東京都心⇔旧地名残る仙台市中心部
千葉潤 政治過程 行政書士事務所(東京都)/自由自律/公私の区分/自助・共助・公助/行政区画・区域の弊害是正/反・旧民主&共産勢力/反・消費税廃止勢力/反ポピュリズム/反カルト/母校は「故郷」/政治を「科学」にする/人間の安全保障/男女共同参画/老若男女生涯現役社会/仙台は元祖東北・新首都圏
「『カワイイ』や 『格好いい』でも 許される? 『人気投票』 でも『一票』か?」-。
きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。民主主義国家では一人ひとりの有権者はそれぞれ「平等」に「一票」を持っていることになっています。しかし、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか?
あくまでもいくつかの仮定の上にさらに仮定を積み重ねた上での空想上の話になりますが、選挙で自分たちが投票する候補者を「カワイイ」や「格好いい」を理由にして決めるような有権者はいったいどのくらいいるのでしょうか? もちろん有権者が自分の「一票」をどのような理由でどのように使ったとしても基本的にはそれぞれの有権者の自由だとは思います。しかし、もしも自分たちが投票する候補者を「カワイイ」や「格好いい」を理由にして決めることになるのならば、選挙と「人気投票」の違いがほとんどなくなってしまうということになってしまうのです。選挙を「人気投票」にしても構わないのでしょうか? ごく普通の多くの有権者は、投票する候補者を能力や政策などで判断して決めても、「カワイイ」や「格好いい」で投票する候補者を決めるような「人気投票」をしても、同じ「一票」として扱われることに納得しているのでしょうか? もしも有権者の「一票の価値」が「人気投票」によって薄められて結果的に「一票以下」になってしまうようなことがあるのならば、別の意味での「一票の価値」の問題が発生することになるのではないかと思います。きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 (twitter:http://twitter.com/jchiba_net
(ホームページ版:http://www.jchiba.net/)。
(ブログ版:http://blog.goo.ne.jp/jchiba_net、http://blog.goo.ne.jp/jchiba_g)。
「『減税』や 『給付金』など 『買収』に ならないことに 説得力は?」-。
きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。民主主義国家では一人ひとりの有権者はそれぞれ「平等」に「一票」を持っていることになっています。しかし、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか?
あくまでも一般論ですが、選挙になると「減税」や「給付金」や「補助金」などを公約する政党や候補者が目立つようになります。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、なぜ「減税」や「給付金」や「補助金」などは「買収」にならないのでしょうか? 「減税」や「給付金」や「補助金」などを事実上の「買収」とみなす必要性はないのでしょうか? もちろん「減税」や「給付金」や「補助金」などの政策が効果的な経済状況というものは存在するのだろうと思います。しかし、「減税」や「給付金」や「補助金」などが常に経済政策として十分な効果を期待することができるというわけではないはずなのです。そのように考えるのならば、どんなに少なくとも客観的に見て明らかに経済政策として十分な効果を期待することができない状況であるにもかかわらず、あえて「減税」や「給付金」や「補助金」などを約束するような場合には、事実上の「買収」と受け止められる危険性が高くなるのです。さらに言えば、もしも「減税」や「給付金」や「補助金」などが一部の特定の人たちだけが恩恵を受けることができるような種類のものであるのならば、「減税」や「給付金」や「補助金」などとは無関係の多くの人たちから事実上の「買収」などと厳しく批判されることになるのだろうと思います。しかし、もしも「減税」や「給付金」や「補助金」などがほとんどの人たちがそれなりに恩恵を受けることができるような種類のものである場合には、反対の声はあまり強くはならないのかもしれないと思います。もしもこのまま「減税」や「給付金」や「補助金」などが事実上の「買収」とみなされる危険性が少しもないのならば、「減税」や「給付金」や「補助金」などを唱えることによって自分たちが持っている「一票」を簡単に「一票以上」にすることができる状況が続くことになるのです。逆の言い方をすれば、有権者の「一票の価値」が「減税」や「給付金」や「補助金」などによって薄められて結果的に「一票以下」になってしまう状況が続くことになるのです。「減税」や「給付金」や「補助金」などが事実上の「買収」とならないことにどれだけの説得力があるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『有力者』 『影響力』を 行使して 『一票』以上 投票できる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。民主主義国家では一人ひとりの有権者はそれぞれ「平等」に「一票」を持っていることになっています。しかし、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか? もしもいわゆる「一票の価値」(→参考:2025/7/1付etc.)をどこでも完全に同じ状態に保つことができたとしても、一人ひとりの有権者が「平等」に「一票」を持っているということになるのかどうかは定かではないのです。例えば、いわゆる「有力者」は、自分に与えられた「一票」以外の他の有権者の「一票」の行使にも「影響力」を持っているのです。言い換えれば、「有力者」はその「影響力」を行使することによって自分自身が持っている「一票」だけではなく他の有権者の「一票」を加えた「一票」以上を投票することができると考えることができるのです。もちろん他の有権者の「一票」に対する「影響力」の中には、「買収」などの違法なものもあれば、法律に抵触しない形で何らかの「利益(→あるいは、不利益)」を与えることを約束するような「グレーゾーン」のものもあれば、「説得力」などのような合法的なものもあるわけです。それぞれの有権者の「一票の価値」を「平等」にするためには、どんなに少なくとも違法な「影響力」の行使や「グレーゾーン」の「影響力」の行使については許すべきではないのです。しかし、すべての合法的な「影響力」の行使を無条件に認めるべきなのかどうかについては一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要がありそうです。いわゆる「有力者」はなぜ「有力者」なのでしょうか? その地域に昔から住んでいる資産家一族の一員などだから「有力者」になっているのでしょうか? あるいは、その地域のマスメディアなどに盛んに露出していて知名度が高い人物だから「有力者」になっているのでしょうか? さらに言えば、もしかするとインターネットの動画配信やSNSなどで注目されている「インフルエンサー」などであっても「有力者」になることができるのかもしれないと思います。繰り返しになりますが、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか? きょうのところは重ねてそのことを強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『一票』は どこの誰でも 『一票』か? 『一票の価値』 どこでも同じ?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。民主主義国家では一人ひとりの有権者はそれぞれ「平等」に「一票」を持っていることになっています。しかし、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか? 一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「平等」な「一票」になっているのでしょうか? どこのどの有権者であっても「一票」ならば同じ「一票」なのでしょうか? 例えば、もしも何かの議員選挙で「有権者数が少ないのに定数が多い選挙区」では1万票でも当選することができるのにもかかわらず、「有権者数が多いのに定数が少ない選挙区」では2万票を獲得しても落選してしまうような状態が長く続くのならば、有権者の「一票」は「平等」とは言えないことになります。いわゆる「一票の価値」の問題です。それぞれの選挙区で選ばれる議員1人当たりの有権者数の格差、あるいは、それぞれの選挙区で議員に当選するために必要となる得票数(→有権者数)の格差が大きくなれば大きくなるほど、いわゆる「一票の価値」の格差が大きくなるのです。あえて別の言い方をすれば、いわゆる「一票の価値」の格差が大きくなれば大きくなるほど、「有権者数が多いのに定数が少ない選挙区」の有権者の「一票」は、例えば、0.5票とか0.3票とかになり、「一票以下」の価値しか持たなくなってしまうのです。繰り返しになりますが、一人ひとりの有権者が選挙で投票する「一票」は本当に「一票」なのでしょうか? 有権者は本当に「平等」なのでしょうか? きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「もしも今 『正常でない 状態』に なっているなら どう正常に?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所で「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などという言葉をよく聞くようになっています。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「リスク」や「危機」にはいろいろな種類のものがあるわけです。ある程度予想することができ、事前に備えておけば避けることが不可能ではないものもあるわけですが…。 何らかの理由のために「本来正常であるべきものが正常ではない状態」になることを想定した「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などはいったいどのようなものになるのでしょうか? そもそも何らかの理由のために「本来正常であるべきものが正常ではない状態」になるとは具体的にどのようなことを意味しているのでしょうか? そして何らかの理由のために「本来正常であるべきものが正常ではない状態」になるようなことは本当に起こり得ることなのでしょうか? あくまでも一般論ですが、例えば、もしも「警察官」や「医師」などの中に「犯罪者」や「テロリスト」などが紛れ込んでいたとしたならば、本来正常であるべき「警察官」や「医師」などの業務が「正常ではない状態」になる危険性が高くなってしまうのではないかと思います。もちろん最初から「犯罪者」や「テロリスト」などであると分かっている場合には、彼・彼女たちを「警察官」や「医師」などとして採用することはないのだろうと思います。しかし、もしも「犯罪者」や「テロリスト」などであると気づかれなかった場合には、彼・彼女たちが「警察官」や「医師」などとして紛れ込むことになってしまうのだろうと思います。さらに言えば、もしも採用時点では彼・彼女たちが「犯罪者」や「テロリスト」などではなく、またそう遠くない将来に「犯罪者」や「テロリスト」などになる危険性もほとんどなかったとしても、それでもやはり、「警察官」や「医師」などとして採用された後に「犯罪者」や「テロリスト」などになってしまう危険性は残るわけです。ごく普通の多くの人たちにとっては、自分たちが生命の危険を感じているときに、信じて頼りにすることができる「警察官」や「医師」などが信用できない(かもしれない)存在になってしまうのは非常に恐ろしいことではないかと思います。「本来正常であるべきものが正常ではない状態」になってしまっているかどうかをどのようにチェックしたらいいのでしょうか? 「正常ではない状態」を本来あるべき「正常な状態」に戻すためにはどうしたらいいのでしょうか? 繰り返しになりますが、何らかの理由のために「本来正常であるべきものが正常ではない状態」になることを想定した「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などはいったいどのようなものになるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「いくつかの 『バックアップ』を 用意して 最小限に 被害抑える!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所で「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などという言葉をよく聞くようになっています。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「リスク」や「危機」にはいろいろな種類のものがあるわけです。ある程度予想することができ、事前に備えておけば避けることが不可能ではないものもあるわけですが…。 「自然災害」以外の「リスク」や「危機」の場合の「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などというものはいったいどのようなものになるのでしょうか? 「自然災害」以外の「リスク」や「危機」、例えば、「テロ」の場合の「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などというものはいったいどのようなものになるのでしょうか? 例えば、インフラなどを支える重要施設については、テロリストなどによる物理的な攻撃を受けてもそう簡単には破壊されたり侵入されたりしないような堅固な施設にするなどということが考えられます。また電気通信回線を通じて不正にアクセスされたり不正にコントロールされたりしないような様々なサイバーテロ対策を施すなどということも必要になってくるのだろうと思います。しかし、「テロ」というものは、そうした様々な対策の裏をかくような形で発生することが多いのです。そのことに注意をするのならば、「自然災害」以外の「リスク」や「危機」は、実は「自然災害」と同じかそれ以上に予測不能で被害が大きくなる危険性が高いものが多いということに気づくことになるのです。それでは「自然災害」以外の「リスク」や「危機」による被害を最小限に抑えるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 例えば、被害を受けて機能しなくなることをある程度覚悟した上で実際に被害を受けたときに速やかに切り替えて臨時に役割を担うことができるようにするための「バックアップ機能」をいくつか用意するという方法が考えられます。もちろん「自然災害」でも様々なものの「バックアップ機能」を用意することが被害を最小限に抑えるのに役立つと思います。「バックアップ機能」を用意しておくためのコストが万一発生した場合の被害と比較してそれほど高くはないのならばできるだけ多くの「バックアップ機能」を用意しておいた方がいいわけですが…。いずれにしても様々な「リスク」や「危機」の被害を最小限に抑える方法はいくつか考えられるわけです。 ======================================= 「予想して 『自然災害』 の被害を 減らすことなら できるわけだが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は社会の様々な場所で「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などという言葉をよく聞くようになっています。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「リスク」や「危機」にはいろいろな種類のものがあるわけです。ある程度予想することができ、事前に備えておけば避けることが不可能ではないものもあるわけですが…。 言うまでもなく「リスク」や「危機」の中には「自然災害」も含まれます。そして台風による強風や大雨、地震などの「自然災害」は事前に備えておくことによってそれらの被害をある程度小さくすることはできるわけです。しかし、今の時代でも「自然災害」がいつどこでどのような規模で発生するのかなどということを正確に予想することはできないのです。あえて言い換えれば、「自然災害」の被害を減らすことはできてもその被害を完全にゼロにすることはできないのです。そのことに注意をするのならば、「自然災害」の場合の「リスク管理」「危機管理」「リスクマネジメント(risk management)」などというものは、事前に被害が予想することができ、かつ、安全な場所に避難することができるような場合には、被害が予想される場合には速やかに「安全な場所に避難する」などということになるのだろうと思います。またもしも「自然災害」の被害を予想して事前に安全な場所に避難することが難しい場合には、「自然災害」の被害をできるだけ小さなものにするために住宅や堤防などに対策を施したり、最初から「自然災害」の危険性が非常に高い場所には住まないようにしたりすることになるのだろうと思います。何にしても少なくとも今現在は「自然災害」の被害を減らすことはできてもその被害を完全にゼロにすることはできないのです。ちなみに「自然災害」以外の「リスク」や「危機」はどうでしょうか? 「自然災害」以外の「リスク」や「危機」の場合には、事前に被害を予想することができ、かつ、安全な場所に避難するようなことができるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを問題提起するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『お固い』か? 『食いしん坊』も 『食べ物』を 見て嫌になる こともあるはず!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近のどこかの社会ではなぜか「昭和」がいろいろな場面で話題になります。しかし、本当に「昭和」はそんな時代だったのでしょうか? 間違った「昭和」のイメージを執拗に流布し続けている一部の「老人」による「老害」には困ったものです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「昭和」は「破廉恥」や「非常識」などと同じ意味ではないのです。 くどいようですが、いわゆる「下ネタ」を連発したり「セクハラ」をしたりして「老人」による「老害」を発生させている人間たちが自分たちの言動を「『昭和』ではよくあることだった」が「今は許されなくなった」などともっともらしく言っていることもあります。しかし、「昭和」でもそうした言動を不快に思っていた人たちは少なくなかったはずなのです。これも繰り返しになりますが、そもそも「真ん中の足はもっと上がる」などという「老害」によっていったい誰が楽しい気分になるというのでしょうか? さらに言えば、その種の「老害」に対する周囲の冷ややかな反応を「お固い」などという言葉で無理にごまかそうとする別の形での「老害」にも本当に困ったものです。あくまでも一般論ですが、例えば、たとえ1年365日24時間ずっと「性行為」のことばかり考えているような人間であったとしても、いつも「下ネタ」に大喜びして楽しい気分になるとは限らないのではないかと思います。あるいは、四六時中食べ物のことばかり考えているような食いしん坊であっても食べ物を見たくもなくなるようなときはあるのではないかと思います。そのように考えるのならば、ごく普通の多くの人たちの中には「下ネタ」や「食べ物」の話をしてもそれほど関心を示さなくて反応が薄いという人たちは少なくないのではないかと思います。あるいは、「下ネタ」や「食べ物」の話を聞かされるだけでも不快になるときがあっても不思議ではないと思います。それにもかかわらず、「下ネタ」や「食べ物」の話をしたときに大喜びして楽しい気分にならなければ「お堅い」などと決めつけるのは非常におかしなことではないかと思います。きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「鈍感な 人間たちは 気づかない! 冷たい視線… 誰が楽しい?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近のどこかの社会ではなぜか「昭和」がいろいろな場面で話題になります。しかし、本当に「昭和」はそんな時代だったのでしょうか? 間違った「昭和」のイメージを執拗に流布し続けている一部の「老人」による「老害」には困ったものです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「昭和」は「破廉恥」や「非常識」などと同じ意味ではないのです。 繰り返しになりますが、いわゆる「下ネタ」を連発したり「セクハラ」をしたりして「老人」による「老害」を発生させている人間たちが自分たちの言動を「『昭和』ではよくあることだった」が「今は許されなくなった」などともっともらしく言っていることもあります。しかし、「昭和」でもそうした言動を不快に思っていた人たちは少なくなかったはずなのです。実はその種の「老害」を発生させている人間たちはかなり鈍感な人間たちであるために周囲の冷たい視線などに少しも気づかなかったのではないかと思います。そもそもその種の「老害」によっていったい誰が楽しい気分になるというのでしょうか? あくまでも一般論ですが、例えば、「真ん中の足はもっと上がる」などという「老害」の場合には、それをニヤニヤしながら口走る人間、そしてそれを聞いてゲラゲラと大笑いする人間はおそらく楽しい気分になっているのかもしれないと思います。しかし、それ以外の周囲の人たちは「真ん中の足はもっと上がる」などという「老害」を目の前で見せつけられて楽しい気分になっているとでもいうのでしょうか? 「老害」に対する周囲の冷ややかな反応を「お固い」などという言葉で無理にごまかそうとする別の形での「老害」にも本当に困ったものです。繰り返しになりますが、「昭和」は「破廉恥」や「非常識」などと同じ意味ではないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『昭和』でも 許されていた わけでない! 『昭和だから』で 責任逃れ?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近のどこかの社会ではなぜか「昭和」がいろいろな場面で話題になります。しかし、本当に「昭和」はそんな時代だったのでしょうか? 間違った「昭和」のイメージを執拗に流布し続けている一部の「老人」による「老害」には困ったものです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「昭和」は「破廉恥」や「非常識」などと同じ意味ではないのです。 あくまでも一般論ですが、「俺は『昭和』だから…」などという言葉をよく使う「老人」の言動にはよくよく注意をする必要があります。最近は「こんなことは『昭和』ではよくあることだった」が「今は許されなくなった」などというフレーズを聞かされることが増えています。しかし、実は「こんなこと」は「昭和」でも許されていたわけではないということだけは正確に理解する必要があるのです。例えば、どこかの国の旧軍隊のような「鉄拳制裁」は「昭和」ではあちこちでよく見られたことはおそらく事実なのだろうと思います。しかし、「昭和」では「鉄拳制裁」のような「暴力」が許されていたというわけではないのです。あえて付け加えるのならば、「鉄拳制裁」のような「暴力」があまりにもよく見られたために「『鉄拳制裁』のような『暴力』は許されない」などと主張してもその「正論」がかき消されたり「鉄拳制裁」を恐れてそうした主張をすること自体を躊躇してしまったりしていたのです。さらに言えば、いわゆる「下ネタ」を連発したり「セクハラ」をしたりするような人間たちが自分たちの言動を「『昭和』ではよくあることだった」が「今は許されなくなった」などともっともらしく言っていることもあります。しかし、「昭和」でもそうした言動を不快に思っていた人たちは少なくなかったはずなのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「『昭和』だから」と言えば不適切な言動の責任から逃れることができるわけではないのです。きょうのところはたとえ「こんなことは『昭和』ではよくあることだった」だったとしても決して「昭和」でも許されていたわけではないということをあえて指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「米国と ロシアは共に 『拒否権』で 決議を阻止し 国連壊す?」-。 米国が6/22午前(日本時間)にイランの核施設3か所を攻撃したことを発表して国際社会に大きな波紋が広がっています(→米国のミズーリ州の空軍基地から出撃したB2ステルス爆撃機7機がイランのフォルドゥなどの核施設に対して地中貫通弾「バンカーバスター」(最大級の「GBU57」、重量約13.6トン)を合計14発投下したという。また米軍の潜水艦から20発以上の巡航ミサイル「トマホーク」をイランのイスファハンの核施設に向けて発射したという。イランのフォルドゥ、ナタンズ、イスファハンの核施設の被害の詳細は不明)。 繰り返しになりますが、どこの国も他国を軍事攻撃することは原則的に許されないということをあえて念のために確認しておくことにします(→参考:2025/6/17付etc.)。その上で、多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、今回の米国によるイランの核関連施設への攻撃は、ロシアによるウクライナ侵略戦争といったいどこがどのように違っているのかということを一度立ち止まってきちんと考えてみる必要があると思います。まず明らかな共通点について考えてみることにします。米国はもちろんロシアも国際連合の安全保障理事会の「常任理事国」です。そして「常任理事国」であるということは、米国もロシアも共に自国にとって不都合な国連安保理決議案の採択を「拒否権」を行使することによってすべて阻止することができるのです。あえて言い換えるのならば、米国やロシアなどの「常任理事国」による武力行使や侵略戦争に対して国際連合は全く機能しなくなってしまうのです。そして次に明らかな相違点について考えてみることにします。少なくとも現時点においては、米国のイランに対する攻撃は、3か所核施設に対する1回の戦略爆撃機による空爆やミサイル攻撃というかなり限定的なものにとどまっているわけです。これに対して、ロシアによるウクライナ侵略戦争は、ロシアが約3年4カ月に渡って大規模な地上部隊をウクライナ領内に侵攻させると同時に、市街地や住宅地を含めたウクライナ各地を弾道ミサイルやドローンなどによって無差別に攻撃し続けているわけです。ちなみにロシアによるウクライナ侵略戦争においては、かつて深刻な原発事故(1986/4/26)が発生して廃炉に向けた作業が続いている「チェルノブイリ(チョルノービリ)原発」に対する攻撃が発生したことも忘れてはならないのです。言うまでもなく国連憲章に違反する武力行使も侵略戦争も許されることではないのです。しかし、それでもやはり、国際社会は、米国によるイランの核関連施設への攻撃と、ロシアによるウクライナ侵略戦争の共通点と相違点をしっかりと把握した上で、事態をエスカレートさせない形で問題を解決していくための現実的で実際に機能する何らかの方法を考えていかなければならないのです。もしも「常任理事国」が自らに不都合な決議案を「拒否権」によって阻止し続けるのならば、そう遠くないうちに機能不全になった国際連合は崩壊してしまう危険性も高くなってくるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『移民』でも 『労働者』なら 『人間』だ! それぞれ別の 『人生』もある!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? いくら「労働力」が不足していたとしても「外国人労働者」によってそれを埋め合わせる必要があるのでしょうか? そもそも「労働力」の不足を補うことができるような都合の良い「外国人労働者」はいるのでしょうか? あえて一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 くどいようですが、それぞれの国に合法的に存在している「外国人労働者」を排斥するような考え方は一切持っていないのです。しかし、それでもやはり、「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? 繰り返しになりますが、それぞれの国で「外国人労働者」の受け入れに積極的に賛成している人間たちは、ほとんどの「外国人労働者」がそれぞれの国に「人気の高い高報酬の仕事」に就きたいと思ってやってくるような場合にも積極的に賛成することができるのでしょうか? もしも「移民」や「外国人労働者」がそれぞれの国に「危険で汚くて過酷であるにもかかわらず報酬があまり高くない不人気な仕事」に就くためにやってくるのならば賛成だが、「人気の高い高報酬の仕事」に就くためにやってくることには反対であるというのならば、「移民」や「外国人労働者」を自分たちと同じ「人間」ではなく単なる「労働力」として見ているということになってしまうはずなのです。さらに言えば、それぞれの国で「移民」や「外国人労働者」の受け入れに積極的に賛成している人間たちは、もしも「移民」や「外国人労働者」がそれぞれの国に「危険で汚くて過酷であるにもかかわらず報酬があまり高くない不人気な仕事」に就くためにやってきたものの、しばらく生活しているうちにもっとずっと高収入の良い仕事はいくらでもあるということに気づいて「転職」を希望するようになったとしたら、「転職」を認めるべきだと考えるのでしょうか? 当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、「移民」や「外国人労働者」ならば「人間」であり、「人間」であるのならばそれぞれ別の「人生」があるはずなのです。自由で民主的な社会においては、「人間」であるにもかかわらず、それぞれ自由にそれぞれの「人生」を送ることができないような環境を強いることはできないはずなのです。くどいようですが、「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? いくら「労働力」が不足していたとしても「外国人労働者」によってそれを埋め合わせる必要があるのでしょうか? 何度も繰り返していますが、「外国人労働者」は単なる「労働力」ではなくそれぞれの国の国民と同じ「人間」のはずなのです。そして「人間」にはそれぞれの「人生」があるはずなのです。きょうのところはあえてそのことを繰り返した上で強調しておくことにします。 ======================================= 「不足した 『労働力』の 埋め合わせ? 今はともかく これからはもう…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? いくら「労働力」が不足していたとしても「外国人労働者」によってそれを埋め合わせる必要があるのでしょうか? そもそも「労働力」の不足を補うことができるような都合の良い「外国人労働者」はいるのでしょうか? あえて一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 繰り返しになりますが、それぞれの国に合法的に存在している「外国人労働者」を排斥するような考え方は一切持っていないのです。しかし、それでもやはり、「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? 確かに「少子高齢化」などが進行する以前の「かつての社会」の存続を前提にするのならば、どうしても不足した「労働力」を補うなどという発想になってしまうのだろうと思います。しかし、本当に「かつての社会」で当たり前だったやり方やシステムをこれからもそのままの形で存続させなければならないのでしょうか? どんなに少なくとも「これからの社会」でも持続可能にするために様々な「アイディア」を駆使して「方法」を工夫したり「技術革新」を進めたりすることは必要不可欠なのです。もちろん「社会全体のシステム」をこれからの時代に合った形に変革するようなことを今すぐ実現することは不可能です。ですから、少なくとも当面は不足した「労働力」を補うという考え方もしなければならないことは現実なのです。そして確かに今現在はそれぞれの国に「経済的格差が大きな国」から「外国人労働者」を呼び込めば、母国よりもはるかに高い報酬を得られる「外国人労働者」と、それほど高くない報酬で不足した「労働力」を補うことができるそれぞれの国とが共に利益のあるいわゆる「ウィンウィン」の関係であることも少なくはないとは思います。しかし、「経済的格差」というものはいつまでもそのまま縮小しないものではないのです。もしもそう遠くない将来にそれほど高くない報酬で「外国人労働者」を確保できなくなったときに不足した「労働力」をどのように補うつもりなのでしょうか? 繰り返しになりますが、「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? いくら「労働力」が不足していたとしても「外国人労働者」によってそれを埋め合わせる必要があるのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、そもそも「外国人労働者」は単なる「労働力」ではなくそれぞれの国の国民と同じ「人間」のはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「不足した 『労働力』の 埋め合わせ? 外国人も 『人間』のはず!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? いくら「労働力」が不足していたとしても「外国人労働者」によってそれを埋め合わせる必要があるのでしょうか? そもそも「労働力」の不足を補うことができるような都合の良い「外国人労働者」はいるのでしょうか? あえて一度立ち止まってじっくりと考えてみる必要があります。 最初に確認しておきますが、それぞれの国に合法的に存在している「外国人労働者」を排斥するような考え方は一切持っていないのです。その上で、あえてどうしても質問しておかなければならないことがあるのです。「外国人労働者に従事してもらいたい仕事」は、それぞれの国で「人気の高い高報酬の仕事」なのでしょうか? それともそれぞれの国の国民があまりやりたがらないような「危険で汚くて過酷であるにもかかわらず報酬があまり高くない不人気な仕事」なのでしょうか? さらに言えば、それぞれの国で「外国人労働者」の受け入れに積極的に賛成している人間たちは、ほとんどの「外国人労働者」がそれぞれの国に「人気の高い高報酬の仕事」に就きたいと思ってやってくるような場合にも積極的に賛成することができるのでしょうか? もしも「外国人労働者」がそれぞれの国に「危険で汚くて過酷であるにもかかわらず報酬があまり高くない不人気な仕事」に就くためにやってくるのならば賛成だが、「人気の高い高報酬の仕事」に就くためにやってくることには反対であるというのならば、「外国人労働者」を「労働力」の不足を補うことができるような都合の良い「労働力」として考えているということになってしまうはずなのです。繰り返しになりますが、「外国人労働者」は本当に必要なのでしょうか? いくら「労働力」が不足していたとしても「外国人労働者」によってそれを埋め合わせる必要があるのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、「外国人労働者」は単なる「労働力」ではなくそれぞれの国の国民と同じ「人間」のはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『核兵器』 『共有』になる 影響は? 『同盟国』は 問題ないか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「危険物」などが「存在」しなければ本当に「危険ではない」のでしょうか? 「危険物」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? 例えば、もしも「危険物ではない物」を材料にして「危険物」などを短時間で簡単に作ることができるのならば…。 繰り返しになりますが、「核兵器」などが「存在」しなければ「危険ではない」のでしょうか? これからも「核兵器」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? これはあくまでも仮定の上に仮定を積み重ねた上での話ですが、もしも「核兵器を保有していない国」が「核保有国」の「核兵器」を「共有」することができるようになったとしたならば、いったいどのようなことを意味することになるのでしょうか? 「共有」になった場合にどのような影響があるのでしょうか? もしも「核保有国」と「核兵器を保有していない国」が同盟関係にあって安全保障上の利益が一致しており、「核保有国」が「核兵器を保有していない国」に対する攻撃を自らに対する攻撃とみなすことになるのならば、「核保有国」が「核兵器を保有していない国」に対して自分たちの「保有」する「核兵器」を「共有」するようなことを認めても実質的に変化はないのでしょうか? 「同盟国」ならば「核兵器」を「共有」しても問題はないのでしょうか? さらに別の形で空想を膨らませるのならば、「核保有国」の「核兵器」が何者かに何らかの形で不正に「共有」されてしまう危険性はどのくらいあるのでしょうか? あくまでも空想上の話ですが、もしも「核保有国」の「核兵器を搭載したミサイル」が何者かによってシステムをハッキングされるなどという形で「想定外のタイミング」に「想定外の標的」に対して発射されるようなことがあるのならば、「核兵器」を「保有」していなくても核戦争を引き起こすようなことが十分にできてしまうことになるわけです。くどいようですが、「核兵器」などが「存在」しなければ「危険ではない」のでしょうか? 本当に「核兵器」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『核兵器』 短時間かつ 簡単に 作れるように なったとしたら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「危険物」などが「存在」しなければ本当に「危険ではない」のでしょうか? 「危険物」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? 例えば、もしも「危険物ではない物」を材料にして「危険物」などを短時間で簡単に作ることができるのならば…。 あくまでも一般論ですが、最近は科学技術の発展のスピードがかなり速くなっているような印象を受けます。もしそうであるのならば、科学技術の発展は、「素人」だけではなく「専門家」の予想をも大きく上回るスピードで進んでいる可能性もあるのではないかと思います。その上で、あえて現時点ではまだ空想にとどまっている話をしてみることにしようと思います。もしも「核兵器」の具体的な製造方法やその他の様々なノウハウを持っている人間たちが「ウラン」や「プルトニウム」などの材料や製造設備などを手に入れることができたとしたら、最短どのくらいの時間で実際に「核兵器」を製造することができるのでしょうか? もしも「ウラン」や「プルトニウム」などの入手が事実上不可能なくらい極めて難しく、しかも実際に「核兵器」を製造するまでにそれなりに長い時間が必要不可欠であるのならば、「核兵器」などの「存在」や「所持」「保有」を認めなければとりあえず「危険ではない」のだろうと思います。これからも「核兵器」などが「存在」しなければ「危険ではない」のでしょうか? これからも「核兵器」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? もっとも「核兵器」の場合には「ウラン」や「プルトニウム」などという「危険物」を材料にしなければならないわけです。しかし、「核兵器」を従来では想像もできなかったような短時間で簡単に製造することができるようになった場合には…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「検査後に 『危険物』など 簡単に 作れるのなら 安全でない!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「危険物」などが「存在」しなければ本当に「危険ではない」のでしょうか? 「危険物」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? 例えば、もしも「危険物ではない物」を材料にして「危険物」などを短時間で簡単に作ることができるのならば…。 例えば、今でも空港の保安検査などでは、X線CT検査装置や金属探知機などが使用されています。確かに保安検査でほとんどの凶器などの「危険物」の航空機内への持ち込みを阻止することができるのだろうと思います。しかし、もしも「危険物」がX線CT検査装置や金属探知機などでは発見することができないタイプの素材や形状のものである場合には、保安検査をすり抜けてしまうことになるのだろうと思います。さらに言えば、いくら保安検査などによって「危険物」などの持ち込みを完全に阻止したとしても、もしも検査後に「危険物ではない物」を材料にして「危険物」などを短時間で簡単に作ることができるのならば、どんなに少なくとも保安検査などでは安全を守ることができなくなってしまうわけです。繰り返しになりますが、「危険物」などが「存在」しなければ本当に「危険ではない」のでしょうか? 「危険物」などを「所持」「保有」していなければ「危険ではない」のでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「核兵器 開発保有 することや 戦争止める 『強制力』は…」-。 イスラエルが6/13にイランの核関連施設などに対する大規模な攻撃を開始しました(→イスラエルの対外諜報機関モサドがイラン領内に潜入・潜伏させた工作員らが防空システムなどをドローンなどで破壊。その上でイスラエル軍の戦闘機がテヘランや中部ナタンズのウラン濃縮施設を含む100以上の地点を空爆。さらにイランの革命防衛隊のトップや幹部、核開発技術者らをピンポイント空爆で殺害した模様)。イランは「報復」としてイスラエル国内を弾道ミサイルやドローンなどで攻撃しています。そしてイスラエルとイランが互いに相手国内を空爆やミサイル攻撃し合う状況が続いて双方に民間人を含めた多数の死傷者が出ています。 最初にどこの国も他国を軍事攻撃することは原則的に許されないということをあえて念のために確認しておくことにします。率直に言わせてもらうのならば、イスラエルはイランが核兵器を保有することを絶対に許さないと思われるのでイランの核関連施設などを攻撃するのは時間の問題だと思っていました。言い換えれば、もしもイランの核開発を止めることができないのならば、イスラエルのイラン攻撃を止めることもできないのだろうと思っていました。その上で、多少の誤解と批判を覚悟の上で、あえて率直に言わせてもらうのならば、もしもイランが核兵器を保有した後にイスラエルがイランを攻撃していたのならば、もっともっとはるかに甚大な被害が発生していたのかもしれないと思います。今現在の国際社会における致命的な問題の1つは、もしも核兵器を開発・保有しようとする国が国際社会の批判を受け入れずにあくまでも核兵器の開発・保有を強行した場合には、国際社会には核兵器の開発・保有を強制的にやめさせることができるだけの「強制力」がないということなのです。さらに付け加えるのならば、国際社会には、もしも他国を軍事攻撃しようとする国があくまでも軍事攻撃を強行しようとした場合にそれを強制的にやめさせることができるだけの「強制力」もないということなのです。もちろん「今すぐ戦争をやめるべき」などと主張することは「正論」だと思います。しかし、実際に戦争を強制的にやめさせることができるだけの「強制力」を持っていないのならば、「正論」を実現することができないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『諍い』も 『強盗』『傷害』 『殺人』も なくせないのに 『戦争』なくす?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には長年に渡って何度も何度も繰り返されている事件や困った問題などがあります。そういう事件や困った問題などを見ているだけでも、人間というものは実はなかなか変わることができない生物なのではないかということを実感させられることが少なくないのです。そしてなかなか変わることができない生物である人間が集まった「社会」もなかなか変化することができないのかもしれないと思います。 残念ながら今現在も「戦争」というものは地球上のどこかの場所を探せば必ず存在するもののままなのです。たとえ地球上のある場所で「戦争」で甚大な被害を受けて多くの人たちが二度と「戦争」を繰り返してはならないなどと強く誓ったとしても、すぐに地球上のどこか別の場所では「戦争」が勃発してきたのです。そもそも「戦争」を二度と起こさないなどという誓いはいったいどれだけ効果があるものなのでしょうか? 例えば、いくら多くの人たちが「言い争い」「諍い」をしないなどと強く誓ったとしても、おそらく現実の社会から「言い争い」「諍い」をなくすことはできないのだろうと思います。さらに言えば、いくら多くの人たちが法律を遵守する善良な市民であろうとするという形で「強盗」や「傷害」や「殺人」は絶対にしないと強く誓ったとしても、現実の世界から「強盗」や「傷害」や「殺人」を完全になくすことはできないのかもしれないと思います。たとえ「言い争い」「諍い」、「強盗」や「傷害」や「殺人」などをなくすことができなかったとしても、「戦争」だけは強く誓えばなくすことができるのでしょうか? もしも「戦争」だけは強く誓えばなくすことができると言い張るのならば、その根拠はいったい何なのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「本当に 『昔の話』 なのだろうか? 『人身売買』 『売買春』は…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には長年に渡って何度も何度も繰り返されている事件や困った問題などがあります。そういう事件や困った問題などを見ているだけでも、人間というものは実はなかなか変わることができない生物なのではないかということを実感させられることが少なくないのです。そしてなかなか変わることができない生物である人間が集まった「社会」もなかなか変化することができないのかもしれないと思います。 当たり前と言えば当たり前の話ですが、昔の時代を舞台にした小説やマンガや映画やドラマでは、今現在の社会では決して許されないような場面が何度も当たり前のように登場します。例えば、「暴力」「殺人」「人身売買」「売買春」など…。確かに「大昔」や「あの時代」ではそれらのことはそれほど珍しいことではなかったのだろうと思います。しかし、本当に「昔の話」なのでしょうか? もしかするといくつかの国では今現在は「暴力」「殺人」「人身売買」「売買春」などを「昔の話」として片づけることもできないわけではないのかもしれないと思います。でも、地球上のいくつかの場所では誰の目にも明らかに「今現在の話」なのです。さらに言えば、たとえ今現在は「昔の話」ということになっている「どこかの国」であっても、さすがに親が自分の娘を「遊郭」などに売り飛ばすようなことは完全になくなっていますが、「トーヨコ」とか「その近くの公園」などでは「人身売買」「売買春」に近いようなことが「今現在の話」になっているかもしれないのです。あえて繰り返しますが、本当に「昔の話」ということでいいのでしょうか? くどいようですが、人間というものはなかなか変わることができない生物なのではないかということを実感させられます。そしてなかなか変わることができない生物である人間が集まった「社会」もなかなか変化することができないのかもしれないと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『選挙』では 今も『3バン』 役立つか? 役立つならば 変わっていない…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には長年に渡って何度も何度も繰り返されている事件や困った問題などがあります。そういう事件や困った問題などを見ているだけでも、人間というものは実はなかなか変わることができない生物なのではないかということを実感させられることが少なくないのです。そしてなかなか変わることができない生物である人間が集まった「社会」もなかなか変化することができないのかもしれないと思います。 地球上の多くの場所では大昔から「選挙」というものが行われています。そして約100年前からは (成人した)国民一人ひとりが選挙に参加することができる今現在のような制度が導入されて地球上の多くの場所に広がってきているのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、この約100年の間にどこの社会も大きく変わってきています。あえて言い換えれば、今現在には約100年前には存在しなかった様々なモノやサービスが存在しますし、今現在では約100年前には想像することもできなかった様々なことを実現することができるようになっているのです。しかし、それにもかかわらず、「選挙」の根幹部分は驚くほど変わっていないのです。その実例を挙げれば、50年以上前から「どこかの国」で選挙に立候補する際に重要視されてきたいわゆる「3バン」(→「地盤」=支持者・支援組織など、「看板」=知名度など、「かばん」=資金(力))などと言われているものは、今現在の「どこかの国」の選挙においても有効なままでほとんど時代遅れにはなっていないのです。もちろん長い年月を経ても「選挙」というものが少しも変化していないというわけではないのです。例えば、今現在はいくつかの国では選挙運動にインターネットやSNSを活用することができるようになっています。しかし、それでもやはり、「選挙」の根幹部分は驚くほど変わっていないのです。あえて別の言い方をするのならば、もしも今現在の「選挙」の根幹部分がかつての「選挙」の根幹部分と大きく変化しているのならば、例えば、いわゆる「3バン」などというものは今現在の「選挙」ではほとんど役に立たないはずなのです。「選挙」でもやはり人間というものはなかなか変わることができない生物なのではないかということを実感させられています。今現在の政治で本質的な変化を実現するためにはいったい何が必要になるのでしょうか? きょうのところはあえてそのような問題提起をするだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『見覚えの ない現金』を 受け取れる 人はどれだけ いるのだろうか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は人間というものは「感情」を持った生物であるということを実感させられる出来事が相次いでいます。そして「感情」というものはいつの間にかもつれてしまい、一度もつれるとなかなか元には戻すことができなくなってしまうもののようです。しかし、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。 これはあくまでも空想上の話ですが、もしもあなたの自宅のメールボックスなどに「見覚えのない現金」が入っていたとしたら、あなたはいったいどうするでしょうか? そのままありがたく頂いておくのでしょうか? それとも気味が悪くて受け取れないから警察などに届けようとするのでしょうか? あるいは、もしもあなたの自宅のメールボックスなどに「ぜひ生活の足しにしてください」などという手紙と一緒に「見覚えのない現金」が入っていたとしたら、あなたはどうするでしょうか? 安心してありがたく頂いておくのでしょうか? それとも気味が悪いので誰かに助けを求めたり警察などに届けたりしようとするのでしょうか? さらに言えば、もしもあなたの自宅のメールボックスなどに「ぜひお使いください」などという手紙と一緒に「見覚えのない多額の現金(→例えば、100万円、1万ドルなど)」が入っていたとしたら、あなたはどうするのでしょうか? 実際にどれだけの人たちがそのままありがたく頂いておくことができるのでしょうか? 世の中にはおカネが欲しい人たちやおカネが大好きな人たちはたくさんいます。しかし、世の中には自分自身の「感情」や「欲望」のまま差し出されたおカネをすべて受け取ってしまう人たちはいったいどれぐらいいるのでしょうか? 「超豪華航空機」をありがたくそのまま受け取ってしまうような人間は最近どこかで見たような気がしますが…。くどいようですが、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「年齢差 大きなときも 『大人』なら 対等になる? どんなときでも?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は人間というものは「感情」を持った生物であるということを実感させられる出来事が相次いでいます。そして「感情」というものはいつの間にかもつれてしまい、一度もつれるとなかなか元には戻すことができなくなってしまうもののようです。しかし、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。 あくまでも一般論ですが、「3歳の子ども」と「35歳の大人」が対等に交渉して対等に合意することができる可能性はどのくらいあるのでしょうか? もちろん知能が著しく発達した知的レベルが極めて高い「3歳の子ども」は存在するのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、人間としての経験がほとんどない「3歳の子ども」よりも30年以上も人間としての経験が長いのならば、通常は「知性」や「理性」に圧倒的に大きな差があると思われるのです。あえて念のために確認しておくことにしますが、そもそも「3歳の子ども」は地球上のほぼすべての場所では「未成年」ですから「成人」である「35歳の大人」とは「対等」とはなり得ないのです。さて、それでは、「20歳の大人」と「50歳の大人」が対等に交渉して対等に合意することができる現実的な可能性はどのくらいあるのでしょうか? さらに言えば、「30歳の大人」と「50歳の大人」が対等に交渉して対等に合意することは十分に可能なのでしょうか? もちろん具体的にどこの誰が「20歳の大人」「30歳の大人」「50歳の大人」になるのかによって話はかなり違ってくるとは思います。しかし、それでもやはり、当事者の一方が「3歳の子ども」ではないわけですから、対等に交渉して対等に合意することができる現実的な可能性があるということだけは確かなのです。その上で、あえて付け加えるのならば、例えば、「恋愛感情」などの「感情」が絡んでくる場合にもその他の交渉と同じように「20歳の大人」と「50歳の大人」、「30歳の大人」と「50歳の大人」が対等に交渉して対等に合意することができるのでしょうか? 例えば、大昔にどこかの国で「天下人」だった「秀吉」は30歳以上年下だったと言われている「茶々(淀殿)」と対等に交渉して対等に合意したのでしょうか? おそらくそんなことはないのだろうと思います。もちろん20歳、30歳以上の年齢差がある場合であっても対等に交渉して対等に合意することができる可能性はあるとは思います。対等な関係のいわゆる「歳の差婚」などもあり得るのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「大人」同士だったらいつでもどんな場合でも対等に交渉して対等に合意することができるというわけではないはずなのです。その上で、あくまでも念のために付け加えておくことにするのならば、たとえ「欲望」などのために「精神年齢が低下している大人」のために「事実上の年齢差」が縮まっていたとしても、必ずしも対等に交渉して対等に合意することができるようになるわけではないのです。くどいようですが、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「しばらくは 『子どものケンカ』 続けても 若い命は 失われない?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は人間というものは「感情」を持った生物であるということを実感させられる出来事が相次いでいます。そして「感情」というものはいつの間にかもつれてしまい、一度もつれるとなかなか元には戻すことができなくなってしまうもののようです。しかし、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。 本当に「戦争」と「子どものケンカ」は同じようなものなのでしょうか? 「子どものケンカ」だと思い込めば「しばらく戦わせている」間に次々と多くの若い人たちの命が失われるようなことはなくなるのでしょうか? あえて心理学的な分析をしてみなくても「大風呂敷」を広げて「24時間以内」に停戦させることができなかった「戦争」が「子どものケンカ」のようなものに見えてくる「ビフじいさんのような人」は、もしもそう遠くない将来に停戦させることができた場合には「第三次世界大戦の発生を防ぐことができた」などと自画自賛することになるのだろうと国際社会の多くの人たちは想像しているのではないかと思います。あえて言い換えるのならば、逃げられた魚は小さかったり価値がなかったりするが、自分が実際に釣り上げることができた魚はとても価値があるなどという類の発想をすることになるのだろうと思います。そもそも「子どものケンカ」は本当に「しばらく戦わせた後で引き離した方がいいこともある」のでしょうか? あえて政治学的な分析をしてみなくても、例えば、「子どものケンカ」の「原因」が「おもちゃ」をめぐる争いであるのならば、「大人」が子どもたちから「おもちゃ」を強引に取り上げてしまえば一瞬でケンカを停めることができるはずなのです。国際社会の中には「大人」はどこにもいないのでしょうか? あくまでも念のために付け加えておきますが、子どもたちから「おもちゃ」を取り上げて自分のために「レアアース」や「原発」や「リゾート」で遊び出すような「大人のような外見をした質の悪い子ども」がいるのならば大変なことになってしまいます。繰り返しになりますが、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「最初から 何かで『合意』 していたか? 相手の『同意』 得られていたか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近は人間というものは「感情」を持った生物であるということを実感させられる出来事が相次いでいます。そして「感情」というものはいつの間にかもつれてしまい、一度もつれるとなかなか元には戻すことができなくなってしまうもののようです。しかし、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。 どうやら「かつて偉大だった国」では少し前までは自他共に認める「蜜月」関係にあった「ビフじいさんのような人」と「なぜか×のようなものが大好きなおじさん」が急に激しく対立しているようなのです。選挙で応援して献金もたくさんしたから当選したはずだとか、次の選挙で対立陣営を応援したら大変なことになるだとか…。そこまで感情的に相手を批判しなくてもいいのではないかと言いたくなるような言葉が次々と飛び交っているようです。そもそも「ビフじいさんのような人」と「なぜか×のようなものが大好きなおじさん」は最初から何かで「合意」していたのでしょうか? さらに言えば、「ビフじいさんのような人」は「なぜか×のようなものが大好きなおじさん」から、逆に、「なぜか×のようなものが大好きなおじさん」は「ビフじいさんのような人」から、それぞれ「自分はこうしたいと思っているが、あなたはそれでもいいのか」などときちんと「同意」を得ていたのでしょうか? おそらく最初から2人の間には「合意」らしい「合意」はなく、なぜか互いに上手く誤解し合っていただけなのかもしれないと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、相手からきちんと「同意」を得ていないのにもかかわらず、なぜか相手は自分の望むように行動するはずなどという強い思い込みをした上で実際に自分の思い通りにはならなかったときに「感情」を爆発させるような人間は様々な「ハラスメント」を行う危険性が非常に高いのです。いずれにしても、人間というものは「感情」だけではなく「理性」も同時に持っている生物であるはずなのです。「理性」を失ってしまうことだけは避けなければなりませんが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「これからは 革命的に 新しい 『技術』と『しくみ』 導入できる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「年齢」による違いと「個性」による違いはどちらの方が大きいのでしょうか? またそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないほど大きなものなのでしょうか? そもそもそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないような種類のものなのでしょうか? さらに言えば、本当に人間は「同年代」、「同趣味」あるいは「何らかの種類の同じ主張」などごとにまとまっていなくてはならないものなのでしょうか? 社会の「分裂」が深刻な問題になっているときにこそ改めて「年齢」や「個性」による「違い」の本質を考えてみることが必要なのです。 あくまでも一般論ですが、人間というものは「年齢」を重ねると、「体力」が衰える傾向があります。そして「年齢」というものは一度増えると決して減らすことができないことだけは確かです。一方、「知識」や「経験」というものは、一般的には「年齢」を積み重ねていくにつれて増えていくものです。しかし、「年齢」を積み重ねていくと、記憶力の低下などのために「知識」や「経験」などが失われることも少なくないのです。繰り返しになりますが、「体力」や「知識」や「経験」というものは、本当に補うことができないものなのでしょうか? 若い人たちなどを中心とした「知識」や「経験」がまだ十分では人たちには必要な「知識」や「経験」を補い、年配でも若くても「体力」が不足している人たちには必要な「体力」を補う…。もしもそんな不足している部分に不足しているだけの「体力」や「知識」や「経験」を完全に補うことができるような革命的に新しい「技術」と「しくみ」をセットにして社会全体に導入することができるのならば、従来型の発想に基づいた「労働力不足」の問題を根本的に解消することができる現実的な可能性が出てくることになるのです。もしもいわゆる「少子高齢化」や「労働力不足」の問題などを本気で解消しようと思うのならば、古くからのいくつかの「前提」に基づいた従来型の発想から完全に脱却する必要があると考えているのです。本当にそれらを「前提」にし続けていいのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『体力』や 『知識』『経験』 補える? 不足したもの 補えるなら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「年齢」による違いと「個性」による違いはどちらの方が大きいのでしょうか? またそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないほど大きなものなのでしょうか? そもそもそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないような種類のものなのでしょうか? さらに言えば、本当に人間は「同年代」、「同趣味」あるいは「何らかの種類の同じ主張」などごとにまとまっていなくてはならないものなのでしょうか? 社会の「分裂」が深刻な問題になっているときにこそ改めて「年齢」や「個性」による「違い」の本質を考えてみることが必要なのです。 そもそも「労働力」というものは本当に「体力」に比例するものなのでしょうか? 例えば、もしも「労働力」の対象がいわゆる「肉体労働」や「単純労働」と呼ばれるようなものだけに限定されるのならば、「労働力」というものは「体力」があればあるほど高くなるものであるということになるのだろうと思います。そして主な「労働力」の担い手としては「体力」のある若い人たちが求められることになるのだろうと思います。しかし、言うまでもなく「労働力」の対象はいわゆる「肉体労働」や「単純労働」と呼ばれるものだけではないのです。現実にはほとんどの「労働」には、「体力」だけではなく、「知識」「経験」なども求められているのです。ですから、実際には「屈強な若い男性(や女性)」だけではなく「知識や経験を持った男性と女性」も「労働力」の担い手として求められているのです。さらに言えば、実際問題としては、いわゆる「体力」や「知識」や「経験」にはかなり大きな個人差があるのです。いわゆる「高齢者」の中にも若い人たちに負けないような驚異的な「体力」のある人たちもいますし、若い人たちの中にも年配の人たちの「知識」や「経験」をはるかに上回る「知識」と「能力」を合わせ持っている人たちもいるのです。その上で、あえて念のために指摘しておくのならば、「体力」や「知識」や「経験」というものは本当に補うことはできないものなのでしょうか? もしも不足している部分に不足しているだけの「体力」や「知識」や「経験」を完全に補うことができるような革命的な変化を社会で実現することができるのならば、従来型の発想に基づいた「労働力不足」の問題を根本的に解消することができる現実的な可能性が出てくることになるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『年齢』で どちらの方が 『体力』が あると言えるか? 『平均』でなく…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「年齢」による違いと「個性」による違いはどちらの方が大きいのでしょうか? またそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないほど大きなものなのでしょうか? そもそもそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないような種類のものなのでしょうか? さらに言えば、本当に人間は「同年代」、「同趣味」あるいは「何らかの種類の同じ主張」などごとにまとまっていなくてはならないものなのでしょうか? 社会の「分裂」が深刻な問題になっているときにこそ改めて「年齢」や「個性」による「違い」の本質を考えてみることが必要なのです。 例えば、「20歳代」と「60歳代」の「体力」を比べた場合には、おそらく「平均の体力」では「20歳代」の方が「60歳代」よりも「体力」があるという結果が出てくることになるのだろうと思います。しかし、「平均の体力」ではなく、一人ひとりの個人の「体力」を比べた場合、つまり、「20歳代のある人」と「60歳代のある人」のそれぞれの「体力」を比べた場合には、「60歳代のある人」の方が「20歳代のある人」よりもずっと「体力」があるという結果が出てくることになる可能性もかなりあるのです。例えば、「60歳代のある人」は元プロスポーツ選手、「20歳代のある人」は幼い頃から運動がとても苦手な人であるのならば、一般的な「体力」を測定すれば、「60歳代のある人」の方が「20歳代のある人」よりもずっと「体力」があるという結果が出てくることになるのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「体力」が「特殊な体力」であったとしたら…。例えば、「何らかのゲーム的な要素」が盛り込まれた「特殊な体力」であったとしたら「年齢」とは無関係な「個性」の違いに基づいた能力差よって優劣が決まることになるのかもしれないのです。そのように考えると、「20歳代」と「60歳代」ではどちらの方が「体力」があるということになるのでしょうか? 繰り返しになりますが、「年齢」による違いと「個性」による違いとではどちらの方が大きいのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「本当に 『同年代』は 『同一』か? 『年齢』『個性』 どちらの違い?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「年齢」による違いと「個性」による違いはどちらの方が大きいのでしょうか? またそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないほど大きなものなのでしょうか? そもそもそれぞれの違いは絶対に埋め合わせることができないような種類のものなのでしょうか? さらに言えば、本当に人間は「同年代」、「同趣味」あるいは「何らかの種類の同じ主張」などごとにまとまっていなくてはならないものなのでしょうか? 社会の「分裂」が深刻な問題になっているときにこそ改めて「年齢」や「個性」による「違い」の本質を考えてみることが必要なのです。 例えば、観客のほとんどが「10歳代」と「20歳代」の「イベント」に「50歳代」の人が一人で参加したような場合には、すれ違う若い人たちから不思議そうに見られることになるのかもしれないと思います。そしてもしかすると「10歳代」と「20歳代」の観客の中に「50歳代」の人がポツンと一人でいるのを見つけてとてもうれしそうな表情を見せる「50歳代」や「60歳代」の人たちがいることもあるのかもしれないと思います。逆に、「60歳代」が全体の約1/2、「50歳代」が約1/4などという「特殊な年齢構成のイベント」では、普段は多数派なのにここでは圧倒的な少数派に転落した「20歳代」や「30歳代」の人たちが外見はずっと若く見えるらしい「50歳代」の人が一人でポツンといるのを見つけて安心したような表情を浮かべることもあるのかもしれないと思います。言うまでもなく「同年代」は同じような環境で同じような経験を積み重ねていることが多いわけですから、同じようなことに興味関心を持つことが少なくないことは確かです。しかし、「同年代」は「同一」なのでしょうか? それぞれの人たちの「個性」に基づいた「好み」や「興味関心」で「分類」すれば、単純に「年齢」で分類した「同年代」の集団とは少し違った集団ができることも少なくないのです。人間は本当に「同年代」でまとまっているのでしょうか? そして本当に「同年代」でまとまっていなければならないのでしょうか? 繰り返しになりますが、「年齢」による違いと「個性」による違いとではどちらの方が大きいのでしょうか? 社会の「分裂」が深刻な問題になっているときにこそ改めて「年齢」や「個性」による「違い」の本質について考えてみることが必要なのです。その違いは「年齢」「個性」のどちらの違いに基づくものなのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「戦争で 奪われたなら 戦争で 奪い返すと いうことならば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の多くの物事はなぜ「結果」が出るまでそんなに多くの時間がかかるのでしょうか? そもそも世の中にはそんなに簡単に解決することができる物事は存在するのでしょうか? 世の中の複雑に見える様々なしくみの中には今でも大切な意味があるものもあれば時代が変わってあまり意味がなくなっているものあるはずなのです。 あえて個別具体的な事例を取り上げることは避けますが、今現在も地球上のあちこちの場所では戦争が続いています。誰かが「24時間以内」に停戦させてみせるつもりだった第三次世界大戦に発展する危険性もある戦争だけではなく、人質を奪い返すために多くの一般市民を巻き添えにしている戦争も、その他の戦争や内戦も続いています。いくら国際紛争を解決するための手段として「武力による威嚇」や「武力の行使」を用いるべきではないなどということが「正論」であったとしても、現実の国際社会では戦争によって領土が奪われたり、領土を奪われないようにしたために戦争が発生したり、奪われた領土を取り戻すために戦争が引き起こされたりするということが続いているわけです。あえて単純化して言わせてもらうのならば、少なくとも今現在の現実の国際社会では、戦争で奪われた領土は戦争によって奪い返すぐらいしか方法が見当たらないのです。現実の国際社会ではどれだけ長く時間をかけてあらゆる機会に返還を要求しても戦争などで一度奪われた領土を取り戻すことはまずできない…。こんな現状では現実の国際社会ではいつまで経っても戦争がなくならないと思います。しかし、もしも戦争で奪われた領土を戦争以外の方法で確実に取り戻すことができる現実的な可能性が高くなるのならば、領土をめぐる争いが戦争に発展する危険性を低下させることも期待することができると思います。戦争で奪われた領土を戦争以外の方法で確実に取り戻すためにはいったいどうすればいいのでしょうか? 国際連合は現実の国際社会の中でいずれ期待された役割を果たすことができるようになるのでしょうか? 何とかして戦争で奪われた領土を戦争以外の方法で確実に取り戻すことができる「選択肢」をつくり出さない限り、現実の国際社会から戦争をなくすことは事実上不可能ではないかと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「今回も 良い話し合い? 成果まだ? いつまで続く 成果ない協議!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の多くの物事はなぜ「結果」が出るまでそんなに多くの時間がかかるのでしょうか? そもそも世の中にはそんなに簡単に解決することができる物事は存在するのでしょうか? 世の中の複雑に見える様々なしくみの中には今でも大切な意味があるものもあれば時代が変わってあまり意味がなくなっているものあるはずなのです。 最近は地球上のあちこちで「とても良い話し合いだった」とか「とても素晴らしい会談だった」などという「台詞」が飛び交うことが増えているようです。しかし、いくら「とても良い話し合い」や「とても素晴らしい会談」を繰り返したとしても、残念ながら目立った成果はなかなか得られないようなのです。あくまでも念のために確認しておきますが、「とても良い話し合い」や「とても素晴らしい会談」などというものは、成果を上げるために必要不可欠なものではないのです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、何らかの成果を上げるためには、成果を上げるために必要不可欠なことを成し遂げなければならないはずなのです。例えば、いくら関税を一方的に引き上げたとしても関税を引き上げることによってその国の産業が高性能・高品質の製品を安価で生産することができるようになるわけではないのです。あえて単純化して率直に言わせてもらうのならば、一方的に引き上げなければならないのは「関税」ではなく「技術力」なのです。今回も「とても良い話し合い」や「とても素晴らしい会談」だったとして、成果はいつ得られるのでしょうか? 繰り返しになりますが、何らかの成果を上げるためには、成果を上げるために必要不可欠なことを成し遂げなければならないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『生産者』 直接売れば どうなるか? 『消費者』もまた 直に買いたい?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の多くの物事はなぜ「結果」が出るまでそんなに多くの時間がかかるのでしょうか? そもそも世の中にはそんなに簡単に解決することができる物事は存在するのでしょうか? 世の中の複雑に見える様々なしくみの中には今でも大切な意味があるものもあれば時代が変わってあまり意味がなくなっているものあるはずなのです。 もしかすると「どこかの国」がかつてのように国内のほとんどすべての「生産者」からほとんどすべてのコメを高い値段で買い取り、そして「消費者」には安い値段でコメを売り渡していたとしたら、ここまでコメの価格が高騰することはなかったのかもしれないとは思います。そして「国がコメを高く買って安く売る制度」と比べれば、価格高騰を受けて大急ぎで「備蓄米」を随意契約などで放出するという緊急対策はとてもかわいらしく見えてきます。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「どこかの国」のコメを高く買って安く売るような「ある意味での社会主義経済システム」は残念ながら長続きすることはないのです。あくまでも一般論ですが、もしも「生産者」が他のどこのどのコメよりもはるかに美味しいコメをつくったとしても「どこかの協同組合」を経由すると結局は近隣の「それなりに美味しいコメ」と一緒になってしまうのならば、その「生産者」はこれからも美味しいコメを作ろうという意欲を失ってしまうかもしれないのです。さらに言えば、もしも「それなりに美味しいコメ」を作りさえすれば国が確実に高く買ってくれるのならば、消費者や市場の需要などを全く気にしない「生産者」が増えることになるかもしれないのです。それなら「生産者」が生産した美味しいコメを「消費者」に直接売ったらどうなるのでしょうか? 「消費者」も美味しいコメを適切な価格で確実に手に入れることができるのならば「生産者」から直に買いたいと思うのではないでしょうか? 一部を除いた多くの「生産者」は新たに販売などにもリスクを負うことに耐えられないのでしょうか? 今の時代は宅配サービスが充実しています。そして今回の「備蓄米」の販売を通じて大規模小売店などの業者も「生産者」と「消費者」の橋渡しをする能力が十分にあるということが示されることになるのだろうと思います。きょうのところはあえてそれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『人気者』 すり寄っている 候補者の 『嘘』を見破る? それともやはり…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いつの時代のどこの場所でも「人気者」にすり寄っていく人間たちが少なくないのです。しかし、本当に「人気者」にすり寄っていくだけで自分も「人気者」になることができるのでしょうか? あるいは、本当に「人気者」にすり寄っていけば自分も「人気者」のような素晴らしい人になることができるのでしょうか? 当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、そんなことはないはずなのです。 例えば、何かの選挙が近づいてくると「人気者」との2ショット画像をあちこちで目にする機会が増えます。もちろん何かの選挙が近づいてきたときに「所属政党の党首」と「公認(予定)候補」の2ショット画像を目にする機会が増えるのは特に珍しいことではないのです。そして「所属政党の党首」が「人気者」ではない場合には、「所属政党の党首」ではない「人気者」と「公認(予定)候補」の2ショット画像を目にする機会が増えることになるのです。しかし、本当に「人気者」との2ショット画像をあちこちに増やして自分も「人気者」になることができるのでしょうか? 本当に「人気者」にすり寄っていくだけで少なくとも選挙の投票日だけは自分も「人気者」になることができるのでしょうか? もしも「人気者」にすり寄っていくだけで自分も「人気者」になることができると思い込んでいるのならば実に愚かです。さらに言えば、本当に「人気者」にすり寄っていけば自分も「人気者」のような素晴らしい人になることができるのでしょうか? もしもごく普通の多くの有権者が「人気者」のことを本当に好きであるのならば、選挙目当てに「人気者」にすり寄っているだけの(予定)候補者たちの「嘘」をすぐに見破ることができるはずなのです。しかし、世の中の多くの人たちもなんとなく「人気者」に好感を持っているだけなのならば…。有権者は選挙目当てに「人気者」にすり寄っているだけの(予定)候補者たちの「嘘」をすぐに見破ることができるのでしょうか? それともやはり…。きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『以前から ファンだった』とか 言っているが… 本物のファン 『嘘』を見破る!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いつの時代のどこの場所でも「人気者」にすり寄っていく人間たちが少なくないのです。しかし、本当に「人気者」にすり寄っていくだけで自分も「人気者」になることができるのでしょうか? あるいは、本当に「人気者」にすり寄っていけば自分も「人気者」のような素晴らしい人になることができるのでしょうか? 当たり前すぎるくらい当たり前のことですが、そんなことはないはずなのです。 例えば、「人気者」と実際に会ったときに「以前からファンだった」などと言っている人間たちを見ることは少なくないのです。もちろんその人間が本当に「以前からファンだった」のならばそのような「アピール」をしてもそれほど悪いことではないと思います。でも、もしも「人気者」のことが大好きな人たちに自分にも好感を持って欲しくてとりあえず「以前からファンだった」などと言っているだけならば、実に浅はかだと言わざるを得ないのです。もしも「以前からファンだった」と言っているのにもかかわらず、実はそれほど「人気者」のことを知らないのならば、それだけでもすぐに「人気者」の人気にあやかりたくて「嘘」を言っていると見破られてしまうことになるのです。「人気者」の本物のファンにとっては「以前からファンだった」と言っている人間が「本当に以前からファンだったのか」とか「そもそも本当にファンなのかどうか」を見抜くことが簡単にできるはずなのです。あえて言い換えるのならば、世の中で最もその種類の「嘘」を簡単に見破ることができる人たちに対して普通の人たちでも簡単に見破ることができそうな「お粗末な嘘」をついているようなものなのです。繰り返しになりますが、本当に「人気者」にすり寄っていくだけで自分も「人気者」になることができるのでしょうか? きょうのところは選挙が近づいてくると選挙目当てで「人気者」にすり寄っていく人間たちも増えてくるということをあえて指摘しておくだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『売り切れ』に させないために どうするか? 『販売戦略』 必要になる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の様々な場所には様々な種類の「力」が存在します。そしてそうした様々な種類の「力」の中には同じ「力」であるにもかかわらずいくつかの違った名称で呼ばれているものもあるのです。何にしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。 相変わらずどこかの社会ではコメの値上がりが大きな問題になっています(→参考:2025/5/30付、2025/5/26付、2025/5/20付)。そして相変わらずどこかの政府が備蓄米を放出してもコメの価格は高止まりの状態が続いています。どうやらどこかの政府は随意契約を活用して備蓄米の販売価格を「5kg 2000円」程度にすることを目指すらしいです。繰り返しになりますが、「5kg 2000円」程度で消費者に売られることになる備蓄米は本当に十分な量の在庫があるのでしょうか? もしかするとどこかの政府による「備蓄米のバーゲンセール」がすべて終わってしまったならば、コメの平均店頭販売価格は高止まりが続いたりまた上昇したりすることになるのではないでしょうか? 繰り返しになりますが、世の中には「5kg 2000円」程度の備蓄米があっと言う間に「売り切れ」になることにメリットを感じる人間たちもいるわけです。例えば、最近のコメの平均店頭販売価格よりも大幅に安い備蓄米をできるだけたくさん購入した上でそれを「転売」して「差額」を儲けようと思っている人間たちは備蓄米があっと言う間に「売り切れ」になることに大きなメリットを感じるのではないかと思います。さらに言えば、コメが値上がりする前に安い価格で大量にコメを仕入れている一部の業者などは備蓄米がすぐに「売り切れ」になって最近の「5kg4200円-4300円(税込)」の店頭価格があまり低下しないことにメリットを感じるのではないかと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、もしも備蓄米がすぐに売り切れになってしまえば、政府によるコメ価格対策としての備蓄米の放出は「失敗」ということになってしまうのだろうと思います。そのことに注意をするのならば、コメ価格対策としての効果を最大限に発揮させるために備蓄米をすぐに「売り切れ」にさせないための「販売戦略」が重要になってくるはずなのです。備蓄米をすぐに「売り切れ」にさせないためにどのような「販売戦略」があるのでしょうか? もちろん様々な「販売戦略」を考えることができます。さらに大胆かつ柔軟な発想をするのならば、例えば、何らかの方法で備蓄米を新たに大量に確保した上で店頭販売価格よりも安い価格で放出し続けるという方法もあるわけですが…。きょうのところは放出のための備蓄米は十分な量の在庫があるのかということをあえて重ねて強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『備蓄米 バーゲンセール』 終わったら コメの価格は また上昇へ?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には良い意味でも悪い意味でも「常識」が通用しない人間たちがいるものです。世の中には良い意味でも悪い意味でも多くの人たちが想像もできないようなことばかりを考えて実行する人間たちがいるものなのです。そのことに気づくことができるのならば、世の中の様々な場所で「ルール」を明確に定めるということがとても重要であるということを理解することができるのではないかと思います。 相変わらずどこかの社会ではコメの値上がりが大きな問題になっています(→参考:2025/5/26付、2025/5/20付)。そして相変わらずどこかの政府が備蓄米を放出してもコメの価格は高止まりの状態が続いています。どうやらどこかの政府は随意契約を活用して備蓄米の販売価格を「5kg 2000円」程度にすることを目指すらしいです。繰り返しになりますが、「5kg 2000円」程度で消費者に売られることになる備蓄米は本当に十分な量の在庫があるのでしょうか? 最近のコメの平均店頭販売価格は「5kg4200円-4300円(税込)」の状態が続いています。ですから、これから備蓄米が「5kg 2000円」程度で大型店の店頭や通販で販売されることになったとしたら、そう遠くないうちに「売り切れ」になってしまう可能性が高いのだろうと予想しています。そしてこれからさらに古い備蓄米が「5kg2000円」以下で中小のスーパーや地元商店街の米穀店などにも出回ることになったとしても、古い備蓄米の品質がそれほど悪くないのならば、おそらく「売り切れ」になるまでにはそれほど多くの時間を必要としないのではないかと思います。それでは「5kg 2000円」程度の備蓄米がすべて「売り切れ」になった後のコメの価格はいったいどうなっていくのでしょうか? もしも「5kg 2000円」程度の備蓄米がまたすぐに入荷する可能性があるのならば、コメの平均店頭販売価格は値下がりする方向に向かっていくのだろうと思います。しかし、もしも「売り切れ」後は「5kg 2000円」程度の備蓄米が入荷する可能性がほとんどなくなるのならば、コメの価格は高止まりが続いたりまた上昇したりすることになるのではないでしょうか? 繰り返しになりますが、「5kg 2000円」程度で消費者に売られることになる備蓄米は本当に十分な量の在庫があるのでしょうか? もしかするとどこかの政府による「備蓄米のバーゲンセール」がすべて終わってしまったならば、コメの平均店頭販売価格は高止まりが続いたりまた上昇したりすることになるのではないでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、世の中には「5kg 2000円」程度の備蓄米があっと言う間に「売り切れ」になることにメリットを感じる人間たちもいるわけです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『ハーバード』 売り出すならば 買い取って 『48番 目』にしてもいい?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の様々な場所には様々な種類の「力」が存在します。そしてそうした様々な種類の「力」の中には同じ「力」であるにもかかわらずいくつかの違った名称で呼ばれているものもあるのです。何にしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。 助成金の一部凍結、税制上の優遇措置の取り消し、留学生受け入れ機関の認定の取り消し…。あくまでも念のために確認しておきますが、たとえどれだけ理不尽な圧力を加えたとしてもそれで相手を自分の思い通りにすることができるとは限らないのです。あくまでも仮定の上に仮定を積み重ねた上での空想上の話ですが、もしも「ビフじいさんのような人」とその周辺から目の敵にされている「名門大学」が売りに出されることがあるのならば、その「名門大学」を莫大な金額を支払ってでも買い取りたいと本気で思っている人たちは地球上にはかなりたくさんいるのではないかと思います。そんなに「ビフじいさんのような人」とその周辺にとって「ハーバード」が邪魔なものであるのならば、実は「ハーバード」との関係がそれほど浅くはない「どこかの国」としてもボストン近郊の「不動産」ごと「買収」してその一帯を「48番目の都道府県か何か」にすることを「首脳会談」などで提案してみた方がいいのではないかと考え始めています。今はあえて「ビフじいさんのような人」とその周辺が「ハーバード」を毛嫌いする事情や背景には触れないことにしておきます。でも、かつて「赤狩り」などのために「どこかの専制国家」が核兵器や大陸間弾道ミサイルの開発や宇宙開発などを大幅に加速することができたという「歴史的事実」を思い起こすことは絶対に必要です。不必要にどこかの専制国家に高度の人材や技術ノウハウが流出することだけは断固阻止したいと考えている人たちは少なくないと思います。きょうのところは「歴史的事実」を踏まえた上でそのことを強調しておくことにします。 ======================================= 「世の中は みんな自分の ファンなのか? 『常識』通じ ない人間も…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には良い意味でも悪い意味でも「常識」が通用しない人間たちがいるものです。世の中には良い意味でも悪い意味でも多くの人たちが想像もできないようなことばかりを考えて実行する人間たちがいるものなのです。そのことに気づくことができるのならば、世の中の様々な場所で「ルール」を明確に定めるということがとても重要であるということを理解することができるのではないかと思います。 あくまでも一般論ですが、もしかすると「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などの中には世の中のほとんどすべての人たちが自分のファンや自分のことを好意的に見ている人たちであると勘違いしている人間たちがいるのではないかと思うことがあります。いわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などの中でも特にひどいのになると、世の中のほとんどすべての人たちはいわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などである自分との間に何らかの関係ができることを心から望んでいるに違いないなどという救いようのない勘違いをしているのではないかと思うことがあります。最近はほとんどすべてのいわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などに対するいわゆる「アンチ」などという人間たちが存在するのでそうした勘違いをすることは少なくなってきているのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、いわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などの中には、世の中では多くの人たちが暗黙のうちに共有している「常識」や「ルール」が全く通用しない人間たちが今でも存在するのです。そして例えば、密室内で相手と二人きりになったときなどに、いわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などとされていても世の中の多くの人たちが暗黙のうちに共有している「常識」や「ルール」が全く通用しない人間たちであるということが分かるのだろうと思います。密室内で相手と二人きりになることができたときには本当に相手はいわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などされている自分と「関係」することを望んでいるのでしょうか? そんなバカなことはないはずなのです。いずれにしてもいわゆる「人気俳優」や「人気音楽アーティスト」や「人気小説家」などとされていても世の中の多くの人たちが暗黙のうちに共有している「常識」や「ルール」が全く通用しない人間たちが存在するのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『力』には 他人の意思を 捻じ曲げず 他人を惹き付 けるものもある」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の様々な場所には様々な種類の「力」が存在します。そしてそうした様々な種類の「力」の中には同じ「力」であるにもかかわらずいくつかの違った名称で呼ばれているものもあるのです。何にしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。 「他人に自分の望むことをさせる(してもらう)ため」に使う「力」は「暴力」を含めた「強制力」以外には存在しないのでしょうか? もちろんそんなことないはずです。例えば、「暴力」を含めた「強制力」のように「他人の意思を捻じ曲げて自分の望むことをさせる(してもらう)」のではなく、「自分の望むことをしたいという意思を他人に持たせる(持ってもらう)」というように考えることもできるはずなのです。いわゆる「推し」などが好んで買ったり使ったりやったりしている物事は、「ファン」などである自分自身も買ったり使ったりやったりしてみたくなるということは世の中ではとてもありふれた話です。また「インフルエンサー」などというものは、「自分の望むことをしたいという意思を他人に持たせる(持ってもらう)」ことに成功した事例の1つになるのだろうと思います。何にしても「力」には他人の意思を捻じ曲げるのではなく、他人を惹き付けるような種類のものもあるのです。その上で、あえて付け加えるのならば、「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」が使っている種類の「力」はいったいどのような種類の「力」なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「2000円? 『転売ヤー』が 大儲け? あちこち回り 買い集めれば⋯」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には良い意味でも悪い意味でも「常識」が通用しない人間たちがいるものです。世の中には良い意味でも悪い意味でも多くの人たちが想像もできないようなことばかりを考えて実行する人間たちがいるものなのです。そのことに気づくことができるのならば、世の中の様々な場所で「ルール」を明確に定めるということがとても重要であるということを理解することができるのではないかと思います。 相変わらずどこかの社会ではコメの値上がりが大問題になっています。そして相変わらずどこかの政府が備蓄米を放出してもコメの価格は高止まりの状態が続いています(→参考:2025/5/20付)。どうやらどこかの政府は備蓄米の「店頭価格」を「5kg 2000円」にすることを目指すらしいです。仮に備蓄米の「店頭価格」を「5kg 2000円」にすることができたとしたとして、その「5kg 2000円」の備蓄米は1人何kgまで買うことができるのでしょうか? もしもほとんどの店で備蓄米の購入を1人5kgまでに制限したとしても、実際にあちこちの店舗を回って備蓄米を買い集めるようなことは許されるのでしょうか? 仮に「5kg 2000円」の備蓄米を買い集めるようなことは認めないなどと政府側が言ったとしても、現実には様々な手段を駆使すれば「5kg 2000円」の備蓄米を買い集めることはそれほど難しいことではないのではないかと思います。さらに言えば、最近のコメの店頭販売価格は「5kg4200円-4300円(税込)」の状態が続いていますから、「5kg 2000円」の備蓄米を手に入れることができた人間たちがかなり大きな利益を得ることだけはほぼ確実なのです。おそらく業者が「5kg 2000円」の備蓄米の大規模な買い占めをするようなことは事実上不可能なのだろうとは思います。しかし、「5kg 2000円」の備蓄米を買い集めてインターネット上などで「転売」して利益を得る個人が出てくる危険性は十分に考えられるのです。言うまでもなくどこかの政府が備蓄米の「店頭価格」を「5kg 2000円」にしようとしているのはいわゆる「転売ヤー」などに大儲けをさせるためではないはずです。繰り返しになりますが、「ルール」を明確に定めるということはとても重要なことではないかと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『理解力』 『共感力』は 十分か? 『忘却力』や 『執着力』は…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の様々な場所には様々な種類の「力」が存在します。そしてそうした様々な種類の「力」の中には同じ「力」であるにもかかわらずいくつかの違った名称で呼ばれているものもあるのです。何にしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。 きょうは普通の意味での「力」ではない「指導者に求められる能力」についてあえて考えてみることにしようと思います。「指導者」にはいったいどのような「能力」が必要になるのでしょうか? もちろん「指導者」の種類によって求められる「能力」の種類は違ってくることにはなると思います。しかし、それでもやはり、このような「能力」が不十分であれば「指導者」としての役割を十分に果たすことができなくなると思われるような種類の「能力」はいくつか存在するのではないかと思います。例えば、「理解力」。もしも「指導者」の「理解力」が十分ではなかったとしたら、どんな問題の解決を目指す場合でも最大の問題点の1つが「指導者の理解力の低さ」ということになってしまうかもしれないのです。あるいは、「共感力」。もしも相手の状況や立場を自分に置き換えて想像してみることもできないほど「共感力」が低い場合には「指導者」としては致命的な欠点になります。さらに言えば、過去の自分の都合の悪い発言などを初めからなかったことにしようとする「忘却力」、「関税」などのような問題の本質とはかけ離れたことにいつまでも強くこだわり続ける「執着力」のようなものは、低ければ低い方がいいとは思いますが…。その上で、あくまでも念のために付け加えておくことにするのならば、いくら「認知機能テスト」などが「満点」であったとしても、「指導者に求められる能力」のテストで「合格点」が得られるのかどうかは定かではないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『事実』なら 『金銭的な 解決』で なかったことに できるわけない!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の様々な場所には様々な種類の「力」が存在します。そしてそうした様々な種類の「力」の中には同じ「力」であるにもかかわらずいくつかの違った名称で呼ばれているものもあるのです。何にしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。 世の中では本質的な解決が不可能だったり極めて難しかったりする問題をあえて金銭で解決しようとする試みがよく見られます。世の中では、例えば、誰かにとって「大切な人」が命を失った場合などに「金銭的な解決」が図られるようなことはよくある話です。もっとも「金銭的な解決」が図られたとしても、「大切な人」が生き返ったりするようなことは絶対にないわけです。言い換えれば、いくら「金銭的な解決」が図られたとしても問題を本質的に解決することは不可能なのです。当たり前すぎるくらい当たり前の話ですが、どんなに少なくとも「カネ」では「大切な人」を蘇らせることはできないのです。あるいは、たとえ「示談」などが成立して金銭が支払われることになったとしても、「あの日あのときあの場所で起こったこと」が「事実」であるのならば、それを初めからなかったことにするようなことは絶対にできないのです。言うまでもなくいくら「あの日あのときあの場所で起こったこと」について「守秘義務」などを課したとしても「あの日あのときあの場所で起こったこと」を初めからなかったことにするようなことは絶対にできないのです。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、「カネ」の「力」というものは所詮その程度のものなのです。繰り返しになりますが、やはり多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。きょうのところはあえてそのことを強調しておくことにします。 ======================================= 「『暴力』は 『強制力』の 1種だと 気づけば『本質』 見えやすくなる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中の様々な場所には様々な種類の「力」が存在します。そしてそうした様々な種類の「力」の中には同じ「力」であるにもかかわらずいくつかの違った名称で呼ばれているものもあるのです。何にしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。 例えば、「暴力」という「力」は、目に見える形で使われる「力」です。もしも「暴力」が誰にも目撃されることがなかったとしたら「暴力」は存在しなかったということになるのでしょうか? もしも誰にも見えない場所や誰にも見えないときをわざわざ選んで痕跡らしい痕跡も全く残さないような形で「暴力」を使うことができるのならば、その「暴力」が間違いなく存在していたとしても誰にも目撃されることはないのだろうと思います。さらに言えば、「暴力」というものは、「強制力」などと呼ばれる種類の「力」の1つになるわけです。ですから、たとえ「暴力」と呼ばれる種類の「力」が本当に存在しなかったとしても、だからと言って「暴力」以外の他の「強制力」と呼ばれる種類の「力」までもが存在しなかったということにはならないはずなのです。あえて別の言い方をするのならば、「強制力」などと呼ばれる他人の意思を抑え込んで自分の望むことを他人にさせるために使うことができるような種類の「力」は、「暴力」だけではないはずなのです。例えば、相手の機嫌を損ねたり怒らせたりしてしまったらもうこれからは一緒に「仕事」をすることができなくなってしまうというような危険性が高い状況では、そうした状況も「強制力」として使うことができるのだろうと想像することができるのです。あるいは、自分が他人と何らかの種類の望まないことをしたりさせられたりしていることを「第三者」に知られることを望んでいないような場合には、その事実を秘密のままにしておくという行為も「強制力」になるのだろうと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、「暴力」による「(同意のない)性行為」とか「性暴力」などという言葉を使うよりも、むしろ「強制力」を使った「(同意のない)性行為」などという言葉を使った方がその行為の悪質性をより正確に表現することができるのかもしれないのです。「暴力」というものは「強制力」の1種であるということに気づけば物事の本質が見えやすくなるのです。いずれにしても多くの人たちにとって世の中に存在する様々な「力」の本質を正しく理解することはなかなか難しいことなのかもしれないと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「ばらまけば 『手取り』は増える? 『借金』で! 『手取り』増やして ばらまくために…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のしくみはなかなか複雑です。そしてそんな複雑なしくみがいっぱいの世の中には解決が困難な問題が数多く存在しています。しかし、実は問題をあまりにも複雑に考え過ぎているためにその解決を難しくしているだけのことも少なくないのではないかと思います。 世の中には「減税」やその他の「ばらまき」が大好きな人たちが多くいるようです。もちろんそのこと自体はそれほど驚くべきことではないと思います。しかし、それでもやはり、「減税」やその他の「ばらまき」を実施することによって「手取り」を増やそうとする類のその場しのぎの思慮の浅い主張には本当にうんざりさせられます。言うまでもなく「減税」やその他の「ばらまき」をすれば最大で「減税」やその他の「ばらまき」をした分までは「手取り」を増やすことができるのだろうと思います。しかし、「減税」やその他の「ばらまき」の財源が「借金」であるのならば「手取り」を増やした効果はどのくらいあるのでしょうか? 「減税」やその他の「ばらまき」をやめればすぐに「手取り」は減少して元通りになるだけでは…。考えてもみてください。多少収入が増えたとしてもそもそも毎年毎年巨額の「借金」を繰り返しながらなんとかやりくりをしている「どこかの国の政府」には備蓄米のように放出することができる「埋蔵金」があるのでしょうか? それとも「どこかの国の政府」が実は毎年多額の税金を使い残して「どこかの銀行」に多額の資金をこっそりと貯め込んでいるのでしょうか? そうではないとしたら「減税」やその他の「ばらまき」の財源が「借金」であるということにすぐに気づくことができるはずなのです。そもそも「減税」やその他の「ばらまき」の財源として使うための「借金」を返済するのは誰なのでしょうか? もっともらしいことを主張して「減税」やその他の「ばらまき」を行う人間たちなのでしょうか? 将来世代を中心とした国民ではないのでしょうか? そして「借金」を財源とする「減税」やその他の「ばらまき」によって(一時的に)増えた「手取り」は、「借金」を財源とする「減税」やその他の「ばらまき」をやめればすぐに減少するのです。いくら「借金」を財源とする「減税」やその他の「ばらまき」によって(一時的に)「手取り」を増やしたとしても、まやかしによる「手取り」の増加にしかならないのです。どうせ「借金」をしなければならないのならば、「手取り」を本質的に増やすことを目指した経済政策にできるだけ多くの「借金」を使いたいものです。あえて言い換えるのならば、「減税」やその他の「ばらまき」によって(一時的に)「手取り」を増やすことを考えるのではなく、「手取り」を本質的に増やすことによって「減税」やその他の「ばらまき」をする財政的な余裕を生み出すことを考えるべきなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『幸せ』に なりたいのなら 『幸せ』と 思い込めたら すぐ『幸せ』に!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のしくみはなかなか複雑です。そしてそんな複雑なしくみがいっぱいの世の中には解決が困難な問題が数多く存在しています。しかし、実は問題をあまりにも複雑に考え過ぎているためにその解決を難しくしているだけのことも少なくないのではないかと思います。 あくまでも一般論ですが、世の中には「幸せ」になりたいと思っている人たちがたくさんいるようです。そして「幸せ」になりたいとは思っているが実際には「幸せ」ではないという人たちも少なくないようです。一昔前には「幸福度」などというあまり意味のない数字にさも大きな意味があるかのような主張が盛んに取り上げられたこともあったわけですが…。ところで誰かが「幸せ」になるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて非常に極端なことを率直に言わせてもらうのならば、もしも本気で「幸せ」になりたいと思っているのならば自分は「幸せ」だと強く思い込むだけですぐにでも「幸せ」になることができるのです。言うまでもなく人間には一人ひとりそれぞれ別の種類の「幸せ」があるはずなのです。言い換えれば、「ある人」にとっての「幸せ」が「別の人」にとっても「幸せ」だとは限らないのです。そしてそれぞれの「幸せ」には比較的簡単に実現することができるものもあれば実現することが極めて難しいものもあるわけです。さらに言えば、たとえ「ある人」がいくら自分は「幸せ」だと強く思っていたとしても、「別の人」の「幸せ」を知ったときに価値観が変化して自分は「幸せではない」と思うようになるかもしれないのです。別の言い方をすれば、自分は「幸せ」だと思っている人たちに「世の中にはもっともっと素晴らしい『幸せ』がある」などと「悪魔のささやき」のようなことを言うこともできるわけですし、逆に、自分は「幸せではない」と思っている人たちに「世の中にはもっとずっと不幸な人たちがいる。でも、あなたはとても『幸せ』だ」などと言って不満を抑え込もうとすることもできるわけです。そのように考えるのならば、ある社会の「幸福度」が高いということは、その社会が独裁や専制の悪影響を強く受けている可能性も高いということに気づくことになるわけです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「備蓄米? あるならすぐに 配るべき! 一人ひとりに なぜ配らない?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中のしくみはなかなか複雑です。そしてそんな複雑なしくみがいっぱいの世の中には解決が困難な問題が数多く存在しています。しかし、実は問題をあまりにも複雑に考え過ぎているためにその解決を難しくしているだけのことも少なくないのではないかと思います。 どこかの社会ではコメの値上がりが大問題になっています。どこかの政府が備蓄米を放出していますが、コメの価格は高止まりの状態が続いています。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、なぜ一人ひとりの国民に直接コメを配るようなことを考えないのでしょうか? 備蓄米があるのならすぐに配ってもらいたいと思っている人たちも少なくないと思います。例えば、なぜ政府は備蓄米などを毎月1回、5kg、3000円(→市場平均価格より1000円程度安い価格)で購入することができる「定額おコメ券」(仮称)などを国民一人ひとりに配布するようなことを考えないのでしょうか? もしも備蓄米の放出によって国民一人ひとりのもとにある程度の長期間に渡ってそれなりの低価格でそれなりの量のコメが確実に行き渡り続けるような状態になるのならば、その分だけ市場でのコメの需要は減少することになるわけですから、コメの価格は下落する方向に向かうはずです。マイナンバーカードなども活用して本人確認も厳格にした上でまとめ買いなども禁止すれば不正利用や転売を防ぐことはそれほど難しいことではないのではないかと思います。もちろん備蓄米があってもそれを国民一人ひとりのもとに届けるのにはかなりの手間暇がかかることは確かです。しかし、それでもやはり、例えば、「公務員」を常駐させて本人確認とまとめ買い禁止を徹底しさえすれば、各地の駐車場や空き地などに設置した「仮設販売場」に備蓄倉庫から備蓄米を直接運び込んで購入者にその場で購入したコメを「精米機」で精米して持って帰ってもらうような「乱暴な手法」であってもコメの値上がり対策としては大きな効果を期待することができるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「目に見える 『贈り物』だけ 取り締まる? 電気通信回線 経由は?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「ある国の王室」が「かつて偉大だった国」の大統領に「豪華旅客機」を贈るなどという「噂」を耳にして非常に驚いている人たちは少なくないと思います。もちろん「ある大富豪」が「別の大富豪」に非常に高価な商品をプレゼントするようなことはそれほど珍しいことではないのかもしれないと思いますが…。 これはあくまでも「噂」話にすぎないわけですが、一昔前にはどこかの国でも「政治(家)銘柄」などとささやかれていたものがあったとかなかったとかと言われていました。そしてその「政治(家)銘柄」なるものは、ときどき謎の急上昇をした直後に値下がりするなどの「不審な値動き」を繰り返すという「噂」があったとかなかったわけです。もしかすると「不審な値動き」をしている間に「経済取引」を通じて「何らかの合法的な資金移動」があったのかもしれないと想像することはできるのです。しかし、あくまでも「噂」は「噂」でしかないわけですし、「想像」は「想像」にすぎないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも最近のいわゆる「トランプ関税」などの一連の騒動による激しい乱高下の中に「何らかの不審な値動き」が紛れ込んでいて、その中で「何らかの合法的な資金移動」が行われていたとしたら…、そのような「何らかの不審な値動き」と「何らかの合法的な資金移動」を漏らすことなく完全に把握することができているのでしょうか? もちろん「何らかの不審な値動き」と「何らかの合法的な資金移動」のすべてをリアルタイムで把握することは極めて困難だとは思います。しかし、それでもやはり、どんなに少なくとも「事後」にはしっかりとすべての「何らかの不審な値動き」と「何らかの合法的な資金移動」を漏らすことなく完全に把握することが必要になると思います。言うまでもなく目に見える「贈り物」だけに注目していればすべての違法行為や不法行為を見逃すことがないというわけではないのです。きょうのところは目には見えにくい巧妙な電気通信回線経由の違法行為や不法行為もしっかりと取り締まらなければならないということをあえて指摘した上で強調しておくことにします。 ======================================= 「『犯罪』を もみ消す場合 How much(ハウマッチ)? 『スキャンダル』なら いくら必要?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「ある国の王室」が「かつて偉大だった国」の大統領に「豪華旅客機」を贈るなどという「噂」を耳にして非常に驚いている人たちは少なくないと思います。もちろん「ある大富豪」が「別の大富豪」に非常に高価な商品をプレゼントするようなことはそれほど珍しいことではないのかもしれないと思いますが…。 あくまでも一般論ですが、非常に強大な権力を持っているいわゆる「専制国家」の大統領などとその周辺には、その「非常に強力な権力」を目当てに様々な人間たちが集まってくるのだろうと思います。もしそうであるのならば、「非常に強力な権力」を使って様々な不適切なことの実現を期待して近寄ってくるような人間たちも少なくないのだろうと思います。例えば、「非常に強力な権力」を使って「犯罪」をもみ消そうとしたり、「スキャンダル」を隠ぺいしようとしたり…。ちなみに「犯罪」のもみ消しや「スキャンダル」の隠ぺいにはいくら必要になるのでしょうか? 大昔は地球上のあちこちで「下っ端の役人」を「買収」して実現することができていたようなことは今でも「専制国家」では実現可能なのでしょうか? もしかすると非常に強大な権力を持っているいわゆる「専制国家」の大統領に「賄賂」を贈って「買収」することができれば自分たちの望み通りの外交成果を得ることができるようになるのでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、例えば、「数千億ドル規模の新たな投資」やそれ以外の何かの場合には「首脳会談」や「制裁解除」という「見返り」があったのかもしれないしなかったのかもしれないとは思います。しかし、例えば、「数億ドル(数百億円)規模の豪華旅客機」ではなく「人質解放」程度のことでは特に注目してもらえずに「そのまま素通り」されるという結果に終わるだけかもしれないのです。きょうのところはあえてこれ以上のコメントしないことにしておきます。 ======================================= 「もらったら 『お返し』をする 『文化』では 『豪華なみやげ』 もらったならば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「ある国の王室」が「かつて偉大だった国」の大統領に「豪華旅客機」を贈るなどという「噂」を耳にして非常に驚いている人たちは少なくないと思います。もちろん「ある大富豪」が「別の大富豪」に非常に高価な商品をプレゼントするようなことはそれほど珍しいことではないのかもしれないと思いますが…。 あくまでも一般論ですが、他人から何かをもらった場合には必ずその「お返し」をしようとするような「贈り物文化」の中で長く生活をしてきた人たちにとっては、もしも「豪華旅客機」をもらってしまったら「お返し」に何を贈ったらいいのか非常に困ってしまうのではないかと思います。そのような「贈り物文化」の中で長く生活してきた人たちは、「お返し」に何を贈ったらいいのか分からなくなってしまうような非常に高価なものは受け取れないという気持ちに自然になることが少なくないのです。それが「賄賂」になるのかならないのかとか、倫理観があるとかないということとは全く別の話として…。そのような「贈り物文化」の中で長く生活してきた人たちにとっては「お返し」ができないということ自体に大きな心理的な負担を感じることになるのです。繰り返しになりますが、「ある国の王室」が「かつて偉大だった国」の大統領に「数億ドル(数百億円)規模の豪華旅客機」をプレゼントするという話は事実なのでしょうか? いずれにしても他人から何かをもらった場合には必ずその「お返し」をしようとするような「贈り物文化」の中で長く生活をしてきた人たちにとっては想像もできないくらい大きな心理的な負担を感じるような事態です。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『旅客機』を もらったことで 『見返り』は 何をするのか? 何もしないか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「ある国の王室」が「かつて偉大だった国」の大統領に「豪華旅客機」を贈るなどという「噂」を耳にして非常に驚いている人たちは少なくないと思います。もちろん「ある大富豪」が「別の大富豪」に非常に高価な商品をプレゼントするようなことはそれほど珍しいことではないのかもしれないと思いますが…。 まず素朴な疑問としては、本当に「豪華旅客機」は「賄賂」だと判断されることはないのでしょうか? もしも贈り物が「数百ドル(数万円)程度の高級品」であったのならば、たとえ地球上のほとんどの場所で「庶民感覚からは大きくかけ離れた金額」であったとしても、国家元首間の外交の舞台ではその程度の金額は「常識の範囲内の金額」ということになるのかもしれないと思います。しかし、もしも「数百ドル(数万円)程度の高級品」ではなく「数億ドル(数百億円)規模の非常に高価な物品」ということになるのならば、「ある国」と「別のある国」が経済協力で合意したときのような規模の金銭的な価値を受け取ることになるわけです。もしも「数億ドル(数百億円)規模の非常に高価な金品」をしかも事実上大統領個人が受け取るということになるのならば、今の時代の外交の舞台ではさすがに日常的な出来事ではなくなるのです。あえて確認しますが、「ある国の王室」が「かつて偉大だった国」の大統領に「豪華旅客機」をプレゼントするという話は事実なのでしょうか? そして「豪華旅客機」を贈られた大統領側はその「見返り」に何かをするのでしょうか? それとも非常に高価な金品をもらっても何もしないのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、たとえ「見返り」として何かをしたとしてもしなかったとしても、「数億ドル(数百億円)規模の非常に高価な金品」をもらったことが事実であるのならば、その事実は事実として残り続けるのです。ある人間は「非常に高価な贈り物」と受け止めるのかもしれませんが、その一方で、別の人間は「事実上の賄賂」として受け止めることになるのかもしれないわけです。何にしても事実は事実として残り続けるのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「『あんな人』 なぜ投票し 当選を させてしまった? 責任取れる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとごく普通の多くの人たちはたとえ自分が何を言ったとしても何をやったとしても「社会」は少しも変わらないなどと思い込んでいるのかもしれないと思います。しかし、自分が何気なく言ったことや何気なくしたことが自分の想像よりもはるかに大きな影響を「社会」に与えることもあるということに気づいている人たちはそれほど多くないのかもしれないと思います。良い意味でも悪い意味でも「社会」の中で発生する大きな動きは実際にはごく普通の人たちの一つひとつの小さな言動の積み重ねであるということも少なくないのです。 あくまでも一般論ですが、最近あちこちの選挙でよりによってあんな人を当選させてしまったのはいったい誰なのかと言いたくなるようなことが増えています。もちろんごく普通の多くの有権者が選挙で「あんな人」に投票したから「あんな人」が当選してしまったのだろうと思います。その上で、あえて言わせてもらうのならば、ごく普通の多くの有権者は選挙で「あんな人」に投票して「あんな人」を当選させてしまったことで満足しているのでしょうか? それとも期待外れだったと思っているのでしょうか? もしかしたら「あんな人」に投票して「あんな人」を当選させてしまったことを後悔しているという有権者も少なくないのでしょうか? しかし、それでもやはり、「あんな人」に投票して「あんな人」を当選させてしまったことに大きな責任を感じたり罪悪感を持ったりしている有権者はそれほど多くはないのだろうと思います。まして「あんな人」に投票して「あんな人」を当選させてしまった責任を取ろうとしている有権者はほとんどいないのだろうと思います。そもそもごく普通の多くの有権者はなぜ選挙で「あんな人」に投票して「あんな人」を当選させてしまったのでしょうか? 「あんな人」によって財政破綻させられたり世界恐慌が引き起こされたり第三次世界大戦が引き起こされたりしたら取り返しのつかないことになってしまうわけですが…。何にしてもごく普通の多くの有権者の投票行動の一つひとつの積み重ねによって「社会」は大きな影響を受けることになるわけです。繰り返しになりますが、自分が何気なく言ったことや何気なくしたことが自分の想像よりもはるかに大きな影響を「社会」に与えることもあるということに気づいている人たちはそれほど多くないのかもしれないと思います。良い意味でも悪い意味でも「社会」の中で発生する大きな動きは実際にはごく普通の人たちの一つひとつの小さな言動の積み重ねであるということも少なくないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「喜んで 安い価格で 買うことも 『加害者』になる ことを意味する!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとごく普通の多くの人たちはたとえ自分が何を言ったとしても何をやったとしても「社会」は少しも変わらないなどと思い込んでいるのかもしれないと思います。しかし、自分が何気なく言ったことや何気なくしたことが自分の想像よりもはるかに大きな影響を「社会」に与えることもあるということに気づいている人たちはそれほど多くないのかもしれないと思います。良い意味でも悪い意味でも「社会」の中で発生する大きな動きは実際にはごく普通の人たちの一つひとつの小さな言動の積み重ねであるということも少なくないのです。 もしも品質の良い魅力的な商品が他よりも安い価格で売られていたとしたら、たぶんごく普通の多くの人たちはその商品を喜んで買うことになると思います。もちろんより良い商品をより安い価格で買うことは悪いことではないのです。しかし、もしもその価格があまりにも安い場合には、その価格の安さにはどのような理由があるのかを一度立ち止まって考えてみることが必要になります。もしかするとその商品は「偽ブランド品」なのでしょうか? もしも「偽ブランド品」ではなく正真正銘の本物だとしたら…。もしかするとその商品は「盗品」なのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、もしも喜んで買ってしまった商品が「偽ブランド品」や「盗品」であったとしても、それを知らずに喜んで買ってしまった場合には買ってしまった人たちも「被害者」になるのだろうと思います。しかし、「偽ブランド品」や「盗品」を買ってしまった人たちは「偽ブランド品」や「盗品」を買うことによって同時に「加害者」にもなってしまうということには注意が必要になります。「偽ブランド品」や「盗品」を購入するということは、裏返せば「偽ブランド品」や「盗品」を売却することによって不正な利益を得た人間たちがいるわけです。さらに付け加えるのならば、もしも極端に安い価格で売られている商品が「偽ブランド品」でも「盗品」でもなかったとしても、その価格の安さにはどのような理由があるのかについて考えてみることは必要なのです。例えば、もしかすると価格が安いのは、本来は必要不可欠なコストの一部を無理に削減して労働者らに劣悪な労働環境を強制しているからかもしれませんし、あるいは、不法移民や児童らに極端に安い賃金で長時間労働をさせているからなのかもしれないのです。もしもその商品を喜んで買ってしまうことになれば、例えば、劣悪な労働環境や低賃金労働を強制して搾取する加害者の側に参加することを意味することになるのです。いずれにしても自分が何気なく言ったことや何気なくしたことが自分の想像よりもはるかに大きな影響を「社会」に与えることもあるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『疑惑』でも 『アンチ』が増えて 攻撃し そのイメージは 大きく低下…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとごく普通の多くの人たちはたとえ自分が何を言ったとしても何をやったとしても「社会」は少しも変わらないなどと思い込んでいるのかもしれないと思います。しかし、自分が何気なく言ったことや何気なくしたことが自分の想像よりもはるかに大きな影響を「社会」に与えることもあるということに気づいている人たちはそれほど多くないのかもしれないと思います。良い意味でも悪い意味でも「社会」の中で発生する大きな動きは実際にはごく普通の人たちの一つひとつの小さな言動の積み重ねであるということも少なくないのです。 ごく普通の人たちが何を言ったとしても何をやったとしても本当に「社会」は少しも変わらないのでしょうか? 確かにごく普通の人たちは、例えば、「かつて偉大だった国」の大統領ではないわけですから、何か妙なことを口走ったりしても唐突に「関税」をかけたりしても、さすがに世界経済を大混乱に陥れるようなことにだけはならないわけです。さらに言えば、ごく普通の人たちは、どこかの「核保有国」の指導者ではないわけですから、どれだけ過激なことを言ったとしても何らか過激な行動に走ってしまったとしても、さすがに第三次世界大戦や核戦争を引き起こすようなことにだけはならないわけです。しかし、ごく普通の人たちの一つひとつの小さな言動の積み重ねが「社会」に大きな影響を与えることがあるのです。例えば、俳優やタレントやアーティストなどのいわゆる「アンチ」は、ごく普通の人たちであってもすぐになることができるものの1つです。そしてもちろん「アンチ」の一つひとつの小さな言動がファンはもちろん「アンチ」ではないごく普通の多くの人たちの感情を害するようなことはあるとは思います。しかし、それでもやはり、その「アンチ」の一つひとつの小さな言動はそのままの形では「社会」にそれほど大きな悪影響を与えることはできないのです。その上で、あえて念のために付け加えるのならば、もしも「アンチ」の「攻撃対象」の俳優やタレントやアーティストなどに「不倫」疑惑やその他の不祥事の疑惑が浮上した場合には、「アンチ」はここぞとばかりに激しく攻撃するようになり、疑惑を知ってそれまで「アンチ」ではなかった普通の人たちまでもが新しく「アンチ」となって激しく攻撃するようになるのならば、そうした「アンチ」の一つひとつの小さな言動の積み重ねがイメージの低下という形で「社会」に確実に大きな悪影響を与えることもあるのです。疑惑が事実であるかどうかとは全く無関係にイメージだけは確実に大きく低下する…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『有志国』 『51番 目の州』に なったつもりで 地球を救う?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。残念ながら国際社会の多くの人たちは自分たちの利益以外のことにはほとんど興味を持たない人間たちの「自分第一主義」の行動によって大きな悪影響を受けているのです。「自分第一主義」の人間たちの考えや行動を改めさせることは本当にできないものなのでしょうか? 様々な深刻な問題を抜本的に解決するためには、あえて「大胆な発想の転換」を図ることも必要になってくるのではないかと思いますが…。 きょうも引き続き、もしも「どこかの国」が「かつて偉大だった国の51番目の州」になったとしたら…、などという空想上の話を続けることにしたいと思います。繰り返しになりますが、もしも「どこかの国」が「かつて偉大だった国の51番目の州」になったとしたら、「どこかの国の有権者」が「かつて偉大だった国の有権者」となって選挙で「かつて偉大だった国の大統領」を選ぶことができるようになるわけです。その上で、あえて仮定の話の上にさらに仮定の話を積み重ねるのならば、もしも国際社会の大多数の国が「有志国」となって一斉に「かつて偉大だった国の51番目の州」になったとしたら、「かつて偉大だった国」は安全保障理事会の常任理事国による拒否権行使のために機能不全に陥っている今現在の「国際連合」よりもはるかに強力な「国際機関」としての役割も果たすことができるようになるのではないかと思います。あえて言い換えるのならば、たとえ「米国第一主義」などという考え方には少しも変化がなかったとしても、「米国」という言葉の方を「国際社会全体」とほぼ同じような意味に変えてしまえば、国際社会を劇的に変化させることができると考えることができるのです。さらに言えば、もしも「かつて偉大だった国の51番目の州」になった「有志国の有権者」が「かつて偉大だった国の有権者」となって「米国」だけではなく「国際社会全体」のことを真剣に考える人物を大統領として選ぶことができるのならば、国際社会をさらに劇的に変化させることができるようになるのだろうと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、これは仮定の話の上にさらに仮定の話を積み重ねたようなただの空想上の話なのです。しかし、それでもやはり、国際社会の「有志国」が一斉に「かつて偉大だった国の51番目の州」になったつもりになって地球を救うことを真剣に考えることぐらいはできるはずなのです。いずれにしても深刻な問題を抜本的に解決するためには、あえて「大胆な発想の転換」を図ることも必要になってくるのではないかと思います。きょうのところは重ねてそのことを強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「次回には 『51番 目の州』に なって自分も 投票できる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。残念ながら国際社会の多くの人たちは自分たちの利益以外のことにはほとんど興味を持たない人間たちの「自分第一主義」の行動によって大きな悪影響を受けているのです。「自分第一主義」の人間たちの考えや行動を改めさせることは本当にできないものなのでしょうか? 様々な深刻な問題を抜本的に解決するためには、あえて「大胆な発想の転換」を図ることも必要になってくるのではないかと思いますが…。 きょうも引き続き、もしも「どこかの国」が「かつて偉大だった国の51番目の州」になったとしたら…、などという空想上の話を続けることにしたいと思います。もしも「どこかの国」が「かつて偉大だった国の51番目の州」になったとしたら、どんなに少なくともいわゆる「トランプ関税」のような理不尽な関税の問題と不法移民の問題はあっと言う間に解消することができるのだろうと思います。しかし、その一方で、例えば、銃を使った凶悪犯罪の問題、薬物中毒の問題、貧富の格差の問題などというその他の深刻な問題は未解決のまま残されることになるのです。その上で、あくまでも念のために確認しておきますが、「どこかの国」が「かつて偉大だった国の51番目の州」になるということは、「どこかの国の有権者」が「かつて偉大だった国の有権者」となって選挙で「かつて偉大だった国の大統領」を選ぶことができるようになるということを意味することになるわけです。残念ながら今現在は国際社会の多くの人たちは自分たちの利益以外のことにはほとんど興味を持たない人間たちの「自分第一主義」の行動によって大きな悪影響を受けているわけです。もしも「かつて偉大だった国の有権者」となって自分たちも選挙で「かつて偉大だった国の大統領」を選ぶことができるのならば…。もしかすると次回の大統領選挙後には今現在よりも少しだけ国際社会を良い方向に変化させることができるのかもしれないと思います。いずれにしても深刻な問題を抜本的に解決するためには、あえて「大胆な発想の転換」を図ることも必要になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてそのことを強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「深刻な 銃犯罪や 薬物も 貧富の格差 などもそのまま…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。残念ながら国際社会の多くの人たちは自分たちの利益以外のことにはほとんど興味を持たない人間たちの「自分第一主義」の行動によって大きな悪影響を受けているのです。「自分第一主義」の人間たちの考えや行動を改めさせることは本当にできないものなのでしょうか? 様々な深刻な問題を抜本的に解決するためには、あえて「大胆な発想の転換」を図ることも必要になってくるのではないかと思いますが…。 きょうもあえて、もしも「どこかの国」が「かつて偉大だった国の51番目の州」になったとしたら…、などという空想上の話を続けることにしたいと思います。もしも「どこかの国」が「かつて偉大だった国の51番目の州」になったとしたら、同じ「かつて偉大だった国」の他の州との間で商取引をしても「関税」が課されることはないのだろうと思います。あえて言い換えれば、いわゆる「トランプ関税」などの理不尽な関税はなくなるわけです。またもしも「どこかの国」が「かつて偉大だった国の51番目の州」になったとしたら、同じ「かつて偉大だった国」の他の州との間を誰でも自由に移動することができるようになるのだろうと思います。あえて言い換えれば、少なくとも「どこかの国」と「かつて偉大だった国」との間では不法移民や密入国者の問題が消えてなくなるわけです。さらに言えば、もしも「どこかの国」が「かつて偉大だった国の51番目の州」になったとしたら、少なくとも国内でミサイルやドローンによる攻撃、空爆などによって命を落とす一般市民は一人もいなくなるのだろうと思います。今もなお「世界最大規模の軍事大国」である「かつて偉大だった国」にミサイルやドローンによる攻撃、空爆をしようなどと考える国は事実上存在しないのだろうと思います。確かに「どこかの国」が「かつて偉大だった国の51番目の州」になったとしたら多くの深刻な問題はすぐにまとめて解消することができるのだろうと思います。しかし、例えば、銃を使った凶悪犯罪の問題、薬物中毒の問題、貧富の格差の問題などというその他の深刻な問題は「かつて偉大だった国の51番目の州」になっても未解決のまま残されるということをあえて指摘した上で強調しておく必要があります。もしも「どこかの国」が「かつて偉大だった国の51番目の州」になったとしたら…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「もしも今 『51番 目の州』に なればまとめて 解決できる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。残念ながら国際社会の多くの人たちは自分たちの利益以外のことにはほとんど興味を持たない人間たちの「自分第一主義」の行動によって大きな悪影響を受けているのです。「自分第一主義」の人間たちの考えや行動を改めさせることは本当にできないものなのでしょうか? 様々な深刻な問題を抜本的に解決するためには、あえて「大胆な発想の転換」を図ることも必要になってくるのではないかと思いますが…。 最近は「かつて偉大だった国」が他国に一方的に次々と高い関税をかけて世界経済に大きな悪影響を及ぼしています。また「かつて偉大だった国」は不法移民や密入国者を阻止するために非常に厳しい対策を導入して近隣諸国などに大きな波紋が広がっています。そして地球上のあちこちでは相変わらず「戦争」のために一般市民が次々と命を落としています。関税、不法移民、そして戦争…。もしもこれらの深刻な問題を自分だったら「24時間以内」に解決してみせるなどと主張するような「大風呂敷」を広げる人間が出てきたとしたら、あなたはいったいどのように思うでしょうか? もちろんさすがに「24時間以内」にそれらの深刻な問題をすべて解決することは不可能だとは思います。しかし、もしも「大胆な発想の転換」を図ることができるのならば、関税、不法移民などの深刻な問題をまとめて解消することができる「魔法のような方法」を思いつくことができるのではないかと思います。もしも「どこかの国」が「かつて偉大だった国の51番目の州」になったとしたら…。どんなに少なくとも理不尽な関税の問題と不法移民の問題はあっと言う間に解決することができるのだろうと思います。あくまでも一般論ですが、同じ「かつて偉大だった国」の中にある「カリフォルニア州」と「テキサス州」の間に「関税」などは存在するのでしょうか? また同じ「かつて偉大だった国」の中にある「カリフォルニア州」と「テキサス州」の間に不法移民や密入国者の問題は存在するのでしょうか? さらに言えば、「かつて偉大だった国」の国内でミサイルやドローンによる攻撃、空爆などによって命を落とす一般市民は存在するのでしょうか? そのように考えるのならば、もしかするとそう遠くない将来までの間に「かつて偉大だった国の51番目の州」になることを公約に掲げて選挙で当選して大統領などになるような人間たちが国際社会の中に何人か出てきたとしてもそれほど不思議なことではないのかもしれないと思います。何にしても「かつて偉大だった国の51番目の州」になるということが多くの深刻な問題をまとめて解決するための「魔法のような方法」になると期待する人間たちも出てくるかもしれないわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『何者』か になったという 人間が 困ったことを 次々起こす!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「何者」という言葉が大好きな人たちが少なくないようです。「まだ何者でもなかった」とか「何者かになる」とか…。もちろん「何者」かになりたいなどと思うことは必ずしも悪いことではないのです。しかし、今現在の地球上には「何者かになったつもりになっている人間たち」や「何者かになりたい人間たち」によって様々な深刻な問題が引き起こされているのです。 あくまでも一般論ですが、もしもまだ「何者」でもない誰かがある日突然「大統領」や「内閣総理大臣」の「肩書」を手に入れることができたとしても、その「肩書」を手に入れた瞬間からすぐに「大統領」や「内閣総理大臣」としての仕事を十分にこなすことができるとは限らないのです。「肩書」があっても「大統領」や「内閣総理大臣」としての仕事ができるだけの十分な能力が備わっているとは限らないわけです。彼・彼女は指導者や経営者の「器」ではないなどという言い方をすることもあります。もちろん人間というものは「器」の大きさに合わせて成長するということもあるとは思います。しかし、それでもやはり、「肩書」を手に入れるということとその「肩書」にふさわしい能力を手に入れるということとは同じことではないのです。くどいようですが、もちろん今の時代は「画像生成AI」などを使えばどこの誰であったとしても画像上ではすぐに「何者」にでもなることができるのです。「ローマ教皇」であれ、「米国大統領」であれ、「有名アーティスト」であれ、「有名アスリート」であれ、誰でもすぐになりたいものになることができるわけですが、それはあくまでも画像上の話なのです。繰り返しになりますが、今現在の地球上には「何者かになったつもりになっている人間たち」や「何者かになりたい人間たち」によって様々な深刻な問題が引き起こされているのです。「何者かになったつもりになっている人間たち」や「何者かになりたい人間たち」には「何者」にふさわしい能力があるのでしょうか? その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「100%の関税」を課せば「大統領にふさわしい能力を持った人物」しか「大統領」の「肩書」を手に入れることができなくなるのならば、「100%の関税」も人類共通の利益を守るための有力な選択肢の1つにはなるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『何者』か になったらしい 人間は 『肩書』だけで 『中身』はないか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「何者」という言葉が大好きな人たちが少なくないようです。「まだ何者でもなかった」とか「何者かになる」とか…。もちろん「何者」かになりたいなどと思うことは必ずしも悪いことではないのです。しかし、今現在の地球上には「何者かになったつもりになっている人間たち」や「何者かになりたい人間たち」によって様々な深刻な問題が引き起こされているのです。 あくまでも一般論ですが、「『何者』かの肩書」を手に入れて「自分が『何者』かになったような気になっている人間たち」は本当にその「『何者』かの肩書」にふさわしいだけの実力を兼ね備えているのでしょうか? もしかすると「『何者』かの肩書」だけがあって実際の「中身」はほとんど何もなくて「空っぽ」に近い状態なのでしょうか? 例えば、「MV(→ミュージックビデオ)の再生回数が何億回」であったとしても、有名なヒットチャートなどで「何週連続1位」になったとしても、あるいは、「記録的な観客動員数」になったとしても、どこかの国やその時代を代表するアーティストであるなどと本当に言うことができるのでしょうか? いくら「有名アーディスト」などの「肩書」があってもそれで自分たちの楽曲やパフォーマンスなどでどこかの国やその時代の多くの人たちをどれほど長くどれほど深く感動させ続けることができるのかは定かではないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、もちろん「画像生成AI」などを使えばどこの誰であったとしても画像上ではすぐに「何者」にでもなることができるのです。「ローマ教皇」であれ、「米国大統領」であれ、「有名アーティスト」であれ、「有名アスリート」であれ、誰でもすぐになりたいものになることができるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「今はまだ 『何者か』にも なってない? 何をするため 『何者』になる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「何者」という言葉が大好きな人たちが少なくないようです。「まだ何者でもなかった」とか「何者かになる」とか…。もちろん「何者」かになりたいなどと思うことは必ずしも悪いことではないのです。しかし、今現在の地球上には「何者かになったつもりになっている人間たち」や「何者かになりたい人間たち」によって様々な深刻な問題が引き起こされているのです。 もちろん将来のある若い人たちがいつかは自分自身の「夢」を実現したいと望みながら「今はまだ何者でもない」とか「何者かになりたい」などと言っているのは悪いことではないと思います。むしろ将来のある若い人たちがそんなことを言うのはとても素敵なことではないかと思います。しかし、それでもやはり、そもそも自分が「何者」かになって何をしたいのかということもよく分かっていない人間たちの言っている「『何者』かになる」という言葉ほど「欲にまみれた醜い言葉」はなかなか存在しないのではないかと思います。もしも「『何者』かの肩書」を手に入れること以外には特にやりたいことがないという人間たちがあまりにも多くなれば、社会の中には何かの「偽者」ばかりがあふれてしまうことになってしまいます。もちろん「画像生成AI」などを使えばどこの誰であったとしても画像上ではすぐに「何者」にでもなることができるのです。「ローマ教皇」であれ、「米国大統領」であれ、「有名アーティスト」であれ、「有名アスリート」であれ、誰でもすぐに画像上ではなりたい「偽者」になることができるわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『客』見れば その『店』のこと よく分かる? 『ファン』や『支持者』は 『鏡』になるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。相変わらず地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせる出来事が発生しています。しかし、そもそも多くの人たちを騒がせていることは本当に「事実」なのでしょうか? 地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせている出来事が「事実」とは無関係に独り歩きをしているようですが…。 あくまでも一般論ですが、もしもどこかの「店」のことを良く知りたいと思ったらその「店」にやって来る「客」を見るといいなどと言われることがあります。確かにその「店」の「常連客の顔ぶれ」にはその「店」の特徴がよく表れているのだろうと思います。そして同じように考えるのならば、タレントやアーティストなどの「ファン」はある意味でそのタレントやアーティストなどの「鏡」になっているのかもしれないと思います。また政党や候補者などの「支持者」はある意味でその政党や候補者などの「鏡」になっているのかもしれないということに気づくのではないかと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「ビフじいさんのような人」が「店主」を務める「店」には「ビフじいさんのような人に似ている人たち」や「ビフじいさんのような人の言うことをすべて信じる人たち」ばかりが集まってくるのならば、都合の悪いことはすべて前任者のせいで自分は成果だけを次々と上げているなどという「神話」が独り歩きしても少しも不思議ではないわけですが…。しかし、それでもやはり、一部の熱狂的な支持者たちが信じ込んでいる「神話」は「事実」ではないのです。何にしても最近は地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせている出来事が「事実」とは無関係に独り歩きをしているようです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『不倫』なら どんな『証拠』が 必要か? 『証拠』ないまま 既成事実化?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。相変わらず地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせる出来事が発生しています。しかし、そもそも多くの人たちを騒がせていることは本当に「事実」なのでしょうか? 地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせている出来事が「事実」とは無関係に独り歩きをしているようですが…。 あくまでも仮定の話ですが、もしもどこかの誰かと誰かに「不倫」の疑惑があるということを示そうと思うのならば、いったいどんな「証拠」が必要になるのでしょうか? 本当に誰かと誰かのいわゆる「ツー・ショット画像」があればいいのでしょうか? もちろん「少なくともどちらか一方が別の誰かと結婚している2人」のキスシーンなどのような決定的な「ツー・ショット画像」があれば「不倫」の疑惑を示すことができるのだろうと思います。しかし、もしも親しい友人関係ならそれほど珍しくない種類の「ツー・ショット画像」しか存在しない場合には、恋人や配偶者でもない第三者が「不倫」の疑惑を主張するのにはかなり無理があるはずなのです。例えば、もしも「ツー・ショット画像」が「少なくともどちらか一方が別の誰かと結婚している2人」が「不倫」を強く疑わせる「ホテル」などの特別な場所に入っていくようなものであるのならば、その「ツー・ショット画像」があれば「不倫疑惑」の「証拠」として示すことはできるのだろうと思います。あるいは、もしも「少なくともどちらか一方が別の誰かと結婚している2人」が毎日のように自宅ではない同じ場所に入っていくことを示す一連の「ツー・ショット画像」があるのならば、その場合にも「不倫疑惑」の「証拠」として示すことができるのかもしれないと思います。しかし、もしも「少なくともどちらか一方が別の誰かと結婚している2人」が「不倫」をすることも不可能ではないが「不倫」ではない別の何かをしている可能性も高い場所に入っていくような「ツー・ショット画像」である場合には、どんなに少なくとも「不倫疑惑」を示す決定的な「証拠」にはならないわけです。さらに言えば、もしも一緒に入っていったその場所に実は友人や家族などが既にいた場合には「不倫疑惑」は自然に解消する可能性が高いわけですが…。いずれにしても地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせている出来事が「事実」とは無関係に独り歩きをしているようです。繰り返しになりますが、もしもどこかの誰かと誰かに「不倫」の疑惑があるということを示そうと思うのならば、いったいどんな「証拠」が必要になるのでしょうか? 「不倫」や「不倫疑惑」を示す「証拠」が実は存在しないのにもかかわらず、どういうわけか「不倫」や「不倫疑惑」が既成事実化してしまうのはとてもおかしな話です。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『密会』か? その『目的』は 何なのか? 実は『誰か』も 一緒にいたか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。相変わらず地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせる出来事が発生しています。しかし、そもそも多くの人たちを騒がせていることは本当に「事実」なのでしょうか? 地球上の様々な場所で様々な形で多くの人たちを騒がせている出来事が「事実」とは無関係に独り歩きをしているようですが…。 あくまでも仮定の話ですが、もしも「密会」が実際に行われたということを示そうとする場合にはいったい何が必要になるのでしょうか? いわゆる「ツー・ショット画像」のようなものが存在すれば2人が会っていたことを示すことはできるのだろうと思います。それでは、もしも「密会」が行われたことが事実であったとしても、その「目的」はいったい何なのでしょうか? いわゆる「ツー・ショット画像」だけでは2人の「密会」の「目的」が分からないことも少なくないのです。さらに言えば、もしかすると2人が「密会」した場所にいたのは2人だけではないのでしょうか? その場所に実は他の誰かも一緒にいたのでしょうか? 例えば、もしもどこかの「非常に厳かな広い空間」の中で不自然なほど近づけられて置かれた2つのイスに座った「大柄の男」と「小柄な男」が顔を寄せ合って見つめ合っていたとしたら…、本当にそれだけで「不倫疑惑」などが浮上することになるのでしょうか? さすがにそんなことはないはずです。ちなみに「非常に厳かな広い空間」の中には「大柄の男」と「小柄な男」の間の仲介役を務めたとみられる2人以外にもたくさんの人たちがいたわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「米国の 『ヒト』『モノ』『カネ』が 実際に ウクライナには どれだけ入る?」-。 ウクライナと米国が4/30(日本時間5/1)にウクライナ国内の鉱物資源開発に関する協定に署名しました(→ウクライナと米国がそれぞれ50%ずつを出資して共同で運営する「復興投資基金」を設立してウクライナ国内の鉱物資源・石油・ガスの採掘や関連するインフラなどに投資するなどという内容だと伝えられている。またウクライナの領土や領海にあるすべての資源の所有権はウクライナにあるということも確認したという。ちなみに鉱物資源開発に関する協定は米国のトランプ大統領らとウクライナのゼレンスキー大統領が2/28にホワイトハウスで激しく口論したときに署名される予定だったが、それから合意・署名が先延ばしになっていた(→参考:2025/2/25付、2025/3/3付etc.))。 率直に言わせてもらうのならば、米国からどれだけの「ヒト」「モノ」「カネ」が実際にウクライナに入ってくることになるのかによってこの「協定」の価値や意味が大きく変わってくると考えています。繰り返しになりますが(→参考:2025/2/25付etc.)、例えば、もしも「協定」によって米国から「カネ」だけではなく、実際に多くの米国人がウクライナの各地に居住して米国の「動産」がウクライナの各地に大量に持ち込まれることになるのならば、世界最大規模の軍事大国である米国は、中長期的なウクライナの「安全の保証」に大きな関心を持って関与せざるを得なくなるのです。言い換えれば、米国の大統領がウクライナに対する攻撃を米国と米国民に対する攻撃とみなすことも十分にできる状況になるわけです。ロシアによる侵略が続くウクライナに実際に米国から「ヒト」「モノ」「カネ」がどれだけ入ってくることになるのでしょうか? もしも米国から多くの「ヒト」「モノ」「カネ」が実際にウクライナに入ってきた場合には、少なくともロシア側はウクライナのインフラや民間施設に対する攻撃を行うことがかなり難しくなってくると思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『弱者』でも 『強者』に勝てる 『選択肢』! 『国連』なども 『スイミー』になる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」はそう遠くないうちに少しは変わることができるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 「ビフじいさんのような人」に振り回されている国際社会はこのまま「弱肉強食」の世界に向かっていくのでしょうか? やはり「弱者」は「強者」に勝つことはできないのでしょうか? 「弱者」でも「強者」に勝つことができるような「選択肢」をつくり出すことは本当にできないのでしょうか? 例えば、共通の目的のために「小さな国」がたくさん集まって協力して一緒に行動することができるのならば、まるで「1つの大きな国」のようになることができる…。ちなみに日本では一部の小学2年生の国語の教科書に長年掲載されていたこともあって「スイミー (レオ・レオニ(Leo Lionni)著、谷川俊太郎訳)」の話を知っているという人たちは今でも少なくないと思います。小さな魚たちが集まって協力して一緒に泳いで大きな魚のようになれば…。例えば、もしも「スイミー」のような話を、大きな国も小さな国も強い国も弱い国も一緒になっている今現在とこれからの国際社会の中で実現することができるのならば、「弱者」でも「強者」に勝つことができて「弱肉強食」ではない国際社会をつくることができるのではないかと考えているのです。そして「国際連合」のようなものが「弱者」でも「強者」に勝つことができる「選択肢」の1つになるのではないかと考えています。今現在の「国際連合」を努力してなんとか育てていくことができればやがて「スイミー」のようなものにすることができるのでしょうか? それとも今現在の「国際連合」とは別の完全に新しい国際的な組織をつくっていかなければ国際社会は「弱肉強食」の世界になってしまうのでしょうか? きょうのところはあえてそのような疑問を投げかけるだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『弱者』でも 負けないために どうするか? 『強者』もただで 済まないならば…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」はそう遠くないうちに少しは変わることができるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 あくまでも一般論ですが、「弱者」は「強者」に負けてすべてを奪われてしまうようなことを避けることはできるのでしょうか? たとえ「弱者」であっても「強者」に負けないようにすることはできるのでしょうか? 例えば、もしも「強者」が「弱者」を打ち負かして何かを奪い取ろうと思ったとしても、実際に奪い取ろうとしたり奪い取ったりしたときにはほぼ確実に「強者」もただで済まされないという何らかの事情があるのならば、「強者」も思いとどまる可能性が高まるのではないかと思います。ほとんどの自由で民主的な社会においては、「強盗」などは警察などによって逮捕されてほぼ確実に処罰されることになるはずです。それでも「強盗」などは完全にはなくならないわけですが…。さらに言えば、もしも「強盗」などに襲い掛かられた場合であっても「強力な護身用の武器」を持っていれば自力で「強盗」に反撃して被害を避けることもできるのだろうと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、国際社会には自由で民主的な社会の警察などと同じような役割を果たすことができる「実力組織」は存在しないのです。さらに言えば、国際社会の場合には「軍事大国」の侵略から自分たちの国を守るための「強力な護身用の武器」として思い浮かべることができるのは実際に使用した場合には地球上のすべての人たちに甚大な被害を与える危険性が非常に高いものぐらいしかないわけです。あえて率直に言わせてもらうのならば、もしも国際社会が「弱肉強食」の世界になっていくのならば、核兵器を開発して保有しようと試みる「弱小国」がどんどん増える危険性が高まることになります。さらに言わせてもらうのならば、もしも核兵器を保有しようとする「弱小国」が増える危険性が高まるのならば、「核兵器を保有する潜在的な能力を持っている国」も自国を守るために核兵器の保有を真剣に検討せざるを得ない状況になってしまうのです。このまま本当に国際社会を「弱肉強食」の世界にしてもいいのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「もしかして 『グリーンランド』や 『運河』など 奪い取ったら 認めてほしい?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」はそう遠くないうちに少しは変わることができるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 あくまでも一部報道によればという話ですが、米国側が、ロシアが侵略して占領しているウクライナの領土の実効支配を認めたりクリミアの領有権について法的に承認したりする内容の和平案を示しているなどと伝えられています。国際社会では「フェイクニュース」ではないかと思わず自分の耳を疑ってしまったという人たちも少なくなかったのではないかと思います。もしもこれが事実であるとしたら、あまりにも愚かな提案だと言わざるを得ないのです。もしも「ある大国」が隣国を侵略してその領土を奪い取ったときに「別の大国」がそれを承認するなどということになるのならば、それは大昔に「列強」が次々と「植民地」をつくっていったときと実質的に同じような状態になってしまうはずです。「ある大国」が「弱者」から何かを奪い取るのを「別の大国」が黙認したり承認したりし、逆に「別の大国」が「弱者」から何かを奪い取るのを「ある大国」が黙認したり承認したりする…。想像力が非常に豊かな人たちは、もしかすると自分たちが「グリーンランド」や「パナマ運河」などを奪い取ったときに認めてほしいからそんな愚かなことを言い出したのではないかなどと想像しているのかもしれないと思います。その上で、念のために確認しておきますが、仮に「大国」に奪い取られた自国の領土を軍事力で取り戻すことが不可能だったとしても、だからと言って本当に諦めなければならないのでしょうか? もしも「強者」が奪い取ると「弱者」が諦めてしまうのならば、「強者」はますます遠慮なく「弱者」から領土を含めた様々なものを奪い取っていくことになるのだろうと思います。あえて言い換えれば、「強者」が奪い取ると「弱者」が諦めたり「他の強者」がそれを認めたりするということは、今現在の国際社会を「弱肉強食」の世界にすることを意味することになるはずなのです。国際社会を「弱肉強食」の世界にしたら最終的にどのような結末を迎えることになるのかということは人類の歴史を少し振り返ってみるだけでもすぐに想像することができるはずですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「有権者! 『カネ』が欲しいか? そらやるぞ! みんなで仲良く 食べに来い?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」のことを本気で理解したいと思うのならば、いったい何が必要になるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 率直に言わせてもらうのならば、「ビフじいさんのような人」が大好きな人間たちの中には目先の「カネ」が大好きな人間たちが非常に多いのではないかと思います。減税、雇用対策、物価高対策などなど…。まずは「ビフじいさんのような人」を支持している人間たちの中に目先の「カネ」が大好きな人間たちがどれだけ多くいるのかを確認してみる必要がありそうです。もちろん「カネ」が大好きな人間たちは地球上のほとんどの場所でも珍しくないと思います。そして実際に地球上の多くの場所の有権者にも減税や雇用対策や物価高対策などという目に見えやすい目先の「カネ」の話はとても魅力的なものになるのだろうと思います。しかし、残念ながら、目に見えやすい「減税」「雇用対策」「物価高対策」などを行った場合に見えないところでどのような悪影響があるのかということを真剣に考えてみることができる人間たちはそれほど多くはないのです。彼・彼女たちの関心は「今」「ここ」「自分」だけと言ってもいいのです。多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、選挙で当選したい人間たちは有権者に目先の「カネ」をばらまこうとし、目先の「カネ」に目がない有権者がそれに群がるという「醜い光景」が地球上のあちこちで見られることになるのだろうと思います。まるで目先の「カネ」が欲しいのなら「みんなで仲良く食べに来い」などと言っているかのようですが…。さらに言えば、もしも地球上のあちこちにそうした目先の「カネ」に群がる有権者が多くいるのならば、地球上のあちこちに「ビフじいさんのような人」が新たに出現する危険性も小さくないということになってしまうわけです。「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『ライバル』が 『白』と言ったら 『黒』と言い 『左』に行けば 大きく『右』に?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」のことを本気で理解したいと思うのならば、いったい何が必要になるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 あくまでも一般論ですが、どうも「ビフじいさんのような人」は「前任者」や「ライバル」とは「正反対」のことを行う傾向があるようです。「前任者」や「ライバル」が「白」と言っていたのならば、自分は「黒」と言い、「前任者」や「ライバル」が「左」に進んでいたのならば、自分は大きく「右」に旋回する…。しかし、「前任者」や「ライバル」の「正反対」のことをしていれば本当に「正解」になるのでしょうか? 言い換えれば、本当に「前任者」や「ライバル」はすべて間違っていたのでしょうか? 残念ながら世の中はそれほど単純にはできていないはずなのです。どんなに少なくとも「白」の「反対」は「黒」、「左」の「反対」が「右」などというレベルでしか物事を判断することができない人間たちに「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などということを実現することを期待することはできないのです。その上で、さらに言わせてもらうのならば、そもそも本当に「白」の「反対」は「黒」なのでしょうか? そもそも本当に「左」の「反対」は「右」なのでしょうか? そもそも「反対」とか「正反対」とか「逆」とはいったいどういうことなのでしょうか? いずれにしても世の中は誰の目にも分かりやすく単純にはできていないということなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「もしかして 『かまってちゃん』と いうことか? 人騒がせな 困った人は…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」のことを本気で理解したいと思うのならば、いったい何が必要になるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 ちなみにどこかの国で一昔前によく使われていた「かまってちゃん」などという言葉はまだ「死語」にはなっていないのでしょうか? 支持者などからチヤホヤされたくて人騒がせな困った言動を繰り返すとか…。もしかすると「ビフじいさんのような人」は「タリフマン」というよりもいわゆる「かまってちゃん」なのかもしれないと思うことがあります。もしも「ビフじいさんのような人」が本物の「タリフマン」などであったのならば、きっと「関税」をもう少し思慮深く課したのではないかと思いますし、ひとたび発動した「関税」措置をすぐに撤回するなどということもおそらくなかったのではないかと思います。そのように考えるのならば、世界中を大混乱に陥れている人騒がせな困った人である「ビフじいさんのような人」は「タリフマン」ではなく「かまってちゃん」ということになるのではないかと思います。もしも「ビフじいさんのような人」がいわゆる「かまってちゃん」であるのならば、いったいどのように対応するべきなのでしょうか? 本当にいわゆる「かまってちゃん」の人騒がせな困った言動にいちいち反応しなくてはならないのでしょうか? もちろん「かまってちゃん」の言動を完全に無視してはならないのだろうと思います。もしも「かまってちゃん」の言動を完全に無視すれば、相手にされるまで困った言動を「エスカレート」させる危険性が高まるかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、いわゆる「かまってちゃん」の人騒がせな困った言動のすべてに反応しなければならないということにはならないはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『クリミア』を 諦めたなら 『ニューヨーク』 『フロリダ』などを 代わりにくれる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが世界中を大混乱に陥れている「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」のことを本気で理解したいと思うのならば、いったい何が必要になるのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」に振り回されることにもう耐えられなくなっている人たちは少なくないとは思いますが…。 あくまでも一般論ですが、もしもロシアよりもウクライナを説得することの方が難しいということが事実であるのならば、それは、客観的に見れば、「提案」がロシアには受け入れやすくてもウクライナにはとても受け入れられるような内容ではないということを意味しているにすぎないのではないかと思います。別の言い方をすれば、もしもどこかに問題や責任があるということになるのならば、そうした「提案」の内容やそうした「提案」をした人間たちに問題や責任があるということになるのです。さらに言えば、もしも「カード」を持たない側が黙っていなければならないのだとしたら、少しも黙っていない「ビフじいさんのような人」はいったいどんな素晴らしい「カード」を持っているのでしょうか? 例えば、もしも「クリミア」を諦めるのならば、その代わりに「ニューヨーク」や「フロリダ」を与えるなどという「カード」があったのならば、もしかすると交渉は急展開を見せる可能性があったのかもしれないと思います。繰り返しになりますが、「ビフじいさんのような人」はいったいどんな素晴らしい「カード」を持っているのでしょうか? その上で、あくまでも念のために確認しておきますが、「グリーンランド」や「カナダ」は「クリミア」などを諦めさせるための「カード」としては使うことができないはずなのです。いずれにしても「ビフじいさんのような人」には「支援」を一方的に引き上げて「契約書」には書かれていない「血」を「一滴」でも流すようなことは許されていないはずなのです(→参考:2025/3/19付etc.)。きょうのところはあえてそのことを繰り返し強調しておくことにしておきます。 ======================================= 「選ぶなら 『大きなピザ』を 選ぶのか? 『小さなピザ』で 構わないのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」と話をしなければならなくなったとしたら、いったいどんな話をするのでしょうか? やはり「ビフじいさんのような人」が喜んでご機嫌が良くなるような話だけをするのでしょうか? そしてその場しのぎの「ディール」や「ビジネス」の話をすることになるのでしょうか? もしも私が「ビフじいさんのような人」と話をしなければならなくなったとしたら、まずは「大きなピザ」と「小さなピザ」の話をしてみることになるかもしれないなどと想像しています。ちなみに「ビフじいさんのような人」は「ピザ」は好きなのでしょうか? もしも「ビフじいさんのような人」に「ピザ」の話をしたら興味を持つことになるのでしょうか? もしも「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を実現して再び「偉大な国」にすることができたとしても、そもそも「世界」が以前よりもはるかに小さなものになってしまっている場合には、その「はるかに小さくなった世界」の中で「偉大な国」になったとしてもそれは以前と比べればはるかに大きく見劣りした「偉大な国」にすぎないのです。あえて「ピザ」で説明するのならば、かつては「大きなピザ」の中の「大きな一切れ」であった「偉大な国」が、いくら「ずっと小さくなったピザの大部分」を力づくで奪い取ったとしても再び「偉大な国」になったなどとはとても言えないのです。もしも「ピザ」を今現在よりもはるかに大きなものにすることができるのならば、たとえ「同じ割合のままの一切れ」であったとしても「一切れ当たりの量」ははるかに大きくなるのです。逆に、もしも今現在よりも「はるかに小さなピザ」になってしまったら、「はるかに小さなピザ」をまるごと奪い取ったとしても以前よりもずっと少ない量にしかならないかもしれないのです。「ビフじいさんのような人」は「大きなピザ」と「小さなピザ」のどちらを好むのでしょうか? 「タリフマン」が大活躍して「関税」をかければかけるほど「世界」という「ピザ」はどんどん小さくなっていくということに本当に気づいていないのでしょうか? 繰り返しになりますが、「ビフじいさんのような人」は「大きなピザ」と「小さなピザ」のどちらを好むのでしょうか? きょうもあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「本当に その場しのぎの 『ディール』など する意味はある? 賢明でない!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」と話をしなければならなくなったとしたら、いったいどんな話をするのでしょうか? やはり「ビフじいさんのような人」が喜んでご機嫌が良くなるような話だけをするのでしょうか? そしてその場しのぎの「ディール」や「ビジネス」の話をすることになるのでしょうか? もしも私が「ビフじいさんのような人」と話をしなければならなくなったとしても、その場しのぎの「ディール」や「ビジネス」の話だけは絶対にしないだろうと想像しています。率直に言わせてもらうのならば、いくら「ビフじいさんのような人」との間で「ディール」や「ビジネス」を成功させることができたとしても、結果的にどちらとも期待したような利益を得ることができない危険性がかなり高くなるのです。たとえ「どこかの国」が「最優先」で「ビフじいさんのような人」との間で「ディール」や「ビジネス」を成立させることができたとしても、「国際社会のその他の多くの国々」が「ディール」や「ビジネス」を成立させることができないままであるのならば、その悪影響は様々な形で「かつて偉大だった国」と「どこかの国」にも及ぶのです。「かつて偉大だった国」も「どこかの国」も「国際社会のその他の多くの国々」と活発に経済的な取引をしているわけですから、「国際社会のその他の多くの国々」の経済の低迷の悪影響を受けることになるはずなのです。あえて言い換えるのならば、たとえ「どこかの国」がその場しのぎの「ディール」や「ビジネス」を成立させて「関税」を元通りにすることができたとしても、「かつて偉大だった国」の経済が低迷しているのならば輸出や売り上げが元通りにはない危険性が高いのです。そしていくら「かつて偉大だった国」が「非関税障壁なるもの」を撤廃させたとしても、「どこかの国」の経済が低迷していたら輸出が少しも増えなかったとしても不思議なことではないのです。その場しのぎの「ディール」や「ビジネス」を成立させて「関税」を元通りにしたり「非関税障壁なるもの」を撤廃したりする意味は本当にあるのでしょうか? どんなに少なくとも「ビフじいさんのような人」が喜んでご機嫌が良くなるような話だけをしたりその場しのぎの「ディール」や「ビジネス」の話だけをしたりすることは賢明ではないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「ご機嫌を 損ねぬような 話だけ? どんな話を するべきなのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などという言葉や「関税」が大好きな「ビフじいさんのような人」と話をしなければならなくなったとしたら、いったいどんな話をするのでしょうか? やはり「ビフじいさんのような人」が喜んでご機嫌が良くなるような話だけをするのでしょうか? そしてその場しのぎの「ディール」や「ビジネス」の話をすることになるのでしょうか? あくまでも一般論ですが、もしも「ビフじいさんのような人」に向かって「説教みたいな話」をしてしまったのならば、最悪の場合には、テレビカメラの前で口論をするような「非常に見苦しい状況」になってしまうのだろうと想像することができます。それでは「ビフじいさんのような人」には絶対に「説教みたいな話」をしてはいけないのでしょうか? 「ビフじいさんのような人」のご機嫌を損ねないような話だけをするべきなのでしょうか? もちろん「説教みたいな話」を避けることができるのならばそれは避けた方がいいのだろうと思います。しかし、どうしても「説教みたいな話」をしなければならないこともあるのだろうと思います。もしも「説教みたいな話」をしても相手にそれを「説教みたいな話」だと思わせないで済ますことができるのならば、「非常に見苦しい状況」に陥ることだけは避けることができるのだろうと思います。相手には「説教みたいな話」には聞こえない「説教みたいな話」とはいったいどのような話なのでしょうか? もしも相手を少しも否定することなく相手に自分から考えを改めさせることができるのならば…。例えば、「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)よりももっともっとずっと良い話がある、もっともっとずっと「偉大な国」になることができる話がある、などということにどうしたら聞く耳を持ってもらうことができるのか…。どんなに少なくても世界経済が壊滅的な打撃を受ける前にはなんとかしなければならないと強く思っている人たちは地球上にたくさんいると思いますが、きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『文革』や 『マッカーシズム』 再現か? 『MAGA』を掲げて 叫ぶ民衆…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。米国は本当に再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? 地球上には、「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆を見ていると、数十年前に数年間続いたいくつかの歴史的な事件を思い出してしまうという人たちもまだ残っているのではないかと思いますが…。国際社会が「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定による悪影響から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要になるのでしょうか? くどいようですが、米国は本当に再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? そもそも「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆の思い描いている「偉大な国」とはいったいどのような国なのでしょうか? ちなみに「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる彼・彼女たちは、例えば、「文化大革命(→「文革」)」「紅衛兵」などという言葉をこれまでに見聞きしたことは一度もないのでしょうか? もしかすると「赤狩り」「マッカーシズム」などという言葉でさえも見聞きしたことがないのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、「多数派」が暴力を含めた様々な「力」を使って自分たちの一方的な価値観を押し付けようとする動きは、本当の意味での「自由」や「民主主義」とは相容れないもののはずなのです。これから米国はいったいどのような国になっていくのでしょうか? 「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆は本当に米国を再び「偉大な国」にすることができるのでしょうか? もしかしたら「文化大革命(→「文革」)」「紅衛兵」「赤狩り」「マッカーシズム」などが再現されることになってしまうのでしょうか? いずれにしても「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)などというものが人類全体の長い歴史の中でどのような意味を持っていたなどと判断することになるのは後世の歴史研究者などになるわけです。何度も繰り返していますが、もしかするとそう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などをホワイトハウスなどに送り付けるような平和的な抗議運動も地球上のあちこちで活発になってくるのかもしれないと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「米国は 『知性』を捨てて 本当に 『偉大な国』に なっていけるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。米国は本当に再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? 地球上には、「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆を見ていると、数十年前に数年間続いたいくつかの歴史的な事件を思い出してしまうという人たちもまだ残っているのではないかと思いますが…。国際社会が「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定による悪影響から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要になるのでしょうか? 繰り返しになりますが、米国は本当に再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? そもそも「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆の思い描いている「偉大な国」とはいったいどのような国なのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、彼・彼女たちの思い描く「偉大な国」にはいったいどのくらいの「知性」が残されているのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、本物の「知性」というものは、「カネ」の力を使えば簡単に手に入れたり身につけたりすることができるものではないはずなのです。また本物の「知性」というものは、「カネ」の力を使えば簡単に捻じ曲げることができるという性質のものでもないはずなのです。しかし、それでもやはり、「個人単位」ではなく「国家単位」で見るのならば、「カネ」がないところからは「知性」が逃げ出し、「カネ」があるところに「知性」 が集まってくる傾向があるのです。また「個人単位」ではなく「国家単位」で見るのならば、「カネ」の力を使って「知性」の「方向性」を比較的簡単に捻じ曲げることができるのです。例えば、もしも米国の「仮想敵国」である専制主義国家や独裁国家が破格の待遇を提示して世界中から優秀な研究者を集め、軍事技術を飛躍的に向上させることができる特定分野の研究に莫大な研究費を投入しているのにもかかわらず、米国が研究者の人件費や研究費を次々と削減し続けても再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? あえて言い換えれば、米国は「知性」を捨てても本当に「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? 再び「偉大な国」になることができたとしてもできなかったとしても「戦争」という現実の世界では「仮想敵国」によって木っ端みじんに打ち砕かれてしまう危険性が極めて高くなるはずなのです。もしかするとそう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などをホワイトハウスなどに送り付けるような平和的な抗議運動も地球上のあちこちで活発になってくるのかもしれないと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「米国は ますます『自由』 失って 『偉大な国』に なっていくのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。米国は本当に再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? 地球上には、「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆を見ていると、数十年前に数年間続いたいくつかの歴史的な事件を思い出してしまうという人たちもまだ残っているのではないかと思いますが…。国際社会が「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定による悪影響から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要になるのでしょうか? 米国は本当に再び「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? そして米国が再び「偉大な国」になるためには本当に「自由」を失っていく必要があるのでしょうか? 今現在の米国は本当に自由な国なのでしょうか? 少なくとも今現在の米国は最近の20-30年間の中では最も「自由」や「寛容さ」を失っているように見えます。かつて偉大だった時代の米国は「自由の代名詞」のような国だった記憶が残っているのですが…。そもそも「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」(→「MAGA」)を掲げて叫んでいる民衆の思い描いている「偉大な国」とはいったいどのような国なのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、彼・彼女たちの思い描く「偉大な国」とは、米国の「仮想敵国」にもなっている専制主義国家や独裁国家、あるいは、かつての全体主義国家のような国なのでしょうか? 「自由」を失っていけばその行き着く先は専制主義国家や独裁国家や全体主義国家になってしまうのです。これから米国がますます「自由」を失っていくことによって本当に「偉大な国」になっていくことができるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などをホワイトハウスなどに送り付けるような平和的な抗議運動も地球上のあちこちで活発になってくるのかもしれないと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「遅すぎる! 『最優先』で このペース? 先行き不安 いつまで続く?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。相変わらず米国のトランプ大統領が一方的に導入した世界のすべての国・地域を対象にした「相互関税」などのいわゆる「トランプ関税」の波紋が広がっています(→参考:2025/4/8付)。 日本とは「最優先」で交渉を進めるなどという考えを示していたトランプ大統領は4/17(日本時間)にワシントンに派遣された日本側の担当者と面会したなどと伝えられています。それにしても「最優先」とはいったいどういうことなのでしょうか? 例えば、もしも「ディール」が「不動産」などの売買契約の交渉であるのならば、相手側から「最優先」で交渉を進めるなどと言われた場合には実際に「不動産」を購入することができる可能性がかなり高くなるのだろうと思います。しかし、いわゆる「トランプ関税」は「不動産」などではないはずなのです。地球上の多くの人たちは「最優先」とはいったいどういうことを意味しているのか理解することができないのではないかと思います。「最優先」ではなく「最優遇」ならばまだ話は分かるのですが…。もしかすると日本側との交渉の予定を「最優先」で設定するということなのでしょうか? それにもかかわらず…。米側はこの90日間でディールを成立させたい? 次の閣僚級の会談を4月中に行う? 「最優先」でこんなに遅いペースで進めるつもりなのでしょうか? 本当に首脳級の協議や会談はあるのでしょうか? そもそも最終的な結論はいったいいつ出るのでしょうか? 「最優先」なのに遅すぎると感じている人たちも少なくなかったのではないかと思います。再びホワイトハウス発で世界経済が大混乱するリスクはどの程度残っているのでしょうか? 世界経済の先行き不安な状態はいつまで続くのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『我が国』や 『極東』守る ためなのか? 米国のため? 『戦略』のため?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近の国際社会は「タリフマン」が大安売りしている「関税」のために混乱が続いています。様々な基本的なことを理解することができていない「ビフじいさんのような人」がこれ以上おかしなことを言ったりやったりして国際社会を破滅的な状況に陥れないようにするためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? とりあえずしばらくの間はこちらの方からも「ビフじいさんのような人」にいくつか「ボール」を投げ続けてみたらいいのではないかと思いますが…。 どうやら最近は「同盟」にも「ディール」という発想が持ち込まれているようです(→参考:2025/3/12付etc.)。そもそも「かつて偉大だった国」の軍隊はなぜ「ある国」に駐留しているのでしょうか? 「ある国」を守るためでしょうか? あるいは「極東」を守るためでしょうか? それとも「かつて偉大だった国」の国益を追求する「戦略」などのためなのでしょうか? もちろん「条約」にはその目的が明確に書かれているわけです。そして「ある国」の安全のために必要不可欠な経費については「ある国」が応分の負担をするべきなのは言うまでもないことです。しかし、「極東」の安全のために必要不可欠な経費については、「かつて偉大だった国」の負担を「ある国」だけが肩代わりしなければならないということには決してならないはずなのです。「極東」の安全のために必要不可欠な経費については、その他の「極東」地域に存在する「かつて偉大だった国とその同盟国の軍事力」を合わせて議論しなければならないはずなのです。その上で、あえて付け加えるのならば、「かつて偉大だった国」の軍隊が「極東」の安全のためにも「ある国」に駐留することが認められているからこそ「かつて偉大だった国」は「極東」の安全のために必要な経費を大幅に節約することができているということにも注意が必要になります。さらに言えば、もしも「ある国」に駐留する「かつて偉大だった国」の軍隊がどこかの「覇権主義的な専制国家」との「覇権争い」のような国益を追求する「戦略」などのためにも「流用」されているのならば、そうした「かつて偉大だった国」の国益などを追求するために必要な経費の部分については「ある国」には一切負担する義務はないはずなのです。繰り返しになりますが、そもそも米軍はいったい何のために日本国内に駐留しているのでしょうか? もしもどうしても「ディール」を行いたいというのならば、まずは同盟関係の根幹部分を再確認した上で「ディール」を始めるべきなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『米国』を 守るためには 『基地』がいる! 大都市部にも 必要になる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近の国際社会は「タリフマン」が大安売りしている「関税」のために混乱が続いています。様々な基本的なことすらも十分に理解することができていない「ビフじいさんのような人」がこれ以上おかしなことを言ったりやったりして国際社会を破滅的な状況に陥れないようにするためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? とりあえずしばらくの間はこちらの方からも「ビフじいさんのような人」にいくつか「ボール」を投げ続けてみたらいいのではないかと思いますが…。 例えば、「ビフじいさんのような人」が「かつて偉大だった国」は「どこかの国」が軍事攻撃されたら「どこかの国」を守ることになっているのにもかかわらず、「どこかの国」の方は「かつて偉大だった国」が軍事攻撃された場合であっても「かつて偉大だった国」を守らなくてもいいというのは「不公平」などと主張しているのならば、それなら「かつて偉大だった国」も「どこかの国」のために「基地を提供してもらいたい」などと主張した上で「ディール」を行うべきなのだろうと思います(→参考:2025/3/12付)。もしも「どこかの国」が軍事攻撃されたときには「かつて偉大だった国」が「どこかの国」と共に戦い、逆に「かつて偉大だった国」が軍事攻撃されたときも「どこかの国」が「かつて偉大だった国」と共に戦うというような「相互防衛的な同盟関係」を本気で目指しているというのならば、「かつて偉大だった国」の大都市部にも「どこかの国」のための「基地」が必要不可欠になります。当たり前と言えば当たり前の話ですが、今現在も世界一の軍事大国である「かつて偉大だった国」とは違って、「どこかの国」は「核兵器」も「長距離弾道核ミサイル」も「戦略空母」も大規模な部隊を即座に遠方に派遣するような「緊急展開能力」なども一切保有していないわけですから、「かつて偉大だった国」が軍事攻撃されたことを知ってから慌ててはるか遠方の「極東」から大急ぎで駆け付けようとしても結果的に間に合わない危険性が極めて高いのです。そのような現実と日本国憲法などの制約を踏まえるのならば、「どこかの国」にできそうなことは、例えば、ホワイトハウスのすぐ近くに「どこかの国の基地」をつくって有事の際にはそこから出撃した部隊が「かつて偉大だった国」の軍隊などと共に「かつて偉大だった国の大統領」を守ることぐらいしかないかもしれないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、ホワイトハウスなどの近くに「日章旗などを掲げた広大な基地」が存在することを多くの米国民が「同盟の確かな証」であるなどと好意的に受け止めることができるのかは大いに疑問です。あえて繰り返しますが、日本の「軍事力」の現実と日本国憲法の制約などを踏まえるのならば、米国を守るためには米国内に基地が必要不可欠になるのです。そしてどんなに少なくとも「公平」あるいは「対等」な「相互防衛的な同盟関係」にするようなことは事実上不可能なのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「こちらから 『ディール』を仕掛け たらどうか? おかしなことは 言えなくなるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近の国際社会は「タリフマン」が大安売りしている「関税」のために混乱が続いています。様々な基本的なことすらも十分に理解することができていない「ビフじいさんのような人」がこれ以上おかしなことを言ったりやったりして国際社会を破滅的な状況に陥れないようにするためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? とりあえずしばらくの間はこちらの方からも「ビフじいさんのような人」にいくつか「ボール」を投げ続けてみたらいいのではないかと思いますが…。 あくまでも一般論ですが、もしもあなたの身の回りに一度しゃべり出すと勝手なことを一方的に長々と話し続けるようになる困った人たちがいて、こちらの話を聞いてもらいたいのに少しも聞いてもらえないというような場合には、いったいどうしたらいいのでしょうか? もちろん相手の話を遮った上でこちらの話を切り出すようなこともできるわけです。しかし、そのようなことをすれば、最悪の場合、公衆の面前で「みっともない口論」を繰り広げるようなことになってしまう危険性もあるわけです。例えば、「テレビの世界」では、相手が「呼吸」をしたタイミングに少し大きな声を出しながらこちらの話を切り出すというような「技」を使えば、相手が一方的に長々と話し続けることを安全に止めることができるという話もあるのです。いくら勝手なことを一方的に長々と話し続けるような困った人たちであっても、彼・彼女たちが人間である限り、「呼吸」は必ずするわけです。ですから、もしも相手が「呼吸」した瞬間にこちらから強いインパクトがあるようなことを何かを言えば、思わず相手が聞き耳を立てて、結果的に一方的に長々と話し続けることができなくなってしまう可能性があるのです。もしも「ビフじいさんのような人」が「債権はやっかい」とようやく気づいたり関税をあまりにも高く積み上げたためにさらに積み重ねるのに苦労したりしているこのタイミングにあえてこちらから「ディール」を仕掛けたならば、「You are fired!」などという類のおかしなことを叫ぶのも忘れて思わず聞き耳を立ててしまう可能性はそれほど低くはないのではないかと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『非関税 障壁』だとは みなされず? 『トランプ』いても 『ビジネス』できる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ある物が売れないということは、その物が単純に消費者が欲しくないものだからではないのでしょうか? 消費者はなぜその物が欲しくないのでしょうか? 消費者はいったい何が欲しいのでしょうか? そもそもその物が売れないということは本当に「不公平」であるということを意味しているのでしょうか? 問題を解決することができるのは「ディール」ではなく「ビジネス」なのではないかと思います。 最近は「非関税障壁」などというものが問題にされるようになっています。そして少なくとも現時点においては「かつて偉大だった国」が「どこかの国」に輸出しようとする場合の「かつて偉大だった国」の側から見た「どこかの国」の「非関税障壁」だけが問題にされているのです。しかし、「かつて偉大だった国」には「非関税障壁」は存在しないのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、「かつて偉大だった国」にも様々な「非関税障壁」が存在するのです。「かつて偉大だった国」にも様々な「非関税障壁」が存在するわけです。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて単純化して率直に言わせてもらうのならば、その「かつて偉大だった国」の「非関税障壁」の中で最大で最も深刻なものは「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」ではないかと考えています。そしてその「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」という「非関税障壁」は、「かつて偉大だった国」に対する投資を行う場合にはさらに強力な障壁となっているのです。「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」は「非関税障壁」とみなされることはないのでしょうか? 「かつて偉大だった国」では「トランプ」がいても「ビジネス」ができるのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、もしも「かつて偉大だった国」の「非関税障壁」が問題にされることがないにもかかわらず、「かつて偉大だった国」の側から見た「どこかの国」の「非関税障壁」だけが問題にされることになるのならば、それは「不公平」になるはずです。繰り返しになりますが、問題を解決することができるのは「ディール」ではなく「ビジネス」なのではないかと思います。そして「ビジネス」のためには「非関税障壁」の問題でも「不公平」であってはならないはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『自動車』と 『安いガソリン』 セットなら… 『コメ』や『オレンジ』 安く売ったら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ある物が売れないということは、その物が単純に消費者が欲しくないものだからではないのでしょうか? 消費者はなぜその物が欲しくないのでしょうか? 消費者はいったい何が欲しいのでしょうか? そもそもその物が売れないということは本当に「不公平」であるということを意味しているのでしょうか? 問題を解決することができるのは「ディール」ではなく「ビジネス」なのではないかと思います。 例えば、もしも「かつて偉大だった国」では「ある国のメーカーの自動車」が「何百万台」も売れているのにもかかわらず、「ある国」では「かつて偉大だった国のメーカーの自動車」はあまり売れていなかったとしても、それだけでは「不公平」と主張するのにはあまりにも無理があるのです。いくら「かつて偉大だった国のメーカーの自動車」が魅力的であったとしても「かつて偉大だった国」では当たり前になっている「広い道路」や「広い車庫」や「安価なガソリン」が少しも当たり前ではない「ある国」ではその魅力が激減してしまうはずなのです。もしも「かつて偉大だった国のメーカーの自動車」と5年分ぐらいの「安いガソリン」をセットで販売したのならば、「ある国」でも「かつて偉大だった国のメーカーの自動車」はもっとずっと多く売れるかもしれないとは思いますが…。さらに言えば、一昔前の「かつて偉大だった国」は「ある国」でも非常に魅力的で競争力のある「コメ」や「オレンジ」を安い価格で大量に供給することができたのだろうと思います。「コメ」や「オレンジ」が不足している「ある国」は今なら「コメ」や「オレンジ」をいくらでも売ることができるチャンスと言えるわけです。「かつて偉大だった国」は今現在も「ある国」に「コメ」や「オレンジ」を安い価格で大量に供給することができるのでしょうか? 繰り返しになりますが、ある物が売れないということは、その物が単純に消費者が欲しくないものだからではないのでしょうか? 消費者はなぜその物が欲しくないのでしょうか? 消費者はいったい何が欲しいのでしょうか? そもそもその物が売れないということは本当に「不公平」であるということを意味しているのでしょうか? 問題を解決することができるのは「ディール」ではなく「ビジネス」なのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「消費者が 欲しいものなら 売れるはず! 欲しくないから 売れないのでは?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ある物が売れないということは、その物が単純に消費者が欲しくないものだからではないのでしょうか? 消費者はなぜその物が欲しくないのでしょうか? 消費者はいったい何が欲しいのでしょうか? そもそもその物が売れないということは本当に「不公平」であるということを意味しているのでしょうか? 問題を解決することができるのは「ディール」ではなく「ビジネス」なのではないかと思います。 例えば、真夏にストーブが爆発的に売れるようなことはあるのでしょうか? もっとも真夏のはずなのに最高気温が数℃にしかならないような寒い日が続く「異常気象」の場合には、真夏でもストーブが爆発的に売れることになるのだろうとは思います。消費者が欲しいものならば売れるはずなのです。しかし、最高気温が30-40℃にもなるような通常の真夏にストーブが爆発的に売れると期待することはできないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、ストーブが売れないのは「非関税障壁」があるからなのでしょうか? もちろんそんなバカなことはないはずです。話は少し変わります。例えば、「ある国」ではどこかの国のビールやウイスキーがなかなか売れなかったとします。もしも「ある国」では多くの人たちが「ある国産のワイン」を伝統的に好んで消費してきたためにビールやウイスキーがなかなか売れなかったのだとしたら、「非関税障壁」があるということになってしまうのでしょうか? さらに言えば、もしも「ある国」では宗教上の理由や文化的な理由のためにアルコールを摂取しない人たちが大多数であったとしたら、「非関税障壁」があるということになってしまうのでしょうか? そんなおかしな話はないと思います。繰り返しになりますが、ある物が売れないということは、その物が単純に消費者が欲しくないものだからではないのでしょうか? 消費者はなぜその物が欲しくないのでしょうか? 消費者はいったい何が欲しいのでしょうか? そもそもその物が売れないということは本当に「不公平」であるということを意味しているのでしょうか? 問題を解決することができるのは「ディール」ではなく「ビジネス」なのではないかと思います。きょうのところはあえてそれらのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『経済』は 減速続く 『騒動』で! 『税率』戻り 『需要』も戻る?」-。 米国のトランプ大統領は4/9に世界のすべての国・地域に対する「相互関税」を発動しましたが、約13時間後に中国を除いて90日間停止することを発表しました(→90日間の「一時停止」は報復措置をとらずに協議を要請している国などに対して。「一時停止」はドル安、株安に加えて米国債も売られて長期金利が上昇するトリプル安になる動きを止めるため? 中国を除いて「一時停止」されたのは米国独自の一方的な基準に基づいて「算出」して地域別に上乗せした税率部分。4/5に発動されたすべての国・地域に対する10%の関税はそのまま。また4/3に発動された自動車に対する25%の関税もそのまま。なお米国と中国は互いに追加関税上乗せの応酬に (→4/10時点で米国は中国に対して合計125%(→+20%+34%+50%+21%)、中国は米国に対して84%(→+34%+50%))。参考:2025/4/8付)。 地球上の多くの場所で「朝令暮改」などという言葉を思い出している人たちは少なくないと思います。この数十日間に渡って米国のトランプ大統領による「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」が原因で引き起こされている数々の「騒動」に振り回されている人たちはかなり増えているのではないかと思います。もちろん「90日間の一時停止」で一安心しているという人たちは少なくないのだろうと思います。しかし、一連の「騒動」の少し前までは存在しなかった10%の相互関税などが新たに課されているということは疑いのない事実なのです。正しい基本的な経済知識がありさえすれば、新たな関税は米国の消費者や輸入業者にとって負担増になるということにすぐに気づくはずなのです。一般的に負担増は「需要」を減少させる効果があるのです。また多くの米国製品の部品や原材料には米国産ではないものがたくさん使われているはずなのです。つまり「輸入品」ではないように見える米国製品なども実際には相互関税などの悪影響とは決して無縁ではないのです。さらに言えば、いつ「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」が原因でまた「騒動」が引き起こされることになるのかよく分からないという先行きが不透明な状況は、「経済」を減速させる効果があると考えられるのです。もしも「ディール」などというもので合意することによって相互関税などが撤廃されて「税率」が元に戻ることになったとしても、そのときに「需要」も元に戻ることになるのでしょうか? 本当に「騒動」によって減速した「経済」がすぐに元に戻るのでしょうか? もしも「税率」が元に戻ったとしても「需要」が激減したままであるのならば「経済」の低迷は長く続くことになるはずなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『投資』して 儲かりますか? これからも? 『トップダウン』の リスクはあるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしもあなたが「かつて偉大だった国」に巨額の資金を投資して経済活動を行う「経営者」であったとしたらどうするのでしょうか? 例えば、「ビフじいさんのような人」による「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」を受けてもそれでもやはり「かつて偉大だった国」に巨額の資金を投資し続けたり新たに投資をしたりしようと考えるのでしょうか? それとも真剣に「撤退」を検討することになるのでしょうか? もしもあなたが「かつて偉大だった国」に巨額の資金を投資して経済活動を行う「経営者」だったとしたら、いわゆる「トランプ関税」対策としていったいどのようなことを考えるのでしょうか? やはり「かつて偉大だった国」に輸出しさえしなければ「トランプ関税」が課されることはないのだから、「かつて偉大だった国」の中で製品を生産して「かつて偉大だった国」の中で売ればいいと考えることになるのだろうと思います。「かつて偉大だった国」の中で製品を生産するためには、「かつて偉大だった国」の中に工場などが必要になりますし、原材料、労働者なども必要になってくるわけです。当たり前と言えば当たり前の話ですが、どんなに少なくとも工場などの設備についてはきょう投資すればあすからすぐに生産可能になるなどというような性質のものではないのです。工場などを作るのには最低でも5年はかかるなどという話もあるわけです。そういうことならば、今現在「かつて偉大だった国」の中に存在する工場などを買ってしまえば、もっと短期間で「かつて偉大だった国」の中で製品を生産して「かつて偉大だった国」の中で売ることができるようになると考えるのではないかと思います。さらに言えば、いっそのこと「かつて偉大だった国の同業他社」をまるごと「買収」してしまえば、さすがにあすから生産可能というわけにはいかないものの、さらにもっとずっと短期間のうちに「かつて偉大だった国」の中で製品を生産して「かつて偉大だった国」の中で売ることができるようになると考えるのではないかと思います。ところで「かつて偉大だった国の労働者の賃金」はどのくらい高いのでしょうか? そもそも「かつて偉大だった国」の中で製品を生産しても「かつて偉大だった国の労働者の賃金」を支払うことができるくらいの価格で「かつて偉大だった国」の中で製品を売ることができるのでしょうか? さらに言えば、「かつて偉大だった国」の中で製品を生産するために必要不可欠な原材料や部品などのすべてを「かつて偉大だった国」の中で手に入れることができるのでしょうか? またその価格はどの程度なのでしょうか? もしも「かつて偉大だった国」の中で製品を生産するために必要不可欠な原材料や部品などを輸入しなければならないのならば、いわゆる「トランプ課税」の影響をまともに受けることになってしまいます。さらに念のために付け加えておくのならば、「かつて偉大だった国の同業他社」をまるごと「買収」した場合には、「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」によってその「買収」が理不尽にも覆されてしまうリスクはどのくらいあるのでしょうか? 「かつて偉大だった国」に「投資」をして本当に儲かるのでしょうか? かつては儲かっていたとしてもこれからも本当に儲かるのでしょうか? そして「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」によるリスクはどのくらいあるのでしょうか? 繰り返しになりますが、もしもあなたが「かつて偉大だった国」に巨額の資金を投資して経済活動を行う「経営者」だったとしたら、これからも「かつて偉大だった国」に巨額の資金を投資し続けたり新たに投資をしたりしようと考えるのでしょうか? それとも真剣に「撤退」を検討することになるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『王様は 裸』とさえも 言えないか? 『鏡』は見ない? 見ても信じず?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近の国際社会にはいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などもまともに読んだことがないのに「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定を繰り返す人間たちがいるようです。国際社会の多くの人たちが「ビフじいさんのような人」による「奇想天外で致命的に誤ったトップダウンの決定」から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要になるのでしょうか? 本当に「『王様』、あなたは裸です!」などと「王様」に直接言うことができる人間すらも存在しなくなっているのでしょうか? 多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「ビフじいさんのような人」もその周辺の人間たちも本当に自分たちが「致命的に誤ったトップダウンの決定」をしたということに少しも気づいていないのでしょうか? おそらく「ビフじいさんのような人」の周辺には「致命的に誤ったトップダウンの決定」を絶対に「致命的に誤ったトップダウンの決定」であると認めようとしない人間たちばかりなのかもしれないとは思います。しかし、「ビフじいさんのような人」に彼の「致命的に誤ったトップダウンの決定」を「致命的に誤ったトップダウンの決定」であるということを教えてくれるような人たちは地球上のどこにもいないのでしょうか? 童話の世界のように「『王様』、あなたは裸です!」などと「王様」に直接言うことができる人間すらも地球上には存在しなくなっているのでしょうか? もしかすると「ビフじいさんのような人」とその周辺の人間たちは自分たちが「裸」だと言われても決して「鏡」を見ようとはしないし、仮に「鏡」を見ることがあったとしても「鏡」に写っているものを絶対に信じようとしないのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、いわゆる「トランプ関税」などは「致命的に誤ったトップダウンの決定」であると理解させなければ世界経済が深刻な危機に陥る危険性は高いままなのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「自国だけ 除外するため 交渉を? 『今』『ここ』『自分』 だけでいいのか!」-。 米国のトランプ大統領が4/2に世界のすべての国・地域に対して「相互関税」を導入することを発表しました(→すべての国・地域に対して10%の関税率を設定した上でさらに米国独自の一方的な基準に基づいて「算出」したそれぞれ異なる税率を上乗せするというもの。日本は24%。EUは20%、中国は34%、インドは26%など。ちなみに米国が独自に各国の関税率や非関税障壁を加味して「算出」したと主張する各国の「関税率」は、実はただ単に「米国のその国に対する輸出額と輸入額の差(→貿易赤字額)」を「その国の米国に対する輸出額(米国のその国からの輸入額)」で割っただけのものだという指摘が説得力を持ち始めて波紋がさらに大きくなっている)。またトランプ大統領は米国に輸入されるすべての自動車に対して25%の追加関税を課す措置を4/3から発動しました。一連のいわゆる「トランプ関税」を受けて世界各国で株価の大幅な値下がりが続いています。 率直に言わせてもらうのならば、一連のいわゆる「トランプ関税」は世界経済に非常に大きな悪影響を与えることだけは確実です。あえて極端に単純化して言えば、世界各国と活発に貿易をしている世界一の経済大国がこれだけ広範囲に渡って大幅に関税を引き上げるということは、世界一の経済大国が「自由貿易」から「鎖国に近い保護貿易」の状態にまで劇的に大きく変化してしまうということを意味することになるのではないかと思います。そのように考えるのならば、どんなに少なくとも世界経済に悪影響を与えないわけがないのです。もしも世界経済に対する悪影響を少しでも小さくしようと考えるのならば、いわゆる「トランプ関税」がまだ発動されていない場合には事前にその発動を食い止めたり既に発動されてしまった場合には可能な限り速やかに撤廃するようにしたりするということが必要になってくるわけです。しかし、もしも各国が自国の利益を最優先に考えて米国と慌てて交渉するようになるのならば、いわゆる「トランプ関税」の悪影響をそれぞれの国が負担する場合に著しく「不公平」な状態が生じてしまうことになります。「ディール」であってもなくても「交渉」というものは、「一方的に有利な立場にある側」が複数の相手を互いに競わせることによって「より大きな利益」を得ることができることもあるわけですし、逆に、複数の相手が互いに競い合うことによって「結果的に大きな利益」を得ることができることもあるわけです。ですから、もしも「今」「ここ」「自分」のことだけを考えていわゆる「トランプ関税」を発動する側に対して、同じように「今」「ここ」「自分」のことだけを考えて大急ぎでいわゆる「トランプ関税」の発動を回避したり撤廃したりしようとする側が増えれば増えるほど、「格差」や「不公平」が結果的に大きくなって世界経済全体が受けるダメージがかなり大きなものになってしまう危険性も高まるのです。「今」「ここ」「自分」のことだけを考えていわゆる「トランプ関税」を発動する側だけではなく、同じように「今」「ここ」「自分」のことだけを考えていわゆる「トランプ関税」については自国だけを除外するような交渉をしようとする側も、やはり賢明ではないと言わざるを得ないのです。もはや国際社会が「自由貿易」を目指すような時代は終わってしまったのでしょうか? 地球上の多くの人たちが互いに協力して共に利益を得るような新しい「しくみ」は見出されているのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「本当に 『今』『ここ』『自分』 だけでいい? 『殻』を破れば 『偉大』になれる!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などもまともに読んだことがないのに「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定を繰り返す人間たちまで出てきているようです。国際社会の多くの人たちが「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要なのでしょうか? 地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 そもそも「偉大」とはいったいどういうことなのでしょうか? 例えば、自分自身のことだけを考えている私利私欲にとらわれた人間は「偉大」なのでしょうか? あるいは、「今」「ここ」だけのことしか考えずに行動するような人間は「偉大」なのでしょうか? 本当に「今」「ここ」「自分」のことだけを考えていればいいのでしょうか? どんなに少なくとも「今」「ここ」で「自分」に見えているものだけを何とかしさえすれば問題を解決することができるなどということは「致命的に誤った判断」なのです。貿易や関税の問題にしても、不法移民の問題にしても、ウクライナや中東の戦争の問題にしても、地球温暖化の問題にしても…。もしかすると「今」「ここ」「自分」にはとらわれずに「今」「ここ」「自分」という「殻」を破ることができたときに「偉大」になることができるのではないでしょうか? 今現在地球上で多くの人たちが直面している多くの深刻な問題を根本的に解決することができる何かを率先して実行するということが「偉大」ということではないのでしょうか? 何度も繰り返していますが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『権力』に しがみついても 『墓場』まで 持っていけない! いずれ必ず…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などもまともに読んだことがないのに「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定を繰り返す人間たちまで出てきているようです。国際社会の多くの人たちが「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要なのでしょうか? 地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 どうやら最近は「通算2期8年まで」という任期の制限を乗り越えて何とかして「権力」にしがみつこうという動きも見えてきたように思われます。あえて率直に言わせてもらうのならば、もしも「どこかの政治指導者」が「権力」にしがみつこうとするのならば、その「指導者」はほぼ確実に「独裁者」に変身することになるのです。あえて分かりやすく言い換えるのならば、例えば、上半身裸になって釣りをしたり馬に乗ったりするカレンダーを発売して愚かな民衆の支持を集めようとしたり、国内では言論を徹底的に弾圧したり、「政敵」を外国まで追いかけて行って毒殺しようとしたりするようになったとしても少しも不思議ではなくなるのです。もしも自分の代わりに「中身のないイエスマン」を「大統領」として担ぎ上げて自分自身は「副大統領」や「首相」や「連邦議会議員・議長」として「実権」を握り、どうしても必要になった場合には大統領権限を継承するなどという「発想」が浮かんでくるようになったらもう立派に「独裁者」の仲間入りです。「独裁者」の仲間入りをするということが「偉大」になるということなのでしょうか? その上で、あくまでも念のために付け加えておきますが、いくら「権力」にしがみついたとしても、さすがに「権力」を「墓場」にまでは持っていくことはできないのです。「権力」というものはいずれ必ず奪い取られることになるのです。そしていずれ必ず…。くどいようですが、本当に「独裁者」の仲間入りをするということが「偉大」になるということなのでしょうか? 繰り返しになりますが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『弱い者 いじめ』はやめろ! 『偉大』なら… すぐに攻撃 すると脅すな!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などもまともに読んだことがないのに「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定を繰り返す人間たちまで出てきているようです。国際社会の多くの人たちが「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要なのでしょうか? 地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 どういうわけか最近は「かつて偉大だった国の大統領」が自分たちの言うことを聞かないとすぐに攻撃するなどと脅すような発言をたびたびしているようです。あえて付け加えるのならば、「かつて偉大だった国の大統領」は、どういうわけか「核兵器をたくさん持っている強そうな相手」には自分たちの言うことを聞かないと攻撃するなどと脅すようなことがないことがとても気がかりです。これでは急いで核兵器を持たなければ「かつて偉大だった国」から攻撃されてしまうなどと「致命的に誤った判断」をしてしまう「独裁国家」や「専制国家」が増えてしまいます。「偉大」であるのならば、再び「偉大」になりたいと本気で思っているのならば、「弱い者いじめ」はやめてもらいたいものです。繰り返しになりますが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「誰にでも 得意・不得意 あるものだ! 協力のため 『違い』認めろ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などもまともに読んだことがないのに「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定を繰り返す人間たちまで出てきているようです。国際社会の多くの人たちが「ビフじいさんのような人」による「奇想天外の致命的に誤ったトップダウン」の決定から「解放」されるまであとどのくらいの時間が必要なのでしょうか? 地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 当たり前と言えば当たり前の話ですが、人間というものは一人ひとり違った個性を持っているものなのです。あえて別の言い方をすれば、いくら一卵性双生児などとして生まれてきたとしても、世の中には自分と全く同じ人間は自分以外には存在しないのです。人間は一人ひとり違った個性を持っている…。そのように考えるのならば、どこの誰にでも得意・不得意というものがあるのではないかということに気づくことになると思います。たとえどれだけ能力の高い人であったとしても、ある特定分野に限定すればその人よりもずっと能力の高い人が地球上のどこかにはいるのではないかと考えられるのです。あえて言い換えれば、広い世の中のどこかには自分が不得意なことを得意にしている人たちが存在するし、逆に、広い世の中のどこかには自分が得意なことが不得意な人たちがきっと存在すると考えることができるのです。もしも多くの人たちが「自分が得意なこと」を誰かの代わりにやってあげると、誰かが代わりに「自分が不得意なこと」をやってくれるような形で協力することができるのならば、多くの人たちは苦労することが減って、それだけでもそれぞれの人たちの生活が豊かになるのです。多少の誤解を恐れずに単純化して言えば、「自由貿易」というものは、それぞれの国では簡単に手に入るモノやサービスを交換して互いに豊かになろうとする「しくみ」、それぞれ違った個性を持った人たちが国の単位で協力して豊かになろうとする「しくみ」と考えることができるのです。ですから、「ある国」と「別のある国」の間の「ある特定の分野」だけを取り上げて「不公平」などと言い出して一方的に関税を引き上げるなどというのはあまりにもバカげた話なのです。関税を引き上げれば輸入量が減少しても価格が上昇しても最終的には「消費者」から利益を奪い取るということになるのです。そもそも「不公平」かどうかということはもっとずっと大きなレベルで判断しなければならない話なのです。互いに協力して豊かになるためには安易に「不公平」などと決めつけずに「違い」を認める必要があるのです。繰り返しになりますが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『偉大』なら 同盟国を 大切に! なぜ『偉大』かを 考えてみろ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などを少し読んだだけで急に「専門家」になったような気分になってしまう勘違いした人間たちはいつの時代にもどこの場所にもいるものです。そして最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などすらもまともに読んだことがないのに「奇想天外の誤ったトップダウン」の決定を繰り返すようになる人間たちまで出現しているようです。地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 そもそも「かつて偉大だった国」はなぜ「偉大」だったのでしょうか? なぜ「覇権主義国」がどんなに盛大に「カネ」をばらまいても「かつて偉大だった国」には遠く及ばなかったのでしょうか? 「かつて偉大だった国」には、自由、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配、市場経済などといった共通の価値観で固く結ばれた「同盟国」があったからではないかと思います。しかもその「同盟国」の中には国際社会では「大国」と認識されている国がいくつも含まれていたのです。そして「かつて偉大だった国」の歴代大統領は党派の違いを越えて「同盟国」との「絆」を太くて強固なものにするために腐心してきたはずなのです。あえて言い換えるのならば、「同盟国」は「かつて偉大だった国」を「偉大」にしてきた「かけがえのない大切な資産」であるはずなのです。それにもかかわらず、「奇想天外の誤ったトップダウン」の決定を繰り返して「同盟国」という「かつて偉大だった国」を「偉大」にしてきた「かけがえのない大切な資産」の価値を暴落させたり捨て去ろうとしたりするような愚かな人間たちが出てくるとは…。もしも「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」の中に分かりやすい短い言葉で表現するのならば、「同盟国を大切に!」ということになるのだろうと思います。繰り返しになりますが、「かつて偉大だった国」はなぜ「偉大」だったのでしょうか? なぜ「覇権主義国」がどんなに盛大に「カネ」をばらまいても「かつて偉大だった国」には遠く及ばなかったのでしょうか? くどいようですが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『独裁者』 『大富豪』とか 『イエスマン』 『偉大な人』か? 友人選べ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などを少し読んだだけで急に「専門家」になったような気分になってしまう勘違いした人間たちはいつの時代にもどこの場所にもいるものです。そして最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などすらもまともに読んだことがないのに「奇想天外の誤ったトップダウン」の決定を繰り返すようになる人間たちまで出現しているようです。地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 私利私欲のために「奇想天外の誤ったトップダウンの決定」を繰り返して「隣国を侵略し続ける独裁者」、私利私欲のために「奇想天外の誤ったトップダウンの決定」を繰り返す目的で「権力に接近し続ける大富豪」、私利私欲のために「奇想天外の誤ったトップダウンの決定」を称賛する「イエスマン」など…。地球上には「友人を見ればその人のことがよく分かる」などと考えている人たちは少なくないのだろうと思います。やはり「誰かを尊敬しているという友人」の顔ぶれを見ると「誰か」が「偉大な人」にはとても見えないと思ってしまう人たちは少なくないのだろうと思います。もしも「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」の中に分かりやすい短い言葉で表現するのならば、「友人を選べ!」ということになるのだろうと思います。私利私欲のために「隣国を侵略し続ける独裁者」、私利私欲のために「権力に接近し続ける大富豪」、「イエスマン」などは本当に「友人」としてふさわしいのでしょうか? 「かつて偉大だった国」を本当に再び偉大にしたいのならば、間違った人間たちを「友人」として選んではならないのです。繰り返しになりますが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『偉大』なら 他人の物を 欲しがるな! 他人の物も 自分の物か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などを少し読んだだけで急に「専門家」になったような気分になってしまう勘違いした人間たちはいつの時代にもどこの場所にもいるものです。そして最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などすらもまともに読んだことがないのに「奇想天外の誤ったトップダウン」の決定を繰り返すようになる人間たちまで出現しているようです。地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 カナダ、グリーンランド、ガザ地区、レアアース、ザポリージャ原発など…。最近は多くの人たちが呆れて言葉を失ってしまうくらい次々と「他人の物」を欲しがる「不動産」好きの「奇想天外の誤ったトップダウンの決定」を繰り返す人間がいるようです。少なくとも自由で民主的な社会で生活している人間ならば「他人の配偶者」を欲しがるだけでも多くの人たちから軽蔑されることになるということはよく分かると思います。まして「カネ」を支払うから離婚しろなどと要求したりすれば…。さらに言えば、「他人が生まれ育って今も愛着を持って暮らしている故郷」を「不動産」として強引に「カネ」で買い取ろうとするような人間も多くの人たちから軽蔑されることになるのだろうと思います。おそらく地球上の多くの場所では「他人が大切にしている物」を欲しがる人間は「立派な大人」とは思われないのではないかと思います。もしも「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」の中に分かりやすい短い言葉で表現するのならば、「他人の物を欲しがるな!」ということになるのだろうと思います。「かつて偉大だった国」を本当に再び偉大にしたいのならば「他人の物」はあくまでも「他人の物」であって「自分の物」ではないということを絶対に見失ってならないはずなのです。世の中に「他人の物」をすぐに欲しがる人間を「偉大」だと尊敬するような人たちが本当にいるのでしょうか? 「他人の物」を手に入れるためには「カネ」を支払えばそれでいいということでもないはずなのです。繰り返しになりますが、そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『2年後』に 関税上げる 『アイディア』で 投資は増える! 『カネ』に頼るな!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。いわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などを少し読んだだけで急に「専門家」になったような気分になってしまう勘違いした人間たちはいつの時代にもどこの場所にもいるものです。そして最近はいわゆる「ハウツー本」や「トリセツ」などすらもまともに読んだことがないのに「奇想天外の誤ったトップダウン」の決定を繰り返すようになる人間たちまで出現しているようです。地球上には「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」が必要だと思っている人たちも急速に増えているような印象を受けますが…。 最近は「かつて偉大だった国の大統領」が「奇想天外な誤ったトップダウンの決定」を繰り返して「タリフマン」などに変身して「関税」を引き上げるとか引き上げないなどという騒動を引き起こし続ける事例が見られます。このままではそう遠くない将来に「トランプ恐慌」などと呼ばれることになるかもしれない「世界恐慌」を引き起こす危険性が非常に高いあまりにも愚かな行為です。当たり前と言えば当たり前の話ですが、いくら「関税」を引き上げてもそれだけでは「かつて偉大だった国の産業」が「他のどの国の産業にも負けないくらい安くて高性能・高品質な製品」を次々と作り出して復活するようなことはあり得ないのです。それにもかかわらず、あえて「関税」を引き上げて「海外の安くて高性能・高品質な製品」を締め出すことになるのならば、「かつて偉大だった国」の市場には、最悪の場合には「決して安くはないのに低性能・低品質な製品」と「高性能・高品質だけどあまり価格が高い製品」しか出回らなくなり、ただ単に「かつて偉大だった国の国民」から利益を奪い取ることになるだけの結果に終わることになるのです。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「タリフマン」が「もっとずっと賢いタリフマン」であったのならば、「関税を2年後に大幅に引き上げる」などと言っていたのではないかと思います。念のために確認しておきますが、2年後は任期もまだ2年残っているわけですから、関税が大幅に引き上げられる危険性が高いことになります。もしも2年後に関税が大幅に引き上げられる危険性が非常に高いのならば、海外から「かつて偉大だった国」に直接投資をする動きが大幅に加速するのではないかと思います。しかも投資する側は「2年」という時間的な制約のある中で急いで投資を行わなければならないわけですから「ディール」では多少の不利な条件でも受け入れざるを得ないような弱い立場に追い込まれることになっていたはずなのです。もしも「ビフじいさんのような人」にも読みやすくてよく分かる「ハウツー本」や「トリセツ」の中に分かりやすい短い言葉で表現するのならば、「『カネ』に頼るな!」ということになるのだろうと思います。「かつて偉大だった国」を本当に再び偉大にしたいのならば「関税」という「カネ」ではなく「アイディア」を使うべきなのです。そう遠くないうちに「HOW TO MAKE AMERICA GREAT AGAIN」などと書かれた分かりやすい「ハウツー本」などを探し求める動きが地球上のあちこちで活発になってくるのではないかと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「実際に 会った人なら 信じるか? そもそも『実在 する人物』か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の人たちはいったいどこまで正確に「本物」と「偽物」を区別することができるのでしょうか? 相手が自分の親や子や兄弟姉妹や恋人や配偶者などだったら「本物」と「偽物」をほぼ確実に見分けることができるのでしょうか? 生成AIなどの最新技術と膨大な情報によってでっち上げられた「ディープフェイク」などが出現し始めている今だからこそあえて一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。 もしも「ある人」が自分と「共通の趣味」などを持っていて「とても気が合う人」とSNSか何かで知り合ったとします。そして「ある人」と「とても気が合う人」は互いの顔や詳しい個人情報も知らないままSNSか何かで「共通の趣味」などの話題を何度も熱く語り合うような「間柄」になっていったとします。やがて「ある人」は仲良くなった「とても気が合う人」と「共通の趣味」関連のイベントなどで実際に会うことができたとします。実際に会うことができたといってもイベント開演直前に開演時間までのほんの少しの時間だけ…。でも、「やっと会えたね! 本当に〇〇は最高だよね! あ、もう始まる…。じゃあ、また…」などと笑顔で話しかけてすぐに去っていったその「とても気が合う人」は自分の「好みのタイプの外見」だったとします。そして実際に会ったことをきっかけに2人は毎晩長時間ビデオ通話などをするようになってますます関係を深めていったとします。さて、「ある人」が「ロマンス詐欺」とかその種のことに巻き込まれていくことになる危険性はいったいどのくらいあるのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、そもそも「ある人」が実際に会った「とても気が合う人」は本当に「実在する人物」なのでしょうか? その上で、さらに言えば、「ある人」が熱中している趣味、夢中になりそうな物事、そして「好みのタイプの外見」などは、インターネット上やSNS上に点在している「ある人」の個人情報などから比較的簡単に探り出すことができるのです。そして「ある人」が興味を持ちそうなことや夢中になりそうなことをまるで「本物」であるかのような「好みのタイプの外見」の「偽物」に「映像」の中で言わせることも今現在では技術的にはそれほど難しいことではないのだろうと思います。ごく普通の多くの人たちは実際に会ったことがある人の場合にはいろいろなことを簡単に信じてしまうようになるのでしょうか? 繰り返しになりますが、ごく普通の人たちはいったいどこまで正確に「本物」と「偽物」を区別することができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「うれしいよ! いつもコメント ありがとう! 『偽物』見抜く ことはできるか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の人たちはいったいどこまで正確に「本物」と「偽物」を区別することができるのでしょうか? 相手が自分の親や子や兄弟姉妹や恋人や配偶者などだったら「本物」と「偽物」をほぼ確実に見分けることができるのでしょうか? 生成AIなどの最新技術と膨大な情報によってでっち上げられた「ディープフェイク」などが出現し始めている今だからこそあえて一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。 もしも自分が大好きな「俳優」や「タレント」などを精巧に再現した「ディープフェイク」などの「偽物」が現れたとしたら、ごく普通の多くの人たちは簡単に「偽物」だと見抜くことができるのでしょうか? それとも「本物」だと騙されてしまうのでしょうか? もしもその大好きな「俳優」や「タレント」と何度も会って何度も個人的な話をしているような「特別な関係」ではないのならば、「俳優」や「タレント」などを精巧に再現した「ディープフェイク」などの「偽物」を「偽物」と見抜くことはかなり難しいのかもしれないと思います。言うまでもなく大好きな「俳優」や「タレント」と自分自身が「特別な関係」ではない場合には「合言葉」などを事前に決めておくこともできないわけです(→参考:2025/3/28付)。大好きな「俳優」や「タレント」と自分自身が「特別な関係」ではないということは、言い換えれば、自分が知っている大好きな「俳優」や「タレント」についての情報のほとんどすべては誰でも熱心に探して集めれば知ることができる情報ばかりということを意味していることになるのです。さらに言い換えるのならば、「騙す側」と「騙される側」に情報の格差はないわけですから、その「俳優」や「タレント」の熱烈なファンであればあるほど熱烈なファンである自分ぐらいしか知らない「非常に希少な情報」を「偽物」が正確に再現しているために簡単に騙されやすくなってしまうかもしれないのです。さらに言えば、もしも「偽物」がその「俳優」や「タレント」の熱烈なファンが熱心に書き込んだSNSやインターネット上のコメントなどの内容もすべて正確に把握していて「いつもコメントを書き込んでくれてありがとう。あの時はこんなことも書いてくれたよね。すごくうれしかったよ」などという言葉をかけてくれたりすれば…。もちろん「偽物」をでっち上げるための技術がどれだけ高度なものになるのかによって騙される人たちの人数は大きく変わってくるのだろうと思いますが…。繰り返しになりますが、ごく普通の人たちはいったいどこまで正確に「本物」と「偽物」を区別することができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『合言葉』 事前に決めて おくだけで 『ディープフェイク』も 撃退可能」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の人たちはいったいどこまで正確に「本物」と「偽物」を区別することができるのでしょうか? 相手が自分の親や子や兄弟姉妹や恋人や配偶者などだったら「本物」と「偽物」をほぼ確実に見分けることができるのでしょうか? 生成AIなどの最新技術と膨大な情報によってでっち上げられた「ディープフェイク」などが出現し始めている今だからこそあえて一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。 一昔前まではほとんどすべての家庭には「固定電話」というものがあってその「固定電話」を家族全員で共有していたということを覚えている人たちはまだ残っていると思います。「スマートフォン」や「携帯電話」が普及する前までは1つの「固定電話」をみんなで使うことが当り前だったのです。もちろん今でも職場には「固定電話」があってその職場の人たちが共有しているというところもまだ残っているとは思います。しかし、一昔前の「固定電話」が全盛の時代には「スマートフォン」や「携帯電話」が普及した現在ではあまり想像することができない「事件」や「詐欺」が頻発していたのです。例えば、現在よりも音質が低かったかつての「固定電話」では相手の声が別人と似て聞こえやすいためにしばらくすれ違いの会話が続くなどという「事件」もよくあったものです。友人や恋人だと思ってしばらく会話をしていて何か様子がおかしいと思ったら実は相手の兄弟姉妹や親だったという「笑い話」は珍しいことではなかったのです。あるいは、電話がつながって「もしもし、〇〇?」と尋ねると「うん。何?」などと答えるので安心して話し続けると「うんうん。それで?」などという言葉がときどき返ってくるだけだったので気づいたときには自分と親友や恋人だけで共有していたはずの「極秘情報」を親や兄弟姉妹に騙し取られているという「詐欺」もよくあったのです。そんな「固定電話」で確実に相手が本人だと確認するためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 最も簡単で確実な方法は「合言葉」などを使うことです。もちろん「合言葉」を事前に決めておいて単純に本人確認の「パスワード」のように使うこともできるわけです。でも、もう少し工夫した使い方をすれば何か特別な事情があるときにそれをこっそり相手だけに伝えることもできるようになるのです。ちなみに最新型の生成AIや「ディープフェイク」などは事前に決めて秘密にしておいた「合言葉」をその場ですぐに解読して適切な応答をすることができるのでしょうか? もしもそのようなことに気づくことができるのならば、実は最新技術を駆使した「ディープフェイク」などを使った詐欺なども一昔前のアナログなノウハウによって簡単に撃退することができるようになるかもしれないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「共通の 知識や能力 身につける 『公教育』が 重要になる」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。地球上では多くの人たちが当たり前のように教育を受けています。そもそも人はいったい何のために勉強するのでしょうか? 立派な人になるために勉強するのでしょうか? カネをたくさん稼ぐために勉強するのでしょうか? あるいはただ単に様々なことを知りたいから勉強しているのでしょうか? あえて一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。 そもそも人はいったい何のために勉強するのでしょうか? あえて言い換えるのならば、「教育」は何のためにあるのでしょうか? 実は今現在地球上の多くの国で採用されている「公教育」などと呼ばれている「しくみ」もまた「何のために勉強するのか」ということに対する答えの1つになるのです。繰り返しになりますが(→参考:2025/3/23付)、言うまでもなく「教育」は「政府」や「親」や「カルト」のためのものではないはずなのです。もしも「親」や「カルト」に「教育」を任せてしまったのならば、最悪の場合には子どもたちは「親」や「カルト」のために絶対服従を求められる人生を当たり前のものとして受け入れるように「洗脳」されることになってしまうのです。もちろん独裁国家や専制国家における「教育」も子どもたちを「洗脳」して独裁者らに忠誠を誓うような国民をつくるための「しくみ」として悪用される危険性があるわけです。しかし、それでもやはり、これから社会の構成員として社会を支えていくことになる子どもたちに共通の知識や能力を身につけるための機会を「政府」が「公教育」などという形で提供するということはその社会の安定・発展を維持していくためには必要不可欠なことではないかと考えています。ごく一部の人たち以外は十分に文字の読み書きができないとか、ごく一部の人たち以外は社会の構成員として主体的に活動していくために必要不可欠な科学知識を含めた最低限の知識を知らないとか…。もちろん社会の中の貧富の差も大きな問題だとは思います。しかし、もしもその社会にその構成員として主体的に活動していくための知識や能力を持っている人たちと持っていない人たちの「格差」が存在するのならば、その社会の安定にとっては致命的な種類の大問題になるはずなのです。社会の構成員として主体的に活動していくための知識や能力を持っている人たちが確実に「勝ち組」になることができるかどうかは定かではありませんが、社会の構成員として主体的に活動していくための知識や能力を持っていない人たちが「負け組」になり続ける危険性が高いことだけは確かです。そのように考えれば、どの社会にとっても「公教育」は重要なものになるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『カネ』あれば 『儲け話』に 参加して 『カネ』が『カネ』呼び 『富豪』になれる?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。地球上では多くの人たちが当たり前のように教育を受けています。そもそも人はいったい何のために勉強するのでしょうか? 立派な人になるために勉強するのでしょうか? カネをたくさん稼ぐために勉強するのでしょうか? あるいはただ単に様々なことを知りたいから勉強しているのでしょうか? あえて一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。 地球上の多くの社会では、何かの事業に成功して「財閥」などをつくって「大富豪」になったような人間たちをもてはやす傾向があるようです。しかし、何かの事業に成功して「財閥」などをつくって「大富豪」なったような人間たちのすべてに他人が持っていない特別な能力があったというわけではないのです。あえて個別具体的な固有名詞や事例を取り上げることは避けますが、何かの事業に成功して「財閥」などをつくって「大富豪」なったような人間たちの中には、ただ単に「莫大なカネ」を持っていなければ参加できない特別な「儲け話」に繰り返し参加して大儲けし続けてきたような人間たちもいるのです。例えば、もしも1億ドルであるものを買い、それに1億ドルを投資すると、最終的には100億ドル以上の値段で売ることができるようになるとしても、基本的には2億ドルなどという「莫大なカネ」を用意することができるのは非常に限られたごく少数の人間たちしかいないわけです。ですから、結果的に「莫大なカネ」を用意することができるごく少数の人間たちしか莫大な利益を得る儲け話に参加して莫大な利益を得ることができないわけです。あえて言い換えれば、極端な場合には、「莫大なカネ」を用意することができさえすれば、誰にでもすぐに分かるような儲け話に大した競争もなしにほぼ確実に参加することができてしまうのです。もちろん何かの事業に成功して「財閥」などをつくって「大富豪」なったような人たちの中には本当にすごい才能や能力を持った人物もいるわけです。しかし、最初に「莫大なカネ」を用意することができたから「カネ」が「カネ」を呼んでやがて「財閥」などをつくって「大富豪」になることができただけの人間たちもいるということには注意が必要になります。繰り返しになりますが、そもそも人はいったい何のために勉強するのでしょうか? 「カネ」をたくさん稼ぐために勉強しているのでしょうか? そうであるのなら「莫大なカネ」を必要としないで「カネ」をたくさん稼ぐ方法を考え出すことができる知識や能力を身につける必要があるはずなのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『勉強』で 『立身出世』 『金儲け』? 悪くはないが それだけなのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。地球上では多くの人たちが当たり前のように教育を受けています。そもそも人はいったい何のために勉強するのでしょうか? 立派な人になるために勉強するのでしょうか? カネをたくさん稼ぐために勉強するのでしょうか? あるいはただ単に様々なことを知りたいから勉強しているのでしょうか? あえて一度立ち止まって考えてみる必要があると思います。 例えば、その人が勉強をする目的が「高い収入を得られる職業に就くため」とか「カネをたくさん稼ぐことができるようになるため」などということであってももちろん悪いことではないのです。しかし、「勉強」というものは単なる「立身出世や金儲けの道具」ではないということには注意が必要になります。またもしも「勉強」を「立身出世や金儲けの道具」として見た場合には、実はそれほど優れた「道具」ではないということに気づくのではないかと思います。言うまでもなく「勉強」には長い時間とたくさんの努力が必要になります。しかし、例えば、もしも「カネ」や「コネ」などを「立身出世や金儲けの道具」として使った場合には、「学位」や「一流企業の従業員や公務員の地位」を事実上買って手っ取り早く手に入れることができてしまうかもしれないのです。少なくとも「カネ」や「コネ」などと比べれば「勉強」はそれほど優れた「立身出世や金儲けの道具」ではないのです。それにもかかわらず、「高い収入を得られる職業に就くため」とか「カネをたくさん稼ぐことができるようになるため」だけを目的にして勉強を続けようと思う人たちはどれだけいるのでしょうか? 繰り返しになりますが、そもそも人はいったい何のために勉強をするのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『よく来た』と 『小遣い』くれる 『おじさん』か? 親戚でない? なぜくれるのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前の話ですが、世の中には「ルール」や「しくみ」や「慣習」がいくつも存在するわけです。もちろん世の中には様々な理由のために「ルール」や「慣習」などを破る人間たちも存在するわけです。また世の中の「ルール」や「しくみ」や「慣習」に不満を持ってその「ルール」や「しくみ」や「慣習」を変えようとする人たちもいるわけです。「ルール」や「しくみ」や「慣習」を変えるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 「大昔のどこかの国」では帰省などで親に連れられて「田舎」に行くと「親戚でもないおじさん」が「いやー、よく来たね」などと言いながら「小遣い」をくれるような不思議な経験をすることもあったらしいのです。もしかすると今でも正月にはよく知らない子どもたちにも「お年玉」をあげるという「おじさん」が「どこかの田舎」にはまだ残っているのかもしれないと思います。初対面の子どもたちにもお菓子などをあげるように「小遣い」をあげるという「不思議な慣習」が今もどこかに残っているのかどうかはともかくとしても、「どこかの国」では特別な意味はなくてもよく知らない人たちにもなぜか「すぐに贈り物をするような慣習」が今も残っているのだろうと思います。その上で、あえて言わせてもらうのならば、必ずしも「付け届け」とか「賄賂」などという性質のものではなかったとしても、「すぐに贈り物をするような文化」が根強く生き残っているどこかの場所では、「よく来たね」などと言いながら「商品券」をくれるような「不思議なおじさん」がいてもそれほど不思議なことではないのかもしれないと思います。しかし、それでもやはり、もう子どもではなくなっていても「10万円」はかなり高額だと感じる人たちは少なくないと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「『教育』は いったい誰の ものなのか? 『政府』や『親』や 『カルト』のものか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前の話ですが、世の中には「ルール」や「しくみ」がいくつも存在するわけです。そして世の中には様々な理由のために「ルール」を破る人間たちも存在するわけです。また世の中の「ルール」や「しくみ」に不満を持って「ルール」や「しくみ」を変えようとする人たちもいるわけです。「ルール」や「しくみ」を変えるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? そもそも「ルール」や「しくみ」というものは自分が望むような形に変えることができるものなのでしょうか? さらに言えば「ルール」や「しくみ」というものは「カネ」や何らかの「特別な力」で捻じ曲げたり変えたりすることができるものなのでしょうか? 「教育」とはいったい誰のものなのでしょうか? 今現在地球上の多くの国で採用されている「公教育」などと呼ばれている「しくみ」では「政府」が「教育」に責任を持つという「ルール」になっているのです。しかし、「教育」は「政府」のものではないはずなのです。もしも「教育」が「政府」のものであるのならば、最悪の場合には、例えば、「ビフじいさんのようなじいさん」や「いつも不機嫌そうなプーさんのようなじいさん」を「神」や「皇帝」や「王様」のように崇拝して忠誠を誓う「大衆」を量産するような「教育」を行うようになるかもしれないのです。もちろん「政府」が「教育」に責任を持つことは許されないことではないと思います。しかし、それでもやはり、「教育」は「政府」のものではないはずなのです。言うまでもなく「教育」は「親」や「カルト」のものでもないはずなのです。もしも「親」や「カルト」に「教育」を任せてしまったら最悪の場合には子どもたちは「親」や「カルト」のために絶対服従を求められる人生を当たり前のものとして受け入れるように「洗脳」されることになってしまうのです。繰り返しになりますが、「教育」は誰のものなのでしょうか? 「教育」は誰のためのものなのでしょうか? 「政府」が「公教育」のために「親」や「カルト」から「教育」を取り上げたことにはいったいどんな意味があったのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「強力な 『カード』を 持って いたけれど 『ルール』が変わり 大惨敗に」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前の話ですが、世の中には「ルール」や「しくみ」がいくつも存在するわけです。そして世の中には様々な理由のために「ルール」を破る人間たちも存在するわけです。また世の中の「ルール」や「しくみ」に不満を持って「ルール」や「しくみ」を変えようとする人たちもいるわけです。「ルール」や「しくみ」を変えるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? そもそも「ルール」や「しくみ」というものは自分が望むような形に変えることができるものなのでしょうか? さらに言えば「ルール」や「しくみ」というものは「カネ」や何らかの「特別な力」で捻じ曲げたり変えたりすることができるものなのでしょうか? あくまでも一般論ですが、「ゲーム」や「ディール」を好む人間たちは「ゲーム」や「ディール」で役立つ「カード」を持っているとか持っていないということにこだわるようです。しかし、「カード」というものは「ゲーム」や「ディール」に本当に必要不可欠なものなのでしょうか? そして「ゲーム」や「ディール」で使われる「カード」の価値はずっと変わらないものなのでしょうか? 例えば、もしも「ゲーム」や「ディール」などの途中でいわゆる「ゲームのルール」が変わってしまったのならば、何枚も強力な「カード」を持って圧倒的な優位に立っていた人間たちは手元に持っていたはずの強力な「カード」をいつの間にかすべて失っていて逆に窮地に立たされているということもあり得えない話ではないのだろうと思います。何枚も強力な「カード」を持っていても「ゲーム」や「ディール」の間に「ルール」が変わって大惨敗するということも現実の世界では起こり得ることなのです。本当に「ルール」や「しくみ」を変えることはできるのでしょうか? 「ルール」や「しくみ」を変えるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? そもそも「ルール」や「しくみ」というものは自分が望むような形に変えることができるものなのでしょうか? きょうのところはあえてそれらの問題提起をするだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『不動産』 『所有』したなら どうなるか? 『国家』と『企業』は 全く違う!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。当たり前の話ですが、世の中には「ルール」や「しくみ」がいくつも存在するわけです。そして世の中には様々な理由のために「ルール」を破る人間たちも存在するわけです。また世の中の「ルール」や「しくみ」に不満を持って「ルール」や「しくみ」を変えようとする人たちもいるわけです。「ルール」や「しくみ」を変えるためにはいったいどうしたらいいのでしょうか? そもそも「ルール」や「しくみ」というものは自分が望むような形に変えることができるものなのでしょうか? さらに言えば「ルール」や「しくみ」というものは「カネ」や何らかの「特別な力」で捻じ曲げたり変えたりすることができるものなのでしょうか? 例えば、もしもどこかの誰かが「不動産」を手に入れたいと思った場合には、莫大な「カネ」を用意しさえすればその「不動産」を手に入れることができるのでしょうか? 当たり前と言えば当たり前の話ですが、たとえどれだけ強くその「不動産」を手に入れたいと思っていたとしても、その「不動産の所有者」がその「不動産」を売却する意思がない場合には、その「不動産」を手に入れることができないのです。あえて言い換えるのならば、いくらを莫大な「カネ」を用意したとしても過去に購入することができたアラスカと同じようにグリーンランドなどを購入して「所有」することはできないわけです。それでは「不動産の所有者」が「不動産」を売却する意思がある場合には必要な「カネ」を用意しさえすれば「不動産」を手に入れることができるのでしょうか? 地球上には「不動産」を購入しようとしている側が外国人や外国企業である場合には「不動産」を購入することができないという「ルール」が存在する国もいくつかあるのです。「不公平」であるかどうかはともかくとしても、実際に外国人や外国企業などが「不動産」を購入したり「所有」したりすることを認めない「ルール」になっている国がいくつかあるのです。それでは外国人や外国企業を含めた誰でも「不動産」を購入して「所有」することができる「ある国」において外国人や外国企業が「不動産」を購入して「所有」することで何か問題は発生しないのでしょうか? どんなに少なくとも「ある国」で「不動産」を購入して「所有」している外国人や外国企業が「どこかの国」の政府や事実上「どこかの国」そのものであるという場合には、「ある国の一部」がまるで「どこかの国の一部」や「どこかの国の植民地」のような状態になってしまう危険性が高まるのです。例えば、もしも「どこかの国」がガザ地区を「所有」してリゾート開発に乗り出したり、ロシアに侵略されているウクライナの原子力発電所を「所有」したりするということになるのならば、リゾートや原子力発電所が「どこかの国の一部」や「どこかの国の植民地」のような状態になってしまう危険性が非常に高くなるのです。繰り返しになりますが、世の中には様々な「ルール」や「しくみ」が存在するのです。そして「国家」と「企業」では「ルール」や「しくみ」が全く違うのです。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『学歴』や 『実績』なども 買えるのか? 『カネ』で買えない ものはないのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「カネ」で買うことができないものは存在しないのでしょうか? 世の中には「カネ」では解決することができない問題は存在しないのでしょうか? 世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。 あくまでも「架空の国」の話ですが、どうやらその「架空の国」では「『カネ』さえ支払えば誰でも手に入れることができる種類の『学位』(diploma mill)」などが存在するらしいのです。もちろん「架空の国」でも「学位」というものはそれぞれの「学位」にふさわしい能力と知識を持った人物がルールに定められた過程を経てそれぞれの組織で「学位」を与えるのにふさわしいと認定された場合にのみ得ることができることになっているはずなのです。しかし、どういうわけか多額の「カネ」を支払いさえすれば望みの「学位」を手に入れることができる事例が稀にはあるらしいのです。もしも「『カネ』さえ支払えば誰でも手に入れることができる種類の『学位』(diploma mill)」などが実在するとしたら非常に恐ろしいことが次々と起こる危険性が高くなるのです。考えてもみてください。もしも多額の「カネ」を支払って「学位」を買った能力も知識のない空っぽな人間が「医師」などになったとしたら…。最悪の場合には罪のない多くの人たちの命が次々と危険にさらされることになってしまいます。くどいようですが、世の中には「カネ」で買うことができないものは存在しないのでしょうか? もしかすると「学位」などの「学歴」、仕事などの「実績」なども「カネ」で買うことができてしまうのでしょうか? 世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。もしも「学位」や「実績」を「カネ」で買って取り繕っているような中身が空っぽな人間たちが「医師」になったり「国家元首」になったりしたならば、どれだけ多くの罪のない人たちの命が危険にさらされることになるのかということを想像しないわけにはいかないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『一滴の 血』でも流せば 処罰する? 『契約』にない 『血』を流したら…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「カネ」で買うことができないものは存在しないのでしょうか? 世の中には「カネ」では解決することができない問題は存在しないのでしょうか? 世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。 あくまでも一般論ですが、自分たちが稼いだ「カネ」をどのように使ったとしてもそれは基本的には自由なのです。もちろん税金などの支払い義務がある場合にはその義務は果たさなくてはならないわけです。またこれも当たり前の話ですが、いくら自分たちが稼いだ「カネ」だからと言っても法律などに違反するようなことにも使うことができないのです。さらに言えば、時代や社会によってその具体的な内容は少しずつ変わってくるのだろうと思いますが、やはり「人間として許されない」ことをするためにも「カネ」を使うことはできないわけです。例えば、健康な人から臓器を売ってもらって自分に移植するとか心臓の周りの筋肉1kgを売ってもらうなどというようなことは「人間として許されない」ことなのだろうと思います。言い換えれば、世の中には「カネ」で買うことができないものや「カネ」では解決することができない問題が存在するということになるわけです。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「支援」に対する「感謝」が足りないなどと言って「支援」を一方的に引き上げることが「契約書」に書かれているのならばもちろんそうすることは認められるのだろうと思います。しかし、「支援」を一方的に引き上げたために「契約書」には書かれていないウクライナ人の「血」を「一滴」でも流すようなことをしたら厳しく処罰するとか全財産を没収するとか…。地球上でそんな「空想上の話」を思い浮かべているような人たちは少なくないのではないかと思います。もっとも「ビフじいさんのような人間たち」はいったい何を言っているのかを少しも理解することができないのかもしれないわけですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『親分』は 『子分』に『カネ』を 配るもの? 『商品券』は 『カネ』と違うか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「カネ」で買うことができないものは存在しないのでしょうか? 世の中には「カネ」では解決することができない問題は存在しないのでしょうか? 世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。 あくまでも一般論ですが、ごく普通の多くの人たちの中では、「商品券」なども含めて趣旨や事情がよく分からない「カネ」や「プレゼント」は受け取らないという「常識」を持っている人たちの方が多いのではないかと思います。さらに付け加えるのならば、「よく知らないおじさん」から「お小遣い」や「プレゼント」などをもらってはいけないという「常識」を知って正しく理解している子どもたちも少なくないと思います。それにもかかわらず、なぜ新人議員たちに「商品券」を配るなどという「発想」が出てくるのでしょうか? もしかすると「親分」が「子分たち」に「カネ」を配るのが当り前だった時代の「どこかの国の政治家たち」を「手本」にでもしているのでしょうか? 「親分」や「政治指導者」たるもの「子分たち」や「新人議員たち」に「カネ」を配らなければならないなどという類の致命的に間違った学習をしてしまっているからこそ「商品券」などという「発想」が出てきてしまうのでしょうか? もしそうであるのならば、あまりにも時代錯誤で「政治とカネ」が大きな問題になっている今の新しい時代には全くふさわしくない政治家ということになるのだろうと思います。「新聞紙に包まれた札束」から「商品券」に変えたとしてもやっていることの本質は変わらないはずなのです。ちなみに実際に「商品券」などを配ってみたら少しは「政治指導者」らしくなってきたのでしょうか? 繰り返しになりますが、世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。きょうのところは改めてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「今あえて 『商品券』を 配るとか… 『センス』がなくて 呆れてしまう!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「カネ」で買うことができないものは存在しないのでしょうか? 世の中には「カネ」では解決することができない問題は存在しないのでしょうか? 世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。 いわゆる「政治とカネ」の問題は、地球上のどこに行っても古くて新しい問題なのではないかと思います。ここではあえてその詳細には触れませんが、もちろんいわゆる「政治とカネ」の問題については様々な考え方があるのだろうと思います。しかし、いわゆる「政治とカネ」の問題で世間から厳しい批判を受けているその真っ最中に、どこかの政治家が新人議員たちを集めてわざわざ「商品券」を配ったけれども返却されたなどという話が聞こえてきました。呆れたとか耳を疑ったという人たちは少なくないと思いますが、私はどこかの政治家の「センス」や良識を強く疑いました。もしかすると「政治とカネ」が問題になっていても政治と「商品券」ならば問題がないとでも思ったのでしょうか? おそらく「10万円」分の「商品券」を配って返却されたとしても法律的には大きな問題は発生しないのかもしれないと思います。しかし、「親戚のおじさん」が「親戚の子どもたち」に「お小遣い」をあげるような状況とは話が全く違うのです。多少の誤解を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、最近は「親族でもない若い人たち」と会って一方的に「お小遣い」をあげただけでも「援助交際」とか「パパ活(あるいは、ママ活?)」などと批判されることも少なくないはずなのです。くどいようですが、どこかの政治家の「センス」や良識が強く疑われることになると思います。もしかすると「太平洋と大西洋の間にあるどこかの国」にでも行けば「センス」がなくても非常にタイムリーということにはなるのかもしれませんが…。繰り返しになりますが、世の中は結局のところすべて「カネ」なのでしょうか? 今だからこそ改めてじっくりと考えてみる必要がありそうです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「努力して 『価値ある何か』 得られれば 『受験競争』 不要になるが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「教育」には本当にそんなに多くの「費用」がかかるものなのでしょうか? より良い「教育」を受けるために本当にそんなに多くの「時間」や多くの「費用」が必要になるのでしょうか? そもそもより良い「教育」を受ければ本当により良い人生を送ることができるのでしょうか? 一度ぐらいは立ち止まってじっくりと考えてみる必要があると思います。 きょうも「卒業証書」や「学位」の「価値」、それらを得るための「時間」と「費用」の問題についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。あくまでも念のために確認しておきますが、たとえどこで得たものであったとしても「卒業証書」や「学位」の「価値」は同種類のものであるのならば同じなのでしょうか? どんなに少なくとも世の中の多くの人たちはたとえ同種類のものであったとしても「卒業証書」や「学位」の「価値」が同じだとは思っていないのだろうと思います。だからこそ「受験競争」などというものが存在するのだろうと思います。もちろんより良い「教育」を受けたいとか自分の子どもにより良い「教育」を受けさせたいなどという感情は人間としてはごく自然な感情だと思います。しかし、より良い「教育」を受けるために本当にそんなに多くの「時間」や多くの「費用」が必要になるのでしょうか? 「受験競争」などのすべてを否定するつもりはありませんが、「受験競争」などが存在することによっていわゆる「名門校」などの「卒業証書」や「学位」を得るために必要となる「時間」と「費用」が非公式な形で拡大しているということだけは疑いのない事実なのです。念のために言っておきますが、いわゆる「名門校」などの「卒業証書」や「学位」を得たいと思っている人たちの意思などを否定するつもりはないのです。しかし、例えば、たとえどこの学校に入学したとしても、「受験競争」などに費やすはずだった「時間」や「費用」などと同じだけのものをつぎ込んで努力すれば、いわゆる「名門校」などの「卒業証書」や「学位」と同じかそれ以上の「価値」があると多くの人たちが受け止めることができる「価値のある何か」を得ることができる「選択肢」をつくり出すことも必要ではないかと考えているのです。もしもそのような「選択肢」が作り出すことができるのならば「受験競争」が完全になくなることはなかったとしても「受験競争」は必要不可欠ではないとか不要だと考える人たちも増えるのではないかと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、そもそもより良い「教育」を受ければ本当により良い人生を送ることができるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「各校の 『卒業証書』 『価値』同じ? 『名門校』も そうでなくても…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「教育」には本当にそんなに多くの「費用」がかかるものなのでしょうか? より良い「教育」を受けるために本当にそんなに多くの「時間」や多くの「費用」が必要になるのでしょうか? そもそもより良い「教育」を受ければ本当により良い人生を送ることができるのでしょうか? 一度ぐらいは立ち止まってじっくりと考えてみる必要があると思います。 きょうも「卒業証書」や「学位」を得るための「時間」と「費用」の問題についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。繰り返しになりますが、もしも「卒業証書」や「学位」の「価値」が変わらないのならば、「卒業証書」や「学位」を得るために必要な「時間」や「費用」は少なければ少ないほど良いと考える人たちもいるのだろうと思います。そしてもしも成績が非常に優秀な者に「飛び級」を認めるのならば、かなり努力をすれば「卒業証書」や「学位」を得るための「時間」と「費用」を同時に削減することができるかもしれないのです。その上で、あえて付け加えるのならば、いくら成績が非常に優秀な者であったとしても「飛び級」は原則的に認めないとした場合であっても、例えば、成績が極めて優秀な者には「授業料」を免除するとか、特別に「奨学金」を給付するなどという形で「卒業証書」や「学位」を得るための「費用」を削減することは不可能ではないと思います。さらに言えば、例えば、もしも「各校の成績最優秀者」と「全国統一試験での成績優秀者」には「授業料」を免除したり特別に「奨学金」を給付したりするというような「制度」を導入することができるのならば、いわゆる「名門校のブランド」などという非公式なものとは違った形で自分の「卒業証書」や「学位」の「価値」を高める「選択肢」をつくり出すことができるのかもしれないのです。あえて言い換えれば、努力すれば「名門校」の入学試験合格などとは別の形でも自分の「卒業証書」や「学位」の「価値」を高める「選択肢」をつくり出すことができるようになるかもしれないのです。繰り返しになりますが、どこかの国の高等学校の授業料無償化の問題では「卒業証書」や「学位」を得るための「時間」と「費用」をどうするのかということがほとんど議論されていないことが非常に疑問です。きょうもあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『飛び級』を 認めるのなら 努力して 『時間』と『費用』 削減できる」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。「教育」には本当にそんなに多くの「費用」がかかるものなのでしょうか? より良い「教育」を受けるために本当にそんなに多くの「時間」や多くの「費用」が必要になるのでしょうか? そもそもより良い「教育」を受ければ本当により良い人生を送ることができるのでしょうか? 一度ぐらいは立ち止まってじっくりと考えてみる必要があると思います。 おそらくごく普通の人たちがどこかの「授業料」を支払う必要がある学校に自分が入学しよう(あるいは、自分の子どもを入学させよう)とする場合には、「授業料」を「安い」と感じる人たちよりも「高い」と感じる人たちの方が多いのではないかと思います。「教育」には本当にそんなに多くの「費用」がかかるものなのでしょうか? もちろん支払わなければならない「授業料」に実際に受けられる「教育」の内容が見合っていると納得している人たちも少なくはないとは思います。しかし、非常に極端な場合には、もしも「卒業証書」や「学位」の「価値」が変わらないのならば、「卒業証書」や「学位」を得るために必要な「時間」や「費用」は少なければ少ないほど良いと考える人たちが出てくるということになるのだろうと思います。そもそも「卒業証書」や「学位」を得るために最低限必要な「時間」は存在するのでしょうか? 例えば、どこかの国のように高等学校の「卒業証書」を得るためには少なくとも3年間、大学の「学位」を得るためには原則として4年間という時間がほぼ確実に必要になるのでしょうか? 言い換えれば、「卒業証書」や「学位」を得る過程でいわゆる「飛び級」をどの程度認めるのか認めないのかということが問題になるはずなのです。もしも成績が非常に優秀な者に「飛び級」を認めるのならば、かなり努力をすれば「卒業証書」や「学位」を得るための「時間」と「費用」を同時に削減することができるかもしれないわけです。逆に、もしもいわゆる「飛び級」は原則的に認めないということになるのならば、どんな人たちにも「卒業証書」や「学位」を得るための「時間」と「費用」がほぼ同じだけ必要になるということになるわけです。率直に言わせてもらうのならば、どこかの国の高等学校の授業料無償化の問題では「卒業証書」や「学位」を得るための「時間」と「費用」をどうするのかということがほとんど議論されていないことが非常に疑問です。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『独裁者』 打倒するのは 『暴力』か? 『SNS』か? 『ジャーナリズム』か?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? それとも虐げられた「市民」らによる「革命」などが次々と起こって「皇帝」「独裁者」が打倒され続けることになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 どうも地球上のどこかの国には「ハネムーン期間」などと呼ばれている「謎の100日間」が存在するらしいのです。あえて率直に言わせてもらうのならば、「ハネムーン期間」などと呼ばれている「謎の100日間」はいわゆる「試用期間」とは違ったものになっているのでしょうか? ちなみに100日も経たないうちに歴代の大統領が過去数十年以上に渡って積み重ねてきた「同盟国」との信頼関係をほぼ完全に破壊してしまっても「本採用」などということになるのでしょうか? たった100日間でますます経済を失速させることになったとしても国民の大多数は本当に「本採用」を支持するのでしょうか? もっともこの場合には「試用期間」や「本採用」などということに全く法的根拠はないのだろうとは思いますが…。「You are fired!」などという台詞はどこかの国ではテレビ番組だけの話なのかもしれないと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、もしも「ハネムーン期間」などと呼ばれている「謎の100日間」が終わっても「ジャーナリズム」が「独裁者」らの「圧力」に屈して十分に機能することがないのならば、「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされる危険性がさらに高まることになるのかもしれないと思います。「独裁者」らを打倒することができるのはいったい誰なのでしょうか? 「ジャーナリズム」ではないとしたら、虐げられた「市民」らによる剝き出しの「暴力」なのか「SNS」なのか…。それとも…。もしかすると「5月頃」が山場の1つになるのかもしれないと思い始めています。きょうのところはあえてそのことを指摘するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「その『箱』や 『蓋』を開けたら どうなるか? 『留守』でないなら 考えてみろ!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? それとも虐げられた「市民」らによる「革命」などが次々と起こって「皇帝」「独裁者」が打倒され続けることになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 最初に確認しておきますが、これはあくまでも「映画の中の世界」の話です。そもそも自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちは、「不公平」などと叫びながら「ディール」を仕掛けた場合には、決して開けてはならない「箱」や「蓋」をいくつも開けることにつながる危険性が高いということを理解しているのでしょうか? 例えば、「同盟国」は防衛予算をもっともっと大幅に増額してコストを負担しなければ「不公平」だから守ってやらない? もしかすると自分たちはカネで雇われた「傭兵」や「番犬」だとでも言っているのでしょうか? そういうことになるのならば、高いカネを支払って肝心なときに裏切ったり逃げ出したり大して役に立たなかったりする「傭兵」や「番犬」を雇うぐらいならば自分たちだけで国を守った方がましだと考える人たちも少なくないのだろうと思います。もしかするとそう遠くないうちに「不公平」だから自分たちも核兵器を保有して自分たちの国を自分たちだけで守るべきだと考える人間たちも増えてくるのではないかと思いますが…。さらに言えば、自分たちは「同盟国」を守ることになっていても「同盟国」の方は自分たちを守ってくれることになっていないのは「不公平」? そういうことになるのならば、例えば、「同盟国」のためにニューヨークやワシントンのような大都市やその周辺地域に広大な基地を提供してそのための経費の大半を負担しなければ「不公平」になるはずです。また「同盟国」を守るという名目で「同盟国」内の基地に少ない経費で駐留させることができている「仮想敵国」をけん制するために「流用」している軍事力をすべて引き上げなければ「不公平」になるはずです。繰り返しになりますが、「不公平」などと叫びながら「ディール」を仕掛けた場合には、決して開けてはならない「箱」や「蓋」をいくつも開けることにつながる危険性が高いということに気づいているのでしょうか? 頭の中で「ディール」以外のものがすべて「留守」になっていないかどうかを考えてみるべきなのです。どこかの誰かが「ビフじいさんのような人間」の頭をコツコツと叩きながら「Hello! Anybody home?」などと言っている「架空のシーン」を想像している人たちも少なくないのかもしれません。しかし、あくまでもこれは「映画の中の世界」の話なのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『独裁者』 国境を越え 協力を するようになる のならば『悪夢』…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? それとも虐げられた「市民」らによる「革命」などが次々と起こって「皇帝」「独裁者」が打倒され続けることになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 最初に確認しておきますが、これはあくまでも「空想上の世界」の話です。もしも自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちが国境を越えて互いに協力し合うようになってしまったのならば「世界大戦」や「核戦争」はそう遠くないうちに現実のものになってしまうのでしょうか? 例えば、もしも「ある独裁者」が「選挙」で当選するために自らの「疑惑」のもみ消しで「別の独裁者」とこっそり協力していたとするのならば、「選挙」で当選した「ある独裁者」は、たとえ「密約」などが存在しなかったとしても、「別の独裁者」に対して何らかの形で「見返り」を与えたり好感や親近感を持ったりすることになるのでしょうか? 例えば、根拠らしい根拠も示さずに「ある独裁者」は「別の独裁者」が自分のことを「尊敬」しているなどと何度も繰り返すとか…。あるいは、「ある独裁者」は「別の独裁者」を非難するようなことはなぜか繰り返し避けるとか…。「独裁者」たちが国境を越えて互いに協力し合うようになってしまうのは世界中の多くの人たちにとっては「悪夢」です。このままでは世界中のあちこちから聞こえてくる「不公平」という声がさらに大きくなりそうです。もしも「独裁者」が核兵器を持っているのは「不公平」という声が勢いを増した場合には核兵器を開発・保有しようとする動きがますます活発になって「核戦争」の危険性はさらに高まることになってしまうかもしれないのです。あくまでも念のために確認しておきますが、これは「空想上の世界」の話なのです。しかし、それにもかかわらず、今現在のウクライナはそんな「空想上の世界」でもなかなか起こり得ないようなひどい状況に唐突に陥ってしまったように見えます。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。 ======================================= 「安く買い 高く売ること できるなら 大儲けする ことはできるが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? それとも虐げられた「市民」らによる「革命」などが次々と起こって「皇帝」「独裁者」が打倒され続けることになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 あくまでも一般論ですが、「株価」や「為替」などでは、堅実な取引が行われているときと、「急騰」したり「暴落」したりしているときとではどちらの方が多く儲けることができるのでしょうか? そしていわゆる「マーケット」では、ほとんどの人たちが大損をしているときでもなぜか自分たちだけは大儲けをしている人たちがいるというのは本当の話なのでしょうか? もちろんこれも一般論ですが、もしも「急騰」する直前に安く買って「急騰」した後に高く売ることができたり、あるいは、もしも「急落」する前に高く売って「急落」しているときに安く買い戻すようなことができたりするのならば、「株価」や「為替」などで大儲けをすることができるのだろうと思います。いったいどんなときに「株価」や「為替」などは「急騰」や「急落」するのでしょうか? そしていったいどのようにしたら「株価」や「為替」などが「急騰」や「急落」することを知ることができるのでしょうか? そもそも「株価」や「為替」などの「急騰」や「急落」を利用して大儲けするための資金はいったいどのようにして調達するのでしょうか? そのように考えていくと「株価」や「為替」などの「急騰」や「急落」する際に大儲けをすることができる人間たちなどまずいないのではないかと思います。しかし、もしも「ビフじいさんのような人間」とその「遠い親戚」や「お友達」などが「実在」するのならば自分たちだけが大儲けをし続けるようなことも不可能ではないのだろうと思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『今』『ここ』で すぐに決着 できなくて 長期化すれば 『消費者』たちは…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「今」「ここ」「自分」だけに注目した「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 今回も「どこかの国」が一方的に関税を引き上げたとしても「相手国」も報復のために「どこかの国」に対する関税を引き上げることになるであろうという問題についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。確かに関税を引き上げた場合には「どこかの国」では「相手国から輸入された製品」の数量が減少したり価格が上昇したりすることになるのだろうと思います。その結果として、これまでは「相手国から輸入された製品」よりも価格が高かった「どこかの国の国内産業が生産した製品」は「どこかの国」の中ではその競争力を高めることができるのだろうと思います。「どこかの国」の関税の引き上げは「どこかの国の国内産業で雇用されている労働者」にとっては悪い話ではないのかもしれないと思います。しかし、いくら「どこかの国」が関税を引き上げたとしても、それだけでは「どこかの国の国内産業が生産した製品」の「性能」や「品質」を高めることはできないということにはよくよく注意をする必要があるのです。あえて言い換えるのならば、もしも「どこかの国」が関税を引き上げたことによって「相手国から輸入された製品」の数量が減少したり価格が上昇したりすれば、本当に「どこかの国の国内産業が生産した製品」は以前よりも売れるようになるのでしょうか? そもそも「どこかの国の国内産業が生産した製品」は「相手国から輸入された製品」と比べて「性能」や「品質」が高かったのでしょうか? あくまでも念のために確認しておきますが、関税の引き上げによって以前よりも相対的に安くなった「どこかの国の国内産業が生産した製品」を買うのか、それとも以前よりも高くなった「相手国から輸入された製品」を買うのかということを決めるのは「どこかの国の消費者」のはずなのです。もしも「今」「ここ」「自分」だけに注目した「ディール」を仕掛けてすぐに決着せずに長期化した場合には「消費者」の利益の損失は非常に大きなものになるのです。繰り返しになりますが、いくら「どこかの国」が関税を引き上げたとしても、それだけでは「どこかの国の国内産業が生産した製品」の「性能」や「品質」を高めることはできないのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調しておくだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「『今』『ここ』で すぐに『ディール』が 成立を しなかったなら 大きな打撃!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「今」「ここ」「自分」だけに注目した「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 あえて可能な限り個別具体的な固有名詞などは取り上げないことにしますが、もしも「どこかの国」が一方的に関税を引き上げたとしても、おそらくその関税を引き上げられた側の「相手国」も報復のために「どこかの国」に対する関税を引き上げることになるのだろうと思います。その結果として、「相手国」からの「どこかの国」に対する輸出だけではなく、「どこかの国」からの「相手国」に対する輸出も今現在よりもずっとしにくい状況になってしまうわけです。そしてもしも「相手国」からの「どこかの国」に対する輸出の方が、「どこかの国」からの「相手国」に対する輸出よりもずっと多い場合には、最初に関税を一方的に引き上げられた「相手国」の側の方がはるかに大きな経済的な打撃を受けることになるわけです。しかし、いくら「相手国」の方がはるかに大きな経済的な打撃を受けることが事実だったとしても、「どこかの国」が経済的な打撃を全く受けないというわけではないのです。ですから、いくら「どこかの国」が「今」「ここ」「自分」だけに注目して「ディール」を仕掛けたとしても、「相手国」との交渉が長引いてなかなか「ディール」が成立しなければ、「どこかの国」の経済に対する悪影響も大きなものになってしまうのです。さらに言えば、「どこかの国」が「今」「ここ」「自分」だけに注目して「ディール」を次々と仕掛けて「相手国」の数が多くなれば多くなるほど、なかなか「ディール」が成立しなかった場合には「どこかの国」の経済が受ける悪影響はさらに深刻なものになってしまうのです。「どこかの国」の目論見通りに「今」「ここ」「自分」だけに注目した「ディール」はすぐに成立するのでしょうか? そもそも本当に「今」「ここ」「自分」だけに注目した「ディール」が必要なのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「人々は なぜ『貿易』を したがるか? 互いに利益 得られるからか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。もしかするとそう遠くないうちに自分が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」たちによって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「今」「ここ」「自分」だけに注目した「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 そもそも人々はなぜ「貿易」や「交易」と呼ばれるものをしたがるのでしょうか? 「貿易」や「交易」と呼ばれるものは、「貿易」や「交易」をした者が互いに利益を得られるからなのでしょうか? 例えば、たとえある場所では「ありふれた物」であったとしても別の場所では「珍しい物」になることもあるわけですから、上手くいけば互いに「ありふれた物」同士を交換してそれぞれの場所に持ち帰るだけで「珍しい物」として高く売ることができて利益を得ることができるのではないかと思います。極端な場合には、互いに「ありふれた物」同士を交換するだけでも利益が得られることがあるのです。もちろん利益の分配が不公平などということはあり得るのだろうと思います。しかし、それでもやはり、「貿易」や「交易」をすれば、ある場所では作ることができなかったり手に入れることができなかったりするが自分たちの場所では簡単に作れたり安く手に入れることができる物同士を交換して互いに利益が得られることがあるわけです。その上で、あえて逆のことを考えてみることにしようと思います。もしも今現在行っている「貿易」や「交易」をやめてしまったならば、いったいどうなるのでしょうか? もしも「貿易」や「交易」をやめてしまったならば、見えにくい形での利益を含めて今現在「貿易」や「交易」によって得られている利益のすべてを失うということになるのです。「国内産業が生産する製品」よりも「輸入された同種の製品」の方が売れているということはどのようなことを意味しているのでしょうか? なぜ「輸入された同種の製品」は「国内産業が生産する製品」よりも売れるのでしょうか? 価格が安いということだけがその理由なのでしょうか? きょうのところはあえてそのような疑問を投げかけるだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「新しく 『偉大な国』に なったのか? 『今』『ここ』『自分』… 仲間は増えた?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会には自分自身が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」はいったい何人いるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」によって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 繰り返しになりますが、かつて米国が誰もが認める「偉大な国」であったときには、米国は、圧倒的に強大な「軍事力」と「経済力」だけではなく、強大な「ソフトパワー(Soft Power)」も併せ持っていたのです。もしも「皇帝」や「独裁者」が強大な「軍事力」と「経済力」を持っていたとしても、国際社会の多くの人たちが魅力を感じるような「ソフトパワー」のようなものは決して手に入れることはできないのです。そして「皇帝」や「独裁者」であってもなくてもどこかの国家指導者が「軍事力」や「経済力」を使って相手をねじ伏せればねじ伏せるほど、「ソフトパワー」のようなものはどんどん失われていくのです。多少の誤解と批判を覚悟の上であえて率直に言わせてもらうのならば、最近流行しているらしい「米国第一主義」などというものは、要するに「今」「ここ」「自分」だけが大切だから「今」「ここ」「自分」を最優先で考えていくという単なる自己中心的な考え方にしか見えないのです。今現在の米国は新しく「偉大な国」に生まれ変わっているのでしょうか? 今現在の米国は国際社会の中で「独裁者」以外の仲間を増やしているのでしょうか? もしかすると「ビフじいさん」のような人間たちには分からないのかもしれませんが、もしもこのまま国際社会の多くの人たちがどんどん魅力を感じなくなり、さらに同盟国からの信頼を次々と失っていくことになるのならば、再び「偉大な国」になるようなことは不可能なのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調しておくことにします。 ======================================= 「『軍事力』 『経済力』で ねじ伏せる? 『ソフトパワー』は 失われるが…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会には自分自身が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」はいったい何人いるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」によって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 あえて個別具体的な固有名詞などはできるだけ取り上げないことにしておきますが、この数十年に渡って、世界中の多くの人たちは、米国の音楽や映画などの「文化」に強い魅力を感じてきました。そんな非常に魅力的な米国の音楽や映画などの「文化」のおかげで米国は、世界中の多くの人たちに非常に大きな影響を与えることができる特別な「力」を持っていると考えられてきたのです。かつて米国の有名な学者らがその特別な「力」のことを「ソフトパワー(Soft Power)」などと呼んでいたことをまだ覚えているという人たちも国際社会の中には残っていると思います。あえて言い換えれば、かつて米国が誰もが認める「偉大な国」であったときには、米国は、「ハードパワー」とも呼ばれた圧倒的に強大な「軍事力」と「経済力」だけではなく、強大な「ソフトパワー」も併せ持っていたのです。いくら「皇帝」や「独裁者」が強大な「軍事力」と「経済力」を持っていたとしても、国際社会の多くの人たちが魅力を感じるような「ソフトパワー」のようなものは決して手に入れることはできないのです。だからこそ国際社会の中の多くの人たちはかつての米国は「偉大な国」だと見ていたのだろうと思います。あくまでも念のために付け加えておきますが、「皇帝」や「独裁者」であってもなくてもどこかの国家指導者が「軍事力」や「経済力」を使って相手をねじ伏せればねじ伏せるほど、「ソフトパワー」のようなものはどんどん失われていくのです。何かの映画に出てきたことがあるのかどうかはよく分かりませんが、「タリフマン」などと自称したり「ディール」などという言葉を多用したりする「ビフじいさん」のような人間たちが「米国を再び偉大にする」ことが本当にできるのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『言論の 自由』をあえて 見せてみた? そうであるなら なかなかのもの!」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会には自分自身が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」はいったい何人いるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」によって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 引き続き米国大統領周辺とウクライナ側の「言い争い」についてもう少しだけ考えてみることにします。地球上の独裁国家や専制国家では保障されていない「言論の自由」というものがどういうものなのかをテレビカメラの前での「言い争い」という形であえて見せてみたということならばなかなかのものだとは思いますが…。その上で、もしも「プーチン氏はこれまでに何度も約束を破ってきた相手だから全く信用できない」などと主張しているウクライナ側との間で本気で「ディール」を成立させようとするのならば、「二度とプーチン氏とロシアに約束を破らせないためにどうするのか」とか「もしもプーチン氏とロシアが約束を破った場合にはどうするのか」などという「保証」が必要不可欠になるはずなのです。「ビジネスマン」の「ディール」の場合には「カネ」や「利益」が何よりも確かな「保証」になるのかもしれないと思うこともあります。しかし、現実政治においてはいくら大きな「利益」を得ることができるなどと言われたとしても「安全の保証」のような形での十分に信頼することができる「裏付け」を欠いた「ディール」が成立することはあり得ないのです。世の中には「カネ」では買うことができないものはいくらでもあるはずなのです。もしかすると「ビフじいさん」のような人間には理解することが非常に難しいことなのかもしれませんが…。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。 ======================================= 「口喧嘩? カメラの前で 『ディール』した? そもそも合意 できていたのか?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。今現在の国際社会には自分自身が「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」はいったい何人いるのでしょうか? もしかするとそう遠くないうちに「皇帝」であるかのような勘違いをしている「独裁者」によって「世界大戦」や「核戦争」が引き起こされてしまうことになるのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐためには本当に「ディール」が必要なのでしょうか? 「世界大戦」や「核戦争」を防ぐために本当に必要なものはいったい何なのでしょうか? やはり今は「分かれ道」ではないかと思います。 米国のトランプ大統領とウクライナのゼレンスキー大統領が2/28にホワイトハウスで会談しましたが、マスメディアに公開された約50分間の後半から言い争いになったことで大きな波紋が広がっています(→開始から約40分が経過したところで、ゼレンスキー大統領と米国のバンス副大統領、さらにトランプ大統領とが言い争いに。ウクライナの現状や「安全の保証」などで。予定されていた鉱物資源開発などに関する協定への署名も、共同記者会見も中止に)。率直に言わせてもらうのならば、「口喧嘩」に近い状態でしたが…。国家指導者たちが多くの記者たちやテレビカメラの前で言い争うような異例の映像を見た人たちはいったいどう思ったのでしょうか? おそらく米国民の中でトランプ大統領を強く支持している人たち、米国民でもトランプ大統領を全く支持していない人たち、そしてウクライナの人たち、その他の国際社会の多くの人たちの間では見方や感想が大きく違ってくるのではないかと思います。その上で、あえて付け加えるのならば、そもそも米国とウクライナは本当に「合意」していたのでしょうか? おそらく冒頭の会談の発言を聞いていた人たちは、ウクライナの現状、ロシアの脅威、「安全の保証」などで話が全くかみ合っていなかったということに非常に驚いたのではないかと思います。本当にこんなに状態で合意文書などに署名することができるのだろうかなどと思っていた人たちも少なくなかったのではないかと思います。その上で、もしも言い争いを含めた今回の会談も最近流行の「ディール」の一部だったということであるのならば、「ディール」を仕掛けた側はなかなかの「タフネゴシエイター」ということになるのかもしれないと思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「選ぶのは 『区立』か『都立』? 『国立』か? もちろん『私立』 たくさんあるし…」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちは「国や地方自治体」と「民間」のどちらの方をより信頼しているのでしょうか? もちろんそれぞれの国によって「国や地方自治体」と「民間」のどちらの方が信頼されているのかは違うのだろうと思います。そして当たり前と言えば当たり前の話ですが、「民間」の中にも信頼できるものと信頼できないものがあるわけです。さらに言えば、「国や地方自治体」の中にも信頼できるものとそうではないものがあるのかもしれないと思います。 引き続き「公立学校」と「私立学校」のどちらを選ぶのかという問題についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。多くの人たちはもう何十年も前から東京都などの大都市部では「中学受験」がかなり盛んであるということを知っていると思います。東京23区の中には自宅のすぐ近くに「国立」「都立」「区立」「私立」の中学校(中等教育学校)が選ぶのに困るくらいいくつも存在するような地域もあるのです。こうした地域では小学6年生のクラスの半数以上(大多数?)が「中学入試」を受験し、地元の区立中学校にそのまま入学する生徒が「少数派」になっているようなところもあるのです。しかも東京都では自治体内の「通学区域」以外の公立中学校を選択することができる「学校選択制」が採用されている特別区・市も少なくはないのです。約15年前までの数年間に渡って東京23区のいくつかの区で個人的にその「実態」を調査していたことがあるのですが、もう何十年も前から大都市部では「公立学校」しか選ぶことができなかったり大多数の小学生が地元の公立中学校にそのまま進学したりするような「地方」とは非常に大きく違った教育環境になっているということだけは疑いのない事実なのです。この教育環境のあまりにも大きな違いを大都市部との「格差」と片づけることは簡単なのですが…。いずれにしても「教育無償化」というのはただ単に経済的な負担を軽減するというだけの単純な話ではないということを改めて強調しておく必要があります。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「『公立』が 『民営化』する 動きある? 『通信制』に 新たな動き?」-。 きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ごく普通の多くの人たちは「国や地方自治体」と「民間」のどちらの方をより信頼しているのでしょうか? もちろんそれぞれの国によって「国や地方自治体」と「民間」のどちらの方が信頼されているのかは違うのだろうと思います。そして当たり前と言えば当たり前の話ですが、「民間」の中にも信頼できるものと信頼できないものがあるわけです。さらに言えば、「国や地方自治体」の中にも信頼できるものとそうではないものがあるのかもしれないと思います。 引き続き「公立学校」と「私立学校」のどちらを選ぶのかという問題についてもう少しだけ考えてみることにしようと思います。もしも「教育無償化」が実現して「公立学校」と「私立学校」の経済的な負担がほぼ同じ状態になったとしたら、ごく普通の多くの人たちは「公立学校」と「私立学校」のどちらを選ぶことになるのでしょうか? やはりそれぞれの人たちによってどちらを選ぶのかは違ってくると思います。そしてもちろん経済的な負担をあまり考えずに自分が行きたい学校を自由に選ぶことができるようになるのは悪いことではないと思います。しかし、「公立学校」と「私立学校」のどちらも選ぶことができる地域では「私立学校」を選ぶ人たちが大幅に増えた結果として「公立学校」を選ぶ人たちが減少したりすることはないのでしょうか? もしも「公立学校」の志願者数や入学者数が大幅に減少することになるのならば、「公立学校」の存在意義が問われることになると思います。もしも「教育無償化」を全国一律で進めるのならば、同時に「公立学校」に課された様々な過重な制約や負担をなくすことを真剣に検討することが必要不可欠になると思います。その上で、あくまでも仮定の話なのですが、もしも「教育無償化」の動きに合わせて各地で「伝統と実績のある公立学校」を「民営化」しようとするような動きが出てきたり、最近学生数を増やしている「通信制」から新たな動きが出てきたりした場合には、いったいどうなっていくのでしょうか? もしかすると「私立学校」よりも「民営化した元公立学校」や「通信制」の方をより多くの人たちが選ぶようになるのでしょうか? 「教育無償化」というのは経済的な負担を軽減するというだけの単純な話ではないということを改めて強調しておく必要があります。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。 ======================================= 「「『有力者』」(2025/7/2)
「『一票の価値』」(2025/7/1)
「正常?」(2025/6/30)
「『バックアップ』」(2025/6/29)
「減らすことなら…」(2025/6/28)
「『お固い』か?」(2025/6/27)
「気づかない!」(2025/6/26)
「『昭和』でも…」(2025/6/25)
「『拒否権』で…」(2025/6/24)
「『労働者』なら…」(2025/6/23)
「今はともかく…」(2025/6/22)
「『労働力』?」(2025/6/21)
「『共有』」(2025/6/20)
「『核兵器』」(2025/6/19)
「作れるのなら…」(2025/6/18)
「『強制力』は…」(2025/6/17)
「なくす?」(2025/6/16)
「『昔の話』?」(2025/6/15)
「変わっていない…」(2025/6/14)
「受け取れる?」(2025/6/13)
「どんなときでも?」(2025/6/12)
「『子どものケンカ』?」(2025/6/11)
「『同意』を得ていた?」(2025/6/10)
「これからは…」(2025/6/9)
「補える?」(2025/6/8)
「『平均』でなく…」(2025/6/7)
「『同年代』は『同一』か?」(2025/6/6)
「戦争で奪い返す?」(2025/6/5)
「良い話し合い?」(2025/6/4)
「直接売れば?」(2025/6/3)
「『嘘』を見破る?」(2025/6/2)
「『嘘』を見破る!」(2025/6/1)
「『売り切れ』にさせないために…」(2025/5/31)
「『バーゲンセール』?」(2025/5/30)
「売り出すならば…」(2025/5/29)
「世の中は…」(2025/5/28)
「『力』には…」(2025/5/27)
「2000円?」(2025/5/26)
「十分か?」(2025/5/25)
「『事実』なら…」(2025/5/24)
「『暴力』は…」(2025/5/23)
「ばらまけば…」(2025/5/22)
「『幸せ』になりたい?」(2025/5/21)
「なぜ配らない?」(2025/5/20)
「目に見える『贈り物』だけ?」(2025/5/19)
「How much?」(2025/5/18)
「もらったら…」(2025/5/17)
「『見返り』は?」(2025/5/16)
「責任取れる?」(2025/5/15)
「喜んで買うことも…」(2025/5/14)
「イメージは…」(2025/5/13)
「地球を救う?」(2025/5/12)
「投票できる!」(2025/5/11)
「そのまま…」(2025/5/10)
「『51番目の州』に…」(2025/5/9)
「『何者』かになった?」(2025/5/8)
「『肩書』だけで…」(2025/5/7)
「何をするため?」(2025/5/6)
「『客』を見れば…」(2025/5/5)
「『不倫』なら…」(2025/5/4)
「『密会』か? その『目的』は?」(2025/5/3)
「どれだけ入る?」(2025/5/2)
「勝てる?」(2025/5/1)
「負けないために…」(2025/4/30)
「奪い取ったら…」(2025/4/29)
「そらやるぞ!」(2025/4/28)
「『ライバル』が…」(2025/4/27)
「『かまってちゃん』?」(2025/4/26)
「代わりにくれる?」(2025/4/25)
「『大きなピザ』? 『小さなピザ』?」(2025/4/24)
「賢明でない!」(2025/4/23)
「どんな話を?」(2025/4/22)
「再現か?」(2025/4/21)
「『知性』を捨てて…」(2025/4/20)
「『偉大な国』に?」(2025/4/19)
「遅すぎる!」(2025/4/18)
「守るためなのか?」(2025/4/17)
「『基地』がいる!」(2025/4/16)
「こちらから…」(2025/4/15)
「『非関税障壁』?」(2025/4/14)
「安く売ったら…」(2025/4/13)
「欲しいものなら…」(2025/4/12)
「『需要』も戻る?」(2025/4/11)
「儲かりますか?」(2025/4/10)
「『王様』は裸!」(2025/4/9)
「自国だけ除外?」(2025/4/8)
「『今』『ここ』『自分』だけでいい?」(2025/4/7)
「『権力』にしがみつくな!」(2025/4/6)
「『弱い者いじめ』はやめろ!」(2025/4/5)
「『違い』認めろ!」(2025/4/4)
「同盟国を大切に!」(2025/4/3)
「友人を選べ!」(2025/4/2)
「他人の物を欲しがるな!」(2025/4/1)
「『カネ』に頼るな!」(2025/3/31)
「そもそも…」(2025/3/30)
「いつもありがとう!」(2025/3/29)
「『合言葉』」(2025/3/28)
「『公教育』が重要」(2025/3/27)
「『富豪』になれる?」(2025/3/26)
「『立身出世』『金儲け』?」(2025/3/25)
「よく来た?」(2025/3/24)
「誰のものか?」(2025/3/23)
「『ルール』が変わり…」(2025/3/22)
「『国家』と『企業』は…」(2025/3/21)
「買えるのか?」(2025/3/20)
「『一滴の血』でも…」(2025/3/19)
「『親分』は…」(2025/3/18)
「『センス』なし!」(2025/3/17)
「『受験競争』」(2025/3/16)
「『価値』」(2025/3/15)
「『飛び級』」(2025/3/14)
「打倒するのは…」(2025/3/13)
「開けたらどうなるか…」(2025/3/12)
「『悪夢』」(2025/3/11)
「安く買い高く売る?」(2025/3/10)
「『消費者』たちは…」(2025/3/9)
「『今』『ここ』ですぐに…」(2025/3/8)
「なぜ『貿易』を?」(2025/3/7)
「『偉大な国』に?」(2025/3/6)
「『ソフトパワー』」(2025/3/5)
「『言論の自由』?」(2025/3/4)
「『ディール』?」(2025/3/3)
「選ぶのは…」(2025/3/2)
「『民営化』する?」(2025/3/1)
「『私立』がお得?」(2025/2/28)