『選挙』では 今も『3バン』 役立つか? 役立つならば 変わっていない…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には長年に渡って何度も何度も繰り返されている事件や困った問題などがあります。そういう事件や困った問題などを見ているだけでも、人間というものは実はなかなか変わることができない生物なのではないかということを実感させられることが少なくないのです。そしてなかなか変わることができない生物である人間が集まった「社会」もなかなか変化することができないのかもしれないと思います。 地球上の多くの場所では大昔から「選挙」というものが行われています。そして約100年前からは (成人した)国民一人ひとりが選挙に参加することができる今現在のような制度が導入されて地球上の多くの場所に広がってきているのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、この約100年の間にどこの社会も大きく変わってきています。あえて言い換えれば、今現在には約100年前には存在しなかった様々なモノやサービスが存在しますし、今現在では約100年前には想像することもできなかった様々なことを実現することができるようになっているのです。しかし、それにもかかわらず、「選挙」の根幹部分は驚くほど変わっていないのです。その実例を挙げれば、50年以上前から「どこかの国」で選挙に立候補する際に重要視されてきたいわゆる「3バン」(→「地盤」=支持者・支援組織など、「看板」=知名度など、「かばん」=資金(力))などと言われているものは、今現在の「どこかの国」の選挙においても有効なままでほとんど時代遅れにはなっていないのです。もちろん長い年月を経ても「選挙」というものが少しも変化していないというわけではないのです。例えば、今現在はいくつかの国では選挙運動にインターネットやSNSを活用することができるようになっています。しかし、それでもやはり、「選挙」の根幹部分は驚くほど変わっていないのです。あえて別の言い方をするのならば、もしも今現在の「選挙」の根幹部分がかつての「選挙」の根幹部分と大きく変化しているのならば、例えば、いわゆる「3バン」などというものは今現在の「選挙」ではほとんど役に立たないはずなのです。「選挙」でもやはり人間というものはなかなか変わることができない生物なのではないかということを実感させられています。今現在の政治で本質的な変化を実現するためにはいったい何が必要になるのでしょうか? きょうのところはあえてそのような問題提起をするだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『見覚えの ない現金』を 受け取れる 人はどれだけ いるのだろうか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は人間というものは「感情」を持った生物であるということを実感させられる出来事が相次いでいます。そして「感情」というものはいつの間にかもつれてしまい、一度もつれるとなかなか元には戻すことができなくなってしまうもののようです。しかし、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。 これはあくまでも空想上の話ですが、もしもあなたの自宅のメールボックスなどに「見覚えのない現金」が入っていたとしたら、あなたはいったいどうするでしょうか? そのままありがたく頂いておくのでしょうか? それとも気味が悪くて受け取れないから警察などに届けようとするのでしょうか? あるいは、もしもあなたの自宅のメールボックスなどに「ぜひ生活の足しにしてください」などという手紙と一緒に「見覚えのない現金」が入っていたとしたら、あなたはどうするでしょうか? 安心してありがたく頂いておくのでしょうか? それとも気味が悪いので誰かに助けを求めたり警察などに届けたりしようとするのでしょうか? さらに言えば、もしもあなたの自宅のメールボックスなどに「ぜひお使いください」などという手紙と一緒に「見覚えのない多額の現金(→例えば、100万円、1万ドルなど)」が入っていたとしたら、あなたはどうするのでしょうか? 実際にどれだけの人たちがそのままありがたく頂いておくことができるのでしょうか? 世の中にはおカネが欲しい人たちやおカネが大好きな人たちはたくさんいます。しかし、世の中には自分自身の「感情」や「欲望」のまま差し出されたおカネをすべて受け取ってしまう人たちはいったいどれぐらいいるのでしょうか? 「超豪華航空機」をありがたくそのまま受け取ってしまうような人間は最近どこかで見たような気がしますが…。くどいようですが、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「年齢差 大きなときも 『大人』なら 対等になる? どんなときでも?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は人間というものは「感情」を持った生物であるということを実感させられる出来事が相次いでいます。そして「感情」というものはいつの間にかもつれてしまい、一度もつれるとなかなか元には戻すことができなくなってしまうもののようです。しかし、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。 あくまでも一般論ですが、「3歳の子ども」と「35歳の大人」が対等に交渉して対等に合意することができる可能性はどのくらいあるのでしょうか? もちろん知能が著しく発達した知的レベルが極めて高い「3歳の子ども」は存在するのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、人間としての経験がほとんどない「3歳の子ども」よりも30年以上も人間としての経験が長いのならば、通常は「知性」や「理性」に圧倒的に大きな差があると思われるのです。あえて念のために確認しておくことにしますが、そもそも「3歳の子ども」は地球上のほぼすべての場所では「未成年」ですから「成人」である「35歳の大人」とは「対等」とはなり得ないのです。さて、それでは、「20歳の大人」と「50歳の大人」が対等に交渉して対等に合意することができる現実的な可能性はどのくらいあるのでしょうか? さらに言えば、「30歳の大人」と「50歳の大人」が対等に交渉して対等に合意することは十分に可能なのでしょうか? もちろん具体的にどこの誰が「20歳の大人」「30歳の大人」「50歳の大人」になるのかによって話はかなり違ってくるとは思います。しかし、それでもやはり、当事者の一方が「3歳の子ども」ではないわけですから、対等に交渉して対等に合意することができる現実的な可能性があるということだけは確かなのです。その上で、あえて付け加えるのならば、例えば、「恋愛感情」などの「感情」が絡んでくる場合にもその他の交渉と同じように「20歳の大人」と「50歳の大人」、「30歳の大人」と「50歳の大人」が対等に交渉して対等に合意することができるのでしょうか? 例えば、大昔にどこかの国で「天下人」だった「秀吉」は30歳以上年下だったと言われている「茶々(淀殿)」と対等に交渉して対等に合意したのでしょうか? おそらくそんなことはないのだろうと思います。もちろん20歳、30歳以上の年齢差がある場合であっても対等に交渉して対等に合意することができる可能性はあるとは思います。対等な関係のいわゆる「歳の差婚」などもあり得るのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「大人」同士だったらいつでもどんな場合でも対等に交渉して対等に合意することができるというわけではないはずなのです。その上で、あくまでも念のために付け加えておくことにするのならば、たとえ「欲望」などのために「精神年齢が低下している大人」のために「事実上の年齢差」が縮まっていたとしても、必ずしも対等に交渉して対等に合意することができるようになるわけではないのです。くどいようですが、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「しばらくは 『子どものケンカ』 続けても 若い命は 失われない?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は人間というものは「感情」を持った生物であるということを実感させられる出来事が相次いでいます。そして「感情」というものはいつの間にかもつれてしまい、一度もつれるとなかなか元には戻すことができなくなってしまうもののようです。しかし、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。 本当に「戦争」と「子どものケンカ」は同じようなものなのでしょうか? 「子どものケンカ」だと思い込めば「しばらく戦わせている」間に次々と多くの若い人たちの命が失われるようなことはなくなるのでしょうか? あえて心理学的な分析をしてみなくても「大風呂敷」を広げて「24時間以内」に停戦させることができなかった「戦争」が「子どものケンカ」のようなものに見えてくる「ビフじいさんのような人」は、もしもそう遠くない将来に停戦させることができた場合には「第三次世界大戦の発生を防ぐことができた」などと自画自賛することになるのだろうと国際社会の多くの人たちは想像しているのではないかと思います。あえて言い換えるのならば、逃げられた魚は小さかったり価値がなかったりするが、自分が実際に釣り上げることができた魚はとても価値があるなどという類の発想をすることになるのだろうと思います。そもそも「子どものケンカ」は本当に「しばらく戦わせた後で引き離した方がいいこともある」のでしょうか? あえて政治学的な分析をしてみなくても、例えば、「子どものケンカ」の「原因」が「おもちゃ」をめぐる争いであるのならば、「大人」が子どもたちから「おもちゃ」を強引に取り上げてしまえば一瞬でケンカを停めることができるはずなのです。国際社会の中には「大人」はどこにもいないのでしょうか? あくまでも念のために付け加えておきますが、子どもたちから「おもちゃ」を取り上げて自分のために「レアアース」や「原発」や「リゾート」で遊び出すような「大人のような外見をした質の悪い子ども」がいるのならば大変なことになってしまいます。繰り返しになりますが、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「最初から 何かで『合意』 していたか? 相手の『同意』 得られていたか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は人間というものは「感情」を持った生物であるということを実感させられる出来事が相次いでいます。そして「感情」というものはいつの間にかもつれてしまい、一度もつれるとなかなか元には戻すことができなくなってしまうもののようです。しかし、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。 どうやら「かつて偉大だった国」では少し前までは自他共に認める「蜜月」関係にあった「ビフじいさんのような人」と「なぜか×のようなものが大好きなおじさん」が急に激しく対立しているようなのです。選挙で応援して献金もたくさんしたから当選したはずだとか、次の選挙で対立陣営を応援したら大変なことになるだとか…。そこまで感情的に相手を批判しなくてもいいのではないかと言いたくなるような言葉が次々と飛び交っているようです。そもそも「ビフじいさんのような人」と「なぜか×のようなものが大好きなおじさん」は最初から何かで「合意」していたのでしょうか? さらに言えば、「ビフじいさんのような人」は「なぜか×のようなものが大好きなおじさん」から、逆に、「なぜか×のようなものが大好きなおじさん」は「ビフじいさんのような人」から、それぞれ「自分はこうしたいと思っているが、あなたはそれでもいいのか」などときちんと「同意」を得ていたのでしょうか? おそらく最初から2人の間には「合意」らしい「合意」はなく、なぜか互いに上手く誤解し合っていただけなのかもしれないと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、相手からきちんと「同意」を得ていないのにもかかわらず、なぜか相手は自分の望むように行動するはずなどという強い思い込みをした上で実際に自分の思い通りにはならなかったときに「感情」を爆発させるような人間は様々な「ハラスメント」を行う危険性が非常に高いのです。いずれにしても、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「これからは 革命的に 新しい 『技術』と『しくみ』 導入できる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「年齢」による違いと「個性」による違いはどちらの方が大きいのでしょうか? またそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないほど大きなものなのでしょうか? そもそもそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないような種類のものなのでしょうか? さらに言えば、本当に人間は「同年代」、「同趣味」あるいは「何らかの種類の同じ主張」などごとにまとまっていなくてはならないものなのでしょうか? 社会の「分裂」が深刻な問題になっているときにこそ改めて「年齢」や「個性」による「違い」の本質を考えてみることが必要なのです。 あくまでも一般論ですが、人間というものは「年齢」を重ねると、「体力」が衰える傾向があります。そして「年齢」というものは一度増えると決して減らすことができないことだけは確かです。一方、「知識」や「経験」というものは、一般的には「年齢」を積み重ねていくにつれて増えていくものです。しかし、「年齢」を積み重ねていくと、記憶力の低下などのために「知識」や「経験」などが失われることも少なくないのです。繰り返しになりますが、「体力」や「知識」や「経験」というものは、本当に補うことができないものなのでしょうか? 若い人たちなどを中心とした「知識」や「経験」がまだ十分では人たちには必要な「知識」や「経験」を補い、年配でも若くても「体力」が不足している人たちには必要な「体力」を補う…。もしもそんな不足している部分に不足しているだけの「体力」や「知識」や「経験」を完全に補うことができるような革命的に新しい「技術」と「しくみ」をセットにして社会全体に導入することができるのならば、従来型の発想に基づいた「労働力不足」の問題を根本的に解消することができる現実的な可能性が出てくることになるのです。もしもいわゆる「少子高齢化」や「労働力不足」の問題などを本気で解消しようと思うのならば、古くからのいくつかの「前提」に基づいた従来型の発想から完全に脱却する必要があると考えているのです。本当にそれらを「前提」にし続けていいのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『体力』や 『知識』『経験』 補える? 不足したもの 補えるなら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「年齢」による違いと「個性」による違いはどちらの方が大きいのでしょうか? またそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないほど大きなものなのでしょうか? そもそもそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないような種類のものなのでしょうか? さらに言えば、本当に人間は「同年代」、「同趣味」あるいは「何らかの種類の同じ主張」などごとにまとまっていなくてはならないものなのでしょうか? 社会の「分裂」が深刻な問題になっているときにこそ改めて「年齢」や「個性」による「違い」の本質を考えてみることが必要なのです。 そもそも「労働力」というものは本当に「体力」に比例するものなのでしょうか? 例えば、もしも「労働力」の対象がいわゆる「肉体労働」や「単純労働」と呼ばれるようなものだけに限定されるのならば、「労働力」というものは「体力」があればあるほど高くなるものであるということになるのだろうと思います。そして主な「労働力」の担い手としては「体力」のある若い人たちが求められることになるのだろうと思います。しかし、言うまでもなく「労働力」の対象はいわゆる「肉体労働」や「単純労働」と呼ばれるものだけではないのです。現実にはほとんどの「労働」には、「体力」だけではなく、「知識」「経験」なども求められているのです。ですから、実際には「屈強な若い男性(や女性)」だけではなく「知識や経験を持った男性と女性」も「労働力」の担い手として求められているのです。さらに言えば、実際問題としては、いわゆる「体力」や「知識」や「経験」にはかなり大きな個人差があるのです。いわゆる「高齢者」の中にも若い人たちに負けないような驚異的な「体力」のある人たちもいますし、若い人たちの中にも年配の人たちの「知識」や「経験」をはるかに上回る「知識」と「能力」を合わせ持っている人たちもいるのです。その上で、あえて念のために指摘しておくのならば、「体力」や「知識」や「経験」というものは本当に補うことはできないものなのでしょうか? もしも不足している部分に不足しているだけの「体力」や「知識」や「経験」を完全に補うことができるような革命的な変化を社会で実現することができるのならば、従来型の発想に基づいた「労働力不足」の問題を根本的に解消することができる現実的な可能性が出てくることになるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『年齢』で どちらの方が 『体力』が あると言えるか? 『平均』でなく…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「年齢」による違いと「個性」による違いはどちらの方が大きいのでしょうか? またそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないほど大きなものなのでしょうか? そもそもそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないような種類のものなのでしょうか? さらに言えば、本当に人間は「同年代」、「同趣味」あるいは「何らかの種類の同じ主張」などごとにまとまっていなくてはならないものなのでしょうか? 社会の「分裂」が深刻な問題になっているときにこそ改めて「年齢」や「個性」による「違い」の本質を考えてみることが必要なのです。 例えば、「20歳代」と「60歳代」の「体力」を比べた場合には、おそらく「平均の体力」では「20歳代」の方が「60歳代」よりも「体力」があるという結果が出てくることになるのだろうと思います。しかし、「平均の体力」ではなく、一人ひとりの個人の「体力」を比べた場合、つまり、「20歳代のある人」と「60歳代のある人」のそれぞれの「体力」を比べた場合には、「60歳代のある人」の方が「20歳代のある人」よりもずっと「体力」があるという結果が出てくることになる可能性もかなりあるのです。例えば、「60歳代のある人」は元プロスポーツ選手、「20歳代のある人」は幼い頃から運動がとても苦手な人であるのならば、一般的な「体力」を測定すれば、「60歳代のある人」の方が「20歳代のある人」よりもずっと「体力」があるという結果が出てくることになるのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「体力」が「特殊な体力」であったとしたら…。例えば、「何らかのゲーム的な要素」が盛り込まれた「特殊な体力」であったとしたら「年齢」とは無関係な「個性」の違いに基づいた能力差よって優劣が決まることになるのかもしれないのです。そのように考えると、「20歳代」と「60歳代」ではどちらの方が「体力」があるということになるのでしょうか? 繰り返しになりますが、「年齢」による違いと「個性」による違いとではどちらの方が大きいのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「本当に 『同年代』は 『同一』か? 『年齢』『個性』 どちらの違い?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「年齢」による違いと「個性」による違いはどちらの方が大きいのでしょうか? またそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないほど大きなものなのでしょうか? そもそもそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないような種類のものなのでしょうか? さらに言えば、本当に人間は「同年代」、「同趣味」あるいは「何らかの種類の同じ主張」などごとにまとまっていなくてはならないものなのでしょうか? 社会の「分裂」が深刻な問題になっているときにこそ改めて「年齢」や「個性」による「違い」の本質を考えてみることが必要なのです。 例えば、観客のほとんどが「10歳代」と「20歳代」の「イベント」に「50歳代」の人が一人で参加したような場合には、すれ違う若い人たちから不思議そうに見られることになるのかもしれないと思います。そしてもしかすると「10歳代」と「20歳代」の観客の中に「50歳代」の人がポツンと一人でいるのを見つけてとてもうれしそうな表情を見せる「50歳代」や「60歳代」の人たちがいることもあるのかもしれないと思います。逆に、「60歳代」が全体の約1/2、「50歳代」が約1/4などという「特殊な年齢構成のイベント」では、普段は多数派なのにここでは圧倒的な少数派に転落した「20歳代」や「30歳代」の人たちが外見はずっと若く見えるらしい「50歳代」の人が一人でポツンといるのを見つけて安心したような表情を浮かべることもあるのかもしれないと思います。言うまでもなく「同年代」は同じような環境で同じような経験を積み重ねていることが多いわけですから、同じようなことに興味関心を持つことが少なくないことは確かです。しかし、「同年代」は「同一」なのでしょうか? それぞれの人たちの「個性」に基づいた「好み」や「興味関心」で「分類」すれば、単純に「年齢」で分類した「同年代」の集団とは少し違った集団ができることも少なくないのです。人間は本当に「同年代」でまとまっているのでしょうか? そして本当に「同年代」でまとまっていなければならないのでしょうか? 繰り返しになりますが、「年齢」による違いと「個性」による違いとではどちらの方が大きいのでしょうか? 社会の「分裂」が深刻な問題になっているときにこそ改めて「年齢」や「個性」による「違い」の本質について考えてみることが必要なのです。その違いは「年齢」「個性」のどちらの違いに基づくものなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「戦争で 奪われたなら 戦争で 奪い返すと いうことならば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の多くの物事はなぜ「結果」が出るまでそんなに多くの時間がかかるのでしょうか? そもそも世の中にはそんなに簡単に解決することができる物事は存在するのでしょうか? 世の中の複雑に見える様々なしくみの中には今でも大切な意味があるものもあれば時代が変わってあまり意味がなくなっているものあるはずなのです。 あえて個別具体的な事例を取り上げることは避けますが、今現在も地球上のあちこちの場所では戦争が続いています。誰かが「24時間以内」に停戦させてみせるつもりだった第三次世界大戦に発展する危険性もある戦争だけではなく、人質を奪い返すために多くの一般市民を巻き添えにしている戦争も、その他の戦争や内戦も続いています。いくら国際紛争を解決するための手段として「武力による威嚇」や「武力の行使」を用いるべきではないなどということが「正論」であったとしても、現実の国際社会では戦争によって領土が奪われたり、領土を奪われないようにしたために戦争が発生したり、奪われた領土を取り戻すために戦争が引き起こされたりするということが続いているわけです。あえて単純化して言わせてもらうのならば、少なくとも今現在の現実の国際社会では、戦争で奪われた領土は戦争によって奪い返すぐらいしか方法が見当たらないのです。現実の国際社会ではどれだけ長く時間をかけてあらゆる機会に返還を要求しても戦争などで一度奪われた領土を取り戻すことはまずできない…。こんな現状では現実の国際社会ではいつまで経っても戦争がなくならないと思います。しかし、もしも戦争で奪われた領土を戦争以外の方法で確実に取り戻すことができる現実的な可能性が高くなるのならば、領土をめぐる争いが戦争に発展する危険性を低下させることも期待することができると思います。戦争で奪われた領土を戦争以外の方法で確実に取り戻すためにはいったいどうすればいいのでしょうか? 国際連合は現実の国際社会の中でいずれ期待された役割を果たすことができるようになるのでしょうか? 何とかして戦争で奪われた領土を戦争以外の方法で確実に取り戻すことができる「選択肢」をつくり出さない限り、現実の国際社会から戦争をなくすことは事実上不可能ではないかと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「今回も 良い話し合い? 成果まだ? いつまで続く 成果ない協議!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の多くの物事はなぜ「結果」が出るまでそんなに多くの時間がかかるのでしょうか? そもそも世の中にはそんなに簡単に解決することができる物事は存在するのでしょうか? 世の中の複雑に見える様々なしくみの中には今でも大切な意味があるものもあれば時代が変わってあまり意味がなくなっているものあるはずなのです。 最近は地球上のあちこちで「とても良い話し合いだった」とか「とても素晴らしい会談だった」などという「台詞」が飛び交うことが増えているようです。しかし、いくら「とても良い話し合い」や「とても素晴らしい会談」を繰り返したとしても、残念ながら目立った成果はなかなか得られないようなのです。あくまでも念のために確認しておきますが、「とても良い話し合い」や「とても素晴らしい会談」などというものは、成果を上げるために必要不可欠なものではないのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、何らかの成果を上げるためには、成果を上げるために必要不可欠なことを成し遂げなければならないはずなのです。例えば、いくら関税を一方的に引き上げたとしても関税を引き上げることによってその国の産業が高性能・高品質の製品を安価で生産することができるようになるわけではないのです。あえて単純化して率直に言わせてもらうのならば、一方的に引き上げなければならないのは「関税」ではなく「技術力」なのです。今回も「とても良い話し合い」や「とても素晴らしい会談」だったとして、成果はいつ得られるのでしょうか? 繰り返しになりますが、何らかの成果を上げるためには、成果を上げるために必要不可欠なことを成し遂げなければならないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『生産者』 直接売れば どうなるか? 『消費者』もまた 直に買いたい?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の多くの物事はなぜ「結果」が出るまでそんなに多くの時間がかかるのでしょうか? そもそも世の中にはそんなに簡単に解決することができる物事は存在するのでしょうか? 世の中の複雑に見える様々なしくみの中には今でも大切な意味があるものもあれば時代が変わってあまり意味がなくなっているものあるはずなのです。 もしかすると「どこかの国」がかつてのように国内のほとんどすべての「生産者」からほとんどすべてのコメを高い値段で買い取り、そして「消費者」には安い値段でコメを売り渡していたとしたら、ここまでコメの価格が高騰することはなかったのかもしれないとは思います。そして「国がコメを高く買って安く売る制度」と比べれば、価格高騰を受けて大急ぎで「備蓄米」を随意契約などで放出するという緊急対策はとてもかわいらしく見えてきます。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「どこかの国」のコメを高く買って安く売るような「ある意味での社会主義経済システム」は残念ながら長続きすることはないのです。あくまでも一般論ですが、もしも「生産者」が他のどこのどのコメよりもはるかに美味しいコメをつくったとしても「どこかの協同組合」を経由すると結局は近隣の「それなりに美味しいコメ」と一緒になってしまうのならば、その「生産者」はこれからも美味しいコメを作ろうという意欲を失ってしまうかもしれないのです。さらに言えば、もしも「それなりに美味しいコメ」を作りさえすれば国が確実に高く買ってくれるのならば、消費者や市場の需要などを全く気にしない「生産者」が増えることになるかもしれないのです。それなら「生産者」が生産した美味しいコメを「消費者」に直接売ったらどうなるのでしょうか? 「消費者」も美味しいコメを適切な価格で確実に手に入れることができるのならば「生産者」から直に買いたいと思うのではないでしょうか? 一部を除いた多くの「生産者」は新たに販売などにもリスクを負うことに耐えられないのでしょうか? 今の時代は宅配サービスが充実しています。そして今回の「備蓄米」の販売を通じて大規模小売店などの業者も「生産者」と「消費者」の橋渡しをする能力が十分にあるということが示されることになるのだろうと思います。きょうのところはあえてそれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『人気者』 すり寄っている 候補者の 『嘘』を見破る? それともやはり…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いつの時代のどこの場所でも「人気者」にすり寄っていく人間たちが少なくないのです。しかし、本当に「人気者」にすり寄っていくだけで自分も「人気者」になることができるのでしょうか? あるいは、本当に「人気者」にすり寄っていけば自分も「人気者」のような素晴らしい人になることができるのでしょうか? 当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、そんなことはないはずなのです。 例えば、何かの選挙が近づいてくると「人気者」との2ショット画像をあちこちで目にする機会が増えます。もちろん何かの選挙が近づいてきたときに「所属政党の党首」と「公認(予定)候補」の2ショット画像を目にする機会が増えるのは特に珍しいことではないのです。そして「所属政党の党首」が「人気者」ではない場合には、「所属政党の党首」ではない「人気者」と「公認(予定)候補」の2ショット画像を目にする機会が増えることになるのです。しかし、本当に「人気者」との2ショット画像をあちこちに増やして自分も「人気者」になることができるのでしょうか? 本当に「人気者」にすり寄っていくだけで少なくとも選挙の投票日だけは自分も「人気者」になることができるのでしょうか? もしも「人気者」にすり寄っていくだけで自分も「人気者」になることができると思い込んでいるのならば実に愚かです。さらに言えば、本当に「人気者」にすり寄っていけば自分も「人気者」のような素晴らしい人になることができるのでしょうか? もしもごく普通の多くの有権者が「人気者」のことを本当に好きであるのならば、選挙目当てに「人気者」にすり寄っているだけの(予定)候補者たちの「嘘」をすぐに見破ることができるはずなのです。しかし、世の中の多くの人たちもなんとなく「人気者」に好感を持っているだけなのならば…。有権者は選挙目当てに「人気者」にすり寄っているだけの(予定)候補者たちの「嘘」をすぐに見破ることができるのでしょうか? それともやはり…。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『以前から ファンだった』とか 言っているが… 本物のファン 『嘘』を見破る!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いつの時代のどこの場所でも「人気者」にすり寄っていく人間たちが少なくないのです。しかし、本当に「人気者」にすり寄っていくだけで自分も「人気者」になることができるのでしょうか? あるいは、本当に「人気者」にすり寄っていけば自分も「人気者」のような素晴らしい人になることができるのでしょうか? 当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、そんなことはないはずなのです。 例えば、「人気者」と実際に会ったときに「以前からファンだった」などと言っている人間たちを見ることは少なくないのです。もちろんその人間が本当に「以前からファンだった」のならばそのような「アピール」をしてもそれほど悪いことではないと思います。でも、もしも「人気者」のことが大好きな人たちに自分にも好感を持って欲しくてとりあえず「以前からファンだった」などと言っているだけならば、実に浅はかだと言わざるを得ないのです。もしも「以前からファンだった」と言っているのにもかかわらず、実はそれほど「人気者」のことを知らないのならば、それだけでもすぐに「人気者」の人気にあやかりたくて「嘘」を言っていると見破られてしまうことになるのです。「人気者」の本物のファンにとっては「以前からファンだった」と言っている人間が「本当に以前からファンだったのか」とか「そもそも本当にファンなのかどうか」を見抜くことが簡単にできるはずなのです。あえて言い換えるのならば、世の中で最もその種類の「嘘」を簡単に見破ることができる人たちに対して普通の人たちでも簡単に見破ることができそうな「お粗末な嘘」をついているようなものなのです。繰り返しになりますが、本当に「人気者」にすり寄っていくだけで自分も「人気者」になることができるのでしょうか? きょうのところは選挙が近づいてくると選挙目当てで「人気者」にすり寄っていく人間たちも増えてくるということをあえて指摘しておくだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『売り切れ』に させないために どうするか? 『販売戦略』 必要になる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の様々な場所には様々な種類の「力」が存在します。そしてそうした様々な種類の「力」の中には同じ「力」であるにもかかわらずいくつかの違った名称で呼ばれているものもあるのです。何にしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。 相変わらずどこかの社会ではコメの値上がりが大きな問題になっています(→参考:2025/5/30付、2025/5/26付、2025/5/20付)。そして相変わらずどこかの政府が備蓄米を放出してもコメの価格は高止まりの状態が続いています。どうやらどこかの政府は随意契約を活用して備蓄米の販売価格を「5kg 2000円」程度にすることを目指すらしいです。繰り返しになりますが、「5kg 2000円」程度で消費者に売られることになる備蓄米は本当に十分な量の在庫があるのでしょうか? もしかするとどこかの政府による「備蓄米のバーゲンセール」がすべて終わってしまったならば、コメの平均店頭販売価格は高止まりが続いたりまた上昇したりすることになるのではないでしょうか? 繰り返しになりますが、世の中には「5kg 2000円」程度の備蓄米があっと言う間に「売り切れ」になることにメリットを感じる人間たちもいるわけです。例えば、最近のコメの平均店頭販売価格よりも大幅に安い備蓄米をできるだけたくさん購入した上でそれを「転売」して「差額」を儲けようと思っている人間たちは備蓄米があっと言う間に「売り切れ」になることに大きなメリットを感じるのではないかと思います。さらに言えば、コメが値上がりする前に安い価格で大量にコメを仕入れている一部の業者などは備蓄米がすぐに「売り切れ」になって最近の「5kg4200円-4300円(税込)」の店頭価格があまり低下しないことにメリットを感じるのではないかと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、もしも備蓄米がすぐに売り切れになってしまえば、政府によるコメ価格対策としての備蓄米の放出は「失敗」ということになってしまうのだろうと思います。そのことに注意をするのならば、コメ価格対策としての効果を最大限に発揮させるために備蓄米をすぐに「売り切れ」にさせないための「販売戦略」が重要になってくるはずなのです。備蓄米をすぐに「売り切れ」にさせないためにどのような「販売戦略」があるのでしょうか? もちろん様々な「販売戦略」を考えることができます。さらに大胆かつ柔軟な発想をするのならば、例えば、何らかの方法で備蓄米を新たに大量に確保した上で店頭販売価格よりも安い価格で放出し続けるという方法もあるわけですが…。きょうのところは放出のための備蓄米は十分な量の在庫があるのかということをあえて重ねて強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『備蓄米 バーゲンセール』 終わったら コメの価格は また上昇へ?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には良い意味でも悪い意味でも「常識」が通用しない人間たちがいるものです。世の中には良い意味でも悪い意味でも多くの人たちが想像もできないようなことばかりを考えて実行する人間たちがいるものなのです。そのことに気づくことができるのならば、世の中の様々な場所で「ルール」を明確に定めるということがとても重要であるということを理解することができるのではないかと思います。 相変わらずどこかの社会ではコメの値上がりが大きな問題になっています(→参考:2025/5/26付、2025/5/20付)。そして相変わらずどこかの政府が備蓄米を放出してもコメの価格は高止まりの状態が続いています。どうやらどこかの政府は随意契約を活用して備蓄米の販売価格を「5kg 2000円」程度にすることを目指すらしいです。繰り返しになりますが、「5kg 2000円」程度で消費者に売られることになる備蓄米は本当に十分な量の在庫があるのでしょうか? 最近のコメの平均店頭販売価格は「5kg4200円-4300円(税込)」の状態が続いています。ですから、これから備蓄米が「5kg 2000円」程度で大型店の店頭や通販で販売されることになったとしたら、そう遠くないうちに「売り切れ」になってしまう可能性が高いのだろうと予想しています。そしてこれからさらに古い備蓄米が「5kg2000円」以下で中小のスーパーや地元商店街の米穀店などにも出回ることになったとしても、古い備蓄米の品質がそれほど悪くないのならば、おそらく「売り切れ」になるまでにはそれほど多くの時間を必要としないのではないかと思います。それでは「5kg 2000円」程度の備蓄米がすべて「売り切れ」になった後のコメの価格はいったいどうなっていくのでしょうか? もしも「5kg 2000円」程度の備蓄米がまたすぐに入荷する可能性があるのならば、コメの平均店頭販売価格は値下がりする方向に向かっていくのだろうと思います。しかし、もしも「売り切れ」後は「5kg 2000円」程度の備蓄米が入荷する可能性がほとんどなくなるのならば、コメの価格は高止まりが続いたりまた上昇したりすることになるのではないでしょうか? 繰り返しになりますが、「5kg 2000円」程度で消費者に売られることになる備蓄米は本当に十分な量の在庫があるのでしょうか? もしかするとどこかの政府による「備蓄米のバーゲンセール」がすべて終わってしまったならば、コメの平均店頭販売価格は高止まりが続いたりまた上昇したりすることになるのではないでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、世の中には「5kg 2000円」程度の備蓄米があっと言う間に「売り切れ」になることにメリットを感じる人間たちもいるわけです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『ハーバード』 売り出すならば 買い取って 『48番 目』にしてもいい?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の様々な場所には様々な種類の「力」が存在します。そしてそうした様々な種類の「力」の中には同じ「力」であるにもかかわらずいくつかの違った名称で呼ばれているものもあるのです。何にしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。 助成金の一部凍結、税制上の優遇措置の取り消し、留学生受け入れ機関の認定の取り消し…。あくまでも念のために確認しておきますが、たとえどれだけ理不尽な圧力を加えたとしてもそれで相手を自分の思い通りにすることができるとは限らないのです。あくまでも仮定の上に仮定を積み重ねた上での空想上の話ですが、もしも「ビフじいさんのような人」とその周辺から目の敵にされている「名門大学」が売りに出されることがあるのならば、その「名門大学」を莫大な金額を支払ってでも買い取りたいと本気で思っている人たちは地球上にはかなりたくさんいるのではないかと思います。そんなに「ビフじいさんのような人」とその周辺にとって「ハーバード」が邪魔なものであるのならば、実は「ハーバード」との関係がそれほど浅くはない「どこかの国」としてもボストン近郊の「不動産」ごと「買収」してその一帯を「48番目の都道府県か何か」にすることを「首脳会談」などで提案してみた方がいいのではないかと考え始めています。今はあえて「ビフじいさんのような人」とその周辺が「ハーバード」を毛嫌いする事情や背景には触れないことにしておきます。でも、かつて「赤狩り」などのために「どこかの専制国家」が核兵器や大陸間弾道ミサイルの開発や宇宙開発などを大幅に加速することができたという「歴史的事実」を思い起こすことは絶対に必要です。不必要にどこかの専制国家に高度の人材や技術ノウハウが流出することだけは断固阻止したいと考えている人たちは少なくないと思います。きょうのところは「歴史的事実」を踏まえた上でそのことを強調しておくことにします。 ======================================= 「世の中は みんな自分の ファンなのか? 『常識』通じ ない人間も…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には良い意味でも悪い意味でも「常識」が通用しない人間たちがいるものです。世の中には良い意味でも悪い意味でも多くの人たちが想像もできないようなことばかりを考えて実行する人間たちがいるものなのです。そのことに気づくことができるのならば、世の中の様々な場所で「ルール」を明確に定めるということがとても重要であるということを理解することができるのではないかと思います。 あくまでも一般論ですが、もしかすると「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などの中には世の中のほとんどすべての人たちが自分のファンや自分のことを好意的に見ている人たちであると勘違いしている人間たちがいるのではないかと思うことがあります。いわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などの中でも特にひどいのになると、世の中のほとんどすべての人たちはいわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などである自分との間に何らかの関係ができることを心から望んでいるに違いないなどという救いようのない勘違いをしているのではないかと思うことがあります。最近はほとんどすべてのいわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などに対するいわゆる「アンチ」などという人間たちが存在するのでそうした勘違いをすることは少なくなってきているのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、いわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などの中には、世の中では多くの人たちが暗黙のうちに共有している「常識」や「ルール」が全く通用しない人間たちが今でも存在するのです。そして例えば、密室内で相手と二人きりになったときなどに、いわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などとされていても世の中の多くの人たちが暗黙のうちに共有している「常識」や「ルール」が全く通用しない人間たちであるということが分かるのだろうと思います。密室内で相手と二人きりになることができたときには本当に相手はいわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などされている自分と「関係」することを望んでいるのでしょうか? そんなバカなことはないはずなのです。いずれにしてもいわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などとされていても世の中の多くの人たちが暗黙のうちに共有している「常識」や「ルール」が全く通用しない人間たちが存在するのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『力』には 他人の意思を 捻じ曲げず 他人を惹き付 けるものもある」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の様々な場所には様々な種類の「力」が存在します。そしてそうした様々な種類の「力」の中には同じ「力」であるにもかかわらずいくつかの違った名称で呼ばれているものもあるのです。何にしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。 「他人に自分の望むことをさせる(してもらう)ため」に使う「力」は「暴力」を含めた「強制力」以外には存在しないのでしょうか? もちろんそんなことないはずです。例えば、「暴力」を含めた「強制力」のように「他人の意思を捻じ曲げて自分の望むことをさせる(してもらう)」のではなく、「自分の望むことをしたいという意思を他人に持たせる(持ってもらう)」というように考えることもできるはずなのです。いわゆる「推し」などが好んで買ったり使ったりやったりしている物事は、「ファン」などである自分自身も買ったり使ったりやったりしてみたくなるということは世の中ではとてもありふれた話です。また「インフルエンサー」などというものは、「自分の望むことをしたいという意思を他人に持たせる(持ってもらう)」ことに成功した事例の1つになるのだろうと思います。何にしても「力」には他人の意思を捻じ曲げるのではなく、他人を惹き付けるような種類のものもあるのです。その上で、あえて付け加えるのならば、「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」が使っている種類の「力」はいったいどのような種類の「力」なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「2000円? 『転売ヤー』が 大儲け? あちこち回り 買い集めれば⋯」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には良い意味でも悪い意味でも「常識」が通用しない人間たちがいるものです。世の中には良い意味でも悪い意味でも多くの人たちが想像もできないようなことばかりを考えて実行する人間たちがいるものなのです。そのことに気づくことができるのならば、世の中の様々な場所で「ルール」を明確に定めるということがとても重要であるということを理解することができるのではないかと思います。 相変わらずどこかの社会ではコメの値上がりが大問題になっています。そして相変わらずどこかの政府が備蓄米を放出してもコメの価格は高止まりの状態が続いています(→参考:2025/5/20付)。どうやらどこかの政府は備蓄米の「店頭価格」を「5kg 2000円」にすることを目指すらしいです。仮に備蓄米の「店頭価格」を「5kg 2000円」にすることができたとしたとして、その「5kg 2000円」の備蓄米は1人何kgまで買うことができるのでしょうか? もしもほとんどの店で備蓄米の購入を1人5kgまでに制限したとしても、実際にあちこちの店舗を回って備蓄米を買い集めるようなことは許されるのでしょうか? 仮に「5kg 2000円」の備蓄米を買い集めるようなことは認めないなどと政府側が言ったとしても、現実には様々な手段を駆使すれば「5kg 2000円」の備蓄米を買い集めることはそれほど難しいことではないのではないかと思います。さらに言えば、最近のコメの店頭販売価格は「5kg4200円-4300円(税込)」の状態が続いていますから、「5kg 2000円」の備蓄米を手に入れることができた人間たちがかなり大きな利益を得ることだけはほぼ確実なのです。おそらく業者が「5kg 2000円」の備蓄米の大規模な買い占めをするようなことは事実上不可能なのだろうとは思います。しかし、「5kg 2000円」の備蓄米を買い集めてインターネット上などで「転売」して利益を得る個人が出てくる危険性は十分に考えられるのです。言うまでもなくどこかの政府が備蓄米の「店頭価格」を「5kg 2000円」にしようとしているのはいわゆる「転売ヤー」などに大儲けをさせるためではないはずです。繰り返しになりますが、「ルール」を明確に定めるということはとても重要なことではないかと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『理解力』 『共感力』は 十分か? 『忘却力』や 『執着力』は…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の様々な場所には様々な種類の「力」が存在します。そしてそうした様々な種類の「力」の中には同じ「力」であるにもかかわらずいくつかの違った名称で呼ばれているものもあるのです。何にしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。 きょうは普通の意味での「力」ではない「指導者に求められる能力」についてあえて考えてみることにしようと思います。「指導者」にはいったいどのような「能力」が必要になるのでしょうか? もちろん「指導者」の種類によって求められる「能力」の種類は違ってくることにはなると思います。しかし、それでもやはり、このような「能力」が不十分であれば「指導者」としての役割を十分に果たすことができなくなると思われるような種類の「能力」はいくつか存在するのではないかと思います。例えば、「理解力」。もしも「指導者」の「理解力」が十分ではなかったとしたら、どんな問題の解決を目指す場合でも最大の問題点の1つが「指導者の理解力の低さ」ということになってしまうかもしれないのです。あるいは、「共感力」。もしも相手の状況や立場を自分に置き換えて想像してみることもできないほど「共感力」が低い場合には「指導者」としては致命的な欠点になります。さらに言えば、過去の自分の都合の悪い発言などを初めからなかったことにしようとする「忘却力」、「関税」などのような問題の本質とはかけ離れたことにいつまでも強くこだわり続ける「執着力」のようなものは、低ければ低い方がいいとは思いますが…。その上で、あくまでも念のために付け加えておくことにするのならば、いくら「認知機能テスト」などが「満点」であったとしても、「指導者に求められる能力」のテストで「合格点」が得られるのかどうかは定かではないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『事実』なら 『金銭的な 解決』で なかったことに できるわけない!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の様々な場所には様々な種類の「力」が存在します。そしてそうした様々な種類の「力」の中には同じ「力」であるにもかかわらずいくつかの違った名称で呼ばれているものもあるのです。何にしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。 世の中では本質的な解決が不可能だったり極めて難しかったりする問題をあえて金銭で解決しようとする試みがよく見られます。世の中では、例えば、誰かにとって「大切な人」が命を失った場合などに「金銭的な解決」が図られるようなことはよくある話です。もっとも「金銭的な解決」が図られたとしても、「大切な人」が生き返ったりするようなことは絶対にないわけです。言い換えれば、いくら「金銭的な解決」が図られたとしても問題を本質的に解決することは不可能なのです。当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、どんなに少なくとも「カネ」では「大切な人」を蘇らせることはできないのです。あるいは、たとえ「示談」などが成立して金銭が支払われることになったとしても、「あの日あのときあの場所で起こったこと」が「事実」であるのならば、それを初めからなかったことにするようなことは絶対にできないのです。言うまでもなくいくら「あの日あのときあの場所で起こったこと」について「守秘義務」などを課したとしても「あの日あのときあの場所で起こったこと」を初めからなかったことにするようなことは絶対にできないのです。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「カネ」の「力」というものは所詮その程度のものなのです。繰り返しになりますが、やはり多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。きょうのところはあえてそのことを強調しておくことにします。 ======================================= 「『暴力』は 『強制力』の 1種だと 気づけば『本質』 見えやすくなる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の様々な場所には様々な種類の「力」が存在します。そしてそうした様々な種類の「力」の中には同じ「力」であるにもかかわらずいくつかの違った名称で呼ばれているものもあるのです。何にしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。 例えば、「暴力」という「力」は、目に見える形で使われる「力」です。もしも「暴力」が誰にも目撃されることがなかったとしたら「暴力」は存在しなかったということになるのでしょうか? もしも誰にも見えない場所や誰にも見えないときをわざわざ選んで痕跡らしい痕跡も全く残さないような形で「暴力」を使うことができるのならば、その「暴力」が間違いなく存在していたとしても誰にも目撃されることはないのだろうと思います。さらに言えば、「暴力」というものは、「強制力」などと呼ばれる種類の「力」の1つになるわけです。ですから、たとえ「暴力」と呼ばれる種類の「力」が本当に存在しなかったとしても、だからと言って「暴力」以外の他の「強制力」と呼ばれる種類の「力」までもが存在しなかったということにはならないはずなのです。あえて別の言い方をするのならば、「強制力」などと呼ばれる他人の意思を抑え込んで自分の望むことを他人にさせるために使うことができるような種類の「力」は、「暴力」だけではないはずなのです。例えば、相手の機嫌を損ねたり怒らせたりしてしまったらもうこれからは一緒に「仕事」をすることができなくなってしまうというような危険性が高い状況では、そうした状況も「強制力」として使うことができるのだろうと想像することができるのです。あるいは、自分が他人と何らかの種類の望まないことをしたりさせられたりしていることを「第三者」に知られることを望んでいないような場合には、その事実を秘密のままにしておくという行為も「強制力」になるのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、「暴力」による「(同意のない)性行為」とか「性暴力」などという言葉を使うよりも、むしろ「強制力」を使った「(同意のない)性行為」などという言葉を使った方がその行為の悪質性をより正確に表現することができるのかもしれないのです。「暴力」というものは「強制力」の1種であるということに気づけば物事の本質が見えやすくなるのです。いずれにしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「ばらまけば 『手取り』は増える? 『借金』で! 『手取り』増やして ばらまくために…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のしくみはなかなか複雑です。そしてそんな複雑なしくみがいっぱいの世の中には解決が困難な問題が数多く存在しています。しかし、実は問題をあまりにも複雑に考え過ぎているためにその解決を難しくしているだけのことも少なくないのではないかと思います。 世の中には「減税」やその他の「ばらまき」が大好きな人たちが多くいるようです。もちろんそのこと自体はそれほど驚くべきことではないと思います。しかし、それでもやはり、「減税」やその他の「ばらまき」を実施することによって「手取り」を増やそうとする類のその場しのぎの思慮の浅い主張には本当にうんざりさせられます。言うまでもなく「減税」やその他の「ばらまき」をすれば最大で「減税」やその他の「ばらまき」をした分までは「手取り」を増やすことができるのだろうと思います。しかし、「減税」やその他の「ばらまき」の財源が「借金」であるのならば「手取り」を増やした効果はどのくらいあるのでしょうか? 「減税」やその他の「ばらまき」をやめればすぐに「手取り」は減少して元通りになるだけでは…。考えてもみてください。多少収入が増えたとしてもそもそも毎年毎年巨額の「借金」を繰り返しながらなんとかやりくりをしている「どこかの国の政府」には備蓄米のように放出することができる「埋蔵金」があるのでしょうか? それとも「どこかの国の政府」が実は毎年多額の税金を使い残して「どこかの銀行」に多額の資金をこっそりと貯め込んでいるのでしょうか? そうではないとしたら「減税」やその他の「ばらまき」の財源が「借金」であるということにすぐに気づくことができるはずなのです。そもそも「減税」やその他の「ばらまき」の財源として使うための「借金」を返済するのは誰なのでしょうか? もっともらしいことを主張して「減税」やその他の「ばらまき」を行う人間たちなのでしょうか? 将来世代を中心とした国民ではないのでしょうか? そして「借金」を財源とする「減税」やその他の「ばらまき」によって(一時的に)増えた「手取り」は、「借金」を財源とする「減税」やその他の「ばらまき」をやめればすぐに減少するのです。いくら「借金」を財源とする「減税」やその他の「ばらまき」によって(一時的に)「手取り」を増やしたとしても、まやかしによる「手取り」の増加にしかならないのです。どうせ「借金」をしなければならないのならば、「手取り」を本質的に増やすことを目指した経済政策にできるだけ多くの「借金」を使いたいものです。あえて言い換えるのならば、「減税」やその他の「ばらまき」によって(一時的に)「手取り」を増やすことを考えるのではなく、「手取り」を本質的に増やすことによって「減税」やその他の「ばらまき」をする財政的な余裕を生み出すことを考えるべきなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『幸せ』に なりたいのなら 『幸せ』と 思い込めたら すぐ『幸せ』に!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のしくみはなかなか複雑です。そしてそんな複雑なしくみがいっぱいの世の中には解決が困難な問題が数多く存在しています。しかし、実は問題をあまりにも複雑に考え過ぎているためにその解決を難しくしているだけのことも少なくないのではないかと思います。 あくまでも一般論ですが、世の中には「幸せ」になりたいと思っている人たちがたくさんいるようです。そして「幸せ」になりたいとは思っているが実際には「幸せ」ではないという人たちも少なくないようです。一昔前には「幸福度」などというあまり意味のない数字にさも大きな意味があるかのような主張が盛んに取り上げられたこともあったわけですが…。ところで誰かが「幸せ」になるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて非常に極端なことを率直に言わせてもらうのならば、もしも本気で「幸せ」になりたいと思っているのならば自分は「幸せ」だと強く思い込むだけですぐにでも「幸せ」になることができるのです。言うまでもなく人間には一人ひとりそれぞれ別の種類の「幸せ」があるはずなのです。言い換えれば、「ある人」にとっての「幸せ」が「別の人」にとっても「幸せ」だとは限らないのです。そしてそれぞれの「幸せ」には比較的簡単に実現することができるものもあれば実現することが極めて難しいものもあるわけです。さらに言えば、たとえ「ある人」がいくら自分は「幸せ」だと強く思っていたとしても、「別の人」の「幸せ」を知ったときに価値観が変化して自分は「幸せではない」と思うようになるかもしれないのです。別の言い方をすれば、自分は「幸せ」だと思っている人たちに「世の中にはもっともっと素晴らしい『幸せ』がある」などと「悪魔のささやき」のようなことを言うこともできるわけですし、逆に、自分は「幸せではない」と思っている人たちに「世の中にはもっとずっと不幸な人たちがいる。でも、あなたはとても『幸せ』だ」などと言って不満を抑え込もうとすることもできるわけです。そのように考えるのならば、ある社会の「幸福度」が高いということは、その社会が独裁や専制の悪影響を強く受けている可能性も高いということに気づくことになるわけです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「備蓄米? あるならすぐに 配るべき! 一人ひとりに なぜ配らない?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のしくみはなかなか複雑です。そしてそんな複雑なしくみがいっぱいの世の中には解決が困難な問題が数多く存在しています。しかし、実は問題をあまりにも複雑に考え過ぎているためにその解決を難しくしているだけのことも少なくないのではないかと思います。 どこかの社会ではコメの値上がりが大問題になっています。どこかの政府が備蓄米を放出していますが、コメの価格は高止まりの状態が続いています。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、なぜ一人ひとりの国民に直接コメを配るようなことを考えないのでしょうか? 備蓄米があるのならすぐに配ってもらいたいと思っている人たちも少なくないと思います。例えば、なぜ政府は備蓄米などを毎月1回、5kg、3000円(→市場平均価格より1000円程度安い価格)で購入することができる「定額おコメ券」(仮称)などを国民一人ひとりに配布するようなことを考えないのでしょうか? もしも備蓄米の放出によって国民一人ひとりのもとにある程度の長期間に渡ってそれなりの低価格でそれなりの量のコメが確実に行き渡り続けるような状態になるのならば、その分だけ市場でのコメの需要は減少することになるわけですから、コメの価格は下落する方向に向かうはずです。マイナンバーカードなども活用して本人確認も厳格にした上でまとめ買いなども禁止すれば不正利用や転売を防ぐことはそれほど難しいことではないのではないかと思います。もちろん備蓄米があってもそれを国民一人ひとりのもとに届けるのにはかなりの手間暇がかかることは確かです。しかし、それでもやはり、例えば、「公務員」を常駐させて本人確認とまとめ買い禁止を徹底しさえすれば、各地の駐車場や空き地などに設置した「仮設販売場」に備蓄倉庫から備蓄米を直接運び込んで購入者にその場で購入したコメを「精米機」で精米して持って帰ってもらうような「乱暴な手法」であってもコメの値上がり対策としては大きな効果を期待することができるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「目に見える 『贈り物』だけ 取り締まる? 電気通信回線 経由は?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「ある国の王室」が「かつて偉大だった国」の大統領に「豪華旅客機」を贈るなどという「噂」を耳にして非常に驚いている人たちは少なくないと思います。もちろん「ある大富豪」が「別の大富豪」に非常に高価な商品をプレゼントするようなことはそれほど珍しいことではないのかもしれないと思いますが…。 これはあくまでも「噂」話にすぎないわけですが、一昔前にはどこかの国でも「政治(家)銘柄」などとささやかれていたものがあったとかなかったとかと言われていました。そしてその「政治(家)銘柄」なるものは、ときどき謎の急上昇をした直後に値下がりするなどの「不審な値動き」を繰り返すという「噂」があったとかなかったわけです。もしかすると「不審な値動き」をしている間に「経済取引」を通じて「何らかの合法的な資金移動」があったのかもしれないと想像することはできるのです。しかし、あくまでも「噂」は「噂」でしかないわけですし、「想像」は「想像」にすぎないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも最近のいわゆる「トランプ関税」などの一連の騒動による激しい乱高下の中に「何らかの不審な値動き」が紛れ込んでいて、その中で「何らかの合法的な資金移動」が行われていたとしたら…、そのような「何らかの不審な値動き」と「何らかの合法的な資金移動」を漏らすことなく完全に把握することができているのでしょうか? もちろん「何らかの不審な値動き」と「何らかの合法的な資金移動」のすべてをリアルタイムで把握することは極めて困難だとは思います。しかし、それでもやはり、どんなに少なくとも「事後」にはしっかりとすべての「何らかの不審な値動き」と「何らかの合法的な資金移動」を漏らすことなく完全に把握することが必要になると思います。言うまでもなく目に見える「贈り物」だけに注目していればすべての違法行為や不法行為を見逃すことがないというわけではないのです。きょうのところは目には見えにくい巧妙な電気通信回線経由の違法行為や不法行為もしっかりと取り締まらなければならないということをあえて指摘した上で強調しておくことにします。 ======================================= 「
「『実績』に」(2025/9/19)
「『言語』を使う」(2025/9/18)
「『ジェスチャー』などで…」(2025/9/17)
「『独裁』や『専制主義』に…」(2025/9/16)
「何でもできる?」(2025/9/15)
「『有罪』になる?」(2025/9/14)
「心配のない状況」(2025/9/13)
「反撃しても…」(2025/9/12)
「助けも来ない…」(2025/9/11)
「すぐにやめるか?」(2025/9/10)
「『軍拡』進む」(2025/9/9)
「許されるのか?」(2025/9/8)
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「取り戻せない」(2025/9/6)
「『無関心』なら…」(2025/9/5)
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「勝手に『王』に?」(2025/9/2)
「『王』は不要に!」(2025/9/1)
「なぜ『王』などに?」(2025/8/31)
「交代するのなら…」(2025/8/30)
「『特別』ならば…」(2025/8/29)
「『国難』は…」(2025/8/28)
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「押し付けるため?」(2025/8/25)
「見て見ぬふりを…」(2025/8/24)
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「『待遇』悪い?」(2025/8/21)
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「なぜ活用しない?」(2025/8/19)
「『正義』はないか?」(2025/8/18)
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「どう乗り越えたのか?」(2025/8/14)
「『風化』を防ぐ目的で…」(2025/8/13)
「無責任では?」(2025/8/12)
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「『住民投票』?」(2025/7/30)
「『世論調査』?」(2025/7/29)
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「マッチング?」(2025/7/17)
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「変わる?」(2025/7/5)
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「『有力者』」(2025/7/2)
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「『お固い』か?」(2025/6/27)
「気づかない!」(2025/6/26)
「『昭和』でも…」(2025/6/25)
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「『労働力』?」(2025/6/21)
「『共有』」(2025/6/20)
「『核兵器』」(2025/6/19)
「作れるのなら…」(2025/6/18)
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「変わっていない…」(2025/6/14)
「受け取れる?」(2025/6/13)
「どんなときでも?」(2025/6/12)
「『子どものケンカ』?」(2025/6/11)
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「『同年代』は『同一』か?」(2025/6/6)
「戦争で奪い返す?」(2025/6/5)
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「『嘘』を見破る?」(2025/6/2)
「『嘘』を見破る!」(2025/6/1)
「『売り切れ』にさせないために…」(2025/5/31)
「『バーゲンセール』?」(2025/5/30)
「売り出すならば…」(2025/5/29)
「世の中は…」(2025/5/28)
「『力』には…」(2025/5/27)
「2000円?」(2025/5/26)
「十分か?」(2025/5/25)
「『事実』なら…」(2025/5/24)
「『暴力』は…」(2025/5/23)
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「『幸せ』になりたい?」(2025/5/21)
「なぜ配らない?」(2025/5/20)
「目に見える『贈り物』だけ?」(2025/5/19)
「How much?」(2025/5/18)