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千葉潤 政治過程 行政書士事務所(東京都)/自由自律/公私の区分/自助・共助・公助/行政区画・区域の弊害是正/反・旧民主&共産勢力/反・消費税廃止勢力/反ポピュリズム/反カルト/母校は「故郷」/政治を「科学」にする/人間の安全保障/男女共同参画/老若男女生涯現役社会/仙台は元祖東北・新首都圏
「『何者』か になったという 人間が 困ったことを 次々起こす!」-。
きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「何者」という言葉が大好きな人たちが少なくないようです。「まだ何者でもなかった」とか「何者かになる」とか…。もちろん「何者」かになりたいなどと思うことは必ずしも悪いことではないのです。しかし、今現在の地球上には「何者かになったつもりになっている人間たち」や「何者かになりたい人間たち」によって様々な深刻な問題が引き起こされているのです。
あくまでも一般論ですが、もしもまだ「何者」でもない誰かがある日突然「大統領」や「内閣総理大臣」の「肩書」を手に入れることができたとしても、その「肩書」を手に入れた瞬間からすぐに「大統領」や「内閣総理大臣」としての仕事を十分にこなすことができるとは限らないのです。「肩書」があっても「大統領」や「内閣総理大臣」としての仕事ができるだけの十分な能力が備わっているとは限らないわけです。彼・彼女は指導者や経営者の「器」ではないなどという言い方をすることもあります。もちろん人間というものは「器」の大きさに合わせて成長するということもあるとは思います。しかし、それでもやはり、「肩書」を手に入れるということとその「肩書」にふさわしい能力を手に入れるということとは同じことではないのです。くどいようですが、もちろん今の時代は「画像生成AI」などを使えばどこの誰であったとしても画像上ではすぐに「何者」にでもなることができるのです。「ローマ教皇」であれ、「米国大統領」であれ、「有名アーティスト」であれ、「有名アスリート」であれ、誰でもすぐになりたいものになることができるわけですが、それはあくまでも画像上の話なのです。繰り返しになりますが、今現在の地球上には「何者かになったつもりになっている人間たち」や「何者かになりたい人間たち」によって様々な深刻な問題が引き起こされているのです。「何者かになったつもりになっている人間たち」や「何者かになりたい人間たち」には「何者」にふさわしい能力があるのでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「100%の関税」を課せば「大統領にふさわしい能力を持った人物」しか「大統領」の「肩書」を手に入れることができなくなるのならば、「100%の関税」も人類共通の利益を守るための有力な選択肢の1つにはなるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 (twitter:http://twitter.com/jchiba_net
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「『何者』か になったらしい 人間は 『肩書』だけで 『中身』はないか?」-。
きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「何者」という言葉が大好きな人たちが少なくないようです。「まだ何者でもなかった」とか「何者かになる」とか…。もちろん「何者」かになりたいなどと思うことは必ずしも悪いことではないのです。しかし、今現在の地球上には「何者かになったつもりになっている人間たち」や「何者かになりたい人間たち」によって様々な深刻な問題が引き起こされているのです。
あくまでも一般論ですが、「『何者』かの肩書」を手に入れて「自分が『何者』かになったような気になっている人間たち」は本当にその「『何者』かの肩書」にふさわしいだけの実力を兼ね備えているのでしょうか? もしかすると「『何者』かの肩書」だけがあって実際の「中身」はほとんど何もなくて「空っぽ」に近い状態なのでしょうか? 例えば、「MV(→ミュージックビデオ)の再生回数が何億回」であったとしても、有名なヒットチャートなどで「何週連続1位」になったとしても、あるいは、「記録的な観客動員数」になったとしても、どこかの国やその時代を代表するアーティストであるなどと本当に言うことができるのでしょうか? いくら「有名アーディスト」などの「肩書」があってもそれで自分たちの楽曲やパフォーマンスなどでどこかの国やその時代の多くの人たちをどれほど長くどれほど深く感動させ続けることができるのかは定かではないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、もちろん「画像生成AI」などを使えばどこの誰であったとしても画像上ではすぐに「何者」にでもなることができるのです。「ローマ教皇」であれ、「米国大統領」であれ、「有名アーティスト」であれ、「有名アスリート」であれ、誰でもすぐになりたいものになることができるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「今はまだ 『何者か』にも なってない? 何をするため 『何者』になる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「何者」という言葉が大好きな人たちが少なくないようです。「まだ何者でもなかった」とか「何者かになる」とか…。もちろん「何者」かになりたいなどと思うことは必ずしも悪いことではないのです。しかし、今現在の地球上には「何者かになったつもりになっている人間たち」や「何者かになりたい人間たち」によって様々な深刻な問題が引き起こされているのです。 もちろん将来のある若い人たちがいつかは自分自身の「夢」を実現したいと望みながら「今はまだ何者でもない」とか「何者かになりたい」などと言っているのは悪いことではないと思います。むしろ将来のある若い人たちがそんなことを言うのはとても素敵なことではないかと思います。しかし、それでもやはり、そもそも自分が「何者」かになって何をしたいのかということもよく分かっていない人間たちの言っている「『何者』かになる」という言葉ほど「欲にまみれた醜い言葉」はなかなか存在しないのではないかと思います。もしも「『何者』かの肩書」を手に入れること以外には特にやりたいことがないという人間たちがあまりにも多くなれば、社会の中には何かの「偽者」ばかりがあふれてしまうことになってしまいます。もちろん「画像生成AI」などを使えばどこの誰であったとしても画像上ではすぐに「何者」にでもなることができるのです。「ローマ教皇」であれ、「米国大統領」であれ、「有名アーティスト」であれ、「有名アスリート」であれ、誰でもすぐに画像上ではなりたい「偽者」になることができるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『客』見れば その『店』のこと よく分かる? 『ファン』や『支持者』は 『鏡』になるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。相変わらず地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせる出来事が発生しています。しかし、そもそも多くの人たちを騒がせていることは本当に「事実」なのでしょうか? 地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせている出来事が「事実」とは無関係に独り歩きをしているようですが…。 あくまでも一般論ですが、もしもどこかの「店」のことを良く知りたいと思ったらその「店」にやって来る「客」を見るといいなどと言われることがあります。確かにその「店」の「常連客の顔ぶれ」にはその「店」の特徴がよく表れているのだろうと思います。そして同じように考えるのならば、タレントやアーティストなどの「ファン」はある意味でそのタレントやアーティストなどの「鏡」になっているのかもしれないと思います。また政党や候補者などの「支持者」はある意味でその政党や候補者などの「鏡」になっているのかもしれないということに気づくのではないかと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「ビフじいさんのような人」が「店主」を務める「店」には「ビフじいさんのような人に似ている人たち」や「ビフじいさんのような人の言うことをすべて信じる人たち」ばかりが集まってくるのならば、都合の悪いことはすべて前任者のせいで自分は成果だけを次々と上げているなどという「神話」が独り歩きしても少しも不思議ではないわけですが…。しかし、それでもやはり、一部の熱狂的な支持者たちが信じ込んでいる「神話」は「事実」ではないのです。何にしても最近は地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせている出来事が「事実」とは無関係に独り歩きをしているようです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『不倫』なら どんな『証拠』が 必要か? 『証拠』ないまま 既成事実化?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。相変わらず地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせる出来事が発生しています。しかし、そもそも多くの人たちを騒がせていることは本当に「事実」なのでしょうか? 地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせている出来事が「事実」とは無関係に独り歩きをしているようですが…。 あくまでも仮定の話ですが、もしもどこかの誰かと誰かに「不倫」の疑惑があるということを示そうと思うのならば、いったいどんな「証拠」が必要になるのでしょうか? 本当に誰かと誰かのいわゆる「ツー・ショット画像」があればいいのでしょうか? もちろん「少なくともどちらか一方が別の誰かと結婚している2人」のキスシーンなどのような決定的な「ツー・ショット画像」があれば「不倫」の疑惑を示すことができるのだろうと思います。しかし、もしも親しい友人関係ならそれほど珍しくない種類の「ツー・ショット画像」しか存在しない場合には、恋人や配偶者でもない第三者が「不倫」の疑惑を主張するのにはかなり無理があるはずなのです。例えば、もしも「ツー・ショット画像」が「少なくともどちらか一方が別の誰かと結婚している2人」が「不倫」を強く疑わせる「ホテル」などの特別な場所に入っていくようなものであるのならば、その「ツー・ショット画像」があれば「不倫疑惑」の「証拠」として示すことはできるのだろうと思います。あるいは、もしも「少なくともどちらか一方が別の誰かと結婚している2人」が毎日のように自宅ではない同じ場所に入っていくことを示す一連の「ツー・ショット画像」があるのならば、その場合にも「不倫疑惑」の「証拠」として示すことができるのかもしれないと思います。しかし、もしも「少なくともどちらか一方が別の誰かと結婚している2人」が「不倫」をすることも不可能ではないが「不倫」ではない別の何かをしている可能性も高い場所に入っていくような「ツー・ショット画像」である場合には、どんなに少なくとも「不倫疑惑」を示す決定的な「証拠」にはならないわけです。さらに言えば、もしも一緒に入っていったその場所に実は友人や家族などが既にいた場合には「不倫疑惑」は自然に解消する可能性が高いわけですが…。いずれにしても地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせている出来事が「事実」とは無関係に独り歩きをしているようです。繰り返しになりますが、もしもどこかの誰かと誰かに「不倫」の疑惑があるということを示そうと思うのならば、いったいどんな「証拠」が必要になるのでしょうか? 「不倫」や「不倫疑惑」を示す「証拠」が実は存在しないのにもかかわらず、どういうわけか「不倫」や「不倫疑惑」が既成事実化してしまうのはとてもおかしな話です。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『密会』か? その『目的』は 何なのか? 実は『誰か』も 一緒にいたか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。相変わらず地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせる出来事が発生しています。しかし、そもそも多くの人たちを騒がせていることは本当に「事実」なのでしょうか? 地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせている出来事が「事実」とは無関係に独り歩きをしているようですが…。 あくまでも仮定の話ですが、もしも「密会」が実際に行われたということを示そうとする場合にはいったい何が必要になるのでしょうか? いわゆる「ツー・ショット画像」のようなものが存在すれば2人が会っていたことを示すことはできるのだろうと思います。それでは、もしも「密会」が行われたことが事実であったとしても、その「目的」はいったい何なのでしょうか? いわゆる「ツー・ショット画像」だけでは2人の「密会」の「目的」が分からないことも少なくないのです。さらに言えば、もしかすると2人が「密会」した場所にいたのは2人だけではないのでしょうか? その場所に実は他の誰かも一緒にいたのでしょうか? 例えば、もしもどこかの「非常に厳かな広い空間」の中で不自然なほど近づけられて置かれた2つのイスに座った「大柄の男」と「小柄な男」が顔を寄せ合って見つめ合っていたとしたら…、本当にそれだけで「不倫疑惑」などが浮上することになるのでしょうか? さすがにそんなことはないはずです。ちなみに「非常に厳かな広い空間」の中には「大柄の男」と「小柄な男」の間の仲介役を務めたとみられる2人以外にもたくさんの人たちがいたわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「米国の 『ヒト』『モノ』『カネ』が 実際に ウクライナには どれだけ入る?」-。 ウクライナと米国が4/30(日本時間5/1)にウクライナ国内の鉱物資源開発に関する協定に署名しました(→ウクライナと米国がそれぞれ50%ずつを出資して共同で運営する「復興投資基金」を設立してウクライナ国内の鉱物資源・石油・ガスの採掘や関連するインフラなどに投資するなどという内容だと伝えられている。またウクライナの領土や領海にあるすべての資源の所有権はウクライナにあるということも確認したという。ちなみに鉱物資源開発に関する協定は米国のトランプ大統領らとウクライナのゼレンスキー大統領が2/28にホワイトハウスで激しく口論したときに署名される予定だったが、それから合意・署名が先延ばしになっていた(→参考:2025/2/25付、2025/3/3付etc.))。 率直に言わせてもらうのならば、米国からどれだけの「ヒト」「モノ」「カネ」が実際にウクライナに入ってくることになるのかによってこの「協定」の価値や意味が大きく変わってくると考えています。繰り返しになりますが(→参考:2025/2/25付etc.)、例えば、もしも「協定」によって米国から「カネ」だけではなく、実際に多くの米国人がウクライナの各地に居住して米国の「動産」がウクライナの各地に大量に持ち込まれることになるのならば、世界最大規模の軍事大国である米国は、中長期的なウクライナの「安全の保証」に大きな関心を持って関与せざるを得なくなるのです。言い換えれば、米国の大統領がウクライナに対する攻撃を米国と米国民に対する攻撃とみなすことも十分にできる状況になるわけです。ロシアによる侵略が続くウクライナに実際に米国から「ヒト」「モノ」「カネ」がどれだけ入ってくることになるのでしょうか? もしも米国から多くの「ヒト」「モノ」「カネ」が実際にウクライナに入ってきた場合には、少なくともロシア側はウクライナのインフラや民間施設に対する攻撃を行うことがかなり難しくなってくると思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『弱者』でも 『強者』に勝てる 『選択肢』! 『国連』なども 『スイミー』になる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」はそう遠くないうちに少しは変わることができるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 「ビフじいさんのような人」に振り回されている国際社会はこのまま「弱肉強食」の世界に向かっていくのでしょうか? やはり「弱者」は「強者」に勝つことはできないのでしょうか? 「弱者」でも「強者」に勝つことができるような「選択肢」をつくり出すことは本当にできないのでしょうか? 例えば、共通の目的のために「小さな国」がたくさん集まって協力して一緒に行動することができるのならば、まるで「1つの大きな国」のようになることができる…。ちなみに日本では一部の小学2年生の国語の教科書に長年掲載されていたこともあって「スイミー (レオ・レオニ(Leo Lionni)著、谷川俊太郎訳)」の話を知っているという人たちは今でも少なくないと思います。小さな魚たちが集まって協力して一緒に泳いで大きな魚のようになれば…。例えば、もしも「スイミー」のような話を、大きな国も小さな国も強い国も弱い国も一緒になっている今現在とこれからの国際社会の中で実現することができるのならば、「弱者」でも「強者」に勝つことができて「弱肉強食」ではない国際社会をつくることができるのではないかと考えているのです。そして「国際連合」のようなものが「弱者」でも「強者」に勝つことができる「選択肢」の1つになるのではないかと考えています。今現在の「国際連合」を努力してなんとか育てていくことができればやがて「スイミー」のようなものにすることができるのでしょうか? それとも今現在の「国際連合」とは別の完全に新しい国際的な組織をつくっていかなければ国際社会は「弱肉強食」の世界になってしまうのでしょうか? きょうのところはあえてそのような疑問を投げかけるだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『弱者』でも 負けないために どうするか? 『強者』もただで 済まないならば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」はそう遠くないうちに少しは変わることができるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 あくまでも一般論ですが、「弱者」は「強者」に負けてすべてを奪われてしまうようなことを避けることはできるのでしょうか? たとえ「弱者」であっても「強者」に負けないようにすることはできるのでしょうか? 例えば、もしも「強者」が「弱者」を打ち負かして何かを奪い取ろうと思ったとしても、実際に奪い取ろうとしたり奪い取ったりしたときにはほぼ確実に「強者」もただで済まされないという何らかの事情があるのならば、「強者」も思いとどまる可能性が高まるのではないかと思います。ほとんどの自由で民主的な社会においては、「強盗」などは警察などによって逮捕されてほぼ確実に処罰されることになるはずです。それでも「強盗」などは完全にはなくならないわけですが…。さらに言えば、もしも「強盗」などに襲い掛かられた場合であっても「強力な護身用の武器」を持っていれば自力で「強盗」に反撃して被害を避けることもできるのだろうと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、国際社会には自由で民主的な社会の警察などと同じような役割を果たすことができる「実力組織」は存在しないのです。さらに言えば、国際社会の場合には「軍事大国」の侵略から自分たちの国を守るための「強力な護身用の武器」として思い浮かべることができるのは実際に使用した場合には地球上のすべての人たちに甚大な被害を与える危険性が非常に高いものぐらいしかないわけです。あえて率直に言わせてもらうのならば、もしも国際社会が「弱肉強食」の世界になっていくのならば、核兵器を開発して保有しようと試みる「弱小国」がどんどん増える危険性が高まることになります。さらに言わせてもらうのならば、もしも核兵器を保有しようとする「弱小国」が増える危険性が高まるのならば、「核兵器を保有する潜在的な能力を持っている国」も自国を守るために核兵器の保有を真剣に検討せざるを得ない状況になってしまうのです。このまま本当に国際社会を「弱肉強食」の世界にしてもいいのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「もしかして 『グリーンランド』や 『運河』など 奪い取ったら 認めてほしい?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」はそう遠くないうちに少しは変わることができるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 あくまでも一部報道によればという話ですが、米国側が、ロシアが侵略して占領しているウクライナの領土の実効支配を認めたりクリミアの領有権について法的に承認したりする内容の和平案を示しているなどと伝えられています。国際社会では「フェイクニュース」ではないかと思わず自分の耳を疑ってしまったという人たちも少なくなかったのではないかと思います。もしもこれが事実であるとしたら、あまりにも愚かな提案だと言わざるを得ないのです。もしも「ある大国」が隣国を侵略してその領土を奪い取ったときに「別の大国」がそれを承認するなどということになるのならば、それは大昔に「列強」が次々と「植民地」をつくっていったときと実質的に同じような状態になってしまうはずです。「ある大国」が「弱者」から何かを奪い取るのを「別の大国」が黙認したり承認したりし、逆に「別の大国」が「弱者」から何かを奪い取るのを「ある大国」が黙認したり承認したりする…。想像力が非常に豊かな人たちは、もしかすると自分たちが「グリーンランド」や「パナマ運河」などを奪い取ったときに認めてほしいからそんな愚かなことを言い出したのではないかなどと想像しているのかもしれないと思います。その上で、念のために確認しておきますが、仮に「大国」に奪い取られた自国の領土を軍事力で取り戻すことが不可能だったとしても、だからと言って本当に諦めなければならないのでしょうか? もしも「強者」が奪い取ると「弱者」が諦めてしまうのならば、「強者」はますます遠慮なく「弱者」から領土を含めた様々なものを奪い取っていくことになるのだろうと思います。あえて言い換えれば、「強者」が奪い取ると「弱者」が諦めたり「他の強者」がそれを認めたりするということは、今現在の国際社会を「弱肉強食」の世界にすることを意味することになるはずなのです。国際社会を「弱肉強食」の世界にしたら最終的にどのような結末を迎えることになるのかということは人類の歴史を少し振り返ってみるだけでもすぐに想像することができるはずですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「有権者! 『カネ』が欲しいか? そらやるぞ! みんなで仲良く 食べに来い?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」のことを本気で理解したいと思うのならば、いったい何が必要になるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 率直に言わせてもらうのならば、「ビフじいさんのような人」が大好きな人間たちの中には目先の「カネ」が大好きな人間たちが非常に多いのではないかと思います。減税、雇用対策、物価高対策などなど…。まずは「ビフじいさんのような人」を支持している人間たちの中に目先の「カネ」が大好きな人間たちがどれだけ多くいるのかを確認してみる必要がありそうです。もちろん「カネ」が大好きな人間たちは地球上のほとんどの場所でも珍しくないと思います。そして実際に地球上の多くの場所の有権者にも減税や雇用対策や物価高対策などという目に見えやすい目先の「カネ」の話はとても魅力的なものになるのだろうと思います。しかし、残念ながら、目に見えやすい「減税」「雇用対策」「物価高対策」などを行った場合に見えないところでどのような悪影響があるのかということを真剣に考えてみることができる人間たちはそれほど多くはないのです。彼・彼女たちの関心は「今」「ここ」「自分」だけと言ってもいいのです。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、選挙で当選したい人間たちは有権者に目先の「カネ」をばらまこうとし、目先の「カネ」に目がない有権者がそれに群がるという「醜い光景」が地球上のあちこちで見られることになるのだろうと思います。まるで目先の「カネ」が欲しいのなら「みんなで仲良く食べに来い」などと言っているかのようですが…。さらに言えば、もしも地球上のあちこちにそうした目先の「カネ」に群がる有権者が多くいるのならば、地球上のあちこちに「ビフじいさんのような人」が新たに出現する危険性も小さくないということになってしまうわけです。「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『ライバル』が 『白』と言ったら 『黒』と言い 『左』に行けば 大きく『右』に?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」のことを本気で理解したいと思うのならば、いったい何が必要になるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 あくまでも一般論ですが、どうも「ビフじいさんのような人」は「前任者」や「ライバル」とは「正反対」のことを行う傾向があるようです。「前任者」や「ライバル」が「白」と言っていたのならば、自分は「黒」と言い、「前任者」や「ライバル」が「左」に進んでいたのならば、自分は大きく「右」に旋回する…。しかし、「前任者」や「ライバル」の「正反対」のことをしていれば本当に「正解」になるのでしょうか? 言い換えれば、本当に「前任者」や「ライバル」はすべて間違っていたのでしょうか? 残念ながら世の中はそれほど単純にはできていないはずなのです。どんなに少なくとも「白」の「反対」は「黒」、「左」の「反対」が「右」などというレベルでしか物事を判断することができない人間たちに「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などということを実現することを期待することはできないのです。その上で、さらに言わせてもらうのならば、そもそも本当に「白」の「反対」は「黒」なのでしょうか? そもそも本当に「左」の「反対」は「右」なのでしょうか? そもそも「反対」とか「正反対」とか「逆」とはいったいどういうことなのでしょうか? いずれにしても世の中は誰の目にも分かりやすく単純にはできていないということなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「もしかして 『かまってちゃん』と いうことか? 人騒がせな 困った人は…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」のことを本気で理解したいと思うのならば、いったい何が必要になるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 ちなみにどこかの国で一昔前によく使われていた「かまってちゃん」などという言葉はまだ「死語」にはなっていないのでしょうか? 支持者などからチヤホヤされたくて人騒がせな困った言動を繰り返すとか…。もしかすると「ビフじいさんのような人」は「タリフマン」というよりもいわゆる「かまってちゃん」なのかもしれないと思うことがあります。もしも「ビフじいさんのような人」が本物の「タリフマン」などであったのならば、きっと「関税」をもう少し思慮深く課したのではないかと思いますし、ひとたび発動した「関税」措置をすぐに撤回するなどということもおそらくなかったのではないかと思います。そのように考えるのならば、世界中を大混乱に陥れている人騒がせな困った人である「ビフじいさんのような人」は「タリフマン」ではなく「かまってちゃん」ということになるのではないかと思います。もしも「ビフじいさんのような人」がいわゆる「かまってちゃん」であるのならば、いったいどのように対応するべきなのでしょうか? 本当にいわゆる「かまってちゃん」の人騒がせな困った言動にいちいち反応しなくてはならないのでしょうか? もちろん「かまってちゃん」の言動を完全に無視してはならないのだろうと思います。もしも「かまってちゃん」の言動を完全に無視すれば、相手にされるまで困った言動を「エスカレート」させる危険性が高まるかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、いわゆる「かまってちゃん」の人騒がせな困った言動のすべてに反応しなければならないということにはならないはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『クリミア』を 諦めたなら 『ニューヨーク』 『フロリダ』などを 代わりにくれる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」のことを本気で理解したいと思うのならば、いったい何が必要になるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 あくまでも一般論ですが、もしもロシアよりもウクライナを説得することの方が難しいということが事実であるのならば、それは、客観的に見れば、「提案」がロシアには受け入れやすくてもウクライナにはとても受け入れられるような内容ではないということを意味しているにすぎないのではないかと思います。別の言い方をすれば、もしもどこかに問題や責任があるということになるのならば、そうした「提案」の内容やそうした「提案」をした人間たちに問題や責任があるということになるのです。さらに言えば、もしも「カード」を持たない側が黙っていなければならないのだとしたら、少しも黙っていない「ビフじいさんのような人」はいったいどんな素晴らしい「カード」を持っているのでしょうか? 例えば、もしも「クリミア」を諦めるのならば、その代わりに「ニューヨーク」や「フロリダ」を与えるなどという「カード」があったのならば、もしかすると交渉は急展開を見せる可能性があったのかもしれないと思います。繰り返しになりますが、「ビフじいさんのような人」はいったいどんな素晴らしい「カード」を持っているのでしょうか? その上で、あくまでも念のために確認しておきますが、「グリーンランド」や「カナダ」は「クリミア」などを諦めさせるための「カード」としては使うことができないはずなのです。いずれにしても「ビフじいさんのような人」には「支援」を一方的に引き上げて「契約書」には書かれていない「血」を「一滴」でも流すようなことは許されていないはずなのです(→参考:2025/3/19付etc.)。きょうのところはあえてそのことを繰り返し強調しておくことにしておきます。 ======================================= 「選ぶなら 『大きなピザ』を 選ぶのか? 『小さなピザ』で 構わないのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」と話をしなければならなくなったとしたら、いったいどんな話をするのでしょうか? やはり「ビフじいさんのような人」が喜んでご機嫌が良くなるような話だけをするのでしょうか? そしてその場しのぎの「ディール」や「ビジネス」の話をすることになるのでしょうか? もしも私が「ビフじいさんのような人」と話をしなければならなくなったとしたら、まずは「大きなピザ」と「小さなピザ」の話をしてみることになるかもしれないなどと想像しています。ちなみに「ビフじいさんのような人」は「ピザ」は好きなのでしょうか? もしも「ビフじいさんのような人」に「ピザ」の話をしたら興味を持つことになるのでしょうか? もしも「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を実現して再び「偉大な国」にすることができたとしても、そもそも「世界」が以前よりもはるかに小さなものになってしまっている場合には、その「はるかに小さくなった世界」の中で「偉大な国」になったとしてもそれは以前と比べればはるかに大きく見劣りした「偉大な国」にすぎないのです。あえて「ピザ」で説明するのならば、かつては「大きなピザ」の中の「大きな一切れ」であった「偉大な国」が、いくら「ずっと小さくなったピザの大部分」を力づくで奪い取ったとしても再び「偉大な国」になったなどとはとても言えないのです。もしも「ピザ」を今現在よりもはるかに大きなものにすることができるのならば、たとえ「同じ割合のままの一切れ」であったとしても「一切れ当たりの量」ははるかに大きくなるのです。逆に、もしも今現在よりも「はるかに小さなピザ」になってしまったら、「はるかに小さなピザ」をまるごと奪い取ったとしても以前よりもずっと少ない量にしかならないかもしれないのです。「ビフじいさんのような人」は「大きなピザ」と「小さなピザ」のどちらを好むのでしょうか? 「タリフマン」が大活躍して「関税」をかければかけるほど「世界」という「ピザ」はどんどん小さくなっていくということに本当に気づいていないのでしょうか? 繰り返しになりますが、「ビフじいさんのような人」は「大きなピザ」と「小さなピザ」のどちらを好むのでしょうか? きょうもあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「本当に その場しのぎの 『ディール』など する意味はある? 賢明でない!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」と話をしなければならなくなったとしたら、いったいどんな話をするのでしょうか? やはり「ビフじいさんのような人」が喜んでご機嫌が良くなるような話だけをするのでしょうか? そしてその場しのぎの「ディール」や「ビジネス」の話をすることになるのでしょうか? もしも私が「ビフじいさんのような人」と話をしなければならなくなったとしても、その場しのぎの「ディール」や「ビジネス」の話だけは絶対にしないだろうと想像しています。率直に言わせてもらうのならば、いくら「ビフじいさんのような人」との間で「ディール」や「ビジネス」を成功させることができたとしても、結果的にどちらとも期待したような利益を得ることができない危険性がかなり高くなるのです。たとえ「どこかの国」が「最優先」で「ビフじいさんのような人」との間で「ディール」や「ビジネス」を成立させることができたとしても、「国際社会のその他の多くの国々」が「ディール」や「ビジネス」を成立させることができないままであるのならば、その悪影響は様々な形で「かつて偉大だった国」と「どこかの国」にも及ぶのです。「かつて偉大だった国」も「どこかの国」も「国際社会のその他の多くの国々」と活発に経済的な取引をしているわけですから、「国際社会のその他の多くの国々」の経済の低迷の悪影響を受けることになるはずなのです。あえて言い換えるのならば、たとえ「どこかの国」がその場しのぎの「ディール」や「ビジネス」を成立させて「関税」を元通りにすることができたとしても、「かつて偉大だった国」の経済が低迷しているのならば輸出や売り上げが元通りにはない危険性が高いのです。そしていくら「かつて偉大だった国」が「非関税障壁なるもの」を撤廃させたとしても、「どこかの国」の経済が低迷していたら輸出が少しも増えなかったとしても不思議なことではないのです。その場しのぎの「ディール」や「ビジネス」を成立させて「関税」を元通りにしたり「非関税障壁なるもの」を撤廃したりする意味は本当にあるのでしょうか? どんなに少なくとも「ビフじいさんのような人」が喜んでご機嫌が良くなるような話だけをしたりその場しのぎの「ディール」や「ビジネス」の話だけをしたりすることは賢明ではないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「ご機嫌を 損ねぬような 話だけ? どんな話を するべきなのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」と話をしなければならなくなったとしたら、いったいどんな話をするのでしょうか? やはり「ビフじいさんのような人」が喜んでご機嫌が良くなるような話だけをするのでしょうか? そしてその場しのぎの「ディール」や「ビジネス」の話をすることになるのでしょうか? あくまでも一般論ですが、もしも「ビフじいさんのような人」に向かって「説教みたいな話」をしてしまったのならば、最悪の場合には、テレビカメラの前で口論をするような「非常に見苦しい状況」になってしまうのだろうと想像することができます。それでは「ビフじいさんのような人」には絶対に「説教みたいな話」をしてはいけないのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」のご機嫌を損ねないような話だけをするべきなのでしょうか? もちろん「説教みたいな話」を避けることができるのならばそれは避けた方がいいのだろうと思います。しかし、どうしても「説教みたいな話」をしなければならないこともあるのだろうと思います。もしも「説教みたいな話」をしても相手にそれを「説教みたいな話」だと思わせないで済ますことができるのならば、「非常に見苦しい状況」に陥ることだけは避けることができるのだろうと思います。相手には「説教みたいな話」には聞こえない「説教みたいな話」とはいったいどのような話なのでしょうか? もしも相手を少しも否定することなく相手に自分から考えを改めさせることができるのならば…。例えば、「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)よりももっともっとずっと良い話がある、もっともっとずっと「偉大な国」になることができる話がある、などということにどうしたら聞く耳を持ってもらうことができるのか…。どんなに少なくても世界経済が壊滅的な打撃を受ける前にはなんとかしなければならないと強く思っている人たちは地球上にたくさんいると思いますが、きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『文革』や 『マッカーシズム』 再現か? 『MAGA』を掲げて 叫ぶ民衆…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。米国は本当に再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? 地球上には、「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆を見ていると、数十年前に数年間続いたいくつかの歴史的な事件を思い出してしまうという人たちもまだ残っているのではないかと思いますが…。国際社会が「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定による悪影響から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要になるのでしょうか? くどいようですが、米国は本当に再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? そもそも「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆の思い描いている「偉大な国」とはいったいどのような国なのでしょうか? ちなみに「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる彼・彼女たちは、例えば、「文化大革命(→「文革」)」「紅衛兵」などという言葉をこれまでに見聞きしたことは一度もないのでしょうか? もしかすると「赤狩り」「マッカーシズム」などという言葉でさえも見聞きしたことがないのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、「多数派」が暴力を含めた様々な「力」を使って自分たちの一方的な価値観を押し付けようとする動きは、本当の意味での「自由」や「民主主義」とは相容れないもののはずなのです。これから米国はいったいどのような国になっていくのでしょうか? 「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆は本当に米国を再び「偉大な国」にすることができるのでしょうか? もしかしたら「文化大革命(→「文革」)」「紅衛兵」「赤狩り」「マッカーシズム」などが再現されることになってしまうのでしょうか? いずれにしても「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などというものが人類全体の長い歴史の中でどのような意味を持っていたなどと判断することになるのは後世の歴史研究者などになるわけです。何度も繰り返していますが、もしかするとそう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などをホワイトハウスなどに送り付けるような平和的な抗議運動も地球上のあちこちで活発になってくるのかもしれないと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「米国は 『知性』を捨てて 本当に 『偉大な国』に なっていけるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。米国は本当に再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? 地球上には、「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆を見ていると、数十年前に数年間続いたいくつかの歴史的な事件を思い出してしまうという人たちもまだ残っているのではないかと思いますが…。国際社会が「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定による悪影響から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要になるのでしょうか? 繰り返しになりますが、米国は本当に再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? そもそも「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆の思い描いている「偉大な国」とはいったいどのような国なのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、彼・彼女たちの思い描く「偉大な国」にはいったいどのくらいの「知性」が残されているのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、本物の「知性」というものは、「カネ」の力を使えば簡単に手に入れたり身につけたりすることができるものではないはずなのです。また本物の「知性」というものは、「カネ」の力を使えば簡単に捻じ曲げることができるという性質のものでもないはずなのです。しかし、それでもやはり、「個人単位」ではなく「国家単位」で見るのならば、「カネ」がないところからは「知性」が逃げ出し、「カネ」があるところに「知性」 が集まってくる傾向があるのです。また「個人単位」ではなく「国家単位」で見るのならば、「カネ」の力を使って「知性」の「方向性」を比較的簡単に捻じ曲げることができるのです。例えば、もしも米国の「仮想敵国」である専制主義国家や独裁国家が破格の待遇を提示して世界中から優秀な研究者を集め、軍事技術を飛躍的に向上させることができる特定分野の研究に莫大な研究費を投入しているのにもかかわらず、米国が研究者の人件費や研究費を次々と削減し続けても再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? あえて言い換えれば、米国は「知性」を捨てても本当に「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? 再び「偉大な国」になることができたとしてもできなかったとしても「戦争」という現実の世界では「仮想敵国」によって木っ端みじんに打ち砕かれてしまう危険性が極めて高くなるはずなのです。もしかするとそう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などをホワイトハウスなどに送り付けるような平和的な抗議運動も地球上のあちこちで活発になってくるのかもしれないと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「米国は ますます『自由』 失って 『偉大な国』に なっていくのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。米国は本当に再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? 地球上には、「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆を見ていると、数十年前に数年間続いたいくつかの歴史的な事件を思い出してしまうという人たちもまだ残っているのではないかと思いますが…。国際社会が「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定による悪影響から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要になるのでしょうか? 米国は本当に再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? そして米国が再び「偉大な国」になるためには本当に「自由」を失っていく必要があるのでしょうか? 今現在の米国は本当に自由な国なのでしょうか? 少なくとも今現在の米国は最近の20-30年間の中では最も「自由」や「寛容さ」を失っているように見えます。かつて偉大だった時代の米国は「自由の代名詞」のような国だった記憶が残っているのですが…。そもそも「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆の思い描いている「偉大な国」とはいったいどのような国なのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、彼・彼女たちの思い描く「偉大な国」とは、米国の「仮想敵国」にもなっている専制主義国家や独裁国家、あるいは、かつての全体主義国家のような国なのでしょうか? 「自由」を失っていけばその行き着く先は専制主義国家や独裁国家や全体主義国家になってしまうのです。これから米国がますます「自由」を失っていくことによって本当に「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などをホワイトハウスなどに送り付けるような平和的な抗議運動も地球上のあちこちで活発になってくるのかもしれないと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「遅すぎる! 『最優先』で このペース? 先行き不安 いつまで続く?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。相変わらず米国のトランプ大統領が一方的に導入した世界のすべての国・地域を対象にした「相互関税」などのいわゆる「トランプ関税」の波紋が広がっています(→参考:2025/4/8付)。 日本とは「最優先」で交渉を進めるなどという考えを示していたトランプ大統領は4/17(日本時間)にワシントンに派遣された日本側の担当者と面会したなどと伝えられています。それにしても「最優先」とはいったいどういうことなのでしょうか? 例えば、もしも「ディール」が「不動産」などの売買契約の交渉であるのならば、相手側から「最優先」で交渉を進めるなどと言われた場合には実際に「不動産」を購入することができる可能性がかなり高くなるのだろうと思います。しかし、いわゆる「トランプ関税」は「不動産」などではないはずなのです。地球上の多くの人たちは「最優先」とはいったいどういうことを意味しているのか理解することができないのではないかと思います。「最優先」ではなく「最優遇」ならばまだ話は分かるのですが…。もしかすると日本側との交渉の予定を「最優先」で設定するということなのでしょうか? それにもかかわらず…。米側はこの90日間でディールを成立させたい? 次の閣僚級の会談を4月中に行う? 「最優先」でこんなに遅いペースで進めるつもりなのでしょうか? 本当に首脳級の協議や会談はあるのでしょうか? そもそも最終的な結論はいったいいつ出るのでしょうか? 「最優先」なのに遅すぎると感じている人たちも少なくなかったのではないかと思います。再びホワイトハウス発で世界経済が大混乱するリスクはどの程度残っているのでしょうか? 世界経済の先行き不安な状態はいつまで続くのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『我が国』や 『極東』守る ためなのか? 米国のため? 『戦略』のため?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近の国際社会は「タリフマン」が大安売りしている「関税」のために混乱が続いています。様々な基本的なことを理解することができていない「ビフじいさんのような人」がこれ以上おかしなことを言ったりやったりして国際社会を破滅的な状況に陥れないようにするためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? とりあえずしばらくの間はこちらの方からも「ビフじいさんのような人」にいくつか「ボール」を投げ続けてみたらいいのではないかと思いますが…。 どうやら最近は「同盟」にも「ディール」という発想が持ち込まれているようです(→参考:2025/3/12付etc.)。そもそも「かつて偉大だった国」の軍隊はなぜ「ある国」に駐留しているのでしょうか? 「ある国」を守るためでしょうか? あるいは「極東」を守るためでしょうか? それとも「かつて偉大だった国」の国益を追求する「戦略」などのためなのでしょうか? もちろん「条約」にはその目的が明確に書かれているわけです。そして「ある国」の安全のために必要不可欠な経費については「ある国」が応分の負担をするべきなのは言うまでもないことです。しかし、「極東」の安全のために必要不可欠な経費については、「かつて偉大だった国」の負担を「ある国」だけが肩代わりしなければならないということには決してならないはずなのです。「極東」の安全のために必要不可欠な経費については、その他の「極東」地域に存在する「かつて偉大だった国とその同盟国の軍事力」を合わせて議論しなければならないはずなのです。その上で、あえて付け加えるのならば、「かつて偉大だった国」の軍隊が「極東」の安全のためにも「ある国」に駐留することが認められているからこそ「かつて偉大だった国」は「極東」の安全のために必要な経費を大幅に節約することができているということにも注意が必要になります。さらに言えば、もしも「ある国」に駐留する「かつて偉大だった国」の軍隊がどこかの「覇権主義的な専制国家」との「覇権争い」のような国益を追求する「戦略」などのためにも「流用」されているのならば、そうした「かつて偉大だった国」の国益などを追求するために必要な経費の部分については「ある国」には一切負担する義務はないはずなのです。繰り返しになりますが、そもそも米軍はいったい何のために日本国内に駐留しているのでしょうか? もしもどうしても「ディール」を行いたいというのならば、まずは同盟関係の根幹部分を再確認した上で「ディール」を始めるべきなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『米国』を 守るためには 『基地』がいる! 大都市部にも 必要になる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近の国際社会は「タリフマン」が大安売りしている「関税」のために混乱が続いています。様々な基本的なことすらも十分に理解することができていない「ビフじいさんのような人」がこれ以上おかしなことを言ったりやったりして国際社会を破滅的な状況に陥れないようにするためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? とりあえずしばらくの間はこちらの方からも「ビフじいさんのような人」にいくつか「ボール」を投げ続けてみたらいいのではないかと思いますが…。 例えば、「ビフじいさんのような人」が「かつて偉大だった国」は「どこかの国」が軍事攻撃されたら「どこかの国」を守ることになっているのにもかかわらず、「どこかの国」の方は「かつて偉大だった国」が軍事攻撃された場合であっても「かつて偉大だった国」を守らなくてもいいというのは「不公平」などと主張しているのならば、それなら「かつて偉大だった国」も「どこかの国」のために「基地を提供してもらいたい」などと主張した上で「ディール」を行うべきなのだろうと思います(→参考:2025/3/12付)。もしも「どこかの国」が軍事攻撃されたときには「かつて偉大だった国」が「どこかの国」と共に戦い、逆に「かつて偉大だった国」が軍事攻撃されたときも「どこかの国」が「かつて偉大だった国」と共に戦うというような「相互防衛的な同盟関係」を本気で目指しているというのならば、「かつて偉大だった国」の大都市部にも「どこかの国」のための「基地」が必要不可欠になります。当たり前と言えば当たり前の話ですが、今現在も世界一の軍事大国である「かつて偉大だった国」とは違って、「どこかの国」は「核兵器」も「長距離弾道核ミサイル」も「戦略空母」も大規模な部隊を即座に遠方に派遣するような「緊急展開能力」なども一切保有していないわけですから、「かつて偉大だった国」が軍事攻撃されたことを知ってから慌ててはるか遠方の「極東」から大急ぎで駆け付けようとしても結果的に間に合わない危険性が極めて高いのです。そのような現実と日本国憲法などの制約を踏まえるのならば、「どこかの国」にできそうなことは、例えば、ホワイトハウスのすぐ近くに「どこかの国の基地」をつくって有事の際にはそこから出撃した部隊が「かつて偉大だった国」の軍隊などと共に「かつて偉大だった国の大統領」を守ることぐらいしかないかもしれないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、ホワイトハウスなどの近くに「日章旗などを掲げた広大な基地」が存在することを多くの米国民が「同盟の確かな証」であるなどと好意的に受け止めることができるのかは大いに疑問です。あえて繰り返しますが、日本の「軍事力」の現実と日本国憲法の制約などを踏まえるのならば、米国を守るためには米国内に基地が必要不可欠になるのです。そしてどんなに少なくとも「公平」あるいは「対等」な「相互防衛的な同盟関係」にするようなことは事実上不可能なのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「こちらから 『ディール』を仕掛け たらどうか? おかしなことは 言えなくなるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近の国際社会は「タリフマン」が大安売りしている「関税」のために混乱が続いています。様々な基本的なことすらも十分に理解することができていない「ビフじいさんのような人」がこれ以上おかしなことを言ったりやったりして国際社会を破滅的な状況に陥れないようにするためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? とりあえずしばらくの間はこちらの方からも「ビフじいさんのような人」にいくつか「ボール」を投げ続けてみたらいいのではないかと思いますが…。 あくまでも一般論ですが、もしもあなたの身の回りに一度しゃべり出すと勝手なことを一方的に長々と話し続けるようになる困った人たちがいて、こちらの話を聞いてもらいたいのに少しも聞いてもらえないというような場合には、いったいどうしたらいいのでしょうか? もちろん相手の話を遮った上でこちらの話を切り出すようなこともできるわけです。しかし、そのようなことをすれば、最悪の場合、公衆の面前で「みっともない口論」を繰り広げるようなことになってしまう危険性もあるわけです。例えば、「テレビの世界」では、相手が「呼吸」をしたタイミングに少し大きな声を出しながらこちらの話を切り出すというような「技」を使えば、相手が一方的に長々と話し続けることを安全に止めることができるという話もあるのです。いくら勝手なことを一方的に長々と話し続けるような困った人たちであっても、彼・彼女たちが人間である限り、「呼吸」は必ずするわけです。ですから、もしも相手が「呼吸」した瞬間にこちらから強いインパクトがあるようなことを何かを言えば、思わず相手が聞き耳を立てて、結果的に一方的に長々と話し続けることができなくなってしまう可能性があるのです。もしも「ビフじいさんのような人」が「債権はやっかい」とようやく気づいたり関税をあまりにも高く積み上げたためにさらに積み重ねるのに苦労したりしているこのタイミングにあえてこちらから「ディール」を仕掛けたならば、「You are fired!」などという類のおかしなことを叫ぶのも忘れて思わず聞き耳を立ててしまう可能性はそれほど低くはないのではないかと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『非関税 障壁』だとは みなされず? 『トランプ』いても 『ビジネス』できる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ある物が売れないということは、その物が単純に消費者が欲しくないものだからではないのでしょうか? 消費者はなぜその物が欲しくないのでしょうか? 消費者はいったい何が欲しいのでしょうか? そもそもその物が売れないということは本当に「不公平」であるということを意味しているのでしょうか? 問題を解決することができるのは「ディール」ではなく「ビジネス」なのではないかと思います。 最近は「非関税障壁」などというものが問題にされるようになっています。そして少なくとも現時点においては「かつて偉大だった国」が「どこかの国」に輸出しようとする場合の「かつて偉大だった国」の側から見た「どこかの国」の「非関税障壁」だけが問題にされているのです。しかし、「かつて偉大だった国」には「非関税障壁」は存在しないのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、「かつて偉大だった国」にも様々な「非関税障壁」が存在するのです。「かつて偉大だった国」にも様々な「非関税障壁」が存在するわけです。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて単純化して率直に言わせてもらうのならば、その「かつて偉大だった国」の「非関税障壁」の中で最大で最も深刻なものは「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」ではないかと考えています。そしてその「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」という「非関税障壁」は、「かつて偉大だった国」に対する投資を行う場合にはさらに強力な障壁となっているのです。「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」は「非関税障壁」とみなされることはないのでしょうか? 「かつて偉大だった国」では「トランプ」がいても「ビジネス」ができるのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、もしも「かつて偉大だった国」の「非関税障壁」が問題にされることがないにもかかわらず、「かつて偉大だった国」の側から見た「どこかの国」の「非関税障壁」だけが問題にされることになるのならば、それは「不公平」になるはずです。繰り返しになりますが、問題を解決することができるのは「ディール」ではなく「ビジネス」なのではないかと思います。そして「ビジネス」のためには「非関税障壁」の問題でも「不公平」であってはならないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『自動車』と 『安いガソリン』 セットなら… 『コメ』や『オレンジ』 安く売ったら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ある物が売れないということは、その物が単純に消費者が欲しくないものだからではないのでしょうか? 消費者はなぜその物が欲しくないのでしょうか? 消費者はいったい何が欲しいのでしょうか? そもそもその物が売れないということは本当に「不公平」であるということを意味しているのでしょうか? 問題を解決することができるのは「ディール」ではなく「ビジネス」なのではないかと思います。 例えば、もしも「かつて偉大だった国」では「ある国のメーカーの自動車」が「何百万台」も売れているのにもかかわらず、「ある国」では「かつて偉大だった国のメーカーの自動車」はあまり売れていなかったとしても、それだけでは「不公平」と主張するのにはあまりにも無理があるのです。いくら「かつて偉大だった国のメーカーの自動車」が魅力的であったとしても「かつて偉大だった国」では当たり前になっている「広い道路」や「広い車庫」や「安価なガソリン」が少しも当たり前ではない「ある国」ではその魅力が激減してしまうはずなのです。もしも「かつて偉大だった国のメーカーの自動車」と5年分ぐらいの「安いガソリン」をセットで販売したのならば、「ある国」でも「かつて偉大だった国のメーカーの自動車」はもっとずっと多く売れるかもしれないとは思いますが…。さらに言えば、一昔前の「かつて偉大だった国」は「ある国」でも非常に魅力的で競争力のある「コメ」や「オレンジ」を安い価格で大量に供給することができたのだろうと思います。「コメ」や「オレンジ」が不足している「ある国」は今なら「コメ」や「オレンジ」をいくらでも売ることができるチャンスと言えるわけです。「かつて偉大だった国」は今現在も「ある国」に「コメ」や「オレンジ」を安い価格で大量に供給することができるのでしょうか? 繰り返しになりますが、ある物が売れないということは、その物が単純に消費者が欲しくないものだからではないのでしょうか? 消費者はなぜその物が欲しくないのでしょうか? 消費者はいったい何が欲しいのでしょうか? そもそもその物が売れないということは本当に「不公平」であるということを意味しているのでしょうか? 問題を解決することができるのは「ディール」ではなく「ビジネス」なのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「消費者が 欲しいものなら 売れるはず! 欲しくないから 売れないのでは?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ある物が売れないということは、その物が単純に消費者が欲しくないものだからではないのでしょうか? 消費者はなぜその物が欲しくないのでしょうか? 消費者はいったい何が欲しいのでしょうか? そもそもその物が売れないということは本当に「不公平」であるということを意味しているのでしょうか? 問題を解決することができるのは「ディール」ではなく「ビジネス」なのではないかと思います。 例えば、真夏にストーブが爆発的に売れるようなことはあるのでしょうか? もっとも真夏のはずなのに最高気温が数℃にしかならないような寒い日が続く「異常気象」の場合には、真夏でもストーブが爆発的に売れることになるのだろうとは思います。消費者が欲しいものならば売れるはずなのです。しかし、最高気温が30-40℃にもなるような通常の真夏にストーブが爆発的に売れると期待することはできないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、ストーブが売れないのは「非関税障壁」があるからなのでしょうか? もちろんそんなバカなことはないはずです。話は少し変わります。例えば、「ある国」ではどこかの国のビールやウイスキーがなかなか売れなかったとします。もしも「ある国」では多くの人たちが「ある国産のワイン」を伝統的に好んで消費してきたためにビールやウイスキーがなかなか売れなかったのだとしたら、「非関税障壁」があるということになってしまうのでしょうか? さらに言えば、もしも「ある国」では宗教上の理由や文化的な理由のためにアルコールを摂取しない人たちが大多数であったとしたら、「非関税障壁」があるということになってしまうのでしょうか? そんなおかしな話はないと思います。繰り返しになりますが、ある物が売れないということは、その物が単純に消費者が欲しくないものだからではないのでしょうか? 消費者はなぜその物が欲しくないのでしょうか? 消費者はいったい何が欲しいのでしょうか? そもそもその物が売れないということは本当に「不公平」であるということを意味しているのでしょうか? 問題を解決することができるのは「ディール」ではなく「ビジネス」なのではないかと思います。きょうのところはあえてそれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『経済』は 減速続く 『騒動』で! 『税率』戻り 『需要』も戻る?」-。 米国のトランプ大統領は4/9に世界のすべての国・地域に対する「相互関税」を発動しましたが、約13時間後に中国を除いて90日間停止することを発表しました(→90日間の「一時停止」は報復措置をとらずに協議を要請している国などに対して。「一時停止」はドル安、株安に加えて米国債も売られて長期金利が上昇するトリプル安になる動きを止めるため? 中国を除いて「一時停止」されたのは米国独自の一方的な基準に基づいて「算出」して地域別に上乗せした税率部分。4/5に発動されたすべての国・地域に対する10%の関税はそのまま。また4/3に発動された自動車に対する25%の関税もそのまま。なお米国と中国は互いに追加関税上乗せの応酬に (→4/10時点で米国は中国に対して合計125%(→+20%+34%+50%+21%)、中国は米国に対して84%(→+34%+50%))。参考:2025/4/8付)。 地球上の多くの場所で「朝令暮改」などという言葉を思い出している人たちは少なくないと思います。この数十日間に渡って米国のトランプ大統領による「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」が原因で引き起こされている数々の「騒動」に振り回されている人たちはかなり増えているのではないかと思います。もちろん「90日間の一時停止」で一安心しているという人たちは少なくないのだろうと思います。しかし、一連の「騒動」の少し前までは存在しなかった10%の相互関税などが新たに課されているということは疑いのない事実なのです。正しい基本的な経済知識がありさえすれば、新たな関税は米国の消費者や輸入業者にとって負担増になるということにすぐに気づくはずなのです。一般的に負担増は「需要」を減少させる効果があるのです。また多くの米国製品の部品や原材料には米国産ではないものがたくさん使われているはずなのです。つまり「輸入品」ではないように見える米国製品なども実際には相互関税などの悪影響とは決して無縁ではないのです。さらに言えば、いつ「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」が原因でまた「騒動」が引き起こされることになるのかよく分からないという先行きが不透明な状況は、「経済」を減速させる効果があると考えられるのです。もしも「ディール」などというもので合意することによって相互関税などが撤廃されて「税率」が元に戻ることになったとしても、そのときに「需要」も元に戻ることになるのでしょうか? 本当に「騒動」によって減速した「経済」がすぐに元に戻るのでしょうか? もしも「税率」が元に戻ったとしても「需要」が激減したままであるのならば「経済」の低迷は長く続くことになるはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『投資』して 儲かりますか? これからも? 『トップダウン』の リスクはあるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが「かつて偉大だった国」に巨額の資金を投資して経済活動を行う「経営者」であったとしたらどうするのでしょうか? 例えば、「ビフじいさんのような人」による「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」を受けてもそれでもやはり「かつて偉大だった国」に巨額の資金を投資し続けたり新たに投資をしたりしようと考えるのでしょうか? それとも真剣に「撤退」を検討することになるのでしょうか? もしもあなたが「かつて偉大だった国」に巨額の資金を投資して経済活動を行う「経営者」だったとしたら、いわゆる「トランプ関税」対策としていったいどのようなことを考えるのでしょうか? やはり「かつて偉大だった国」に輸出しさえしなければ「トランプ関税」が課されることはないのだから、「かつて偉大だった国」の中で製品を生産して「かつて偉大だった国」の中で売ればいいと考えることになるのだろうと思います。「かつて偉大だった国」の中で製品を生産するためには、「かつて偉大だった国」の中に工場などが必要になりますし、原材料、労働者なども必要になってくるわけです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、どんなに少なくとも工場などの設備についてはきょう投資すればあすからすぐに生産可能になるなどというような性質のものではないのです。工場などを作るのには最低でも5年はかかるなどという話もあるわけです。そういうことならば、今現在「かつて偉大だった国」の中に存在する工場などを買ってしまえば、もっと短期間で「かつて偉大だった国」の中で製品を生産して「かつて偉大だった国」の中で売ることができるようになると考えるのではないかと思います。さらに言えば、いっそのこと「かつて偉大だった国の同業他社」をまるごと「買収」してしまえば、さすがにあすから生産可能というわけにはいかないものの、さらにもっとずっと短期間のうちに「かつて偉大だった国」の中で製品を生産して「かつて偉大だった国」の中で売ることができるようになると考えるのではないかと思います。ところで「かつて偉大だった国の労働者の賃金」はどのくらい高いのでしょうか? そもそも「かつて偉大だった国」の中で製品を生産しても「かつて偉大だった国の労働者の賃金」を支払うことができるくらいの価格で「かつて偉大だった国」の中で製品を売ることができるのでしょうか? さらに言えば、「かつて偉大だった国」の中で製品を生産するために必要不可欠な原材料や部品などのすべてを「かつて偉大だった国」の中で手に入れることができるのでしょうか? またその価格はどの程度なのでしょうか? もしも「かつて偉大だった国」の中で製品を生産するために必要不可欠な原材料や部品などを輸入しなければならないのならば、いわゆる「トランプ課税」の影響をまともに受けることになってしまいます。さらに念のために付け加えておくのならば、「かつて偉大だった国の同業他社」をまるごと「買収」した場合には、「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」によってその「買収」が理不尽にも覆されてしまうリスクはどのくらいあるのでしょうか? 「かつて偉大だった国」に「投資」をして本当に儲かるのでしょうか? かつては儲かっていたとしてもこれからも本当に儲かるのでしょうか? そして「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」によるリスクはどのくらいあるのでしょうか? 繰り返しになりますが、もしもあなたが「かつて偉大だった国」に巨額の資金を投資して経済活動を行う「経営者」だったとしたら、これからも「かつて偉大だった国」に巨額の資金を投資し続けたり新たに投資をしたりしようと考えるのでしょうか? それとも真剣に「撤退」を検討することになるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『王様は 裸』とさえも 言えないか? 『鏡』は見ない? 見ても信じず?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近の国際社会にはいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などもまともに読んだことがないのに「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定を繰り返す人間たちがいるようです。国際社会の多くの人たちが「ビフじいさんのような人」による「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要になるのでしょうか? 本当に「『王様』、あなたは裸です!」などと「王様」に直接言うことができる人間すらも存在しなくなっているのでしょうか? 多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「ビフじいさんのような人」もその周辺の人間たちも本当に自分たちが「致命的に誤ったトップダウンの決定」をしたということに少しも気づいていないのでしょうか? おそらく「ビフじいさんのような人」の周辺には「致命的に誤ったトップダウンの決定」を絶対に「致命的に誤ったトップダウンの決定」であると認めようとしない人間たちばかりなのかもしれないとは思います。しかし、「ビフじいさんのような人」に彼の「致命的に誤ったトップダウンの決定」を「致命的に誤ったトップダウンの決定」であるということを教えてくれるような人たちは地球上のどこにもいないのでしょうか? 童話の世界のように「『王様』、あなたは裸です!」などと「王様」に直接言うことができる人間すらも地球上には存在しなくなっているのでしょうか? もしかすると「ビフじいさんのような人」とその周辺の人間たちは自分たちが「裸」だと言われても決して「鏡」を見ようとはしないし、仮に「鏡」を見ることがあったとしても「鏡」に写っているものを絶対に信じようとしないのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、いわゆる「トランプ関税」などは「致命的に誤ったトップダウンの決定」であると理解させなければ世界経済が深刻な危機に陥る危険性は高いままなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「自国だけ 除外するため 交渉を? 『今』『ここ』『自分』 だけでいいのか!」-。 米国のトランプ大統領が4/2に世界のすべての国・地域に対して「相互関税」を導入することを発表しました(→すべての国・地域に対して10%の関税率を設定した上でさらに米国独自の一方的な基準に基づいて「算出」したそれぞれ異なる税率を上乗せするというもの。日本は24%。EUは20%、中国は34%、インドは26%など。ちなみに米国が独自に各国の関税率や非関税障壁を加味して「算出」したと主張する各国の「関税率」は、実はただ単に「米国のその国に対する輸出額と輸入額の差(→貿易赤字額)」を「その国の米国に対する輸出額(米国のその国からの輸入額)」で割っただけのものだという指摘が説得力を持ち始めて波紋がさらに大きくなっている)。またトランプ大統領は米国に輸入されるすべての自動車に対して25%の追加関税を課す措置を4/3から発動しました。一連のいわゆる「トランプ関税」を受けて世界各国で株価の大幅な値下がりが続いています。 率直に言わせてもらうのならば、一連のいわゆる「トランプ関税」は世界経済に非常に大きな悪影響を与えることだけは確実です。あえて極端に単純化して言えば、世界各国と活発に貿易をしている世界一の経済大国がこれだけ広範囲に渡って大幅に関税を引き上げるということは、世界一の経済大国が「自由貿易」から「鎖国に近い保護貿易」の状態にまで劇的に大きく変化してしまうということを意味することになるのではないかと思います。そのように考えるのならば、どんなに少なくとも世界経済に悪影響を与えないわけがないのです。もしも世界経済に対する悪影響を少しでも小さくしようと考えるのならば、いわゆる「トランプ関税」がまだ発動されていない場合には事前にその発動を食い止めたり既に発動されてしまった場合には可能な限り速やかに撤廃するようにしたりするということが必要になってくるわけです。しかし、もしも各国が自国の利益を最優先に考えて米国と慌てて交渉するようになるのならば、いわゆる「トランプ関税」の悪影響をそれぞれの国が負担する場合に著しく「不公平」な状態が生じてしまうことになります。「ディール」であってもなくても「交渉」というものは、「一方的に有利な立場にある側」が複数の相手を互いに競わせることによって「より大きな利益」を得ることができることもあるわけですし、逆に、複数の相手が互いに競い合うことによって「結果的に大きな利益」を得ることができることもあるわけです。ですから、もしも「今」「ここ」「自分」のことだけを考えていわゆる「トランプ関税」を発動する側に対して、同じように「今」「ここ」「自分」のことだけを考えて大急ぎでいわゆる「トランプ関税」の発動を回避したり撤廃したりしようとする側が増えれば増えるほど、「格差」や「不公平」が結果的に大きくなって世界経済全体が受けるダメージがかなり大きなものになってしまう危険性も高まるのです。「今」「ここ」「自分」のことだけを考えていわゆる「トランプ関税」を発動する側だけではなく、同じように「今」「ここ」「自分」のことだけを考えていわゆる「トランプ関税」については自国だけを除外するような交渉をしようとする側も、やはり賢明ではないと言わざるを得ないのです。もはや国際社会が「自由貿易」を目指すような時代は終わってしまったのでしょうか? 地球上の多くの人たちが互いに協力して共に利益を得るような新しい「しくみ」は見出されているのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「本当に 『今』『ここ』『自分』 だけでいい? 『殻』を破れば 『偉大』になれる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などもまともに読んだことがないのに「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定を繰り返す人間たちまで出てきているようです。国際社会の多くの人たちが「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要なのでしょうか? 地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 そもそも「偉大」とはいったいどういうことなのでしょうか? 例えば、自分自身のことだけを考えている私利私欲にとらわれた人間は「偉大」なのでしょうか? あるいは、「今」「ここ」だけのことしか考えずに行動するような人間は「偉大」なのでしょうか? 本当に「今」「ここ」「自分」のことだけを考えていればいいのでしょうか? どんなに少なくとも「今」「ここ」で「自分」に見えているものだけを何とかしさえすれば問題を解決することができるなどということは「致命的に誤った判断」なのです。貿易や関税の問題にしても、不法移民の問題にしても、ウクライナや中東の戦争の問題にしても、地球温暖化の問題にしても…。もしかすると「今」「ここ」「自分」にはとらわれずに「今」「ここ」「自分」という「殻」を破ることができたときに「偉大」になることができるのではないでしょうか? 今現在地球上で多くの人たちが直面している多くの深刻な問題を根本的に解決することができる何かを率先して実行するということが「偉大」ということではないのでしょうか? 何度も繰り返していますが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『権力』に しがみついても 『墓場』まで 持っていけない! いずれ必ず…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などもまともに読んだことがないのに「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定を繰り返す人間たちまで出てきているようです。国際社会の多くの人たちが「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要なのでしょうか? 地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 どうやら最近は「通算2期8年まで」という任期の制限を乗り越えて何とかして「権力」にしがみつこうという動きも見えてきたように思われます。あえて率直に言わせてもらうのならば、もしも「どこかの政治指導者」が「権力」にしがみつこうとするのならば、その「指導者」はほぼ確実に「独裁者」に変身することになるのです。あえて分かりやすく言い換えるのならば、例えば、上半身裸になって釣りをしたり馬に乗ったりするカレンダーを発売して愚かな民衆の支持を集めようとしたり、国内では言論を徹底的に弾圧したり、「政敵」を外国まで追いかけて行って毒殺しようとしたりするようになったとしても少しも不思議ではなくなるのです。もしも自分の代わりに「中身のないイエスマン」を「大統領」として担ぎ上げて自分自身は「副大統領」や「首相」や「連邦議会議員・議長」として「実権」を握り、どうしても必要になった場合には大統領権限を継承するなどという「発想」が浮かんでくるようになったらもう立派に「独裁者」の仲間入りです。「独裁者」の仲間入りをするということが「偉大」になるということなのでしょうか? その上で、あくまでも念のために付け加えておきますが、いくら「権力」にしがみついたとしても、さすがに「権力」を「墓場」にまでは持っていくことはできないのです。「権力」というものはいずれ必ず奪い取られることになるのです。そしていずれ必ず…。くどいようですが、本当に「独裁者」の仲間入りをするということが「偉大」になるということなのでしょうか? 繰り返しになりますが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『弱い者 いじめ』はやめろ! 『偉大』なら… すぐに攻撃 すると脅すな!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などもまともに読んだことがないのに「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定を繰り返す人間たちまで出てきているようです。国際社会の多くの人たちが「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要なのでしょうか? 地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 どういうわけか最近は「かつて偉大だった国の大統領」が自分たちの言うことを聞かないとすぐに攻撃するなどと脅すような発言をたびたびしているようです。あえて付け加えるのならば、「かつて偉大だった国の大統領」は、どういうわけか「核兵器をたくさん持っている強そうな相手」には自分たちの言うことを聞かないと攻撃するなどと脅すようなことがないことがとても気がかりです。これでは急いで核兵器を持たなければ「かつて偉大だった国」から攻撃されてしまうなどと「致命的に誤った判断」をしてしまう「独裁国家」や「専制国家」が増えてしまいます。「偉大」であるのならば、再び「偉大」になりたいと本気で思っているのならば、「弱い者いじめ」はやめてもらいたいものです。繰り返しになりますが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「誰にでも 得意・不得意 あるものだ! 協力のため 『違い』認めろ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などもまともに読んだことがないのに「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定を繰り返す人間たちまで出てきているようです。国際社会の多くの人たちが「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要なのでしょうか? 地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 当たり前と言えば当たり前の話ですが、人間というものは一人ひとり違った個性を持っているものなのです。あえて別の言い方をすれば、いくら一卵性双生児などとして生まれてきたとしても、世の中には自分と全く同じ人間は自分以外には存在しないのです。人間は一人ひとり違った個性を持っている…。そのように考えるのならば、どこの誰にでも得意・不得意というものがあるのではないかということに気づくことになると思います。たとえどれだけ能力の高い人であったとしても、ある特定分野に限定すればその人よりもずっと能力の高い人が地球上のどこかにはいるのではないかと考えられるのです。あえて言い換えれば、広い世の中のどこかには自分が不得意なことを得意にしている人たちが存在するし、逆に、広い世の中のどこかには自分が得意なことが不得意な人たちがきっと存在すると考えることができるのです。もしも多くの人たちが「自分が得意なこと」を誰かの代わりにやってあげると、誰かが代わりに「自分が不得意なこと」をやってくれるような形で協力することができるのならば、多くの人たちは苦労することが減って、それだけでもそれぞれの人たちの生活が豊かになるのです。多少の誤解を恐れずに単純化して言えば、「自由貿易」というものは、それぞれの国では簡単に手に入るモノやサービスを交換して互いに豊かになろうとする「しくみ」、それぞれ違った個性を持った人たちが国の単位で協力して豊かになろうとする「しくみ」と考えることができるのです。ですから、「ある国」と「別のある国」の間の「ある特定の分野」だけを取り上げて「不公平」などと言い出して一方的に関税を引き上げるなどというのはあまりにもバカげた話なのです。関税を引き上げれば輸入量が減少しても価格が上昇しても最終的には「消費者」から利益を奪い取るということになるのです。そもそも「不公平」かどうかということはもっとずっと大きなレベルで判断しなければならない話なのです。互いに協力して豊かになるためには安易に「不公平」などと決めつけずに「違い」を認める必要があるのです。繰り返しになりますが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『偉大』なら 同盟国を 大切に! なぜ『偉大』かを 考えてみろ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などを少し読んだだけで急に「専門家」になったような気分になってしまう勘違いした人間たちはいつの時代にもどこの場所にもいるものです。そして最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などすらもまともに読んだことがないのに「奇想天外の誤ったトップダウン」の決定を繰り返すようになる人間たちまで出現しているようです。地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 そもそも「かつて偉大だった国」はなぜ「偉大」だったのでしょうか? なぜ「覇権主義国」がどんなに盛大に「カネ」をばらまいても「かつて偉大だった国」には遠く及ばなかったのでしょうか? 「かつて偉大だった国」には、自由、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配、市場経済などといった共通の価値観で固く結ばれた「同盟国」があったからではないかと思います。しかもその「同盟国」の中には国際社会では「大国」と認識されている国がいくつも含まれていたのです。そして「かつて偉大だった国」の歴代大統領は党派の違いを越えて「同盟国」との「絆」を太くて強固なものにするために腐心してきたはずなのです。あえて言い換えるのならば、「同盟国」は「かつて偉大だった国」を「偉大」にしてきた「かけがえのない大切な資産」であるはずなのです。それにもかかわらず、「奇想天外の誤ったトップダウン」の決定を繰り返して「同盟国」という「かつて偉大だった国」を「偉大」にしてきた「かけがえのない大切な資産」の価値を暴落させたり捨て去ろうとしたりするような愚かな人間たちが出てくるとは…。もしも「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」の中に分かりやすい短い言葉で表現するのならば、「同盟国を大切に!」ということになるのだろうと思います。繰り返しになりますが、「かつて偉大だった国」はなぜ「偉大」だったのでしょうか? なぜ「覇権主義国」がどんなに盛大に「カネ」をばらまいても「かつて偉大だった国」には遠く及ばなかったのでしょうか? くどいようですが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『独裁者』 『大富豪』とか 『イエスマン』 『偉大な人』か? 友人選べ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などを少し読んだだけで急に「専門家」になったような気分になってしまう勘違いした人間たちはいつの時代にもどこの場所にもいるものです。そして最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などすらもまともに読んだことがないのに「奇想天外の誤ったトップダウン」の決定を繰り返すようになる人間たちまで出現しているようです。地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 私利私欲のために「奇想天外の誤ったトップダウンの決定」を繰り返して「隣国を侵略し続ける独裁者」、私利私欲のために「奇想天外の誤ったトップダウンの決定」を繰り返す目的で「権力に接近し続ける大富豪」、私利私欲のために「奇想天外の誤ったトップダウンの決定」を称賛する「イエスマン」など…。地球上には「友人を見ればその人のことがよく分かる」などと考えている人たちは少なくないのだろうと思います。やはり「誰かを尊敬しているという友人」の顔ぶれを見ると「誰か」が「偉大な人」にはとても見えないと思ってしまう人たちは少なくないのだろうと思います。もしも「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」の中に分かりやすい短い言葉で表現するのならば、「友人を選べ!」ということになるのだろうと思います。私利私欲のために「隣国を侵略し続ける独裁者」、私利私欲のために「権力に接近し続ける大富豪」、「イエスマン」などは本当に「友人」としてふさわしいのでしょうか? 「かつて偉大だった国」を本当に再び偉大にしたいのならば、間違った人間たちを「友人」として選んではならないのです。繰り返しになりますが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『偉大』なら 他人の物を 欲しがるな! 他人の物も 自分の物か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などを少し読んだだけで急に「専門家」になったような気分になってしまう勘違いした人間たちはいつの時代にもどこの場所にもいるものです。そして最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などすらもまともに読んだことがないのに「奇想天外の誤ったトップダウン」の決定を繰り返すようになる人間たちまで出現しているようです。地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 カナダ、グリーンランド、ガザ地区、レアアース、ザポリージャ原発など…。最近は多くの人たちが呆れて言葉を失ってしまうくらい次々と「他人の物」を欲しがる「不動産」好きの「奇想天外の誤ったトップダウンの決定」を繰り返す人間がいるようです。少なくとも自由で民主的な社会で生活している人間ならば「他人の配偶者」を欲しがるだけでも多くの人たちから軽蔑されることになるということはよく分かると思います。まして「カネ」を支払うから離婚しろなどと要求したりすれば…。さらに言えば、「他人が生まれ育って今も愛着を持って暮らしている故郷」を「不動産」として強引に「カネ」で買い取ろうとするような人間も多くの人たちから軽蔑されることになるのだろうと思います。おそらく地球上の多くの場所では「他人が大切にしている物」を欲しがる人間は「立派な大人」とは思われないのではないかと思います。もしも「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」の中に分かりやすい短い言葉で表現するのならば、「他人の物を欲しがるな!」ということになるのだろうと思います。「かつて偉大だった国」を本当に再び偉大にしたいのならば「他人の物」はあくまでも「他人の物」であって「自分の物」ではないということを絶対に見失ってならないはずなのです。世の中に「他人の物」をすぐに欲しがる人間を「偉大」だと尊敬するような人たちが本当にいるのでしょうか? 「他人の物」を手に入れるためには「カネ」を支払えばそれでいいということでもないはずなのです。繰り返しになりますが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『2年後』に 関税上げる 『アイディア』で 投資は増える! 『カネ』に頼るな!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などを少し読んだだけで急に「専門家」になったような気分になってしまう勘違いした人間たちはいつの時代にもどこの場所にもいるものです。そして最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などすらもまともに読んだことがないのに「奇想天外の誤ったトップダウン」の決定を繰り返すようになる人間たちまで出現しているようです。地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 最近は「かつて偉大だった国の大統領」が「奇想天外な誤ったトップダウンの決定」を繰り返して「タリフマン」などに変身して「関税」を引き上げるとか引き上げないなどという騒動を引き起こし続ける事例が見られます。このままではそう遠くない将来に「トランプ恐慌」などと呼ばれることになるかもしれない「世界恐慌」を引き起こす危険性が非常に高いあまりにも愚かな行為です。当たり前と言えば当たり前の話ですが、いくら「関税」を引き上げてもそれだけでは「かつて偉大だった国の産業」が「他のどの国の産業にも負けないくらい安くて高性能・高品質な製品」を次々と作り出して復活するようなことはあり得ないのです。それにもかかわらず、あえて「関税」を引き上げて「海外の安くて高性能・高品質な製品」を締め出すことになるのならば、「かつて偉大だった国」の市場には、最悪の場合には「決して安くはないのに低性能・低品質な製品」と「高性能・高品質だけどあまり価格が高い製品」しか出回らなくなり、ただ単に「かつて偉大だった国の国民」から利益を奪い取ることになるだけの結果に終わることになるのです。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「タリフマン」が「もっとずっと賢いタリフマン」であったのならば、「関税を2年後に大幅に引き上げる」などと言っていたのではないかと思います。念のために確認しておきますが、2年後は任期もまだ2年残っているわけですから、関税が大幅に引き上げられる危険性が高いことになります。もしも2年後に関税が大幅に引き上げられる危険性が非常に高いのならば、海外から「かつて偉大だった国」に直接投資をする動きが大幅に加速するのではないかと思います。しかも投資する側は「2年」という時間的な制約のある中で急いで投資を行わなければならないわけですから「ディール」では多少の不利な条件でも受け入れざるを得ないような弱い立場に追い込まれることになっていたはずなのです。もしも「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」の中に分かりやすい短い言葉で表現するのならば、「『カネ』に頼るな!」ということになるのだろうと思います。「かつて偉大だった国」を本当に再び偉大にしたいのならば「関税」という「カネ」ではなく「アイディア」を使うべきなのです。そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「実際に 会った人なら 信じるか? そもそも『実在 する人物』か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の人たちはいったいどこまで正確に「本物」と「偽物」を区別することができるのでしょうか? 相手が自分の親や子や兄弟姉妹や恋人や配偶者などだったら「本物」と「偽物」をほぼ確実に見分けることができるのでしょうか? 生成AIなどの最新技術と膨大な情報によってでっち上げられた「ディープフェイク」などが出現し始めている今だからこそあえて一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。 もしも「ある人」が自分と「共通の趣味」などを持っていて「とても気が合う人」とSNSか何かで知り合ったとします。そして「ある人」と「とても気が合う人」は互いの顔や詳しい個人情報も知らないままSNSか何かで「共通の趣味」などの話題を何度も熱く語り合うような「間柄」になっていったとします。やがて「ある人」は仲良くなった「とても気が合う人」と「共通の趣味」関連のイベントなどで実際に会うことができたとします。実際に会うことができたといってもイベント開演直前に開演時間までのほんの少しの時間だけ…。でも、「やっと会えたね! 本当に〇〇は最高だよね! あ、もう始まる…。じゃあ、また…」などと笑顔で話しかけてすぐに去っていったその「とても気が合う人」は自分の「好みのタイプの外見」だったとします。そして実際に会ったことをきっかけに2人は毎晩長時間ビデオ通話などをするようになってますます関係を深めていったとします。さて、「ある人」が「ロマンス詐欺」とかその種のことに巻き込まれていくことになる危険性はいったいどのくらいあるのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、そもそも「ある人」が実際に会った「とても気が合う人」は本当に「実在する人物」なのでしょうか? その上で、さらに言えば、「ある人」が熱中している趣味、夢中になりそうな物事、そして「好みのタイプの外見」などは、インターネット上やSNS上に点在している「ある人」の個人情報などから比較的簡単に探り出すことができるのです。そして「ある人」が興味を持ちそうなことや夢中になりそうなことをまるで「本物」であるかのような「好みのタイプの外見」の「偽物」に「映像」の中で言わせることも今現在では技術的にはそれほど難しいことではないのだろうと思います。ごく普通の多くの人たちは実際に会ったことがある人の場合にはいろいろなことを簡単に信じてしまうようになるのでしょうか? 繰り返しになりますが、ごく普通の人たちはいったいどこまで正確に「本物」と「偽物」を区別することができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「うれしいよ! いつもコメント ありがとう! 『偽物』見抜く ことはできるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の人たちはいったいどこまで正確に「本物」と「偽物」を区別することができるのでしょうか? 相手が自分の親や子や兄弟姉妹や恋人や配偶者などだったら「本物」と「偽物」をほぼ確実に見分けることができるのでしょうか? 生成AIなどの最新技術と膨大な情報によってでっち上げられた「ディープフェイク」などが出現し始めている今だからこそあえて一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。 もしも自分が大好きな「俳優」や「タレント」などを精巧に再現した「ディープフェイク」などの「偽物」が現れたとしたら、ごく普通の多くの人たちは簡単に「偽物」だと見抜くことができるのでしょうか? それとも「本物」だと騙されてしまうのでしょうか? もしもその大好きな「俳優」や「タレント」と何度も会って何度も個人的な話をしているような「特別な関係」ではないのならば、「俳優」や「タレント」などを精巧に再現した「ディープフェイク」などの「偽物」を「偽物」と見抜くことはかなり難しいのかもしれないと思います。言うまでもなく大好きな「俳優」や「タレント」と自分自身が「特別な関係」ではない場合には「合言葉」などを事前に決めておくこともできないわけです(→参考:2025/3/28付)。大好きな「俳優」や「タレント」と自分自身が「特別な関係」ではないということは、言い換えれば、自分が知っている大好きな「俳優」や「タレント」についての情報のほとんどすべては誰でも熱心に探して集めれば知ることができる情報ばかりということを意味していることになるのです。さらに言い換えるのならば、「騙す側」と「騙される側」に情報の格差はないわけですから、その「俳優」や「タレント」の熱烈なファンであればあるほど熱烈なファンである自分ぐらいしか知らない「非常に希少な情報」を「偽物」が正確に再現しているために簡単に騙されやすくなってしまうかもしれないのです。さらに言えば、もしも「偽物」がその「俳優」や「タレント」の熱烈なファンが熱心に書き込んだSNSやインターネット上のコメントなどの内容もすべて正確に把握していて「いつもコメントを書き込んでくれてありがとう。あの時はこんなことも書いてくれたよね。すごくうれしかったよ」などという言葉をかけてくれたりすれば…。もちろん「偽物」をでっち上げるための技術がどれだけ高度なものになるのかによって騙される人たちの人数は大きく変わってくるのだろうと思いますが…。繰り返しになりますが、ごく普通の人たちはいったいどこまで正確に「本物」と「偽物」を区別することができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『合言葉』 事前に決めて おくだけで 『ディープフェイク』も 撃退可能」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の人たちはいったいどこまで正確に「本物」と「偽物」を区別することができるのでしょうか? 相手が自分の親や子や兄弟姉妹や恋人や配偶者などだったら「本物」と「偽物」をほぼ確実に見分けることができるのでしょうか? 生成AIなどの最新技術と膨大な情報によってでっち上げられた「ディープフェイク」などが出現し始めている今だからこそあえて一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。 一昔前まではほとんどすべての家庭には「固定電話」というものがあってその「固定電話」を家族全員で共有していたということを覚えている人たちはまだ残っていると思います。「スマートフォン」や「携帯電話」が普及する前までは1つの「固定電話」をみんなで使うことが当り前だったのです。もちろん今でも職場には「固定電話」があってその職場の人たちが共有しているというところもまだ残っているとは思います。しかし、一昔前の「固定電話」が全盛の時代には「スマートフォン」や「携帯電話」が普及した現在ではあまり想像することができない「事件」や「詐欺」が頻発していたのです。例えば、現在よりも音質が低かったかつての「固定電話」では相手の声が別人と似て聞こえやすいためにしばらくすれ違いの会話が続くなどという「事件」もよくあったものです。友人や恋人だと思ってしばらく会話をしていて何か様子がおかしいと思ったら実は相手の兄弟姉妹や親だったという「笑い話」は珍しいことではなかったのです。あるいは、電話がつながって「もしもし、〇〇?」と尋ねると「うん。何?」などと答えるので安心して話し続けると「うんうん。それで?」などという言葉がときどき返ってくるだけだったので気づいたときには自分と親友や恋人だけで共有していたはずの「極秘情報」を親や兄弟姉妹に騙し取られているという「詐欺」もよくあったのです。そんな「固定電話」で確実に相手が本人だと確認するためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 最も簡単で確実な方法は「合言葉」などを使うことです。もちろん「合言葉」を事前に決めておいて単純に本人確認の「パスワード」のように使うこともできるわけです。でも、もう少し工夫した使い方をすれば何か特別な事情があるときにそれをこっそり相手だけに伝えることもできるようになるのです。ちなみに最新型の生成AIや「ディープフェイク」などは事前に決めて秘密にしておいた「合言葉」をその場ですぐに解読して適切な応答をすることができるのでしょうか? もしもそのようなことに気づくことができるのならば、実は最新技術を駆使した「ディープフェイク」などを使った詐欺なども一昔前のアナログなノウハウによって簡単に撃退することができるようになるかもしれないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「共通の 知識や能力 身につける 『公教育』が 重要になる」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。地球上では多くの人たちが当たり前のように教育を受けています。そもそも人はいったい何のために勉強するのでしょうか? 立派な人になるために勉強するのでしょうか? カネをたくさん稼ぐために勉強するのでしょうか? あるいはただ単に様々なことを知りたいから勉強しているのでしょうか? あえて一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。 そもそも人はいったい何のために勉強するのでしょうか? あえて言い換えるのならば、「教育」は何のためにあるのでしょうか? 実は今現在地球上の多くの国で採用されている「公教育」などと呼ばれている「しくみ」もまた「何のために勉強するのか」ということに対する答えの1つになるのです。繰り返しになりますが(→参考:2025/3/23付)、言うまでもなく「教育」は「政府」や「親」や「カルト」のためのものではないはずなのです。もしも「親」や「カルト」に「教育」を任せてしまったのならば、最悪の場合には子どもたちは「親」や「カルト」のために絶対服従を求められる人生を当たり前のものとして受け入れるように「洗脳」されることになってしまうのです。もちろん独裁国家や専制国家における「教育」も子どもたちを「洗脳」して独裁者らに忠誠を誓うような国民をつくるための「しくみ」として悪用される危険性があるわけです。しかし、それでもやはり、これから社会の構成員として社会を支えていくことになる子どもたちに共通の知識や能力を身につけるための機会を「政府」が「公教育」などという形で提供するということはその社会の安定・発展を維持していくためには必要不可欠なことではないかと考えています。ごく一部の人たち以外は十分に文字の読み書きができないとか、ごく一部の人たち以外は社会の構成員として主体的に活動していくために必要不可欠な科学知識を含めた最低限の知識を知らないとか…。もちろん社会の中の貧富の差も大きな問題だとは思います。しかし、もしもその社会にその構成員として主体的に活動していくための知識や能力を持っている人たちと持っていない人たちの「格差」が存在するのならば、その社会の安定にとっては致命的な種類の大問題になるはずなのです。社会の構成員として主体的に活動していくための知識や能力を持っている人たちが確実に「勝ち組」になることができるかどうかは定かではありませんが、社会の構成員として主体的に活動していくための知識や能力を持っていない人たちが「負け組」になり続ける危険性が高いことだけは確かです。そのように考えれば、どの社会にとっても「公教育」は重要なものになるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『カネ』あれば 『儲け話』に 参加して 『カネ』が『カネ』呼び 『富豪』になれる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。地球上では多くの人たちが当たり前のように教育を受けています。そもそも人はいったい何のために勉強するのでしょうか? 立派な人になるために勉強するのでしょうか? カネをたくさん稼ぐために勉強するのでしょうか? あるいはただ単に様々なことを知りたいから勉強しているのでしょうか? あえて一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。 地球上の多くの社会では、何かの事業に成功して「財閥」などをつくって「大富豪」になったような人間たちをもてはやす傾向があるようです。しかし、何かの事業に成功して「財閥」などをつくって「大富豪」なったような人間たちのすべてに他人が持っていない特別な能力があったというわけではないのです。あえて個別具体的な固有名詞や事例を取り上げることは避けますが、何かの事業に成功して「財閥」などをつくって「大富豪」なったような人間たちの中には、ただ単に「莫大なカネ」を持っていなければ参加できない特別な「儲け話」に繰り返し参加して大儲けし続けてきたような人間たちもいるのです。例えば、もしも1億ドルであるものを買い、それに1億ドルを投資すると、最終的には100億ドル以上の値段で売ることができるようになるとしても、基本的には2億ドルなどという「莫大なカネ」を用意することができるのは非常に限られたごく少数の人間たちしかいないわけです。ですから、結果的に「莫大なカネ」を用意することができるごく少数の人間たちしか莫大な利益を得る儲け話に参加して莫大な利益を得ることができないわけです。あえて言い換えれば、極端な場合には、「莫大なカネ」を用意することができさえすれば、誰にでもすぐに分かるような儲け話に大した競争もなしにほぼ確実に参加することができてしまうのです。もちろん何かの事業に成功して「財閥」などをつくって「大富豪」なったような人たちの中には本当にすごい才能や能力を持った人物もいるわけです。しかし、最初に「莫大なカネ」を用意することができたから「カネ」が「カネ」を呼んでやがて「財閥」などをつくって「大富豪」になることができただけの人間たちもいるということには注意が必要になります。繰り返しになりますが、そもそも人はいったい何のために勉強するのでしょうか? 「カネ」をたくさん稼ぐために勉強しているのでしょうか? そうであるのなら「莫大なカネ」を必要としないで「カネ」をたくさん稼ぐ方法を考え出すことができる知識や能力を身につける必要があるはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『勉強』で 『立身出世』 『金儲け』? 悪くはないが それだけなのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。地球上では多くの人たちが当たり前のように教育を受けています。そもそも人はいったい何のために勉強するのでしょうか? 立派な人になるために勉強するのでしょうか? カネをたくさん稼ぐために勉強するのでしょうか? あるいはただ単に様々なことを知りたいから勉強しているのでしょうか? あえて一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。 例えば、その人が勉強をする目的が「高い収入を得られる職業に就くため」とか「カネをたくさん稼ぐことができるようになるため」などということであってももちろん悪いことではないのです。しかし、「勉強」というものは単なる「立身出世や金儲けの道具」ではないということには注意が必要になります。またもしも「勉強」を「立身出世や金儲けの道具」として見た場合には、実はそれほど優れた「道具」ではないということに気づくのではないかと思います。言うまでもなく「勉強」には長い時間とたくさんの努力が必要になります。しかし、例えば、もしも「カネ」や「コネ」などを「立身出世や金儲けの道具」として使った場合には、「学位」や「一流企業の従業員や公務員の地位」を事実上買って手っ取り早く手に入れることができてしまうかもしれないのです。少なくとも「カネ」や「コネ」などと比べれば「勉強」はそれほど優れた「立身出世や金儲けの道具」ではないのです。それにもかかわらず、「高い収入を得られる職業に就くため」とか「カネをたくさん稼ぐことができるようになるため」だけを目的にして勉強を続けようと思う人たちはどれだけいるのでしょうか? 繰り返しになりますが、そもそも人はいったい何のために勉強をするのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『よく来た』と 『小遣い』くれる 『おじさん』か? 親戚でない? なぜくれるのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前の話ですが、世の中には「ルール」や「しくみ」や「慣習」がいくつも存在するわけです。もちろん世の中には様々な理由のために「ルール」や「慣習」などを破る人間たちも存在するわけです。また世の中の「ルール」や「しくみ」や「慣習」に不満を持ってその「ルール」や「しくみ」や「慣習」を変えようとする人たちもいるわけです。「ルール」や「しくみ」や「慣習」を変えるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 「大昔のどこかの国」では帰省などで親に連れられて「田舎」に行くと「親戚でもないおじさん」が「いやー、よく来たね」などと言いながら「小遣い」をくれるような不思議な経験をすることもあったらしいのです。もしかすると今でも正月にはよく知らない子どもたちにも「お年玉」をあげるという「おじさん」が「どこかの田舎」にはまだ残っているのかもしれないと思います。初対面の子どもたちにもお菓子などをあげるように「小遣い」をあげるという「不思議な慣習」が今もどこかに残っているのかどうかはともかくとしても、「どこかの国」では特別な意味はなくてもよく知らない人たちにもなぜか「すぐに贈り物をするような慣習」が今も残っているのだろうと思います。その上で、あえて言わせてもらうのならば、必ずしも「付け届け」とか「賄賂」などという性質のものではなかったとしても、「すぐに贈り物をするような文化」が根強く生き残っているどこかの場所では、「よく来たね」などと言いながら「商品券」をくれるような「不思議なおじさん」がいてもそれほど不思議なことではないのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、もう子どもではなくなっていても「10万円」はかなり高額だと感じる人たちは少なくないと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「『教育』は いったい誰の ものなのか? 『政府』や『親』や 『カルト』のものか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前の話ですが、世の中には「ルール」や「しくみ」がいくつも存在するわけです。そして世の中には様々な理由のために「ルール」を破る人間たちも存在するわけです。また世の中の「ルール」や「しくみ」に不満を持って「ルール」や「しくみ」を変えようとする人たちもいるわけです。「ルール」や「しくみ」を変えるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? そもそも「ルール」や「しくみ」というものは自分が望むような形に変えることができるものなのでしょうか? さらに言えば「ルール」や「しくみ」というものは「カネ」や何らかの「特別な力」で捻じ曲げたり変えたりすることができるものなのでしょうか? 「教育」とはいったい誰のものなのでしょうか? 今現在地球上の多くの国で採用されている「公教育」などと呼ばれている「しくみ」では「政府」が「教育」に責任を持つという「ルール」になっているのです。しかし、「教育」は「政府」のものではないはずなのです。もしも「教育」が「政府」のものであるのならば、最悪の場合には、例えば、「ビフじいさんのようなじいさん」や「いつも不機嫌そうなプーさんのようなじいさん」を「神」や「皇帝」や「王様」のように崇拝して忠誠を誓う「大衆」を量産するような「教育」を行うようになるかもしれないのです。もちろん「政府」が「教育」に責任を持つことは許されないことではないと思います。しかし、それでもやはり、「教育」は「政府」のものではないはずなのです。言うまでもなく「教育」は「親」や「カルト」のものでもないはずなのです。もしも「親」や「カルト」に「教育」を任せてしまったら最悪の場合には子どもたちは「親」や「カルト」のために絶対服従を求められる人生を当たり前のものとして受け入れるように「洗脳」されることになってしまうのです。繰り返しになりますが、「教育」は誰のものなのでしょうか? 「教育」は誰のためのものなのでしょうか? 「政府」が「公教育」のために「親」や「カルト」から「教育」を取り上げたことにはいったいどんな意味があったのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「強力な 『カード』を 持って いたけれど 『ルール』が変わり 大惨敗に」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前の話ですが、世の中には「ルール」や「しくみ」がいくつも存在するわけです。そして世の中には様々な理由のために「ルール」を破る人間たちも存在するわけです。また世の中の「ルール」や「しくみ」に不満を持って「ルール」や「しくみ」を変えようとする人たちもいるわけです。「ルール」や「しくみ」を変えるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? そもそも「ルール」や「しくみ」というものは自分が望むような形に変えることができるものなのでしょうか? さらに言えば「ルール」や「しくみ」というものは「カネ」や何らかの「特別な力」で捻じ曲げたり変えたりすることができるものなのでしょうか? あくまでも一般論ですが、「ゲーム」や「ディール」を好む人間たちは「ゲーム」や「ディール」で役立つ「カード」を持っているとか持っていないということにこだわるようです。しかし、「カード」というものは「ゲーム」や「ディール」に本当に必要不可欠なものなのでしょうか? そして「ゲーム」や「ディール」で使われる「カード」の価値はずっと変わらないものなのでしょうか? 例えば、もしも「ゲーム」や「ディール」などの途中でいわゆる「ゲームのルール」が変わってしまったのならば、何枚も強力な「カード」を持って圧倒的な優位に立っていた人間たちは手元に持っていたはずの強力な「カード」をいつの間にかすべて失っていて逆に窮地に立たされているということもあり得えない話ではないのだろうと思います。何枚も強力な「カード」を持っていても「ゲーム」や「ディール」の間に「ルール」が変わって大惨敗するということも現実の世界では起こり得ることなのです。本当に「ルール」や「しくみ」を変えることはできるのでしょうか? 「ルール」や「しくみ」を変えるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? そもそも「ルール」や「しくみ」というものは自分が望むような形に変えることができるものなのでしょうか? きょうのところはあえてそれらの問題提起をするだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『不動産』 『所有』したなら どうなるか? 『国家』と『企業』は 全く違う!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前の話ですが、世の中には「ルール」や「しくみ」がいくつも存在するわけです。そして世の中には様々な理由のために「ルール」を破る人間たちも存在するわけです。また世の中の「ルール」や「しくみ」に不満を持って「ルール」や「しくみ」を変えようとする人たちもいるわけです。「ルール」や「しくみ」を変えるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? そもそも「ルール」や「しくみ」というものは自分が望むような形に変えることができるものなのでしょうか? さらに言えば「ルール」や「しくみ」というものは「カネ」や何らかの「特別な力」で捻じ曲げたり変えたりすることができるものなのでしょうか? 例えば、もしもどこかの誰かが「不動産」を手に入れたいと思った場合には、莫大な「カネ」を用意しさえすればその「不動産」を手に入れることができるのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、たとえどれだけ強くその「不動産」を手に入れたいと思っていたとしても、その「不動産の所有者」がその「不動産」を売却する意思がない場合には、その「不動産」を手に入れることができないのです。あえて言い換えるのならば、いくらを莫大な「カネ」を用意したとしても過去に購入することができたアラスカと同じようにグリーンランドなどを購入して「所有」することはできないわけです。それでは「不動産の所有者」が「不動産」を売却する意思がある場合には必要な「カネ」を用意しさえすれば「不動産」を手に入れることができるのでしょうか? 地球上には「不動産」を購入しようとしている側が外国人や外国企業である場合には「不動産」を購入することができないという「ルール」が存在する国もいくつかあるのです。「不公平」であるかどうかはともかくとしても、実際に外国人や外国企業などが「不動産」を購入したり「所有」したりすることを認めない「ルール」になっている国がいくつかあるのです。それでは外国人や外国企業を含めた誰でも「不動産」を購入して「所有」することができる「ある国」において外国人や外国企業が「不動産」を購入して「所有」することで何か問題は発生しないのでしょうか? どんなに少なくとも「ある国」で「不動産」を購入して「所有」している外国人や外国企業が「どこかの国」の政府や事実上「どこかの国」そのものであるという場合には、「ある国の一部」がまるで「どこかの国の一部」や「どこかの国の植民地」のような状態になってしまう危険性が高まるのです。例えば、もしも「どこかの国」がガザ地区を「所有」してリゾート開発に乗り出したり、ロシアに侵略されているウクライナの原子力発電所を「所有」したりするということになるのならば、リゾートや原子力発電所が「どこかの国の一部」や「どこかの国の植民地」のような状態になってしまう危険性が非常に高くなるのです。繰り返しになりますが、世の中には様々な「ルール」や「しくみ」が存在するのです。そして「国家」と「企業」では「ルール」や「しくみ」が全く違うのです。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『学歴』や 『実績』なども 買えるのか? 『カネ』で買えない ものはないのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「カネ」で買うことができないものは存在しないのでしょうか? 世の中には「カネ」では解決することができない問題は存在しないのでしょうか? 世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。 あくまでも「架空の国」の話ですが、どうやらその「架空の国」では「『カネ』さえ支払えば誰でも手に入れることができる種類の『学位』(diploma mill)」などが存在するらしいのです。もちろん「架空の国」でも「学位」というものはそれぞれの「学位」にふさわしい能力と知識を持った人物がルールに定められた過程を経てそれぞれの組織で「学位」を与えるのにふさわしいと認定された場合にのみ得ることができることになっているはずなのです。しかし、どういうわけか多額の「カネ」を支払いさえすれば望みの「学位」を手に入れることができる事例が稀にはあるらしいのです。もしも「『カネ』さえ支払えば誰でも手に入れることができる種類の『学位』(diploma mill)」などが実在するとしたら非常に恐ろしいことが次々と起こる危険性が高くなるのです。考えてもみてください。もしも多額の「カネ」を支払って「学位」を買った能力も知識のない空っぽな人間が「医師」などになったとしたら…。最悪の場合には罪のない多くの人たちの命が次々と危険にさらされることになってしまいます。くどいようですが、世の中には「カネ」で買うことができないものは存在しないのでしょうか? もしかすると「学位」などの「学歴」、仕事などの「実績」なども「カネ」で買うことができてしまうのでしょうか? 世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。もしも「学位」や「実績」を「カネ」で買って取り繕っているような中身が空っぽな人間たちが「医師」になったり「国家元首」になったりしたならば、どれだけ多くの罪のない人たちの命が危険にさらされることになるのかということを想像しないわけにはいかないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『一滴の 血』でも流せば 処罰する? 『契約』にない 『血』を流したら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「カネ」で買うことができないものは存在しないのでしょうか? 世の中には「カネ」では解決することができない問題は存在しないのでしょうか? 世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。 あくまでも一般論ですが、自分たちが稼いだ「カネ」をどのように使ったとしてもそれは基本的には自由なのです。もちろん税金などの支払い義務がある場合にはその義務は果たさなくてはならないわけです。またこれも当たり前の話ですが、いくら自分たちが稼いだ「カネ」だからと言っても法律などに違反するようなことにも使うことができないのです。さらに言えば、時代や社会によってその具体的な内容は少しずつ変わってくるのだろうと思いますが、やはり「人間として許されない」ことをするためにも「カネ」を使うことはできないわけです。例えば、健康な人から臓器を売ってもらって自分に移植するとか心臓の周りの筋肉1kgを売ってもらうなどというようなことは「人間として許されない」ことなのだろうと思います。言い換えれば、世の中には「カネ」で買うことができないものや「カネ」では解決することができない問題が存在するということになるわけです。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「支援」に対する「感謝」が足りないなどと言って「支援」を一方的に引き上げることが「契約書」に書かれているのならばもちろんそうすることは認められるのだろうと思います。しかし、「支援」を一方的に引き上げたために「契約書」には書かれていないウクライナ人の「血」を「一滴」でも流すようなことをしたら厳しく処罰するとか全財産を没収するとか…。地球上でそんな「空想上の話」を思い浮かべているような人たちは少なくないのではないかと思います。もっとも「ビフじいさんのような人間たち」はいったい何を言っているのかを少しも理解することができないのかもしれないわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『親分』は 『子分』に『カネ』を 配るもの? 『商品券』は 『カネ』と違うか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「カネ」で買うことができないものは存在しないのでしょうか? 世の中には「カネ」では解決することができない問題は存在しないのでしょうか? 世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。 あくまでも一般論ですが、ごく普通の多くの人たちの中では、「商品券」なども含めて趣旨や事情がよく分からない「カネ」や「プレゼント」は受け取らないという「常識」を持っている人たちの方が多いのではないかと思います。さらに付け加えるのならば、「よく知らないおじさん」から「お小遣い」や「プレゼント」などをもらってはいけないという「常識」を知って正しく理解している子どもたちも少なくないと思います。それにもかかわらず、なぜ新人議員たちに「商品券」を配るなどという「発想」が出てくるのでしょうか? もしかすると「親分」が「子分たち」に「カネ」を配るのが当り前だった時代の「どこかの国の政治家たち」を「手本」にでもしているのでしょうか? 「親分」や「政治指導者」たるもの「子分たち」や「新人議員たち」に「カネ」を配らなければならないなどという類の致命的に間違った学習をしてしまっているからこそ「商品券」などという「発想」が出てきてしまうのでしょうか? もしそうであるのならば、あまりにも時代錯誤で「政治とカネ」が大きな問題になっている今の新しい時代には全くふさわしくない政治家ということになるのだろうと思います。「新聞紙に包まれた札束」から「商品券」に変えたとしてもやっていることの本質は変わらないはずなのです。ちなみに実際に「商品券」などを配ってみたら少しは「政治指導者」らしくなってきたのでしょうか? 繰り返しになりますが、世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「今あえて 『商品券』を 配るとか… 『センス』がなくて 呆れてしまう!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「カネ」で買うことができないものは存在しないのでしょうか? 世の中には「カネ」では解決することができない問題は存在しないのでしょうか? 世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。 いわゆる「政治とカネ」の問題は、地球上のどこに行っても古くて新しい問題なのではないかと思います。ここではあえてその詳細には触れませんが、もちろんいわゆる「政治とカネ」の問題については様々な考え方があるのだろうと思います。しかし、いわゆる「政治とカネ」の問題で世間から厳しい批判を受けているその真っ最中に、どこかの政治家が新人議員たちを集めてわざわざ「商品券」を配ったけれども返却されたなどという話が聞こえてきました。呆れたとか耳を疑ったという人たちは少なくないと思いますが、私はどこかの政治家の「センス」や良識を強く疑いました。もしかすると「政治とカネ」が問題になっていても政治と「商品券」ならば問題がないとでも思ったのでしょうか? おそらく「10万円」分の「商品券」を配って返却されたとしても法律的には大きな問題は発生しないのかもしれないと思います。しかし、「親戚のおじさん」が「親戚の子どもたち」に「お小遣い」をあげるような状況とは話が全く違うのです。多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、最近は「親族でもない若い人たち」と会って一方的に「お小遣い」をあげただけでも「援助交際」とか「パパ活(あるいは、ママ活?)」などと批判されることも少なくないはずなのです。くどいようですが、どこかの政治家の「センス」や良識が強く疑われることになると思います。もしかすると「太平洋と大西洋の間にあるどこかの国」にでも行けば「センス」がなくても非常にタイムリーということにはなるのかもしれませんが…。繰り返しになりますが、世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「努力して 『価値ある何か』 得られれば 『受験競争』 不要になるが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「教育」には本当にそんなに多くの「費用」がかかるものなのでしょうか? より良い「教育」を受けるために本当にそんなに多くの「時間」や多くの「費用」が必要になるのでしょうか? そもそもより良い「教育」を受ければ本当により良い人生を送ることができるのでしょうか? 一度ぐらいは立ち止まってじっくりと考えてみる必要があると思います。 きょうも「卒業証書」や「学位」の「価値」、それらを得るための「時間」と「費用」の問題についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、たとえどこで得たものであったとしても「卒業証書」や「学位」の「価値」は同種類のものであるのならば同じなのでしょうか? どんなに少なくとも世の中の多くの人たちはたとえ同種類のものであったとしても「卒業証書」や「学位」の「価値」が同じだとは思っていないのだろうと思います。だからこそ「受験競争」などというものが存在するのだろうと思います。もちろんより良い「教育」を受けたいとか自分の子どもにより良い「教育」を受けさせたいなどという感情は人間としてはごく自然な感情だと思います。しかし、より良い「教育」を受けるために本当にそんなに多くの「時間」や多くの「費用」が必要になるのでしょうか? 「受験競争」などのすべてを否定するつもりはありませんが、「受験競争」などが存在することによっていわゆる「名門校」などの「卒業証書」や「学位」を得るために必要となる「時間」と「費用」が非公式な形で拡大しているということだけは疑いのない事実なのです。念のために言っておきますが、いわゆる「名門校」などの「卒業証書」や「学位」を得たいと思っている人たちの意思などを否定するつもりはないのです。しかし、例えば、たとえどこの学校に入学したとしても、「受験競争」などに費やすはずだった「時間」や「費用」などと同じだけのものをつぎ込んで努力すれば、いわゆる「名門校」などの「卒業証書」や「学位」と同じかそれ以上の「価値」があると多くの人たちが受け止めることができる「価値のある何か」を得ることができる「選択肢」をつくり出すことも必要ではないかと考えているのです。もしもそのような「選択肢」が作り出すことができるのならば「受験競争」が完全になくなることはなかったとしても「受験競争」は必要不可欠ではないとか不要だと考える人たちも増えるのではないかと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、そもそもより良い「教育」を受ければ本当により良い人生を送ることができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「各校の 『卒業証書』 『価値』同じ? 『名門校』も そうでなくても…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「教育」には本当にそんなに多くの「費用」がかかるものなのでしょうか? より良い「教育」を受けるために本当にそんなに多くの「時間」や多くの「費用」が必要になるのでしょうか? そもそもより良い「教育」を受ければ本当により良い人生を送ることができるのでしょうか? 一度ぐらいは立ち止まってじっくりと考えてみる必要があると思います。 きょうも「卒業証書」や「学位」を得るための「時間」と「費用」の問題についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。繰り返しになりますが、もしも「卒業証書」や「学位」の「価値」が変わらないのならば、「卒業証書」や「学位」を得るために必要な「時間」や「費用」は少なければ少ないほど良いと考える人たちもいるのだろうと思います。そしてもしも成績が非常に優秀な者に「飛び級」を認めるのならば、かなり努力をすれば「卒業証書」や「学位」を得るための「時間」と「費用」を同時に削減することができるかもしれないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、いくら成績が非常に優秀な者であったとしても「飛び級」は原則的に認めないとした場合であっても、例えば、成績が極めて優秀な者には「授業料」を免除するとか、特別に「奨学金」を給付するなどという形で「卒業証書」や「学位」を得るための「費用」を削減することは不可能ではないと思います。さらに言えば、例えば、もしも「各校の成績最優秀者」と「全国統一試験での成績優秀者」には「授業料」を免除したり特別に「奨学金」を給付したりするというような「制度」を導入することができるのならば、いわゆる「名門校のブランド」などという非公式なものとは違った形で自分の「卒業証書」や「学位」の「価値」を高める「選択肢」をつくり出すことができるのかもしれないのです。あえて言い換えれば、努力すれば「名門校」の入学試験合格などとは別の形でも自分の「卒業証書」や「学位」の「価値」を高める「選択肢」をつくり出すことができるようになるかもしれないのです。繰り返しになりますが、どこかの国の高等学校の授業料無償化の問題では「卒業証書」や「学位」を得るための「時間」と「費用」をどうするのかということがほとんど議論されていないことが非常に疑問です。きょうもあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『飛び級』を 認めるのなら 努力して 『時間』と『費用』 削減できる」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「教育」には本当にそんなに多くの「費用」がかかるものなのでしょうか? より良い「教育」を受けるために本当にそんなに多くの「時間」や多くの「費用」が必要になるのでしょうか? そもそもより良い「教育」を受ければ本当により良い人生を送ることができるのでしょうか? 一度ぐらいは立ち止まってじっくりと考えてみる必要があると思います。 おそらくごく普通の人たちがどこかの「授業料」を支払う必要がある学校に自分が入学しよう(あるいは、自分の子どもを入学させよう)とする場合には、「授業料」を「安い」と感じる人たちよりも「高い」と感じる人たちの方が多いのではないかと思います。「教育」には本当にそんなに多くの「費用」がかかるものなのでしょうか? もちろん支払わなければならない「授業料」に実際に受けられる「教育」の内容が見合っていると納得している人たちも少なくはないとは思います。しかし、非常に極端な場合には、もしも「卒業証書」や「学位」の「価値」が変わらないのならば、「卒業証書」や「学位」を得るために必要な「時間」や「費用」は少なければ少ないほど良いと考える人たちが出てくるということになるのだろうと思います。そもそも「卒業証書」や「学位」を得るために最低限必要な「時間」は存在するのでしょうか? 例えば、どこかの国のように高等学校の「卒業証書」を得るためには少なくとも3年間、大学の「学位」を得るためには原則として4年間という時間がほぼ確実に必要になるのでしょうか? 言い換えれば、「卒業証書」や「学位」を得る過程でいわゆる「飛び級」をどの程度認めるのか認めないのかということが問題になるはずなのです。もしも成績が非常に優秀な者に「飛び級」を認めるのならば、かなり努力をすれば「卒業証書」や「学位」を得るための「時間」と「費用」を同時に削減することができるかもしれないわけです。逆に、もしもいわゆる「飛び級」は原則的に認めないということになるのならば、どんな人たちにも「卒業証書」や「学位」を得るための「時間」と「費用」がほぼ同じだけ必要になるということになるわけです。率直に言わせてもらうのならば、どこかの国の高等学校の授業料無償化の問題では「卒業証書」や「学位」を得るための「時間」と「費用」をどうするのかということがほとんど議論されていないことが非常に疑問です。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『独裁者』 打倒するのは 『暴力』か? 『SNS』か? 『ジャーナリズム』か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? それとも虐げられた「市民」らによる「革命」などが次々と起こって「皇帝」「独裁者」が打倒され続けることになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 どうも地球上のどこかの国には「ハネムーン期間」などと呼ばれている「謎の100日間」が存在するらしいのです。あえて率直に言わせてもらうのならば、「ハネムーン期間」などと呼ばれている「謎の100日間」はいわゆる「試用期間」とは違ったものになっているのでしょうか? ちなみに100日も経たないうちに歴代の大統領が過去数十年以上に渡って積み重ねてきた「同盟国」との信頼関係をほぼ完全に破壊してしまっても「本採用」などということになるのでしょうか? たった100日間でますます経済を失速させることになったとしても国民の大多数は本当に「本採用」を支持するのでしょうか? もっともこの場合には「試用期間」や「本採用」などということに全く法的根拠はないのだろうとは思いますが…。「You are fired!」などという台詞はどこかの国ではテレビ番組だけの話なのかもしれないと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「ハネムーン期間」などと呼ばれている「謎の100日間」が終わっても「ジャーナリズム」が「独裁者」らの「圧力」に屈して十分に機能することがないのならば、「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされる危険性がさらに高まることになるのかもしれないと思います。「独裁者」らを打倒することができるのはいったい誰なのでしょうか? 「ジャーナリズム」ではないとしたら、虐げられた「市民」らによる剝き出しの「暴力」なのか「SNS」なのか…。それとも…。もしかすると「5月頃」が山場の1つになるのかもしれないと思い始めています。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「その『箱』や 『蓋』を開けたら どうなるか? 『留守』でないなら 考えてみろ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? それとも虐げられた「市民」らによる「革命」などが次々と起こって「皇帝」「独裁者」が打倒され続けることになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 最初に確認しておきますが、これはあくまでも「映画の中の世界」の話です。そもそも自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちは、「不公平」などと叫びながら「ディール」を仕掛けた場合には、決して開けてはならない「箱」や「蓋」をいくつも開けることにつながる危険性が高いということを理解しているのでしょうか? 例えば、「同盟国」は防衛予算をもっともっと大幅に増額してコストを負担しなければ「不公平」だから守ってやらない? もしかすると自分たちはカネで雇われた「傭兵」や「番犬」だとでも言っているのでしょうか? そういうことになるのならば、高いカネを支払って肝心なときに裏切ったり逃げ出したり大して役に立たなかったりする「傭兵」や「番犬」を雇うぐらいならば自分たちだけで国を守った方がましだと考える人たちも少なくないのだろうと思います。もしかするとそう遠くないうちに「不公平」だから自分たちも核兵器を保有して自分たちの国を自分たちだけで守るべきだと考える人間たちも増えてくるのではないかと思いますが…。さらに言えば、自分たちは「同盟国」を守ることになっていても「同盟国」の方は自分たちを守ってくれることになっていないのは「不公平」? そういうことになるのならば、例えば、「同盟国」のためにニューヨークやワシントンのような大都市やその周辺地域に広大な基地を提供してそのための経費の大半を負担しなければ「不公平」になるはずです。また「同盟国」を守るという名目で「同盟国」内の基地に少ない経費で駐留させることができている「仮想敵国」をけん制するために「流用」している軍事力をすべて引き上げなければ「不公平」になるはずです。繰り返しになりますが、「不公平」などと叫びながら「ディール」を仕掛けた場合には、決して開けてはならない「箱」や「蓋」をいくつも開けることにつながる危険性が高いということに気づいているのでしょうか? 頭の中で「ディール」以外のものがすべて「留守」になっていないかどうかを考えてみるべきなのです。どこかの誰かが「ビフじいさんのような人間」の頭をコツコツと叩きながら「Hello! Anybody home?」などと言っている「架空のシーン」を想像している人たちも少なくないのかもしれません。しかし、あくまでもこれは「映画の中の世界」の話なのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『独裁者』 国境を越え 協力を するようになる のならば『悪夢』…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? それとも虐げられた「市民」らによる「革命」などが次々と起こって「皇帝」「独裁者」が打倒され続けることになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 最初に確認しておきますが、これはあくまでも「空想上の世界」の話です。もしも自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちが国境を越えて互いに協力し合うようになってしまったのならば「世界大戦」や「核戦争」はそう遠くないうちに現実のものになってしまうのでしょうか? 例えば、もしも「ある独裁者」が「選挙」で当選するために自らの「疑惑」のもみ消しで「別の独裁者」とこっそり協力していたとするのならば、「選挙」で当選した「ある独裁者」は、たとえ「密約」などが存在しなかったとしても、「別の独裁者」に対して何らかの形で「見返り」を与えたり好感や親近感を持ったりすることになるのでしょうか? 例えば、根拠らしい根拠も示さずに「ある独裁者」は「別の独裁者」が自分のことを「尊敬」しているなどと何度も繰り返すとか…。あるいは、「ある独裁者」は「別の独裁者」を非難するようなことはなぜか繰り返し避けるとか…。「独裁者」たちが国境を越えて互いに協力し合うようになってしまうのは世界中の多くの人たちにとっては「悪夢」です。このままでは世界中のあちこちから聞こえてくる「不公平」という声がさらに大きくなりそうです。もしも「独裁者」が核兵器を持っているのは「不公平」という声が勢いを増した場合には核兵器を開発・保有しようとする動きがますます活発になって「核戦争」の危険性はさらに高まることになってしまうかもしれないのです。あくまでも念のために確認しておきますが、これは「空想上の世界」の話なのです。しかし、それにもかかわらず、今現在のウクライナはそんな「空想上の世界」でもなかなか起こり得ないようなひどい状況に唐突に陥ってしまったように見えます。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「安く買い 高く売ること できるなら 大儲けする ことはできるが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? それとも虐げられた「市民」らによる「革命」などが次々と起こって「皇帝」「独裁者」が打倒され続けることになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 あくまでも一般論ですが、「株価」や「為替」などでは、堅実な取引が行われているときと、「急騰」したり「暴落」したりしているときとではどちらの方が多く儲けることができるのでしょうか? そしていわゆる「マーケット」では、ほとんどの人たちが大損をしているときでもなぜか自分たちだけは大儲けをしている人たちがいるというのは本当の話なのでしょうか? もちろんこれも一般論ですが、もしも「急騰」する直前に安く買って「急騰」した後に高く売ることができたり、あるいは、もしも「急落」する前に高く売って「急落」しているときに安く買い戻すようなことができたりするのならば、「株価」や「為替」などで大儲けをすることができるのだろうと思います。いったいどんなときに「株価」や「為替」などは「急騰」や「急落」するのでしょうか? そしていったいどのようにしたら「株価」や「為替」などが「急騰」や「急落」することを知ることができるのでしょうか? そもそも「株価」や「為替」などの「急騰」や「急落」を利用して大儲けするための資金はいったいどのようにして調達するのでしょうか? そのように考えていくと「株価」や「為替」などの「急騰」や「急落」する際に大儲けをすることができる人間たちなどまずいないのではないかと思います。しかし、もしも「ビフじいさんのような人間」とその「遠い親戚」や「お友達」などが「実在」するのならば自分たちだけが大儲けをし続けるようなことも不可能ではないのだろうと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『今』『ここ』で すぐに決着 できなくて 長期化すれば 『消費者』たちは…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「今」「ここ」「自分」だけに注目した「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 今回も「どこかの国」が一方的に関税を引き上げたとしても「相手国」も報復のために「どこかの国」に対する関税を引き上げることになるであろうという問題についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。確かに関税を引き上げた場合には「どこかの国」では「相手国から輸入された製品」の数量が減少したり価格が上昇したりすることになるのだろうと思います。その結果として、これまでは「相手国から輸入された製品」よりも価格が高かった「どこかの国の国内産業が生産した製品」は「どこかの国」の中ではその競争力を高めることができるのだろうと思います。「どこかの国」の関税の引き上げは「どこかの国の国内産業で雇用されている労働者」にとっては悪い話ではないのかもしれないと思います。しかし、いくら「どこかの国」が関税を引き上げたとしても、それだけでは「どこかの国の国内産業が生産した製品」の「性能」や「品質」を高めることはできないということにはよくよく注意をする必要があるのです。あえて言い換えるのならば、もしも「どこかの国」が関税を引き上げたことによって「相手国から輸入された製品」の数量が減少したり価格が上昇したりすれば、本当に「どこかの国の国内産業が生産した製品」は以前よりも売れるようになるのでしょうか? そもそも「どこかの国の国内産業が生産した製品」は「相手国から輸入された製品」と比べて「性能」や「品質」が高かったのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、関税の引き上げによって以前よりも相対的に安くなった「どこかの国の国内産業が生産した製品」を買うのか、それとも以前よりも高くなった「相手国から輸入された製品」を買うのかということを決めるのは「どこかの国の消費者」のはずなのです。もしも「今」「ここ」「自分」だけに注目した「ディール」を仕掛けてすぐに決着せずに長期化した場合には「消費者」の利益の損失は非常に大きなものになるのです。繰り返しになりますが、いくら「どこかの国」が関税を引き上げたとしても、それだけでは「どこかの国の国内産業が生産した製品」の「性能」や「品質」を高めることはできないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調しておくだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『今』『ここ』で すぐに『ディール』が 成立を しなかったなら 大きな打撃!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「今」「ここ」「自分」だけに注目した「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 あえて可能な限り個別具体的な固有名詞などは取り上げないことにしますが、もしも「どこかの国」が一方的に関税を引き上げたとしても、おそらくその関税を引き上げられた側の「相手国」も報復のために「どこかの国」に対する関税を引き上げることになるのだろうと思います。その結果として、「相手国」からの「どこかの国」に対する輸出だけではなく、「どこかの国」からの「相手国」に対する輸出も今現在よりもずっとしにくい状況になってしまうわけです。そしてもしも「相手国」からの「どこかの国」に対する輸出の方が、「どこかの国」からの「相手国」に対する輸出よりもずっと多い場合には、最初に関税を一方的に引き上げられた「相手国」の側の方がはるかに大きな経済的な打撃を受けることになるわけです。しかし、いくら「相手国」の方がはるかに大きな経済的な打撃を受けることが事実だったとしても、「どこかの国」が経済的な打撃を全く受けないというわけではないのです。ですから、いくら「どこかの国」が「今」「ここ」「自分」だけに注目して「ディール」を仕掛けたとしても、「相手国」との交渉が長引いてなかなか「ディール」が成立しなければ、「どこかの国」の経済に対する悪影響も大きなものになってしまうのです。さらに言えば、「どこかの国」が「今」「ここ」「自分」だけに注目して「ディール」を次々と仕掛けて「相手国」の数が多くなれば多くなるほど、なかなか「ディール」が成立しなかった場合には「どこかの国」の経済が受ける悪影響はさらに深刻なものになってしまうのです。「どこかの国」の目論見通りに「今」「ここ」「自分」だけに注目した「ディール」はすぐに成立するのでしょうか? そもそも本当に「今」「ここ」「自分」だけに注目した「ディール」が必要なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「人々は なぜ『貿易』を したがるか? 互いに利益 得られるからか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「今」「ここ」「自分」だけに注目した「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 そもそも人々はなぜ「貿易」や「交易」と呼ばれるものをしたがるのでしょうか? 「貿易」や「交易」と呼ばれるものは、「貿易」や「交易」をした者が互いに利益を得られるからなのでしょうか? 例えば、たとえある場所では「ありふれた物」であったとしても別の場所では「珍しい物」になることもあるわけですから、上手くいけば互いに「ありふれた物」同士を交換してそれぞれの場所に持ち帰るだけで「珍しい物」として高く売ることができて利益を得ることができるのではないかと思います。極端な場合には、互いに「ありふれた物」同士を交換するだけでも利益が得られることがあるのです。もちろん利益の分配が不公平などということはあり得るのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「貿易」や「交易」をすれば、ある場所では作ることができなかったり手に入れることができなかったりするが自分たちの場所では簡単に作れたり安く手に入れることができる物同士を交換して互いに利益が得られることがあるわけです。その上で、あえて逆のことを考えてみることにしようと思います。もしも今現在行っている「貿易」や「交易」をやめてしまったならば、いったいどうなるのでしょうか? もしも「貿易」や「交易」をやめてしまったならば、見えにくい形での利益を含めて今現在「貿易」や「交易」によって得られている利益のすべてを失うということになるのです。「国内産業が生産する製品」よりも「輸入された同種の製品」の方が売れているということはどのようなことを意味しているのでしょうか? なぜ「輸入された同種の製品」は「国内産業が生産する製品」よりも売れるのでしょうか? 価格が安いということだけがその理由なのでしょうか? きょうのところはあえてそのような疑問を投げかけるだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「新しく 『偉大な国』に なったのか? 『今』『ここ』『自分』… 仲間は増えた?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会には自分自身が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」はいったい何人いるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」によって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 繰り返しになりますが、かつて米国が誰もが認める「偉大な国」であったときには、米国は、圧倒的に強大な「軍事力」と「経済力」だけではなく、強大な「ソフトパワー(Soft Power)」も併せ持っていたのです。もしも「皇帝」や「独裁者」が強大な「軍事力」と「経済力」を持っていたとしても、国際社会の多くの人たちが魅力を感じるような「ソフトパワー」のようなものは決して手に入れることはできないのです。そして「皇帝」や「独裁者」であってもなくてもどこかの国家指導者が「軍事力」や「経済力」を使って相手をねじ伏せればねじ伏せるほど、「ソフトパワー」のようなものはどんどん失われていくのです。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、最近流行しているらしい「米国第一主義」などというものは、要するに「今」「ここ」「自分」だけが大切だから「今」「ここ」「自分」を最優先で考えていくという単なる自己中心的な考え方にしか見えないのです。今現在の米国は新しく「偉大な国」に生まれ変わっているのでしょうか? 今現在の米国は国際社会の中で「独裁者」以外の仲間を増やしているのでしょうか? もしかすると「ビフじいさん」のような人間たちには分からないのかもしれませんが、もしもこのまま国際社会の多くの人たちがどんどん魅力を感じなくなり、さらに同盟国からの信頼を次々と失っていくことになるのならば、再び「偉大な国」になるようなことは不可能なのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調しておくことにします。 ======================================= 「『軍事力』 『経済力』で ねじ伏せる? 『ソフトパワー』は 失われるが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会には自分自身が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」はいったい何人いるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」によって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 あえて個別具体的な固有名詞などはできるだけ取り上げないことにしておきますが、この数十年に渡って、世界中の多くの人たちは、米国の音楽や映画などの「文化」に強い魅力を感じてきました。そんな非常に魅力的な米国の音楽や映画などの「文化」のおかげで米国は、世界中の多くの人たちに非常に大きな影響を与えることができる特別な「力」を持っていると考えられてきたのです。かつて米国の有名な学者らがその特別な「力」のことを「ソフトパワー(Soft Power)」などと呼んでいたことをまだ覚えているという人たちも国際社会の中には残っていると思います。あえて言い換えれば、かつて米国が誰もが認める「偉大な国」であったときには、米国は、「ハードパワー」とも呼ばれた圧倒的に強大な「軍事力」と「経済力」だけではなく、強大な「ソフトパワー」も併せ持っていたのです。いくら「皇帝」や「独裁者」が強大な「軍事力」と「経済力」を持っていたとしても、国際社会の多くの人たちが魅力を感じるような「ソフトパワー」のようなものは決して手に入れることはできないのです。だからこそ国際社会の中の多くの人たちはかつての米国は「偉大な国」だと見ていたのだろうと思います。あくまでも念のために付け加えておきますが、「皇帝」や「独裁者」であってもなくてもどこかの国家指導者が「軍事力」や「経済力」を使って相手をねじ伏せればねじ伏せるほど、「ソフトパワー」のようなものはどんどん失われていくのです。何かの映画に出てきたことがあるのかどうかはよく分かりませんが、「タリフマン」などと自称したり「ディール」などという言葉を多用したりする「ビフじいさん」のような人間たちが「米国を再び偉大にする」ことが本当にできるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『言論の 自由』をあえて 見せてみた? そうであるなら なかなかのもの!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会には自分自身が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」はいったい何人いるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」によって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 引き続き米国大統領周辺とウクライナ側の「言い争い」についてもう少しだけ考えてみることにします。地球上の独裁国家や専制国家では保障されていない「言論の自由」というものがどういうものなのかをテレビカメラの前での「言い争い」という形であえて見せてみたということならばなかなかのものだとは思いますが…。その上で、もしも「プーチン氏はこれまでに何度も約束を破ってきた相手だから全く信用できない」などと主張しているウクライナ側との間で本気で「ディール」を成立させようとするのならば、「二度とプーチン氏とロシアに約束を破らせないためにどうするのか」とか「もしもプーチン氏とロシアが約束を破った場合にはどうするのか」などという「保証」が必要不可欠になるはずなのです。「ビジネスマン」の「ディール」の場合には「カネ」や「利益」が何よりも確かな「保証」になるのかもしれないと思うこともあります。しかし、現実政治においてはいくら大きな「利益」を得ることができるなどと言われたとしても「安全の保証」のような形での十分に信頼することができる「裏付け」を欠いた「ディール」が成立することはあり得ないのです。世の中には「カネ」では買うことができないものはいくらでもあるはずなのです。もしかすると「ビフじいさん」のような人間には理解することが非常に難しいことなのかもしれませんが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「口喧嘩? カメラの前で 『ディール』した? そもそも合意 できていたのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会には自分自身が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」はいったい何人いるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」によって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 米国のトランプ大統領とウクライナのゼレンスキー大統領が2/28にホワイトハウスで会談しましたが、マスメディアに公開された約50分間の後半から言い争いになったことで大きな波紋が広がっています(→開始から約40分が経過したところで、ゼレンスキー大統領と米国のバンス副大統領、さらにトランプ大統領とが言い争いに。ウクライナの現状や「安全の保証」などで。予定されていた鉱物資源開発などに関する協定への署名も、共同記者会見も中止に)。率直に言わせてもらうのならば、「口喧嘩」に近い状態でしたが…。国家指導者たちが多くの記者たちやテレビカメラの前で言い争うような異例の映像を見た人たちはいったいどう思ったのでしょうか? おそらく米国民の中でトランプ大統領を強く支持している人たち、米国民でもトランプ大統領を全く支持していない人たち、そしてウクライナの人たち、その他の国際社会の多くの人たちの間では見方や感想が大きく違ってくるのではないかと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、そもそも米国とウクライナは本当に「合意」していたのでしょうか? おそらく冒頭の会談の発言を聞いていた人たちは、ウクライナの現状、ロシアの脅威、「安全の保証」などで話が全くかみ合っていなかったということに非常に驚いたのではないかと思います。本当にこんなに状態で合意文書などに署名することができるのだろうかなどと思っていた人たちも少なくなかったのではないかと思います。その上で、もしも言い争いを含めた今回の会談も最近流行の「ディール」の一部だったということであるのならば、「ディール」を仕掛けた側はなかなかの「タフネゴシエイター」ということになるのかもしれないと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「選ぶのは 『区立』か『都立』? 『国立』か? もちろん『私立』 たくさんあるし…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちは「国や地方自治体」と「民間」のどちらの方をより信頼しているのでしょうか? もちろんそれぞれの国によって「国や地方自治体」と「民間」のどちらの方が信頼されているのかは違うのだろうと思います。そして当たり前と言えば当たり前の話ですが、「民間」の中にも信頼できるものと信頼できないものがあるわけです。さらに言えば、「国や地方自治体」の中にも信頼できるものとそうではないものがあるのかもしれないと思います。 引き続き「公立学校」と「私立学校」のどちらを選ぶのかという問題についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。多くの人たちはもう何十年も前から東京都などの大都市部では「中学受験」がかなり盛んであるということを知っていると思います。東京23区の中には自宅のすぐ近くに「国立」「都立」「区立」「私立」の中学校(中等教育学校)が選ぶのに困るくらいいくつも存在するような地域もあるのです。こうした地域では小学6年生のクラスの半数以上(大多数?)が「中学入試」を受験し、地元の区立中学校にそのまま入学する生徒が「少数派」になっているようなところもあるのです。しかも東京都では自治体内の「通学区域」以外の公立中学校を選択することができる「学校選択制」が採用されている特別区・市も少なくはないのです。約15年前までの数年間に渡って東京23区のいくつかの区で個人的にその「実態」を調査していたことがあるのですが、もう何十年も前から大都市部では「公立学校」しか選ぶことができなかったり大多数の小学生が地元の公立中学校にそのまま進学したりするような「地方」とは非常に大きく違った教育環境になっているということだけは疑いのない事実なのです。この教育環境のあまりにも大きな違いを大都市部との「格差」と片づけることは簡単なのですが…。いずれにしても「教育無償化」というのはただ単に経済的な負担を軽減するというだけの単純な話ではないということを改めて強調しておく必要があります。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『公立』が 『民営化』する 動きある? 『通信制』に 新たな動き?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちは「国や地方自治体」と「民間」のどちらの方をより信頼しているのでしょうか? もちろんそれぞれの国によって「国や地方自治体」と「民間」のどちらの方が信頼されているのかは違うのだろうと思います。そして当たり前と言えば当たり前の話ですが、「民間」の中にも信頼できるものと信頼できないものがあるわけです。さらに言えば、「国や地方自治体」の中にも信頼できるものとそうではないものがあるのかもしれないと思います。 引き続き「公立学校」と「私立学校」のどちらを選ぶのかという問題についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。もしも「教育無償化」が実現して「公立学校」と「私立学校」の経済的な負担がほぼ同じ状態になったとしたら、ごく普通の多くの人たちは「公立学校」と「私立学校」のどちらを選ぶことになるのでしょうか? やはりそれぞれの人たちによってどちらを選ぶのかは違ってくると思います。そしてもちろん経済的な負担をあまり考えずに自分が行きたい学校を自由に選ぶことができるようになるのは悪いことではないと思います。しかし、「公立学校」と「私立学校」のどちらも選ぶことができる地域では「私立学校」を選ぶ人たちが大幅に増えた結果として「公立学校」を選ぶ人たちが減少したりすることはないのでしょうか? もしも「公立学校」の志願者数や入学者数が大幅に減少することになるのならば、「公立学校」の存在意義が問われることになると思います。もしも「教育無償化」を全国一律で進めるのならば、同時に「公立学校」に課された様々な過重な制約や負担をなくすことを真剣に検討することが必要不可欠になると思います。その上で、あくまでも仮定の話なのですが、もしも「教育無償化」の動きに合わせて各地で「伝統と実績のある公立学校」を「民営化」しようとするような動きが出てきたり、最近学生数を増やしている「通信制」から新たな動きが出てきたりした場合には、いったいどうなっていくのでしょうか? もしかすると「私立学校」よりも「民営化した元公立学校」や「通信制」の方をより多くの人たちが選ぶようになるのでしょうか? 「教育無償化」というのは経済的な負担を軽減するというだけの単純な話ではないということを改めて強調しておく必要があります。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『地方』には 『公立』だけの 場所もある! 『無償化』すれば 『私立』がお得?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちは「国や地方自治体」と「民間」のどちらの方をより信頼しているのでしょうか? もちろんそれぞれの国によって「国や地方自治体」と「民間」のどちらの方が信頼されているのかは違うのだろうと思います。そして当たり前と言えば当たり前の話ですが、「民間」の中にも信頼できるものと信頼できないものがあるわけです。さらに言えば、「国や地方自治体」の中にも信頼できるものとそうではないものがあるのかもしれないと思います。 例えば、ごく普通の多くの人たちは実際に自分自身や自分の子どもたちが入学することを考える場合には「公立学校」と「私立学校」のどちらを選ぶことになるのでしょうか? 言うまでもなくそれぞれの人たちによってどちらを選ぶのかは違ってくると思います。しかし、たとえ日本のような平和で豊かな国であっても、「地方」に行くと学校選択の「選択肢」が事実上なくなってしまうことは少なくないのです。「地方」では自宅から通学することができる範囲内にはあの「公立学校」しかないなどという話がそれほど珍しくはないのです。また、たとえ「公立学校」と「私立学校」のどちらも選ぶことができる地域に住んでいたとしても、「私立学校」の学費があまりにも高くて事実上「公立学校」しか選ぶことができないという人たちも少なくないのです。もしも「私立学校」を含めて全国一律で授業料を無償化するなどということになるのならば、様々な「不公平」を新たに生み出す危険性も高くなるのです。例えば、「公立学校」しか選ぶことができない場所に住んでいる人たちは無償化の恩恵をほとんど受けることはできないわけですし、自分で良いと思って「公立学校」を選んだ人たちも施設環境が充実した「私立学校」と比べて何か少し損をしたような気分になるかもしれないのです。「私立学校」を含めて授業料を「無償化」することが悪いことだとは言いませんが、ただ単に「無償化」するだけでは様々な「不公平」を新たに生み出すなど弊害があまりにも大きくなってしまうということには注意が必要になります。ごく普通の人たちが「『私立』の方がお得』などと受け止めてしまうような状況だけは望ましくないことは確かです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『関税』を どんどん上げて 囲い込む? 『ブロック経済』? その先は何?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会には自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」はいったい何人いるのでしょうか? そのうち「選挙」によって生まれた「独裁者」は何人いるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」によって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思い始めています。 もしもどこかの国が「関税」をどんどん引き上げて外国から安い製品が入り込まないようにして自国のカネや需要を囲い込むような動きを見せたときに、第二次世界大戦前に地球上のあちこちに存在していた「ブロック経済」のことをすぐに思い出すことができる人たちはいったいどのくらいいるのでしょうか? 「ブロック経済」ではそれぞれの「ブロック」が互いに経済的にはほとんど無関係な状態になってしまうのです。あえてその詳細には触れませんが、「ブロック経済」化することによって、ほとんどの国がこれまで貿易によって享受してきた利益を失うということになるのです。例えば、関税などを引き上げることによって外国から安価で高品質な製品を輸入することができないようにすれば、(少なくとも一時的には)国内産業を守ることはできるのかもしれませんが、国内の消費者は高価で低品質な製品しか購入することができなくなるわけです。言い換えれば、関税の引き上げによって消費者の「利益」を強制的に国内産業に移動させることになると考えることもできるのです。さらに言えば、それぞれの「ブロック」が互いに経済的にはほとんど無関係な状態になるということは、極端な場合には、もしもある「ブロック」が他の「ブロック」から力づくで何かを奪い取ったとしても、自分たちの経済には全く悪影響を与えずに力づくで奪い取った分だけその経済を成長させることができるということにもなってしまうのです。あくまでも念のために確認しておきますが、そんな「ブロック経済」の次にやってくるのはいったい何なのでしょうか? 何度も繰り返していますが、「ビフじいさんのような人」に限らず、国際社会のすべての人たちには人類の歴史から様々なことを正しく学ぼうとする姿勢が必要なのです。きょうのところはあえてこれ以上は言わないことにしておきます。 ======================================= 「人類の 歴史を『逆行』 した『王』や 『皇帝』などは 『歴史』を学ぶ?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会には自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」はいったい何人いるのでしょうか? そのうち「選挙」によって生まれた「独裁者」は何人いるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」によって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思い始めています。 今現在の国際社会ではいわゆる「民主主義」というものは正しいものであるということになっています。ちなみにそのいわゆる「民主主義」というものはなぜ生まれることになったのでしょうか? いわゆる「民主主義」が正しいものであるとされる前の世界はいったいどのような世界だったのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて単純化して言えば、多くの国では「絶対君主制」などのような絶対的な権力を持った「王」や「皇帝」が君臨しており、その「王」や「皇帝」が自分の欲望をむき出しにしてその欲望のままに行動するような世界だったのではないかと思います。一部の特権階級を除外したごく普通の多くの人たちがどれだけ困窮したとしても、「植民地」として支配された地域の人たちがどれだけ尊厳を傷つけられ搾取されたとしても、相変わらず「王」や「皇帝」は君臨して自分の欲望のままぜいたくな生活を続けていたのです。そんな理不尽な状態を破壊したのが「フランス革命」などのような「市民革命」と呼ばれるものだったのです。そして様々な紆余曲折があって、今現在のようないわゆる「民主主義」というものが正しいとされる世界になっていったはずなのです。今現在の国際社会で自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」は、人類の歴史を知っているのか知らないのかはともかくとしても、歴史を「逆行」していることだけは確かなのです。そのように考えれば、そう遠くない将来に歴史の歯車が正しい方向に回転して「革命」が発生したとしても少しも不思議ではないのです。当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、人類の歴史は約250年よりも約2000年よりもはるかにずっと長く続いているのです。「ビフじいさんのような人」に限らず、国際社会のすべての人たちには人類の歴史から様々なことを正しく学ぼうとする姿勢が必要なのです。きょうのところはあえてこれ以上は言わないことにしておきます。 ======================================= 「『レアアース』 権益狙う 人間に 『ヒト』『モノ』『カネ』を 『投資』させれば
…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会には自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」はいったい何人いるのでしょうか? そのうち「選挙」によって生まれた「独裁者」は何人いるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」によって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思い始めています。 例えば、もしも「レアアース」などの天然資源の権益を望む場合には、ウクライナに新たに「投資」することを条件とするのならば、「独裁者」らの利害関係はいったいどうなるのでしょうか? そしてその「新たな投資」は「カネ」だけではなく「ヒト」も「モノ」も同時に呼び込むものにし、しかもウクライナ各地に幅広く分散するものにするという条件を付けたならば…。例えば、米国から「カネ」だけではなく、「権益」を確保するために多くの米国人がウクライナの各地に居住し、「権益」を確保するための米国の「動産」がウクライナの各地に大量に持ち込まれることになるのならば、米国の大統領がウクライナに対する攻撃を米国と米国民に対する攻撃とみなすことも十分にできるような状況になるわけです。あえて言い換えるのならば、例えば、米国のような世界最大規模の軍事大国からウクライナに大規模な「投資」が行われることになるのならば、それはかなり実効性を伴った事実上の「安全の保証」になるのではないかと思います。例えば、「投資」によって「独裁者」らの利害関係が一致することができないようにしてしまうということも十分に可能であるということを忘れてはならないのです。もしかするとウクライナは本当にこのまま「分割」されたり「植民地」のような状態にされてしまったりすることになるのでしょうか? その先は…。「ビフじいさんのような人」に限らず、国際社会のすべての人たちには人類の歴史から様々なことを正しく学ぼうとする姿勢が必要なのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「お互いに 利害関係 一致した 『独裁者』らに 『山分け』させる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会には自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」はいったい何人いるのでしょうか? そのうち「選挙」によって生まれた「独裁者」は何人いるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」によって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思い始めています。 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、今現在ロシアから侵略されているウクライナは自分たちが「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「植民地」のような状態にされてしまうことになるのでしょうか? 形式的には「選挙」によって選ばれたことになっている隣国の「独裁者」によってウクライナはその国民の生命と国土を奪われ続けているのです。そして最近は新たに自分が世界の「皇帝」であるかのような勘違いをしている「ビフじいさんのような人」から「レアアース」などの天然資源の権益の一部を執拗に要求され続けているのです。このままでは「分割」されたり「植民地」のような状態にされてしまったりする危険性が高まっているわけです。ウクライナは本当にこのまま「分割」されたり「植民地」のような状態にされてしまったりすることになるのでしょうか? あくまでも一般論ですが、自分たちが「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちの利害関係が一致している場合には「独裁者」たちは互いに協力して「利益」を山分けしようとすることになるのだろうと思います。しかし、もしも「一方の独裁者」の「利益」が「もう一方の独裁者」の「損失」になるような場合、つまり利害関係が一致しない場合には、「独裁者」たちが互いに協力して「利益」を山分けするようなことはかなり難しくなるのだろうと思います。果たして「独裁者」たちの利害関係は一致するのでしょうか? それとも利害関係は一致しないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で注目するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「選挙して 政権交代 したときは これまでのこと 『白紙』にできる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。やはり今現在の国際社会では「世界大戦」や「核戦争」の危険性が高まっているのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「民主主義」というものによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 何度も繰り返していますが、やはり今は「分かれ道」なのかもしれないと思い始めています。 そもそも「民主主義」とはいったい何なのでしょうか? 選挙を実施して政権交代したときにはこれまでのことをすべて「白紙」にするようなことができるのでしょうか? いくら選挙で多くの票を集めたとしてもできることには限界があるのです。いくら選挙で多くの票を獲得したとしても、例えば、一方的に誰かを「有罪」にするようなことが許されるはずがないのです。もちろん多くの民主主義国家では「有罪」とされた人間を「恩赦」にして処罰しないようにすることも不可能ではないのだろうと思います。しかし、いくら選挙で多くの票を集めたとしても、仮にも「民主主義」を掲げる国であるのならば、罪に問われるような理由が全く何も存在しない人物を政権側が一方的に「有罪」にするようなことは絶対に許されないはずなのです。さらに言えば、たとえ選挙でどれだけ多くの票を集めたとしても、条約のような「国と国との間の約束」を一方的に「白紙」に戻すようなことはできないのです。あるいは、いくら選挙で多くの票を集めたとしても、「外国からの借金」を一方的になかったことにするようなこともできないはずなのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、いくら選挙で国民(有権者)の多数が強く望んだことであったとしても、「約束」や「借金」のような「相手」が存在する問題で一方的に「白紙」に戻すような強引なことをすれば、新たに深刻な対立や不信がつくり出されることになるのです。もしも選挙で多くの票を獲得するだけでどんなことでもできるようになるのだとするのならば、非常に極端な場合には、「民主主義」というものによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことも全くあり得ない話ではなくなってしまうのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「核兵器 密かにつくる ことは無理? そんなに難 しいことなのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。やはり今現在の国際社会では「世界大戦」や「核戦争」の危険性が高まっているのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「民主主義」というものによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 何度も繰り返していますが、やはり今は「分かれ道」なのかもしれないと思い始めています。 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、核兵器を製造することはそんなに難しいことなのでしょうか? 確かに今現在もウランやプルトニウムなどの核兵器の「原材料」を入手することは非常に難しいことなのだろうと思います。しかし、ほとんどの人たちが全く予想していなかった意外な形で何者かが「原材料」を入手することが絶対にあり得ないというわけではないのです。もちろん言うまでもなく核兵器の「製造マニュアル」「設計図」などというものはそれぞれの核保有国が非常に厳重に管理しているために「流出」する危険性は極めて低いのだろうと思います。しかし、高度な軍事機密に限らず、様々な組織の「機密情報」が誰も想像していなかった形で「流出」するようなことは十分にあり得ることなのです。もちろん「ハッキング」などによって知らないうちにこっそり盗み取られることも考えられるわけです。さらに言えば、新たに開発した独自の技術によって核兵器の製造に成功するということも全くあり得ない話ではないのです。もちろん多くの国ではその国内に「密かに核兵器を製造する場所」をつくるようなことは簡単ではないと思います。しかし、どの国の国内であっても「犯罪組織」などが「違法薬物の製造のための秘密拠点」などをつくることは不可能ではないのです。まして内戦が続く国や事実上の無政府状態にある破綻国家の場合には何者かが密かに犯罪のための「拠点」をつくるようなことはそれほど難しいことではなくなるのです。「違法薬物の製造」と同程度の規模の「拠点」では核兵器を開発・製造することは不可能なのでしょうか? 繰り返しになりますが、本当に核兵器を製造することはそんなに難しいことなのでしょうか? 何者かが核兵器を密かにつくるようなことは不可能なのでしょうか? もちろん核兵器というものはどこの誰にでも簡単に製造することができるようなものではありませんが、どこの誰にとっても製造することが難しいものであるわけでもないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『小国』は 見捨てられると 気づいたら 核保有して 自分で守る?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。やはり今現在の国際社会では「世界大戦」や「核戦争」の危険性が高まっているのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「民主主義」というものによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 何度も繰り返していますが、やはり今は「分かれ道」なのかもしれないと思い始めています。 あくまでも仮定の上にいくつか仮定を積み重ねた上での話にはなりますが、もしも「大国」が好き勝手に「小国」の利益やその運命を決めることができるなどという国際社会になってしまうのならば、そんな「大国」の思惑通りにはならないようにするために核兵器などを保有しようとする「小国」が今よりもさらに増えることになるのではないかと非常に心配になります。「大国」から侵略を受けた「小国」がその後ろ盾になっていたはずの「別の大国」や国際社会から結局は見捨てられてしまうことになる…。もちろん「大国」から侵略されている「小国」を助けたら厄介なことに巻き込まれて自分たちも多くの血を流すことになったり多額の資金を支出することになったりするのではないかなどという「感情」は全く理解できないわけではないのです。しかし、「大国」の侵略を見て見ぬふりをするようなことは長い目で見たときに本当に自分たちのためになるのでしょうか? 言い換えれば、国際社会を「大国」が「小国」を侵略することが許されてしまう「弱肉強食」の状態にして困るのはいったい誰なのでしょうか? ごく一部の「超大国」を除いたほとんどの国で生活している人たちには黙って見すごすことができない大きな脅威になるのではないのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、誰も信じることができない「弱肉強食」の国際社会の中で「小国」が何とかして生き残るためには、万一自分たちが侵略された場合には「侵略者」もかなりの大きな被害を受けることが絶対に避けられないような状態にして「大国」などの「侵略者」の側をけん制するぐらいしか方法がなくなってしまうのです。例えば、結局は自分たちが見捨てられてしまう危険性が高いときでも「武力統一」を防ぐためには…。「弱肉強食」の国際社会ではこれまで以上に核兵器を保有してたとえ自分たちだけになっても絶対に国を守ろうとするような「核抑止力」なるものを唱える人間たちも増えるかもしれないのです。くどいようですが、「大国」から侵略された「小国」を見捨てても本当にいいのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『犯罪者』 『釈放』したり 『免責』に 勝手にしたり… 許されるのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。国際社会は今よりも安定する方向に向かっているのでしょうか? それとも国際社会は今よりも混乱が大きくなる方向に向かっているのでしょうか? もしかすると「世界大戦」や「核戦争」の危険性は高まっているのでしょうか? 国際社会を安定させて「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? もしかすると今が「分かれ道」なのかもしれないと思い始めていますが…。 あくまでも一般論ですが、どこかの国が「犯罪者」を「恩赦」にするようなことは全く許されないことではないのだろうと思います。しかし、いくら「ある国の国家元首」であったとしても、例えば、「別のある国」を侵略したりその国民を「虐殺」したりした「侵略者」である「どこかの国の国家元首」などを「恩赦」にするようなことが許されるわけがないのです。あえて言い換えれば、いくら「ある国の国家元首」が「ある国の犯罪者」を「恩赦」にする強力な権限を持っていたとしても、「別のある国」を侵略したりその国民を「虐殺」したりした「侵略者」である「どこかの国の国家元首」などを「恩赦」にするような権限を持っているわけがないのです。当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、「ある国の国家元首」は実際に世界全体の「皇帝」になるようなことはもちろんのこと、「皇帝」のようなふるまいをするようなことも認められているわけではないのです。国内だけではなく、国際社会でも「犯罪者」を勝手に「免責」にして野放しにすれば…。やはり「世界大戦」や「核戦争」の危険性は高まっているのでしょうか? 国際社会を安定させて「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 繰り返しになりますが、もしかすると今が「分かれ道」なのかもしれないと思い始めていますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『不動産』 『所有』するなら 『難民』を 受け入れる場所 つくってみたら?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。国際社会は今よりも安定する方向に向かっているのでしょうか? それとも国際社会は今よりも混乱が大きくなる方向に向かっているのでしょうか? もしかすると「世界大戦」や「核戦争」の危険性は高まっているのでしょうか? 国際社会を安定させて「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? もしかすると今が「分かれ道」なのかもしれないと思い始めていますが…。 あえて個別具体的な固有名詞などを取り上げることは避けますが、最近の国際社会には彼・彼女がいったいどこの誰なのかがよく分からなくなるほどの「上から目線」で無責任に偉そうなことを言っている人間たちが増えているようです。もしかすると「上から目線」で無責任に偉そうなことを言っている彼・彼女は世界全体の「皇帝」にでもなったつもりなのでしょうか? 「皇帝」になったつもりであってもそうではなかったとしても、これまで特に強い縁やゆかりがあったわけでもなかった地球上の遠く離れた場所の「不動産」を唐突に何ら正当な権限を持たないにもかかわらず長期的に「所有」するようなことが許されるわけがないのです。あえて言い換えるのならば、たとえ「国際連合」のような最も権威のある国際組織の正式の決定があったとしても、地球上のどこかの「不動産」を長期的に「所有」するなどということが許されるわけがないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、もしもどこかの何らかの組織などが地球上のどこかの土地のような「不動産」を長期的に「所有」することが国際社会の多数から支持される可能性があるとしたら、例えば、その長期的に「所有」する「不動産」の中に地球上の幅広い場所から多くの「難民」を受け入れる場所をつくるような場合ぐらいではないかと思います。「上から目線」で無責任に偉そうなことを言っている彼・彼女は、「不動産」を長期的に「所有」して地球上の幅広い場所から多くの「難民」を受け入れる場所をつくるつもりは少しもないのでしょうか? これからしばらくの間はあえてそのことに注目してみることにしようと思います。 ======================================= 「彼は誰? そんな権限 持っている? 『皇帝』にでも なったつもりか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。国際社会は今よりも安定する方向に向かっているのでしょうか? それとも国際社会は今よりも混乱が大きくなる方向に向かっているのでしょうか? もしかすると「世界大戦」や「核戦争」の危険性は高まっているのでしょうか? 国際社会を安定させて「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? もしかすると今が「分かれ道」なのかもしれないと思い始めていますが…。 あえて個別具体的な固有名詞などを取り上げることは避けますが、最近の国際社会には彼・彼女がいったいどこの誰なのかがよく分からなくなるほどの「上から目線」で無責任に偉そうなことを言っている人間たちが増えているようです。「上から目線」で無責任に偉そうなことを言っている彼・彼女はいったい何者なのでしょうか? 「上から目線」で無責任に偉そうなことを言っている彼・彼女は本当にそんな権限を持っているのでしょうか? 地球上のすべての「土地」は自分の思い通りになると本気で思っているのでしょうか? 地球上のすべての国や人間は自分の命令に従うべきだと本気で思っているのでしょうか? 「上から目線」で無責任に偉そうなことを言っている彼・彼女は世界全体の「皇帝」にでもなったつもりなのでしょうか? 「上から目線」で無責任に偉そうなことを言っている彼・彼女も所詮はこの世界の中のどこかの国の国家元首に過ぎないのではないのでしょうか? 仮に「皇帝」になったとしても地球は彼・彼女一人のものではないはずなのです。所詮はこの世界の中のどこかの国の国家元首に過ぎない彼・彼女は大きな勘違いをしているようです。ちなみに「井の中の蛙大海を知らず」などという言葉がありますが、以前にも少なくとも4年ぐらいは「大海」を目にする機会があってもなお「大海を知らず」というのはかなり「致命的な勘違い」ではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「今すぐの 『減税』よりも 将来に もっと大きな 利益があれば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「減税」が大好きな人間たちが少なくないようです。しかし、今ここであえて「減税」せずに将来もっと大きな利益を得ようというような考えを持っている人たちがほとんどいないということに危機感を覚えます。この社会には将来性がほとんどないのでしょうか? 例えば、どこかの国では、高度経済成長期に整備した道路網に老朽化が目立つ場所があります。特に道路と一体化した橋やトンネルには老朽化が深刻になっている場所も少なくないのです。ガソリン税の暫定税率を廃止する? 廃止や減税のすべてが悪いことだとは言いませんが、今すぐ「減税」するよりももっと大きな利益を得ることができるアイディアは本当に何も浮かんでこないものなのでしょうか? 例えば、「減税」ではなく、下水道網に限らず道路と一体化している老朽化したインフラの検査・補修などに使うという発想がなぜ出てこないのでしょうか? おそらく仮に「減税」をしたとしてもガソリン税を直接負担している一部の人たちを含めた一人ひとりには「ささやかな金額」しか分配することができないのではないかと思います。そうであるのならば、「減税」をする代わりに一人ひとりが「ささやかな金額」を出し合って、例えば、道路と一体化している老朽化したインフラの検査・補修を集中的に進めるようにした方が将来には一人ひとりがずっと大きな利益を得ることができるのではないかと考えています。たとえ「ささやかな金額」であったとしても今ここで確実に受け取っておいた方がいいのか、それとも今は「投資」をして将来もっと大きな利益を受け取ることを考えた方がいいのか…。もしも大事故が続発する前に道路と一体化している老朽化したインフラの検査・補修を進めておくのならば、ほとんどの人たちが将来大きな利益を得ることができるということはほぼ確実ではないかと思います。本当にこの社会には将来性がほとんどないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『大富豪』 『巨大企業』が 『支配』する 世界を壊す 『革命』前夜?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。国際社会は今よりも安定する方向に向かっているのでしょうか? それとも国際社会は今よりも混乱が大きくなる方向に向かっているのでしょうか? もしかすると「世界大戦」や「核戦争」の危険性は高まっているのでしょうか? 国際社会を安定させて「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? あえて率直に極端なことを言わせてもらうのならば、もしかすると「今現在の国際社会は『大富豪』と『巨大企業』によって『支配』されている」などと思い込んでいる人間たちが実は少なくはないのかもしれないと思うことがときどきあります。あくまでも念のために言っておきますが、現実の国際社会はいくら「大富豪」と「巨大企業」であってもそう簡単に「支配」することができるほど単純にはできていないとは思います。しかし、いわゆる「陰謀論」もごく一部の人間たちの非常に強い思い込みによってまるで事実であるかのように思ってしまう人間たちが増えてしまったわけです。そのことに注意をするのならば、もしも「この世界は『大富豪』と『巨大企業』が『支配』している」などと強く思い込んでいる人間たちの数がさらに増えたり、あるいは、国際社会の中で「『大富豪』と『巨大企業』が世界を『支配』しているのかもしれない」などと多くの人たちが受け止めてしまうような出来事がさらに増えたりするのならば、「この世界は『大富豪』と『巨大企業』が『支配』している」などという類の「新しい陰謀論」が急速な広がりを見せることになってしまうのではないかと心配になってきます。その上で、あえて仮定の上に仮定を積み重ねるようなことも言わせてもらうのならば、もしも「この世界は『大富豪』と『巨大企業』が『支配』している」などという類の「新しい陰謀論」が急速な広がりを見せることがあるのならば、「『大富豪』と『巨大企業』が『支配』する世界を壊す『革命』」を引き起こそうなどと考える人間たちも出現する危険性が高まるのではないかと思います。もしも国際社会の中で起こっている「この問題」も、「あの問題」も、すべて「大富豪」と「巨大企業」の「支配」が「原因」などというあまりにも極端な主張が広がりを見せるようになるのならば…。もしかすると今現在は「新しい陰謀論」などを信じ込んだ人間たちが引き起こす危険性がある「革命」前夜なのでしょうか? 繰り返しになりますが、国際社会は今よりも安定する方向に向かっているのでしょうか? それとも国際社会は今よりも混乱が大きくなる方向に向かっているのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『戦争』を 防ぐためには 『核兵器』? 『核保有国』 だったらきっと…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。国際社会は今よりも安定する方向に向かっているのでしょうか? それとも国際社会は今よりも混乱が大きくなる方向に向かっているのでしょうか? もしかすると「世界大戦」や「核戦争」の危険性は高まっているのでしょうか? 国際社会を安定させて「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? もしも今現在の国際社会でどこかの国が別の国の領土を奪い取るようなことを認めてしまったらいったいどのようなことになってしまうのでしょうか? もしもどこかの国が別の国の領土を奪い取るようなことが許されてしまう国際社会になってしまったのならば、そう遠くないうちに「国際連合」が実質的に崩壊してしまうことだけは確かなのだろうと思います。「強い国」が「弱い国」から次々と領土を奪い取ったり「弱い国」を滅ぼしてしまったり…。そんな「弱肉強食」の国際社会になってしまったら「弱い国」はいったいどうしたら生き残ることができるのでしょうか? 「弱肉強食」の国際社会では「弱い国」は「どこかの国」の「51番目の州」になったり「不動産」として「購入」や「所有」されたり、別のどこかの国の「属国」になったりするぐらいしか生き残る道はないのでしょうか? もしも「弱い国」でも消滅する前に強くなることができるのならばもちろん強くなろうとするのだろうと思います。それでは「弱い国」が手っ取り早く「強い国」になるにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 非常に残念なことですが、現実の国際社会においては、「弱い国」が「核兵器」を保有することによって手っ取り早く「強い国」になろうとする事例が繰り返されているのです。たとえ「弱い国」であったとしても「核兵器」を保有していれば、「強い国」でもそう簡単には攻撃することができなくなるのではないかと考える人間たちが少なくないのです。そして残念ながら現実の国際社会では、「核兵器」を保有している「弱い国」が実際に攻撃されて領土を奪い取られるような事例はまだ見られないわけです。それどころか最近は「核保有国」が「核兵器」を持たない「弱い国」を攻撃して次々とその領土を奪い取るような事例まで見られるようになってきているのです。そんな現実の国際社会の中では「自分たちも『核保有国』だったらきっと…」などと考えてしまう人間たちがますます増えてしまうのではないかと思います。もしかすると「世界大戦」や「核戦争」の危険性は高まっているのでしょうか? 国際社会を安定させて「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 振り返ってみると今が分かれ道だったのかもしれないと後悔することになるのかもしれないと思い始めていますが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『あの国』は 『領土』を増やし 『鎖国』する? 自分たちだけ 幸せになる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。国際社会は今よりも安定する方向に向かっているのでしょうか? それとも国際社会は今よりも混乱が大きくなる方向に向かっているのでしょうか? もしかすると「世界大戦」や「核戦争」の危険性は高まっているのでしょうか? 国際社会を安定させて「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「接待」をめぐるどこかの問題を解決するためには、自分自身がその責任を厳しく問われることがない無責任な「他人事の情報」を気安く提供する人間たちを増やさないことが必要不可欠ではないかと思い始めています。もちろん言うまでもなくいわゆる「接待」の場で被害を受けた側は沈黙を守る必要はないのです。しかし、自分自身が「当事者」であったにもかかわらず、まるで自分自身が「当事者」ではなかったかのように「他人事の情報」を気安く提供する人間たちを増やさないようにする必要があるのです。もちろん自分自身が実際にいわゆる「接待」を繰り返して「次」の「仕事」や「取引」をつかみ取り続けてきたという「過去」に対する「贖罪」の気持ちから自分自身の「罪」を明らかにした上でその責任を取りたいという気持ちを封じ込めることは間違いなのです。実際にいわゆる「接待」を繰り返して「次」の「仕事」や「取引」という「利益」を受けてきた「過去」を持つ人間たちはその「贖罪」のために何をすることができるのでしょうか? その上で、あくまでも念のために指摘しておかなければならないのは、いくら「接待」などが繰り返されてきたとされている場所であったとしてもそこには「接待」などにどっぷりと浸かって「利益」を受けてきた人間たちしか存在しなかったわけではないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『接待』で 『利益』を受けた 人間は 『贖罪』のため 何ができるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「接待」とはいったい何なのでしょうか? いわゆる「接待」は本当に必要不可欠なのでしょうか? いわゆる「接待」をすれば本当に「次」がやってくるのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「接待」をめぐるどこかの問題を解決するためには、自分自身がその責任を厳しく問われることがない無責任な「他人事の情報」を気安く提供する人間たちを増やさないことが必要不可欠ではないかと思い始めています。もちろん言うまでもなくいわゆる「接待」の場で被害を受けた側は沈黙を守る必要はないのです。しかし、自分自身が「当事者」であったにもかかわらず、まるで自分自身が「当事者」ではなかったかのように「他人事の情報」を気安く提供する人間たちを増やさないようにする必要があるのです。もちろん自分自身が実際にいわゆる「接待」を繰り返して「次」の「仕事」や「取引」をつかみ取り続けてきたという「過去」に対する「贖罪」の気持ちから自分自身の「罪」を明らかにした上でその責任を取りたいという気持ちを封じ込めることは間違いなのです。実際にいわゆる「接待」を繰り返して「次」の「仕事」や「取引」という「利益」を受けてきた「過去」を持つ人間たちはその「贖罪」のために何をすることができるのでしょうか? その上で、あくまでも念のために指摘しておかなければならないのは、いくら「接待」などが繰り返されてきたとされている場所であったとしてもそこには「接待」などにどっぷりと浸かって「利益」を受けてきた人間たちしか存在しなかったわけではないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『強者』には さらに『強者』を ぶつければ 好き勝手には できなくなるが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「接待」とはいったい何なのでしょうか? いわゆる「接待」は本当に必要不可欠なのでしょうか? いわゆる「接待」をすれば本当に「次」がやってくるのでしょうか? 繰り返しになりますが(→参考:2025/1/30付etc.)、「仕事」や「取引」などを純粋に「仕事」や「取引」として考えたいと思っている人たちにとっては「接待」や「親睦」や「潤滑油」などのようなものは非常に大きな迷惑以外の何物でもないのです。そしてこれも繰り返しになりますが、もしも「接待」をされる側が「仕事」や「取引」などで絶対的な決定権を握り続けているような場合には、「接待」をされる側が「接待」をする側に対してより多くの特別の「接待」などを明示的にあるいは黙示的に求めるようになるのかもしれないと想像することができるのです。さて、ここであえて「頭の体操」をしておくことにしようと思います。もしも「『仕事』や『取引』などで絶対的な決定権を握り続けている側」に「パワハラ」や「セクハラ」を含めた好き勝手なことやらせないためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? あくまでも一般論ですが、もしも「『接待』をしなければならない側」が「『仕事』や『取引』などで絶対的な決定権を握り続けている側」よりも「さらにずっと大きな『力』を持っている側」と何らかの形で結びついている場合には、そう簡単には「パワハラ」や「セクハラ」などを含めた好き勝手なことはできなくなるはずなのです。誰もが知っている有名人や有力者の親族などはもちろんのこと、有名人や有力者の単なる「お気に入り」であったとしてもそう簡単には手出しはできなくなるということは多くの人たちにとっても感覚的にはよく分かることなのではないかと思います。いわゆる「弱肉強食」の世界では、「弱い者」は「強い者」にはなかなかかなわないのかもしれませんが、「強い者」も「さらに強い者」にはなかなかかなわないのです。「強者」にはさらに「強者」をぶつければ好き勝手にはできなくなるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『買収』を あえて『投資』と 言い換えて みれば問題 すべて解決?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。地球上のあちこちの場所で行われているいわゆる「トップ会談」などというものは、その意味やその「成果」などというものがかなり「脚色」されていることが多いのです。 どこかのいわゆる「トップ会談」などの「成果」として誇られているものの中には、「脚色」されているのかどうかはともかくとしても、不思議なものがいくつかあるようです。例えば、「買収」ではなく「投資」? これはいったいどういうことなのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「株式会社」のような制度の下では、「買収」とは「投資」であり、また「投資」の中でかなり大規模かつ特殊なものが「買収」になるわけです。くどいようですが、「『買収』ではなく『投資』」とはいったいどういうことなのでしょうか? もしかするとただ単に同じ現象について「買収」を「投資」と言い換えているだけなのでしょうか? 「買収」を「投資」と言い換えることにいったいどんな意味があるのでしょうか? 例えば、「暴行」や「パワハラ」を「かわいがり」などと言い換えれば、すべての不適切な問題は消えてなくあるのでしょうか? あるいは、「撤退」や「退却」を「転進」などと言い換えれば、戦況は好転するのでしょうか? さらに言えば、「セクハラ」や「パワハラ」などを「接待」や「営業」などと言い換えれば、どこかのテレビ局の問題を含めたすべての問題があっと言う間に消えてなくなるのでしょうか? 言うまでもなくそんなバカな話はないはずなのです。繰り返しになりますが、「買収」を「投資」と言い換えることにいったいどんな意味があるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちにその意味が分かることになるのではないかと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「会談で 『嫌われ者』が お互いに 『傷』を舐め合い 『成果』を誇る?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。地球上のあちこちの場所で行われているいわゆる「トップ会談」などというものは、その意味やその「成果」などというものがかなり「脚色」されていることが多いのです。 あくまでも一般論ですが、何か発言するたびに国際社会を混乱に陥れているどこかの「あの人」はそう遠くないうちに多数の国の代表が参加する国際会議に出席するようなことはあるのでしょうか? もしも何か発言するたびに国際社会を混乱に陥れているどこかの「あの人」が多数の国の代表が参加する国際会議に出席するようなことがあるのならば、その国際会議では「孤立」した「あの人」が舞台裏で複数の国の代表から取り囲まれて厳しく詰め寄られているような場面が何度も見られることになるのではないかと思います。そんな「嫌われ者」の「あの人」にとってはたとえ同じ「嫌われ者」であったとしても国際会議で寄り添ってくれるかもしれない人間はずいぶんと頼もしい存在に見えるのかもしれないと思います。「ハンサム」「ナイスガイ」「タフガイ」「敬愛してやまない」「黄金時代を築きたい」などと…。いったい何を言っているのでしょうか? いわゆる「接待」の場でもなかなか聞かない「甘い言葉」が飛び交っているようです。国際社会の多くの人たちにとっては「嫌われ者」同士が互いに「傷」を舐め合うかのように褒め合っている光景は実に滑稽なものに見えるのではないかと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『無知』だから 『カネ』は出さずに 『口』を出し 『移民』押し付け 『土地』を欲しがる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもなぜ地球上のあちこちの場所では深刻な対立や殺し合いがいつまでも繰り返されているのでしょうか? もしも多くの人たちが自分たちの「神」や「文化」や「故郷」や「先祖伝来の土地」などに対して強いこだわりを持たずに生きることができたのならば、地球はどれだけ平和だったことか…。 あくまでも一般論ですが、もしも地球上に「神」や「文化」や「故郷」や「先祖伝来の土地」などに対して少しもこだわりを持たない人間たちが存在していたとしたら、そのような人間たちにとっては今現在地球上のあちこちの場所で発生している深刻な対立や殺し合いは単なる「ばかげた争い」にしか見えないのだろうと思います。もしも深刻な対立や殺し合いを続けている当事者たちの「神」や「文化」や「故郷」や「先祖伝来の土地」などに対して「無知」であるのならば、単なる「ばかげた争い」にしか見えないのだろうと思います。しかし、そんな「神」や「文化」や「故郷」や「先祖伝来の土地」などに対して少しもこだわりを持たない人間たちであったとしても、もしかすると「カネ」や「土地」に対しては非常に強い執着があるのかもしれないと思います。そしておそらく「カネ」や「土地」に対して非常に強い執着のある人間たちにとっては、いわゆる「不法移民」や「経済難民」などは自分たちの「土地」に勝手に押し寄せてきて自分たちの「カネ」を狙っているような「悪者」にしか見えないのではないかと思います。「無知」であるだけではなく「カネ」や「土地」に対して非常に強い執着があるから、「カネ」は出さずに「口」を出し、いわゆる「不法移民」や「経済難民」などを他の誰かに押し付け、「土地」ばかり欲しがるようになるとか…。繰り返しになりますが、やはり「あの人」には絶対に守り抜かなければならないと心から思っている「文化」や「故郷」は存在しないのでしょうか? きょうもあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「同じこと 『不法移民』に 言えるのか? 被災した人 にも言えるのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもなぜ地球上のあちこちの場所では深刻な対立や殺し合いがいつまでも繰り返されているのでしょうか? もしも多くの人たちが自分たちの「神」や「文化」や「故郷」や「先祖伝来の土地」などに対して強いこだわりを持たずに生きることができたのならば、地球はどれだけ平和だったことか…。 あくまでも一般論ですが、米国が責任を持って貧困と危険に苦しんでいる地獄のような場所を「中南米のリビエラ」のような「リゾート」にするなどと…。「あの人」は母国での危険で貧しい生活から逃れたいと米国などに押し寄せてきているいわゆる「経済難民」や「不法移民」には同じことを言えないのでしょうか? もしも「あの人」が「中南米のリビエラ」のような「リゾート」にするなどと単なる思い付きで発言したとしても、地球上ではそれなりに評価する人たちが少なくないのではないかと想像しています。あるいは、もしも「あの人」が米国内の大規模な山火事や自然災害などの「被災地」を「米国のリビエラ」のような「リゾート」にするなどと単なる思い付きで発言していたとしても、米国内では「あの人」の単なる思い付きの発言を高く評価する人たちが少なくはなかったのではないかと想像しています。しかし、それでもやはり、たとえどれだけ「故郷」が破壊されてがれきと不発弾だらけになっていたとしても、たとえどれだけ「故郷」では貧しくて危険な生活しか期待することができなかったとしても、地球上には自分たちの「故郷」を捨ててどこかに移住するなどという気持ちには絶対になれないという人たちがたくさんいることも事実なのです。彼・彼女たちにとって「故郷」はかけがえのない場所なのです。彼・彼女たちにとって「故郷」は単なる「不動産」ではないのです。やはり「あの人」には絶対に守り抜かなければならないと心から思っている「文化」や「故郷」は存在しないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『カネ』出さず 『ヒト』の受け入れ しないのに… 『リゾート』にする? 何言っている?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもなぜ地球上のあちこちの場所では深刻な対立や殺し合いがいつまでも繰り返されているのでしょうか? もしも多くの人たちが自分たちの「神」や「文化」や「故郷」や「先祖伝来の土地」などに対して強いこだわりを持たずに生きることができたのならば、地球はどれだけ平和だったことか…。 あえて個別具体的な固有名詞などを取り上げることはなるべく避けようとは思いますが、思わず「いったい何を言っている?」とつぶやいてしまった人たちは少なくなかったのではないかと思います。そもそもなぜ地球上のあちこちで深刻な対立や殺し合いがいつまでも繰り返されているのでしょうか? 大昔からずっと地球上の多くの人たちが自分たちの「神」や「文化」や「先祖伝来の土地」などに対して強いこだわりを持っているからではないのでしょうか? だからこそ大昔から今現在に至るまで地球上のあちこちで深刻な対立はますます深刻になって殺し合いがいつまでも繰り返されているのではないのでしょうか? もしも当事者がどこかに移住して解決することができるような単純な問題であるのならば、イスラエルとアラブやパレスチナなどの問題は最初から戦争などにはならなかったはずなのです。今現在は実にひどい場所になっているから安全な隣国に移住するべき? しかも自分たちは「移民」などの「ヒト」も受け入れなければ、そのための「カネ」を出すこともないとか…。開発すれば中東のリビエラのようなリゾートになる? 自分たちが長期的に所有する? いったいどういうことなのでしょうか? 「この人」には絶対に守り抜かなければならないと心から思っている「文化」や「故郷」は存在しないのでしょうか? 地球上の多くの人たちは自分たちが生まれ育った「故郷」を簡単に捨て去ることはできないはずなのです。まして「故郷」が「先祖伝来の土地」であるのならば…。そのようなことは長い人類の歴史をほんの数十年さかのぼってみるだけでもすぐに分かることのはずです。あえて繰り返しますが、「この人」には絶対に守り抜かなければならないと心から思っている「文化」や「故郷」は存在しないのでしょうか? きょうのところはあえてそれらのことを指摘して強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『少子化』を 止められないと どうなるか? 『民族』『文化』 滅亡するが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもいわゆる「東京一極集中」とか「過疎化」などということのどこがどのように問題だというのでしょうか? そもそもいわゆる「少子化」や「高齢化」などということのどこがどのように問題だというのでしょうか? あまりにも当たり前すぎるくらい当たり前のものとしてほとんどの人たちが疑ってもみなくなっているものについてあえて立ち止まって考えてみることが必要ではないかと思います。 そもそもいわゆる「少子化」のどこがどのように問題だというのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、もしも「少子化」が止まらずに長期間に渡って「人口減少」が続くことになるのならば、最悪の場合には、やがて「国家」や「民族」が滅亡してしまうことになるわけです。もしも「国家」や「民族」が完全に滅亡することはなかったとしても、「人口減少」が続けば「国家」や「民族」の「力」はかつてとは比べものにならないほど大きく低下することになると思われます。もしかすると自分が死んだ後に「国家」や「民族」が滅亡することになったとしても自分には全く関係ないなどと思っている人間たちもいるのかもしれないと思います。しかし、「国家」や「民族」が滅亡することになれば、その「国家」や「民族」がつくっていた「社会」もそこに存在した独自の「文化」も一緒に滅亡することになる可能性が高いのです。その一方で、「少子化」によって「国家」や「民族」や「文化」が滅亡する危険性よりも、「少子化」によって自分たちの年金などの「社会保障制度」が崩壊することばかりを心配している人間たちもいるわけです。あくまでも一般論ですが、もしも「社会保障制度」が今現在においても「少子化」と「高齢化」を事実上想定外にした持続可能性の乏しいある種の「ネズミ講のようなシステム」に成り下がってしまっているのならば、自分たちの子孫の将来の幸せを心から願うような「文化」を持った「社会」では「少子化」はそう簡単には止めることは難しくなるのだろうと思います。繰り返しになりますが、そもそもいわゆる「少子化」のどこがどのように問題だというのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『少子化』は 本当に悪い ことなのか? 何も良いこと ないものなのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもいわゆる「東京一極集中」とか「過疎化」などということのどこがどのように問題だというのでしょうか? そもそもいわゆる「少子化」や「高齢化」などということのどこがどのように問題だというのでしょうか? あまりにも当たり前すぎるくらい当たり前のものとしてほとんどの人たちが疑ってもみなくなっているものについてあえて立ち止まって考えてみることが必要ではないかと思います 繰り返しになりますが、いわゆる「過疎化」の主要な原因は本当に「東京一極集中」なのでしょうか? 言い換えれば、もしも「東京」がなかったならば、あるいは、もしも「東京一極集中」がなかったならば、今現在「過疎化」が深刻な状態になっている地方は「過疎化」していなかったのでしょうか? そんなことはないはずなのです。若い人たちの「集団就職」などが20年以上も繰り返されていた高度成長時代には「人口流出」や「過疎化」はどんなに少なくとも今現在よりも深刻な問題にはなっていなかったはずなのです。率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「東京一極集中」や「東京」などよりも、「少子化」の進行の方がはるかに「過疎化」の深刻化に寄与しているのではないかと思います。それではなぜ「少子化」は進行してきたのでしょうか? なぜ「少子化」は深刻化しているのでしょうか? その上で、あえて率直に言わせてもらうのならば、そもそも「少子化」は本当に深刻な問題なのでしょうか? もしも「少子化」が深刻な問題であるのならば、「少子化」のどこがどのように問題なのでしょうか? 「少子化」には本当に何もメリットはないのでしょうか? 本当に「少子化」には良い部分は何もないのでしょうか? 繰り返しになりますが、「過疎化」などの問題を本気で解消しようと考えるのならば、まずは「かつての賑わいを取り戻す」などという致命的に間違った「幻想」を完全に捨て去ることから始める必要があるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『東京』の ブランド価値の 『恩恵』を 『日本国』なら 受けているはず!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもいわゆる「東京一極集中」とか「過疎化」などということのどこがどのように問題だというのでしょうか? そもそもいわゆる「少子化」や「高齢化」などということのどこがどのように問題だというのでしょうか? あまりにも当たり前すぎるくらい当たり前のものとしてほとんどの人たちが疑ってもみなくなっているものについてあえて立ち止まって考えてみることが必要ではないかと思います 繰り返しになりますが、そもそもいわゆる「東京一極集中」は本当に悪いことなのでしょうか? もしもいわゆる「東京一極集中」が悪いとするのならば、いわゆる「東京一極集中」のどこがどのように問題だというのでしょうか? その上で、あえて言わせてもらうのならば、「一極集中」しているとされている「東京」は本当に「過疎化」とは無縁なのでしょうか? 「一極集中」しているとされている「東京」では、実際にはそのど真ん中に近い場所でも「高齢化」や「過疎化」が深刻になっている地域がいくつも存在しているということはよく知られていることです。さらに率直に言わせてもらうのならば、そもそもいわゆる「東京一極集中」なるものによって「恩恵」を受けているのは本当に「東京」だけなのでしょうか? いわゆる「東京」のブランド価値の向上が「日本国」全体のブランド価値を高めていることは確かなのです。言い換えれば、「東京」が高めた「日本国」全体のブランド価値によって実は少なからず「恩恵」を受けている「過疎化」に悩む地域も少なくないはずなのです。しかし、言うまでもなく「日本国」のブランド価値を高めてきたのは「東京」だけでもないはずなのです。例えば、「大阪」「京都」「神戸」などを中心とする「関西」などの地域も、そして「愛知県」などの「日本国」が世界に誇ってきたいくつかの最先端の工業製品の開発・生産拠点となってきた地域も、「日本国」のブランド価値を高めることに貢献してきたはずなのです。いわゆる「東京一極集中」は本当に「過疎化」の主要な原因なのでしょうか? くどいようですが、いゆわる「過疎化」が深刻な地方は、「東京」があってもなくても「過疎化」が深刻になっていたことだけは確かなのです。いずれにしても人口が大幅に増加し続ける中で経済的にも発展してきた高度成長期のような繁栄を取り戻すなどという「幻想」を完全に捨て去らなければ「過疎化」に苦しんでいる地域の「過疎化」はますます深刻なものになってしまうのです。「過疎化」などの問題を本気で解消しようと考えるのならば、まずは「かつての賑わいを取り戻す」などという致命的に間違った「幻想」を完全に捨て去ることから始める必要があるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『東京』が なかったならば 『過疎化』せず? 『過疎化』の理由 『東京』なのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそもいわゆる「東京一極集中」とか「過疎化」などということのどこがどのように問題だというのでしょうか? そもそもいわゆる「少子化」や「高齢化」などということのどこがどのように問題だというのでしょうか? あまりにも当たり前すぎるくらい当たり前のものとしてほとんどの人たちが疑ってもみなくなっているものについてあえて立ち止まって考えてみることが必要ではないかと思います。 いわゆる「東京一極集中」などということのどこがどのように悪いのでしょうか? いわゆる「過疎化」などということのどこがどのように悪いのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「東京一極集中」とか「過疎化」などというものは、もしかすると自分たちが今現在いる場所とどこかを比べることがなかったのならば、生まれることがない言葉だったのかもしれないと思います。例えば、50年以上前には今よりももっとずっと多くの若い人たちが「金の卵」などと呼ばれて地方から東京に「集団就職」などをしていたはずなのです。その頃と比べれば今現在はそれほど多くの数の若い人たちが東京に移り住んでいるわけでもないにもかかわらず、なぜそれほど「東京一極集中」を問題視するようになっているのでしょうか? やはり50年以上前と比べれば日本社会の若い人たちの数が「激減」したということが最大の原因なのだろうと思います。繰り返しになりますが、いわゆる「東京一極集中」などということのどこがどのように悪いのでしょうか? 例えば、「住宅費の高騰」、「通勤の長さ」の問題などを挙げる人たちは今でも少なくないのだろうと思います。もしも「東京一極集中」の問題点が「住宅費の高騰」や「通勤の長さ」などであるのならば、「東京一極集中」には自ずから「上限」が決まってくるのではないかと思います。その上で、あえて念のために付け加えるのならば、いわゆる「東京一極集中」は「過疎化」の主要な原因ではないということには注意が必要になります。いゆわる「過疎化」が深刻な地方というものは、「東京」があってもなくても「過疎化」が深刻になっていたことだけは確かなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『お友達』 同士が集い 遊んでいる? 遊んでいても 『仕事』にできる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「接待」とはいったい何なのでしょうか? いわゆる「接待」は本当に必要不可欠なのでしょうか? いわゆる「接待」をすれば本当に「次」がやってくるのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「バラエティー」などと呼ばれていても呼ばれていなくても、ただ単に「お友達」同士が集って遊んでいるだけの内容を心から楽しんで見たり聞いたりしている人たちはどのくらいいるのでしょうか? もちろん大好きなタレントなどの姿をずっと眺めているだけで十分に満足することができるという人たちもいるのだろうと思います。あるいは、大好きなタレントなどと今話題の出来事についてちょっと語り合ったような気分になったり面白い(かもしれない)VTRなどを一緒に見たような気分になったりしているだけでも十分に満足することができるという人たちもいるのかもしれないと思います。しかし、ただ単に「お友達」同士が集って遊んでいるだけの内容を心から楽しんで見たり聞いたりしている人たちはいったいどのくらいいるのでしょうか? 本当にただ単に「お友達」同士が集って遊んでいるだけの内容を「仕事」にすることができるのでしょうか? もしかするといわゆる「接待」をすれば本当にただ単に「お友達」同士が集って遊んでいるだけの内容を「仕事」にすることができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「この『仕事』 『次』も一緒に できるのか? 『次』も一緒に したいのならば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「接待」とはいったい何なのでしょうか? いわゆる「接待」は本当に必要不可欠なのでしょうか? いわゆる「接待」をすれば本当に「次」がやってくるのでしょうか? あくまでも一般論ですが、一緒に「仕事」をした相手から「次」も一緒にやりたいなどと言われることはうれしいことなのだろうと思います。しかし、「『次』も一緒にやりたい」などという言葉は単なるリップサービスで終わることも少なくないのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「『次』も一緒にやりたい」などと言ったり言われたりしていることは「遊び」ではなく「仕事」なのです。もしも「遊び」ではなく「仕事」を「次」も一緒にしたいのならば…。本当にいわゆる「接待」などが必要ということになってしまうのでしょうか? そもそも「『次』も一緒にやりたい」などという言葉は「仕事」の中のどの部分が評価された結果として出てきたものなのでしょうか? 例えば、その「仕事」のコストパフォーマンスが評価されたのでしょうか? あるいは、その「仕事」の「質」が何よりも高く評価をされたのでしょうか? もしかするとその「仕事」の本体部分ではなく何らかの「おまけ」の部分が高く評価されたのでしょうか? くどいようですが、「『次』も一緒にやりたい」などと言ったり言われたりしていることは「遊び」ではなく「仕事」のはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『金蔓(かねづる)』を つかむためには 何でもし 守るためにも 何でもするか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「接待」とはいったい何なのでしょうか? いわゆる「接待」は本当に必要不可欠なのでしょうか? いわゆる「接待」をすれば本当に「次」がやってくるのでしょうか? ある程度の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、どこかのテレビなどの世界の話を理解することができるかどうかということは、結局のところは「金蔓(かねづる)」の話を理解することができるかどうかということになるのかもしれないと思います。おそらくどこかのテレビなどの世界では「金蔓(かねづる)」をつかむためには「接待」を含めて何でもしてきたということなのだろうと思います。そしておそらく一度つかんだ「金蔓(かねづる)」を守るためにも何でもするということになるのではないかと思います。あえて言い換えるのならば、もしも「金蔓(かねづる)」をつかんだり守ったりするための「接待」の場で問題が発生したのならば、その根本の原因は「金蔓(かねづる)」ということになるわけです。そしてもしも「接待」の場で問題が発生したことなどによってCMやスポンサーが減少したことを理由に真相の解明を求めたり責任を厳しく追及したりすることになるのならば、やはりその根本の原因も「金蔓(かねづる)」ということになるわけです。「人権」でも「倫理」などでもなく、「金蔓(かねづる)」ということになるわけです。ちなみにもしも「接待」の場で結果的に何も問題が発生していなかったということになっていたのならば、いったいどうなっていたのでしょうか? いずれにしてもどこかのテレビなどの世界の話を理解することができるかどうかということは、結局のところは「金蔓(かねづる)」の話を理解することができるかどうかということになるのかもしれないと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「純粋に 『仕事』は『仕事』? 『接待』は 迷惑だとは 思っているか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「接待」とはいったい何なのでしょうか? いわゆる「接待」は本当に必要不可欠なのでしょうか? 多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、もしも「接待」などが「仕事」や「取引」などを円滑に進めるための「潤滑油」などのようなものであったとしても「仕事」や「取引」などに「潤滑油」などのようなものが本当に必要なのでしょうか? あくまでも念のために言っておきますが、これから「仕事」を上手く続けていくために「関係者」の間で「親睦」を図るなどという考え方を完全に否定するつもりはないのです。しかし、「仕事」や「取引」に本当に「親睦」などが必要不可欠なのでしょうか? さらに大きな誤解と批判を覚悟の上で率直に言わせてもらうのならば、「仕事」や「取引」などを純粋に「仕事」や「取引」として考えたいと思っている人たちにとっては「接待」や「親睦」や「潤滑油」などのようなものは非常に大きな迷惑以外の何物でもないのです。そしてあくまでも念のために確認しておきますが、もしも「接待」をされる側が「仕事」や「取引」などで絶対的な決定権を握り続けているような場合には、「接待」をされる側が「接待」をする側に対してより多くの「接待」などを明示的にあるいは黙示的に求めるようになるのかもしれないと想像することができるのです。もっとも現実の社会においては、「接待」をする側だけではなく、「接待」をされる側にとっても、いわゆる「接待」が非常に大きな重荷になっているということも少なくはないのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『接待』は 『仕事』のための 『潤滑油』? 実は重荷に なっているかも…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「接待」とはいったい何なのでしょうか? いわゆる「接待」は本当に必要不可欠なのでしょうか? 繰り返しになりますが、いわゆる「接待」とはいったい何なのでしょうか? いわゆる「接待」は本当に必要不可欠なのでしょうか? もしかすると「接待」には「仕事」や「取引」などを円滑に進めるための「潤滑油」としての役割があるのでしょうか? 確かに「接待」には「仕事」や「取引」などを円滑に進めるための「潤滑油」としての役割があるケースも少なくはないのだろうと思います。しかし、現実の社会においては、「接待」をする側だけではなく、「接待」をされる側にとっても、いわゆる「接待」が非常に大きな重荷になっているということも少なくはないのです。あくまでも一般論ですが、「接待」をする側にとっては「接待」をする場において「若い男性(女性)」の頭数が不足していると考えて多少の無理をして「若い男性(女性)」の頭数をそろえるようなことは「日常茶飯事」なのでしょうか? 繰り返しになりますが、いわゆる「接待」とはいったい何なのでしょうか? いわゆる「接待」は本当に必要不可欠なのでしょうか? 現実の社会においては、「接待」をする側だけではなく、「接待」をされる側にとっても、いわゆる「接待」が非常に大きな重荷になっているということも少なくはないのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『加害者』が 『引退』『辞任』 すればいい? もっと深刻 もっと根深い…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「接待」とはいったい何なのでしょうか? いわゆる「接待」は本当に必要不可欠なのでしょうか? あえて個別具体的な固有名詞などには触れないことにしますが、最近どこかの社会やどこかのメディアで不祥事が大きな問題になっているようです。事実関係の真偽を含めた詳細などについても一切触れませんが、どんなに少なくとも「加害者側」の人間たちが「引退」や「辞任」をすれば問題が解決するというわけではないはずなのです。さらに言えば、「被害者側」の人権が守られたりこれ以上感情がかき乱されたりすることがなくなるのならば問題が解決するということでもないはずなのです。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、最近どこかの社会やどこかのメディアで大きな話題になっている不祥事は「一加害者」、「一被害者」、「一不祥事」を超えたもっとずっと深刻でもっとずっと根深い問題ではないかということをあえて指摘した上で強調しておく必要があるのです。そもそも「だれかtoなんとか」がなぜ「だれか」になったのかということを思い出してみるだけでもそのことをある程度までは想像することができるのかもしれないと思います。いわゆる「接待」とはいったい何なのでしょうか? いわゆる「接待」は本当に必要不可欠なのでしょうか? いずれにしても最近どこかの社会やどこかのメディアで大きな問題になっている不祥事は、ほとんどの人たちが漠然と考えていることよりもはるかに広範囲に渡るはるかに根深い深刻な問題なのではないかということをあえて指摘した上で強調することにしておきます。 ======================================= 「『AI』で どんな『名文』 つくれるか? 『地方創生』 『楽しい日本』…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「生成AI」は現実社会ではいったいどのくらい役に立っているのでしょうか? いわゆる「生成AI」はさすがに「超一流」とまではいかなくてもそれなりのレベルの「スピーチライター」にまではなることができるのでしょうか? 最近いくつかの社会でそれなりに注目された「〇〇演説」と呼ばれるものがありました。もしもいくつかの「キーワード」といくつかの「制約条件」をそれなりに上手く工夫することができるのならば、今話題のいつかの「生成AI」によっていくつかの「〇〇演説」の「オリジナル原稿」よりもずっと感動的でずっと説得力のある「演説原稿」を作成することができるのではないかという感想を強く持っている人たちは少なくないのではないかと思います。あくまでも一般論ですが、いくつかの「〇〇演説」の「オリジナル原稿」の一文一文は実にシンプルな内容です。そしてこれもあくまでも一般論ですが、「キーワード」は過去に何度も何度も繰り返し使用されて事例が非常に豊富な言葉なのです。「米国第一主義」「日本列島改造論」「地方創生」「楽しい日本」…。「生成AI」によってどんな「名文」をつくり出すことができるのでしょうか? それとも「生成AI」では「名文」をつくり出すことはできないのでしょうか? 「生成AI」は既に「スピーチライター」になることができているのでしょうか? 繰り返しになりますが、今話題のいつかの「生成AI」によっていくつかの「〇〇演説」の「オリジナル原稿」よりもずっと感動的でずっと説得力のある「演説原稿」を作成することができるのではないかという感想を強く持った人たちは少なくなかったのではないかと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『サプライズ』 多くの人が 注目か 別の場所では いったい何が?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「サプライズ」とはいったい何なのでしょうか? 世の中にはいわゆる「サプライズ」などという言葉でふたをすることによって簡単に「思考停止」してしまうわけにはいかない問題も存在するはずなのです。 いわゆる「サプライズ」を引き起こすようなことを好む人間たちは世の中には少なくないのです。また最近は「『サプライズ』は『〇〇流』」などという言葉も飛び交うようになってきています。でも、そもそもなぜ「サプライズ」なのでしょうか? なぜ「サプライズ」を引き起こすようなことがそんなに好きなのでしょうか? もちろん「サプライズ」を引き起こすようなことを好む人間たちによって「サプライズ」を引き起こす理由はそれぞれ違うのだろうと思います。確かに「サプライズ」というものは、多くの人たちから注目されることが少なくないのだろうと思います。しかし、すべての「サプライズ」を引き起こす人間たちの「サプライズ」を引き起こす理由が「多くの人たちから注目を浴びること」などということでもないのだろうと思います。その上で、あくまでも念のために付け加えることにするのならば、仮に「サプライズ」が引き起こされた場合には多くの人たちがそのことに注目するなどして結果的に多くの人たちの行動がそろってしまうということが少なくないのです。多くの人たちがその「サプライズ」に注目しているときに別の場所では何が起こっているのでしょうか? いずれにしても、世の中には、いわゆる「サプライズ」などという言葉でふたをすることによって簡単に「思考停止」してしまうわけにはいかない問題も存在するはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『サプライズ』 多くの人は 驚いて 慌てて動く! ごく一部には…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「サプライズ」とはいったい何なのでしょうか? 世の中にはいわゆる「サプライズ」などという言葉でふたをすることによって簡単に「思考停止」してしまうわけにはいかない問題も存在するはずなのです。 繰り返しになりますが、なぜ「サプライズ」は「サプライズ」と呼ばれるのでしょうか? いわゆる「サプライズ」というものは、ほとんどの人たちにまだその「内容」が知られていない場合か、ほとんどの人たちにまだその「時期」が知られていない場合に発生すると考えられるわけです。あえて言い換えれば、いくらほとんどの人たちにとって「サプライズ」であったとしてもその「内容」もその「時期」も共に知っている人間たちにとっては少しも「サプライズ」ではないのだろうと思います。その上で、あえて念のために付け加えるのならば、いわゆる「サプライズ」というものは、テレビや動画配信サイトの中だけではなく、いわゆる「マーケット」の中でも起こり得るということには注意が必要になります。何かの「サプライズ」で慌てて何かを売ったり買ったりするという人たちだけではなく、少しも驚かずに冷静のままでいる人間たちもごく一部にはいるのだろうと思います。いずれにしても、世の中には、いわゆる「サプライズ」などという言葉でふたをすることによって簡単に「思考停止」してしまうわけにはいかない問題も存在するはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『内容』と 『時期』のどちらも 分からない? 『サプライズ』とは どういうことか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「サプライズ」とはいったい何なのでしょうか? 世の中にはいわゆる「サプライズ」などという言葉でふたをすることによって簡単に「思考停止」してしまうわけにはいかない問題も存在するはずなのです。 あくまでも一般論ですが、なぜ「サプライズ」は「サプライズ」と呼ばれるのでしょうか? そしてある物事の「内容」をほとんどの人たちが知らない場合にだけ「サプライズ」などと呼ばれることになるのでしょうか? もちろんそんなことはないはずです。例えば、いくら「金利X%アップ」などという「内容」を誰もが知っていたとしても、その「時期」はほとんどの人たちが知らないという場合には、実際に「時期」が明らかになったときに「サプライズ」などと呼ばれることもあるのだろうと思います。それでは何らかの物事の「時期」だけをほとんどの人たちが知っている場合には「サプライズ」にはなり得ないのでしょうか? もちろんそんなこともないはずなのです。例えば、俳優やスポーツ選手などの有名人が「本日〇時に情報解禁あり」などと事前発表した場合には実際に「本日〇時」に「情報解禁」された「内容」が明らかになったときにも「サプライズ」などと呼ばれることになるのだろうと思います。あえて言い換えれば、いわゆる「サプライズ」というものは、ほとんどの人たちにまだその「内容」が知られていない場合か、ほとんどの人たちにまだその「時期」が知られていない場合に発生すると考えられるわけです。何にしても、世の中には、いわゆる「サプライズ」などという言葉でふたをすることによって簡単に「思考停止」してしまうわけにはいかない問題も存在するはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『多数決』 『51対 49』 だったとしても 『多数派』になる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「民主主義」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」をやれば「民主主義」になるのでしょうか? 「国民主権」とはいったい何なのでしょうか? 「有権者」とはいったい何なのでしょうか? 「民主主義」という言葉はほぼ誰もが日常的に気軽に使っている言葉です。しかし、「民主主義」という言葉を当たり前のように使っている多くの人たちも「民主主義」という言葉の意味がよく分からなくなってしまう事態に遭遇することがあるのかもしれないと思います。 当たり前と言えば当たり前の話ですが、「民主主義」においてはほとんどのことが基本的には「多数決」で決められることになるわけです。しかし、同じ「多数決」による決定であったとしても、例えば「99対1」と「51対49」ではずいぶんと性質が違ってくるはずなのです。しかし、「多数決」のシステムでは、「99対1」の99人も、「51対49」の51人も、同じ「多数派」ということになってしまうのです。100人のうちの99人が賛成するようなものと、100人のうちの51人しか賛成しないものの違いが見えにくくなってしまうことが「多数決」の最大の欠点の1つではないかと思います。その上で、「民主主義」においては、100人の中の1人の反対であったとしても、100人の中の49人の反対であったとしても、「少数意見」は可能な限り尊重するべきなのです。そしてもちろん本物の「民主主義」においてはどんなに少なくともそれぞれの個人の基本的人権のようなものについては「多数決」によってはく奪されるようなことはないはずなのです。繰り返しになりますが、「民主主義」とはいったい何なのでしょうか? 「多数決」とはいったい何なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『犯罪』は 当選すれば 『免罪』に? 在任中は 『免責』になる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「民主主義」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」をやれば「民主主義」になるのでしょうか? 「国民主権」とはいったい何なのでしょうか? 「有権者」とはいったい何なのでしょうか? 「民主主義」という言葉はほぼ誰もが日常的に気軽に使っている言葉です。しかし、「民主主義」という言葉を当たり前のように使っている多くの人たちも「民主主義」という言葉の意味がよく分からなくなってしまう事態に遭遇することがあるのかもしれないと思います。 地球上のあちこちの民主主義国家で「犯罪」容疑者が選挙に立候補して当選するということがときどきあります。しかし、「犯罪」は選挙で当選すれば「免罪」になるのでしょうか? そして当選後の在職中は「免責」ということになってしまうのでしょうか? もしも選挙で当選すれば「犯罪」が「免罪」になるとしたらただでさえそれほど高くない「候補者の質」がますます低下することになってしまいます。もっともいくら「犯罪」容疑者が大量に立候補したとしても実際に当選することができるのはそれほど多くはないのだろうとは思います。しかし、例えば、「犯罪」容疑者が大統領選挙に立候補してひとたび大統領に当選すれば在任中は「内乱罪」や「国家反逆罪」などにでも問われない限り、たいていのことは「免責」ということになってしまうのだろうと思います。「民主主義」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」とはいったい何なのでしょうか? きょうのところ改めてそれらのことを強調するだけにしておきます。 ======================================= 「『人質』の 解放『小出し』に することで 相互不信を 高めることに…」-。 ガザ地区などで約1年3カ月に渡って激しい戦闘を続けているイスラエルとイスラム武装組織「ハマス」が1/19から停戦を実施しています(→ハマス側が1/19にイスラエル人女性3人を解放、イスラエル側も1/20に刑務所などに収容していたパレスチナ人90人を釈放。ちなみに停戦の「合意」は、第1段階の6週間に「ハマス」が段階的に誘拐・監禁している人質のうち33人を解放、イスラエル側もパレスチナ人の受刑者数百人を釈放、その上でイスラエル軍が人口密集地区から撤退、人道支援物資の搬入と配布を拡大、さらに恒久的な停戦に向けた交渉を続けるなどという内容だという。参考:2025/1/18付)。 何にしても実際にイスラエルと「ハマス」の間で停戦が実現したことは歓迎するべきことだと思います。そして実際に「ハマス」が拉致・監禁していた「人質」が解放されたことは喜ばしいことだと思います。しかし、残念ながらこの停戦がいつまで続くことになるのかはよく分からないということにも注意をする必要があります。多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、もしもこのまま「ハマス」が拉致・監禁している「人質」を「小出し」に解放することを許し続けるのならば、停戦は「最長でも6週間」で終わってしまう危険性が非常に高くなるのではないかと思います。「ハマス」が拉致・監禁している「人質」を「小出し」に解放するたびに果たしてイスラエル側と「ハマス」の間に信頼関係が深まっていくのでしょうか? 仮に「ハマス」が合意を完全に履行して6週間で拉致・監禁している「人質」のうち33人を解放したとしても、まだ解放されない「人質」が残されているわけです。もしも「ハマス」が拉致・監禁している「人質」を「小出し」に解放するたびに相互不信が高まることになるのならば、本当に停戦は続くのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、どんなに少なくとも「ハマス」が拉致・監禁しているすべての「人質」が解放されるまでは恒久的な停戦が実現することはないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『結論』を もう出している 人間は 時間の流れ 遅く感じる?」-。 韓国の「高位公職者犯罪捜査庁」などの合同捜査本部が唐突な「非常戒厳」の宣布(2024/12/3)などを理由に弾劾訴追(2024/12/14)されて職務停止中の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領を「内乱」を首謀した疑いで1/19に逮捕したことで大きな波紋が広がっています(→現職大統領の逮捕は韓国史上初。裁判所は逮捕状を出した理由に「証拠隠滅のおそれ」を挙げているという。ソウル西部地方裁判所で行われた逮捕状を出すかどうか判断するための審査には大統領も出席して約45分発言。大統領は逮捕後も取り調べや供述を拒否する姿勢を示し続けている。なお逮捕状を出したことに反発した群衆の一部が暴徒化して裁判所内に侵入したことでも波紋が広がった。参考:2025/1/17付、2025/1/4付)。 ほんの1、2カ月前までは普通に大統領をやっていた人物が弾劾されて逮捕される…。韓国の国民だけではなく、国際社会の多くの人たちも事態のあまりにも速い展開についていけなくなっているのではないかと思います。しかし、もしかすると自分自身で「結論」を出している人間たちにとっては事態があまりにもゆっくりと進んでいるように感じるのかもしれないと思います。「大統領は有罪」という「結論」を既に出している人間たちの中には一刻も早く「有罪」にして一日でも早く平穏な日常生活が戻ってきてほしいと思っている人間たちも少なくはないのだろうと思います。逆に、「大統領は無罪」という「結論」を出している人間たちの中には適正な司法プロセスすらも無駄で不必要だと感じている人間たちもいるのだろうと思います。いずれにしても今現在起こっていること、そして「結論」を含めたこれから起こることのすべてはそう遠くない将来に「歴史」という時間の流れの中でも検証されることになるのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『民主主義』 守るためには 『暴力』は 必要なのか? 放棄すべきか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。繰り返しになりますが、「民主主義」とはいったい何なのでしょうか? そして「民主主義を守る」ということはいったいどのようなことを意味しているのでしょうか? さらに言えば、「民主主義」というものは「社会」を分断するものなのでしょうか? やはり「民主主義」というものは「社会」を分断するものではないのだろうと思います。もしも「社会」の分断があまりにも深刻になってしまった場合には「社会」が「社会」として機能しなくなることもあるのです。ですから、「民主主義」とは「社会」の分断を進めるものではなく、逆に、様々な考え方や主張を持った人たちを包み込むようなものなのではないかと思っています。様々な考え方や主張を持った人たちが「暴力」によって他人を自分たちの思い通りにしようとするような「弱肉強食」の状態は、「民主主義」どころか「社会」などと呼ぶこともできないはずなのです。確かに「民主主義」では「暴力」ではなく「多数決」で物事を決めることになるわけです。しかし、実は「多数決」というものが「暴力」と同じようなものになってしまう場合が存在するということにも注意が必要になるのです。残念なことですが、現実の「社会」の中では「多数派」が「少数派」を様々な形で圧迫するということも少なくはないのです。「民主主義を守る」ためには本当に「暴力」が必要になるのでしょうか? 「民主主義を守る」ためには「多数決」が必要不可欠なのでしょうか? 「民主主義社会」をつくるためにはそれぞれの人たちが「暴力」を放棄して「弱肉強食」の状態から脱出することが必要不可欠だったのではないのでしょうか? デモや集会などがいけないとは言うつもりは全くないのですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『人質』が すべて解放 されないと 『停戦』しても 終わりは見えず…」-。 ガザ地区などで約1年3カ月に渡って激しい戦闘を続けているイスラエルとイスラム武装組織「ハマス」が1/19から6週間の停戦を実施することなどで合意したことが1/15に明らかになりました(→第1段階の6週間に「ハマス」が段階的に誘拐・監禁している人質のうち33人を解放、イスラエル側もパレスチナ人の受刑者数百人を釈放、その上でイスラエル軍が人口密集地区から撤退、人道支援物資の搬入と配布を拡大、さらに恒久的な停戦に向けた交渉を続けるなどという内容だという)。 今回の停戦合意に基づいて実際に「人質」が解放されることになれば、2023年11月下旬以来ということになるのだろうと思います。正確な人数は分かりませんが、今現在も「ハマス」側にイスラエル人や外国人少なくとも数十人が「人質」として誘拐・監禁されたままなのだろうと思います。言うまでもなく地球上にはガザ地区での停戦が実現してすべての「人質」が解放されることを望んでいる人たちはたくさんいるはずです。しかし、残念ながら今回も停戦合意が完全に履行されることになるのかどうかということはまだよく分からないのです。その上で、あえて率直に言わせてもらうのならば、もしも恒久的な完全な停戦というものが実現することがあるとするのならば、「ハマス」側がすべての「人質」を解放した後のことになるのだろうと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「ハマス」側が「人質」を誘拐・監禁したままの状態ではイスラエル側の「攻撃」が止まることはないはずなのです。もしも「ハマス」側が「人質」を誘拐・監禁した状態のままでイスラエル側がすべての「攻撃」をやめることになるのならば、そのときはイスラエル側が「人質」を見捨てるということを意味することになるからです。そのように考えるのならば、どんなに少なくともすべての「人質」が解放されない場合には、たとえ「停戦」が実現しても終わりが見えないということがすぐに分かるはずなのです。イスラエル側は「人質」を見捨てることがあるのでしょうか? 「ハマス」は自らの安全のためにいつまで「人質」の誘拐・監禁を続けるつもりなのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『拘束』も 『世論調査』や 『多数決』? 民主主義では 多数が決める?」-。 韓国の「高位公職者犯罪捜査庁」などの合同捜査本部が唐突な「非常戒厳」の宣布(2024/12/3)などを理由に弾劾訴追(2024/12/14)されて職務停止中の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領を「内乱」を首謀した疑いで取得した「拘束令状」を1/15に執行して身柄を拘束したことで大きな波紋が広がっています(→現職の大統領の身柄拘束は韓国史上初。大統領は不法な捜査だが流血の事態を防ぐために出頭に応じることにしたなどと主張する国民向けのビデオメッセージを発表。また大統領は捜査当局側による取り調べでは供述や録画などを拒否しているという。ちなみに捜査当局側は1/3に「拘束令状」の執行を試みたものの大統領警護庁側に阻止されて約5時間半後に執行を見送っていた。参考:2025/1/4付)。 本当に民主主義では多数が決めるのでしょうか? あくまでも一般論ですが、民主主義国家においては、どんなに少なくとも誰かの身柄を「拘束」したり「逮捕」したりするようなことは「世論調査」や「多数決」(だけ)では決めることができないはずなのです。もちろん「拘束」には賛成だという人たちも反対だという人たちもいるのだろうと思います。しかし、いくら「拘束」に賛成する人たちが多かったとしても「拘束」することができない場合があるはずですし、逆に、いくら「拘束」に反対する人たちが多かったとしても「拘束」しなくてはならない場合もあるはずなのです。そもそも本当に「拘束」しなければならない理由があるのでしょうか? あえて別の言い方をすれば、有罪を立証することができそうな十分な証拠や証言が積み上がっていて、後は「拘束」や「逮捕」しなければ捜査が進まない状態になっているのでしょうか? あるいは、「拘束」や「逮捕」しなければ証拠隠滅や逃亡の危険性がかなり大きいのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、民主主義国家においては「世論調査」や「多数決」(だけ)では決めることができないことがいくつもあるのです。それにしてもどこの国であっても社会の分断というものは非常に厄介なものです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『有権者』 『ご主人様』で いられるか? 『国民主権』 『民主主義』とは?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「民主主義」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」をやれば「民主主義」になるのでしょうか? 「国民主権」とはいったい何なのでしょうか? 「有権者」とはいったい何なのでしょうか? 「民主主義」という言葉はほぼ誰もが日常的に気軽に使っている言葉です。しかし、「民主主義」という言葉を当たり前のように使っている多くの人たちも「民主主義」という言葉の意味がよく分からなくなってしまう事態に遭遇することがあるのかもしれないと思います。 繰り返しになりますが、「有権者」とはいったい何なのでしょうか? 「国民主権」とはいったい何なのでしょうか? どんなに少なくとも「民主主義」という制度の下での「国民主権」というものは「有権者」が「ご主人様」ではいられないということを意味しているのだろうと思います。「国民主権」というものは「有権者」が最終的に責任を取るということを意味しているはずなのです。そのように考えるのならば、もしも「有権者」が「ご主人様」ではいられないということを正しく理解していないのならば、「手取り収入を増やす」「減税する」「補正予算を編成する」「景気対策を実施する」などという「公約」の実現可能性やその効果の程度を正しく見極めることすらもできるようにはならないのだろうと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、選挙で耳障りの良いもっともらしいことを「公約」している候補者や政党は、自分たちの財産を使って「ご主人様」である「有権者」に「奉仕」しようと思っているわけではないということを絶対に見失ってはならないのです。あえて言い換えれば、選挙で耳障りの良いもっともらしいことを「公約」している候補者や政党は、自分たちの当選のために他人のカネを気軽にばらまこうとしているに過ぎないのです。くどいようですが、「有権者」は「ご主人様」でいられるのでしょうか? 「民主主義」という制度の下での「国民主権」というものは「有権者」が「ご主人様」ではいられないということを意味しているのだろうと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「期待して 投票しても 当選後 期待外れと 分かったときは…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「民主主義」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」をやれば「民主主義」になるのでしょうか? 「国民主権」とはいったい何なのでしょうか? 「有権者」とはいったい何なのでしょうか? 「民主主義」という言葉はほぼ誰もが日常的に気軽に使っている言葉です。しかし、「民主主義」という言葉を当たり前のように使っている多くの人たちも「民主主義」という言葉の意味がよく分からなくなってしまう事態に遭遇することがあるのかもしれないと思います。 残念ながら選挙で当選した候補者や与党になった政党が選挙のときに「有権者」に約束した「公約」を守らなかった(守れなかった)などということはよくあることです。「有権者」は自分が期待して投票した候補者が当選したにもかかわらず、当選後に期待外れだと分かったときにはいったいどうすればいいのでしょうか? まずはそんな期待外れの候補者に投票して当選させてしまった「有権者」は自分自身の判断が間違っていたということを徹底的に反省するべきではないかと思います。そしてその「有権者」は自分自身の間違った判断の責任を取るべきではないかと思います。期待外れの候補者に投票して当選させてしまった「有権者」は自分自身の間違った判断によって自分自身で「暗黒の何年間」を作り出してしまったということになるわけです。言うまでもなくその責任は自分自身にあるのです。その上で、さらに言えば、期待外れの候補者に投票して当選させてしまった「有権者」は、自分自身の間違った判断に基づく投票によって他の「有権者」にも「暗黒の何年間」を忍耐させることになったということにも責任を感じた方がいいと思います。期待外れの候補者に投票して当選させてしまった「有権者」は、自分自身の間違った判断に基づく投票によってすべての「有権者」に「暗黒の何年間」を忍耐させることになったという責任から逃れることはできないはずなのです。「国民主権」とはいったい何なのでしょうか? 「国民主権」というものの1つの答えとしては「有権者」が最終的に責任を取るということになるのではないかと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「民主主義」というものは「有権者」が自分自身の行動に責任を持たなければ上手く機能しなくなってしまうのです。きょうのところはそのことを改めて指摘した上で強調することにしておきます。 ======================================= 「決まる前 反対しても 決まったら すぐに従い 『ルール』を守る?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「民主主義」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」をやれば「民主主義」になるのでしょうか? 「国民主権」とはいったい何なのでしょうか? 「有権者」とはいったい何なのでしょうか? 「民主主義」という言葉はほぼ誰もが日常的に気軽に使っている言葉です。しかし、「民主主義」という言葉を当たり前のように使っている多くの人たちも「民主主義」という言葉の意味がよく分からなくなってしまう事態に遭遇することがあるのかもしれないと思います。 あえて個別具体的な固有名詞を取り上げることは避けますが、政治について何かを語る場所ではそれぞれの国の国民性の違いが話題になることがときどきあります。例えば、「A国民は、新しいルールを決める前には猛烈に反対するが、ひとたび新しいルールが決まるとすぐにそのルールを守るようになる」が、「B国民は、新しいルールを決める前にはそれほど強く反対していなくても、実際に新しいルールが決まってそのルールが適用されるようになると猛烈に反対するようになる」とか…。「A国民」と「B国民」に本当にそのような国民性の違いがあるのかどうかはともかくとしても、その「国民性の違い」には「民主主義」というものの本質を明らかにするヒントが含まれているのです。たとえ自分たちがいくら強く反対していても「民主主義」の制度に基づいた適正なプロセスを通じて物事が決まった場合には従わなくてはならないのです。「民主主義」というものは自分たちがいくら強く反対していたとしてもひとたび新しい「ルール」が決まったらその「ルール」には従わなければ成り立たない制度だということを改めて指摘しておくことにします。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『暗黒の 何年間』に なった後 どう忍耐し 『次』につなげる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「民主主義」とはいったい何なのでしょうか? 「選挙」をやれば「民主主義」になるのでしょうか? 「国民主権」とはいったい何なのでしょうか? 「有権者」とはいったい何なのでしょうか? 「民主主義」という言葉はほぼ誰もが日常的に気軽に使っている言葉です。しかし、「民主主義」という言葉を当たり前のように使っている多くの人たちも「民主主義」という言葉の意味がよく分からなくなってしまう事態に遭遇することがあるのかもしれないと思います。 当たり前と言えば当たり前の話ですが、有権者の中には、選挙で自分が投票した候補者が当選したとか自分が支持した政党が与党になったという有権者もいれば、自分が投票した候補者が落選したとか自分が支持した政党が野党になったという有権者もいるわけです。そしておそらく自分が投票した候補者が落選したとか自分が支持した政党が野党になったという有権者にとっては、少なくとも今回の選挙直後から前回の選挙までの何年間かは「暗黒の何年間」ということになってしまうのかもしれないと思います。有権者は自分にとっての「暗黒の何年間」をどのように過ごしたらいいのでしょうか? 前向きに考えるのならば、「暗黒の何年間」をどのように忍耐して「次」につなげるのかということを考えるべきなのだろうと思います。その上で、あくまでも念のために付け加えるのならば、もしもそれぞれの有権者が自分にとっての「暗黒の何年間」を忍耐することができないのならば、「民主主義」というものが上手く機能しなくなるということには注意が必要になります。自分が投票しなかった候補者が当選したり支持しない政党が与党になったりした後は与党側のやることのほぼすべてに無条件で徹底的に反対し続けるというような姿勢では本当の意味での「民主主義」にはならないのです。あえて言い換えれば、「民主主義」では「有権者」が自分にとっての「暗黒の何年間」をきちんと受け入れることが必要不可欠なのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「出ていけば 『純度』が高く なっていく! ますますひどい 場所になるかも…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「ふるさと」とはいったい何なのでしょうか? 「ふるさと」とは「生まれ育った場所」のことなのでしょうか? それとも「ふるさと」とは「心の拠り所になるような場所」のことなのでしょうか? ちなみに「ふるさと」がもはや「心の拠り所」にはならなくなってしまったときにはいったいどうなるのでしょうか? 繰り返しになりますが、地球上にはいくつかの理由のために「ふるさと」がもはや「心の拠り所」にはならなくなってしまったという人たちがいるわけです。繰り返しになりますが、もしも「ふるさと」が嫌になっている人たちが簡単に出ていくことができるのならば「ふるさと」の改革は進むのでしょうか? おそらく一度は捨てた「ふるさと」が再び「心の拠り所」になるような可能性が低くはない事例もいくつか存在するとは思います。しかし、逆に、「ふるさと」が嫌になっている人たちが次々と出て行ってしまうと「ふるさと」がますますひどい場所になってしまうという危険性が高まることもあるのではないかと思います。あえて「政治指導者」の固有名詞を取り上げることだけは避けますが、「カナダ」を51番目の州にするとか何とかとか、全く売り物にもなっていない「グリーンランド」を関税や軍事力で圧力をかけたりして買収するとか何とかとか、「パナマ運河」を再び所有するべきだとか何とかとかと…。正気なのでしょうか? 「政治指導者」としては驚くほどひどい発言です。これではかつて世界大戦の原因となったどこかの「独裁者」の自分勝手な計画や発言と大差ないのではと言いたくなってしまいます。こんな「政治指導者」が好き勝手に振る舞うような「ふるさと」にはもういたくないと本気で海外移住を考えている人たちも少なくないそうですが…。「ふるさと」に失望して出ていく人たちが増えると悪い意味で「純度」が高まって「ふるさと」がますますひどい場所になってしまうような気がします。まずは「誰か」に国際連合憲章などを一度きちんと読んでもらった方が「ふるさと」を再生するための近道のような気もしますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「次々と 若い女性が いなくなる! そんな社会は 持続可能か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「ふるさと」とはいったい何なのでしょうか? 「ふるさと」とは「生まれ育った場所」のことなのでしょうか? それとも「ふるさと」とは「心の拠り所になるような場所」のことなのでしょうか? ちなみに「ふるさと」がもはや「心の拠り所」にはならなくなってしまったときにはいったいどうなるのでしょうか? 繰り返しになりますが、地球上にはいくつかの理由のために「ふるさと」がもはや「心の拠り所」にはならなくなってしまったという人たちがいるわけです。繰り返しになりますが、もしも「ふるさと」が嫌になっている人たちが簡単に出ていくことができるのならば「ふるさと」の改革は進むのでしょうか? 結論から言えば、いくつかのタイプの場合には一度は捨てた「ふるさと」が再び「心の拠り所」になるような可能性は低くはないと思います。例えば、もしも非常に根深い女性差別が広がっている「ふるさと」から若い女性が次々と自由に出て行ってしまったのならば、どんなに少なくとも数十年単位で見ればその「ふるさと」は消滅の危機に陥ることになるのだろうと思います。もしも「ふるさと」の社会から若い女性がほとんど消えてしまったのならば、その「ふるさと」の社会は維持することができなくなるはずなのです。その「ふるさと」が消滅の危機に陥っている場合であっても本当に変わらないままでいることができるのでしょうか? あえて個別具体的な固有名詞を取り上げることは避けますが、地球上のあちこちに存在する宗教や慣習などのために「女性を強く差別している社会」は、そう遠くない将来も社会を維持することができる「持続可能な社会」なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「嫌ならば 出ていくことが できるなら 改革進む? 変わらないまま?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「ふるさと」とはいったい何なのでしょうか? 「ふるさと」とは「生まれ育った場所」のことなのでしょうか? それとも「ふるさと」とは「心の拠り所になるような場所」のことなのでしょうか? ちなみに「ふるさと」がもはや「心の拠り所」にはならなくなってしまったときにはいったいどうなるのでしょうか? 地球上の多くの場所では自分たちが今現在いる場所に不満を持っている人たちが少なくないのです。例えば、経済上の理由から「ふるさと」を捨て去ろうとしている人たちは地球上のあちこちにいるのです。あるいは、宗教や何らかの差別が理由で「ふるさと」で生活することができなくなっている人たちもいるのです。さらに言えば、「ふるさと」を外国に侵略されて奪われて二度と戻れなくなってしまったような人たちもいるのです。何にしてもいくつかの理由のために「ふるさと」がもはや「心の拠り所」にはならなくなってしまったという人たちは地球上のあちこちにいるわけです。もしも「ふるさと」が嫌になっている人たちが簡単に出ていくことができるのならば「ふるさと」の改革は進むのでしょうか? そして「ふるさと」が再び「心の拠り所」になるようなこともあるのでしょうか? それとも「ふるさと」は嫌な人たちが出て行っても変わらないままなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『ふるさと』は 実際に行く 場所なのか? あまり行かない 場所でいいなら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「ふるさと」とはいったい何なのでしょうか? 「ふるさと」とは「生まれ育った場所」のことなのでしょうか? 「ふるさと」とは両親や親戚などが住んでいて長期休暇などのときに「帰省する場所」のことなのでしょうか? それとも「ふるさと」とは「心の拠り所になるような場所」のことなのでしょうか? 繰り返しになりますが、「ふるさと」とはいったいどのような場所のことを意味しているのでしょうか? 多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、そもそも「ふるさと」とは実際に行く場所でなければならないのでしょうか? もしも「ふるさと」が実際にはあまり行かない場所でもいいのならば、これまでもこれからも実際には行くことがない場所ではいけないのでしょうか? 「心の拠り所になるような場所」を「ふるさと」にしてはいけないのでしょうか? さらに言えば、自分にとっての「ふるさと」である「心の拠り所になるような場所」はそもそも実在する場所でなければいけないのでしょうか? 現時点においても、もしも「ふるさと納税」、「クラウドファンディング」などの新しい仕組みを活用して「VR」などの最新技術を駆使することができるのならば、実在しない場所に実在する場所よりもはるかに「ふるさとらしい場所」を作り出すことができるのではないかと思います。繰り返しになりますが、「ふるさと」とはいったい何なのでしょうか? 「心の拠り所になるような場所」を「ふるさと」にしてはいけないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『ふるさと』は 日本が『狭く』 なったとき 近くなるのか? 遠くなるのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「ふるさと」とはいったい何なのでしょうか? 「ふるさと」とは「生まれ育った場所」のことなのでしょうか? 「ふるさと」とは両親や親戚などが住んでいて長期休暇などのときに「帰省する場所」のことなのでしょうか? それとも「ふるさと」とは「心の拠り所になるような場所」のことなのでしょうか? 確かに地球上の別のいくつかの国と比べれば、日本は「狭い国」です。そして大昔と比べれば、交通機関や通信手段の発達などのために「狭い日本」はますます「狭く」なっているのだろうと思います。ここで問題になるのは、日本が「狭く」なったときに「ふるさと」は近くなるのか遠くなるのかということなのです。もちろん日本が「狭く」なったことで「ふるさと」が近くなったのか遠くなったのかなどということは人それぞれなのだろうとは思います。ある人は以前よりも「近く」なったことで「ふるさと」との間を頻繁に行き来するようになったり、別のある人は「ふるさと」との行き来の頻度はそれほど変わらなかったり…。もしかすると「ふるさと」がいつでもすぐに帰ることができるような場所になったら逆に足が遠のいてしまったという人たちもいるのかもしれないと思います。その上で、あえて確認しておきますが、そもそも「ふるさと」とはいったいどのような場所のことを意味しているのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「紛争や 対立などが 深刻に! 『グループ単位』 報復あれば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中では多くの人たちが多くのことについて「グループ単位」で扱っています。また逆に多くの人たちも世の中では「グループ単位」で扱われることが多いのです。「グループ単位」で扱うことは本当に良いことなのでしょうか? 以前から何度も繰り返していますが、世の中では「グループ単位」で扱ったり扱われたりすることによって対立が深刻になるものがいくつも存在するのです。例えば、紛争や対立が「イスラエル」「ユダヤ人」、あるいは「アラブ」「パレスチナ」「イラン」「イスラム教徒」などといった「グループ単位」で扱ったり扱われたりすることによって、報復が報復を呼び、悲劇はさらに大きなものになってしまっているのです。「イスラエル」などに対する報復、あるいは、「パレスチナ」や「イラン」などに対する報復は、「グループ単位」で実行されることによって全く無関係な民間人をも巻き込んでしまうことになるのです。どんなに少なくとも「グループ単位」での対立は、報復が報復を呼び、悲劇をさらに大きくしてしまう危険性が高くなるのです。そもそもイスラエル軍の攻撃によるパレスチナの民間人の犠牲は、「イスラエルによって」ではなく、「イスラエル軍の特定の兵士や特定の指揮官によって」引き起こされたもののはずなのです。またそもそもハマスなどの攻撃による民間人の犠牲は、「パレスチナやイランによって」ではなく、「特定のテロリストなどによって」引き起こされたもののはずなのです。いずれにしても紛争や対立などが「グループ単位」で扱ったり扱われたりすることによって、報復が報復を呼び、悲劇がさらに大きな悲劇になってしまうということにはよくよく注意することが必要になります。きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調しておくことにします。 ======================================= 「世の中で 多くのことは 『グループ』で 扱われたり 扱ったりする…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中では多くの人たちが多くのことについて「グループ単位」で扱っています。また逆に多くの人たちも世の中では「グループ単位」で扱われることが多いのです。「グループ単位」で扱うことは本当に良いことなのでしょうか? もちろん「グループ単位」で扱わなければならないことは存在するのだろうと思います。例えば、何かの選挙を行おうとする場合にはその選挙に投票する権利がある人たちを「有権者」という「グループ単位」で扱うことは特に悪いことではないのです。むしろ「有権者」としての条件、日本国の場合には、「(公民権を停止されているごく一部の例外を除く)日本国籍を保有する18歳以上の者」という条件に当てはまるすべての人たちを「平等」に扱うためには「有権者」という「グループ単位」で考えることは合理的なことだとは思います。しかし、例えば、何かの選挙の投票率が非常に低かった場合に、その選挙結果を「有権者の意思」などと安易に考えるのは少し問題があるのではないかと思います。実際に投票して賛成した有権者も、投票して反対した有権者も、投票しなかった有権者も、すべて一緒にして「有権者」という「グループ単位」で考えることはやはり適切なことではないと思います。繰り返しになりますが、世の中では「グループ単位」で扱ったり扱われたりすることが多いのですが、「グループ単位」で扱うことは本当に良いことなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『鉄鋼』の 『安全保障』 図るため 買収阻止し 『投資』を減らす?」-。 米国のバイデン米大統領は1/3に国家安全保障を損なうおそれがあるなどとして日本製鉄による米国鉄鋼大手・USスチールの買収計画の禁止を表明したことで大きな波紋が広がっています(→日本製鉄が2023年12月にUSスチールを買収することで両社が合意していたが、全米鉄鋼労働組合(USW)などが強く反対、2024年の米大統領選挙も影響し、対米外国投資委員会(CFIUS)で審査が進められていたが、期限とされた2024/12/23までに全会一致に至らず、バイデン大統領に最終的な判断が委ねられていた。なお日本製鉄側はこれまでに買収後も米国内での減産はしない、USスチールの生産能力を米政府の承認なしに10年間は削減しないことなどを約束していた。日本製鉄とUSスチールは共同声明で大統領の決定を批判、米政府を提訴へ)。 率直に言わせてもらうのならば、長年に渡る同盟国である日本国の企業による友好的な米国企業の買収でさえも、今の米国では明確な根拠もなしに「国家安全保障上のリスク」と捉えられてしまうということに大きな失望を禁じ得ないという国際社会の人たちは少なくないと思います。少なくとも現時点において米国の「鉄鋼」について外国企業の買収による「国家安全保障上のリスク」を取り除くことができたのかもしれないとは思います。しかし、もしかすると今回の買収阻止が米国への「投資」の「リスク」を高め、逆に中長期的には米国の「国家安全保障上のリスク」を高めることになるかもしれないということには注意が必要になります。もしも「外国企業」であるという理由だけで米国への様々な「投資」に対して反対のための反対による「理不尽な理由」に基づいて様々な妨害を受けるというイメージが国際社会で広がってしまうだけでも米国に対する「投資」には少なくないリスクがあると受け止められることになってしまうのではないかと思います。たとえどれだけ魅力的な市場や企業であったとしても、それなりに長い時間と資金を費やして「投資」の計画を進めていたにもかかわらず途中で「理不尽な理由」で阻止されるリスクが少なくないのならば、最初から「投資」を見合わせるという企業なども少なくないはずなのです。その上で、日本製鉄の買収を阻止した後に本当にどこかの米国企業などが十分な投資をしてUSスチールの経営を再建させることができるのでしょうか? 仮に米国企業による投資と関税引き上げ政策などによって一時的に米国の鉄鋼産業を守ることができたとしても本当に国際的な競争で勝ち残ることができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『内乱』は 『拘束』により 誘発か? そもそも『逮捕』 する意味はある?」-。 韓国の国会から唐突な「非常戒厳」の宣布(2024/12/3)などを理由に弾劾訴追(2024/12/14)されて職務停止中の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領に対する「内乱」を首謀した疑いで取得(202412/31)した「拘束令状」を1/3に大統領公邸に入って執行しようとした「高位公職者犯罪捜査庁」などの捜査当局側が大統領警護庁側に阻止されて約5時間半後に執行を見送りました(→大統領公邸に捜査当局側の約100人が入ったものの大統領警護庁側の約200人が取り囲むなどして「拘束令状」の執行を阻んだという。また大統領公邸周辺には大統領支持派の市民ら数千人?も詰め掛けていたという。ちなみに「拘束令状」の期限は1/6まで。これまでに大統領側は3度の任意での出頭要請に応じず、裁判所が「拘束令状」を発付後も「高位公職者犯罪捜査庁」に内乱罪を捜査する権限はないなどと主張、令状の効力の停止を求める仮処分や異議申立てなどを行ったという。なお韓国の憲法(84条)では大統領は内乱又は外患の罪を犯した場合を除いては在職中刑事訴追を受けないことになっている。参考:2024/12/17付、2024/12/6付etc.)。 最初に韓国の国内政治に不必要に口を差しはさむ意図は全くないということをあえて確認しておきます。その上で、多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、本当に職務停止中の韓国大統領の身柄を拘束したり逮捕したりする必要があるのかということが大いに疑問なのです。例えば、逃亡の恐れがあるとか、今現在も大統領の職権を濫用して証拠隠滅を図る恐れがあるとか捜査に不当な圧力を加える恐れがあるとか…。あるいは、ほとんどすべての大統領の側近などが大統領から「内乱」を引き起こすように命令されたなどと明確に供述しているなどというのならば身柄を拘束するとか逮捕するなどということも理解することができないのではないのです。しかし、もしもそうした状況ではないのにもかかわらず、何が何でも大統領の身柄を拘束するとか逮捕するなどということになるのならば、最悪の場合には「司法権の濫用」の恐れがあるなどと受け止められることになってしまいます。確かに大統領側は任意での出頭要請を拒否したわけです。そして確かに大統領側は唐突に「非常戒厳」を宣布して国会などに軍を出動させたわけです。しかし、だからと言って、「司法」が大統領側に何をやってもいいというわけではないはずなのです。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「司法権の濫用」などと受け止められるような形で大統領の身柄を拘束したり逮捕したりするような状況になってしまうのならば、それこそ「内乱」を誘発する危険性が高まってしまうのではないかと非常に心配しています。繰り返しになりますが、韓国の国内政治に不必要に口を差しはさむ意図は全くないつもりですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『母語』だけど 理解できない ことはある! 『外国語』だけ 勉強しても…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。社会ではいつでもどこでも「誰か」と「別の誰か」が当たり前のように意思や感情などを伝え合っているわけです。言い換えれば、社会には「コミュニケーション」がありふれているのです。しかし、「誰か」と「別の誰か」が意思や感情などを伝え合うということは実はとても難しいことではないかと思います。そもそも自分の考えていることや感じていることのすべてを正確に相手に伝えることができていると実感している人たちはどれだけいるのでしょうか? 「母語」であっても「外国語」であっても「誰か」と「別の誰か」が意思や感情などを伝え合うということはとても難しいことなのです。 もしもあなたが例えば、宇宙物理学や遺伝子工学などの最先端の研究を発表する学会などに「誰か」の代わりに出席して後からその内容を分かりやすく説明するように頼まれたとしたら、あなたはいったいどうするのでしょうか? おそらく宇宙物理学や遺伝子工学などの専門家ならばその気がありさえすれば二つ返事で引き受けることができるのだろうと思います。しかし、宇宙物理学や遺伝子工学などの専門知識をほとんど持たないごく普通の多くの人たちの中にはその頼みを気安く引き受けることができるような人たちはなかなかいないのではないかと思います。それではなぜ気安く引き受けることができないのでしょうか? たとえ同じ「言語」を使って表現されているものであったとしても、その「言語」を十分に理解しているだけではなかなか理解することができない表現というものが存在するということを自覚しているからなのだろうと思います。そのように考えるのならば、たとえ自分にとって生まれてからずっと使い続けてきた「母語」で表現されているものであったとしても、そのすべての表現を正確に理解することができないという現実があるにもかかわらず、「母語」の何分の一や何十分の一の時間しか学習していない「外国語」にも「母語」と同じくらい役立つことを期待している人たちがそんなにたくさんいるのでしょうか? ちなみに「母語」でも理解することができない専門的な内容は「外国語」を勉強すれば理解することができるようになるのでしょうか? 繰り返しになりますが、これからの時代もごく普通の多くの人たちが「外国語」を学習する意味は本当にあるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「「何をするため?」(2025/5/6)
「『客』を見れば…」(2025/5/5)
「『不倫』なら…」(2025/5/4)
「『密会』か? その『目的』は?」(2025/5/3)
「どれだけ入る?」(2025/5/2)
「勝てる?」(2025/5/1)
「負けないために…」(2025/4/30)
「奪い取ったら…」(2025/4/29)
「そらやるぞ!」(2025/4/28)
「『ライバル』が…」(2025/4/27)
「『かまってちゃん』?」(2025/4/26)
「代わりにくれる?」(2025/4/25)
「『大きなピザ』? 『小さなピザ』?」(2025/4/24)
「賢明でない!」(2025/4/23)
「どんな話を?」(2025/4/22)
「再現か?」(2025/4/21)
「『知性』を捨てて…」(2025/4/20)
「『偉大な国』に?」(2025/4/19)
「遅すぎる!」(2025/4/18)
「守るためなのか?」(2025/4/17)
「『基地』がいる!」(2025/4/16)
「こちらから…」(2025/4/15)
「『非関税障壁』?」(2025/4/14)
「安く売ったら…」(2025/4/13)
「欲しいものなら…」(2025/4/12)
「『需要』も戻る?」(2025/4/11)
「儲かりますか?」(2025/4/10)
「『王様』は裸!」(2025/4/9)
「自国だけ除外?」(2025/4/8)
「『今』『ここ』『自分』だけでいい?」(2025/4/7)
「『権力』にしがみつくな!」(2025/4/6)
「『弱い者いじめ』はやめろ!」(2025/4/5)
「『違い』認めろ!」(2025/4/4)
「同盟国を大切に!」(2025/4/3)
「友人を選べ!」(2025/4/2)
「他人の物を欲しがるな!」(2025/4/1)
「『カネ』に頼るな!」(2025/3/31)
「そもそも…」(2025/3/30)
「いつもありがとう!」(2025/3/29)
「『合言葉』」(2025/3/28)
「『公教育』が重要」(2025/3/27)
「『富豪』になれる?」(2025/3/26)
「『立身出世』『金儲け』?」(2025/3/25)
「よく来た?」(2025/3/24)
「誰のものか?」(2025/3/23)
「『ルール』が変わり…」(2025/3/22)
「『国家』と『企業』は…」(2025/3/21)
「買えるのか?」(2025/3/20)
「『一滴の血』でも…」(2025/3/19)
「『親分』は…」(2025/3/18)
「『センス』なし!」(2025/3/17)
「『受験競争』」(2025/3/16)
「『価値』」(2025/3/15)
「『飛び級』」(2025/3/14)
「打倒するのは…」(2025/3/13)
「開けたらどうなるか…」(2025/3/12)
「『悪夢』」(2025/3/11)
「安く買い高く売る?」(2025/3/10)
「『消費者』たちは…」(2025/3/9)
「『今』『ここ』ですぐに…」(2025/3/8)
「なぜ『貿易』を?」(2025/3/7)
「『偉大な国』に?」(2025/3/6)
「『ソフトパワー』」(2025/3/5)
「『言論の自由』?」(2025/3/4)
「『ディール』?」(2025/3/3)
「選ぶのは…」(2025/3/2)
「『民営化』する?」(2025/3/1)
「『私立』がお得?」(2025/2/28)
「『ブロック経済』?」(2025/2/27)
「歴史を『逆行』」(2025/2/26)
「『投資』させれば…」(2025/2/25)
「『山分け』」(2025/2/24)
「『白紙』にできる?」(2025/2/23)
「そんなに難しいこと?」(2025/2/22)
「自分で守る?」(2025/2/21)
「許されるのか?」(2025/2/20)
「『難民』を…」(2025/2/19)
「『皇帝』?」(2025/2/18)
「『減税』よりも…」(2025/2/17)
「『革命』前夜?」(2025/2/16)
「『戦争』を防ぐためには…」(2025/2/15)
「『鎖国』する?」(2025/2/14)
「何ができるか?」(2025/2/13)
「『強者』にはさらに『強者』を」(2025/2/12)
「言い換え?」(2025/2/11)
「『嫌われ者』」(2025/2/10)
「『無知』だから…」(2025/2/9)
「言えるのか?」(2025/2/8)
「何言っている?」(2025/2/7)
「どうなるか?」(2025/2/6)
「『少子化』は…」(2025/2/5)
「『恩恵』は?」(2025/2/4)
「『過疎化』せず?」(2025/2/3)
「『仕事』にできる?」(2025/2/2)
「『次』も一緒に?」(2025/2/1)
「『金蔓(かねづる)』」(2025/1/31)
「『仕事』は『仕事』?」(2025/1/30)
「『潤滑油』?」(2025/1/29)
「『引退』『辞任』すればいい?」(2025/1/28)
「『名文』」(2025/1/27)
「別の場所では…」(2025/1/26)
「ごく一部には…」(2025/1/25)
「『サプライズ』とは…」(2025/1/24)
「『51対49』でも…」(2025/1/23)
「当選すれば…」(2025/1/22)
「『小出し』」(2025/1/21)
「時間の流れ」(2025/1/20)
「守るためには…」(2025/1/19)
「『停戦』しても…」(2025/1/18)
「民主主義では…」(2025/1/17)
「『ご主人様』?」(2025/1/16)
「投票しても…」(2025/1/15)
「決まったら…」(2025/1/14)
「『暗黒の何年間』」(2025/1/13)
「ますますひどい場所に?」(2025/1/12)
「持続可能か?」(2025/1/11)
「嫌ならば…」(2025/1/10)
「実際に行く場所?」(2025/1/9)
「『ふるさと』は…」(2025/1/8)
「深刻に」(2025/1/7)
「『グループ』で」(2025/1/6)
「『投資』を減らす?」(2025/1/5)
「『内乱』は…」(2025/1/4)
「『外国語』だけ勉強しても…」(2025/1/3)
「役に立つ?」(2025/1/2)